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聖書 Part12
▼ページ最下部
この地球人類社会において、自明なまでに「第一の聖書」としての
地位を確立しているのが、他でもない儒家の聖書、四書五経である。
「自明」というのは、たとえ本人が四書五経などを読みもしないでいたところで、
この世界において標準的な生活や仕事を営もうとすれば自然と、四書五経の教条に則って
しまうこととなるからだ。為政者が夏の禹帝のような治水や灌漑に励んだり、孔子や孟子が
訴えるような農繁期を尊重しつつの民の使役を心がけたりすれば、それにより当該国の底力
が蓄えられる。そのおかげで人々もまたそれなりの文明的な生活を営んで行けるように
なるわけだから、あえて経書を読んでそれに則っているかどうかすら関係ないのである。
ローマ帝国などは、「いい土地に蒔かれた種は三十倍、六十倍もの実を付ける(マルコ4:20)」
などというイエスの浮ついた教義を約2000年前に受け入れたりしていたこともあって、そんなことがある
わけもない実際の農産を疎かにして、作物を外地に発注するような真似に及んでいた。結果、ローマ帝国
の衰退と共に、イタリアという地域の国勢からして衰退していった。同じく王朝自体は何度も滅んでいる
中国のほうは、それでも歴代の徳治者たちによる国内での農産の振興という遺産が伴い続けているものだから、
すでに王政すら廃されている今に至ってもやはり、十億を超える人口を養えるような国力を保ち続けている。
四書五経に記録されているような堅実な政治規範や生活規範に則れば、そのぶんだけ人々も繁栄に与れる
一方で、それに反するような真似をやらかしていれば、短期的にも長期的にも衰亡が免れ得ないものとなる。
あえて経書を読んでから則ろうが則るまいが、そのようである限りにおいて人類もまた存続し、そうで
いられないようなら人類も全体規模で衰亡して行くことが免れ得ないのだから、四書五経こそは人類に
とって自明なほどにも「第一の聖書」として取り扱うことが避けられないものとなっているのである。

地位を確立しているのが、他でもない儒家の聖書、四書五経である。
「自明」というのは、たとえ本人が四書五経などを読みもしないでいたところで、
この世界において標準的な生活や仕事を営もうとすれば自然と、四書五経の教条に則って
しまうこととなるからだ。為政者が夏の禹帝のような治水や灌漑に励んだり、孔子や孟子が
訴えるような農繁期を尊重しつつの民の使役を心がけたりすれば、それにより当該国の底力
が蓄えられる。そのおかげで人々もまたそれなりの文明的な生活を営んで行けるように
なるわけだから、あえて経書を読んでそれに則っているかどうかすら関係ないのである。
ローマ帝国などは、「いい土地に蒔かれた種は三十倍、六十倍もの実を付ける(マルコ4:20)」
などというイエスの浮ついた教義を約2000年前に受け入れたりしていたこともあって、そんなことがある
わけもない実際の農産を疎かにして、作物を外地に発注するような真似に及んでいた。結果、ローマ帝国
の衰退と共に、イタリアという地域の国勢からして衰退していった。同じく王朝自体は何度も滅んでいる
中国のほうは、それでも歴代の徳治者たちによる国内での農産の振興という遺産が伴い続けているものだから、
すでに王政すら廃されている今に至ってもやはり、十億を超える人口を養えるような国力を保ち続けている。
四書五経に記録されているような堅実な政治規範や生活規範に則れば、そのぶんだけ人々も繁栄に与れる
一方で、それに反するような真似をやらかしていれば、短期的にも長期的にも衰亡が免れ得ないものとなる。
あえて経書を読んでから則ろうが則るまいが、そのようである限りにおいて人類もまた存続し、そうで
いられないようなら人類も全体規模で衰亡して行くことが免れ得ないのだから、四書五経こそは人類に
とって自明なほどにも「第一の聖書」として取り扱うことが避けられないものとなっているのである。

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外遊以上の内省が十分であればこそ、自己が確立されて、「外物の内」に組み込まれることなどに
安心感を追い求めたりする必要もなくなる。女子供や小人にはなかなか難しいことであるにしたって、
大人の男にはそれを可能とする能力が確かに備わっていて、そこでこそ「不惑」となれるようにも
生体から出来上がっている。そのような益荒男こそが世の中で主導的な立場に立つ程度の条件が整えられて
すらいれば、世の中が傾くようなことまではなくて済むのだから、そんなに困難なことであるとも言えない。
天下国家が傾くレベルの我田引水災禍は、それすらもが損なわれた時にこそ来してしまうものなのだから、
随分と容易な条件までもが損なわれた結果として、世の中も破滅に見舞われるのだといえる。聖道門の
仏門に世の中を挙げて帰依するような難儀を損ねてしまったからだったりするわけでもないからこそ、
そこで世人が自業自得の災禍に見舞われることもまた、何らの言い訳のしようがないわけである。
人間社会から外交を絶やしたりするのも不可能なことだし、そもそも人と人との関わりが
あればこそ「人間」なのでもある。君臣父子夫婦のように、より尊ばれて然るべき人間関係
もあるわけで、その手の関係の尊重はかえって、修己治人の促進にすら繋がるものである。
(男女室に居るは天下の大倫なり。孟子・万章章句上・二)
内省を損ねるような人間関係からして限られていて、それこそは粗悪な類いの人間関係でもある。
礼節も知らないような蛮族との交遊、身分の違いを度外視し過ぎた横繋がりの校友、ただただ
性交ばかりを目的とした異性交遊など、それなりに自分からの積極的な働きかけがあるのでなければ
成立し得ないような関係ばかりがそれに当たるのだから、その手の交遊関係のせいで内省を損ねて
しまったり、そのせいで深刻な我田引水に与してしまったりすること自体、全くの自業自得であるため、
何らの言い訳のしようもないということが言えるわけである。
安心感を追い求めたりする必要もなくなる。女子供や小人にはなかなか難しいことであるにしたって、
大人の男にはそれを可能とする能力が確かに備わっていて、そこでこそ「不惑」となれるようにも
生体から出来上がっている。そのような益荒男こそが世の中で主導的な立場に立つ程度の条件が整えられて
すらいれば、世の中が傾くようなことまではなくて済むのだから、そんなに困難なことであるとも言えない。
天下国家が傾くレベルの我田引水災禍は、それすらもが損なわれた時にこそ来してしまうものなのだから、
随分と容易な条件までもが損なわれた結果として、世の中も破滅に見舞われるのだといえる。聖道門の
仏門に世の中を挙げて帰依するような難儀を損ねてしまったからだったりするわけでもないからこそ、
そこで世人が自業自得の災禍に見舞われることもまた、何らの言い訳のしようがないわけである。
人間社会から外交を絶やしたりするのも不可能なことだし、そもそも人と人との関わりが
あればこそ「人間」なのでもある。君臣父子夫婦のように、より尊ばれて然るべき人間関係
もあるわけで、その手の関係の尊重はかえって、修己治人の促進にすら繋がるものである。
(男女室に居るは天下の大倫なり。孟子・万章章句上・二)
内省を損ねるような人間関係からして限られていて、それこそは粗悪な類いの人間関係でもある。
礼節も知らないような蛮族との交遊、身分の違いを度外視し過ぎた横繋がりの校友、ただただ
性交ばかりを目的とした異性交遊など、それなりに自分からの積極的な働きかけがあるのでなければ
成立し得ないような関係ばかりがそれに当たるのだから、その手の交遊関係のせいで内省を損ねて
しまったり、そのせいで深刻な我田引水に与してしまったりすること自体、全くの自業自得であるため、
何らの言い訳のしようもないということが言えるわけである。
人間が極度に外物に囚われた結果として、部分の我田引水に与してしまう心理法則を最大級に悪用
しているのが、聖書信仰のようなカルト宗教だったりするわけだけれども、その聖書信仰の発祥地である
中東においては、とっくの昔からすでに聖書信仰が絶やされて、代替にイスラム教が信仰されている。
そのイスラム教はといえば、自力仏教並みの戒律厳守の下での内省を重んじるものであり、それでこそ
汎神アラーの御心にもかなうとしている。外交の極みである行商が活発な砂漠地帯だからこそ聖書信仰をも
生み出してしまった一方で、そのような弊害を十二分に相殺するための戒律主義の信教に新たに帰依もした。
そのおかげで中東という地域の罪過はすでに十分に打ち消されているわけだが、相も変わらず聖書信仰に
耽り続けている西洋は、どうであろうか。未開の蛮族故の無知さを盾にした過失犯としての言い訳なども、
いい加減筋が通らない時期に来ているのではないか。
「吾れ女じに礼を語りて、女じを以て礼に周流して遍からざる無からしむ」
「私があなたに礼を教えて、あなたが何事にかけても遍く礼に則らずにはいられないようにしてあげよう。
(礼節こそは普遍的なものであり、何事にかけてもその内に止まらねばならないものである。
そしてそれこそは『住心』たり得て、恒常的に自然とそのようでいられる所ともなるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・仲尼燕居第二十八より)
しているのが、聖書信仰のようなカルト宗教だったりするわけだけれども、その聖書信仰の発祥地である
中東においては、とっくの昔からすでに聖書信仰が絶やされて、代替にイスラム教が信仰されている。
そのイスラム教はといえば、自力仏教並みの戒律厳守の下での内省を重んじるものであり、それでこそ
汎神アラーの御心にもかなうとしている。外交の極みである行商が活発な砂漠地帯だからこそ聖書信仰をも
生み出してしまった一方で、そのような弊害を十二分に相殺するための戒律主義の信教に新たに帰依もした。
そのおかげで中東という地域の罪過はすでに十分に打ち消されているわけだが、相も変わらず聖書信仰に
耽り続けている西洋は、どうであろうか。未開の蛮族故の無知さを盾にした過失犯としての言い訳なども、
いい加減筋が通らない時期に来ているのではないか。
「吾れ女じに礼を語りて、女じを以て礼に周流して遍からざる無からしむ」
「私があなたに礼を教えて、あなたが何事にかけても遍く礼に則らずにはいられないようにしてあげよう。
(礼節こそは普遍的なものであり、何事にかけてもその内に止まらねばならないものである。
そしてそれこそは『住心』たり得て、恒常的に自然とそのようでいられる所ともなるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・仲尼燕居第二十八より)
「善も積まざれば以って名を成すに足らず(易経・繋辞下伝)」であるため、
「謙は益を受く(書経・大禹謨)」などを典拠とした善行を心がけるにしたって、
それも一時的なものなどであっていいはずはない。謙譲は謙譲のための謙譲であり、
その見返りなどをいちいち期待していたりしてもならないぐらいの心持ちであり続ける
ことでやっと、天道にかなった功徳までもが得られるようになるに違いないのだから。
どれぐらいそのような心がけを徹底しなければならないかといえば、そもそも自分の
代だけでは大した成果にも繋がらないぐらいの覚悟でなければならない。成果が挙がる
にしたって何代も先のことであり、自分の代では成果の兆しも垣間見られないままに
終わることすらをも厭わないぐらいの積善に対する姿勢であって初めて、何代か後に
そのような成果が得られたり、全くの僥倖で自らの代でも成果が垣間見られたりする
ことがあったりなかったりするぐらいのものだと受け入れられるのでなければならない。
それは実際、女子と小人には到底受け入れられるあり方などでもありはしない。
自分一身の利害を超えた、天下国家に通ずる程もの心意気を実践にも移せるだけの
素養を持つのは君子たる大人の男のみであり、なおかつそのような逸材の男たちが
何代も世襲で功徳を積んで行くぐらいであって初めて目に見える程もの成果が生じ得る
わけだから、そのような心意気を君子の男と共に何代にも渡って尊んで行けるだけの
体制が世の中のほうでも保たれて行くのでなければ、積善が天道にすら根ざして
目に見える成果を生ずるなどということも、なかなか期待できなくなるのである。
「謙は益を受く(書経・大禹謨)」などを典拠とした善行を心がけるにしたって、
それも一時的なものなどであっていいはずはない。謙譲は謙譲のための謙譲であり、
その見返りなどをいちいち期待していたりしてもならないぐらいの心持ちであり続ける
ことでやっと、天道にかなった功徳までもが得られるようになるに違いないのだから。
どれぐらいそのような心がけを徹底しなければならないかといえば、そもそも自分の
代だけでは大した成果にも繋がらないぐらいの覚悟でなければならない。成果が挙がる
にしたって何代も先のことであり、自分の代では成果の兆しも垣間見られないままに
終わることすらをも厭わないぐらいの積善に対する姿勢であって初めて、何代か後に
そのような成果が得られたり、全くの僥倖で自らの代でも成果が垣間見られたりする
ことがあったりなかったりするぐらいのものだと受け入れられるのでなければならない。
それは実際、女子と小人には到底受け入れられるあり方などでもありはしない。
自分一身の利害を超えた、天下国家に通ずる程もの心意気を実践にも移せるだけの
素養を持つのは君子たる大人の男のみであり、なおかつそのような逸材の男たちが
何代も世襲で功徳を積んで行くぐらいであって初めて目に見える程もの成果が生じ得る
わけだから、そのような心意気を君子の男と共に何代にも渡って尊んで行けるだけの
体制が世の中のほうでも保たれて行くのでなければ、積善が天道にすら根ざして
目に見える成果を生ずるなどということも、なかなか期待できなくなるのである。

ないが、一応、女子供などと違って、大人の男にはそれだけの気高さを抱けるだけの
先天的な能力が備わっている。身分の低さなどが原因でそのような気高さを持て余して、
自分個人の栄華にしか興味がない女などから「男は幼稚」などと揶揄されたりしている
場合などがあるわけだけれども、天下に冠たる君子階級としての権能などと共にであれば、
確かにその手の能力が天下の繁栄にすら貢献するほどもの威徳を発揮し得るわけだから、
大人の男にそれ程もの気高さが備わり得ることを非難するようなことがあってもならない。
元来、大人の男がそのような気高さを抱き始めたのは、長年の努力によって初めて
実を結ぶ農耕が発祥したことあたりを起源としている。「田に力をそそぐ」と書いて
「男」とする通り、そこに長年の努力を積み重ねて行く大人の男の気性の起源もまた
あったのだろうと考えられる。現在確認されている内でも最古の農耕の痕跡は、
今から約15000年前の中国長江流域付近のものであり、シリアのダマスカス付近で
世界最古の商業都市が形成され始めた約10000年前よりもかなり以前にまで遡る。
まず、田畑での耕作に精を入れる大丈夫然とした男たちが現れて、それにより世の中が
大規模化して行き、女子供だけでなく、末業にばかり従事する小人男などまでをも
養って行ってやれるだけの世の中の大規模化が促進されて行った。それからだいぶ
時代が経過して、農業などは一部の人間が機械を用いて従事していればそれだけで済む
ようになった今日などには、農業などさして尊ばれる職業でもなくなってしまったが、
そもそもの人類文明の起源から言って、むしろ大丈夫たる男が文明発展を主導して行った
結果として、商人の男などもそれなりに生計を立てて行けるようになったという事実が
あるわけだから、自分たちが文明発展を主導することのできない女子供だけでなく、
資本主義などの暴挙と共にであれば文明の主導者ですらあり得る小人の男もまた、
大先輩たる君子然とした男を蔑ろにするようなことがあってはならない。
自分一身の成功ばかりを本当に第一とはしていないからこそ、君子たる男の成果というのも、
目に見えてよく分かるようなものは氷山の一角止まりとなっている。そのあたり、さしたる
成果でもないにもかかわらず、虚飾や誇大広告の限りを尽くすことであたかも甚大で
あるかのように見せかける小人の事業などとは対照的なものですらあるといえる。
別に、目に見えている成果が全て虚構なわけでもないにしたって、真に尊ばれるべき
偉大な業績というのは、何百年から何千年という規模で歴史を鑑みるぐらいの気長さと
共にでなければとうてい全容を計り知ることもできないようなものばかりなのだから、
「蛇の道は蛇」ならぬ、「君子の道は君子のみぞ知る」ということもまた言えるのである。
「謙は尊くして光り、卑しくして踰ゆる可からず。君子の終わりなり」
「謙譲は貴い身分の人間を輝かせ、卑しい身分の人間にすら侵し難さを帯びさせるもので
あるから、君子は(身分の如何などに関わりなく)終身謙譲を本是として行くのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・謙・彖伝より)
目に見えてよく分かるようなものは氷山の一角止まりとなっている。そのあたり、さしたる
成果でもないにもかかわらず、虚飾や誇大広告の限りを尽くすことであたかも甚大で
あるかのように見せかける小人の事業などとは対照的なものですらあるといえる。
別に、目に見えている成果が全て虚構なわけでもないにしたって、真に尊ばれるべき
偉大な業績というのは、何百年から何千年という規模で歴史を鑑みるぐらいの気長さと
共にでなければとうてい全容を計り知ることもできないようなものばかりなのだから、
「蛇の道は蛇」ならぬ、「君子の道は君子のみぞ知る」ということもまた言えるのである。
「謙は尊くして光り、卑しくして踰ゆる可からず。君子の終わりなり」
「謙譲は貴い身分の人間を輝かせ、卑しい身分の人間にすら侵し難さを帯びさせるもので
あるから、君子は(身分の如何などに関わりなく)終身謙譲を本是として行くのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・謙・彖伝より)
致命的な罪過ほど、より甚大な損害を世の中に加えるものであるために、
大局からの破滅を呼び込むという形での罪状の露呈もまた避けられなくなる。
秘密結社や諜報機関などの体裁を借りた西洋人による秘密裏の重権力犯罪
もまた、最終的には西洋全体の国勢の弱体化という形での自滅の危機を招いた。
未だその罪状のほとんどがひた隠しにされたままではあるものの、その手管
のほとんどは、古くは「史記」などにも記録されている典型的な権力犯罪の
手段であり、そのような手段を用いた結果として破滅の危機に陥ってしまって
いるとしか考えられないような事態に、確かに西洋諸国が陥ってもいる。
フランス革命や第一次世界大戦や日米開戦や、近ごろの中東諸国の紛争など
の裏でも、米欧やイスラエルなどの権力犯罪者が数多の工作を積み重ねて
いるだろうことが、「史記」における蘇秦や張儀といった悪徳外交家(縦横家)
の跳梁跋扈の記録からも見て取れる。さらに、そのような工作要員を養成する
ための組織として、各種の秘密結社や諜報機関などが利用されて来ただろう
こともまた、「史記」における孟嘗君や春申君や平原君といった権力者による
数多の食客の囲い込みの記録からも察することができる。さらに、ケネディ
大統領や朴正煕大統領が暗殺された後のアメリカや韓国において、もはや
政府までもが諜報機関の傀儡状態と化してしまっているだろうこともまた、
「史記」における政商呂不韋やその私生児である贏政(後の秦始皇帝)ら
による秦王国の乗っ取り過程の記録などと照らし合わせてみれば分かる。
(呂不韋もまた膨大な人数の食客を養う工作機関の親分格であった)
以上のような諸々の権力犯罪行為は、東洋ではそれこそ「史記」の記録などを
頼りに厳重な警戒の対象とされて来た。中国では前漢武帝の代に、悪徳外交家や
食客の跋扈を正当化するような諸学(縦横家や雑家など)が正式に異端の邪学
に認定されたし、戦国時代などに著しい権謀術数災禍を呼び込んでしまった
大局からの破滅を呼び込むという形での罪状の露呈もまた避けられなくなる。
秘密結社や諜報機関などの体裁を借りた西洋人による秘密裏の重権力犯罪
もまた、最終的には西洋全体の国勢の弱体化という形での自滅の危機を招いた。
未だその罪状のほとんどがひた隠しにされたままではあるものの、その手管
のほとんどは、古くは「史記」などにも記録されている典型的な権力犯罪の
手段であり、そのような手段を用いた結果として破滅の危機に陥ってしまって
いるとしか考えられないような事態に、確かに西洋諸国が陥ってもいる。
フランス革命や第一次世界大戦や日米開戦や、近ごろの中東諸国の紛争など
の裏でも、米欧やイスラエルなどの権力犯罪者が数多の工作を積み重ねて
いるだろうことが、「史記」における蘇秦や張儀といった悪徳外交家(縦横家)
の跳梁跋扈の記録からも見て取れる。さらに、そのような工作要員を養成する
ための組織として、各種の秘密結社や諜報機関などが利用されて来ただろう
こともまた、「史記」における孟嘗君や春申君や平原君といった権力者による
数多の食客の囲い込みの記録からも察することができる。さらに、ケネディ
大統領や朴正煕大統領が暗殺された後のアメリカや韓国において、もはや
政府までもが諜報機関の傀儡状態と化してしまっているだろうこともまた、
「史記」における政商呂不韋やその私生児である贏政(後の秦始皇帝)ら
による秦王国の乗っ取り過程の記録などと照らし合わせてみれば分かる。
(呂不韋もまた膨大な人数の食客を養う工作機関の親分格であった)
以上のような諸々の権力犯罪行為は、東洋ではそれこそ「史記」の記録などを
頼りに厳重な警戒の対象とされて来た。中国では前漢武帝の代に、悪徳外交家や
食客の跋扈を正当化するような諸学(縦横家や雑家など)が正式に異端の邪学
に認定されたし、戦国時代などに著しい権謀術数災禍を呼び込んでしまった
日本においても、江戸時代以降には諜報員が諜報犯罪にまで及ぶことが
固く禁じられたために、諜報犯罪を専門とする忍者が廃業に追い込まれて、
武術鍛錬の精錬さで諜報活動の汚濁をも相殺する目付のみが残存するなどした。
そのような権力犯罪に対する厳重な戒めがあればこそ、日本も中国も経済面
や人口面における総力で西洋社会を圧倒することができた。政商や食客や
縦横家による権力犯罪を固く取り締まる代わりに、治水や灌漑といったような
土木事業によって農産を底上げしたり、参勤交代を通じて着実な商業のみを
促進させたりしたことで、権力犯罪や金融犯罪のような曲芸ばかりに頼って
正攻法を蔑ろにし続けて来た西洋諸国をも圧倒することができたのである。
そのような正攻法に頼り続けてきた対抗馬がいればこそ、なおのこと、西洋諸国
がまだ表向きにもしていないなような、凶悪な権力犯罪の数々によって自他を
損ねる害悪を撒き散らして来ただろうことが自明ともなっている。「火のない
所に煙は立たぬ」であり、数多の植民地支配によってですら国力を増強してきた
はずの西洋諸国が、ほんの百数十年前まで鎖国状態を貫いて来た極東の国々
などに勢力面で凌駕されたことにも、それなりの理由があるはずなのである。
罪過はかえって、己れを損ねるものである。短期的な利益には結びついても、
長期的にはより多大なる損害をもたらしてしまうものであるという道理を
見失ったままでいたものだから、西洋人も、罪を隠しおおせていることなどを
いいことに、どこまでも罪過を増長させるようなマネにすら及んでしまっている。
頭も隠して尻も隠した所で、隠れている所が破滅の元凶であるからには、そこ
にこそメスを入れるしかなくなるわけだから、罪を隠しおおせることなどもまた、
より甚大なる破滅を助長する悪魔の誘惑でしかなかったことが確かだといえる。
「人の牆有るは、以て悪を蔽わんとすればなり。牆の隙壊あるは、
誰の咎ぞや。衛りて之を悪しくせば、吾れ又た焉れより甚だし」
「人家に垣根があるのも、都合が悪いことを人目から蔽うためだ。その垣根
に壊れて隙間ができてしまったとしても大した罪にはならないが、もしも
国を守るような重大な権能を帯びた人間が、隠れた所で悪事を働いたりした
ならば、その害悪は垣根が壊れている場合以上にも甚だしいものとなるだろう。
(賄賂によって懐柔されそうになった魯の使節叔孫の拒絶の言葉。隠れた所で
罪が犯されるのは、早急に罪が暴かれる場合以上もの害を招くという格言)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公元年より)
「蔽い隠す」ということは、基本、都合の悪いことを隠すために行われるものだという格言。
ただ、男女の性交のような必要悪によって子宝に恵まれたりもするわけだから、
それを蔽い隠したりすることが密教的な意味合いを以て尊ばれるべき場合までもがある。
上記の記録における「賄賂」のような、不必要悪までもが蔽い隠された場合にこそ、
隠蔽行為も致命的な害悪を招き始めることとなる。予算非公開のCIAが、韓国人を日本国内での
破壊工作に従事させたりした見返りとしてアメリカへの入国を斡旋してやった結果、
今のアメリカが韓国系の不法移民の増加問題に苛まれたりしているように。
誰の咎ぞや。衛りて之を悪しくせば、吾れ又た焉れより甚だし」
「人家に垣根があるのも、都合が悪いことを人目から蔽うためだ。その垣根
に壊れて隙間ができてしまったとしても大した罪にはならないが、もしも
国を守るような重大な権能を帯びた人間が、隠れた所で悪事を働いたりした
ならば、その害悪は垣根が壊れている場合以上にも甚だしいものとなるだろう。
(賄賂によって懐柔されそうになった魯の使節叔孫の拒絶の言葉。隠れた所で
罪が犯されるのは、早急に罪が暴かれる場合以上もの害を招くという格言)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公元年より)
「蔽い隠す」ということは、基本、都合の悪いことを隠すために行われるものだという格言。
ただ、男女の性交のような必要悪によって子宝に恵まれたりもするわけだから、
それを蔽い隠したりすることが密教的な意味合いを以て尊ばれるべき場合までもがある。
上記の記録における「賄賂」のような、不必要悪までもが蔽い隠された場合にこそ、
隠蔽行為も致命的な害悪を招き始めることとなる。予算非公開のCIAが、韓国人を日本国内での
破壊工作に従事させたりした見返りとしてアメリカへの入国を斡旋してやった結果、
今のアメリカが韓国系の不法移民の増加問題に苛まれたりしているように。
塩は、良くも悪しくも活力の源である。「悪しくも」というのは、
戦争時などにおける兵士の最も手っ取り早い活力源に塩がなったりもするからで、
それが「勇を好みて学を好まざれば、その弊や乱」ということにすらなりかねないからである。
塩の闇商人だった黄巣こそが大唐帝国崩壊の引き金を引いたのも、兵士の活力の有無が戦局の如何にすら
直結していた近代以前の社会において、まさにその活力の源となる塩が当人によって独占されていたから
でこそあった。広大な内陸国で、海産塩や岩塩の採れる地域も限られている上に、古くからの農地開発
などによって人口力も底上げされて来ているという事情があればこそ、中国史上でも最隆盛を誇った
大唐帝国もまた、塩の闇商人の暴慢などという意外な理由によってあっけなく滅んでしまったのである。
これらのような事例を鑑みるに、適切に扱われれば世の中の平和や繁栄にすら貢献する一方で、
扱い方を誤れば亡国級の争乱すらをも招きかねないのが塩であると言える。人間社会の根本基盤の
一つとなる塩を、水や穀物や鉄鋼といったその他の必需資源と共に、国こそが厳重な管理下に
置いて行く必要があり、そのためには国家社稷といったものを国民総出で尊んで行けるだけの
体制でもなければならない。間違っても、闇商人だの悪徳政商だの、それらの暗躍を正当化
するカルト宗教だのによって、国家の権威が蔑ろにされるようなことがあってはならない。
仏法で「無記」と定義される所の、それ自体は善でも悪でもないものの内の一つが塩である。
適切に扱われれば、より一層の善事の推進の糧ともなるため、その場合には塩も「無覆無記」となるが、
扱いを誤れば破滅級の危害をも招きかねないものだから、その場合には塩も「有覆無記」となる。
同様な性質を持つものとして、愛や勇気や臆病といった原始的な感情や、私見を差し挟まない博物的な
科学知識や、それを応用した技術体系などが挙げられる。いずれも現代にこそ持て囃されている部類の
戦争時などにおける兵士の最も手っ取り早い活力源に塩がなったりもするからで、
それが「勇を好みて学を好まざれば、その弊や乱」ということにすらなりかねないからである。
塩の闇商人だった黄巣こそが大唐帝国崩壊の引き金を引いたのも、兵士の活力の有無が戦局の如何にすら
直結していた近代以前の社会において、まさにその活力の源となる塩が当人によって独占されていたから
でこそあった。広大な内陸国で、海産塩や岩塩の採れる地域も限られている上に、古くからの農地開発
などによって人口力も底上げされて来ているという事情があればこそ、中国史上でも最隆盛を誇った
大唐帝国もまた、塩の闇商人の暴慢などという意外な理由によってあっけなく滅んでしまったのである。
これらのような事例を鑑みるに、適切に扱われれば世の中の平和や繁栄にすら貢献する一方で、
扱い方を誤れば亡国級の争乱すらをも招きかねないのが塩であると言える。人間社会の根本基盤の
一つとなる塩を、水や穀物や鉄鋼といったその他の必需資源と共に、国こそが厳重な管理下に
置いて行く必要があり、そのためには国家社稷といったものを国民総出で尊んで行けるだけの
体制でもなければならない。間違っても、闇商人だの悪徳政商だの、それらの暗躍を正当化
するカルト宗教だのによって、国家の権威が蔑ろにされるようなことがあってはならない。
仏法で「無記」と定義される所の、それ自体は善でも悪でもないものの内の一つが塩である。
適切に扱われれば、より一層の善事の推進の糧ともなるため、その場合には塩も「無覆無記」となるが、
扱いを誤れば破滅級の危害をも招きかねないものだから、その場合には塩も「有覆無記」となる。
同様な性質を持つものとして、愛や勇気や臆病といった原始的な感情や、私見を差し挟まない博物的な
科学知識や、それを応用した技術体系などが挙げられる。いずれも現代にこそ持て囃されている部類の
事物であり、そのせいで相対的に善悪の分別などが蔑ろにされてしまっていたりもするわけだけれども、
道徳的な素養が蔑ろにされてまで無記なる事物ばかりが持て囃されているぐらいだから、当然のこととして、
それらも悪用されて有覆無記然とした様相を呈してしまっている。科学技術を駆使した強大な兵器による
無辜の市民への虐殺行為などがその最たる例だが、そこまで行かずとも、もう少し微妙な段階からの
無記なる事物の悪用というものが、平時の内からすら大量に試みられているのが現状である。
塩もまた、最善を尽くす場合と比べれば、相当に粗悪な活用のされ方となってしまっている。
「最善を尽くす場合」というのは、例えば文武両道の武士が十全な道徳的素養と共に塩分摂取や武術の鍛錬を
心がけて、以て公益寄与のための仁政に励んで行ったりする場合のことである。今はといえば、文武両道が
蔑ろにされて人々がみな文科系か体育会系に分裂してしまい、文系の人間は淫らな思考の助長のために
塩分摂取を控え、体育会系の人間はそのような文系の人間の淫らな思い付きを牛馬のような勢いで以て
実行に移すための半奴隷要員として、何のわきまえもなく塩を舐めつつ仕事に取り組むような始末である。
(文系の人間が企てた無計画かつ過大な建築事業を、体育会系の作業員が請け負わされるなど)
塩が行き渡るべき所に行き渡らず、そこにばかり行き渡るべきではないような所にばかり行き渡っている
という点では、現代も、闇商人が塩を寡占していた唐代末期の中国などと全く共通しているため、
そのせいでの唐国崩壊級の危難すらもが、現代においてもまた免れられなくなるであろう。
道徳的な素養が蔑ろにされてまで無記なる事物ばかりが持て囃されているぐらいだから、当然のこととして、
それらも悪用されて有覆無記然とした様相を呈してしまっている。科学技術を駆使した強大な兵器による
無辜の市民への虐殺行為などがその最たる例だが、そこまで行かずとも、もう少し微妙な段階からの
無記なる事物の悪用というものが、平時の内からすら大量に試みられているのが現状である。
塩もまた、最善を尽くす場合と比べれば、相当に粗悪な活用のされ方となってしまっている。
「最善を尽くす場合」というのは、例えば文武両道の武士が十全な道徳的素養と共に塩分摂取や武術の鍛錬を
心がけて、以て公益寄与のための仁政に励んで行ったりする場合のことである。今はといえば、文武両道が
蔑ろにされて人々がみな文科系か体育会系に分裂してしまい、文系の人間は淫らな思考の助長のために
塩分摂取を控え、体育会系の人間はそのような文系の人間の淫らな思い付きを牛馬のような勢いで以て
実行に移すための半奴隷要員として、何のわきまえもなく塩を舐めつつ仕事に取り組むような始末である。
(文系の人間が企てた無計画かつ過大な建築事業を、体育会系の作業員が請け負わされるなど)
塩が行き渡るべき所に行き渡らず、そこにばかり行き渡るべきではないような所にばかり行き渡っている
という点では、現代も、闇商人が塩を寡占していた唐代末期の中国などと全く共通しているため、
そのせいでの唐国崩壊級の危難すらもが、現代においてもまた免れられなくなるであろう。
特に、文系支配と体育会系隷従の頻度が高い日本のような国であれば、惨暴が祟っての自滅の後に、
塩を舐めつつ仕事に取り組んでいたような土方だとかが懲罰要員として駆り出されることともなるだろう。
(アメリカなどであれば、脳みそ筋肉の海兵隊員などがそれに借り出されたりもするかもしれない)
文系の支配者がそのようであることを強いて来たればこそ、土方に従事しているような人間も、
無知で粗暴なままだったりする。だもんだから、自分がされたとしても全く構わないような発想で以て、
懲罰対象となった現支配者への粗暴な扱いにも及んだりするかもしれない。ちょうど、秦帝国崩壊後に
数多の権力者たちが、覇王項羽によって虐殺されたように。最終的にはその項羽に勝利したとはいえ、
高祖劉邦も当時はまだ項羽の勢いを凌駕できる程もの威勢を成してはいなかったわけで、
ただただ塩なめて暴れまわる荒くれ者を最終的には御することができたとしても、
一時ぐらいはそのような惨事に至らざるを得ないようなことにすらなり得るわけである。
塩の適切な扱いを蔑ろにして来た者たちの全くの自業自得によってこそ。
「王曰く、来れ、汝じ説。〜爾じに惟れ朕が志しを訓えん。
若し酒醴を作らば、爾は惟れ?糵なり。若し和羹を作らば、爾じは惟れ塩梅なり。
爾じ交々予を修めて、予を棄つること罔かれ。予れ惟れ克く乃の訓えを邁わん(一部既出)」
「殷王高宗が言われた。『近う寄れ、(重臣の)説よ。おまえに我が志しを教えよう。
私が酒を醸そうとするのであれば、おまえはそこに入れる麹だ(必須であるものの譬え)。
私が吸い物を作るのであれば、おまえはそこに入れる塩と梅酢だ(これも必須であるものの
譬えだが、『いい塩梅』などともいう通り、分量の加減が大事なものの譬えともなっている)。
おまえはこれからも私を助けて、私を見捨てるようなことがないでいてくれ。私もおまえの教えを
よく聴いて行くようにするから』(むしろ主君のほうが臣下に対して塩梅の如くであってくれという。
正しい陰陽関係として、下位者こそは塩などの重要物の提供者であるべきだとする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説明下より)
塩を舐めつつ仕事に取り組んでいたような土方だとかが懲罰要員として駆り出されることともなるだろう。
(アメリカなどであれば、脳みそ筋肉の海兵隊員などがそれに借り出されたりもするかもしれない)
文系の支配者がそのようであることを強いて来たればこそ、土方に従事しているような人間も、
無知で粗暴なままだったりする。だもんだから、自分がされたとしても全く構わないような発想で以て、
懲罰対象となった現支配者への粗暴な扱いにも及んだりするかもしれない。ちょうど、秦帝国崩壊後に
数多の権力者たちが、覇王項羽によって虐殺されたように。最終的にはその項羽に勝利したとはいえ、
高祖劉邦も当時はまだ項羽の勢いを凌駕できる程もの威勢を成してはいなかったわけで、
ただただ塩なめて暴れまわる荒くれ者を最終的には御することができたとしても、
一時ぐらいはそのような惨事に至らざるを得ないようなことにすらなり得るわけである。
塩の適切な扱いを蔑ろにして来た者たちの全くの自業自得によってこそ。
「王曰く、来れ、汝じ説。〜爾じに惟れ朕が志しを訓えん。
若し酒醴を作らば、爾は惟れ?糵なり。若し和羹を作らば、爾じは惟れ塩梅なり。
爾じ交々予を修めて、予を棄つること罔かれ。予れ惟れ克く乃の訓えを邁わん(一部既出)」
「殷王高宗が言われた。『近う寄れ、(重臣の)説よ。おまえに我が志しを教えよう。
私が酒を醸そうとするのであれば、おまえはそこに入れる麹だ(必須であるものの譬え)。
私が吸い物を作るのであれば、おまえはそこに入れる塩と梅酢だ(これも必須であるものの
譬えだが、『いい塩梅』などともいう通り、分量の加減が大事なものの譬えともなっている)。
おまえはこれからも私を助けて、私を見捨てるようなことがないでいてくれ。私もおまえの教えを
よく聴いて行くようにするから』(むしろ主君のほうが臣下に対して塩梅の如くであってくれという。
正しい陰陽関係として、下位者こそは塩などの重要物の提供者であるべきだとする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説明下より)

ただ、濁念と結託して悪行の原動力と化してしまったりもするものだから、濁念を
離れた所にある絶対真理を尊ぶ仏門などが、場合によっては否認する場合がある。
特に、愛と濁念の結託に対する警戒や牽制が仏門では盛んであり、自力他力に
関わらず、基本は否とされているものである(浄土宗開祖の法然上人すらもが、
遊女の信仰希望者に対して「できることならそのような仕事はやめなさい。ただ、
どうしても必要だったりするのなら、それと共に念仏に帰依しなさい」と言った)。
ただ、「華厳経」にも「可愛楽」などという理念が多々提示されていたりする通り、
十分に節制されて、なおかつ仏菩薩の如き尊ばれるべきものへの敬愛と化している
ような愛については、仏門もまたそれなりに是認している場合がある。諸々の
仏像などがあえて愛嬌のあるような造形で作成されていたりするのも、そういった
目的性があってのことであり、これは情愛を方便に乗せて悟りに至らせたりする
浄土門の段階ですらない、自力作善の聖道門における愛の善用であるといえる。
ただ、そのような節度を保った愛情は、濁愛に塗れているような人間にとっては
かえって淡白すぎてとっつき辛いものとなるのである。戦国期や明治期において、
秦人の末裔であるような一部の日本人が、日本中の寺や仏像を破壊して回ったのも、
生来濁愛まみれである自分たちの価値観が、仏門における可愛楽の淡白さなどを
受け入れることができなかったからなのでもある。確かに、その手の最悪級の濁念
にまみれてしまっているような連中に、聖道門の仏門などは「馬耳東風」であったに
違いないわけで、むしろ濁愛を方便に乗せる浄土門あたりのほうが分相応であった
に違いないわけだけれども、連中たるや、浄土門には自分たちすらもが取り込まれ
かねないことを警戒して、神道や聖道門の仏門への仮面状態での帰依などを通じて、
あえて浄土教を禁教下に置くなどして退けるようにすらしていたのだった。
濁愛でもあったりするような、肥大化した愛が、善巧方便に載せられるような
適切な措置も受けずに、全くの無軌道なままに放逸して行く、そこにこそ、
麻薬中毒的な陶酔があるのも確かなわけで、それが悪巧方便の類いのカルト信仰
などと結託した場合に、それはそれはあられもない害悪を招き始めることとなる。
物理的、経済的な実害も甚大なものとなるし、何よりも精神衛生に対する害が
極端に甚だしいものとなる。そこに理想を集約してしまった結果として、濁愛を
排した所にこそある本物の真理や道理が完全に見失われてしまう。見失われた
上で、見つけ直そうともされなくなり、完全誤謬の概念遊びに耽ることばかりで
全てを済ませてしまう、最も有害無益な部類の思考回路が出来上がることになる。
本物の麻薬中毒は、本人を生活や仕事もままならない状態と化してしまったり
するが、濁愛はその程度の能力は本人に保たせたままで、思考回路の奥深くまで
侵食して「駄目な脳みそ」を精製してしまうものだから、ある意味、麻薬中毒など
よりもさらに性質が悪いものだといえる。「宗教はアヘンだ」とマルクスは言ったが、
濁愛を正当化して助長する類いのカルト宗教の害こそは、麻薬以上のものだといえる。
近代医療は、身体や脳器質の疾患に対する治療方法を無数に編み出してきたが、精神
の汚染に対する治療措置は全くと言っていいほど疎かにして来た。それは、汚濁に
まみれた心を持つ俗人がやりたい放題した結果としての病気や怪我こそを商業目的
の治療対象ともして来たからであり、精神汚染への治療までもが推進されていったり
すれば、かえって自分たちが商売上がったりにもなりかねなかったからである。
精神の汚濁の治療は、身体の治療と相容れない所すらあるものだから、結局、
旧来の仏教帰依や儒学統治などに基づく以上の手段というものを、医学を含む
近代科学の発達した現代において、新たに期待できたりするところもありはしない。
深刻さでは、時に身体の疾患すらをも上回ることのある精神の汚濁を癒していくために、
「温故知新」以上に適切な手段があり得ないのも、永久不変の絶対法則なのだといえる。
適切な措置も受けずに、全くの無軌道なままに放逸して行く、そこにこそ、
麻薬中毒的な陶酔があるのも確かなわけで、それが悪巧方便の類いのカルト信仰
などと結託した場合に、それはそれはあられもない害悪を招き始めることとなる。
物理的、経済的な実害も甚大なものとなるし、何よりも精神衛生に対する害が
極端に甚だしいものとなる。そこに理想を集約してしまった結果として、濁愛を
排した所にこそある本物の真理や道理が完全に見失われてしまう。見失われた
上で、見つけ直そうともされなくなり、完全誤謬の概念遊びに耽ることばかりで
全てを済ませてしまう、最も有害無益な部類の思考回路が出来上がることになる。
本物の麻薬中毒は、本人を生活や仕事もままならない状態と化してしまったり
するが、濁愛はその程度の能力は本人に保たせたままで、思考回路の奥深くまで
侵食して「駄目な脳みそ」を精製してしまうものだから、ある意味、麻薬中毒など
よりもさらに性質が悪いものだといえる。「宗教はアヘンだ」とマルクスは言ったが、
濁愛を正当化して助長する類いのカルト宗教の害こそは、麻薬以上のものだといえる。
近代医療は、身体や脳器質の疾患に対する治療方法を無数に編み出してきたが、精神
の汚染に対する治療措置は全くと言っていいほど疎かにして来た。それは、汚濁に
まみれた心を持つ俗人がやりたい放題した結果としての病気や怪我こそを商業目的
の治療対象ともして来たからであり、精神汚染への治療までもが推進されていったり
すれば、かえって自分たちが商売上がったりにもなりかねなかったからである。
精神の汚濁の治療は、身体の治療と相容れない所すらあるものだから、結局、
旧来の仏教帰依や儒学統治などに基づく以上の手段というものを、医学を含む
近代科学の発達した現代において、新たに期待できたりするところもありはしない。
深刻さでは、時に身体の疾患すらをも上回ることのある精神の汚濁を癒していくために、
「温故知新」以上に適切な手段があり得ないのも、永久不変の絶対法則なのだといえる。
「驕奢淫泆は、邪まよりくる所なり。四者の来たれるは、寵禄の過ぎたればなり」
「奢り高ぶりや淫蕩や放逸は、邪道から来る所である。そのようなものを招いて
しまうのは、寵愛や厚遇が度を越しているからである。(寵愛が悪念や邪道を招く実例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隠公三年より)
「奢り高ぶりや淫蕩や放逸は、邪道から来る所である。そのようなものを招いて
しまうのは、寵愛や厚遇が度を越しているからである。(寵愛が悪念や邪道を招く実例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隠公三年より)
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