「扌(手偏)」に「非」と書いて「排」となる。
自ずから非耶蘇である
>>1の③とは違い、自らの手で積極的に耶蘇を排していく。
排した上での代替として、儒学なら人間道徳をあてがう。主要な儒家教典である
四書五経だけでも、質・量・古さ・発行部数の全てにおいて新旧約聖書を上回る。
儒学だけでも、士農工商の四民制に基づく徳治社会を打ち立てるには十分なものだが、
法治主義や資本主義が幅を利かせている現代社会とは、それでもかなりの温度差がある。
そこで、親耶蘇や反耶蘇の我流にはよらない法学や商業のうちで、悪法や不当利得を
十全に排除する、イスラーム法学やイスラーム経済による当面の補填も考えられる。
無利子経済など、端的に分かりやすい特徴も持つが、イスラームは莫大な構築を伴う
社会統治体系なので、一つや二つの部分的特徴だけを挙げても全容はつかめない。
ただ、イスラームにとっては聖典中の聖典であるクルアーンにおいて、利子の禁止や
喜捨の義務付けなどがすでに記されているし、なんといってもクルアーンは新旧約聖書
の主要教義を悉く無効化している。アダムとイブの楽園追放はアラーによって許されて、
奴隷的労働からの解放が信者にもあてがわれる。イエスも刑死していなければ復活も
しておらず、罪を犯して死刑になっても生き返られるかのような迷信も排されている。
クルアーンこそは、排耶蘇・排反耶蘇を具現化した初めての教典であり、日本などよりも
聖書圏との直接的な衝突が不可避であった中東社会ならではの叡知が盛り込まれている。
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