なにが徳>罪であり、なにが罪>徳であるのかを、なかなか一概に見極めるのは難しく、
一見悪そうでいながら辛うじて徳≧罪であったり、良さげでありながら甚だしく罪≫徳だったりもする。
ただ、ある程度の勉強や人生経験も重ねて、実践からの自己修養に努めていたならば、
徳>罪である状態における精神の普遍的な充足を知る。そのような精神的充足を孟子は「浩然の気」といい、
行いが徳>罪である限りにおいてはこの浩然の気が保たれる一方で、行いが罪>徳であってしまえば、たちまちの内に
浩然の気は損なわれて、恒常的な飢渇状態となり、七つの海を呑み干すほどもの渇望にあえぎ続けることとなる。
そのようなことにならないためには、ただ徳>罪でいることに尽きるのであり、そうですらあれば
徳2>罪1でも、徳0.01>罪0.009でも構わない。しかし、罪>徳である限りにおいては、罪10000>徳9998だろうが、
罪10000000>徳9999999だろうが、浩然の気が損なわれて渇き続ける。罪10000000>徳9999999の場合のほうが、
徳0.01>罪0.009の場合よりも、徳の絶対量でも遥かに優っているわけだが、その9999999の徳よりも
さらに大きな10000000の罪を抱えてしまっているために、9999999−10000000=−1となって、総合面では
0.01−0.009=0.001である徳0.01>罪0.009ほどにも、浩然の気を保つにたる条件を満たさない。
ごくごく小さな徳でもいいから、とにかく恒常的に徳>罪であるようにする。そのためには、大きな徳を積む以前に、
まずは大きな罪を犯さないことから。いくら後付けで大きな徳を積んだところで、到底埋め合わせきれないような
多大なる罪を先に犯してたんじゃ、プラスマイナスゼロ以下となって、罪を犯さずに小さな徳を積むほどもの
功徳にすらならない。徳0.01>罪0.009でも徳0.000001>罪0.0000009でも、罪10000000>徳9999999などよりはマシであり、
浩然の気を保つにたる条件も満たせるから、徳を積むことと、罪を犯さないこととの配分への注意こそが必要だ。
返信する