ほんの少しでも真摯な実践が伴えば、もはや宗教扱い、 
 そんなおまえらの学問に対する既成認識がすでに、洋学に毒されたカルト洗脳の範疇だ。   
 「乱世に妄動すれば、多くの人々に何もしないでいる場合以上の迷惑がかかる、 
 だから妄動は咲けよ」という儒家や道家の実践には、何らの神秘的な信仰も伴っておらず、 
 完全に無宗教的な考察の範囲内で奨励されていること。にもかかわらず、ただその実践に努めた 
 時点ですでに宗教扱いになる。全く身を以て味わうことが不可能な「絵に描いた餅」でなければ 
 学問として認められない現状全般が、洋学に即した学問認識の範疇なのであり、一切の実践性を 
 伴わない名家などの学派も昔はあったにしろ、漢学や仏学というものは基本、学究者が実践の中で 
 自分たちの叡智を研鑽するものであったのだから、全くおまえらにとっての学問の理解を超えている。   
 洋学は、それ自体は完全に絵に描いた餅であり、学者や学生に「こうあるべきだ」などという方向性を示さない。 
 しかし、結局はその洋学もまた、洋学外の宗教的な方向性に基づいて実用されている。それが今、 
 おまえらが絶対化している旧約聖書の労役絶対主義だったり、新約聖書に基づく罪悪積重主義だったりする。 
 親旧約聖書のような、意志に対してある種の方向性を備わらせる教義が内面にあった上で、それ自体は 
 決まった方向性を持たない概念論である洋学が重権力犯罪に悪用されたりする。そういうことは、 
 学問それ自体が意志的な方向性を持っている漢学や仏学などに基づいた場合にはあり得ないのであり、 
 漢学や仏学を実践込みで修習する以上は、親旧約聖書などに実践面の方向性を乗っ取られることは排除される。   
 乱世に妄動を避けることは、どこまでも道理にかなった学知である一方で、「犯罪でもいいからとにかく働け」 
 という旧約聖書の教義などのほうが、道理にかなっていないからこそ教義的な信仰対象ともなっているのであり、 
 そのような迷妄を促すカルト信仰全体が、別の宗教教義ではなく、儒家や道家のような、無宗教的な学知や 
 その実践に基づいてこそ排される。仏教は基本出家主義なので、誰しもが自力で帰依するのは非現実的だが、 
 儒家や道家なら、社会人でありつつ実践対象ともできるので、誰しもがこちらに移っていくことができる。
 返信する