物理的に不能、倫理的に邪悪な宗教
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この世に存在する宗教を、特に現代的価値観に基づく
要点に絞って考えてみれば、主に以下の四つに分類される。
甲類:物理的に妥当、倫理的に優良
乙類:物理的に妥当、倫理的に凡庸
丙類:物理的に不能、倫理的に無難
丁類:物理的に不能、倫理的に邪悪
上記の四種の宗教の効用は、以下の通り。
甲類:実践者の心身を壮健ならしめ、世の中を長期の平和や繁栄に導く。
乙類:信者や実践者の精神衛生を保ち、世の中をある程度は繁栄させる。
丙類:信者の健康を最低限は保ち、世の中も最低限の安定には導く。
丁類:信者に心や体の病を患わせ、世の中を戦乱や破滅へと陥れる。
具体例は以下の通り。
甲類:密教、禅仏教
乙類:儒教、道教、ヒンズー教
丙類:浄土教、イスラム教
丁類:キ○○ト教、ユ○教、その他カルトと位置付けるべき宗教
ーー全ての宗教が物理的に不能だったり倫理的に邪悪だったりするのではなく、
一部の宗教、上記の丙類に相当する宗教が「信教の自由」の名の下に
市民権を得ていることこそが、宗教全体の価値を下げる原因になっている。

要点に絞って考えてみれば、主に以下の四つに分類される。
甲類:物理的に妥当、倫理的に優良
乙類:物理的に妥当、倫理的に凡庸
丙類:物理的に不能、倫理的に無難
丁類:物理的に不能、倫理的に邪悪
上記の四種の宗教の効用は、以下の通り。
甲類:実践者の心身を壮健ならしめ、世の中を長期の平和や繁栄に導く。
乙類:信者や実践者の精神衛生を保ち、世の中をある程度は繁栄させる。
丙類:信者の健康を最低限は保ち、世の中も最低限の安定には導く。
丁類:信者に心や体の病を患わせ、世の中を戦乱や破滅へと陥れる。
具体例は以下の通り。
甲類:密教、禅仏教
乙類:儒教、道教、ヒンズー教
丙類:浄土教、イスラム教
丁類:キ○○ト教、ユ○教、その他カルトと位置付けるべき宗教
ーー全ての宗教が物理的に不能だったり倫理的に邪悪だったりするのではなく、
一部の宗教、上記の丙類に相当する宗教が「信教の自由」の名の下に
市民権を得ていることこそが、宗教全体の価値を下げる原因になっている。

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この画でいう「顧客が本当に必要だった物」みたいなもので、
それまでの紆余曲折で提示されて来たモデルと比べればむしろより簡素なぐらい。
紆余曲折の中で提示された数理物理学的な理論の中には、
この宇宙の物理法則を記述する上では一般的すぎるようなものが多いから、
その一般的すぎる要素の部分が易の数理構造には含まれない。
既成の数理物理理論の何もかもを正当化して行くような論調では、
パラレルワールドやタイムスリップみたいな非現実的な事物の可能性までもが提示され、
挙句には「この宇宙は理論的に存在し得ない」とかいう迷走にまで至ったりする。
https://gigazine.net/news/20171030-cern-antimatter-...
そこまで行くと理論物理のほうが半ば宗教の様相を呈していて、
完全にこの世界の物理法則の記述に特化したnon-metaphisicalな論説である
易の法則のみを研究の対象にしたほうがよほど現実的であることになる。
>この宇宙の物理法則を記述する上では一般的すぎるようなものが多いから、
その一般的すぎる要素の部分が易の数理構造には含まれない。
その易が一般的すぎる事も理解した上であえて省いているのか? それとも一般的すぎる部分はそもそも思考になかったのだろうか?
>既成の数理物理理論の何もかもを正当化して行くような論調では、 ・・・
ここが科学と只の哲学体系との大きな違いである。科学の理論は全て、否定や、反証に大いに寛大である。
つまりどんなに理論が先行したとしても、実験や観測、実証によって、真実を追求する姿勢は保ち続けるし、一度それによって間違いが見つかれば、
皆が修正を受け入れ、現実を踏襲した上で新たな理論展開を行う。誰も現実を無視した間違った理論を何時迄も展開させようなどとはしない。
理論物理学も数式に矛盾なく行う上では実証できないにしても、只の哲学思想に比べれば謙虚な物だと思う。
宗教哲学はまず始まりからして、反証不可能な定義からスタートしている事が多く、始まりの根拠が曖昧なのに、それをいくら発展させた所で、たかが行き着く所は知れていると言うこと。それどころか、哲学が宗教に昇格してしまうと、その思想体系は最早、権威化し聖域となり、反証を試みることすらタブーとなる。これでは弊害以外の何ももたらさなくなる。
科学という思想は真実を追求するために、実証をし、反証が出来るという点で只の哲学とは一線を画するのである。
そこで易の反証可能性は如何なものだろうか?
その一般的すぎる要素の部分が易の数理構造には含まれない。
その易が一般的すぎる事も理解した上であえて省いているのか? それとも一般的すぎる部分はそもそも思考になかったのだろうか?
>既成の数理物理理論の何もかもを正当化して行くような論調では、 ・・・
ここが科学と只の哲学体系との大きな違いである。科学の理論は全て、否定や、反証に大いに寛大である。
つまりどんなに理論が先行したとしても、実験や観測、実証によって、真実を追求する姿勢は保ち続けるし、一度それによって間違いが見つかれば、
皆が修正を受け入れ、現実を踏襲した上で新たな理論展開を行う。誰も現実を無視した間違った理論を何時迄も展開させようなどとはしない。
理論物理学も数式に矛盾なく行う上では実証できないにしても、只の哲学思想に比べれば謙虚な物だと思う。
宗教哲学はまず始まりからして、反証不可能な定義からスタートしている事が多く、始まりの根拠が曖昧なのに、それをいくら発展させた所で、たかが行き着く所は知れていると言うこと。それどころか、哲学が宗教に昇格してしまうと、その思想体系は最早、権威化し聖域となり、反証を試みることすらタブーとなる。これでは弊害以外の何ももたらさなくなる。
科学という思想は真実を追求するために、実証をし、反証が出来るという点で只の哲学とは一線を画するのである。
そこで易の反証可能性は如何なものだろうか?

現時点ではその手の話をこれ以上掘り下げるのは無益だろう。
あくまで表面的な話に特化すれば、
実際問題、この宇宙の全ての物理現象は易の法則を逸脱していない。
古典力学すらもがプランクスケール付近の微視的領域では破綻するのに、
その領域でも物質と波動の二重性などが易の法則の範囲内にある。
相対論における時間と空間や重力と空間の不可分性も、
万物の相補的な振舞いを見込む易の範疇にある。
理論的、実験的な研究が進めば進むほど古典物理学の破綻などが
発見される一方で、易の法則の過不足なき妥当性の確証が進んでいる。
間違っていれば間違ってたでいいのに、残念ながら間違ってない。
占いの材料にもされるように、易も一神教的な信仰の対象にされている
わけでもない、むしろ信頼しがたいとされて来た部類の論説である
というのに、物理研究はむしろその正しさの承認に集約されて行っている。

「私(孔子)は幸せ者である。何か間違いがあっても、それを指摘してくれる人がいるのだから」
(論語・述而第七・三〇より)
自分の評価する人間に落ち度があったことを知らされた時(上の引用の手前部分)、
小国での政治に力を入れている弟子に「やり過ぎではないか」と言って反論された時
(陽貨第十七・三)、孔子は自らの過ちを認めて、指摘を歓喜するような言葉まで述べている。
これも、万物の根本法則としての易が不確定性を帯びたものであることへの理解を
踏まえているからこそ言えたこと。自らを泰山や渤海に喩えるほどの自信家でもあった一方で、
真理こそは信頼の置けない即面を持つことを察して、童僕のような謙虚さも欠かさないでいた。
「神はサイコロを振らない」と言い張って、最後まで物理現象への不確定性の介在を
認めようとしなかったアインシュタインが生涯抱くことのできなかった謙虚さ。
科学的な理知が人を謙虚にするとも、人文的な思想信条が人を頑迷にするとも限らない。
宗教嫌いの科学信者が多い団塊の世代が頑迷だらけで、一番今の日本で人口の多い世代なのに
未だに一人のノーベル賞授賞者も出せていないことからも、むしろそういう考え方こそが
科学発展への寄与すらをも滞らせる原因になることまで勘案すべきである。
易や禅がどんなに優れた思想だろうと、社会を完全に正しい方向へは導けない。
それは今現在を見れば容易にわかること。
つまり物理的に可で、倫理的に可であろうと、人々はそれをおいそれと簡単に信仰したりしない。
これは物理学でも同じことで、物質の真理をいくら追求した所で、人々の生活、性には大した変化をもたらさない。
(故に易が物理理論的に正しかろうと無用の長物であるということ)
人々の生活や思想を、大変換させるのは、イノベーションだ。
それは文字、鉄、農耕、蒸気機関、自動車、ネット、AIなど。
これらを見るとわかるが、イノベーションは物理(科学)と相性がいい。(しかし只の思想からはイノベーションは起きない。)
ではここまでのイノベーションは人間の本質を変容させることが出来たかと言われれば、否である。
人間は人間のままで、もたらされた便利な道具を欲求のままに使っている、使われているだけ。
それは今現在を見れば容易にわかること。
つまり物理的に可で、倫理的に可であろうと、人々はそれをおいそれと簡単に信仰したりしない。
これは物理学でも同じことで、物質の真理をいくら追求した所で、人々の生活、性には大した変化をもたらさない。
(故に易が物理理論的に正しかろうと無用の長物であるということ)
人々の生活や思想を、大変換させるのは、イノベーションだ。
それは文字、鉄、農耕、蒸気機関、自動車、ネット、AIなど。
これらを見るとわかるが、イノベーションは物理(科学)と相性がいい。(しかし只の思想からはイノベーションは起きない。)
ではここまでのイノベーションは人間の本質を変容させることが出来たかと言われれば、否である。
人間は人間のままで、もたらされた便利な道具を欲求のままに使っている、使われているだけ。
しかしここからのイノベーションは少し意味が違ってくる。
それはなぜかというかと、科学技術がとうとう人間のブラックボックス脳や、生命活動や人類社会を標的にし始めたから。
それまではそもそも、観測限度によって思考や行動なんかを科学の対象にするのが難しかった。しかし技術進歩で脳内の活動や構造と
行動や思考なんかを関連付けて考えることが出来るようになってきた。
また教育や犯罪にも、それまで培われてきた科学的手法が用いられるようになってきた。
それまでは、根拠薄弱な方法を、信念や常識、経験に基づいて全員一様に施すしかなかった。
(これでは、遺伝的、環境的個々の差に合わせた教育など出来るはずもない。)
しかし最近は科学的評価によって教育や犯罪防止にも常に新しい最適法がフィードバックされるようになってきている。
そういった意味では科学がもたらした恩恵とは、最先端の物理学ではなく、その進歩的、客観的、評価方法サイクルにあるといえる。
そしてこれからのイノベーションは人間の本質、性に迫るような物になってくる。
まぁ実際そうなるまではまだもう少し掛かりそうだが。
それはなぜかというかと、科学技術がとうとう人間のブラックボックス脳や、生命活動や人類社会を標的にし始めたから。
それまではそもそも、観測限度によって思考や行動なんかを科学の対象にするのが難しかった。しかし技術進歩で脳内の活動や構造と
行動や思考なんかを関連付けて考えることが出来るようになってきた。
また教育や犯罪にも、それまで培われてきた科学的手法が用いられるようになってきた。
それまでは、根拠薄弱な方法を、信念や常識、経験に基づいて全員一様に施すしかなかった。
(これでは、遺伝的、環境的個々の差に合わせた教育など出来るはずもない。)
しかし最近は科学的評価によって教育や犯罪防止にも常に新しい最適法がフィードバックされるようになってきている。
そういった意味では科学がもたらした恩恵とは、最先端の物理学ではなく、その進歩的、客観的、評価方法サイクルにあるといえる。
そしてこれからのイノベーションは人間の本質、性に迫るような物になってくる。
まぁ実際そうなるまではまだもう少し掛かりそうだが。
しかし笠地蔵の話は分かりにくいな。易と同じで魅力が全くないw
世を導くことが念頭にあるなら、少しは説明法も考えてほしいものである。
世を導くことが念頭にあるなら、少しは説明法も考えてほしいものである。
易の知見を道徳倫理に反映した儒学や、禅の影響を色濃く受けた武士道が、
漢代や唐代の中国や、平安時代や江戸時代の日本で
戦争一つない安定した時代を何百年も実現して来ているのだから、
「易や禅は社会を正しい方向には導けない」というのは事実誤認である。
犯罪発生率や警察組織の規模も、江戸時代は今の日本の10分の1程度。
手法が「根拠薄弱な方法を強いる」形式であったのであれ、
その方法が正しかったために良い結果を招いていたことには変わりない。
実践の方法が強制的、封建的だから反感を催すのだったり、
実践の対象が魅力的でなかったりすることと、
事実正しいものを実践して良好な結果を招くことは関係がない。
だから「愛してその悪を知り、憎んでその善を知れ(礼記)」ともいう。
美味いものばかり食べてれば肥満や重病になって辛い思いをするから
節制も心がけるべきであることぐらいは誰でも知っているのに、
どうしてもっと知恵を必要とする領域では好き放題こそが至高である
などと決め付けるのか? それこそ知恵者のおごりではないか?
漢代や唐代の中国や、平安時代や江戸時代の日本で
戦争一つない安定した時代を何百年も実現して来ているのだから、
「易や禅は社会を正しい方向には導けない」というのは事実誤認である。
犯罪発生率や警察組織の規模も、江戸時代は今の日本の10分の1程度。
手法が「根拠薄弱な方法を強いる」形式であったのであれ、
その方法が正しかったために良い結果を招いていたことには変わりない。
実践の方法が強制的、封建的だから反感を催すのだったり、
実践の対象が魅力的でなかったりすることと、
事実正しいものを実践して良好な結果を招くことは関係がない。
だから「愛してその悪を知り、憎んでその善を知れ(礼記)」ともいう。
美味いものばかり食べてれば肥満や重病になって辛い思いをするから
節制も心がけるべきであることぐらいは誰でも知っているのに、
どうしてもっと知恵を必要とする領域では好き放題こそが至高である
などと決め付けるのか? それこそ知恵者のおごりではないか?

科学的、合理的なトレーニングだけを適度にこなして来たアメリカの高校生の方が野球で強かったりする。
易や禅等への事実誤認とはまた別の問題として、迷惑すぎ水産もこの手の話をしたかったんだと思うが。
日本の高校野球的な非合理主義も別に日本古来のものではなく、
儒学や仏教が教育界から廃絶された明治以降に、西洋のスパルタ教育やプロシア兵法を参考にしたもの。
それは確かに、科学的合理主義にも劣る代物であるだろうが、ではその科学的な手法を存分に取り入れている
今のメジャーリーグでも、イチローみたいに大記録やここ一番の大舞台での活躍を打ち立てられる人間と、
ダルビッシュや田中みたいに今一歩の結果に終わってしまうのがいるのはなぜか?
イチローにあって、ダルビッシュや田中にないのは、透徹した真面目さ。
初動負荷理論に基づく動的ストレッチ運動みたいな地味な運動を、
毎日毎日、試合前にも何時間もこなしておく程のストイックさ。
結局、手法が科学的であるのであっても、最後にものを言うのはそういう精神的な部分。
合理主義の冷酷にも、非合理主義の激情にも一つ覚えには振り切れない中庸の賢明さ。
つまらない訓練も毎日欠かさず行なっている真面目さ故に、イチローのコメントもどこかズレた不恰好なものだったりする。
巧言令色に長けてたりするよりは、そのようであるほうがよっぽど可能性に溢れているのである。

野球やサッカーみたいな大衆スポーツも合理的なトレーニングを取り入れているだけで、
競技上での運動には非合理なものが多々含まれているのに、古武道やヨガたるや、
本番の武技や体位自体が合理的な身体操法を極めたものとなっている。
そういう運動を実際に重点的にやってみれば分かるが、
合理的な運動であればあるほど、人間は過酷な特訓にも耐えられるようになっている。
野球やサッカーや、現代のスポーツ剣道やスポーツ柔道みたいな非合理まみれの
競技で行えばあっという間に怪我するほどにも甚大な負荷の訓練を行なったとしても、
あくまで合理的運動の範囲内であれば身体は壊れない。壊れないどころかより身体能力が上がり、
成人の劇的な上達は不可能とされているハタヨガすらもが短期間で上達していけるようになったりする。

遠藤征四郎氏は「死ぬ気で(合気道を)やれ」と言っている。
「仏に会うては仏を殺し、祖に会うては祖を殺し、羅漢に会うては羅漢を殺し、
父母に会うては父母を殺し、親眷に会うては親眷を殺し、以って解脱を得ん」(臨済録)
というほどの背水の陣意識こそが、合理的運動の上達を促進するものであったりする。
イチローだって「引退したらこの世から消えてしまいたい(本人談)」
というほどの覚悟を持って、老体に鞭打ちながらまだメジャーの現役でいる。
そのような使命感の強さは、これまでの科学文明による欲望志向でかえって萎縮させられて
来たものではあるが、科学的合理性の善用のためにはむしろ必要となってくるものである。
科学的合理主義でいい思いをしてしわ寄せの破滅を招いてしまったからには、
今度は嫌な思いをしてでもその埋め合わせに務めねばならない。
そこでも科学が安易な楽々さを保証してくれるなどと考えるのはご都合主義もいいとこだ。
>犯罪発生率や警察組織の規模も、江戸時代は今の日本の10分の1程度。
手法が「根拠薄弱な方法を強いる」形式であったのであれ、
その方法が正しかったために良い結果を招いていたことには変わりない。
俺はなそのような平和が、思想理念からもたらされた物ではないと信じている。
その前提条件として、日本が一つの権力のもとに統治されたことが一番大きな要因。
もし日本が複数の国からなっていたなら、そんな長期安定状態はなかっただろう。
中国の情勢は知らないが、優れた理念が浸透する背後には、長期安定国家があったのではないか?
つまり優れた平和理念や精神は、地政学的に安定な状態になった付録としてついてくる物。
>イチローにあって、ダルビッシュや田中にないのは、透徹した真面目さ。
初動負荷理論に基づく動的ストレッチ運動みたいな地味な運動を、
毎日毎日、試合前にも何時間もこなしておく程のストイックさ。
こういう所が、精神論のダメなところさ。詰まるところ最後は真面目さなんて評価しようがないものに終結してる。
ストイックでまじまな選手が必ず大成するわけではない。ストイックな方向性を間違えればそれこそ笠地蔵の肩のように悲鳴を上げる。
手法が「根拠薄弱な方法を強いる」形式であったのであれ、
その方法が正しかったために良い結果を招いていたことには変わりない。
俺はなそのような平和が、思想理念からもたらされた物ではないと信じている。
その前提条件として、日本が一つの権力のもとに統治されたことが一番大きな要因。
もし日本が複数の国からなっていたなら、そんな長期安定状態はなかっただろう。
中国の情勢は知らないが、優れた理念が浸透する背後には、長期安定国家があったのではないか?
つまり優れた平和理念や精神は、地政学的に安定な状態になった付録としてついてくる物。
>イチローにあって、ダルビッシュや田中にないのは、透徹した真面目さ。
初動負荷理論に基づく動的ストレッチ運動みたいな地味な運動を、
毎日毎日、試合前にも何時間もこなしておく程のストイックさ。
こういう所が、精神論のダメなところさ。詰まるところ最後は真面目さなんて評価しようがないものに終結してる。
ストイックでまじまな選手が必ず大成するわけではない。ストイックな方向性を間違えればそれこそ笠地蔵の肩のように悲鳴を上げる。
笠地蔵さん。科学的手法の優れた点は、その徹底した、客観性と実証主義、にある。
1仮説→
2実証→
3評価→ もし反証されれば1へ
4発展展開→
5予測予想→2へ
このサイクルがあるから科学的手法は健全性が担保されるし、確実に前に進む。
精神論や只の思想哲学にこれに匹敵しうる健全性があるかい?
後正しい間違っているにかかわらず、事実として、確実に人に受け継がれるものは何か?
現在の易や禅、空思想などを見ると分かるが、それは思想なんかではない。
しかし何千年も前に生み出された文字や農耕、鉄器などは、誰も必死になって伝承なんかしなくとも自然と伝わる。
つまり後世に確実に受け継がれるのはイノベーション。これは最早法則や原理的な事。
それと同じくらい科学的手法(科学思想)はインパクトが有ることだと思うな。
1仮説→
2実証→
3評価→ もし反証されれば1へ
4発展展開→
5予測予想→2へ
このサイクルがあるから科学的手法は健全性が担保されるし、確実に前に進む。
精神論や只の思想哲学にこれに匹敵しうる健全性があるかい?
後正しい間違っているにかかわらず、事実として、確実に人に受け継がれるものは何か?
現在の易や禅、空思想などを見ると分かるが、それは思想なんかではない。
しかし何千年も前に生み出された文字や農耕、鉄器などは、誰も必死になって伝承なんかしなくとも自然と伝わる。
つまり後世に確実に受け継がれるのはイノベーション。これは最早法則や原理的な事。
それと同じくらい科学的手法(科学思想)はインパクトが有ることだと思うな。

儒学や禅の教えを尊んだ日本や中国の政権が数百年規模の泰平や繁栄を謳歌していた一方、
科学文明を至上とする今の世界がひっきりなしの戦争を繰り返していることには変わりない。
科学理論が検証の結果、正しいことが証明されて核爆弾の威力が強化されるよりは、
迷信にも近いような教えに即してでも人々が平和や繁栄を享受できることのほうが、よっぽど価値がある。
思想信条自体が非科学的であろうとも、それに即して運営された政権が多大な功績を挙げて
信頼のおける歴史書に記録され、その記録通りの史跡や名残り(子孫の民度の高さなども含む)が
今でも確認されるというのなら、何の実績もない完璧な科学理論などよりもよっぽど信頼が置ける。
現実問題、実践者が着実な実績を挙げている部類の思想信条は、科学並みかそれ以上に実地的な
格物致知を重んじているものばかりなので、カルト的な狂信に走ったりする危険性もまずない。
その手の危険性はむしろ、パラレルワールド級の概念の虚構を弄んでいる過渡的な理論科学のほうが
帯びているものであり、科学が進歩する以上はいつまでもその手の概念夢想も野放しにされたままで
あり続けるものだから、総合的な信頼度の低さも実績ある伝統的教学にすら劣ったままとなる。

現代剣道もGHQの武道禁止令を通じて不合理な運動に
改悪されたものだから、そこに前時代的な気性の荒さを乗せた結果、
肩を亜脱臼状態で固着させた状態で何十年も過ごすこととなってしまった。
それを、古来の武道やヨガに由来する合理的な身体操法で矯正した。
矯正するためにもやはり、現代では気違い扱いされる程の怒気を用いた。
重量挙げで2トンを持ち上げることなどは不可能だが、合理性を尽くした
ある種のストレッチ運動を渾身を込めて行えば、股関節に最大2トンの負荷がかかる。
それにより股関節の柔軟性が向上し、肩を含む全身の関節を柔軟化して行く目処が立った。
(股関節は体の中で最も大きく、強大な筋力のかかる関節であるため)
そういう経験を通じて初めて、精神力の実利的な価値を知る。
今の剣道や柔道や、野球やサッカーでそのような精神力を用いたところで
怪我して選手生命を縮めたりするだけなので、余計に不信感を募らせるだけとなるが。
初動負荷トレーニングを地道に続けて行くような、
現代的な分野でも時にはその価値が知れることのあるものだ。
>儒学や禅の教えを尊んだ日本や中国の政権が数百年規模の泰平や繁栄を謳歌していた一方、
科学文明を至上とする今の世界がひっきりなしの戦争を繰り返していることには変わりない。
すまんが、それもいくらでも反論が出来る。
キリスト教を信仰したローマ帝国だって余裕で数百年規模の安泰を謳歌した。その文明的文化的生活は、現代にも引けを取らないものだった。
(奴隷の議論はあれども)
そして滅びた。結局中国も日本の長期泰平は潰えた。
そもそも日本に仏教や禅が伝わってから、江戸幕府が出来るまでは相当な時間があった。
空海が日本に真言宗を開いてからでも800年近くは経ってる。その間は見事な戦乱の世が続いた。
日本に長期の平安が訪れたのはどう考えても、天下統一されたからであり、それが300年近くも続いたのは島国という特性、
海と言う強力な国境があったからだ。
しかしそれも航海技術の発達とももに外国の影響力が現実的なものになるといとも簡単に江戸幕府は転覆させられた。
無血開城とは言うけれども、それでも内戦が起きて白虎隊など若い命が散っていった。
もし禅の思想が確実に日本人の精神性を高めていたなら、外圧などに負けずに、江戸幕府を貫いたはずである。
科学文明を至上とする今の世界がひっきりなしの戦争を繰り返していることには変わりない。
すまんが、それもいくらでも反論が出来る。
キリスト教を信仰したローマ帝国だって余裕で数百年規模の安泰を謳歌した。その文明的文化的生活は、現代にも引けを取らないものだった。
(奴隷の議論はあれども)
そして滅びた。結局中国も日本の長期泰平は潰えた。
そもそも日本に仏教や禅が伝わってから、江戸幕府が出来るまでは相当な時間があった。
空海が日本に真言宗を開いてからでも800年近くは経ってる。その間は見事な戦乱の世が続いた。
日本に長期の平安が訪れたのはどう考えても、天下統一されたからであり、それが300年近くも続いたのは島国という特性、
海と言う強力な国境があったからだ。
しかしそれも航海技術の発達とももに外国の影響力が現実的なものになるといとも簡単に江戸幕府は転覆させられた。
無血開城とは言うけれども、それでも内戦が起きて白虎隊など若い命が散っていった。
もし禅の思想が確実に日本人の精神性を高めていたなら、外圧などに負けずに、江戸幕府を貫いたはずである。
>その手の危険性はむしろ、パラレルワールド級の概念の虚構を弄んでいる過渡的な理論科学のほうが
確かにそれは科学推測ではあるが、結論ではない。そもそもその辺のことは検証や実証のしようがないので、寧ろ哲学的な範疇の話。
まず現代までの科学は、人間そのものを対象に改良に導こうとする、そんな事が出来るような代物ではなかった。
つまり人間は人間のままで、ツール、道具のみが進歩する割合が高かった。そんな言わば自然児、野生の人間が便利な道具に出逢えば
間違った方向、使い方をするのは必然のことで、科学の悪行と言うよりは、人間の性と道具のミスマッチとも言える。
しかし、最近になって漸く科学が人間自身、社会システム、貧富の差や、悪行、犯罪、嫉妬、イジメ…などを対象にし始めた。
その背後には、計測機器の進歩、ビッグデータ、マシンパワーの向上、多変量解析、それに人々の科学的意識変化等がある。
現に戦争や紛争の数は減っているし、貧困も減っている。IQは向上し続けている。 (IQと貧困、戦争は逆相関にあるらしい。)
確かにそれは科学推測ではあるが、結論ではない。そもそもその辺のことは検証や実証のしようがないので、寧ろ哲学的な範疇の話。
まず現代までの科学は、人間そのものを対象に改良に導こうとする、そんな事が出来るような代物ではなかった。
つまり人間は人間のままで、ツール、道具のみが進歩する割合が高かった。そんな言わば自然児、野生の人間が便利な道具に出逢えば
間違った方向、使い方をするのは必然のことで、科学の悪行と言うよりは、人間の性と道具のミスマッチとも言える。
しかし、最近になって漸く科学が人間自身、社会システム、貧富の差や、悪行、犯罪、嫉妬、イジメ…などを対象にし始めた。
その背後には、計測機器の進歩、ビッグデータ、マシンパワーの向上、多変量解析、それに人々の科学的意識変化等がある。
現に戦争や紛争の数は減っているし、貧困も減っている。IQは向上し続けている。 (IQと貧困、戦争は逆相関にあるらしい。)
実績がないというが、(人類社会が後戻りできないほどにガラリと良い方向へ変化するパラダイムシフトは10年ほど先に楽しみに取っておいて、)
科学的手法ほど、改良や改善、成績アップを短期間に数値で客観的にも実感出来るものはない。
だからこそ科学的手法は嘗ての思想にないほどのスピードで世界に浸透している。(それだけが要因ではないが)
科学の素晴らしい点は、それまで机上の空論だったものを、データと言う客観的指標によって現実的議論を可能にした点だ。
データも評価もなしで、社会を良い方向へ導こうとすることは、まさしく絵に描いた餅。実現するはずもないのだ。
真に実績があるのはイノベーションだが、今後パラダイムシフトが起こるほどのイノベーションの予定が目白押しなんだ。
イノベーションが起きてくれるなら、別に思想だって構わないが、思想では100%無理な話。
今後のイノベーションは科学的手法や科学的思想が主体になって起こる。
科学的手法ほど、改良や改善、成績アップを短期間に数値で客観的にも実感出来るものはない。
だからこそ科学的手法は嘗ての思想にないほどのスピードで世界に浸透している。(それだけが要因ではないが)
科学の素晴らしい点は、それまで机上の空論だったものを、データと言う客観的指標によって現実的議論を可能にした点だ。
データも評価もなしで、社会を良い方向へ導こうとすることは、まさしく絵に描いた餅。実現するはずもないのだ。
真に実績があるのはイノベーションだが、今後パラダイムシフトが起こるほどのイノベーションの予定が目白押しなんだ。
イノベーションが起きてくれるなら、別に思想だって構わないが、思想では100%無理な話。
今後のイノベーションは科学的手法や科学的思想が主体になって起こる。
>何の実績もない完璧な科学理論などより
笠地蔵は主に、物理理論に科学の真髄、真意をみて、それが人間にどのような影響を与えたか考えているが、
物理理論と、俺が言う人間を扱う科学を分けて考えてほしい。
人間を扱う科学は、勿論物理理論に比べれば、客観性や真理、再現性は低いものだが、それでも人間を改良に導くにはかなりの知見を与えてくれる。
そしてそれが今一番、ホットな科学の分野だ。それまで技術的に観察することすら不可能だったものが見えるようになってきたのだから
ホットにならない訳がない。そしてこれからイノベーションが起きるのはそれらの分野から。
科学が生命を扱うのはまさにこれからなんだよ。
笠地蔵は主に、物理理論に科学の真髄、真意をみて、それが人間にどのような影響を与えたか考えているが、
物理理論と、俺が言う人間を扱う科学を分けて考えてほしい。
人間を扱う科学は、勿論物理理論に比べれば、客観性や真理、再現性は低いものだが、それでも人間を改良に導くにはかなりの知見を与えてくれる。
そしてそれが今一番、ホットな科学の分野だ。それまで技術的に観察することすら不可能だったものが見えるようになってきたのだから
ホットにならない訳がない。そしてこれからイノベーションが起きるのはそれらの分野から。
科学が生命を扱うのはまさにこれからなんだよ。
>>73
おまえは、その空海が真言宗を開いていた頃から後の時代こそが、
300年以上に渡って戦争どころか、政府による処刑行為一つ行われなかった、
江戸時代をも上回る空前絶後の“平安の時代”だったことをすっかり見落としている。
日本で戦乱が続いたのはその平安の末期から戦国時代までで、
日本の歴史は平和な時代2:戦乱の時代1程度の配分で紡がれて来ている。
これは、儒教を信奉しても仏教帰依は日本より疎かだった中国が
平和3:戦乱2程度の歴史配分であるのより良好な実績となっている。
最も、古代の文化文明を軒並み破却して原始時代並みの生活に戻り、
異教徒弾圧で残虐非道の限りを尽くし、司教が自らの糞尿を聖遺物として
信者に有難がらせるほどの蒙昧っぷりで、総体としての勢力の停滞によって
イスラム世界の台頭をも助長してしまった、欧米人たち自身も「暗黒の時代」
と呼ぶキリスト教侵略時代のローマを「数百年の泰平を謳歌した、文化文明
も優れた時代」などと豪語するほどにも奇特な歴史観を持つおまえなんかに
いくら史実どおりの論弁を呈したところで、馬耳東風なのかも知れんがな。
おまえは、その空海が真言宗を開いていた頃から後の時代こそが、
300年以上に渡って戦争どころか、政府による処刑行為一つ行われなかった、
江戸時代をも上回る空前絶後の“平安の時代”だったことをすっかり見落としている。
日本で戦乱が続いたのはその平安の末期から戦国時代までで、
日本の歴史は平和な時代2:戦乱の時代1程度の配分で紡がれて来ている。
これは、儒教を信奉しても仏教帰依は日本より疎かだった中国が
平和3:戦乱2程度の歴史配分であるのより良好な実績となっている。
最も、古代の文化文明を軒並み破却して原始時代並みの生活に戻り、
異教徒弾圧で残虐非道の限りを尽くし、司教が自らの糞尿を聖遺物として
信者に有難がらせるほどの蒙昧っぷりで、総体としての勢力の停滞によって
イスラム世界の台頭をも助長してしまった、欧米人たち自身も「暗黒の時代」
と呼ぶキリスト教侵略時代のローマを「数百年の泰平を謳歌した、文化文明
も優れた時代」などと豪語するほどにも奇特な歴史観を持つおまえなんかに
いくら史実どおりの論弁を呈したところで、馬耳東風なのかも知れんがな。

残念ながら、おまえのいう「人間のための科学」こそは、
物理学のような数理的裏付けを必要とする理論科学以上に信用が置けない。
自然法則に限らず、社会や人文の領域まで科学的手法のみに任せようとする試みは
もう100年以上前から試みられて来ている上に、惨憺たる結果を招いている。
ただ社会運営に失敗しただけでなく、伝統的な知見やそれに基づく
人間精神の有機性を否定して廃絶したことが、人々の著しい低脳化を招いた。
今でも中国人やロシア人や、その他旧共産圏の人間には酷くセルフネグレクトな
傾向が見られる。思想哲学も宗教も科学の下に置き切った連中ならではの症状。
「そんな過ちを二度とは犯すまい」というのなら、現代人のITゾンビ化を見よ。
底辺民からハリウッドスター級のセレブまでみんなSNSの奴隷と化し、
ポケモンGOだのハンドスピナーだのピコ太郎だのSalt Baeだのと、
ガキの嬉しがりみたいな一過性のブームに右往左往している始末。
科学を信頼しきって自分たち自身の精神的研鑽を怠るようなら、
それが人類自身の成長の終わる時であってだ。もうこの地球上から人間は消えるか、
映画マトリックスの人間発電所の部品のようにでもなるのが適当というものだろう。
>残念ながら、おまえのいう「人間のための科学」こそは、 物理学のような数理的裏付けを必要とする理論科学以上に信用が置けない。
それは思想哲学宗教を否定する理由と全く同じなんだが。人間の科学以上に全く客観性と再現性と反証可能性が欠如しているので、
数理的裏付けが無いのは物理学>人間科学≫哲学体系 だろ。その批判は全く的を射ていない。
>自然法則に限らず、社会や人文の領域まで科学的手法のみに任せようとする試みは、もう100年以上前から試みられて来ている上に、惨憺たる結果を招いている。
それは具体的にどのよな方法か?社会や人間、生物のあらゆるデータを得る方法が、極々限られていたそんな時代の生命、人間科学を比較として
持ち出されてもなんの意味もない。
それは思想哲学宗教を否定する理由と全く同じなんだが。人間の科学以上に全く客観性と再現性と反証可能性が欠如しているので、
数理的裏付けが無いのは物理学>人間科学≫哲学体系 だろ。その批判は全く的を射ていない。
>自然法則に限らず、社会や人文の領域まで科学的手法のみに任せようとする試みは、もう100年以上前から試みられて来ている上に、惨憺たる結果を招いている。
それは具体的にどのよな方法か?社会や人間、生物のあらゆるデータを得る方法が、極々限られていたそんな時代の生命、人間科学を比較として
持ち出されてもなんの意味もない。
>今でも中国人やロシア人や、その他旧共産圏の人間には酷くセルフネグレクトな
傾向が見られる。思想哲学も宗教も科学の下に置き切った連中ならではの症状。
それは別に共産圏だけでなく、日本でも同じこと。日本人ほど宗教や思想に無関心な人種も少ない。
そして無神教化、科学主義化は今全世界で同時に起こっている事。
>ITソンビやSNSっ
それは生命科学や人間科学の成果として生み出されたものではないので、そんなのもを否定の材料にされても話にならない。
まぁしかし、今の人間が簡単に情報にアクセスして、IQが向上し続け、証拠主義、科学主義を信仰するようになったのは全て、
情報技術、流通技術のおかげだが。
傾向が見られる。思想哲学も宗教も科学の下に置き切った連中ならではの症状。
それは別に共産圏だけでなく、日本でも同じこと。日本人ほど宗教や思想に無関心な人種も少ない。
そして無神教化、科学主義化は今全世界で同時に起こっている事。
>ITソンビやSNSっ
それは生命科学や人間科学の成果として生み出されたものではないので、そんなのもを否定の材料にされても話にならない。
まぁしかし、今の人間が簡単に情報にアクセスして、IQが向上し続け、証拠主義、科学主義を信仰するようになったのは全て、
情報技術、流通技術のおかげだが。
なあ笠地蔵よ。今俺達がしている議論をなんていうか分かるか?
こういうのを不毛な議論っていうんだろ?
お前がどんなに思想哲学宗教の方が科学より上だと説いた所で、俺は平安な世が訪れた背景は思想なんかより、
他のファクターの方が遥かに重要で大きいと確信しているし、それが変化することはおそらく無い。
そして笠地蔵が俺の反論に納得することもおそらく無いだろう。
これがデータ無き議論の不毛さを証明している。(まぁ科学的データを事細かに持ち出して反論できない俺にも要因はあるが。)
つまりこれが思想哲学宗教の限界なんだよ。他人を説得するには、力がなさすぎる。
しかしイノベーションは説得などせずとも、すぐに実感として伝わるし根付く。
それは笠地蔵が情報ツールを駆使して、インフラを駆使して、思想体系を体得したのだからお前も分かっているはずだ。
こういうのを不毛な議論っていうんだろ?
お前がどんなに思想哲学宗教の方が科学より上だと説いた所で、俺は平安な世が訪れた背景は思想なんかより、
他のファクターの方が遥かに重要で大きいと確信しているし、それが変化することはおそらく無い。
そして笠地蔵が俺の反論に納得することもおそらく無いだろう。
これがデータ無き議論の不毛さを証明している。(まぁ科学的データを事細かに持ち出して反論できない俺にも要因はあるが。)
つまりこれが思想哲学宗教の限界なんだよ。他人を説得するには、力がなさすぎる。
しかしイノベーションは説得などせずとも、すぐに実感として伝わるし根付く。
それは笠地蔵が情報ツールを駆使して、インフラを駆使して、思想体系を体得したのだからお前も分かっているはずだ。
>>79
物理学>人間科学≫哲学体系ではなく、
実績のある思想哲学宗教>実績なき理論科学>実績なき人間科学だ。
その実績を自己主観で否定しているのが迷惑すぎなのだから、
上のような主張からしておまえにとっては無効なのだろう。
>>80でも、相変わらず主観的な主張による俺への論難のみ。
>>82
確かに、このような論議は不毛だ。
ただそれは思想哲学が不毛だからではなく、おまえが個人的に不毛な人間だからだ。
おまえのように、歴史資料やそれに基づく物的証拠が実在する論弁に対しても
「俺はそうは思わない」という主観的主張の一点張りで通すことが許されるのなら、
科学的に厳密なデータの前で「俺はそうは思わない」と言い張ることもまた可能だ。
1+1は3にでも4にでもなり、羽毛は鉛よりも重く、
生まれて間もなく死んだ赤ん坊は120歳まで生きた老人よりも長生きだ。
ただ単に主観的な主張を言い張るだけなら、それでもありだ。
俺が学問的な知見を身に付けたのも、読書や実地見聞や実践修行が最たる拠り所であり、
情報ツールなどはあってもなくても別に変わらなかった程度のものでしかない。
これはおまえや上で書いたほどにも主観一点張りの物言いではないがな。
物理学>人間科学≫哲学体系ではなく、
実績のある思想哲学宗教>実績なき理論科学>実績なき人間科学だ。
その実績を自己主観で否定しているのが迷惑すぎなのだから、
上のような主張からしておまえにとっては無効なのだろう。
>>80でも、相変わらず主観的な主張による俺への論難のみ。
>>82
確かに、このような論議は不毛だ。
ただそれは思想哲学が不毛だからではなく、おまえが個人的に不毛な人間だからだ。
おまえのように、歴史資料やそれに基づく物的証拠が実在する論弁に対しても
「俺はそうは思わない」という主観的主張の一点張りで通すことが許されるのなら、
科学的に厳密なデータの前で「俺はそうは思わない」と言い張ることもまた可能だ。
1+1は3にでも4にでもなり、羽毛は鉛よりも重く、
生まれて間もなく死んだ赤ん坊は120歳まで生きた老人よりも長生きだ。
ただ単に主観的な主張を言い張るだけなら、それでもありだ。
俺が学問的な知見を身に付けたのも、読書や実地見聞や実践修行が最たる拠り所であり、
情報ツールなどはあってもなくても別に変わらなかった程度のものでしかない。
これはおまえや上で書いたほどにも主観一点張りの物言いではないがな。
>おまえのように、歴史資料やそれに基づく物的証拠が実在する論弁に対しても
「俺はそうは思わない」という主観的主張の一点張りで通すことが許されるのなら、
科学的に厳密なデータの前で「俺はそうは思わない」と言い張ることもまた可能だ。
笠地蔵こそ主観だろ。
そもそもパラレルワールドや、宇宙が存在できないや、原爆、SNSを全て同列に科学として決めつけているのだから話にならない。
哲学体系こそは>>1のように分類して、悪しき哲学は排除すべしなんてことを言っているが、科学や現代については全く分類できない盲目である。
歴史が証明しているのは思想哲学の無力さである。
それは現代において宗教がいとも簡単に科学思想と便利なツールの前に敗北しているのだから火を見るより明らか。
この現状を認識せずに、笠地蔵が提案する解決策とは
・悪しき信仰を排除する
・分からない人間には方便を用いてでも導く
などという。これを見て低俗な方法だとは思わないのか?悪しき信仰を排除する。なんてのは人間の悪を排除すると言っているのと同じである。
悪人を排除したからと言って、悪は自然発生する。悪しき信仰を排除したからと行って平安など訪れない。
もし思想哲学が人間性を改変できるほどに優秀なツールであったなら、高々数百年の安泰で潰えるはずもないだろう。
そして笠地蔵が断罪されるべきと言う科学や便利なツールに敗北する訳もなかろう。なぜこの現実が見えないのか?
「俺はそうは思わない」という主観的主張の一点張りで通すことが許されるのなら、
科学的に厳密なデータの前で「俺はそうは思わない」と言い張ることもまた可能だ。
笠地蔵こそ主観だろ。
そもそもパラレルワールドや、宇宙が存在できないや、原爆、SNSを全て同列に科学として決めつけているのだから話にならない。
哲学体系こそは>>1のように分類して、悪しき哲学は排除すべしなんてことを言っているが、科学や現代については全く分類できない盲目である。
歴史が証明しているのは思想哲学の無力さである。
それは現代において宗教がいとも簡単に科学思想と便利なツールの前に敗北しているのだから火を見るより明らか。
この現状を認識せずに、笠地蔵が提案する解決策とは
・悪しき信仰を排除する
・分からない人間には方便を用いてでも導く
などという。これを見て低俗な方法だとは思わないのか?悪しき信仰を排除する。なんてのは人間の悪を排除すると言っているのと同じである。
悪人を排除したからと言って、悪は自然発生する。悪しき信仰を排除したからと行って平安など訪れない。
もし思想哲学が人間性を改変できるほどに優秀なツールであったなら、高々数百年の安泰で潰えるはずもないだろう。
そして笠地蔵が断罪されるべきと言う科学や便利なツールに敗北する訳もなかろう。なぜこの現実が見えないのか?
・悪しき信仰を排除する
・分からない人間には方便を用いてでも導く
こんなものが本当に解決策だと思うのか?これが易や禅から得た解答か? これが素晴らしき思想の力か?
何千年も前に完成された思想が、その何千年間に人の精神性を高めた結果が現代だ。
まぁこの議論を見てどちらが客観的か、もしくは説得力があるかを判断するのは、俺ら当事者ではなく他の人間だが。
俺と笠地蔵以外にこんな議論誰も見てないだろう。
・分からない人間には方便を用いてでも導く
こんなものが本当に解決策だと思うのか?これが易や禅から得た解答か? これが素晴らしき思想の力か?
何千年も前に完成された思想が、その何千年間に人の精神性を高めた結果が現代だ。
まぁこの議論を見てどちらが客観的か、もしくは説得力があるかを判断するのは、俺ら当事者ではなく他の人間だが。
俺と笠地蔵以外にこんな議論誰も見てないだろう。
>迷信にも近いような教えに即してでも人々が平和や繁栄を享受できることのほうが、よっぽど価値がある。
まぁいいや。俺がどんなに吠えた所で科学主義やイノベーションの速度は変わらないし。
笠地蔵がどんなに、上記のような方法を説いた所でまさに馬耳東風。誰の耳にも響かないし誰の行動も変わらない。
ましてこんな過疎掲示板で。流石にめんどくさくなった。
所で笠地蔵の信念というか狂気じみた気質は相当なものだが、実際に誰かを導いたことはあるのかい?
説得とか試みたことある? で説得が成功したことはある?
まぁいいや。俺がどんなに吠えた所で科学主義やイノベーションの速度は変わらないし。
笠地蔵がどんなに、上記のような方法を説いた所でまさに馬耳東風。誰の耳にも響かないし誰の行動も変わらない。
ましてこんな過疎掲示板で。流石にめんどくさくなった。
所で笠地蔵の信念というか狂気じみた気質は相当なものだが、実際に誰かを導いたことはあるのかい?
説得とか試みたことある? で説得が成功したことはある?
>>84
>歴史が証明しているのは思想哲学の無力さである。
ここからすでに事実誤認なので、検証も介さずにこの手の話をこれ以上言い合うのは無益だ。
史料や史跡に対する科学的検証も可能だが、おまえはそんなことにも興味なく、
ただ「俺はそう思う」「俺はそう思わない」の主観論をしてたいだけのようだしな。
・悪しき信仰を排除する
・分からない人間には方便を用いてでも導く
これこそを科学的検証の下で執り行うと言っている。
科学主義で全ての思想哲学宗教を排除してやろうとしている
おまえよりもよっぽど穏健で、理性的で、建設的な方針の提示をしている。
キリスト教を廃絶して儒学や仏教を振興した江戸時代が、
同時代の別世界と比べれば段違いな程の泰平や繁栄を実現したような実績もある。
確かに「高々数百年の安泰」だが、人が10世代以上にわたって平安を謳歌できる
のだから、現代の個人主義に即してこそ十二分に分にも程があるような長さだし、
その数百年の安泰すらをも実現できた実績がないのが科学主義でもある。
>歴史が証明しているのは思想哲学の無力さである。
ここからすでに事実誤認なので、検証も介さずにこの手の話をこれ以上言い合うのは無益だ。
史料や史跡に対する科学的検証も可能だが、おまえはそんなことにも興味なく、
ただ「俺はそう思う」「俺はそう思わない」の主観論をしてたいだけのようだしな。
・悪しき信仰を排除する
・分からない人間には方便を用いてでも導く
これこそを科学的検証の下で執り行うと言っている。
科学主義で全ての思想哲学宗教を排除してやろうとしている
おまえよりもよっぽど穏健で、理性的で、建設的な方針の提示をしている。
キリスト教を廃絶して儒学や仏教を振興した江戸時代が、
同時代の別世界と比べれば段違いな程の泰平や繁栄を実現したような実績もある。
確かに「高々数百年の安泰」だが、人が10世代以上にわたって平安を謳歌できる
のだから、現代の個人主義に即してこそ十二分に分にも程があるような長さだし、
その数百年の安泰すらをも実現できた実績がないのが科学主義でもある。

俺自身が、現代医学でも治療が不能な重度の病気を
古典ヨガや古武道の技法によって治癒させる経験や、
現代のスポーツ科学では不可能とされるほどの劇的な
身体能力の向上などを果たして来た。
その、古典ヨガを初めて日本に輸入した中村天風氏も、
当時の医療では治療が不可能とされていた結核や、
手術をしなければ治らないとされた咽頭ガンを自力で治した。
結核はすでに現代医療でも治癒できる病だが、
治したところで本人が虚弱体質であることには変わりなく、
中村天風氏のように、アメリカの格闘家や警察官をやすやすと
投げ飛ばしてた合気道家(藤平光一)の師匠になれたりすることもない。
稀勢の里も、半可通な天風会系ヨガの修得だけで、
久々の日本人横綱になる程度の業績は挙げた。
科学至上主義のせいでの軟弱化の著しい現代の日本人にしては
よくやった方である。もっとも、あれでもまだまだではあるが。

「科学的手法の存在しない古代に書かれた信用のおけない書物である」
と近代の歴史学界で断定されて、打ち棄てられかけたことがあった。
しかし、その科学的手法に基づく発掘調査などで、
史記に書かれている通りの遺跡がいくらでも発見される。
挙句には近代の学界で実在しない架空の王朝とみなされていた
殷や夏の遺跡までもが、司馬遷の記録の通りのものとして見つかる。
科学なんぞに依ろうとも依らずとも、
嘘偽りを省いた誠実な記録や言行を心がければ、
それが何千年の後まで普遍的な信用のおける知的財産であり続ける。
逆に、科学的検証を介さないのでなければ何もかも信用ゼロと
見なすのならば、そのせいで嘘偽りを好む欧米人並みの不誠実さが、
そんなものを非科学的な領域でも許さなかった人々にまで広まるのみ。
そのような不誠実さに慣れてしまった人間こそは、
AIによって「この地球上に必要のない人種」と断定されるだろうし、
実際そう断じられたとしても仕方のない存在であるといえる。

(「三国志」などには買収を介した不誠実な記録も見られる)
「孝文帝の代には落し物を着服する人間も絶えて無くなった」などとある。
そしてそのような正史書の記録の良い部分を忠実に実践した
唐代の中国でも同様な現象が発生し、GDP換算で全世界の7割以上に
達した漢代をさらに上回るほどの経済的隆盛をも果たした。
さらにそのような唐代の為政をも「貞観政要」などの記録を頼りに
見習ったのが徳川幕府であり、諫争を重んずる当該書の記述をも参考にして
目付や大目付といった監察官を厚遇し、政治機構の内部腐敗を防いだ。
もちろん史記や漢書や四書五経のようなより古い時代の記録も重用して、
土木事業に奔走した禹王伝説などを拠り所に、今でも底辺職扱い
されている土工を武家の正式な役職(土方)にまで押し上げ、
治水灌漑や上水道の整備などを繰り返し、国土全体の生産力を上げ、
江戸を世界一の衛生都市にも仕立て上げた。
もちろん儒学そのものも全国で奨励していたために、
江戸市民の識字率もダントツで世界トップとなった。
そして、落し物一つ着服しない民度の高さも今に至るまで実現され続けている。
古代から脈々と受け継がれ続けている儒学の実践による成功の系譜。
そういった人為的な治世の実現こそは、AIが政治を担うような時代に
なろうとも人間の仕事として存続するに値するものであり、そのような
事業に携われる者こそはこれからの時代にも生きて行く価値がある人間である。
科学の監視下でもなければ不誠実の限りを尽くして、究極に不都合なら
(温暖化を否定するトランプのように)科学的検証すら非としてしまう
ような人種こそは、もうこれ以上はこの世にいらない人種である。
時代が進んで科学文明が発達しようとも、
非科学的だろうが誠実を尽くそうとする儒学的思想こそは有益であり続け、
科学的だろうが不誠実であろうとするキリスト教的姿勢が有害であり続ける。
機械に科学を任せる度合いが高まるほどに、両者の雌雄もより開けていく。
そういった人為的な治世の実現こそは、AIが政治を担うような時代に
なろうとも人間の仕事として存続するに値するものであり、そのような
事業に携われる者こそはこれからの時代にも生きて行く価値がある人間である。
科学の監視下でもなければ不誠実の限りを尽くして、究極に不都合なら
(温暖化を否定するトランプのように)科学的検証すら非としてしまう
ような人種こそは、もうこれ以上はこの世にいらない人種である。
時代が進んで科学文明が発達しようとも、
非科学的だろうが誠実を尽くそうとする儒学的思想こそは有益であり続け、
科学的だろうが不誠実であろうとするキリスト教的姿勢が有害であり続ける。
機械に科学を任せる度合いが高まるほどに、両者の雌雄もより開けていく。
なんか勘違いしてるけど俺は、科学主義で全ての思想哲学宗教を排除しろとか排除するとかそんな考えは持ってないから。
なぜならそんな事は不可能だから。それに科学主義で見ても正しさが見直された、理にかなっている禅やヨガがあるから。
ただし人を導く、誘導する手法、または影響力として科学よりも劣っていると言っているだけ。
>・悪しき信仰を排除する
>・分からない人間には方便を用いてでも導く
>これこそを科学的検証の下で執り行うと言っている。
なるほど。それを科学的検証の下でやるのね。そこは見落としていたな。すまんかった。
>AIによって「この地球上に必要のない人種」と断定されるだろうし、
実際そう断じられたとしても仕方のない存在であるといえる。
笠地蔵も最後にはよくファンタジー要素をもちだすが、その頃には人間の概念が変化してることだろうw
所で笠地蔵の研究、もしくは触れたことのある学問にはどれくらいのものがあるの?
脳科学、心理学、社会心理学、進化生物学、認知科学、行動経済学とか人類史もどの辺のことまで守備範囲なんだ?
エジプト文明などには興味があるのだろうか?
なぜならそんな事は不可能だから。それに科学主義で見ても正しさが見直された、理にかなっている禅やヨガがあるから。
ただし人を導く、誘導する手法、または影響力として科学よりも劣っていると言っているだけ。
>・悪しき信仰を排除する
>・分からない人間には方便を用いてでも導く
>これこそを科学的検証の下で執り行うと言っている。
なるほど。それを科学的検証の下でやるのね。そこは見落としていたな。すまんかった。
>AIによって「この地球上に必要のない人種」と断定されるだろうし、
実際そう断じられたとしても仕方のない存在であるといえる。
笠地蔵も最後にはよくファンタジー要素をもちだすが、その頃には人間の概念が変化してることだろうw
所で笠地蔵の研究、もしくは触れたことのある学問にはどれくらいのものがあるの?
脳科学、心理学、社会心理学、進化生物学、認知科学、行動経済学とか人類史もどの辺のことまで守備範囲なんだ?
エジプト文明などには興味があるのだろうか?
科学のほうが古来の思想哲学や宗教よりも魅力だからといって、
あくまで表向きは科学的手法を主体としているかのようにとりつくろったり、
あるいは、あくまで科学的手法だけに頼ろうとしたりするのであっても、
理知によって数百年やそれ以上の平和や繁栄を実現しようとする以上は、
儒学や正統仏教の実践に近似せざるを得ないことだろう。
何しろ、自然科学の理論的究明こそが、易や密教などの自然解釈に近似しているのだから。
それなら始めから、物理的に妥当な自然解釈に基づいている伝統的な思想哲学宗教も
参考の対象にしておくほうがより賢明となる。それらが人文偏重の傾向があるが故に
狂信的な妄動を部分的にでも来すようなら、それは理学的な弾劾の対象ともすればいいし。
あくまで表向きは科学的手法を主体としているかのようにとりつくろったり、
あるいは、あくまで科学的手法だけに頼ろうとしたりするのであっても、
理知によって数百年やそれ以上の平和や繁栄を実現しようとする以上は、
儒学や正統仏教の実践に近似せざるを得ないことだろう。
何しろ、自然科学の理論的究明こそが、易や密教などの自然解釈に近似しているのだから。
それなら始めから、物理的に妥当な自然解釈に基づいている伝統的な思想哲学宗教も
参考の対象にしておくほうがより賢明となる。それらが人文偏重の傾向があるが故に
狂信的な妄動を部分的にでも来すようなら、それは理学的な弾劾の対象ともすればいいし。

儒学や物理学や、一般的な思想哲学や文学などの限られた分野だけだが、
興味の対象に全くならないような学問分野はほとんどない。
化学や生物学や工学などもそれほど詳しくはないが、興味はある。
いざかじり読む程度に事典などを調べてみれば、根本的な還元の対象となる
数理物理の所を知識的に押さえているから、大体のことは即座に理解できる。
人文方面は、正直大して研究する価値もないような分野も多いと思うが、
それも西洋的価値観の支配下で展開されているからそうなってしまっているだけで、
儒学や仏学のような東洋の叡智による抜本的な叩き直しを講ずれば、
社会的意義のある実学としての血が通う可能性があるものと見込んでいる。
宗教って結局のところ「途絶えることなく信じられる存在」だよな。 親のようなもの。
儒教などの学問も心を満たせる対象で、とどのつまり退屈をいやせるオモチャと何ら変わらない。
さも価値のある様に振舞っているが、悟りを開いているものからすれば児戯に等しい。
結局は己の内にある神に帰結する。死と隣り合わせの厳しい修行に耐えて悟りを開いたものだけが楽しめる至上の境地。
儒教などの学問も心を満たせる対象で、とどのつまり退屈をいやせるオモチャと何ら変わらない。
さも価値のある様に振舞っているが、悟りを開いているものからすれば児戯に等しい。
結局は己の内にある神に帰結する。死と隣り合わせの厳しい修行に耐えて悟りを開いたものだけが楽しめる至上の境地。
笠地蔵がまだ生息していた。^^

一切平等という悟りから離れてしまった
善悪の観念を壊すために、徹底的に「悪」を行って悟りを開け
悟りのために″五甘露(人糞、人尿、精液、経血、人肉)を食せ
本能としての善悪の破壊こそ、次なるステージだ
それが母タントラ経典へと続き、無限の創造を可能にし、神を超える
完全なる気違いです
というか、教祖、幹部連中が少女とセックスするための方便だ
徹底して悪を実践するような連中だらけになったら社会が成り立たないではないか
こんな地域が近くにあったら弾圧するのは正しい
もし、その宗教を弾圧することが悪であれは、悪を行えと教える宗教は弾圧を受け入れないと理屈に合わない
よって、中国のチベット弾圧は理にかなっている

正統な密教に>>100みたいな教義は一切ないし、
むしろ普遍的な善悪を悟るために汚濁を血清的に服用するものだが、
(乱交を尽くした後に出家して大智度論のような倫理学書を遺した龍樹菩薩のように)
都合のいい曲解を凝らしたなら、件のようなカルト教義を捏造することもできる。
そうではなく、どんなに正統であってもカルト止まりであるもの。
教派の中で最も正統とされる部類であっても物理的な不能さや倫理的な邪悪さを帯びた
純度100%のカルトというものがまた別にあって、そちらこそがカルトの元凶でもある。
キリスト教が解禁された明治以降や、信教の自由が憲法に明記された戦後の日本でこそ
カルト系の新興宗教もまた乱立したように、まず正統ぶっている真性のカルトを駆逐する
のでなければ、金魚のフン止まりな真正正統系のカルトにまで摘発の手が及ぶことはない。
▲ページ最上部
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スレッドタイトル:物理的に不能、倫理的に邪悪な宗教