物理的に不能、倫理的に邪悪な宗教
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この世に存在する宗教を、特に現代的価値観に基づく
要点に絞って考えてみれば、主に以下の四つに分類される。
甲類:物理的に妥当、倫理的に優良
乙類:物理的に妥当、倫理的に凡庸
丙類:物理的に不能、倫理的に無難
丁類:物理的に不能、倫理的に邪悪
上記の四種の宗教の効用は、以下の通り。
甲類:実践者の心身を壮健ならしめ、世の中を長期の平和や繁栄に導く。
乙類:信者や実践者の精神衛生を保ち、世の中をある程度は繁栄させる。
丙類:信者の健康を最低限は保ち、世の中も最低限の安定には導く。
丁類:信者に心や体の病を患わせ、世の中を戦乱や破滅へと陥れる。
具体例は以下の通り。
甲類:密教、禅仏教
乙類:儒教、道教、ヒンズー教
丙類:浄土教、イスラム教
丁類:キ○○ト教、ユ○教、その他カルトと位置付けるべき宗教
ーー全ての宗教が物理的に不能だったり倫理的に邪悪だったりするのではなく、
一部の宗教、上記の丙類に相当する宗教が「信教の自由」の名の下に
市民権を得ていることこそが、宗教全体の価値を下げる原因になっている。

要点に絞って考えてみれば、主に以下の四つに分類される。
甲類:物理的に妥当、倫理的に優良
乙類:物理的に妥当、倫理的に凡庸
丙類:物理的に不能、倫理的に無難
丁類:物理的に不能、倫理的に邪悪
上記の四種の宗教の効用は、以下の通り。
甲類:実践者の心身を壮健ならしめ、世の中を長期の平和や繁栄に導く。
乙類:信者や実践者の精神衛生を保ち、世の中をある程度は繁栄させる。
丙類:信者の健康を最低限は保ち、世の中も最低限の安定には導く。
丁類:信者に心や体の病を患わせ、世の中を戦乱や破滅へと陥れる。
具体例は以下の通り。
甲類:密教、禅仏教
乙類:儒教、道教、ヒンズー教
丙類:浄土教、イスラム教
丁類:キ○○ト教、ユ○教、その他カルトと位置付けるべき宗教
ーー全ての宗教が物理的に不能だったり倫理的に邪悪だったりするのではなく、
一部の宗教、上記の丙類に相当する宗教が「信教の自由」の名の下に
市民権を得ていることこそが、宗教全体の価値を下げる原因になっている。

主観で書いてるよね

教義が妥当であるか、不能であるかということである。
世界や宇宙がフラクタル構造であることを曼荼羅によって図示したり、
流祖が著書(正法眼蔵・有時)で時空の不可分性を説いたりしている
ような宗教は、現代物理の観点から見ても極めて妥当なものである。
宗教の物理的妥当性の一番の分岐点になっているのが、来世信仰の有無である。
今生の成道を諦めて、死後の世界での救済だの昇天だのを願う。
科学が発展すればするほど、その手の宗教こそは
物理的に不能であることが確実化して行っている。
科学的観点から見て妥当だからといって倫理的に優良であるとも限らないし、
不能だからといって絶対的に害悪であるとまでも言えないが、
最高級に倫理的に優良である宗教が科学的にも秀逸であったり、
害悪まみれの宗教が致命的な不能性を宿しているといった程度の法則はある。

物理的な妥当性の有無は、例えば>5のような判断基準に沿うている。
倫理的な邪悪さの根拠もまた、個々の宗教の歴史的な営業成績に基づいている。
有史以来、>1丁類のキ○○ト教やユ○ヤ教を信仰して来た西洋諸国だけは、
まともに自給自足の国家社会を維持運営できた試しがない。
古くは十字軍遠征の名を借りた中東への侵略から、大航海時代における
植民地の拡大支配、今でも米軍やNATOによるイチャモンつけ侵攻と、
外界侵略による利益の収奪なくしては成り立たない社会であり続けて来た。
個々の人間を見てもやはり、発達障害や統合失調症に類推されるような症状の
持ち主が多い。世のため人のため自分のため、どの目的性をもって見ても、
丁類の宗教が信者や世の中に害以上の益をもたらしたような事実はない。

キリスト教が(実質)解禁された明治以降のことである。
いくら豪商が儲けに走ろうとも、支配者の武家は禅仏教による清貧主義。
極端な無礼への切り捨て御免も自らの切腹を覚悟の上で辞さないといった
時代に、金儲けこそが至上の命題などであり得たはずもないのである。
別に明治以降に爆発的にキリスト教徒が増大したわけでもないが、
ただキリスト教が解禁されたというだけで、そうでなくなった。
同時に仏教も廃仏毀釈で形骸化されて、人々の精神性を司る主幹では
あり得なくなった。その挙句の妥協として、万民の儲け主義にも同調している。
金儲けを卑しむ自尊心を根絶やしにした程度には、この日本における
キリスト教の影響力も目を見張るものがある。もちろん害悪の甚大さとして。
[YouTubeで再生]
>>8がこの発言のために思い浮かべた宗教こそは、
「死後の救済のための布施を説く宗教」
という、物理的にも不能な上に、倫理的にも不正な宗教である。
そんな宗教は流派の数でも少数派なほうだし、
今の世界における信者数でも決して多数派ではない。
そういう流派の中での熱心な信者もまたごく一部に限られている。
確かに、そんな宗教は切り捨ててしまえばいい。
しかし、それは全く宗教文化を廃絶することを意味しない。
物理的にも倫理的にも不正なものを信じる所に宗教の本質を
集約させようとしたりするのは暴挙な上に、愚かなことである。
そのせいでまた、不正な宗教が真っ当な宗教を盾にして生き延びてしまう。

「死後の救済のための布施を説く宗教」
という、物理的にも不能な上に、倫理的にも不正な宗教である。
そんな宗教は流派の数でも少数派なほうだし、
今の世界における信者数でも決して多数派ではない。
そういう流派の中での熱心な信者もまたごく一部に限られている。
確かに、そんな宗教は切り捨ててしまえばいい。
しかし、それは全く宗教文化を廃絶することを意味しない。
物理的にも倫理的にも不正なものを信じる所に宗教の本質を
集約させようとしたりするのは暴挙な上に、愚かなことである。
そのせいでまた、不正な宗教が真っ当な宗教を盾にして生き延びてしまう。
そこで排除の論理は不当だとマスコミが騒ぎ出す
キリスト教が人間は罪深い生き物だと説くのはそういう事かもしれない。
つまりキリスト教に入る人間なんて罪深い人間なんだよ。そして事実、罪のある行動ばかりをとる。
科学が発展して尚、よりその神秘さを増す仏教。科学とは相容れないので、科学をこき下ろすキリスト教。
つまりキリスト教に入る人間なんて罪深い人間なんだよ。そして事実、罪のある行動ばかりをとる。
科学が発展して尚、よりその神秘さを増す仏教。科学とは相容れないので、科学をこき下ろすキリスト教。

ニワトリが先か卵が先か、
罪人がキリスト教徒となるのか、キリスト教徒になったから罪人となるのか。
キリスト教が生じる以前から、西洋人はアレクサンドロスの東征で中東の
権益を侵したり、ローマ帝国時代に外界に食糧生産を丸投げしたりしていた。
キリスト教徒なんかになる以前から、西洋人はサイコパス気質だったようではある。
しかし、似たような残虐さでかつては世界中を暴力による支配下においたモンゴル人が
今では敬虔な仏教徒として、さほど迷惑もかからない勢力に落ち着いてたりもする。
キリスト教は、西洋人のサイコパス気質に、火に油を注いでいる。
中東のイスラエルで生まれたとされているキリスト教もローマ帝国の権力に
乗っかって勢力を広げ、ユダヤ教徒も西洋の商業利権として猛威を振るっているように、
西洋人こそが好んでその手の宗教に飛びつき、自分たちの病状をより悪化させた。
中にはメナンドロス1世のように、仏教にまで傾倒した西洋人もいたが、
それも一時的で少数なものでしかあり得ず、マニ教を通じて仏教教義の都合のいい部分を
パクるような真似を冒してまで、総出ではキリスト教のほうに帰依していようとした。
病人悪食を好み、悪食によってさらなる病状の悪化に勤める。
味覚神経を退化させる程の悪循環の積み重ねの前には、美食による感化も空しい。
日本の仏教で信じられている処に拠れば、死後、人間は三途の川を渡り、7日ごとに閻魔をはじめとする十王の
7回の裁きを受け、最終的に最も罪の重いものは地獄に落とされる。地獄にはその罪の重さによって服役すべき
場所が決まっており、焦熱地獄、極寒地獄、賽の河原、阿鼻地獄、叫喚地獄などがあるという。そして服役期間
を終えたものは輪廻転生によって、再びこの世界に生まれ変わるとされる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%8D%84_(%E4%B...
六道も三途の川も輪廻転生も物理学の範疇ではない。
7回の裁きを受け、最終的に最も罪の重いものは地獄に落とされる。地獄にはその罪の重さによって服役すべき
場所が決まっており、焦熱地獄、極寒地獄、賽の河原、阿鼻地獄、叫喚地獄などがあるという。そして服役期間
を終えたものは輪廻転生によって、再びこの世界に生まれ変わるとされる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%8D%84_(%E4%B...
六道も三途の川も輪廻転生も物理学の範疇ではない。

そういうものを論題とするのは仏教の中でも浄土教の類いであり、
>1でも「物理的に不能」な丙類の宗教のうちに分類している。
Q.別に、物理的に不能であっても、
道徳的に優れた教えがあるのなら構わないじゃないか?と。
A.不体失往生や悪人正機を旨とする浄土信仰はその条件を満たしている。
Q.別に、物理的に不能であっても、
自給自足の世の中を穏便に司れる効果があるのならいいじゃないか?と。
A.過激派でない普通のイスラム教はその条件を満たしている。
上の、いずれの条件も満たしていないのがキリスト教やユダヤ教であり、
故に「丙類以下の丁類」としての問題扱いを要点とすべきなのである。

地動説や進化論への反目に至るまで、キリスト教こそは
物理法則を真っ向から非とする、反科学主義の宗教の極端例で
あり続けて来ていることは、周知の事実である。
とはいえ、2000年近くにも渡って多くの人々の精神性を司って来た
世界宗教の代表格でもあるわけだから、それなりにありがたいものなのだろう、と。
物理的に不能であっても、倫理的には有意義な側面も帯びているのだろうと
見なしているから、宇宙飛行士すらもが法王に対して礼節的な態度を取る。
道徳倫理が専門ではないにしても、宇宙飛行士は知的エリートである。
各国のトップ級の頭脳の持ち主であるのに、そんな思い込みのままでいる。
それほどにも、現代人の宗教の内実への認知は疎かなものである。
>>8も最も拙劣な部類の宗教を全ての宗教の代表格であるかのように
論じているように、そもそも現代人のほとんどは宗教に対して無知である上に、
表面的な知識だけでの知ったかを決め込んでまでいる。そんな状態の人間が
いくら宗教への批判を重ねたところで、効果的なものではあり得ないのである。

一応はキリスト教を道徳的な教えだと認めているから、
悪魔みたいな装束で聖書を焼き捨てるマネをしている。
シェイクスピアも「悪魔でも聖書を引用できる」と。
むしろ聖書こそが人倫を損なう悪徳の書であるというのに。
物理的にあり得ないことよりも、倫理的に許されない
ことのほうが重大であり、キリスト教の場合は
科学的な検証によってそれが確証されただけのことである。
ベルクソンも道徳と宗教を二極化して論じたように、
聖書の教えがただの人間道徳とは別物であることぐらいは
西洋人も察知して来ているが、それも聖書の教えを
「人間道徳ごときを超越して余りある神の教え」と
見込んでのことであった。実際はそんなでもない、
バビロンの詐欺犯や妾腹の私生児の誇大妄想でしかなかった
ことが明らかとなって、西洋流の二極化擁護も潰えたのだった。
「"公(きみ)は是、何れの州(くに)、何れの県(こほり)、誰が資ぞ"仮名、大きに笑って曰く、"三界は家無し。
六趣は不定なり。或るときは天堂を国と為し、或るときは地獄を家と為す。或いは汝の妻孥(せいど)たり、或いは
汝の父母たり"」
(弘法大師 空海『三教指帰』)
【現代語訳 "あなたはどの州、どの県の人で、誰の子で、誰の弟子ですか?"と。それを聞いて仮名乞児は大笑いし
ていう、"迷いの三界(欲界・色界・無色界)に一定の家はない。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道の中で固
定した所にいない。六道に輪廻する者はある時には天を国とし、またある時は地獄を家として住むこともある。或い
はあなたの妻子となり、またあなたの父母ともなる】
http://www.mishimaga.com/tonari-bousan/006.htm...
六趣は不定なり。或るときは天堂を国と為し、或るときは地獄を家と為す。或いは汝の妻孥(せいど)たり、或いは
汝の父母たり"」
(弘法大師 空海『三教指帰』)
【現代語訳 "あなたはどの州、どの県の人で、誰の子で、誰の弟子ですか?"と。それを聞いて仮名乞児は大笑いし
ていう、"迷いの三界(欲界・色界・無色界)に一定の家はない。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道の中で固
定した所にいない。六道に輪廻する者はある時には天を国とし、またある時は地獄を家として住むこともある。或い
はあなたの妻子となり、またあなたの父母ともなる】
http://www.mishimaga.com/tonari-bousan/006.htm...
奈良県桜井市の長谷寺は、真言宗豊山派の総本山。
その本尊十一面観世音菩薩は六観音のひとつ。六観音は六道輪廻に迷う衆生を救うという思想に基づき生まれたもの。
その本尊十一面観世音菩薩は六観音のひとつ。六観音は六道輪廻に迷う衆生を救うという思想に基づき生まれたもの。
まあ、生きた人間が現世に存在しながら、異次元の大日如来と結合して仏となるなんて思想も物理学じゃないわけで。

善巧方便としての六道十界論や他力信仰を付録している。
自力作善の仏辺から見れば、六道十界は現世の人間の品性の位階である。
大日如来との融合も、梵我一如の境地の分かりやすい表現である。
方便に物理的にあり得ない表現が含まれているとした所で、
それはウソをウソと知った上での方便でしかない上に、
方便を抜きにした真実の所には厳密な物理法則への合致と、
それに即した人々への優良な道徳倫理的導きがある。
完全に、善巧方便のウソも許さないというのなら、禅仏教だってある。
結局、本格の出家者がこなしてる修行の内容や厳しさは真言密教も
遜色がないので、お互いに遠征的な交流をすることも多いようだがな。
物理的にあり得るかあり得ないかという所よりはむしろ、
倫理的に善良か邪悪かという所のほうが、
宗教の本質を見定める上での命題となる。
かといって、物理法則との関連性を全く無視したのでは、
形而上の超越神への偽託によって、反倫理的な教えを
倫理的なものと開き直るような暴挙が通用してしまう。
上記のような暴挙を抑止するため程度には、
物理的な妥当性にも監査の目を向けた上で、
人間の幸福のための教えとしての質を問う。
物理法則にも反し、人々を不幸に陥れるための
邪説ばかりを触れ回るような究極の邪教を廃絶するだけで、
この世における宗教の致命的な問題は解消され、
底辺を這いずり回りっぱなしな宗教全般の威信も回復する。
未だにそれを怠っているのは、
反科学的かつ反倫理的なことなのだから、
世の中が病人や騒乱ばかりで溢れ返るのも当然のことだと言える。
倫理的に善良か邪悪かという所のほうが、
宗教の本質を見定める上での命題となる。
かといって、物理法則との関連性を全く無視したのでは、
形而上の超越神への偽託によって、反倫理的な教えを
倫理的なものと開き直るような暴挙が通用してしまう。
上記のような暴挙を抑止するため程度には、
物理的な妥当性にも監査の目を向けた上で、
人間の幸福のための教えとしての質を問う。
物理法則にも反し、人々を不幸に陥れるための
邪説ばかりを触れ回るような究極の邪教を廃絶するだけで、
この世における宗教の致命的な問題は解消され、
底辺を這いずり回りっぱなしな宗教全般の威信も回復する。
未だにそれを怠っているのは、
反科学的かつ反倫理的なことなのだから、
世の中が病人や騒乱ばかりで溢れ返るのも当然のことだと言える。
たしかに、生きた人間が現世に存在しながら、異次元の大日如来と結合して仏となるなんて非物理的思想は方便だ。
ここまでくると、倫理は倫理学として教えれば、宗教はいらんという帰結にたどり着く。

自力の出家者もまた厳しい修行の末に、
梵我一如の悟りによって大日如来との融合とも呼べるような体験をする。
お遍路も、弘法大師が開発した寺や道を行脚することで
お大師様との同行を実感し、帰依(南無)とも呼べるような親しみを抱く。
そうした経験によって心の強さを養い、
修行や遍路の行脚によって身体の丈夫さも得られる。
方便も内実もいずれもが人々の福徳に高度に寄与するようになっている。
教義に基づく「奇跡」なんて布のシミの形とかぐらいにしか期待できない
ものだから、誇大妄想による精神薄弱を助長するような宗教もある。
嘘を嘘で塗り固める部類の宗教はそうやって人々の心身を蝕んで行く。
人間が絶対的な他者に遭遇する宗教的体験、いわゆるヌミノーゼは一神教の得意とするところ。

そしたらまず、道徳倫理をいかに定義づけるかという話になる。
人々の健康や能力を増進し、世の中をより一層の平和や繁栄へと
導くものが道徳的、倫理的であると定義するのならば、
孔子や孟子や四書五経の教え以上に、非宗教的な
範囲内で完璧な道徳倫理は存在しないといえる。
しかし、儒学は決して魅力的なものではない。
ここでさんざん純学術的に孔孟や四書五経の論説を考察し体得し抜いて来た
俺も未だに気違い扱いを受けるような始末。それ程にも単なる
学問対象としての道徳倫理は、感傷的な魅力に欠けるもの。
だから、宗教にも道徳倫理の実践を単なる倫理学以上に
増進する役割ぐらいは担わせればいい。そのためになるのなら、
物理法則に反するような方便を介するのでも構わない。
それもまた、ウソの方便を人倫の毀損のために悪用しているような
宗教が許容されている内は、決して叶わぬことである。
これで、仏教が明治以降に無効化された理由も知れたであろう?
大日如来の物性物理学的諸考察。
ぶっちゃけ、倫理観なんてのは文化依存なんだから、時代や国、宗教などによって異なる部分があるのは理の当然。
となると、倫理的正邪をジャッジできる人間はいないことになり、スレタイトル自体が矛盾をはらむ。
となると、倫理的正邪をジャッジできる人間はいないことになり、スレタイトル自体が矛盾をはらむ。
だから、現代という時代の要求に即して道徳倫理を定義してみると言った。
宗教の権威は地に落ち、思想哲学も実用性がないのなら無用の長物扱い。
それでも人々が求めるのは健康長寿だったり、不便のない生活や世の中の平和だったり。
だったら、それでもやっぱり有用であるのは、
そのような願いを叶える道徳倫理のみである。
さすれば、単なる倫理学として良くも悪しくも最適格なのが儒学。
単なる知識として過不足なく完璧だが、最たる魅力もなく、
それ故に方便を通じて最大級の成功をもたらすような期待まではできない。
方便自体はウソであっても全否定まではせず、
倫理的要求を単なる倫理学以上に満たすような奨励すらしてやる。
それが、人々の福徳を実現して行く上での最善となる。
宗教の権威は地に落ち、思想哲学も実用性がないのなら無用の長物扱い。
それでも人々が求めるのは健康長寿だったり、不便のない生活や世の中の平和だったり。
だったら、それでもやっぱり有用であるのは、
そのような願いを叶える道徳倫理のみである。
さすれば、単なる倫理学として良くも悪しくも最適格なのが儒学。
単なる知識として過不足なく完璧だが、最たる魅力もなく、
それ故に方便を通じて最大級の成功をもたらすような期待まではできない。
方便自体はウソであっても全否定まではせず、
倫理的要求を単なる倫理学以上に満たすような奨励すらしてやる。
それが、人々の福徳を実現して行く上での最善となる。
現代という時代の要求に即することが目的ならば、
古に物されたドグマよりも、情報を更新し続ける倫理学のほうが、よほど有用だろうに。
古に物されたドグマよりも、情報を更新し続ける倫理学のほうが、よほど有用だろうに。
笠地蔵に科学的言説が増えたのは、以前にはなかったことか?
それとも科学の重要性を再認識したのか?
笠地蔵は宗教論や倫理論に重きを置くが、俺としてはまず「人間学」ありきで、あくまでも宗教はその副産物に過ぎないと考えている。
教えが邪悪だからとか、曲解が可能だからとか、そんな事は事の本質ではない。
そこには「人間の性」と言うものがある。 他人に同情するのも、他人を利用搾取するのも、神を見るのも、人間の本能に備わった機能。
その機能によって生み出されたのが、宗教や科学や、哲学、思想と言うもの。
つまり哲学や宗教、倫理を研ぎ澄ますよりも、人間を知りそれを基本にして対策を講じないと、ほぼ徒労に終わるということ。
人間を知る上で、さらにそれを分かりやすく説明する上でも、最も有用なのが科学と言うこと。
どんなに非の打ち所のない完璧な倫理学であったとしても、悪人が利用すればそれは災いしかもたらさない。科学も右に同じ。
人間を理解しない限り、人間のソースコードに触れて改良に導かない限り、何をやっても同じことだと思っている。
それとも科学の重要性を再認識したのか?
笠地蔵は宗教論や倫理論に重きを置くが、俺としてはまず「人間学」ありきで、あくまでも宗教はその副産物に過ぎないと考えている。
教えが邪悪だからとか、曲解が可能だからとか、そんな事は事の本質ではない。
そこには「人間の性」と言うものがある。 他人に同情するのも、他人を利用搾取するのも、神を見るのも、人間の本能に備わった機能。
その機能によって生み出されたのが、宗教や科学や、哲学、思想と言うもの。
つまり哲学や宗教、倫理を研ぎ澄ますよりも、人間を知りそれを基本にして対策を講じないと、ほぼ徒労に終わるということ。
人間を知る上で、さらにそれを分かりやすく説明する上でも、最も有用なのが科学と言うこと。
どんなに非の打ち所のない完璧な倫理学であったとしても、悪人が利用すればそれは災いしかもたらさない。科学も右に同じ。
人間を理解しない限り、人間のソースコードに触れて改良に導かない限り、何をやっても同じことだと思っている。
人間の性を理解し、その知識を利用する悪人ほどタチの悪いものはない。
なんか難しい話をごちゃごちゃ言っているが
宗教が人に何かを与えてくれるものと仮定する時点で間違っている
まるで夢見る少女のようだ
世の中は騙す者と騙される者で出来ている
宗教は支配者への反抗心を押さえるツールとして考案された
本来、支配者に対峙すべきところを、そのリスクを負わずに神と対話するようになってしまう
努力せずに神にお願いするような腑抜けになってしまう
キリスト教に至っては労働は罪人がするものだ
そしてアメリカがフィリピンを植民地にするときには
異教徒の魂を救え!と言って何十万人も虐殺したのだから
宗教なんて議論の余地が無いほどに、バカバカしくてお話にならない
スペインのキリスト教徒は中南米に布教に行って
マヤ文明、アステカ文明(2500万人)、インカ文明(1600万人)を消滅させ
奴隷が足りなくなってアフリカから黒人を連れてきたのでブラジルあたりには黒人が混じっている
もうね、宗教の根底からおかしい、白人の頭は根底からおかしい、議論の余地なし
宗教が人に何かを与えてくれるものと仮定する時点で間違っている
まるで夢見る少女のようだ
世の中は騙す者と騙される者で出来ている
宗教は支配者への反抗心を押さえるツールとして考案された
本来、支配者に対峙すべきところを、そのリスクを負わずに神と対話するようになってしまう
努力せずに神にお願いするような腑抜けになってしまう
キリスト教に至っては労働は罪人がするものだ
そしてアメリカがフィリピンを植民地にするときには
異教徒の魂を救え!と言って何十万人も虐殺したのだから
宗教なんて議論の余地が無いほどに、バカバカしくてお話にならない
スペインのキリスト教徒は中南米に布教に行って
マヤ文明、アステカ文明(2500万人)、インカ文明(1600万人)を消滅させ
奴隷が足りなくなってアフリカから黒人を連れてきたのでブラジルあたりには黒人が混じっている
もうね、宗教の根底からおかしい、白人の頭は根底からおかしい、議論の余地なし
>>42
俺は元々物理学を研究していた。
物理以上に重要な学問は他にないぐらいの思いで
量子力学や相対論や素粒子物理等の本を読み漁り、
自分でも計算や作図を繰り返して、物理研究の限界を悟った。
(自分の能力の限界ではなく、物理を研究すること自体の限界を)
その後に、古代中国の儒学が単なる主観や政治的意図ではなく、
現代物理にも通ずるほどの高度な自然法則の理解(格物致知)に即して
体系化されているものであることをも察して、専攻を儒学に切り替えた。
ただ物理法則への理解が秀逸なだけでなく、その理解をあくまで人間の
福徳のために活用する方法を模索している点が儒学は物理学と異なる。
故に、この宇宙の物理が普遍的である以上は共に普遍的な倫理学ともなっている。
>>44
お前が言ってるような宗教こそは、>1の丁類に該当する宗教でしかなく、
この世における宗派数でも信者数でも少数派でしかない。そのような宗教を
有害無益なものとしてこの世から廃絶することには俺も賛成だが、それは決して
全ての宗教を廃絶することを意味しない。むしろ宗教全般の評判を下げている
ようなカルト系の特定的な断絶によって、宗教の威信を回復する機縁になる。
この世に存在する宗教のほとんどは、無宗教の現代人の我流の思想信条などよりも
遥かに物理法則に合致している上に、道徳倫理的にも優秀なものばかりなのだから。
俺は元々物理学を研究していた。
物理以上に重要な学問は他にないぐらいの思いで
量子力学や相対論や素粒子物理等の本を読み漁り、
自分でも計算や作図を繰り返して、物理研究の限界を悟った。
(自分の能力の限界ではなく、物理を研究すること自体の限界を)
その後に、古代中国の儒学が単なる主観や政治的意図ではなく、
現代物理にも通ずるほどの高度な自然法則の理解(格物致知)に即して
体系化されているものであることをも察して、専攻を儒学に切り替えた。
ただ物理法則への理解が秀逸なだけでなく、その理解をあくまで人間の
福徳のために活用する方法を模索している点が儒学は物理学と異なる。
故に、この宇宙の物理が普遍的である以上は共に普遍的な倫理学ともなっている。
>>44
お前が言ってるような宗教こそは、>1の丁類に該当する宗教でしかなく、
この世における宗派数でも信者数でも少数派でしかない。そのような宗教を
有害無益なものとしてこの世から廃絶することには俺も賛成だが、それは決して
全ての宗教を廃絶することを意味しない。むしろ宗教全般の評判を下げている
ようなカルト系の特定的な断絶によって、宗教の威信を回復する機縁になる。
この世に存在する宗教のほとんどは、無宗教の現代人の我流の思想信条などよりも
遥かに物理法則に合致している上に、道徳倫理的にも優秀なものばかりなのだから。
>>45
>古代中国の儒学が単なる主観や政治的意図ではなく、
現代物理にも通ずるほどの高度な自然法則の理解(格物致知)に即して
体系化されているものであることをも察して、専攻を儒学に切り替えた
これは知らなかったな。一体どんな物、教えなのか?手短にそのエッセンスを教えてくれないか?
しかし笠地蔵よ。物理学は生命を語るには無理な学問だが、人類に直接迫る、進化人類学、心理学、行動経済学、認知科学とかその辺を学ぶと
面白いものだぞ。それと今トレンドAIとか。その辺を知ると、人間の思考とはなんなのか?
人間の行動を変える、導くには何が必要? 何が最も効果的なのか? という事が具体的に見えてくる。
人間てのは思っている以上に馬鹿だから、割りと条件反射的な要素が強い。しかし人はそれを知らない。知らないことを知らないからバカになる。
今も昔も人を動かすのは、理路整然とした道理や理論などではなく、感情、恐怖、不安なんだ。
>古代中国の儒学が単なる主観や政治的意図ではなく、
現代物理にも通ずるほどの高度な自然法則の理解(格物致知)に即して
体系化されているものであることをも察して、専攻を儒学に切り替えた
これは知らなかったな。一体どんな物、教えなのか?手短にそのエッセンスを教えてくれないか?
しかし笠地蔵よ。物理学は生命を語るには無理な学問だが、人類に直接迫る、進化人類学、心理学、行動経済学、認知科学とかその辺を学ぶと
面白いものだぞ。それと今トレンドAIとか。その辺を知ると、人間の思考とはなんなのか?
人間の行動を変える、導くには何が必要? 何が最も効果的なのか? という事が具体的に見えてくる。
人間てのは思っている以上に馬鹿だから、割りと条件反射的な要素が強い。しかし人はそれを知らない。知らないことを知らないからバカになる。
今も昔も人を動かすのは、理路整然とした道理や理論などではなく、感情、恐怖、不安なんだ。

詩経における無名の古人たちの感嘆、礼記における古式の作法、
それら全てが易学の物理的解釈を素地としている。
(春秋伝はその反面教師的記録に)
占い材料ではなく、自然現象や人間社会への数理物理的な解釈の
精髄としての易学は、現代物理学以上に遜色のないものとなっている。
量子論や素粒子論並みの微視的理解と、相対論や宇宙論並みの巨視的理解を
兼ね備えながら、この世界の物理法則だけを過不足なく記述する簡潔さを帯びている。
そのような神業的な格物致知を大前提とした上で、
孔子や孟子は形而上への夢想ではなく、あくまで人間のための論説を展開した。
限られた物理法則の中で生きている人々が最大級の幸福を享受しながらも、
度を越した放辟邪侈で経済破綻や戦乱を招いたりしないための秘訣を伝授した。
「格物致知誠意正心修身斉家治国平天下(大学)」を、
あくまで最冒頭の「格物致知」から入念に心がけたなら、
人間も自業自得で自分たちを不幸にするほどの愚かさは予防できる。
物理への理解こそが最大級の福徳をもたらすことを、儒学が保証している。
すまんがそれでは凄いと言うこと以外わからない。
>現代物理学以上に遜色のないものとなっている。
量子論や素粒子論並みの微視的理解と、相対論や宇宙論並みの巨視的理解を
兼ね備えながら、この世界の物理法則だけを過不足なく記述する簡潔さを帯びている。
この辺の具体例を幾つか教えてくれないか? ちょっと調べたけど珍紛漢分。
物理学ってのは、客観性、再現性、更に反証可能性を最重要としているから、それらに欠ける哲学的体系は
どんなに深くとも、まさに無用の長物であると思っている。面白さはあるけどね。
>現代物理学以上に遜色のないものとなっている。
量子論や素粒子論並みの微視的理解と、相対論や宇宙論並みの巨視的理解を
兼ね備えながら、この世界の物理法則だけを過不足なく記述する簡潔さを帯びている。
この辺の具体例を幾つか教えてくれないか? ちょっと調べたけど珍紛漢分。
物理学ってのは、客観性、再現性、更に反証可能性を最重要としているから、それらに欠ける哲学的体系は
どんなに深くとも、まさに無用の長物であると思っている。面白さはあるけどね。

この宇宙の根本構造の概括的な表現であり、古典物理学はおろか、
現代物理学で記述されるような個別の物理現象にも直接的には適用されない。
ただし、この関数系を特殊なヒルベルト空間の極座標系に変換すれば
あらゆる物理現象を包含する、この宇宙全体の過不足なきシミュレートとなる。
一応原理的には可能なことだが、この数式自体が入れ子構造のフラクタル系なので、
どんなに強力なスパコンでの演算を試みても、ここまででヨシとできるような答えは得られない。
そういった機械仕掛けのシミュレーションによらずとも、
人間は直観で易学の数理的な知恵を実際の現象に照らし合わせる能力を持っている。
そちらのほうがとっくに現象理解の限界点まで達しているらしいから、
孔孟や老荘以上に社会の普遍性を掘り下げられるような人間も現れないのである。

このような幾何学構造が右から左へとドミノ倒しされて行く様相が
ありのままに時系列の発展だからである。
ベクトルOP≡Dは時に物質だったり、波動だったり、空間だったり、場だったり。
森羅万象でDの派生に該当しないものは一つもないから、全てはこの図示の下で共変的であり、
故にドミノ倒しの速度が速かろうが遅かろうが、万物の時間は共に一定して流れる。
そういう自己完結的な物理理解に即して何事も考えられたなら、
感情的な問題は別として、人としての処世を極限までつつがなく済ませられる。
中国人は良くも悪しくもそういう人種であり、魅力も嫌悪感も共にそこに起因する。
川の流れにあまりにも逆らわなさすぎる生き様も、それはそれで考えものである。
八卦、六十四卦、易学? の基礎知識が無いのと、物理理論の知識が足りないので、どうにも理解できない。
自分で催促しといて悪いがねw
要はその卦の構造が、テンソルとか行列とかそういう方程式とアナロジーを持っているということか。
で全ての物理モデルを卦の構造が包括していると。
しかし数理体系と言うが卦と言うのはこねくり回せるような代物なのか?実際何かを導けるのか?
面白そうな内容ではあるが、両方の知識がないと分からないので、一冊本でも書いていただきたい。
自分で催促しといて悪いがねw
要はその卦の構造が、テンソルとか行列とかそういう方程式とアナロジーを持っているということか。
で全ての物理モデルを卦の構造が包括していると。
しかし数理体系と言うが卦と言うのはこねくり回せるような代物なのか?実際何かを導けるのか?
面白そうな内容ではあるが、両方の知識がないと分からないので、一冊本でも書いていただきたい。

この画でいう「顧客が本当に必要だった物」みたいなもので、
それまでの紆余曲折で提示されて来たモデルと比べればむしろより簡素なぐらい。
紆余曲折の中で提示された数理物理学的な理論の中には、
この宇宙の物理法則を記述する上では一般的すぎるようなものが多いから、
その一般的すぎる要素の部分が易の数理構造には含まれない。
既成の数理物理理論の何もかもを正当化して行くような論調では、
パラレルワールドやタイムスリップみたいな非現実的な事物の可能性までもが提示され、
挙句には「この宇宙は理論的に存在し得ない」とかいう迷走にまで至ったりする。
https://gigazine.net/news/20171030-cern-antimatter-...
そこまで行くと理論物理のほうが半ば宗教の様相を呈していて、
完全にこの世界の物理法則の記述に特化したnon-metaphisicalな論説である
易の法則のみを研究の対象にしたほうがよほど現実的であることになる。
>この宇宙の物理法則を記述する上では一般的すぎるようなものが多いから、
その一般的すぎる要素の部分が易の数理構造には含まれない。
その易が一般的すぎる事も理解した上であえて省いているのか? それとも一般的すぎる部分はそもそも思考になかったのだろうか?
>既成の数理物理理論の何もかもを正当化して行くような論調では、 ・・・
ここが科学と只の哲学体系との大きな違いである。科学の理論は全て、否定や、反証に大いに寛大である。
つまりどんなに理論が先行したとしても、実験や観測、実証によって、真実を追求する姿勢は保ち続けるし、一度それによって間違いが見つかれば、
皆が修正を受け入れ、現実を踏襲した上で新たな理論展開を行う。誰も現実を無視した間違った理論を何時迄も展開させようなどとはしない。
理論物理学も数式に矛盾なく行う上では実証できないにしても、只の哲学思想に比べれば謙虚な物だと思う。
宗教哲学はまず始まりからして、反証不可能な定義からスタートしている事が多く、始まりの根拠が曖昧なのに、それをいくら発展させた所で、たかが行き着く所は知れていると言うこと。それどころか、哲学が宗教に昇格してしまうと、その思想体系は最早、権威化し聖域となり、反証を試みることすらタブーとなる。これでは弊害以外の何ももたらさなくなる。
科学という思想は真実を追求するために、実証をし、反証が出来るという点で只の哲学とは一線を画するのである。
そこで易の反証可能性は如何なものだろうか?
その一般的すぎる要素の部分が易の数理構造には含まれない。
その易が一般的すぎる事も理解した上であえて省いているのか? それとも一般的すぎる部分はそもそも思考になかったのだろうか?
>既成の数理物理理論の何もかもを正当化して行くような論調では、 ・・・
ここが科学と只の哲学体系との大きな違いである。科学の理論は全て、否定や、反証に大いに寛大である。
つまりどんなに理論が先行したとしても、実験や観測、実証によって、真実を追求する姿勢は保ち続けるし、一度それによって間違いが見つかれば、
皆が修正を受け入れ、現実を踏襲した上で新たな理論展開を行う。誰も現実を無視した間違った理論を何時迄も展開させようなどとはしない。
理論物理学も数式に矛盾なく行う上では実証できないにしても、只の哲学思想に比べれば謙虚な物だと思う。
宗教哲学はまず始まりからして、反証不可能な定義からスタートしている事が多く、始まりの根拠が曖昧なのに、それをいくら発展させた所で、たかが行き着く所は知れていると言うこと。それどころか、哲学が宗教に昇格してしまうと、その思想体系は最早、権威化し聖域となり、反証を試みることすらタブーとなる。これでは弊害以外の何ももたらさなくなる。
科学という思想は真実を追求するために、実証をし、反証が出来るという点で只の哲学とは一線を画するのである。
そこで易の反証可能性は如何なものだろうか?

現時点ではその手の話をこれ以上掘り下げるのは無益だろう。
あくまで表面的な話に特化すれば、
実際問題、この宇宙の全ての物理現象は易の法則を逸脱していない。
古典力学すらもがプランクスケール付近の微視的領域では破綻するのに、
その領域でも物質と波動の二重性などが易の法則の範囲内にある。
相対論における時間と空間や重力と空間の不可分性も、
万物の相補的な振舞いを見込む易の範疇にある。
理論的、実験的な研究が進めば進むほど古典物理学の破綻などが
発見される一方で、易の法則の過不足なき妥当性の確証が進んでいる。
間違っていれば間違ってたでいいのに、残念ながら間違ってない。
占いの材料にもされるように、易も一神教的な信仰の対象にされている
わけでもない、むしろ信頼しがたいとされて来た部類の論説である
というのに、物理研究はむしろその正しさの承認に集約されて行っている。

「私(孔子)は幸せ者である。何か間違いがあっても、それを指摘してくれる人がいるのだから」
(論語・述而第七・三〇より)
自分の評価する人間に落ち度があったことを知らされた時(上の引用の手前部分)、
小国での政治に力を入れている弟子に「やり過ぎではないか」と言って反論された時
(陽貨第十七・三)、孔子は自らの過ちを認めて、指摘を歓喜するような言葉まで述べている。
これも、万物の根本法則としての易が不確定性を帯びたものであることへの理解を
踏まえているからこそ言えたこと。自らを泰山や渤海に喩えるほどの自信家でもあった一方で、
真理こそは信頼の置けない即面を持つことを察して、童僕のような謙虚さも欠かさないでいた。
「神はサイコロを振らない」と言い張って、最後まで物理現象への不確定性の介在を
認めようとしなかったアインシュタインが生涯抱くことのできなかった謙虚さ。
科学的な理知が人を謙虚にするとも、人文的な思想信条が人を頑迷にするとも限らない。
宗教嫌いの科学信者が多い団塊の世代が頑迷だらけで、一番今の日本で人口の多い世代なのに
未だに一人のノーベル賞授賞者も出せていないことからも、むしろそういう考え方こそが
科学発展への寄与すらをも滞らせる原因になることまで勘案すべきである。
易や禅がどんなに優れた思想だろうと、社会を完全に正しい方向へは導けない。
それは今現在を見れば容易にわかること。
つまり物理的に可で、倫理的に可であろうと、人々はそれをおいそれと簡単に信仰したりしない。
これは物理学でも同じことで、物質の真理をいくら追求した所で、人々の生活、性には大した変化をもたらさない。
(故に易が物理理論的に正しかろうと無用の長物であるということ)
人々の生活や思想を、大変換させるのは、イノベーションだ。
それは文字、鉄、農耕、蒸気機関、自動車、ネット、AIなど。
これらを見るとわかるが、イノベーションは物理(科学)と相性がいい。(しかし只の思想からはイノベーションは起きない。)
ではここまでのイノベーションは人間の本質を変容させることが出来たかと言われれば、否である。
人間は人間のままで、もたらされた便利な道具を欲求のままに使っている、使われているだけ。
それは今現在を見れば容易にわかること。
つまり物理的に可で、倫理的に可であろうと、人々はそれをおいそれと簡単に信仰したりしない。
これは物理学でも同じことで、物質の真理をいくら追求した所で、人々の生活、性には大した変化をもたらさない。
(故に易が物理理論的に正しかろうと無用の長物であるということ)
人々の生活や思想を、大変換させるのは、イノベーションだ。
それは文字、鉄、農耕、蒸気機関、自動車、ネット、AIなど。
これらを見るとわかるが、イノベーションは物理(科学)と相性がいい。(しかし只の思想からはイノベーションは起きない。)
ではここまでのイノベーションは人間の本質を変容させることが出来たかと言われれば、否である。
人間は人間のままで、もたらされた便利な道具を欲求のままに使っている、使われているだけ。
しかしここからのイノベーションは少し意味が違ってくる。
それはなぜかというかと、科学技術がとうとう人間のブラックボックス脳や、生命活動や人類社会を標的にし始めたから。
それまではそもそも、観測限度によって思考や行動なんかを科学の対象にするのが難しかった。しかし技術進歩で脳内の活動や構造と
行動や思考なんかを関連付けて考えることが出来るようになってきた。
また教育や犯罪にも、それまで培われてきた科学的手法が用いられるようになってきた。
それまでは、根拠薄弱な方法を、信念や常識、経験に基づいて全員一様に施すしかなかった。
(これでは、遺伝的、環境的個々の差に合わせた教育など出来るはずもない。)
しかし最近は科学的評価によって教育や犯罪防止にも常に新しい最適法がフィードバックされるようになってきている。
そういった意味では科学がもたらした恩恵とは、最先端の物理学ではなく、その進歩的、客観的、評価方法サイクルにあるといえる。
そしてこれからのイノベーションは人間の本質、性に迫るような物になってくる。
まぁ実際そうなるまではまだもう少し掛かりそうだが。
それはなぜかというかと、科学技術がとうとう人間のブラックボックス脳や、生命活動や人類社会を標的にし始めたから。
それまではそもそも、観測限度によって思考や行動なんかを科学の対象にするのが難しかった。しかし技術進歩で脳内の活動や構造と
行動や思考なんかを関連付けて考えることが出来るようになってきた。
また教育や犯罪にも、それまで培われてきた科学的手法が用いられるようになってきた。
それまでは、根拠薄弱な方法を、信念や常識、経験に基づいて全員一様に施すしかなかった。
(これでは、遺伝的、環境的個々の差に合わせた教育など出来るはずもない。)
しかし最近は科学的評価によって教育や犯罪防止にも常に新しい最適法がフィードバックされるようになってきている。
そういった意味では科学がもたらした恩恵とは、最先端の物理学ではなく、その進歩的、客観的、評価方法サイクルにあるといえる。
そしてこれからのイノベーションは人間の本質、性に迫るような物になってくる。
まぁ実際そうなるまではまだもう少し掛かりそうだが。
しかし笠地蔵の話は分かりにくいな。易と同じで魅力が全くないw
世を導くことが念頭にあるなら、少しは説明法も考えてほしいものである。
世を導くことが念頭にあるなら、少しは説明法も考えてほしいものである。
易の知見を道徳倫理に反映した儒学や、禅の影響を色濃く受けた武士道が、
漢代や唐代の中国や、平安時代や江戸時代の日本で
戦争一つない安定した時代を何百年も実現して来ているのだから、
「易や禅は社会を正しい方向には導けない」というのは事実誤認である。
犯罪発生率や警察組織の規模も、江戸時代は今の日本の10分の1程度。
手法が「根拠薄弱な方法を強いる」形式であったのであれ、
その方法が正しかったために良い結果を招いていたことには変わりない。
実践の方法が強制的、封建的だから反感を催すのだったり、
実践の対象が魅力的でなかったりすることと、
事実正しいものを実践して良好な結果を招くことは関係がない。
だから「愛してその悪を知り、憎んでその善を知れ(礼記)」ともいう。
美味いものばかり食べてれば肥満や重病になって辛い思いをするから
節制も心がけるべきであることぐらいは誰でも知っているのに、
どうしてもっと知恵を必要とする領域では好き放題こそが至高である
などと決め付けるのか? それこそ知恵者のおごりではないか?
漢代や唐代の中国や、平安時代や江戸時代の日本で
戦争一つない安定した時代を何百年も実現して来ているのだから、
「易や禅は社会を正しい方向には導けない」というのは事実誤認である。
犯罪発生率や警察組織の規模も、江戸時代は今の日本の10分の1程度。
手法が「根拠薄弱な方法を強いる」形式であったのであれ、
その方法が正しかったために良い結果を招いていたことには変わりない。
実践の方法が強制的、封建的だから反感を催すのだったり、
実践の対象が魅力的でなかったりすることと、
事実正しいものを実践して良好な結果を招くことは関係がない。
だから「愛してその悪を知り、憎んでその善を知れ(礼記)」ともいう。
美味いものばかり食べてれば肥満や重病になって辛い思いをするから
節制も心がけるべきであることぐらいは誰でも知っているのに、
どうしてもっと知恵を必要とする領域では好き放題こそが至高である
などと決め付けるのか? それこそ知恵者のおごりではないか?

科学的、合理的なトレーニングだけを適度にこなして来たアメリカの高校生の方が野球で強かったりする。
易や禅等への事実誤認とはまた別の問題として、迷惑すぎ水産もこの手の話をしたかったんだと思うが。
日本の高校野球的な非合理主義も別に日本古来のものではなく、
儒学や仏教が教育界から廃絶された明治以降に、西洋のスパルタ教育やプロシア兵法を参考にしたもの。
それは確かに、科学的合理主義にも劣る代物であるだろうが、ではその科学的な手法を存分に取り入れている
今のメジャーリーグでも、イチローみたいに大記録やここ一番の大舞台での活躍を打ち立てられる人間と、
ダルビッシュや田中みたいに今一歩の結果に終わってしまうのがいるのはなぜか?
イチローにあって、ダルビッシュや田中にないのは、透徹した真面目さ。
初動負荷理論に基づく動的ストレッチ運動みたいな地味な運動を、
毎日毎日、試合前にも何時間もこなしておく程のストイックさ。
結局、手法が科学的であるのであっても、最後にものを言うのはそういう精神的な部分。
合理主義の冷酷にも、非合理主義の激情にも一つ覚えには振り切れない中庸の賢明さ。
つまらない訓練も毎日欠かさず行なっている真面目さ故に、イチローのコメントもどこかズレた不恰好なものだったりする。
巧言令色に長けてたりするよりは、そのようであるほうがよっぽど可能性に溢れているのである。

野球やサッカーみたいな大衆スポーツも合理的なトレーニングを取り入れているだけで、
競技上での運動には非合理なものが多々含まれているのに、古武道やヨガたるや、
本番の武技や体位自体が合理的な身体操法を極めたものとなっている。
そういう運動を実際に重点的にやってみれば分かるが、
合理的な運動であればあるほど、人間は過酷な特訓にも耐えられるようになっている。
野球やサッカーや、現代のスポーツ剣道やスポーツ柔道みたいな非合理まみれの
競技で行えばあっという間に怪我するほどにも甚大な負荷の訓練を行なったとしても、
あくまで合理的運動の範囲内であれば身体は壊れない。壊れないどころかより身体能力が上がり、
成人の劇的な上達は不可能とされているハタヨガすらもが短期間で上達していけるようになったりする。

遠藤征四郎氏は「死ぬ気で(合気道を)やれ」と言っている。
「仏に会うては仏を殺し、祖に会うては祖を殺し、羅漢に会うては羅漢を殺し、
父母に会うては父母を殺し、親眷に会うては親眷を殺し、以って解脱を得ん」(臨済録)
というほどの背水の陣意識こそが、合理的運動の上達を促進するものであったりする。
イチローだって「引退したらこの世から消えてしまいたい(本人談)」
というほどの覚悟を持って、老体に鞭打ちながらまだメジャーの現役でいる。
そのような使命感の強さは、これまでの科学文明による欲望志向でかえって萎縮させられて
来たものではあるが、科学的合理性の善用のためにはむしろ必要となってくるものである。
科学的合理主義でいい思いをしてしわ寄せの破滅を招いてしまったからには、
今度は嫌な思いをしてでもその埋め合わせに務めねばならない。
そこでも科学が安易な楽々さを保証してくれるなどと考えるのはご都合主義もいいとこだ。
>犯罪発生率や警察組織の規模も、江戸時代は今の日本の10分の1程度。
手法が「根拠薄弱な方法を強いる」形式であったのであれ、
その方法が正しかったために良い結果を招いていたことには変わりない。
俺はなそのような平和が、思想理念からもたらされた物ではないと信じている。
その前提条件として、日本が一つの権力のもとに統治されたことが一番大きな要因。
もし日本が複数の国からなっていたなら、そんな長期安定状態はなかっただろう。
中国の情勢は知らないが、優れた理念が浸透する背後には、長期安定国家があったのではないか?
つまり優れた平和理念や精神は、地政学的に安定な状態になった付録としてついてくる物。
>イチローにあって、ダルビッシュや田中にないのは、透徹した真面目さ。
初動負荷理論に基づく動的ストレッチ運動みたいな地味な運動を、
毎日毎日、試合前にも何時間もこなしておく程のストイックさ。
こういう所が、精神論のダメなところさ。詰まるところ最後は真面目さなんて評価しようがないものに終結してる。
ストイックでまじまな選手が必ず大成するわけではない。ストイックな方向性を間違えればそれこそ笠地蔵の肩のように悲鳴を上げる。
手法が「根拠薄弱な方法を強いる」形式であったのであれ、
その方法が正しかったために良い結果を招いていたことには変わりない。
俺はなそのような平和が、思想理念からもたらされた物ではないと信じている。
その前提条件として、日本が一つの権力のもとに統治されたことが一番大きな要因。
もし日本が複数の国からなっていたなら、そんな長期安定状態はなかっただろう。
中国の情勢は知らないが、優れた理念が浸透する背後には、長期安定国家があったのではないか?
つまり優れた平和理念や精神は、地政学的に安定な状態になった付録としてついてくる物。
>イチローにあって、ダルビッシュや田中にないのは、透徹した真面目さ。
初動負荷理論に基づく動的ストレッチ運動みたいな地味な運動を、
毎日毎日、試合前にも何時間もこなしておく程のストイックさ。
こういう所が、精神論のダメなところさ。詰まるところ最後は真面目さなんて評価しようがないものに終結してる。
ストイックでまじまな選手が必ず大成するわけではない。ストイックな方向性を間違えればそれこそ笠地蔵の肩のように悲鳴を上げる。
笠地蔵さん。科学的手法の優れた点は、その徹底した、客観性と実証主義、にある。
1仮説→
2実証→
3評価→ もし反証されれば1へ
4発展展開→
5予測予想→2へ
このサイクルがあるから科学的手法は健全性が担保されるし、確実に前に進む。
精神論や只の思想哲学にこれに匹敵しうる健全性があるかい?
後正しい間違っているにかかわらず、事実として、確実に人に受け継がれるものは何か?
現在の易や禅、空思想などを見ると分かるが、それは思想なんかではない。
しかし何千年も前に生み出された文字や農耕、鉄器などは、誰も必死になって伝承なんかしなくとも自然と伝わる。
つまり後世に確実に受け継がれるのはイノベーション。これは最早法則や原理的な事。
それと同じくらい科学的手法(科学思想)はインパクトが有ることだと思うな。
1仮説→
2実証→
3評価→ もし反証されれば1へ
4発展展開→
5予測予想→2へ
このサイクルがあるから科学的手法は健全性が担保されるし、確実に前に進む。
精神論や只の思想哲学にこれに匹敵しうる健全性があるかい?
後正しい間違っているにかかわらず、事実として、確実に人に受け継がれるものは何か?
現在の易や禅、空思想などを見ると分かるが、それは思想なんかではない。
しかし何千年も前に生み出された文字や農耕、鉄器などは、誰も必死になって伝承なんかしなくとも自然と伝わる。
つまり後世に確実に受け継がれるのはイノベーション。これは最早法則や原理的な事。
それと同じくらい科学的手法(科学思想)はインパクトが有ることだと思うな。

儒学や禅の教えを尊んだ日本や中国の政権が数百年規模の泰平や繁栄を謳歌していた一方、
科学文明を至上とする今の世界がひっきりなしの戦争を繰り返していることには変わりない。
科学理論が検証の結果、正しいことが証明されて核爆弾の威力が強化されるよりは、
迷信にも近いような教えに即してでも人々が平和や繁栄を享受できることのほうが、よっぽど価値がある。
思想信条自体が非科学的であろうとも、それに即して運営された政権が多大な功績を挙げて
信頼のおける歴史書に記録され、その記録通りの史跡や名残り(子孫の民度の高さなども含む)が
今でも確認されるというのなら、何の実績もない完璧な科学理論などよりもよっぽど信頼が置ける。
現実問題、実践者が着実な実績を挙げている部類の思想信条は、科学並みかそれ以上に実地的な
格物致知を重んじているものばかりなので、カルト的な狂信に走ったりする危険性もまずない。
その手の危険性はむしろ、パラレルワールド級の概念の虚構を弄んでいる過渡的な理論科学のほうが
帯びているものであり、科学が進歩する以上はいつまでもその手の概念夢想も野放しにされたままで
あり続けるものだから、総合的な信頼度の低さも実績ある伝統的教学にすら劣ったままとなる。

現代剣道もGHQの武道禁止令を通じて不合理な運動に
改悪されたものだから、そこに前時代的な気性の荒さを乗せた結果、
肩を亜脱臼状態で固着させた状態で何十年も過ごすこととなってしまった。
それを、古来の武道やヨガに由来する合理的な身体操法で矯正した。
矯正するためにもやはり、現代では気違い扱いされる程の怒気を用いた。
重量挙げで2トンを持ち上げることなどは不可能だが、合理性を尽くした
ある種のストレッチ運動を渾身を込めて行えば、股関節に最大2トンの負荷がかかる。
それにより股関節の柔軟性が向上し、肩を含む全身の関節を柔軟化して行く目処が立った。
(股関節は体の中で最も大きく、強大な筋力のかかる関節であるため)
そういう経験を通じて初めて、精神力の実利的な価値を知る。
今の剣道や柔道や、野球やサッカーでそのような精神力を用いたところで
怪我して選手生命を縮めたりするだけなので、余計に不信感を募らせるだけとなるが。
初動負荷トレーニングを地道に続けて行くような、
現代的な分野でも時にはその価値が知れることのあるものだ。
>儒学や禅の教えを尊んだ日本や中国の政権が数百年規模の泰平や繁栄を謳歌していた一方、
科学文明を至上とする今の世界がひっきりなしの戦争を繰り返していることには変わりない。
すまんが、それもいくらでも反論が出来る。
キリスト教を信仰したローマ帝国だって余裕で数百年規模の安泰を謳歌した。その文明的文化的生活は、現代にも引けを取らないものだった。
(奴隷の議論はあれども)
そして滅びた。結局中国も日本の長期泰平は潰えた。
そもそも日本に仏教や禅が伝わってから、江戸幕府が出来るまでは相当な時間があった。
空海が日本に真言宗を開いてからでも800年近くは経ってる。その間は見事な戦乱の世が続いた。
日本に長期の平安が訪れたのはどう考えても、天下統一されたからであり、それが300年近くも続いたのは島国という特性、
海と言う強力な国境があったからだ。
しかしそれも航海技術の発達とももに外国の影響力が現実的なものになるといとも簡単に江戸幕府は転覆させられた。
無血開城とは言うけれども、それでも内戦が起きて白虎隊など若い命が散っていった。
もし禅の思想が確実に日本人の精神性を高めていたなら、外圧などに負けずに、江戸幕府を貫いたはずである。
科学文明を至上とする今の世界がひっきりなしの戦争を繰り返していることには変わりない。
すまんが、それもいくらでも反論が出来る。
キリスト教を信仰したローマ帝国だって余裕で数百年規模の安泰を謳歌した。その文明的文化的生活は、現代にも引けを取らないものだった。
(奴隷の議論はあれども)
そして滅びた。結局中国も日本の長期泰平は潰えた。
そもそも日本に仏教や禅が伝わってから、江戸幕府が出来るまでは相当な時間があった。
空海が日本に真言宗を開いてからでも800年近くは経ってる。その間は見事な戦乱の世が続いた。
日本に長期の平安が訪れたのはどう考えても、天下統一されたからであり、それが300年近くも続いたのは島国という特性、
海と言う強力な国境があったからだ。
しかしそれも航海技術の発達とももに外国の影響力が現実的なものになるといとも簡単に江戸幕府は転覆させられた。
無血開城とは言うけれども、それでも内戦が起きて白虎隊など若い命が散っていった。
もし禅の思想が確実に日本人の精神性を高めていたなら、外圧などに負けずに、江戸幕府を貫いたはずである。
>その手の危険性はむしろ、パラレルワールド級の概念の虚構を弄んでいる過渡的な理論科学のほうが
確かにそれは科学推測ではあるが、結論ではない。そもそもその辺のことは検証や実証のしようがないので、寧ろ哲学的な範疇の話。
まず現代までの科学は、人間そのものを対象に改良に導こうとする、そんな事が出来るような代物ではなかった。
つまり人間は人間のままで、ツール、道具のみが進歩する割合が高かった。そんな言わば自然児、野生の人間が便利な道具に出逢えば
間違った方向、使い方をするのは必然のことで、科学の悪行と言うよりは、人間の性と道具のミスマッチとも言える。
しかし、最近になって漸く科学が人間自身、社会システム、貧富の差や、悪行、犯罪、嫉妬、イジメ…などを対象にし始めた。
その背後には、計測機器の進歩、ビッグデータ、マシンパワーの向上、多変量解析、それに人々の科学的意識変化等がある。
現に戦争や紛争の数は減っているし、貧困も減っている。IQは向上し続けている。 (IQと貧困、戦争は逆相関にあるらしい。)
確かにそれは科学推測ではあるが、結論ではない。そもそもその辺のことは検証や実証のしようがないので、寧ろ哲学的な範疇の話。
まず現代までの科学は、人間そのものを対象に改良に導こうとする、そんな事が出来るような代物ではなかった。
つまり人間は人間のままで、ツール、道具のみが進歩する割合が高かった。そんな言わば自然児、野生の人間が便利な道具に出逢えば
間違った方向、使い方をするのは必然のことで、科学の悪行と言うよりは、人間の性と道具のミスマッチとも言える。
しかし、最近になって漸く科学が人間自身、社会システム、貧富の差や、悪行、犯罪、嫉妬、イジメ…などを対象にし始めた。
その背後には、計測機器の進歩、ビッグデータ、マシンパワーの向上、多変量解析、それに人々の科学的意識変化等がある。
現に戦争や紛争の数は減っているし、貧困も減っている。IQは向上し続けている。 (IQと貧困、戦争は逆相関にあるらしい。)
実績がないというが、(人類社会が後戻りできないほどにガラリと良い方向へ変化するパラダイムシフトは10年ほど先に楽しみに取っておいて、)
科学的手法ほど、改良や改善、成績アップを短期間に数値で客観的にも実感出来るものはない。
だからこそ科学的手法は嘗ての思想にないほどのスピードで世界に浸透している。(それだけが要因ではないが)
科学の素晴らしい点は、それまで机上の空論だったものを、データと言う客観的指標によって現実的議論を可能にした点だ。
データも評価もなしで、社会を良い方向へ導こうとすることは、まさしく絵に描いた餅。実現するはずもないのだ。
真に実績があるのはイノベーションだが、今後パラダイムシフトが起こるほどのイノベーションの予定が目白押しなんだ。
イノベーションが起きてくれるなら、別に思想だって構わないが、思想では100%無理な話。
今後のイノベーションは科学的手法や科学的思想が主体になって起こる。
科学的手法ほど、改良や改善、成績アップを短期間に数値で客観的にも実感出来るものはない。
だからこそ科学的手法は嘗ての思想にないほどのスピードで世界に浸透している。(それだけが要因ではないが)
科学の素晴らしい点は、それまで机上の空論だったものを、データと言う客観的指標によって現実的議論を可能にした点だ。
データも評価もなしで、社会を良い方向へ導こうとすることは、まさしく絵に描いた餅。実現するはずもないのだ。
真に実績があるのはイノベーションだが、今後パラダイムシフトが起こるほどのイノベーションの予定が目白押しなんだ。
イノベーションが起きてくれるなら、別に思想だって構わないが、思想では100%無理な話。
今後のイノベーションは科学的手法や科学的思想が主体になって起こる。
>何の実績もない完璧な科学理論などより
笠地蔵は主に、物理理論に科学の真髄、真意をみて、それが人間にどのような影響を与えたか考えているが、
物理理論と、俺が言う人間を扱う科学を分けて考えてほしい。
人間を扱う科学は、勿論物理理論に比べれば、客観性や真理、再現性は低いものだが、それでも人間を改良に導くにはかなりの知見を与えてくれる。
そしてそれが今一番、ホットな科学の分野だ。それまで技術的に観察することすら不可能だったものが見えるようになってきたのだから
ホットにならない訳がない。そしてこれからイノベーションが起きるのはそれらの分野から。
科学が生命を扱うのはまさにこれからなんだよ。
笠地蔵は主に、物理理論に科学の真髄、真意をみて、それが人間にどのような影響を与えたか考えているが、
物理理論と、俺が言う人間を扱う科学を分けて考えてほしい。
人間を扱う科学は、勿論物理理論に比べれば、客観性や真理、再現性は低いものだが、それでも人間を改良に導くにはかなりの知見を与えてくれる。
そしてそれが今一番、ホットな科学の分野だ。それまで技術的に観察することすら不可能だったものが見えるようになってきたのだから
ホットにならない訳がない。そしてこれからイノベーションが起きるのはそれらの分野から。
科学が生命を扱うのはまさにこれからなんだよ。
>>73
おまえは、その空海が真言宗を開いていた頃から後の時代こそが、
300年以上に渡って戦争どころか、政府による処刑行為一つ行われなかった、
江戸時代をも上回る空前絶後の“平安の時代”だったことをすっかり見落としている。
日本で戦乱が続いたのはその平安の末期から戦国時代までで、
日本の歴史は平和な時代2:戦乱の時代1程度の配分で紡がれて来ている。
これは、儒教を信奉しても仏教帰依は日本より疎かだった中国が
平和3:戦乱2程度の歴史配分であるのより良好な実績となっている。
最も、古代の文化文明を軒並み破却して原始時代並みの生活に戻り、
異教徒弾圧で残虐非道の限りを尽くし、司教が自らの糞尿を聖遺物として
信者に有難がらせるほどの蒙昧っぷりで、総体としての勢力の停滞によって
イスラム世界の台頭をも助長してしまった、欧米人たち自身も「暗黒の時代」
と呼ぶキリスト教侵略時代のローマを「数百年の泰平を謳歌した、文化文明
も優れた時代」などと豪語するほどにも奇特な歴史観を持つおまえなんかに
いくら史実どおりの論弁を呈したところで、馬耳東風なのかも知れんがな。
おまえは、その空海が真言宗を開いていた頃から後の時代こそが、
300年以上に渡って戦争どころか、政府による処刑行為一つ行われなかった、
江戸時代をも上回る空前絶後の“平安の時代”だったことをすっかり見落としている。
日本で戦乱が続いたのはその平安の末期から戦国時代までで、
日本の歴史は平和な時代2:戦乱の時代1程度の配分で紡がれて来ている。
これは、儒教を信奉しても仏教帰依は日本より疎かだった中国が
平和3:戦乱2程度の歴史配分であるのより良好な実績となっている。
最も、古代の文化文明を軒並み破却して原始時代並みの生活に戻り、
異教徒弾圧で残虐非道の限りを尽くし、司教が自らの糞尿を聖遺物として
信者に有難がらせるほどの蒙昧っぷりで、総体としての勢力の停滞によって
イスラム世界の台頭をも助長してしまった、欧米人たち自身も「暗黒の時代」
と呼ぶキリスト教侵略時代のローマを「数百年の泰平を謳歌した、文化文明
も優れた時代」などと豪語するほどにも奇特な歴史観を持つおまえなんかに
いくら史実どおりの論弁を呈したところで、馬耳東風なのかも知れんがな。

残念ながら、おまえのいう「人間のための科学」こそは、
物理学のような数理的裏付けを必要とする理論科学以上に信用が置けない。
自然法則に限らず、社会や人文の領域まで科学的手法のみに任せようとする試みは
もう100年以上前から試みられて来ている上に、惨憺たる結果を招いている。
ただ社会運営に失敗しただけでなく、伝統的な知見やそれに基づく
人間精神の有機性を否定して廃絶したことが、人々の著しい低脳化を招いた。
今でも中国人やロシア人や、その他旧共産圏の人間には酷くセルフネグレクトな
傾向が見られる。思想哲学も宗教も科学の下に置き切った連中ならではの症状。
「そんな過ちを二度とは犯すまい」というのなら、現代人のITゾンビ化を見よ。
底辺民からハリウッドスター級のセレブまでみんなSNSの奴隷と化し、
ポケモンGOだのハンドスピナーだのピコ太郎だのSalt Baeだのと、
ガキの嬉しがりみたいな一過性のブームに右往左往している始末。
科学を信頼しきって自分たち自身の精神的研鑽を怠るようなら、
それが人類自身の成長の終わる時であってだ。もうこの地球上から人間は消えるか、
映画マトリックスの人間発電所の部品のようにでもなるのが適当というものだろう。
>残念ながら、おまえのいう「人間のための科学」こそは、 物理学のような数理的裏付けを必要とする理論科学以上に信用が置けない。
それは思想哲学宗教を否定する理由と全く同じなんだが。人間の科学以上に全く客観性と再現性と反証可能性が欠如しているので、
数理的裏付けが無いのは物理学>人間科学≫哲学体系 だろ。その批判は全く的を射ていない。
>自然法則に限らず、社会や人文の領域まで科学的手法のみに任せようとする試みは、もう100年以上前から試みられて来ている上に、惨憺たる結果を招いている。
それは具体的にどのよな方法か?社会や人間、生物のあらゆるデータを得る方法が、極々限られていたそんな時代の生命、人間科学を比較として
持ち出されてもなんの意味もない。
それは思想哲学宗教を否定する理由と全く同じなんだが。人間の科学以上に全く客観性と再現性と反証可能性が欠如しているので、
数理的裏付けが無いのは物理学>人間科学≫哲学体系 だろ。その批判は全く的を射ていない。
>自然法則に限らず、社会や人文の領域まで科学的手法のみに任せようとする試みは、もう100年以上前から試みられて来ている上に、惨憺たる結果を招いている。
それは具体的にどのよな方法か?社会や人間、生物のあらゆるデータを得る方法が、極々限られていたそんな時代の生命、人間科学を比較として
持ち出されてもなんの意味もない。
>今でも中国人やロシア人や、その他旧共産圏の人間には酷くセルフネグレクトな
傾向が見られる。思想哲学も宗教も科学の下に置き切った連中ならではの症状。
それは別に共産圏だけでなく、日本でも同じこと。日本人ほど宗教や思想に無関心な人種も少ない。
そして無神教化、科学主義化は今全世界で同時に起こっている事。
>ITソンビやSNSっ
それは生命科学や人間科学の成果として生み出されたものではないので、そんなのもを否定の材料にされても話にならない。
まぁしかし、今の人間が簡単に情報にアクセスして、IQが向上し続け、証拠主義、科学主義を信仰するようになったのは全て、
情報技術、流通技術のおかげだが。
傾向が見られる。思想哲学も宗教も科学の下に置き切った連中ならではの症状。
それは別に共産圏だけでなく、日本でも同じこと。日本人ほど宗教や思想に無関心な人種も少ない。
そして無神教化、科学主義化は今全世界で同時に起こっている事。
>ITソンビやSNSっ
それは生命科学や人間科学の成果として生み出されたものではないので、そんなのもを否定の材料にされても話にならない。
まぁしかし、今の人間が簡単に情報にアクセスして、IQが向上し続け、証拠主義、科学主義を信仰するようになったのは全て、
情報技術、流通技術のおかげだが。
なあ笠地蔵よ。今俺達がしている議論をなんていうか分かるか?
こういうのを不毛な議論っていうんだろ?
お前がどんなに思想哲学宗教の方が科学より上だと説いた所で、俺は平安な世が訪れた背景は思想なんかより、
他のファクターの方が遥かに重要で大きいと確信しているし、それが変化することはおそらく無い。
そして笠地蔵が俺の反論に納得することもおそらく無いだろう。
これがデータ無き議論の不毛さを証明している。(まぁ科学的データを事細かに持ち出して反論できない俺にも要因はあるが。)
つまりこれが思想哲学宗教の限界なんだよ。他人を説得するには、力がなさすぎる。
しかしイノベーションは説得などせずとも、すぐに実感として伝わるし根付く。
それは笠地蔵が情報ツールを駆使して、インフラを駆使して、思想体系を体得したのだからお前も分かっているはずだ。
こういうのを不毛な議論っていうんだろ?
お前がどんなに思想哲学宗教の方が科学より上だと説いた所で、俺は平安な世が訪れた背景は思想なんかより、
他のファクターの方が遥かに重要で大きいと確信しているし、それが変化することはおそらく無い。
そして笠地蔵が俺の反論に納得することもおそらく無いだろう。
これがデータ無き議論の不毛さを証明している。(まぁ科学的データを事細かに持ち出して反論できない俺にも要因はあるが。)
つまりこれが思想哲学宗教の限界なんだよ。他人を説得するには、力がなさすぎる。
しかしイノベーションは説得などせずとも、すぐに実感として伝わるし根付く。
それは笠地蔵が情報ツールを駆使して、インフラを駆使して、思想体系を体得したのだからお前も分かっているはずだ。
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