人間という生き物は醜い(特に外見) 東洋的審美眼の真骨頂
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近ごろ、各地の博物館や刀剣店などを巡って各種の名刀を目にしてるんだが、
人の命を奪う道具である刀がかくも美しいのはなぜかという疑問を
考え抜くに至って勘付いたのが、「人間が醜い生き物だから」ということだ。
心ではない。心は美しい場合も醜い場合もあるが、外見のほうは一貫して醜い。
一般に、美男とか美女とか言われてる人間がいるのは、ただ単に性的魅力が強いから
なだけであって、普遍的な審美眼に基づくならそれらも単なる薄毛のサルに過ぎない。
にもかかわらず、性的魅力と普遍的な美しさを倒錯して心焦がした時に初めて、
人は心までもが醜くなる。愛欲を持つこと自体は人の常だが、それが
審美眼を損ねるような事態にまで陥ることこそが致命的に問題となるのであり、
それこそを防ぎ止めるために昔の日本人も刀という、人の命を断ち切る道具の
美術工芸的な洗練に執拗に取り組んでいたのではないかと思われるのである。
人の命を奪う道具である刀がかくも美しいのはなぜかという疑問を
考え抜くに至って勘付いたのが、「人間が醜い生き物だから」ということだ。
心ではない。心は美しい場合も醜い場合もあるが、外見のほうは一貫して醜い。
一般に、美男とか美女とか言われてる人間がいるのは、ただ単に性的魅力が強いから
なだけであって、普遍的な審美眼に基づくならそれらも単なる薄毛のサルに過ぎない。
にもかかわらず、性的魅力と普遍的な美しさを倒錯して心焦がした時に初めて、
人は心までもが醜くなる。愛欲を持つこと自体は人の常だが、それが
審美眼を損ねるような事態にまで陥ることこそが致命的に問題となるのであり、
それこそを防ぎ止めるために昔の日本人も刀という、人の命を断ち切る道具の
美術工芸的な洗練に執拗に取り組んでいたのではないかと思われるのである。
日本刀の中でも、特に名刀とまで呼ばれているものの美しさを見るにつけ思うのが、
「これを美しさとするのなら、人の見た目の美しさなどものの数にも入らないな」ということだ。
別に、それで異性への愛欲が断たれたりするわけではないが、
ただ、特別に美男美女扱いされているような人間(特に白人)の見た目などを
普遍的な美しさだなどと勘違いして、畏怖するような思いだけは完全に絶える。
顔立ちにしろ身体つきにしろ、日本人は昔からあまり美しいとまではいえないような人間が多いが、
それもこのような、人の美しさなどに囚われない諦観が根付いていたからなのだろうな、と。
美男美女なんてただの色男色女に過ぎないという見立ては、今ではすり減って久しいものだが、
色ボケに世の中が振り回されるような羽目に陥ることがないようにするためにも、
今一度先人たちの遺産に目を向けるべきだと言えるだろう。
「これを美しさとするのなら、人の見た目の美しさなどものの数にも入らないな」ということだ。
別に、それで異性への愛欲が断たれたりするわけではないが、
ただ、特別に美男美女扱いされているような人間(特に白人)の見た目などを
普遍的な美しさだなどと勘違いして、畏怖するような思いだけは完全に絶える。
顔立ちにしろ身体つきにしろ、日本人は昔からあまり美しいとまではいえないような人間が多いが、
それもこのような、人の美しさなどに囚われない諦観が根付いていたからなのだろうな、と。
美男美女なんてただの色男色女に過ぎないという見立ては、今ではすり減って久しいものだが、
色ボケに世の中が振り回されるような羽目に陥ることがないようにするためにも、
今一度先人たちの遺産に目を向けるべきだと言えるだろう。
刀の美しさによって審美眼を育んだからといって、
別に刀以外の何もかもが醜く見えてくるわけではない。
花鳥風月、山川草木のような自然の美しさはやはり普遍的なものだし、
そこにぶつかることなく調和できている人の営みもまた、醜いとまでは言えない。
体の線が出ない着物や大きな笠といった純和風の装束なども、
人体の醜さをうまく隠してそのような美しさに溶け込む配慮があるのだと知れる。
してみれば、そこからの逆算によって、実は美しいわけではないと
バレてしまうものが、美男美女の他にも複数出てくる。
物量投入によって見るものを威圧する大都市のインフラなども、デザイニングに
よっては美しさまでもが謳われるが、決して普遍的な美しさには当たらない。
諸々の工業製品も、全てがワンオフである日本刀と比べれば作りのアラが目立つ。
ことさらに体のラインを強調して性的な魅力をアピールする洋装の美しさなども、
人体の美しさ自体が虚構に過ぎないことに連動してハリボテ扱いとなる。
決して現代人の多くがたやすく賛同できるような美意識ではないだろうが、
少なくとも昔の日本人にとってはごく常識的な感覚だったようである。
別に刀以外の何もかもが醜く見えてくるわけではない。
花鳥風月、山川草木のような自然の美しさはやはり普遍的なものだし、
そこにぶつかることなく調和できている人の営みもまた、醜いとまでは言えない。
体の線が出ない着物や大きな笠といった純和風の装束なども、
人体の醜さをうまく隠してそのような美しさに溶け込む配慮があるのだと知れる。
してみれば、そこからの逆算によって、実は美しいわけではないと
バレてしまうものが、美男美女の他にも複数出てくる。
物量投入によって見るものを威圧する大都市のインフラなども、デザイニングに
よっては美しさまでもが謳われるが、決して普遍的な美しさには当たらない。
諸々の工業製品も、全てがワンオフである日本刀と比べれば作りのアラが目立つ。
ことさらに体のラインを強調して性的な魅力をアピールする洋装の美しさなども、
人体の美しさ自体が虚構に過ぎないことに連動してハリボテ扱いとなる。
決して現代人の多くがたやすく賛同できるような美意識ではないだろうが、
少なくとも昔の日本人にとってはごく常識的な感覚だったようである。
上記のような日本的、東洋的審美眼が別に性欲を減退させるものでないのは、
江戸期の日本における性風俗文化の隆盛などからも知れたことである。
性欲を完全に断ち切るというのなら、万事万物の見た目の美醜に囚われない
「色即是空」の境地にまで至ることが必要なわけだが、それと比べれば、
審美眼の巧拙を論じている今の話は、だいぶ程度が低いものにあたる。
高尚な審美眼もあれば、低俗な審美眼もあり、美女の色気にたぶらかされる
程度の段階の人間には、美々しく飾り立てた遊女があてがわれもしていた。
ただ、それは程度の低い領域の美醜なのだから、哲学的、宗教的な領域とは
全く別物の俗物としての身の程がわきまえられていた。そうですらあれば
美女を愛でたりするのも全く問題はないのであり、むしろ神聖不可侵なもの
として敬遠したりすることがなくなる分、より営みが旺盛ともなり得るのである。
江戸期の日本における性風俗文化の隆盛などからも知れたことである。
性欲を完全に断ち切るというのなら、万事万物の見た目の美醜に囚われない
「色即是空」の境地にまで至ることが必要なわけだが、それと比べれば、
審美眼の巧拙を論じている今の話は、だいぶ程度が低いものにあたる。
高尚な審美眼もあれば、低俗な審美眼もあり、美女の色気にたぶらかされる
程度の段階の人間には、美々しく飾り立てた遊女があてがわれもしていた。
ただ、それは程度の低い領域の美醜なのだから、哲学的、宗教的な領域とは
全く別物の俗物としての身の程がわきまえられていた。そうですらあれば
美女を愛でたりするのも全く問題はないのであり、むしろ神聖不可侵なもの
として敬遠したりすることがなくなる分、より営みが旺盛ともなり得るのである。
本当は、直刃(刃紋がまっすぐ)の刀の美しさも例示したいんだが、
直刃の美しさを画像で示すのはほぼ不可能に等しいので、
已む無く乱れ刃や彫刻の美しさの例示を優先している。
俺もまだまだ勉強中だが、最上級に良い刀と悪い刀の見分けぐらいはだいぶ付いて来た。
良い刀は刃金と地金の焼き分けが上手くて、刃金は白く地金は青黒い。
悪い刀は全体的に白く、焼き入れすぎのせいで実戦では折れかねない。
つまり良い刀は実際に丈夫である一方、悪い刀は弱い。
焼き入れがうまくて地金と刃金のメリハリが立っているから、刃紋の美しさも映える。
美しい刀はそれ即ち強い刀であり、あらゆる美しさの中でも機能美の極致にあるといえる。
東洋的美意識は機能美とこそ不可分なものであり、一般人には落書きかゴミにしか
見えないような現代アートに大金をつぎ込む西洋的美意識などとは根本的に相反している。
刀もいいいものは数百万円〜数千万円、
中には億を超えるものもあるが(画像の山鳥毛一文字など)、
原価だけでも数十万円はかかっているし、それを名刀に仕上げる工匠の手間賃を考えれば
決してふっかけているなどということはない。浮き足立たないまともな経済感覚を育んで、
金満への無闇な幻想を抱かないことにも、刀の勉強は一役買うことができる。
直刃の美しさを画像で示すのはほぼ不可能に等しいので、
已む無く乱れ刃や彫刻の美しさの例示を優先している。
俺もまだまだ勉強中だが、最上級に良い刀と悪い刀の見分けぐらいはだいぶ付いて来た。
良い刀は刃金と地金の焼き分けが上手くて、刃金は白く地金は青黒い。
悪い刀は全体的に白く、焼き入れすぎのせいで実戦では折れかねない。
つまり良い刀は実際に丈夫である一方、悪い刀は弱い。
焼き入れがうまくて地金と刃金のメリハリが立っているから、刃紋の美しさも映える。
美しい刀はそれ即ち強い刀であり、あらゆる美しさの中でも機能美の極致にあるといえる。
東洋的美意識は機能美とこそ不可分なものであり、一般人には落書きかゴミにしか
見えないような現代アートに大金をつぎ込む西洋的美意識などとは根本的に相反している。
刀もいいいものは数百万円〜数千万円、
中には億を超えるものもあるが(画像の山鳥毛一文字など)、
原価だけでも数十万円はかかっているし、それを名刀に仕上げる工匠の手間賃を考えれば
決してふっかけているなどということはない。浮き足立たないまともな経済感覚を育んで、
金満への無闇な幻想を抱かないことにも、刀の勉強は一役買うことができる。
久しぶりにというか明和で初めて興味ある意見を見たような見なかったようワニな
それほどまでに美しい刀創り出す精神性は
善悪別にしても相当高い位置に志をおいておらねば創れないワニね
美しさというものは形”ではないと言う境地に辿りついたのワニね
それほどまでに美しい刀創り出す精神性は
善悪別にしても相当高い位置に志をおいておらねば創れないワニね
美しさというものは形”ではないと言う境地に辿りついたのワニね
人間の見た目の美しさの寿命なんて、どんなに頑張っても数十年がいいとこだが、
刀の美しさは数百年でも、千年以上でも持つ。
(画像は平安時代中期に作られた童子切安綱)
悪い刀ならサビが深く根を張って早々とダメになる場合もあるが、
良い刀は鉄の清浄度が高くて酸素含有量が低いから錆びにくい上に、錆が根を張らない。
故に研ぎ直しも最小限で済み、千年以上の後にも元の体配を保ち続ける。
もちろん、何万年何十万年とまでなればさすがに劣化を来たすだろうし、
最終的には地球ごと肥大化した太陽に飲み込まれて消え去るしかないのだから、
完全に永久的な美しさなどというものはなく、色即是空のみが真に永久普遍たる。
ただ、せいぜい数十年しか持たない人間の見た目の美しさなどと比べれば、
刀の美しさのほうが遥かに普遍的だし、自身が寿命百年やそこらの人間にとっては十分に半永久的である。
そういった安定度の高い美しさを、仮初めの美醜なぞの上に置いて考えられるようになるのは、
仏の悟りとまでは行かない範囲での、一種の大人びた達観となるには違いない。
刀の美しさは数百年でも、千年以上でも持つ。
(画像は平安時代中期に作られた童子切安綱)
悪い刀ならサビが深く根を張って早々とダメになる場合もあるが、
良い刀は鉄の清浄度が高くて酸素含有量が低いから錆びにくい上に、錆が根を張らない。
故に研ぎ直しも最小限で済み、千年以上の後にも元の体配を保ち続ける。
もちろん、何万年何十万年とまでなればさすがに劣化を来たすだろうし、
最終的には地球ごと肥大化した太陽に飲み込まれて消え去るしかないのだから、
完全に永久的な美しさなどというものはなく、色即是空のみが真に永久普遍たる。
ただ、せいぜい数十年しか持たない人間の見た目の美しさなどと比べれば、
刀の美しさのほうが遥かに普遍的だし、自身が寿命百年やそこらの人間にとっては十分に半永久的である。
そういった安定度の高い美しさを、仮初めの美醜なぞの上に置いて考えられるようになるのは、
仏の悟りとまでは行かない範囲での、一種の大人びた達観となるには違いない。
>>8
いや、最終的には形が全てを顕すので形が最も重要となる。
一周回って本質に到達するのよ。
形と言うのは情報の最終形。
どんなに御託を並べても形に表せないのであれば口だけって事。
んで>>1は刀には思い入れがあるのは分かるが、対比としての“俗物”の勉強が不足している。
一方の情報だけ肥大して、もう一方の情報が少ない状況で結論を出そうとするとこうな。
議論や主張にも美しさがあって、>>1は刀の美しさを説いてるのにその理屈が美しくない事に気づいていない。
美しいものを語るときその理屈は醜悪なものになる法則があるが、それを出来るだけ醜くならないように勉強して情報を集めるのだが、>>1はそれが十分ではないので醜悪な論理を並べ立てる恥さらしになる。
刀の美しさを語ってるが、それは別のものを投影してる事に自分で気づいていないから醜くなる。
ま、簡単に言うと
バカほど物事を複雑化しようとする典型が>>1です。
いや、最終的には形が全てを顕すので形が最も重要となる。
一周回って本質に到達するのよ。
形と言うのは情報の最終形。
どんなに御託を並べても形に表せないのであれば口だけって事。
んで>>1は刀には思い入れがあるのは分かるが、対比としての“俗物”の勉強が不足している。
一方の情報だけ肥大して、もう一方の情報が少ない状況で結論を出そうとするとこうな。
議論や主張にも美しさがあって、>>1は刀の美しさを説いてるのにその理屈が美しくない事に気づいていない。
美しいものを語るときその理屈は醜悪なものになる法則があるが、それを出来るだけ醜くならないように勉強して情報を集めるのだが、>>1はそれが十分ではないので醜悪な論理を並べ立てる恥さらしになる。
刀の美しさを語ってるが、それは別のものを投影してる事に自分で気づいていないから醜くなる。
ま、簡単に言うと
バカほど物事を複雑化しようとする典型が>>1です。
実際、刀の美しさをどんなに言葉で語っても、語るに落ちる。
それどころか、こうして画像で示しても十分に教えられたとは言えない。
博物館のガラスケース越しに遠目で見てもまだ十分だとは言い難く、
実際に手に取って、適切な照明の下で穴が開くように凝視してからやっと分かる所まである。
良い刀を見てから街に出ると、かつては地上に降りた満天の星空のように見えた
東京都心の街並みなども、途端につまらないものに思えてくる。
実際、刀の材料になっている玉鋼ほど上質な鋼材で作られた建物や車などどこにもなく、
工業品質としての観点から見てもガラクタの山にしか見えなくなるのだ。
人間についても同じことだ。
表参道か代官山あたりに群れ集っているような美男美女が性的に魅力的ではあろうとも、
それが神々の集いか何かのようにまで扱われているような風潮には興ざめする。
実のところ実物がそこまで大したものではないという自覚が本人たちにもあるからこそ、
今ではインスタグラムなどの画面上での美醜ばかりに囚われてもいるのだろうし。
それどころか、こうして画像で示しても十分に教えられたとは言えない。
博物館のガラスケース越しに遠目で見てもまだ十分だとは言い難く、
実際に手に取って、適切な照明の下で穴が開くように凝視してからやっと分かる所まである。
良い刀を見てから街に出ると、かつては地上に降りた満天の星空のように見えた
東京都心の街並みなども、途端につまらないものに思えてくる。
実際、刀の材料になっている玉鋼ほど上質な鋼材で作られた建物や車などどこにもなく、
工業品質としての観点から見てもガラクタの山にしか見えなくなるのだ。
人間についても同じことだ。
表参道か代官山あたりに群れ集っているような美男美女が性的に魅力的ではあろうとも、
それが神々の集いか何かのようにまで扱われているような風潮には興ざめする。
実のところ実物がそこまで大したものではないという自覚が本人たちにもあるからこそ、
今ではインスタグラムなどの画面上での美醜ばかりに囚われてもいるのだろうし。
>>8
普遍的な美しさが全く形を伴わないなんてことはないが、
世間一般が考えているような美しさと比べれば、かなり微妙不可思議なものだ。
上研ぎでピカピカに磨き上げられた刀が輝いていて美しいことぐらいは
誰にでもわかるが、ランクの低い刀でも研ぎたてならそれぐらいの
美しさはあるから、素人が騙される原因にもなりやすい。
刃紋もただ派手な乱れ刃やのたれ刃であればいいというものではなく、
よく見ると定規で描かれたような不自然なものだったりする場合もある。
直刃の良し悪しを見分けるのはもっと難しくて、俺もまだよく分からない所が多い。
要するに、難しい。立ち入れば立ち入るほど奥深さが見えてくる伏魔殿。
だからといって現代アートのような虚構なのではなく、
>>7に書いた通り、難解な美しさには難解な美しさなりの機能性が備わってもいる。
形はあれども、決して安易ではない。
まるで人の本性の美醜を見分けるのと同じように、刀の美醜を見分けるのも難しい。
普遍的な美しさが全く形を伴わないなんてことはないが、
世間一般が考えているような美しさと比べれば、かなり微妙不可思議なものだ。
上研ぎでピカピカに磨き上げられた刀が輝いていて美しいことぐらいは
誰にでもわかるが、ランクの低い刀でも研ぎたてならそれぐらいの
美しさはあるから、素人が騙される原因にもなりやすい。
刃紋もただ派手な乱れ刃やのたれ刃であればいいというものではなく、
よく見ると定規で描かれたような不自然なものだったりする場合もある。
直刃の良し悪しを見分けるのはもっと難しくて、俺もまだよく分からない所が多い。
要するに、難しい。立ち入れば立ち入るほど奥深さが見えてくる伏魔殿。
だからといって現代アートのような虚構なのではなく、
>>7に書いた通り、難解な美しさには難解な美しさなりの機能性が備わってもいる。
形はあれども、決して安易ではない。
まるで人の本性の美醜を見分けるのと同じように、刀の美醜を見分けるのも難しい。
頭の理解と心理的な体得を分けて考えるのは、ちょっと君には難しいかねえ。
いや〜やっぱり分からんようじゃのう。
読み書きできたりできなかったりの昔のお百姓さんや、
11年前の俺にでも分かる程度のことが、分からんもんには分からん。
別に誰にも分からんのではない。
おまえが特筆して分からん側の人間なだけじゃ。
より分からん方向に突っ走る劣情が滾ってるようだから、今はもうやめとけ。
読み書きできたりできなかったりの昔のお百姓さんや、
11年前の俺にでも分かる程度のことが、分からんもんには分からん。
別に誰にも分からんのではない。
おまえが特筆して分からん側の人間なだけじゃ。
より分からん方向に突っ走る劣情が滾ってるようだから、今はもうやめとけ。
今の刀剣の愛好家たちが、誰も彼も卓越した審美眼を備えているわけではなく、
刀剣商の間でも「あそこは駄目だ」系の陰口がよく行き交ってるような
始末なので、下手にその道に入ったりするのは決してお勧めしない。
ろくな審美眼もないのに刀剣に入れ込んでいる人間の特徴として、
刀そのものの純粋な美しさを愛好する欲求と、
他の欲求が抱き合わせになってしまっているというのがある。
変態的な愛好家は性欲と倒錯しているようだし、
金満的な愛好家は粗雑な財欲と混同しているようである。
珍宝を好む系の好事家が単なる物珍しさで愛好している場合もある。
そういう連中が刀を見ながらニチャニチャしてる姿を見て、
俺も下手に刀を買ったりするのはやめておこうとして来てるが、
やはり美しいものは美しい。今までにここに書いてきたような特性を
承った上で、刀により審美眼を磨くことは、ものの良し悪しや人の心の
美醜を推し量る上で有用になるため、刀を買わない内からでもお勧めする。
刀剣商の間でも「あそこは駄目だ」系の陰口がよく行き交ってるような
始末なので、下手にその道に入ったりするのは決してお勧めしない。
ろくな審美眼もないのに刀剣に入れ込んでいる人間の特徴として、
刀そのものの純粋な美しさを愛好する欲求と、
他の欲求が抱き合わせになってしまっているというのがある。
変態的な愛好家は性欲と倒錯しているようだし、
金満的な愛好家は粗雑な財欲と混同しているようである。
珍宝を好む系の好事家が単なる物珍しさで愛好している場合もある。
そういう連中が刀を見ながらニチャニチャしてる姿を見て、
俺も下手に刀を買ったりするのはやめておこうとして来てるが、
やはり美しいものは美しい。今までにここに書いてきたような特性を
承った上で、刀により審美眼を磨くことは、ものの良し悪しや人の心の
美醜を推し量る上で有用になるため、刀を買わない内からでもお勧めする。
意外にも、刀への審美眼を曇らせる最大級の障壁になりがちなのが、
攻撃性の過剰さである。
日本国内では最強度の蛮人の集いであり、刀がへし折れるほどの打ち据えばかりを
特訓する示現流を修めていた薩摩人なども、昔から良い刀を愛好する習慣などはなく、
明治期には廃刀と城郭破却の率先者となった。その薩摩人こそをリーダー格として編成された
日本軍も、粗悪な軍刀を帯びて敵に突撃する好戦主義によってある程度は勝ち、遂には敗亡した。
刀もまた攻撃のための武器には違いないが、護身用も兼ねるのを本分としているし、
戦地では大昔から槍薙刀や弓矢に次ぐ扱いをされていた近接戦闘用具である。そのため
ある程度以上に攻撃性の強い(我が身を滅ぼすことも厭わないほどの)人間にまであまり
好まれることはなく、銃砲ミサイル核爆弾その他、より強力な武器や兵器の陰に隠れることとなる。
そして、刀の美しさというもの自体が極めて繊細な美しさであり、攻撃意欲に身を焦がしてばかりの
粗忽者には理解できないものであるために、必要に駆られた所で「適当なものでいい」となる。
今でもヤフオクあたりに出品されているような大量のクズ刀が、そのようなヤクザ者の
放棄品だったりするのが多いわけで、刀の現存数自体はかなり多いものの、
実は本当に美しい刀を好んでいた人間など昔からそんなにいなかったことが分かる。
(刀を美術品として保護し始めたのは戦後のことで、元は実用品でもあったのだし)
攻撃性の過剰さである。
日本国内では最強度の蛮人の集いであり、刀がへし折れるほどの打ち据えばかりを
特訓する示現流を修めていた薩摩人なども、昔から良い刀を愛好する習慣などはなく、
明治期には廃刀と城郭破却の率先者となった。その薩摩人こそをリーダー格として編成された
日本軍も、粗悪な軍刀を帯びて敵に突撃する好戦主義によってある程度は勝ち、遂には敗亡した。
刀もまた攻撃のための武器には違いないが、護身用も兼ねるのを本分としているし、
戦地では大昔から槍薙刀や弓矢に次ぐ扱いをされていた近接戦闘用具である。そのため
ある程度以上に攻撃性の強い(我が身を滅ぼすことも厭わないほどの)人間にまであまり
好まれることはなく、銃砲ミサイル核爆弾その他、より強力な武器や兵器の陰に隠れることとなる。
そして、刀の美しさというもの自体が極めて繊細な美しさであり、攻撃意欲に身を焦がしてばかりの
粗忽者には理解できないものであるために、必要に駆られた所で「適当なものでいい」となる。
今でもヤフオクあたりに出品されているような大量のクズ刀が、そのようなヤクザ者の
放棄品だったりするのが多いわけで、刀の現存数自体はかなり多いものの、
実は本当に美しい刀を好んでいた人間など昔からそんなにいなかったことが分かる。
(刀を美術品として保護し始めたのは戦後のことで、元は実用品でもあったのだし)
俺自身、あまり「美しさ」というものに頓着して来たほうではない。
自分がそんなに美男ではないというのもあるが、
とにかく地を這ってでも生き延びて先祖に報いるという泥臭さこそを
本分にして来たものだから、美しさなど縁の遠いものだと思い込んで来た。
しかし、先祖代々伝わる殿中差しの小さ刀のほか、古今の名刀の美しさ
などにも触れて、案外美しいものなんて身近にあることに気づいた。
刀だけじゃない、刀の美しさと比較して美しいと思えるもの、
安易な外面ではなく、内面や内面からの美しさを持つものとなれば、
別にフランスやイタリアに行かずともそこら中に散見される。
合気道の開祖のように「万有愛護」とまでは行かずとも、
美しさ故に愛せるものは案外多い。武道や仏道の達者にまでなれなくとも、
そこから始められる庸徳の道もまたあるようである。
自分がそんなに美男ではないというのもあるが、
とにかく地を這ってでも生き延びて先祖に報いるという泥臭さこそを
本分にして来たものだから、美しさなど縁の遠いものだと思い込んで来た。
しかし、先祖代々伝わる殿中差しの小さ刀のほか、古今の名刀の美しさ
などにも触れて、案外美しいものなんて身近にあることに気づいた。
刀だけじゃない、刀の美しさと比較して美しいと思えるもの、
安易な外面ではなく、内面や内面からの美しさを持つものとなれば、
別にフランスやイタリアに行かずともそこら中に散見される。
合気道の開祖のように「万有愛護」とまでは行かずとも、
美しさ故に愛せるものは案外多い。武道や仏道の達者にまでなれなくとも、
そこから始められる庸徳の道もまたあるようである。
ワニさんもそこまで刀を深く考えた事はないが
婆13年介護し一昨年無事目の前で召して魅せた大好きだった婆まのあたりにして
是非日本刀一振り欲しいと思ってたワニよ、もし自分が老いたり
要介護なったりなにかあって生きていけなくなったとき、己の腹引き裂いても
惜しくはない程美しい刀があればワニが
婆13年介護し一昨年無事目の前で召して魅せた大好きだった婆まのあたりにして
是非日本刀一振り欲しいと思ってたワニよ、もし自分が老いたり
要介護なったりなにかあって生きていけなくなったとき、己の腹引き裂いても
惜しくはない程美しい刀があればワニが
な、結局リア充僻みなだけだろw
オタク気質な奴がインスタとかで楽しそうなの僻んでるだけでも惨めなのに
さらに刀がどうとか言い出して余計に自分を惨めにしてるだけw
刀が美しいのは良いとして、それをもってして人間の醜さを論う必要はねーだろうにw
つまり最初からリア充の批判をしたい事が目的ww
そして、得てしてこういう話のポイントは普段から自分のコンプレックスである部分を強調する心理が働くので、>>1は自分の見た目の醜さを普段から気にしてるって事がモロバレw
それを他人に転嫁して、さらに対比として刀を持ち出す事でカモフラージュするというチキンっぷりw
いくら読んでもスレ主の文章からは刀に対する愛情も感じられなければリスペクトも感じられない。
最初からリア充の連中への敵意だけはビシバシ感じるがww
オタク気質な奴がインスタとかで楽しそうなの僻んでるだけでも惨めなのに
さらに刀がどうとか言い出して余計に自分を惨めにしてるだけw
刀が美しいのは良いとして、それをもってして人間の醜さを論う必要はねーだろうにw
つまり最初からリア充の批判をしたい事が目的ww
そして、得てしてこういう話のポイントは普段から自分のコンプレックスである部分を強調する心理が働くので、>>1は自分の見た目の醜さを普段から気にしてるって事がモロバレw
それを他人に転嫁して、さらに対比として刀を持ち出す事でカモフラージュするというチキンっぷりw
いくら読んでもスレ主の文章からは刀に対する愛情も感じられなければリスペクトも感じられない。
最初からリア充の連中への敵意だけはビシバシ感じるがww
ワニさんのその、次世代に極力迷惑をかけまいとする志しは大変美しいものだと思うし、
その志しに見合った美しさの刀を手に入れてもらいたいなとも思うけど。
現代人はそんな美意識なんてろくに理解もできないし、
実際切腹を見ればキチ◯イ沙汰として鼻つまみ者扱いにするようなザマなので、
現状の世の中では美談として扱われることがないのは覚悟してほしいけども。
それでも構わないというのなら、お勧めするのは古刀大磨り上げの脇差かな。
普通の刀は長すぎるし、新刀以降の脇差はハンマー効果を狙って先端部分を
太めに作ってあるのが多いから、自分の腹に突き立てるのは難儀っぽいので、
切っ先が細くて軽めの脇差でいいものを探せば良いよ。
なるべくなら、その刀がワニさんの腹に突き立てられたりすることなく、
賢人の佩刀としてあらたな歴史的価値を帯びてくれることを願うけどね。
その志しに見合った美しさの刀を手に入れてもらいたいなとも思うけど。
現代人はそんな美意識なんてろくに理解もできないし、
実際切腹を見ればキチ◯イ沙汰として鼻つまみ者扱いにするようなザマなので、
現状の世の中では美談として扱われることがないのは覚悟してほしいけども。
それでも構わないというのなら、お勧めするのは古刀大磨り上げの脇差かな。
普通の刀は長すぎるし、新刀以降の脇差はハンマー効果を狙って先端部分を
太めに作ってあるのが多いから、自分の腹に突き立てるのは難儀っぽいので、
切っ先が細くて軽めの脇差でいいものを探せば良いよ。
なるべくなら、その刀がワニさんの腹に突き立てられたりすることなく、
賢人の佩刀としてあらたな歴史的価値を帯びてくれることを願うけどね。
男たるもの、軟弱なイケメンの美しさなどあっても恥ぐらいに思うべき
という考えから、美しさ全般を忌み避けるような考えにも陥りがちだけども。
(俺もそうだったように)
それでは単なるガサツ者になりかねないし、
かといって異性の美しさなどにたぶらかされるのもまた軟派に振れすぎる。
刀の美しさや、それに準ずるような機能美の美しさこそを愛でることで、
ガサツと軟派の両方を排した悠然たる大丈夫となる。
もちろん、男らしさとして尊ぶべき程度の武骨さは保ち続けるし、
結婚して子孫を拵えるため程度の異性関係は持つ。
野蛮人でもなければ軟弱な俗人でもなく、かといって坊さんでもない、
あらゆる面において一つ覚えの痴態を排し去った人の鑑となる。
という考えから、美しさ全般を忌み避けるような考えにも陥りがちだけども。
(俺もそうだったように)
それでは単なるガサツ者になりかねないし、
かといって異性の美しさなどにたぶらかされるのもまた軟派に振れすぎる。
刀の美しさや、それに準ずるような機能美の美しさこそを愛でることで、
ガサツと軟派の両方を排した悠然たる大丈夫となる。
もちろん、男らしさとして尊ぶべき程度の武骨さは保ち続けるし、
結婚して子孫を拵えるため程度の異性関係は持つ。
野蛮人でもなければ軟弱な俗人でもなく、かといって坊さんでもない、
あらゆる面において一つ覚えの痴態を排し去った人の鑑となる。
刀剣文化を発達させた日本人に限らず、東洋人は全体的にヒトという
生き物の外見上の美しさなどを、さほど重視して来なかったようである。
だから歴史上の偉人の肖像画や彫像も粗末なものが多いし、
服飾や髪型もあまり身体の線を強調しないようなものを重用して来ている。
人体の造形というものをあまり美化したがらなかったのは、
肉体を不浄なものと断じている仏教思想の影響などもあるだろうし、
貴人ほど身体の線を隠すような服装を好んで来ているのは、
「易経」繋辞伝における(おそらく孔子の)推奨にも基づいているものである。
美術文化そのものはそれと別に大変発達しており、
仏像彫刻などもギリシャ彫刻を上回るような技法で作られたものが多々見られるが、
それにしても仏様自体は、筋骨隆々でも何でもない微妙な容貌に彫られたものばかり。
仏菩薩よりも格が低いとされる明王や天部がいかめしい筋肉質で造形されることが多い
ことからも、それこそがより偉大な大悟の境地として確信的に形作られていることが確か。
生き物の外見上の美しさなどを、さほど重視して来なかったようである。
だから歴史上の偉人の肖像画や彫像も粗末なものが多いし、
服飾や髪型もあまり身体の線を強調しないようなものを重用して来ている。
人体の造形というものをあまり美化したがらなかったのは、
肉体を不浄なものと断じている仏教思想の影響などもあるだろうし、
貴人ほど身体の線を隠すような服装を好んで来ているのは、
「易経」繋辞伝における(おそらく孔子の)推奨にも基づいているものである。
美術文化そのものはそれと別に大変発達しており、
仏像彫刻などもギリシャ彫刻を上回るような技法で作られたものが多々見られるが、
それにしても仏様自体は、筋骨隆々でも何でもない微妙な容貌に彫られたものばかり。
仏菩薩よりも格が低いとされる明王や天部がいかめしい筋肉質で造形されることが多い
ことからも、それこそがより偉大な大悟の境地として確信的に形作られていることが確か。
そういった風潮が完全に人口に膾炙していたのは、日本なら江戸時代までで、
明治以降は肖像画を実物以上に美化して描いたりする西洋の風習が持ち込まれた。
右画の東郷平八郎などは本人も実際に美男子だったというし、古写真にも、
今の尺度でも美男美女と言えるような男女がそれなりにいたりするから、
美形を世界標準的な価値観で持て囃す傾向もそれなりにあったことが分かる。
しかし、人の美醜を普遍的な美醜と取り違えるようなことまではなく、
極端な言い方をすれば「性器の具合の良し悪し」ぐらいに低俗な要素止まりに
扱われていたものだから、そう大々的にあげつらわれることもなかったわけである。
そんな古き良き清浄文化も徐々に鳴りを潜め、敗戦後ともなれば、
そんな価値観が昔存在していたことまでもが完全に忘れ去られてしまった。
日本人が総出で色ボケに陥り始めたのもその頃からだし、あたかも日本人が
世界標準並みの美意識を持ち始めたように思い込まれている戦後こそは、
日本古来の美意識が完全に形骸化してしまった契機であるといえよう。
明治以降は肖像画を実物以上に美化して描いたりする西洋の風習が持ち込まれた。
右画の東郷平八郎などは本人も実際に美男子だったというし、古写真にも、
今の尺度でも美男美女と言えるような男女がそれなりにいたりするから、
美形を世界標準的な価値観で持て囃す傾向もそれなりにあったことが分かる。
しかし、人の美醜を普遍的な美醜と取り違えるようなことまではなく、
極端な言い方をすれば「性器の具合の良し悪し」ぐらいに低俗な要素止まりに
扱われていたものだから、そう大々的にあげつらわれることもなかったわけである。
そんな古き良き清浄文化も徐々に鳴りを潜め、敗戦後ともなれば、
そんな価値観が昔存在していたことまでもが完全に忘れ去られてしまった。
日本人が総出で色ボケに陥り始めたのもその頃からだし、あたかも日本人が
世界標準並みの美意識を持ち始めたように思い込まれている戦後こそは、
日本古来の美意識が完全に形骸化してしまった契機であるといえよう。
足の裏が世界最高峰の造形とまで言われているほど、
細部まで精緻の限りを尽くした作り込みでいて、
総合的にはやはり一般的な仏像の規格に落ち着いている。
ギリシャ彫刻の影響を受けた初期の仏像は露骨なほどに写実的だった一方、
そこから一旦無益な肉体美を排する抽象化の道を辿った上で、
またある程度の写実性に立ち返り始めていた時代の傑作。
東博などで歴史を追いながら見比べて来たが、
これ以前の仏像は背骨の湾曲を強調した女性的な体つきである一方、
だんだんと背筋のまっすぐな男性的な体つきになっていることもわかる。
安易な肉体美などとは全く別の次元で、ある種の美しさを仏像の人体造形も
表現しようとして来ているのであり、そこに見惚れるほどの感傷を
抱けるようなら、そこで悟りをも開けるようになっているようである。
細部まで精緻の限りを尽くした作り込みでいて、
総合的にはやはり一般的な仏像の規格に落ち着いている。
ギリシャ彫刻の影響を受けた初期の仏像は露骨なほどに写実的だった一方、
そこから一旦無益な肉体美を排する抽象化の道を辿った上で、
またある程度の写実性に立ち返り始めていた時代の傑作。
東博などで歴史を追いながら見比べて来たが、
これ以前の仏像は背骨の湾曲を強調した女性的な体つきである一方、
だんだんと背筋のまっすぐな男性的な体つきになっていることもわかる。
安易な肉体美などとは全く別の次元で、ある種の美しさを仏像の人体造形も
表現しようとして来ているのであり、そこに見惚れるほどの感傷を
抱けるようなら、そこで悟りをも開けるようになっているようである。
先祖代々の栄養不足による小柄化、胴長短足、
骨盤後傾でのヒョロガリ化、巻き肩によるコケシ体型化、…
肉体そのものをそこまで美化しようともして来なかった痕跡は、
現代の美男美女扱いな日本人に至るまで尾を引き続けているし、
中途半端な衣食住の西洋化によって身長ぐらいは伸びながら、
相応のタンパク質摂取が足りてないことによる筋肉量不足が、
昔の日本人にはなかったような身体の歪みや、そのせいでの
新疾患 (ロコモティブ症候群)を招くことともなってしまっている。
人口密度では欧州諸国の5倍以上、アメリカと比べれば10倍以上という
(だだっ広くて人がいないと言われてる北海道でも欧州並みだという)
国土のせまっ苦しさの中で、これ以上日本人が総出で恵体を志しても
邪魔にしかならないのだから、大谷や渡邊みたいな恵体を持て囃すよりも前に、
肉体美なんかを無闇に称賛することの低俗さのほうが見直されて然るべきだといえる。
骨盤後傾でのヒョロガリ化、巻き肩によるコケシ体型化、…
肉体そのものをそこまで美化しようともして来なかった痕跡は、
現代の美男美女扱いな日本人に至るまで尾を引き続けているし、
中途半端な衣食住の西洋化によって身長ぐらいは伸びながら、
相応のタンパク質摂取が足りてないことによる筋肉量不足が、
昔の日本人にはなかったような身体の歪みや、そのせいでの
新疾患 (ロコモティブ症候群)を招くことともなってしまっている。
人口密度では欧州諸国の5倍以上、アメリカと比べれば10倍以上という
(だだっ広くて人がいないと言われてる北海道でも欧州並みだという)
国土のせまっ苦しさの中で、これ以上日本人が総出で恵体を志しても
邪魔にしかならないのだから、大谷や渡邊みたいな恵体を持て囃すよりも前に、
肉体美なんかを無闇に称賛することの低俗さのほうが見直されて然るべきだといえる。
戦後における、日本人の西洋的耽美を推し進める
最大級の代表者となったのが他でもない、あの三島由紀夫である。
右翼の精神的支柱だとか、近代最後の文豪だとかのイメージが強いが、
それらと同時にどういうわけだか本人が好んでいたのが、西洋的な肉体美。
おそらくは西洋的美と東洋的美を混同しながらの唯美主義によって、
東洋文化からはかけ離れるような裸体美の追及にも及んでいたのである。
三島の愛国論や日本文化への賛美自体は見るべきものも多いのに、
このような悪趣味極まる肉体主義と抱き合わされたせいでクソミソに
それらのイメージも悪化し、保守が鼻摘まみ者扱いをされる原因ともなった。
本人が憂慮していたとおり、古来の日本人の精神性は年を重ねるごとに衰退
して行ったが、三島もまたその原因を作った一員であることには変わりない。
小柄で文弱だった三島が下手の横好きでひけらかしたボディビルなどの
肉体主義志向自体は、また別のところでろくな精神性を帯びたりすることも
ない形で興隆し、その点では本人の好みが部分的には受け入れられたともいえる。
東洋的美と西洋的美が到底相容れないことをその体現によって示し、
ほとんどの日本人に前者を棄てて後者を採ることを選択させた三島の業績は、
東洋的審美眼こそを尊ぶ立場からすれば、百害あって一利ないものであった。
最大級の代表者となったのが他でもない、あの三島由紀夫である。
右翼の精神的支柱だとか、近代最後の文豪だとかのイメージが強いが、
それらと同時にどういうわけだか本人が好んでいたのが、西洋的な肉体美。
おそらくは西洋的美と東洋的美を混同しながらの唯美主義によって、
東洋文化からはかけ離れるような裸体美の追及にも及んでいたのである。
三島の愛国論や日本文化への賛美自体は見るべきものも多いのに、
このような悪趣味極まる肉体主義と抱き合わされたせいでクソミソに
それらのイメージも悪化し、保守が鼻摘まみ者扱いをされる原因ともなった。
本人が憂慮していたとおり、古来の日本人の精神性は年を重ねるごとに衰退
して行ったが、三島もまたその原因を作った一員であることには変わりない。
小柄で文弱だった三島が下手の横好きでひけらかしたボディビルなどの
肉体主義志向自体は、また別のところでろくな精神性を帯びたりすることも
ない形で興隆し、その点では本人の好みが部分的には受け入れられたともいえる。
東洋的美と西洋的美が到底相容れないことをその体現によって示し、
ほとんどの日本人に前者を棄てて後者を採ることを選択させた三島の業績は、
東洋的審美眼こそを尊ぶ立場からすれば、百害あって一利ないものであった。
古来より、戦場にあえて裸体で繰り出す武者など居りはせん。
甲冑でも鎖帷子でも、刺子の着物一枚でもいいからなるべく羽織って、
主君や親に仕える身の程である我が命を極力守ろうとする。
本人としては、東洋的美と西洋的美の止揚を実現した
ベストショットの一つのつもりだったのだろうが、
実際にはただの一枚で両者の矛盾性を明示する戯画となっている。
本人も空手家で、合気道の達人である塩田剛三をボディガードにしていた
田中清玄氏のほか、本式の武道を知る人々の三島への評価もすこぶる低い。
この写真における刀の握りもデタラメだし、武道についてはかじった程度で
ろくに取り組んでいなかったのが、多少覚えがある程度の人間からも明らか。
そして何より、彼の美学に賛同できないという武道家が幾人もいる。
武の嗜みだけでなく、文学者としては本領であるはずの精神面における
美意識自体が稚拙で評価に値しないものだと、三島以上に命を危ぶむ経験を
何度も積み重ねていた武道家が話していたのを、俺も聞いている。
甲冑でも鎖帷子でも、刺子の着物一枚でもいいからなるべく羽織って、
主君や親に仕える身の程である我が命を極力守ろうとする。
本人としては、東洋的美と西洋的美の止揚を実現した
ベストショットの一つのつもりだったのだろうが、
実際にはただの一枚で両者の矛盾性を明示する戯画となっている。
本人も空手家で、合気道の達人である塩田剛三をボディガードにしていた
田中清玄氏のほか、本式の武道を知る人々の三島への評価もすこぶる低い。
この写真における刀の握りもデタラメだし、武道についてはかじった程度で
ろくに取り組んでいなかったのが、多少覚えがある程度の人間からも明らか。
そして何より、彼の美学に賛同できないという武道家が幾人もいる。
武の嗜みだけでなく、文学者としては本領であるはずの精神面における
美意識自体が稚拙で評価に値しないものだと、三島以上に命を危ぶむ経験を
何度も積み重ねていた武道家が話していたのを、俺も聞いている。
自衛官が堕落していたからでも、三島が生まれつきの貧体だからでもない。
一番根本的なところの美意識に致命的な欠陥があったからこそ、
ただ一人の賛同者も現場で得られることなく惨めに死んでいったのだ。
切腹の介錯を頼んだ男と事前に同衾までしていたという、悪趣味の極み。
生粋の同性愛者だからではなく、それが東西の美意識の止揚の完成形になると
見込んでの確信犯だったのだから、勘違いの醜態こそがそこで完成されたと言える。
男色は実際、昔の日本にもあったが、それも色事全般を不浄なものと戒める
仏教的価値観の流布があった上でのことである。むしろその不浄の戒めのほうが
本懐であったのにも関わらず、不浄の開き直りとしてごく一部に持て囃されていた
過度の好色のほうを本体と見たあたり、根本的に馬鹿だったのである。
帝大時代の東大を出て大蔵省に入ったという経歴から見て、単なる馬鹿ではない。
戦後における「天才バカボン」の走りであり、その愚かさに見合う末路だったといえる。
一番根本的なところの美意識に致命的な欠陥があったからこそ、
ただ一人の賛同者も現場で得られることなく惨めに死んでいったのだ。
切腹の介錯を頼んだ男と事前に同衾までしていたという、悪趣味の極み。
生粋の同性愛者だからではなく、それが東西の美意識の止揚の完成形になると
見込んでの確信犯だったのだから、勘違いの醜態こそがそこで完成されたと言える。
男色は実際、昔の日本にもあったが、それも色事全般を不浄なものと戒める
仏教的価値観の流布があった上でのことである。むしろその不浄の戒めのほうが
本懐であったのにも関わらず、不浄の開き直りとしてごく一部に持て囃されていた
過度の好色のほうを本体と見たあたり、根本的に馬鹿だったのである。
帝大時代の東大を出て大蔵省に入ったという経歴から見て、単なる馬鹿ではない。
戦後における「天才バカボン」の走りであり、その愚かさに見合う末路だったといえる。
閑話休題
男と女は所詮、内面的な敵対を避けられない生き物同士であり、
どちらかがもう一方に譲ることによってのみ結婚生活なども上手くいく。
現代の日本はフェミニズムとまで行かずとも、単なる人権主義だけでも
男尊女卑が固く禁じられている世の中なものだから、世の男女夫婦たちは皆、
女尊男卑を暗黙の了解とすることでなんとか関係を円滑化している状態にある。
知力であれ技術であれ体力であれ精神力であれ、
男が女に優位を示す根拠となる要素は無数にあるが、
女が男にマウントを取れる材料は極めて少ない。
出産能力は、生理のような生活上の不都合と引き換えのものである上に、
それ自体が決して美しくもなんともないグロテスク沙汰であるものだから、
男に対してマウントを取る材料にまではなりにくい。
男と女では、肉体美や顔面美を普遍的な美と受け止めやすいのが
どちらかといえば女であるものだから、これこそは最大級のマウント材料となる。
男と女は所詮、内面的な敵対を避けられない生き物同士であり、
どちらかがもう一方に譲ることによってのみ結婚生活なども上手くいく。
現代の日本はフェミニズムとまで行かずとも、単なる人権主義だけでも
男尊女卑が固く禁じられている世の中なものだから、世の男女夫婦たちは皆、
女尊男卑を暗黙の了解とすることでなんとか関係を円滑化している状態にある。
知力であれ技術であれ体力であれ精神力であれ、
男が女に優位を示す根拠となる要素は無数にあるが、
女が男にマウントを取れる材料は極めて少ない。
出産能力は、生理のような生活上の不都合と引き換えのものである上に、
それ自体が決して美しくもなんともないグロテスク沙汰であるものだから、
男に対してマウントを取る材料にまではなりにくい。
男と女では、肉体美や顔面美を普遍的な美と受け止めやすいのが
どちらかといえば女であるものだから、これこそは最大級のマウント材料となる。
さほど美人でもない場合が多い日本の女も、トップの女優やモデルの
美しさなどを見て「女とはそういう生き物なのだ」と思い込み、
男を下に見る偏見を養っては、男との付き合いに備える。
その心構えは死ぬ瞬間まで続き、自分のほうが家庭で夫より
優遇されるのも当然のことだと思い込み、夫の死後には何十年と長生きする。
実際に女が見惚れるほど美しいのなんて若い頃の一時だけだろうとて、
始めに犯した毛筋ほどの過ちが積もりに積もって千里となり、万里となる。
まず最原初の内から「人体の美しさなど普遍的な美の内にも入らぬ」
とよくわきまえさせて、女が男にマウントを取る余地など毛筋ほども残さぬ。
さすれば後から暴力などによって無理やり言うことを聞かせるまでもなく、
ほとんど全ての面で自分よりも優位にある男との正しい付き合い方を思い知るであろう。
美しさなどを見て「女とはそういう生き物なのだ」と思い込み、
男を下に見る偏見を養っては、男との付き合いに備える。
その心構えは死ぬ瞬間まで続き、自分のほうが家庭で夫より
優遇されるのも当然のことだと思い込み、夫の死後には何十年と長生きする。
実際に女が見惚れるほど美しいのなんて若い頃の一時だけだろうとて、
始めに犯した毛筋ほどの過ちが積もりに積もって千里となり、万里となる。
まず最原初の内から「人体の美しさなど普遍的な美の内にも入らぬ」
とよくわきまえさせて、女が男にマウントを取る余地など毛筋ほども残さぬ。
さすれば後から暴力などによって無理やり言うことを聞かせるまでもなく、
ほとんど全ての面で自分よりも優位にある男との正しい付き合い方を思い知るであろう。
昔の日本人が、家系図に女子の名前も載せないほどナチュラルな男尊女卑だったのも、
女が男よりも無能な上に、別段女を美の象徴だとも捉えていなかったからである。
出産みたいな惨めな能力と引き換えに、ほとんどの分野で男に劣る能力しか持たない
女という性別の、美しさにおける優位ぐらいは認めてやろうかとて、それもまた許さぬ。
それにより、女が完膚なきまでに男の下位互換扱いとなり、
有無をも言わすことなく男に付き従う身分に押し留められることとなる。
現代の女にとっては地獄にも等しい仕打ちのように映るかも知らんが、
ひるがえって現代の男が女と付き合う際には必ず受け入れさせられている仕打ちでもあり、
男の側がそれを拒む以上は、自分たちの側が甘受する以外に選択肢のない宿命である。
女が男よりも無能な上に、別段女を美の象徴だとも捉えていなかったからである。
出産みたいな惨めな能力と引き換えに、ほとんどの分野で男に劣る能力しか持たない
女という性別の、美しさにおける優位ぐらいは認めてやろうかとて、それもまた許さぬ。
それにより、女が完膚なきまでに男の下位互換扱いとなり、
有無をも言わすことなく男に付き従う身分に押し留められることとなる。
現代の女にとっては地獄にも等しい仕打ちのように映るかも知らんが、
ひるがえって現代の男が女と付き合う際には必ず受け入れさせられている仕打ちでもあり、
男の側がそれを拒む以上は、自分たちの側が甘受する以外に選択肢のない宿命である。
人体の美しさもまた一種の美しさとして認めた上で、
三島のように男の肉体美で女にマウントを取ろうとて、
そんな悪趣味に付き合える者はどこまでも少数派に止まる。
その証拠に、マッチョイズムの流行が著しいアメリカ大陸の性志向までもが見ての通り。
他国以上に女体だけへの執着が強いのは、一種の反作用とでも見るべきか。
女の美しさによるマウントを絶やす方法はただ一つ、
人体の美しさを普遍的な美しさなどとは見なさないことのみ。
その方法は、仏道帰依による色即是空の定立から、
より普遍的な日本刀の美しさへの傾倒など、いくつでもある。
仏門が形骸化している現代においては、後者のほうが手っ取り早いし、
在俗でも実践が可能である点からも、より常識化されて然るべきものである。
帯刀や所有まで行かずとも、認知が行き届くだけでも世の中が変わる。
三島のように男の肉体美で女にマウントを取ろうとて、
そんな悪趣味に付き合える者はどこまでも少数派に止まる。
その証拠に、マッチョイズムの流行が著しいアメリカ大陸の性志向までもが見ての通り。
他国以上に女体だけへの執着が強いのは、一種の反作用とでも見るべきか。
女の美しさによるマウントを絶やす方法はただ一つ、
人体の美しさを普遍的な美しさなどとは見なさないことのみ。
その方法は、仏道帰依による色即是空の定立から、
より普遍的な日本刀の美しさへの傾倒など、いくつでもある。
仏門が形骸化している現代においては、後者のほうが手っ取り早いし、
在俗でも実践が可能である点からも、より常識化されて然るべきものである。
帯刀や所有まで行かずとも、認知が行き届くだけでも世の中が変わる。
かつて女は男を魅了するため、愛する夫と歩いて恥をかかせないために着飾っていた。
今の女は自己満足のため、同性同士での馴れ合いやインスタ映えのために着飾る。
家事や仕事の邪魔になる上に、男からの評判もさほど良くないネイルアート等に凝るのも、
鏡越しでなければ見られない顔や全身と違って、自分自身が肉眼で見て楽しめる手先の装飾だから。
女がそのようであっても別に構わないとされているのも、
女の美しさこそは高尚な芸術の領域にも通ずるものと見なされているから。
女が美しいこと、それ自体に独立的な価値があるのだから、男の好むような
格好やメイクをあえて好むのは恥ずべき「媚び」だとして、同性嫌悪の対象となる。
女に眉と書いて「媚」と書くほど、女が男に媚びるのはごく常識的なこととされていたのが、
今や男が女の機嫌を伺うこと以上の恥とされる。それほどにも人体美への狂信が極まっているということ。
男の側としても、そのような狂信の支配下に置かれている以上はうまく苦言を呈することもできぬ。
そもそもそのような風潮を招いた張本人からして西洋の男なのだから、男の責任であるともいえる。
今の女は自己満足のため、同性同士での馴れ合いやインスタ映えのために着飾る。
家事や仕事の邪魔になる上に、男からの評判もさほど良くないネイルアート等に凝るのも、
鏡越しでなければ見られない顔や全身と違って、自分自身が肉眼で見て楽しめる手先の装飾だから。
女がそのようであっても別に構わないとされているのも、
女の美しさこそは高尚な芸術の領域にも通ずるものと見なされているから。
女が美しいこと、それ自体に独立的な価値があるのだから、男の好むような
格好やメイクをあえて好むのは恥ずべき「媚び」だとして、同性嫌悪の対象となる。
女に眉と書いて「媚」と書くほど、女が男に媚びるのはごく常識的なこととされていたのが、
今や男が女の機嫌を伺うこと以上の恥とされる。それほどにも人体美への狂信が極まっているということ。
男の側としても、そのような狂信の支配下に置かれている以上はうまく苦言を呈することもできぬ。
そもそもそのような風潮を招いた張本人からして西洋の男なのだから、男の責任であるともいえる。
いま、こうして女について積極的に論じ立ててみた所で、少しも浮ついた所がない。
俺自身、少しでも女が絡む話をする時には心が浮つくのを感じていたが、
「女の美しさなどは普遍的な美しさの内にも入らない」という、
このスレの趣旨に沿った文脈で話すのであれば、少しも浮つく所がない。
俺自身が愛欲から解脱したからでも、性欲が減退したからでもない。
今までにも意識的にまでは分断させて来なかった、普遍的な美意識と人体美の
倒錯こそが、そのような惑いを差し挟む元凶になっていたからである。
俺自身、少しでも女が絡む話をする時には心が浮つくのを感じていたが、
「女の美しさなどは普遍的な美しさの内にも入らない」という、
このスレの趣旨に沿った文脈で話すのであれば、少しも浮つく所がない。
俺自身が愛欲から解脱したからでも、性欲が減退したからでもない。
今までにも意識的にまでは分断させて来なかった、普遍的な美意識と人体美の
倒錯こそが、そのような惑いを差し挟む元凶になっていたからである。
どうして今まで気づかなかったのかといえば、俺については複数の名刀の
美しさに触れる機会を持ってこなかったからだが、誰しもがそのような
機会を持つだけで気付けるのかといえば、決してそこまでのことはない。
思うに、ズブの素人が初めて刀の美しさを目にした時に高確率で抱く感覚、
あの妖気にでもあてられたような感覚こそは、現代人としての自らの心中に居座る
稚拙な美意識がガラガラと音を立てて崩れ陥ちそうになっている感覚なのではなかろうか。
せいぜい、女体美あたりを最高の美だなどと思い込んでいられている
幼稚な美意識を、できることならより多くの人間に保っておいてもらいたいものだから、
「名刀には妖気がある」云々の風説によって極力、人々を刀から遠ざけようとしていまいか。
いやむしろ、それならいっそのこと、刀の美しさにあてられて目を覚ませよ!
と当然俺は思うが、婦女子諸君以上にそれが都合の悪い権力者も多かろうな。
美しさに触れる機会を持ってこなかったからだが、誰しもがそのような
機会を持つだけで気付けるのかといえば、決してそこまでのことはない。
思うに、ズブの素人が初めて刀の美しさを目にした時に高確率で抱く感覚、
あの妖気にでもあてられたような感覚こそは、現代人としての自らの心中に居座る
稚拙な美意識がガラガラと音を立てて崩れ陥ちそうになっている感覚なのではなかろうか。
せいぜい、女体美あたりを最高の美だなどと思い込んでいられている
幼稚な美意識を、できることならより多くの人間に保っておいてもらいたいものだから、
「名刀には妖気がある」云々の風説によって極力、人々を刀から遠ざけようとしていまいか。
いやむしろ、それならいっそのこと、刀の美しさにあてられて目を覚ませよ!
と当然俺は思うが、婦女子諸君以上にそれが都合の悪い権力者も多かろうな。
女の耽美症は、男ほどには色情と結び付かない一方で、
自分こそが美の本源であるという認識からの思い上がりや、
美的に思われない事物への執拗な見下しや嫌悪を招く。
それが人生の上でいつ如何なる場合においても通用するのならともかく、
現実にはそうも行かない。見た目に自分ほど美しくない男に抱かれて子を宿し、
腹を痛めて産んだその子の夜泣きに付き合い、おしめまで換えさせられる。
ちっとも思ってたように美しくはない、自分自身の女としての人生の現実に
打ちひしがれてノイローゼとなり、ひどい場合にはネグレクトや虐待にまで走る。
(そこまで行かずとも夫への当たり散らしや別居離婚沙汰ぐらいは当然の権利のように行われる)
女なんて、所詮は男の完全な下位互換に過ぎない、見た目が魅力的なのも
単なる生殖目的だという考えでいれば、そんな思い上がりが原因の苦悩に
駆られるはずもないのに、今となっては大多数の女が抱く苦悩にまでなっている。
自分こそが美の本源であるという認識からの思い上がりや、
美的に思われない事物への執拗な見下しや嫌悪を招く。
それが人生の上でいつ如何なる場合においても通用するのならともかく、
現実にはそうも行かない。見た目に自分ほど美しくない男に抱かれて子を宿し、
腹を痛めて産んだその子の夜泣きに付き合い、おしめまで換えさせられる。
ちっとも思ってたように美しくはない、自分自身の女としての人生の現実に
打ちひしがれてノイローゼとなり、ひどい場合にはネグレクトや虐待にまで走る。
(そこまで行かずとも夫への当たり散らしや別居離婚沙汰ぐらいは当然の権利のように行われる)
女なんて、所詮は男の完全な下位互換に過ぎない、見た目が魅力的なのも
単なる生殖目的だという考えでいれば、そんな思い上がりが原因の苦悩に
駆られるはずもないのに、今となっては大多数の女が抱く苦悩にまでなっている。
結婚・出産・育児という常道的な女の人生を歩まなくとも、
若い頃には美しかった女までもが加齢によっては美貌を損ない、
昔のようにチヤホヤされなくなったことを苦悩のタネとする。
それが安易なフェミニズムへの傾倒の他、諸々の妄言妄動を来たす原因ともなる。
全ては「女こそがあらゆる美の根本」という倒錯からの思い上がりを
元凶としているのであり、まさに始めの過ちの雪だるま式の肥大化に当たる。
女が着飾るのなんて遠い昔からの人類文化の伝統ではあるが、
ただ一つ、女性美なんかをあらゆる美の極致とまで思い込むような勘違いだけは
古来の多数派の常識などではなく、故に今の世の中よりも健全であった。
女が無知だったからではない。事実を正しく認識していたから健全だったのである。
若い頃には美しかった女までもが加齢によっては美貌を損ない、
昔のようにチヤホヤされなくなったことを苦悩のタネとする。
それが安易なフェミニズムへの傾倒の他、諸々の妄言妄動を来たす原因ともなる。
全ては「女こそがあらゆる美の根本」という倒錯からの思い上がりを
元凶としているのであり、まさに始めの過ちの雪だるま式の肥大化に当たる。
女が着飾るのなんて遠い昔からの人類文化の伝統ではあるが、
ただ一つ、女性美なんかをあらゆる美の極致とまで思い込むような勘違いだけは
古来の多数派の常識などではなく、故に今の世の中よりも健全であった。
女が無知だったからではない。事実を正しく認識していたから健全だったのである。
耽美症はその特性上、女が男にマウントを取る材料にしやすいものだから、
その都合の良さ故に女のほうが容易に罹患する。
仏教やイスラムへの帰依によって総出で男尊女卑を徹底している国でもない限りは、
人権意識の低い近世以前にも女が耽美症となることはよくあったようである。
(呂后や則天武后や西太后にかき回されていた頃の中国なども含め)
男の耽美症までもが恒常化するのは、たとえばキリスト教の聖母マリア信仰
などによってそれが文化的に強制された場合が主であり、男個人が自発的に
耽美症となったりするのは、発達障害などの癲狂を原因としている場合にほぼ限る。
(だから電通も頭がイカれるような広告で日本人の色ボケをけしかけ続けている)
老若男女総出で耽美症に罹患することは、女がいい気分でいられると同時に、
過度の情欲に駆られた男からの危害を終生恐れなければならない事態を招く。
実質キリスト教国な今の韓国を含め、宗教によってまで耽美症を全国民に強制
しているような国々の性犯罪率こそは極めて高く、その他の犯罪率も軒並み高い。
(国民の富裕度が高ければ、性犯罪以外の犯罪率は下がる傾向にあるようだが)
>>52に書いたようなノイローゼを女たち自身が患う原因にもなったりと、
耽美症による女の祭り上げは結局、女にとっても利害の両面が大きすぎる毒薬となる。
その都合の良さ故に女のほうが容易に罹患する。
仏教やイスラムへの帰依によって総出で男尊女卑を徹底している国でもない限りは、
人権意識の低い近世以前にも女が耽美症となることはよくあったようである。
(呂后や則天武后や西太后にかき回されていた頃の中国なども含め)
男の耽美症までもが恒常化するのは、たとえばキリスト教の聖母マリア信仰
などによってそれが文化的に強制された場合が主であり、男個人が自発的に
耽美症となったりするのは、発達障害などの癲狂を原因としている場合にほぼ限る。
(だから電通も頭がイカれるような広告で日本人の色ボケをけしかけ続けている)
老若男女総出で耽美症に罹患することは、女がいい気分でいられると同時に、
過度の情欲に駆られた男からの危害を終生恐れなければならない事態を招く。
実質キリスト教国な今の韓国を含め、宗教によってまで耽美症を全国民に強制
しているような国々の性犯罪率こそは極めて高く、その他の犯罪率も軒並み高い。
(国民の富裕度が高ければ、性犯罪以外の犯罪率は下がる傾向にあるようだが)
>>52に書いたようなノイローゼを女たち自身が患う原因にもなったりと、
耽美症による女の祭り上げは結局、女にとっても利害の両面が大きすぎる毒薬となる。
見た目もそう美しくない上に、女へのデリカシーやレディーファーストの精神まで
欠けているとされる日本の男の性犯罪率こそが、主要キリスト教国の10分の1以下で
あるのも、耽美症にまでかかっているような男の数が段違いに少ないからである。
耽美症などではないが故に、女を完全な男の下位互換と見られているからこそ、
いざ女と結婚しようものなら、責任を持って“弱者”を養ってやろうともする。
しかし日本も、女が耽美症にかかっている率は相当に上がってしまった。
女を下位の弱者として養ってやろうとする男と、自分のほうが上位の強者だと
思い込んでいる女、お互いのことを永遠に理解し合えないながらにも、男の側が
奴隷となる主従関係だけは成立し、結婚によって男は必ず地獄の余生を味わうこととなる。
自分たちのほうも耽美症のせいで家事ノイローゼや育児ノイローゼにかかってるから、
女の側も男への同情などは一切せず、逆に家事や育児まで仕事のある夫に押し付けようとする。
そのせいで男はあまりキツイ仕事ができなくなり、稼ぎが減って
共働きしなければやっていけなくなる悪循環をも招く。
欠けているとされる日本の男の性犯罪率こそが、主要キリスト教国の10分の1以下で
あるのも、耽美症にまでかかっているような男の数が段違いに少ないからである。
耽美症などではないが故に、女を完全な男の下位互換と見られているからこそ、
いざ女と結婚しようものなら、責任を持って“弱者”を養ってやろうともする。
しかし日本も、女が耽美症にかかっている率は相当に上がってしまった。
女を下位の弱者として養ってやろうとする男と、自分のほうが上位の強者だと
思い込んでいる女、お互いのことを永遠に理解し合えないながらにも、男の側が
奴隷となる主従関係だけは成立し、結婚によって男は必ず地獄の余生を味わうこととなる。
自分たちのほうも耽美症のせいで家事ノイローゼや育児ノイローゼにかかってるから、
女の側も男への同情などは一切せず、逆に家事や育児まで仕事のある夫に押し付けようとする。
そのせいで男はあまりキツイ仕事ができなくなり、稼ぎが減って
共働きしなければやっていけなくなる悪循環をも招く。
耽美症を耽美症と見定めない内から、
それによる世相の乱れを取り締まろうとした実例は多々見られる。
美女ばかりが優先的に火あぶりに処されていたという魔女狩りをはじめ、
キリスト教圏においても幾多の粛清が図られてはぶり返す歴史が重ねられている。
しかし、西洋はキリスト教以前の古代ギリシャ・ローマに至るまで
最高強度で文化文明を耽美症と合致させ続けて来た社会であるために、
耽美による汚濁の粛清=一概な文化破壊という様相を来してしまう。
一番直近では、共産主義革命あたりがその最たる実例であり、
近代の軟派文化の主たる提供者である資本主義の打倒を西洋的思考によって
実現しようとした結果、共産化した国における文化破壊が一大事業となった。
その共産主義の歴史的挫折によって、世の中はまた一概に文化的堕落を容認する
方向へと振り切れたが、そういった極端から極端への一つ覚えな転換自体が
完全な西洋ペースでの狂態であり、仏教文化や武家文化によって世相の腐敗を
適度に防いでいた、かつての東洋社会の足元にも及ばない愚妹であるという他ない。
それによる世相の乱れを取り締まろうとした実例は多々見られる。
美女ばかりが優先的に火あぶりに処されていたという魔女狩りをはじめ、
キリスト教圏においても幾多の粛清が図られてはぶり返す歴史が重ねられている。
しかし、西洋はキリスト教以前の古代ギリシャ・ローマに至るまで
最高強度で文化文明を耽美症と合致させ続けて来た社会であるために、
耽美による汚濁の粛清=一概な文化破壊という様相を来してしまう。
一番直近では、共産主義革命あたりがその最たる実例であり、
近代の軟派文化の主たる提供者である資本主義の打倒を西洋的思考によって
実現しようとした結果、共産化した国における文化破壊が一大事業となった。
その共産主義の歴史的挫折によって、世の中はまた一概に文化的堕落を容認する
方向へと振り切れたが、そういった極端から極端への一つ覚えな転換自体が
完全な西洋ペースでの狂態であり、仏教文化や武家文化によって世相の腐敗を
適度に防いでいた、かつての東洋社会の足元にも及ばない愚妹であるという他ない。
仏教文化も武家文化も、決して文化破壊によって耽美症を防ぐのではない。
安易な人体美などよりも高尚な抽象美や機能美を寺社仏像刀剣などによって示し、
それを至高のものとして崇めたてることによって、情欲と美意識の倒錯を防ぎ止める。
仏道や武道の修行も奨励はするが、義務とまでするのは正式な身分を持つ僧侶や武士のみ。
天下万民にあまねく府令して実質的に強制していたのは、上記のような情操のほうである。
出家や帯刀が近代化の邪魔になるといっても、明治以降の軍人も帯刀して頭を丸めて
修行並みに厳しい訓練に明け暮れることがままあったのだし、本当に西洋的な近代化と
根本的に相容れなかったのも、耽美症を徹底排除する仏門や武家の気風のほうである。
それこそ、坊主や侍たち自身に限らず、万人が了解して尊重しているのでもなければ、
自分たちのほうの存在意義が根本から失われ去ってしまう志操だったのだし。
安易な人体美などよりも高尚な抽象美や機能美を寺社仏像刀剣などによって示し、
それを至高のものとして崇めたてることによって、情欲と美意識の倒錯を防ぎ止める。
仏道や武道の修行も奨励はするが、義務とまでするのは正式な身分を持つ僧侶や武士のみ。
天下万民にあまねく府令して実質的に強制していたのは、上記のような情操のほうである。
出家や帯刀が近代化の邪魔になるといっても、明治以降の軍人も帯刀して頭を丸めて
修行並みに厳しい訓練に明け暮れることがままあったのだし、本当に西洋的な近代化と
根本的に相容れなかったのも、耽美症を徹底排除する仏門や武家の気風のほうである。
それこそ、坊主や侍たち自身に限らず、万人が了解して尊重しているのでもなければ、
自分たちのほうの存在意義が根本から失われ去ってしまう志操だったのだし。
命知らずな上に、軍刀や情婦の陰毛をお守りにしていたという帝国軍人のあり方も、
表面的には武士や修行僧のあり方と似てなくもないが、ことに耽美症を排する
美意識の高さが全く欠けている点では、近縁の内にすら入らないものである。
官給のスプリング刀は文化的価値のカケラもないような代物だし、
陰毛に至っては言わずもがな。精鍛なる日本刀や精緻なる仏像こそが持ち得る
邪念を取り払う効果などは、少ないどころか微塵もありはしないことが確か。
武士や仏僧こそが持ち得ていた美意識の高さを毛ほどにも持ち合わせていない
連中が命知らずでもあるのだから、獣のような野蛮さまでをも帯びてしまった。
その野蛮さまでもが、軍人たち自身が信奉していた武士道に基づいていたなどと
勘違いされ、今の日本人までもが武士道を野蛮なものだとよく思い込んでいる始末。
透徹した美意識に欠けていたが故に野蛮だったという点では、
帝国軍人も武士よりかは体育会系の現代人あたりに近い。
前者は己れの命を顧みず、後者は仕事上の部下や下請けといった他人の命を
顧みないでいるのだから、どちらのほうがより凶悪に野蛮であるのかも知れたものである。
表面的には武士や修行僧のあり方と似てなくもないが、ことに耽美症を排する
美意識の高さが全く欠けている点では、近縁の内にすら入らないものである。
官給のスプリング刀は文化的価値のカケラもないような代物だし、
陰毛に至っては言わずもがな。精鍛なる日本刀や精緻なる仏像こそが持ち得る
邪念を取り払う効果などは、少ないどころか微塵もありはしないことが確か。
武士や仏僧こそが持ち得ていた美意識の高さを毛ほどにも持ち合わせていない
連中が命知らずでもあるのだから、獣のような野蛮さまでをも帯びてしまった。
その野蛮さまでもが、軍人たち自身が信奉していた武士道に基づいていたなどと
勘違いされ、今の日本人までもが武士道を野蛮なものだとよく思い込んでいる始末。
透徹した美意識に欠けていたが故に野蛮だったという点では、
帝国軍人も武士よりかは体育会系の現代人あたりに近い。
前者は己れの命を顧みず、後者は仕事上の部下や下請けといった他人の命を
顧みないでいるのだから、どちらのほうがより凶悪に野蛮であるのかも知れたものである。
刀の美しさは、殊更に男性的というわけでもなければ、女性的というわけでもない。
刀身自体、細身で優美なものもあれば、太身で豪壮なものもある。
刀装も龍や明王をあしらったいかにも男らしいものから、
花や小動物をあしらった、現代では少女趣味にも見紛いそうなものまである。
ただ、一部の同田貫や美濃刀のように実用第一で美観を蔑ろにしたりするのではなく、
あくまでその美しさをも大事にするというのであれば、刀の美しさは
野蛮なほどに過剰な男性性と、軟弱に過ぎるような女性性の
いずれをも良しとしない、人としての中庸さに与するものとなる。
男性性も女性性も過剰であれば色欲に結びつき、色欲が過剰ならばその邪念から
>>60に書いたような理由で心が騒ぎ、刀と共に無難などではいられなくなる。
如来や菩薩の仏像も殊更に性的な特徴を強調したりしない造形で彫られるように、
普遍性を象徴せんとする美は自ずと過剰な性から遠ざかる。そこから完全に
色欲を捨て去った出家者となるのか、俗世での家系ぐらいは守り続ける君子となるのかは
本人の立場にもよる所だが、天下万人誰しもにとっての浄心の指標となるのには違いない。
刀身自体、細身で優美なものもあれば、太身で豪壮なものもある。
刀装も龍や明王をあしらったいかにも男らしいものから、
花や小動物をあしらった、現代では少女趣味にも見紛いそうなものまである。
ただ、一部の同田貫や美濃刀のように実用第一で美観を蔑ろにしたりするのではなく、
あくまでその美しさをも大事にするというのであれば、刀の美しさは
野蛮なほどに過剰な男性性と、軟弱に過ぎるような女性性の
いずれをも良しとしない、人としての中庸さに与するものとなる。
男性性も女性性も過剰であれば色欲に結びつき、色欲が過剰ならばその邪念から
>>60に書いたような理由で心が騒ぎ、刀と共に無難などではいられなくなる。
如来や菩薩の仏像も殊更に性的な特徴を強調したりしない造形で彫られるように、
普遍性を象徴せんとする美は自ずと過剰な性から遠ざかる。そこから完全に
色欲を捨て去った出家者となるのか、俗世での家系ぐらいは守り続ける君子となるのかは
本人の立場にもよる所だが、天下万人誰しもにとっての浄心の指標となるのには違いない。
あの、野蛮と妖艶を極める物騒大国のロシアでも、
刀を贈答品にするのは好まれていない。
日本では江戸時代まで、刀を贈り合うのが頻繁化し過ぎていたために、
徳川吉宗が倹約のため高価すぎる刀を贈刀にするのを法度で禁止したほどだが、
これは単なる験担ぎなどには止まらない、実相からの文化的相違があってのこと。
刀身を銃弾などと同じ消耗品として捉えている欧米社会では基本、
刃物の美しさを愛でるような慣習がなかったし(刀装具の美しさを愛でることはある)、
武器に強さと美しさの止揚を求めたりすること自体が前代未聞のことだったから。
武器の美しさなどを仮に追求してみたところで、
強さ一辺倒の野蛮な男にも、性的な美しさ一辺倒の妖艶な女にも
取り立てて好まれることがないから、そもそもの需要が始めからありもしない。
まず、性的な美しさに溺れる色情を忌む貞操観念が世を挙げて重んじられた上で、
それを武具の美しさのような方便によって守ろうとする工夫が加味されたことにより
日本刀のような美麗を極める刀が産まれ、それが贈答品としても好まれるに至った。
どちらかといえば、ロシアよりも日本のほうが世界的に稀有な事例だが、
この世に日本刀が実在している以上は、日本の側が遠慮する必要などはないことである。
(日本ほど高品質な刀を鍛えてきた歴史のない朝鮮がどうであるかは知らないが)
刀を贈答品にするのは好まれていない。
日本では江戸時代まで、刀を贈り合うのが頻繁化し過ぎていたために、
徳川吉宗が倹約のため高価すぎる刀を贈刀にするのを法度で禁止したほどだが、
これは単なる験担ぎなどには止まらない、実相からの文化的相違があってのこと。
刀身を銃弾などと同じ消耗品として捉えている欧米社会では基本、
刃物の美しさを愛でるような慣習がなかったし(刀装具の美しさを愛でることはある)、
武器に強さと美しさの止揚を求めたりすること自体が前代未聞のことだったから。
武器の美しさなどを仮に追求してみたところで、
強さ一辺倒の野蛮な男にも、性的な美しさ一辺倒の妖艶な女にも
取り立てて好まれることがないから、そもそもの需要が始めからありもしない。
まず、性的な美しさに溺れる色情を忌む貞操観念が世を挙げて重んじられた上で、
それを武具の美しさのような方便によって守ろうとする工夫が加味されたことにより
日本刀のような美麗を極める刀が産まれ、それが贈答品としても好まれるに至った。
どちらかといえば、ロシアよりも日本のほうが世界的に稀有な事例だが、
この世に日本刀が実在している以上は、日本の側が遠慮する必要などはないことである。
(日本ほど高品質な刀を鍛えてきた歴史のない朝鮮がどうであるかは知らないが)
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