>>12 とはいえ、セックスなどの身体性をもちこむと、本当の悟りはむしろ見えなくなる
仏教自体がすでに大きな誤解を生む装置と化している懸念すらある
仏教の本質は、個体をどうこうすることが目標では「ない」からだ
大乗も小乗もこの点では迷路に入ってしまっている
大乗の覚者、智者、悟りを開いたものが衆生を救うみたいな構造にしてからが比喩
仏教において、実は個体は比喩、一貫して比喩に過ぎない
苦集滅道の四諦も、個人の実践行にはとどまらないのである
釈迦牟尼が悟りを開くという物語そのものが比喩
仏教における身体性は、仏教説話がことごとく比喩であるように比喩なのである
この比喩を通して本当の悟りの地平を見通せるかどうか?
これが大層難しいのは、釈迦牟尼の時代に難題であり難問であったことが、
科学技術の現代に至ってもなお、何ら解決を見ていないことでも分かる
言葉にして限定してしまうとことごとく誤解の元になるので、本当に仏教が解決しようと狙っていたことは表現しにくい
現代でも表現し損なって様々な問題や争い、対立、無駄骨やロス、矛盾や完全な間違いを逆に派生させてしまっている
やはり、われわれは個体性の制約を通してしか理解できはしないのである
ただし、「比喩ではない」と思い込んでしまうことだけは避けるべきであろう
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