儒者「国家は自明に神聖なものである」
▼ページ最下部
昔、総理大臣だった頃の森喜朗が「日本は天皇を中心とする神の国」発言をして、
まだ強勢だった野党の袋叩きに遭って辞職に追い込まれたことがあったが。
この発言は、国家の神聖性を日本ばかりに限定している点がおかしいといえばおかしい。
まるで物理方程式のF=maやE=mc^2が全宇宙に遍在しているのと同じように、
人間が「国家」という単位の社会的共同体を形成する時、そこには自明な神聖性が生ずる。
それはたとえば共産主義国のような、宗教や君主の権威を否定する国で
あろうとも変わらない。富国強兵のために不可欠なこともあって結局は、
共産主義の指導者に当たる存在が神にも等しい権威を占有することになる。
違うのは、国家統治の拠り所とする思想哲学や宗教信仰が、
国家権力の自明な権威性を否定している場合がある点であり、
その点では民主主義やキリスト教も共産主義と共通している。
近代に国家主義を掲げた代表格としてはナチスドイツなどがあるが、
大昔から国家権威の自明な神聖性を否定し続けて来た西洋社会のど真ん中で
無理にぶち上げられたものであったために脆弱となり、儚くも瓦解した。
国家の自明な権威性を認めるために、本来は右翼のような異形となる必要もない。
鳥居に立小便を引っ掛けるのをはばかる程度の節度さえあればそれでいい。
天皇制も、そのような心がけに立脚する上で最も自然な国家体制なだけである。
そう考えることがたとえば、儒学的な格物致知によっても是認されることである。

まだ強勢だった野党の袋叩きに遭って辞職に追い込まれたことがあったが。
この発言は、国家の神聖性を日本ばかりに限定している点がおかしいといえばおかしい。
まるで物理方程式のF=maやE=mc^2が全宇宙に遍在しているのと同じように、
人間が「国家」という単位の社会的共同体を形成する時、そこには自明な神聖性が生ずる。
それはたとえば共産主義国のような、宗教や君主の権威を否定する国で
あろうとも変わらない。富国強兵のために不可欠なこともあって結局は、
共産主義の指導者に当たる存在が神にも等しい権威を占有することになる。
違うのは、国家統治の拠り所とする思想哲学や宗教信仰が、
国家権力の自明な権威性を否定している場合がある点であり、
その点では民主主義やキリスト教も共産主義と共通している。
近代に国家主義を掲げた代表格としてはナチスドイツなどがあるが、
大昔から国家権威の自明な神聖性を否定し続けて来た西洋社会のど真ん中で
無理にぶち上げられたものであったために脆弱となり、儚くも瓦解した。
国家の自明な権威性を認めるために、本来は右翼のような異形となる必要もない。
鳥居に立小便を引っ掛けるのをはばかる程度の節度さえあればそれでいい。
天皇制も、そのような心がけに立脚する上で最も自然な国家体制なだけである。
そう考えることがたとえば、儒学的な格物致知によっても是認されることである。


国家の自明な権威性を是認して来た社会である。
西洋社会はこれとは真逆で、その文化的背景には一貫して反国家主義が通底している。
特にその傾向が顕著となったのはキリスト教発祥以降で、
ローマ帝国も教会の承認を受けることで初めて「神聖」となるほど、
国家権力が非国家的な宗教信仰の隷属下に置かれることとなった。
(特にわかりやすい実例としてカノッサの屈辱事件などもある)
ただ、このキリスト教以前の、古代ギリシャ・ローマの時代からすでに、
西洋の政治思想が反国家主義的な傾向を帯び始めた萌芽は見られる。
プラトンの代表作「国家〜正義について〜」の哲人王思想は、
別に特別反国家的な考えが織り交ぜられているわけではなく、
むしろ国をうまく治めるためのあの手この手を論じた、いかにも
国家主義的な表層を帯びたものだが、それほどにも趣向を凝らさないことには
政治もうまくいくものではないという不信感を内に募らせているようでもある。
(師であるソクラテスの刑死からの、現実の国家権力への反意もあっただろう)
個々の思想哲学が必ずしもあからさまに反国家主義的なのではないが、
モノの考え方の位相が根本的に、国家権力への否定意識を大前提としている。
国家は根本的には腐敗の温床であり、自明に神聖なものなどであるはずがないと、
潜在面から思いたがっていて、その思い込み故に実際、デフォルトが腐敗的な国家を形成する。
日本神道に特別体系的な思想哲学などはなく、
お伽話のような神話によって皇統の神聖さが定立されているだけである。
しかし、だからこそ国家権力の自明な権威性を是認する
モノの考え方の位相にはより合致しているといえる。
たとえば、儒学だってそれ自体が相当に浩瀚な思想哲学体系なものだから、
それを国家統治の根本理念に据えて崇め奉ったりすれば(つまり儒教国化すれば)、
「そんなものに依らなければやっていけないほど国家というものは頼りないもの」
という考え方が通底化してしまう。(故に歴史上に見られる儒教国にも粗悪なものが多い)
大乗仏教やヒンズー教なども同様。体系的な思想哲学や宗教信仰である以上は、
国家権力の自明な権威性を認めるために、国家統治にかけてはサポート役に回るべきである。
実際にそういった政教分離(「教」に思想哲学を含む)を成功させた時代の日本は
平和や繁栄に与れた一方、教学の専横が行き過ぎた時代にはうまくいかなかった。
今もまた、民主主義を含む一定の教理への一つ覚えに溺れている時代だからこそ傾いている。
内に必ず反国家主義を秘めている西洋のイデオロギーに蝕まれているのだから、事態はより深刻である。
お伽話のような神話によって皇統の神聖さが定立されているだけである。
しかし、だからこそ国家権力の自明な権威性を是認する
モノの考え方の位相にはより合致しているといえる。
たとえば、儒学だってそれ自体が相当に浩瀚な思想哲学体系なものだから、
それを国家統治の根本理念に据えて崇め奉ったりすれば(つまり儒教国化すれば)、
「そんなものに依らなければやっていけないほど国家というものは頼りないもの」
という考え方が通底化してしまう。(故に歴史上に見られる儒教国にも粗悪なものが多い)
大乗仏教やヒンズー教なども同様。体系的な思想哲学や宗教信仰である以上は、
国家権力の自明な権威性を認めるために、国家統治にかけてはサポート役に回るべきである。
実際にそういった政教分離(「教」に思想哲学を含む)を成功させた時代の日本は
平和や繁栄に与れた一方、教学の専横が行き過ぎた時代にはうまくいかなかった。
今もまた、民主主義を含む一定の教理への一つ覚えに溺れている時代だからこそ傾いている。
内に必ず反国家主義を秘めている西洋のイデオロギーに蝕まれているのだから、事態はより深刻である。

今でも中南米などにはそのような国が多く存在し、
まともに社会的統制が行き渡っていないが故の危険地帯として警戒されている。
ただ、国家を侮る人間が必ずしもそのような無法地帯ばかりを形作るわけではなく、
「国家は自明には神聖さなどを帯びるはずがない、腐敗の温床である」という
思い込みがまずあった上で、それを外部的な思想哲学なり宗教なりで補正しようとする。
プラトンの哲人王思想も、キリスト教も、共産主義も皆そのために利用されて来た。
民主主義や資本主義もまたこの範疇から漏れるものではなく、国家がそれだけでは
頼りないからこそ国民主権だの資本家だのに補強をさせようというものである。
民主主義国の側から見れば、共産主義国の強権支配などはいかにも恐怖的で、
なおかつ拙劣なもののように思われるが、民主主義とて国家への不信意識に
立脚している点では共産主義となんら変わらないものである。
いついかなる場合も、モノの考え方が根本的に反国家主義的であり続けてきた西洋社会が、
50年と戦争をせずにいられた試しはない。どの思想哲学か宗教信仰かなどに関係なく、
考え方の根底に反国家主義が遍在している以上は、その宿命から逃れられることはないのである。

反国家意識に立脚している政治体制の国は、いかにも「人工的」である。
決してそのままで置いてはいけない国家というならず者集団を
とにかくどうにかしてやろうという作為が国中に蔓延し、
あの手この手を尽くす喧騒にまみれている。
その点は民主主義国なども全く同じであり、作為の分だけ少なからず不埒である。
せいぜい「どちらがマシか」を選ぶぐらいのことしかできず、
マシなほうですら世の中を悪くこそすれど良くすることはない。
世の中を改善してやろうとする作為の裏側に必ず、
国家がデフォルトでは神聖どころか、最低限程度に健全であるようなことすら
あるはずがないという強固な思い込みがあるから、その思い込みがより国を害する。
国家が根本的には俗悪なものであるという思い込みが世の中に蔓延しているから、
実際に官僚や公務員を目指すような人間も並み以下の俗物ばかりになる。
その集団妄想を解消することのほうがどれほど、世の中を改善できるものか。

まず、西洋社会全体が昔から反国家主義を大前提としていて、
ドイツの歴史や伝統文化もまたそれに漏れるものではない。にもかかわらず、
ユダヤ系のあからさまな反国家主義だけを排斥して、実際には同じ穴の狢に過ぎない
ゲルマン文化なるものを称揚したのが、いかにも中身空っぽの虚勢だった。
その文化的な空っぽさを埋め合わせるために、ヒトラーという独裁者を執拗に崇め立てた。
本人自身、特別アーリア人として優れた容貌なわけでもなく、美大の受験に失敗するほど
文化的才覚にも乏しかったにもかかわらず、伝統的なドイツ文化以上に自分を押し出し、
喜劇役者かミニチュアブルドッグの猛り吠えのごとき振る舞いによって衆目を集めた。
それはむしろ、度重なる切り取り合戦の被害に遭い続け、直前にも大戦で敗れるなどの
屈辱に散々苛まれて来た「弱者」としてのドイツ人たちの琴線に触れて、熱狂を勝ち得た。
今でも右翼思想に傾倒するような人間は、社会的な不遇に置かれている場合が多いとされるが、
そういう不満のはけ口止まりになったのが、ナチスドイツの国家主義の正体でもある。
そこに、国家そのものの自明な神聖さを崇め奉るような心の余裕はなかったのである。

アメリカ人の方がよっぽどドイツ人などよりも上である。
祝祭日に限らず、年がら年中国旗を軒先に掲げ続けているような家がアメリカではそこら中にある。
日本だと右翼扱いにされて白い目で見られるぐらいの考え方が、アメリカでは普通。
戦勝国であり、現状世界最強の国力を擁する国であるがために、自然とその程度の意識でいる。
国家体制自体はむしろ、西洋的な反国家主義の精髄を凝縮したような代物で、国家への
帰属意識などろくに持たないユダヤ系のような人種のほうがエリートとして君臨しているが、
合衆国全体としてみれば、「ローマ帝国の再来」などとして崇め奉れる体裁も保っている。
ただ、体制が根本的に反国家主義的なものであるが故に、権力者ほどアメリカという国を
我田引水のための道具として存分に悪用し、諸外国への大量虐殺級の危害すらをも辞さない。
国際社会におけるそのような悪辣さから目を背けさせるために、大多数のアメリカ国民を
愚民化しているため、愛国者ほど馬鹿でしかいられないという短所を持ち合わせてもいる。
国家主義者ほど頭が悪く、反国家主義者ほど頭がいいために、世の中が総体的に俗悪化し、
時を重ねるごとに劣化して行く先導者になっている点では、アメリカこそがナチス以上でもある。
現状、国家に神聖さを感じるような人間は、馬鹿か社会的弱者ばかりという状態。
根本的に反国家主義である西洋文化文明が世界を支配していて、
いい大学を出てエリートになるために勉強するのも洋学だけだから、
頭のいい人間ほど自然と反国家的になるようになってしまっている。
だから、ナチスの信奉者はおろか、世界最強であるはずなアメリカの一般人が
国家主義的であったところで、それにより世の中が良くなるようなことはない。
50年と平和を保てない世界の現状が悪化はしても改善されることなどはなく。
西洋文化文明が世界の支配理念である以上は、決してそこから抜け出せない。
国家主義が馬鹿や弱者の慰みもので、なおかつ狂信的なものでしかあり得ない現状の
価値観の停滞を打開するためには、国家が自明に神聖なものであると認めることを
「当たり前の常識」にできるだけの、全く別個の文化文明が必要である。
その候補に挙げられるのが、やはり東洋の文化文明である。
これもまた、儒学を儒教として国教化するような扱いの悪さがあれば、
さほど良好な効果を挙げられるとも限らないが、うまくやれば数百年程度は
戦争一つない世の中を実現できることが、歴史的事績によっても実証されている。
根本的に反国家主義である西洋文化文明が世界を支配していて、
いい大学を出てエリートになるために勉強するのも洋学だけだから、
頭のいい人間ほど自然と反国家的になるようになってしまっている。
だから、ナチスの信奉者はおろか、世界最強であるはずなアメリカの一般人が
国家主義的であったところで、それにより世の中が良くなるようなことはない。
50年と平和を保てない世界の現状が悪化はしても改善されることなどはなく。
西洋文化文明が世界の支配理念である以上は、決してそこから抜け出せない。
国家主義が馬鹿や弱者の慰みもので、なおかつ狂信的なものでしかあり得ない現状の
価値観の停滞を打開するためには、国家が自明に神聖なものであると認めることを
「当たり前の常識」にできるだけの、全く別個の文化文明が必要である。
その候補に挙げられるのが、やはり東洋の文化文明である。
これもまた、儒学を儒教として国教化するような扱いの悪さがあれば、
さほど良好な効果を挙げられるとも限らないが、うまくやれば数百年程度は
戦争一つない世の中を実現できることが、歴史的事績によっても実証されている。

養うために必要となるのは、アメリカやドイツや日本のような個別の国々を、
自分の国だからといってことさらに熱愛したりすることではない。
>1に書いたように、国家が神聖であるのはF=maやE=mc^2などと同じ、
根本的な物理法則であり、それは西側からみれば敵国である中国や朝鮮やロシア
などでも全く変わらないことだという「格物致知上の認識」を確かなものにする。
国家こそは根本的に神聖で性善なるものなのだが、残念ながら性悪なものだと
思い込んで、実際にそのように塗り替えてしまう者がいる場合がある。
信仰でも思い込みでもなく、単なる認識。1+1=2ともなんら変わらない。
3や4と思い込むこともできるが、その思い込みこそがより劣悪な結果を招くという認識。
国家主義は感情的、国際主義などの反国家主義のほうがクレバーというのがほとんどの
現代人の考えだが、むしろ反国家主義以上に冷徹で理性的な国家主義があると認めるのである。

士分ほど率先して引責自殺(切腹)に興じていた昔とは打って変わって、
権力者の上級国民ほど母子殺人級の責任すら取ろうとはしない。
いつまでも忖度で送検すらしようとしない警察もまた、身内の不行跡は
不問か軽い処分に止める一方、庶民に対する交通取り締まりは
隠れて待ち伏せするような、姑息な真似によるポイント稼ぎすら辞さない。
政治家も、消費増税のような逆累進課税で庶民を苦しめながら大企業は優遇し、
対外的にも巨額の金をばら撒いて自分が恵んでやったかのような顔をして偉ぶる。
ほとんど、国の権威を汚すために権力の座に居座ってるような連中ばかりだし、
実際、GHQやCIAがそうなるようにあえて仕向けて来たのでもあるが。
そんな現状の日本などを、無理に神聖視したりする必要は全くない。
ただ、国家というものは“本来”は神聖なものであるのだという認識を抱き、
残念ながら現状は、宝玉がゴミで覆い隠されているようにそうは見えないと考える。
日本に限らず、世界中の国々が本来は神聖であり得るが、その真価が十分に発揮されて
いることもあればいないこともあり、完璧な理想像を体現できたことのある国ともなれば
かえって少数にまでなってしまう。だからといって、国家の根本的な神聖性までをも見損なう
ような真似だけはしない、その心がけのみが社会情勢を多少なりとも好転させ得るものである。
国家の自明なる神聖性というものを、特別な宗教的信仰だとか、
特定の国家への縁故的信奉などに基づくことなく、
純粋な学問知識として認証するのであれば、それは自然と儒学的な姿勢になる。
別に既存の儒学思想に依拠するわけでなくとも、儒学一般の範疇となる。
古今東西に学問としての数学はあるが、数学法則自体は普遍的であるのと同じように、
普遍的な儒学法則に合致して、自然と自分が儒者になる。
国家の自明なる神聖性を引き出して、最善の政治を行う方法を模索するのが
儒学の社会的使命であり、今までに孔孟や朱熹や林羅山らが提示した研究体系も
そのために有用だから尊重されてきたというだけであって、より優良な成果が
挙げられるのなら上書きされ得るものである。実際のところ、それら以上のものが
何百何千年と見つからないものだから、儒学が大幅に改変されることもついぞないのだが。
特定の国家への縁故的信奉などに基づくことなく、
純粋な学問知識として認証するのであれば、それは自然と儒学的な姿勢になる。
別に既存の儒学思想に依拠するわけでなくとも、儒学一般の範疇となる。
古今東西に学問としての数学はあるが、数学法則自体は普遍的であるのと同じように、
普遍的な儒学法則に合致して、自然と自分が儒者になる。
国家の自明なる神聖性を引き出して、最善の政治を行う方法を模索するのが
儒学の社会的使命であり、今までに孔孟や朱熹や林羅山らが提示した研究体系も
そのために有用だから尊重されてきたというだけであって、より優良な成果が
挙げられるのなら上書きされ得るものである。実際のところ、それら以上のものが
何百何千年と見つからないものだから、儒学が大幅に改変されることもついぞないのだが。
自由主義だとか民主主義だとか資本主義だとか共産主義だとかの、
国家の方針をブーストするイデオロギーが蔓延している世界では、
国家そのものの自明な神聖さを引き出すことは大変、埋もれがちである。
国家そのものへの不信感が強いからこそ、そのようなブーストが試みられているのだから、
「国家自体に自明な神聖性が備わっている」ということ自体が見落とされるか、否定される。
それ故に、左翼やグローバリストだけでなく、国家を尊重しようとする人間すらもが
ナチズムや国家神道などの右翼思想で国家の権威の補強を試みようとする。古来の神道のように
特定の教理などを持たないままでいられないのは、それだけ国家そのものの偉大さを信じられないから。
国家の方針をブーストするイデオロギーが蔓延している世界では、
国家そのものの自明な神聖さを引き出すことは大変、埋もれがちである。
国家そのものへの不信感が強いからこそ、そのようなブーストが試みられているのだから、
「国家自体に自明な神聖性が備わっている」ということ自体が見落とされるか、否定される。
それ故に、左翼やグローバリストだけでなく、国家を尊重しようとする人間すらもが
ナチズムや国家神道などの右翼思想で国家の権威の補強を試みようとする。古来の神道のように
特定の教理などを持たないままでいられないのは、それだけ国家そのものの偉大さを信じられないから。
上に書いたような理由で、国家主義に走る人間は現状、頭の悪い人間が多い。
儒学を単なる古代思想として勉強するのはそう難しいことではないが、国家の自明なる神聖さを
引き出すための手段として会得するのは、あらゆる洋学を上回るほどの難解さを帯びるため、
ただでさえ洋学至上主義な今の世の中で、さらに勉学面で落ちこぼれの部類な人間などが
その道を選び取るのはほとんど不可能に等しいこととなってしまう。
儒学は別に、日本のような特定の国の個別的な権威を高めるものではない。
日本の儒者も特別、日本の伝統文化に即した風習ばかりを重んじていたわけでもないから、
国粋主義者などからは少しも魅力的なものには思われない。しかしだからこそ、
国家一般の権威性の高さを認証する厳正な審判としては神官などよりも適格だったのでもある。
儒学を単なる古代思想として勉強するのはそう難しいことではないが、国家の自明なる神聖さを
引き出すための手段として会得するのは、あらゆる洋学を上回るほどの難解さを帯びるため、
ただでさえ洋学至上主義な今の世の中で、さらに勉学面で落ちこぼれの部類な人間などが
その道を選び取るのはほとんど不可能に等しいこととなってしまう。
儒学は別に、日本のような特定の国の個別的な権威を高めるものではない。
日本の儒者も特別、日本の伝統文化に即した風習ばかりを重んじていたわけでもないから、
国粋主義者などからは少しも魅力的なものには思われない。しかしだからこそ、
国家一般の権威性の高さを認証する厳正な審判としては神官などよりも適格だったのでもある。

西洋からの思想哲学的な影響を受けた国家主義には、
得てして「自国のみの祭り上げ」や「他国へのマウント」が伴いがちである。
ヒトラーもユダヤ人だけでなく、有色人種やラテン・スラブ系の国家民族全てを
見下していたし、大航海時代のスペインやポルトガル、大英帝国やフランスなども、
非白人国家への畜生に対するも等しい見下しによって勢力を拡大していた。
日本もまた、国家神道によって日本国の国際的権威の強化を試みるに際しては、
脱亜入欧で周辺のアジア諸国などを見下したものだから、欧米列強の植民地支配からの解放
という大義名分があったにもかかわらず、そのやり方が少なからず侵略的ともなってしまった。
明治以降に、日本も儒学を捨てて洋学偏重に陥ったものだから、
「国家が神聖性を帯びるのは普遍的なことである」という常識感覚を損ない、
国家に貴賤を見出す差別意識が横行し始めた。その上での自国の皇国としての祭り上げだから、
どうしたって下を見たがる卑劣さの増長を避けられなかった。
古来より儒学を重んじ、中国大陸が異民族に侵略破壊された元代以降は、世界で最も忠実な
儒学の実践国でもあったここ日本ですら、儒学を捨てた途端にそうなってしまった。
積み重ねて来たものも崩れ去る時には一瞬というのは、体系的な学問についてこそ言えることである。
「国家は国家である時点で自明に尊いものである」という考えと、
「ウチの国だけが特別に尊い」という考えは、
その語義から言っても根本的に相容れるものではない。
片や絶対的、片や相対的な認識であるために、
どちらかを選択する以上はもう一方を排斥せざるを得ない。
そのため、後者を進取した明治以降の日本も、前者の考えを排斥せざるを得なかった。
モノの考え方が平等的か差別的かにも振り切れるから、
どちらの考えを選択するかによって、本人の性格までもが左右されてしまう。
今の日本で大人同士のマウント合戦や、子供の間でのイジメなどが
蔓延してしまっているのも、これが最大級の根本原因だったりするのである。
「ウチの国だけが特別に尊い」という考えは、
その語義から言っても根本的に相容れるものではない。
片や絶対的、片や相対的な認識であるために、
どちらかを選択する以上はもう一方を排斥せざるを得ない。
そのため、後者を進取した明治以降の日本も、前者の考えを排斥せざるを得なかった。
モノの考え方が平等的か差別的かにも振り切れるから、
どちらの考えを選択するかによって、本人の性格までもが左右されてしまう。
今の日本で大人同士のマウント合戦や、子供の間でのイジメなどが
蔓延してしまっているのも、これが最大級の根本原因だったりするのである。
国家は、自明には人間にとっての神聖さを帯びた「規格」だが、
残念ながらその神聖さが覆い隠されてしまうことがよくある。
その主な理由となるのが
[1] 国家権力に携わる者たちの人間的腐敗
[2] 国家の自明な権威性を認めないイデオロギーによる支配
の二つである。
たとえば、資本主義陣営も共産主義陣営も[2]であることは全く是認しているし、
[1]が巣食っていることも多少は認める。ただ[1]の度合いがライバルよりかは
マシであるという主張によって、自分たちの側の体制を正当化する。
どちらの腐敗具合のほうがマシかという見下し合い競争に興じた結果、
結局どちらの腐敗度も絶対的には増加して行く。自分たちの体制の腐敗を
自ずから浄化させる目処などが全く立たなくなり、国家権力が清浄であり得る
ことの想像もつかなくなる。これにより、国家が自明な権威性を帯びた存在である
可能性をより見失い、[2]の如き後付けの矯正の必要性をより確信することともなる。
腐敗とその取り繕いの悪循環の、雪だるま式の肥大化により、国家そのものの
自明な権威性を引き出すことなどは、夢物語にも等しい領域の話に成り下がる。
ちょうど確定死刑囚が、人としての平穏な生活を思い描くにも等しいようなもので。
残念ながらその神聖さが覆い隠されてしまうことがよくある。
その主な理由となるのが
[1] 国家権力に携わる者たちの人間的腐敗
[2] 国家の自明な権威性を認めないイデオロギーによる支配
の二つである。
たとえば、資本主義陣営も共産主義陣営も[2]であることは全く是認しているし、
[1]が巣食っていることも多少は認める。ただ[1]の度合いがライバルよりかは
マシであるという主張によって、自分たちの側の体制を正当化する。
どちらの腐敗具合のほうがマシかという見下し合い競争に興じた結果、
結局どちらの腐敗度も絶対的には増加して行く。自分たちの体制の腐敗を
自ずから浄化させる目処などが全く立たなくなり、国家権力が清浄であり得る
ことの想像もつかなくなる。これにより、国家が自明な権威性を帯びた存在である
可能性をより見失い、[2]の如き後付けの矯正の必要性をより確信することともなる。
腐敗とその取り繕いの悪循環の、雪だるま式の肥大化により、国家そのものの
自明な権威性を引き出すことなどは、夢物語にも等しい領域の話に成り下がる。
ちょうど確定死刑囚が、人としての平穏な生活を思い描くにも等しいようなもので。

俺に言わせれば、「国家の自明なる神聖さを認めないような不埒者は、
必ずや世の中のどこかに絶対的権力の吹き溜まりを勝手に作ろうとする」である。
あるいは政商として、あるいは諜報機関として、
あるいは民意を思いのままに操る絶大なメディア利権として。
民主化などで国家元首への権力の集中を禁止しようとも、
国家そのものの権威性を認めない以上は独裁的な野心を捨てきれず、
民間なり衆目の届きにくい日陰の場なりでの、絶対的権力の醸成を試みることとなる。
何万何億という人々の集合体としての、国家という存在を尊重できない以上は、
自分独りで万人の運命を好き勝手にもてあそんでやろうとするような不埒さを
どんな立場でも捨てることなどはできず、どんな立場からでも独裁してやろうとする。
だいたいそういう人種自体が「類は友を呼ぶ」から、
独裁的権限を勝ち得るための内部競争が吹き溜まり中に勃発して、
ある程度深入りしてしまった以上は途中で投げ出すこともできなくなる。
これこそが、所構わず絶対的権力が生じてしまう根本原因であり、そこに
「国家に権力が集中する」などという必要条件が伴ってなどはいないのである。
「民は神の主なり」
(左伝・桓公六年)
特定の派閥や職種、思想信条などを超越した、
最も大局的で公平な万民の集合体であるが故に、
国家もまたあらゆる神格中の主上であるとまで認められる。
主君というものもまた、その主上の顕現であるが故に尊いのであって、
万民を見下す立場として偉いということではない。
仮にそういう心がけでいるような主君がいれば、
それは苛政をはたらいたりするまでもなく内面からの暴君だといえる。
万民の代表としての主上故に、主君もまた神聖であるし、
その派生系である限りにおいて、神仏もまた健全に神聖たる。
万民を自らとは全く別個の下々として見下すような性分の持ち主は
主君なら暴君だし、神なら邪神。単なる一個人としてももちろん外道。
個我ないし少数派の立場から大局を見下す、自明なる自意識過剰は、
どんな立場かにもよらず避けられてしかるべきもの。
(左伝・桓公六年)
特定の派閥や職種、思想信条などを超越した、
最も大局的で公平な万民の集合体であるが故に、
国家もまたあらゆる神格中の主上であるとまで認められる。
主君というものもまた、その主上の顕現であるが故に尊いのであって、
万民を見下す立場として偉いということではない。
仮にそういう心がけでいるような主君がいれば、
それは苛政をはたらいたりするまでもなく内面からの暴君だといえる。
万民の代表としての主上故に、主君もまた神聖であるし、
その派生系である限りにおいて、神仏もまた健全に神聖たる。
万民を自らとは全く別個の下々として見下すような性分の持ち主は
主君なら暴君だし、神なら邪神。単なる一個人としてももちろん外道。
個我ないし少数派の立場から大局を見下す、自明なる自意識過剰は、
どんな立場かにもよらず避けられてしかるべきもの。

それは大衆の面前で演説することに緊張を感じたりするのと似た感覚となる。
別に相手が偉い人間だとか、自分よりも賢いとかいうわけでもなくとも、
自分はただの個人で少数派、相手は複数人で多数派であるという時点で、
相手に対する尊重意識を抱き、少なからず畏怖心を抱いてしまう。
しかし、たとえば英語圏だと「あなた」も「あなた方」も「You」で、
相手が個人であることと複数人であることの言語的な区別がないし、
人前で大胆に主張する教育を幼少期の頃から徹底して施されるから、
誰でもヒトラーのような大演説を大衆の前で怖気付かずに講ずることができる。
それは実際のところ、多数派への尊重意識を見失っている状態でもあるわけで、
多数決が原則な民主主義の観点から見ても、少なからず独裁的な傾向を帯びた
状態であると言える。もちろんそんな人間は国家の神聖さなどを感じ取る
こともできず、国を丸ごと侮った結果として、やもすれば国全体を自らの手で
好き勝手に弄んでやろうとする不埒な独裁意識までをも抱いてしまう。
人前での演説なども苦手な場合が多い日本人の奥ゆかしさこそは、
むしろ国家への尊重意識を抱いて独裁意識を駆逐するためには殊勝なものである。
問題は、今の日本人のほとんどはそのような奥ゆかしさを国家への尊重意識にまでは
昇華できていない点であり、だからこそ今度は過剰な自信不足ともなってしまっている。
全体主義の思い上がりではなく、多数派に個人的な畏怖を抱く奥ゆかしさがあればこそ、
多数派の最も公平な区分である国家を尊ぶ意識も健全なものたり得るのだが。
むしろ国家への尊重意識を抱いて独裁意識を駆逐するためには殊勝なものである。
問題は、今の日本人のほとんどはそのような奥ゆかしさを国家への尊重意識にまでは
昇華できていない点であり、だからこそ今度は過剰な自信不足ともなってしまっている。
全体主義の思い上がりではなく、多数派に個人的な畏怖を抱く奥ゆかしさがあればこそ、
多数派の最も公平な区分である国家を尊ぶ意識も健全なものたり得るのだが。
▲ページ最上部
ログサイズ:33 KB 有効レス数:20 削除レス数:0
不適切な書き込みやモラルに反する投稿を見つけた時は、書き込み右の マークをクリックしてサイト運営者までご連絡をお願いします。確認しだい削除いたします。
思想・哲学掲示板に戻る 全部 次100 最新50
スレッドタイトル:儒者「国家は自明に神聖なものである」