SARO&Desperado隔離スレ
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自分でスレたてて自分でコメントするなよw
せっかくスレ立てしてくれたので、徒然なるままに何か書きましょうかね。
写真の本は私が師と仰ぐアルフォンスデーケン神父の御本です。
師は元上智大学教授兼神父様で、現在は同大名誉教授兼神父様です。
私はカトリックの家庭に育だち、カトリックは何か禁欲的な厳しいものという
イメージを植え付けられていたのですが、デーケン先生と出会って信仰について
新たな視点を得られました。
デーケン先生には私たちの結婚式も挙げてもらったり、色々お世話になっています。
もう教授では無いのでデーケン先生と呼ぶのは相応しくないのですが、ついくせで
デーケン先生と言ってしまいます。デーケン神父様と呼ぶのが適切でしょう。
デーケン先生は上智大学を定年退職後、すぐに母国のドイツに帰ってしまわれました。
『ああ、もうお会い出来ないのか』と落胆したのですが、その後しばらくして日本に
戻ってきてくれ『日本に骨を埋める』と言っていらっしゃいます。
現在は毎週水曜日(13時からと18時からの2回)にイグナチオ教会のホールを借りて
信仰入門講座を開いています。入門講座といっても、かつての教え子(私みたいなの)
もたくさん来ていますし、もちろん先生の本に興味を持ったので、という新人さん
もたくさんいらっしゃいます。大盛況ですので興味がおありの方は一度どうぞ。
イグナチオ教会入口の右に売店があるのですが、そこのシスターに聞けば場所を
教えてもらえます。カトリックでは自主性を重んじるというか、信者でも他人に
無関心な人ばかりなので、プロテスタント教会みたいに、いきなり太ったおばさんに
『新しい兄弟ですか、オホホホ』とか、変な外人に『アナタハカミヲシンジマスカ』
とか言われないので心配しないで来てください。毎週のように新人の方が来ています。
残念ながら8月はデーケン先生はオーストリアで研究をなさるそう。9月も各地の
講演がおありとのこと。だから後期の入門講座は10月9日からになります。
講座は無料です。何も持ってこなくて構いません。教室(小学校の教室の半分くらいの
広さ)に入るとボランティアで受付をやっているおばさんがいるので、一言声をかけて
いただけたら、讃美歌の楽譜を渡してくれます。嫌だったら歌わなくて構いませんよ。
写真の本は私が師と仰ぐアルフォンスデーケン神父の御本です。
師は元上智大学教授兼神父様で、現在は同大名誉教授兼神父様です。
私はカトリックの家庭に育だち、カトリックは何か禁欲的な厳しいものという
イメージを植え付けられていたのですが、デーケン先生と出会って信仰について
新たな視点を得られました。
デーケン先生には私たちの結婚式も挙げてもらったり、色々お世話になっています。
もう教授では無いのでデーケン先生と呼ぶのは相応しくないのですが、ついくせで
デーケン先生と言ってしまいます。デーケン神父様と呼ぶのが適切でしょう。
デーケン先生は上智大学を定年退職後、すぐに母国のドイツに帰ってしまわれました。
『ああ、もうお会い出来ないのか』と落胆したのですが、その後しばらくして日本に
戻ってきてくれ『日本に骨を埋める』と言っていらっしゃいます。
現在は毎週水曜日(13時からと18時からの2回)にイグナチオ教会のホールを借りて
信仰入門講座を開いています。入門講座といっても、かつての教え子(私みたいなの)
もたくさん来ていますし、もちろん先生の本に興味を持ったので、という新人さん
もたくさんいらっしゃいます。大盛況ですので興味がおありの方は一度どうぞ。
イグナチオ教会入口の右に売店があるのですが、そこのシスターに聞けば場所を
教えてもらえます。カトリックでは自主性を重んじるというか、信者でも他人に
無関心な人ばかりなので、プロテスタント教会みたいに、いきなり太ったおばさんに
『新しい兄弟ですか、オホホホ』とか、変な外人に『アナタハカミヲシンジマスカ』
とか言われないので心配しないで来てください。毎週のように新人の方が来ています。
残念ながら8月はデーケン先生はオーストリアで研究をなさるそう。9月も各地の
講演がおありとのこと。だから後期の入門講座は10月9日からになります。
講座は無料です。何も持ってこなくて構いません。教室(小学校の教室の半分くらいの
広さ)に入るとボランティアで受付をやっているおばさんがいるので、一言声をかけて
いただけたら、讃美歌の楽譜を渡してくれます。嫌だったら歌わなくて構いませんよ。
デーケン先生はたくさん本を書いてまして、アマゾン等で検索しても何冊もヒット
します。世界各国語に翻訳されていて、日本より米国やカナダでのほうが名声が高い
ようです。特に『よく生き よく笑い よき死と出会う』はベストセラーです。
デーケン先生はドイツ人なのですが、日本語で本を書いちゃうんですよ。
この本の題名を見てもお判りの通り、デーケン先生の学問は哲学で、専門は『死生学』
です。死ぬことを研究するんですよ。如何に死ぬかとか、死死死・・・おお嫌だ、
おお怖い、ナンマンダブ、ナンマンダブ。
でもちょっと待ってください。あなただけに内緒で教えますが、本当にここだけの
話ですが、日本人の死亡率は驚くことに100%にも達するんですよ。あなたが、この
スレのリンクをクリックしてここまで読み進めるのに何秒かかりましたか?
うん十秒ですか、そうですか。するとあなたの大事な余命は『うん十秒』縮まって
しまったんですよ。と書いてるそばから、もう数秒縮んでしまいました。
『ああ』と声に出して叫んでも1秒は縮まります。いくら急いで『あっ』と叫ぼうが
時間は止まってくれません。
これは濁流に流される葉っぱにしがみついた蟻に例えることが出来るでしょうか。
葉っぱはすぐに濁流に飲み込まれて蟻の運命もそこまで。運よく大海まで流れて
行っても、やがては海の藻屑と消えるでしょう。何か虚しいですねえ。
人間だったらどうでしょうか。濁流に流される木片にかじりついた人。この場合は、
『助けて〜』と叫び続ければ、誰かがロープを投げてくれたり、あるいは救助隊の
ヘリコプターが出動するかも知れません。人間には生き方を選択するある程度の
能力が与えられているのですね。
いきなり旧約聖書の話で恐縮ですが、神様は生物を色々お造りになったのですが、
人間だけはご自身に似せてお造りになったそうです。生物といったら色々ありますね。
イヌやネコのような動物、松や杉のような植物、ノミやダニ、あるいは大腸菌だって
ピロリ菌だって生物ですよね。でもその中で人間だけが偉いのです。人間だけが特別な
存在なのです。不遜ですね。偉そうですね。こんなに付け上がって良いのでしょうか。
します。世界各国語に翻訳されていて、日本より米国やカナダでのほうが名声が高い
ようです。特に『よく生き よく笑い よき死と出会う』はベストセラーです。
デーケン先生はドイツ人なのですが、日本語で本を書いちゃうんですよ。
この本の題名を見てもお判りの通り、デーケン先生の学問は哲学で、専門は『死生学』
です。死ぬことを研究するんですよ。如何に死ぬかとか、死死死・・・おお嫌だ、
おお怖い、ナンマンダブ、ナンマンダブ。
でもちょっと待ってください。あなただけに内緒で教えますが、本当にここだけの
話ですが、日本人の死亡率は驚くことに100%にも達するんですよ。あなたが、この
スレのリンクをクリックしてここまで読み進めるのに何秒かかりましたか?
うん十秒ですか、そうですか。するとあなたの大事な余命は『うん十秒』縮まって
しまったんですよ。と書いてるそばから、もう数秒縮んでしまいました。
『ああ』と声に出して叫んでも1秒は縮まります。いくら急いで『あっ』と叫ぼうが
時間は止まってくれません。
これは濁流に流される葉っぱにしがみついた蟻に例えることが出来るでしょうか。
葉っぱはすぐに濁流に飲み込まれて蟻の運命もそこまで。運よく大海まで流れて
行っても、やがては海の藻屑と消えるでしょう。何か虚しいですねえ。
人間だったらどうでしょうか。濁流に流される木片にかじりついた人。この場合は、
『助けて〜』と叫び続ければ、誰かがロープを投げてくれたり、あるいは救助隊の
ヘリコプターが出動するかも知れません。人間には生き方を選択するある程度の
能力が与えられているのですね。
いきなり旧約聖書の話で恐縮ですが、神様は生物を色々お造りになったのですが、
人間だけはご自身に似せてお造りになったそうです。生物といったら色々ありますね。
イヌやネコのような動物、松や杉のような植物、ノミやダニ、あるいは大腸菌だって
ピロリ菌だって生物ですよね。でもその中で人間だけが偉いのです。人間だけが特別な
存在なのです。不遜ですね。偉そうですね。こんなに付け上がって良いのでしょうか。
実はですね。人間だけがある特殊な能力を神様から与えられているのです。それは
『私は何者か?』という問いが出来る能力。『私は何者か?』って問いは不思議だと
思いませんか。問いかけるのも私で、それに回答を出すのも私です。更に言うと、
『私は何者か?』と問うている私は何者か? と際限が無くなります。
イヌやネコだって色々考えていると思いますよ。『腹減った』とか『おしっこ行って
こよう』とか。でも『私は何者か?』と思い悩んでいるネコを見たことがありますか?
人間は昔から色々な問題について数学的に、とか科学的に解答を出して来ました。
例えば『1+1は?』と幼稚園児に聞いても『2』と答えますよね。いずれはあらゆる
病気、例えばガンを治す方法などの回答が出されるでしょう。このような答えが出せる
問いは『質問』と呼びます。当たり前ですね。しかし『私は何者か?』という問いは
『神秘』なのです。
『私は何者か?』という問いは多くの示唆を含んでいます。『なぜ生まれて来たのか』、
せっかく生まれて来たのに『なぜ死ぬのか』等々。なぜ生まれて来たのかというのも
哲学ですが、これはもう生まれてしまったのですから文句の言いようがありません。
そこで今生きている人間、すなわち全世界の全ての人類にとって、死という事象が恐怖
の対象となります。ある哲学者は死を恐れることを奴隷に例え、『死の奴隷になって
いる人は、既に死んでいるのと一緒だ』と述べています。では死の奴隷から解放される
にはどうしたら良いでしょう。これは昔から哲学の命題のひとつですね。
先の濁流に流される人を思い出してください。人は『助けて〜』と叫ぶことが出来ます。
『私は何者か?』という問いには『私は主のしもべです』と答えてはいかがでしょうか。
『いや、俺は無神論者だから』と言う人は、座禅でも組みながら座してただ死を待つの
ですか。それでは先の例の蟻と一緒です。ペシミスティック(悲観的)な考え方ですね。
人間だけに与えられた『私は何者か?』と問う能力を発揮したいと思いませんか?
『私は何者か?』という問いが出来る能力。『私は何者か?』って問いは不思議だと
思いませんか。問いかけるのも私で、それに回答を出すのも私です。更に言うと、
『私は何者か?』と問うている私は何者か? と際限が無くなります。
イヌやネコだって色々考えていると思いますよ。『腹減った』とか『おしっこ行って
こよう』とか。でも『私は何者か?』と思い悩んでいるネコを見たことがありますか?
人間は昔から色々な問題について数学的に、とか科学的に解答を出して来ました。
例えば『1+1は?』と幼稚園児に聞いても『2』と答えますよね。いずれはあらゆる
病気、例えばガンを治す方法などの回答が出されるでしょう。このような答えが出せる
問いは『質問』と呼びます。当たり前ですね。しかし『私は何者か?』という問いは
『神秘』なのです。
『私は何者か?』という問いは多くの示唆を含んでいます。『なぜ生まれて来たのか』、
せっかく生まれて来たのに『なぜ死ぬのか』等々。なぜ生まれて来たのかというのも
哲学ですが、これはもう生まれてしまったのですから文句の言いようがありません。
そこで今生きている人間、すなわち全世界の全ての人類にとって、死という事象が恐怖
の対象となります。ある哲学者は死を恐れることを奴隷に例え、『死の奴隷になって
いる人は、既に死んでいるのと一緒だ』と述べています。では死の奴隷から解放される
にはどうしたら良いでしょう。これは昔から哲学の命題のひとつですね。
先の濁流に流される人を思い出してください。人は『助けて〜』と叫ぶことが出来ます。
『私は何者か?』という問いには『私は主のしもべです』と答えてはいかがでしょうか。
『いや、俺は無神論者だから』と言う人は、座禅でも組みながら座してただ死を待つの
ですか。それでは先の例の蟻と一緒です。ペシミスティック(悲観的)な考え方ですね。
人間だけに与えられた『私は何者か?』と問う能力を発揮したいと思いませんか?
実は救いのロープは常に私たちの目の前にぶら下がっているのですが、残念ながら
それに気づかない人が多いのです。欧米では70〜80%の人が何らかの信仰を持っている
と答えているのに、日本では残念ながら70〜80%の人が無神論者とのこと。なぜ日本人に
無神論者が多いのか。これはたぶん神様にご利益を期待するからでしょうか。例えば
『お金が儲かりますように』と祈りながら銭洗い弁天でお札を洗っても、いきなり
宝くじの一等が当たるなんてことはまず無いでしょうね。だから神社に詣でるのも
単なるイベントとか習慣とかになっているんじゃないでしょうか。
でもこう考えてはどうでしょう。お祈りをしてご利益があったら、これは神様の賜物、
ありがたや、ありがたや。もしご利益が無かったら、これは神様が私の信仰が厚いか
薄いか試されているのだ。更にお祈りを続ければいつか願いが叶うに違いない。
これはオプティミスティック(楽観的)な考え方です。悲観的な考え方をするのと
楽観的な考え方をするのとでは、どちらが楽ですか?
先の死の問題へと戻りますが、あらゆる哲学者がこの問題を研究しています。『命が
終わることを恐れるな、むしろ真に生き始めないことを恐れよ』とか、ゲーテは
『永遠に生き続けることを信じない者は、現在も生きていないのと一緒だ』と聖書を
信頼すべき旨を述べています。パスカルは『○○地域の気圧は××ヘクトパスカル』
と気圧の単位に使われるほど有名な物理学者で、神様などは無縁の人のようですが、
ある時、寝ている時、神の啓示を肌で感じたのです。有名なパスカルの回心として
今に残るメモは、神様と触れ合った喜びと驚きに満ち溢れた文章で『喜び喜び喜び』
と神への感謝を殴り書きした物で、パスカルはそのメモを肌着に縫い付け、生涯肌身
離さず持ち歩いたそうです。
デーケン先生によると、洗礼を受けに来る医者がとても多いそうです。最先端医療に
かかわる医者や、パスカルのような堅物そうな物理学者ほど、自然の摂理の不思議さ
美しさ、整然さに感動して、神の存在を肯定せざるを得なくなるらしいです。
それに気づかない人が多いのです。欧米では70〜80%の人が何らかの信仰を持っている
と答えているのに、日本では残念ながら70〜80%の人が無神論者とのこと。なぜ日本人に
無神論者が多いのか。これはたぶん神様にご利益を期待するからでしょうか。例えば
『お金が儲かりますように』と祈りながら銭洗い弁天でお札を洗っても、いきなり
宝くじの一等が当たるなんてことはまず無いでしょうね。だから神社に詣でるのも
単なるイベントとか習慣とかになっているんじゃないでしょうか。
でもこう考えてはどうでしょう。お祈りをしてご利益があったら、これは神様の賜物、
ありがたや、ありがたや。もしご利益が無かったら、これは神様が私の信仰が厚いか
薄いか試されているのだ。更にお祈りを続ければいつか願いが叶うに違いない。
これはオプティミスティック(楽観的)な考え方です。悲観的な考え方をするのと
楽観的な考え方をするのとでは、どちらが楽ですか?
先の死の問題へと戻りますが、あらゆる哲学者がこの問題を研究しています。『命が
終わることを恐れるな、むしろ真に生き始めないことを恐れよ』とか、ゲーテは
『永遠に生き続けることを信じない者は、現在も生きていないのと一緒だ』と聖書を
信頼すべき旨を述べています。パスカルは『○○地域の気圧は××ヘクトパスカル』
と気圧の単位に使われるほど有名な物理学者で、神様などは無縁の人のようですが、
ある時、寝ている時、神の啓示を肌で感じたのです。有名なパスカルの回心として
今に残るメモは、神様と触れ合った喜びと驚きに満ち溢れた文章で『喜び喜び喜び』
と神への感謝を殴り書きした物で、パスカルはそのメモを肌着に縫い付け、生涯肌身
離さず持ち歩いたそうです。
デーケン先生によると、洗礼を受けに来る医者がとても多いそうです。最先端医療に
かかわる医者や、パスカルのような堅物そうな物理学者ほど、自然の摂理の不思議さ
美しさ、整然さに感動して、神の存在を肯定せざるを得なくなるらしいです。
またまた聖書の話で恐縮ですが、ヨハネによる福音書によるとイエス様は最後の晩餐の
時、『私はブドウの木。父(神様ですね)は農夫である。私の枝で実を結ばない物は
父(農夫)が剪定して切ってしまう。実を結ぶ枝は手入れしてもっときれいにしてくだ
さる』と述べたとあります(概略ですが)。これは二千年前も今も、古今東西にかか
わらず農業に携わる人には真理ですね。あなたもぶどうの実を目指しませんか?
またヨハネは、キリスト教的人生は旅人のようだと述べています。人は未来へ向かう
旅人であり、過去にとらわれることはない。人間は未来に向けて開かれた存在だから。
すなわち人生は神へと向かう旅であり、イエス・キリストは神へ向かう唯一の道だと。
松尾芭蕉の奥の細道の書き出し『月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也』と
似ていると思いませんか?
ちょっと名前を忘れたんですがある哲学者は『来世が無いと証明できぬからには、来世が
あると信じざるを得ない』というようなことを言っています。ちょっと乱暴に聞こえます
が、これがオプティミスティックなキリスト教の本質を突いているんじゃないでしょうか。
一度デーケン先生の話を聞くと、理詰めで神の存在を説明してくれるので、精神的にも
とても癒されます。医者や科学者にファンが多いのも納得いきます。実は私も理工科系
なんですが、やはり神様の存在なしには『私は何者か?』という問いに答えられません。
今まで述べたように、私たちにはイエス・キリストという救いのロープ、と言いますか
神への道が示されたのですから、これに乗っかるというのも楽な生き方だと思いますよ。
今西暦2013年ですが、西暦はキリスト誕生以降をAD(紀元後)、誕生以前をBC(紀元前)
と言いますよね。もう二千年以上にわたって信じられ、かつ哲学や文学の議題になって
きた宗教なのですから、私たちもこれを学ぶことによって得られる物は多いはずです。
そういった意味では仏教でも神道でも良いんですが、残念ながら仏教は葬式専用みたいに
なってますし、神道は初詣や新車を買った時の気休めのお祓いなど、イベント専用みたい
になっています。なかなか哲学的命題に応えて貰えない所があるのが残念です。
時、『私はブドウの木。父(神様ですね)は農夫である。私の枝で実を結ばない物は
父(農夫)が剪定して切ってしまう。実を結ぶ枝は手入れしてもっときれいにしてくだ
さる』と述べたとあります(概略ですが)。これは二千年前も今も、古今東西にかか
わらず農業に携わる人には真理ですね。あなたもぶどうの実を目指しませんか?
またヨハネは、キリスト教的人生は旅人のようだと述べています。人は未来へ向かう
旅人であり、過去にとらわれることはない。人間は未来に向けて開かれた存在だから。
すなわち人生は神へと向かう旅であり、イエス・キリストは神へ向かう唯一の道だと。
松尾芭蕉の奥の細道の書き出し『月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也』と
似ていると思いませんか?
ちょっと名前を忘れたんですがある哲学者は『来世が無いと証明できぬからには、来世が
あると信じざるを得ない』というようなことを言っています。ちょっと乱暴に聞こえます
が、これがオプティミスティックなキリスト教の本質を突いているんじゃないでしょうか。
一度デーケン先生の話を聞くと、理詰めで神の存在を説明してくれるので、精神的にも
とても癒されます。医者や科学者にファンが多いのも納得いきます。実は私も理工科系
なんですが、やはり神様の存在なしには『私は何者か?』という問いに答えられません。
今まで述べたように、私たちにはイエス・キリストという救いのロープ、と言いますか
神への道が示されたのですから、これに乗っかるというのも楽な生き方だと思いますよ。
今西暦2013年ですが、西暦はキリスト誕生以降をAD(紀元後)、誕生以前をBC(紀元前)
と言いますよね。もう二千年以上にわたって信じられ、かつ哲学や文学の議題になって
きた宗教なのですから、私たちもこれを学ぶことによって得られる物は多いはずです。
そういった意味では仏教でも神道でも良いんですが、残念ながら仏教は葬式専用みたいに
なってますし、神道は初詣や新車を買った時の気休めのお祓いなど、イベント専用みたい
になっています。なかなか哲学的命題に応えて貰えない所があるのが残念です。
キリスト教といっても堅苦しい物ではありません。私の口癖は聖書を引用して『天国に宝
を積む前に腹ごしらえ』ですが、決して聖書を冒とくしているわけではありません。
キリスト教はジョークを好みます。デーケン先生もよく冗談を言って人を笑わせます。
またパーティのような飲めや歌えやも大事にします。イエス様が最初に弟子に見せた奇跡
をご存知ですか? ある豪邸で結婚式の披露パーティが開かれ、イエス様や弟子たちも
呼ばれたのですが、皆が盛り上がってカメ一杯用意した葡萄酒が底をついてしまったのです。
召使の女性がイエス様に『あんたも先生だったらここで奇跡を見せて葡萄酒を出して』と
吹っかけたのです。イエス様は『まだ時は来ていない』と一旦は断るのですが、結局、
召使に押し切られ、カメ一杯の水を上等な葡萄酒に変えて見せました。追加された葡萄酒で
パーティもさぞかし盛り上がったでしょうね。
だから私は遠慮なくミシュラン三ツ星レストランで食事をしたり、ブランド日本酒を買い
漁ります。でも先の引用の『天国に宝を積む』ですが、これはイエス様の弟子になりたいと
いう金持ちの男に投げかけられた言葉で『あなたの財産を全て貧しい者に施しなさい。
そうすれば天の国に宝を積むことになる』ということなのです。するとやはり『贅沢は敵、
寄付をしろ』という事になりますね。聖書には色々な含蓄のある言葉が出て来ますが、
やはり最初は自分に都合のいい部分から共感して行けば良いのではないでしょうか・・・
と、ちょっと言い訳を。
デーケン先生なのですが2013年8月に81才になります。少年期は第二次大戦下で苦労された
ようですね。まず当時4才だった妹が病で亡くなります。彼女の最後の言葉が『天国でまた
会いましょう』だったとのこと。またデーケン先生の一家は敬虔なカトリック教徒で、父や
祖父は反ナチス運動の旗手だったとのこと。すなわち、当時のドイツのカトリック教徒は
反ナチだったのです。ここが国民一丸となって鬼畜米英に燃えた日本との違いですね。
そのため父や祖父も強制収容所で労働をさせられたりしたそうです。強制収容所というと
ポーランド人ばかり入れられていたように思いますが、相当数の神父やドイツ人カトリック
教徒も混じっていたのです。
を積む前に腹ごしらえ』ですが、決して聖書を冒とくしているわけではありません。
キリスト教はジョークを好みます。デーケン先生もよく冗談を言って人を笑わせます。
またパーティのような飲めや歌えやも大事にします。イエス様が最初に弟子に見せた奇跡
をご存知ですか? ある豪邸で結婚式の披露パーティが開かれ、イエス様や弟子たちも
呼ばれたのですが、皆が盛り上がってカメ一杯用意した葡萄酒が底をついてしまったのです。
召使の女性がイエス様に『あんたも先生だったらここで奇跡を見せて葡萄酒を出して』と
吹っかけたのです。イエス様は『まだ時は来ていない』と一旦は断るのですが、結局、
召使に押し切られ、カメ一杯の水を上等な葡萄酒に変えて見せました。追加された葡萄酒で
パーティもさぞかし盛り上がったでしょうね。
だから私は遠慮なくミシュラン三ツ星レストランで食事をしたり、ブランド日本酒を買い
漁ります。でも先の引用の『天国に宝を積む』ですが、これはイエス様の弟子になりたいと
いう金持ちの男に投げかけられた言葉で『あなたの財産を全て貧しい者に施しなさい。
そうすれば天の国に宝を積むことになる』ということなのです。するとやはり『贅沢は敵、
寄付をしろ』という事になりますね。聖書には色々な含蓄のある言葉が出て来ますが、
やはり最初は自分に都合のいい部分から共感して行けば良いのではないでしょうか・・・
と、ちょっと言い訳を。
デーケン先生なのですが2013年8月に81才になります。少年期は第二次大戦下で苦労された
ようですね。まず当時4才だった妹が病で亡くなります。彼女の最後の言葉が『天国でまた
会いましょう』だったとのこと。またデーケン先生の一家は敬虔なカトリック教徒で、父や
祖父は反ナチス運動の旗手だったとのこと。すなわち、当時のドイツのカトリック教徒は
反ナチだったのです。ここが国民一丸となって鬼畜米英に燃えた日本との違いですね。
そのため父や祖父も強制収容所で労働をさせられたりしたそうです。強制収容所というと
ポーランド人ばかり入れられていたように思いますが、相当数の神父やドイツ人カトリック
教徒も混じっていたのです。
デーケン少年はというと、小学校で優秀な成績だったのでナチスの幼年学校に推薦入学
されたのですが、父のカトリックの教えを守りナチス幼年学校を拒否。そのため迫害された
そうです。また一番の恐怖は連合国軍の戦闘機に機銃掃射で狙われたことだそうです。
何度も旋回しながら執拗に追ってくる敵戦闘機。パイロットの顔が見えたそうです。
しかしデーケン少年は父の教えに従って敵パイロットを許したとのこと。
それなのにまだデーケン少年を悲劇が襲います。ドイツ降伏のまさに当日、半ナチス運動
をしていた祖父が、あろうことか連合国軍に射殺されたのです。でもやはりアメリカ人を
許すのですね。このような不慮の死の連続がデーケン先生に『死生学』という学問を
選ばせたのでしょうか。そしてデーケン先生はアメリカで博士論文を著し、上智大学に
やって来て教授になったのです。そういった話を優しく語り掛けてくるデーケン先生には、
本当にとても癒されます。各界にファンが多いのもうなずけます。デーケン先生がお元気で
いらっしゃるうちに、一度お話を聞きに来ませんか。きっとあなたの人生に一筋の光明が
見えると思います。
先生の御本もこの講座で買うことが出来ます。その場合、消費税無しで買えるからお得
ですよ。おまけにデーケン先生のサインもいただけます。スレ写真がそのサインです。
デーケン先生は、サインの後に必ず写真のようなニコニコマークを書きます。共に喜びを
分かち合おうという先生のお気持ちの現れでしょうか。ロザリオなどカトリック用品を
買った場合も、デーケン先生に聖別してもらう方が霊験あらたかと言ったら、イグナチオ
教会の神父様に叱られますね。
主の平和がいつも明和の皆さんと共にありますように。
されたのですが、父のカトリックの教えを守りナチス幼年学校を拒否。そのため迫害された
そうです。また一番の恐怖は連合国軍の戦闘機に機銃掃射で狙われたことだそうです。
何度も旋回しながら執拗に追ってくる敵戦闘機。パイロットの顔が見えたそうです。
しかしデーケン少年は父の教えに従って敵パイロットを許したとのこと。
それなのにまだデーケン少年を悲劇が襲います。ドイツ降伏のまさに当日、半ナチス運動
をしていた祖父が、あろうことか連合国軍に射殺されたのです。でもやはりアメリカ人を
許すのですね。このような不慮の死の連続がデーケン先生に『死生学』という学問を
選ばせたのでしょうか。そしてデーケン先生はアメリカで博士論文を著し、上智大学に
やって来て教授になったのです。そういった話を優しく語り掛けてくるデーケン先生には、
本当にとても癒されます。各界にファンが多いのもうなずけます。デーケン先生がお元気で
いらっしゃるうちに、一度お話を聞きに来ませんか。きっとあなたの人生に一筋の光明が
見えると思います。
先生の御本もこの講座で買うことが出来ます。その場合、消費税無しで買えるからお得
ですよ。おまけにデーケン先生のサインもいただけます。スレ写真がそのサインです。
デーケン先生は、サインの後に必ず写真のようなニコニコマークを書きます。共に喜びを
分かち合おうという先生のお気持ちの現れでしょうか。ロザリオなどカトリック用品を
買った場合も、デーケン先生に聖別してもらう方が霊験あらたかと言ったら、イグナチオ
教会の神父様に叱られますね。
主の平和がいつも明和の皆さんと共にありますように。
desperado乙
それだけ信心深いならもっと穏やかにSAROとやりあえるのに…
それだけ信心深いならもっと穏やかにSAROとやりあえるのに…
このスレを覗いたあなたは幸いです。
この板の他スレでは、ちょっと取っつきにくい聖書の言葉を、ただ羅列したような物ばかり
目に付くようです。でもカトリックでは、もちろん基本は聖書にあるわけですけど、やはり
神の御子である主イエス・キリストの生き様を、ミサの聖書朗読を通じて味わうというのが
本質であるように思います。
聖書から断片的に抜き出したお言葉は、それ自体ではいったい何のことかわからない物も多く、
やはり福音書の全体を通してそれを味合わないと、一見矛盾したことのように見えたり
何か線香臭いお説教に聞こえたりすると思います。
キリスト者に与えられた義務のひとつは、福音(神様を信じる喜び・神の教え)を、まだ
神様の存在に気づいていない人に伝える、というものがあります。今日キリスト教がこの
ように一般化したのは、パウロという人がイスラエルからこの教えを欧州に伝えたという
ことが大きいのです。
パウロという人は元の名前をサウロといい、元々はキリスト者を迫害する側の人でした。
ある時サウロは、キリスト者を逮捕・処刑するためイスラエルにやってくるのですが、
神の啓示に目覚めてキリスト者に回心しました。
キリスト教の迫害者であるサウロに対してでも神様は愛の手を差し伸べてくれるのですから、
仏教徒のあなたが、今からキリスト教を勉強しても何ら不都合はありません。もちろん、あなたが
敬虔な仏教徒だとしても、カトリックの教えを聞くのは意義があるかも知れませんよ。
この板の他スレでは、ちょっと取っつきにくい聖書の言葉を、ただ羅列したような物ばかり
目に付くようです。でもカトリックでは、もちろん基本は聖書にあるわけですけど、やはり
神の御子である主イエス・キリストの生き様を、ミサの聖書朗読を通じて味わうというのが
本質であるように思います。
聖書から断片的に抜き出したお言葉は、それ自体ではいったい何のことかわからない物も多く、
やはり福音書の全体を通してそれを味合わないと、一見矛盾したことのように見えたり
何か線香臭いお説教に聞こえたりすると思います。
キリスト者に与えられた義務のひとつは、福音(神様を信じる喜び・神の教え)を、まだ
神様の存在に気づいていない人に伝える、というものがあります。今日キリスト教がこの
ように一般化したのは、パウロという人がイスラエルからこの教えを欧州に伝えたという
ことが大きいのです。
パウロという人は元の名前をサウロといい、元々はキリスト者を迫害する側の人でした。
ある時サウロは、キリスト者を逮捕・処刑するためイスラエルにやってくるのですが、
神の啓示に目覚めてキリスト者に回心しました。
キリスト教の迫害者であるサウロに対してでも神様は愛の手を差し伸べてくれるのですから、
仏教徒のあなたが、今からキリスト教を勉強しても何ら不都合はありません。もちろん、あなたが
敬虔な仏教徒だとしても、カトリックの教えを聞くのは意義があるかも知れませんよ。
幸いなことに7月は、あと10日と17日にデーケン先生の講座が開かれます。7月21日はデーケン
先生が、私たちのために特別ミサを立ててくれます。詳細は講座に来てくれればわかります。
ちょっとイグナチオ教会の一般向けミサと違うのですが、ミサという式典を経験できる良い
機会かも知れません。
これでキリスト者の義務の一つ、福音を述べ伝えるということを、私も果たせたような気が
します。カトリック信者は、前にも述べた通り、他人に無関心な人が多く、福音を述べ伝える
なんてことは誰もしません。これは○○学会とかエホバとかモルモン教を見習わなくては
ならないかも知れませんね。ただそうなるとカトリックもカルトと見られかねないし、こうやって
明和あたりでひっそりやる方が適当でしょうか・・・。
先生が、私たちのために特別ミサを立ててくれます。詳細は講座に来てくれればわかります。
ちょっとイグナチオ教会の一般向けミサと違うのですが、ミサという式典を経験できる良い
機会かも知れません。
これでキリスト者の義務の一つ、福音を述べ伝えるということを、私も果たせたような気が
します。カトリック信者は、前にも述べた通り、他人に無関心な人が多く、福音を述べ伝える
なんてことは誰もしません。これは○○学会とかエホバとかモルモン教を見習わなくては
ならないかも知れませんね。ただそうなるとカトリックもカルトと見られかねないし、こうやって
明和あたりでひっそりやる方が適当でしょうか・・・。
以下飲食板より転載↓
まず、彼は教会にはクリスマスくらいにしか行かないとはっきり言っていた訳で、
その時点で軸がぶれすぎてる。
というか、彼はいつもこんな感じで、その場しのぎの嘘が多すぎる。
会計の話は何度も言ったけど、
会計は神父がやるものでなく、教会員がやるもので、
サレジオやイグナチオあたりの教会員が知らないなんてことは現実的にあり得ない。
共同訳聖書についてもまるで頓珍漢。ただしくは「新共同訳聖書」であり、
「共同訳聖書」はまた別の聖書。
そんなものつかってるプロテスタント教会は無い。単立教会は知らんけど。
なお、俺の友人は経理、ではなくて会計ね(笑)
適当なことばかり言ってるから、
こんな基本的な間違いを犯すんだよ。
経理を教会員がやるはずないじゃん。
改めて、隔離スレでやることを望みますが、
ここで反論されればやむを得ないので、
再反論せざるを得ません。
TBMの人はもしかすると真性なのかもしれないけど
流石に無駄レス過ぎるんで、
帰宅したら削除依頼出しときます。
まず、彼は教会にはクリスマスくらいにしか行かないとはっきり言っていた訳で、
その時点で軸がぶれすぎてる。
というか、彼はいつもこんな感じで、その場しのぎの嘘が多すぎる。
会計の話は何度も言ったけど、
会計は神父がやるものでなく、教会員がやるもので、
サレジオやイグナチオあたりの教会員が知らないなんてことは現実的にあり得ない。
共同訳聖書についてもまるで頓珍漢。ただしくは「新共同訳聖書」であり、
「共同訳聖書」はまた別の聖書。
そんなものつかってるプロテスタント教会は無い。単立教会は知らんけど。
なお、俺の友人は経理、ではなくて会計ね(笑)
適当なことばかり言ってるから、
こんな基本的な間違いを犯すんだよ。
経理を教会員がやるはずないじゃん。
改めて、隔離スレでやることを望みますが、
ここで反論されればやむを得ないので、
再反論せざるを得ません。
TBMの人はもしかすると真性なのかもしれないけど
流石に無駄レス過ぎるんで、
帰宅したら削除依頼出しときます。
会計は教会の事務員も一部携わるのですが、基本は教会単位で行います。
先にも申しました通り、教会の内部事情は基本的に非公開です。
ですからどの神父様が会計担当かは一般信徒には知る由もありません。
だってお金を勘定する神父様なんて、ちょっと想像するのも下衆な感じで嫌でしょう?
ただし、イグナチオ教会はイエズス会に属し、サレジオ会とは違うのかも知れません。
しかし一般信徒が会計をやるなんて、サレジオ会方式は信じられませんね。
個人情報がだだ漏れじゃないですか。
イグナチオでもボランティアグループがたくさんあります。
ホームレスにおにぎりを配ったり、教会の清掃をしたり、それこそ様々です。
しかし教会維持費を数えるボランティアなど聞いたことがありません。
あと蛇足ですが教会員という言い方は止めてください。
先にも申しました通り、教会の内部事情は基本的に非公開です。
ですからどの神父様が会計担当かは一般信徒には知る由もありません。
だってお金を勘定する神父様なんて、ちょっと想像するのも下衆な感じで嫌でしょう?
ただし、イグナチオ教会はイエズス会に属し、サレジオ会とは違うのかも知れません。
しかし一般信徒が会計をやるなんて、サレジオ会方式は信じられませんね。
個人情報がだだ漏れじゃないですか。
イグナチオでもボランティアグループがたくさんあります。
ホームレスにおにぎりを配ったり、教会の清掃をしたり、それこそ様々です。
しかし教会維持費を数えるボランティアなど聞いたことがありません。
あと蛇足ですが教会員という言い方は止めてください。
このスレで死というイメージを宗教としてのキリスト教的視点から述べましたが、
なにしろ理系の私、哲学に関しては全くド素人でお恥ずかしい限り。
ここはやはりサロ君のような神学専攻の者に私の誤りを正して欲しい所ですね。
次回は『生きる』とは何かをキリスト教的視点から語りましょうかね。
なにしろ理系の私、哲学に関しては全くド素人でお恥ずかしい限り。
ここはやはりサロ君のような神学専攻の者に私の誤りを正して欲しい所ですね。
次回は『生きる』とは何かをキリスト教的視点から語りましょうかね。
質問に全然答えてないじゃん。
クリスマスにしか教会いかないといってた人が、
この段になって何故通いつめてるなどとキャラ転換してるの?
共同訳聖書についても、反論になってないし、
会計についても、サレジオは信徒総会で収支報告しないとでも?
サレジオにも勿論友人がいるけど。
教会員、と呼称することの教義的意味付けは?
すべてにおいて適当すぎることばかり。
生きるということ(笑)?
誰もそんな話はしていない。
天然なのか意図的にかは知らないけど、
すっとんきょうな話題を持ち出さないように。
あ、重箱だけど、俺は神学専攻
ではないぞ。宗教学。
院で社会学やら哲学もやってたけど。
クリスマスにしか教会いかないといってた人が、
この段になって何故通いつめてるなどとキャラ転換してるの?
共同訳聖書についても、反論になってないし、
会計についても、サレジオは信徒総会で収支報告しないとでも?
サレジオにも勿論友人がいるけど。
教会員、と呼称することの教義的意味付けは?
すべてにおいて適当すぎることばかり。
生きるということ(笑)?
誰もそんな話はしていない。
天然なのか意図的にかは知らないけど、
すっとんきょうな話題を持ち出さないように。
あ、重箱だけど、俺は神学専攻
ではないぞ。宗教学。
院で社会学やら哲学もやってたけど。
何、頭から湯気出してるんですか?
共同訳聖書と行ったのは私のミスと認めてるじゃないですか。
キャラ転換が気に入らないのですか?
それは相済みませんね。何しろネット世界の仮想空間。
言った者勝ちという原則をひたすら守っているあなたに非難されるとは驚きです。
サレジオの会計についてはあなたの友人の『サレジオ会の会計』の人に聞いて
ください。イグナチオの会計については以下のリンクで調べられる電話番号に
かけてください。事務所に繋がります。
http://www.ignatius.gr.jp/annai/contact.htm...
生きるという事はあなたに言ってるのではありませんよ。
このスレで死という問題に私的考察をしたので、次回は生について考察すると
言ってるのです。この板の趣旨は『思想/哲学』ですよ。
私怨を持ち込まないように。
しかしあなたも変な所に粘着しますね。蛙然り、教会の金の流れ然り。
ずいぶんと卑俗な所ばかり粘着していて、性格に問題があるんじゃないですか?
宗教学が専門なんですね。ははあ、お見それいたしました。
共同訳聖書と行ったのは私のミスと認めてるじゃないですか。
キャラ転換が気に入らないのですか?
それは相済みませんね。何しろネット世界の仮想空間。
言った者勝ちという原則をひたすら守っているあなたに非難されるとは驚きです。
サレジオの会計についてはあなたの友人の『サレジオ会の会計』の人に聞いて
ください。イグナチオの会計については以下のリンクで調べられる電話番号に
かけてください。事務所に繋がります。
http://www.ignatius.gr.jp/annai/contact.htm...
生きるという事はあなたに言ってるのではありませんよ。
このスレで死という問題に私的考察をしたので、次回は生について考察すると
言ってるのです。この板の趣旨は『思想/哲学』ですよ。
私怨を持ち込まないように。
しかしあなたも変な所に粘着しますね。蛙然り、教会の金の流れ然り。
ずいぶんと卑俗な所ばかり粘着していて、性格に問題があるんじゃないですか?
宗教学が専門なんですね。ははあ、お見それいたしました。
>教会員、と呼称することの教義的意味付けは?
>すべてにおいて適当すぎることばかり。
教会員と呼称することの教義的意味付けは知りません。
それはプロテスタントのお友達に聞いてください。
カトリックではまず誰も教会員という用語は使いません。
信徒または信者、あるいはキリスト者と言う場合もあります。
教会員という響きにはプロテスタントの臭いがあります。
一部の(私を含む)カトリック信徒がプロテスタントを嫌うというのは
前述した通りです。これはカトリック教会がどう言おうが、嫌いなものは
嫌いなのですからどうしようもありません。
嫌う理由として追加すると『韓国統一教会もプロテスタントか』、
『プロテスタントの洗礼って風呂桶に突っ込むのか』、『結婚している
牧師に自分の罪を告白することができるか』、『だから告解の秘跡が無い
のか』、『モルモンもプロテスタントを自称しているが、酒もコーヒーも
禁止とはおかしいだろ、イエス様もワインを飲むことを勧めてるじゃないか』、
『プロテスタントは金の亡者、収入の1割を教会維持費に出せとは』等々。
>すべてにおいて適当すぎることばかり。
教会員と呼称することの教義的意味付けは知りません。
それはプロテスタントのお友達に聞いてください。
カトリックではまず誰も教会員という用語は使いません。
信徒または信者、あるいはキリスト者と言う場合もあります。
教会員という響きにはプロテスタントの臭いがあります。
一部の(私を含む)カトリック信徒がプロテスタントを嫌うというのは
前述した通りです。これはカトリック教会がどう言おうが、嫌いなものは
嫌いなのですからどうしようもありません。
嫌う理由として追加すると『韓国統一教会もプロテスタントか』、
『プロテスタントの洗礼って風呂桶に突っ込むのか』、『結婚している
牧師に自分の罪を告白することができるか』、『だから告解の秘跡が無い
のか』、『モルモンもプロテスタントを自称しているが、酒もコーヒーも
禁止とはおかしいだろ、イエス様もワインを飲むことを勧めてるじゃないか』、
『プロテスタントは金の亡者、収入の1割を教会維持費に出せとは』等々。
これも質問に答えてないじゃん。
共同訳聖書については、単純な言い間違え、などという説明はなかったし、
その言い訳は、前スレでもなされてたけど、
日本語訳聖書のなりたちから全く筋違いのものだったし、
そもそも単純なミスで看過されるものじゃない。
教義の枝葉について語ってるときに、本質を言い間違えるかって話だ。
キャラ変更に意味があるかどうかはさておき、
そうではなく、事実として体験したこと、してることがコロコロと変わるのは
議論として駄目だろう。自分が適当だと公言してまわってるようなものだ。
いったもの勝ち?俺はそんなことを言った覚えはないし、
原則として事実に則って主張してるし、議論してる。
蛙の話も、化学調味料の話も、横浜中華街の質の話も、
テクニカルライターがライターではないことも、全部そう。
そもそも自分の主張に筋が通っているなら
キャラ変更、などという小手先の手段はとる必要はないし、
その時点でやはり論拠を失っているのだ。
生きるということに関して。
勘違いも甚だしい(笑)
このスレは食板で板違い、スレ違いになりそうな宗教論議を
適切な場所に移設するために第三者が建てたもので、
実存やら存在の神性を語る場ではない。
君が便乗して書き込んだスレがあるというだけの話で、
根本をとらえ損なっては困る。
どうしてもその話がしたいなら、
それこそ別スレを立てたまえよ。
そこでなら議論に応じることも吝かではない。
共同訳聖書については、単純な言い間違え、などという説明はなかったし、
その言い訳は、前スレでもなされてたけど、
日本語訳聖書のなりたちから全く筋違いのものだったし、
そもそも単純なミスで看過されるものじゃない。
教義の枝葉について語ってるときに、本質を言い間違えるかって話だ。
キャラ変更に意味があるかどうかはさておき、
そうではなく、事実として体験したこと、してることがコロコロと変わるのは
議論として駄目だろう。自分が適当だと公言してまわってるようなものだ。
いったもの勝ち?俺はそんなことを言った覚えはないし、
原則として事実に則って主張してるし、議論してる。
蛙の話も、化学調味料の話も、横浜中華街の質の話も、
テクニカルライターがライターではないことも、全部そう。
そもそも自分の主張に筋が通っているなら
キャラ変更、などという小手先の手段はとる必要はないし、
その時点でやはり論拠を失っているのだ。
生きるということに関して。
勘違いも甚だしい(笑)
このスレは食板で板違い、スレ違いになりそうな宗教論議を
適切な場所に移設するために第三者が建てたもので、
実存やら存在の神性を語る場ではない。
君が便乗して書き込んだスレがあるというだけの話で、
根本をとらえ損なっては困る。
どうしてもその話がしたいなら、
それこそ別スレを立てたまえよ。
そこでなら議論に応じることも吝かではない。
以上の理由で、生きる、などというテーマがスレ違いであることは説明したので、
これが私怨でもないことは重ねて説明するまでもない。
蛙に関しては、中華料理の要素の1つに過ぎない問題ではあるけど、
中華としては馴染み深い、不可欠な食材であるわけで、
少なくともその無知を正当化するような主張には批判せざるを得ないし、
その点でとるに足らない問題と片付けることはできない。
まあ、これについては食板の第三者にも伝わったことだろうと
ある程度納得しているから、
ことさらに掘り起こさなくともよいが。
君はどうも、筋ということに対する把握能力が低い。
人の性格を揶揄する前に、
自分の社会性を省みてはどうか。
教義に関しての反論は帰宅後に改めて。もしかすると明日以降になるかも。悪しからず。
これが私怨でもないことは重ねて説明するまでもない。
蛙に関しては、中華料理の要素の1つに過ぎない問題ではあるけど、
中華としては馴染み深い、不可欠な食材であるわけで、
少なくともその無知を正当化するような主張には批判せざるを得ないし、
その点でとるに足らない問題と片付けることはできない。
まあ、これについては食板の第三者にも伝わったことだろうと
ある程度納得しているから、
ことさらに掘り起こさなくともよいが。
君はどうも、筋ということに対する把握能力が低い。
人の性格を揶揄する前に、
自分の社会性を省みてはどうか。
教義に関しての反論は帰宅後に改めて。もしかすると明日以降になるかも。悪しからず。
何度も言うけど、自演などはしていないし、
その画像はむしろ、IDが被ると言うことの証拠だよね。
なんどそれが自演の証拠になるのかわからん。
あまり下らんことばかり言うようなら、
前に荒らしてた人のようにアク禁にしてもらいます。
その画像はむしろ、IDが被ると言うことの証拠だよね。
なんどそれが自演の証拠になるのかわからん。
あまり下らんことばかり言うようなら、
前に荒らしてた人のようにアク禁にしてもらいます。
『生きる』といったことを考えたいと思うのですが。あのネコは生きているとか、
このサボテンは生きているとか、乳酸菌を生きたまま腸へとか、
私たちは簡単に生きているという言葉を使います。でも人が生きているという場合、
それらとは違ったものであるというのはお判りですよね。
人は霊的に生きていると言えましょう。『私は何者か?』。
答1.『私は新陳代謝をしている有機物である』。
これは真に正しい科学的回答ですね。思えば人体は不思議です。意識せずとも
心臓が鼓動し、肺が酸素を取り入れ、腸が栄養を吸収します。考えるとなかなか
神秘的だと思いませんか?
私は2個の目を持っています。遠くの物も近くの物も見えます(コンタクトが
必要ですが)。色を認識できますし物の形もわかります。人の顔はもちろん
犬や猫の顔も識別できます。目に映った画像を選択して脳のアルバムにしまって
置くこともできます。こんな素晴らしい器官を人間は持っているわけですが
人間が地球上に登場して数十万年あるいは数百万年もたっているのに、まだ誰も
目を作った人はいません。
それにこの答えはあらゆる動植物にあてはまりますから、ちょっと人間を表現
するには物足りないですね。
目で思い出したのですが次のような回答をした人がいます。
答2.『われ思うゆえに我あり』。これはデカルトの言葉ですね。
ヤフー知恵袋に傑作な回答がありますので引用させていただきましょう。
>例えばあなたは今自分の部屋にいます。窓を開けてみてください。そこには
いつも見慣れた光景が広がっているはず、と思いますね。しかしその景色が絶対
にそこにあると証明できますか?できません。
例えば何か悪魔みたいなのがいて、あなたが窓を開けた瞬間にその景色を作って
るのかもしないという可能性を確実に否定することはできません。これは、
ジムキャリーの「トゥルーマン・ショー」という映画を観ると解りやすいかもしれません。
このサボテンは生きているとか、乳酸菌を生きたまま腸へとか、
私たちは簡単に生きているという言葉を使います。でも人が生きているという場合、
それらとは違ったものであるというのはお判りですよね。
人は霊的に生きていると言えましょう。『私は何者か?』。
答1.『私は新陳代謝をしている有機物である』。
これは真に正しい科学的回答ですね。思えば人体は不思議です。意識せずとも
心臓が鼓動し、肺が酸素を取り入れ、腸が栄養を吸収します。考えるとなかなか
神秘的だと思いませんか?
私は2個の目を持っています。遠くの物も近くの物も見えます(コンタクトが
必要ですが)。色を認識できますし物の形もわかります。人の顔はもちろん
犬や猫の顔も識別できます。目に映った画像を選択して脳のアルバムにしまって
置くこともできます。こんな素晴らしい器官を人間は持っているわけですが
人間が地球上に登場して数十万年あるいは数百万年もたっているのに、まだ誰も
目を作った人はいません。
それにこの答えはあらゆる動植物にあてはまりますから、ちょっと人間を表現
するには物足りないですね。
目で思い出したのですが次のような回答をした人がいます。
答2.『われ思うゆえに我あり』。これはデカルトの言葉ですね。
ヤフー知恵袋に傑作な回答がありますので引用させていただきましょう。
>例えばあなたは今自分の部屋にいます。窓を開けてみてください。そこには
いつも見慣れた光景が広がっているはず、と思いますね。しかしその景色が絶対
にそこにあると証明できますか?できません。
例えば何か悪魔みたいなのがいて、あなたが窓を開けた瞬間にその景色を作って
るのかもしないという可能性を確実に否定することはできません。これは、
ジムキャリーの「トゥルーマン・ショー」という映画を観ると解りやすいかもしれません。
さらに私があなたの部屋に行き、一緒に窓の外の景色を観たとして、全く同一の
ものを観ているということも証明できません。なぜなら例え色や形を言葉で説明して
も、その色や形の定義自体が同じであるということを証明することができないからです。
そう考えていくと、世の中にあるもので、絶対に存在を証明することのできるものは
一つもない、ということになります。あるように見えるけど、本当にあるのか?
ということです。
しかし、ここでデカルトは気づきます。そのように考えている思いがあることは確かだ、
と。ということは、そのことを考えている「自分」がいることも、間違いなく事実だ、
ということになります。つまり世の中で絶対に存在することがはっきりしているのは、
今このことを考えている、「自分自身」のみである、ということになります。
だから、「われ思う、故に我あり」なのです。
(引用ここまで)
デカルトにとっての『私は何者か?』とは、絶対的な自分自身を発見した所で止まって
しまいます。でもデカルトも生きたわけで、彼は『なぜ生きるのか?』に思い至らなかった
のでしょうか。
答3.『人間は考える葦である』。有名なパスカルの言葉ですね。パスカルは死を考える
上でも出て来た人ですが大変病弱で、若くして亡くなった物理学者です。そういったことを
知っていれば、これはなかなか示唆に富んだ言葉です。葦は風が吹いたらすぐに倒れて
しまうような弱い植物ですが、考える葦だったらどうでしょうか。倒れたら倒れたで
理由をあれこれ考えられますし、自分で立ち上がる工夫もできますよね。まさに『私は
何者か?』を考えるのに忘れてはならない言葉です。
もちろんこの言葉にはそれ以上の哲学的意味があるのですが、哲学者ならぬ理系人間の
悲しさで、なかなか彼の理論を共有することが叶いません。
ものを観ているということも証明できません。なぜなら例え色や形を言葉で説明して
も、その色や形の定義自体が同じであるということを証明することができないからです。
そう考えていくと、世の中にあるもので、絶対に存在を証明することのできるものは
一つもない、ということになります。あるように見えるけど、本当にあるのか?
ということです。
しかし、ここでデカルトは気づきます。そのように考えている思いがあることは確かだ、
と。ということは、そのことを考えている「自分」がいることも、間違いなく事実だ、
ということになります。つまり世の中で絶対に存在することがはっきりしているのは、
今このことを考えている、「自分自身」のみである、ということになります。
だから、「われ思う、故に我あり」なのです。
(引用ここまで)
デカルトにとっての『私は何者か?』とは、絶対的な自分自身を発見した所で止まって
しまいます。でもデカルトも生きたわけで、彼は『なぜ生きるのか?』に思い至らなかった
のでしょうか。
答3.『人間は考える葦である』。有名なパスカルの言葉ですね。パスカルは死を考える
上でも出て来た人ですが大変病弱で、若くして亡くなった物理学者です。そういったことを
知っていれば、これはなかなか示唆に富んだ言葉です。葦は風が吹いたらすぐに倒れて
しまうような弱い植物ですが、考える葦だったらどうでしょうか。倒れたら倒れたで
理由をあれこれ考えられますし、自分で立ち上がる工夫もできますよね。まさに『私は
何者か?』を考えるのに忘れてはならない言葉です。
もちろんこの言葉にはそれ以上の哲学的意味があるのですが、哲学者ならぬ理系人間の
悲しさで、なかなか彼の理論を共有することが叶いません。
答4.『私は一流大学を出たエリートサラリーマンだ』。
それはうらやましい。私はといえばダメダメリーマンです。その昔『スチャラカ社員』と
いう映画があったそうですが。その類です、我ながら・・・。
でもあなたはどうして一流大学を出られたのですか? 偶然ですか? 頭が良かったから
ですか? 猛勉強をしたからですか? ちょっと変な例えですが、精子は1度に最大4億から
5億も出るのですが、その99%が子宮頚部にたどり着く前に死んでしまうそうです。運よく
子宮にたどり着くのは数千から数十万、そしてその中のたった1個が卵子と受精してあなたが
生まれたのですね。そう考えると自分自身を偶然の産物と考えるには、あまりに神秘的な、
不思議な出来事のように思えませんか?
答5.『私はニートの自宅警備員だ』。
それはこまりましたね。時間という川はとても急流で、常に頑張って泳いでいないと
どんどん下流に押し流されて溺れてしまいますよ。溺れる者は藁をも掴むといいますが、
どんな藁にでもしがみつくという努力が大切なんだと思います。まずどうにか川の流れに
身を任せられられるという所に、自分を持って行くという努力が急務だと思います。
『なぜ生きるかがわかっていれば、大抵の苦難は我慢できるものだ』とはニーチェの言葉
ですが、『私は何者か?』という命題は私たち生きている人にとっては『なぜ生きるのか?』
という命題に言いかえることが出来ると思います。ニーチェの言葉はとてもオプティミス
ティックですね。
というのも次のようなことを言った日本人がいるからです。
『人生は重き荷を負うて遠き道を往くがごとし』。これは徳川家康の言葉ですが(後世の
創作臭いらしいですが)、なかなかペシミスティックですね。
どちらも真だと思うのですが、私はオプティミスティックですから『なぜ生きるのか?』と
考えたい所ですが、これがなかなか難しい。先にも申しました通り時間の流れは急流で、
いくら泳いでも対岸へたどり着くことができません。このまま死ぬまでわからないんじゃない
だろうかと思ったりもします。『なぜ生きるのか?』が分かった時から、私は『真に生き始め
る』んじゃないかと思います。そういった意味でニーチェは私を希望の光で照らしてくれたと
言えましょう。
それはうらやましい。私はといえばダメダメリーマンです。その昔『スチャラカ社員』と
いう映画があったそうですが。その類です、我ながら・・・。
でもあなたはどうして一流大学を出られたのですか? 偶然ですか? 頭が良かったから
ですか? 猛勉強をしたからですか? ちょっと変な例えですが、精子は1度に最大4億から
5億も出るのですが、その99%が子宮頚部にたどり着く前に死んでしまうそうです。運よく
子宮にたどり着くのは数千から数十万、そしてその中のたった1個が卵子と受精してあなたが
生まれたのですね。そう考えると自分自身を偶然の産物と考えるには、あまりに神秘的な、
不思議な出来事のように思えませんか?
答5.『私はニートの自宅警備員だ』。
それはこまりましたね。時間という川はとても急流で、常に頑張って泳いでいないと
どんどん下流に押し流されて溺れてしまいますよ。溺れる者は藁をも掴むといいますが、
どんな藁にでもしがみつくという努力が大切なんだと思います。まずどうにか川の流れに
身を任せられられるという所に、自分を持って行くという努力が急務だと思います。
『なぜ生きるかがわかっていれば、大抵の苦難は我慢できるものだ』とはニーチェの言葉
ですが、『私は何者か?』という命題は私たち生きている人にとっては『なぜ生きるのか?』
という命題に言いかえることが出来ると思います。ニーチェの言葉はとてもオプティミス
ティックですね。
というのも次のようなことを言った日本人がいるからです。
『人生は重き荷を負うて遠き道を往くがごとし』。これは徳川家康の言葉ですが(後世の
創作臭いらしいですが)、なかなかペシミスティックですね。
どちらも真だと思うのですが、私はオプティミスティックですから『なぜ生きるのか?』と
考えたい所ですが、これがなかなか難しい。先にも申しました通り時間の流れは急流で、
いくら泳いでも対岸へたどり着くことができません。このまま死ぬまでわからないんじゃない
だろうかと思ったりもします。『なぜ生きるのか?』が分かった時から、私は『真に生き始め
る』んじゃないかと思います。そういった意味でニーチェは私を希望の光で照らしてくれたと
言えましょう。
黒澤明監督の映画に『生きる』という傑作があるそうですが、私は世代が違うのか観たことが
ありません。しかし大体の荒筋は知っています。ある平凡な中年サラリーマンが、ある時
突然に、ガンで余命半年と宣告されるのです。その時彼は、自分の過ぎ越しかたを思って
愕然とするのですね。会社と家庭の間を惰性で条件反射のように行き来して、得た物は一体
なんだったのだろう。そして彼は自分の住んでいる地区に児童公園が無いことに気づきました。
そこで彼は自分に残された半年の命を児童公園の実現のために使おうと思い立つのです。
彼は自分の人生が半年と知った時点で初めて『真に生き始めた』んですね。そして公園が完成
した夜、彼は自分が奔走して実現したブランコに座りながら息を引き取るのです。
彼の死に顔に笑顔があったか、それともまだやり残した後悔の顔があったかはわかりません。
突然に私事で恐縮ですが、はっきり言って私も惰性で生きてしまっているようです。生きる
目的もまだ見えないし、『なぜ生きるのか?』などに答えるなんて畏れ多くて出来やしません。
これは私にとって神秘に属す命題です。まさに『言うは易く行うは難し』ですね。生きるという
ことはメソッド(方法)では無くプロシージャー(手続き・手順)だと理系の私はつくづく
思うのですが、そこから先が見えません。どのような手順を踏めば真に生きられるのでしょう。
神秘などというと宗教上の問題も絡んで来てしまうのですが、なにしろ生身の自分でさえこの
問いに上手く答えられないのですから、宗教を引き合いに出したら問題が更に哲学的な深みへと
はまって行きます。眩暈さえ感じざるを得ません。皆さんに自分の馬鹿さ加減を告白しましょう。
ありません。しかし大体の荒筋は知っています。ある平凡な中年サラリーマンが、ある時
突然に、ガンで余命半年と宣告されるのです。その時彼は、自分の過ぎ越しかたを思って
愕然とするのですね。会社と家庭の間を惰性で条件反射のように行き来して、得た物は一体
なんだったのだろう。そして彼は自分の住んでいる地区に児童公園が無いことに気づきました。
そこで彼は自分に残された半年の命を児童公園の実現のために使おうと思い立つのです。
彼は自分の人生が半年と知った時点で初めて『真に生き始めた』んですね。そして公園が完成
した夜、彼は自分が奔走して実現したブランコに座りながら息を引き取るのです。
彼の死に顔に笑顔があったか、それともまだやり残した後悔の顔があったかはわかりません。
突然に私事で恐縮ですが、はっきり言って私も惰性で生きてしまっているようです。生きる
目的もまだ見えないし、『なぜ生きるのか?』などに答えるなんて畏れ多くて出来やしません。
これは私にとって神秘に属す命題です。まさに『言うは易く行うは難し』ですね。生きるという
ことはメソッド(方法)では無くプロシージャー(手続き・手順)だと理系の私はつくづく
思うのですが、そこから先が見えません。どのような手順を踏めば真に生きられるのでしょう。
神秘などというと宗教上の問題も絡んで来てしまうのですが、なにしろ生身の自分でさえこの
問いに上手く答えられないのですから、宗教を引き合いに出したら問題が更に哲学的な深みへと
はまって行きます。眩暈さえ感じざるを得ません。皆さんに自分の馬鹿さ加減を告白しましょう。
こういった宗教的問題は宗教学を専攻したと自称するサロ君が適任ですが、はっきり申し上げて
彼は馬鹿です。少なくとも馬鹿というカテゴリーに属す人です。少なくともと言わずとも、
とてもわかりやすい馬鹿です。その文章力の無さからも馬鹿さ加減が見て取れますし、
言っていることからも馬鹿さがわかります。彼の言い回しには、わざとそうしてるのか、または
全くの無知からか、他人を幻惑する曖昧さが含まれています。一見もっともらしい事を言って
いるように感じて、他人に嫌味ったらしさやウザったさを感じさせるのはそのためです。
馬鹿な彼は自分を高みに置くことで自分の馬鹿さを正当化したいのでしょう。それが言い方の
曖昧さに繋がるのではないでしょうか。だから馬鹿な彼に回答を期待するのは無理です。
馬鹿を表現する諺として『木を見て森を見ず』というものがありますが、この言葉ほど彼の
馬鹿さ加減を言い表す諺がありましょうか。まずあの蛙に長々と粘着する馬鹿さ加減はどうで
しょう。次に化調に粘着する馬鹿さぶり。私が共同訳聖書と言ったことについての粘着ぶりは、
馬鹿と突き放すに足る馬鹿さぶりと思わずにはいられません。横浜中華街への批判はどうですか。
彼には他者の価値観が理解できないようですね。自分の価値観が絶対だと信じるのは最大の
馬鹿者ですね。こんな些末な事象を『とるに足らない問題と片付けることはできない』と更な
る粘着を宣言する馬鹿です。真にとるに足らない問題では無いですか・・・少なくとも中学生
以上の頭脳であれば自身の不明を恥じるのでは? まあ馬鹿な彼には何も期待はしますまい。
あげくは教会の金の流れにグダグダと文句を垂れるという馬鹿のオマケが・・・馬鹿ですねえ。
私の書いた漢文の意味も分からぬ馬鹿ですし、皮肉も通じない馬鹿です。学が無いとかたずける
には、あまりに馬鹿な馬鹿さっぷり。ついに『院』を出たなどと馬鹿なことを言い出します。
院とは何でしょう。キ○○イ病院でしょうか。少年院とか山寺の奥ノ院かも知れません。
彼は馬鹿です。少なくとも馬鹿というカテゴリーに属す人です。少なくともと言わずとも、
とてもわかりやすい馬鹿です。その文章力の無さからも馬鹿さ加減が見て取れますし、
言っていることからも馬鹿さがわかります。彼の言い回しには、わざとそうしてるのか、または
全くの無知からか、他人を幻惑する曖昧さが含まれています。一見もっともらしい事を言って
いるように感じて、他人に嫌味ったらしさやウザったさを感じさせるのはそのためです。
馬鹿な彼は自分を高みに置くことで自分の馬鹿さを正当化したいのでしょう。それが言い方の
曖昧さに繋がるのではないでしょうか。だから馬鹿な彼に回答を期待するのは無理です。
馬鹿を表現する諺として『木を見て森を見ず』というものがありますが、この言葉ほど彼の
馬鹿さ加減を言い表す諺がありましょうか。まずあの蛙に長々と粘着する馬鹿さ加減はどうで
しょう。次に化調に粘着する馬鹿さぶり。私が共同訳聖書と言ったことについての粘着ぶりは、
馬鹿と突き放すに足る馬鹿さぶりと思わずにはいられません。横浜中華街への批判はどうですか。
彼には他者の価値観が理解できないようですね。自分の価値観が絶対だと信じるのは最大の
馬鹿者ですね。こんな些末な事象を『とるに足らない問題と片付けることはできない』と更な
る粘着を宣言する馬鹿です。真にとるに足らない問題では無いですか・・・少なくとも中学生
以上の頭脳であれば自身の不明を恥じるのでは? まあ馬鹿な彼には何も期待はしますまい。
あげくは教会の金の流れにグダグダと文句を垂れるという馬鹿のオマケが・・・馬鹿ですねえ。
私の書いた漢文の意味も分からぬ馬鹿ですし、皮肉も通じない馬鹿です。学が無いとかたずける
には、あまりに馬鹿な馬鹿さっぷり。ついに『院』を出たなどと馬鹿なことを言い出します。
院とは何でしょう。キ○○イ病院でしょうか。少年院とか山寺の奥ノ院かも知れません。
そして宗教学者のくせに教会で結婚式を挙げるという馬鹿さを露呈しました。愚挙ですね。
確かに神は一方的かつ無条件に我々人類を愛されると新約聖書に書いてありますが、
馬鹿な彼はそれに甘えたんでしょうか。私たちは誰でも労働すれば対価を要求します。
ただ働きほど嫌なものは無いでしょう。いやボランティアや募金があるとお思いでしょうが、
これにしたって無意識に対価を要求しています。世間体とか、募金することによって自分を
高みに持って行こうとする下心。普段のやましい行動を正当化するための偽善。
つまり無意識に対価を要求していることを新約聖書は教えています。
それなのに結婚式は教会で挙げて後は知らんぷりという馬鹿さ。
ああ、いくらか牧師に払ったんですか。それで事足れりとは、あまりに神を冒涜する馬鹿者と
断定せざるを得ません。彼は私のことを俗物呼ばわりする馬鹿ですが、いったいどちらが
俗物でしょうか。こんな矛盾にも気づかない馬鹿に俗物と言われるのも、全くもって総毛立つ
思いがします。
彼が私を俗物呼ばわりするのは『負け惜しみ』『負け犬の遠吠え』『持たざる者の妬み・嫉み・
僻み』といった言葉で簡単に片づけられる類のもので、私にとっては痛くも痒くも無いのですが、
彼は馬鹿ですから、私にダメージを与えていると思っているんでしょうね。哀れな馬鹿です。
私が日本酒の写真をアップする時も、事前に彼の答えが想像できてしまいます。そして案の定、
判で押したような馬鹿な答えをしてしまうという、真にわかりやすい馬鹿です。これを科学的に
は『反射』と言いますね。私たちは熱いやかんに触れた時、思わず指を引っ込めます。
これが反射です。脳が『指を引っ込めろ』と指示を出すのを待っていたらダメージが大きくなり
ますから、無意識で体が反応する仕組みがあるんですね。
下等な動物ほど脳が小さいわけで反射で行動する度合いが高いわけですが、高等教育を受けた
はずの彼が、常に同じような反射行動をとるとは興味深いです。哲学的な馬鹿と言えるでしょう。
確かに神は一方的かつ無条件に我々人類を愛されると新約聖書に書いてありますが、
馬鹿な彼はそれに甘えたんでしょうか。私たちは誰でも労働すれば対価を要求します。
ただ働きほど嫌なものは無いでしょう。いやボランティアや募金があるとお思いでしょうが、
これにしたって無意識に対価を要求しています。世間体とか、募金することによって自分を
高みに持って行こうとする下心。普段のやましい行動を正当化するための偽善。
つまり無意識に対価を要求していることを新約聖書は教えています。
それなのに結婚式は教会で挙げて後は知らんぷりという馬鹿さ。
ああ、いくらか牧師に払ったんですか。それで事足れりとは、あまりに神を冒涜する馬鹿者と
断定せざるを得ません。彼は私のことを俗物呼ばわりする馬鹿ですが、いったいどちらが
俗物でしょうか。こんな矛盾にも気づかない馬鹿に俗物と言われるのも、全くもって総毛立つ
思いがします。
彼が私を俗物呼ばわりするのは『負け惜しみ』『負け犬の遠吠え』『持たざる者の妬み・嫉み・
僻み』といった言葉で簡単に片づけられる類のもので、私にとっては痛くも痒くも無いのですが、
彼は馬鹿ですから、私にダメージを与えていると思っているんでしょうね。哀れな馬鹿です。
私が日本酒の写真をアップする時も、事前に彼の答えが想像できてしまいます。そして案の定、
判で押したような馬鹿な答えをしてしまうという、真にわかりやすい馬鹿です。これを科学的に
は『反射』と言いますね。私たちは熱いやかんに触れた時、思わず指を引っ込めます。
これが反射です。脳が『指を引っ込めろ』と指示を出すのを待っていたらダメージが大きくなり
ますから、無意識で体が反応する仕組みがあるんですね。
下等な動物ほど脳が小さいわけで反射で行動する度合いが高いわけですが、高等教育を受けた
はずの彼が、常に同じような反射行動をとるとは興味深いです。哲学的な馬鹿と言えるでしょう。
もう一度申し上げますが、宗教学者であるはずの彼が、何も知らぬ存ぜぬという体で教会で
結婚式ごっこをするとは、渋谷辺りを闊歩している馬鹿ップルと、何ら変わらぬ馬鹿でしょうね。
いや真に全くもって馬鹿であると言わざるを得ません。彼の馬鹿さには感動すら覚えます。
思うに彼が宗教学を学んだという大学が馬鹿しか入らないような馬鹿大学だったのでしょう。
宗教学と聞くとぱっと○洋大学が思い浮かんだのですが、まあ頭の良い大学とは言えませんね。
世間的には馬鹿な大学でしょう。それも宗教学ですよ馬鹿。おまけに院なんですよ馬鹿馬鹿。
最近流行のお馬鹿タレントも裸足で逃げ出す馬鹿さではないでしょうか。
その馬鹿な彼が今日も自分の馬鹿なコテハンを晒して馬鹿なことを書き込むとは。
馬鹿には恥という概念が無いんでしょうか。我が家の猫の方が、馬鹿な彼より余程真っ当な
生き方をしていると思いますよ。
馬鹿は死ななきゃ治らないといいますが、馬鹿な彼は何度死んだら治るでしょう。
無知は悪い事とは思いませんが、馬鹿なくせに無理矢理背伸びしている彼は、
真に哀れむべき馬鹿と言って過言ではない馬鹿なんだと思います。
とても高学歴者とは思えない馬鹿さぶりです。
いったい馬鹿と何度書いたのか自分でもわからない程です。あまりに馬鹿馬鹿しいので、
もう馬鹿と言うのは止めたいのです。
馬鹿に対して馬鹿というほど無意味で馬鹿な事もまず無いでしょうね。
カトリックのミサで次のようなお祈りをミサの最初に唱えます。
『全能の神と兄弟の皆さんに告白します。私は思い、言葉、行い、怠りによって度々罪を犯しま
した。聖母マリア、全ての天使と聖人、そして兄弟の皆さん。罪深い私のために神に祈って
ください』。こんだけ散々『馬鹿馬鹿』と言っても、私には全然罪を犯したという意識が無い
ことも告白しておきましょう。彼は自分が馬鹿という自覚も無いのですから、ある意味動物では
ないわけで、でありますからいくら馬鹿馬鹿と言っても問題ないのは道理だと思いませんか?
結婚式ごっこをするとは、渋谷辺りを闊歩している馬鹿ップルと、何ら変わらぬ馬鹿でしょうね。
いや真に全くもって馬鹿であると言わざるを得ません。彼の馬鹿さには感動すら覚えます。
思うに彼が宗教学を学んだという大学が馬鹿しか入らないような馬鹿大学だったのでしょう。
宗教学と聞くとぱっと○洋大学が思い浮かんだのですが、まあ頭の良い大学とは言えませんね。
世間的には馬鹿な大学でしょう。それも宗教学ですよ馬鹿。おまけに院なんですよ馬鹿馬鹿。
最近流行のお馬鹿タレントも裸足で逃げ出す馬鹿さではないでしょうか。
その馬鹿な彼が今日も自分の馬鹿なコテハンを晒して馬鹿なことを書き込むとは。
馬鹿には恥という概念が無いんでしょうか。我が家の猫の方が、馬鹿な彼より余程真っ当な
生き方をしていると思いますよ。
馬鹿は死ななきゃ治らないといいますが、馬鹿な彼は何度死んだら治るでしょう。
無知は悪い事とは思いませんが、馬鹿なくせに無理矢理背伸びしている彼は、
真に哀れむべき馬鹿と言って過言ではない馬鹿なんだと思います。
とても高学歴者とは思えない馬鹿さぶりです。
いったい馬鹿と何度書いたのか自分でもわからない程です。あまりに馬鹿馬鹿しいので、
もう馬鹿と言うのは止めたいのです。
馬鹿に対して馬鹿というほど無意味で馬鹿な事もまず無いでしょうね。
カトリックのミサで次のようなお祈りをミサの最初に唱えます。
『全能の神と兄弟の皆さんに告白します。私は思い、言葉、行い、怠りによって度々罪を犯しま
した。聖母マリア、全ての天使と聖人、そして兄弟の皆さん。罪深い私のために神に祈って
ください』。こんだけ散々『馬鹿馬鹿』と言っても、私には全然罪を犯したという意識が無い
ことも告白しておきましょう。彼は自分が馬鹿という自覚も無いのですから、ある意味動物では
ないわけで、でありますからいくら馬鹿馬鹿と言っても問題ないのは道理だと思いませんか?
宗教学者のくせに教会で結婚式を挙げるという馬鹿さを露呈したと私が言ったことについて
誤解があるといけないので補足すると、主キリスト・イエズスは、全能の神である父の愛は
全ての人々にあると言われましたが、この全ての人々というのは、主なる神を信仰した人だけ
しか指さない可能性が高いのです。いや、きっぱり言いますが、主の愛は洗礼の秘跡を授かった
者にしか及びません。
主イエズスはきっぱりと弟子たちに『異邦人の所に行ってはいけない』と述べています
(ちなみに人を馬鹿と言ってはいけないとも述べていますが)。誰だってただ働きは嫌という
のは、そういう意味です。で無ければ、教会で洗礼を受けて、毎月教会維持費をきちんと
収めている私たち信徒が浮かばれません。当然の理でしょう?
また、主イエズスを信じない人たちに呪いの言葉も述べています。宗教学専攻のサロ君が
それを知ってか知らずか、教会での結婚を金で買うという愚挙に出たのは、真に軽率だった
でしょう。
お金目当てで異教徒のサロ夫妻に結婚の秘跡を授けたインチキ教会の牧師も、聖書によれば
呪われる存在です(プロテでは秘跡と言わないようですが)。牧師にしたって聖書を読解
しているはずですから、聖書の教えに素直に従えば、サロ君の結婚ごっこに単に付き合った
だけで本気では無かったと言うでしょうし、聖書に従うならサロ夫妻を呪ったはずです。
およそ世界中の宗教で呪いの概念の無い宗教があるでしょうか。例えば日本の神道だって
根本は怨霊信仰にあると井沢元彦氏も述べています。鎮守様という字面を見たって怨霊を
鎮める物だということが理解できるでしょう。
誤解があるといけないので補足すると、主キリスト・イエズスは、全能の神である父の愛は
全ての人々にあると言われましたが、この全ての人々というのは、主なる神を信仰した人だけ
しか指さない可能性が高いのです。いや、きっぱり言いますが、主の愛は洗礼の秘跡を授かった
者にしか及びません。
主イエズスはきっぱりと弟子たちに『異邦人の所に行ってはいけない』と述べています
(ちなみに人を馬鹿と言ってはいけないとも述べていますが)。誰だってただ働きは嫌という
のは、そういう意味です。で無ければ、教会で洗礼を受けて、毎月教会維持費をきちんと
収めている私たち信徒が浮かばれません。当然の理でしょう?
また、主イエズスを信じない人たちに呪いの言葉も述べています。宗教学専攻のサロ君が
それを知ってか知らずか、教会での結婚を金で買うという愚挙に出たのは、真に軽率だった
でしょう。
お金目当てで異教徒のサロ夫妻に結婚の秘跡を授けたインチキ教会の牧師も、聖書によれば
呪われる存在です(プロテでは秘跡と言わないようですが)。牧師にしたって聖書を読解
しているはずですから、聖書の教えに素直に従えば、サロ君の結婚ごっこに単に付き合った
だけで本気では無かったと言うでしょうし、聖書に従うならサロ夫妻を呪ったはずです。
およそ世界中の宗教で呪いの概念の無い宗教があるでしょうか。例えば日本の神道だって
根本は怨霊信仰にあると井沢元彦氏も述べています。鎮守様という字面を見たって怨霊を
鎮める物だということが理解できるでしょう。
削除(by投稿者)
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すなわちサロ君はキリスト教から呪われた存在であると言えます。私も主の教えに従って
サロ君を呪います。これはバチカンの公式見解ではありませんが、カトリックの信徒なら
誰しも口にせずとも、そう思っているはずです。2chのカトリックスレを見てもよく分かる
はずです。最後に聖書から私の好きな呪いの言葉を贈りましょう。
『カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府(よみ)にまで
落とされるのだ。』『はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムとゴモラの地の
方が軽い罰で済む。』
サロ君を呪います。これはバチカンの公式見解ではありませんが、カトリックの信徒なら
誰しも口にせずとも、そう思っているはずです。2chのカトリックスレを見てもよく分かる
はずです。最後に聖書から私の好きな呪いの言葉を贈りましょう。
『カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府(よみ)にまで
落とされるのだ。』『はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムとゴモラの地の
方が軽い罰で済む。』
しばらくぶりに見てみれば、
ろくに反論もせずに、スレに関係ない話題ばかりじゃないか(笑)
こういう態度が逃げであり、
社会性の欠如だと言ってるんだよ。
君がこのスレで出きることは、
敬虔なカソリックでありながら、クリスマスにしか教会いかない等といっていたのが、
翻って毎週通ってるなどとする、その適当な態度と嘘の釈明、
基本的な知識もないことの弁明だけだよ。
それ以外をしたいなら別スレで。
隔離スレとは言えど、スレ違いなんて基本的なマナー違反をやってるようじゃ、
いうことなすこと空々しすぎる。
共通して批判できることもある。
大学で宗教学を専攻していたと聞いて、宗教学者だと解釈する読解力の欠如。
デカルトの唯識論が神の存在証明に既決していることを知りもしない浅薄な知識。
君はそのあたりが、カエルでも酒でも全部共通しているんだよ。だから批判しているんだ。
ろくに反論もせずに、スレに関係ない話題ばかりじゃないか(笑)
こういう態度が逃げであり、
社会性の欠如だと言ってるんだよ。
君がこのスレで出きることは、
敬虔なカソリックでありながら、クリスマスにしか教会いかない等といっていたのが、
翻って毎週通ってるなどとする、その適当な態度と嘘の釈明、
基本的な知識もないことの弁明だけだよ。
それ以外をしたいなら別スレで。
隔離スレとは言えど、スレ違いなんて基本的なマナー違反をやってるようじゃ、
いうことなすこと空々しすぎる。
共通して批判できることもある。
大学で宗教学を専攻していたと聞いて、宗教学者だと解釈する読解力の欠如。
デカルトの唯識論が神の存在証明に既決していることを知りもしない浅薄な知識。
君はそのあたりが、カエルでも酒でも全部共通しているんだよ。だから批判しているんだ。
はいはい、俗物の痩せ我慢、空威張り。
盗用大学でどんな宗教学を学んだの?
トコロテン卒業でつか?
かえる学でつか?
屁理屈ばかりじゃなく、まともな事を言おうな。
呪われなさい。
呪われなさい。
盗用大学でどんな宗教学を学んだの?
トコロテン卒業でつか?
かえる学でつか?
屁理屈ばかりじゃなく、まともな事を言おうな。
呪われなさい。
呪われなさい。
毎度毎度お決まりの文句『ろくに反論もせず』って何でしょうね。
反論したつもりなんですけどね。まあ大人げない議論はスルーしたかもですが(笑)。
『カソリック』という言い方も気に入らないですね。カトリックとはギリシア語のカトリケー
(普遍的)に由来する言葉なので『カトリック』が正しいのです。宗教学者の彼がそれを知らない
ってのも意外ですね。おっと、サロ君は宗教学を学んだのに宗教学者では無いと言ってますね。
私は工学部を出たから大手を振ってエンジニアと自称してますけど、彼には何か複雑な事情がある
らしいですね、何しろ盗用大学ですもんね(笑)。
なんかデカルトの件でお怒りのようですが、本当はサロ君に教えて欲しい所ですけど、彼は馬鹿だ
から無理でしょう。私が代わってデカルトについて考察しますか。デカルトの根本は形而上学です。
いきなり形而上学といっても難しいので、簡単に解釈しましょう。
まず美という概念のみに絞ります。形而上学的美とは中世の思想家トマスなんとか(笑)という人
によると『1.充足性あるいは完全性。不完全な物はまさに不完全という真実ゆえに醜い。2.適切な
均衡あるいは調和。3.鮮やかさあるいは明るさ。輝かしい色をした物を美しいと呼ぶのはこのため』
と述べています。すなわち形而上学的に美を愛でるとは、知的に分析して定量的に美を理解する
態度です。デカルトはこのような理詰めな方法で神の存在へと迫ろうとしました。
反論したつもりなんですけどね。まあ大人げない議論はスルーしたかもですが(笑)。
『カソリック』という言い方も気に入らないですね。カトリックとはギリシア語のカトリケー
(普遍的)に由来する言葉なので『カトリック』が正しいのです。宗教学者の彼がそれを知らない
ってのも意外ですね。おっと、サロ君は宗教学を学んだのに宗教学者では無いと言ってますね。
私は工学部を出たから大手を振ってエンジニアと自称してますけど、彼には何か複雑な事情がある
らしいですね、何しろ盗用大学ですもんね(笑)。
なんかデカルトの件でお怒りのようですが、本当はサロ君に教えて欲しい所ですけど、彼は馬鹿だ
から無理でしょう。私が代わってデカルトについて考察しますか。デカルトの根本は形而上学です。
いきなり形而上学といっても難しいので、簡単に解釈しましょう。
まず美という概念のみに絞ります。形而上学的美とは中世の思想家トマスなんとか(笑)という人
によると『1.充足性あるいは完全性。不完全な物はまさに不完全という真実ゆえに醜い。2.適切な
均衡あるいは調和。3.鮮やかさあるいは明るさ。輝かしい色をした物を美しいと呼ぶのはこのため』
と述べています。すなわち形而上学的に美を愛でるとは、知的に分析して定量的に美を理解する
態度です。デカルトはこのような理詰めな方法で神の存在へと迫ろうとしました。
しかしこれは欧州的な思考法です。私たち日本人が美という場合、美しい、神々しい、きれい、
しぶい、いきだ、雅だ、はんなり・・・それこそ様々な言い方があります。これは知的に分析して
定量化できませんね。これは審美学的な美と呼びます。審美学的美とは理詰めで考えるのではなく
人間の感性に訴える物を素直に見つめようという態度です。
ちょっと誤解があるといけないので蛇足ですが『形而上学』の反対が『審美学』ではありません。
神という存在を理解しようとする時、デカルトのような態度ももちろん必要ですが、形而上学的な
態度では無く審美学的な態度で理解するのが適切なのだと思います。カトリックでは神は最も完全
で、かつ最も美しいものとします。
人間は不完全な者ですから、それぞれの器量(受容力)によって神の美を受け入れます。いかに
すばらしいといわれる美でも、この世では有限ですから、神の無限の美の一部を反映したものに
しかすぎません。すなわち素晴らしいダビンチやミケランジェロの作品でさえも、神の無限の美の
一部分を捉えた物にすぎないのです。しかし、だからといって、それらの作品が駄作であると言う
のではありません。私たちにはそれらの作品を通して神の無限の美を眺望できる能力が授けられて
います。
つまり形而上学的に神を理解する必要はありません。それは『あるもの』として人間の理解を超越
して存在するものという態度で接するのが望ましいでしょう。
ちょっとデカルトから脱線してしまいましたが、門外漢の私よりサロ君が易しく答えてくれるでしょう。
しぶい、いきだ、雅だ、はんなり・・・それこそ様々な言い方があります。これは知的に分析して
定量化できませんね。これは審美学的な美と呼びます。審美学的美とは理詰めで考えるのではなく
人間の感性に訴える物を素直に見つめようという態度です。
ちょっと誤解があるといけないので蛇足ですが『形而上学』の反対が『審美学』ではありません。
神という存在を理解しようとする時、デカルトのような態度ももちろん必要ですが、形而上学的な
態度では無く審美学的な態度で理解するのが適切なのだと思います。カトリックでは神は最も完全
で、かつ最も美しいものとします。
人間は不完全な者ですから、それぞれの器量(受容力)によって神の美を受け入れます。いかに
すばらしいといわれる美でも、この世では有限ですから、神の無限の美の一部を反映したものに
しかすぎません。すなわち素晴らしいダビンチやミケランジェロの作品でさえも、神の無限の美の
一部分を捉えた物にすぎないのです。しかし、だからといって、それらの作品が駄作であると言う
のではありません。私たちにはそれらの作品を通して神の無限の美を眺望できる能力が授けられて
います。
つまり形而上学的に神を理解する必要はありません。それは『あるもの』として人間の理解を超越
して存在するものという態度で接するのが望ましいでしょう。
ちょっとデカルトから脱線してしまいましたが、門外漢の私よりサロ君が易しく答えてくれるでしょう。
具体的な反論がないとは、
最初クリスマスにしか教会行かないと言っていた人が、
なぜ急に毎週通ってるなどと言を翻したのかということ。
その他のことも全部同じ。
共同訳聖書についても、ミスだミスだと繰り返すだけで、
どういう意図で用いたのか一切説明はないし、
教会籍の存在すら否定してたことも、
全部反論がなされてない。
中国でメジャーな食材であると認めたカエルについて、
学者でもない限り知らなくていい、などと述べたことや、
横浜の中華街の中でも、いきつけの店だけは腐ってないといいながら
その店が悪いと知りつつも科学調味料を使っていることなどは
いつまでたっても有効な反論はないよね。
いつも同じ。
最初クリスマスにしか教会行かないと言っていた人が、
なぜ急に毎週通ってるなどと言を翻したのかということ。
その他のことも全部同じ。
共同訳聖書についても、ミスだミスだと繰り返すだけで、
どういう意図で用いたのか一切説明はないし、
教会籍の存在すら否定してたことも、
全部反論がなされてない。
中国でメジャーな食材であると認めたカエルについて、
学者でもない限り知らなくていい、などと述べたことや、
横浜の中華街の中でも、いきつけの店だけは腐ってないといいながら
その店が悪いと知りつつも科学調味料を使っていることなどは
いつまでたっても有効な反論はないよね。
いつも同じ。
改めて言うけど、うが学部卒業してたら「学者」だなんて、非常識にもほどがある。
だいたい君は「工学部卒だからエンジニア」と対比させてるが、
それをいうなら「工学者」でないと対比にならんでしょうが(笑)
宗教学者ってのは、一般に研究職などで大学に籍を置く
教授や准教授クラスを言うんだよ。
俺は修士だけど、後期課程出てないし、
とても学者とは言えないな。
こんなことも知らず、よく人の学を問えたものだ。
宗教学の代表格が東洋大学(笑)?
そりゃ仏教学かなんかと区別がついてないだけだろう。
君は宗教学と宗教社会学と、神学と仏教学の区別がつくようになってから
言葉を発するべきだね。まるで理解してないじゃん。
宗教学の本場は東大や京大で、フレイザー研究なら京大が強い。
デカルト以降の話はまるで「よくわかる哲学入門」のようで、
突っ込みどころは多々あるけれど、
スレ違いなのは再三述べたので詳細は省く。
ただ、先に指摘した、デカルトと神の存在証明について、
まったく触れていないのは、議論ができませんと言ってるも同然だ。
だいたい君は「工学部卒だからエンジニア」と対比させてるが、
それをいうなら「工学者」でないと対比にならんでしょうが(笑)
宗教学者ってのは、一般に研究職などで大学に籍を置く
教授や准教授クラスを言うんだよ。
俺は修士だけど、後期課程出てないし、
とても学者とは言えないな。
こんなことも知らず、よく人の学を問えたものだ。
宗教学の代表格が東洋大学(笑)?
そりゃ仏教学かなんかと区別がついてないだけだろう。
君は宗教学と宗教社会学と、神学と仏教学の区別がつくようになってから
言葉を発するべきだね。まるで理解してないじゃん。
宗教学の本場は東大や京大で、フレイザー研究なら京大が強い。
デカルト以降の話はまるで「よくわかる哲学入門」のようで、
突っ込みどころは多々あるけれど、
スレ違いなのは再三述べたので詳細は省く。
ただ、先に指摘した、デカルトと神の存在証明について、
まったく触れていないのは、議論ができませんと言ってるも同然だ。
せっかくなのでブログ代わりに何か書きます。
アヴェ・マリア、恵みに満ちた方、主はあなたと共におられます。
あなたは女の内で祝福されご胎内のおん子イエスも祝福されています。
神の母、聖マリア、私たち罪びとのために今も死を迎える時もお祈りください。
アーメン。
私はこの祈りがとても好きです。主の祈りよりもこちらの方が回数的に多いかも。
それは、この祈りが直接に神に対するものでは無く、聖母マリアに取り次ぎをしてもらうという
形式だからでしょう。昔からこの祈りは多くの芸術家にインスピレーションを与えて来たもの
らしく、バッハなどは(他にもいるでしょうが)これに曲を付けてますよね。ご存知でしょう?
『アヴェ・マリア バッハ』でユーチューブを検索すれば分かりますよ。私はこの曲も大好きです。
なぜ聖母マリアに取り次ぎを願うかというと、私の場合、父なる神がちょっと怖いからです。
神の栄光と賛美のため、また全教会と私たち自身のために、司祭の手を通してお捧げするいけにえを
お受けください。
とミサの間で唱える時、私は祭壇の上に屠られたばかりの血だらけの牡牛が見えるようで、眩暈がする
ような陶酔を覚えます。神は牡牛のいけにえが好きです(食べる松坂牛は牝牛ですが)。時には
息子を屠って差し出せという要求もします。これはちょっとヘタ打ったらマズいなと思い、後ろめたい
私は聖母マリアに祈ってしまいます。
でもキリスト教徒は旧約聖書の古い律法から自由になったのですから、まあ父なる神にお仕置きを受ける
ことも、無いかもですけどね(苦笑)。
アヴェ・マリア、恵みに満ちた方、主はあなたと共におられます。
あなたは女の内で祝福されご胎内のおん子イエスも祝福されています。
神の母、聖マリア、私たち罪びとのために今も死を迎える時もお祈りください。
アーメン。
私はこの祈りがとても好きです。主の祈りよりもこちらの方が回数的に多いかも。
それは、この祈りが直接に神に対するものでは無く、聖母マリアに取り次ぎをしてもらうという
形式だからでしょう。昔からこの祈りは多くの芸術家にインスピレーションを与えて来たもの
らしく、バッハなどは(他にもいるでしょうが)これに曲を付けてますよね。ご存知でしょう?
『アヴェ・マリア バッハ』でユーチューブを検索すれば分かりますよ。私はこの曲も大好きです。
なぜ聖母マリアに取り次ぎを願うかというと、私の場合、父なる神がちょっと怖いからです。
神の栄光と賛美のため、また全教会と私たち自身のために、司祭の手を通してお捧げするいけにえを
お受けください。
とミサの間で唱える時、私は祭壇の上に屠られたばかりの血だらけの牡牛が見えるようで、眩暈がする
ような陶酔を覚えます。神は牡牛のいけにえが好きです(食べる松坂牛は牝牛ですが)。時には
息子を屠って差し出せという要求もします。これはちょっとヘタ打ったらマズいなと思い、後ろめたい
私は聖母マリアに祈ってしまいます。
でもキリスト教徒は旧約聖書の古い律法から自由になったのですから、まあ父なる神にお仕置きを受ける
ことも、無いかもですけどね(苦笑)。
旧約聖書といえば、キリスト教はもちろん、ユダヤ教やイスラム教も聖典としています。多少の違い
はあるようですが。彼らにしてみれば、これが正しい聖書で、旧約とは何事かとか言う所でしょう。
だから三者とも聖地がエルサレムで国際紛争の種になったりしますね。
よくキリスト教は自由だと言いますが、この自由というのは狭義の解釈では旧約の律法から自由に
なったということでしょう。旧約聖書の律法は、たびたび椿事を引き起こします。
先日エルサレムに行った人に聞いた話ですが、ユダヤ教では主日(私たちは日曜日です)が土曜日
なんですが、この日は一切仕事をしてはいけないんです。何が仕事で何が仕事で無いか決まっていて、
例えばエレベーターのボタンを押すのは仕事だから禁止なのです。土曜日になると高層ビルのエレ
ベーターは各階停車の自動運転となり、人々はやって来たエレベーターに乗る。もちろん閉ボタン
など押せませんから、各階毎に停車するエレベーターにじっと我慢して目的階までやっと到着すると。
イスラム教でも椿事が起きます。強姦されたノルウエー人女性が警察に訴え出たら逆に逮捕され
有罪判決が出たとか。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130722-00000068-reut-in...
これなんか外人だからニュースになったのであって、現地人の間だったら強姦のやり得ってこと?
はあるようですが。彼らにしてみれば、これが正しい聖書で、旧約とは何事かとか言う所でしょう。
だから三者とも聖地がエルサレムで国際紛争の種になったりしますね。
よくキリスト教は自由だと言いますが、この自由というのは狭義の解釈では旧約の律法から自由に
なったということでしょう。旧約聖書の律法は、たびたび椿事を引き起こします。
先日エルサレムに行った人に聞いた話ですが、ユダヤ教では主日(私たちは日曜日です)が土曜日
なんですが、この日は一切仕事をしてはいけないんです。何が仕事で何が仕事で無いか決まっていて、
例えばエレベーターのボタンを押すのは仕事だから禁止なのです。土曜日になると高層ビルのエレ
ベーターは各階停車の自動運転となり、人々はやって来たエレベーターに乗る。もちろん閉ボタン
など押せませんから、各階毎に停車するエレベーターにじっと我慢して目的階までやっと到着すると。
イスラム教でも椿事が起きます。強姦されたノルウエー人女性が警察に訴え出たら逆に逮捕され
有罪判決が出たとか。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130722-00000068-reut-in...
これなんか外人だからニュースになったのであって、現地人の間だったら強姦のやり得ってこと?
今週の教会は聖イグナチオの取り次ぎを願う週間でした。7月31日がロヨラの聖イグナチオ記念日です。
イグナチオ・デ・ロヨラという人は、日本にも布教にやってきたフランシスコ・ザビエルらと共に、
パリのモンマルトルの丘でイエズス会を結成した人です。よく我々はザビエル禿などと言いますが、
あれは剥げているのでは無く剃っているのです。当時の聖職者の髪型ですね。悪口懺悔(苦笑)。
イエズス会というと、司馬遼太郎の小説などを読むと、戦国末期に長崎に不法に土地を取得して、日本を
植民地化しようという魂胆があったとか。実際イエズス会は織田信長ら有力大名に火薬を提供したり
キナ臭い部分もあったようです。当時の日本は鉄砲の国産化にはいち早く成功したけど、火薬はなかなか
国産化が進まなかったのですね。まあ現代の我々が四百年前のイエズス会の行いに白黒つけるというのも
無理なことですが。それにイエズス会はバチカンから一時潰されたりしたんですね。その顛末はウィキに
詳しいです。
聖イグナチオ教会という名前は、もちろん聖イグナチオ・デ・ロヨラからとったものです。これは言わずもがな
ですね。現在イエズス会はカトリックの中では最も教徒数が多いのだそうです。それに教育に熱心というのも
結成以来の方針ですね。織田信長の頃には日本にイエズス会の神学校が安土と有馬の二か所にあったん
ですよ。その他にもこれに準じた学校がいくつもあったんです。
この学校ではラテン語や西洋音楽はもちろんのこと、日本文学も教えていたんです。当時としては、最先端
というか良心的というか、現地の文化を尊重するイエズス会も、なかなかどうして立派な物じゃないですか。
当時の日本人学生たちは幼い者は十歳くらいで、皆お坊さんのように剃髪して青い羽織袴の制服を着て
主日の休みには、例えば有馬の神学校の生徒は、行列して海辺の別荘まで遊びに出かけたとか。
そんな四百年前の彼らが何ともけなげで、タイムマシンでもあれば行って励ましてあげたいです。
いやとりとめも無いことをグダグダと申し訳けありません。
イグナチオ・デ・ロヨラという人は、日本にも布教にやってきたフランシスコ・ザビエルらと共に、
パリのモンマルトルの丘でイエズス会を結成した人です。よく我々はザビエル禿などと言いますが、
あれは剥げているのでは無く剃っているのです。当時の聖職者の髪型ですね。悪口懺悔(苦笑)。
イエズス会というと、司馬遼太郎の小説などを読むと、戦国末期に長崎に不法に土地を取得して、日本を
植民地化しようという魂胆があったとか。実際イエズス会は織田信長ら有力大名に火薬を提供したり
キナ臭い部分もあったようです。当時の日本は鉄砲の国産化にはいち早く成功したけど、火薬はなかなか
国産化が進まなかったのですね。まあ現代の我々が四百年前のイエズス会の行いに白黒つけるというのも
無理なことですが。それにイエズス会はバチカンから一時潰されたりしたんですね。その顛末はウィキに
詳しいです。
聖イグナチオ教会という名前は、もちろん聖イグナチオ・デ・ロヨラからとったものです。これは言わずもがな
ですね。現在イエズス会はカトリックの中では最も教徒数が多いのだそうです。それに教育に熱心というのも
結成以来の方針ですね。織田信長の頃には日本にイエズス会の神学校が安土と有馬の二か所にあったん
ですよ。その他にもこれに準じた学校がいくつもあったんです。
この学校ではラテン語や西洋音楽はもちろんのこと、日本文学も教えていたんです。当時としては、最先端
というか良心的というか、現地の文化を尊重するイエズス会も、なかなかどうして立派な物じゃないですか。
当時の日本人学生たちは幼い者は十歳くらいで、皆お坊さんのように剃髪して青い羽織袴の制服を着て
主日の休みには、例えば有馬の神学校の生徒は、行列して海辺の別荘まで遊びに出かけたとか。
そんな四百年前の彼らが何ともけなげで、タイムマシンでもあれば行って励ましてあげたいです。
いやとりとめも無いことをグダグダと申し訳けありません。
>>48
そうそう聖歌ですよね。でも、なかなか一般の人には、讃美歌じゃないと通用しないです。
いくら言ってもカトリックのことをカソリックと言う人がいるくらいですからねえ。
いや、信徒の中にも『自分はカソリックが正しいと思う』と頑なに言い張る爺さんがいますし。
讃美歌というと、もう長い人生で何度プロテのインチキ結婚式につき合わされたことか。必ず、
『いつくしみ深き』を歌わされるんですよね。まず間違いないです。
いつくしみ深き友なるイエスは、罪とが憂いを取り去りたまわーん・・・ての、飽きました。
星無きみ空に煌めく光・・・っていう小学校唱歌(?)と同じ曲だから歌いやすいのかも。
私は次の曲が一番好きです。
主は水辺に立ちて私に声をかけた、ただついて来て欲しいと、主よ私を見つめ微笑みわが名を呼ぶ、
今、小舟を捨てて共に海に出よう。
ペトロとのガリラヤ湖での出会いを歌った物ですが、私たちもこのように執着(小舟)を捨てて
イエスの教えた道を進まないといけないんでしょうね。
聖書の中では、金持ちが天国に行くのはラクダが針の穴を通るより難しいとありますが。昔は
文字通りに理解して、お金持ちは悪なのかなあと子供心に思っていたのですが、金持ちが悪なのでは
ないのですね。執着がいけないんですね。
聖書の別の個所には、イエスに付き従うと言った者が、従う前に家族に別れの挨拶をしたいと言って
『鋤に手をかけてから後ろを振り向くような奴は神の国にふさわしくない』と言い返されてますから
ね。だからと言うと変ですが、私は食べ物にお金を使う癖がついてしまいましたよ。それにお金持ちが
悪いと言うと、皆なまけて、教会維持費の収入も減るでしょうしね。
だんだん話が脱線していきますね。こんなことを言ってたらデーケン先生に怒られるでしょうね。
そうそう7月21日のデーケン神父様のミサと誕生パーティは大盛況でしたよ。昔と比べるとメンバー
も高齢化してましたけどね(苦笑)。
そうそう聖歌ですよね。でも、なかなか一般の人には、讃美歌じゃないと通用しないです。
いくら言ってもカトリックのことをカソリックと言う人がいるくらいですからねえ。
いや、信徒の中にも『自分はカソリックが正しいと思う』と頑なに言い張る爺さんがいますし。
讃美歌というと、もう長い人生で何度プロテのインチキ結婚式につき合わされたことか。必ず、
『いつくしみ深き』を歌わされるんですよね。まず間違いないです。
いつくしみ深き友なるイエスは、罪とが憂いを取り去りたまわーん・・・ての、飽きました。
星無きみ空に煌めく光・・・っていう小学校唱歌(?)と同じ曲だから歌いやすいのかも。
私は次の曲が一番好きです。
主は水辺に立ちて私に声をかけた、ただついて来て欲しいと、主よ私を見つめ微笑みわが名を呼ぶ、
今、小舟を捨てて共に海に出よう。
ペトロとのガリラヤ湖での出会いを歌った物ですが、私たちもこのように執着(小舟)を捨てて
イエスの教えた道を進まないといけないんでしょうね。
聖書の中では、金持ちが天国に行くのはラクダが針の穴を通るより難しいとありますが。昔は
文字通りに理解して、お金持ちは悪なのかなあと子供心に思っていたのですが、金持ちが悪なのでは
ないのですね。執着がいけないんですね。
聖書の別の個所には、イエスに付き従うと言った者が、従う前に家族に別れの挨拶をしたいと言って
『鋤に手をかけてから後ろを振り向くような奴は神の国にふさわしくない』と言い返されてますから
ね。だからと言うと変ですが、私は食べ物にお金を使う癖がついてしまいましたよ。それにお金持ちが
悪いと言うと、皆なまけて、教会維持費の収入も減るでしょうしね。
だんだん話が脱線していきますね。こんなことを言ってたらデーケン先生に怒られるでしょうね。
そうそう7月21日のデーケン神父様のミサと誕生パーティは大盛況でしたよ。昔と比べるとメンバー
も高齢化してましたけどね(苦笑)。
星無きみ空に煌めく光じゃないですね、月無きみ空に煌めく光ですよね、星無きじゃ何も見えない(笑)。
ミサというと、たぶんに呪術的ですよね。毎週日曜日に、あるいは会社が早く終わった時は18時の
ミサに与るんですが、毎回毎回同じ文句を繰り返していて、こうして客観視すると何か不思議です。
『聖なるかな聖なるかな万軍の神なる主、主の栄光は天地に満つ、天のいと高き所にホザンナ』とか
『主の死を思い復活を讃えよう、主が来られるまで』『主に栄光』エトセトラ・・・
これをカトリック教徒は二千年(諸説あるでしょうが)もの間、言語の違いはあれ行ってきたのです
から、なおさら不思議です。
これがプロテの礼拝だと牧師の説教があるんでしょ? いや礼拝なる物に行ったことが無いのでよく
は知らないのですが、小説などを読むと説教なる物が出て来ますよね。カトの場合だと、司祭が聖書朗読
に絡めてコメントをする位で説教なんて無いですもんね。
私は『お告げの祈り』が好きです。大好きなアヴェ・マリアも含まれているし『私は主のはしため、
お言葉通りになりますように』とか『み言葉は人となり私たちの内に住まわれた』とか『キリストの
約束に叶う者となりますように』とか素敵じゃないですか。
『私たちは今、選ばれた種族、神聖な民族、あがなわれた国民』というのはちょっと変ですね。
どう贔屓目に見ても日本民族が選ばれた種族とは思えないです。それじゃダメじゃん。
私は誕生日にスレ写真のような簡易型ではなく、ちゃんとしたロザリオを貰いました。ちゃんとした
ロザリオはロス(カルバーシティ)に単身赴任している時、現地教会でかなり良い品を購入して長年
使っていたのですが、引っ越しのドサクサで無くしてしまって残念だったのです。
『ではこのロザリオをいつおろすか?』『今でしょ』とはいかないんですよね。何かの記念日に
デーケン神父様に聖別してもらいます。クリスマスか、あるいは今の簡易型ロザリオが復活祭の
時に聖別してもらったので来年まで待つか・・・どちらが良いかな、フフン(鼻歌)。
もう完全に私のブログ状態ですね。いやスミマセン(*´з`)。
ミサというと、たぶんに呪術的ですよね。毎週日曜日に、あるいは会社が早く終わった時は18時の
ミサに与るんですが、毎回毎回同じ文句を繰り返していて、こうして客観視すると何か不思議です。
『聖なるかな聖なるかな万軍の神なる主、主の栄光は天地に満つ、天のいと高き所にホザンナ』とか
『主の死を思い復活を讃えよう、主が来られるまで』『主に栄光』エトセトラ・・・
これをカトリック教徒は二千年(諸説あるでしょうが)もの間、言語の違いはあれ行ってきたのです
から、なおさら不思議です。
これがプロテの礼拝だと牧師の説教があるんでしょ? いや礼拝なる物に行ったことが無いのでよく
は知らないのですが、小説などを読むと説教なる物が出て来ますよね。カトの場合だと、司祭が聖書朗読
に絡めてコメントをする位で説教なんて無いですもんね。
私は『お告げの祈り』が好きです。大好きなアヴェ・マリアも含まれているし『私は主のはしため、
お言葉通りになりますように』とか『み言葉は人となり私たちの内に住まわれた』とか『キリストの
約束に叶う者となりますように』とか素敵じゃないですか。
『私たちは今、選ばれた種族、神聖な民族、あがなわれた国民』というのはちょっと変ですね。
どう贔屓目に見ても日本民族が選ばれた種族とは思えないです。それじゃダメじゃん。
私は誕生日にスレ写真のような簡易型ではなく、ちゃんとしたロザリオを貰いました。ちゃんとした
ロザリオはロス(カルバーシティ)に単身赴任している時、現地教会でかなり良い品を購入して長年
使っていたのですが、引っ越しのドサクサで無くしてしまって残念だったのです。
『ではこのロザリオをいつおろすか?』『今でしょ』とはいかないんですよね。何かの記念日に
デーケン神父様に聖別してもらいます。クリスマスか、あるいは今の簡易型ロザリオが復活祭の
時に聖別してもらったので来年まで待つか・・・どちらが良いかな、フフン(鼻歌)。
もう完全に私のブログ状態ですね。いやスミマセン(*´з`)。
[YouTubeで再生]
バッハのアヴェ・マリア。『サンクタ、マリア、マリア』というサビ(?)の
部分がゾクっとするでしょ?
↓も良いですねえ。
http://www.youtube.com/watch?v=uv4Wya7HSJ...
バッハのアヴェ・マリア。『サンクタ、マリア、マリア』というサビ(?)の
部分がゾクっとするでしょ?
↓も良いですねえ。
http://www.youtube.com/watch?v=uv4Wya7HSJ...
[YouTubeで再生]
Pescador de Hombres ペスカドール・デ・オンブレス 主は水辺に立ちて。
主は水辺に立ちて私に声をかけた、ただついて来て欲しいと、
主よ私を見つめ微笑みわが名を呼ぶ、水辺に小舟を捨てて、
共に海に出よう。
ちょっと違ってたね・・・テヘペロ(古)。
Pescador de Hombres ペスカドール・デ・オンブレス 主は水辺に立ちて。
主は水辺に立ちて私に声をかけた、ただついて来て欲しいと、
主よ私を見つめ微笑みわが名を呼ぶ、水辺に小舟を捨てて、
共に海に出よう。
ちょっと違ってたね・・・テヘペロ(古)。
http://www.youtube.com/watch?v=5rBEcokvsF...
ヘンデルのオンブラ・マイ・フも良いですね。
キャスリーンバトルは良い声です。彼女のCDも何枚か持ってます。
彼女が歌うバッハのアヴェ・マリアも良いですよ。
惜しむらくは、古いCDがなかなかデジタルリマスタリングされない点ですね。
クラシックは売れないのかなあ。
それにしてもバトルもマイケル・ジャクソンみたいになんか白くなったみたい?
ポールの日本公演、チケット申し込みましたか?
S席の抽選、厳しいかなあ。
でもまたYesterdayやHey JudeやHere Todayなんでしょ?
Driving RainとかRun Devil Runを演って欲しいんだけどなあ。
しかしアメーバズシークレットのブートのHere Todayは名演ですよ。
歌の途中でポールが涙声になってしまうの。このブートは音源もオフィシャル盤と同じで、
たぶんアメーバレコードショップが直接流出させた物。編集もプロの仕事だし。
感動するからぜひとも買うべしですね。買える店のリンク貼りましょうか?
いらない? ああそうですか・・・。
だんだん話がそれてますかね。
ヘンデルのオンブラ・マイ・フも良いですね。
キャスリーンバトルは良い声です。彼女のCDも何枚か持ってます。
彼女が歌うバッハのアヴェ・マリアも良いですよ。
惜しむらくは、古いCDがなかなかデジタルリマスタリングされない点ですね。
クラシックは売れないのかなあ。
それにしてもバトルもマイケル・ジャクソンみたいになんか白くなったみたい?
ポールの日本公演、チケット申し込みましたか?
S席の抽選、厳しいかなあ。
でもまたYesterdayやHey JudeやHere Todayなんでしょ?
Driving RainとかRun Devil Runを演って欲しいんだけどなあ。
しかしアメーバズシークレットのブートのHere Todayは名演ですよ。
歌の途中でポールが涙声になってしまうの。このブートは音源もオフィシャル盤と同じで、
たぶんアメーバレコードショップが直接流出させた物。編集もプロの仕事だし。
感動するからぜひとも買うべしですね。買える店のリンク貼りましょうか?
いらない? ああそうですか・・・。
だんだん話がそれてますかね。
今日の主日のミサは『求めなさい。そうすれば与えられる』に関連して、神様を値切る話でした。
値切るなんて電気屋みたいですね。ソドムとゴモラの町についてアブラハムと神の問答があります。
ア『もし50人の正しい者がいても、その正しい50人もろとも、町を滅ぼすのですか?』。
神『その50人のために町を滅ぼさない』。
ア『45人では?』神『その45人のために町を滅ぼさない』。
ア『怒らずに聞いてください、30人では?』神『その30人のために町を滅ぼさない』。
ア『しつこくてスミマセン、20人かも知れません』神『その20人のために町を滅ぼさない』。
ア『もう一声、どうか10人しかいないかも知れません』神『その10人のために町を滅ぼさない』。
こうしてアブラハムは神を値切ることに成功したのですね。
『求めなさい。そうすれば与えられる。門を叩きなさい。そうすれば開かれる』という聖書の言葉も
同じだと言うのですね。一回だけドアをノックしても『うるさいなあ』と居留守を使われるかも知れ
ないので、何度もドンドンと叩き続けるのです。そうすれば『ああ、わかったわかった』と出てきて
くれる。神様だって忙しいので、何度もしつこくお祈りするというのも大事なんですね。
そういった意味でロザリオの祈りは重要だと思うんです。あれは回数にこだわる余り、何を祈ってるんだか
途中で意味不明と思ったりもしますが、そういった事なんですね。粘着力が信仰でも大事なんだと。
イグナチオのエルナンデス神父様も、『ロザリオの祈りをしてますか?』といつも言いますよね。
値切るなんて電気屋みたいですね。ソドムとゴモラの町についてアブラハムと神の問答があります。
ア『もし50人の正しい者がいても、その正しい50人もろとも、町を滅ぼすのですか?』。
神『その50人のために町を滅ぼさない』。
ア『45人では?』神『その45人のために町を滅ぼさない』。
ア『怒らずに聞いてください、30人では?』神『その30人のために町を滅ぼさない』。
ア『しつこくてスミマセン、20人かも知れません』神『その20人のために町を滅ぼさない』。
ア『もう一声、どうか10人しかいないかも知れません』神『その10人のために町を滅ぼさない』。
こうしてアブラハムは神を値切ることに成功したのですね。
『求めなさい。そうすれば与えられる。門を叩きなさい。そうすれば開かれる』という聖書の言葉も
同じだと言うのですね。一回だけドアをノックしても『うるさいなあ』と居留守を使われるかも知れ
ないので、何度もドンドンと叩き続けるのです。そうすれば『ああ、わかったわかった』と出てきて
くれる。神様だって忙しいので、何度もしつこくお祈りするというのも大事なんですね。
そういった意味でロザリオの祈りは重要だと思うんです。あれは回数にこだわる余り、何を祈ってるんだか
途中で意味不明と思ったりもしますが、そういった事なんですね。粘着力が信仰でも大事なんだと。
イグナチオのエルナンデス神父様も、『ロザリオの祈りをしてますか?』といつも言いますよね。
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聖歌『ごらんよ空の鳥』。これも好きですね。今日のミサでも歌いました。
私は聖書の中でこの場面がとても美しい雄大なイメージで好きですね。
空を飛ぶ鳥を見なさい。あの者たちは働きもしないのに神様はちゃんと養ってくださる。野に咲く
花を見なさい。明日は炉に投げ込まれるかも知れない雑草なのに、神様はあのように美しく装って
くださる。だから明日のことを思い患わなくてもいいんですよ。今日を充実して生きれば、おのず
と素晴らしい明日が待っているじゃないですか。
・・・私の身勝手な超訳ですがイエスのお言葉です。美しいイメージですね。
聖歌『ごらんよ空の鳥』。これも好きですね。今日のミサでも歌いました。
私は聖書の中でこの場面がとても美しい雄大なイメージで好きですね。
空を飛ぶ鳥を見なさい。あの者たちは働きもしないのに神様はちゃんと養ってくださる。野に咲く
花を見なさい。明日は炉に投げ込まれるかも知れない雑草なのに、神様はあのように美しく装って
くださる。だから明日のことを思い患わなくてもいいんですよ。今日を充実して生きれば、おのず
と素晴らしい明日が待っているじゃないですか。
・・・私の身勝手な超訳ですがイエスのお言葉です。美しいイメージですね。
私のブログへようこそ(笑)!!
皆さんは中国の宗教事情についてご存知ですか?
中国は先進国ぶって『信教の自由』を謳ってますが、実のところ宗教に自由はありません。
記憶に新しいところでは、法輪功の弾圧がありますね。
http://blog.goo.ne.jp/sakurasakuya7/e/c87db50725505e...
中国が、独立国だった仏教国チベットを蹂躙しているのもご存知でしょう?
ダライ・ラマはチベットに戻れません。
実はカトリックも迫害の対象なのです。一応中国には『中国天主教愛国会』というカトリック教会
を詐称する団体がありますが、愛国会という名前が示す通り、中国政府の御用教会で、バチカンとは
何ら関係がありません。中国は、バチカンが台湾との国交を破棄しなければ、バチカンとの国交を
結ばないと主張するのです。日本の場合はあっさりと台湾を捨てて中国に頭を下げましたが、誇り高い
バチカンがそんな屈辱的な事をするはずもありません。だから中国には正式にバチカンから任命され
た司祭はいないのです。したがって本物のカトリック信徒も存在しないわけです(公には)。
でも実際のところバチカン公認の中国人司祭はいるらしいのです。7月某日、イグナチオ教会の某所で
イエズス会の東アジア&オセアニアの司祭会議が開かれたらしいのですが、そこに中国人司祭もやって
来て、中国の窮状を訴えたらしいのです。彼らは中国に正式に入国できないらしいし、仮に身分を偽っ
て入国できても、地下活動しかできないらしいのです。『らしいらしい』と連発したのは、バチカンも
これらについて何も公式発表しないし、イエズス会も何も言わないので、実情も私の憶測だからです。
中国のカトというと罰当たりのアグネスチャンが思い浮かびますが、何万というカト信徒が本当の司祭
を待ち望んでいるはずです。だから私たちも、中国の兄弟姉妹たちのために祈ろうではありませんか。
皆さんは中国の宗教事情についてご存知ですか?
中国は先進国ぶって『信教の自由』を謳ってますが、実のところ宗教に自由はありません。
記憶に新しいところでは、法輪功の弾圧がありますね。
http://blog.goo.ne.jp/sakurasakuya7/e/c87db50725505e...
中国が、独立国だった仏教国チベットを蹂躙しているのもご存知でしょう?
ダライ・ラマはチベットに戻れません。
実はカトリックも迫害の対象なのです。一応中国には『中国天主教愛国会』というカトリック教会
を詐称する団体がありますが、愛国会という名前が示す通り、中国政府の御用教会で、バチカンとは
何ら関係がありません。中国は、バチカンが台湾との国交を破棄しなければ、バチカンとの国交を
結ばないと主張するのです。日本の場合はあっさりと台湾を捨てて中国に頭を下げましたが、誇り高い
バチカンがそんな屈辱的な事をするはずもありません。だから中国には正式にバチカンから任命され
た司祭はいないのです。したがって本物のカトリック信徒も存在しないわけです(公には)。
でも実際のところバチカン公認の中国人司祭はいるらしいのです。7月某日、イグナチオ教会の某所で
イエズス会の東アジア&オセアニアの司祭会議が開かれたらしいのですが、そこに中国人司祭もやって
来て、中国の窮状を訴えたらしいのです。彼らは中国に正式に入国できないらしいし、仮に身分を偽っ
て入国できても、地下活動しかできないらしいのです。『らしいらしい』と連発したのは、バチカンも
これらについて何も公式発表しないし、イエズス会も何も言わないので、実情も私の憶測だからです。
中国のカトというと罰当たりのアグネスチャンが思い浮かびますが、何万というカト信徒が本当の司祭
を待ち望んでいるはずです。だから私たちも、中国の兄弟姉妹たちのために祈ろうではありませんか。
この流れは・・傘地蔵誕生前夜と似ている。
私のブログにようこそ!!
先に400年以上前、安土と有馬にイエズス会の神学校があったと話しましたが、
その安土の神学校でのこと。ある時、突然に織田信長がアポ無しで安土の
神学校を訪れたのです。鷹狩の帰りだった由。
そこで日本人生徒たちは、チェンバロを始めオルガンやバイオリンで西洋音楽
を演奏し、信長に聴かせたそうです。初めて西洋音楽に接した彼はどんな気分
だったのでしょう。その時演奏されたチェンバロの曲も以下のような感じでしょうかね。
信長は大変気に入って、それを演奏した日向国の少年を褒めたそうです。
http://www.youtube.com/watch?v=qTlbfD5Ts-...
私はこのような音楽を聴いた時の彼の驚きを想像し、織田信長がとても身近に感じてしまいます。
西洋音楽に感動した戦国大名は他にもいますね。今の大分県の大友宗麟です。彼はキリシタン大名
としても有名です。彼がこの調べを聴いた時、宣教師に『これは何か?』と尋ねたんですね。宣教師の
答は『ムシカ』、ミュージックのことですね。大友宗麟は唸って『うーむ、ムシカか・・・ムシカね・・・
ムシカ・・・無鹿!!』。そしてキリシタンの理想郷を作って自分の本拠地にしようと、そして
その町の名前を無鹿にしようとしたんです。『音楽』という名前の町なんて素敵ですね。
しかし志半ばにしてこの夢は潰えます。島津勢の大群に攻められ、大友宗麟は逃げざるを得なかった
んですね。でもこの町『無鹿町』は今も宮崎県延岡市にあります。
たぶん無鹿町の名前の由来を地元の人でも知らないんじゃ無いでしょうか。
先に400年以上前、安土と有馬にイエズス会の神学校があったと話しましたが、
その安土の神学校でのこと。ある時、突然に織田信長がアポ無しで安土の
神学校を訪れたのです。鷹狩の帰りだった由。
そこで日本人生徒たちは、チェンバロを始めオルガンやバイオリンで西洋音楽
を演奏し、信長に聴かせたそうです。初めて西洋音楽に接した彼はどんな気分
だったのでしょう。その時演奏されたチェンバロの曲も以下のような感じでしょうかね。
信長は大変気に入って、それを演奏した日向国の少年を褒めたそうです。
http://www.youtube.com/watch?v=qTlbfD5Ts-...
私はこのような音楽を聴いた時の彼の驚きを想像し、織田信長がとても身近に感じてしまいます。
西洋音楽に感動した戦国大名は他にもいますね。今の大分県の大友宗麟です。彼はキリシタン大名
としても有名です。彼がこの調べを聴いた時、宣教師に『これは何か?』と尋ねたんですね。宣教師の
答は『ムシカ』、ミュージックのことですね。大友宗麟は唸って『うーむ、ムシカか・・・ムシカね・・・
ムシカ・・・無鹿!!』。そしてキリシタンの理想郷を作って自分の本拠地にしようと、そして
その町の名前を無鹿にしようとしたんです。『音楽』という名前の町なんて素敵ですね。
しかし志半ばにしてこの夢は潰えます。島津勢の大群に攻められ、大友宗麟は逃げざるを得なかった
んですね。でもこの町『無鹿町』は今も宮崎県延岡市にあります。
たぶん無鹿町の名前の由来を地元の人でも知らないんじゃ無いでしょうか。
をいをい、ハンドルネームが某コテハンさんになってるぞ。これじゃコテハンの意味がないじやん。
私のブログにようこそ!!
イグナチオ教会の片隅にひとつの建物があります。その名は岐部(きべ)ホール。
二階の図書室にはキリスト教関係の蔵書があり誰でも利用できます。また五階には
SARO君の大好きなイエズス会日本管区『会計室』があります。ただしこの階には
エレベーターは止まらず、階段室には施錠がされており一般人は中をうかがい知る
ことは出来ません。
問題はそこでは無く『岐部ホール』という名前です。岐部という人は戦国末期から江戸時代初期
まで実在した人で、洗礼名をペトロ岐部といいます。彼は西暦1600年、まさに関ヶ原の合戦が行わ
れたその年、有馬の神学校に入学したのですが、その後の徳川幕府のキリシタン弾圧でイエズス会
の司祭や修道士たちと共にマカオへ追放になりました。
そのマカオで岐部はキリスト教の司祭を目指そうとしたのですが、マカオの偉い人の黄色人種への
偏見が酷く、マカオでは司祭になれないことを悟り、マカオを脱走してローマを目指しました。
その途上、聖地エルサレムを訪れています。ローマに行った日本人は岐部の前にも天正少年使節団
がいたんですが、エルサレムを訪れた日本人は岐部が初めてです。
その間、マカオのイエズス会からローマへ『そちらに野蛮人が向っているので相手にしないように』
というような書簡が届けられたのですが、岐部と面会したローマのイエズス会では、彼の知性や
学識が高いのに驚き、かつ人格も適切であると認め、彼を司祭に叙階したのです。
その後、彼はキリシタン弾圧の嵐が吹き荒れる日本を目指して密入国を果たし、あちこちに潜伏し
ながら布教活動を行ったのですが、やがて徳川幕府に逮捕され、拷問の挙句に処刑されました。
日本の信徒としては、岐部の行動はまことに誇らしい限りです。その彼を記念して岐部ホールも
名づけられました。この物語は遠藤周作が銃と十字架という小説に著しています。
イグナチオ教会の片隅にひとつの建物があります。その名は岐部(きべ)ホール。
二階の図書室にはキリスト教関係の蔵書があり誰でも利用できます。また五階には
SARO君の大好きなイエズス会日本管区『会計室』があります。ただしこの階には
エレベーターは止まらず、階段室には施錠がされており一般人は中をうかがい知る
ことは出来ません。
問題はそこでは無く『岐部ホール』という名前です。岐部という人は戦国末期から江戸時代初期
まで実在した人で、洗礼名をペトロ岐部といいます。彼は西暦1600年、まさに関ヶ原の合戦が行わ
れたその年、有馬の神学校に入学したのですが、その後の徳川幕府のキリシタン弾圧でイエズス会
の司祭や修道士たちと共にマカオへ追放になりました。
そのマカオで岐部はキリスト教の司祭を目指そうとしたのですが、マカオの偉い人の黄色人種への
偏見が酷く、マカオでは司祭になれないことを悟り、マカオを脱走してローマを目指しました。
その途上、聖地エルサレムを訪れています。ローマに行った日本人は岐部の前にも天正少年使節団
がいたんですが、エルサレムを訪れた日本人は岐部が初めてです。
その間、マカオのイエズス会からローマへ『そちらに野蛮人が向っているので相手にしないように』
というような書簡が届けられたのですが、岐部と面会したローマのイエズス会では、彼の知性や
学識が高いのに驚き、かつ人格も適切であると認め、彼を司祭に叙階したのです。
その後、彼はキリシタン弾圧の嵐が吹き荒れる日本を目指して密入国を果たし、あちこちに潜伏し
ながら布教活動を行ったのですが、やがて徳川幕府に逮捕され、拷問の挙句に処刑されました。
日本の信徒としては、岐部の行動はまことに誇らしい限りです。その彼を記念して岐部ホールも
名づけられました。この物語は遠藤周作が銃と十字架という小説に著しています。
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私のブログにようこそ!!
昨日語った天正少年使節団は正式には天正遣欧少年使節ですね。
これはウィキを見た方が早いでしょう。彼らは往復8年もかけて
ローマ法王に謁見して来ました。
天正少年使節はアフリカの喜望峰回りで欧州に行ったのですが、伊達藩の支倉常長はアメリカ大陸
経由でローマに行きました。支倉常長をモデルにした小説も遠藤周作氏が侍という題で著して
います。小説では、普段は畑を耕しているようなただの善良な下級武士の地侍である主人公が、
突然に伊達のお殿様に召し出され、少数の供を連れ外人司祭の案内でローマに行くことになり、
その善良さゆえに殿の命令と思い欧州で洗礼を受けるのです。小説は司祭のはやる功名心や侍の
葛藤、長い苦しい旅路を描き盛り上がります。帰国する侍を待っているのは、豊臣秀吉による
バテレン追放令が出た日本。善良な侍が、その善良さゆえにこうむる悲劇とは。まあこれは小説
を読んでいただきたい所です。
カトリックでは『地には善意の人に平和あれ』と教えますが、遠藤氏の描く善意の人は、大抵
弱く、最後には悲劇が待っています。『沈黙』とか『ある男の一生』などは、善意であろうと
する人の悲劇と言えるのではないでしょうか。
天正少年使節団はグーテンベルグの印刷機を土産に持って帰りました。天正少年使節団に付き従った
日本人修道士は活字の制作方法も学んで来ました。何と驚くことに天正少年使節団が欧州に行った
時点で、既に別の日本人修道士がポルトガルにいたんですね。彼の手伝いもあり活字の作り方も
教わることが出来たんです。
昨日語った天正少年使節団は正式には天正遣欧少年使節ですね。
これはウィキを見た方が早いでしょう。彼らは往復8年もかけて
ローマ法王に謁見して来ました。
天正少年使節はアフリカの喜望峰回りで欧州に行ったのですが、伊達藩の支倉常長はアメリカ大陸
経由でローマに行きました。支倉常長をモデルにした小説も遠藤周作氏が侍という題で著して
います。小説では、普段は畑を耕しているようなただの善良な下級武士の地侍である主人公が、
突然に伊達のお殿様に召し出され、少数の供を連れ外人司祭の案内でローマに行くことになり、
その善良さゆえに殿の命令と思い欧州で洗礼を受けるのです。小説は司祭のはやる功名心や侍の
葛藤、長い苦しい旅路を描き盛り上がります。帰国する侍を待っているのは、豊臣秀吉による
バテレン追放令が出た日本。善良な侍が、その善良さゆえにこうむる悲劇とは。まあこれは小説
を読んでいただきたい所です。
カトリックでは『地には善意の人に平和あれ』と教えますが、遠藤氏の描く善意の人は、大抵
弱く、最後には悲劇が待っています。『沈黙』とか『ある男の一生』などは、善意であろうと
する人の悲劇と言えるのではないでしょうか。
天正少年使節団はグーテンベルグの印刷機を土産に持って帰りました。天正少年使節団に付き従った
日本人修道士は活字の制作方法も学んで来ました。何と驚くことに天正少年使節団が欧州に行った
時点で、既に別の日本人修道士がポルトガルにいたんですね。彼の手伝いもあり活字の作り方も
教わることが出来たんです。
この印刷機では色々な聖典も印刷されたし、日本の書物である太平記なども印刷されたんですね。
このころ、イソップ寓話も日本にもたらされ印刷されたんですよね。
天正少年使節団が帰国したのも秀吉のバテレン追放令が出た後なのです。しかしこの追放令も有名無
実化してたんですね。追放令に対してイエズス会は日本の経済封鎖に出たんです。秀吉は有能な武士
である前に有能な商売人でしたから、生糸の南蛮貿易でしこたま儲けていたんですよ。おりしも
朝鮮出兵で戦費がかさんでいましたから、南蛮船が来なくなって秀吉は困りました。そこで、建前は
キリシタン禁止で、本音は見て見ぬふりをすることにしたんです。
だからイエズス会の外人宣教師たちも徳川政権の初期まで日本にいることが出来たんですね。でも
天正少年使節団の少年たちは、アジアやインドなどが白人キリスト教徒の植民地となり、同じ黄色
人種の現地人が奴隷となっているのを見てしまったんですね。だから彼らの内の一人は後に棄教しま
した。『日本での耶蘇教の布教は日本を彼らの植民地とするのが目的である』と言って。
このころ、イソップ寓話も日本にもたらされ印刷されたんですよね。
天正少年使節団が帰国したのも秀吉のバテレン追放令が出た後なのです。しかしこの追放令も有名無
実化してたんですね。追放令に対してイエズス会は日本の経済封鎖に出たんです。秀吉は有能な武士
である前に有能な商売人でしたから、生糸の南蛮貿易でしこたま儲けていたんですよ。おりしも
朝鮮出兵で戦費がかさんでいましたから、南蛮船が来なくなって秀吉は困りました。そこで、建前は
キリシタン禁止で、本音は見て見ぬふりをすることにしたんです。
だからイエズス会の外人宣教師たちも徳川政権の初期まで日本にいることが出来たんですね。でも
天正少年使節団の少年たちは、アジアやインドなどが白人キリスト教徒の植民地となり、同じ黄色
人種の現地人が奴隷となっているのを見てしまったんですね。だから彼らの内の一人は後に棄教しま
した。『日本での耶蘇教の布教は日本を彼らの植民地とするのが目的である』と言って。
ユダヤ教からキリスト教へと派生した経緯を教えてたも
>>71
ユダヤ教にはついてはよくわからないのですが、>>52で例に出したように、ユダヤ教は旧約聖書
を元に独自の発展をしたようです。
キリスト教はもちろん新約聖書を元にしていますが、この新約というのも旧約聖書を踏まえた
ものであるのは当然ですよね。新約聖書の中でイエスは、古い律法を守るのは当然とし、さらに
それを上回るようにしなさいと言われます。
例えば『目には目を、歯には歯を』と昔は教えられたかも知れないが、右の頬を打たれたら左の
頬も出しなさい、と言われます。
何かで読んだのですが、現在のキリスト教は本当はパウロ教と言うべきなんだそうです。というの
もキリスト教がヨーロッパにもたらされたのも彼の影響が大きいからです。
新約聖書にしても中に似たような四つの福音書があるのですが、これも数多くあった福音書の中
から、意図的に選ばれたようですね。初期のキリスト教宣教師が意図的に選んだのかも。
ずいぶん昔ですが、死海文書と呼ばれるものの中から、失われた福音書が発見されたというニュ
ースもありました。確かに現在の新約聖書の福音書は意図的だと思います。
例えば、マタイの福音書は当時のユダヤ教の人向けに書かれています。いきなり旧約聖書の登場
人物がずらずらと登場し、旧約で言うメシアがイエス・キリストだとしています。マルコの福音書は
ローマ人向けに、ルカは異教徒向けに書かれたものであることは明らかです。ヨハネの福音書は
別格ですね。詩的に高らかに神の愛を唱えます。格調高いです。
そんなわけで、西暦1世紀から2世紀の間に、パウロの教えを元にした今の形のキリスト教が完成
したものと私は考えます。3世紀には既に教えを説くイエスの絵が描かれていますからね。私は
もちろん、神学など学んでいませんから、以上はグータラな名も無い信徒の私的見解です。
ユダヤ教にはついてはよくわからないのですが、>>52で例に出したように、ユダヤ教は旧約聖書
を元に独自の発展をしたようです。
キリスト教はもちろん新約聖書を元にしていますが、この新約というのも旧約聖書を踏まえた
ものであるのは当然ですよね。新約聖書の中でイエスは、古い律法を守るのは当然とし、さらに
それを上回るようにしなさいと言われます。
例えば『目には目を、歯には歯を』と昔は教えられたかも知れないが、右の頬を打たれたら左の
頬も出しなさい、と言われます。
何かで読んだのですが、現在のキリスト教は本当はパウロ教と言うべきなんだそうです。というの
もキリスト教がヨーロッパにもたらされたのも彼の影響が大きいからです。
新約聖書にしても中に似たような四つの福音書があるのですが、これも数多くあった福音書の中
から、意図的に選ばれたようですね。初期のキリスト教宣教師が意図的に選んだのかも。
ずいぶん昔ですが、死海文書と呼ばれるものの中から、失われた福音書が発見されたというニュ
ースもありました。確かに現在の新約聖書の福音書は意図的だと思います。
例えば、マタイの福音書は当時のユダヤ教の人向けに書かれています。いきなり旧約聖書の登場
人物がずらずらと登場し、旧約で言うメシアがイエス・キリストだとしています。マルコの福音書は
ローマ人向けに、ルカは異教徒向けに書かれたものであることは明らかです。ヨハネの福音書は
別格ですね。詩的に高らかに神の愛を唱えます。格調高いです。
そんなわけで、西暦1世紀から2世紀の間に、パウロの教えを元にした今の形のキリスト教が完成
したものと私は考えます。3世紀には既に教えを説くイエスの絵が描かれていますからね。私は
もちろん、神学など学んでいませんから、以上はグータラな名も無い信徒の私的見解です。
当時のローマにはギリシャ神話の焼き直しのような神話しか無かったわけでしたから、
原罪、癒し、赦し、神の無限の愛、死からの復活など哲学的な命題をひっさげたキリスト教は人々の興味を惹き付けでしょう。
でも初期のキリスト教は弾圧されました。
地に宝を積むより天に積めとか、誰も二人の君主につかえてはならない、というのですから
時の君主に面白いわけがありません。
あるローマの名家もキリスト教ということで、逮捕されました。
その中でも幼い少女アグネスは、勇敢にも棄教を拒否し、
13才の若さで殉教しました。
今日、彼女は聖人に列っせられ、聖アグネスの日が祝われます。
この日には恋人通しがプレゼントのやりとりをする国もあるそうです。
原罪、癒し、赦し、神の無限の愛、死からの復活など哲学的な命題をひっさげたキリスト教は人々の興味を惹き付けでしょう。
でも初期のキリスト教は弾圧されました。
地に宝を積むより天に積めとか、誰も二人の君主につかえてはならない、というのですから
時の君主に面白いわけがありません。
あるローマの名家もキリスト教ということで、逮捕されました。
その中でも幼い少女アグネスは、勇敢にも棄教を拒否し、
13才の若さで殉教しました。
今日、彼女は聖人に列っせられ、聖アグネスの日が祝われます。
この日には恋人通しがプレゼントのやりとりをする国もあるそうです。
しかしローマ帝国のキリスト教政策も、皇帝が代わるたびに規制と緩和を繰り返しました。
これがかえってキリスト教徒の団結を生み、欧州に深い根を下ろすことになったのでしょう。
逆にユダヤ教への弾圧はほとんど無かったため、ユダヤ人の間にユダヤ教は残りました。
パウロがイスラエルから持ち帰った聖典によるキリスト教は、原始キリスト教と呼ばれる物
で、聖典も色々あったようですが、西暦2〜3世紀の間に聖典の中から4編の福音書と使徒行伝
が選ばれ、近代的なキリスト教へと変遷して行ったのではないでしょうか。
というのも、最後に書かれたといわれる最も洗練されたヨハネの福音書が著された年代が、
その後の研究で西暦95年〜100年の間と推定されているからです。
このようにベツレヘムの生まれ、ナザレのイエスの教えは、地元イスラエルには根付かず、
欧州に深く根付いてしまいました。キリスト教が本当はパウロ教だという揶揄も、
そんな点を指して言っているのだと思います。
まったく私のブログですね。
これがかえってキリスト教徒の団結を生み、欧州に深い根を下ろすことになったのでしょう。
逆にユダヤ教への弾圧はほとんど無かったため、ユダヤ人の間にユダヤ教は残りました。
パウロがイスラエルから持ち帰った聖典によるキリスト教は、原始キリスト教と呼ばれる物
で、聖典も色々あったようですが、西暦2〜3世紀の間に聖典の中から4編の福音書と使徒行伝
が選ばれ、近代的なキリスト教へと変遷して行ったのではないでしょうか。
というのも、最後に書かれたといわれる最も洗練されたヨハネの福音書が著された年代が、
その後の研究で西暦95年〜100年の間と推定されているからです。
このようにベツレヘムの生まれ、ナザレのイエスの教えは、地元イスラエルには根付かず、
欧州に深く根付いてしまいました。キリスト教が本当はパウロ教だという揶揄も、
そんな点を指して言っているのだと思います。
まったく私のブログですね。
引き続きどうも
最後におききします
これはキリスト教を信仰するdesperadoさんの気を害すかもしれませんがお許しください
私はキリスト教を学んだことはありません
知識量はおそらくあなた様の耳垢より少ないでしょう
そんな私には強いルサンチマンを持った人たち(大衆)をうまくとりこむために
キリスト教は作られたように思えるのです
一方で指導者が大衆をうまく扱うことにおいても都合がいいように思います
desperadoさんはこのような意見をお聞きになったことがあるかと思います
そして盲目的な信者ではないとお見受けしているので
わずかながら共感して頂ける点はあるのではないかと思います
しかし、それでも何故信じることができるのか
教えてたも
最後におききします
これはキリスト教を信仰するdesperadoさんの気を害すかもしれませんがお許しください
私はキリスト教を学んだことはありません
知識量はおそらくあなた様の耳垢より少ないでしょう
そんな私には強いルサンチマンを持った人たち(大衆)をうまくとりこむために
キリスト教は作られたように思えるのです
一方で指導者が大衆をうまく扱うことにおいても都合がいいように思います
desperadoさんはこのような意見をお聞きになったことがあるかと思います
そして盲目的な信者ではないとお見受けしているので
わずかながら共感して頂ける点はあるのではないかと思います
しかし、それでも何故信じることができるのか
教えてたも
>>78
ルサンチマンを強者に対する弱者の遠吠えや持たざる者の不満ととらえるならば、その推測は
半ば当たっていると言わざるを得ないでしょう。新約聖書の内容も、当時の強者であるところの
徴税人(税金取り)を悪人にしたり、金持ちは天の国に入れないかのように記述され、当時の
多数派だった(まあ今もですが)弱者を取り込みたいという意図は明らかです。
ちょっと考えると、これは強者たる指導者階層(領主とか君主とか)には都合が悪いと言えます。
地に富を積むのを悪とし、神を選ぶか君主を選ぶか二者択一を迫る教理は、指導者階層には
都合が悪いのではないでしょうか。にもかかわらず、キリスト教は最初は地方の領主など、
中間層に受け入れられました。そして配下の家来や農民層に強制させられたりします。戦国
末期の日本でのキリスト教の受け入れも地方の大名層からでした。そして家来や領地の農民は
半ば強制的に受洗させられました。
少し突っ込んで考えれば、これは当然の成り行きでしょう。当時の弱者である農民たちを慰撫
するのに、これはとても有効な手段です。持たざる者は、宣教師が説く聖書の教えに、日ごろの
うっぷんを晴らし溜飲を下げたことでしょう。だからローマ帝国もキリスト教を迫害したり
緩和したり、皇帝が代わるたびにふらふらしたのですね。
現在のカトリックでは金持ちを悪とせず、金への執着が悪だと教えます。古い律法も否定して
キリスト者は自由だと教えます。新約聖書の解釈の仕方だというのですが、これも中間層を自認
する人々が多くなったことへの対処でしょうか。でなければ信徒が逃げてしまいますからね。
ルサンチマンを強者に対する弱者の遠吠えや持たざる者の不満ととらえるならば、その推測は
半ば当たっていると言わざるを得ないでしょう。新約聖書の内容も、当時の強者であるところの
徴税人(税金取り)を悪人にしたり、金持ちは天の国に入れないかのように記述され、当時の
多数派だった(まあ今もですが)弱者を取り込みたいという意図は明らかです。
ちょっと考えると、これは強者たる指導者階層(領主とか君主とか)には都合が悪いと言えます。
地に富を積むのを悪とし、神を選ぶか君主を選ぶか二者択一を迫る教理は、指導者階層には
都合が悪いのではないでしょうか。にもかかわらず、キリスト教は最初は地方の領主など、
中間層に受け入れられました。そして配下の家来や農民層に強制させられたりします。戦国
末期の日本でのキリスト教の受け入れも地方の大名層からでした。そして家来や領地の農民は
半ば強制的に受洗させられました。
少し突っ込んで考えれば、これは当然の成り行きでしょう。当時の弱者である農民たちを慰撫
するのに、これはとても有効な手段です。持たざる者は、宣教師が説く聖書の教えに、日ごろの
うっぷんを晴らし溜飲を下げたことでしょう。だからローマ帝国もキリスト教を迫害したり
緩和したり、皇帝が代わるたびにふらふらしたのですね。
現在のカトリックでは金持ちを悪とせず、金への執着が悪だと教えます。古い律法も否定して
キリスト者は自由だと教えます。新約聖書の解釈の仕方だというのですが、これも中間層を自認
する人々が多くなったことへの対処でしょうか。でなければ信徒が逃げてしまいますからね。
▲ページ最上部
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