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聖書 Part12
▼ページ最下部
この地球人類社会において、自明なまでに「第一の聖書」としての
地位を確立しているのが、他でもない儒家の聖書、四書五経である。
「自明」というのは、たとえ本人が四書五経などを読みもしないでいたところで、
この世界において標準的な生活や仕事を営もうとすれば自然と、四書五経の教条に則って
しまうこととなるからだ。為政者が夏の禹帝のような治水や灌漑に励んだり、孔子や孟子が
訴えるような農繁期を尊重しつつの民の使役を心がけたりすれば、それにより当該国の底力
が蓄えられる。そのおかげで人々もまたそれなりの文明的な生活を営んで行けるように
なるわけだから、あえて経書を読んでそれに則っているかどうかすら関係ないのである。
ローマ帝国などは、「いい土地に蒔かれた種は三十倍、六十倍もの実を付ける(マルコ4:20)」
などというイエスの浮ついた教義を約2000年前に受け入れたりしていたこともあって、そんなことがある
わけもない実際の農産を疎かにして、作物を外地に発注するような真似に及んでいた。結果、ローマ帝国
の衰退と共に、イタリアという地域の国勢からして衰退していった。同じく王朝自体は何度も滅んでいる
中国のほうは、それでも歴代の徳治者たちによる国内での農産の振興という遺産が伴い続けているものだから、
すでに王政すら廃されている今に至ってもやはり、十億を超える人口を養えるような国力を保ち続けている。
四書五経に記録されているような堅実な政治規範や生活規範に則れば、そのぶんだけ人々も繁栄に与れる
一方で、それに反するような真似をやらかしていれば、短期的にも長期的にも衰亡が免れ得ないものとなる。
あえて経書を読んでから則ろうが則るまいが、そのようである限りにおいて人類もまた存続し、そうで
いられないようなら人類も全体規模で衰亡して行くことが免れ得ないのだから、四書五経こそは人類に
とって自明なほどにも「第一の聖書」として取り扱うことが避けられないものとなっているのである。

地位を確立しているのが、他でもない儒家の聖書、四書五経である。
「自明」というのは、たとえ本人が四書五経などを読みもしないでいたところで、
この世界において標準的な生活や仕事を営もうとすれば自然と、四書五経の教条に則って
しまうこととなるからだ。為政者が夏の禹帝のような治水や灌漑に励んだり、孔子や孟子が
訴えるような農繁期を尊重しつつの民の使役を心がけたりすれば、それにより当該国の底力
が蓄えられる。そのおかげで人々もまたそれなりの文明的な生活を営んで行けるように
なるわけだから、あえて経書を読んでそれに則っているかどうかすら関係ないのである。
ローマ帝国などは、「いい土地に蒔かれた種は三十倍、六十倍もの実を付ける(マルコ4:20)」
などというイエスの浮ついた教義を約2000年前に受け入れたりしていたこともあって、そんなことがある
わけもない実際の農産を疎かにして、作物を外地に発注するような真似に及んでいた。結果、ローマ帝国
の衰退と共に、イタリアという地域の国勢からして衰退していった。同じく王朝自体は何度も滅んでいる
中国のほうは、それでも歴代の徳治者たちによる国内での農産の振興という遺産が伴い続けているものだから、
すでに王政すら廃されている今に至ってもやはり、十億を超える人口を養えるような国力を保ち続けている。
四書五経に記録されているような堅実な政治規範や生活規範に則れば、そのぶんだけ人々も繁栄に与れる
一方で、それに反するような真似をやらかしていれば、短期的にも長期的にも衰亡が免れ得ないものとなる。
あえて経書を読んでから則ろうが則るまいが、そのようである限りにおいて人類もまた存続し、そうで
いられないようなら人類も全体規模で衰亡して行くことが免れ得ないのだから、四書五経こそは人類に
とって自明なほどにも「第一の聖書」として取り扱うことが避けられないものとなっているのである。

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「孟子致為臣而帰。王就見孟子、曰。前日願見而不可得、得侍、同朝甚喜。今又棄寡人而帰、
不識可以継此而得見乎。対曰、不敢請耳、固所願也。他日、王謂時子曰、我欲中国而授孟子室、養弟子以万鍾、
使諸大夫国人皆有所矜式。子盍為我言之。時子因陳子而以告孟子、陳子以時子之言告孟子。孟子曰、然。
夫時子悪知其不可也。如使予欲富、辞十万而受万、是為欲富乎。季孫曰、異哉子叔疑。使己為政、不用、
則亦已矣、又使其子弟為卿。人亦孰不欲富貴。而独於富貴之中、有私龍断焉。古之為市也、以其所有易其所無者、
有司者治之耳。有賤丈夫焉、必求龍断而登之、以左右望而罔市利。人皆以為賤、故従而征之。征商、自此賤丈夫始矣」
「(長文なので略称取意)孟先生は斉で政治顧問をしていたが、意見が聞き入れられないので立ち去ることにした。
斉王の引き止めにも軽く愛想しつつ応じない。後に斉王は『孟先生の学団をを一万鐘(約五千七百石)で養いたい』
とも言った。それを人づてに聞いた孟先生は言われた。『十万鐘(約五万七千石)で養われることすら断ったことが
あるというのに、どうして一万石程度に誘惑されようか。昔、丘の上から市場を鳥瞰してあぶく銭を掠め取る者が
あった。その賤しい男のせいで商人にも税金がかけられるようになったというのに、どうして私がそれと似たような
真似をすることが許されようか』(人間が鳥瞰によってまで利益を追うことの浅ましさを身を呈して主張している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・一〇)
不識可以継此而得見乎。対曰、不敢請耳、固所願也。他日、王謂時子曰、我欲中国而授孟子室、養弟子以万鍾、
使諸大夫国人皆有所矜式。子盍為我言之。時子因陳子而以告孟子、陳子以時子之言告孟子。孟子曰、然。
夫時子悪知其不可也。如使予欲富、辞十万而受万、是為欲富乎。季孫曰、異哉子叔疑。使己為政、不用、
則亦已矣、又使其子弟為卿。人亦孰不欲富貴。而独於富貴之中、有私龍断焉。古之為市也、以其所有易其所無者、
有司者治之耳。有賤丈夫焉、必求龍断而登之、以左右望而罔市利。人皆以為賤、故従而征之。征商、自此賤丈夫始矣」
「(長文なので略称取意)孟先生は斉で政治顧問をしていたが、意見が聞き入れられないので立ち去ることにした。
斉王の引き止めにも軽く愛想しつつ応じない。後に斉王は『孟先生の学団をを一万鐘(約五千七百石)で養いたい』
とも言った。それを人づてに聞いた孟先生は言われた。『十万鐘(約五万七千石)で養われることすら断ったことが
あるというのに、どうして一万石程度に誘惑されようか。昔、丘の上から市場を鳥瞰してあぶく銭を掠め取る者が
あった。その賤しい男のせいで商人にも税金がかけられるようになったというのに、どうして私がそれと似たような
真似をすることが許されようか』(人間が鳥瞰によってまで利益を追うことの浅ましさを身を呈して主張している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・一〇)

地においても殺菌作用や氷結防止作用を発揮し、海に至っては、海洋の生態系の腐敗化を予防する
極めて重大な役割をも帯びている。しかも、その海において我らが人類を含む、あらゆる地球生物の先祖
となる原生生物が生じもしたのだから、まさに塩こそは、あらゆる命の母であるとすら言うことができる。
それ程もの塩という成分の偉大さを買って塩を尊ぶというのであれば、それはそれで結構なことだと
言えるが、ただ「調味料として有用だから」とかの些末な理由だけで塩を重宝がるのでは、まだ塩の価値
など全く分からないままでいたほうがマシな程もの見識の狭さに陥ってしまっているものだといえる。
それはちょうど、自らの親の真の偉大さを察せないままでいながら、ただ「子供の頃に養ってくれたから」
とかいった理由だけで形式的に親に感謝したりするのとも同じ「親の心子知らず」状態となるのだといえる。
それだけでも、すでに年老いて精力も弱っている親などからすれば嬉しいことともなったりするわけだが、
無限の愛情を注がれつつ生み育てられた子の側としては、決してその程度の心がけだけでいていいはずはない。
何億年もの間、安定した組成を保ち続ける塩すらをも「有用だから価値がある」「無用なら価値がない」など
という安易な判定下に置いてしまったりする所にこそ、本人自身の救い難い自意識過剰がくすぶってもいる。
塩という物質の安定性と、自らの命の儚さとを冷静に比較してみることもできないほどもの客観的視点の
欠如がそこにはあるわけで、それはちょうど、強盗殺人犯が無罪放免となった場合の被害者の気持ちも
察することができないような思いやりのなさにすら直結しかねない問題点でもあるのだといえる。
科学や博物学の問題を考察する場合に限らずとも、人間にはあらゆる問題を実地に即して考えられるだけの
能力が備わっている。その手の能力の低い婦女子ですらもが、仕事上の金勘定などは間違いのないように
心がけたりするし、キリスト教徒級の概念夢想没入者もまた、脳器質からの精神障害でもない限りは、
実地に根差してものを考えるということを心がけようと思えば心がけられるようになっている。
しかし、同時にそれを「億劫なこと」として忌み避けたがる人間が多いのも事実である。
できることなら、1+1は3や4でもあって欲しい、塩が普遍的観点に即して偉大な物質であることなど
よりも、自分にとって塩が有用かどうかのほうを問題にしたいと考える。そしてそれが許されることこそは
「精神の自由」であるとし、時にはある種の宗教教義によってそれを金科玉条化してしまったりすらする。
それこそは、人間を真に普遍的なものから遠ざける罠であるに違いなく、そのような意味での
「精神の自由」に溺れた結果として、人は価値なきものを価値ありと見なして、好き好んでゴミを
喰らうような状態へとすら陥ってしまうのである。本人はそれでも満足面でいたりするわけだが、
傍目に見れば明らかに愚かしいし、普遍的な価値に欠けるものばかりを好き好んだ結果として、
本人たち自身が気づきもしない内からの潜在的な不満を抱え続けることともなる。国宝級や重文級の
名刀を所有するのと、二束三文のなまくら刀を所有するのとでは、やはり本人たち自身の満足の
度合いに大きな差が出てくるわけで、いくらそれを「俺にとってはこれが価値のある刀なんだ」
などというような自己満足によって埋め合わせてみようとしたところで、そのような自己満足を奮起
させておくこと自体がこれまた、本人にとっての不健全な心労となり続けて行くことが間違いない。
人として手に入れられる内でも、最大級の満足を手に入れるためにこそ、普遍性や実地に即して物事を
見計らうことを常日頃から心がけておく必要がある。それを逸脱するのもまた自由であるとした所で、
そこにはより大きな不満が待っているだけである。多量の塩分を含む海水こそはあらゆる命の源であるからと
いって、海水を飲んでみた所で美味くも何ともないし、それで渇きが癒されるようなことも決してないのだから。
できることなら、1+1は3や4でもあって欲しい、塩が普遍的観点に即して偉大な物質であることなど
よりも、自分にとって塩が有用かどうかのほうを問題にしたいと考える。そしてそれが許されることこそは
「精神の自由」であるとし、時にはある種の宗教教義によってそれを金科玉条化してしまったりすらする。
それこそは、人間を真に普遍的なものから遠ざける罠であるに違いなく、そのような意味での
「精神の自由」に溺れた結果として、人は価値なきものを価値ありと見なして、好き好んでゴミを
喰らうような状態へとすら陥ってしまうのである。本人はそれでも満足面でいたりするわけだが、
傍目に見れば明らかに愚かしいし、普遍的な価値に欠けるものばかりを好き好んだ結果として、
本人たち自身が気づきもしない内からの潜在的な不満を抱え続けることともなる。国宝級や重文級の
名刀を所有するのと、二束三文のなまくら刀を所有するのとでは、やはり本人たち自身の満足の
度合いに大きな差が出てくるわけで、いくらそれを「俺にとってはこれが価値のある刀なんだ」
などというような自己満足によって埋め合わせてみようとしたところで、そのような自己満足を奮起
させておくこと自体がこれまた、本人にとっての不健全な心労となり続けて行くことが間違いない。
人として手に入れられる内でも、最大級の満足を手に入れるためにこそ、普遍性や実地に即して物事を
見計らうことを常日頃から心がけておく必要がある。それを逸脱するのもまた自由であるとした所で、
そこにはより大きな不満が待っているだけである。多量の塩分を含む海水こそはあらゆる命の源であるからと
いって、海水を飲んでみた所で美味くも何ともないし、それで渇きが癒されるようなことも決してないのだから。
まったく頑是無い小児などでもない限りは、罪というものが全くの自明なものであることを
多少なりとも察知する。まともに成長して大人になれば、自明なものとしての罪や徳への理解が、
世の中の一員としてまともにやっていける程度のものにまで洗練されるし、さらにその上の
賢人や聖人とまでなれば、自明なものとしての罪徳の把握が完璧なものとなるために、まるで
本人自身の倫理的判断が神通自在のものであるかのようにすら見受けられるようになる。
そのような倫理判断の洗練を、実地に即して最も洗練させるのが仏教であり、善悪などは
人間たち自身が俗世で自明に取り決めているものでしかないからこそ、「虚空」であるともする。
その、本質が虚空である所の善悪罪徳をシラフで適切に扱うことで、世の中をも吉法へと赴かせる
ために、仏僧たちは善悪をも諦観するための出家修行に励むわけである。それは確かに、朱子や
ヒンズー教徒などがいう通り、ストイックすぎて忌避されかねないような姿勢でもあるわけで、
そのせいで大陸国である中国やインドなどでは仏教が十分に根付かなかったりもしたわけだが、
ことに、倫理判断の「質」の洗練という点では、一切の虚飾を排した仏教的な姿勢こそが最上で
あるのも確かなものだから、子供への教育すら仏僧が主体となって行うほどにも仏教帰依が篤く
嗜まれて来たこの日本こそが、清濁併せ呑むための西洋文明の取り入れと、それに相反するが
如き邪教信仰の拒絶とを両立することすらもができたのである。(世界的には、中国のように
邪教の侵入を徹底的に防ごうとしたせいで文明発展が立ち遅れたり、韓国のように西洋文明
全体を大々的に取り入れようとしたせいで邪教信仰まで取り入れた結果、国民が禽獣同然の
倫理観の持ち主ばかりと化してしまったりするのが普通となっている)
親鸞聖人の「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」の一言が、念仏信仰と共に
人々に広く行き渡っただけで、二度と善悪の分別が完全に実質を逸脱したりすることがなくなる。
多少なりとも察知する。まともに成長して大人になれば、自明なものとしての罪や徳への理解が、
世の中の一員としてまともにやっていける程度のものにまで洗練されるし、さらにその上の
賢人や聖人とまでなれば、自明なものとしての罪徳の把握が完璧なものとなるために、まるで
本人自身の倫理的判断が神通自在のものであるかのようにすら見受けられるようになる。
そのような倫理判断の洗練を、実地に即して最も洗練させるのが仏教であり、善悪などは
人間たち自身が俗世で自明に取り決めているものでしかないからこそ、「虚空」であるともする。
その、本質が虚空である所の善悪罪徳をシラフで適切に扱うことで、世の中をも吉法へと赴かせる
ために、仏僧たちは善悪をも諦観するための出家修行に励むわけである。それは確かに、朱子や
ヒンズー教徒などがいう通り、ストイックすぎて忌避されかねないような姿勢でもあるわけで、
そのせいで大陸国である中国やインドなどでは仏教が十分に根付かなかったりもしたわけだが、
ことに、倫理判断の「質」の洗練という点では、一切の虚飾を排した仏教的な姿勢こそが最上で
あるのも確かなものだから、子供への教育すら仏僧が主体となって行うほどにも仏教帰依が篤く
嗜まれて来たこの日本こそが、清濁併せ呑むための西洋文明の取り入れと、それに相反するが
如き邪教信仰の拒絶とを両立することすらもができたのである。(世界的には、中国のように
邪教の侵入を徹底的に防ごうとしたせいで文明発展が立ち遅れたり、韓国のように西洋文明
全体を大々的に取り入れようとしたせいで邪教信仰まで取り入れた結果、国民が禽獣同然の
倫理観の持ち主ばかりと化してしまったりするのが普通となっている)
親鸞聖人の「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」の一言が、念仏信仰と共に
人々に広く行き渡っただけで、二度と善悪の分別が完全に実質を逸脱したりすることがなくなる。
悪行はありのままに苦しみだから、悪人こそは来世で往生させて頂けるとなれば、苦しむのが
イヤだからこそ億劫な善行を為したがらない悪人なぞも、自分がこれ以上苦しみたくないからこそ
悪行をも控えるようになったりする。それはもう、自分がそうであると気づきもしない内からの、
自明なる善悪の分別の体得であるわけで、本当の所をいえば、阿弥陀如来からの救いなどが
あったのではなく、自分自身が倫理的判断力を成長させた結果なのだといえる。
確かに、神仏からの救いの如き方便が、そのように自明な善悪の分別を助成することもあるわけ
だけれども、決して必ずしもそうであるわけではなく、むしろ人並みの分別すら損なわせてしまい
かねないような悪巧方便の象徴となるような神もまた、残念ながら「定義」されてしまっている。
善悪や罪徳はあくまで超越神の采配によるものであるとし、なおかつその超越神を形而上に
置いて、人間たち自身による自明な判断と、神の采配に基づく判断との妥当な整合性などを
あえて無きものとしてしまう。それでいて、まったく人間性を欠いた超越神がこうだと
定義する善悪の分別こそを、信者にまで強制しようとする類いの信教こそが、人々から
自明な善悪の分別を奪い去って、精神的な盲人と化さしめてしまう悪性を帯びている。
そのような神こそは、「存在しない」としたほうがマシな部類の神でもある。神も仏も一切
ナシとしてしまうニヒリズムにまで行き過ぎてしまったりする必要もさらさらないが、上記の
ような論理構造で以って、人々から自明な倫理判断の能力すら奪い去ってしまうような神こそは、
むしろ実在しない神、存在すべきでない神であるとしたほうが、誰しもにとって有益となる。
これだけ科学が発達した世界で、神仏信仰など流行らないほうが当たり前というものだが、
それでもなお信敬に値する神仏がいるとすれば、それは人間にとって有益な神、信ずることに
害のない神であるに違いない。信じた結果、人と世と我とをかえって精神的利益的に損ねてしまう
ような神こそは、人間自身が打ち克って、この世から絶やし尽くすべき神であるに違いない。
「神である以上は尊い」などという、信教絶対主義の破棄などと共に。
イヤだからこそ億劫な善行を為したがらない悪人なぞも、自分がこれ以上苦しみたくないからこそ
悪行をも控えるようになったりする。それはもう、自分がそうであると気づきもしない内からの、
自明なる善悪の分別の体得であるわけで、本当の所をいえば、阿弥陀如来からの救いなどが
あったのではなく、自分自身が倫理的判断力を成長させた結果なのだといえる。
確かに、神仏からの救いの如き方便が、そのように自明な善悪の分別を助成することもあるわけ
だけれども、決して必ずしもそうであるわけではなく、むしろ人並みの分別すら損なわせてしまい
かねないような悪巧方便の象徴となるような神もまた、残念ながら「定義」されてしまっている。
善悪や罪徳はあくまで超越神の采配によるものであるとし、なおかつその超越神を形而上に
置いて、人間たち自身による自明な判断と、神の采配に基づく判断との妥当な整合性などを
あえて無きものとしてしまう。それでいて、まったく人間性を欠いた超越神がこうだと
定義する善悪の分別こそを、信者にまで強制しようとする類いの信教こそが、人々から
自明な善悪の分別を奪い去って、精神的な盲人と化さしめてしまう悪性を帯びている。
そのような神こそは、「存在しない」としたほうがマシな部類の神でもある。神も仏も一切
ナシとしてしまうニヒリズムにまで行き過ぎてしまったりする必要もさらさらないが、上記の
ような論理構造で以って、人々から自明な倫理判断の能力すら奪い去ってしまうような神こそは、
むしろ実在しない神、存在すべきでない神であるとしたほうが、誰しもにとって有益となる。
これだけ科学が発達した世界で、神仏信仰など流行らないほうが当たり前というものだが、
それでもなお信敬に値する神仏がいるとすれば、それは人間にとって有益な神、信ずることに
害のない神であるに違いない。信じた結果、人と世と我とをかえって精神的利益的に損ねてしまう
ような神こそは、人間自身が打ち克って、この世から絶やし尽くすべき神であるに違いない。
「神である以上は尊い」などという、信教絶対主義の破棄などと共に。
「爾じ善有れば、朕れ敢えて蔽わず。
罪朕が躬に当れば、敢えて自ら赦さず、惟れ簡ぶこと上帝の心に在り」
「君らに善い所があるのであれば、敢えて私はそれを隠そうとせず、自分に罪があるのであれば、
あえて私はそれを赦そうとはしない。それこそは上帝の心にも適ったあり方であるのだから。
(上天に仮託している所はあるが、聞いただけでも誠実であることが分かる姿勢ともなっている。
このような神託の用い方こそは、これからも許されて然るべきものだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・湯誥より)
罪朕が躬に当れば、敢えて自ら赦さず、惟れ簡ぶこと上帝の心に在り」
「君らに善い所があるのであれば、敢えて私はそれを隠そうとせず、自分に罪があるのであれば、
あえて私はそれを赦そうとはしない。それこそは上帝の心にも適ったあり方であるのだから。
(上天に仮託している所はあるが、聞いただけでも誠実であることが分かる姿勢ともなっている。
このような神託の用い方こそは、これからも許されて然るべきものだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・湯誥より)
テッド・バンディのような異常犯罪者が、自らの罪状をあたかも他人事のように自供することがある。
それは、苦し紛れの責任逃れから来る異常発言であるわけで、ある程度以上に責任意識を欠いた人間が、
自らの自主的な言行を他人に偽託しようとする場合があることを示す実証例ともなっている。
「陰徳を積む」といい、自分が為した善行をあえてひけらかさないということが徳となることもある。
それこそ、自らの悪行を他者に偽託しようとする企てなどとは真逆のあり方であるわけで、片や聖賢の
所業ですらあるといえる一方、片や道を踏み外した小人のそれであるといえる。どちらがより良くて
どちらがより悪いのかを改めて論ずるまでもないが、どうあっても孤独に耐えねばならないのが陰徳の
積み重ねである一方、宗教の神などに責任を仮託すれば群れることも可能となるのが、自らの悪行の
責任逃れでもある。そう聞いてみれば、仁徳の志しも皆無に等しい小人などからすれば、責任逃れを
うまいこと講じられていたほうが自分にとってマシであるかのようにすら思われかねないのでもある。
そこは、善行こそが自らの安楽ともなる一方、悪行こそは自らの辛苦ともなるという罪福異熟の法則を
計り知れる者だけが真に克服することのできる表向きの障壁であるわけで、その障壁を乗り越えられも
しない内から陰徳を積もうなどとしてみた所で、味気なさばかりが残ることとなるに違いないのである。
「陰徳」ではなく「陽徳」であれば、「徳は孤ならず、必ず隣り有り(里仁第四・二五)」ということでも
あり得る。それこそは、儒学に根ざした君子階級としての大成と共なる善行であったりするわけで、
これこそは、孤独にも耐えねばならない陰徳の積み重ねなどよりも、万人が目指しやすいものである。
しかし、陽徳だけではどうしたってそのための善行も皮相的なものと化してしまい、陰徳すらをも積む
場合ほどの成果を期待できるものでもない。それは、儒学ばかりを国是として来たここ2000年来の中国
以上にも、仏教帰依などを通じての陰徳の積み重ねに励んで来た日本のほうが、外界からの侵略にも
よく耐えて、自国内での権力腐敗などをもそれなりに防げて来ていることからも分かるとおりである。
それは、苦し紛れの責任逃れから来る異常発言であるわけで、ある程度以上に責任意識を欠いた人間が、
自らの自主的な言行を他人に偽託しようとする場合があることを示す実証例ともなっている。
「陰徳を積む」といい、自分が為した善行をあえてひけらかさないということが徳となることもある。
それこそ、自らの悪行を他者に偽託しようとする企てなどとは真逆のあり方であるわけで、片や聖賢の
所業ですらあるといえる一方、片や道を踏み外した小人のそれであるといえる。どちらがより良くて
どちらがより悪いのかを改めて論ずるまでもないが、どうあっても孤独に耐えねばならないのが陰徳の
積み重ねである一方、宗教の神などに責任を仮託すれば群れることも可能となるのが、自らの悪行の
責任逃れでもある。そう聞いてみれば、仁徳の志しも皆無に等しい小人などからすれば、責任逃れを
うまいこと講じられていたほうが自分にとってマシであるかのようにすら思われかねないのでもある。
そこは、善行こそが自らの安楽ともなる一方、悪行こそは自らの辛苦ともなるという罪福異熟の法則を
計り知れる者だけが真に克服することのできる表向きの障壁であるわけで、その障壁を乗り越えられも
しない内から陰徳を積もうなどとしてみた所で、味気なさばかりが残ることとなるに違いないのである。
「陰徳」ではなく「陽徳」であれば、「徳は孤ならず、必ず隣り有り(里仁第四・二五)」ということでも
あり得る。それこそは、儒学に根ざした君子階級としての大成と共なる善行であったりするわけで、
これこそは、孤独にも耐えねばならない陰徳の積み重ねなどよりも、万人が目指しやすいものである。
しかし、陽徳だけではどうしたってそのための善行も皮相的なものと化してしまい、陰徳すらをも積む
場合ほどの成果を期待できるものでもない。それは、儒学ばかりを国是として来たここ2000年来の中国
以上にも、仏教帰依などを通じての陰徳の積み重ねに励んで来た日本のほうが、外界からの侵略にも
よく耐えて、自国内での権力腐敗などをもそれなりに防げて来ていることからも分かるとおりである。
古代中国においてですら、列子が人気取りのための尽力ばかりに終始することを戒めるなどしている。
陽徳を積むためにこそ、陰徳の養いがそれなりに必要ともなることは、古代の頃から儒者もまた認めて
来ていることである。けれども、あくまでそれを「ついで」とするのが儒者の姿勢であるものだから、
儒学ばかりに専らであれば自然と、陰徳の積み重ねのほうが疎かになりかねないのである。そこが、
単一の教学としての儒学の欠点であるとは言えるわけだが、さりとて陽徳の積み重ねが、悪行を
邪神に偽託する信者同士で群れるほどもの害をもたらしたりするわけでもない。いずれも、協力者を
募って事業に励むような所があるのは共通しているわけなので、どうしても陰徳を積み重ねて行く孤独
に耐えられないとした所で、まだこの内では陽徳の積み重ねこそを志したほうがいいことには違いない。
仏教が、自分たちと同じコーカソイド圏であるインドで生まれた教学であることもあって、欧米人なども、
儒学よりはまだ仏教に傾倒していたがる所がある。実際、仏教のほうが儒学以上にも普遍的な優良さを
帯びている所があるわけだけれども、その理由となっているのが他でもない、儒学以上にも陰徳の積み
重ねを重んじている所でこそある。誰からの評価を期待するわけでもなく、完全なる孤独下での善行に
取り組んでいく所にこそ仏教の本懐があるわけだから、聖書信仰のせいで群れたがりの性向が深く
根付いてしまっている欧米人などにとっては、それなりに群れることを容認する儒学以上にも、
実践が困難であるという面で、よりとっつき辛いものとなっているのである。
責任逃れのための偽託対象としての邪神の配下を離れて、そこから急に出家者並みの孤独へと没入
させられたりするのならば、それこそ自殺級の鬱屈にすら駆られかねないだろう。そんな所ばかりを
目指す必要は全くない。独り立ちする所もあれば、未だに人と依存し合うところもある、節度ある
真人間のあり方にこそ立ち戻ることで、変節過剰による苦しみなどをも避けて行けばいいのである。
陽徳を積むためにこそ、陰徳の養いがそれなりに必要ともなることは、古代の頃から儒者もまた認めて
来ていることである。けれども、あくまでそれを「ついで」とするのが儒者の姿勢であるものだから、
儒学ばかりに専らであれば自然と、陰徳の積み重ねのほうが疎かになりかねないのである。そこが、
単一の教学としての儒学の欠点であるとは言えるわけだが、さりとて陽徳の積み重ねが、悪行を
邪神に偽託する信者同士で群れるほどもの害をもたらしたりするわけでもない。いずれも、協力者を
募って事業に励むような所があるのは共通しているわけなので、どうしても陰徳を積み重ねて行く孤独
に耐えられないとした所で、まだこの内では陽徳の積み重ねこそを志したほうがいいことには違いない。
仏教が、自分たちと同じコーカソイド圏であるインドで生まれた教学であることもあって、欧米人なども、
儒学よりはまだ仏教に傾倒していたがる所がある。実際、仏教のほうが儒学以上にも普遍的な優良さを
帯びている所があるわけだけれども、その理由となっているのが他でもない、儒学以上にも陰徳の積み
重ねを重んじている所でこそある。誰からの評価を期待するわけでもなく、完全なる孤独下での善行に
取り組んでいく所にこそ仏教の本懐があるわけだから、聖書信仰のせいで群れたがりの性向が深く
根付いてしまっている欧米人などにとっては、それなりに群れることを容認する儒学以上にも、
実践が困難であるという面で、よりとっつき辛いものとなっているのである。
責任逃れのための偽託対象としての邪神の配下を離れて、そこから急に出家者並みの孤独へと没入
させられたりするのならば、それこそ自殺級の鬱屈にすら駆られかねないだろう。そんな所ばかりを
目指す必要は全くない。独り立ちする所もあれば、未だに人と依存し合うところもある、節度ある
真人間のあり方にこそ立ち戻ることで、変節過剰による苦しみなどをも避けて行けばいいのである。
「曾子曰く、身は父母の遺体なり。父母の遺体を行う、敢えて敬せざらんや」
「曾先生『わが身は父母の遺産であるのだから、父母の遺産を言行させる上で、どうして恭敬を
尽くさないことが許されようか』(父母への敬意を尽くす、その孝心によって自らの行いをも制する。
実の父母への敬意に基づくからこそ、自主的な心こそが自らの言行規範ともなるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
「曾先生『わが身は父母の遺産であるのだから、父母の遺産を言行させる上で、どうして恭敬を
尽くさないことが許されようか』(父母への敬意を尽くす、その孝心によって自らの行いをも制する。
実の父母への敬意に基づくからこそ、自主的な心こそが自らの言行規範ともなるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)

荒地に至るまでの灌漑や治水によって耕作可能地域を増やすことで、以前の何十倍
もの収穫を上げたりすることならできる。それは確かに、始めからいい土地だけを
選り好んでそこでの豊作を企図したりするよりも多大なる労苦がつきまとうもの
ではあるけれども、それでこそ何百年、何千年という長期にわたる倍々級の
豊作を着実に企図して行くことができるのでもある。
そうであることが太古の昔からわきまえられていたものだから、東洋では治水や
灌漑のための土木事業が重視され、それらを大工任せにしたりすることもなく、
君子階級が率先して推進して行くようなことすらもが頻繁にあったのである。
一方で、そのような着実な社会の繁栄のための土台作りなどを嫌がって、いい
土地を選り好みしての農産や商売などに終始する者もまた、地主や豪商などの
形であり続けたのである。戦国時代における敗北以降、庄屋身分まで身をやつして
土佐の山間に逃げ込んでいた旧長宗我部家臣らが、山内からの懐柔に徹底して
反抗し続けたのも、土佐藩家老の野中兼山が推進したがっていたような土佐での
土木事業に協力することを特に嫌がっていたからでこそあった。それでいながら
士分の株を金で買うというあこぎな手法で一応は武士に返り咲いた土佐藩郷士らが、
米英の暴力の嵩にかかっての倒幕の主導者となるや、東奔西走の商売働きで巨万の
富を稼ぎ上げ、今に至るまでの三菱財閥の源流を形作るに至った。その三菱もまた、
今でも東京の丸の内界隈に数多の自社ビルを構えて日本の商工業の根幹を牛耳って
いたりするように、東洋においてですら、自分たちだけでいい土地を独占して狭隘な
私益を貪りたがるような傾向が、肥大化しようなものなら肥大化しかねない体のまま
でいる。それは、いい土地を選り好んでそこに安住することを宗教教義に据えている
聖書信仰などばかりに特有の発想でもない、私益にしか目がないようなつまらない
小人にとってはみな共通する類いの、ありきたりな性向であるのだといえる。
一方で、もうこの世界にあえて進取するに値する程もの、好条件の空き地
などというものもほとんどなくなってしまった。莫大な富をもたらして
くれる程にも広大かつ好条件の土地などというものはもう、全て手垢が
付いてしまっているために、いい土地を選り好んだ結果としての一攫千金
を企てる余地などは、もはやこの地球上から絶えてしまったのである。
地主といい豪商といい、ただ土地を選り好みするような性向によってこれ以上の
経済的成功などを期待する余地はもう金輪際ありはしない。それでいてなおかつ、
一部の人間が世界中の好条件の土地を独占することでの私益の巻き上げに奔走した結果、
ほとんどの地球人類に十分な利益がまかなわれなくなって、困窮や餓死やその反動での
人口爆発などといった、致命的な問題を引き起こすことともなってしまっている。
まず第一に必要なのは、土地を選り好みすることでの私益の追求などという
発想を是とするような幼稚な性向から誰しもが卒業することである。その次に、
あまりにもその手の企てによって多大なる公益上の損害をもたらしてしまっている
ような地主だの豪商だのに対しては、その土地利権を剥奪や制限する措置を採る。
地権に拠りすがりたがるような人間は卑人として慣習的な差別の対象とすらし、
今以上にその手の人種が増大してしまうようなことが決してないようにする。
さらにその上で、かつての東洋の君子階級が推進していたような、公益寄与のための
土木事業によって農作物の収穫量を底上げするなどして、飢餓問題をも克服して行く。
未だに地主や豪商の横暴がまかり通っているような状態のままでそのような事業を
推進した所で、人工的に開発した好条件の土地をまた独占しようとするような輩が
現れかねないから、上に書いたような地主や豪商への抑圧措置が当然、先に必要となる。
「人も運に乗じては悪を為すといえども、その悪十成する時はこれを討つ
(兵法家伝書)」とは、まさにこのことを言うのではなかろうか。
などというものもほとんどなくなってしまった。莫大な富をもたらして
くれる程にも広大かつ好条件の土地などというものはもう、全て手垢が
付いてしまっているために、いい土地を選り好んだ結果としての一攫千金
を企てる余地などは、もはやこの地球上から絶えてしまったのである。
地主といい豪商といい、ただ土地を選り好みするような性向によってこれ以上の
経済的成功などを期待する余地はもう金輪際ありはしない。それでいてなおかつ、
一部の人間が世界中の好条件の土地を独占することでの私益の巻き上げに奔走した結果、
ほとんどの地球人類に十分な利益がまかなわれなくなって、困窮や餓死やその反動での
人口爆発などといった、致命的な問題を引き起こすことともなってしまっている。
まず第一に必要なのは、土地を選り好みすることでの私益の追求などという
発想を是とするような幼稚な性向から誰しもが卒業することである。その次に、
あまりにもその手の企てによって多大なる公益上の損害をもたらしてしまっている
ような地主だの豪商だのに対しては、その土地利権を剥奪や制限する措置を採る。
地権に拠りすがりたがるような人間は卑人として慣習的な差別の対象とすらし、
今以上にその手の人種が増大してしまうようなことが決してないようにする。
さらにその上で、かつての東洋の君子階級が推進していたような、公益寄与のための
土木事業によって農作物の収穫量を底上げするなどして、飢餓問題をも克服して行く。
未だに地主や豪商の横暴がまかり通っているような状態のままでそのような事業を
推進した所で、人工的に開発した好条件の土地をまた独占しようとするような輩が
現れかねないから、上に書いたような地主や豪商への抑圧措置が当然、先に必要となる。
「人も運に乗じては悪を為すといえども、その悪十成する時はこれを討つ
(兵法家伝書)」とは、まさにこのことを言うのではなかろうか。
「広土衆民は君子之れを欲するも、楽しむ所は焉こに存せず。天下の中に而て立ち、
四海の民を定むるは、君子之れを楽しむも、性とする所は焉に存せず。君子の性とする所は、
大いに行われると雖も加わらず、窮居すると雖も損われず、分定まるが故なり」
「広い土地や多くの民は君子の欲する所ではあるけれども、それだけで楽しんだりすることもない。
天下の中心に王君として立ち、四方の民たちを取りまとめるのは君子の楽しむ所であるけれども、
それだけでもまだ君子の性分とするに足るところでまではない。君子が性分とする所は、
外的な現象が盛大だったり貧相だったりすることで増減したりすることのない、分をわきまえた
所にこそある。(君子にとって、天下全土を治めることは、個人的に広い土地や多くの民を
得たりするよりも楽しむ所なのである。ただそれもまた、分をわきまえる本然からの性分から
すれば瑣末なことである。いわんや、一部の土地が特に好条件だったりすることをや、である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・七より)
四海の民を定むるは、君子之れを楽しむも、性とする所は焉に存せず。君子の性とする所は、
大いに行われると雖も加わらず、窮居すると雖も損われず、分定まるが故なり」
「広い土地や多くの民は君子の欲する所ではあるけれども、それだけで楽しんだりすることもない。
天下の中心に王君として立ち、四方の民たちを取りまとめるのは君子の楽しむ所であるけれども、
それだけでもまだ君子の性分とするに足るところでまではない。君子が性分とする所は、
外的な現象が盛大だったり貧相だったりすることで増減したりすることのない、分をわきまえた
所にこそある。(君子にとって、天下全土を治めることは、個人的に広い土地や多くの民を
得たりするよりも楽しむ所なのである。ただそれもまた、分をわきまえる本然からの性分から
すれば瑣末なことである。いわんや、一部の土地が特に好条件だったりすることをや、である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・七より)
あまりにも難解すぎるものだから、方便を用いてその教義が説かれる教学の第一
といえば、なんといっても仏教である。それは、本当に難解なことをできる限り
平易に説こうと努めているものであり、決して、真義そのものが本当は簡易なもの
であるのに、それを出し惜しみして方便での布教を行ったりしているのでもない。
逆に、あまりにも平易な道徳学上の説話をありのままに提示しているものだから、
知識の上では成長したつもりになっている精神的な未熟者などから侮られやすい
のが儒学である。そこで把捉されている道理もまた、頑なに守り通しすらすれば
数百年規模の泰平社会を実現して行くことができるほどにも上質なものなわけだが、
上記のような理由で儒説が侮られた結果として、道理を蔑ろにした小人どもが、
自分たちの妄動で世の中を傾けてしまったりもするのである。そのため、道理
以上に普遍的だが難解至極な絶対真理そのものを把捉している仏教の受容などをも
兼ねることで、人々の道理への侮りを防止するように努めたりもするのである。
真義そのものがあまりにも稚拙でろくでもないために、それ自体の公然への流布は
避けて、迂遠な比喩などによって頭の悪い信者を取り込んでいく類いの邪教という
ものもまたある。そのような邪教に溺れてしまっている人間こそは、平易な道理を
ありのままに把捉して提示している儒学の価値などが全く理解できない上に、儒学
こそが特筆して拒絶感を催させらる教学ともなる。儒学を理解するような学問姿勢
や信仰姿勢でいたならば、真義そのものがあまりにもろくでもない自分たちの信教
の真義すらをも直視しなければならなくなるから、儒学を少しでも理解しようなど
とする時点ですでに、本能的な拒絶意識を催させられることとなるのである。
といえば、なんといっても仏教である。それは、本当に難解なことをできる限り
平易に説こうと努めているものであり、決して、真義そのものが本当は簡易なもの
であるのに、それを出し惜しみして方便での布教を行ったりしているのでもない。
逆に、あまりにも平易な道徳学上の説話をありのままに提示しているものだから、
知識の上では成長したつもりになっている精神的な未熟者などから侮られやすい
のが儒学である。そこで把捉されている道理もまた、頑なに守り通しすらすれば
数百年規模の泰平社会を実現して行くことができるほどにも上質なものなわけだが、
上記のような理由で儒説が侮られた結果として、道理を蔑ろにした小人どもが、
自分たちの妄動で世の中を傾けてしまったりもするのである。そのため、道理
以上に普遍的だが難解至極な絶対真理そのものを把捉している仏教の受容などをも
兼ねることで、人々の道理への侮りを防止するように努めたりもするのである。
真義そのものがあまりにも稚拙でろくでもないために、それ自体の公然への流布は
避けて、迂遠な比喩などによって頭の悪い信者を取り込んでいく類いの邪教という
ものもまたある。そのような邪教に溺れてしまっている人間こそは、平易な道理を
ありのままに把捉して提示している儒学の価値などが全く理解できない上に、儒学
こそが特筆して拒絶感を催させらる教学ともなる。儒学を理解するような学問姿勢
や信仰姿勢でいたならば、真義そのものがあまりにもろくでもない自分たちの信教
の真義すらをも直視しなければならなくなるから、儒学を少しでも理解しようなど
とする時点ですでに、本能的な拒絶意識を催させられることとなるのである。
そのような、真義そのものへの理解を避けて、比喩表権の嬉しがりに終始して
いたがろうとするような姿勢でいるものに対しては、仏教の方便すらもが必ずしも
良い影響をもたらすとは言えない。実際、新興宗教系の仏教団体などが、そのような
姿勢で以って仏教の方便を悪用して不当利得を得たりする場合もある。仏教の方便も
元より、真理そのものを理解するとまではいかないような凡夫を救いとるためにこそ
考案されたものであるわけだから、あえて真義から目を背けて方便や比喩ばかりを
嬉しがっていようとするような人間までをも吉方へと導けるとは限らないのである。
真義を理解しようにも理解できないものだから、仕方なく方便や比喩をあり難がる
ことに終始するというのは、仕方がないことである。しかし、あえて真義を理解
しようとはせず、真義の比喩表現のほうばかりを嬉しがっていようとするとなれば、
これはもう、真義が邪悪な邪教の活動を活発化させる以外の如何なる意義をも持ち
得ないわけだから、そのような姿勢だけは決して許されるべきでない。できること
なら真義を理解することに務めるが、それがどうしたってできない場合に限って
方便や比喩のほうを珍重するという姿勢で、誰しもがあらゆる教学を受容して行く
ようにするのでなければ、宗教などは一切信じないでいたほうがまだマシとなる。
如何なる教学であっても、まずはその真義をありのままに理解することを第一
として行くのであれば、当然、儒学ぐらいは親しみながら理解することができる
のでなければならない。儒学ほど、簡単かつ重大な道理をありのままに自家の
本義に据えている学説も他にないわけだから、それへの拒絶意識すらをも催すと
いうのであれば、もはや一切の学問や宗教を受容しないままに奴隷身分ででもいた
ほうがマシな人間であることが間違いない。そうであるにもかかわらず、真義を
ひた隠しにして比喩表現を嬉しがるような類いの邪教を受容したりするよりは
まだ、一切の教学への傾倒を禁止された無学無信の人畜ででもあったほうがよい。
(もちろん、そんな人間からしてこの世にいないほうがマシであるには違いない)
いたがろうとするような姿勢でいるものに対しては、仏教の方便すらもが必ずしも
良い影響をもたらすとは言えない。実際、新興宗教系の仏教団体などが、そのような
姿勢で以って仏教の方便を悪用して不当利得を得たりする場合もある。仏教の方便も
元より、真理そのものを理解するとまではいかないような凡夫を救いとるためにこそ
考案されたものであるわけだから、あえて真義から目を背けて方便や比喩ばかりを
嬉しがっていようとするような人間までをも吉方へと導けるとは限らないのである。
真義を理解しようにも理解できないものだから、仕方なく方便や比喩をあり難がる
ことに終始するというのは、仕方がないことである。しかし、あえて真義を理解
しようとはせず、真義の比喩表現のほうばかりを嬉しがっていようとするとなれば、
これはもう、真義が邪悪な邪教の活動を活発化させる以外の如何なる意義をも持ち
得ないわけだから、そのような姿勢だけは決して許されるべきでない。できること
なら真義を理解することに務めるが、それがどうしたってできない場合に限って
方便や比喩のほうを珍重するという姿勢で、誰しもがあらゆる教学を受容して行く
ようにするのでなければ、宗教などは一切信じないでいたほうがまだマシとなる。
如何なる教学であっても、まずはその真義をありのままに理解することを第一
として行くのであれば、当然、儒学ぐらいは親しみながら理解することができる
のでなければならない。儒学ほど、簡単かつ重大な道理をありのままに自家の
本義に据えている学説も他にないわけだから、それへの拒絶意識すらをも催すと
いうのであれば、もはや一切の学問や宗教を受容しないままに奴隷身分ででもいた
ほうがマシな人間であることが間違いない。そうであるにもかかわらず、真義を
ひた隠しにして比喩表現を嬉しがるような類いの邪教を受容したりするよりは
まだ、一切の教学への傾倒を禁止された無学無信の人畜ででもあったほうがよい。
(もちろん、そんな人間からしてこの世にいないほうがマシであるには違いない)
「子曰く、書は言を尽くさず、言は意を尽くさず。然れば則ち聖人の
意は其れ見る可からざるか。子曰く、聖人は象を立てて以て意を尽くし、
卦を設けて以て情偽を尽くし、繋辞を以て其の言を尽くし、変じて之れを
通じ以て利を尽くし、之れを鼓し之れを舞して以て神を尽くす。(一部既出)」
「孔先生は言われた。『どんな文書も言いたいことを完全には示しきれないし、
どんな発言もその本意を表現し尽くすことはできない』 それでは聖人の本意と
いうのは永遠に察することができないのだろうか。それについて孔先生はこう
答えられた。『易を把捉した聖人は象を立てることでその本意を尽くそうとし、
卦を設けて情偽の綾を尽くそうとし、繋辞によって言葉での説明を尽くそうとし、
卦の変化を通じて利害の法則を示し尽くそうとし、これを鼓舞することで神異の
法則すらをも示し尽くそうとしたのである』(要するに、聖賢は物事の説明を試みる
以上はその言意を尽くして、ひた隠しにしたりせずにいようとするというのである。
書や言自体が意を尽くし難いものなのだから、そう心がけることが位相的にも正しい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
意は其れ見る可からざるか。子曰く、聖人は象を立てて以て意を尽くし、
卦を設けて以て情偽を尽くし、繋辞を以て其の言を尽くし、変じて之れを
通じ以て利を尽くし、之れを鼓し之れを舞して以て神を尽くす。(一部既出)」
「孔先生は言われた。『どんな文書も言いたいことを完全には示しきれないし、
どんな発言もその本意を表現し尽くすことはできない』 それでは聖人の本意と
いうのは永遠に察することができないのだろうか。それについて孔先生はこう
答えられた。『易を把捉した聖人は象を立てることでその本意を尽くそうとし、
卦を設けて情偽の綾を尽くそうとし、繋辞によって言葉での説明を尽くそうとし、
卦の変化を通じて利害の法則を示し尽くそうとし、これを鼓舞することで神異の
法則すらをも示し尽くそうとしたのである』(要するに、聖賢は物事の説明を試みる
以上はその言意を尽くして、ひた隠しにしたりせずにいようとするというのである。
書や言自体が意を尽くし難いものなのだから、そう心がけることが位相的にも正しい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
善は、本質的には楽しみである。実際に善行を為して、目的を実現するための努力を
為す過程で苦労させられることなどもあるとした所で、本質的には、善行も楽しみである。
万人を利するための公田での耕作にも多大なる労苦が伴うが、さりとて心中は清清しくいられる。
一方で、悪徳商人として面従腹背の偽善的なサービスで客から利益を貪り取ったりすることは、
たとえそれがへつらい笑いを浮かべる程度の軽作業であっところで、心中からの苦しみはより
甚だしいものとなる。そのような、自らの行いが善行でないが故の根本からの苦しみというのは、
いくら苦しんだからといって報われて然るべきような苦しみともならない。我田引水の如き
不仁の所業のために心中から苦しんだとして、それでも仮初めの私利私益を手に入れる程度の
報いは期待できるとした所で、総合的にはプラスマイナスゼロ以下の損失となり、最終的には
何もしないでいたほうがマシだったほどもの心身共なる破滅に見舞われることが避けられない。
善行の過渡的な苦しみと、悪行の本質からの苦しみとでは、どちらのほうがより多大なる苦しみ
であり得るかといって、それはむしろ、善行の過渡的な苦しみのほうである。なぜかといって、
善行は本質的には楽しみだから、より多大なる苦労すらをもその楽しみで中和しつつやり過ごし
て行くことができる一方、悪行の本質からの苦しみのほうには、そのような中和作用が一切期待
できないものだから、こじんまりとした苦しみまでしか許容できないという事情があるからだ。
罪悪の苦しみは敢えて避けて、善行の過渡的な労苦をやり過ごすための努力こそを心がけてきた
東洋人が、西洋人などから見ればストイック過ぎて取っ付きがたく思われるのもそのためである。
漢字や梵字一つとっても、簡素なアルファベットに慣れて来た人々たちからすれば、あまりにも
難解な意味を込めすぎているように思われるし、それを日常から多用していたりするのも常軌
を逸したあり方のようにすら見受けられるのである。しかし、それは東洋人にとってはごく
当たり前のことであり、その程度の言語使用のための努力すら怠るような不誠実さによって
為す過程で苦労させられることなどもあるとした所で、本質的には、善行も楽しみである。
万人を利するための公田での耕作にも多大なる労苦が伴うが、さりとて心中は清清しくいられる。
一方で、悪徳商人として面従腹背の偽善的なサービスで客から利益を貪り取ったりすることは、
たとえそれがへつらい笑いを浮かべる程度の軽作業であっところで、心中からの苦しみはより
甚だしいものとなる。そのような、自らの行いが善行でないが故の根本からの苦しみというのは、
いくら苦しんだからといって報われて然るべきような苦しみともならない。我田引水の如き
不仁の所業のために心中から苦しんだとして、それでも仮初めの私利私益を手に入れる程度の
報いは期待できるとした所で、総合的にはプラスマイナスゼロ以下の損失となり、最終的には
何もしないでいたほうがマシだったほどもの心身共なる破滅に見舞われることが避けられない。
善行の過渡的な苦しみと、悪行の本質からの苦しみとでは、どちらのほうがより多大なる苦しみ
であり得るかといって、それはむしろ、善行の過渡的な苦しみのほうである。なぜかといって、
善行は本質的には楽しみだから、より多大なる苦労すらをもその楽しみで中和しつつやり過ごし
て行くことができる一方、悪行の本質からの苦しみのほうには、そのような中和作用が一切期待
できないものだから、こじんまりとした苦しみまでしか許容できないという事情があるからだ。
罪悪の苦しみは敢えて避けて、善行の過渡的な労苦をやり過ごすための努力こそを心がけてきた
東洋人が、西洋人などから見ればストイック過ぎて取っ付きがたく思われるのもそのためである。
漢字や梵字一つとっても、簡素なアルファベットに慣れて来た人々たちからすれば、あまりにも
難解な意味を込めすぎているように思われるし、それを日常から多用していたりするのも常軌
を逸したあり方のようにすら見受けられるのである。しかし、それは東洋人にとってはごく
当たり前のことであり、その程度の言語使用のための努力すら怠るような不誠実さによって
人々が思い上がりを募らせたりすることをも未然に防いでいる。それは、難解な言語利用に
よってまで言葉を善用して行くことが一定以上に楽しいからこそそうしていられるのでもあり、
ただただマゾヒストの如く苦しんでいたりするのとは全くわけの違ったあり方なのでもある。
東洋人は主に、本質的には楽しみである真の善行の、過渡的な労苦こそを率先して負って行く
努力を積んで来ているし、中東人もまた、そこまで行かずとも、罪悪の苦しみこそを率先して
負っていくようなことまでは避けるようにして来ている。そして西洋人こそは、罪悪の苦しみを
善行の苦しみであるなどと転倒夢想して、そのような苦しみこそを積極に積み重ねて行く致命的
な過ちを犯し尽くして来た。当然、そのような苦しみを積み重ねて来たことの報いが希望に
満ちたものであったりしていいはずもなく、むしろそのせいで地獄に堕ちるぐらいが妥当な
こととなっている。罪悪こそを善行と勘違いしての過ちの積み重ねを喚起して来たかの邪教も、
信者の楽果を保証するものなどでは決してあり得ず、せいぜい信者たちの心神喪失状態を
原因とした、情状酌量の材料にしてやる程度の役割しか持ち得ないものである。
真の善行における過渡的な労苦こそを率先して積み重ねて行くことこそは、人間にとっての
活動規範としての正解であった一方、罪悪の苦しみなどを率先して積み重ねたりすることは、
人間にとっての紛れもない過ちであった。常識的に考えても容易くそうだと分かる上に、
真理の所まで入念に突き詰めてみても、やはりそうだったのである。随分と当たり前なことの
証明のために、人類も二千年以上に渡って無駄な時間を費やしてしまったものだと言えるが、
残念ながら、世の中にはその程度の常識的な判断も覚束ない不埒者が多数いるのも確かなこと
だから、そのような連中に二度とでかい顔をさせないための遠回りをあえて人類が試みたのだ
とすれば、多少は危うい道草を食ったことにも意味があったのだと考えられるのではなかろうか。
よってまで言葉を善用して行くことが一定以上に楽しいからこそそうしていられるのでもあり、
ただただマゾヒストの如く苦しんでいたりするのとは全くわけの違ったあり方なのでもある。
東洋人は主に、本質的には楽しみである真の善行の、過渡的な労苦こそを率先して負って行く
努力を積んで来ているし、中東人もまた、そこまで行かずとも、罪悪の苦しみこそを率先して
負っていくようなことまでは避けるようにして来ている。そして西洋人こそは、罪悪の苦しみを
善行の苦しみであるなどと転倒夢想して、そのような苦しみこそを積極に積み重ねて行く致命的
な過ちを犯し尽くして来た。当然、そのような苦しみを積み重ねて来たことの報いが希望に
満ちたものであったりしていいはずもなく、むしろそのせいで地獄に堕ちるぐらいが妥当な
こととなっている。罪悪こそを善行と勘違いしての過ちの積み重ねを喚起して来たかの邪教も、
信者の楽果を保証するものなどでは決してあり得ず、せいぜい信者たちの心神喪失状態を
原因とした、情状酌量の材料にしてやる程度の役割しか持ち得ないものである。
真の善行における過渡的な労苦こそを率先して積み重ねて行くことこそは、人間にとっての
活動規範としての正解であった一方、罪悪の苦しみなどを率先して積み重ねたりすることは、
人間にとっての紛れもない過ちであった。常識的に考えても容易くそうだと分かる上に、
真理の所まで入念に突き詰めてみても、やはりそうだったのである。随分と当たり前なことの
証明のために、人類も二千年以上に渡って無駄な時間を費やしてしまったものだと言えるが、
残念ながら、世の中にはその程度の常識的な判断も覚束ない不埒者が多数いるのも確かなこと
だから、そのような連中に二度とでかい顔をさせないための遠回りをあえて人類が試みたのだ
とすれば、多少は危うい道草を食ったことにも意味があったのだと考えられるのではなかろうか。
「徳を尊び義を楽しみ、則ち以て囂囂たる可し。
(以下既出)故に士は窮しても義を失わず、達しても道を離れず」
「仁徳を尊び道義を楽しんで、堂々としていればよい。それでこそ、君子士人たるもの、
貧窮した所で義を失わず、栄達した所で道を踏み外したりしなくても済むのだから。
(義を楽しんだりしていられる所があるからこそ、善道を踏み外すこともないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・九より)
(以下既出)故に士は窮しても義を失わず、達しても道を離れず」
「仁徳を尊び道義を楽しんで、堂々としていればよい。それでこそ、君子士人たるもの、
貧窮した所で義を失わず、栄達した所で道を踏み外したりしなくても済むのだから。
(義を楽しんだりしていられる所があるからこそ、善道を踏み外すこともないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・九より)
信教が許容される世の中であろうがなかろうが、人間社会を司る倫理規範はどこまでも
自明なものでなければならない。そして、そのような自明な倫理法則こそを勉学精進に
よって体得している人間こそを賢聖として尊びつつ模範として行くのでなければならない。
真理を司るとされる神仏なども、そのような自明な倫理法則をより尊びやすいものとして
象徴化したものでこそあるべきであり、決してそこから完全に逸脱しきったものなどでは
あるべきでない。人間たち自身が自明に見極めることのできる倫理法則を非とする邪神
とまでなれば、これはもう積極的な排斥の対象とすらして行くべきであることが確かであり、
そのような邪神への狂信が蔓延してしまったりしないようにするためにも、世の中の側が
神仏並みかそれ以上にも自明な倫理規範こそを総出で尊んでいくようにしなければならない。
人間社会にとっては、自明な倫理規範に従うことが主であり、その助けとして神仏を
崇敬したりすることが副である。だからこそ、神仏を主に司ることを職業とする僧侶や
神官が特別に置かれもするのである。昔なら儒者などが同様なものとして存在すること
もあったが、儒学道徳の基本などは誰しもが主体的にわきまえていているのが当然で
あればこそ、僧侶や神官ほどにも堂に入った職業として広まることはなかった。儒者
といえば、為政者や教師なども兼任するのが主であり、むしろそれらのほうが本業で
あるのが常だった。ただ、一般人までは知る由もないような儒説の秘奥の部分に至る
まで精通する特別要員として、特に儒学が重宝された江戸時代などに多少派閥を形成
することがあるだけだった。(浪人の再就職先として斡旋されていたところもある)
尊重される場合においてですら、あまり権威化が堂に入らないのが、儒学が司るような
自明な倫理規範であり、そのため宗教教団のような分かりやすい個別主体を探そうとして
もあまりいい成果を得られるものではない。だからといって、そのような自明な倫理規範
よりも神仏信仰ほうを、世の中らすら支配する本義に据えてしまったりするのもおかしい。
自明なものでなければならない。そして、そのような自明な倫理法則こそを勉学精進に
よって体得している人間こそを賢聖として尊びつつ模範として行くのでなければならない。
真理を司るとされる神仏なども、そのような自明な倫理法則をより尊びやすいものとして
象徴化したものでこそあるべきであり、決してそこから完全に逸脱しきったものなどでは
あるべきでない。人間たち自身が自明に見極めることのできる倫理法則を非とする邪神
とまでなれば、これはもう積極的な排斥の対象とすらして行くべきであることが確かであり、
そのような邪神への狂信が蔓延してしまったりしないようにするためにも、世の中の側が
神仏並みかそれ以上にも自明な倫理規範こそを総出で尊んでいくようにしなければならない。
人間社会にとっては、自明な倫理規範に従うことが主であり、その助けとして神仏を
崇敬したりすることが副である。だからこそ、神仏を主に司ることを職業とする僧侶や
神官が特別に置かれもするのである。昔なら儒者などが同様なものとして存在すること
もあったが、儒学道徳の基本などは誰しもが主体的にわきまえていているのが当然で
あればこそ、僧侶や神官ほどにも堂に入った職業として広まることはなかった。儒者
といえば、為政者や教師なども兼任するのが主であり、むしろそれらのほうが本業で
あるのが常だった。ただ、一般人までは知る由もないような儒説の秘奥の部分に至る
まで精通する特別要員として、特に儒学が重宝された江戸時代などに多少派閥を形成
することがあるだけだった。(浪人の再就職先として斡旋されていたところもある)
尊重される場合においてですら、あまり権威化が堂に入らないのが、儒学が司るような
自明な倫理規範であり、そのため宗教教団のような分かりやすい個別主体を探そうとして
もあまりいい成果を得られるものではない。だからといって、そのような自明な倫理規範
よりも神仏信仰ほうを、世の中らすら支配する本義に据えてしまったりするのもおかしい。
寺だ神社だ教会だなどよりも、孔子廟のほうがマイナーで魅力的でもないとしたところで、
世人にとって最も身近な所にある事柄を最大級の含蓄と共に論じているのは、神仏ではなく
孔子や孟子のほうであるわけだから、孔孟の論説ぐらいは当たり前のこととして尊べる
だけの素養を身に付けてから、神仏を尊ぶようにもして行かなければならないといえる。
またそれでこそ、真に信敬するに値する真っ当な神仏と、そうでない邪神との見分けも
よく付くようになり、両者を味噌糞に取り扱っていたせいでの信教全体への不信感すらもが
払拭されて行くようになるに違いない。今の日本人の宗教不信などは、自分たちが自明な
倫理規範すらわきまえられなくなってしまっているがためにこそ来たしているところがある
わけだから、決して宗教というコンテンツの旧態化ばかりにその原因を求めるべきでもない。
人間にとっての自明な倫理規範を誰しもがわきまえることは、それすら疎かにしてしまって
いるせいで破滅状態に陥ってしまっている今の世界を反正する上で不可避に必要なことと
なっている。だからこそそれを実現したとして、そこから真っ当な神仏への崇敬を人々が
取り戻して行く選択肢までもが開かれて行く。それは別に必須事項でまであるわけではないが、
それが自明な倫理規範のより一層の堅持や、自明な倫理規範すら見失わせてしまうような
邪教の蔓延の予防にすら役立つようであるならば、奨励されるべきものであれど、決して
遠慮されるべきものとまでなることはない。かつての比叡山や本願寺のような教団腐敗すら
生じさせ始めたりするのならば、それへの牽制はまた別に必要となるに違いないが。
世人にとって最も身近な所にある事柄を最大級の含蓄と共に論じているのは、神仏ではなく
孔子や孟子のほうであるわけだから、孔孟の論説ぐらいは当たり前のこととして尊べる
だけの素養を身に付けてから、神仏を尊ぶようにもして行かなければならないといえる。
またそれでこそ、真に信敬するに値する真っ当な神仏と、そうでない邪神との見分けも
よく付くようになり、両者を味噌糞に取り扱っていたせいでの信教全体への不信感すらもが
払拭されて行くようになるに違いない。今の日本人の宗教不信などは、自分たちが自明な
倫理規範すらわきまえられなくなってしまっているがためにこそ来たしているところがある
わけだから、決して宗教というコンテンツの旧態化ばかりにその原因を求めるべきでもない。
人間にとっての自明な倫理規範を誰しもがわきまえることは、それすら疎かにしてしまって
いるせいで破滅状態に陥ってしまっている今の世界を反正する上で不可避に必要なことと
なっている。だからこそそれを実現したとして、そこから真っ当な神仏への崇敬を人々が
取り戻して行く選択肢までもが開かれて行く。それは別に必須事項でまであるわけではないが、
それが自明な倫理規範のより一層の堅持や、自明な倫理規範すら見失わせてしまうような
邪教の蔓延の予防にすら役立つようであるならば、奨励されるべきものであれど、決して
遠慮されるべきものとまでなることはない。かつての比叡山や本願寺のような教団腐敗すら
生じさせ始めたりするのならば、それへの牽制はまた別に必要となるに違いないが。
「子囊帯、野洩を従いて、之れを叱う。洩曰く、軍に私怒無し、
報いるは乃ち私なり。将に子を亢がん。又た之れを叱う。亦た之れに叱う」
「斉の大夫子囊帯が、戦場で魯の洩声子を追いかけて来て、これを罵った。洩は言った。
『軍務に私怨などありはしない。ただ私はおまえの攻撃を防御するだけだ』また罵ってきた時、
今度は洩も罵り返した。(罵られ通しでは自分自身や友軍の士気にも関わるから罵り返した。
この後には、矢傷を負って戦闘不能になったことに憤慨して敵を罵ったために、
敵からも『責任感の高い君子だ』と評された陳武子の逸話もある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十六年より)
報いるは乃ち私なり。将に子を亢がん。又た之れを叱う。亦た之れに叱う」
「斉の大夫子囊帯が、戦場で魯の洩声子を追いかけて来て、これを罵った。洩は言った。
『軍務に私怨などありはしない。ただ私はおまえの攻撃を防御するだけだ』また罵ってきた時、
今度は洩も罵り返した。(罵られ通しでは自分自身や友軍の士気にも関わるから罵り返した。
この後には、矢傷を負って戦闘不能になったことに憤慨して敵を罵ったために、
敵からも『責任感の高い君子だ』と評された陳武子の逸話もある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十六年より)
いくら条件のいい土地でも、耕作や肥料散布を怠って、やたらめっらな連作を繰り返して
いたりすれば、土質も痩せて使い物にならないような状態と化してしまうし、そこまで
行かずとも、雑草取りや間引きを怠るだけでも相当量の収穫の目減りが生じてしまう。
農作もまた、人間の努力があって初めて相応の収穫を維持して行くことができるもの
なのだから、決して「棚から牡丹餅」の喩えなどに用いられるべきものではないといえる。
洋の東西を問わず、文明社会は農耕と共にこそ成り立ってきているわけだから、
多少なりとも農耕の内実を尊ぶ考えがあれば、その程度のことは何千年も前から察して
来られたことのはずである。しかし、それすらをも怠って、農業などは、商売などと
比べてさしたる儲けにもならない賤業程度にしか考えて来なかった連中も中にはいるわけで、
しかも、そのような農業への侮りからなる知識の浅薄さを元にして、「いい土地では大した
苦労もないままに収穫が得られる」などと豪語する輩までもが時には横行していたのである。
そのような拙い発想を金科玉条にすら掲げて来た西洋諸国たるや、国が二百年と経済的に
持ち応えた試しがない。誰も彼もがいい条件の土地を目指した所で、そんな土地は限られて
いるものだから、そのような土地の独占争いが繰り広げられた結果として貧富の格差が
極大級に拡大して行くばかりとなるし、それによって一部の人間が勝ち得られた好条件の
土地もまた、ただ既成の条件の良さばかりにかまけて整備を怠ったりしていれば結局は
地価を下げて、自分たち自身の自業自得での経済破綻を招くこととなってしまうのである。
いたりすれば、土質も痩せて使い物にならないような状態と化してしまうし、そこまで
行かずとも、雑草取りや間引きを怠るだけでも相当量の収穫の目減りが生じてしまう。
農作もまた、人間の努力があって初めて相応の収穫を維持して行くことができるもの
なのだから、決して「棚から牡丹餅」の喩えなどに用いられるべきものではないといえる。
洋の東西を問わず、文明社会は農耕と共にこそ成り立ってきているわけだから、
多少なりとも農耕の内実を尊ぶ考えがあれば、その程度のことは何千年も前から察して
来られたことのはずである。しかし、それすらをも怠って、農業などは、商売などと
比べてさしたる儲けにもならない賤業程度にしか考えて来なかった連中も中にはいるわけで、
しかも、そのような農業への侮りからなる知識の浅薄さを元にして、「いい土地では大した
苦労もないままに収穫が得られる」などと豪語する輩までもが時には横行していたのである。
そのような拙い発想を金科玉条にすら掲げて来た西洋諸国たるや、国が二百年と経済的に
持ち応えた試しがない。誰も彼もがいい条件の土地を目指した所で、そんな土地は限られて
いるものだから、そのような土地の独占争いが繰り広げられた結果として貧富の格差が
極大級に拡大して行くばかりとなるし、それによって一部の人間が勝ち得られた好条件の
土地もまた、ただ既成の条件の良さばかりにかまけて整備を怠ったりしていれば結局は
地価を下げて、自分たち自身の自業自得での経済破綻を招くこととなってしまうのである。
そのような、農業の苦労への軽んじをも原因とした、目先の利益ばかりを追い求める性向
がついには、土地条件だけなら世界最良であるアメリカ大陸での西洋人たちの経済破綻
という、究極の事態にまで発展したのが今という時点に当たる。大規模な農産や工業生産
にも好適である上、東西を大西洋や太平洋といった絶海によって隔てられているために、
外界からの攻撃に対しても無敵状態の地勢を誇るアメリカ大陸という土地もまた、そこに
入植する人間たち自身がただただ恵まれた地勢にかまけて、金融詐欺にまで手を出しつつ
の大量消費などを続けて来たものだから、ついには破綻が免れられなくなったのだった。
逆に、地勢だけを見れば、土地も狭くて山地だらけである上に、地震や津波や台風や
火山噴火といった自然災害が目白押しである日本列島の住民こそは、地の利などに
かまけたりすることのない自助努力や質素倹約に務めて来たものだから、現状の
アメリカ政府の借金全額を肩代わりしてやれるほどもの貯蓄を保ててもいる。
「地の利は人の和に如かず」(孟子・公孫丑章句下・一)
現時点であれば、日本国民がアメリカの借金を肩代わりしてやることだってできなくはないが、
地の利にかまけてのやりたい放題を是としているような連中が、そんなものに頼ることなく
一致団結の自助努力で堅実な経済体制を保っている人々に対して、相も変わらず上から目線で
「おい、俺らの借金を肩代わりしろ」などと強要して来るようであれば、決していい気分で
いられたりするわけもない。それだけでなく、そのような自己を改めぬ姿勢でアメリカ人
たちが居たままでいたならば、現状の借金を肩代わりしてやった所で、また同じように
借金を積み重ねて行くだけのことになるに違いないわけだから、教育的な観点から見ても、
そんな連中に救済の手を差し伸べてやったりすべきではないことが確かだといえる。
がついには、土地条件だけなら世界最良であるアメリカ大陸での西洋人たちの経済破綻
という、究極の事態にまで発展したのが今という時点に当たる。大規模な農産や工業生産
にも好適である上、東西を大西洋や太平洋といった絶海によって隔てられているために、
外界からの攻撃に対しても無敵状態の地勢を誇るアメリカ大陸という土地もまた、そこに
入植する人間たち自身がただただ恵まれた地勢にかまけて、金融詐欺にまで手を出しつつ
の大量消費などを続けて来たものだから、ついには破綻が免れられなくなったのだった。
逆に、地勢だけを見れば、土地も狭くて山地だらけである上に、地震や津波や台風や
火山噴火といった自然災害が目白押しである日本列島の住民こそは、地の利などに
かまけたりすることのない自助努力や質素倹約に務めて来たものだから、現状の
アメリカ政府の借金全額を肩代わりしてやれるほどもの貯蓄を保ててもいる。
「地の利は人の和に如かず」(孟子・公孫丑章句下・一)
現時点であれば、日本国民がアメリカの借金を肩代わりしてやることだってできなくはないが、
地の利にかまけてのやりたい放題を是としているような連中が、そんなものに頼ることなく
一致団結の自助努力で堅実な経済体制を保っている人々に対して、相も変わらず上から目線で
「おい、俺らの借金を肩代わりしろ」などと強要して来るようであれば、決していい気分で
いられたりするわけもない。それだけでなく、そのような自己を改めぬ姿勢でアメリカ人
たちが居たままでいたならば、現状の借金を肩代わりしてやった所で、また同じように
借金を積み重ねて行くだけのことになるに違いないわけだから、教育的な観点から見ても、
そんな連中に救済の手を差し伸べてやったりすべきではないことが確かだといえる。
地の利ばかりにかまけて、人の和など全くの蔑ろにしてきたアメリカ人が、その逆を行く
ことにかけて世界でも最高級の尽力を果たして来た日本人に倣うなどということは、中々
難しいことであるに違いない。それこそ、世界でも最難関ですらありかねないことだから、
そこまでは別に要求したりもしないが、上の「地の利は人の和に如かず」という教条をも
真摯に受け止めて、自分たちのあり方以上にも日本人のようなあり方こそをより尊んで
行くぐらいのことはできなければならない。それでこそ、借金地獄を再来させてしまい
かねない自分たちの思い上がりが、適度に抑制されて行くにも違いないのだから。
「社を国に於いて祀るは、地の利を列する所以なり。祖廟は仁を本とする所以なり」
「社稷を各国で祀ることで、その国の土地がもたらしてくれる利益を尊ぶ。また
宋廟を祀ることで、個々の地の利に囚われない仁徳を根本として尊ばせるようにする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
ことにかけて世界でも最高級の尽力を果たして来た日本人に倣うなどということは、中々
難しいことであるに違いない。それこそ、世界でも最難関ですらありかねないことだから、
そこまでは別に要求したりもしないが、上の「地の利は人の和に如かず」という教条をも
真摯に受け止めて、自分たちのあり方以上にも日本人のようなあり方こそをより尊んで
行くぐらいのことはできなければならない。それでこそ、借金地獄を再来させてしまい
かねない自分たちの思い上がりが、適度に抑制されて行くにも違いないのだから。
「社を国に於いて祀るは、地の利を列する所以なり。祖廟は仁を本とする所以なり」
「社稷を各国で祀ることで、その国の土地がもたらしてくれる利益を尊ぶ。また
宋廟を祀ることで、個々の地の利に囚われない仁徳を根本として尊ばせるようにする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
「Es ist gut」だとか「Let it be」だとかの、絶望的な破滅に陥りつつある人間に
とってこそ気休めとなる部類の言葉がある。机上の空論止まりな概念哲学を
弄繰り回した挙句に死の床に付いたカントが「Es ist gut(これでいい)」などと
つぶやいて息を引き取ったのも、自らの哲学が死への絶望を克服させるに値する
ものなどでは全くなかったからでこそあるし、日米と中国の国交回復で、近い
将来に自分たちの拵えた金融システムの破綻が免れられなくなることを察した
イギリス人が、自国のミュージシャンに「Let it be」などという曲を歌わせて
世界規模で流行させたのも、その先どうすればいいのかなどを考えたくも
なくなる程もの自暴自棄に自分たちが駆られたからでこそあるのである。
それは、死への絶望を真に克服させるお経の言葉などとはまた別のものであり、末期
ガン患者に投与して苦痛を緩和させてやる麻薬などのほうに近いものである。死への
絶望自体は持ち越したままだから、本当にそれを克服している場合のような毅然とした
態度や振る舞いでいることもできず、廃人然とした状況へと自らを陥らせるのである。
実際問題、人間誰しもいつかは死ぬに違いないわけだが、それでも、死への絶望
を真に克服している人間と、死への絶望に取り込まれてしまっている人間とでは、
生きてる内からの言行に大きな差異が生ずるものである。死への絶望を克服できている
人間こそは、生きてる内からの最善をも尽くせる一方で、絶望に取り込まれてしまって
いるような人間は、自分自身の自助努力にかけての最善を尽くしたりすることができず、
自らの怠慢やその正当化が原因での、生きてる内からの自滅を招いてしまうのである。
してみれば、死への絶望を克服できないままでいるような人間が、気休めのために
怠慢を正当化するような言葉なども、むしろ人間にとって有害なものであるといえる。
とってこそ気休めとなる部類の言葉がある。机上の空論止まりな概念哲学を
弄繰り回した挙句に死の床に付いたカントが「Es ist gut(これでいい)」などと
つぶやいて息を引き取ったのも、自らの哲学が死への絶望を克服させるに値する
ものなどでは全くなかったからでこそあるし、日米と中国の国交回復で、近い
将来に自分たちの拵えた金融システムの破綻が免れられなくなることを察した
イギリス人が、自国のミュージシャンに「Let it be」などという曲を歌わせて
世界規模で流行させたのも、その先どうすればいいのかなどを考えたくも
なくなる程もの自暴自棄に自分たちが駆られたからでこそあるのである。
それは、死への絶望を真に克服させるお経の言葉などとはまた別のものであり、末期
ガン患者に投与して苦痛を緩和させてやる麻薬などのほうに近いものである。死への
絶望自体は持ち越したままだから、本当にそれを克服している場合のような毅然とした
態度や振る舞いでいることもできず、廃人然とした状況へと自らを陥らせるのである。
実際問題、人間誰しもいつかは死ぬに違いないわけだが、それでも、死への絶望
を真に克服している人間と、死への絶望に取り込まれてしまっている人間とでは、
生きてる内からの言行に大きな差異が生ずるものである。死への絶望を克服できている
人間こそは、生きてる内からの最善をも尽くせる一方で、絶望に取り込まれてしまって
いるような人間は、自分自身の自助努力にかけての最善を尽くしたりすることができず、
自らの怠慢やその正当化が原因での、生きてる内からの自滅を招いてしまうのである。
してみれば、死への絶望を克服できないままでいるような人間が、気休めのために
怠慢を正当化するような言葉なども、むしろ人間にとって有害なものであるといえる。
すでに余命もわずかな末期ガン患者が麻薬を苦痛で和らげられたりするのは、まだ
許容のしようのあることだが、自分自身は健康上問題のない権力者などが、政治や
経済の先行き不安を「Let it be」みたいな言葉を拠り所に直視しないままでいたり
したならば、それは人と世にとっての多大なる害悪となることが間違いないわけだから、
特にそのような要職にある人間などが、怠慢を助長するような言葉に酔って職務を
蔑ろにしてしまうようなことだけは、徹底して避けられねばならないことだと言える。
権力者が、信仰の下で現実社会での善行を諦めるということは、聖書圏の人間などに
とっては常なることでもあり続けて来た。王侯が一度は戦地に赴いて敵兵を殺すとかの、
偽善止まりでしかないような慈善は嗜んだ所で、全身全霊を挙げての仁政によって万民
を安寧や繁栄へと導いたりするような、権力者としての最善の振る舞いを心がける
ことだけは、聖書信仰の下で徹底して破棄されたままであり続けて来ているのである。
もはや、そうであることが当たり前の常識と化してしまっているのが聖書圏である
わけだから、いざ聖書圏の人間が聖書信仰を捨て去って、怠慢に溺れたりする事も
なく為政などにかけての最善を尽くし始めたならどうなるのかは、未知数だといえる。
仁政級の善行など当たり前のこととして先祖代々積んで来なかったわけだから、ほんの
百数十年前までそのレベルの努力を積んでいる先祖がザラにいた東洋人などと比べて、
よりその手の能力が長けているようなことまでは決して期待できはしない。さりとて、
全くその手の能力が皆無であるかどうかも知れない。今までは、怠慢を助長する邪教
によってあえて自力作善を萎えさせられて来ているわけだから、そのような頚木を
解かれた場合に、相も変わらず善行不能者のままでいるかどうかは、未知のままである。
許容のしようのあることだが、自分自身は健康上問題のない権力者などが、政治や
経済の先行き不安を「Let it be」みたいな言葉を拠り所に直視しないままでいたり
したならば、それは人と世にとっての多大なる害悪となることが間違いないわけだから、
特にそのような要職にある人間などが、怠慢を助長するような言葉に酔って職務を
蔑ろにしてしまうようなことだけは、徹底して避けられねばならないことだと言える。
権力者が、信仰の下で現実社会での善行を諦めるということは、聖書圏の人間などに
とっては常なることでもあり続けて来た。王侯が一度は戦地に赴いて敵兵を殺すとかの、
偽善止まりでしかないような慈善は嗜んだ所で、全身全霊を挙げての仁政によって万民
を安寧や繁栄へと導いたりするような、権力者としての最善の振る舞いを心がける
ことだけは、聖書信仰の下で徹底して破棄されたままであり続けて来ているのである。
もはや、そうであることが当たり前の常識と化してしまっているのが聖書圏である
わけだから、いざ聖書圏の人間が聖書信仰を捨て去って、怠慢に溺れたりする事も
なく為政などにかけての最善を尽くし始めたならどうなるのかは、未知数だといえる。
仁政級の善行など当たり前のこととして先祖代々積んで来なかったわけだから、ほんの
百数十年前までそのレベルの努力を積んでいる先祖がザラにいた東洋人などと比べて、
よりその手の能力が長けているようなことまでは決して期待できはしない。さりとて、
全くその手の能力が皆無であるかどうかも知れない。今までは、怠慢を助長する邪教
によってあえて自力作善を萎えさせられて来ているわけだから、そのような頚木を
解かれた場合に、相も変わらず善行不能者のままでいるかどうかは、未知のままである。
いま権力者でいるような聖書圏の人間などは、もう立ち直りも不可能であるにしろ、
今はまだ権力者として振舞ったこともないような人間や、次世代以降の子孫であれば、
邪信災禍によって怠慢なままでしかいられなくなっている現状から脱却できるような
元聖書圏の人間もまた、生ずるかもしれない。もちろん、怠慢に溺れたがるような
性向や、それに呼応する言葉などから卒業できた場合に限ることなわけだけれども。
「讒を去り色を遠ざけ、貨を賤しみ徳を貴ぶは、賢を勧むる所以なり」
「人を貶めるような言葉や喜色を催させるような言葉を避けて、財貨を卑しみ
仁徳を尊ぶようにするのは、それによって賢明さを育んで行くためである。
(誰かは救っても誰かは救わないみたいな物言い自体、賢明なものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二〇より)
今はまだ権力者として振舞ったこともないような人間や、次世代以降の子孫であれば、
邪信災禍によって怠慢なままでしかいられなくなっている現状から脱却できるような
元聖書圏の人間もまた、生ずるかもしれない。もちろん、怠慢に溺れたがるような
性向や、それに呼応する言葉などから卒業できた場合に限ることなわけだけれども。
「讒を去り色を遠ざけ、貨を賤しみ徳を貴ぶは、賢を勧むる所以なり」
「人を貶めるような言葉や喜色を催させるような言葉を避けて、財貨を卑しみ
仁徳を尊ぶようにするのは、それによって賢明さを育んで行くためである。
(誰かは救っても誰かは救わないみたいな物言い自体、賢明なものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二〇より)
義だ仁だ忠だ天だと、名称だけは広く知れ渡っているのに、その内実はといえば、
ほとんどの人間が全くといっていいほど理解できないままでいる類いの理念という
ものがある。そのため、名称と不可分な関係にある自明な本意のほうは蔑ろにされた
上で、本意を解さない無知者が適当な別の意味を後付けしてしまっていたりもする。
①
「義」には、とりあえず何かをしておくことの正当化全般という意味が込められるし、
「仁」には、見栄っ張りな大盤振る舞い全般を指し示す意味が込められるし、
「忠」には、奴隷か家畜の如く主人の言いなりになること全般があてはめられるし、
「天」には、常人とは次元の違うもの全般を指し示す意味が込められるのが常である。
これら全て、義や仁や忠や天といった言葉に本来付与されている意味とは別物だったり、
あまりにも範囲が広すぎたりする意味となっている。これらの言葉の本来の意味は、
②
「義」とは、仁への志しを実践に移して行く場合に迷うことのない所であり、
「仁」とは、天下万人と我れとを公平かつ盛大に利する志しのことであり、
「忠」とは、仁義の実践のために主君に尽くす賢臣としての心がけであり、
「天」とは、そのような人間たち自身の実践をさらに超えた所にある縁起のことである。
仁義も忠孝も天命もほぼ見失った状態にある現代人が用いている語法は概ね①の
ほうであり、②はもはや完全に忘れ去られているか、もしくは旧態化して取るに
足らない意味合いとされてしまっているのが常である。実際、②のような語法は、
天下国家のための仁政を心がける職業上からの君子でもない限りは、そのような
言葉遣いであることを不可避に強要までされるものではない。①のような歪んだ
意味や、漠然とした意味に基づく語法のほうが、大した職業に就いているわけ
でもない小人などにとっては、より有用な言葉遣いともなり得るものである。
ほとんどの人間が全くといっていいほど理解できないままでいる類いの理念という
ものがある。そのため、名称と不可分な関係にある自明な本意のほうは蔑ろにされた
上で、本意を解さない無知者が適当な別の意味を後付けしてしまっていたりもする。
①
「義」には、とりあえず何かをしておくことの正当化全般という意味が込められるし、
「仁」には、見栄っ張りな大盤振る舞い全般を指し示す意味が込められるし、
「忠」には、奴隷か家畜の如く主人の言いなりになること全般があてはめられるし、
「天」には、常人とは次元の違うもの全般を指し示す意味が込められるのが常である。
これら全て、義や仁や忠や天といった言葉に本来付与されている意味とは別物だったり、
あまりにも範囲が広すぎたりする意味となっている。これらの言葉の本来の意味は、
②
「義」とは、仁への志しを実践に移して行く場合に迷うことのない所であり、
「仁」とは、天下万人と我れとを公平かつ盛大に利する志しのことであり、
「忠」とは、仁義の実践のために主君に尽くす賢臣としての心がけであり、
「天」とは、そのような人間たち自身の実践をさらに超えた所にある縁起のことである。
仁義も忠孝も天命もほぼ見失った状態にある現代人が用いている語法は概ね①の
ほうであり、②はもはや完全に忘れ去られているか、もしくは旧態化して取るに
足らない意味合いとされてしまっているのが常である。実際、②のような語法は、
天下国家のための仁政を心がける職業上からの君子でもない限りは、そのような
言葉遣いであることを不可避に強要までされるものではない。①のような歪んだ
意味や、漠然とした意味に基づく語法のほうが、大した職業に就いているわけ
でもない小人などにとっては、より有用な言葉遣いともなり得るものである。
しかし、①のような語法に凝り固まってしまったならば、人が②のような語法に即して
積極的に仁政を執り行って行くことなど不可能と化してしまう。一人や二人の人間が
②のような語法をわきまえていた所で、権力者層を含む世の中全体が、①のような
語法で仁義だの忠孝だのといった言葉までをも専らに用いたりしているのならば、
やはり人々が総出を挙げて仁政に取り組んで行ったりすることなどができないままで
あり続けることには変わりない。①のような語法がまかり通っている以上は、そもそも
誰も仁義だの忠孝だのといった理念を、理解したような気になりながら、全く理解
できないままで居続けるわけだから、仁政が不能と化すのもむべなることだといえる。
だからこそ、②よりはむしろ①の語法のほうが自分たちにとって使い勝手がいい
民間の小人などに、主権を明け渡すべきでもない。小人にとってはむしろ使い勝手が悪く、
君子にとってのみそのような使い方が堂に入る②のような語法を一般化するためにも、
君子士人にこそ政治的社会的な主権すらをも明け渡すようにするのでなければならない。
上記のような名辞の問題一つを取っても、仁義忠孝の何たるかを「知る必要すらない」
立場にある民間人などに主権を明け渡したりすることが、いかに危ういことであるのか
ということが自明に明らかとなっている。一つ一つの言葉遣いからして、民間人は
仁政の手立てとなる語法などをかえって身の丈に合わない不要物としてしまうのだから、
その民間人の欲求のままに政治を執り行ったりすれば、仁政など二度と不能と化して
しまうのもごく当たり前のことだといえる。民間人には民間人で都合のいい身の丈と
いうものがあり、それは自明に仁政を不能と化してしまう身の丈でもあるわけだから、
世の中を少しでもよくしてもらおうと思うのなら、出来る限り大人しくしておくことだ。
積極的に仁政を執り行って行くことなど不可能と化してしまう。一人や二人の人間が
②のような語法をわきまえていた所で、権力者層を含む世の中全体が、①のような
語法で仁義だの忠孝だのといった言葉までをも専らに用いたりしているのならば、
やはり人々が総出を挙げて仁政に取り組んで行ったりすることなどができないままで
あり続けることには変わりない。①のような語法がまかり通っている以上は、そもそも
誰も仁義だの忠孝だのといった理念を、理解したような気になりながら、全く理解
できないままで居続けるわけだから、仁政が不能と化すのもむべなることだといえる。
だからこそ、②よりはむしろ①の語法のほうが自分たちにとって使い勝手がいい
民間の小人などに、主権を明け渡すべきでもない。小人にとってはむしろ使い勝手が悪く、
君子にとってのみそのような使い方が堂に入る②のような語法を一般化するためにも、
君子士人にこそ政治的社会的な主権すらをも明け渡すようにするのでなければならない。
上記のような名辞の問題一つを取っても、仁義忠孝の何たるかを「知る必要すらない」
立場にある民間人などに主権を明け渡したりすることが、いかに危ういことであるのか
ということが自明に明らかとなっている。一つ一つの言葉遣いからして、民間人は
仁政の手立てとなる語法などをかえって身の丈に合わない不要物としてしまうのだから、
その民間人の欲求のままに政治を執り行ったりすれば、仁政など二度と不能と化して
しまうのもごく当たり前のことだといえる。民間人には民間人で都合のいい身の丈と
いうものがあり、それは自明に仁政を不能と化してしまう身の丈でもあるわけだから、
世の中を少しでもよくしてもらおうと思うのなら、出来る限り大人しくしておくことだ。
「命は之れ不易なるも、爾じが身に遏むる無し。
義を宣べて昭かに問えば、虞も殷も天に自る有り。
上天は之れを載するも、声も無く臭いも無し。文王に儀刑し、万邦を孚と作す」
「天命は不易なものではあるが、個々人の身に普遍的に留まるものでもない。
義を尊びつつ明らかに問うてみれば、先代の虞や殷といった国もまた、天命に拠って
いたことが分かる。確かにそれは上天にから来ているものに違いないが、声もなく
臭いもないから容易には計り知りがたい。そのため我々も天命に適っていた文王の
定められた儀礼や刑法で人々を統治することで、万邦に誠実な気風を広めて行くことを
心がけるのである。(上天は人間にとって声も臭いもないほどに遠いものである。
だからこそ、それすらをも捉えられていた聖王の手法に則って世の中を正して行く。
それも、儀礼や刑法によって世の中を統制して行くことのほうが主体となり、
あえて殷紂のような放辟邪侈の許容のような緩和三昧を来たしたりすることもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・文王より)
義を宣べて昭かに問えば、虞も殷も天に自る有り。
上天は之れを載するも、声も無く臭いも無し。文王に儀刑し、万邦を孚と作す」
「天命は不易なものではあるが、個々人の身に普遍的に留まるものでもない。
義を尊びつつ明らかに問うてみれば、先代の虞や殷といった国もまた、天命に拠って
いたことが分かる。確かにそれは上天にから来ているものに違いないが、声もなく
臭いもないから容易には計り知りがたい。そのため我々も天命に適っていた文王の
定められた儀礼や刑法で人々を統治することで、万邦に誠実な気風を広めて行くことを
心がけるのである。(上天は人間にとって声も臭いもないほどに遠いものである。
だからこそ、それすらをも捉えられていた聖王の手法に則って世の中を正して行く。
それも、儀礼や刑法によって世の中を統制して行くことのほうが主体となり、
あえて殷紂のような放辟邪侈の許容のような緩和三昧を来たしたりすることもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・文王より)
人を吉方へと導く聖賢や仏神の言葉にも、末永く親しみやすい性質がある一方で、
相手を破滅へと陥れる鬼畜や邪神の詭弁にも、多少は親しみやすい性質がある。
そのため、いずれの言葉をより所とするにかけても、一定以上の精神的な安定を
得られる所がある。それは、陽があれば陰があり、善があれば悪がある
陰陽法則に即しても普遍的であらざるを得ない現象だといえる。
>>243の②のような意味合いを義や仁や忠や天といった言葉に付与することこそは
至当である一方で、①のような間違った意味合いを付与するほうがかえって、民間の
小人などにとっては取っ付きやすくなるということもまた、君子があれば小人がある
陰陽法則に根ざした普遍現象だといえる。陰陽法則は正しきと過ち、絶対真理と
完全誤謬すらをも陽と陰の関係として包摂し尽くしてしまうものであるため、
過ちを犯しつくすことこそを本是としているような邪教邪学の類いすらもが、
その法則から完全に逸脱したりすることが絶対にできないままであり続けるのである。
完全誤謬と罪悪の限りを尽くす、邪教邪学やその実践者すらをも完全に包摂し
尽くしてしまう代わりに、陰陽法則自体はそのような徒輩の一定内の自由すらをも
許容してしまうものである。時には近現代社会のように、そのような徒輩こそが
世界でも最大級の権勢を得て、欲しい侭に暴れ回るようなことすらもがあるわけで、
それがまたいつかは限界を来たして、破滅に見舞われることになるということだけが、
陰極まれば必ず陽に転ずる陰陽法則が、絶対的な運命として予言していることでもある。
そのような陰陽法則に基づく縁起をありのままに尊重しようとしているのは、むしろ
道家や仏教といった儒学以外の優等教学のほうである。儒学はむしろ、人間自身が
勧善懲悪の志しによって、陰陽法則の流れにすら逆らっての善行を心がけて行くこと
を奨励するものであるわけだから、そこは他学に二歩も三歩も譲る所であると言える。
相手を破滅へと陥れる鬼畜や邪神の詭弁にも、多少は親しみやすい性質がある。
そのため、いずれの言葉をより所とするにかけても、一定以上の精神的な安定を
得られる所がある。それは、陽があれば陰があり、善があれば悪がある
陰陽法則に即しても普遍的であらざるを得ない現象だといえる。
>>243の②のような意味合いを義や仁や忠や天といった言葉に付与することこそは
至当である一方で、①のような間違った意味合いを付与するほうがかえって、民間の
小人などにとっては取っ付きやすくなるということもまた、君子があれば小人がある
陰陽法則に根ざした普遍現象だといえる。陰陽法則は正しきと過ち、絶対真理と
完全誤謬すらをも陽と陰の関係として包摂し尽くしてしまうものであるため、
過ちを犯しつくすことこそを本是としているような邪教邪学の類いすらもが、
その法則から完全に逸脱したりすることが絶対にできないままであり続けるのである。
完全誤謬と罪悪の限りを尽くす、邪教邪学やその実践者すらをも完全に包摂し
尽くしてしまう代わりに、陰陽法則自体はそのような徒輩の一定内の自由すらをも
許容してしまうものである。時には近現代社会のように、そのような徒輩こそが
世界でも最大級の権勢を得て、欲しい侭に暴れ回るようなことすらもがあるわけで、
それがまたいつかは限界を来たして、破滅に見舞われることになるということだけが、
陰極まれば必ず陽に転ずる陰陽法則が、絶対的な運命として予言していることでもある。
そのような陰陽法則に基づく縁起をありのままに尊重しようとしているのは、むしろ
道家や仏教といった儒学以外の優等教学のほうである。儒学はむしろ、人間自身が
勧善懲悪の志しによって、陰陽法則の流れにすら逆らっての善行を心がけて行くこと
を奨励するものであるわけだから、そこは他学に二歩も三歩も譲る所であると言える。
逆にそこが、陰陽法則を逸脱してまでの悪逆非道の伸張を企てるような邪教邪学に
対する「当て馬」として儒学適格である所以でもあるわけで、所詮はそのような
邪信の志しもまた、陰陽法則に即していつかは潰えざるを得ないにしろ、そのような
愚かな企てをなぜすべきでないのかということをより深く反省するための材料とする
上では、儒家教学上のより積極的な勧善懲悪志向こそが絶好のものとなりもするのである。
そもそも、より平滑な陰陽法則を尊重する観点から言えば、宇宙でも特筆して有機的な
地表条件を満たしているこの地球という惑星の上で、さらに独自に有機的な文明を形成
して行っている人類という存在自体が、普遍性に真っ向から逆らう波しぶきのようなもの
であるとすら言えなくはないわけである。そうでありながら、より絶対的な普遍性ばかり
を追い求めるよりは、瑣末な波しぶきとしてのあり方に徹するのも一つの手だといえる。
ただ、そのあり方が儒家のような勧善懲悪志向であったり、ある種の邪説が推進する
悪逆非道志向であったりするといった相違があるわけで、瑣末な波しぶき如きが
絶対にどちらかでなければならないなどということもありはしない。ただ、より
そのような刹那的な存在としての冥利に尽きようと思うのならば、悪逆非道よりは
勧善懲悪を志したほうがより満足のいく処があるといった差異があるだけである。
畢竟、だからこそ勧善懲悪は勧善懲悪であり、悪逆非道もまた悪逆非道である
というばかりのことですらあるといえる。結果的により満足が得られるから、
勧善懲悪も勧善懲悪たる一方で、どこまでも不満なままに終わってしまうもの
だからこそ、悪逆非道も悪逆非道であるというまでのことである。瑣末な波しぶき
の志し如きがあえて善と悪とに分かれる理由も、結局はそこに集約されているのである。
対する「当て馬」として儒学適格である所以でもあるわけで、所詮はそのような
邪信の志しもまた、陰陽法則に即していつかは潰えざるを得ないにしろ、そのような
愚かな企てをなぜすべきでないのかということをより深く反省するための材料とする
上では、儒家教学上のより積極的な勧善懲悪志向こそが絶好のものとなりもするのである。
そもそも、より平滑な陰陽法則を尊重する観点から言えば、宇宙でも特筆して有機的な
地表条件を満たしているこの地球という惑星の上で、さらに独自に有機的な文明を形成
して行っている人類という存在自体が、普遍性に真っ向から逆らう波しぶきのようなもの
であるとすら言えなくはないわけである。そうでありながら、より絶対的な普遍性ばかり
を追い求めるよりは、瑣末な波しぶきとしてのあり方に徹するのも一つの手だといえる。
ただ、そのあり方が儒家のような勧善懲悪志向であったり、ある種の邪説が推進する
悪逆非道志向であったりするといった相違があるわけで、瑣末な波しぶき如きが
絶対にどちらかでなければならないなどということもありはしない。ただ、より
そのような刹那的な存在としての冥利に尽きようと思うのならば、悪逆非道よりは
勧善懲悪を志したほうがより満足のいく処があるといった差異があるだけである。
畢竟、だからこそ勧善懲悪は勧善懲悪であり、悪逆非道もまた悪逆非道である
というばかりのことですらあるといえる。結果的により満足が得られるから、
勧善懲悪も勧善懲悪たる一方で、どこまでも不満なままに終わってしまうもの
だからこそ、悪逆非道も悪逆非道であるというまでのことである。瑣末な波しぶき
の志し如きがあえて善と悪とに分かれる理由も、結局はそこに集約されているのである。
「其の学に安んじて其の師に親しみ、其の友を楽しみて
其の道を信ずれば、是れを以て師輔を離るると雖も反らざるなり」
「自らの修めている学問に安んじて師匠にも心から親しみ、学友との交わりを
楽しんで道そのものを信認していられるようならば、最初の師の下を離れたと
してもそれで退行してしまったりすることもない。(聖書信仰は、信者たち
自身が自主的にその道を信じてそこに安んじたりすることが出来ないからこそ、
信者たちを絶対神の下から離れさせることもできないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・学記第十八より)
其の道を信ずれば、是れを以て師輔を離るると雖も反らざるなり」
「自らの修めている学問に安んじて師匠にも心から親しみ、学友との交わりを
楽しんで道そのものを信認していられるようならば、最初の師の下を離れたと
してもそれで退行してしまったりすることもない。(聖書信仰は、信者たち
自身が自主的にその道を信じてそこに安んじたりすることが出来ないからこそ、
信者たちを絶対神の下から離れさせることもできないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・学記第十八より)
「満は損を招き、謙は益を受く(書経・大禹謨)」とは、一種の普遍的な因果法則
であり、特定の人間なり神なりによって好き勝手に采配を振るわれるべき法則でもない。
人間たち自身の身勝手な権勢が普遍的な道理すらをも覆い隠してしまっているような
世の中では、かえってこの法則までもが破綻したかのような事態にすら至ることがある。
だから、権力腐敗の甚だしかった明代末期に、儒仏道混交の理念に根ざして書かれた随筆集
である「菜根譚」においても、「(慢心めいた)聞こえの悪いような言葉にも、讒夫を卑しむ
目的があるのかも知れないし、(謙遜の利いたような)聞こえのいい言葉にも、偽善者の人気
取り目的が潜んでいるのかも知れない」などという注意を促す金言が記されているのでもある。
そもそも、人様の命や生活を好き勝手に左右してやろうとするような人為的な何者かが
存在するというのならば、そいつこそは最大級の慢心の持ち主であることが間違いない。
重罪を犯した人間に対して、命や自由を奪うような重罰を科す場合においてですら、
湯王や武王のように天威を駆るのでなければ、自らが慢心に陥って権力を乱用し始める
ようなことにすらなりかねない。いわんや、何の罪を犯しているわけでもないような
ただの庶民に対してですら虐政を加えて苦しめたりするようなことが合ったならば、自ら
の罪悪感を紛らわすためにも、半ば強制的にすら慢心を肥大化させていかねばならなくなる。
個々の人々の命から、人間同士の秩序だった睦み合いに、果ては天下国家の命運に至るまで、
恣意で身勝手に左右してやろうなどという思いを抱かないことが、まず第一の謙遜となる。
それは、そんなこと始めから不可能である民間の庶人から、やろうと思えばできなくもない
ような大権力者に至るまで、誰にでも共通することである。いい影響を及ぼすことにかけて
ですら、マッチポンプ故の弊害を伴っていたりしかねないものだから、善行の心がけが
純善たり得ているかどうかを見定めるためにも、まずはしっかり一所に踏みとどまって
無為自然の境地に落ち着いておくことこそが、最も肝心な謙遜への第一歩となるのである。
であり、特定の人間なり神なりによって好き勝手に采配を振るわれるべき法則でもない。
人間たち自身の身勝手な権勢が普遍的な道理すらをも覆い隠してしまっているような
世の中では、かえってこの法則までもが破綻したかのような事態にすら至ることがある。
だから、権力腐敗の甚だしかった明代末期に、儒仏道混交の理念に根ざして書かれた随筆集
である「菜根譚」においても、「(慢心めいた)聞こえの悪いような言葉にも、讒夫を卑しむ
目的があるのかも知れないし、(謙遜の利いたような)聞こえのいい言葉にも、偽善者の人気
取り目的が潜んでいるのかも知れない」などという注意を促す金言が記されているのでもある。
そもそも、人様の命や生活を好き勝手に左右してやろうとするような人為的な何者かが
存在するというのならば、そいつこそは最大級の慢心の持ち主であることが間違いない。
重罪を犯した人間に対して、命や自由を奪うような重罰を科す場合においてですら、
湯王や武王のように天威を駆るのでなければ、自らが慢心に陥って権力を乱用し始める
ようなことにすらなりかねない。いわんや、何の罪を犯しているわけでもないような
ただの庶民に対してですら虐政を加えて苦しめたりするようなことが合ったならば、自ら
の罪悪感を紛らわすためにも、半ば強制的にすら慢心を肥大化させていかねばならなくなる。
個々の人々の命から、人間同士の秩序だった睦み合いに、果ては天下国家の命運に至るまで、
恣意で身勝手に左右してやろうなどという思いを抱かないことが、まず第一の謙遜となる。
それは、そんなこと始めから不可能である民間の庶人から、やろうと思えばできなくもない
ような大権力者に至るまで、誰にでも共通することである。いい影響を及ぼすことにかけて
ですら、マッチポンプ故の弊害を伴っていたりしかねないものだから、善行の心がけが
純善たり得ているかどうかを見定めるためにも、まずはしっかり一所に踏みとどまって
無為自然の境地に落ち着いておくことこそが、最も肝心な謙遜への第一歩となるのである。
権力の魔性に囚われて慢心を肥大化させてしまっているようなならず者が支配する世界
こそは、確かに大きな損失に見舞われた世相とも相成る。そのような慢心と共に世の中を
よりよくして行けるわけもなく、何かをしようとすればするほど暴政に結び付くばかりとなる
ものだから、養生を妨げられた人々も一層の生活上からの損失に見舞われて行くこととなる。
それは、権力者が神すらをも気取るほどの「慢心の殿堂入り」を決め込んだ所で、やはり
寸分たりとも解消されることのない問題点であり続けることが、神を気取る聖書信者こそ
が支配している今の世界が、人類滅亡級の害悪に見舞われていることからも察せられる。
権力者が天威を尊ぶことで自らの慢心を控えるというのならともかく、自分たち自身が
形而上の超越神を気取ることでより一層慢心を肥大化させて堂に入らせたりするものだから、
そのせいでまずは世の中が大損失に見舞われることとなる。世界が破滅級の損失に見舞われ
ていながら、自分たちこそは最大級の権力者でもあり続けているものだから、最終的には、
自分たちこそがその責任を負わされて、見るも無残な大自滅へと陥ることともなるのである。
形而上の超越神を気取る所に、慢心の逃げ道を見出したことほど、人類にとっての大いなる
過ちも他になかったといえる。それと比べれば、まだ核兵器の発明あたりのほうが、善用も
悪用も可能な科学技術上の発明であった分だけ、まだ弁解の余地があったことだといえる。
それこそが、人類にとっての最大級の過ちであったからには、超越神を気取ることで慢心を
肥大化させたことこそは、最大級の報いを以って償われねばならぬ罪過でもあるに違いない。
そのような過ちを二度と人類が犯したりしないようにするためにも、その手の慢心をへし折る
ための処罰こそは、他の如何なる刑罰にも増して厳重かつ徹底的なものとならねばならない。
こそは、確かに大きな損失に見舞われた世相とも相成る。そのような慢心と共に世の中を
よりよくして行けるわけもなく、何かをしようとすればするほど暴政に結び付くばかりとなる
ものだから、養生を妨げられた人々も一層の生活上からの損失に見舞われて行くこととなる。
それは、権力者が神すらをも気取るほどの「慢心の殿堂入り」を決め込んだ所で、やはり
寸分たりとも解消されることのない問題点であり続けることが、神を気取る聖書信者こそ
が支配している今の世界が、人類滅亡級の害悪に見舞われていることからも察せられる。
権力者が天威を尊ぶことで自らの慢心を控えるというのならともかく、自分たち自身が
形而上の超越神を気取ることでより一層慢心を肥大化させて堂に入らせたりするものだから、
そのせいでまずは世の中が大損失に見舞われることとなる。世界が破滅級の損失に見舞われ
ていながら、自分たちこそは最大級の権力者でもあり続けているものだから、最終的には、
自分たちこそがその責任を負わされて、見るも無残な大自滅へと陥ることともなるのである。
形而上の超越神を気取る所に、慢心の逃げ道を見出したことほど、人類にとっての大いなる
過ちも他になかったといえる。それと比べれば、まだ核兵器の発明あたりのほうが、善用も
悪用も可能な科学技術上の発明であった分だけ、まだ弁解の余地があったことだといえる。
それこそが、人類にとっての最大級の過ちであったからには、超越神を気取ることで慢心を
肥大化させたことこそは、最大級の報いを以って償われねばならぬ罪過でもあるに違いない。
そのような過ちを二度と人類が犯したりしないようにするためにも、その手の慢心をへし折る
ための処罰こそは、他の如何なる刑罰にも増して厳重かつ徹底的なものとならねばならない。
「惟れ徳、天を動かす。遠しとして届らざる無し。
満は損を招き、謙は益を受く(この一文既出)。時れ乃ち天道なり」
「人間の湛える仁徳こそは、天運をも動かすものであり、それは最遠方にまで届かぬことのない
普遍法則であり続ける。慢心は損害につながり、謙遜は利益に繋がる。これが天道である。
(慢心を戒め謙遜を奨励しているのは変わりないが、それを司る天道もまた、
人間たち自身の因果応報の自業自得と密接に結び付いていることを示唆している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・大禹謨より)
満は損を招き、謙は益を受く(この一文既出)。時れ乃ち天道なり」
「人間の湛える仁徳こそは、天運をも動かすものであり、それは最遠方にまで届かぬことのない
普遍法則であり続ける。慢心は損害につながり、謙遜は利益に繋がる。これが天道である。
(慢心を戒め謙遜を奨励しているのは変わりないが、それを司る天道もまた、
人間たち自身の因果応報の自業自得と密接に結び付いていることを示唆している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・大禹謨より)
老いも病もあれば、姦淫も闘争もある、現実社会の汚濁に忌避意識を抱く程度のことは、
人格的に未熟な人間といえどもあり得ることである。むしろ、そのような汚濁に対して
極端な嫌悪感を抱くことにかけては、14、5歳程度の未熟な少年あたりのほうが長けている。
その嫌悪感が現実を全く乖離して、世の中の改善のための着実な努力などに振り向けられる
こともないままに終わるのが問題となるわけで、それは、汚濁にまみれてきってそれでよし
とする「腐った大人」と共に、害悪の両極端を形成することとすらなってしまうのである。
カルト宗教あたりがそのような、現実社会の着実な改善のための努力を一切度外視した、
無軌道な社会嫌悪を増長させてしまう温床となる場合が多々ある。正統な仏門なども
世の汚濁を厭う点では共通しているが、同時に「ではそのためにどうすればいいのか」
という具体案が豊富に用意されてもいる。それに比してカルト宗教のほうは、ただただ
世の汚濁への嫌悪感を信者に増長させるばかりで、その結果として為すべきとされる手段
などは、ただ神を信じることだったり、教団に布施することだったりに止まるのである。
ただただ汚濁への嫌悪を増長させるばかりでは、それを開き直って汚濁を増長させるような
リバウンド勢力の助長にすら加担してしまうことになりかねないわけだから、総体的に見れば
より害悪とすらなり得るものである。にもかかわらず、その手のピューリタン的な宗教への
警戒意識などか未だに十分に働かせられた試しもなく、ただ汚濁を嫌悪する純心を温めて
いるからというだけの理由で、評価の対象にすらされてしまっていたりするのである。
人間にとってまず嗜まれるべきなのは、汚濁を完全に忌み嫌い尽くすことなどではなく、
最悪級の汚濁にすら平気でまみれてしまったりしないようにすることのほうである。
秦人やユダヤ人あたりが平気で欲するような、政商や食客や縦横家までをも多用しての
悪逆非道まみれにすら陥らなければ、人間社会も何とかやっていけるものなのだから、まず
第一にはそのような最悪級の堕落を予防することこそが心がけられて然るべきだといえる。
人格的に未熟な人間といえどもあり得ることである。むしろ、そのような汚濁に対して
極端な嫌悪感を抱くことにかけては、14、5歳程度の未熟な少年あたりのほうが長けている。
その嫌悪感が現実を全く乖離して、世の中の改善のための着実な努力などに振り向けられる
こともないままに終わるのが問題となるわけで、それは、汚濁にまみれてきってそれでよし
とする「腐った大人」と共に、害悪の両極端を形成することとすらなってしまうのである。
カルト宗教あたりがそのような、現実社会の着実な改善のための努力を一切度外視した、
無軌道な社会嫌悪を増長させてしまう温床となる場合が多々ある。正統な仏門なども
世の汚濁を厭う点では共通しているが、同時に「ではそのためにどうすればいいのか」
という具体案が豊富に用意されてもいる。それに比してカルト宗教のほうは、ただただ
世の汚濁への嫌悪感を信者に増長させるばかりで、その結果として為すべきとされる手段
などは、ただ神を信じることだったり、教団に布施することだったりに止まるのである。
ただただ汚濁への嫌悪を増長させるばかりでは、それを開き直って汚濁を増長させるような
リバウンド勢力の助長にすら加担してしまうことになりかねないわけだから、総体的に見れば
より害悪とすらなり得るものである。にもかかわらず、その手のピューリタン的な宗教への
警戒意識などか未だに十分に働かせられた試しもなく、ただ汚濁を嫌悪する純心を温めて
いるからというだけの理由で、評価の対象にすらされてしまっていたりするのである。
人間にとってまず嗜まれるべきなのは、汚濁を完全に忌み嫌い尽くすことなどではなく、
最悪級の汚濁にすら平気でまみれてしまったりしないようにすることのほうである。
秦人やユダヤ人あたりが平気で欲するような、政商や食客や縦横家までをも多用しての
悪逆非道まみれにすら陥らなければ、人間社会も何とかやっていけるものなのだから、まず
第一にはそのような最悪級の堕落を予防することこそが心がけられて然るべきだといえる。
そのような心がけがあった上でなおのこと、より清廉な境地を追い求めて行く志しが
ある場合にこそ、その志しが着実な自他の改善のための原動力ともなって行けるのである。
重権力犯罪にまで手を染めるような、最悪級の汚濁だけは絶対に許さないとしているのが、
他でもない儒学道徳である。その儒学道徳はといえば、結構、清濁併せ呑むものであり、
飲酒も肉食も一夫多妻も、戦争行為ですらもが必ずしも否定されてはいない。それでいて、
人間にとっての最悪の所業としての権力犯罪だけは徹底的な非難や排除の対象として、
そのような所業に万人が手を染めないようにするための徳治の手管を数多用意してもいる。
それは、ただただ世の汚濁への嫌悪感を増長させる部類のカルト宗教に取り込まれて来た
人間などからすれば、あまりにも突拍子のない教学体系であるにも違いない。自分たちが
嫌悪して来たような分かりやすい世の汚濁のほうはほとんど非難の対象ともされぬままに、
ほとんど自分たちにとっては意味不明であるような「ある種の悪行」ばかりが徹底的な
排撃の対象となっているのだから、これほどとっつき辛い教学も他にないに違いない。
しかし、そのような内実を帯びている儒学こそが、確かに「万人が初歩中の初歩とすべき
教学」としての条件を満たしている。ただただ汚濁への嫌悪を増長させるような信教以上
にも、まず誰しもがわきまえておくべき最低限の人間道徳としての威風を湛えている。
しかれば、そのような初歩中の初歩たる人間道徳へのわきまえのためにこそ、ただ汚濁
への嫌悪を増長させるようなカルト宗教が広められることも避けていかねばならない。
その手の宗教が受容されてしまえばこそ、多少は許容されてもいいような些細な汚濁と、
それだけは許されてはならないと見なされるべき致命的な汚濁との分別も付かなくなり、
以って最悪の汚濁こそを警戒する儒学の存在価値までもが見失われることとなるからである。
ある場合にこそ、その志しが着実な自他の改善のための原動力ともなって行けるのである。
重権力犯罪にまで手を染めるような、最悪級の汚濁だけは絶対に許さないとしているのが、
他でもない儒学道徳である。その儒学道徳はといえば、結構、清濁併せ呑むものであり、
飲酒も肉食も一夫多妻も、戦争行為ですらもが必ずしも否定されてはいない。それでいて、
人間にとっての最悪の所業としての権力犯罪だけは徹底的な非難や排除の対象として、
そのような所業に万人が手を染めないようにするための徳治の手管を数多用意してもいる。
それは、ただただ世の汚濁への嫌悪感を増長させる部類のカルト宗教に取り込まれて来た
人間などからすれば、あまりにも突拍子のない教学体系であるにも違いない。自分たちが
嫌悪して来たような分かりやすい世の汚濁のほうはほとんど非難の対象ともされぬままに、
ほとんど自分たちにとっては意味不明であるような「ある種の悪行」ばかりが徹底的な
排撃の対象となっているのだから、これほどとっつき辛い教学も他にないに違いない。
しかし、そのような内実を帯びている儒学こそが、確かに「万人が初歩中の初歩とすべき
教学」としての条件を満たしている。ただただ汚濁への嫌悪を増長させるような信教以上
にも、まず誰しもがわきまえておくべき最低限の人間道徳としての威風を湛えている。
しかれば、そのような初歩中の初歩たる人間道徳へのわきまえのためにこそ、ただ汚濁
への嫌悪を増長させるようなカルト宗教が広められることも避けていかねばならない。
その手の宗教が受容されてしまえばこそ、多少は許容されてもいいような些細な汚濁と、
それだけは許されてはならないと見なされるべき致命的な汚濁との分別も付かなくなり、
以って最悪の汚濁こそを警戒する儒学の存在価値までもが見失われることとなるからである。
「易の興るや、其れ殷の末世、周の盛徳に当たるか。文王と紂の事に当たるか。
是の故に其の辞は危うし。危ぶむ者は平らかならしめ、易る者は傾かしむ。其れ道は甚だ
大いにして、百物廃さず。懼れを以て終始すれば。其の要や咎无し。此れを之れ易の道と謂うなり」
「易が特に興隆したのは殷の末世、周が盛徳を湛えていた頃と言われている。文王が徳を育み、
紂王が情欲にまみれて放逸を来たしていた頃であるため、その手の記事にまつわる易経の記事も
警戒を重んずるものとなっている。文王のように物事をよく警戒する者は平らかならしめ、
紂王のように注意を欠く者は傾かしめる意図が込められている。その道は甚だ大いなるものであり、
万物を退廃させないだけの雄大さを秘めている。よく警戒を尽くすことに終始していれば、
咎もなく物事を成就させられる。これこそを易の道というのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
是の故に其の辞は危うし。危ぶむ者は平らかならしめ、易る者は傾かしむ。其れ道は甚だ
大いにして、百物廃さず。懼れを以て終始すれば。其の要や咎无し。此れを之れ易の道と謂うなり」
「易が特に興隆したのは殷の末世、周が盛徳を湛えていた頃と言われている。文王が徳を育み、
紂王が情欲にまみれて放逸を来たしていた頃であるため、その手の記事にまつわる易経の記事も
警戒を重んずるものとなっている。文王のように物事をよく警戒する者は平らかならしめ、
紂王のように注意を欠く者は傾かしめる意図が込められている。その道は甚だ大いなるものであり、
万物を退廃させないだけの雄大さを秘めている。よく警戒を尽くすことに終始していれば、
咎もなく物事を成就させられる。これこそを易の道というのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
愚行を助長する類いの言葉は、シラフで傍聴すればまさに「悪魔のささやき」で
あることが明らかなわけだが、ギャンブルで背負った借金をギャンブルで返そう
とするような愚行の悪循環状態に陥ってしまっていたりする人間自身からすれば、
まるで神からの救いかのように嬉しいものとして聞こえたりするものである。
効果的な助けなどというものは、善行を為す場合にかけてこそ、あまり期待が
できるものでもない。よっぽど立派な先達者なり師匠なりがいる場合に限って
それがあり得るし、しかも言葉での助けなどは、助けのうちでもむしろ浅いもの
の内に入る。武術などであれば、師範に手取り足取りの施しを受けたりするよりも、
自分自身が師範の洗練された技なり動きなりをよく観察して、その奥義を盗んだり
することが、より効果的な上達のための手段ともなって行ったりするのである。
実践にかけて、言葉だの手取り足取りだのによる助けがより効果的であるのは、
むしろ悪行に入るような部類の行為である。善行ほど、そのような緩慢とした
手段による伸びしろが見込めない一方で、悪行にはそのような手ほどきによって
行いが発展して行ける余地が多数存在する。それは、善行こそが人間にとっての
最大級の「最善の振る舞い」である一方で、悪行のほうは、それと比べれば
一段も二段も片手落ちであるような「児戯」としての側面があるからである。
然ればこそ、無念無想を自力で探求する座禅行こそが、善行にかけての助けと
なったりもする。臨済宗の看話禅などでは言葉を使った問答なども試みられるが、
それも最終的には何も考えない黙照禅に至るための道程とされている。言葉で
グダグダと言い訳する余地を完全に断ち切るための言葉というものもまたある
わけで、それは人が無駄を断っての善行へと邁進して行くための助けともなり得る。
座禅などしなくとも、思いっきり重労働なりスポーツなりで身体を動かして
疲れきったりすれば、何も考えないでだけはいられたりするが、それは、
自らが無念無想に至る高度な能力を身に付けることなどには決してならない。
あることが明らかなわけだが、ギャンブルで背負った借金をギャンブルで返そう
とするような愚行の悪循環状態に陥ってしまっていたりする人間自身からすれば、
まるで神からの救いかのように嬉しいものとして聞こえたりするものである。
効果的な助けなどというものは、善行を為す場合にかけてこそ、あまり期待が
できるものでもない。よっぽど立派な先達者なり師匠なりがいる場合に限って
それがあり得るし、しかも言葉での助けなどは、助けのうちでもむしろ浅いもの
の内に入る。武術などであれば、師範に手取り足取りの施しを受けたりするよりも、
自分自身が師範の洗練された技なり動きなりをよく観察して、その奥義を盗んだり
することが、より効果的な上達のための手段ともなって行ったりするのである。
実践にかけて、言葉だの手取り足取りだのによる助けがより効果的であるのは、
むしろ悪行に入るような部類の行為である。善行ほど、そのような緩慢とした
手段による伸びしろが見込めない一方で、悪行にはそのような手ほどきによって
行いが発展して行ける余地が多数存在する。それは、善行こそが人間にとっての
最大級の「最善の振る舞い」である一方で、悪行のほうは、それと比べれば
一段も二段も片手落ちであるような「児戯」としての側面があるからである。
然ればこそ、無念無想を自力で探求する座禅行こそが、善行にかけての助けと
なったりもする。臨済宗の看話禅などでは言葉を使った問答なども試みられるが、
それも最終的には何も考えない黙照禅に至るための道程とされている。言葉で
グダグダと言い訳する余地を完全に断ち切るための言葉というものもまたある
わけで、それは人が無駄を断っての善行へと邁進して行くための助けともなり得る。
座禅などしなくとも、思いっきり重労働なりスポーツなりで身体を動かして
疲れきったりすれば、何も考えないでだけはいられたりするが、それは、
自らが無念無想に至る高度な能力を身に付けることなどには決してならない。
善行が必ずしもそのような体育会系の所業であったりするとも限らず、むしろ
「これだけはやってはいけない」というような致命的な悪行を徹底して踏み
とどまる所にこそ純然たる善行の可能性が開かれてもいるものである。だから
「恒産なくして恒心なし」というような小人然とした精神状態を座禅などに
よって克服して行くことにも、重労働などとは別個の意味が伴いもするのである。
誰かからの助言や助けもなければ、自分自身がグダグダと雑考を続けている
わけでもないような無我の境地においてこそ、真の善行も実行に移される。
助けがあるとしても、それはそこに至るまでの道程であって、すでに善行が
為されようとする時には、もはや師匠や先達者の下をも離れている。その、
一切無頼の境地に安住していられるのは、あらゆる人間のうちでも大人の男
ぐらいのものだから、膨大な研鑽を積んできた大人の男こそが、人間社会に
おける善事徳行の要ともなって行く。女子供や小人男が自分たち自身でその
ような役割を担うことも永久に不可能であるわけだから、それを可能とする
大丈夫の休憩中の接待役や、新たな大丈夫を育成していく上での助役
などの立場に徹していくようにもなければならないのである。
「中心より仁に安んずる者は、天下において一人のみ。大雅に曰く、徳の輶きこと
毛の如くも、民に之れを挙げるもの鮮なし。〜愛すれども之れを助ける莫しと」
「心の底から仁に安んじていられる人間は、天下に一人いるかいないかぐらいのものだ。
詩経大雅(烝民)に『徳は毛筋ほどにも軽いものなのに、民の中でこれを挙げようとする
者すらいない。徳行を為す者がいた所で、敬愛する程度で助けようともしない』とある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)
「これだけはやってはいけない」というような致命的な悪行を徹底して踏み
とどまる所にこそ純然たる善行の可能性が開かれてもいるものである。だから
「恒産なくして恒心なし」というような小人然とした精神状態を座禅などに
よって克服して行くことにも、重労働などとは別個の意味が伴いもするのである。
誰かからの助言や助けもなければ、自分自身がグダグダと雑考を続けている
わけでもないような無我の境地においてこそ、真の善行も実行に移される。
助けがあるとしても、それはそこに至るまでの道程であって、すでに善行が
為されようとする時には、もはや師匠や先達者の下をも離れている。その、
一切無頼の境地に安住していられるのは、あらゆる人間のうちでも大人の男
ぐらいのものだから、膨大な研鑽を積んできた大人の男こそが、人間社会に
おける善事徳行の要ともなって行く。女子供や小人男が自分たち自身でその
ような役割を担うことも永久に不可能であるわけだから、それを可能とする
大丈夫の休憩中の接待役や、新たな大丈夫を育成していく上での助役
などの立場に徹していくようにもなければならないのである。
「中心より仁に安んずる者は、天下において一人のみ。大雅に曰く、徳の輶きこと
毛の如くも、民に之れを挙げるもの鮮なし。〜愛すれども之れを助ける莫しと」
「心の底から仁に安んじていられる人間は、天下に一人いるかいないかぐらいのものだ。
詩経大雅(烝民)に『徳は毛筋ほどにも軽いものなのに、民の中でこれを挙げようとする
者すらいない。徳行を為す者がいた所で、敬愛する程度で助けようともしない』とある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)
法治主義社会における法律違反としての犯罪行為以上にも、仏門で
「実罪」とされている部類の罪悪を犯した場合にこそ、人は不可避
なる良心の呵責に苛まれることとなる。殺人や傷害や窃盗といった、実罪
であると共に法律違反ともされるような犯罪行為もあるから、そのような
法律違反を犯した場合にも、やはり良心の呵責を抱かされることとなる。
(実罪からかけ離れた徒法違反などの場合には、この限りでもない)
生活上からの通奏低音的な苦悩にさいなまれ続けるのには、カルト教義や
詭弁論理によって苦悩を紛らわしている人間といえども変わりはしない。
ただ、そのような気の紛らわしによって、自分がもはや苦しんではいない
ような気分になるだけのことである。そうであっても、自分自身の本心の所が
苦しみ続けていることには変わりないものだから、際限のない富や権力や名声
の貪りだとかの妄動を来たしたりもしないではいられなくなるのである。
詭弁や邪義で苦悩を紛らわしてみた所で、全く以って苦しみから抜け出せて
いないということが、真っ当な教学の見地から見れば明らかとなるものだから、
邪教邪学はそのような立場からの糾弾を避けるために、真っ当な教学の
排撃や根絶をも試みようとする。その手の邪教の神が唯一の超越神だから
異教異学を排するというのはただの口実であり、本当は、真っ当な教学
と比した場合の自分たちの教学のお粗末さが人々に知られないように
するためにこそ、他の教学をこの世から排しようともするのである。
そして、その手の試みが世界史上でも最大級に実現されてしまっているのが、
キリスト教の勃発から約2000年が経過した、今という時代である。人々の
苦悩を洗い落とす体裁を取りながら、実際には苦悩をかえって増大させて
しまっている類いの邪教が最大級に蔓延してしまっているのみならず、
そのような邪教の問題点を適格に糾弾する真っ当な教学の社会的な有効性
までもが殺がれてしまった状態にある。仏門もただ伝統文化として保全
「実罪」とされている部類の罪悪を犯した場合にこそ、人は不可避
なる良心の呵責に苛まれることとなる。殺人や傷害や窃盗といった、実罪
であると共に法律違反ともされるような犯罪行為もあるから、そのような
法律違反を犯した場合にも、やはり良心の呵責を抱かされることとなる。
(実罪からかけ離れた徒法違反などの場合には、この限りでもない)
生活上からの通奏低音的な苦悩にさいなまれ続けるのには、カルト教義や
詭弁論理によって苦悩を紛らわしている人間といえども変わりはしない。
ただ、そのような気の紛らわしによって、自分がもはや苦しんではいない
ような気分になるだけのことである。そうであっても、自分自身の本心の所が
苦しみ続けていることには変わりないものだから、際限のない富や権力や名声
の貪りだとかの妄動を来たしたりもしないではいられなくなるのである。
詭弁や邪義で苦悩を紛らわしてみた所で、全く以って苦しみから抜け出せて
いないということが、真っ当な教学の見地から見れば明らかとなるものだから、
邪教邪学はそのような立場からの糾弾を避けるために、真っ当な教学の
排撃や根絶をも試みようとする。その手の邪教の神が唯一の超越神だから
異教異学を排するというのはただの口実であり、本当は、真っ当な教学
と比した場合の自分たちの教学のお粗末さが人々に知られないように
するためにこそ、他の教学をこの世から排しようともするのである。
そして、その手の試みが世界史上でも最大級に実現されてしまっているのが、
キリスト教の勃発から約2000年が経過した、今という時代である。人々の
苦悩を洗い落とす体裁を取りながら、実際には苦悩をかえって増大させて
しまっている類いの邪教が最大級に蔓延してしまっているのみならず、
そのような邪教の問題点を適格に糾弾する真っ当な教学の社会的な有効性
までもが殺がれてしまった状態にある。仏門もただ伝統文化として保全
されているだけで、その教義が実用の対象とされるようなことはないし、
聖書信仰レベルの稚拙な邪教を直接的な糾弾の対象とする上では、仏教以上
にも肝心要の役割を担う儒学もまた、権力道徳学としてのその本質的な
有用性をほぼ完全に無視された状態にまで追いやられてしまっているのである。
本当は心底の部分で苦悩し続けて来ているのに、あたかも信仰のおかげで
苦悩を洗い落とされたかのような演技をし続けて来たということがバレる
ことが、その手の邪教の信者にとっての、最大級の「恥」ともなる。
2000年にも渡って本心を偽る演技をして来たことの無駄さ加減といったら、
自分の五十センチ東側にある塵くずを手に入れるために、真西に向かって
地球を一周して、やっと手に入れるほどものことだといえる。まだ、東に
向けて手を伸ばして塵くずを手に入れて、それが塵くずでしかないことに
さっさと気づいていればよかったものを、それすらをも不能としたままで、
2000年間地球一周の旅をし続けて来たのだから、道化役にも程があるといえる。
苦悩にまみれた本心を偽らせる類いの邪教を信じさせられて来た人々にとって、
今までこそは地獄だったのであり、これからはむしろ、その地獄から抜け出して
行くためのリハビリ期間に相当するのだといえる。苦悩をより増長させる
原因となってしまうような妄動なども取り止めさせて、安静な中に自己を
見つめ直し、苦悩の種を自分たちの力で摘み取っていくことが試みられて行く。
それこそ、檻の中でだったりもするわけだが、そこでこそ、
地獄を抜け出す第一歩が踏み出されても行くのである。
「善を陳べ邪まを閉ずる、之れを敬と謂う」
「善い意見を述べることで邪な思いを閉塞させる、これを『敬』という。
(勧善懲悪の心持ちこそは邪心を塞ぎ、敬意を育む。自分ばかりが栄達
しようとするような野心がそのような効果を発揮することもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一より)
聖書信仰レベルの稚拙な邪教を直接的な糾弾の対象とする上では、仏教以上
にも肝心要の役割を担う儒学もまた、権力道徳学としてのその本質的な
有用性をほぼ完全に無視された状態にまで追いやられてしまっているのである。
本当は心底の部分で苦悩し続けて来ているのに、あたかも信仰のおかげで
苦悩を洗い落とされたかのような演技をし続けて来たということがバレる
ことが、その手の邪教の信者にとっての、最大級の「恥」ともなる。
2000年にも渡って本心を偽る演技をして来たことの無駄さ加減といったら、
自分の五十センチ東側にある塵くずを手に入れるために、真西に向かって
地球を一周して、やっと手に入れるほどものことだといえる。まだ、東に
向けて手を伸ばして塵くずを手に入れて、それが塵くずでしかないことに
さっさと気づいていればよかったものを、それすらをも不能としたままで、
2000年間地球一周の旅をし続けて来たのだから、道化役にも程があるといえる。
苦悩にまみれた本心を偽らせる類いの邪教を信じさせられて来た人々にとって、
今までこそは地獄だったのであり、これからはむしろ、その地獄から抜け出して
行くためのリハビリ期間に相当するのだといえる。苦悩をより増長させる
原因となってしまうような妄動なども取り止めさせて、安静な中に自己を
見つめ直し、苦悩の種を自分たちの力で摘み取っていくことが試みられて行く。
それこそ、檻の中でだったりもするわけだが、そこでこそ、
地獄を抜け出す第一歩が踏み出されても行くのである。
「善を陳べ邪まを閉ずる、之れを敬と謂う」
「善い意見を述べることで邪な思いを閉塞させる、これを『敬』という。
(勧善懲悪の心持ちこそは邪心を塞ぎ、敬意を育む。自分ばかりが栄達
しようとするような野心がそのような効果を発揮することもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一より)
「君子は和して同ぜず(子路第十三・二三)」の君子こそは、下手に雷同しないために
人との交わりにも節度を持たせるのに対し、「小人は同じて和せず(同)」の小人こそは、
雷同して馴れ合うままでいるが故に、人との交わりをやたらと嬉しがるといった法則がある。
付和雷同の小人を統制するためにこそ、信者へのウレシがりを共に促すカルトのドグマ
あたりが絶好ともなる。内容的にはさほど難しくもない一方で、他にはない独特の発想や
言い回しを用いることで、信者たち同士での結束感を高めたりする。あえて独特の方言を
用いることで同郷人同士での結束感を固めた島津時代の薩摩人なども同様な志向性を
帯びていたために、薩閥を源流とする今の日本の警察組織なども、極端に閉鎖的な傾向を
帯びてしまっている。付和雷同な小人の交わりは、交遊関係同士での結束感を高める一方で、
外界の他者への配慮や社交性を極端にそぎ落としてしまうものでもあるために、それが
仁政の妨げとなることを嫌って、君子も小人然とした付和雷同な交わりを避けるのである。
君子はそのような理由で付和雷同な交わりを避けて行くが、小人や女子はどうしたって
付和雷同なままでしかいられない所がある。そんな連中に君子がつき合わされれば、
「これを近づければ不遜たり、これを遠ざければすなわち怨む(陽貨第十七・二五)」
という、甚だ辟易させられるような感想を抱かされることともなってしまうのである。
そのため、所詮は女子や小人である以上は付和雷同でしかいられないにしたって、その
ような自分たちの拙劣な性向を恥じて、一歩も二歩も下がった態度でいるように心がける
ぐらいのことでなければならない。もちろん、信者のウレシがりまみれな付和雷同を
けしかける類いの邪教に入れ込んだりするようなこともないようにしなければならない。
人との交わりにも節度を持たせるのに対し、「小人は同じて和せず(同)」の小人こそは、
雷同して馴れ合うままでいるが故に、人との交わりをやたらと嬉しがるといった法則がある。
付和雷同の小人を統制するためにこそ、信者へのウレシがりを共に促すカルトのドグマ
あたりが絶好ともなる。内容的にはさほど難しくもない一方で、他にはない独特の発想や
言い回しを用いることで、信者たち同士での結束感を高めたりする。あえて独特の方言を
用いることで同郷人同士での結束感を固めた島津時代の薩摩人なども同様な志向性を
帯びていたために、薩閥を源流とする今の日本の警察組織なども、極端に閉鎖的な傾向を
帯びてしまっている。付和雷同な小人の交わりは、交遊関係同士での結束感を高める一方で、
外界の他者への配慮や社交性を極端にそぎ落としてしまうものでもあるために、それが
仁政の妨げとなることを嫌って、君子も小人然とした付和雷同な交わりを避けるのである。
君子はそのような理由で付和雷同な交わりを避けて行くが、小人や女子はどうしたって
付和雷同なままでしかいられない所がある。そんな連中に君子がつき合わされれば、
「これを近づければ不遜たり、これを遠ざければすなわち怨む(陽貨第十七・二五)」
という、甚だ辟易させられるような感想を抱かされることともなってしまうのである。
そのため、所詮は女子や小人である以上は付和雷同でしかいられないにしたって、その
ような自分たちの拙劣な性向を恥じて、一歩も二歩も下がった態度でいるように心がける
ぐらいのことでなければならない。もちろん、信者のウレシがりまみれな付和雷同を
けしかける類いの邪教に入れ込んだりするようなこともないようにしなければならない。
最悪の場合、人との交わりに多少の節度を持たせようとするだけで、「内向的」など
のレッテルを貼られるような所にまで世相が荒廃してしまう場合もある。今がまさに
そのような時代であり、とにかく付和雷同な人付き合い好みでいる人間こそが評価されて、
就職上での優先的な採用対象とされていたりもする。人材を登用する企業などの各種
社会的組織からして、すでにそのような小人の集まりでいるものだから、人付き合いの
中にも自分を通そうとするような人間こそは疎まれて、村八分や排除の対象ともされて
しまう。それは結局、「内小人にして外君子(易経・否卦)」という、最悪級の社会環境
となってしまってもいるからなわけだから、そのような大局的状況から打開して行かない
ことには、世の行く末もままならなくなるような事態がいつかは必ずやって来るのである。
付和雷同な小人ばかりで世の中が形成されてしまっている状態から、和して同ぜぬ自分
のある君子が先導する世の中へと転換して行くためには、権力機構の人材の総入れ替え
ぐらいは必須のこととなる。君子と小人では人付き合いの仕方からして異なるものだから、
両者が混交するような状態では、権力機構も機能不全に陥ってしまいかねない。そのため、
正規の公人身分ぐらいは、ほとんど完全に入れ替えてしまう必要が出てくる。国の人口の
数パーセント以上に相当するような人間を総入れ替えしてその業務を引き継ぐためには、
一時の混乱すらもが避け難くなるから、軍事制圧によって強制的に治安を維持しておく
必要などまでもが出てくる。決してそれ自体が最悪の事態なのではなく、権力機構が
付和雷同な小人ばかりで占められてしまっている状態こそは最悪の事態なのであり、
軍事制圧も兼ねつつ権力機構を刷新して行ったりすることは、そのような最悪の事態
を打開して行くための「落とし前」であるのだということをわきまえねばならない。
権力機構が小人ばかりで占められるような事態、そのような事態の到来を画策した邪教
なりならず者集団なりこそは、あらゆる害悪の元凶であったのだと知らねばならない。
のレッテルを貼られるような所にまで世相が荒廃してしまう場合もある。今がまさに
そのような時代であり、とにかく付和雷同な人付き合い好みでいる人間こそが評価されて、
就職上での優先的な採用対象とされていたりもする。人材を登用する企業などの各種
社会的組織からして、すでにそのような小人の集まりでいるものだから、人付き合いの
中にも自分を通そうとするような人間こそは疎まれて、村八分や排除の対象ともされて
しまう。それは結局、「内小人にして外君子(易経・否卦)」という、最悪級の社会環境
となってしまってもいるからなわけだから、そのような大局的状況から打開して行かない
ことには、世の行く末もままならなくなるような事態がいつかは必ずやって来るのである。
付和雷同な小人ばかりで世の中が形成されてしまっている状態から、和して同ぜぬ自分
のある君子が先導する世の中へと転換して行くためには、権力機構の人材の総入れ替え
ぐらいは必須のこととなる。君子と小人では人付き合いの仕方からして異なるものだから、
両者が混交するような状態では、権力機構も機能不全に陥ってしまいかねない。そのため、
正規の公人身分ぐらいは、ほとんど完全に入れ替えてしまう必要が出てくる。国の人口の
数パーセント以上に相当するような人間を総入れ替えしてその業務を引き継ぐためには、
一時の混乱すらもが避け難くなるから、軍事制圧によって強制的に治安を維持しておく
必要などまでもが出てくる。決してそれ自体が最悪の事態なのではなく、権力機構が
付和雷同な小人ばかりで占められてしまっている状態こそは最悪の事態なのであり、
軍事制圧も兼ねつつ権力機構を刷新して行ったりすることは、そのような最悪の事態
を打開して行くための「落とし前」であるのだということをわきまえねばならない。
権力機構が小人ばかりで占められるような事態、そのような事態の到来を画策した邪教
なりならず者集団なりこそは、あらゆる害悪の元凶であったのだと知らねばならない。
「直情径行有るは戎狄の道なり。礼の道は則ち然らず。人喜べば則ち斯れに陶し、
陶すれば斯れに詠し、詠すれば斯れに猶き、猶けば斯れに舞い、舞えば斯れに慍り、慍れば斯れに戚い、
戚えれば斯れに嘆き、嘆けば斯れに辟ち、辟てば斯れに踴る。斯れに品節する、斯れを之れ礼と謂う」
「ただ感情の赴くままに行動するのは蛮族の道である。礼の道はそうではない。人が喜ぶことがあれば
それに満悦する心持ちで迎え、満悦することがあればそれに詠嘆する心持ちで迎え、詠嘆することが
あればそれに躍動する心持ちで迎え、躍動することがあればそれに舞踏する心持ちで迎え、舞踏する
ことがあればそれに憤る心持ちで迎え、憤ることがあればそれに憂える心持ちで向かえ、憂えること
があればそれに嘆く心持ちで迎え、嘆くことがあればそれに胸打たれる心持ちで迎え、胸打たれること
があればそれに踊る心持ちで迎える。人付き合いにかけても節制を心がける所があるのを礼という」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
陶すれば斯れに詠し、詠すれば斯れに猶き、猶けば斯れに舞い、舞えば斯れに慍り、慍れば斯れに戚い、
戚えれば斯れに嘆き、嘆けば斯れに辟ち、辟てば斯れに踴る。斯れに品節する、斯れを之れ礼と謂う」
「ただ感情の赴くままに行動するのは蛮族の道である。礼の道はそうではない。人が喜ぶことがあれば
それに満悦する心持ちで迎え、満悦することがあればそれに詠嘆する心持ちで迎え、詠嘆することが
あればそれに躍動する心持ちで迎え、躍動することがあればそれに舞踏する心持ちで迎え、舞踏する
ことがあればそれに憤る心持ちで迎え、憤ることがあればそれに憂える心持ちで向かえ、憂えること
があればそれに嘆く心持ちで迎え、嘆くことがあればそれに胸打たれる心持ちで迎え、胸打たれること
があればそれに踊る心持ちで迎える。人付き合いにかけても節制を心がける所があるのを礼という」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
生まれつき全盲の人間には、光と闇の区別も付かない。目明きの
人間からすれば、それは闇の中であると見なせるわけだが、盲人自身
は光すら知らないから、光なき状態としての闇というものも知らない。
しかれば、目明きの人間が丹念に諭してあげるのでなければ、盲人も、
自らが闇の中にあることなどをさして悲観的にも思わないであろう。
「あなたこそは、目明きの人間が苦しまされるような視覚の惑わしにも
囚われないでいられている」などと賞したりしたならば、盲人のほうも、
むしろ自分のほうが恵まれた境遇にあるとすら考えるようになるであろう。
とはいえ、常識的にも医学的にも、身体面からの不具に苛まれていると見なせる
のは盲人のほうであるわけで、もしも世界中の人間が盲目だったりしたならば、
世の中も立ち行かなくなってしまう程もの致命的な障害でもあるのである。
先天的な病なり、後天的な病なり事故なりによってやむなく盲人と化して
しまうのは仕方のないことだが、自分から好き好んで盲人になるとまでなれば、
本人の人格すらをも疑わざるを得ない。盲人が全くの自力で生活を営んだり
するのもなかなか困難なことであり、周囲に迷惑をかけるようなことにも
なりかねないわけだから、そんな理由で盲人と化した人間までをも
哀れんでやらねばならないような筋合いは誰にもないといえる。
上記の、身体面の盲目にまつわる考察が、精神面の盲目にかけても、
ありのままに当てはめることができるわけである。精神的盲目こそは、
ただ闇を悲観しないのみならず、闇を光と履き違えて嬉しがることすら
企てなくもないわけだから、その救いようのなさたるや、自ら好き好んで
盲人となる人間以上のものであるということは言えるかもしれないが。
人間からすれば、それは闇の中であると見なせるわけだが、盲人自身
は光すら知らないから、光なき状態としての闇というものも知らない。
しかれば、目明きの人間が丹念に諭してあげるのでなければ、盲人も、
自らが闇の中にあることなどをさして悲観的にも思わないであろう。
「あなたこそは、目明きの人間が苦しまされるような視覚の惑わしにも
囚われないでいられている」などと賞したりしたならば、盲人のほうも、
むしろ自分のほうが恵まれた境遇にあるとすら考えるようになるであろう。
とはいえ、常識的にも医学的にも、身体面からの不具に苛まれていると見なせる
のは盲人のほうであるわけで、もしも世界中の人間が盲目だったりしたならば、
世の中も立ち行かなくなってしまう程もの致命的な障害でもあるのである。
先天的な病なり、後天的な病なり事故なりによってやむなく盲人と化して
しまうのは仕方のないことだが、自分から好き好んで盲人になるとまでなれば、
本人の人格すらをも疑わざるを得ない。盲人が全くの自力で生活を営んだり
するのもなかなか困難なことであり、周囲に迷惑をかけるようなことにも
なりかねないわけだから、そんな理由で盲人と化した人間までをも
哀れんでやらねばならないような筋合いは誰にもないといえる。
上記の、身体面の盲目にまつわる考察が、精神面の盲目にかけても、
ありのままに当てはめることができるわけである。精神的盲目こそは、
ただ闇を悲観しないのみならず、闇を光と履き違えて嬉しがることすら
企てなくもないわけだから、その救いようのなさたるや、自ら好き好んで
盲人となる人間以上のものであるということは言えるかもしれないが。
好き好んで盲目となろうとするような人間こそは、やむなく盲目などの
身体障害に見舞われている人間に対する非礼すらをも犯しているといえる。
精神的盲目が社会規模で持て囃されている聖書圏の、障害者にまつわるテレビ
のドキュメンタリー番組なども、半ば障害者をもてあそぶような体裁で製作
されているものが多い。障害者たち自身も聖書信者だったりするものだから、
「自分が障害者であることを問題だとは思わない」「幸せな人生を送っている」
などの空元気な感慨を自分から述べたりもしているが、かつての奇形障害者の
見世物小屋然とした薄ら寒さを、やはり傍目には抱かされざるを得ない。
心身の障害をもてあそぶ不埒さを増長させて来たことは、障害者からの
報復などではなく、自分たちの態度姿勢のまずさからなる自業自得の災禍と
なって結実することとなるであろう。やむない理由によるわけでもないのに、
好き好んで障害を弄び、邪教信仰を通じて自分までもが擬似的な精神障害と
なって悪行への苦悩を紛らわしたりして来ているのだから、健常者であれば
当然のこととして抱かねばならないような良心の呵責すらをも蔑ろにして来た
が故の悪因苦果が、実物の経済的破滅などとなって押し寄せてくることになる。
障害は、弄んだりしてはならないからこそ、障害なのである。弄んだりすれば、
自分たち自身がその悪意に呑み込まれて破滅に見舞われることとなってしまう。
そのような事態に陥らないためにこそ、常人と比べた場合の不具に相当する
ような存在をふざけて扱うようなことはすべきでない。障害者たちのためという
よりは、自分自身の自重のためにこそ、そのような態度を控えねばならない。
身体障害に見舞われている人間に対する非礼すらをも犯しているといえる。
精神的盲目が社会規模で持て囃されている聖書圏の、障害者にまつわるテレビ
のドキュメンタリー番組なども、半ば障害者をもてあそぶような体裁で製作
されているものが多い。障害者たち自身も聖書信者だったりするものだから、
「自分が障害者であることを問題だとは思わない」「幸せな人生を送っている」
などの空元気な感慨を自分から述べたりもしているが、かつての奇形障害者の
見世物小屋然とした薄ら寒さを、やはり傍目には抱かされざるを得ない。
心身の障害をもてあそぶ不埒さを増長させて来たことは、障害者からの
報復などではなく、自分たちの態度姿勢のまずさからなる自業自得の災禍と
なって結実することとなるであろう。やむない理由によるわけでもないのに、
好き好んで障害を弄び、邪教信仰を通じて自分までもが擬似的な精神障害と
なって悪行への苦悩を紛らわしたりして来ているのだから、健常者であれば
当然のこととして抱かねばならないような良心の呵責すらをも蔑ろにして来た
が故の悪因苦果が、実物の経済的破滅などとなって押し寄せてくることになる。
障害は、弄んだりしてはならないからこそ、障害なのである。弄んだりすれば、
自分たち自身がその悪意に呑み込まれて破滅に見舞われることとなってしまう。
そのような事態に陥らないためにこそ、常人と比べた場合の不具に相当する
ような存在をふざけて扱うようなことはすべきでない。障害者たちのためという
よりは、自分自身の自重のためにこそ、そのような態度を控えねばならない。
「情偽相い感じて利害生ず。凡そ易の情は、近くして
相い得ずんば則ち凶たり、或いは之れを害えば、悔ありて且つ吝かなり」
「真情は感応して利を生じ、虚偽は感応して害を生ずる。易に基づく真情としては、
近いもの同士の相性が悪いようであれば凶であり、さらに損ない合うようであれば
悔いや吝かとなる。(いくら形而上の架空神に対する振る舞いとはいえ、真情に
即して嘘偽りなく『自分には罪がある』と告白するキリスト教徒の姿勢は利益に
結び付き得るものである。また隣人愛で近隣との関係を穏便に済ませようとする
こともまた、最悪の凶相に対する一時逃れとして有効となる。しかし、天地万物を
司る易の法則すらをも逸脱するような形而上の超越神ばかりをその教義の根本に
据えている以上は、異教徒や遠人だからといって危害や収奪の対象として来たような
人々までをも、神などより遥かに近しい人間として扱わなければならなくなる程
にも世界が狭くなった時に、キリスト信仰も破綻せざるを得なくなるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
相い得ずんば則ち凶たり、或いは之れを害えば、悔ありて且つ吝かなり」
「真情は感応して利を生じ、虚偽は感応して害を生ずる。易に基づく真情としては、
近いもの同士の相性が悪いようであれば凶であり、さらに損ない合うようであれば
悔いや吝かとなる。(いくら形而上の架空神に対する振る舞いとはいえ、真情に
即して嘘偽りなく『自分には罪がある』と告白するキリスト教徒の姿勢は利益に
結び付き得るものである。また隣人愛で近隣との関係を穏便に済ませようとする
こともまた、最悪の凶相に対する一時逃れとして有効となる。しかし、天地万物を
司る易の法則すらをも逸脱するような形而上の超越神ばかりをその教義の根本に
据えている以上は、異教徒や遠人だからといって危害や収奪の対象として来たような
人々までをも、神などより遥かに近しい人間として扱わなければならなくなる程
にも世界が狭くなった時に、キリスト信仰も破綻せざるを得なくなるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
メールを送りました。

というほどなのだから、始めに人間を生贄に捧げるような大いなる過ちを犯して
いたならば、後々にどれほどの過ちとなるかすらもが知れたものではない。
そしてその結果こそは、人類滅亡の危機が眼前に迫っている今という世相でもある。
「人間を生贄に捧げる」という発想自体は、太古の昔から洋の東西を問わず存在している。
ただ、中国や日本などの極東社会では、儒学の勃興と共にそれが禁止されて行ったし、
インドや東南アジアなどにおいても、仏門出家者などが安易に死ぬことではなく、
厳しい精進修行やそれに基づく功徳の回向などの挺身的な行いによって人々を
利する心がけを広めていったものだから、安易に死んで生贄となるような
ことは、それと比べてさして優れたこととも考えられなくなったのである。
人間たち自身の努力精進や品格の尊重が、世の中総出で疎かなままでいるような
未開地域においてこそ、人身御供風情がやたらと神々しいものとして取り扱われたりもする。
人間、誰しもいつかは死ぬのだし、生きてる内から死ぬ以上の苦労を重ねることで本当に
大きな成果を挙げることもできる。にもかかわらず、人身御供ばかりを嬉しがったり
するというのなら、そのような人間は諸行無常の真理もわきまえられていなければ、
一定以上に甚大な努力を積むことの価値も知らない未熟者であることが間違いない。
そんな人間しか存在しないような閉鎖的地域であればこそ、人身御供が神がかったものと
してすら扱われたりするのだから、その手の地域の文化的な未開さ加減こそは、電気も
水道もガスもないような地域の未開さ以上にも早急に克服されて然るべきものだといえる。
どうしたって、諸行無常の真理だとか、人身御供を超える尽力の価値だとかをわきまえ
られない類いの人種というのもいる。儒者が「小人」と呼ぶ類いの人間に特にその手の
性向の持ち主が多いが、そのような人種が世を牛耳ったりまではしないようにするのと、
牛耳った挙句に自分たちレベルの至らなさを万人にまで強要しようとし始めたりするような
ことにだけはならないようにするのが肝要である。自力作善の仏門を尊ばせるなどする
ことで、むしろそのような人種すらもが、自分たちの性分を立ち萎えにさせたほうがよい。
当該の人間や地域の精神文化上の成長度を計り知る上で、確かに人身御供への批評意識の
如何が格好のパロメーターともなる。そんなものに価値を見出さないでいられるような
人間こそは精神的にも成長している一方、思わず嬉しがったりしてしまうような人間は、
心根の部分に致命的な未熟さをくすぶらせたままでいることが確かだといえる。物質文明の
開発がいくら進んだ所で、精神面がそのような未熟さのままでいるようでは、キ千ガイに
刃物ということにすらなるわけで、それほど致命的な片手落ちの過ちも他にないことになる。
刀剣のような原始的な武器一つでも、その真っ当な駆使によって世の中を安寧へと導く
ことができるが、それよりも遥かに甚大な威力を持つ近代兵器によってですら、紛争を
激化させこそすれど収拾はさせられなかったりする。その根底にも、人間たち自身が
ヘタに命を軽んじたりすることなく、最善の努力を積んでいく堅実さの有無という命題
が存在しているわけで、世の中を安寧へと導くためには、兵器の強大さなどよりも、
そのような堅実さのほうが遥かに重要なものであることもまた確かなのである。
「君子は〜忠にして犯さず」
「君子は主君への忠義のためにこそ、罪を犯したりしない。
(拠り所とする相手に甘ったれたりするのは、小人の道である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)
られない類いの人種というのもいる。儒者が「小人」と呼ぶ類いの人間に特にその手の
性向の持ち主が多いが、そのような人種が世を牛耳ったりまではしないようにするのと、
牛耳った挙句に自分たちレベルの至らなさを万人にまで強要しようとし始めたりするような
ことにだけはならないようにするのが肝要である。自力作善の仏門を尊ばせるなどする
ことで、むしろそのような人種すらもが、自分たちの性分を立ち萎えにさせたほうがよい。
当該の人間や地域の精神文化上の成長度を計り知る上で、確かに人身御供への批評意識の
如何が格好のパロメーターともなる。そんなものに価値を見出さないでいられるような
人間こそは精神的にも成長している一方、思わず嬉しがったりしてしまうような人間は、
心根の部分に致命的な未熟さをくすぶらせたままでいることが確かだといえる。物質文明の
開発がいくら進んだ所で、精神面がそのような未熟さのままでいるようでは、キ千ガイに
刃物ということにすらなるわけで、それほど致命的な片手落ちの過ちも他にないことになる。
刀剣のような原始的な武器一つでも、その真っ当な駆使によって世の中を安寧へと導く
ことができるが、それよりも遥かに甚大な威力を持つ近代兵器によってですら、紛争を
激化させこそすれど収拾はさせられなかったりする。その根底にも、人間たち自身が
ヘタに命を軽んじたりすることなく、最善の努力を積んでいく堅実さの有無という命題
が存在しているわけで、世の中を安寧へと導くためには、兵器の強大さなどよりも、
そのような堅実さのほうが遥かに重要なものであることもまた確かなのである。
「君子は〜忠にして犯さず」
「君子は主君への忠義のためにこそ、罪を犯したりしない。
(拠り所とする相手に甘ったれたりするのは、小人の道である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)
古流の武術の極意に「一所に居着かない」というのがある。
まるで、一ヶ所に踏み止まればそこから亀裂を生じてしまいかねない薄氷の上でも歩むようにして、
決して一所に止まらないような心持ちでいることで、臨機応変な体勢を保ち続ける。それは別に、
歩行や走行の間中に限らず、座標上の一点に止まっている場合や、さらには座っている場合にまで
共通することである。正座中ですら、完全にそこに居座るよりは、脛裏と腿裏の間に紙一重程度の
隙間を持たせておくような心持ちで居たほうが、長時間座っていても足が痺れないでいられたりする。
座禅もまた、結跏趺座で完全に一所に身体を落ち着けるのと引き換えに、
心中における無限の自由を模索して行くものである。あらゆる仏道修行の内でも最もストイックかつ
方便的な要素を排しているのが座禅行であればこそ、禅門には仏神への帰依のような要素もほとんどない。
(あっても極々補助的なものに止まる) それでいて、何物にも囚われない精神の自由を追い求めて行く
わけだから、座禅もまた一所に居着いてしまわないことをその本義としているのが明らかだといえる。
実際問題、人は一ヶ所に止まるということもあるわけで、それは「動かざること山の如し(孫子)」
という兵法上の極意ですらあり得るわけだが、「一ヶ所に止まって動かないことそれ自体が目的」
とまでなれば、これは愚かしいこととなってしまう。生物に命を吹き込んでいる魂魄すらもが、
いつかは生体を離れて生物を死に追いやってしまうというのに、その生物の一員に過ぎない人間なぞが
一所に止まって動かないことばかりを金科玉条にしてしまったりするのでは、諸行無常の真理の荒波に
うちひしがれて、いつかは悲惨な大破綻を招くことまでもが避けられなくなる。
一所に止まる愚かしさを開き直る変わりに、そのような心持ちを悪人正機説の如き善巧方便に乗せつつ
念仏に帰依することでの自浄作用を図って行く、阿弥陀信仰の如き超絶技巧の信教もまたあるけれども、
神仏への依存レベルの帰依を促す信仰第一型の宗教としては、むしろ奇特な部類の代物だといえる。
まるで、一ヶ所に踏み止まればそこから亀裂を生じてしまいかねない薄氷の上でも歩むようにして、
決して一所に止まらないような心持ちでいることで、臨機応変な体勢を保ち続ける。それは別に、
歩行や走行の間中に限らず、座標上の一点に止まっている場合や、さらには座っている場合にまで
共通することである。正座中ですら、完全にそこに居座るよりは、脛裏と腿裏の間に紙一重程度の
隙間を持たせておくような心持ちで居たほうが、長時間座っていても足が痺れないでいられたりする。
座禅もまた、結跏趺座で完全に一所に身体を落ち着けるのと引き換えに、
心中における無限の自由を模索して行くものである。あらゆる仏道修行の内でも最もストイックかつ
方便的な要素を排しているのが座禅行であればこそ、禅門には仏神への帰依のような要素もほとんどない。
(あっても極々補助的なものに止まる) それでいて、何物にも囚われない精神の自由を追い求めて行く
わけだから、座禅もまた一所に居着いてしまわないことをその本義としているのが明らかだといえる。
実際問題、人は一ヶ所に止まるということもあるわけで、それは「動かざること山の如し(孫子)」
という兵法上の極意ですらあり得るわけだが、「一ヶ所に止まって動かないことそれ自体が目的」
とまでなれば、これは愚かしいこととなってしまう。生物に命を吹き込んでいる魂魄すらもが、
いつかは生体を離れて生物を死に追いやってしまうというのに、その生物の一員に過ぎない人間なぞが
一所に止まって動かないことばかりを金科玉条にしてしまったりするのでは、諸行無常の真理の荒波に
うちひしがれて、いつかは悲惨な大破綻を招くことまでもが避けられなくなる。
一所に止まる愚かしさを開き直る変わりに、そのような心持ちを悪人正機説の如き善巧方便に乗せつつ
念仏に帰依することでの自浄作用を図って行く、阿弥陀信仰の如き超絶技巧の信教もまたあるけれども、
神仏への依存レベルの帰依を促す信仰第一型の宗教としては、むしろ奇特な部類の代物だといえる。
いま現在、アブラハム信仰という形で、世界人口の半数にも上るような人間が、
とにかく神への帰依という一所ばかりに止まることを絶対無謬の本義としてしまっているという、
危機的な状況が続いている。東洋にだって神仏信仰ぐらいはあるが、それが精神の凝り固まりを
奨励するようなものでまであるわけではない。そもそもが多神教信仰であるものだから、別個の神仏を
信じている人間同士での関係を保全するためにも、信仰がドグマとまで化してしまうことが許されない。
一方で、唯一絶対の神への万人の服従を促すアブラハム信仰などにはそのような節度は期待
できないわけで、実際に、同じ神への帰依をしているとされる人間同士での付き合いが、
より一層の精神の凝り固まりを助長するようなことにすらなってしまう。
世界の半数にも相当するような人間が、一所に止まるようなことばかりをドグマに据えてしまって
いるからこそ、世界も急激な破滅へと向かいつつある。どうせ皆いつかは死んで土に帰らざるを得ない
のであるにしたって、現存する命を多少は大事に扱うか、最悪の破滅に陥らせるかでは相当な品性の隔絶が
あるわけで、あえて破滅に陥らせたりすることが、愚かか否かでいう所の愚かであることにも間違いはない。
古武術の極意でもある「一所に居着かない」という姿勢は、長年日常から心がけていれば腰痛や膝痛
などの予防にもなる。一方で、ドカドカといちいち踏み止まるような立ち居振る舞いでいたならば、
若い内はよくても、年老いれば各種の関節痛に悩まされるようなことにもなるし、いちいち
居着こうとして来た心持ちが、臨終に際しての耐え難い苦痛となってしまったりもする。
特に、アブラハム教圏の中でも聖書圏の文化的老齢化が著しい昨今、せめてでも苦しい老後を送らされたり
しないためには、一所に居座るような心持ち全般を、その信仰と共に卒して行く必要がどうしたってあるのである。
とにかく神への帰依という一所ばかりに止まることを絶対無謬の本義としてしまっているという、
危機的な状況が続いている。東洋にだって神仏信仰ぐらいはあるが、それが精神の凝り固まりを
奨励するようなものでまであるわけではない。そもそもが多神教信仰であるものだから、別個の神仏を
信じている人間同士での関係を保全するためにも、信仰がドグマとまで化してしまうことが許されない。
一方で、唯一絶対の神への万人の服従を促すアブラハム信仰などにはそのような節度は期待
できないわけで、実際に、同じ神への帰依をしているとされる人間同士での付き合いが、
より一層の精神の凝り固まりを助長するようなことにすらなってしまう。
世界の半数にも相当するような人間が、一所に止まるようなことばかりをドグマに据えてしまって
いるからこそ、世界も急激な破滅へと向かいつつある。どうせ皆いつかは死んで土に帰らざるを得ない
のであるにしたって、現存する命を多少は大事に扱うか、最悪の破滅に陥らせるかでは相当な品性の隔絶が
あるわけで、あえて破滅に陥らせたりすることが、愚かか否かでいう所の愚かであることにも間違いはない。
古武術の極意でもある「一所に居着かない」という姿勢は、長年日常から心がけていれば腰痛や膝痛
などの予防にもなる。一方で、ドカドカといちいち踏み止まるような立ち居振る舞いでいたならば、
若い内はよくても、年老いれば各種の関節痛に悩まされるようなことにもなるし、いちいち
居着こうとして来た心持ちが、臨終に際しての耐え難い苦痛となってしまったりもする。
特に、アブラハム教圏の中でも聖書圏の文化的老齢化が著しい昨今、せめてでも苦しい老後を送らされたり
しないためには、一所に居座るような心持ち全般を、その信仰と共に卒して行く必要がどうしたってあるのである。
「富貴は是れ人の欲する所なるも、其の道を以って之れを得ずんば、処らざるなり。
貧賤は是れ人の悪む所なるも、其の道を以って之れを得ずんば、去らざるなり。
君子、仁を去りて悪くにか名を成さん。君子は食の終うるの間も仁に違うこと無し。
造次にも必ず是れに於いてし、顛沛にも必ず是れに於いてす。(一部既出)」
「富貴は誰でも欲するものだが、道義に即するのでなければ、それを得たりはしない。
貧賤は誰でも嫌がるものだが、道義に即して富貴になれないのなら、あえてそうであることを去らない。
君子は仁を去ってまで名を成すような真似はしない。君子は食事を終える間ほどの一時ですら、
仁に違わないようにする。急変の事態にも仁に根ざし、革命の時にも仁に根ざしていようとする。
(仁も行動にかけての規範であり、完全に合致したままでいようとしたりすれば、顔回のような
無理が祟っての夭折に見舞われたりもする。むしろ仁こそが、不行跡を去るための禁止規範に当たる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・五より)
貧賤は是れ人の悪む所なるも、其の道を以って之れを得ずんば、去らざるなり。
君子、仁を去りて悪くにか名を成さん。君子は食の終うるの間も仁に違うこと無し。
造次にも必ず是れに於いてし、顛沛にも必ず是れに於いてす。(一部既出)」
「富貴は誰でも欲するものだが、道義に即するのでなければ、それを得たりはしない。
貧賤は誰でも嫌がるものだが、道義に即して富貴になれないのなら、あえてそうであることを去らない。
君子は仁を去ってまで名を成すような真似はしない。君子は食事を終える間ほどの一時ですら、
仁に違わないようにする。急変の事態にも仁に根ざし、革命の時にも仁に根ざしていようとする。
(仁も行動にかけての規範であり、完全に合致したままでいようとしたりすれば、顔回のような
無理が祟っての夭折に見舞われたりもする。むしろ仁こそが、不行跡を去るための禁止規範に当たる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・五より)
「賢を見ては斉しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みる」
「賢人を見ればあやかろうと思い、賢くない人間を見れば自らの内に省みる。
(以下の引用の通り、君子こそはそこで自らの内に疚しき所がないことを知るのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・一七より)
「司馬牛君子を問う。子曰く、君子は憂えず、懼れず。曰く、憂えず懼れずんば、斯れを之れ君子
と謂うのみか。子曰く、内に省みて疚しからずんば、夫れ何をか憂え、何をか懼れん。(一部既出)」
「門弟の司馬牛が君子についてお尋ねした。先生は言われた。『君子は憂えたり恐れたりしない』
司馬牛。『憂えたり恐れたりしなければ、それで君子と言えるのでしょうか』 先生は答えられた。
『自らの内に省みて疚しい所がないのだから、どうして憂えたり恐れたりする必要があろうか』
(蛮勇の徒や注意欠陥障害者でも憂えず恐れない程度のことはあるものだから、君子が君子で
あるが故にこそ憂えたり恐れたりしない理由を孔子も補足として提示した。そしてその理由
こそは、人間が内面から清浄たり得る場合があることを示すものともなっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・三)
「賢人を見ればあやかろうと思い、賢くない人間を見れば自らの内に省みる。
(以下の引用の通り、君子こそはそこで自らの内に疚しき所がないことを知るのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・一七より)
「司馬牛君子を問う。子曰く、君子は憂えず、懼れず。曰く、憂えず懼れずんば、斯れを之れ君子
と謂うのみか。子曰く、内に省みて疚しからずんば、夫れ何をか憂え、何をか懼れん。(一部既出)」
「門弟の司馬牛が君子についてお尋ねした。先生は言われた。『君子は憂えたり恐れたりしない』
司馬牛。『憂えたり恐れたりしなければ、それで君子と言えるのでしょうか』 先生は答えられた。
『自らの内に省みて疚しい所がないのだから、どうして憂えたり恐れたりする必要があろうか』
(蛮勇の徒や注意欠陥障害者でも憂えず恐れない程度のことはあるものだから、君子が君子で
あるが故にこそ憂えたり恐れたりしない理由を孔子も補足として提示した。そしてその理由
こそは、人間が内面から清浄たり得る場合があることを示すものともなっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・三)
凡そ、人間にとって粗悪とされる劣情だの悪念だのは皆、外的な事物をその元凶としている。
耳目口腹やその他の感覚の快楽を助長するような外的な事物に翻弄された結果、本性の部分
にある善性が見失われて、心が濁念に囚われた状態と化してしまう。そこからありとあらゆる
悪念や劣情や、それを原動力とした愚行や悪行が派生することとなってしまうのである。
人間の心が外的な翻弄によって濁念の塊と化してしまってから、そこで人格が固着してしまう
ものだから、この世には生まれつき性悪な人間が存在するとすら時に思い込まれてしまいもする。
どこでそのような悪念を湛えるようになってしまったのか、他人である場合には必ずしも察せる
ものではないから、そういう人間も中には居ると見なしたほうが安易に片付けやすくもある。
つまり、自分自身もまた安易に物事を片付けたがるような慢心の持ち主である人間こそが、
「この世には生まれつきの悪人がいる」などと決め付けようともするわけで、さらに怠慢が
エスカレートした場合には、「人間はみな本性の部分が悪であり、そこからありとあらゆる
濁念が派生する」などという転倒夢想にすら陥りもする。そのように見なすこと自体が本人
自身の救いがたい慢心の現われであるわけだから、悪念による悪念の自己弁護に過ぎない
ものであると捉えて、本気でその物言いを聞き入れてやったりしないことが適当となる。
いちいち個々の他人の境遇を調査するまでもなく、生まれや育ちの不遇さによって、
幼少期から濁念を湛えてしまうような人間が存在し得るということは、多少の思いやりが
自分自身に備わってすらいれば、常識的な一般論として諾えることのはずである。それも
できないと言うのならば、そうである人間自身に決定的に思いやりが欠けていることが
間違いないわけで、思いやりのない人間が思いやりのない人間を鑑みた結果として、人間の
本性が悪であったり、そうであり得たりするなどという結論に至ってしまいもするのである。
耳目口腹やその他の感覚の快楽を助長するような外的な事物に翻弄された結果、本性の部分
にある善性が見失われて、心が濁念に囚われた状態と化してしまう。そこからありとあらゆる
悪念や劣情や、それを原動力とした愚行や悪行が派生することとなってしまうのである。
人間の心が外的な翻弄によって濁念の塊と化してしまってから、そこで人格が固着してしまう
ものだから、この世には生まれつき性悪な人間が存在するとすら時に思い込まれてしまいもする。
どこでそのような悪念を湛えるようになってしまったのか、他人である場合には必ずしも察せる
ものではないから、そういう人間も中には居ると見なしたほうが安易に片付けやすくもある。
つまり、自分自身もまた安易に物事を片付けたがるような慢心の持ち主である人間こそが、
「この世には生まれつきの悪人がいる」などと決め付けようともするわけで、さらに怠慢が
エスカレートした場合には、「人間はみな本性の部分が悪であり、そこからありとあらゆる
濁念が派生する」などという転倒夢想にすら陥りもする。そのように見なすこと自体が本人
自身の救いがたい慢心の現われであるわけだから、悪念による悪念の自己弁護に過ぎない
ものであると捉えて、本気でその物言いを聞き入れてやったりしないことが適当となる。
いちいち個々の他人の境遇を調査するまでもなく、生まれや育ちの不遇さによって、
幼少期から濁念を湛えてしまうような人間が存在し得るということは、多少の思いやりが
自分自身に備わってすらいれば、常識的な一般論として諾えることのはずである。それも
できないと言うのならば、そうである人間自身に決定的に思いやりが欠けていることが
間違いないわけで、思いやりのない人間が思いやりのない人間を鑑みた結果として、人間の
本性が悪であったり、そうであり得たりするなどという結論に至ってしまいもするのである。
上記のような理由があるものだから、性悪論や性悪実在論こそは、悪人に好まれもする。
そのような自論を唱えている人間たち自身からして、思いやりに欠ける慢心の持ち主で
ある場合がほとんどなわけだから、「蛇の道は蛇」で、論者までもが自分たちと同類
である性悪論や性悪実在論こそを、悪人もまた慕って是認したがるのである。
そうして、悪人どもが性悪論者と共に勢力を拡大して行った結果、さらに今度は、
世の人々が思いやりを育んで行くことすらもが憚られるようになる。他人の境遇を察して
やることもできないような思いやりのなさこそが、性悪論を是とするにも足るものだから、
性悪論が是認されている一般社会に同調させられることを通じて、本来は悪人でもなかった
ような人間までもが、一定以上の思いやりのなさを強制させられるようになるのである。
「朱に染まれば赤となる」ならぬ、「性悪論に染まれば悪となる」という事態であり、
「悪の広まること燎原の火の如し(左伝・荘公十四年)」という格言の根拠もまた以上の
ようであるといえる。悪が火種なら、性悪論はその火種に注がれる油のようなものであり、
性悪論を基調とした邪教信仰ともなれば、火種に投じられる高性能爆薬もいい所だといえる。
そのような、悪の体系的な広まりを予防するためにも、性善論を基調とした孔孟や朱子系の
儒学を広めて行くようにすべきだといえる。それはそれで大仰な性善論の体系であるわけで、
無為自然を尊ぶ道家などからすれば「いらんことしい」な作為の塊だとも見なされるわけだが、
悪の広まりにも上記のような体系性が備わり得るからには、それを相殺するための体系と
しての儒学が有用にもなるといえる。最も、儒学にも荀子のように、性悪説を唱える異端の
学派が存在してもいたわけだから、それを反省材料として行くこともまた必要となるわけだが。
そのような自論を唱えている人間たち自身からして、思いやりに欠ける慢心の持ち主で
ある場合がほとんどなわけだから、「蛇の道は蛇」で、論者までもが自分たちと同類
である性悪論や性悪実在論こそを、悪人もまた慕って是認したがるのである。
そうして、悪人どもが性悪論者と共に勢力を拡大して行った結果、さらに今度は、
世の人々が思いやりを育んで行くことすらもが憚られるようになる。他人の境遇を察して
やることもできないような思いやりのなさこそが、性悪論を是とするにも足るものだから、
性悪論が是認されている一般社会に同調させられることを通じて、本来は悪人でもなかった
ような人間までもが、一定以上の思いやりのなさを強制させられるようになるのである。
「朱に染まれば赤となる」ならぬ、「性悪論に染まれば悪となる」という事態であり、
「悪の広まること燎原の火の如し(左伝・荘公十四年)」という格言の根拠もまた以上の
ようであるといえる。悪が火種なら、性悪論はその火種に注がれる油のようなものであり、
性悪論を基調とした邪教信仰ともなれば、火種に投じられる高性能爆薬もいい所だといえる。
そのような、悪の体系的な広まりを予防するためにも、性善論を基調とした孔孟や朱子系の
儒学を広めて行くようにすべきだといえる。それはそれで大仰な性善論の体系であるわけで、
無為自然を尊ぶ道家などからすれば「いらんことしい」な作為の塊だとも見なされるわけだが、
悪の広まりにも上記のような体系性が備わり得るからには、それを相殺するための体系と
しての儒学が有用にもなるといえる。最も、儒学にも荀子のように、性悪説を唱える異端の
学派が存在してもいたわけだから、それを反省材料として行くこともまた必要となるわけだが。
善の性質は水のようであり、悪の性質は火のようである。
低い所へと流れ落ち続ける水のようにどこまでも謙ることが善徳に繋がる一方、
高い所へと上り続ける火のようにどこまでも思い上がることが罪悪に繋がる。
水と火も相容れなければ、火の燃料となる油と水もまた相容れないように、
善と悪もまた根本的に受け入れない所があり、両者が並存する以上は、
どちらかが一方に打ち勝って、もう一方が打ち負けた状態であらざるを得ない。
火や油の活用が文明の発展をもたらしたように、悪もまた必要悪であり得る。
陰湿で幼稚な女の性向なども善か悪かでいえば悪だが、そのような幼稚さで
いればこそ低い目線からの育児にも務められる。商売人の私利私欲ばかりを
貪る性向もやはり粗悪なものであるが、そうである商売人の活動によってこそ
都市社会が健全に機能して行くことともなる。それはそれで、世界から根絶
されるべきとまでは言えない要素であるわけだけれども、そのような女子供
や商売人の粗悪な性向が、全世界の習俗すらをも乗っ取るようなことにまで
なれば、世界もまた破滅の様相すらをも呈さざるを得なくなる。それはもう、
火の取り扱いを疎かにしたせいでの大火事もいい所なわけで、その原因となる
ような火の不始末や放火が許されていいはずもないのと同じように、粗悪な
部類の人性もまた、社会規模では抑制されて行かねばならないものである。
一方で、水の取り扱いもまた、場合によっては問題を来たす場合がある。
脆弱な堰で大水をせき止めたり、地の利に全く沿わないような用水路を
築いたりすれば、そのせいでの洪水や渇水までもが生じてしまったりする。
それはちょうど、真の善徳を尊ぶ教学である儒学や仏教の享受の仕方を
取り違えてしまった結果、権力腐敗や教団腐敗を来たしてしまったりする
ことに符合する有様だといえる。儒教の序列志向を極端な上下関係の強制
のために濫用した結果、下民が禽獣の如き愚民の群れと化してしまった
近世までの朝鮮だとか、天台宗や本願寺が一時は武装勢力としてまで
強大化してしまった日本の仏教界などが、その実例に当たるといえる。
低い所へと流れ落ち続ける水のようにどこまでも謙ることが善徳に繋がる一方、
高い所へと上り続ける火のようにどこまでも思い上がることが罪悪に繋がる。
水と火も相容れなければ、火の燃料となる油と水もまた相容れないように、
善と悪もまた根本的に受け入れない所があり、両者が並存する以上は、
どちらかが一方に打ち勝って、もう一方が打ち負けた状態であらざるを得ない。
火や油の活用が文明の発展をもたらしたように、悪もまた必要悪であり得る。
陰湿で幼稚な女の性向なども善か悪かでいえば悪だが、そのような幼稚さで
いればこそ低い目線からの育児にも務められる。商売人の私利私欲ばかりを
貪る性向もやはり粗悪なものであるが、そうである商売人の活動によってこそ
都市社会が健全に機能して行くことともなる。それはそれで、世界から根絶
されるべきとまでは言えない要素であるわけだけれども、そのような女子供
や商売人の粗悪な性向が、全世界の習俗すらをも乗っ取るようなことにまで
なれば、世界もまた破滅の様相すらをも呈さざるを得なくなる。それはもう、
火の取り扱いを疎かにしたせいでの大火事もいい所なわけで、その原因となる
ような火の不始末や放火が許されていいはずもないのと同じように、粗悪な
部類の人性もまた、社会規模では抑制されて行かねばならないものである。
一方で、水の取り扱いもまた、場合によっては問題を来たす場合がある。
脆弱な堰で大水をせき止めたり、地の利に全く沿わないような用水路を
築いたりすれば、そのせいでの洪水や渇水までもが生じてしまったりする。
それはちょうど、真の善徳を尊ぶ教学である儒学や仏教の享受の仕方を
取り違えてしまった結果、権力腐敗や教団腐敗を来たしてしまったりする
ことに符合する有様だといえる。儒教の序列志向を極端な上下関係の強制
のために濫用した結果、下民が禽獣の如き愚民の群れと化してしまった
近世までの朝鮮だとか、天台宗や本願寺が一時は武装勢力としてまで
強大化してしまった日本の仏教界などが、その実例に当たるといえる。
水の取り扱いにも、火の取り扱いにもそれなりに気を付けなければならない
のと同じように、善と悪の取り扱いもまた、慎重かつ適切なものでなければ
ならない。いずれも偏重と軽んじの両方が大怪我に繋がりかねないものであり、
今などは、善徳の軽んじと罪悪の偏重が相まって大災厄をもたらしている時代だと
いえる。だから、より善徳を尊んで罪悪を除けていかねばならないとはいえるが、
それがまた儒教や仏教の偏重による腐敗だとか、女子供や商売人を虐げすぎた
せいでの愚民化などに繋がるようなことがないようにしなければならない。
儒教や仏教を偏重し過ぎたせいでの腐敗に対しては、目付や寺社奉行の
ような監察官の権限の強化などを講ずることでの予防に務めるべきだといえる。
罪悪を忌み嫌うが故の、粗悪な人性の持ち主たちへの虐待を防ぐためには、
本人たちにもそれなりの身分からの保護は講じてやるが、自分たちの性向を
カルト宗教などによってまで広めようとしたりすることまでは許さない
といった風な、機転の利いた抑制措置を講ずるなどすべきだといえる。
それこそ、手堅い治水や、大火の根元を消し止める厳重な火の取り扱いとなるわけで、
結果として水4:火1、善4:悪1程度の配分量で世の中が取りまとめられていった
時に、世の中も最上級に安定した状態を手に入れる。ただ安定しているだけでなく、
むしろ粗悪な人種の部類とされる女子供や商売人すらもが分相応の立場に与れて、
可愛がりようがある程度の楚々とした振る舞いでいられるようになるのである。
「伯の東せし自り、首は飛蓬の如し。豈に膏沐の無からんや、誰に容を為すに適さん」
「愛するわが夫が遠征に旅立ってから、私の髪もスズメの巣のような有様です。
誰に見せる必要があるわけでもないのに、どうして油を塗って整えたりする
必要があるでしょうか。(遠地の夫を慕うあまり整髪油も断つ良妻の詠う歌)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・衛風・伯兮より)
のと同じように、善と悪の取り扱いもまた、慎重かつ適切なものでなければ
ならない。いずれも偏重と軽んじの両方が大怪我に繋がりかねないものであり、
今などは、善徳の軽んじと罪悪の偏重が相まって大災厄をもたらしている時代だと
いえる。だから、より善徳を尊んで罪悪を除けていかねばならないとはいえるが、
それがまた儒教や仏教の偏重による腐敗だとか、女子供や商売人を虐げすぎた
せいでの愚民化などに繋がるようなことがないようにしなければならない。
儒教や仏教を偏重し過ぎたせいでの腐敗に対しては、目付や寺社奉行の
ような監察官の権限の強化などを講ずることでの予防に務めるべきだといえる。
罪悪を忌み嫌うが故の、粗悪な人性の持ち主たちへの虐待を防ぐためには、
本人たちにもそれなりの身分からの保護は講じてやるが、自分たちの性向を
カルト宗教などによってまで広めようとしたりすることまでは許さない
といった風な、機転の利いた抑制措置を講ずるなどすべきだといえる。
それこそ、手堅い治水や、大火の根元を消し止める厳重な火の取り扱いとなるわけで、
結果として水4:火1、善4:悪1程度の配分量で世の中が取りまとめられていった
時に、世の中も最上級に安定した状態を手に入れる。ただ安定しているだけでなく、
むしろ粗悪な人種の部類とされる女子供や商売人すらもが分相応の立場に与れて、
可愛がりようがある程度の楚々とした振る舞いでいられるようになるのである。
「伯の東せし自り、首は飛蓬の如し。豈に膏沐の無からんや、誰に容を為すに適さん」
「愛するわが夫が遠征に旅立ってから、私の髪もスズメの巣のような有様です。
誰に見せる必要があるわけでもないのに、どうして油を塗って整えたりする
必要があるでしょうか。(遠地の夫を慕うあまり整髪油も断つ良妻の詠う歌)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・衛風・伯兮より)

「油(膏、脂)」は一種の豊かさの象徴である。豊かであることすなわち悪という
わけではないけれども、贅沢とまでなれば慢心の助長などにも繋がりかねないから、
>>277の詩を詠んだ女性のように、夫の前でもない限りは整髪油を使わないで
いようとするような約やかさもまた、一つの美徳となり得るわけである。
日本でも特に、獣脂を食することは肉食の忌避などを通じて控えられて来た。
それこそが独特の美味であったりもすわけだけれども、あえてそれを避けて、
栄養面では肉食より優れている面の多い魚肉食を主体ともして来た。それが、
日本人に中国人や朝鮮人とは全く隔絶した清廉な文化文明を育ませる原動力とも
なっていたわけで、肉食が全面的に解禁されてしまった明治以降にはもはや、
日本と中朝の文化的隔絶を決定付ける要素なども立ち消えになってしまったのである。
(それでもまだ、中朝人以上に清廉を心がける気風が多少は日本人にも残されているが)
油とも同様な富の象徴として「酒」があるが、「礼記」の郷飲酒義第四十五には、
「酒は吸うようにしてチビチビと飲むことで、倹約の心がけを示す」とある。
脂ぎった食い物と酒こそは暴飲暴食の対象ともなってしまうわけだから、肉食や飲酒
に対して比較的寛容な中国においてですら、そういった礼節が尊ばれていたのである。
富は、真理であろうか。むしろ真理の逆ではないか。
金も増えたり減ったり、食料も食えば減り、食わなくても腐ったりする。ダイヤで
すら一定の角度から叩けば割れてしまうし、金ゴールドも実用してれば目減りして行く。
そのような、増減損益の甚だしい富の魅力に惑わされて、人々も不増不減の真理を
見失ってしまうわけだから、油や酒やダイヤや金といった物品が象徴するような
富こそは、真理の対蹠に位置する存在であるとすら言うことができる。

それと比べれば本物の真理は虚空の如くであり、未熟な人間であればそこに
嫌悪感すらをも抱きかねないものである。それは結局、「現象は堅持される
ことのほうが難く、崩壊していくことのほうが容易い」というエントロピー
増大則にも根ざした鉄則であるわけで、それはそれで諸行無常の真理にも
通ずる法則であるわけだから、嘆いた所で仕方もないことだといえる。
利き手が右手の場合、日本刀は右手だけで振ったほうが刃筋も通って剣速も上がるが、
右手だけでばかり振っていればあっという間に肩や腕を壊すことになる。そのため、
把持だけは完全に左手の役割として、右手には刀の誘導の役割だけを負わせるように
したほうが堅実なる。それこそ、左手が真理や道理への尊重に、右手が富裕の追求に
符合した剣の振り方となるわけで、どちらが欠けても健全な剣術は成立しないように、
真理の尊重と富裕の追及もまた、どらかが完全に欠けるようでは人間味がなくなるのである。
「鼎の耳革まり、其の行塞がるる。雉の膏食われず。〜鼎の耳革まるは、其の義を失えばなり」
「鼎の取っ手が取れたために、持ち歩くことができない。せっかくの珍味であるキジの
油も誰にも食べてもらえない。鼎の取っ手が取れたのは、もはや義を失ったからである。
(容器の取っ手が取れた程度で取り回せなくなる油が、偏在的な真理の喩えとしては
不適なものであることを示唆している。『礼記』内則第十二では子が孝行として珍味の
油脂を親に提供する描写が多々あるが、油は富の象徴であればこそ、むしろ自分が
然るべき相手に贈呈するものとして用いることこそが相応しいのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・鼎・九三‐象伝より)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6052822.htm...
なぜ日本の刀は両手であつかうか、という問いに間接的に答えを言っても分からないようだから、ズバリ答えを言うけどね・・・。
示現流の話で、
示現流は、初太刀での一撃必殺を旨としており、正面から初太刀を受けると真剣でもへし折られ、仮に折られなかったとしてもそのまま押し込まれてやられてしまう可能性が高く、かわすのが困難なためである。
実際、幕末期に示現流と戦った武士の中には、自分の刀の峰や鍔を頭に食い込ませて絶命した者がいた事は有名である。
と言う話があるように、両手で上段から切り込むと、片手で対処する所か両手でも簡単に対処出来ないんだと言う事・・・そういう答えが戦国時代には、もう出てるから両手で使うのが結論な訳です。
まあ、日本の刀剣の技術と言うのは両手で上段からの一撃に集約されるんだよ。
なぜ日本の刀は両手であつかうか、という問いに間接的に答えを言っても分からないようだから、ズバリ答えを言うけどね・・・。
示現流の話で、
示現流は、初太刀での一撃必殺を旨としており、正面から初太刀を受けると真剣でもへし折られ、仮に折られなかったとしてもそのまま押し込まれてやられてしまう可能性が高く、かわすのが困難なためである。
実際、幕末期に示現流と戦った武士の中には、自分の刀の峰や鍔を頭に食い込ませて絶命した者がいた事は有名である。
と言う話があるように、両手で上段から切り込むと、片手で対処する所か両手でも簡単に対処出来ないんだと言う事・・・そういう答えが戦国時代には、もう出てるから両手で使うのが結論な訳です。
まあ、日本の刀剣の技術と言うのは両手で上段からの一撃に集約されるんだよ。

(謀反を極度に恐れる秦人島津の意向で)
だから薩摩拵の鐔には、刀と鞘を紐で繋ぎ合わせて
抜けないようにする穴が二つ開けられてもいる。
そんな薩摩人の、軽い棒きれ主体の剣術稽古の流れを汲んでいるのが
今の竹刀剣道でもあるわけでね。飛び込み打ちだらけな上に、
手の内も疎かなあんな剣の振り方では、真剣の威力は絶対に活かせない。
薩摩軍が幕府軍を圧倒したのは、一にも二にも、大坂豪商から借りた金で
グラバーから購入した新型兵器がものを言わせたからであってね、
連中の田舎剣法なんかが役立ったからじゃない。剣術にまつわる幕末の
武勇伝なども、それを隠蔽するための誇張である場合がほとんどだから、
新撰組の活躍のような話の具体性にも欠けている。
北辰一刀流免許皆伝の坂本龍馬も、
スミス&ウェッソンの拳銃で奇襲相手を射殺したことがあるだけだ。
二重身で自分自身が「大きな的」になってしまう北辰一刀流の技法も、
竹刀と防具での持久戦には有効だが、撫で斬り一つで命を落としかねない
真剣勝負では、そのままの姿勢での早々とした逃亡に有効となるばかりだ。
(新当流や新陰流が基本とする一重身でこそ斬撃も最強となるが、
走って逃げたりするためには体勢の転換が必要ともなる)
実の親こそを尊重対象とし、すでに亡き先祖をも神仏として
尊んでいくようにすることでこそ、そうする本人たち自身が、
仁政徳行にかけての最善を尽くして行けるようになる。
自らの衣服飲食を悪しくしてまでの先祖崇拝を心がけていた夏の禹王こそは、
破足になるほどもの東奔西走と共に治水事業に尽力し、洪水を治めて五穀の豊穣に
貢献したというのだから、鬼神への崇敬や孝行こそは、「困ったときの神頼み」
でしかいられなくなるような災厄を未然に防いで行く要にすらなることが分かる。
自らの親先祖を尊ぶからには、他人がその親先祖を尊ぶことをも認めなければ
ならない。それがまた、人間社会の多様性を尊ぶ大人びた価値観の醸成にも
繋がって行くわけで、それぞれに個性を帯びた人間同士が、お互いに分業し合って
世の中を盛り立てて行く上での円滑さを推進していくことにもなるわけである。
情念に即してみても、親には親しみたい気持ちになりやすいものだし、公共性に
即して考えてみても、上記のような理由に即して、親先祖への崇敬が非常な有意義さ
を帯びていることが分かるのである。何ら問題とすべきでない健全性の極致こそは
親先祖への崇敬の心がけであるとすらいえるわけで、優れた親先祖に恵まれたおかげで
そのような心がけを自然と受け入れられる人間ほど、幸せな人間も他にないといえる。
親の素行がろくでもなかったり、自分自身が次男三男で長男ほど可愛がられなかったり
すれば、孝養や先祖崇拝を心がける意識も育みにくいものだけれども、だからといって
それを疎かにすれば、自分自身の徳性や品格を損ねるばかりのこととなるのみである。
孔子のような妾腹の私生児であろうとも、先祖供養や御家事情の整理に務めることで
聖人君子としての大成を克ち得た実例があるわけだから、決して自分の親先祖の
敬いがたさにかまけて放蕩したりすることが正当化までされてはならないといえる。
尊んでいくようにすることでこそ、そうする本人たち自身が、
仁政徳行にかけての最善を尽くして行けるようになる。
自らの衣服飲食を悪しくしてまでの先祖崇拝を心がけていた夏の禹王こそは、
破足になるほどもの東奔西走と共に治水事業に尽力し、洪水を治めて五穀の豊穣に
貢献したというのだから、鬼神への崇敬や孝行こそは、「困ったときの神頼み」
でしかいられなくなるような災厄を未然に防いで行く要にすらなることが分かる。
自らの親先祖を尊ぶからには、他人がその親先祖を尊ぶことをも認めなければ
ならない。それがまた、人間社会の多様性を尊ぶ大人びた価値観の醸成にも
繋がって行くわけで、それぞれに個性を帯びた人間同士が、お互いに分業し合って
世の中を盛り立てて行く上での円滑さを推進していくことにもなるわけである。
情念に即してみても、親には親しみたい気持ちになりやすいものだし、公共性に
即して考えてみても、上記のような理由に即して、親先祖への崇敬が非常な有意義さ
を帯びていることが分かるのである。何ら問題とすべきでない健全性の極致こそは
親先祖への崇敬の心がけであるとすらいえるわけで、優れた親先祖に恵まれたおかげで
そのような心がけを自然と受け入れられる人間ほど、幸せな人間も他にないといえる。
親の素行がろくでもなかったり、自分自身が次男三男で長男ほど可愛がられなかったり
すれば、孝養や先祖崇拝を心がける意識も育みにくいものだけれども、だからといって
それを疎かにすれば、自分自身の徳性や品格を損ねるばかりのこととなるのみである。
孔子のような妾腹の私生児であろうとも、先祖供養や御家事情の整理に務めることで
聖人君子としての大成を克ち得た実例があるわけだから、決して自分の親先祖の
敬いがたさにかまけて放蕩したりすることが正当化までされてはならないといえる。
親先祖への崇敬は、「困ったときの神頼み」の対象になるような神への信仰などと競合
するものではない。信敬する目的からして、自力作善と他力本願という真逆の代物である
わけだから、始めから前者を選択する者は後者を比較対象とすらせず、後者を選択する
者もまた前者を引き合いに出したりすべきでない。自分が望むような効験を親先祖への
崇敬が発揮してくれないからといって、そこに価値がないなどと思い込むべきでもない。
大体が、「困ったときの神頼み」を信条とするような人間こそは、親先祖の依存対象
としての脆弱さに見切りを付けてそうなってしまっていたりするわけだから、親を
依存ではなく自己修練のための材料として見ることなども始めから全く想定すらして
いないのである。親先祖に対する姿勢が成人後に至るまで、どこまでも未熟な子供
止まりのままでしかないからこそ、親先祖への本格的な崇敬に務めることが自らの
成長に与するなどということも、全く度外視したままでいしかいられないわけである。
人間としての健全さが親先祖への崇敬によって極められるのと同じように、人間として
の志しの低さもまた、親を依存の対象としてしか見られない所でこそ致命的に固着して
しまうのである。人類という種族もまた、これからも多少は進化したり退化したりして
行く生き物であるわけだが、その人類が、前世代への崇敬にすら及べるときにこそいま
以上に進化し、前世代への依存止まりのままでしかいられない時にこそ退化してしまう
に違いないわけだから、生物として見た場合にも、両者の優劣は見え透いているといえる。
親先祖を尊ぶ道こそは、今以上の向上の道、尊ばないでいる道こそは、
さらなる堕落の道。心情的にすら、人間は親を親しめるように出来ている
のというのに、どうして前者の向上の道を選ぶことが勧められないでいようか?
するものではない。信敬する目的からして、自力作善と他力本願という真逆の代物である
わけだから、始めから前者を選択する者は後者を比較対象とすらせず、後者を選択する
者もまた前者を引き合いに出したりすべきでない。自分が望むような効験を親先祖への
崇敬が発揮してくれないからといって、そこに価値がないなどと思い込むべきでもない。
大体が、「困ったときの神頼み」を信条とするような人間こそは、親先祖の依存対象
としての脆弱さに見切りを付けてそうなってしまっていたりするわけだから、親を
依存ではなく自己修練のための材料として見ることなども始めから全く想定すらして
いないのである。親先祖に対する姿勢が成人後に至るまで、どこまでも未熟な子供
止まりのままでしかないからこそ、親先祖への本格的な崇敬に務めることが自らの
成長に与するなどということも、全く度外視したままでいしかいられないわけである。
人間としての健全さが親先祖への崇敬によって極められるのと同じように、人間として
の志しの低さもまた、親を依存の対象としてしか見られない所でこそ致命的に固着して
しまうのである。人類という種族もまた、これからも多少は進化したり退化したりして
行く生き物であるわけだが、その人類が、前世代への崇敬にすら及べるときにこそいま
以上に進化し、前世代への依存止まりのままでしかいられない時にこそ退化してしまう
に違いないわけだから、生物として見た場合にも、両者の優劣は見え透いているといえる。
親先祖を尊ぶ道こそは、今以上の向上の道、尊ばないでいる道こそは、
さらなる堕落の道。心情的にすら、人間は親を親しめるように出来ている
のというのに、どうして前者の向上の道を選ぶことが勧められないでいようか?
「今夫れ山は、一拳石の多きなるも、其の広大に及びては、
草木之れ生じ、禽獣之れに居り、宝蔵焉れに興る」
「山も一部分を見ればただの石ころの集まりだが、それが広大であるものだから、
多数の草木が生じ、動物たちもそこに住まい、鉱脈に数多の財宝を含有するのである。
(山の一部分を見て『ただの石だ』などと決め付けるだけの了見の狭さ
でいれば、親先祖を尊ぶことなどもなかなか難しいことだろう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二六より)
草木之れ生じ、禽獣之れに居り、宝蔵焉れに興る」
「山も一部分を見ればただの石ころの集まりだが、それが広大であるものだから、
多数の草木が生じ、動物たちもそこに住まい、鉱脈に数多の財宝を含有するのである。
(山の一部分を見て『ただの石だ』などと決め付けるだけの了見の狭さ
でいれば、親先祖を尊ぶことなどもなかなか難しいことだろう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二六より)
別に、鹿児島生まれでも鹿児島育ちでもないが、
俺にも多少は薩摩人の血が流れてるから、薩摩の問題は他人事でもない。
薩摩人の血筋自体は、特濃の縄文系で、律令制時代には皇宮の警備役も務めた
由緒正しいものなのだから、それを恥に思ったりする必要もないわけだけれども。
如何せん、武家時代には島津という極悪非道の手合いにたぶらかされて、
死兵や食客のような過度の捨て身さや、身内にだけは極端に甘い閉鎖意識を
植え付けられたりしているものだから、そこは決して褒められたもんじゃない。
そのような問題があるせいで、今じゃ財界人はおろか、朝鮮パチンコ利権にすら
頭が上がらない、玉抜き状態の薩摩っぽ警察が出来上がってしまってるわけだから、
連中に男としての名誉を取り戻させてやるためにも、決して甘い姿勢で扱ってやったりはしない。
俺にも多少は薩摩人の血が流れてるから、薩摩の問題は他人事でもない。
薩摩人の血筋自体は、特濃の縄文系で、律令制時代には皇宮の警備役も務めた
由緒正しいものなのだから、それを恥に思ったりする必要もないわけだけれども。
如何せん、武家時代には島津という極悪非道の手合いにたぶらかされて、
死兵や食客のような過度の捨て身さや、身内にだけは極端に甘い閉鎖意識を
植え付けられたりしているものだから、そこは決して褒められたもんじゃない。
そのような問題があるせいで、今じゃ財界人はおろか、朝鮮パチンコ利権にすら
頭が上がらない、玉抜き状態の薩摩っぽ警察が出来上がってしまってるわけだから、
連中に男としての名誉を取り戻させてやるためにも、決して甘い姿勢で扱ってやったりはしない。
両手の流派にも片手の型がある。
馬上なら片手、戦場では片手剣だろうと両手剣だろうと槍が有利、
嘘のような本当の話として手裏剣術の手裏剣を刀で野球のバントように受けるというのもある。
(人間が投げるので手裏剣でも野球と同じく速度は時速150キロを超えないんだろう)
両手は防御に有利とか、受け流された後が片手は不利とか、
いろいろの説があるが両手剣になった理由はわからない。
それで「肩を痛めるから」というのはある種のもっともらしい発想であるけど、
想像にすぎない。
孫子に曰く「占いや経験による想像は、具体的な情報に劣る」。
山師、占い師になりたくなければ発想による突破は戒めるべき。
馬上なら片手、戦場では片手剣だろうと両手剣だろうと槍が有利、
嘘のような本当の話として手裏剣術の手裏剣を刀で野球のバントように受けるというのもある。
(人間が投げるので手裏剣でも野球と同じく速度は時速150キロを超えないんだろう)
両手は防御に有利とか、受け流された後が片手は不利とか、
いろいろの説があるが両手剣になった理由はわからない。
それで「肩を痛めるから」というのはある種のもっともらしい発想であるけど、
想像にすぎない。
孫子に曰く「占いや経験による想像は、具体的な情報に劣る」。
山師、占い師になりたくなければ発想による突破は戒めるべき。
いくら新旧約聖書信仰レベルの邪道に堕してしまっている人間といえども、
本人自身が邪道を棄てて正道に立ち戻ろうとする意欲があったならば、
それも可能となることのはずである。しかし、そのような意欲がないのならば、
邪道を邁進するとまで行かずとも、多少是認する程度の心持ちでいるだけの
ことすらもが、治療不能な難病並みに正されることも困難になってしまうである。
現代における致命的な問題も、邪道を邁進すらしてしまっている
ような連中がいること以上にも、邪道を多少是認する程度の心持ちを
あえて正して行こうとするような気概までは抱けないままでいる
人間が多数に上ってしまっていることでこそあるといえる。
聖書信仰の本場である欧米においてですら、聖書を狂信するほどもの蒙昧さの
ままでいるような人間はすでに少数となっている。教会など結婚式でもなければ
行かないような、日本人並みの信仰意識の希薄さでいる人間なども多く現れて
いる中で、やはり聖書信仰を完全に破棄してしまおうとまで考えられるような
人間まではいないままでいる。アンチキリスト主義の人間ですらもが、聖書
文化本位のままででしかものを考えられないままでいるのは同じであるために、
それを完全に破棄した先にあるものなどを、想像することもできないままでいる。
(実際に、想像もできないままに破棄してしまったのが共産主義でもある)
江戸時代生まれの人間などもとっくの昔にいなくなった今、日本人もまた、
生まれた頃から国内でキリスト教が許容されているものだから、あえてそれを
破棄したりすることのほうが不自然に思えてしまう。クリスマスにことかけての
商業キャンペーンの躍起さに嫌気が差して、クリスマスの終了を望んでいるような
人間も多少はいるが、それも所詮はジョーク止まりのままでいる。昔から日本で
親しまれている仏教や神道の体裁を取りながらも、パッと出の新興宗教である
ような信教のほうが、よっぽど不信感を持って受け止められていたりする。
本人自身が邪道を棄てて正道に立ち戻ろうとする意欲があったならば、
それも可能となることのはずである。しかし、そのような意欲がないのならば、
邪道を邁進するとまで行かずとも、多少是認する程度の心持ちでいるだけの
ことすらもが、治療不能な難病並みに正されることも困難になってしまうである。
現代における致命的な問題も、邪道を邁進すらしてしまっている
ような連中がいること以上にも、邪道を多少是認する程度の心持ちを
あえて正して行こうとするような気概までは抱けないままでいる
人間が多数に上ってしまっていることでこそあるといえる。
聖書信仰の本場である欧米においてですら、聖書を狂信するほどもの蒙昧さの
ままでいるような人間はすでに少数となっている。教会など結婚式でもなければ
行かないような、日本人並みの信仰意識の希薄さでいる人間なども多く現れて
いる中で、やはり聖書信仰を完全に破棄してしまおうとまで考えられるような
人間まではいないままでいる。アンチキリスト主義の人間ですらもが、聖書
文化本位のままででしかものを考えられないままでいるのは同じであるために、
それを完全に破棄した先にあるものなどを、想像することもできないままでいる。
(実際に、想像もできないままに破棄してしまったのが共産主義でもある)
江戸時代生まれの人間などもとっくの昔にいなくなった今、日本人もまた、
生まれた頃から国内でキリスト教が許容されているものだから、あえてそれを
破棄したりすることのほうが不自然に思えてしまう。クリスマスにことかけての
商業キャンペーンの躍起さに嫌気が差して、クリスマスの終了を望んでいるような
人間も多少はいるが、それも所詮はジョーク止まりのままでいる。昔から日本で
親しまれている仏教や神道の体裁を取りながらも、パッと出の新興宗教である
ような信教のほうが、よっぽど不信感を持って受け止められていたりする。
せむし程にも背中が曲がっていたりすれば、それを矯正をしようとも心がけられるが、
多少姿勢が悪かったり骨格が歪んでいたりするだけなら、そもそも矯正する気すら
起こらないままでいたりする。カルトの狂信者による異教弾圧などまではすでに
認められない風潮へと全世界が移行している今、あえて宗教問題に根本的なメスを
入れようなどと考える人間までは現れない事態ともなっている。それこそ、気に
ならない程度の姿勢や骨格の歪みだけが残存している状態といえるわけで、ただ、
その歪みが気にならないながらにも致命的なものであるというのが問題である。
ヨガや座禅や合気道などの東洋体術は、姿勢や骨格の矯正ばかりを目的としたもの
ではないけれども、そのような効果も同時に持ち合わせている。また、一度正された
姿勢や骨格を長年にわたって保全して行けるものでもあるから、老齢に至るまで健康
なままでいられたりする。それと似たような効果を、社会運営に対して持ち得るのが、
権力道徳学としての儒学や、正統仏教の実践込みの流布だといえる。それが実現に
移されることで、自然と社会の歪みの元凶となっている聖書信仰や洋学主義が
立ち消えになり、世界も破滅の危機程度は脱していけるようになる。聖書信仰が
許容されていたりするのを別に不自然に思わなくとも、儒学や正統仏教を本格的
に取り入れて行く以上は、自然と聖書信仰や洋学主義を立ち消えにしていかざる
を得なくなり、そうなった後の世の中がそれはそれはすがすがしい健全さをも
帯びていることを知らされるものだから、そこで人々も初めて、以前の社会に
致命的な問題が潜在したままであったことを計り知ることが出来るのである。
多少姿勢が悪かったり骨格が歪んでいたりするだけなら、そもそも矯正する気すら
起こらないままでいたりする。カルトの狂信者による異教弾圧などまではすでに
認められない風潮へと全世界が移行している今、あえて宗教問題に根本的なメスを
入れようなどと考える人間までは現れない事態ともなっている。それこそ、気に
ならない程度の姿勢や骨格の歪みだけが残存している状態といえるわけで、ただ、
その歪みが気にならないながらにも致命的なものであるというのが問題である。
ヨガや座禅や合気道などの東洋体術は、姿勢や骨格の矯正ばかりを目的としたもの
ではないけれども、そのような効果も同時に持ち合わせている。また、一度正された
姿勢や骨格を長年にわたって保全して行けるものでもあるから、老齢に至るまで健康
なままでいられたりする。それと似たような効果を、社会運営に対して持ち得るのが、
権力道徳学としての儒学や、正統仏教の実践込みの流布だといえる。それが実現に
移されることで、自然と社会の歪みの元凶となっている聖書信仰や洋学主義が
立ち消えになり、世界も破滅の危機程度は脱していけるようになる。聖書信仰が
許容されていたりするのを別に不自然に思わなくとも、儒学や正統仏教を本格的
に取り入れて行く以上は、自然と聖書信仰や洋学主義を立ち消えにしていかざる
を得なくなり、そうなった後の世の中がそれはそれはすがすがしい健全さをも
帯びていることを知らされるものだから、そこで人々も初めて、以前の社会に
致命的な問題が潜在したままであったことを計り知ることが出来るのである。
問題は、儒学や正統仏教を受容して行き始める、その瞬間にあるといえる。
聖書信仰や洋学ばかりが大々的に許容されている今の世相のままでそれらを
受容し始めたりしたならば、大火と大水がぶつかり合っての水蒸気爆発のような
文化衝突が発生しかねない。それを防ぐためには、今の世界にのさばっている
側である聖書教団や洋学界が最大限に折れて、儒学や正統仏教を受け入れても
大問題が生じたりしないで済む程度の体裁を整える必要がある。聖書信仰や洋学を
当たり前のように許容している現代人にとっては、それが突拍子もなく不可解な
事態となるに違いないわけだが、それでもあえて自分たちの「雌化」を宣言し、
文化の「雄」たる儒学や正統仏教との雌雄を決しておく必要があるのである。
「沈潜なれば剛克」
「沈み潜むものは、剛毅さによって超克する。
(洪範九疇・第六・三徳。邪教信仰に溺れ沈んでしまっている聖書信者に対して
剛毅な超克を施しているここでの自分の態度なども、洪範九疇の教えに適っている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洪範より)
聖書信仰や洋学ばかりが大々的に許容されている今の世相のままでそれらを
受容し始めたりしたならば、大火と大水がぶつかり合っての水蒸気爆発のような
文化衝突が発生しかねない。それを防ぐためには、今の世界にのさばっている
側である聖書教団や洋学界が最大限に折れて、儒学や正統仏教を受け入れても
大問題が生じたりしないで済む程度の体裁を整える必要がある。聖書信仰や洋学を
当たり前のように許容している現代人にとっては、それが突拍子もなく不可解な
事態となるに違いないわけだが、それでもあえて自分たちの「雌化」を宣言し、
文化の「雄」たる儒学や正統仏教との雌雄を決しておく必要があるのである。
「沈潜なれば剛克」
「沈み潜むものは、剛毅さによって超克する。
(洪範九疇・第六・三徳。邪教信仰に溺れ沈んでしまっている聖書信者に対して
剛毅な超克を施しているここでの自分の態度なども、洪範九疇の教えに適っている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洪範より)
「酒は百薬の長」とは、半ば酒飲みの言い訳でもあるような物言いだけれども、
まあ、人間社会を穏便に営んで行く上での潤滑剤程度の役割は持ち得るものである。
そのあたり、「金カネ」などとも共通する点であり、金がこの世にあって然るべき
程度には、酒もまたこの世での市民権を得るに値するものだといえる。
飲酒を禁ずるような本格の仏門は、同時に出家者の商業活動をも禁ずる。
廃仏毀釈以降の日本では、僧侶が商業活動抜きで生計を立てて行くことなども
できなくなったものだから、聖道門の死守も不可能なこととなってしまった。
それでいて、僧侶の飲酒だけは眉をひそめるような人間がいたりもするが、
そもそも今の社会が、仏門から本格出家の選択肢を奪い去っていることを忘れて
しまっているからこその発想であるわけだから、そこは反省すべき所だといえる。
それで、本格の出家修行の選択肢を奪われた今の坊主こそが、本業中の本業と
しているのが葬式での読経や戒名の作成である。これも決して、仏門として
最たる正業とすべきものなどではない。釈迦も「葬式などはバラモンに任せて、
自分たち出家者は携わるべきでない」ということを言っているわけだが、日本
ではバラモンと同じ祭祀階級である神官が死の穢れを忌んであまり葬儀に携わろう
としなかったものだから、仏門の僧侶が葬儀すらをも代行することが伝統的に多い
状態であり続けて来たという特殊事情があるだけで、葬式などは本来、存命中の
精進にこそ励むべき仏門にとっては、易行の内にしか入らないものだったのである。
(葬式仏教を伝統的に主導して来たのも、易行道の浄土門である)
酒飲む坊主こそは、葬式業務で金も稼ぐ。「酔生夢死(近思録)」などという
言葉もあるとおり、酒と金に溺れる安易さこそは、ある意味、死にも漸近する
ものだといえる。生きてる内にこそ最善を尽くす心がけこそは、本人を酒や
金権の誘惑からも遠ざけるものなのだから、それこそを志すべきだといえる。
まあ、人間社会を穏便に営んで行く上での潤滑剤程度の役割は持ち得るものである。
そのあたり、「金カネ」などとも共通する点であり、金がこの世にあって然るべき
程度には、酒もまたこの世での市民権を得るに値するものだといえる。
飲酒を禁ずるような本格の仏門は、同時に出家者の商業活動をも禁ずる。
廃仏毀釈以降の日本では、僧侶が商業活動抜きで生計を立てて行くことなども
できなくなったものだから、聖道門の死守も不可能なこととなってしまった。
それでいて、僧侶の飲酒だけは眉をひそめるような人間がいたりもするが、
そもそも今の社会が、仏門から本格出家の選択肢を奪い去っていることを忘れて
しまっているからこその発想であるわけだから、そこは反省すべき所だといえる。
それで、本格の出家修行の選択肢を奪われた今の坊主こそが、本業中の本業と
しているのが葬式での読経や戒名の作成である。これも決して、仏門として
最たる正業とすべきものなどではない。釈迦も「葬式などはバラモンに任せて、
自分たち出家者は携わるべきでない」ということを言っているわけだが、日本
ではバラモンと同じ祭祀階級である神官が死の穢れを忌んであまり葬儀に携わろう
としなかったものだから、仏門の僧侶が葬儀すらをも代行することが伝統的に多い
状態であり続けて来たという特殊事情があるだけで、葬式などは本来、存命中の
精進にこそ励むべき仏門にとっては、易行の内にしか入らないものだったのである。
(葬式仏教を伝統的に主導して来たのも、易行道の浄土門である)
酒飲む坊主こそは、葬式業務で金も稼ぐ。「酔生夢死(近思録)」などという
言葉もあるとおり、酒と金に溺れる安易さこそは、ある意味、死にも漸近する
ものだといえる。生きてる内にこそ最善を尽くす心がけこそは、本人を酒や
金権の誘惑からも遠ざけるものなのだから、それこそを志すべきだといえる。
孟子も、他人の葬式に赴いては、そこで供物の料理を貪り食ってくる
愚夫の逸話を引き合いに出していたりする通り。死は、本人やその親族に
とっては悲痛の至りであるわけだけれども、他人からすれば単なる催し物
扱いですらいられるものである。そうであるにことかけて、人様の死を
商売材料にしようなどとまでするような輩がいれば、これはもうハゲタカも
同然の所業であるといえるわけだけれども、実際のところ、他人の死という
のはその程度の扱いに処することができるというのも事実なわけである。
人の死を重んずるというのなら、せいぜい自らの親族の葬儀を、至心と共に
厳粛に執り行っていくべきだといえる。そしてそれ以上にも、生きてる内からの
忠孝その他の徳行に励んで行くことこそが、酒や金やその他の遊興材料からの
誘惑を遠ざけたり、断ち切ったりする決定打ともなるに違いないのである。
自らが人としての最善を尽くすわけでもなく、ただ他人の死あたりを見て自らの
惰生の慰めにしたりすることほど、落ちぶれた人間の有様も他にないであろう。
たとえ大富豪としてそうであったとした所で、そんな有様でまではないでいる
貧乏人ほどにも、精神の健全さがだれずに済まないでいることがないだろう。
「子、喪有る者の側に食すれば、未だ嘗て飽かざるなり。
子、是の日に於いて哭すれば、則ち歌わず」
「先生は、服喪中の人間の側では、満腹になるほどの飲食を避けられた。
人の葬儀で哭泣の儀を行った日には、歌を唄ったりすることを控えられた。
(凶事に際しての羽目をはずした振る舞いを控える。それは、『凶事こそは
すばらしい』などとする不埒な神経とは似て非なるものだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・九)
愚夫の逸話を引き合いに出していたりする通り。死は、本人やその親族に
とっては悲痛の至りであるわけだけれども、他人からすれば単なる催し物
扱いですらいられるものである。そうであるにことかけて、人様の死を
商売材料にしようなどとまでするような輩がいれば、これはもうハゲタカも
同然の所業であるといえるわけだけれども、実際のところ、他人の死という
のはその程度の扱いに処することができるというのも事実なわけである。
人の死を重んずるというのなら、せいぜい自らの親族の葬儀を、至心と共に
厳粛に執り行っていくべきだといえる。そしてそれ以上にも、生きてる内からの
忠孝その他の徳行に励んで行くことこそが、酒や金やその他の遊興材料からの
誘惑を遠ざけたり、断ち切ったりする決定打ともなるに違いないのである。
自らが人としての最善を尽くすわけでもなく、ただ他人の死あたりを見て自らの
惰生の慰めにしたりすることほど、落ちぶれた人間の有様も他にないであろう。
たとえ大富豪としてそうであったとした所で、そんな有様でまではないでいる
貧乏人ほどにも、精神の健全さがだれずに済まないでいることがないだろう。
「子、喪有る者の側に食すれば、未だ嘗て飽かざるなり。
子、是の日に於いて哭すれば、則ち歌わず」
「先生は、服喪中の人間の側では、満腹になるほどの飲食を避けられた。
人の葬儀で哭泣の儀を行った日には、歌を唄ったりすることを控えられた。
(凶事に際しての羽目をはずした振る舞いを控える。それは、『凶事こそは
すばらしい』などとする不埒な神経とは似て非なるものだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・九)
己れに責めて自らを修めることこそは、仁政徳行の九割以上だといえる。
結果として行われる事業などは残りの一割未満に過ぎないわけで、ちょうど
それは、長年の工事によって完成した水路に水を引くようなものだといえる。
水を引き始めればこそ、用水路として農業用水や生活用水の確保にも貢献し
始めることになるわけだけれども、努力が必要となるのは、用水路が完成
するまでの期間でこそあるように、君子が社会的な事業に取り組み始めること
もまた、それ以前の縁の下での努力が結実する瞬間にこそなるのだといえる。
単純な期間だけでいえは、君子にとっても修身の期間より、社会事業への
取り組みの期間のほうが長期に渡ったりするわけだけれども、人生で最も
成長の伸びしろのある二十代ごろまでに勉学精進を積んで、そこから何十年
にも渡る事業参画に臨んで行くわけなので、社会に出てからの行いなどは、
青年期に積み重ねた素養の専らな消費に終始するものになるのだといえる。
人生、四十も過ぎれば毎日が坂道を転げ落ちるようにあっという間に過ぎて
行くと嘆く人も数多い。それもやはり、壮年期以降はもはや、若い頃に
培った素養を機械的に消費するこばかりに日々を費やすようになるからである。
もちろん年取ってからの勉学などに励むことも一興ではあるが、それももう、
若い頃の勉学ほどの効果を期待できたりするものではない。朱子も晩年には
老眼で字がよく見えなくなったことを嘆いていたりしたように、すでに本格的な
勉学に励めるほどの身体や頭脳の壮健さも残っていなかったりする。それでも
年取ってからの勉学や精進に価値があるとすれば、それは、若い頃に培った
素養の維持や多少なりともの伸長、そして後代の若手への親身な教育の
ための一環としたりすることに、意義があり得るからだといえる。
人間、二十代ごろまでは専らな自修に務めておくべきだし、それ以降にも、
能力維持や後輩育成のための副次的な自修ぐらいは嗜んでおくべきだといえる。
さすれば、人間が全く自修を必要としなくて済む瞬間、むしろ自修などしない
でおいたほうがいい瞬間などは一瞬たりともないということがいえるわけで、
そのような素行を促す異見などにも、微塵の価値もないことが確かだといえる。
結果として行われる事業などは残りの一割未満に過ぎないわけで、ちょうど
それは、長年の工事によって完成した水路に水を引くようなものだといえる。
水を引き始めればこそ、用水路として農業用水や生活用水の確保にも貢献し
始めることになるわけだけれども、努力が必要となるのは、用水路が完成
するまでの期間でこそあるように、君子が社会的な事業に取り組み始めること
もまた、それ以前の縁の下での努力が結実する瞬間にこそなるのだといえる。
単純な期間だけでいえは、君子にとっても修身の期間より、社会事業への
取り組みの期間のほうが長期に渡ったりするわけだけれども、人生で最も
成長の伸びしろのある二十代ごろまでに勉学精進を積んで、そこから何十年
にも渡る事業参画に臨んで行くわけなので、社会に出てからの行いなどは、
青年期に積み重ねた素養の専らな消費に終始するものになるのだといえる。
人生、四十も過ぎれば毎日が坂道を転げ落ちるようにあっという間に過ぎて
行くと嘆く人も数多い。それもやはり、壮年期以降はもはや、若い頃に
培った素養を機械的に消費するこばかりに日々を費やすようになるからである。
もちろん年取ってからの勉学などに励むことも一興ではあるが、それももう、
若い頃の勉学ほどの効果を期待できたりするものではない。朱子も晩年には
老眼で字がよく見えなくなったことを嘆いていたりしたように、すでに本格的な
勉学に励めるほどの身体や頭脳の壮健さも残っていなかったりする。それでも
年取ってからの勉学や精進に価値があるとすれば、それは、若い頃に培った
素養の維持や多少なりともの伸長、そして後代の若手への親身な教育の
ための一環としたりすることに、意義があり得るからだといえる。
人間、二十代ごろまでは専らな自修に務めておくべきだし、それ以降にも、
能力維持や後輩育成のための副次的な自修ぐらいは嗜んでおくべきだといえる。
さすれば、人間が全く自修を必要としなくて済む瞬間、むしろ自修などしない
でおいたほうがいい瞬間などは一瞬たりともないということがいえるわけで、
そのような素行を促す異見などにも、微塵の価値もないことが確かだといえる。
自修など全く必要なし、ただ主人の言われるがままでいればいいとされて
いたのが、かつての奴隷身分である。洋の東西を問わず、奴隷は奴隷で存在
していたわけだけれども、奴隷のような生き方こそが人としての生き方として
是とされていた地域とまでなれば、それは聖書圏ぐらいのものだといえる。
別に聖書信者が必ずしも自主性が欠如しているわけでもなく、異教徒などを
相手には逆に自分たちこそが主人であるかのような振る舞いにすら及ぶわけ
だけれども、ことに、神への帰依にかけては全くの自主性を欠いた奴隷も同然の
精神状態でなければならないとする。そこで自修皆無の奴隷根性を培えばこそ、
粗暴な振る舞いと虚構の真摯さをも両立させて来られわけで、奴隷根性が善用
こそされずとも悪用される可能性がある根拠も、斯くの如くであるといえる。
項羽軍の残党の季布が、剃髪の奴隷身分にまで身をやつして逃れていたことに
感銘を受けて、本人を臣下に取り立てた劉邦や、奴隷の惨めさを哀れんでついには
奴隷制を撤廃した北条泰時などは、本当に奴隷という存在を惨めで卑しいもの
だと実感していたからこそ、そのような敢行にも及んだのに違いない。逆に、
リンカーンあたりは、有色人種である日本人との金貿易のおかけで南北戦争
で優位に立てたからこそ、黒人奴隷の解放宣言を行ってしまった可能性などが
あるわけで、人種差別意識の持ち主でもあったらしい発言も残している手前、
本当に黒人奴隷を哀れむ気持ちがあったのかどうかまでは疑問だといえる。
世界的に奴隷制が撤廃されている昨今においてですら、聖書信仰が未だに
大々的に許容されているからには、奴隷のような自主性皆無、自修皆無の
心持ちを非とすることまではまだ行き届いていないことが明らかだといえる。
上に書いたとおり、人間がむしろ自修を捨て去るべき瞬間などは一瞬たりとも
あり得ないわけだから、奴隷制が現存しているか否かなどにも関わりなく、奴隷
のような性向が由とされるような風潮全般を払拭して行くようにすべきだといえる。
いたのが、かつての奴隷身分である。洋の東西を問わず、奴隷は奴隷で存在
していたわけだけれども、奴隷のような生き方こそが人としての生き方として
是とされていた地域とまでなれば、それは聖書圏ぐらいのものだといえる。
別に聖書信者が必ずしも自主性が欠如しているわけでもなく、異教徒などを
相手には逆に自分たちこそが主人であるかのような振る舞いにすら及ぶわけ
だけれども、ことに、神への帰依にかけては全くの自主性を欠いた奴隷も同然の
精神状態でなければならないとする。そこで自修皆無の奴隷根性を培えばこそ、
粗暴な振る舞いと虚構の真摯さをも両立させて来られわけで、奴隷根性が善用
こそされずとも悪用される可能性がある根拠も、斯くの如くであるといえる。
項羽軍の残党の季布が、剃髪の奴隷身分にまで身をやつして逃れていたことに
感銘を受けて、本人を臣下に取り立てた劉邦や、奴隷の惨めさを哀れんでついには
奴隷制を撤廃した北条泰時などは、本当に奴隷という存在を惨めで卑しいもの
だと実感していたからこそ、そのような敢行にも及んだのに違いない。逆に、
リンカーンあたりは、有色人種である日本人との金貿易のおかけで南北戦争
で優位に立てたからこそ、黒人奴隷の解放宣言を行ってしまった可能性などが
あるわけで、人種差別意識の持ち主でもあったらしい発言も残している手前、
本当に黒人奴隷を哀れむ気持ちがあったのかどうかまでは疑問だといえる。
世界的に奴隷制が撤廃されている昨今においてですら、聖書信仰が未だに
大々的に許容されているからには、奴隷のような自主性皆無、自修皆無の
心持ちを非とすることまではまだ行き届いていないことが明らかだといえる。
上に書いたとおり、人間がむしろ自修を捨て去るべき瞬間などは一瞬たりとも
あり得ないわけだから、奴隷制が現存しているか否かなどにも関わりなく、奴隷
のような性向が由とされるような風潮全般を払拭して行くようにすべきだといえる。
「人を責むるは斯れ難く無く、惟れ責めを受けて流れの如くならしむるは、
是れ惟れ艱きかな。我が心の憂え、日月逾え邁ぎて、雲に来たらざるが如し」
「人を責めるのは簡単なことだが、己れを責めて水が流れ落ちるように自らを
改めるのは、なんと難しいことだろう。私の心は、日月が過ぎ去ってもうここ
に戻って来ないかのような憂いに苛まれている。(春秋戦国時代の覇者となった
秦人の言葉。前半の格言は見事なものだが、後半では自分がひどく憂いに苛まれて
いることを吐露している。それは、自分が他人ばかりを責めて自己を責めることを
疎かなままにしてしまっているからである。これは完全な自業自得の憂いであるため、
自責によって自ら憂いを克服するのでなければ、神にすらどうすることもできない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・秦誓より)
是れ惟れ艱きかな。我が心の憂え、日月逾え邁ぎて、雲に来たらざるが如し」
「人を責めるのは簡単なことだが、己れを責めて水が流れ落ちるように自らを
改めるのは、なんと難しいことだろう。私の心は、日月が過ぎ去ってもうここ
に戻って来ないかのような憂いに苛まれている。(春秋戦国時代の覇者となった
秦人の言葉。前半の格言は見事なものだが、後半では自分がひどく憂いに苛まれて
いることを吐露している。それは、自分が他人ばかりを責めて自己を責めることを
疎かなままにしてしまっているからである。これは完全な自業自得の憂いであるため、
自責によって自ら憂いを克服するのでなければ、神にすらどうすることもできない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・秦誓より)
俗に言う「頭に血が上る」という状態、思考過多のせいで
心臓から送り出される血液が頭部にばかり集中するような状態となれば、
同時に鼻呼吸が億劫となって口を開けて呼吸するようになったり、
手先や足先にまでの血の巡りが悪くなって冷え性になってしまったりする。
夏場には熱中症の原因ともなり、最悪の場合それが原因で死にすら至る。
パソコンや携帯電話の多用が激化している昨今、上記のような症状の内の
一部や、全ての症状に悩まさていれるような人間も相当数に上り始めている。
頭を使うことが必ずしも悪いことではないけれども、頭に血が上るような状態
でものを考えたり言ったりすることは、頭脳活動としても粗悪な部類に入る。
頭に血が上らない状態での思考、しっかりとした鼻呼吸やいい姿勢と共なる
頭脳活動こそは、よく見通しの効いた知見の醸成にも貢献し得るものである。
なぜかといって、そのような状況での思考こそは、熱中症的な苦しみとも共に
ないものだから、苦し紛れの投げ槍さを十全に抑制したものともなるからである。
すでに頭に血が上る症状が深刻化しているようならば、行水での心臓活動の
制御だとか、腹式呼吸での全身への血行の促進などの措置を講じねばならない。
いずれも慣れていない人間には非常な億劫となるわけだけれども、その障壁を
乗り越えた先にこそ熱中症などにも悩まされない涼やかな思考が獲得され、脳だけで
なく全身の健康までもが促進されるわけだから、そうするに越したことはないといえる。
鼻呼吸や正しい姿勢、行水での心臓制御や腹式呼吸といった諸々の対策を講じながら
思考や言行を執り行ったならば、自らが粗悪な外物に惑わされたりすることがなくなる
のみならず、何ものにも惑わされないで居る所にこそ充実感までもが得られるようになる。
心臓から送り出される血液が頭部にばかり集中するような状態となれば、
同時に鼻呼吸が億劫となって口を開けて呼吸するようになったり、
手先や足先にまでの血の巡りが悪くなって冷え性になってしまったりする。
夏場には熱中症の原因ともなり、最悪の場合それが原因で死にすら至る。
パソコンや携帯電話の多用が激化している昨今、上記のような症状の内の
一部や、全ての症状に悩まさていれるような人間も相当数に上り始めている。
頭を使うことが必ずしも悪いことではないけれども、頭に血が上るような状態
でものを考えたり言ったりすることは、頭脳活動としても粗悪な部類に入る。
頭に血が上らない状態での思考、しっかりとした鼻呼吸やいい姿勢と共なる
頭脳活動こそは、よく見通しの効いた知見の醸成にも貢献し得るものである。
なぜかといって、そのような状況での思考こそは、熱中症的な苦しみとも共に
ないものだから、苦し紛れの投げ槍さを十全に抑制したものともなるからである。
すでに頭に血が上る症状が深刻化しているようならば、行水での心臓活動の
制御だとか、腹式呼吸での全身への血行の促進などの措置を講じねばならない。
いずれも慣れていない人間には非常な億劫となるわけだけれども、その障壁を
乗り越えた先にこそ熱中症などにも悩まされない涼やかな思考が獲得され、脳だけで
なく全身の健康までもが促進されるわけだから、そうするに越したことはないといえる。
鼻呼吸や正しい姿勢、行水での心臓制御や腹式呼吸といった諸々の対策を講じながら
思考や言行を執り行ったならば、自らが粗悪な外物に惑わされたりすることがなくなる
のみならず、何ものにも惑わされないで居る所にこそ充実感までもが得られるようになる。
頭に血が上って口が開いてしまっているような状態では、むしろ何ものかに囚われること
のほうに心の安定を見出してしまうことになる。平常状態が熱中症的な苦痛に見舞われた
ままの状態でいるわけだから、何らかの拠り所を得てそこで思考を禁止ないし束縛
されることが、どこまでも湯立とうとする本人の脳活動を安定させるわけである。
そんなことにならないで済むのも上に書いたとおりであり、すでに湯だってしまって
いる脳の苦痛を惑乱によって紛らわしたりすることこそは、人としての過ちの最たる
ものですらあるといえる。そこからあらゆる確信犯の罪過が派生して行きもする
わけだから、すでに犯された罪を罰すること以上にも、そのような根本の部分から
の愚昧の矯正や予防こそを最大級の仁政上の課題ともして行かねばならない。
近ごろでは、邪教の神への帰依などだけでなく、結婚後に夫が妻に征服されたりすること
までもが同様な悪影響を及ぼしている場合が多々ある。男が世の中で臨む仕事も、頭に
血を上らせるようなデスクワークならば、女のほうもフェミニズムで思い上がりを増長
させていたりするものだから、日々の仕事で頭がフラフラになった夫が、家庭でも妻に
精神的に征服されることで心の安定を得ていたりする、非常に不健全な状態が頻発している。
しかも、それで夫婦円満みたいな扱いすら受けていたりする。夫が何ものにも囚われない
涼やかな頭脳でいられて、妻こそがそれを頼りにするというのが、元来、円満な夫婦の
あり方であるわけだけれども、それとは逆の状態で夫婦関係が固着してしまうような
場合もままある。そのような事態の打開のためにはやはり、天下に冠たる主君あたりが、
率先して模範的な夫婦のあり方などを体現して行く必要があるわけである。
のほうに心の安定を見出してしまうことになる。平常状態が熱中症的な苦痛に見舞われた
ままの状態でいるわけだから、何らかの拠り所を得てそこで思考を禁止ないし束縛
されることが、どこまでも湯立とうとする本人の脳活動を安定させるわけである。
そんなことにならないで済むのも上に書いたとおりであり、すでに湯だってしまって
いる脳の苦痛を惑乱によって紛らわしたりすることこそは、人としての過ちの最たる
ものですらあるといえる。そこからあらゆる確信犯の罪過が派生して行きもする
わけだから、すでに犯された罪を罰すること以上にも、そのような根本の部分から
の愚昧の矯正や予防こそを最大級の仁政上の課題ともして行かねばならない。
近ごろでは、邪教の神への帰依などだけでなく、結婚後に夫が妻に征服されたりすること
までもが同様な悪影響を及ぼしている場合が多々ある。男が世の中で臨む仕事も、頭に
血を上らせるようなデスクワークならば、女のほうもフェミニズムで思い上がりを増長
させていたりするものだから、日々の仕事で頭がフラフラになった夫が、家庭でも妻に
精神的に征服されることで心の安定を得ていたりする、非常に不健全な状態が頻発している。
しかも、それで夫婦円満みたいな扱いすら受けていたりする。夫が何ものにも囚われない
涼やかな頭脳でいられて、妻こそがそれを頼りにするというのが、元来、円満な夫婦の
あり方であるわけだけれども、それとは逆の状態で夫婦関係が固着してしまうような
場合もままある。そのような事態の打開のためにはやはり、天下に冠たる主君あたりが、
率先して模範的な夫婦のあり方などを体現して行く必要があるわけである。
「父没して父の書を読むこと能わざるは、手沢存じて爾ればなり。
母没して杯圈を飲むこと能わざるは、口沢の気存じて爾ればなり」
「父が没したときにその遺書を読むことができない気持ちになるのは、手に取るとまだ
生きているかのような思いがこみ上げて来るからである。母が没したときに遺品の器で
ものを飲み食いする気になれなくなるのは、口に運ぶとまだ生きているかのような
思いがこみ上げて来るからである。(実の父母を敬愛する孝子ならではの悲哀)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・玉藻第十三より)
母没して杯圈を飲むこと能わざるは、口沢の気存じて爾ればなり」
「父が没したときにその遺書を読むことができない気持ちになるのは、手に取るとまだ
生きているかのような思いがこみ上げて来るからである。母が没したときに遺品の器で
ものを飲み食いする気になれなくなるのは、口に運ぶとまだ生きているかのような
思いがこみ上げて来るからである。(実の父母を敬愛する孝子ならではの悲哀)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・玉藻第十三より)
個々人の寿命は限られているが、家系や国の寿命は半永久的である。もちろん
断絶や崩壊の危険性すらをも帯びてはいるわけだけれども、原理的には恒久的
でもあり得るという点だけは、個々人の命とは一線を画している所だといえる。
恒久的であり得て、なおかつ一時的には個々人がその構成者たるものでもある。
偽善ではなく、自分自身のためにこそ家や国のために尽くす価値があるし、
なおかつそれが半永久的な事物の保全のための貢献ともなるわけだから、
そこにこそ、人間としての無上の生きがいが備わるのだともいえる。
実際、人間はそこでこそ、俗人としての最大級の満足を手に入れることが
できるようになっている。どれぐらい満足であるかといえば、自分個人が
限りある命の持ち主であることすらをも達観できるほどに、満足となれる。
仏門などで出家して諸行無常の真理を諦観するのも一つの手ではあるけれども、
別にそのような手段に頼らずとも、ただ家や国のために最善を尽くすだけでも、
「限りある命であるといえども生まれて来てよかった」と思えるほどの満足を
手に入れられるようになる。(それを大々的に容認されるのが本家や嫡子や
長男などに限られるからこそ、分家や庶子や末子の人間が口減らしのために
出家して、そこで超俗の悟りを得たりすることにもまた価値があるわけである)
世のため人のためにわが身を呈するということは美談としての聞こえはいいが、
捨て身ですらあらねばならなかったりするのはむしろ異端なことだといえる。
天下国家のためにこそ我が家を守り、我が家の礎としての自らの養生にも努める
というのが基本であり、自分が捨て身とならねばならなかったりするのはごく
一部の危機的な状況に限られている。そしてそのような状況もまた来たさないに
越したことはないわけだから、天下国家のためといえども、好き好んで捨て身と
断絶や崩壊の危険性すらをも帯びてはいるわけだけれども、原理的には恒久的
でもあり得るという点だけは、個々人の命とは一線を画している所だといえる。
恒久的であり得て、なおかつ一時的には個々人がその構成者たるものでもある。
偽善ではなく、自分自身のためにこそ家や国のために尽くす価値があるし、
なおかつそれが半永久的な事物の保全のための貢献ともなるわけだから、
そこにこそ、人間としての無上の生きがいが備わるのだともいえる。
実際、人間はそこでこそ、俗人としての最大級の満足を手に入れることが
できるようになっている。どれぐらい満足であるかといえば、自分個人が
限りある命の持ち主であることすらをも達観できるほどに、満足となれる。
仏門などで出家して諸行無常の真理を諦観するのも一つの手ではあるけれども、
別にそのような手段に頼らずとも、ただ家や国のために最善を尽くすだけでも、
「限りある命であるといえども生まれて来てよかった」と思えるほどの満足を
手に入れられるようになる。(それを大々的に容認されるのが本家や嫡子や
長男などに限られるからこそ、分家や庶子や末子の人間が口減らしのために
出家して、そこで超俗の悟りを得たりすることにもまた価値があるわけである)
世のため人のためにわが身を呈するということは美談としての聞こえはいいが、
捨て身ですらあらねばならなかったりするのはむしろ異端なことだといえる。
天下国家のためにこそ我が家を守り、我が家の礎としての自らの養生にも努める
というのが基本であり、自分が捨て身とならねばならなかったりするのはごく
一部の危機的な状況に限られている。そしてそのような状況もまた来たさないに
越したことはないわけだから、天下国家のためといえども、好き好んで捨て身と
なることなどに意義が備わるようなことはないといえる。(最初期に特攻隊と
して戦没した関行男海軍中佐なども、「こんな無謀な戦法にまで頼り始めたんじゃ
日本もおしまいだが、命令だから仕方がない」という意味の遺書を残している)
国や家を保つことも、その手段が不正であれば潰えかねないし、なおかつその
ような真似に及んだ自分までもが>>297のような憂患に苛まれることともなる。
政商呂不韋の私生児として不正に秦国の王となって中原を制覇し、法家支配と
いう異端の手管による帝国支配を試みた秦始皇帝もまた、不老不死への渇望
ばかりに苛まれる晩年を送った。贅沢な飲食が祟っての中年での死去後にも、
秦帝国は安泰なままでは済まず、佞臣や宦官の専横やそれによる社会荒廃、
ついには全国での武装蜂起による反乱すらをも招いての崩壊に見舞われた。
そういうことがあり得るから、国や家のために尽くすことを厭ったりする
人間もいるわけで、それはそれで慎重を尽くす必要のあることだといえる。
ただただ犬のように主君や親にへつらったりすることがその条件を満たしたり
するわけもないから、自主性と仁慈の心を兼ね併せた君子としての素養を
自分自身が磨き上げて行くことを本分ともしていかねばならないのである。
「君子は以って身を修めざる可からず。身を修めんと思わば、
以って親に事えざる可からず。親に事えんと思わば、以って人を
知らざる可からず。人を知らんと思わば、以って天を知らざる可からず」
「君子はわが身を修めなければならない。身を修めようとすれば、親に
仕えねばならない。親に仕えようとすれば、人というものを知らなければ
ならない。人というものを知るためには、天すらをも知らなければならない。
(身を修めるための適切な手順を踏んで行けば、それが天にも通ずることとなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二〇より)
して戦没した関行男海軍中佐なども、「こんな無謀な戦法にまで頼り始めたんじゃ
日本もおしまいだが、命令だから仕方がない」という意味の遺書を残している)
国や家を保つことも、その手段が不正であれば潰えかねないし、なおかつその
ような真似に及んだ自分までもが>>297のような憂患に苛まれることともなる。
政商呂不韋の私生児として不正に秦国の王となって中原を制覇し、法家支配と
いう異端の手管による帝国支配を試みた秦始皇帝もまた、不老不死への渇望
ばかりに苛まれる晩年を送った。贅沢な飲食が祟っての中年での死去後にも、
秦帝国は安泰なままでは済まず、佞臣や宦官の専横やそれによる社会荒廃、
ついには全国での武装蜂起による反乱すらをも招いての崩壊に見舞われた。
そういうことがあり得るから、国や家のために尽くすことを厭ったりする
人間もいるわけで、それはそれで慎重を尽くす必要のあることだといえる。
ただただ犬のように主君や親にへつらったりすることがその条件を満たしたり
するわけもないから、自主性と仁慈の心を兼ね併せた君子としての素養を
自分自身が磨き上げて行くことを本分ともしていかねばならないのである。
「君子は以って身を修めざる可からず。身を修めんと思わば、
以って親に事えざる可からず。親に事えんと思わば、以って人を
知らざる可からず。人を知らんと思わば、以って天を知らざる可からず」
「君子はわが身を修めなければならない。身を修めようとすれば、親に
仕えねばならない。親に仕えようとすれば、人というものを知らなければ
ならない。人というものを知るためには、天すらをも知らなければならない。
(身を修めるための適切な手順を踏んで行けば、それが天にも通ずることとなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二〇より)
犬か猫かでいえば、犬のほうが病気や怪我に苛まれやすい。それは、
性格的にも体質的にも犬のほうが外物に感化されやすい生き物であり、
警戒心や猜疑心も猫ほど強くはなく、危険を顧みず他者に飛び付くような
猪突猛進さをも帯びているからである。それはちょうど、他力本願系の
信教に帰依する人間のあり方にも近似している有り様であり、戒律による
後付けでの自殺や自傷の禁止のような対策を講ずるのでもない限りは、
そのような性向を帯びてしまっているような人間こそが常人以上にも、
妄りに己れを傷つけて破滅に追いやられることが免れられないわけである。
犬もそれなりに愛らしい生き物であり、なおかつ人間でいえば奴隷か狂信者
のような性格を帯びている生き物であるものだから、その犬をして、奴隷制や
カルト宗教を正当化する材料にすらして来た点がなきにしもあらずである。
欧米キリスト教徒も犬が大好きであり、犬への虐待を人間への虐待並みに非難
されるべきものとしている国すらもが多々ある。一方で、「シュレーディンガー
の猫」のように、あからさまに猫への虐待を題材にした量子論上の思考実験を
持て囃していたりもする。猫も猫で可愛い生き物だから飼われていたりする
わけだが、自己本位的で猜疑心の強いその性格が好かれているということは
あまりないようである。見た目は可愛いが性格は悪いという扱いを前提として
飼うべきなのが猫とされて、それでも飼いたければ飼うという程度の扱いでいる。
むしろ、そのような猫の性格こそを、従順で恐れ知らずな犬の性格などよりも
評価すべき時が今だといえる。誰も彼もが犬のようなへつらいまくりで
恐れ知らずな状態でいるからこそ、人類全体も自殺行為然とした妄動によって
破滅へと陥りつつあるわけだから、全身を自分の舌で舐め回して毛繕いする
ほどもの自己本位さや、始めて見るようなものは何でも警戒するほどの猜疑心
を持つ猫の性格に倣うことでこそ、人類も難を避けられるようになるに違いない。
性格的にも体質的にも犬のほうが外物に感化されやすい生き物であり、
警戒心や猜疑心も猫ほど強くはなく、危険を顧みず他者に飛び付くような
猪突猛進さをも帯びているからである。それはちょうど、他力本願系の
信教に帰依する人間のあり方にも近似している有り様であり、戒律による
後付けでの自殺や自傷の禁止のような対策を講ずるのでもない限りは、
そのような性向を帯びてしまっているような人間こそが常人以上にも、
妄りに己れを傷つけて破滅に追いやられることが免れられないわけである。
犬もそれなりに愛らしい生き物であり、なおかつ人間でいえば奴隷か狂信者
のような性格を帯びている生き物であるものだから、その犬をして、奴隷制や
カルト宗教を正当化する材料にすらして来た点がなきにしもあらずである。
欧米キリスト教徒も犬が大好きであり、犬への虐待を人間への虐待並みに非難
されるべきものとしている国すらもが多々ある。一方で、「シュレーディンガー
の猫」のように、あからさまに猫への虐待を題材にした量子論上の思考実験を
持て囃していたりもする。猫も猫で可愛い生き物だから飼われていたりする
わけだが、自己本位的で猜疑心の強いその性格が好かれているということは
あまりないようである。見た目は可愛いが性格は悪いという扱いを前提として
飼うべきなのが猫とされて、それでも飼いたければ飼うという程度の扱いでいる。
むしろ、そのような猫の性格こそを、従順で恐れ知らずな犬の性格などよりも
評価すべき時が今だといえる。誰も彼もが犬のようなへつらいまくりで
恐れ知らずな状態でいるからこそ、人類全体も自殺行為然とした妄動によって
破滅へと陥りつつあるわけだから、全身を自分の舌で舐め回して毛繕いする
ほどもの自己本位さや、始めて見るようなものは何でも警戒するほどの猜疑心
を持つ猫の性格に倣うことでこそ、人類も難を避けられるようになるに違いない。
犬が原始時代の頃から、狼から品種改良されて人間に飼いならされて来たのは、
主に狩猟や牧畜の補助をさせるのが目的であって、愛玩が目的ではなかった。
飼育するにしても外飼いが基本であって、室内で飼ったりし始めたのは近ごろの
ことである。猫も家のネズミ捕りなどの実用目的があって飼い馴らされて来て
もいるが、古代エジプトの頃から愛玩されて来ていることでも知られている。
人間の伴侶としてより実用性があるのが犬であるように、犬のような恐れ知らず
の性向で以って科学技術や未開地の開発に取り組んだ欧米キリスト教徒こそは、
近現代の世界における文明発展の主導者的な役割をも果たしたのだった。しかし、
それはやはり多大なる危険性を弊害として帯びたものだったから、そのような
欧米人のやりたい放題が野放しであり続けた結果、破滅の危機にも至ったのである。
実用的な動物、愛らしい動物としての犬を全否定すべきだなどということは
もちろんないが、人間でいえば奴隷や狂信者然としたその性格などは、むしろその
弊害であるのだと考えたほうがよい。元来は狼のように気高い性格だったりもした
ものを、あえて強制的に従順なものへと人間が改定してしまった結果として、犬も
そのような性格となってしまったのだから、むしろ反省材料とすらすべきである。
犬の内にも柴犬のように、あまり芸を覚えたりするのが得意でない品種がいる。
仮にそういう品種改良が可能であるというのならば、従順化させられ過ぎた犬にも、
もう少し気高さを抱かせてやれるような改良を施してやるべきだといえる。
「能く衆を以いて正しければ、以って王たる可し。〜
天下を毒して、而かも民之れに従う。吉にして又た何の咎あらん」
「正義に根ざして衆人を率いて行けるのであれば、王となるがよい。その
せいで天下に毒害のような苦しみをもたらしてしまったとしても、相変わらず
民たちが王を信頼して従い続けるようであれば、吉祥であり、咎もあり得ない。
(むしろ毒害に苦しんででも民が聖王に従うような姿こそが吉なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・師・彖伝より)
主に狩猟や牧畜の補助をさせるのが目的であって、愛玩が目的ではなかった。
飼育するにしても外飼いが基本であって、室内で飼ったりし始めたのは近ごろの
ことである。猫も家のネズミ捕りなどの実用目的があって飼い馴らされて来て
もいるが、古代エジプトの頃から愛玩されて来ていることでも知られている。
人間の伴侶としてより実用性があるのが犬であるように、犬のような恐れ知らず
の性向で以って科学技術や未開地の開発に取り組んだ欧米キリスト教徒こそは、
近現代の世界における文明発展の主導者的な役割をも果たしたのだった。しかし、
それはやはり多大なる危険性を弊害として帯びたものだったから、そのような
欧米人のやりたい放題が野放しであり続けた結果、破滅の危機にも至ったのである。
実用的な動物、愛らしい動物としての犬を全否定すべきだなどということは
もちろんないが、人間でいえば奴隷や狂信者然としたその性格などは、むしろその
弊害であるのだと考えたほうがよい。元来は狼のように気高い性格だったりもした
ものを、あえて強制的に従順なものへと人間が改定してしまった結果として、犬も
そのような性格となってしまったのだから、むしろ反省材料とすらすべきである。
犬の内にも柴犬のように、あまり芸を覚えたりするのが得意でない品種がいる。
仮にそういう品種改良が可能であるというのならば、従順化させられ過ぎた犬にも、
もう少し気高さを抱かせてやれるような改良を施してやるべきだといえる。
「能く衆を以いて正しければ、以って王たる可し。〜
天下を毒して、而かも民之れに従う。吉にして又た何の咎あらん」
「正義に根ざして衆人を率いて行けるのであれば、王となるがよい。その
せいで天下に毒害のような苦しみをもたらしてしまったとしても、相変わらず
民たちが王を信頼して従い続けるようであれば、吉祥であり、咎もあり得ない。
(むしろ毒害に苦しんででも民が聖王に従うような姿こそが吉なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・師・彖伝より)
埋草無学の言うようにこいつ壊れちゃったのかw
信じることが必ずしも叶えられたりしないのはもちろんのこと、人が信じたがるような
ことこそはかえって叶えられにくいのが現実というものである。別にそれは不思議な
ことでもなんでもない。叶えられにくかったり叶えられなかったりするものを人間の
ほうが信じたがるわけだから、しごく当たり前な自業自得の定理だといえる。
中でも、絶対に原理的に叶えられないようなもの、道義的に叶えられてはならないようなものこそは、
旺盛な淫奔の気を込めて信じられるものだから、より狂信の対象ともなりやすい。現実の厳しさに
うちひしがれているような人間が、現実への反意を込めて信じようとしたりもするからこそ、
その信心だけは「苦悩の裏返し」として極度に強烈なものともなるわけである。
表向きだけは敬虔であるかのように見せかけることもできるが、誤謬信仰の原動力となっているのは
むしろ淫心や不健全な苦悩のほうであるわけだから、決して褒められたものではない。だからこそ、
より信仰を透徹させられたりもするわけだが、だからこそなおのこと褒められたものではない。
宗教といえども、自力作善の聖道門が主体である東洋においては、信仰そのものが道徳的なものである
などと認知されて来たような事実もない。上記のような理由があるものだから、強固な信仰ほど不健全で
ある場合が多いし、正しいものを信ずる正信といえども、自力作善の覚束ない愚夫がすがるものだから、
いかなる信仰といえども、ただそれだけで道徳的な価値があるとまでは認められなかったわけである。
それはもう、世界的に見直されるのみならず、新たな世界の常識にすら据えられるべき宗教観だといえる。
何かを信じることがただそれだけで道徳的だなどとは、賭博者を聖賢の座に据えるも同然の暴挙である
わけだから、不徳を道徳と見なす転倒夢想ですらあるという他ない。そのような主張の下で狂信
までもが是認された結果、人々が狂信を原因とした苦悩や淫奔に苛まれることともなるわけだから、
百害あって一利もないのがそのような主張ごとの狂信の容認であるといえる。
ことこそはかえって叶えられにくいのが現実というものである。別にそれは不思議な
ことでもなんでもない。叶えられにくかったり叶えられなかったりするものを人間の
ほうが信じたがるわけだから、しごく当たり前な自業自得の定理だといえる。
中でも、絶対に原理的に叶えられないようなもの、道義的に叶えられてはならないようなものこそは、
旺盛な淫奔の気を込めて信じられるものだから、より狂信の対象ともなりやすい。現実の厳しさに
うちひしがれているような人間が、現実への反意を込めて信じようとしたりもするからこそ、
その信心だけは「苦悩の裏返し」として極度に強烈なものともなるわけである。
表向きだけは敬虔であるかのように見せかけることもできるが、誤謬信仰の原動力となっているのは
むしろ淫心や不健全な苦悩のほうであるわけだから、決して褒められたものではない。だからこそ、
より信仰を透徹させられたりもするわけだが、だからこそなおのこと褒められたものではない。
宗教といえども、自力作善の聖道門が主体である東洋においては、信仰そのものが道徳的なものである
などと認知されて来たような事実もない。上記のような理由があるものだから、強固な信仰ほど不健全で
ある場合が多いし、正しいものを信ずる正信といえども、自力作善の覚束ない愚夫がすがるものだから、
いかなる信仰といえども、ただそれだけで道徳的な価値があるとまでは認められなかったわけである。
それはもう、世界的に見直されるのみならず、新たな世界の常識にすら据えられるべき宗教観だといえる。
何かを信じることがただそれだけで道徳的だなどとは、賭博者を聖賢の座に据えるも同然の暴挙である
わけだから、不徳を道徳と見なす転倒夢想ですらあるという他ない。そのような主張の下で狂信
までもが是認された結果、人々が狂信を原因とした苦悩や淫奔に苛まれることともなるわけだから、
百害あって一利もないのがそのような主張ごとの狂信の容認であるといえる。
道徳的な従属というものも、それはそれである。臣下の君主に対する、子の親に対する、妻の夫に対する
従属こそは、まさにそのような徳義に適った従属関係であるといえるが、それは決して、淫心などに
よって従属意識が促進される類いの関係ではないものだから、さして嗜みやすいものともならない。
特に、子の親に対する孝心は、職場での上下関係や横並びの友人関係、乱交を主目的とした男女関係
などによって容易く損なわれてしまうものであるため、これを尊んで行くことこそは第一の徳目ともなる。
磐石だからではなく、むしろ脆弱なものだからこそ、それを自力で盛り立てて行く必要があるわけである。
子の親に対する孝心こそは、堅持にかけては脆弱でありやすい代わりに、淫心などに基づき得ない。
淫心を帯びられないからこそ、健全な上下関係の源泉たり得もする。君臣関係は利権が原因で
淫奔にまみれやすいし、夫婦関係もまた濁愛が原因で淫乱となりやすいものだから、まず親子の
上下関係を第一とすることで、そのような問題をも共に予防して行くようにする必要がある。
淫心を込めて物事を狂信することの不徳さがわきまえられればこそ、淫心と無縁である孝心の価値までもが
正確に見直されていくこととなる。心を込めて従属することにかけて、神への狂信などほどには陶酔的な
ものでもあり得ない、にもかかわらずではなくだからこそ、孝心に価値があると考え直されるのでなければ、
なかなか忠孝の文化の本格的な復活も難しいままとなるから、徳治の復興のためにはそれが必須ともなる。
「其の能を矜れば、厥の功を喪う」
「能があるからといって誇り高ぶるようなら、結局はその功を失うことになる。
(誇り高ぶったせいで功並みの罪を犯してしまうから、結局はプラスマイナスゼロとなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説明中より)
従属こそは、まさにそのような徳義に適った従属関係であるといえるが、それは決して、淫心などに
よって従属意識が促進される類いの関係ではないものだから、さして嗜みやすいものともならない。
特に、子の親に対する孝心は、職場での上下関係や横並びの友人関係、乱交を主目的とした男女関係
などによって容易く損なわれてしまうものであるため、これを尊んで行くことこそは第一の徳目ともなる。
磐石だからではなく、むしろ脆弱なものだからこそ、それを自力で盛り立てて行く必要があるわけである。
子の親に対する孝心こそは、堅持にかけては脆弱でありやすい代わりに、淫心などに基づき得ない。
淫心を帯びられないからこそ、健全な上下関係の源泉たり得もする。君臣関係は利権が原因で
淫奔にまみれやすいし、夫婦関係もまた濁愛が原因で淫乱となりやすいものだから、まず親子の
上下関係を第一とすることで、そのような問題をも共に予防して行くようにする必要がある。
淫心を込めて物事を狂信することの不徳さがわきまえられればこそ、淫心と無縁である孝心の価値までもが
正確に見直されていくこととなる。心を込めて従属することにかけて、神への狂信などほどには陶酔的な
ものでもあり得ない、にもかかわらずではなくだからこそ、孝心に価値があると考え直されるのでなければ、
なかなか忠孝の文化の本格的な復活も難しいままとなるから、徳治の復興のためにはそれが必須ともなる。
「其の能を矜れば、厥の功を喪う」
「能があるからといって誇り高ぶるようなら、結局はその功を失うことになる。
(誇り高ぶったせいで功並みの罪を犯してしまうから、結局はプラスマイナスゼロとなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説明中より)
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「華厳経」菩薩問明品第十に「正覚者はあたかも機関の木人の如し」という記述がある。これが「列子」
湯問篇第五などとも並ぶ、世界でも最古級の人型ロボットの描写であり、このような教えが尊ばれて
来たこともあって、日本でも近代以前から精巧なからくり人形の作成などが多数試みられて来ている。
悟りの境地がロボットのようだなどとは、現代人にはかえって恐怖感すら抱かせかねない表現である。
人間という生き物の有機的な精巧さは、現代技術の粋を結集した最先端のロボットなどと比べても
飛びきり優れたものであるわけだから、にもかかわらず、悟ったせいでロボットになって
しまうというのならば、それはかえって退化となるのではないかとすら考えられて、
不安感をも催させた挙げ句に、悟りを忌避させることにすらなりかねないわけである。
何と言っても、ロボットには「命」がない。現状のロボットには自我もなければ情念もないため、
人間の伴侶としても犬猫ほどの本格的な親しみを抱くことすらできない。だからロボットはまだまだ
だと現代人は考えてしまうわけで、にもかかわらず仏教思想などは、そのようなロボットのような
あり方へと大悟者が至るとしているわけだから、そこが薄気味悪いようにすら思われるわけである。
一方で、「機関」ですらない無可動の木像や石像である仏像が、古くから仏教徒たちに親しみを
込めて尊ばれて来てもいる。中途半端に機械的な精巧さを凝らしたロボットなどよりも、ただ
見せかけを人間に似せているだけの仏像のほうが、より割り切って親しめるという所もあるわけである。
一方で、そのような仏像にも当然、生物学的な意味での命は宿されていないわけで、にもかかわらず
そこに親しむということはやはり、自分の命を第一とするような連中(秦人やキリスト教徒など)
からすれば、違和感や忌避感を抱かされることとなるに違いないわけである。
命なき所、有機性なき所のものへの親しみを促す仏門のあり方を、キリスト教のような邪教のみならず、
神道やヒンズー教のような他の真っ当な信教すらもが忌避の対象として来た。人は死ねども魂は不滅であり、
その魂こそを尊ぶという体裁をあえて採るわけで、むしろそう考えたほうが納得がしやすい人間は

湯問篇第五などとも並ぶ、世界でも最古級の人型ロボットの描写であり、このような教えが尊ばれて
来たこともあって、日本でも近代以前から精巧なからくり人形の作成などが多数試みられて来ている。
悟りの境地がロボットのようだなどとは、現代人にはかえって恐怖感すら抱かせかねない表現である。
人間という生き物の有機的な精巧さは、現代技術の粋を結集した最先端のロボットなどと比べても
飛びきり優れたものであるわけだから、にもかかわらず、悟ったせいでロボットになって
しまうというのならば、それはかえって退化となるのではないかとすら考えられて、
不安感をも催させた挙げ句に、悟りを忌避させることにすらなりかねないわけである。
何と言っても、ロボットには「命」がない。現状のロボットには自我もなければ情念もないため、
人間の伴侶としても犬猫ほどの本格的な親しみを抱くことすらできない。だからロボットはまだまだ
だと現代人は考えてしまうわけで、にもかかわらず仏教思想などは、そのようなロボットのような
あり方へと大悟者が至るとしているわけだから、そこが薄気味悪いようにすら思われるわけである。
一方で、「機関」ですらない無可動の木像や石像である仏像が、古くから仏教徒たちに親しみを
込めて尊ばれて来てもいる。中途半端に機械的な精巧さを凝らしたロボットなどよりも、ただ
見せかけを人間に似せているだけの仏像のほうが、より割り切って親しめるという所もあるわけである。
一方で、そのような仏像にも当然、生物学的な意味での命は宿されていないわけで、にもかかわらず
そこに親しむということはやはり、自分の命を第一とするような連中(秦人やキリスト教徒など)
からすれば、違和感や忌避感を抱かされることとなるに違いないわけである。
命なき所、有機性なき所のものへの親しみを促す仏門のあり方を、キリスト教のような邪教のみならず、
神道やヒンズー教のような他の真っ当な信教すらもが忌避の対象として来た。人は死ねども魂は不滅であり、
その魂こそを尊ぶという体裁をあえて採るわけで、むしろそう考えたほうが納得がしやすい人間は
日本のような半仏教国にすら大勢いるのである。だからこそ、その手の教えを方便ではなく真義と
している神道が、お寺の横には必ず神社が設置されるほどもの頻度で併信されて来たのである。
仏教も方便としてその手の教えを認めることはあるが、真義としては、死んでからはおろか、
生きてる内から本当は自我も情念も虚構でしかないのだとする。だからこそ、死んで灰になること
などは石が砕かれて石灰になったりするのともさして変わらぬことなので、恐れるまでもないことだと
しているわけで、そこにこそ生死の苦悩を真に克服する道すらもが開かれていることにも違いは
ないわけだが、なかなか本当にそのような方便抜きの仏法を悟れる仏教徒もいないと来ている。
誰も彼もが仏法の真理そのものを本懐とする必要はないし、それによる悟りを得たりまでする
必要もないわけだが、ことに、大火事を消し止めたり予防したりするための消火栓程度のものとしては、
仏法を社会レベルで予備的に尊重して置くぐらいのことはあるべきだといえる。人間の魂は不滅で
死後にもあり続ける程度の教えであれば、仏門とも共存できるし、特段大きな害をこの世に及ぼすこと
もないが、人間の命そのものからして不滅のものであり得て、命を失った死滅状態などとは一線を
画したものであるとまでする邪教ともなれば、これはもはや仏門との共存が全くの不可能とすらなる。
その手の邪教が甚だしい害悪を及ぼし始めたりするようなことがないようにするためにこそ、方便
抜きの真理そのものを把捉した教理としての「仏辺の仏法」すらをも尊んでおくようにしたほうがよい。
六道輪廻や極楽往生のような衆生辺の方便を駆使したものとしての仏法は今でもかなり親しまれているが、
「大悟者はもはやロボットも同然である」というレベルの仏辺の仏法ともなれば、もはや打ち捨て
られたも同然の事態となってしまっている。「仏作って魂入れず」ならぬ「仏にそもそも魂なし」
という、仏法の根本の部分の有り難みまでもが見直されるようになるのは、一体いつのことであろうか。
している神道が、お寺の横には必ず神社が設置されるほどもの頻度で併信されて来たのである。
仏教も方便としてその手の教えを認めることはあるが、真義としては、死んでからはおろか、
生きてる内から本当は自我も情念も虚構でしかないのだとする。だからこそ、死んで灰になること
などは石が砕かれて石灰になったりするのともさして変わらぬことなので、恐れるまでもないことだと
しているわけで、そこにこそ生死の苦悩を真に克服する道すらもが開かれていることにも違いは
ないわけだが、なかなか本当にそのような方便抜きの仏法を悟れる仏教徒もいないと来ている。
誰も彼もが仏法の真理そのものを本懐とする必要はないし、それによる悟りを得たりまでする
必要もないわけだが、ことに、大火事を消し止めたり予防したりするための消火栓程度のものとしては、
仏法を社会レベルで予備的に尊重して置くぐらいのことはあるべきだといえる。人間の魂は不滅で
死後にもあり続ける程度の教えであれば、仏門とも共存できるし、特段大きな害をこの世に及ぼすこと
もないが、人間の命そのものからして不滅のものであり得て、命を失った死滅状態などとは一線を
画したものであるとまでする邪教ともなれば、これはもはや仏門との共存が全くの不可能とすらなる。
その手の邪教が甚だしい害悪を及ぼし始めたりするようなことがないようにするためにこそ、方便
抜きの真理そのものを把捉した教理としての「仏辺の仏法」すらをも尊んでおくようにしたほうがよい。
六道輪廻や極楽往生のような衆生辺の方便を駆使したものとしての仏法は今でもかなり親しまれているが、
「大悟者はもはやロボットも同然である」というレベルの仏辺の仏法ともなれば、もはや打ち捨て
られたも同然の事態となってしまっている。「仏作って魂入れず」ならぬ「仏にそもそも魂なし」
という、仏法の根本の部分の有り難みまでもが見直されるようになるのは、一体いつのことであろうか。
埋草無学の言うようにこいつ壊れちゃってるなww
「衆生必ず死す、死すれば必ず土に帰る、此れを之れ鬼と謂う。骨肉は下に斃れ、陰れて野土と為る。
其の気は上に発揚し、昭明と為る。薫蒿、凄愴たるは、此れ百物の精なり、神の著らるるなり」
「一切衆生はいつかは必ず死ぬ。死ねば必ず土に返るが、これを『鬼』という。骨肉は朽ちて下に降り、
隠れて野の土となる。生気は逆に上に昇って昭明となる。生気が上昇して天に充満し、人々の心を
悼み慎む趣きにさせることこそは、万物の精気が神威となって現れる有り様であるといえる。
(仏教伝来にも先駆けた諸行無常の察知。それでいて死の先にある薫蒿凄愴こそを神威とする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
其の気は上に発揚し、昭明と為る。薫蒿、凄愴たるは、此れ百物の精なり、神の著らるるなり」
「一切衆生はいつかは必ず死ぬ。死ねば必ず土に返るが、これを『鬼』という。骨肉は朽ちて下に降り、
隠れて野の土となる。生気は逆に上に昇って昭明となる。生気が上昇して天に充満し、人々の心を
悼み慎む趣きにさせることこそは、万物の精気が神威となって現れる有り様であるといえる。
(仏教伝来にも先駆けた諸行無常の察知。それでいて死の先にある薫蒿凄愴こそを神威とする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
ウチには昔から豪華な生物事典があるのに、
俺は動物事典(哺乳類、爬虫類、両生類、魚類、鳥類、虫類、恐竜類)
ばかりを読んで、ろくに植物事典のほうを読まなかった。そのせいで、
今でも植物には詳しくない。個々の名称はおろか、基本的な生態系すらあまり分からない。
今でもあまり、再勉強する気にはなれない。なぜなのかを自分なりに考えてみたんだが、
今の時代、誰も彼もが動物的ながっつきばかりに執心していて、
植物的な静寂さをほとんど蔑ろにしてしまっているからではないか
という結論に至った。だからこそ、植物知識を学んだりすることにも大した価値がないと。
植物の花を好んだりする通り、女こそは本来、植物のように
静寂な存在であるべきものだ。世の中の半分を占めている女が
植物のような静寂さを守れるようになったなら、俺ももう少しぐらいは、
植物を学んでみる気になるかもしれない。
「植木と骨董に凝り始めたら男は終わりだよ(鬼平犯科帳)」とも言うがな。
俺は動物事典(哺乳類、爬虫類、両生類、魚類、鳥類、虫類、恐竜類)
ばかりを読んで、ろくに植物事典のほうを読まなかった。そのせいで、
今でも植物には詳しくない。個々の名称はおろか、基本的な生態系すらあまり分からない。
今でもあまり、再勉強する気にはなれない。なぜなのかを自分なりに考えてみたんだが、
今の時代、誰も彼もが動物的ながっつきばかりに執心していて、
植物的な静寂さをほとんど蔑ろにしてしまっているからではないか
という結論に至った。だからこそ、植物知識を学んだりすることにも大した価値がないと。
植物の花を好んだりする通り、女こそは本来、植物のように
静寂な存在であるべきものだ。世の中の半分を占めている女が
植物のような静寂さを守れるようになったなら、俺ももう少しぐらいは、
植物を学んでみる気になるかもしれない。
「植木と骨董に凝り始めたら男は終わりだよ(鬼平犯科帳)」とも言うがな。
己れの内に省みるものこそは万事万物を計り知る一方、我を忘れてまでの外物への希求に及ぶものこそは
かえって万事万物への配慮を損ね、以て部分の我田引水をも容認してしまうといった一般法則が存在する。
そのような問題性を孕んでいるものだから、かつての君子階級の上位者なども、外交問題を陪臣に任せる
などの便宜を図っていた。今などはむしろ、外語能力にも長ける外交官こそがステータス的な扱いをされて
しまっていたりする時代だけれども、むしろそのような「汚れ仕事」を自分自身が担わないからこそ、
主君や上位の士大夫が威厳と仁徳とを保てるとされていた時代もまたあったのである。
そしてそのような時代こそは、真に世の中の泰平が保たれていた時代でもあった。
人びとの諸国の往来も関所で厳重に管理されて、それぞれの国の主君もまた、
外遊を自粛してまでの内省に務めていた時代においてこそ、外交問題が紛争
にまで発展したりすることもない、平和な時代が確立されていたのだった。
世の中全土を挙げての外向意欲が、内向意欲の分量を上回ってしまった時にこそ、
世の中も決定的に乱れることとなる。封建時代であれば、主君級の上位者までもが外遊を好き好み過ぎた
せいで、誰しもがそれに倣って世の中が乱れるようなことになるし、民主主義の時代においても、万人が
横の繋がりである交友関係ばかりにかかずわらされたりした結果として、そのような問題が巻き起こる。
外向こそは、内向以上にも安易に楽しいものであり、諸々の情緒を著しく感化させるものである。
なればこそ、内省を損ねてまでの外遊が我を忘れさせて、部分の利権との癒着を深刻化させて
しまったりするのだから、外向が内向よりも楽しいにもかかわらずではなくだからこそ、
内向を上回るような外向を控えるようにしなければならないといえるのである。
かえって万事万物への配慮を損ね、以て部分の我田引水をも容認してしまうといった一般法則が存在する。
そのような問題性を孕んでいるものだから、かつての君子階級の上位者なども、外交問題を陪臣に任せる
などの便宜を図っていた。今などはむしろ、外語能力にも長ける外交官こそがステータス的な扱いをされて
しまっていたりする時代だけれども、むしろそのような「汚れ仕事」を自分自身が担わないからこそ、
主君や上位の士大夫が威厳と仁徳とを保てるとされていた時代もまたあったのである。
そしてそのような時代こそは、真に世の中の泰平が保たれていた時代でもあった。
人びとの諸国の往来も関所で厳重に管理されて、それぞれの国の主君もまた、
外遊を自粛してまでの内省に務めていた時代においてこそ、外交問題が紛争
にまで発展したりすることもない、平和な時代が確立されていたのだった。
世の中全土を挙げての外向意欲が、内向意欲の分量を上回ってしまった時にこそ、
世の中も決定的に乱れることとなる。封建時代であれば、主君級の上位者までもが外遊を好き好み過ぎた
せいで、誰しもがそれに倣って世の中が乱れるようなことになるし、民主主義の時代においても、万人が
横の繋がりである交友関係ばかりにかかずわらされたりした結果として、そのような問題が巻き起こる。
外向こそは、内向以上にも安易に楽しいものであり、諸々の情緒を著しく感化させるものである。
なればこそ、内省を損ねてまでの外遊が我を忘れさせて、部分の利権との癒着を深刻化させて
しまったりするのだから、外向が内向よりも楽しいにもかかわらずではなくだからこそ、
内向を上回るような外向を控えるようにしなければならないといえるのである。
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