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聖書 Part10
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地球人類にとっての最も標準的な聖書として、誰しもがその地位を疑うことのない聖書、四書五経。
その全文はあくまで二千二百年以上前に用意されたものではあるものの(偽古文尚書の一部を除く)、
論語・大学・中庸・孟子の四書と、易経・詩経・書経(尚書)・礼記・春秋の五経を合わせて
「四書五経」として定型化されたのは宋代以降、朱子がこれらの経書を特薦してからである。
それ以前は四書五経だけでなく、他の数多の経書が四書五経並みかそれ以上もの扱いすらをも受けていた。
今でも「孝経」などが儒学の入門書として読むべき筆頭格として重んじられたりもしているが、
昔はそのような扱いすらをも受けていたのに、今では相当に程度の低い経書として扱われるように
なった儒書もいくらかあり、その代表格に性悪論を説く荀子の教説集「荀子」がありもする。
荀子の教説は、孟子の教説(性善論や臨戦論など)と決定的に食い違っている部分があり、
実際に荀子自身も「荀子」非十二子第六で孟子を槍玉に挙げつつその主張を非難するなどしている。
そのため、新儒学の大家である朱子が孟子の教説のほうに軍配を挙げたことを通じて、荀子の教説
のほうは「あくまで反面教師として扱うべきもの」として取り扱われるようになったのである。
ただ、荀子の自説はともかく、その知識や博学さは目を見張るものがある。「荀子」を実際に読めば
分かるとおり、単なる学知の披露度では孟子以上であり、文飾にかけても当時の究極級のものであった
だろうことがうかがえる。(そのため、諸子百家の文筆が粗雑で典雅さに欠けると非難していた
司馬遷までもが、「史記」礼書で「荀子」の文章を多量に引用するなどしてもいる)
にもかかわらず荀子は孟子以下とされ、朱子学はおろかその他の新儒学すらもが、荀子以上にも孟子を
尊重する道を歩んでいったのである。それはなぜかといえば、孟子の教説は簡易であっても誠実さや
情熱に満ちている一方、荀子の教説は博学ではあっても皮相的で誠実さにも欠けるものだったからである。

その全文はあくまで二千二百年以上前に用意されたものではあるものの(偽古文尚書の一部を除く)、
論語・大学・中庸・孟子の四書と、易経・詩経・書経(尚書)・礼記・春秋の五経を合わせて
「四書五経」として定型化されたのは宋代以降、朱子がこれらの経書を特薦してからである。
それ以前は四書五経だけでなく、他の数多の経書が四書五経並みかそれ以上もの扱いすらをも受けていた。
今でも「孝経」などが儒学の入門書として読むべき筆頭格として重んじられたりもしているが、
昔はそのような扱いすらをも受けていたのに、今では相当に程度の低い経書として扱われるように
なった儒書もいくらかあり、その代表格に性悪論を説く荀子の教説集「荀子」がありもする。
荀子の教説は、孟子の教説(性善論や臨戦論など)と決定的に食い違っている部分があり、
実際に荀子自身も「荀子」非十二子第六で孟子を槍玉に挙げつつその主張を非難するなどしている。
そのため、新儒学の大家である朱子が孟子の教説のほうに軍配を挙げたことを通じて、荀子の教説
のほうは「あくまで反面教師として扱うべきもの」として取り扱われるようになったのである。
ただ、荀子の自説はともかく、その知識や博学さは目を見張るものがある。「荀子」を実際に読めば
分かるとおり、単なる学知の披露度では孟子以上であり、文飾にかけても当時の究極級のものであった
だろうことがうかがえる。(そのため、諸子百家の文筆が粗雑で典雅さに欠けると非難していた
司馬遷までもが、「史記」礼書で「荀子」の文章を多量に引用するなどしてもいる)
にもかかわらず荀子は孟子以下とされ、朱子学はおろかその他の新儒学すらもが、荀子以上にも孟子を
尊重する道を歩んでいったのである。それはなぜかといえば、孟子の教説は簡易であっても誠実さや
情熱に満ちている一方、荀子の教説は博学ではあっても皮相的で誠実さにも欠けるものだったからである。

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自意識過剰の思い上がりをどこまでも肥大化させ続けられる状態が「生」であり、
その術を失って絶望にかられるのが「死」であるとするのは、比喩表現としても不正である。
むしろ、過剰に肥大化した思い上がりによって精神的な成長の術を失ってしまうことこそは
人としての「死」であり、そのような事態を招かないようにするための貞正さを保つことが
「生」であるとするほうが、人々を教導するための比喩表現としても正しいといえる。
思い上がりをどこまでも肥大化させてしまっていたからこそ、それを禁止されることを通じて
絶望にかられたりすることがあったとしても、それが精神的な成長の術を取り戻して行くための
過程であるというのならば、そうなった人間はむしろ「生」を取り戻していこうとしている
といえるわけだから、決してそれを「死」であるなどとほざいたりしてはならないのである。
上記のような比喩表現としての「生死」の転倒もまた、一種の「名辞の乱れ」であるといえる。
比喩表現だから何でもアリってのも一つの名辞の乱れであり、その悪用が傾国の元凶に
すらなりかねないことは、蜀漢の軍師諸葛亮が「出師表」でも指摘していたことである。
佞臣が個人的に主君に気に入られるために都合のいいように比喩表現を用いたりすることは、
古代の頃から連綿と持ち越されてきた人間にとっての致命的な悪癖であるため、仏門でも
そのような物言いを「妄語の罪」として固く戒めるようにもして来ているのである。
その妄語の罪を完全に開き直らせるのが、今の日本憲法にも明記されている「表現の自由」である。
表現の自由を尊ぶべきだとするからこそ、西洋文学では、ジャンル性を一切放棄した小説こそは
「純文学」として至上のものにすら祭り上げられている。実在する歴史上の聖賢や偉大な為政者の
言行をありのままに記録した「大説」などと比べれば、ごく瑣末なものとして東洋では扱われて
来た小説文学こそが、純文学としてノンフィクションを上回るもののようにすら扱われている。
その術を失って絶望にかられるのが「死」であるとするのは、比喩表現としても不正である。
むしろ、過剰に肥大化した思い上がりによって精神的な成長の術を失ってしまうことこそは
人としての「死」であり、そのような事態を招かないようにするための貞正さを保つことが
「生」であるとするほうが、人々を教導するための比喩表現としても正しいといえる。
思い上がりをどこまでも肥大化させてしまっていたからこそ、それを禁止されることを通じて
絶望にかられたりすることがあったとしても、それが精神的な成長の術を取り戻して行くための
過程であるというのならば、そうなった人間はむしろ「生」を取り戻していこうとしている
といえるわけだから、決してそれを「死」であるなどとほざいたりしてはならないのである。
上記のような比喩表現としての「生死」の転倒もまた、一種の「名辞の乱れ」であるといえる。
比喩表現だから何でもアリってのも一つの名辞の乱れであり、その悪用が傾国の元凶に
すらなりかねないことは、蜀漢の軍師諸葛亮が「出師表」でも指摘していたことである。
佞臣が個人的に主君に気に入られるために都合のいいように比喩表現を用いたりすることは、
古代の頃から連綿と持ち越されてきた人間にとっての致命的な悪癖であるため、仏門でも
そのような物言いを「妄語の罪」として固く戒めるようにもして来ているのである。
その妄語の罪を完全に開き直らせるのが、今の日本憲法にも明記されている「表現の自由」である。
表現の自由を尊ぶべきだとするからこそ、西洋文学では、ジャンル性を一切放棄した小説こそは
「純文学」として至上のものにすら祭り上げられている。実在する歴史上の聖賢や偉大な為政者の
言行をありのままに記録した「大説」などと比べれば、ごく瑣末なものとして東洋では扱われて
来た小説文学こそが、純文学としてノンフィクションを上回るもののようにすら扱われている。
別に小説文学が「あってはならないもの」として東洋で扱われて来たような事実もないのだが、
ことに西洋においては、自分たちの最大級のより所である新旧約からして架空の物語を列挙
しただけの小説止まりであるものだから、小説こそは至上のものとして扱われて来てもいる。
西洋で「表現の自由」というものが提唱されたのも、元はといえば新旧約なんぞを金科玉条に
掲げ続けて来た自分たちの性向こそを元凶としているわけだから、結局、比喩表現の悪用を助長
する諸々の正当化材料にしろ小説の祭り上げにしろ、全ては新旧約を元凶としているのだといえる。
フィクションとしての宮廷文学の金字塔である源氏物語なども、仏門の立場から「妄語戒に反する」
と批判されていたようなこともあったわけだが、それにしたって、家康公を始めとする多くの歴史上
の人物が源氏物語の愛読者でもあり続けて来てもいる。小説文学というものがその程度の扱いを受けて、
表現の自由などもそれなりの戒めの対象になりつつ、成人図書のような警戒的な受容に止められて行く
というのならば、完全に根絶されたりまでする必要もない。三国志演義も封神演義も小説文学には
違いないが、前者のほうがより史実に即している一方、後者のほうは怪力乱神を導入しまくった
濃厚なフィクションであるから、文学作品としての評価も三国志演義>封神演義だったりする、
その程度の扱いとしてフィクションだらけの小説作品が許容されていくことはこれからも可能である。
ただ、それにしたって、フィクションをノンフィクションの下に置き、不正な表現を適切な表現の
下に置く分別はしっかりと講じていく必要がある。新旧約なんぞは、不正な表現の限りを尽くした
完全なフィクション小説であるものだから、それこそ最低劣の文筆として扱われなければならない。
経書や仏典は適切な表現の宝庫だから尊重され、正史もフィクションの明記だから尊重される。
(正史「三国志」のように三国志演義以上にも出来の悪い正史も中にはあるので注意が必要)
それらの下に全ての不正な表現やノンフィクションまみれの文筆が置かれていくようにする。
ことに西洋においては、自分たちの最大級のより所である新旧約からして架空の物語を列挙
しただけの小説止まりであるものだから、小説こそは至上のものとして扱われて来てもいる。
西洋で「表現の自由」というものが提唱されたのも、元はといえば新旧約なんぞを金科玉条に
掲げ続けて来た自分たちの性向こそを元凶としているわけだから、結局、比喩表現の悪用を助長
する諸々の正当化材料にしろ小説の祭り上げにしろ、全ては新旧約を元凶としているのだといえる。
フィクションとしての宮廷文学の金字塔である源氏物語なども、仏門の立場から「妄語戒に反する」
と批判されていたようなこともあったわけだが、それにしたって、家康公を始めとする多くの歴史上
の人物が源氏物語の愛読者でもあり続けて来てもいる。小説文学というものがその程度の扱いを受けて、
表現の自由などもそれなりの戒めの対象になりつつ、成人図書のような警戒的な受容に止められて行く
というのならば、完全に根絶されたりまでする必要もない。三国志演義も封神演義も小説文学には
違いないが、前者のほうがより史実に即している一方、後者のほうは怪力乱神を導入しまくった
濃厚なフィクションであるから、文学作品としての評価も三国志演義>封神演義だったりする、
その程度の扱いとしてフィクションだらけの小説作品が許容されていくことはこれからも可能である。
ただ、それにしたって、フィクションをノンフィクションの下に置き、不正な表現を適切な表現の
下に置く分別はしっかりと講じていく必要がある。新旧約なんぞは、不正な表現の限りを尽くした
完全なフィクション小説であるものだから、それこそ最低劣の文筆として扱われなければならない。
経書や仏典は適切な表現の宝庫だから尊重され、正史もフィクションの明記だから尊重される。
(正史「三国志」のように三国志演義以上にも出来の悪い正史も中にはあるので注意が必要)
それらの下に全ての不正な表現やノンフィクションまみれの文筆が置かれていくようにする。
>>72のアンカー>>70です。
で、これは>>72の続きです。
要するに、それらを包みもの込む森羅万象とも密接になっている事柄とは、洋の東西や文化系統(これもごく数百年という最近の)だけを取り上げて、
一方からの見方だけで、圧出した理論を持って排除できるものでないし、ましてやそれが、包括するという意味でない、と、
理屈の間違いや不正な事(西洋でいえば、中世基督教国の布教という世界規模の侵略略奪行為や
ナチスのニーチェやワーグナーなど優れた学者や文化を利用してのナショナリズムへの誘導など)
は、それが正しくなかったことは、これまで時間の流れというものがすべて証明していっている。
何度言っても馬鹿のフリは、ネットでウダウダウヨウヨしている姑息な姿。要するに、宗教を否定
しておきながら(都合の悪いところはつぎはぎの矛盾だらけの言い訳)、結局、自分はその書物を
持ってして、それが自分の徳であることを強調しつつ、恰も宗教のように取り扱っているわけだ。
(もう最近さ、こちらが何かを指摘すると、それを阿呆な、そもそもの基本の話しに矛盾することなどもおかまい無しに言い訳修正を始めるだろ? 言い訳をひとつするごとに、自分の穴が埋まっていって
目的(?)達成へ近づいたとでも思ってるのか? それが阿呆だと。呆れるよまったく)
ええと、で、>>30英文だが、つまり、尊いことを教えていくのは大事な事だけども、そちらは、私利私欲にまみれていると。
そして、それを淘汰するものはもっと形而上的なもので、そちらの話している事柄だけでは足りない、というか、
そちらの言動自体がそれに矛盾しているわけで。アーくそ、で、英文の内容は、そういう事。
内容は光を正義とし闇を悪とするいかにも〜な話しをそちらはレスしていたが、
『そちらの言っている事の矛盾していることも、それらのうちのひとつ。光またも漆黒の中に生じるうちのもののひとつ』というもの。
で、「one of them=そのうちのひとつが〜]という文。全体を表す代名詞が「them」の発音は、
禅=zenにつながるというシャレだったのだが、こういう偶然的なことがらは、
実際にあるものだが、とても説明できないものという存在のone of themなのだ、っと。
で、これは>>72の続きです。
要するに、それらを包みもの込む森羅万象とも密接になっている事柄とは、洋の東西や文化系統(これもごく数百年という最近の)だけを取り上げて、
一方からの見方だけで、圧出した理論を持って排除できるものでないし、ましてやそれが、包括するという意味でない、と、
理屈の間違いや不正な事(西洋でいえば、中世基督教国の布教という世界規模の侵略略奪行為や
ナチスのニーチェやワーグナーなど優れた学者や文化を利用してのナショナリズムへの誘導など)
は、それが正しくなかったことは、これまで時間の流れというものがすべて証明していっている。
何度言っても馬鹿のフリは、ネットでウダウダウヨウヨしている姑息な姿。要するに、宗教を否定
しておきながら(都合の悪いところはつぎはぎの矛盾だらけの言い訳)、結局、自分はその書物を
持ってして、それが自分の徳であることを強調しつつ、恰も宗教のように取り扱っているわけだ。
(もう最近さ、こちらが何かを指摘すると、それを阿呆な、そもそもの基本の話しに矛盾することなどもおかまい無しに言い訳修正を始めるだろ? 言い訳をひとつするごとに、自分の穴が埋まっていって
目的(?)達成へ近づいたとでも思ってるのか? それが阿呆だと。呆れるよまったく)
ええと、で、>>30英文だが、つまり、尊いことを教えていくのは大事な事だけども、そちらは、私利私欲にまみれていると。
そして、それを淘汰するものはもっと形而上的なもので、そちらの話している事柄だけでは足りない、というか、
そちらの言動自体がそれに矛盾しているわけで。アーくそ、で、英文の内容は、そういう事。
内容は光を正義とし闇を悪とするいかにも〜な話しをそちらはレスしていたが、
『そちらの言っている事の矛盾していることも、それらのうちのひとつ。光またも漆黒の中に生じるうちのもののひとつ』というもの。
で、「one of them=そのうちのひとつが〜]という文。全体を表す代名詞が「them」の発音は、
禅=zenにつながるというシャレだったのだが、こういう偶然的なことがらは、
実際にあるものだが、とても説明できないものという存在のone of themなのだ、っと。
現代などは、法律文書や商取引書類あたりにも不正な表現を駆使された代物が無数にあるわけだから、
お縄を頂戴することとなって行く文書の量も、それこそ膨大な量に上るだろうことが予見される。
まことに、言葉の禍いというものは、武器のもたらす禍以上にも時に甚大となるのだといえる。
「我れ其の声を聞くも、其の身を見ず。人に愧じざるや、天を畏れざるや」
「俺はその声を聞きはするが、その姿を見たことはない。(出歯亀然とした
そのあり方を)どうして人に恥じもしないのか。どうして天を畏れもしないのか。
(『あなた方は神の姿を見ない』とは犯罪聖書にもあるし、そもそも犯罪聖書の著者からして
匿名な上に、その記述内容も架空である。それこそ恥ずべきこと、畏れ慎むべきことなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・何人斯より)
>>she
俺がここでものを言っている動機は↓このスレに明記されている。
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/134149088...
一時の激情や保身に駆られて暴論を巻き起こしているおまえなどとは発言の動機
からして別格なのだから、そんな低い所から俺に文句を付けて来た所で全くの無駄だ。
お縄を頂戴することとなって行く文書の量も、それこそ膨大な量に上るだろうことが予見される。
まことに、言葉の禍いというものは、武器のもたらす禍以上にも時に甚大となるのだといえる。
「我れ其の声を聞くも、其の身を見ず。人に愧じざるや、天を畏れざるや」
「俺はその声を聞きはするが、その姿を見たことはない。(出歯亀然とした
そのあり方を)どうして人に恥じもしないのか。どうして天を畏れもしないのか。
(『あなた方は神の姿を見ない』とは犯罪聖書にもあるし、そもそも犯罪聖書の著者からして
匿名な上に、その記述内容も架空である。それこそ恥ずべきこと、畏れ慎むべきことなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・何人斯より)
>>she
俺がここでものを言っている動機は↓このスレに明記されている。
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/134149088...
一時の激情や保身に駆られて暴論を巻き起こしているおまえなどとは発言の動機
からして別格なのだから、そんな低い所から俺に文句を付けて来た所で全くの無駄だ。
>>74
また阿呆な事をいいだしてますな。ネット頭から解放されろって。
全部読んでませんが、小説=フィクション、基督教の聖書はフィクションだからとかの
話し。講師とか労使とか孟子(なぜかこれだけ一発変換できる)とかの話しも、いわゆる
比喩文学だといえば、そうなんですがー。
阿呆が、本板で小説の中身の話しのレスを読んで、切り返してるつもりか? もっと、
切れよく頼みますよ。
と屁理屈〜です。だから、本当に普遍的な事柄は、すべてを包括しているって、ことです。
>>30より、>>75で。そちらは視点が狭量で、理解するということは、まず把握するという意味であるのに、ただ自分が体よく生きる(ネットで)ためへの利発さを求めているに過ぎないというのは、
成長出来ない証明でもあります。さいならーっと。
また阿呆な事をいいだしてますな。ネット頭から解放されろって。
全部読んでませんが、小説=フィクション、基督教の聖書はフィクションだからとかの
話し。講師とか労使とか孟子(なぜかこれだけ一発変換できる)とかの話しも、いわゆる
比喩文学だといえば、そうなんですがー。
阿呆が、本板で小説の中身の話しのレスを読んで、切り返してるつもりか? もっと、
切れよく頼みますよ。
と屁理屈〜です。だから、本当に普遍的な事柄は、すべてを包括しているって、ことです。
>>30より、>>75で。そちらは視点が狭量で、理解するということは、まず把握するという意味であるのに、ただ自分が体よく生きる(ネットで)ためへの利発さを求めているに過ぎないというのは、
成長出来ない証明でもあります。さいならーっと。

米英主導の今の世界もちゃんと動いている。
そして案の定、人類は滅亡への地獄道を絶賛邁進中だ。
おまえの言い分は、最終防衛線死守思想としての条件を全く満たせていないから、
それこそを本分としている俺の物言いにケチを付けるような資格はない。
俺の考えや発言に寸分ほどの抑制をかける効果すらをも持ちはしない。
「苟くも社稷を利すには、死生之れを以ってす。
且つ吾れ聞くに、善を為す者は其の度を改めずと、故に能く済む有るなり」
「天下国家の利益のためには、自分個人の生死などは度外視すべきものである。
なおかつ私(子産)の聞いた言葉には『善を為す者はそのやり方を中途で改め
たりはしない』というのがある。だからこそ大偉業を成し遂げられもするのだ。
(最初の一文は個人の生死ばかりを偏重する新旧約の物言いへの批判になっている。
以降の文は善を為すことに一心不乱であることすら非難するsheへの反論になっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公四年より)
普通の人間は、信仰と行いは別物であると考えるし、正統な信教でも両者を完全な別物として扱う。
自分には自力での善行なんか到底できはしない、だから信仰にすがる、だからといって、信仰に
よって自分が善行を為せるようになるというのでも、信仰それ自体が善行になるというのでもない。
ただひたすら濁悪からの救いを求めて、無力ながらの信仰にすがるというばかりのことである。
「そういう信仰で救われるというのならそれでもいい、それだけじゃ不足だというのなら禅門にもおいで」
と臨済宗妙心寺派管長だった玄峰老師も仰られていたが、その玄峰老師が、キリスト教教義の
「善行によって救われる」という部分を引いて、キリスト教を是とするようなことも言っておられた。
顕教である禅仏教の立場からすれば、そんなに異教の内実にまで立ち入ってものを言うことも避けようと
しておられたのかもしれないが、キリスト教における「善行」とは信仰そのものだったりするわけで、
信と行を別個のものとして捉える仏教版の他力信仰(浄土教など)の観点などからすれば、信仰第一の
キリスト教が「善行によって救われる」などということを謳っていること自体、是認しかねることなのである。
信仰と行いを混同して、信仰すなわち善行だなどと思い込んだならば、行い全般の重大さが蔑ろにされる
こととなる。農夫が耕作を怠って作物をろくに実らせないでいた所で、信仰を善行に代えられるのなら、
それでチャラになるということにすらなる。信仰と行いを全くの別物として捉えるのならそんなことには
ならないが、両者の境があやふやであるようならそうすらなりかねないから、重農主義的な為政を敷いた
徳川幕府も信行の分別ある浄土教などは許容した一方、信行を混同しがちなキリシタンは禁止したのだった。
自分には自力での善行なんか到底できはしない、だから信仰にすがる、だからといって、信仰に
よって自分が善行を為せるようになるというのでも、信仰それ自体が善行になるというのでもない。
ただひたすら濁悪からの救いを求めて、無力ながらの信仰にすがるというばかりのことである。
「そういう信仰で救われるというのならそれでもいい、それだけじゃ不足だというのなら禅門にもおいで」
と臨済宗妙心寺派管長だった玄峰老師も仰られていたが、その玄峰老師が、キリスト教教義の
「善行によって救われる」という部分を引いて、キリスト教を是とするようなことも言っておられた。
顕教である禅仏教の立場からすれば、そんなに異教の内実にまで立ち入ってものを言うことも避けようと
しておられたのかもしれないが、キリスト教における「善行」とは信仰そのものだったりするわけで、
信と行を別個のものとして捉える仏教版の他力信仰(浄土教など)の観点などからすれば、信仰第一の
キリスト教が「善行によって救われる」などということを謳っていること自体、是認しかねることなのである。
信仰と行いを混同して、信仰すなわち善行だなどと思い込んだならば、行い全般の重大さが蔑ろにされる
こととなる。農夫が耕作を怠って作物をろくに実らせないでいた所で、信仰を善行に代えられるのなら、
それでチャラになるということにすらなる。信仰と行いを全くの別物として捉えるのならそんなことには
ならないが、両者の境があやふやであるようならそうすらなりかねないから、重農主義的な為政を敷いた
徳川幕府も信行の分別ある浄土教などは許容した一方、信行を混同しがちなキリシタンは禁止したのだった。
信仰と行いの間に明確な分別を付けるということは、宗教全般に対する不信が蔓延してしまっている
現代社会においてこそ特に見失われてしまっていることである。戦国時代の一向一揆なども、本来は行いと
分けて然るべき信仰が武装蜂起に繋がってしまった事例に当たるわけだが、乱世こそは、信仰と行いの分別が
疎かになってしまいがちな時代なのだといえる。無論、信仰と行いを混同する類いの信教こそがそのような
乱世をもたらす場合もあるわけで、聖書信仰が侵略の魔の手を広げている事態などもそれに当たるといえる。
信教の健全化、信仰への不信の払拭のためにこそ、信と行の厳格な分別というものが必要ともなる。
自力作善の宗門なども、修養のために信仰を指針とすることがあるが、やはり信仰とはまた
別の物としての精進修行などに励んで行く。そして信仰一辺倒の他力信仰というものもまたある。
その二つに信教の有り方というものが厳格化されたならば、科学的発想が定着している現代人であっても、
信教を鼻つまみもの扱いまでしたりはせずに済むのである。にもかかわらず、今の宗教というものが
信と行を混同するような風潮を大いに是としているものだから、宗教への不信も絶えることがない。
これはもう、今の宗教の側にとっての完全な自業自得であると見なすほかはない問題であるといえる。
自他に対して他力本願を促しているような信教が、善行としての布施を信者に要求したりするのも
言行不一致となっている。厳格に戒律も守る自力作善の信教が、信者に善行としての布施を促したり、
他力本願系の信教が「やむない悪行」としての布施を求めたりするのならまだありだといえるが、
他力本願のくせして、どうして教団への布施に限っては善行であるなどということがあろうか。
現代社会においてこそ特に見失われてしまっていることである。戦国時代の一向一揆なども、本来は行いと
分けて然るべき信仰が武装蜂起に繋がってしまった事例に当たるわけだが、乱世こそは、信仰と行いの分別が
疎かになってしまいがちな時代なのだといえる。無論、信仰と行いを混同する類いの信教こそがそのような
乱世をもたらす場合もあるわけで、聖書信仰が侵略の魔の手を広げている事態などもそれに当たるといえる。
信教の健全化、信仰への不信の払拭のためにこそ、信と行の厳格な分別というものが必要ともなる。
自力作善の宗門なども、修養のために信仰を指針とすることがあるが、やはり信仰とはまた
別の物としての精進修行などに励んで行く。そして信仰一辺倒の他力信仰というものもまたある。
その二つに信教の有り方というものが厳格化されたならば、科学的発想が定着している現代人であっても、
信教を鼻つまみもの扱いまでしたりはせずに済むのである。にもかかわらず、今の宗教というものが
信と行を混同するような風潮を大いに是としているものだから、宗教への不信も絶えることがない。
これはもう、今の宗教の側にとっての完全な自業自得であると見なすほかはない問題であるといえる。
自他に対して他力本願を促しているような信教が、善行としての布施を信者に要求したりするのも
言行不一致となっている。厳格に戒律も守る自力作善の信教が、信者に善行としての布施を促したり、
他力本願系の信教が「やむない悪行」としての布施を求めたりするのならまだありだといえるが、
他力本願のくせして、どうして教団への布施に限っては善行であるなどということがあろうか。
「信教の自由」の名の下での宗教優遇もそのような、他力本願を信者に促すくせして、教団への布施だけは
善行として大いに奨励するような類いの邪教の保護にこそ一役買ってしまっている。信教などは寺社奉行
によって厳重な監査の対象となっていた時代の日本においてこそ、そんな邪教の肥大化こそは防がれても
いたわけだから、信教の自由というもの自体、邪教の振興にばかり与してしまうものであるのが確かだ。
信と行の混同や信教の自由こそは、信と行の分別を付けるまともな信教を日陰へと追いやる原因とも
なってしまっている。聖書信仰を是としている以上は寸分たりとも儒学の信仰が叶わないのとも同じように、
信仰の乱れこそが「悪教は良教を駆逐する」といった事態を招いてしまいもする。信教全般を駆逐するため
ではなく、邪教を駆逐することで正教を保護するためにこそ、信教の是正というものもまた必要とされるのである。
「昔中葉に在りて、震いて且つ業なるもの有り。允なる天子、卿士も降れり、実に維れ阿衡、実に商王に左右す」
「昔、(当時から見て)中世のころ、震撼するような大いなる神の業があった。殷の王が真の天子であったために、
諸国の公卿たちも心からそこに服した。ついには名臣伊尹までもが現れて、殷の王を左右から補佐したのだった。
(実物の帝業がありのままに『神の業』であるからこそ、東洋では政治史が重んじられて来てもいる。
本物の神の業というものを決して軽んじたりしてはならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・商頌・長発より)
善行として大いに奨励するような類いの邪教の保護にこそ一役買ってしまっている。信教などは寺社奉行
によって厳重な監査の対象となっていた時代の日本においてこそ、そんな邪教の肥大化こそは防がれても
いたわけだから、信教の自由というもの自体、邪教の振興にばかり与してしまうものであるのが確かだ。
信と行の混同や信教の自由こそは、信と行の分別を付けるまともな信教を日陰へと追いやる原因とも
なってしまっている。聖書信仰を是としている以上は寸分たりとも儒学の信仰が叶わないのとも同じように、
信仰の乱れこそが「悪教は良教を駆逐する」といった事態を招いてしまいもする。信教全般を駆逐するため
ではなく、邪教を駆逐することで正教を保護するためにこそ、信教の是正というものもまた必要とされるのである。
「昔中葉に在りて、震いて且つ業なるもの有り。允なる天子、卿士も降れり、実に維れ阿衡、実に商王に左右す」
「昔、(当時から見て)中世のころ、震撼するような大いなる神の業があった。殷の王が真の天子であったために、
諸国の公卿たちも心からそこに服した。ついには名臣伊尹までもが現れて、殷の王を左右から補佐したのだった。
(実物の帝業がありのままに『神の業』であるからこそ、東洋では政治史が重んじられて来てもいる。
本物の神の業というものを決して軽んじたりしてはならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・商頌・長発より)
奪って与え、害して施すマッチポンプを主体とした部類の文化文明こそは、
プラスマイナスゼロ以下のあるよりもないほうがマシな悪影響しか
この世にもたらさないままに終わることが決定付けられている。
そうであることがいま如実に現実化しているのが、ブラックアフリカのキリスト教国の
現状でもある。元はといえば完全な未開の土人社会であったところに、マッチポンプを
教理としたキリスト教圏の侵略の魔の手が襲い掛かり、以前にはあり得なかったような
大規模な飢饉や、近代兵装を用いての深刻な戦乱状態を来たすようになってしまった。
同様の侵略によって、経済面ではブラックアフリカ並みの疲弊状態に置かれてしまって
いる今のインドなども、麻薬汚染などのそれなりの問題を来たしてしまってはいるものの、
最悪級の飢餓や戦乱が常態化してしまっているブラックアフリカなどと比べれば、まだ
観光地として楽しめる程度の柔和さが保てていたりもする。それは、インド独自の
伝統文化がマッチポンプを主体としたものなどではなく、人々に逆境をものともしない
精神からの強さすら与えるものであったからで、そのような伝統文化によって聖書圏による
文化的な侵略を防止することを通じて、人災としての社会問題を未然に防げてもいるのだ。
地域によって程度の違いはあるものの、マッチポンプを究極的な志向としている聖書信仰が
この世にもたらしている影響は、どれもプラスマイナスゼロ以下の悪影響ばかりであり、
ただその受容が抑制や防止できている限りにおいて、多少なりともマシ以上であることが
あるばかりである。それは、物理的にもエントロピー増大則によってその絶対性が確証されて
いることであり、純粋な科学的発想に即して価値がないと見なすことができるものでもある。
エントロピーの増大が物理的に絶対的であるから、同程度の事物を構築することよりも
破壊することのほうが必ずたやすい。コップからこぼした水を元に戻すよりは、ただ
こぼすだけのほうが遥かに簡単なことであり、その簡単さに慣れてしまった以上は、
修復や構築を丹念に心がけていく困難さをどうしても疎かにしてしまいがちになる。
プラスマイナスゼロ以下のあるよりもないほうがマシな悪影響しか
この世にもたらさないままに終わることが決定付けられている。
そうであることがいま如実に現実化しているのが、ブラックアフリカのキリスト教国の
現状でもある。元はといえば完全な未開の土人社会であったところに、マッチポンプを
教理としたキリスト教圏の侵略の魔の手が襲い掛かり、以前にはあり得なかったような
大規模な飢饉や、近代兵装を用いての深刻な戦乱状態を来たすようになってしまった。
同様の侵略によって、経済面ではブラックアフリカ並みの疲弊状態に置かれてしまって
いる今のインドなども、麻薬汚染などのそれなりの問題を来たしてしまってはいるものの、
最悪級の飢餓や戦乱が常態化してしまっているブラックアフリカなどと比べれば、まだ
観光地として楽しめる程度の柔和さが保てていたりもする。それは、インド独自の
伝統文化がマッチポンプを主体としたものなどではなく、人々に逆境をものともしない
精神からの強さすら与えるものであったからで、そのような伝統文化によって聖書圏による
文化的な侵略を防止することを通じて、人災としての社会問題を未然に防げてもいるのだ。
地域によって程度の違いはあるものの、マッチポンプを究極的な志向としている聖書信仰が
この世にもたらしている影響は、どれもプラスマイナスゼロ以下の悪影響ばかりであり、
ただその受容が抑制や防止できている限りにおいて、多少なりともマシ以上であることが
あるばかりである。それは、物理的にもエントロピー増大則によってその絶対性が確証されて
いることであり、純粋な科学的発想に即して価値がないと見なすことができるものでもある。
エントロピーの増大が物理的に絶対的であるから、同程度の事物を構築することよりも
破壊することのほうが必ずたやすい。コップからこぼした水を元に戻すよりは、ただ
こぼすだけのほうが遥かに簡単なことであり、その簡単さに慣れてしまった以上は、
修復や構築を丹念に心がけていく困難さをどうしても疎かにしてしまいがちになる。
そうならないためには、わざわざコップから水をこぼしておいて後からくみ上げる
みたいな遊び心をさしはさむ不埒さを根こそぎ排していくしかない。わざわざコップの
水をこぼしたりせずに、始めからこぼしたりしないようにする慎重さを保ったままでいる、
そういった努力精進の積み重ねだけが、エントロピーの増大が遍在するこの世界において
プラスマイナスゼロ以上の成果を挙げる糧ともなるのだから、わざわざ必要もなくあえて
好き好んで自分からコップの水をこぼすようなマッチポンプを許していいわけがないのである。
信教ではなく、国家規模の為政のあり方としてマッチポンプに相当するのが覇道(覇権主義)
であり、無為自然のままであればそれでいい所にわざわざ征服の魔の手を広げて行って、
それで征服地の安全を保障したりすることが典型的なマッチポンプとなっている。この逆を
行くのが王道であり、自分たちからの外界侵略は徹底して自制する一方、自国内の統治には
手塩をかけて、諸外国が自然と自分たちのあり方に随順して行こうとするようにもなったり
することを目指す。こちらは、マッチポンプの「マッチ」となる外界侵略を一切介すること
なく天下の泰平統治を企図しているものだから、マッチポンプの条件を満たしてはおらず、
故に、世の中にプラマイゼロ以上の好影響をも及ぼし得ることが決定付けられてもいる。
「大道廃れて仁義あり」という物言いで、老子も王道統治と覇道支配の対立を両成敗しては
いるけれども、王道統治には世の中にプラマイゼロ以上の好影響を及ぼすことが可能である
一方、覇道支配にはそれが不可能であり、ただ専ら悪影響ばかりを及ぼすしかないといった
両者の相違は厳然としてあるものである。覇権主義による世の中の荒廃が極まって、破滅の危機に
まで陥ってしまった時に、否応なく王道統治に切り替えての修復を試みていくとすればこれはもう
一つの「縁起」であるといえ、もはや仏法の真理にすら即しているともいえるから、仏教よりは
ずいぶんと大雑把な真理の概括を取り扱っているだけの老荘なども押し黙るほかはないといえる。
みたいな遊び心をさしはさむ不埒さを根こそぎ排していくしかない。わざわざコップの
水をこぼしたりせずに、始めからこぼしたりしないようにする慎重さを保ったままでいる、
そういった努力精進の積み重ねだけが、エントロピーの増大が遍在するこの世界において
プラスマイナスゼロ以上の成果を挙げる糧ともなるのだから、わざわざ必要もなくあえて
好き好んで自分からコップの水をこぼすようなマッチポンプを許していいわけがないのである。
信教ではなく、国家規模の為政のあり方としてマッチポンプに相当するのが覇道(覇権主義)
であり、無為自然のままであればそれでいい所にわざわざ征服の魔の手を広げて行って、
それで征服地の安全を保障したりすることが典型的なマッチポンプとなっている。この逆を
行くのが王道であり、自分たちからの外界侵略は徹底して自制する一方、自国内の統治には
手塩をかけて、諸外国が自然と自分たちのあり方に随順して行こうとするようにもなったり
することを目指す。こちらは、マッチポンプの「マッチ」となる外界侵略を一切介すること
なく天下の泰平統治を企図しているものだから、マッチポンプの条件を満たしてはおらず、
故に、世の中にプラマイゼロ以上の好影響をも及ぼし得ることが決定付けられてもいる。
「大道廃れて仁義あり」という物言いで、老子も王道統治と覇道支配の対立を両成敗しては
いるけれども、王道統治には世の中にプラマイゼロ以上の好影響を及ぼすことが可能である
一方、覇道支配にはそれが不可能であり、ただ専ら悪影響ばかりを及ぼすしかないといった
両者の相違は厳然としてあるものである。覇権主義による世の中の荒廃が極まって、破滅の危機に
まで陥ってしまった時に、否応なく王道統治に切り替えての修復を試みていくとすればこれはもう
一つの「縁起」であるといえ、もはや仏法の真理にすら即しているともいえるから、仏教よりは
ずいぶんと大雑把な真理の概括を取り扱っているだけの老荘なども押し黙るほかはないといえる。
「六尺の孤を以って託す可く、百里の命を以って寄すべくも、
大節に臨みて奪う可からず。君子人なるか、君子人なり」
「身長六尺(約130cm)程度の幼い若君の摂政を任せることもできれば、
百里を超えるような大国の政令権を寄与することもできるが、大事を任せるから
といって今までの志操を奪い去ることもできない。これこそは君子たる者ではなかろうか。
君子たる者であろう。(君子に身勝手なナギブアンドテイクなどは通用しない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・六より)
大節に臨みて奪う可からず。君子人なるか、君子人なり」
「身長六尺(約130cm)程度の幼い若君の摂政を任せることもできれば、
百里を超えるような大国の政令権を寄与することもできるが、大事を任せるから
といって今までの志操を奪い去ることもできない。これこそは君子たる者ではなかろうか。
君子たる者であろう。(君子に身勝手なナギブアンドテイクなどは通用しない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・六より)
生き物が死ぬのは悲しいことだが、死の先にあるものこそは「仏」でもある。
その仏と同等の状態を生前から会得するが人間にとっての「悟り」であり、
生きてる内からの悟り(成道、有余涅槃)によってこそ、人は生死の迷いを脱することができる。
死後の状態を会得するのが悟りではあるが、悟りそのものは生前に得るものこそが如実である。
一人の人間が自分一代のうちに悟りを拓いて、常道者としての健全な活動などに臨んだ後、死に至る。
そこに「死んで生き返る」などという要素は当然伴っておらず、なおかつ「生きているからこそ迷いを
脱せている」などということもない。生か死かなんていう尺度ではとうてい計り知ることのできない所に
悟りとか涅槃とかいったものはあるのであり、そのあり方こそはありのままに中道にも適っているといえる。
悟りを拓いたからといって、それ以降には死んだような生を送るというのでもない。
むしろ、根本的な迷いを晴らしたがための、心の底からの快活な生と文句のない死に与ることができる。
確かに、旺盛な生を送ろうとすることが、聖書信者のような迷いまみれの生に繋がってしまうことも
あるわけだが、同様かそれ以上にも旺盛な人生というものを悟り並みの達観と共に送ったならば、
>>85に引用した曾子の言葉にも沿うような、盛大かつ健全な生が送れたりもするのである。
度し難いのは、最悪の迷いの中での動顚こそを「救い」だなどと勘違いしてしまうことである。
磔刑への恐怖に駆られて気が動顚してまともな感情を失ってしまうことなどもその一つであり、
さらに悪いことには、世の中が総出を挙げてそれこそを悟り並みの扱いにすらしてしまったりもする。
確かに人間が悟りを拓けるということも、動顚によってまともな感情を失ってしまうことがあると
いうことも、いずれも人間という生き物の器質的な構造に根ざした普遍法則ではある。ただ、どちらの
ほうが健全でどちらのほうが不健全かといえば、当然悟りのほうが健全であり、動顚のほうが不健全である。
その仏と同等の状態を生前から会得するが人間にとっての「悟り」であり、
生きてる内からの悟り(成道、有余涅槃)によってこそ、人は生死の迷いを脱することができる。
死後の状態を会得するのが悟りではあるが、悟りそのものは生前に得るものこそが如実である。
一人の人間が自分一代のうちに悟りを拓いて、常道者としての健全な活動などに臨んだ後、死に至る。
そこに「死んで生き返る」などという要素は当然伴っておらず、なおかつ「生きているからこそ迷いを
脱せている」などということもない。生か死かなんていう尺度ではとうてい計り知ることのできない所に
悟りとか涅槃とかいったものはあるのであり、そのあり方こそはありのままに中道にも適っているといえる。
悟りを拓いたからといって、それ以降には死んだような生を送るというのでもない。
むしろ、根本的な迷いを晴らしたがための、心の底からの快活な生と文句のない死に与ることができる。
確かに、旺盛な生を送ろうとすることが、聖書信者のような迷いまみれの生に繋がってしまうことも
あるわけだが、同様かそれ以上にも旺盛な人生というものを悟り並みの達観と共に送ったならば、
>>85に引用した曾子の言葉にも沿うような、盛大かつ健全な生が送れたりもするのである。
度し難いのは、最悪の迷いの中での動顚こそを「救い」だなどと勘違いしてしまうことである。
磔刑への恐怖に駆られて気が動顚してまともな感情を失ってしまうことなどもその一つであり、
さらに悪いことには、世の中が総出を挙げてそれこそを悟り並みの扱いにすらしてしまったりもする。
確かに人間が悟りを拓けるということも、動顚によってまともな感情を失ってしまうことがあると
いうことも、いずれも人間という生き物の器質的な構造に根ざした普遍法則ではある。ただ、どちらの
ほうが健全でどちらのほうが不健全かといえば、当然悟りのほうが健全であり、動顚のほうが不健全である。
悟りは人としての一種のあるべき姿であるとすら言える一方、動顚はなるべくないようにすべきものである。
万人が悟りを拓いている世の中などというのもなかなかあり得ないことではあるが、一家に一人、
一集落に一人ぐらいは悟りを拓けた人間がいれば、それが家や村の繁栄の礎ともなる。もしも国家が
総出を挙げて大悟者を増産するための仏門の興隆を企図したならば、それが永年にわたる繁栄を約束する
ことともなるので、歴史的にそういった事業が幾度にも渡って試みられてきた。一方、人々に動顚を
促すような邪教たるや、国家や王家の引っ切り無しの興亡を征服圏に強い続けて来たわけで、悟りと動顚、
それぞれが人と世にもたらす影響の好悪の如何たるや、人類の歴史こそがそれを実証して来ているともいえる。
人間が生存中からの悟りを志すこともまた、コップの水を予めこぼさないでいるようにするような、
エントロピー増大則への適切な対処であるといえる。人間、ただただ生きれば迷いに見舞われる、最悪、
恐怖が極まっての動顚あたりにしか救いを求めることができなくなってしまったりもいる。そうならないために
あらかじめ悟りによって迷いを克服しておくということもまた、人間が生きるということに対する最善の対処で
あるといえ、迷いを増長させた挙句に動顚での虚構の救いを施したりすることは、比較的最善ではないといえる。
今回は「悟りと動顚」という、儒学の領域からはかけ離れた論議に及んでしまったけれども、動顚を促すような
邪教を排して、悟りを促す正教のみを振興して行くためには結局、無宗教の権力者こそがそれを心がける必要がある。
悟りを促すような正教こそは権力に取り入ったりもしたがらない一方、動顚を促すような邪教こそは
国家権力すらをも征服の対象などにしようとするものだから、まず権力者こそはいかなる宗教にも翻弄されない
立派な徳治者でいて、そこからトップダウンに邪教を排して正教を優遇していくようにすることが必要になる。
悟りも動顚も客観視して冷静な比較の対象とした以上のような論議自体、寺社奉行的な観点にも即している。
万人が悟りを拓いている世の中などというのもなかなかあり得ないことではあるが、一家に一人、
一集落に一人ぐらいは悟りを拓けた人間がいれば、それが家や村の繁栄の礎ともなる。もしも国家が
総出を挙げて大悟者を増産するための仏門の興隆を企図したならば、それが永年にわたる繁栄を約束する
ことともなるので、歴史的にそういった事業が幾度にも渡って試みられてきた。一方、人々に動顚を
促すような邪教たるや、国家や王家の引っ切り無しの興亡を征服圏に強い続けて来たわけで、悟りと動顚、
それぞれが人と世にもたらす影響の好悪の如何たるや、人類の歴史こそがそれを実証して来ているともいえる。
人間が生存中からの悟りを志すこともまた、コップの水を予めこぼさないでいるようにするような、
エントロピー増大則への適切な対処であるといえる。人間、ただただ生きれば迷いに見舞われる、最悪、
恐怖が極まっての動顚あたりにしか救いを求めることができなくなってしまったりもいる。そうならないために
あらかじめ悟りによって迷いを克服しておくということもまた、人間が生きるということに対する最善の対処で
あるといえ、迷いを増長させた挙句に動顚での虚構の救いを施したりすることは、比較的最善ではないといえる。
今回は「悟りと動顚」という、儒学の領域からはかけ離れた論議に及んでしまったけれども、動顚を促すような
邪教を排して、悟りを促す正教のみを振興して行くためには結局、無宗教の権力者こそがそれを心がける必要がある。
悟りを促すような正教こそは権力に取り入ったりもしたがらない一方、動顚を促すような邪教こそは
国家権力すらをも征服の対象などにしようとするものだから、まず権力者こそはいかなる宗教にも翻弄されない
立派な徳治者でいて、そこからトップダウンに邪教を排して正教を優遇していくようにすることが必要になる。
悟りも動顚も客観視して冷静な比較の対象とした以上のような論議自体、寺社奉行的な観点にも即している。
「天子は介なし」
「天子には仲介者として取り成すものは付かない。
(仲介は来賓のために行うもの。天子は天下全土を治められる立場であるから、
他人行儀な仲介役などを立てたりすることはない。商人の作法などとは別格な所。
仲介神ヘルメスを多用するギリシャ神話の神などもこれには至らない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼器第十より)
「天子には仲介者として取り成すものは付かない。
(仲介は来賓のために行うもの。天子は天下全土を治められる立場であるから、
他人行儀な仲介役などを立てたりすることはない。商人の作法などとは別格な所。
仲介神ヘルメスを多用するギリシャ神話の神などもこれには至らない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼器第十より)
「人の生けるは直ければなり、之れを罔いて生けるは、幸いにして免るるなり(既出)」
「人が生きていられるのは正直だからだ。それを歪めて生きているのは、まぐれで助かっているだけだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・十九より)
上記の孔子の言葉は、「邪曲で生き延びている人間はまぐれで助かっている」と述べている点が、
多少の謙遜や辞譲が込められている部分だといえる。実際には、まぐれで助かっているようなことすらない。
正直を貫くことで着実に生きている人々の貯金を掠め取ることでこそ、邪曲を本分としているような
人間も何とか生き延びられている。自分たちの他に、正直に生きている人間など一人もいないというので
あれば、そんな連中もとっくの昔に死に絶えてしまっているのであり、他者を余分に養える程にも正直の
限りを尽くして生きている人間こそは、邪曲と共に生き延びている連中の飼い主であるとすら言えるのである。
物理的にもあり得なければ、道徳的にも決してあるべきでないような嘘偽りの限りを尽くした邪教である
聖書信仰が西洋社会を文化的に征服した最初期の頃、やはり西洋は社会的に極端な停滞状態に見舞われた。
共にキリスト教の征服下にあった中東社会がイスラム教の創始によってキリスト教を撃退して後、
しばらくして、キリスト教徒による初めての大々的な外界侵略としての十字軍遠征が勃発した。
その口実は「聖徒エルサレムの異教徒からの奪還」などというものではあったが、実質上は、
自分たちキリスト教徒が経済的な困窮に駆られての強奪目的であるというのが主だった理由であった。
だからこそ、中世以降は自分たちにとっての聖地でも何でもない世界中の土地を侵略植民してまわり、
近現代以降は、聖地であるはずのエルサレムをすでに強奪しておきながら、それ以降も中東諸国への
侵略戦争を繰り返すといった本末転倒の所業にすら及んでもいる。結局、嘘偽りの限りを尽くした邪教を
金科玉条に祭り上げているような連中が、自分たちだけで経済的にやって来られたようなことからして
大昔からなかったのであり、勢力規模でも邪教圏を遥かに上回るような「正直を旨とした人々の集まり」
が他にあったればこそ、地球人類もこれまで邪教に自滅させられることもなくやって来られたのだといえる。
「人が生きていられるのは正直だからだ。それを歪めて生きているのは、まぐれで助かっているだけだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・十九より)
上記の孔子の言葉は、「邪曲で生き延びている人間はまぐれで助かっている」と述べている点が、
多少の謙遜や辞譲が込められている部分だといえる。実際には、まぐれで助かっているようなことすらない。
正直を貫くことで着実に生きている人々の貯金を掠め取ることでこそ、邪曲を本分としているような
人間も何とか生き延びられている。自分たちの他に、正直に生きている人間など一人もいないというので
あれば、そんな連中もとっくの昔に死に絶えてしまっているのであり、他者を余分に養える程にも正直の
限りを尽くして生きている人間こそは、邪曲と共に生き延びている連中の飼い主であるとすら言えるのである。
物理的にもあり得なければ、道徳的にも決してあるべきでないような嘘偽りの限りを尽くした邪教である
聖書信仰が西洋社会を文化的に征服した最初期の頃、やはり西洋は社会的に極端な停滞状態に見舞われた。
共にキリスト教の征服下にあった中東社会がイスラム教の創始によってキリスト教を撃退して後、
しばらくして、キリスト教徒による初めての大々的な外界侵略としての十字軍遠征が勃発した。
その口実は「聖徒エルサレムの異教徒からの奪還」などというものではあったが、実質上は、
自分たちキリスト教徒が経済的な困窮に駆られての強奪目的であるというのが主だった理由であった。
だからこそ、中世以降は自分たちにとっての聖地でも何でもない世界中の土地を侵略植民してまわり、
近現代以降は、聖地であるはずのエルサレムをすでに強奪しておきながら、それ以降も中東諸国への
侵略戦争を繰り返すといった本末転倒の所業にすら及んでもいる。結局、嘘偽りの限りを尽くした邪教を
金科玉条に祭り上げているような連中が、自分たちだけで経済的にやって来られたようなことからして
大昔からなかったのであり、勢力規模でも邪教圏を遥かに上回るような「正直を旨とした人々の集まり」
が他にあったればこそ、地球人類もこれまで邪教に自滅させられることもなくやって来られたのだといえる。
それでももう、これ以上いままでのやり方でやっていけるようなこともないのである。
自分たちよりも多数派であるような正しい人々に経済的に依存することで初めて、今まで生き延びて
来られた邪宗門の帰依者たちが、さらには、他人への依存ではなく神への帰依によってこそ自分たちが
生き延びて来られたなどとすら思い込んでいる、これこそは、もう決して存続していくことが許されない
悪習だといえる。そんな風に思い込んでいればこそ、何らの後ろめたさも抱くことなく、他者への経済的依存に
頼りきりでの生き延びを続けていくことができる。ただ続けていくことができるのみならず、他者を困窮から
なる人口爆発に追いやってまで自分たちの栄華を貪るほどもの、不埒な貪欲さまでをも保ったままでいるのである。
実際には、神への帰依などではなく、正しい生き方に務めている異教徒への経済的な依存によってこそ
生き延びてきた。その現実を直視して心底から恥を知り、経済的依存ありきな自分たちの生き方から改めて行く。
そのためには当然、他者への経済的依存を神への帰依に掏り返るような邪教を破棄して行くことも必要である。
他人への恩義は虚構の神が掠め取り、恩ある相手は敵扱いとする、致命的な恩知らず助長の邪教、そんな
ものを許容し続けていけるほどに、他人行儀ばかりでやっていけるほど、もうこの世界も広くはないのである。
「帝曰く、咨、四岳、能く朕の三礼を典る有らんか。僉な曰く、伯夷と。
帝曰く、兪り。咨、伯、汝秩宗と作れ。夙夜惟れ寅み、直からん哉、惟れ清なれ」
「舜帝は言われた。『四岳(堯舜の重臣団)よ、私の天地人にまつわる典礼を正しく司れる者はいないだろうか』
みな口を揃えて『それは伯夷です』と答えた。舜帝は言われた。『よろしい、伯夷よ、汝こそは典礼を司る祭祀長となれ。
朝早くから夜遅くまで、清く正しくその役目に励んでくれ』(天地人の三礼うちの『人』が祖霊を祀る典礼だから、祖先の
正業を継ぎ、過ちを繰り返さないことにかけても清く正しくあらねばならない。清く正しくあるべき道というものがある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)
自分たちよりも多数派であるような正しい人々に経済的に依存することで初めて、今まで生き延びて
来られた邪宗門の帰依者たちが、さらには、他人への依存ではなく神への帰依によってこそ自分たちが
生き延びて来られたなどとすら思い込んでいる、これこそは、もう決して存続していくことが許されない
悪習だといえる。そんな風に思い込んでいればこそ、何らの後ろめたさも抱くことなく、他者への経済的依存に
頼りきりでの生き延びを続けていくことができる。ただ続けていくことができるのみならず、他者を困窮から
なる人口爆発に追いやってまで自分たちの栄華を貪るほどもの、不埒な貪欲さまでをも保ったままでいるのである。
実際には、神への帰依などではなく、正しい生き方に務めている異教徒への経済的な依存によってこそ
生き延びてきた。その現実を直視して心底から恥を知り、経済的依存ありきな自分たちの生き方から改めて行く。
そのためには当然、他者への経済的依存を神への帰依に掏り返るような邪教を破棄して行くことも必要である。
他人への恩義は虚構の神が掠め取り、恩ある相手は敵扱いとする、致命的な恩知らず助長の邪教、そんな
ものを許容し続けていけるほどに、他人行儀ばかりでやっていけるほど、もうこの世界も広くはないのである。
「帝曰く、咨、四岳、能く朕の三礼を典る有らんか。僉な曰く、伯夷と。
帝曰く、兪り。咨、伯、汝秩宗と作れ。夙夜惟れ寅み、直からん哉、惟れ清なれ」
「舜帝は言われた。『四岳(堯舜の重臣団)よ、私の天地人にまつわる典礼を正しく司れる者はいないだろうか』
みな口を揃えて『それは伯夷です』と答えた。舜帝は言われた。『よろしい、伯夷よ、汝こそは典礼を司る祭祀長となれ。
朝早くから夜遅くまで、清く正しくその役目に励んでくれ』(天地人の三礼うちの『人』が祖霊を祀る典礼だから、祖先の
正業を継ぎ、過ちを繰り返さないことにかけても清く正しくあらねばならない。清く正しくあるべき道というものがある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)

IQ40以下にまで知能を低下させてしまうというのも、人間にとっての一つの生理現象であるわけだから、
そのような手品を駆使することで「神からの掲示」などをうそぶく者がいた場合に、
本当にそうであるかのように思い込まれたりもし得るのである。
そのような手品に特に引っかかりやすいのは白人や黒人であり、
黄色人種や有色コーカソイドは一切引っかからないこともないにしろ、なかなか引っかかりにくい。
前者二人種は地球社会の西方を伝統的な居住地としているのに対し、後者二人種は東方を伝統的な居住地として来ている。
日出ずる東方を居住地に選んだか、日没する西方を居住地に選んだかが、両者の精神力の高低を決定的に分かったらしく、
精神薄弱に取り入って人々をだまくらかすような邪教への耐性の有無をも大きく左右したのだった。
黄色人種や有色コーカソイドを主体とする東洋人のほうはといえば、
精神薄弱と極度の恐怖が相まっての知能低下などには見舞われにくい一方で、
「知能の重心を適正化することでの濁念の克服」を得意ともしている。それがいわゆる「悟り」というものであり、
コンピュータのファイルの適正化(デフラグ)などとも原理的には似たものである。
原理を指し示してみたからといって、悟りが「粗末な手品」だなんてこともなく、
パソコンも定期的なデフラグを欠かさないでいるべきなのと同じように、人間も悟りを拓かないよりは拓いていたほうがよい。
別に「キリストの救い」などのように知能を低下させての現実逃避などに及ぶわけでもなく、
むしろ知能を最善級に有効活用させた思考が活性化すらされるわけだから、奨励に値しない理由などというものもないわけである。
人間が知能を適正化することで濁念を克服できるということも、精神薄弱と恐怖の相乗効果によって
知能をチンパンジー以下にまで低下させられるということも、人種の違いによる適性の差違もまたあるにしろ、
それなりに普遍的な人間にとっての生理現象であることには変わりない。しかも、
いずれも本人たちにとっての致命的な健康被害を及ぼすものでまではなかったりもする。
日々の礼拝で知能低下を慣習付けているキリスト教徒が、だからといって異教徒よりも短命だなんてこともない。
悟りも拓かずにただ知能を博覧強記化させたりするよりは、それなりに脳を休ませる習慣を持ち合わせているほうが
認知症への罹患なども防げるようであり、知能を低下させることも悪いことばかりではないようである。
ただ、ひっきりなしに自らの知能をチンパンジー以下にまで低下させているような人間が
我が物顔でいるような世の中のほうが破綻して立ち行かなくなるという問題性は厳然としてあるわけで、
だからこそそんな悪習の持ち主を世の中にのさばらせていてはならないことには違いない。
悟りもまた、知能の適正化によって脳への過度の負担を抑制する効果があるから、ボケ防止のためにも奨励できる。
(高齢となった晩年に至るまで聡明であった名僧の逸話なども多い)
なおかつ悟りのほうには、知能を乱高下させることで世の中に多大なる迷惑をかけるような
問題性も帯びていないわけだから、それこそ「キリストの救い」の代替としても文句なしなものだといえる。
知能を乱高下させる慣習に慣れて来たキリスト教徒などにとって、
一定以上の知能や精神力でい続けることには「面倒さ」ばかりが先入観として抱けるものだろう。
ただ知能や精神力を保つだけなら、面倒に違いない。さらにその先に悟りを拓くことで、
一定以上の知能や精神力の下でこそ無上の安楽を得るようにすればよい。
知能低下の快楽に慣れてしまっているキリスト教徒などにとってこそ、そこまでをも目指すことが必須とすらなるであろう。
「心を動かし性を忍ばせ、其の能くせざる所を曾益せしむ。(既出だが、前文の引用のためについでに引用した部分)」
「(何もうまくいかない中に)よく心を動かして性情を忍ばせて、至らない部分を埋め合わせて行く。
(孟子は同時に達観者の境地としての『不動心』を提示してもいる。心を動かし行う所があるのは、未熟な証拠である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・一五より)
悟りも拓かずにただ知能を博覧強記化させたりするよりは、それなりに脳を休ませる習慣を持ち合わせているほうが
認知症への罹患なども防げるようであり、知能を低下させることも悪いことばかりではないようである。
ただ、ひっきりなしに自らの知能をチンパンジー以下にまで低下させているような人間が
我が物顔でいるような世の中のほうが破綻して立ち行かなくなるという問題性は厳然としてあるわけで、
だからこそそんな悪習の持ち主を世の中にのさばらせていてはならないことには違いない。
悟りもまた、知能の適正化によって脳への過度の負担を抑制する効果があるから、ボケ防止のためにも奨励できる。
(高齢となった晩年に至るまで聡明であった名僧の逸話なども多い)
なおかつ悟りのほうには、知能を乱高下させることで世の中に多大なる迷惑をかけるような
問題性も帯びていないわけだから、それこそ「キリストの救い」の代替としても文句なしなものだといえる。
知能を乱高下させる慣習に慣れて来たキリスト教徒などにとって、
一定以上の知能や精神力でい続けることには「面倒さ」ばかりが先入観として抱けるものだろう。
ただ知能や精神力を保つだけなら、面倒に違いない。さらにその先に悟りを拓くことで、
一定以上の知能や精神力の下でこそ無上の安楽を得るようにすればよい。
知能低下の快楽に慣れてしまっているキリスト教徒などにとってこそ、そこまでをも目指すことが必須とすらなるであろう。
「心を動かし性を忍ばせ、其の能くせざる所を曾益せしむ。(既出だが、前文の引用のためについでに引用した部分)」
「(何もうまくいかない中に)よく心を動かして性情を忍ばせて、至らない部分を埋め合わせて行く。
(孟子は同時に達観者の境地としての『不動心』を提示してもいる。心を動かし行う所があるのは、未熟な証拠である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・一五より)
体系的な実物の仁政というものを知る者からすれば、人々を虐げておいて
救済を施すようなマッチポンプの虐政を働くことも、施されることも恥辱の限りである。
もしもそれを誇ったり嬉しがったりしたとしたなら、それも「恥の上塗り」というものであり、
本人たち自身の気休めになるようなことがあろうとも、客観的に見た場合の惨めさまでをも覆い隠せるものでない。
マッチポンプが何らの名誉ともならないのは、当然「一旦だけでも虐げられた」という前科が伴うからでもある。
未熟者が成長のための試練として虐げられるのでもなければ、罪人が処罰を被るために虐げられるというのでもなく、
一人前の大人が虐げられるというのでは、たとえ後々に救われるのであっても恥辱となることには変わりない。
我が子や後輩に対して顔向けもできなくなるような恥辱を加えられたままでいさせられることになるのには
違いないから、自らが名誉を取り戻すためには、虐げを加えてきた者への借りをしっかりと返さねばならない。
家康公がまだ幼名の竹千代を名乗っていた頃、始めは今川の人質となり、次いで織田の人質となるという、
弱小大名の倅としてのそれはそれは不遇な処遇を被っていた。その頃の借りも、家康公は適切な範囲で返している。
今川は信長が滅ぼして、家康公の下には今川の娘の正室・築山殿が残された。その築山殿を「信長からの命」
という範囲によって謀殺し、また信長の死後には、その子孫を外様大名としてそれなりの扱いに処してもいる。
結局、これらの対応は、自らが幼少期の頃に辱めを受けた相手に対する応対としてこそ適切なものとなっている。
自らがすでに成長して大大名となってから、大勢の目前で土下座させるなどの恥辱を味わわせた
豊臣秀吉の残党などに対しては容赦ない追討を加えたが、これも一人前の大人となってからの
自分に対して恥辱を加えた相手に対する処遇としては、適切なものとなっている。
江戸幕府の創始者となった家康公こそは、幼少期から数多の辛酸を舐めさせられながら、その借りを返す形で
天下を平らげていった経歴の持ち主だったものだから、その家康公を模範としていた江戸時代の日本人もまた、
恥とは何か、恥をかかされた場合の返し方はいかなるものであるべきかということをよく研究しぬいていた。
救済を施すようなマッチポンプの虐政を働くことも、施されることも恥辱の限りである。
もしもそれを誇ったり嬉しがったりしたとしたなら、それも「恥の上塗り」というものであり、
本人たち自身の気休めになるようなことがあろうとも、客観的に見た場合の惨めさまでをも覆い隠せるものでない。
マッチポンプが何らの名誉ともならないのは、当然「一旦だけでも虐げられた」という前科が伴うからでもある。
未熟者が成長のための試練として虐げられるのでもなければ、罪人が処罰を被るために虐げられるというのでもなく、
一人前の大人が虐げられるというのでは、たとえ後々に救われるのであっても恥辱となることには変わりない。
我が子や後輩に対して顔向けもできなくなるような恥辱を加えられたままでいさせられることになるのには
違いないから、自らが名誉を取り戻すためには、虐げを加えてきた者への借りをしっかりと返さねばならない。
家康公がまだ幼名の竹千代を名乗っていた頃、始めは今川の人質となり、次いで織田の人質となるという、
弱小大名の倅としてのそれはそれは不遇な処遇を被っていた。その頃の借りも、家康公は適切な範囲で返している。
今川は信長が滅ぼして、家康公の下には今川の娘の正室・築山殿が残された。その築山殿を「信長からの命」
という範囲によって謀殺し、また信長の死後には、その子孫を外様大名としてそれなりの扱いに処してもいる。
結局、これらの対応は、自らが幼少期の頃に辱めを受けた相手に対する応対としてこそ適切なものとなっている。
自らがすでに成長して大大名となってから、大勢の目前で土下座させるなどの恥辱を味わわせた
豊臣秀吉の残党などに対しては容赦ない追討を加えたが、これも一人前の大人となってからの
自分に対して恥辱を加えた相手に対する処遇としては、適切なものとなっている。
江戸幕府の創始者となった家康公こそは、幼少期から数多の辛酸を舐めさせられながら、その借りを返す形で
天下を平らげていった経歴の持ち主だったものだから、その家康公を模範としていた江戸時代の日本人もまた、
恥とは何か、恥をかかされた場合の返し方はいかなるものであるべきかということをよく研究しぬいていた。
結局、恥を漱ぐためにこそ、それなりの忍耐が必要であるということを誰しもがわきまえてもいた。
赤穂浪士の面々も、早々とした吉良への仇討ちを欲してはいたものの、上杉家も背後にある高家吉良への
仕返しが生半可な試みによって成し遂げられるはずもないことが分かっていたものだから、一年九ヶ月にも
およぶ綿密な下調べや計画立ての後に初めて一挙に及ぶことで、吉良への仇討ちをも完遂させたのだった。
恥辱を加えられた相手をただ許さないというのも、ただ許すというのも、安易なことである。的確に恥辱を晴らす
ための処理を講ずるということこそは最も難儀なことであり、そこでこそ最大級の忍耐をも必要とするのである。
的確に恥辱を晴らすことと比べれば、恥辱を加えられた相手をただ許すことすら安易なことでしかないから、
マッチポンプで加えられた恥辱を許したりすることも恥の上塗りにしかならないのである。体系的な
仇討ちという文化の存在しない地域では、それこそ相手を許すことばかりが至上の美談みたいにすら
扱わたりしていたわけだが、それこそ未開の部落社会でしか通用しない、恥ずべき悪習であったといえる。
ちゃんと恥を漱いだ先にこそ、何の後残りもない清清しさが得られもするからこそ、それを目指せする。
その清清しさを知っているからこそ、自らの恥辱を晴らせもせずにただ相手を許したりすることにも
耐え難い不快感を抱き、「決してこのままでは終わらせまい」と決意もできる。恨みがあるからというよりは、
ただ気分を晴らしたいからというぐらいの心持ちであり、恥を漱ぐべき必要性はむしろ、実際問題としての
名誉回復による権益の確保とかいった所にこそある。それがマッチポンプの一環として被った恥であるというのなら、
マッチポンプがプラマイゼロ以下の悪影響しかもたらさないという実際的な公共性に即して漱がれるべきでもある。
「小恵を思いて大恥を忘る。戦うにも如かず」
「目先の恵みに囚われて(かつて受けた)大恥をも忘れてしまっている。対戦相手にすらならない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十八年より)
赤穂浪士の面々も、早々とした吉良への仇討ちを欲してはいたものの、上杉家も背後にある高家吉良への
仕返しが生半可な試みによって成し遂げられるはずもないことが分かっていたものだから、一年九ヶ月にも
およぶ綿密な下調べや計画立ての後に初めて一挙に及ぶことで、吉良への仇討ちをも完遂させたのだった。
恥辱を加えられた相手をただ許さないというのも、ただ許すというのも、安易なことである。的確に恥辱を晴らす
ための処理を講ずるということこそは最も難儀なことであり、そこでこそ最大級の忍耐をも必要とするのである。
的確に恥辱を晴らすことと比べれば、恥辱を加えられた相手をただ許すことすら安易なことでしかないから、
マッチポンプで加えられた恥辱を許したりすることも恥の上塗りにしかならないのである。体系的な
仇討ちという文化の存在しない地域では、それこそ相手を許すことばかりが至上の美談みたいにすら
扱わたりしていたわけだが、それこそ未開の部落社会でしか通用しない、恥ずべき悪習であったといえる。
ちゃんと恥を漱いだ先にこそ、何の後残りもない清清しさが得られもするからこそ、それを目指せする。
その清清しさを知っているからこそ、自らの恥辱を晴らせもせずにただ相手を許したりすることにも
耐え難い不快感を抱き、「決してこのままでは終わらせまい」と決意もできる。恨みがあるからというよりは、
ただ気分を晴らしたいからというぐらいの心持ちであり、恥を漱ぐべき必要性はむしろ、実際問題としての
名誉回復による権益の確保とかいった所にこそある。それがマッチポンプの一環として被った恥であるというのなら、
マッチポンプがプラマイゼロ以下の悪影響しかもたらさないという実際的な公共性に即して漱がれるべきでもある。
「小恵を思いて大恥を忘る。戦うにも如かず」
「目先の恵みに囚われて(かつて受けた)大恥をも忘れてしまっている。対戦相手にすらならない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十八年より)
削除(by投稿者)
うらみ、恥へのうらみは昔から誰でも悩ましいが
生理現象、腹がすく暑い寒いと同じ感覚と考えて自分の中ではスルーすることもあるな。
一方で外に対してはアスペ並みに一切の融通を利かせてないつもりだ。
生理現象、腹がすく暑い寒いと同じ感覚と考えて自分の中ではスルーすることもあるな。
一方で外に対してはアスペ並みに一切の融通を利かせてないつもりだ。
今日は忍術聖書、正忍記
諜報に携わるものとして最も大事なのは具体的な情報であり、
占いや心理分析でもない。経験に基づく洞察よりも具体的な情報の方が大事である。
しかしながらどうしても身に着けなければならない、基本的な
小学生レベルの簡単な洞察的素養も存在する。
その正体はまだ明かさないが、
それがなければ、具体的な情報の姿をした偽情報にいともたやすく
騙されることになる。
それが出来ない人間、組織は、勇敢で知性があって愛情深くても
謀略機関の走狗に過ぎない。
それは簡単な事で七情七欲の理というものであり、自分の七情つまり喜怒哀楽、
具体的には煽て、同情させ、憤怒の念を抱かせ、脅すということ。
七欲つまり食欲、性欲、金銭欲等である。
そもそも謀略の基本の一つは相手のこれらの感情(七情七欲)を利用することであり、
つまり謀略の受け手は自分の感情(七情七欲)を見張り、そこにセンサーをつけ、
自分自身の心を見張らなければならない。ハリウッドの感動ヒューマン映画を
見ても自分の感動を疑うほどである。
小野田少尉は鈴木紀夫青年が救出に来たときに、青年を毒マンジュウだと思ったという。
「毒マンジュウ」とは見た目はおいしいが食べると死ぬということである。
30年間の潜伏、地形の把握、住民の心理の把握、そして機を見ての
ゲリラ戦を想定していた者の疑い深さである。
これは生存欲、に対する対処なのかもしれない。
諜報に携わるものとして最も大事なのは具体的な情報であり、
占いや心理分析でもない。経験に基づく洞察よりも具体的な情報の方が大事である。
しかしながらどうしても身に着けなければならない、基本的な
小学生レベルの簡単な洞察的素養も存在する。
その正体はまだ明かさないが、
それがなければ、具体的な情報の姿をした偽情報にいともたやすく
騙されることになる。
それが出来ない人間、組織は、勇敢で知性があって愛情深くても
謀略機関の走狗に過ぎない。
それは簡単な事で七情七欲の理というものであり、自分の七情つまり喜怒哀楽、
具体的には煽て、同情させ、憤怒の念を抱かせ、脅すということ。
七欲つまり食欲、性欲、金銭欲等である。
そもそも謀略の基本の一つは相手のこれらの感情(七情七欲)を利用することであり、
つまり謀略の受け手は自分の感情(七情七欲)を見張り、そこにセンサーをつけ、
自分自身の心を見張らなければならない。ハリウッドの感動ヒューマン映画を
見ても自分の感動を疑うほどである。
小野田少尉は鈴木紀夫青年が救出に来たときに、青年を毒マンジュウだと思ったという。
「毒マンジュウ」とは見た目はおいしいが食べると死ぬということである。
30年間の潜伏、地形の把握、住民の心理の把握、そして機を見ての
ゲリラ戦を想定していた者の疑い深さである。
これは生存欲、に対する対処なのかもしれない。
しかし人間関係の基本は相手を思いやることであり、感化されることであるから
このように自分の感情にセンサーをつけるような行為を続けると
ほとんど人の感情を解さないアスペのようになってしまう。
これでは逆に人間関係がうまくいかず、諜報に失敗する。
菜根譚を読んで人間性を復活させないといけない。
最後に、七情七欲について記された古典を笠地蔵のように紹介したい
のだが、昨年、正忍記を売り払ってしまったので、
「正忍記を読んでね(はぁと)」としておきたい。
このように自分の感情にセンサーをつけるような行為を続けると
ほとんど人の感情を解さないアスペのようになってしまう。
これでは逆に人間関係がうまくいかず、諜報に失敗する。
菜根譚を読んで人間性を復活させないといけない。
最後に、七情七欲について記された古典を笠地蔵のように紹介したい
のだが、昨年、正忍記を売り払ってしまったので、
「正忍記を読んでね(はぁと)」としておきたい。
個人的に怨んでるかどうかなんかが一番の問題ではない。
最悪、人類の存亡にすら直結する実際問題のほうが、一番の問題だ。
善は内から、悪は外から。
仇云々は悪にまつわる事項だから、外的な問題にこそ致命点がある。
最悪、人類の存亡にすら直結する実際問題のほうが、一番の問題だ。
善は内から、悪は外から。
仇云々は悪にまつわる事項だから、外的な問題にこそ致命点がある。
吉田松陰の口癖。
「わしは、外国に行きたくて行きたくて、仕方がないんじゃよ」
そして、阿呆は自分のことが絶対だと思うから×、と言っている部分は、
その通りだと思うよー。で、そういう阿呆って、他人の指摘など耳に
入れようとしない無知蒙昧ってことだよなー。つまり、阿呆のこの手の
ことをアゲツラっての批判って、自分のこととだと気付かない厚顔無恥。
「わしは、外国に行きたくて行きたくて、仕方がないんじゃよ」
そして、阿呆は自分のことが絶対だと思うから×、と言っている部分は、
その通りだと思うよー。で、そういう阿呆って、他人の指摘など耳に
入れようとしない無知蒙昧ってことだよなー。つまり、阿呆のこの手の
ことをアゲツラっての批判って、自分のこととだと気付かない厚顔無恥。
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先導するものと追従するものとの間に、積極消極の緩急が付けられるべきだとするのが易学的見解である。
だから>>59の坤卦の文言でも、陰柔の立場にあるものは最後まで無為を決め込んでこそ吉だとしているのである。
人間同士が、完全な横並び状態でいられるなんていうことからして、本当のところ単なる夢想であり、
今の教育制度で学年が同じとされるような人間でも、数日や数ヶ月程度の誕生日の開きが普通にある。
その数日や数ヶ月程度の誕生日の差で以って、昔は異母兄弟の家督相続権が左右されたりも
していたわけで、妻妾制も家門主義も排しての横並びを強いている近現代の世界もただ、
以前と比べて個々人の扱い方を大雑把なものにしてしまっているだけでしかないのである。
上記の事例を見ても分かるとおり、陰陽法則への準拠を徹底することこそは細緻さを極める一方で、
実在する陰陽法則をも蔑ろにすることこそは物事を大雑把に済ませることに繋がる。妻妾制が婦女を
大雑把に扱うものであるかのように思われた所で、それも女の立場から見た場合の文句である。陰陽で言えば
陰に当たる女に自分から文句を言うような積極性を与えないこともまた、>>59のような陰陽法則に適っていて、
それでこそ家督をしっかりと継承して行く昔ながらの家の存続が可能ともなって行くのである。
共産主義なども、陰陽法則のわきまえによる細緻さの徹底などをほとんど完全に取っ払ってしまうものである。
だからこそ、易学発祥の地である中国なども、赤化して後はそれはそれは粗悪な文化文明の吹き溜まりと
化してしまっている。「産業従事者が政権をも掌握する」という共産主義の手法からいって陰陽不全の
極みであり、そのせいで統制者を失った産業従事者の堕落などの問題をも生じさせてしまったのである。
だから>>59の坤卦の文言でも、陰柔の立場にあるものは最後まで無為を決め込んでこそ吉だとしているのである。
人間同士が、完全な横並び状態でいられるなんていうことからして、本当のところ単なる夢想であり、
今の教育制度で学年が同じとされるような人間でも、数日や数ヶ月程度の誕生日の開きが普通にある。
その数日や数ヶ月程度の誕生日の差で以って、昔は異母兄弟の家督相続権が左右されたりも
していたわけで、妻妾制も家門主義も排しての横並びを強いている近現代の世界もただ、
以前と比べて個々人の扱い方を大雑把なものにしてしまっているだけでしかないのである。
上記の事例を見ても分かるとおり、陰陽法則への準拠を徹底することこそは細緻さを極める一方で、
実在する陰陽法則をも蔑ろにすることこそは物事を大雑把に済ませることに繋がる。妻妾制が婦女を
大雑把に扱うものであるかのように思われた所で、それも女の立場から見た場合の文句である。陰陽で言えば
陰に当たる女に自分から文句を言うような積極性を与えないこともまた、>>59のような陰陽法則に適っていて、
それでこそ家督をしっかりと継承して行く昔ながらの家の存続が可能ともなって行くのである。
共産主義なども、陰陽法則のわきまえによる細緻さの徹底などをほとんど完全に取っ払ってしまうものである。
だからこそ、易学発祥の地である中国なども、赤化して後はそれはそれは粗悪な文化文明の吹き溜まりと
化してしまっている。「産業従事者が政権をも掌握する」という共産主義の手法からいって陰陽不全の
極みであり、そのせいで統制者を失った産業従事者の堕落などの問題をも生じさせてしまったのである。
政治イデオロギーとしては共産主義並みかそれ以上の問題性を孕んでいるにしたって、
資本主義などの場合は、消費者を満足させるだけのモノ作りの追求のための細緻さなどを極めて、
その過程で陰陽法則にすら則って行こうとする場合などもあるから、ことに陰陽法則に則るという
ことにかけては、共産主義よりも資本主義のほうが時にマシなものですらあったりもするのである。
(資本主義も金融依存が過ぎてモノ作りすら疎かにし始めたりするようなら全くこの限りではない)
とはいえ結局、資本主義は消費者としての民間人の積極性を奨励するイデオロギーであり、共産主義は
生産者としての民間人の積極性を奨励するイデオロギーであるという差異があるまでのことであり、
いずれも官の追従者としてこそ吉祥である民の積極性をけしかけているから不吉であるという点では共通している。
そもそもが、資本主義によって産業従事者の人権が蔑ろにされ過ぎていたことに対するアンチテーゼとして
提唱されたのが共産主義であるわけで、資本主義がなければ共産主義なんてものも生じなかったのである。
ガンが新たなガンを発生させるような悪循環の先に資本主義と共産主義の対立なんてものが生じて
しまったりしたわけで、ガンを撲滅して行く以上は両者ともなる廃絶こそが必須ともなっていく。
日本に西洋の近代文明が流入した明治期頃には、「自由民権」という名の下で官民の平等が謳われた。
それが先の敗戦後、GHQによる新憲法の押し付けなどを通じて「国民主権」という民本官末の思想信条に
まで発展してしまった。全てが日本人自身の意思によるのでもないにしろ、横並びなど所詮は不能な立場に
あるもの同士(官と民)を無理に横並びにした結果、最終的な本末転倒を招いてしまった典型例だといえる。
世界的にも、民権思想というものが提唱されてからは君主制→共和制→民主制といったような流れが
逆らいようのない潮流として固定化されてしまったわけで、自由民権レベルの横並びの発想すら、事態の
悪化を止められるものではない。あくまで、陰陽でいえば陰柔に相当する立場にある以上は、あえて先導者の
一歩後を行くようにすらして行かねばならないのだということが、近代史の惨状からもうかがえるのである。
資本主義などの場合は、消費者を満足させるだけのモノ作りの追求のための細緻さなどを極めて、
その過程で陰陽法則にすら則って行こうとする場合などもあるから、ことに陰陽法則に則るという
ことにかけては、共産主義よりも資本主義のほうが時にマシなものですらあったりもするのである。
(資本主義も金融依存が過ぎてモノ作りすら疎かにし始めたりするようなら全くこの限りではない)
とはいえ結局、資本主義は消費者としての民間人の積極性を奨励するイデオロギーであり、共産主義は
生産者としての民間人の積極性を奨励するイデオロギーであるという差異があるまでのことであり、
いずれも官の追従者としてこそ吉祥である民の積極性をけしかけているから不吉であるという点では共通している。
そもそもが、資本主義によって産業従事者の人権が蔑ろにされ過ぎていたことに対するアンチテーゼとして
提唱されたのが共産主義であるわけで、資本主義がなければ共産主義なんてものも生じなかったのである。
ガンが新たなガンを発生させるような悪循環の先に資本主義と共産主義の対立なんてものが生じて
しまったりしたわけで、ガンを撲滅して行く以上は両者ともなる廃絶こそが必須ともなっていく。
日本に西洋の近代文明が流入した明治期頃には、「自由民権」という名の下で官民の平等が謳われた。
それが先の敗戦後、GHQによる新憲法の押し付けなどを通じて「国民主権」という民本官末の思想信条に
まで発展してしまった。全てが日本人自身の意思によるのでもないにしろ、横並びなど所詮は不能な立場に
あるもの同士(官と民)を無理に横並びにした結果、最終的な本末転倒を招いてしまった典型例だといえる。
世界的にも、民権思想というものが提唱されてからは君主制→共和制→民主制といったような流れが
逆らいようのない潮流として固定化されてしまったわけで、自由民権レベルの横並びの発想すら、事態の
悪化を止められるものではない。あくまで、陰陽でいえば陰柔に相当する立場にある以上は、あえて先導者の
一歩後を行くようにすらして行かねばならないのだということが、近代史の惨状からもうかがえるのである。
「君子は頃歩も敢えて孝を忘るること弗きなり」
「君子は半歩あゆむ間にすら孝悌を忘れることはない。(多動で我を忘れさせるのも
カルト洗脳の常套手段だが、当然君子はそのようなたぶらかしにも惑わされない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
「君子は半歩あゆむ間にすら孝悌を忘れることはない。(多動で我を忘れさせるのも
カルト洗脳の常套手段だが、当然君子はそのようなたぶらかしにも惑わされない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
ずいぶん遅れて投稿しやがったもんだから、こっちが捕捉し抜かってた。
もう遅いから今日は引用ぐらいにする。
「杕の杜有りて、道の左に生ず。彼の君子こそ、噬れ肯えて我れに適かんや。
中心より之れ好みて、曷ぞ之れ飲食せしめん。
杕の杜有りて、道の周りに生ず。彼の君子こそ、噬れ肯えて来たりて遊ばん。
中心より之れ好みて、曷ぞ之れ飲食せしめん」
「かの偉大なお人が私に会って下さると聞いて、私も道端の熟れたヤマナシのような気分。
心の底から喜ぶばかりで、いったい何を飲み食いさせてあげようかばかりを考えています。
かの偉大なお人が私と遊んで下さると聞いて、私も道の周りいっぱいに熟れたヤマナシのような気分。
心の底から喜ぶばかりで、いったい何を飲み食いさせてあげようかばかりを考えています。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・唐風・有杕之杜)
馳走を振舞う側が偉そうにするなってんだ。
この詩の作者の女(年齢上は旧約の作者よりも先輩)のように、
自分のほうこそが心の底から喜んでの恭しいもてなしに徹しろってんだ。
偉そうなもてなしなど、君子なら御免被る。
もう遅いから今日は引用ぐらいにする。
「杕の杜有りて、道の左に生ず。彼の君子こそ、噬れ肯えて我れに適かんや。
中心より之れ好みて、曷ぞ之れ飲食せしめん。
杕の杜有りて、道の周りに生ず。彼の君子こそ、噬れ肯えて来たりて遊ばん。
中心より之れ好みて、曷ぞ之れ飲食せしめん」
「かの偉大なお人が私に会って下さると聞いて、私も道端の熟れたヤマナシのような気分。
心の底から喜ぶばかりで、いったい何を飲み食いさせてあげようかばかりを考えています。
かの偉大なお人が私と遊んで下さると聞いて、私も道の周りいっぱいに熟れたヤマナシのような気分。
心の底から喜ぶばかりで、いったい何を飲み食いさせてあげようかばかりを考えています。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・唐風・有杕之杜)
馳走を振舞う側が偉そうにするなってんだ。
この詩の作者の女(年齢上は旧約の作者よりも先輩)のように、
自分のほうこそが心の底から喜んでの恭しいもてなしに徹しろってんだ。
偉そうなもてなしなど、君子なら御免被る。
油は、それ自体に腐食作用がなく、なおかつ腐食作用のある水分をはじく性質があるからこそ、
刀剣やその他の鋼鉄製品に塗布した場合に防錆効果を発揮する。儒学が天下国家を安定へと
導けるのも、それ自体に国家権力を腐敗させる意味合いがなく、なおかつ権力腐敗を
推進させる聖書信仰のような邪教を自明に排斥する存在性をも帯びているからで、
まさにこれは、油が刀の錆を防ぐ理由などと全く同じ原理性を伴っているといえる。
儒学の正典である四書五経の言葉だけを読み解いてみた所で、そのほとんどが平易な物言いばかりで、
常人には特別面白くも感じられないようなものとなっている。しかし、その一つ一つの言葉からして、
犯罪聖書の言葉のような人と世とを致命的にダメにしてしまう汚濁にまみれた言葉などと全く真逆の
意味合いを兼ね備えていて、それを受容する以上は濁悪な言葉を受容できなくなるようにもなっている。
だからこそ、儒学の教条には権力腐敗などを防止する効果が伴ってもいるのであり、教条それ自体に
独立的な防腐効果があるのかどうか以上にも、その点こそが如実な防腐作用の根拠となっているのである。
これと全く逆のことが、聖書信仰の側についても言えるのである。
犯罪聖書の邪義を自分たちが受容している以上は、四書五経にあるような権力道徳の実践のための
言葉などを受容することも決して覚束なくなる。なればこそ、権力腐敗によって私的な暴利を
せしめて行くことが盤石化されたりもするわけで、私利私益だけが全てである小人などにとっては、
それが自分たちにとっての「防錆効果のある油」のような役割を果たしてくれるとも言えるわけだ。
刀剣やその他の鋼鉄製品に塗布した場合に防錆効果を発揮する。儒学が天下国家を安定へと
導けるのも、それ自体に国家権力を腐敗させる意味合いがなく、なおかつ権力腐敗を
推進させる聖書信仰のような邪教を自明に排斥する存在性をも帯びているからで、
まさにこれは、油が刀の錆を防ぐ理由などと全く同じ原理性を伴っているといえる。
儒学の正典である四書五経の言葉だけを読み解いてみた所で、そのほとんどが平易な物言いばかりで、
常人には特別面白くも感じられないようなものとなっている。しかし、その一つ一つの言葉からして、
犯罪聖書の言葉のような人と世とを致命的にダメにしてしまう汚濁にまみれた言葉などと全く真逆の
意味合いを兼ね備えていて、それを受容する以上は濁悪な言葉を受容できなくなるようにもなっている。
だからこそ、儒学の教条には権力腐敗などを防止する効果が伴ってもいるのであり、教条それ自体に
独立的な防腐効果があるのかどうか以上にも、その点こそが如実な防腐作用の根拠となっているのである。
これと全く逆のことが、聖書信仰の側についても言えるのである。
犯罪聖書の邪義を自分たちが受容している以上は、四書五経にあるような権力道徳の実践のための
言葉などを受容することも決して覚束なくなる。なればこそ、権力腐敗によって私的な暴利を
せしめて行くことが盤石化されたりもするわけで、私利私益だけが全てである小人などにとっては、
それが自分たちにとっての「防錆効果のある油」のような役割を果たしてくれるとも言えるわけだ。

止まることである。それは善でも悪でもない「無記」の領域であり、実用学としても概念論としても
善用悪用いずれもが可能なものである。さまざまな組成の油が実際に世のため人のために用いられたり、
人と世とを損なっての我田引水の糧として用いられたりもしている。そして上記のように油の防錆効果
を概念論として儒学や聖書信仰の概説に用いることも可能であり、儒学の価値を分かりやすく説明する
道具にもなる一方で、聖書信仰の邪悪さから目を背けさせるための悪巧方便にもなってしまうのである。
上記の「防錆」にまつわる比喩では、油が善玉、水が悪玉みたいな意味合いを持ち合わせてしまった
けれども、逆に水のどこまでも重力に従って低い所へと落ちて行く性質を、人間の謙譲さに比肩させる
こともまた可能である。それが儒学における「恭」という徳目の解説のためにも格好である一方で、
犯罪聖書の信者の神への帰依姿勢の解説などにもまた利用できなくはない。実在する君父や祖神では
なく虚構の超越神に対する帰依であるものだから、どうしたって浮ついている処がありはするが、
それにしたって一応は聖書の神というものを畏怖するわけだから、その姿勢が多少は水のようでもある。
実在もしない虚構神への無理な帰依であるものだから、苦痛なものには苦痛と感じられもする。
ニーチェが「重力の魔」などと呼んでキリスト教徒的下卑さを忌み嫌ったのもまさにそれが理由だが、
虚構神への帰依が苦痛に感じられたからといって、実在する君父や祖神への恭敬までもが苦痛に
感じられるとは限らない。そのような相手への恭敬こそは演技止まりなどであってもならない
からこそ、真摯であることの不可欠さが気に入って苦痛とも思わなかったりもする。
水の性質も油の性質も、儒学や聖書信仰の理念を分かりやすく説明する比喩として引き合いに出す
ことが可能ではあるが、比喩を用いてしまった以上は、少なからず浮ついた概念論の域に入り込んで
しまっていることにも変わりはない。あまりにもその辺にばかり深入りしすぎたなら、聖書の神への
帰依が苦痛だからといって、君父や祖神への恭敬までもが苦痛だということにすらなってしまいかねない。
これこそは「概念中毒の病」であるといえ、そこに陥ってしまった人間が聖書信仰の側にはまることは
可能であるとしても、儒学のほうを真摯に受容して実践して行くことはまず無理であると考えたがいい。
老子の言うような、仁と不仁の表裏一体関係もまた、両者が同一の概念論によって似たような正当化を
講ずることが可能であることをも一つの根拠としている。仁君も豪商も、誰か恵む相手がいることには
変わりなく、前者はそれが天下万人である一方、後者は限られた顧客だけである点だけが異なるように、
仁者も不仁者もやることの一部が全く似通っているには違いないからこそ、両者に似たような比喩表現での
説明を講ずることができるのでもある。似た部分もそうでない部分もある、仁と不仁の微妙な関係性を
弁えてよく分別して行くことが必要となるわけだが、それこそは仁者のみがよくするところなのでもある。
「其の膏を屯らす、小貞なれば吉、大貞なれば凶なり。其の膏を屯らすは、施すこと未だ光ならざればなり」
「油を注ぐことを未だ一部の人間までに滞らせている。(普遍的な真理に適った状態ではないので)小事に
かけて貞節でいるのは吉だが、大事にかけてまで頑なでいるのでは凶である。施しがまだ光の照らすように
遍きものではないからである。(油は染み渡りやすい性質を持っているので与れた人間にはよく行き渡るが、
光が万事を照らし出すほどにも遍く行き渡るとも限らないので、油の性質を仁政の指針などにするのは
不適である。孟子も光を仁政の比喩に用いているし、『華厳経』でも真理が光に喩えられていたり
するとおり、光を真理や仁徳の比喩として用いるほうが、比喩表現としても適切である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・屯・九五‐象伝)
ことが可能ではあるが、比喩を用いてしまった以上は、少なからず浮ついた概念論の域に入り込んで
しまっていることにも変わりはない。あまりにもその辺にばかり深入りしすぎたなら、聖書の神への
帰依が苦痛だからといって、君父や祖神への恭敬までもが苦痛だということにすらなってしまいかねない。
これこそは「概念中毒の病」であるといえ、そこに陥ってしまった人間が聖書信仰の側にはまることは
可能であるとしても、儒学のほうを真摯に受容して実践して行くことはまず無理であると考えたがいい。
老子の言うような、仁と不仁の表裏一体関係もまた、両者が同一の概念論によって似たような正当化を
講ずることが可能であることをも一つの根拠としている。仁君も豪商も、誰か恵む相手がいることには
変わりなく、前者はそれが天下万人である一方、後者は限られた顧客だけである点だけが異なるように、
仁者も不仁者もやることの一部が全く似通っているには違いないからこそ、両者に似たような比喩表現での
説明を講ずることができるのでもある。似た部分もそうでない部分もある、仁と不仁の微妙な関係性を
弁えてよく分別して行くことが必要となるわけだが、それこそは仁者のみがよくするところなのでもある。
「其の膏を屯らす、小貞なれば吉、大貞なれば凶なり。其の膏を屯らすは、施すこと未だ光ならざればなり」
「油を注ぐことを未だ一部の人間までに滞らせている。(普遍的な真理に適った状態ではないので)小事に
かけて貞節でいるのは吉だが、大事にかけてまで頑なでいるのでは凶である。施しがまだ光の照らすように
遍きものではないからである。(油は染み渡りやすい性質を持っているので与れた人間にはよく行き渡るが、
光が万事を照らし出すほどにも遍く行き渡るとも限らないので、油の性質を仁政の指針などにするのは
不適である。孟子も光を仁政の比喩に用いているし、『華厳経』でも真理が光に喩えられていたり
するとおり、光を真理や仁徳の比喩として用いるほうが、比喩表現としても適切である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・屯・九五‐象伝)
実際問題、邪教などというものは全世界にまで行き渡らせたりできるようなものではない。
それ自体が、他者への経済的依存なくして生きられもしないような社会的不能者を
増産してしまう代物だから、一定度(だいたい全世界の三分の一程度)まで服従者が
増加してしまえば、それ以上の比率からの覇権拡大を実現できたりはしないのである。
欧米聖書圏が伝統的に経済依存の対象として来たのは中東やアフリカ、インドなどだが、
近頃では欧米から見た場合の「世界の果て」に当たる日本や中国といった極東の大国に
金融面、物質面両方における多大なる依存を来たすようにもなっている。
すでに国債操作で、日本からアメリカへと債務上限ギリギリにあたる1000兆円が貸し出されている。
それでもアメリカの富裕層の底なしの我田引水を支えきることができなくなり、今ではアメリカ政府が
公共機関のための歳出を削減させられることをも迫られている。法定上の自動削減を緩和するための
修正予算案が上院で可決されたが、自分たちが富裕層への増税を拒絶したせいで自動削減を招いて
しまった下院もまた可決する見込みであるという。もちろん、上乗せされる修正予算のための健全な
歳入先などを用意しているわけでもないのだから、下院で多数派を占めている共和党の議員などは、
ただただ我を張り通して無茶を通すだけの駄々っ子も同然な所業に及ぶことになるわけである。
無論、アメリカの共和党議員などというのは国内の富裕層の代理人というまでの存在であり、
「自分たちが増税されるのもイヤ、国としてのアメリカが傾くのもイヤ」というイヤイヤ尽くしの
無理をアメリカの富裕層こそが通そうとしているのが実態である。そして共和党の支持団体には
キリスト教原理主義勢力も含まれているわけで(もちろんこれが富裕層ともかぶっている)、
まともな経済政策もままならないままに私利私欲だけは底抜けでいようとする今のアメリカの
知能破綻者たちの精神的な拠り所にも聖書信仰がなっていることが分かるわけである。
それ自体が、他者への経済的依存なくして生きられもしないような社会的不能者を
増産してしまう代物だから、一定度(だいたい全世界の三分の一程度)まで服従者が
増加してしまえば、それ以上の比率からの覇権拡大を実現できたりはしないのである。
欧米聖書圏が伝統的に経済依存の対象として来たのは中東やアフリカ、インドなどだが、
近頃では欧米から見た場合の「世界の果て」に当たる日本や中国といった極東の大国に
金融面、物質面両方における多大なる依存を来たすようにもなっている。
すでに国債操作で、日本からアメリカへと債務上限ギリギリにあたる1000兆円が貸し出されている。
それでもアメリカの富裕層の底なしの我田引水を支えきることができなくなり、今ではアメリカ政府が
公共機関のための歳出を削減させられることをも迫られている。法定上の自動削減を緩和するための
修正予算案が上院で可決されたが、自分たちが富裕層への増税を拒絶したせいで自動削減を招いて
しまった下院もまた可決する見込みであるという。もちろん、上乗せされる修正予算のための健全な
歳入先などを用意しているわけでもないのだから、下院で多数派を占めている共和党の議員などは、
ただただ我を張り通して無茶を通すだけの駄々っ子も同然な所業に及ぶことになるわけである。
無論、アメリカの共和党議員などというのは国内の富裕層の代理人というまでの存在であり、
「自分たちが増税されるのもイヤ、国としてのアメリカが傾くのもイヤ」というイヤイヤ尽くしの
無理をアメリカの富裕層こそが通そうとしているのが実態である。そして共和党の支持団体には
キリスト教原理主義勢力も含まれているわけで(もちろんこれが富裕層ともかぶっている)、
まともな経済政策もままならないままに私利私欲だけは底抜けでいようとする今のアメリカの
知能破綻者たちの精神的な拠り所にも聖書信仰がなっていることが分かるわけである。
そういった今のアメリカの瀕死状態な懐事情などを見ても分かるのが、資本主義とか民主主義とか
いった聖書圏由来の政治イデオロギーは、「個が公を食い物にする理念」であるということである。
儒学を始めとする権力道徳学は、公(君子階級)が個(小人階級)を食い物とすることを完全に
認めた上で、人の上に立つ人としての君子が義務的に仁政を執り行ってゆくべきだとするものである。
その逆に、民間人こそが公を食い物にして行く場合には、そこに義務的な仁政を執り行って行く
余地などがどこにもない。民間人は元から私利私欲第一であり、そうであるのと引き換えに
産業をも担って行くのが本分であるわけだから、自分たちに主権があるからと言って
仁政までをも志している余裕などは少しもないのである。
どうあっても仁政を実現することができないからこそ、全世界を統一する理念たり得もしない。
個が公を食い物にすることを最初期から正当化しているのは聖書教義であるわけで、それだけでは
世の中を立ち行かせることもままならないから資本主義だとか民主主義だとか行ったイデオロギー
での補強を試みたわけだけれども、所詮は個が公を食い物にする指針などが一定以上の存在たり得る
ことなどが原理的にあり得ないわけだから、後付けの補強などではどうにもならなかったのである。
どんなに個を優遇するのであるにしたって、所詮は民人などというものからして、私利私欲ばかりを
優先させる畜生も同然の存在であるわけだから、支配者の側からすればペットを愛玩するも同然の
ことであるといえる。動物虐待絶対反対とか言っておきながら、去勢や避妊は平気でやるような
破綻した可愛がりようなわけで、それよりは狩猟用やネズミ除けなどに割り切って犬猫を飼ったり
することのほうがまだ誠実である。ソリ引かせるためになど犬を酷使して、死ねばその肉を
食らうエスキモーの慣習などのほうが、まだ人と畜生の関係性としては自然なものだといえる。
いった聖書圏由来の政治イデオロギーは、「個が公を食い物にする理念」であるということである。
儒学を始めとする権力道徳学は、公(君子階級)が個(小人階級)を食い物とすることを完全に
認めた上で、人の上に立つ人としての君子が義務的に仁政を執り行ってゆくべきだとするものである。
その逆に、民間人こそが公を食い物にして行く場合には、そこに義務的な仁政を執り行って行く
余地などがどこにもない。民間人は元から私利私欲第一であり、そうであるのと引き換えに
産業をも担って行くのが本分であるわけだから、自分たちに主権があるからと言って
仁政までをも志している余裕などは少しもないのである。
どうあっても仁政を実現することができないからこそ、全世界を統一する理念たり得もしない。
個が公を食い物にすることを最初期から正当化しているのは聖書教義であるわけで、それだけでは
世の中を立ち行かせることもままならないから資本主義だとか民主主義だとか行ったイデオロギー
での補強を試みたわけだけれども、所詮は個が公を食い物にする指針などが一定以上の存在たり得る
ことなどが原理的にあり得ないわけだから、後付けの補強などではどうにもならなかったのである。
どんなに個を優遇するのであるにしたって、所詮は民人などというものからして、私利私欲ばかりを
優先させる畜生も同然の存在であるわけだから、支配者の側からすればペットを愛玩するも同然の
ことであるといえる。動物虐待絶対反対とか言っておきながら、去勢や避妊は平気でやるような
破綻した可愛がりようなわけで、それよりは狩猟用やネズミ除けなどに割り切って犬猫を飼ったり
することのほうがまだ誠実である。ソリ引かせるためになど犬を酷使して、死ねばその肉を
食らうエスキモーの慣習などのほうが、まだ人と畜生の関係性としては自然なものだといえる。
それと同じように、公と個のあり方にも健全なメリハリを付けて、それと引き換えに天下万人を
利する仁政を公人が義務的に実施して行くようにすることでこそ、単なる私人たち自身の福利厚生
すらもが底上げされていくのである。万人の福利厚生を底上げできるぐらいだから、天下全土を司る
資格すらをも持ち得る。それを始めから企図しているのが儒学であるために、孔子や孟子も君子が
民間に取り入りすぎることを戒めてもいる。民間人の立場からすれば決して聞こえのいいものでも
ないが、それでこそ全ての民間人までをも安楽ならしめる畏れ多い道理というものがあるのである。
「教え有りて類無し」
「人を導く教えのほうに様々な違いがあるだけであって、人間自身に大した類別は存在しない。
(生まれつきダメな人間だったりするのではなく、邪教に洗脳されることでダメ人間になったりする。
こういう記述が四書五経中に存在してもいること自体が、儒学の専攻者がドグマを強いられたり
することなく諸々の教学の巧拙を自己判断して行くことを促している証拠となっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三九より)
「猱に木に升るを教うる毋れ、塗を塗に附るが如し。
君子にして徽猷有らば、小人も属するを与る。(既出)」
「猿に木の登り方を教えるような真似をするな。泥に泥を上塗りするようなもの。
君子階級の者がしっかりとしていれば、小人階級の人間も従属するところを得るのだから。
(上の引用のように、儒学はドグマに凝り固まらない高尚な見地の持ち主たる君子である
ことを促している。犯罪聖書は信者にドグマに凝り固まるような小人でいさせようとする。
そんな程度の低い人間に何かを教えるたりすることからして猿に木登りを教えたり、泥に泥を
上塗りしたりするも同然だからすべきでない。ものを教える姿勢として根本的に間違っている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・桑扈之什・角弓より)
利する仁政を公人が義務的に実施して行くようにすることでこそ、単なる私人たち自身の福利厚生
すらもが底上げされていくのである。万人の福利厚生を底上げできるぐらいだから、天下全土を司る
資格すらをも持ち得る。それを始めから企図しているのが儒学であるために、孔子や孟子も君子が
民間に取り入りすぎることを戒めてもいる。民間人の立場からすれば決して聞こえのいいものでも
ないが、それでこそ全ての民間人までをも安楽ならしめる畏れ多い道理というものがあるのである。
「教え有りて類無し」
「人を導く教えのほうに様々な違いがあるだけであって、人間自身に大した類別は存在しない。
(生まれつきダメな人間だったりするのではなく、邪教に洗脳されることでダメ人間になったりする。
こういう記述が四書五経中に存在してもいること自体が、儒学の専攻者がドグマを強いられたり
することなく諸々の教学の巧拙を自己判断して行くことを促している証拠となっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三九より)
「猱に木に升るを教うる毋れ、塗を塗に附るが如し。
君子にして徽猷有らば、小人も属するを与る。(既出)」
「猿に木の登り方を教えるような真似をするな。泥に泥を上塗りするようなもの。
君子階級の者がしっかりとしていれば、小人階級の人間も従属するところを得るのだから。
(上の引用のように、儒学はドグマに凝り固まらない高尚な見地の持ち主たる君子である
ことを促している。犯罪聖書は信者にドグマに凝り固まるような小人でいさせようとする。
そんな程度の低い人間に何かを教えるたりすることからして猿に木登りを教えたり、泥に泥を
上塗りしたりするも同然だからすべきでない。ものを教える姿勢として根本的に間違っている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・桑扈之什・角弓より)
聖書の神は、信者の悪業を地獄の底まで掘り下げさせる悪巧方便の化身としては「実」である。
信者を悪業から最終的に救い上げる救済神としては全くの「偽」であるけれども、信者が
悪業を積み重ねている限りにおいて、悪因苦果の苦しみから意識を逸らさせるための
鎮痛剤的な役割を果たすことにかけては、確かな効能が見られるものである。
「最終的に信者たちを悪業から救い上げる」という予言自体がすでに、そのための悪巧方便である。
ただ悪業から救い上げてやるのみならず、聖書の信者こそは異教徒を蔑ろにしてまでの優先的な
救済対象にすらなるとする聖書の記述自体が、信者の悪業を深刻化させるためのものでしかなかった。
そんなことは絶対に無いにも関わらず、そうなると信じ込んで悪業を積み重ねて来てしまった
信者たちが、最終的には「過失犯」として扱われる余地もある。聖書の記述など全くの偽りであり、
自分たちは犯罪聖書の作文者に騙されて悪業を積み重ねてきてしまったのだと認めたならば、
それによって元信者たちも「確信犯」ではなくなり、それなりの酌量の余地が生じもする。
しかし、過失犯といえども罪人であるには変わりないから、ただ罰が軽くなるというだけのことで、
当然無罪の異教徒などよりも優先的な優遇対象になったりするわけでは決して無い。だから、
そのような意味合いをも持つ聖書の記述に即して信者が救われたりすることはなく、「過失犯には寛大に、
確信犯には厳酷に(書経など)」といった儒学の教条などに即した多少の救いがあるのみである。
実際、最終的な救いすらもがあり得るように思い込めるほどにも、「仮初めの過渡的な救い」
というものを聖書信者たちもそれなりに享受して来ているのである。外界侵略による財物の収奪
などを通じて、欧米聖書圏こそは近現代世界における最大級の物質的栄華を誇りもした。かつては
世界最高級の富裕国でもあったインドや中国の大多数の人間もジリ貧に追いやってまで、自分たち
こそが人類史上最大級の財政的豊満に与れもしたのだから、最終的な救いがないことぐらいは
ただのプラマイゼロでしかないと、物質主義的な観点から見た場合にこそ言えるのである。
信者を悪業から最終的に救い上げる救済神としては全くの「偽」であるけれども、信者が
悪業を積み重ねている限りにおいて、悪因苦果の苦しみから意識を逸らさせるための
鎮痛剤的な役割を果たすことにかけては、確かな効能が見られるものである。
「最終的に信者たちを悪業から救い上げる」という予言自体がすでに、そのための悪巧方便である。
ただ悪業から救い上げてやるのみならず、聖書の信者こそは異教徒を蔑ろにしてまでの優先的な
救済対象にすらなるとする聖書の記述自体が、信者の悪業を深刻化させるためのものでしかなかった。
そんなことは絶対に無いにも関わらず、そうなると信じ込んで悪業を積み重ねて来てしまった
信者たちが、最終的には「過失犯」として扱われる余地もある。聖書の記述など全くの偽りであり、
自分たちは犯罪聖書の作文者に騙されて悪業を積み重ねてきてしまったのだと認めたならば、
それによって元信者たちも「確信犯」ではなくなり、それなりの酌量の余地が生じもする。
しかし、過失犯といえども罪人であるには変わりないから、ただ罰が軽くなるというだけのことで、
当然無罪の異教徒などよりも優先的な優遇対象になったりするわけでは決して無い。だから、
そのような意味合いをも持つ聖書の記述に即して信者が救われたりすることはなく、「過失犯には寛大に、
確信犯には厳酷に(書経など)」といった儒学の教条などに即した多少の救いがあるのみである。
実際、最終的な救いすらもがあり得るように思い込めるほどにも、「仮初めの過渡的な救い」
というものを聖書信者たちもそれなりに享受して来ているのである。外界侵略による財物の収奪
などを通じて、欧米聖書圏こそは近現代世界における最大級の物質的栄華を誇りもした。かつては
世界最高級の富裕国でもあったインドや中国の大多数の人間もジリ貧に追いやってまで、自分たち
こそが人類史上最大級の財政的豊満に与れもしたのだから、最終的な救いがないことぐらいは
ただのプラマイゼロでしかないと、物質主義的な観点から見た場合にこそ言えるのである。
古くは殷の紂王や秦の始皇帝、その流れをも汲む今の日本の支配層などについてもいえることだが、
半ば確信的に国家規模の悪業を積み重ねて来ているような連中というのは、その過程において、
収奪した財物などに基づく相応のうまみにも与れて来ているものである。それこそ、悪因苦果の
精神的苦しみなどからは完全に目を背けられるほどにも狂乱的な享楽に耽ったりもして来ているわけで、
聖書信者はただ、そのような苦しみからの目の逸らし方が多少高尚じみていただけに過ぎないのである。
故に、悪業を積み重ねていた限りにおいて救いもあるような気がしたから、最終的な救いもあるなどと
思い込んだりしたことが全くの虚妄であることまでもが判明するのである。悪党が過渡的な虚栄を
貪った挙句に最終的な破滅に陥ったりするのは典型的なことであり、聖書信仰に基づく悪業への
邁進なども、聖書教義に基づく最終的な救いなどが絶対にあり得ないと確証されてしまった以上は、
並みの悪党の末路並みの破滅によって終結したところで何らおかしい所などもないのだといえる。
「聖書の教義に基づく最終的な救いがあると思っていたから」という言い訳は、
「人間は他者を不幸にしてでも自分が幸せでいられればいいものだから」などという言い訳と
比べればだいぶ可愛らしいものである。後者の言い訳は、無宗教の権力犯罪者などがよく本音と
するところであるけれども、元聖書信者が「そんな気は毛頭なかった」ということもあり得る。
昔は先祖たちが本気で信じていたらしいけれども、今となってはただ二千年来の伝統だから
惰性で信じてるような体でいるというのも分からないことではない。聖書の教義などに
基づかない範囲での情状酌量に即した救いは相当に期待できるものであり、その分だけ、
ただの権力犯罪者などよりもマシな処遇であったりすることもなくはないのである。
それも偏に、「信仰の過ち」という恥辱を呑まなければならないが故にこその特権だといえる。
半ば確信的に国家規模の悪業を積み重ねて来ているような連中というのは、その過程において、
収奪した財物などに基づく相応のうまみにも与れて来ているものである。それこそ、悪因苦果の
精神的苦しみなどからは完全に目を背けられるほどにも狂乱的な享楽に耽ったりもして来ているわけで、
聖書信者はただ、そのような苦しみからの目の逸らし方が多少高尚じみていただけに過ぎないのである。
故に、悪業を積み重ねていた限りにおいて救いもあるような気がしたから、最終的な救いもあるなどと
思い込んだりしたことが全くの虚妄であることまでもが判明するのである。悪党が過渡的な虚栄を
貪った挙句に最終的な破滅に陥ったりするのは典型的なことであり、聖書信仰に基づく悪業への
邁進なども、聖書教義に基づく最終的な救いなどが絶対にあり得ないと確証されてしまった以上は、
並みの悪党の末路並みの破滅によって終結したところで何らおかしい所などもないのだといえる。
「聖書の教義に基づく最終的な救いがあると思っていたから」という言い訳は、
「人間は他者を不幸にしてでも自分が幸せでいられればいいものだから」などという言い訳と
比べればだいぶ可愛らしいものである。後者の言い訳は、無宗教の権力犯罪者などがよく本音と
するところであるけれども、元聖書信者が「そんな気は毛頭なかった」ということもあり得る。
昔は先祖たちが本気で信じていたらしいけれども、今となってはただ二千年来の伝統だから
惰性で信じてるような体でいるというのも分からないことではない。聖書の教義などに
基づかない範囲での情状酌量に即した救いは相当に期待できるものであり、その分だけ、
ただの権力犯罪者などよりもマシな処遇であったりすることもなくはないのである。
それも偏に、「信仰の過ち」という恥辱を呑まなければならないが故にこその特権だといえる。
「上位に在りては下を陵がず、下位に在りては上を援けとせず、己れを正しくして人に求めざれば則ち怨み無し」
「社会的な上位にあるからといって下位のものを束縛の対象とせず、下位にあるからといって上位のものばかりを
支えとせず、自分自身のあり方を正してなるべく人に求めずにいようとすれば、怨みつらみも無くて済む。
(犯罪聖書の神とその信者みたいな過度の依存関係なんてのもできる限りないに越したことはないのである。
社会的上下関係自体は存在せざるを得ないものであるにしろ、服従関係が偉いものだったりいるのでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一四より)
「社会的な上位にあるからといって下位のものを束縛の対象とせず、下位にあるからといって上位のものばかりを
支えとせず、自分自身のあり方を正してなるべく人に求めずにいようとすれば、怨みつらみも無くて済む。
(犯罪聖書の神とその信者みたいな過度の依存関係なんてのもできる限りないに越したことはないのである。
社会的上下関係自体は存在せざるを得ないものであるにしろ、服従関係が偉いものだったりいるのでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一四より)
明るい場所から急に暗所に移れば、瞳孔の拡張が追いつかなくて何も見えなくなる。
瞳孔が開いて目の集光能力が高まれば、暗所でもそれなりにものが見えるようになる。
その時に多少明るく見えるものが邪教の教祖とでもいったところで、天下国家を遍く
照らし出す仁君聖賢の光明などと比べれば、明るい内にすら入らないものである。
暗闇の中でこそ多少明るめに見える邪教の教祖なんぞを光明として崇め立てるためにこそ、
無量の光明を放つ数多の聖賢が放逐されざるを得なくなる。そこにこそ醜悪な追い落としの
元凶があるのであり、そのような邪教の教祖こそを特定して貶めなければならなくなることが
あるとしても、それも不正な追い落としの罪を罰するといった相殺沙汰でしかないのである。
まずは、全体を見てみる。別に全体主義者でなくとも世の中の全体の様相を鑑みて、全体的に
善くなっているか悪くなっているかを査定しておくのである。それで全体が善くなっている
ようならば、そのような世の中をもたらした人間なり理念なりを尊ぶようにし、悪くなって
いるようなら、そのような世の中をもたらした理念なり人間なりを卑しむようにするのである。
誰にでもやろうと思えばできることなのに、誰もやろうとすらしないこととは、
まさにこのことを言う。全体の利害を見るからといって、別に個人の利害を無視するという
のでもない、全ての人間にとっての利益の根本となるのは天下国家であり、個人の利益などは
そこからかじり取るだけの末節の利益に過ぎないわけだから、全体の利害を慮ることすなわち
普遍的な個人の利害を慮ることでもあるというのに、全体把握の尊重を「全体主義」だなんだと
決め付けて、それが個人の利益などには繋がらないとすら思い込んで避けようとするのである。
瞳孔が開いて目の集光能力が高まれば、暗所でもそれなりにものが見えるようになる。
その時に多少明るく見えるものが邪教の教祖とでもいったところで、天下国家を遍く
照らし出す仁君聖賢の光明などと比べれば、明るい内にすら入らないものである。
暗闇の中でこそ多少明るめに見える邪教の教祖なんぞを光明として崇め立てるためにこそ、
無量の光明を放つ数多の聖賢が放逐されざるを得なくなる。そこにこそ醜悪な追い落としの
元凶があるのであり、そのような邪教の教祖こそを特定して貶めなければならなくなることが
あるとしても、それも不正な追い落としの罪を罰するといった相殺沙汰でしかないのである。
まずは、全体を見てみる。別に全体主義者でなくとも世の中の全体の様相を鑑みて、全体的に
善くなっているか悪くなっているかを査定しておくのである。それで全体が善くなっている
ようならば、そのような世の中をもたらした人間なり理念なりを尊ぶようにし、悪くなって
いるようなら、そのような世の中をもたらした理念なり人間なりを卑しむようにするのである。
誰にでもやろうと思えばできることなのに、誰もやろうとすらしないこととは、
まさにこのことを言う。全体の利害を見るからといって、別に個人の利害を無視するという
のでもない、全ての人間にとっての利益の根本となるのは天下国家であり、個人の利益などは
そこからかじり取るだけの末節の利益に過ぎないわけだから、全体の利害を慮ることすなわち
普遍的な個人の利害を慮ることでもあるというのに、全体把握の尊重を「全体主義」だなんだと
決め付けて、それが個人の利益などには繋がらないとすら思い込んで避けようとするのである。
全体の尊重が個の蔑ろに直結するかのような思い込みを流布してしまったのが、近代の
共産主義や独裁主義であった。そこで試みられたのはただただ、人々の没個性化に基づく
無機質な強権支配というばかりのことであり、それは同様に全体の公益を貴んでいる儒学の
>>114のような教条にも決定的に悖っていたものである。全体の公益を貴ぶのもあくまで
個々人の有機的な営みを育んで行くためであり、そこでこそ個人の私益を偏重する場合以上
もの個人的満足すらもが獲得されていくべきであるというのに、全体への配慮があたかも
その逆の影響を及ぼしてしまうかのような既成認識までもがでっち上げられてしまったのだった。
全体の尊重が個人個人のより一層の福利厚生の増進にまで昇華されるためにこそ必要と
なるのが、忠孝に基づく君父の尊位の尊重である。ただ天下国家の公益を増進するのみならず、
そこで得られた公益を君臣父子夫婦兄弟朋友といった緻密な人間関係の序列に即して消費して
行くことでこそ、不健全な富の偏在などを防止しつつの万人の福利厚生を企図して行く
ことができるのだから、公益と君父の尊位の共なる尊重こそが重要となるのだといえる。
近代以降の全体主義とされるイデオロギーなどには、公益の尊重はあっても君父の尊位の
尊重まではなかったから、公益の運用の仕方に不手際が生じて、一部の独裁者による暴利の
退蔵などの問題を生じてもしまったのである。結局、全体をダメにしてまで一部だけを
輝かせようとする聖書信仰の悪癖を持ち越していた西洋人こそが思いついたイデオロギー
だったものだから、そんな稚拙な域に止まることしかできなかったのである。君父の尊位の
尊重もまた、キリストあたりが特定して否定していたことでもあるから、公益を尊重するから
といって君父の尊位まで共に尊重しようなどとまでは到底考えが及びもしなかったのだった。
共産主義や独裁主義であった。そこで試みられたのはただただ、人々の没個性化に基づく
無機質な強権支配というばかりのことであり、それは同様に全体の公益を貴んでいる儒学の
>>114のような教条にも決定的に悖っていたものである。全体の公益を貴ぶのもあくまで
個々人の有機的な営みを育んで行くためであり、そこでこそ個人の私益を偏重する場合以上
もの個人的満足すらもが獲得されていくべきであるというのに、全体への配慮があたかも
その逆の影響を及ぼしてしまうかのような既成認識までもがでっち上げられてしまったのだった。
全体の尊重が個人個人のより一層の福利厚生の増進にまで昇華されるためにこそ必要と
なるのが、忠孝に基づく君父の尊位の尊重である。ただ天下国家の公益を増進するのみならず、
そこで得られた公益を君臣父子夫婦兄弟朋友といった緻密な人間関係の序列に即して消費して
行くことでこそ、不健全な富の偏在などを防止しつつの万人の福利厚生を企図して行く
ことができるのだから、公益と君父の尊位の共なる尊重こそが重要となるのだといえる。
近代以降の全体主義とされるイデオロギーなどには、公益の尊重はあっても君父の尊位の
尊重まではなかったから、公益の運用の仕方に不手際が生じて、一部の独裁者による暴利の
退蔵などの問題を生じてもしまったのである。結局、全体をダメにしてまで一部だけを
輝かせようとする聖書信仰の悪癖を持ち越していた西洋人こそが思いついたイデオロギー
だったものだから、そんな稚拙な域に止まることしかできなかったのである。君父の尊位の
尊重もまた、キリストあたりが特定して否定していたことでもあるから、公益を尊重するから
といって君父の尊位まで共に尊重しようなどとまでは到底考えが及びもしなかったのだった。
全体の公益の尊重から個人の福利厚生を実現して行く事こそは、
個人の利益ばかりを偏重する場合以上もの体系性や、
それを体得して実践して行くための努力が必要となるのである。
到底洋学者の一人や二人が並べ立てた机上の空論などで
実現して行くこともままならないものであり、数千年に渡る
伝統に即して培われて来た権力道徳学のみがそれを可能とするのである。
「国の光を観る。用て王に賓たるに利ろし。国の光を観るとは、賓を尚ぶなり」
「天下国家の光たるに相応しい人物を見る。帝王の賓客とするにも値する。
世の光を見るということは、賓客として持て成すに相応しい相手を見るということである。
(イエスの如き天下国家の敵となるならず者などが世の光であるわけがないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・観・六四‐象伝)
個人の利益ばかりを偏重する場合以上もの体系性や、
それを体得して実践して行くための努力が必要となるのである。
到底洋学者の一人や二人が並べ立てた机上の空論などで
実現して行くこともままならないものであり、数千年に渡る
伝統に即して培われて来た権力道徳学のみがそれを可能とするのである。
「国の光を観る。用て王に賓たるに利ろし。国の光を観るとは、賓を尚ぶなり」
「天下国家の光たるに相応しい人物を見る。帝王の賓客とするにも値する。
世の光を見るということは、賓客として持て成すに相応しい相手を見るということである。
(イエスの如き天下国家の敵となるならず者などが世の光であるわけがないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・観・六四‐象伝)
自らの罪に自責の念を抱けない者こそは、永久に罪業から免れられる可能性もない。
重罰を受けようが社会的な制限を科されようが、本人が罪業の種を持ち越したままで
居続けていることには変わりないわけで、罰や制限もそのような素養の持ち主に対する
世の中の側からの拒絶反応という以上の意味は持たない(当然それだけの意味はある)。
たとえ罰や制限を科されなくても、心からの反省すらできたなら、自らの罪業の種子を絶やすことも
できるわけだが、そんな都合のいいことも実際にはないわけで、本当に心から反省すればこそ、
自らが相応の罰を受けることで「社会的な戒め」のための見せしめ役を果たさねばならない
という所にまで配慮が及ぶから、進んで罰や制限を受けようとするようにもなるのである。
だからこそ、自分から進んで罰を受けようとすらするか否かが、罪人自身に心からの反省が伴っているか
否かの確かな判断材料ともなるのである。自分自身が心から反省しているのだから、今さら実際の罰まで
受ける必要もないなどと結論付けたとするならば、そのような人間は「免罪を見越した模倣犯の頻発」という
社会的危険性にまで配慮が及んでいないが故に、十分な反省が足りていないとも見受けられるのである。
反省があるから配慮が利くのであり、ないならそこまでの配慮は利かないのである。
両者は表裏一体であり、十分に反省しているにも関わらず社会的配慮は利かないなどということもない。
配慮がないにも関わらず反省しているようであるとしても、それも偽りの反省を脳内で
観念として構築しているだけのことである。そのための格好の手段として多くの罪人に用いられて
来たのが他でもない十字架信仰であり、「罪人は相応の罰を受けるのでなければ社会的な決まりが付かない」
という事実関係から目を背けさせつつの、偽りの反省をやり込める余地を人々にもたらしたのだった。
重罰を受けようが社会的な制限を科されようが、本人が罪業の種を持ち越したままで
居続けていることには変わりないわけで、罰や制限もそのような素養の持ち主に対する
世の中の側からの拒絶反応という以上の意味は持たない(当然それだけの意味はある)。
たとえ罰や制限を科されなくても、心からの反省すらできたなら、自らの罪業の種子を絶やすことも
できるわけだが、そんな都合のいいことも実際にはないわけで、本当に心から反省すればこそ、
自らが相応の罰を受けることで「社会的な戒め」のための見せしめ役を果たさねばならない
という所にまで配慮が及ぶから、進んで罰や制限を受けようとするようにもなるのである。
だからこそ、自分から進んで罰を受けようとすらするか否かが、罪人自身に心からの反省が伴っているか
否かの確かな判断材料ともなるのである。自分自身が心から反省しているのだから、今さら実際の罰まで
受ける必要もないなどと結論付けたとするならば、そのような人間は「免罪を見越した模倣犯の頻発」という
社会的危険性にまで配慮が及んでいないが故に、十分な反省が足りていないとも見受けられるのである。
反省があるから配慮が利くのであり、ないならそこまでの配慮は利かないのである。
両者は表裏一体であり、十分に反省しているにも関わらず社会的配慮は利かないなどということもない。
配慮がないにも関わらず反省しているようであるとしても、それも偽りの反省を脳内で
観念として構築しているだけのことである。そのための格好の手段として多くの罪人に用いられて
来たのが他でもない十字架信仰であり、「罪人は相応の罰を受けるのでなければ社会的な決まりが付かない」
という事実関係から目を背けさせつつの、偽りの反省をやり込める余地を人々にもたらしたのだった。
相応の罰や制限を自分自身が被らないにもかかわらずの偽りの反省、その反省がいかにも本物らしいかどうかを
懺悔(この語も仏語からの盗用)を通じて神父が判定し、いかにも迫真じみていれば「罪は許された」とする。
要は演技の巧拙の判定であり、キリスト教徒は迫真の演技で自分たちの罪から目を背け続けて来たわけである。
そういう悪例があるものだから、「人生は演技だ」などという考え方を奨励してもならないといえる。
世の中では嫌なこともたくさんあるから、本音を隠した上っ面の演技で済ませねばならないことがある
ということに絡んで、上のようなことを言いたがる人間がいるけども、だとしたところで、演技でなくて
済むならそれに越したことはない。できる限り演技などでない本音からの生き方を目指すべきであり、
演技で塗り固めた生き方を「大人としての生き方」などとして達観の対象にしたりしてもならない。
演技で生きて行くことが異教徒以上にも堂に入ってるのがキリスト教徒であるものだから、
キリスト教徒たちも、だからこそ自分たちが異教徒以上にも大人じみているなどとすら思い込んでいる。
特に、イギリス人のキリスト教徒などにその傾向が顕著であり、二枚舌三枚舌の外連を方々で使いこなせば
こそ自分たちも紳士淑女であるのだなどとすらうそぶいているわけだけれども、それこそ、そんな間違った
根拠に基づいたプライドこそは、演技によって自分たちの大罪からすら目を背け続けて来た愚人で
あるが故の自業自得の破滅によって、根底から崩壊してしまうに越したこともないのである。
「演技の巧みさ」を根拠に大人ぶる、そんな子供じみた世の中にもはや引導を渡すべきである。
「君の故に微ざれば、胡ぞ中露に為さんや。〜君の躬に微ざれば、胡ぞ泥中に為さんや」
「主君のためとあらば、雨露の中でも泥の中でも。(『罪の中』などは主君のためにもならないから予め
入らないようにもするが、自らが過酷な条件の中に入っていくことも辞さないのが忠臣の心構えである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・式微より
懺悔(この語も仏語からの盗用)を通じて神父が判定し、いかにも迫真じみていれば「罪は許された」とする。
要は演技の巧拙の判定であり、キリスト教徒は迫真の演技で自分たちの罪から目を背け続けて来たわけである。
そういう悪例があるものだから、「人生は演技だ」などという考え方を奨励してもならないといえる。
世の中では嫌なこともたくさんあるから、本音を隠した上っ面の演技で済ませねばならないことがある
ということに絡んで、上のようなことを言いたがる人間がいるけども、だとしたところで、演技でなくて
済むならそれに越したことはない。できる限り演技などでない本音からの生き方を目指すべきであり、
演技で塗り固めた生き方を「大人としての生き方」などとして達観の対象にしたりしてもならない。
演技で生きて行くことが異教徒以上にも堂に入ってるのがキリスト教徒であるものだから、
キリスト教徒たちも、だからこそ自分たちが異教徒以上にも大人じみているなどとすら思い込んでいる。
特に、イギリス人のキリスト教徒などにその傾向が顕著であり、二枚舌三枚舌の外連を方々で使いこなせば
こそ自分たちも紳士淑女であるのだなどとすらうそぶいているわけだけれども、それこそ、そんな間違った
根拠に基づいたプライドこそは、演技によって自分たちの大罪からすら目を背け続けて来た愚人で
あるが故の自業自得の破滅によって、根底から崩壊してしまうに越したこともないのである。
「演技の巧みさ」を根拠に大人ぶる、そんな子供じみた世の中にもはや引導を渡すべきである。
「君の故に微ざれば、胡ぞ中露に為さんや。〜君の躬に微ざれば、胡ぞ泥中に為さんや」
「主君のためとあらば、雨露の中でも泥の中でも。(『罪の中』などは主君のためにもならないから予め
入らないようにもするが、自らが過酷な条件の中に入っていくことも辞さないのが忠臣の心構えである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・式微より
笠ポン、笠ポン、世界の笠ポン。^^
「人はみないつかは死ぬ」「死んだ以上は二度と生き返らない」
「罪を犯せば自分自身が相応の罰を受けねば世の中も破綻する」
そういった本物の真理や道理が絶対的に磐石なものであればこそ、それを
100%非とする完全誤謬を信じ込んでいようとすることもまた最高度に磐石たり得る。
未だ生物学上の分類すら定まっていないような未知の生物を
「これは○○科の△△の一種だ」「いいや、□□科の××の奇形種だ」などと
推断したりする場合などにこそ、そんなに高強度な信じ込みを帯びたりすることもできない。
それよりは、通俗的にも生物学的にも「鹿」と定義されている生き物を私的に「馬だ」と
決め付けたりする場合のほうが「開き直りの信じ込み」を当て付けられるものだから、
より絶対的な信じ込みと共に決め付けたりもすることができるのである。
故に、否定する対象となるものが完全なる真理や道理であればこそ、それを否定し去った
先にある誤謬もまた完全であるが故に、開き直りの信じ込みに基づく大きな陶酔が得られも
するのである。それは、未知なる対象をああだこうだと推断する場合はもちろんのこと、
真理や道理そのものを信仰の対象とする場合にすら得られることのない麻薬的陶酔であり、
同様の陶酔を得たいがための、真理や道理そのものへの信仰への鞍替えを許すものですらない。
完全誤謬への陶酔的狂信に基づく知性の後退こそは、畜生道への没落の原因とも
なるのだから、それと同等の陶酔などを他の信仰などに期待すべきでもないし、
実際期待できもしない。にもかかわらず完全誤謬信仰を破棄しなければならない
ことがあるとすれば、そこにはおおよそ二つの理由が見受けられる。
一つは、そんな劣悪な狂信ばかりに人々が陥っている以上は、最悪、人類滅亡級の
社会的破綻が免れられなくなるからというのがある。そしてもう一つが、完全誤謬などを狂信
すること自体、大いなる陶酔を狂信者にもたらす一方で、人としての本性の所にある善性を
損なわせるが故に、通奏低音的な苦しみを本人たちにもたらしているからというのがある。
「罪を犯せば自分自身が相応の罰を受けねば世の中も破綻する」
そういった本物の真理や道理が絶対的に磐石なものであればこそ、それを
100%非とする完全誤謬を信じ込んでいようとすることもまた最高度に磐石たり得る。
未だ生物学上の分類すら定まっていないような未知の生物を
「これは○○科の△△の一種だ」「いいや、□□科の××の奇形種だ」などと
推断したりする場合などにこそ、そんなに高強度な信じ込みを帯びたりすることもできない。
それよりは、通俗的にも生物学的にも「鹿」と定義されている生き物を私的に「馬だ」と
決め付けたりする場合のほうが「開き直りの信じ込み」を当て付けられるものだから、
より絶対的な信じ込みと共に決め付けたりもすることができるのである。
故に、否定する対象となるものが完全なる真理や道理であればこそ、それを否定し去った
先にある誤謬もまた完全であるが故に、開き直りの信じ込みに基づく大きな陶酔が得られも
するのである。それは、未知なる対象をああだこうだと推断する場合はもちろんのこと、
真理や道理そのものを信仰の対象とする場合にすら得られることのない麻薬的陶酔であり、
同様の陶酔を得たいがための、真理や道理そのものへの信仰への鞍替えを許すものですらない。
完全誤謬への陶酔的狂信に基づく知性の後退こそは、畜生道への没落の原因とも
なるのだから、それと同等の陶酔などを他の信仰などに期待すべきでもないし、
実際期待できもしない。にもかかわらず完全誤謬信仰を破棄しなければならない
ことがあるとすれば、そこにはおおよそ二つの理由が見受けられる。
一つは、そんな劣悪な狂信ばかりに人々が陥っている以上は、最悪、人類滅亡級の
社会的破綻が免れられなくなるからというのがある。そしてもう一つが、完全誤謬などを狂信
すること自体、大いなる陶酔を狂信者にもたらす一方で、人としての本性の所にある善性を
損なわせるが故に、通奏低音的な苦しみを本人たちにもたらしているからというのがある。
それは、陶酔ばかりに心を囚われている狂信者たち自身が必ずしも気づいてすらいない
苦しみだったりもするわけだが、健全な性情の持ち主が完全誤謬への信仰などを仮想的に
自らの心中で想定したりした場合などには、即座にそれが苦しみであると判断できる
ものである。無論、苦しみというよりは「つまらなさ」として感じ取ることのほうが
多いものであり、そんなものを享受していない状態の自分自身の心境が比較的すがすがしい
ものであると分かるからこそ、それをつまらないものだとも判断しやすいのである。
表面的な陶酔もあるが、心底の所からの苦しみもある、故にプラマイゼロでつまらない。
つまらない上に、人類滅亡の元凶とすらなるのだから、破棄するに越したこともないと
なるわけである。楽しみが苦しみを上回る健全な楽しみこそは、真理や道理のわきまえに
即した勧善懲悪や断悪修善の実践と共にのみ得られるわけだから、つまらなくない楽しみを
得たいがためにこそ、そちらのほうを選択して行くようにするのである。「人類の滅亡も
免れられないから」などという理由で狂信を破棄するのは、あくまで最低度のことである。
「曰く、交、鄒君に見ゆるを得ば、以て館をる可し。願くば留まりて業を門に受けん。
(ここから既出)曰く、夫れ道は大路の若く然り。豈に知り難からんや。
人求めざるを病うるのみ。子帰りて而も之を求めば、余れる師有らん」
「曹交『私も鄒の殿様に謁見して宿舎を借りようと思いますので、できれば先生もここに留まって
学問振興を試みていただきたいのですが』 孟先生『道理というものは広大な路のようなもので、
知ろうにも知りがたいようなものではない。ただ誰もそれを求めようとすらしないのが問題であるだけだ。
あなたも国に帰って道理を求めすらしたならば、いくらでもあなたの師となる人物はいることだろう』
(道理や真理を学ぶために、特定の師の下に留まらねばならないなどということもないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・二より)
苦しみだったりもするわけだが、健全な性情の持ち主が完全誤謬への信仰などを仮想的に
自らの心中で想定したりした場合などには、即座にそれが苦しみであると判断できる
ものである。無論、苦しみというよりは「つまらなさ」として感じ取ることのほうが
多いものであり、そんなものを享受していない状態の自分自身の心境が比較的すがすがしい
ものであると分かるからこそ、それをつまらないものだとも判断しやすいのである。
表面的な陶酔もあるが、心底の所からの苦しみもある、故にプラマイゼロでつまらない。
つまらない上に、人類滅亡の元凶とすらなるのだから、破棄するに越したこともないと
なるわけである。楽しみが苦しみを上回る健全な楽しみこそは、真理や道理のわきまえに
即した勧善懲悪や断悪修善の実践と共にのみ得られるわけだから、つまらなくない楽しみを
得たいがためにこそ、そちらのほうを選択して行くようにするのである。「人類の滅亡も
免れられないから」などという理由で狂信を破棄するのは、あくまで最低度のことである。
「曰く、交、鄒君に見ゆるを得ば、以て館をる可し。願くば留まりて業を門に受けん。
(ここから既出)曰く、夫れ道は大路の若く然り。豈に知り難からんや。
人求めざるを病うるのみ。子帰りて而も之を求めば、余れる師有らん」
「曹交『私も鄒の殿様に謁見して宿舎を借りようと思いますので、できれば先生もここに留まって
学問振興を試みていただきたいのですが』 孟先生『道理というものは広大な路のようなもので、
知ろうにも知りがたいようなものではない。ただ誰もそれを求めようとすらしないのが問題であるだけだ。
あなたも国に帰って道理を求めすらしたならば、いくらでもあなたの師となる人物はいることだろう』
(道理や真理を学ぶために、特定の師の下に留まらねばならないなどということもないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・二より)
自己紹介乙。^^
封建制である人間社会で最大級の権能を持つのが君主であるからこそ、
君主こそは「世の中を先導する者」としての最大級の尊崇の対象とすらなる。
民主主義社会で主権の持ち主とされるのは民間人であるけれども、
別に民間人が世の中の先導者となることまでをも是としているわけではない。
民間人には民間人で産業などの本業が別にあるから、政治的な主導は
あくまで選挙で選ばれた政治家らが執り行っていくものとしている。
政治的な先導者こそは最大級の主体的権能の持ち主でもあるか、
もしくは政治的な先導者でない者こそは主権の持ち主となるか、封建制と民主制の違いは
ただこの一点だけに尽きているのであり、官も民も超越した普遍的な観点からいえば、
民主制のほうが封建制よりも優れている根拠などは、どこにもありはしないのである。
むしろ、政治的な先導者が責任を持って為政を執り行っていくことを放棄して、
民間からの闇支配を許容してしまうようなことがあるぶんだけ、民主制のほうが本質的な
権力腐敗に陥ってしまいやすい危険性を孕んでいるといえる。政治的な先導者でもある
国家権力の腐敗は誰しもが注視の対象とするところだが、民間の権力者の動向などは、
自分たちと同じ民間人であるということもあって、自分に甘い大多数の民間人も無視した
ままでいようとする。故に、致命的な権力腐敗を完全に黙認したままでい続けてしまう
ような事態が、国家規模での民主制の実施と共に到来してしまったりもするのである。
君主こそは「世の中を先導する者」としての最大級の尊崇の対象とすらなる。
民主主義社会で主権の持ち主とされるのは民間人であるけれども、
別に民間人が世の中の先導者となることまでをも是としているわけではない。
民間人には民間人で産業などの本業が別にあるから、政治的な主導は
あくまで選挙で選ばれた政治家らが執り行っていくものとしている。
政治的な先導者こそは最大級の主体的権能の持ち主でもあるか、
もしくは政治的な先導者でない者こそは主権の持ち主となるか、封建制と民主制の違いは
ただこの一点だけに尽きているのであり、官も民も超越した普遍的な観点からいえば、
民主制のほうが封建制よりも優れている根拠などは、どこにもありはしないのである。
むしろ、政治的な先導者が責任を持って為政を執り行っていくことを放棄して、
民間からの闇支配を許容してしまうようなことがあるぶんだけ、民主制のほうが本質的な
権力腐敗に陥ってしまいやすい危険性を孕んでいるといえる。政治的な先導者でもある
国家権力の腐敗は誰しもが注視の対象とするところだが、民間の権力者の動向などは、
自分たちと同じ民間人であるということもあって、自分に甘い大多数の民間人も無視した
ままでいようとする。故に、致命的な権力腐敗を完全に黙認したままでい続けてしまう
ような事態が、国家規模での民主制の実施と共に到来してしまったりもするのである。
国家規模の政治のあり方として、封建制は陰陽法則に即した健全性を伴っているといえる一方、
民主制は陰陽法則に逆らう不健全性を帯びているといえる。封建制であっても、王侯と民間の
豪商がつるんで一緒くたな貴族階級を形成していた西洋の封建社会などは、民間人にも権力者
としての一翼を担わせていたものだから陰陽法則に逆らっていたといえる。もしも公権力者と
民間人の立場を完全に分断して両者の序列を徹底すれば、それで陽唱陰和が健全化されたわけ
だけれども、西洋人たるや、その逆に公権力を民間人が主権者として支配下に置くという暴挙
をやらかしたのだった。これによって陰陽関係が健全化されるどころか、不健全化が徹底
されることとなり、人類滅亡級の災禍をこの世にもたらし始めることともなったのだった。
西洋人がそのような政治上からの最悪の選択を重ねていったのも、やはり聖書信仰が原動力と
なっていたからだ。古くからの封建社会で王侯と豪商が結託していたのも、豪商をユダヤ人
に見立てた上でその存在性を許容する悪癖に基づいているし、その豪商が旧約信仰によって
自己正当化やそれに基づく活動の推進を極大化させたからこそ、自分たちの野望を最大級に
成し遂げるための手段としての国家規模、国際規模での民主化が企てられもしたのだった。
聖書信仰と真逆の教理学説を擁する儒学を主な政治理念として来た極東社会においては、
当然、公権力者の主権者としての政治的先導や、公権力と民間の富裕層の分断などの措置が
講じられて来た。なおかつ、時の公権力者の盛衰としての帝国や幕府の興亡が正史書なども通じて
厳密に精査され、その善いところを倣って悪いところを反面教師とする慣習をも根付かせてきた。
中国史が個々の王朝に即して厳密に断代されていたりするのもだからこそなのであって、
決してそれが「中国史こそは乱脈だらけの歴史」である根拠などになっているわけでもない。
民主制は陰陽法則に逆らう不健全性を帯びているといえる。封建制であっても、王侯と民間の
豪商がつるんで一緒くたな貴族階級を形成していた西洋の封建社会などは、民間人にも権力者
としての一翼を担わせていたものだから陰陽法則に逆らっていたといえる。もしも公権力者と
民間人の立場を完全に分断して両者の序列を徹底すれば、それで陽唱陰和が健全化されたわけ
だけれども、西洋人たるや、その逆に公権力を民間人が主権者として支配下に置くという暴挙
をやらかしたのだった。これによって陰陽関係が健全化されるどころか、不健全化が徹底
されることとなり、人類滅亡級の災禍をこの世にもたらし始めることともなったのだった。
西洋人がそのような政治上からの最悪の選択を重ねていったのも、やはり聖書信仰が原動力と
なっていたからだ。古くからの封建社会で王侯と豪商が結託していたのも、豪商をユダヤ人
に見立てた上でその存在性を許容する悪癖に基づいているし、その豪商が旧約信仰によって
自己正当化やそれに基づく活動の推進を極大化させたからこそ、自分たちの野望を最大級に
成し遂げるための手段としての国家規模、国際規模での民主化が企てられもしたのだった。
聖書信仰と真逆の教理学説を擁する儒学を主な政治理念として来た極東社会においては、
当然、公権力者の主権者としての政治的先導や、公権力と民間の富裕層の分断などの措置が
講じられて来た。なおかつ、時の公権力者の盛衰としての帝国や幕府の興亡が正史書なども通じて
厳密に精査され、その善いところを倣って悪いところを反面教師とする慣習をも根付かせてきた。
中国史が個々の王朝に即して厳密に断代されていたりするのもだからこそなのであって、
決してそれが「中国史こそは乱脈だらけの歴史」である根拠などになっているわけでもない。
ただ、特に春秋の筆法で書かれた「漢書」などの正史書は、当時の皇帝に至るまで容赦ない
批評的記録の対象とされていて、そのせいで史書編纂の事業自体が封建制の矮小化を招いて
しまう結果ともなってしまっていたのだった。日本などはそのあたり、平安時代以降の歴史を
四鏡のような歴史文学や日本外史の如き簡素な記録に止めることで避けてきたわけだが、
公権力者純粋主導の封建制も「過ぎたるはなお及ばざるが如し」で、それがどんなに
いいものであるにしたって、硬直的であり過ぎるのではどうにもならなくなることが、
生々流転の易の法則からも肯んぜざるを得ないこととなっているのである。
これも已む無いことではあったにしろ、鎌倉以降、江戸期までの日本では朝廷が政治的主権を
ほとんど持たず、幕府将軍や有力な武将などが代わる代わる政権を持ちまわすという異例の
事態を800年近くに渡って持続して来たのだった。これは封建制の最高権力たる朝廷が先導者
たるわけでもなければ、ずぶの民間人が主権者となるわけでもない特殊な政体であったわけで、
日本でも中国でも朝廷が最高権力たる政体が限界を来たし始めていたからこそ選択された
苦肉の策でもあった。ただ、そうであるにしても「主権は朝廷にあり」という姿勢を
武家たちが崩さないでもいたればこそ、主権すらもが武家や民間に明け渡される
場合ほどもの節操のなさを来たしたりすることもなかったのだった。
東洋では、政体の健全化に務めてきた結果として、最終的に武家統治のような特殊な政体をも
もたらした一方、西洋では、政体の陰陽法則に基づく不健全化を極めた結果として民主制が
もたらされた。いずれも変則的な政体であるには違いなく、朝廷こそが主権者たると共に
政治的先導者でもあるのが人間社会にとっての最善であるには違いない。ただ、そのような
政体が未だ立ち行かない限りにおいて、主権は朝廷で政治的先導者は武家であるのと、
主権は民間で政治的先導者は選挙で選ばれた政治家であるのと、どちらのほがマシであるか
といえば、それは前者のほうであるといえる。前者は人類を滅亡に陥れない程度の政治的
健全性を保てる一方、後者はその程度の健全性すら保てないから、そうであるといえる。
批評的記録の対象とされていて、そのせいで史書編纂の事業自体が封建制の矮小化を招いて
しまう結果ともなってしまっていたのだった。日本などはそのあたり、平安時代以降の歴史を
四鏡のような歴史文学や日本外史の如き簡素な記録に止めることで避けてきたわけだが、
公権力者純粋主導の封建制も「過ぎたるはなお及ばざるが如し」で、それがどんなに
いいものであるにしたって、硬直的であり過ぎるのではどうにもならなくなることが、
生々流転の易の法則からも肯んぜざるを得ないこととなっているのである。
これも已む無いことではあったにしろ、鎌倉以降、江戸期までの日本では朝廷が政治的主権を
ほとんど持たず、幕府将軍や有力な武将などが代わる代わる政権を持ちまわすという異例の
事態を800年近くに渡って持続して来たのだった。これは封建制の最高権力たる朝廷が先導者
たるわけでもなければ、ずぶの民間人が主権者となるわけでもない特殊な政体であったわけで、
日本でも中国でも朝廷が最高権力たる政体が限界を来たし始めていたからこそ選択された
苦肉の策でもあった。ただ、そうであるにしても「主権は朝廷にあり」という姿勢を
武家たちが崩さないでもいたればこそ、主権すらもが武家や民間に明け渡される
場合ほどもの節操のなさを来たしたりすることもなかったのだった。
東洋では、政体の健全化に務めてきた結果として、最終的に武家統治のような特殊な政体をも
もたらした一方、西洋では、政体の陰陽法則に基づく不健全化を極めた結果として民主制が
もたらされた。いずれも変則的な政体であるには違いなく、朝廷こそが主権者たると共に
政治的先導者でもあるのが人間社会にとっての最善であるには違いない。ただ、そのような
政体が未だ立ち行かない限りにおいて、主権は朝廷で政治的先導者は武家であるのと、
主権は民間で政治的先導者は選挙で選ばれた政治家であるのと、どちらのほがマシであるか
といえば、それは前者のほうであるといえる。前者は人類を滅亡に陥れない程度の政治的
健全性を保てる一方、後者はその程度の健全性すら保てないから、そうであるといえる。
武家政権は武力行使で世の中を治めるわけだから、礼楽統治を旨とする朝廷以上にも個々の
政権の安定性の確保が困難なものである。結局武家政権といえども、中後期の江戸幕府の
ように半ば礼楽統治にすら頼るようになることでこそ政治的安定性が得られもするわけだが、
そのせいでかえって武力面での弱体化を招いたことによる倒幕などをも来たしかねない。
だから、あくまで武家による統治というのは過渡的なものとすべきであり、できることなら
朝廷による礼楽統治へと移行するに越したことはないものである。以前の武家時代の次には
民権社会や民主主義社会が日本にもたらされてしまったが、今度はそんな過ちを犯さぬように。
むしろ全世界に向けて礼楽統治を実現して行く上での架け橋にすら武家統治がなるように。
新たな時代の武士たちの腰に差された刀が、全世界の人々の福利厚生のためのものとなるべし。
「之れを瞻れば前に在り、忽焉として後ろに在り。夫子循循然として善く人を誘う。(既出)」
「前にいたかと思えば、今度は後ろにいらっしゃる。先生は臨機応変に人をよく指導される。
(孔子を評した顔淵の言葉。教学を講ずる師としてはこのような姿勢でいるのが正しい。
後ろにいっぱなしのエホバも、先を行きっぱなしのイエスも師たるに値する存在ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一一より)
「言忠信にして、行い篤敬なれば(既出)、
〜立ちては則ち其の前に参するを見、輿に在りても則ち其の衡に倚るを見る」
「相手の言葉に忠節と信義があり、行いにも篤実さや敬意が備わっているようであれば、
ただ立っているだけでも自分の前に相手の真心が現れるようになるし、車に乗っていても、
目前の横木に相手の真心が浮かび上がって来るようになる。(真心は前に現れるものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・六より)
政権の安定性の確保が困難なものである。結局武家政権といえども、中後期の江戸幕府の
ように半ば礼楽統治にすら頼るようになることでこそ政治的安定性が得られもするわけだが、
そのせいでかえって武力面での弱体化を招いたことによる倒幕などをも来たしかねない。
だから、あくまで武家による統治というのは過渡的なものとすべきであり、できることなら
朝廷による礼楽統治へと移行するに越したことはないものである。以前の武家時代の次には
民権社会や民主主義社会が日本にもたらされてしまったが、今度はそんな過ちを犯さぬように。
むしろ全世界に向けて礼楽統治を実現して行く上での架け橋にすら武家統治がなるように。
新たな時代の武士たちの腰に差された刀が、全世界の人々の福利厚生のためのものとなるべし。
「之れを瞻れば前に在り、忽焉として後ろに在り。夫子循循然として善く人を誘う。(既出)」
「前にいたかと思えば、今度は後ろにいらっしゃる。先生は臨機応変に人をよく指導される。
(孔子を評した顔淵の言葉。教学を講ずる師としてはこのような姿勢でいるのが正しい。
後ろにいっぱなしのエホバも、先を行きっぱなしのイエスも師たるに値する存在ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一一より)
「言忠信にして、行い篤敬なれば(既出)、
〜立ちては則ち其の前に参するを見、輿に在りても則ち其の衡に倚るを見る」
「相手の言葉に忠節と信義があり、行いにも篤実さや敬意が備わっているようであれば、
ただ立っているだけでも自分の前に相手の真心が現れるようになるし、車に乗っていても、
目前の横木に相手の真心が浮かび上がって来るようになる。(真心は前に現れるものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・六より)
どんなものであれ、特定の言葉や教義に囚われることは人間にとっての苦しみである。
情報としての言葉や教義を認識したり実践したりするのは脳の役割であり、
その脳が特定の情報処理ばかりに患わされることが普遍的な苦しみとなるからだ。
苦しみにも色々あるが、ここでいう苦しみとは「死以上の苦しみ」のことだ。
死は脳機能を含む生体機能の完全なる停止だから、機械的に考えてみるなら、
それは人間にとっての苦しみでもなければ楽しみでもない、完全なる無苦楽である。
その無苦楽以上の苦しみが、たとえば大怪我や大病を患ったときの苦しみだったりも
する一方で、脳内の思考の極度の苦しみであったりもする。もちろん全ての思考が
死以上もの苦しみであったりするわけではないが、特定の価値があるわけでもないような
情報を反復的に処理させられ続けることなどは、人間にとっての死以上の苦しみとなる。
(機械なら、そのような反復的情報処理に苦しみを感じたりすることも当然ない)
それで、そのような人間にとっての苦しみとなる類いの情報処理が極まったときに、
思考がショートして停止してしまうということがある。それが十字架信仰を快楽と
感じてしまっているキリスト教徒の心境だったりもする。磔刑への恐怖自体は死以上の
苦しみであり、その苦しみが極まった挙句に思考が停止する、停止した瞬間に、苦しみ
からの解放を昇天か何かなどと倒錯して悦に入る。下を向いて墓穴を掘り下げ続けた
挙句に上を向いて、穴の外の光を見て嬉しがるようなもので、これはある種の
「苦しみ主体なマッチポンプのオナニー」であるとも言えなくはない。
そこに価値を見出したりすることが、人間としての深刻な有害無益さの元凶ともなる。
脳を極度に苦しませた挙句の思考停止を欲するものだから、むしろ思考停止の瞬間までの
苦しみは甚大であることを欲する。それこそ実社会上での悪業に基づく悪因苦果であったり
してもいいわけで、そのほうがより苦しいのならあえてそれを求めだしたりもするのである。
情報としての言葉や教義を認識したり実践したりするのは脳の役割であり、
その脳が特定の情報処理ばかりに患わされることが普遍的な苦しみとなるからだ。
苦しみにも色々あるが、ここでいう苦しみとは「死以上の苦しみ」のことだ。
死は脳機能を含む生体機能の完全なる停止だから、機械的に考えてみるなら、
それは人間にとっての苦しみでもなければ楽しみでもない、完全なる無苦楽である。
その無苦楽以上の苦しみが、たとえば大怪我や大病を患ったときの苦しみだったりも
する一方で、脳内の思考の極度の苦しみであったりもする。もちろん全ての思考が
死以上もの苦しみであったりするわけではないが、特定の価値があるわけでもないような
情報を反復的に処理させられ続けることなどは、人間にとっての死以上の苦しみとなる。
(機械なら、そのような反復的情報処理に苦しみを感じたりすることも当然ない)
それで、そのような人間にとっての苦しみとなる類いの情報処理が極まったときに、
思考がショートして停止してしまうということがある。それが十字架信仰を快楽と
感じてしまっているキリスト教徒の心境だったりもする。磔刑への恐怖自体は死以上の
苦しみであり、その苦しみが極まった挙句に思考が停止する、停止した瞬間に、苦しみ
からの解放を昇天か何かなどと倒錯して悦に入る。下を向いて墓穴を掘り下げ続けた
挙句に上を向いて、穴の外の光を見て嬉しがるようなもので、これはある種の
「苦しみ主体なマッチポンプのオナニー」であるとも言えなくはない。
そこに価値を見出したりすることが、人間としての深刻な有害無益さの元凶ともなる。
脳を極度に苦しませた挙句の思考停止を欲するものだから、むしろ思考停止の瞬間までの
苦しみは甚大であることを欲する。それこそ実社会上での悪業に基づく悪因苦果であったり
してもいいわけで、そのほうがより苦しいのならあえてそれを求めだしたりもするのである。
別に、全ての思考が人間にとっての苦しみとなるわけでないのもすでに述べたとおりで、
一定以上の精神的成長を伴うような思考には、人間はかえって「死以上の楽しみ」
すらをも感じるものだし、そもそも死以上の思考の苦しみなどを介することもなく
健全な思考の停止を促す類いの思考もまたあって、しかもそのような思考こそは死以上に
楽しいものであったりもする。これらの思考には死以上の苦しみなどは伴わないから、
当然苦しみこそを追い求めての悪因苦果の積み重ねに走る元凶となったりすることもない。
特に特筆すべきなのは、死以上に楽しい思考の先に健全な思考停止すらもが成し得る
という点であり、これこそは、思考の苦しみを極めた先の思考停止などがあって余計であり、
なくて別に困らない完全なる不要物である証拠ともなっている。別に死以上の思考の苦しみ
などを追い求めなくても思考停止に至ることはできる、のみならず、より楽しい思考や
言行の先にこそ思考停止の悦楽があったりすらするわけだから、もはや苦しみ主体な
マッチポンプのオナニーなどの出しゃばれる余地はどこにもないのだといえる。
要は、思考や言行からの勧善懲悪や断悪修善によってこそ得られる無念無想の境地が
あるということで、それこそは健全な思考の停止であると共に、そこに到達するための
作業が有益無害なものでもあるために、太鼓判を捺して万人に推奨までもができるのである。
そんなものが存在すればこそ、悪逆非道の先に思考停止を得る余地などももうないのである。
「女鄹極まり無く、婦怨終わり無し」
「女の情には際限がなく、女の怨みにも終わりはない。
(四書五経では『終わり有り』という表現が賛辞として多く用いられてもいる。
だらだらといつまでも際限なく持続しようとすること自体、女の性分なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十四年)
一定以上の精神的成長を伴うような思考には、人間はかえって「死以上の楽しみ」
すらをも感じるものだし、そもそも死以上の思考の苦しみなどを介することもなく
健全な思考の停止を促す類いの思考もまたあって、しかもそのような思考こそは死以上に
楽しいものであったりもする。これらの思考には死以上の苦しみなどは伴わないから、
当然苦しみこそを追い求めての悪因苦果の積み重ねに走る元凶となったりすることもない。
特に特筆すべきなのは、死以上に楽しい思考の先に健全な思考停止すらもが成し得る
という点であり、これこそは、思考の苦しみを極めた先の思考停止などがあって余計であり、
なくて別に困らない完全なる不要物である証拠ともなっている。別に死以上の思考の苦しみ
などを追い求めなくても思考停止に至ることはできる、のみならず、より楽しい思考や
言行の先にこそ思考停止の悦楽があったりすらするわけだから、もはや苦しみ主体な
マッチポンプのオナニーなどの出しゃばれる余地はどこにもないのだといえる。
要は、思考や言行からの勧善懲悪や断悪修善によってこそ得られる無念無想の境地が
あるということで、それこそは健全な思考の停止であると共に、そこに到達するための
作業が有益無害なものでもあるために、太鼓判を捺して万人に推奨までもができるのである。
そんなものが存在すればこそ、悪逆非道の先に思考停止を得る余地などももうないのである。
「女鄹極まり無く、婦怨終わり無し」
「女の情には際限がなく、女の怨みにも終わりはない。
(四書五経では『終わり有り』という表現が賛辞として多く用いられてもいる。
だらだらといつまでも際限なく持続しようとすること自体、女の性分なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十四年)
たとえば、古代中国ほどもの大規模かつ完結した国際社会であれば、
全体社会の公益を蔑ろにしてまでの我田引水による私益の貪りが、最終的にはそれを
企てた本人たち自身の自業自得での破滅に直結することをよく認知することができた。
しかもそれを、平易かつ冷厳な文体で記録して後世に述べ伝えようとするものがあった。
統一秦帝国の崩壊を如実に記録した司馬遷のような有能な史学者が多々いて、なおかつその
記録書類を当代の王朝の崩壊後に至るまで念入りに享受して行くことまでもが心がけられた。
だからこそ、世の中の公益を損なってまで個人が私益を貪ったりすることは強く戒められていた。
中国の十分の一程度の国家規模である日本などでは、その中国の経書や史書を受容の対象としての
仁政が試みられた。屠殺や製革などの特定の職種の差別と引き換えに商業への差別を緩和するなどの
独自の政策も敷かれたものの、基本としては公益を尊んで私益の貪りを卑しむことを基調としていた。
イスラエルやギリシャのように、国家規模も中国やインドの百分の一程度の矮小さでいて、
なおかつ近隣に仁政の模範とするに値するような国も存在しなかった小国においては、公益を
蔑ろにしてまでの私益の専らな貪りが自分たち自身の自滅に繋がるということにまでは誰も
考えが及ぶことがなかった。だから、そのような社会規模の我田引水を深刻化させていく
ことに野望を抱かせるような夢物語然とした邪教の教義などがでっち上げられもしたのだった。
ただ、イスラエルやギリシャの近隣に大国が全く存在しなかったわけでもない。バビロニアや
ペルシャなどの相応な大国も存在していたし、何といっても、ローマ帝国という超大国が
新約が編纂された頃などには存在していたわけだから、もしもそこで数多の人々が世の中を
俯瞰しての政治のあり方というものを考究し抜いていたならば、公益を蔑ろにしてでも私益を
貪ることを正当化したような邪義などを容認するようなことも決してなかったはずなのである。
全体社会の公益を蔑ろにしてまでの我田引水による私益の貪りが、最終的にはそれを
企てた本人たち自身の自業自得での破滅に直結することをよく認知することができた。
しかもそれを、平易かつ冷厳な文体で記録して後世に述べ伝えようとするものがあった。
統一秦帝国の崩壊を如実に記録した司馬遷のような有能な史学者が多々いて、なおかつその
記録書類を当代の王朝の崩壊後に至るまで念入りに享受して行くことまでもが心がけられた。
だからこそ、世の中の公益を損なってまで個人が私益を貪ったりすることは強く戒められていた。
中国の十分の一程度の国家規模である日本などでは、その中国の経書や史書を受容の対象としての
仁政が試みられた。屠殺や製革などの特定の職種の差別と引き換えに商業への差別を緩和するなどの
独自の政策も敷かれたものの、基本としては公益を尊んで私益の貪りを卑しむことを基調としていた。
イスラエルやギリシャのように、国家規模も中国やインドの百分の一程度の矮小さでいて、
なおかつ近隣に仁政の模範とするに値するような国も存在しなかった小国においては、公益を
蔑ろにしてまでの私益の専らな貪りが自分たち自身の自滅に繋がるということにまでは誰も
考えが及ぶことがなかった。だから、そのような社会規模の我田引水を深刻化させていく
ことに野望を抱かせるような夢物語然とした邪教の教義などがでっち上げられもしたのだった。
ただ、イスラエルやギリシャの近隣に大国が全く存在しなかったわけでもない。バビロニアや
ペルシャなどの相応な大国も存在していたし、何といっても、ローマ帝国という超大国が
新約が編纂された頃などには存在していたわけだから、もしもそこで数多の人々が世の中を
俯瞰しての政治のあり方というものを考究し抜いていたならば、公益を蔑ろにしてでも私益を
貪ることを正当化したような邪義などを容認するようなことも決してなかったはずなのである。
しかし、そうはならなかった。西洋における致命的な悪癖として、頭を使うことはギリシャや
イギリスみたいな小国の一部の人間に任せきり、ローマやアメリカみたいな大国は低俗な文化のみを
生産や享受する「烏合の衆」であればよいとする風潮があったものだから、国家規模が壮大である、
にもかかわらずではなくだからこそ、古代ローマなどにおいても高尚な政治文化などを発達させて
行こうとしたりすることもなかったのだった。だからこそ、図体ばかりでかい能無しとして、
イスラエルやギリシャの小人が捏造した我田引水主義の邪義をそのまま享受したりもしたのだった。
紀元前には、ユダヤ人の政商としての跋扈を容認してしまっていた中東人のほうはといえば、
キリスト教による侵略が深刻化して後にやっとイスラムを立ち上げて、我田引水を本分とする
邪教を勢力圏から撃退することに本腰を入れ始めたのだった。しかし、ローマ帝国を中心とした
西洋社会のほうはといえば、いつまでたっても邪教の払拭に取り掛かることもなく、自分たちの
ための国際規模での我田引水をどこまでも深刻化させ続けた挙句に自分たち自身の大破滅を
招くという最悪のシナリオばかりを一途にまい進して行った。その結末が今であり、
数多の欧米のキリスト教徒が禁治産や参政権剥奪などの強制措置を被らない
ことには人類の滅亡すらもが免れ得ない事態と化してしまっている。
四書五経を含む中国文化が西洋に流入した啓蒙時代の頃にはすでに、仁政の何たるかを文面ぐらい
では西洋人も知ることができたはずで、孔子や孟子の言葉を参考にすることで、我田引水が
自滅に至ることの不可避さをも察知することができなくもなかったはずである。それでも
やはり自分たちのあり方を正すことができずに、旧来のあり方を等比級数的に深刻化させていく
選択ばかりを果たしてきたのだった。過ちは一つや二つではなく、幾重にも折り重なって
来ているものであるが故に、その矯正も生半なもので済むようなことは決してないだろう。
イギリスみたいな小国の一部の人間に任せきり、ローマやアメリカみたいな大国は低俗な文化のみを
生産や享受する「烏合の衆」であればよいとする風潮があったものだから、国家規模が壮大である、
にもかかわらずではなくだからこそ、古代ローマなどにおいても高尚な政治文化などを発達させて
行こうとしたりすることもなかったのだった。だからこそ、図体ばかりでかい能無しとして、
イスラエルやギリシャの小人が捏造した我田引水主義の邪義をそのまま享受したりもしたのだった。
紀元前には、ユダヤ人の政商としての跋扈を容認してしまっていた中東人のほうはといえば、
キリスト教による侵略が深刻化して後にやっとイスラムを立ち上げて、我田引水を本分とする
邪教を勢力圏から撃退することに本腰を入れ始めたのだった。しかし、ローマ帝国を中心とした
西洋社会のほうはといえば、いつまでたっても邪教の払拭に取り掛かることもなく、自分たちの
ための国際規模での我田引水をどこまでも深刻化させ続けた挙句に自分たち自身の大破滅を
招くという最悪のシナリオばかりを一途にまい進して行った。その結末が今であり、
数多の欧米のキリスト教徒が禁治産や参政権剥奪などの強制措置を被らない
ことには人類の滅亡すらもが免れ得ない事態と化してしまっている。
四書五経を含む中国文化が西洋に流入した啓蒙時代の頃にはすでに、仁政の何たるかを文面ぐらい
では西洋人も知ることができたはずで、孔子や孟子の言葉を参考にすることで、我田引水が
自滅に至ることの不可避さをも察知することができなくもなかったはずである。それでも
やはり自分たちのあり方を正すことができずに、旧来のあり方を等比級数的に深刻化させていく
選択ばかりを果たしてきたのだった。過ちは一つや二つではなく、幾重にも折り重なって
来ているものであるが故に、その矯正も生半なもので済むようなことは決してないだろう。
過ちを改めることもなく何度も繰り返していこうとする性向こそは、恒久にも渡るほどの
厳酷な制限や矯正措置を必要とする。それこそ、「そんなものは望んでいなかった」と白状
せざるを得なくなるほどもの制限や矯正が待っている。これもまた「最終防衛線死守思想」であり、
これすら蔑ろにしようものなら、欧米人を含む人類の滅亡すらもが免れ得ないものであるのだから、
拒絶を極めて自分たちごと人類を滅亡させるか、それとも完全に屈服して二度と文句一つ
言わないでいることで自他を救うか、どちらを選ぶのかをよく考えて決めるがいい。
「至誠は息む無し。息まざれば則ち久しく、久しければ則ち徴あり、徴あれば則ち悠遠たり、
悠遠たれば則ち博厚たり、博厚たれば則ち高明たり。〜高明たるは、物を覆う所以なり。
今夫れ天は斯れ昭昭の多きなり、其の窮まり無きに及んでは、日月星辰に繋り、万物覆わる。
(詩に)云く、維れ天の命、於あ穆として已まず、蓋し天の天たる所以を曰うと。於乎顕われ
ざらんや、文王の徳の純なることと。蓋し文王の文たる所以を曰うと、純なることも亦た已まず」
「至誠は決して止むことがなく、止まないが故に久しく、久しきが故に効験があり、効験によって
悠久で深遠となり、悠遠たるが故に博く篤くなり、博厚たるが故に高く明らかとなる。高明であるが
故に万物を覆っていく。天の明るさも部分部分は多少の明るさであるにしろ、それが日月精神の輝きを通じて
天全体を覆うことで万物をも覆い尽くしてしまう。詩経(維天之命)にも『ああ、天命は決して止むことがない』
とあるが、これも天の天たる所以を示したものである。『ああ、文王の徳の純粋さも明らかに顕れる』ともあるが、
これも文王の文王たる所以を示したものである。その徳の純粋さも天のように止むことがないのである。
(天下全土を高明な輝きで覆い尽くすことこそは天の働きであり、仁者の徳の働きなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二六より)
厳酷な制限や矯正措置を必要とする。それこそ、「そんなものは望んでいなかった」と白状
せざるを得なくなるほどもの制限や矯正が待っている。これもまた「最終防衛線死守思想」であり、
これすら蔑ろにしようものなら、欧米人を含む人類の滅亡すらもが免れ得ないものであるのだから、
拒絶を極めて自分たちごと人類を滅亡させるか、それとも完全に屈服して二度と文句一つ
言わないでいることで自他を救うか、どちらを選ぶのかをよく考えて決めるがいい。
「至誠は息む無し。息まざれば則ち久しく、久しければ則ち徴あり、徴あれば則ち悠遠たり、
悠遠たれば則ち博厚たり、博厚たれば則ち高明たり。〜高明たるは、物を覆う所以なり。
今夫れ天は斯れ昭昭の多きなり、其の窮まり無きに及んでは、日月星辰に繋り、万物覆わる。
(詩に)云く、維れ天の命、於あ穆として已まず、蓋し天の天たる所以を曰うと。於乎顕われ
ざらんや、文王の徳の純なることと。蓋し文王の文たる所以を曰うと、純なることも亦た已まず」
「至誠は決して止むことがなく、止まないが故に久しく、久しきが故に効験があり、効験によって
悠久で深遠となり、悠遠たるが故に博く篤くなり、博厚たるが故に高く明らかとなる。高明であるが
故に万物を覆っていく。天の明るさも部分部分は多少の明るさであるにしろ、それが日月精神の輝きを通じて
天全体を覆うことで万物をも覆い尽くしてしまう。詩経(維天之命)にも『ああ、天命は決して止むことがない』
とあるが、これも天の天たる所以を示したものである。『ああ、文王の徳の純粋さも明らかに顕れる』ともあるが、
これも文王の文王たる所以を示したものである。その徳の純粋さも天のように止むことがないのである。
(天下全土を高明な輝きで覆い尽くすことこそは天の働きであり、仁者の徳の働きなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二六より)
人間にとっての「善」というものは己れの心の本性の所にしか存在していないから、
心を蔑ろにする者は他のどんなものに頼るのであっても、善に与ることなどはできない。
もしも、自らの心のうちにある善性を省みることもできないような愚人が、他者に
すがることでの善の享受を試みるとしても、その相手であるべき人間というのは必ず、
信奉者たち自身に己れの善性への立ち返りを外的に促してやる人間であるべきなのである。
そうである人間こそは、人々の先導者たるにも値する聖賢であるわけで、架空の如来である
阿弥陀仏すらもが、その方便によって信者を己れの心中の善性に立ち返らせてくれるが故に、
その条件を満たしていたりするわけだけれども。当然、万事万物万人がそのような教導者
としての条件を満たしていたりするわけでもなく、かえって己れの心中の善性を完全に
見失わせての染悪を促すような邪曲の徒輩すらもが存在しているのである。
「人間の心中などに善とすべき拠り所などはない」とした上で、他力本願的な随順を促す
者こそはそれである。たとえ「随順の先に善の享受が実現される」などと吹いていた所で、
それも完全な偽りであり、偽りの善を本物の善であるかのように享受することを通じて、
本物の善への帰服をより困難なものにすらしてしまうものである。
本物の善は悪にとって都合の悪い存在である一方、偽善は悪にとってはむしろ自分たちの
活動を助長してくれる裏からの味方となる。本物の善は悪を一方的な懲らしめの対象とするが、
偽善は何だかんだと屁理屈を付けて悪の存続を許し、自らの美々しさに衆目を逸らさせる
ことでの悪の増進にすら加担する。だからこそ、悪逆非道を推し進めようとする者は、本物の
善の在りかである心を見失わせて、外的な偽善に溺れることを人々にけしかけもするのである。
人々に善性を見失わせて悪の増進を黙認させる偽善の化身として人類史上最大級であるのが、
他でもないイエス・キリストであり、そんなものが社会的に容認されている以上は、人々が
心中の善性に立ち返ることも、悪の増進を十分に抑制することも決して覚束なくなる。
心を蔑ろにする者は他のどんなものに頼るのであっても、善に与ることなどはできない。
もしも、自らの心のうちにある善性を省みることもできないような愚人が、他者に
すがることでの善の享受を試みるとしても、その相手であるべき人間というのは必ず、
信奉者たち自身に己れの善性への立ち返りを外的に促してやる人間であるべきなのである。
そうである人間こそは、人々の先導者たるにも値する聖賢であるわけで、架空の如来である
阿弥陀仏すらもが、その方便によって信者を己れの心中の善性に立ち返らせてくれるが故に、
その条件を満たしていたりするわけだけれども。当然、万事万物万人がそのような教導者
としての条件を満たしていたりするわけでもなく、かえって己れの心中の善性を完全に
見失わせての染悪を促すような邪曲の徒輩すらもが存在しているのである。
「人間の心中などに善とすべき拠り所などはない」とした上で、他力本願的な随順を促す
者こそはそれである。たとえ「随順の先に善の享受が実現される」などと吹いていた所で、
それも完全な偽りであり、偽りの善を本物の善であるかのように享受することを通じて、
本物の善への帰服をより困難なものにすらしてしまうものである。
本物の善は悪にとって都合の悪い存在である一方、偽善は悪にとってはむしろ自分たちの
活動を助長してくれる裏からの味方となる。本物の善は悪を一方的な懲らしめの対象とするが、
偽善は何だかんだと屁理屈を付けて悪の存続を許し、自らの美々しさに衆目を逸らさせる
ことでの悪の増進にすら加担する。だからこそ、悪逆非道を推し進めようとする者は、本物の
善の在りかである心を見失わせて、外的な偽善に溺れることを人々にけしかけもするのである。
人々に善性を見失わせて悪の増進を黙認させる偽善の化身として人類史上最大級であるのが、
他でもないイエス・キリストであり、そんなものが社会的に容認されている以上は、人々が
心中の善性に立ち返ることも、悪の増進を十分に抑制することも決して覚束なくなる。
イエキリ信仰なんぞが容認されてしまっている残念な世の中においても、自主的に勧善懲悪や
断悪修善を志す人間も多少は生じ得るにしろ、決して十分な権勢を擁するに至ることがなく、
故に世界規模での悪逆非道の過度の推進による人類の滅亡を防ぎ止めることもできはしない。
人類の滅亡を食い止められる程度に、総体規模での悪逆非道を抑制するためには必ず、
イエキリレベルの勧悪懲善の化身への信奉の根絶ぐらいは必須となる。己れの心中の
善性に立ち返っての勧善懲悪や断悪修善を推進すらすることは、もはや人類の繁栄
すらをもを企図する域であるわけで、それ以前に、人類を滅亡にすら追いやって
しまう程もの勧悪懲善の推進の予めからの途絶が必要となるわけである。
勧善懲悪や断悪修善が積極的に推進されていなければ、必ず人類が滅亡するなんてこともない。
善にも悪にもさほど積極的でない無為自然を基調とするのであってもそれなりの治世が
得られる、のみならず、乱世に善心を見失わされてしまった人々に対する癒しとしては
そのほうがより適切なものですらある。なればこそ、今のような最悪の乱世において
急に勧善懲悪や断悪修善を志していくよりは、まずは過度の悪逆非道を途絶して
無為自然の境地に至ることを本是ともすべきなのである。乱世は、何よりもまず、
悪が死んでいなくなることでこそ変わるべきなのである。
「人一たび之れを能くすれば己れは之れを百たびし、
人十たび之れを能くすれば己れは之れを千たびす。
果して此の道を能くすれば、愚と雖も必ず明なり、柔と雖も必ず強ならん」
「人が一度よく成し遂げたことを自分は百回成し遂げようとし、人が十回よく成し遂げたことを
自分は千回成し遂げる。果たしてこの道をやり通したなら、愚かといえども必ず明らかとなり、
柔弱といえども必ず剛強となるであろう。(まさに桁外れな自修作善への志しだといえる。
己れの心を頼りとする努力の人並みはずれた積み重ねによって、愚かさをも超越するのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二〇より)
断悪修善を志す人間も多少は生じ得るにしろ、決して十分な権勢を擁するに至ることがなく、
故に世界規模での悪逆非道の過度の推進による人類の滅亡を防ぎ止めることもできはしない。
人類の滅亡を食い止められる程度に、総体規模での悪逆非道を抑制するためには必ず、
イエキリレベルの勧悪懲善の化身への信奉の根絶ぐらいは必須となる。己れの心中の
善性に立ち返っての勧善懲悪や断悪修善を推進すらすることは、もはや人類の繁栄
すらをもを企図する域であるわけで、それ以前に、人類を滅亡にすら追いやって
しまう程もの勧悪懲善の推進の予めからの途絶が必要となるわけである。
勧善懲悪や断悪修善が積極的に推進されていなければ、必ず人類が滅亡するなんてこともない。
善にも悪にもさほど積極的でない無為自然を基調とするのであってもそれなりの治世が
得られる、のみならず、乱世に善心を見失わされてしまった人々に対する癒しとしては
そのほうがより適切なものですらある。なればこそ、今のような最悪の乱世において
急に勧善懲悪や断悪修善を志していくよりは、まずは過度の悪逆非道を途絶して
無為自然の境地に至ることを本是ともすべきなのである。乱世は、何よりもまず、
悪が死んでいなくなることでこそ変わるべきなのである。
「人一たび之れを能くすれば己れは之れを百たびし、
人十たび之れを能くすれば己れは之れを千たびす。
果して此の道を能くすれば、愚と雖も必ず明なり、柔と雖も必ず強ならん」
「人が一度よく成し遂げたことを自分は百回成し遂げようとし、人が十回よく成し遂げたことを
自分は千回成し遂げる。果たしてこの道をやり通したなら、愚かといえども必ず明らかとなり、
柔弱といえども必ず剛強となるであろう。(まさに桁外れな自修作善への志しだといえる。
己れの心を頼りとする努力の人並みはずれた積み重ねによって、愚かさをも超越するのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二〇より)
「章を含みて貞にす可し。或いは王事に従うも、成すこと无くして終わり有り」
「能力があっても貞節にしてひけらかさず、王事に従うようなことがあっても、
自分からは何も功を成そうとしないままに有終の美を飾る。(>>59の引用も参照)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・六三)
随順者たるもの、ただ従順であるだけでなく、消極的でもあるべきである。
自我を肥大化させて能動性の塊と化し、その能動性によってこそ何者かに強く随順する
などということがあってもならない。能動的であるべきなのは先導者たるものであり、
自らが先導者に付いて行くような立場であるのなら、自分はむしろ消極的であるべきなのだ。
赤穂浪士の討ち入り事件よろしく、「忠臣は二君に使えず」ということがよく言われるが、
これは、裏切りが戦略上からの問題扱いをされる「修羅道」での話である。そもそもが、
裏切りなどが問題視されることもない平時の王道統治下において、臣下が通常的に主君に
仕える場合などにおいて重視されるべきなのは、主君に対して積極的に過ぎないことである。
よく消極的で安静に主君に仕えることができればこそ、主君の過ちを見定めての慎重な諫言
なども可能となるのであり、服従に対して積極的に過ぎればそれも不可能となるのである。
そもそも、戦国期に諸国の平民でいる人間などが、自らの国を治める諸侯だ大名だが
成り代わったからといって「自分は今度の王様には従わない」などと主張することもない。
名君が滅ぼされて暴君が支配者に成り代わったりしたなら、「これで生活も苦しくなる」
などと落胆することはあるだろうし、最悪、生活苦が極まって逃散するようなこともあった
わけだけれども、それも別に支配者への忠義の有無などを理由としていることではない。
「能力があっても貞節にしてひけらかさず、王事に従うようなことがあっても、
自分からは何も功を成そうとしないままに有終の美を飾る。(>>59の引用も参照)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・六三)
随順者たるもの、ただ従順であるだけでなく、消極的でもあるべきである。
自我を肥大化させて能動性の塊と化し、その能動性によってこそ何者かに強く随順する
などということがあってもならない。能動的であるべきなのは先導者たるものであり、
自らが先導者に付いて行くような立場であるのなら、自分はむしろ消極的であるべきなのだ。
赤穂浪士の討ち入り事件よろしく、「忠臣は二君に使えず」ということがよく言われるが、
これは、裏切りが戦略上からの問題扱いをされる「修羅道」での話である。そもそもが、
裏切りなどが問題視されることもない平時の王道統治下において、臣下が通常的に主君に
仕える場合などにおいて重視されるべきなのは、主君に対して積極的に過ぎないことである。
よく消極的で安静に主君に仕えることができればこそ、主君の過ちを見定めての慎重な諫言
なども可能となるのであり、服従に対して積極的に過ぎればそれも不可能となるのである。
そもそも、戦国期に諸国の平民でいる人間などが、自らの国を治める諸侯だ大名だが
成り代わったからといって「自分は今度の王様には従わない」などと主張することもない。
名君が滅ぼされて暴君が支配者に成り代わったりしたなら、「これで生活も苦しくなる」
などと落胆することはあるだろうし、最悪、生活苦が極まって逃散するようなこともあった
わけだけれども、それも別に支配者への忠義の有無などを理由としていることではない。
平時の君臣関係でもなければ、官民の主従関係でもない、兵事を介する君臣関係に限って
「忠臣は二君に仕えず」ということがある。人間関係が実際にそのような条件を満たしている
場合にはそれも守るべきであるが、そうでもないのに無闇にそうしたりするのもよくない。
誰に仕える、仕えないなどということを臣従者の側が無闇に選り好みしたりするようなら、
それこそが争いごとの原因にすらなってしまいかねないのだから、大概にすべきだといえる。
誰かに強く随順しようとすることは、特に不貞な婦女子などに特徴的な性向だといえる。
相手に対して男ばりの求愛や求婚を迫っておいて、結婚するや自分のほうが夫の主人であるか
のようなでかい顔をし始める。近頃ではありきたりな夫婦関係こそがまさにそれであり、
夫婦間だけでそのような問題を払拭するのはほとんど不可能に等しいことだといえる。
実際の世の中においても、古くから有力者が食客やフラタニティ構成員を囲い込んで私的に
用いるということが悪癖として横行して来ている。主人となる者は食客となる者を最高級に礼遇し、
自分とも同格の扱いにすら処してやった上で、不正を働くための死兵要員に用いたりする。
正規の君臣関係などでは到底通らないような暴挙を委任するためにこそそのような手段が用いられる
のであり、そこにも「服従者の側こそが積極性を過剰化させる」という不健全性が伴っているのである。
不貞な女や食客要員がもたらす家庭的、社会的不健全さを撃退して行くためにも、正規の君臣関係や
父子関係こそをよく尊んで健全化させて行くことが必要となる。両者の主従関係を、夫婦関係や雑多な
社会関係よりもよく重んじて、なおかつ臣下や子たるものが、主君や親に対して消極的かつ従順なあり方を
守っていく。婦女子や食客などが自分たちからそのようなあり方を実現していくのはほとんど不可能に
等しいから(もちろん食客は始めから存在すべきでもない)、人の子供や臣下たる男こそは、模範的な
忠臣や孝子たることで、自らに仕える妻たる女などにも、そのようなあり方を見習わせるべきなのである。
「忠臣は二君に仕えず」ということがある。人間関係が実際にそのような条件を満たしている
場合にはそれも守るべきであるが、そうでもないのに無闇にそうしたりするのもよくない。
誰に仕える、仕えないなどということを臣従者の側が無闇に選り好みしたりするようなら、
それこそが争いごとの原因にすらなってしまいかねないのだから、大概にすべきだといえる。
誰かに強く随順しようとすることは、特に不貞な婦女子などに特徴的な性向だといえる。
相手に対して男ばりの求愛や求婚を迫っておいて、結婚するや自分のほうが夫の主人であるか
のようなでかい顔をし始める。近頃ではありきたりな夫婦関係こそがまさにそれであり、
夫婦間だけでそのような問題を払拭するのはほとんど不可能に等しいことだといえる。
実際の世の中においても、古くから有力者が食客やフラタニティ構成員を囲い込んで私的に
用いるということが悪癖として横行して来ている。主人となる者は食客となる者を最高級に礼遇し、
自分とも同格の扱いにすら処してやった上で、不正を働くための死兵要員に用いたりする。
正規の君臣関係などでは到底通らないような暴挙を委任するためにこそそのような手段が用いられる
のであり、そこにも「服従者の側こそが積極性を過剰化させる」という不健全性が伴っているのである。
不貞な女や食客要員がもたらす家庭的、社会的不健全さを撃退して行くためにも、正規の君臣関係や
父子関係こそをよく尊んで健全化させて行くことが必要となる。両者の主従関係を、夫婦関係や雑多な
社会関係よりもよく重んじて、なおかつ臣下や子たるものが、主君や親に対して消極的かつ従順なあり方を
守っていく。婦女子や食客などが自分たちからそのようなあり方を実現していくのはほとんど不可能に
等しいから(もちろん食客は始めから存在すべきでもない)、人の子供や臣下たる男こそは、模範的な
忠臣や孝子たることで、自らに仕える妻たる女などにも、そのようなあり方を見習わせるべきなのである。
「君子の役にゆくや、其の期を知らず、曷か至らんかな。鶏は塒に棲まり、
日は夕れて、羊牛も来たらん。君子役にゆくに、之れ如何か思う勿らん」
「君子の役目に赴かれるお姿たるや、その期限も知れません。いつかは帰って来て欲しいもの。
鶏もねぐらに帰り、日が暮れて羊や牛も畜舎に帰ってくるというのに、君子にはその保証もありません。
(君子が牧獣並みの行動規範でいていいはずもない。自らの生活を蔑ろにするぐらいの覚悟が必要だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・君子于役より)
日は夕れて、羊牛も来たらん。君子役にゆくに、之れ如何か思う勿らん」
「君子の役目に赴かれるお姿たるや、その期限も知れません。いつかは帰って来て欲しいもの。
鶏もねぐらに帰り、日が暮れて羊や牛も畜舎に帰ってくるというのに、君子にはその保証もありません。
(君子が牧獣並みの行動規範でいていいはずもない。自らの生活を蔑ろにするぐらいの覚悟が必要だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・君子于役より)

女子供はみなそうなりやすいものだし、大人の男といえども小人止まりであればそうなってしまう。
これらの人間を合計すれば世の中の多数派にもなってしまうから、やもすれば、世の中というのは、
畜生級の品性の持ち主こそは大多数を占めるようにすらなってしまいかねないのである。
「畜生レベルの人間でいられることこそは自由の証し」ということで、自由主義の名の下に畜人
ばかりで世の中が塗り固められることとなったのが、孔子没後約2500年に当たる今という時代である。
漢唐時代の中国や平安江戸時代の日本などが、儒学道徳を規範として世界最大かつ最高級の栄華を
誇ったのも今は昔で、そもそも儒学道徳などを通じて、世の中の大多数の人々が畜生級の品性から
脱却できるという事実関係すらもがほとんど忘れ去られてからすでに久しいものである。昔の日本や
中国の文化を慕う人といえども、ただ「いい時代だった」という風に思うぐらいのもので、当時にこそ
近現代にはない、総体面からの人々の品性の向上が図られていたことにまでは考えが及ぶこともない。
かつての日本や中国では、畜生級の品性に陥りがちな女子供や小人男すらをも、君子たる男が
教導してそれなりの品性たらしめてやっていたのが、今では逆に、誰しもが畜生級の品性に陥って
それでよしとされ、そうなりやすい女子供や小人男こそは尊ばれて、本当は君子たり得るような
男こそは逆に卑しめられているような状態にある。そこまで世の中の大局が逆転してしまえば、
もはや今と逆の状態など誰も想像も付かない。今の道徳喪失著しい中国社会などを見てみれば、
誰も落し物一つ横取りしなかったという前漢の文帝期の中国の世相なども想像すら付きはしない。
想像が付かないものだから、底が見えない程にも深い海を見たときなどに抱くような恐怖をも抱く。
明らかにそれがいいものであったとしても、ただ未知なるものであるというだけで恐怖の対象となる。
特に、現状に満足することこそは全てである畜生級の品性のさ中にあればこそ、恐怖も一しおとなる。
「論考上の不確定要素は容赦なく切り捨てる」という「オッカムの剃刀」が一つの論理志向として
提唱されたのも、神に帰依する畜人こそは道徳的存在であるとする聖書圏においてでこそあった。
畜人的存在といい、オッカムの剃刀的論理といい、古今東西を問わず存在し得るし、また想定し得る
ものである。ただ、儒学や仏教が振興された東洋社会などではそのような事物が「非理想的存在」
として冷徹に卑しまれていた一方で、聖書信仰や洋学に支配された西洋社会ではそのような
事物こそが「理想的存在」として尊ばれすらして来たという点のみが異なるのである。
畜生級の品性に陥りきって一切の不確定要素を排除し、二度とそこから出てこようともしないとは、
まさに弘法大師が「十住心論」で最低級の住心として提示された異生羝羊心そのものであるといえる。
そういうものはどこにでも存在し得るからこそ、極東社会でもそういった存在が示唆されていた
のであり、同時にそのような存在を十分に卑しめていたからこそ、十個あるうちの
最低級の一つに過ぎない程度のもの扱いに処することができてもいたのである。
聖書信仰や洋学といえども、この世の中に遍在するものを取り扱っているに過ぎないのである。
それは別の教学によってより適切に扱われていたりもするわけで、本来なら卑しみの対象とすらすべき
ものを尊崇の対象にすらしてしまったものだから破滅的な結末をも招いたというだけのことである。
自分たちにこそ独自の新たな発見があったればこその結果などではないのだと知らねばならない。
「誕に后稷の穡するや、相くるの道有り。厥の豊草を茀い、種れに黄茂なるを種う。実に方し実に苞み、
実に種え実に褎び、実に發け実に秀で、実に堅く実に好しく、実に穎じ実に栗れば、即ち家室を台う有り」
「(農業の神である)后稷は、人々に(ただ恵むのではなく)自給自足の助けをしてやった。土地の雑草を
払って黄色く実る穀物の種を植えさせた。種は芽生えて生い茂り、よく伸び育って秀で、着実に実ることで、
それぞれの家を養う基いとさせた。(ただ与えるのではなく、自給自足の助けこそが道徳的でもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・生民之什・生民より)
提唱されたのも、神に帰依する畜人こそは道徳的存在であるとする聖書圏においてでこそあった。
畜人的存在といい、オッカムの剃刀的論理といい、古今東西を問わず存在し得るし、また想定し得る
ものである。ただ、儒学や仏教が振興された東洋社会などではそのような事物が「非理想的存在」
として冷徹に卑しまれていた一方で、聖書信仰や洋学に支配された西洋社会ではそのような
事物こそが「理想的存在」として尊ばれすらして来たという点のみが異なるのである。
畜生級の品性に陥りきって一切の不確定要素を排除し、二度とそこから出てこようともしないとは、
まさに弘法大師が「十住心論」で最低級の住心として提示された異生羝羊心そのものであるといえる。
そういうものはどこにでも存在し得るからこそ、極東社会でもそういった存在が示唆されていた
のであり、同時にそのような存在を十分に卑しめていたからこそ、十個あるうちの
最低級の一つに過ぎない程度のもの扱いに処することができてもいたのである。
聖書信仰や洋学といえども、この世の中に遍在するものを取り扱っているに過ぎないのである。
それは別の教学によってより適切に扱われていたりもするわけで、本来なら卑しみの対象とすらすべき
ものを尊崇の対象にすらしてしまったものだから破滅的な結末をも招いたというだけのことである。
自分たちにこそ独自の新たな発見があったればこその結果などではないのだと知らねばならない。
「誕に后稷の穡するや、相くるの道有り。厥の豊草を茀い、種れに黄茂なるを種う。実に方し実に苞み、
実に種え実に褎び、実に發け実に秀で、実に堅く実に好しく、実に穎じ実に栗れば、即ち家室を台う有り」
「(農業の神である)后稷は、人々に(ただ恵むのではなく)自給自足の助けをしてやった。土地の雑草を
払って黄色く実る穀物の種を植えさせた。種は芽生えて生い茂り、よく伸び育って秀で、着実に実ることで、
それぞれの家を養う基いとさせた。(ただ与えるのではなく、自給自足の助けこそが道徳的でもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・生民之什・生民より)
結局、自然状態では、特定の道などをあえて歩もうなどともしないのが人間の常である。
孟子の言うような仁徳の大道をあえて歩もうなどともしなければ、イエスのほざく
ような重権力犯罪の小道をあえて歩もうなどともしないのがごく普通の状態であり、
だからといって破滅に陥ることもなければ、繁栄に与れるようなこともないものである。
それでいて、あえて歩もうともしないままに歩んでいる道というものがあり、それが
時には大道であったり小道であったり、天道だったり畜生道だったりするのである。
世の中が治世であれば自然と優良な道を歩んでいたりするし、乱世であれば自然と
劣悪な道を歩んでいたりする。資本主義国の株式会社に勤めるだけで多少なりとも
貧困国での餓死を増長させてしまっていたりするのも、概ねは後者の理由によるのであり、
故意に穀物価格を吊り上げて貧困国などに行き渡らせないようにしている確信犯ほどでも
ない限りは、何らの悪意もないままに人の命すらをも奪う罪を重ねていたりするのである。
特定の道を歩もうなどとしているわけでもない人間にまで鬼畜道を歩ませてしまった
責任は当然、当世の支配者こそが最大級に負って行き、過失の従犯となってしまった人々は、
最悪でも交通刑務所での短期服役程度の処置を受けるのみである。ということはつまり、
行動即犯罪状態の最悪の乱世においては、特定の道などをあえて歩もうなどともしないほうが
マシだったりもし得るということであり、それはまさに「成すことなくして終わりあり」
という「易経」坤・六三の言葉が正当たり得る場合がある確かな根拠ともなっている。
無為自然第一な道家的見地からすれば、人間は積極的な求道者などではないほうが
より好ましいといえる。もう少し分別を利かした儒家や仏家の見地に即するなら、善道の
求道者であるのは求道者でないよりもよいが、悪道の求道者であるよりは求道者などで
ないほうがマシであるといえる。いずれにしろ、「求道者であること即ち偉い」などと
いう結論にだけは至らないわけで、これだけはあらゆる正統な教学が認めない所だといえる。
孟子の言うような仁徳の大道をあえて歩もうなどともしなければ、イエスのほざく
ような重権力犯罪の小道をあえて歩もうなどともしないのがごく普通の状態であり、
だからといって破滅に陥ることもなければ、繁栄に与れるようなこともないものである。
それでいて、あえて歩もうともしないままに歩んでいる道というものがあり、それが
時には大道であったり小道であったり、天道だったり畜生道だったりするのである。
世の中が治世であれば自然と優良な道を歩んでいたりするし、乱世であれば自然と
劣悪な道を歩んでいたりする。資本主義国の株式会社に勤めるだけで多少なりとも
貧困国での餓死を増長させてしまっていたりするのも、概ねは後者の理由によるのであり、
故意に穀物価格を吊り上げて貧困国などに行き渡らせないようにしている確信犯ほどでも
ない限りは、何らの悪意もないままに人の命すらをも奪う罪を重ねていたりするのである。
特定の道を歩もうなどとしているわけでもない人間にまで鬼畜道を歩ませてしまった
責任は当然、当世の支配者こそが最大級に負って行き、過失の従犯となってしまった人々は、
最悪でも交通刑務所での短期服役程度の処置を受けるのみである。ということはつまり、
行動即犯罪状態の最悪の乱世においては、特定の道などをあえて歩もうなどともしないほうが
マシだったりもし得るということであり、それはまさに「成すことなくして終わりあり」
という「易経」坤・六三の言葉が正当たり得る場合がある確かな根拠ともなっている。
無為自然第一な道家的見地からすれば、人間は積極的な求道者などではないほうが
より好ましいといえる。もう少し分別を利かした儒家や仏家の見地に即するなら、善道の
求道者であるのは求道者でないよりもよいが、悪道の求道者であるよりは求道者などで
ないほうがマシであるといえる。いずれにしろ、「求道者であること即ち偉い」などと
いう結論にだけは至らないわけで、これだけはあらゆる正統な教学が認めない所だといえる。
それでいて、「求道者であること即ち偉い」というような考え方が今の世の中などでも
それなりに認められてしまっている。それはやはり「信教の自由」などが認められてしまって
いるからでもある。何らかの思想信条を持ってそこにまい進していくことはそれだけでも偉い
ことだとされているから、あらゆる正学正教が認めることのない考え方までもが通っている。
しかれば、「信教の自由」というものもまた、正統な教学に即して是とできるものではない
のだといえる。信教の自由などが認められてしまっている以上は、求道者の無条件な礼賛にも
繋がってしまうから、それを非とする正学に即して信教の自由などを認めることもできないのである。
正統な学問や信教こそは、求道が求道だからといって是とされるようなことをよしとしたりも
しないわけだから、正学や正教こそはそんなに目だって求道的でもなかったりするのである。
厳しい修行に励む聖道門の仏門こそは山中に寺を構えて修行する姿を衆目から逸らしたりする。
それでいて無戒律の浄土門は行いが全く求道的でなかったりするから、仏門自体、見てくれの
敬虔さばかりを作り込む類いの他信教などと比べて「なってない」扱いをされたりもするが、
そんなことはない、むしろあからさまに求道的すぎたりしない所こそは教育的要素でもある。
求道ばかりにめくら滅法でもない所にこそある正道にこそ、まずは立ち返るべきなのだから。
「踧踧たる周道も、鞫がりて茂草となる。我が心憂傷し、惄焉として擣めるが如し。
仮寐して永嘆し、維れ憂えて用て老ゆ。心の憂えるや、疢くして首を疾ましむが如し」
「かつては広く大きく整備されていた周朝の道(これは実物の道路と理念としての道両方を
意味している)も、塞がって雑草の茂る狭い道と化してしまっている。そのせいで我が心も痛み、
まるんで腹の底から病んでいるかのようだ。寝ても覚めてもずっと嘆くばかりで、このまま老い
さらばえんかの如く。心からの憂いは炎症となって頭を痛めるようだ。(狭い道では所詮万人を
導くことができないから、良識あるこの詩の作者は善道が狭まっていることから嘆いたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小弁より)
それなりに認められてしまっている。それはやはり「信教の自由」などが認められてしまって
いるからでもある。何らかの思想信条を持ってそこにまい進していくことはそれだけでも偉い
ことだとされているから、あらゆる正学正教が認めることのない考え方までもが通っている。
しかれば、「信教の自由」というものもまた、正統な教学に即して是とできるものではない
のだといえる。信教の自由などが認められてしまっている以上は、求道者の無条件な礼賛にも
繋がってしまうから、それを非とする正学に即して信教の自由などを認めることもできないのである。
正統な学問や信教こそは、求道が求道だからといって是とされるようなことをよしとしたりも
しないわけだから、正学や正教こそはそんなに目だって求道的でもなかったりするのである。
厳しい修行に励む聖道門の仏門こそは山中に寺を構えて修行する姿を衆目から逸らしたりする。
それでいて無戒律の浄土門は行いが全く求道的でなかったりするから、仏門自体、見てくれの
敬虔さばかりを作り込む類いの他信教などと比べて「なってない」扱いをされたりもするが、
そんなことはない、むしろあからさまに求道的すぎたりしない所こそは教育的要素でもある。
求道ばかりにめくら滅法でもない所にこそある正道にこそ、まずは立ち返るべきなのだから。
「踧踧たる周道も、鞫がりて茂草となる。我が心憂傷し、惄焉として擣めるが如し。
仮寐して永嘆し、維れ憂えて用て老ゆ。心の憂えるや、疢くして首を疾ましむが如し」
「かつては広く大きく整備されていた周朝の道(これは実物の道路と理念としての道両方を
意味している)も、塞がって雑草の茂る狭い道と化してしまっている。そのせいで我が心も痛み、
まるんで腹の底から病んでいるかのようだ。寝ても覚めてもずっと嘆くばかりで、このまま老い
さらばえんかの如く。心からの憂いは炎症となって頭を痛めるようだ。(狭い道では所詮万人を
導くことができないから、良識あるこの詩の作者は善道が狭まっていることから嘆いたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小弁より)

幕営で知謀を巡らす将校ならともかく、先陣を切って敵に突っ込んで行く兵士などには勇墳こそが第一である。
武技を繰り出す瞬間などには、もはや心に省みることもない無念無想の境地であったほうがよい。
仁政を敷くために、しごく穏健な手段で無血なままに各地の城を攻め落としていった高祖劉邦のような偉人もいる。
結局、どんなに聞こえのいい言葉であっても、適切な場合わけを欠く以上はいくらでも例外を想定できる。
なおかつ、その例外こそは堂に入った正当性をも帯びていて、単なる揚げ足取りの域に止まっていなかったりする。
だからこそ、どんなに字面でよさげな言葉を吐いたりするよりも、まずは場合わけをよく尽くすこと、
特に、自分自身の身の程をわきまえた分相応の言葉のみを述べることのほうが大事なのである。
場合わけをちゃんと尽くしすらすればいい結果をも招くにもかかわらず、場合わけを欠いたせいで
破滅的な事態を招いた事例に「日の丸の濫用」がある。日の丸自体は、古くから武将の旗印や軍扇模様
などとして好んで用いられて来たものである。ただ、日の丸には「戦意の鼓舞」という明確な利用目的が
伴っていたものだから、常日頃からどこでも用いることなどは避けられていたのである。それが明治以降、
島津斉彬の発案で日章旗が日本の国旗として正式に採用されることとなり、時と場合とを選ばすどこでも日の丸が
掲げられるようになった。それにより日本人も潜在面からの戦意を増長させていって、挙句には太東亜戦争での
兵站無視な特攻玉砕といった無鉄砲な戦いにすら及ばせていって、それが原因での敗戦にすら見舞わせたのだった。
(戦国時代に日の丸を旗印として用いていた武田軍や石田三成も、好戦主義が過ぎて最終勝利には至れなかった)
場合わけを無視してまで用いたい美しい言葉だとか、立派な記号だとかは概念上にはいくらでもあるものである。
しかし、それをめくら滅法に現実で用いたからといっていい結果を招くわむでもない。それは、この世界この宇宙が
「諸法実相」の真理にこそ司られているからで、実相ありのままこそを最大級に尊ぶことと比べれば、概念上の
理想などを人工的に現実化させて行くことなどのほうが、どうしても最善の結果には至らないからである。
日の丸に関して言えば、戦意を鼓舞したり武運長久を願ったりすべき時に限って用いるという場合わけを尽くせば、
かえって最盛期の武田軍のような強大さにすら繋がるものである。それは要するに、よろしき理念を実相に即して
適正利用するからこその福果の獲得なのであり、理念自体はそういった形での善用も可能なのである。
四書五経の言葉なども、特に穏健なものが多いが、それも治世を実現するための仁政の実践目的に特化された
ものだからである。最悪の乱世の只中から頑なにそのようなあり方ばかりでいようとすればバカを見ることにも
なりかねないから、経書とは相反するような教えをも多々含む兵法などをも兼修するようにしたほうがよい。
そういうことがあるものだから、絶対的な金科玉条にしていいような特定の言葉などというものもないのだといえる。
絶対的な金科玉条にさせようなどとする言葉こそは、人々に何らかの過ちを犯させる言葉に違いないのである。
「彼れ何人ぞや、河の麋りに居て。拳無く勇無くして、職に乱階を為す。
既に微にして且つ尰なる、爾じの勇や伊れ何に。猶を為すや将た多く、爾じが居る徒は幾何なる」
「川のほとり(危うい場所の喩え)にいるあいつは何者だ。力も勇気もないままに、世を乱す。
(危うい)水際ばかりにいるものだからその足もふやけて腫れている、おまえの勇気はどこにある。
陰湿な悪巧みばかりを為しているが、おまえの仲間は何人いるのやら。(勇無きが陰謀に繋がる悪例の提示)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
しかし、それをめくら滅法に現実で用いたからといっていい結果を招くわむでもない。それは、この世界この宇宙が
「諸法実相」の真理にこそ司られているからで、実相ありのままこそを最大級に尊ぶことと比べれば、概念上の
理想などを人工的に現実化させて行くことなどのほうが、どうしても最善の結果には至らないからである。
日の丸に関して言えば、戦意を鼓舞したり武運長久を願ったりすべき時に限って用いるという場合わけを尽くせば、
かえって最盛期の武田軍のような強大さにすら繋がるものである。それは要するに、よろしき理念を実相に即して
適正利用するからこその福果の獲得なのであり、理念自体はそういった形での善用も可能なのである。
四書五経の言葉なども、特に穏健なものが多いが、それも治世を実現するための仁政の実践目的に特化された
ものだからである。最悪の乱世の只中から頑なにそのようなあり方ばかりでいようとすればバカを見ることにも
なりかねないから、経書とは相反するような教えをも多々含む兵法などをも兼修するようにしたほうがよい。
そういうことがあるものだから、絶対的な金科玉条にしていいような特定の言葉などというものもないのだといえる。
絶対的な金科玉条にさせようなどとする言葉こそは、人々に何らかの過ちを犯させる言葉に違いないのである。
「彼れ何人ぞや、河の麋りに居て。拳無く勇無くして、職に乱階を為す。
既に微にして且つ尰なる、爾じの勇や伊れ何に。猶を為すや将た多く、爾じが居る徒は幾何なる」
「川のほとり(危うい場所の喩え)にいるあいつは何者だ。力も勇気もないままに、世を乱す。
(危うい)水際ばかりにいるものだからその足もふやけて腫れている、おまえの勇気はどこにある。
陰湿な悪巧みばかりを為しているが、おまえの仲間は何人いるのやら。(勇無きが陰謀に繋がる悪例の提示)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
この世には善悪があり、最善を尽くすということも最悪の限りを尽くすということも
それなりに可能である。だからこそ、いずれかの道を尽くした場合に、
一定の必然性に即してことが運ばれて行っているように感じられたりもする。
しかしそれは、別に神の采配だなんだがあるからではなく、この世に遍在する
善悪の普遍的基準が自然とそうさせるものである。超俗的な観点からいえば
世の中が虚妄であるが故に善悪も虚妄であり、世の中でことを穏便に運んでいった
結果として絶対的な必然性が伴っているように思えることもまた一つの虚妄だといえる。
本質的には虚妄であるともわきまえられながら、この世の中に遍在する必然性をも
それなりのものとして認められるものこそは、必然性に惑わされないでいることができる。
感傷的に翻弄されたりもすることがないからこそ、最善を尽くす道と最悪を尽くす道とをよく
分別して、後者を除けて前者のみを歩んで行く所にある必然性をも的確に享受することができる。
必然性が必然的だからといって惑わされている人間などにそれは不可能であり、必然的な法則全般を
ウレシがっていた結果として、より歩みやすい悪を尽くす道のほうにばかり陥ってしまうのである。
故に、善悪だとか、それに基づく世の中の必然性だとかを、超俗的な観点から諦観しておくことが
善良なこととして奨められるのである。いま日本で最大級の政商利権を形作っている旧長宗我部勢
なぞも、戦国期には四国中の寺院を破壊し回って不興を買ってもいたわけで、世の内側で悪の法則に
溺れたがっていたがるような連中にとってこそ、超俗からの世俗法則の諦観などは都合が悪いのである。
世俗での究極悪が「政商」であることはすでに実証的にも述べてきたことだが、この世における
悪の法則を避けて善の法則に与ろうとする者ならば、自らが政商と化すことぐらいは避けるものだ。
しかし、そのような志向性を持たないままに、この世が一定の法則性に司られていること全般を
ウレシがっているようならば、より大きな威力を奮える手段としての政商にすら手を出しかねない。
それなりに可能である。だからこそ、いずれかの道を尽くした場合に、
一定の必然性に即してことが運ばれて行っているように感じられたりもする。
しかしそれは、別に神の采配だなんだがあるからではなく、この世に遍在する
善悪の普遍的基準が自然とそうさせるものである。超俗的な観点からいえば
世の中が虚妄であるが故に善悪も虚妄であり、世の中でことを穏便に運んでいった
結果として絶対的な必然性が伴っているように思えることもまた一つの虚妄だといえる。
本質的には虚妄であるともわきまえられながら、この世の中に遍在する必然性をも
それなりのものとして認められるものこそは、必然性に惑わされないでいることができる。
感傷的に翻弄されたりもすることがないからこそ、最善を尽くす道と最悪を尽くす道とをよく
分別して、後者を除けて前者のみを歩んで行く所にある必然性をも的確に享受することができる。
必然性が必然的だからといって惑わされている人間などにそれは不可能であり、必然的な法則全般を
ウレシがっていた結果として、より歩みやすい悪を尽くす道のほうにばかり陥ってしまうのである。
故に、善悪だとか、それに基づく世の中の必然性だとかを、超俗的な観点から諦観しておくことが
善良なこととして奨められるのである。いま日本で最大級の政商利権を形作っている旧長宗我部勢
なぞも、戦国期には四国中の寺院を破壊し回って不興を買ってもいたわけで、世の内側で悪の法則に
溺れたがっていたがるような連中にとってこそ、超俗からの世俗法則の諦観などは都合が悪いのである。
世俗での究極悪が「政商」であることはすでに実証的にも述べてきたことだが、この世における
悪の法則を避けて善の法則に与ろうとする者ならば、自らが政商と化すことぐらいは避けるものだ。
しかし、そのような志向性を持たないままに、この世が一定の法則性に司られていること全般を
ウレシがっているようならば、より大きな威力を奮える手段としての政商にすら手を出しかねない。
政商にまつわる上記のような実例一つを見ても、この世における必然性が一つばかりではないことが
分かる。自らが政商とまで化すか、政商にまではならないか、最低でもこの二つぐらいの道は拓けて
いて、前者を採れば地獄のような末路に見舞われる一方、後者でいれば最悪の難ぐらいは免れられる。
だからこそ、この世の法則性全般をウレシがるような神経はできる限り排しておくべきだといえる。
「中庸」二〇章にある「国家規模の事業は万全の準備が整ってから実行に移せ」という忠告も、
当然勧善懲悪や断悪修善にかけての準備が万端となることを意味している。最善を尽くすところにも
必然性が存在するから、その機が熟すということも実際にあり得るわけだが、善の法則だけでなく
悪の法則にもかかずらわって、政商との癒着に踏ん切りが付けられないでいたりしたならば、
勧善懲悪の国家事業を実行に移すことができる機会なども永遠にやって来はしないのである。
この世に遍在する法則性を、さらに勧善懲悪や断悪修善に限って享受して行く。これこそは仁政の
指針であり、特に限らないのが無為自然の統治であり、悪逆非道の法則こそを享受して行くのが
破滅への一本道である。政商の横行ぐらいはないようにしておけば、前二つのみでいられるものだ。
「孟子、梁の襄王に見ゆ。出でて人に語りて曰く、之れを望むに人君に似ず、
之れに就いて畏るる所を見ず。卒然と問うて曰く、天下悪くにか定まらんと」
「孟先生は梁国の襄王と会見されたが、退出されてから人にこう言われた。『(どうも、あの王様は
主君たるに相応しい人間ではないようだ。)遠くから見ても主君らしいところがなく、近くにいても
畏怖できるような所がなかった。初対面でも始めから私に〈天下はどう定まるのでしょうか〉
などと聞いてきたのだから』(運命を全て丸投げする者などは人の上に立つ器ではない。
しかもそのような薄弱さこそは、自業自得で乱世を招く原因ともなってしまう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・六より)
分かる。自らが政商とまで化すか、政商にまではならないか、最低でもこの二つぐらいの道は拓けて
いて、前者を採れば地獄のような末路に見舞われる一方、後者でいれば最悪の難ぐらいは免れられる。
だからこそ、この世の法則性全般をウレシがるような神経はできる限り排しておくべきだといえる。
「中庸」二〇章にある「国家規模の事業は万全の準備が整ってから実行に移せ」という忠告も、
当然勧善懲悪や断悪修善にかけての準備が万端となることを意味している。最善を尽くすところにも
必然性が存在するから、その機が熟すということも実際にあり得るわけだが、善の法則だけでなく
悪の法則にもかかずらわって、政商との癒着に踏ん切りが付けられないでいたりしたならば、
勧善懲悪の国家事業を実行に移すことができる機会なども永遠にやって来はしないのである。
この世に遍在する法則性を、さらに勧善懲悪や断悪修善に限って享受して行く。これこそは仁政の
指針であり、特に限らないのが無為自然の統治であり、悪逆非道の法則こそを享受して行くのが
破滅への一本道である。政商の横行ぐらいはないようにしておけば、前二つのみでいられるものだ。
「孟子、梁の襄王に見ゆ。出でて人に語りて曰く、之れを望むに人君に似ず、
之れに就いて畏るる所を見ず。卒然と問うて曰く、天下悪くにか定まらんと」
「孟先生は梁国の襄王と会見されたが、退出されてから人にこう言われた。『(どうも、あの王様は
主君たるに相応しい人間ではないようだ。)遠くから見ても主君らしいところがなく、近くにいても
畏怖できるような所がなかった。初対面でも始めから私に〈天下はどう定まるのでしょうか〉
などと聞いてきたのだから』(運命を全て丸投げする者などは人の上に立つ器ではない。
しかもそのような薄弱さこそは、自業自得で乱世を招く原因ともなってしまう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・六より)

世間においてはあざなわれた縄の如く入り組んでいるからで、実際に
禍を除けて福を招くための勧善懲悪や断悪修善を講ずることもまた、
あざなえる縄を適切に扱っていくがごとき絶妙さを必要とするものである。
縄もらせん状などに編み込まれているからには、それを取り扱うものもまた
螺旋のような絶妙な手際を必要とするものである。天下万人を利せんがために
君臣父子夫婦の序列を正したりすることもそのような絶妙さに即しているのであり、
気に入った相手に一方的に恵みを与えてやることなどと比べればその意義も分かりにくい
ものでもある。しかし、君父の尊位の確立こそは着実な福果を自他にもたらすことができる一方、
隣人への恵みなどは、少数部落の我田引水としてより大きな禍いを招く原因にすらなってしまう。
だからこそ、勧善懲悪や断悪修善を分かりやすさばかりで割り切れることもないのだといえる。
この世において積極的に勧善懲悪や断悪修善を実践して行くことは、易の卦でいえば
「乾」のような男性性をも象徴する事態に相当するものである。しかし、男らしい積極性が
隣人への恵みみたいな単細胞な実践ばかりに移されたのでは、真の勧善懲悪たり得もしない。
男らしいということは単純でもあるということ、思慮深かったりするのは女々しいことであると、
西洋文化や田舎武士の風習が持て囃されている現状では思い込まれてしまっていたりもするが、
いくら積極的であっても、それが隣人愛みたいな勧善懲悪たり得ない実践に落とし込まれた以上は、
かえって自分たちばかりが肥え太るような、男らしくも何ともない結果を招くことになってしまう。
世間での着実な勧善懲悪によって大いなる福を招くことができたなら、それこそは真の男の偉業たり得
もするのであり、そのためには、思慮深さによって着実な仁政を講じていくこともまた必要である。故に、
男らしさが単純さと不可分なものばかりであっていいはずもない。そういう評価基準に即してはかえって
男らしくないとすらとれるような男こそは、真の男たり得る可能性すらをも秘めているのだと知らねばならぬ。
思慮深さをも持ち合わせた男であればこそ、妄りに険を犯したりもしないように務める。
殿軍(しんがり)といえば、総軍が退却する際に最後尾で追っ手を撃退する役割を担うものであり、
それを務めることが非常な危険を伴う上に、殿軍に頼らざるを得なくなるような事態をなるべく
招かないようにするのが兵法上の定石でもあるといえる。それでいて、斉軍に敗れた魯軍のしんがりを
務めた大夫の孟之反は、無事役目を果たして最後に自国の城門をくぐった時に「あえて遅れたのではない、
馬がなかなか進まなかったのだ(雍也第六・一五)」と虚偽の弁解して人々を安心させようとしたのだった。
なるべくなら頼るべきでないしんがりという存在に頼りきってしまった人々の後ろめたさをやわらげて
やるために、あえて自分から進んでしんがりを務めたわけでもないという風に述べてもいたのだった。
ただ功を妄りに誇らないというばかりではない。人々への入念な配慮をも利かし、時にはウソすらをも
方便として用いる、それほどもの機転を利かせられるものこそは、単細胞な男以上にも男らしい存在
たり得もする。治世における仁政でも、乱世における臨戦でも、それなりの男の見せようというものがあり、
むしろ手段自体は男らしいとも言えない先にこそ、より男らしいといえる功業を挙げたりもするのである。
「衛の公孟彄曹を伐ち、郊に克つ。還るに、滑羅殿す。未だ出でずに、列を退かず。其の御曰く、
殿に而て列に在るは、其れ勇無きと為さんか。羅曰く、其の素﨤に与らんよりは、寧ろ勇無きと為さん」
「衛軍の公孟彄が曹軍を討ち、郊という村で勝利を収めた。帰還する際に滑羅がしんがりを
務めたが、まだ曹の国境を出もしないうちから本隊に列したままでいた。御者が滑羅に問うた。
『しんがりでありながら本隊に列したままでいるのでは、勇気のない奴らだなどと思われませんか』
羅は答えた。『不必要に奮い立つよりは、勇気がないとでも思われていたほうがマシだ』
(哀公十一年では、孟之反と共に魯軍の殿将を務めた林不狃というものが、足早な退却を無闇に拒んだ
ために戦死してもいる。重要な役割とはいえ、殿軍として目立とうなどとすべきではないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・定公十二年より)
殿軍(しんがり)といえば、総軍が退却する際に最後尾で追っ手を撃退する役割を担うものであり、
それを務めることが非常な危険を伴う上に、殿軍に頼らざるを得なくなるような事態をなるべく
招かないようにするのが兵法上の定石でもあるといえる。それでいて、斉軍に敗れた魯軍のしんがりを
務めた大夫の孟之反は、無事役目を果たして最後に自国の城門をくぐった時に「あえて遅れたのではない、
馬がなかなか進まなかったのだ(雍也第六・一五)」と虚偽の弁解して人々を安心させようとしたのだった。
なるべくなら頼るべきでないしんがりという存在に頼りきってしまった人々の後ろめたさをやわらげて
やるために、あえて自分から進んでしんがりを務めたわけでもないという風に述べてもいたのだった。
ただ功を妄りに誇らないというばかりではない。人々への入念な配慮をも利かし、時にはウソすらをも
方便として用いる、それほどもの機転を利かせられるものこそは、単細胞な男以上にも男らしい存在
たり得もする。治世における仁政でも、乱世における臨戦でも、それなりの男の見せようというものがあり、
むしろ手段自体は男らしいとも言えない先にこそ、より男らしいといえる功業を挙げたりもするのである。
「衛の公孟彄曹を伐ち、郊に克つ。還るに、滑羅殿す。未だ出でずに、列を退かず。其の御曰く、
殿に而て列に在るは、其れ勇無きと為さんか。羅曰く、其の素﨤に与らんよりは、寧ろ勇無きと為さん」
「衛軍の公孟彄が曹軍を討ち、郊という村で勝利を収めた。帰還する際に滑羅がしんがりを
務めたが、まだ曹の国境を出もしないうちから本隊に列したままでいた。御者が滑羅に問うた。
『しんがりでありながら本隊に列したままでいるのでは、勇気のない奴らだなどと思われませんか』
羅は答えた。『不必要に奮い立つよりは、勇気がないとでも思われていたほうがマシだ』
(哀公十一年では、孟之反と共に魯軍の殿将を務めた林不狃というものが、足早な退却を無闇に拒んだ
ために戦死してもいる。重要な役割とはいえ、殿軍として目立とうなどとすべきではないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・定公十二年より)
誰も読んでないよ笠地蔵。^^
俺が読んでいる。
たとえこの世の中の富が無限大であるとした所で、人々が総出を挙げて過剰な欲望を慎んで
行くのでなければ、必ず世の中が富者と貧者へと両極化してしまうこととなるのである。
この地球上だって、もう少し世界人口が少なくて、人々が仁徳に根ざした分け合いの心がけを
義務的に持ち合わせているようにしたならば、ほとんど無尽蔵なほどもの人間にとっての富や
資源が存在しているとすらいえるわけである。それをわざわざ、他者の利益を横取りしてでも
自分たちばかりが肥え太ろうとする際限のない欲望によって、総体的な貧窮状態に陥らせている。
地球上ですらそのようでしかいられないのだから、地球外に飛び出して新たな惑星世界などを
形作った所で、きっとまた同じ過ちを繰り返すに違いない。世の中を餓鬼と畜生に両極化させて
しまう程もの不埒な欲求を自分たち自身が正して行くのでなければ、絶対にそうでしかあり得ない。
自らに適切な自制心が伴っているということが、自力作善を志す聖賢のみならず、他力本願で
いようとする凡人にすら多少は必要となる。無戒律とされる浄土門においても、弥陀の本願に即して
五逆(父母殺し、僧侶の殺傷、僧団破壊)や誹謗正法の禁止程度の戒めは必ず守る。そんな行いは、
普通に考えてもしないでいて当たり前なことなわけだけれども、自らに固く禁ずる所のものがある
ということ自体が、信者たちの心象からの健全さを養生させる指針ともなる。そういった方向性が
他力本願を旨とする人間にすら備わっているのでなければ、世の中が餓鬼と畜生に両極化する
ことでの総体的な貧窮に見舞われたりしないでいられることを保証できもしないのである。
たとえこの世の中の富が無限大であるとした所で、人々が総出を挙げて過剰な欲望を慎んで
行くのでなければ、必ず世の中が富者と貧者へと両極化してしまうこととなるのである。
この地球上だって、もう少し世界人口が少なくて、人々が仁徳に根ざした分け合いの心がけを
義務的に持ち合わせているようにしたならば、ほとんど無尽蔵なほどもの人間にとっての富や
資源が存在しているとすらいえるわけである。それをわざわざ、他者の利益を横取りしてでも
自分たちばかりが肥え太ろうとする際限のない欲望によって、総体的な貧窮状態に陥らせている。
地球上ですらそのようでしかいられないのだから、地球外に飛び出して新たな惑星世界などを
形作った所で、きっとまた同じ過ちを繰り返すに違いない。世の中を餓鬼と畜生に両極化させて
しまう程もの不埒な欲求を自分たち自身が正して行くのでなければ、絶対にそうでしかあり得ない。
自らに適切な自制心が伴っているということが、自力作善を志す聖賢のみならず、他力本願で
いようとする凡人にすら多少は必要となる。無戒律とされる浄土門においても、弥陀の本願に即して
五逆(父母殺し、僧侶の殺傷、僧団破壊)や誹謗正法の禁止程度の戒めは必ず守る。そんな行いは、
普通に考えてもしないでいて当たり前なことなわけだけれども、自らに固く禁ずる所のものがある
ということ自体が、信者たちの心象からの健全さを養生させる指針ともなる。そういった方向性が
他力本願を旨とする人間にすら備わっているのでなければ、世の中が餓鬼と畜生に両極化する
ことでの総体的な貧窮に見舞われたりしないでいられることを保証できもしないのである。
際限のない欲望で世の中を貧窮に陥れている張本人であるような人間こそは、世の中が奪う者と
奪われる者とに両極化してしまうことを「仕方のないことだ」などと言って正当化しようとする。
もちろん仕方のないことでも何でもないわけで、他でもないおまえ自身が欲望まみれの性向を
正したなら、あっという間にそのような事態は解消されるのである。しかし、自分自身が性向を
正す気になれないものだから、事態を解消して行くこともままならない、だから仕方のないことだ
とする。そのような詭弁論理に陥ってしまっている人間はもはや、外的な矯正を施されるのでも
なければ、自らの考えが過ちであることに気づくきっかけを得ることもできはしないのである。
「際限のない欲望が横行する以上は総体的な貧窮に見舞われる」とか、「冤罪で罪が解消される
ことなどは被害者の立場からいってもあり得ない」とかいったことは、わざわざ実証例を挙げる
までもない思考実験によって自明に明らかとなることである。にもかかわらずそれを解さない
人間は必ず、人並み以上に注意力が欠けている。その注意欠陥に基づく社会的害悪度が過ぎる
ようであるのならば、本人たちに病識がないとしたところで、有害型の精神障害として制限措置や
強制治療の対象ともしていかねばならない。でなければ本当に世の中も立ち行かなくなるのだから。
それが自明に不正なことであるからこそ、際限のない欲望を満たしてくれる神だとか、冤罪で
罪を解消してくれるとされる神などを信じたりしてもならない。そのような神は紛れもない
邪神であり、そのような神を信じたりすることも紛れもない邪信であるのだから、自明に
邪まであることを思い知ることでこそ、そのような神への信仰を自他に禁ずべきである。
「願いて則ち嚏す。〜願いて則ち懐む」
「願ってばかりで気が詰まる。願ってばかりで心が痛む。(渇望それ自体が心痛である。
仏教などでよく教えられることだが、この詩の成立は仏教創始以前でもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・終風より)
奪われる者とに両極化してしまうことを「仕方のないことだ」などと言って正当化しようとする。
もちろん仕方のないことでも何でもないわけで、他でもないおまえ自身が欲望まみれの性向を
正したなら、あっという間にそのような事態は解消されるのである。しかし、自分自身が性向を
正す気になれないものだから、事態を解消して行くこともままならない、だから仕方のないことだ
とする。そのような詭弁論理に陥ってしまっている人間はもはや、外的な矯正を施されるのでも
なければ、自らの考えが過ちであることに気づくきっかけを得ることもできはしないのである。
「際限のない欲望が横行する以上は総体的な貧窮に見舞われる」とか、「冤罪で罪が解消される
ことなどは被害者の立場からいってもあり得ない」とかいったことは、わざわざ実証例を挙げる
までもない思考実験によって自明に明らかとなることである。にもかかわらずそれを解さない
人間は必ず、人並み以上に注意力が欠けている。その注意欠陥に基づく社会的害悪度が過ぎる
ようであるのならば、本人たちに病識がないとしたところで、有害型の精神障害として制限措置や
強制治療の対象ともしていかねばならない。でなければ本当に世の中も立ち行かなくなるのだから。
それが自明に不正なことであるからこそ、際限のない欲望を満たしてくれる神だとか、冤罪で
罪を解消してくれるとされる神などを信じたりしてもならない。そのような神は紛れもない
邪神であり、そのような神を信じたりすることも紛れもない邪信であるのだから、自明に
邪まであることを思い知ることでこそ、そのような神への信仰を自他に禁ずべきである。
「願いて則ち嚏す。〜願いて則ち懐む」
「願ってばかりで気が詰まる。願ってばかりで心が痛む。(渇望それ自体が心痛である。
仏教などでよく教えられることだが、この詩の成立は仏教創始以前でもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・終風より)
よく本人たちの言うことを味わいつつ「孟子」や「荀子」を読んでみれば、孟子の言い分には心の底から
突き動かされるような厚みがあることがうかがえる一方、荀子の言い分は薄っぺらくて、どこか読者の
機嫌をうかがうような下卑た態度と思えざるを得ないような所がある。孟子は孔子のいう「巧言令色」
を排している一方、荀子はそのあたりを排しきれていない。だからこそ存命中に李斯や韓非のような、
腐敗まみれな時の権力者に好まれるほどもの門弟を多数排出しもしたのだが、同時にそのせいで
李斯や韓非を拷問死や服毒死や一族郎党皆殺しのような非業の運命に追いやりもしたのだった。
結局、その学知の真偽については、孟子だけでなく荀子もそれなりの信憑性が置けるものである。
しかし、その自説の真偽については、孟子の自説のほうが真であり、荀子の自説のほうが偽であった。
性善説こそは真であり、性悪説こそは偽であるから、孟子の言行には心動かされる一方、荀子の言行には
目を見張る程度のことはあっても、心動かされるまでのことはない。そこが両者の優劣を決定的に分かっている。
人間の本性こそは善だから、本性を見失って悪人と化してしまった人間をその心から矯正して行って
やったりすることもできない。あくまで刑罰や身分差別のような厳酷な実力行使によって、本性の自省を
可能とできるような環境にまず持って行ってやらねばならない。実際のところ、世の中というものもそういう風に
していかなければ埒が明かないようにもなっているから、社会的な実証に即しても孟子の性善説のほうが真であり、
本性の悪を外的な礼儀礼節によって正して行くべきだとする荀子の自説のほうが偽であるとも断じられるのである。
突き動かされるような厚みがあることがうかがえる一方、荀子の言い分は薄っぺらくて、どこか読者の
機嫌をうかがうような下卑た態度と思えざるを得ないような所がある。孟子は孔子のいう「巧言令色」
を排している一方、荀子はそのあたりを排しきれていない。だからこそ存命中に李斯や韓非のような、
腐敗まみれな時の権力者に好まれるほどもの門弟を多数排出しもしたのだが、同時にそのせいで
李斯や韓非を拷問死や服毒死や一族郎党皆殺しのような非業の運命に追いやりもしたのだった。
結局、その学知の真偽については、孟子だけでなく荀子もそれなりの信憑性が置けるものである。
しかし、その自説の真偽については、孟子の自説のほうが真であり、荀子の自説のほうが偽であった。
性善説こそは真であり、性悪説こそは偽であるから、孟子の言行には心動かされる一方、荀子の言行には
目を見張る程度のことはあっても、心動かされるまでのことはない。そこが両者の優劣を決定的に分かっている。
人間の本性こそは善だから、本性を見失って悪人と化してしまった人間をその心から矯正して行って
やったりすることもできない。あくまで刑罰や身分差別のような厳酷な実力行使によって、本性の自省を
可能とできるような環境にまず持って行ってやらねばならない。実際のところ、世の中というものもそういう風に
していかなければ埒が明かないようにもなっているから、社会的な実証に即しても孟子の性善説のほうが真であり、
本性の悪を外的な礼儀礼節によって正して行くべきだとする荀子の自説のほうが偽であるとも断じられるのである。
聖書信仰が厳禁されていた江戸時代までと、
解禁された維新後とでは、極端な社会構造の変節が生じた。
道徳力や武力などの実力で世を治めていた武士がその立場を追われ、
実力なんか何もない代わりに、武士と小作人、武士と工匠などの仲介役を
ピエロ的な立場として担っていた、庄屋や問屋や豪商などが支配者に躍り出た。
「自由民権」だの「国民主権」だのの、欺瞞的な言葉遊びをあてがったところで、
「被支配者は支配者のあり方に倣う」という、易学にも根ざした普遍法則によって、
日本国民も元庄屋の政治家などのあり方に倣って、ろくでもない性格ばかりと化した。
為政者が武士のような一端の道徳者であれば、ちゃんと民までもが生真面目でいたのに、
おちゃらけピエロに過ぎない庄屋や問屋の出身者などが支配者と化したために、イヤでも
全国民がふざけきった道化のような佇まいであることを強制させられる破目となった。
そんなことがもう二度とないようにするためには、やはり武士並みの道徳者が為政者で
ある必要がある。武士並みの道徳者が為政者であるためには、人間道徳に致命的に反する
カルトの邪義の詰め合わせである聖書信仰の、完全に永久なる根絶もまた不可避なこと。
聖書信仰を根絶することで、確かに世の中の体質構造の着実な改善が見込める。
今の日本国民の勤勉さもまた、江戸時代までの徳治によってこそ養われたものなので、
このままその勤勉さを食いつぶすだけでは、いつかは日本人も聖書信者並みの畜群と
化してしまいかねない。日本国民の勤勉さや生真面目さを消費するだけではなく、
新たに補充してもいくために、さらには全世界の人々にも日本人並みの人としての
優秀さを広めていくために、聖書信仰の根絶による徳治の復興が有効であるといえる。
解禁された維新後とでは、極端な社会構造の変節が生じた。
道徳力や武力などの実力で世を治めていた武士がその立場を追われ、
実力なんか何もない代わりに、武士と小作人、武士と工匠などの仲介役を
ピエロ的な立場として担っていた、庄屋や問屋や豪商などが支配者に躍り出た。
「自由民権」だの「国民主権」だのの、欺瞞的な言葉遊びをあてがったところで、
「被支配者は支配者のあり方に倣う」という、易学にも根ざした普遍法則によって、
日本国民も元庄屋の政治家などのあり方に倣って、ろくでもない性格ばかりと化した。
為政者が武士のような一端の道徳者であれば、ちゃんと民までもが生真面目でいたのに、
おちゃらけピエロに過ぎない庄屋や問屋の出身者などが支配者と化したために、イヤでも
全国民がふざけきった道化のような佇まいであることを強制させられる破目となった。
そんなことがもう二度とないようにするためには、やはり武士並みの道徳者が為政者で
ある必要がある。武士並みの道徳者が為政者であるためには、人間道徳に致命的に反する
カルトの邪義の詰め合わせである聖書信仰の、完全に永久なる根絶もまた不可避なこと。
聖書信仰を根絶することで、確かに世の中の体質構造の着実な改善が見込める。
今の日本国民の勤勉さもまた、江戸時代までの徳治によってこそ養われたものなので、
このままその勤勉さを食いつぶすだけでは、いつかは日本人も聖書信者並みの畜群と
化してしまいかねない。日本国民の勤勉さや生真面目さを消費するだけではなく、
新たに補充してもいくために、さらには全世界の人々にも日本人並みの人としての
優秀さを広めていくために、聖書信仰の根絶による徳治の復興が有効であるといえる。
相手を貶めてから救ってやろうなどという、マッチポンプを作為的に講じようと
する者の心象というのは、本質的に「不埒」なものである。始めから危害などを
加えることなく仁政を施してやったりすることと比べて、明らかに最善を尽くす
姿勢ではない。不埒な遊び心によって他者に危害を加えて、それから救って
やろうとするのは、明らかに神の仮面をかぶった悪魔の所業であるといえる。
マッチポンプなど完全に排して、万人救済にかけての最善を尽くしたところで、
それで万人が救えるとも知れない。人間社会での仁政を尽くしても、予期せぬ
自然災害などによって人々が大きな危害を被ったりもする。そのような危害によって
人々が心を荒ませて、詐欺や強盗などの人為的危害を企てたりもしかねないから、
(ちょうど天明の大飢饉の直後に江戸中で火付け盗賊が横行したりしたように)
仁政にかけての最善策である「修己治人」の限りすらをも尽くしたとしても、
それで人々を心中から治めきれるかどうかすらもが知れないのである。
特に作為的に危害を加えたりしなくとも腐敗したりしやすいのが世の中というもの
だから、そこでさらにマッチポンプなどを講じたなら、必ずプラスマイナスゼロ
以下の悲惨な結果を招いてしまうのである。マッチポンプを講じようとする者たち
自身の心象もまた不埒なものだから、修己治人とは逆に人々の心を荒ませてしまい、
世の中の自ずからの腐敗を自然状態以上にも活性化すらさせてしまう。だから、
マッチポンプはプラスマイナスゼロ以下の結果を招くのみならず、世の中の
腐敗を大々的に推進して行く虐政のキャンペーンにすらなってしまうのである。
世の中を一概によくして行こうなどとまでせずとも、支配者が無為自然を決め込む
ことで、人々の自ずからの良心に基づく治世を実現して行くこともまた不可能ではない。
する者の心象というのは、本質的に「不埒」なものである。始めから危害などを
加えることなく仁政を施してやったりすることと比べて、明らかに最善を尽くす
姿勢ではない。不埒な遊び心によって他者に危害を加えて、それから救って
やろうとするのは、明らかに神の仮面をかぶった悪魔の所業であるといえる。
マッチポンプなど完全に排して、万人救済にかけての最善を尽くしたところで、
それで万人が救えるとも知れない。人間社会での仁政を尽くしても、予期せぬ
自然災害などによって人々が大きな危害を被ったりもする。そのような危害によって
人々が心を荒ませて、詐欺や強盗などの人為的危害を企てたりもしかねないから、
(ちょうど天明の大飢饉の直後に江戸中で火付け盗賊が横行したりしたように)
仁政にかけての最善策である「修己治人」の限りすらをも尽くしたとしても、
それで人々を心中から治めきれるかどうかすらもが知れないのである。
特に作為的に危害を加えたりしなくとも腐敗したりしやすいのが世の中というもの
だから、そこでさらにマッチポンプなどを講じたなら、必ずプラスマイナスゼロ
以下の悲惨な結果を招いてしまうのである。マッチポンプを講じようとする者たち
自身の心象もまた不埒なものだから、修己治人とは逆に人々の心を荒ませてしまい、
世の中の自ずからの腐敗を自然状態以上にも活性化すらさせてしまう。だから、
マッチポンプはプラスマイナスゼロ以下の結果を招くのみならず、世の中の
腐敗を大々的に推進して行く虐政のキャンペーンにすらなってしまうのである。
世の中を一概によくして行こうなどとまでせずとも、支配者が無為自然を決め込む
ことで、人々の自ずからの良心に基づく治世を実現して行くこともまた不可能ではない。
それがいわゆる道家的統治というもので、前漢の五代文帝の統治などがその成功例
として史実上にも存在するが、仮にマッチポンプの支配を講じたのならば、そのような
無為自然の統治による治世すらもが期待できなくなる。為政者が安静を決め込むという
こと自体一つの修己治人であり、情動にかられやすい小民たちにとっての鎮静剤的な
役割を果たすものであるけれども、マッチポンプを講ずる支配者にはそのような虚勢さ
も伴っていないものだから、無為自然の統治とも相容れることがないのである。
結局、マッチポンプを基調とした支配というのは最悪級の支配構造であるわけで、
ただただ被支配者を一方的に痛めつけ尽くすのが「悪の支配」であるとするならば、
貶めて救うマッチポンプの支配は「偽善の支配」であるといえ、これもまた本質的には
悪の支配であるといえる。秦帝国による支配のようなあからさまな悪逆非道の支配と
比べれば、被支配者に「気休め」の余地が生ずるから、マッチポンプによる偽善の支配
はより延命が可能であるという点のみが異なる。無論、延命を講じた結果としてより
悲惨な破滅的結果を招いたりもしかねないわけだから、一概な悪逆非道の支配と
比べてマシな支配であるということすらない。五十歩百歩の虐政同士として、
早急かつ恒久的な撲滅の対象としていくに越したことはないものであるといえる。
「慈しめば則ち忠たり」
「支配者が慈しみ深くあれば、被支配者もまた忠義深くなる。
(真に慈しみ深い支配者の下には、懲らしめの対象にしていいような被支配者もいないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・為政第二・二〇より)
として史実上にも存在するが、仮にマッチポンプの支配を講じたのならば、そのような
無為自然の統治による治世すらもが期待できなくなる。為政者が安静を決め込むという
こと自体一つの修己治人であり、情動にかられやすい小民たちにとっての鎮静剤的な
役割を果たすものであるけれども、マッチポンプを講ずる支配者にはそのような虚勢さ
も伴っていないものだから、無為自然の統治とも相容れることがないのである。
結局、マッチポンプを基調とした支配というのは最悪級の支配構造であるわけで、
ただただ被支配者を一方的に痛めつけ尽くすのが「悪の支配」であるとするならば、
貶めて救うマッチポンプの支配は「偽善の支配」であるといえ、これもまた本質的には
悪の支配であるといえる。秦帝国による支配のようなあからさまな悪逆非道の支配と
比べれば、被支配者に「気休め」の余地が生ずるから、マッチポンプによる偽善の支配
はより延命が可能であるという点のみが異なる。無論、延命を講じた結果としてより
悲惨な破滅的結果を招いたりもしかねないわけだから、一概な悪逆非道の支配と
比べてマシな支配であるということすらない。五十歩百歩の虐政同士として、
早急かつ恒久的な撲滅の対象としていくに越したことはないものであるといえる。
「慈しめば則ち忠たり」
「支配者が慈しみ深くあれば、被支配者もまた忠義深くなる。
(真に慈しみ深い支配者の下には、懲らしめの対象にしていいような被支配者もいないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・為政第二・二〇より)
人間が世の中を健全に営んでいくためには、必ず一定以上の精神力が必要となる。文明社会というもの
からして人間にこそ特有のものであり、動物レベルの知能で作り上げられたりするようなものではない。
ライオンやクマのような猛獣ですら、大きな音や火を恐れたりするほどにも臆病であり、人間にこそ
特有な精神力の旺盛さに根ざした大勇などを抱けたりすることもない。人間こそは万物の霊長であるが、
そうあらしめているのも他でもない、動物以上にも突出した精神力の高さなのであり、その精神力に
よってのみ、発達した脳が司っている知能を健全に活用していくことまでもが可能となるのである。
人間としての発達した知能に見合った精神力が伴っている場合にのみ、人は健全な社会活動を営むことが
できる。そうであるからには、精神力の旺盛な人間にほど大きな社会的役割を担わせるべきであり、
貧弱な精神力しか持ち合わせていないような人間は軽い役割や無役に止めさせるべきだといえる。
知能自体は、四書五経を読みこなせる程度の能力があれば十分である。それ以上の知能があっても
精神のほうが薄弱だったりするようじゃ、大いなる悪知恵を存分に悪用するようなことになるだけだし、
高度な知能も精神力も兼ね備えているとした所で、社会的な大役などよりは、高僧としての大成あたり
のほうが見合うことになる。突出した知能の高さがかえって、仁者同士の和を乱すようなことにすら
なりかねないから、高度な知能も精神力もあるような人間は、もはや全ての俗人が畏敬するに値する
ような立場にいてくれてもらったほうがよかったりするのである。旺盛な精神力と高度な知能を
兼ね備えている人間などというものがどうしたって少数派であらざるを得ないからこそ、そう言えるのだ。
からして人間にこそ特有のものであり、動物レベルの知能で作り上げられたりするようなものではない。
ライオンやクマのような猛獣ですら、大きな音や火を恐れたりするほどにも臆病であり、人間にこそ
特有な精神力の旺盛さに根ざした大勇などを抱けたりすることもない。人間こそは万物の霊長であるが、
そうあらしめているのも他でもない、動物以上にも突出した精神力の高さなのであり、その精神力に
よってのみ、発達した脳が司っている知能を健全に活用していくことまでもが可能となるのである。
人間としての発達した知能に見合った精神力が伴っている場合にのみ、人は健全な社会活動を営むことが
できる。そうであるからには、精神力の旺盛な人間にほど大きな社会的役割を担わせるべきであり、
貧弱な精神力しか持ち合わせていないような人間は軽い役割や無役に止めさせるべきだといえる。
知能自体は、四書五経を読みこなせる程度の能力があれば十分である。それ以上の知能があっても
精神のほうが薄弱だったりするようじゃ、大いなる悪知恵を存分に悪用するようなことになるだけだし、
高度な知能も精神力も兼ね備えているとした所で、社会的な大役などよりは、高僧としての大成あたり
のほうが見合うことになる。突出した知能の高さがかえって、仁者同士の和を乱すようなことにすら
なりかねないから、高度な知能も精神力もあるような人間は、もはや全ての俗人が畏敬するに値する
ような立場にいてくれてもらったほうがよかったりするのである。旺盛な精神力と高度な知能を
兼ね備えている人間などというものがどうしたって少数派であらざるを得ないからこそ、そう言えるのだ。
人は、勧善懲悪や断悪修善の楽しみ、それに最低限悪を為さないでいることの安らぎを
知ればこそ、好き好んで悪を為すことが一概な苦しみであるが故の恥というものを知る。
「悪を為すということは、善を為すことや悪を為さないことと比べれば根本的な苦しみである」
という事実関係への知悉もないままに、好き好んで悪を為すことで苦しんでいるわけだから、
それが根本的無知ゆえの自業自得の苦しみであるが故に、恥であると見なせるのである。
盗みや殺人のような罪悪を好き好んで積み重ねようとする邪神などもまた、己れの恥さらし
加減もわきまえぬ無知の象徴でこそある。そんな神が実在した所で「頭隠して尻隠さず」の
恥さらしだし、架空の神であるとしたなら、そんな神を思いついて捏造した人間たち自身が
物事の本質をろくにわきまえることもできない痴人であったことが紛れもないのである。
人が限りある命を持つ生き物として、また永久不変の絶対真理すらをも理解できる存在として
本当に知っておくべき物事というのは、多いようでいて実は限られている。上の罪福異熟に
まつわる知識などはそのうちの一つであり、このような事実関係すらをも了解していない
ことこそは根本的無知にあたり、まだまだ全知全能などをめざすどころの話ですらない。
一応知識としては把握しているが、雑多な知識に惑わされてその重要性を疎かにし、
そんなことがないにもかかわらず「そうでない場合もあり得る」というような知見の変節に
及んでしまうことがある、これもまた根本的無知の一つであるといえ、そもそも大切なことを
始めから知らないでいた場合以上にも、その過ちを正してやることが困難なものだったりする。
知ればこそ、好き好んで悪を為すことが一概な苦しみであるが故の恥というものを知る。
「悪を為すということは、善を為すことや悪を為さないことと比べれば根本的な苦しみである」
という事実関係への知悉もないままに、好き好んで悪を為すことで苦しんでいるわけだから、
それが根本的無知ゆえの自業自得の苦しみであるが故に、恥であると見なせるのである。
盗みや殺人のような罪悪を好き好んで積み重ねようとする邪神などもまた、己れの恥さらし
加減もわきまえぬ無知の象徴でこそある。そんな神が実在した所で「頭隠して尻隠さず」の
恥さらしだし、架空の神であるとしたなら、そんな神を思いついて捏造した人間たち自身が
物事の本質をろくにわきまえることもできない痴人であったことが紛れもないのである。
人が限りある命を持つ生き物として、また永久不変の絶対真理すらをも理解できる存在として
本当に知っておくべき物事というのは、多いようでいて実は限られている。上の罪福異熟に
まつわる知識などはそのうちの一つであり、このような事実関係すらをも了解していない
ことこそは根本的無知にあたり、まだまだ全知全能などをめざすどころの話ですらない。
一応知識としては把握しているが、雑多な知識に惑わされてその重要性を疎かにし、
そんなことがないにもかかわらず「そうでない場合もあり得る」というような知見の変節に
及んでしまうことがある、これもまた根本的無知の一つであるといえ、そもそも大切なことを
始めから知らないでいた場合以上にも、その過ちを正してやることが困難なものだったりする。
特に大切なことを先天的にも後天的にも知らない、知ってはいるが有害な知識に惑わされて
その重要性へのわきまえを決定的に疎かにしてしまっている、この二つの根本的無知こそは、
時に世の中を破滅へと追いやる程もの害悪の元凶となる。もちろん、そんな連中が世の中を
主導的に形作って来たりしているのでもなく、良識ある人々が予め形作っていた世の中に
後から寄生して害悪を撒き散らしているガン細胞人種であったりするのみである。
世の中というものがどういった源流から形作られて来たのかも知らな至らず者であるもの
だから、創世それ自体を超越神に偽託して、自分たちによる世の中の損壊を当該の超越神に
よる采配などに見立てたりする。それら全てが人間自身の悪業としての欺瞞であり、
権力機構に政商などの詐欺行為が蔓延することを抑止することなどで防がれても行く。
(無論、権力詐欺に依存し過ぎた挙句に国ごとの崩壊を招くこともある)
先天後天にかかわらず、本当にわきまえておくべき知見こそを大事にして来た人々こそは
この世の中を地盤から形作り、無知者が多少のやんちゃをやらかした所で丸く収まる程もの
磐石さすらをも確立して来た。根本的無知者が世界の創始を無責任な超越神に偽託して
破壊活動をやらかしても多少は持つ程度の猶予が生じたのも、そんな無責任な振る舞いに
及ぶことなく世の中を根本から形作ってきた人々がいたからこそなのであり、そのような
人々への感謝と尊敬の念を育むことで、不実な超越神への幻想などを捨て去るべきなのである。
「謀閉じて興らず、盗竊乱賊而かも作らず、故に外戸を閉じず、是れを大同と謂う」
「陰謀も絶え、盗みや乱暴の類いも起こらなくなったため、人々も家の戸を閉める
ことすらない。これを『大同』と言い、大道の行われている治世ならではの現象とする。
(好んで大道の行われない乱世をもたらそうとすることにも恥を知るべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
その重要性へのわきまえを決定的に疎かにしてしまっている、この二つの根本的無知こそは、
時に世の中を破滅へと追いやる程もの害悪の元凶となる。もちろん、そんな連中が世の中を
主導的に形作って来たりしているのでもなく、良識ある人々が予め形作っていた世の中に
後から寄生して害悪を撒き散らしているガン細胞人種であったりするのみである。
世の中というものがどういった源流から形作られて来たのかも知らな至らず者であるもの
だから、創世それ自体を超越神に偽託して、自分たちによる世の中の損壊を当該の超越神に
よる采配などに見立てたりする。それら全てが人間自身の悪業としての欺瞞であり、
権力機構に政商などの詐欺行為が蔓延することを抑止することなどで防がれても行く。
(無論、権力詐欺に依存し過ぎた挙句に国ごとの崩壊を招くこともある)
先天後天にかかわらず、本当にわきまえておくべき知見こそを大事にして来た人々こそは
この世の中を地盤から形作り、無知者が多少のやんちゃをやらかした所で丸く収まる程もの
磐石さすらをも確立して来た。根本的無知者が世界の創始を無責任な超越神に偽託して
破壊活動をやらかしても多少は持つ程度の猶予が生じたのも、そんな無責任な振る舞いに
及ぶことなく世の中を根本から形作ってきた人々がいたからこそなのであり、そのような
人々への感謝と尊敬の念を育むことで、不実な超越神への幻想などを捨て去るべきなのである。
「謀閉じて興らず、盗竊乱賊而かも作らず、故に外戸を閉じず、是れを大同と謂う」
「陰謀も絶え、盗みや乱暴の類いも起こらなくなったため、人々も家の戸を閉める
ことすらない。これを『大同』と言い、大道の行われている治世ならではの現象とする。
(好んで大道の行われない乱世をもたらそうとすることにも恥を知るべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
「瞻るとして父に匪ざるは靡く、依るとして母に匪ざるは靡し。
毛もてにも属さず、裹にも罹かずんば、天の我れを生むも、我れ辰の安くにか在らん(既出)」
「実父ほどに見習うべきものはなく、実母ほどにより所とすべきものは本来ほかにない。もし実父にも属せず、
実母に添うこともできないというのなら、仮に天神が我れを産んだのだとしても、全くの不遇というもの」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小弁より)
もしも自らが孝の理念に即して父母を敬いの対象とし、老いては介助の対象としたりもしたならば、
それが自分を産み育ててきてくれた相手への恩返しともなって、自らの依存性を打ち消す効能をも持ち得る。
そしたら卑俗な奴隷的根性などもなくなって、本物の独立心を持って物事に臨んでいくことができる
ようにもなる。自らが禄を頂く相手としての主君を敬う場合なども同様の効果を伴う一方、依り頼みと
尊崇の差し引きが必ずしもゼロとならないような関係においては、かえって依存心を募らせることともなる。
架空の超越神への信者の信仰だとか、商売人の顧客への敬いだとかは、依り頼みよりも尊崇の度合いのほう
が多かったり少なかったりするものだから、依存心をより募らせることともなる。虚構神への信仰なぞは、
依り頼む所よりも尊崇の度合いのほうが多かったりするわけだが、それでも依存心を募らせる原因となる。
それは、本当に経済的にも依り頼む所であった父母なり主君なりへの尊崇を蔑ろにしてまで、
虚構神なぞへの尊崇に励んでいるからであり、本当に敬うべき相手への尊崇を怠っているが
故の罪悪感を紛らわすためにこそ、不健全な依存心をも募らせていくこととなるのである。
何者をも敬いの対象としないニヒリストやアナーキストだからといって、依存心を脱却できるわけでもない。
ニーチェなぞも「永遠と言う名の指輪を愛す」云々と、奇形的な依存心を結局は募らせていったわけで、
本当に自らの依存心を乗り越えて精神面からの大人になって行くためにこそ、むしろ父母や主君の如き
恩ある相手への実を伴った尊崇による恩返しを講じて行く必要があるのである。
毛もてにも属さず、裹にも罹かずんば、天の我れを生むも、我れ辰の安くにか在らん(既出)」
「実父ほどに見習うべきものはなく、実母ほどにより所とすべきものは本来ほかにない。もし実父にも属せず、
実母に添うこともできないというのなら、仮に天神が我れを産んだのだとしても、全くの不遇というもの」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小弁より)
もしも自らが孝の理念に即して父母を敬いの対象とし、老いては介助の対象としたりもしたならば、
それが自分を産み育ててきてくれた相手への恩返しともなって、自らの依存性を打ち消す効能をも持ち得る。
そしたら卑俗な奴隷的根性などもなくなって、本物の独立心を持って物事に臨んでいくことができる
ようにもなる。自らが禄を頂く相手としての主君を敬う場合なども同様の効果を伴う一方、依り頼みと
尊崇の差し引きが必ずしもゼロとならないような関係においては、かえって依存心を募らせることともなる。
架空の超越神への信者の信仰だとか、商売人の顧客への敬いだとかは、依り頼みよりも尊崇の度合いのほう
が多かったり少なかったりするものだから、依存心をより募らせることともなる。虚構神への信仰なぞは、
依り頼む所よりも尊崇の度合いのほうが多かったりするわけだが、それでも依存心を募らせる原因となる。
それは、本当に経済的にも依り頼む所であった父母なり主君なりへの尊崇を蔑ろにしてまで、
虚構神なぞへの尊崇に励んでいるからであり、本当に敬うべき相手への尊崇を怠っているが
故の罪悪感を紛らわすためにこそ、不健全な依存心をも募らせていくこととなるのである。
何者をも敬いの対象としないニヒリストやアナーキストだからといって、依存心を脱却できるわけでもない。
ニーチェなぞも「永遠と言う名の指輪を愛す」云々と、奇形的な依存心を結局は募らせていったわけで、
本当に自らの依存心を乗り越えて精神面からの大人になって行くためにこそ、むしろ父母や主君の如き
恩ある相手への実を伴った尊崇による恩返しを講じて行く必要があるのである。
そして、そのような手段に即した完全なる依存心の脱却の先にこそ、孟子が「浩然の気」とも呼んだような
満足至極な境地が得られもする。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」でのイワンの譫妄症罹患の
描写などに代表されるように、依存心を持つことこそは道徳的なこととされているキリスト教圏などに
おいては、依存心がなければ人は心を病むかの如く思い込まれてすらいる。とはいえそれも、「依存心を
捨てるためにはニヒリストやアナーキストにならなければならない」という思い違いに即しているのであり、
それはかえって奇形的な依存心を募らせることになるからこそ、心を病む原因ともなってしまうのである。
虚構神などへの依存状態が麻薬中毒なら、ニヒリズムの狂気は麻薬中毒者のバッドトリップだといえる。
親や祖神や主君らへの尊崇を通じて本当に依存性から脱却して行くことが、麻薬中毒の克服となる。
女子供までもが必ずしも満たすべき条件でまではないが、大人の男ならぜひ克服すべきことだといえる。
「既に内自ら尽くし、又た外に助けを求む。昏礼是れなり。故に国君夫人を取るの辞に曰く、
君の玉女と共に、寡人と共に敝邑を有ち、宗廟社稷に事うることを請うと。此れ助けを求むるの本なり」
「できる限り自分自身が内実からの努力を尽くしてから、初めて外にも助けを求めるようにもする。
婚礼などもその一つであり、主君が不仁を娶る場合などにも、『願わくばよき妻と共にわが国を保ち、
社稷宋廟に仕えて行かんことを』と、共に成すべきことを前面に押し出した辞を述べるのである。これこそは
人が誰かに助けを求めて共なす手本とすべきあり方だといえる。(ただただ依存する相手などいるべきでない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭統第二十五より)
満足至極な境地が得られもする。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」でのイワンの譫妄症罹患の
描写などに代表されるように、依存心を持つことこそは道徳的なこととされているキリスト教圏などに
おいては、依存心がなければ人は心を病むかの如く思い込まれてすらいる。とはいえそれも、「依存心を
捨てるためにはニヒリストやアナーキストにならなければならない」という思い違いに即しているのであり、
それはかえって奇形的な依存心を募らせることになるからこそ、心を病む原因ともなってしまうのである。
虚構神などへの依存状態が麻薬中毒なら、ニヒリズムの狂気は麻薬中毒者のバッドトリップだといえる。
親や祖神や主君らへの尊崇を通じて本当に依存性から脱却して行くことが、麻薬中毒の克服となる。
女子供までもが必ずしも満たすべき条件でまではないが、大人の男ならぜひ克服すべきことだといえる。
「既に内自ら尽くし、又た外に助けを求む。昏礼是れなり。故に国君夫人を取るの辞に曰く、
君の玉女と共に、寡人と共に敝邑を有ち、宗廟社稷に事うることを請うと。此れ助けを求むるの本なり」
「できる限り自分自身が内実からの努力を尽くしてから、初めて外にも助けを求めるようにもする。
婚礼などもその一つであり、主君が不仁を娶る場合などにも、『願わくばよき妻と共にわが国を保ち、
社稷宋廟に仕えて行かんことを』と、共に成すべきことを前面に押し出した辞を述べるのである。これこそは
人が誰かに助けを求めて共なす手本とすべきあり方だといえる。(ただただ依存する相手などいるべきでない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭統第二十五より)
結婚の辞で、
「○○子を一生大事にします」とか言われないわけだよ。
「○○子と一緒によりよい世の中を作り上げていきます」と言わなければならない。
それが不可能であるようなら、離婚も辞さないぐらいの覚悟でな。
「○○子を一生大事にします」とか言われないわけだよ。
「○○子と一緒によりよい世の中を作り上げていきます」と言わなければならない。
それが不可能であるようなら、離婚も辞さないぐらいの覚悟でな。
禅門などでは、自分たちが自力作善による現世往生を志す「一世教」であることに合わせて、
他力本願の来世往生を希う浄土信仰やアブラハム教などを「二世教」と呼ぶ場合がある。
当然自分たちが一世教の帰依者であるわけだから、それこそは至上であるとしている
わけだけれども、二世教が世界的な猛威を振るっていることなどにも対応して、
「二世教で満足できるようなものはそうすればいい」などとも言ったりしている。
(以上は玄峰老師が「無門関提唱」で論じられていたことの略抄でもある)
ただ、やはり二世教ばかりが「宗教の王道」として世界的に持て囃されている現代世界こそは、
人類が滅亡の危機に見舞われているほどもの乱世でもある。現世を蔑ろにして来世を希ってばかり
いるわけだから、当然現世のほうは荒廃に見舞われていくこととなる。「だからこそ来世での
往生を願う」ではなく、来世の往生ばかりに囚われた結果、現世の破滅を招いているのである。
日本浄土教などは、公家の腐敗と武家の専横が深刻化したことにより乱世がもたらされて後、
鎌倉時代の中期に法然上人や親鸞聖人によって初めて民間にまで行き渡ったものであり、
(それ以前にも空也上人などによる布教があったが、まだ勢力を擁するまでには至らなかった)
乱世が別の理由でもたらされてから、仕方なく来世での極楽浄土への往生を願うという順序を
辛うじて守っている。だからこそ、来世往生ばかりを乞い求めた結果、自分たちが現世を
蔑ろにして乱世を招いたなどということにはなっていないことまでもが確かとなっている。
キリスト教などは、そうではないのである。妾腹の私生児が妄言妄動を来たした挙句に
無実の罪で重罪人の代わりに処刑されたという、かの世界一有名な疑獄事件が人々に決定的な
心の荒廃を植え付けた結果として、西洋社会やイスラム勃興以前の中東社会が暗黒の世へと
陥れられたのである。そこから来世での往生というものを信者に希うよう強要しているわけだから、
こちらの場合は、自分たちで破滅を招いておいて来世往生を欲するという、醜悪なマッチポンプ
としての条件を満たしてしまっているのである。(そのキリスト教の撃退を目的として創立された
イスラム教などは、教義の良し悪しはともかくとして、マッチポンプの条件は満たしていない)
他力本願の来世往生を希う浄土信仰やアブラハム教などを「二世教」と呼ぶ場合がある。
当然自分たちが一世教の帰依者であるわけだから、それこそは至上であるとしている
わけだけれども、二世教が世界的な猛威を振るっていることなどにも対応して、
「二世教で満足できるようなものはそうすればいい」などとも言ったりしている。
(以上は玄峰老師が「無門関提唱」で論じられていたことの略抄でもある)
ただ、やはり二世教ばかりが「宗教の王道」として世界的に持て囃されている現代世界こそは、
人類が滅亡の危機に見舞われているほどもの乱世でもある。現世を蔑ろにして来世を希ってばかり
いるわけだから、当然現世のほうは荒廃に見舞われていくこととなる。「だからこそ来世での
往生を願う」ではなく、来世の往生ばかりに囚われた結果、現世の破滅を招いているのである。
日本浄土教などは、公家の腐敗と武家の専横が深刻化したことにより乱世がもたらされて後、
鎌倉時代の中期に法然上人や親鸞聖人によって初めて民間にまで行き渡ったものであり、
(それ以前にも空也上人などによる布教があったが、まだ勢力を擁するまでには至らなかった)
乱世が別の理由でもたらされてから、仕方なく来世での極楽浄土への往生を願うという順序を
辛うじて守っている。だからこそ、来世往生ばかりを乞い求めた結果、自分たちが現世を
蔑ろにして乱世を招いたなどということにはなっていないことまでもが確かとなっている。
キリスト教などは、そうではないのである。妾腹の私生児が妄言妄動を来たした挙句に
無実の罪で重罪人の代わりに処刑されたという、かの世界一有名な疑獄事件が人々に決定的な
心の荒廃を植え付けた結果として、西洋社会やイスラム勃興以前の中東社会が暗黒の世へと
陥れられたのである。そこから来世での往生というものを信者に希うよう強要しているわけだから、
こちらの場合は、自分たちで破滅を招いておいて来世往生を欲するという、醜悪なマッチポンプ
としての条件を満たしてしまっているのである。(そのキリスト教の撃退を目的として創立された
イスラム教などは、教義の良し悪しはともかくとして、マッチポンプの条件は満たしていない)
「郊の祭は、大いに天に報いて日を主とし、月を以って配する。
夏后氏は其の闇に祭し、殷人は其の陽に祭す。周人は日を祭るに朝を以って闇に及ぶ」
「天神地祇を祀る祭においては、大いに天の恵みを尊んで日を主神とし、月を副神とする。
夏王朝では暗い夜の内に祭を行ったが、殷王朝では明るい朝昼の内に祭を行った。
周朝においては、日月の神を祀るために朝から晩まで祭りを行った」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
始め、まだ治世が磐石であった夏王朝の頃には、晩時に日月の神を祀るだけで済んでいた。
しかし、桀王のごとき暴君が現れて湯王がそれを放伐し、殷王朝を立ち上げて後には、
より一層の権力の防腐を図るために、気の引き締まりやすい日中の内にだけ郊祀を行うようになった。
しかし、その反動でこれまた極度の腐敗を招き、末代の紂王の頃には王宮の窓という窓を塞いで
昼となく夜となく宴会を繰り返すようなザマを招いた。そのため、次代の周王朝では昼だけでなく
夜にも祭りを行うようにして、昼夜の清濁を併せ呑むことでの安定を図って行ったのだった。
日中にしか郊祭を執り行っていなかった殷人たちも、それを堅苦しいことだと感じていたのである。
だからこそ末代の紂王も、王宮の窓という窓を閉ざしての万年夜遊び状態すらをも欲したのだ。
そして中国史上にも屈指の大破綻からなる亡国を招いた。紂王の所業を是とするような余地も
当然ありはしないが、日中にしか祭を行わなかった殷の伝統もまた清廉に過ぎたと言え、
昼にも夜にも祭りを行った周の風習こそは中庸にも適っていたものだといえる。
その周朝の風習に倣って、昼にも夜にも祭を行っている日本においては、厳粛な祭りは日中の内に、
夜店も軒を連ねるようなざっくばらんとした祭りは夜の内にといった風な扱い分けを講じている。
中には夜祭を主体としているような祭りもあり、ぼんぼりだ花火だといったイルミネーションにも通ずる
ような風物詩を売りとしているようなものもある。決してそれを全否定したりする必要はないのであり、
ただその度が越して、万年夜遊び状態になってしまうようなことにすらならなければいいのである。
夏后氏は其の闇に祭し、殷人は其の陽に祭す。周人は日を祭るに朝を以って闇に及ぶ」
「天神地祇を祀る祭においては、大いに天の恵みを尊んで日を主神とし、月を副神とする。
夏王朝では暗い夜の内に祭を行ったが、殷王朝では明るい朝昼の内に祭を行った。
周朝においては、日月の神を祀るために朝から晩まで祭りを行った」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
始め、まだ治世が磐石であった夏王朝の頃には、晩時に日月の神を祀るだけで済んでいた。
しかし、桀王のごとき暴君が現れて湯王がそれを放伐し、殷王朝を立ち上げて後には、
より一層の権力の防腐を図るために、気の引き締まりやすい日中の内にだけ郊祀を行うようになった。
しかし、その反動でこれまた極度の腐敗を招き、末代の紂王の頃には王宮の窓という窓を塞いで
昼となく夜となく宴会を繰り返すようなザマを招いた。そのため、次代の周王朝では昼だけでなく
夜にも祭りを行うようにして、昼夜の清濁を併せ呑むことでの安定を図って行ったのだった。
日中にしか郊祭を執り行っていなかった殷人たちも、それを堅苦しいことだと感じていたのである。
だからこそ末代の紂王も、王宮の窓という窓を閉ざしての万年夜遊び状態すらをも欲したのだ。
そして中国史上にも屈指の大破綻からなる亡国を招いた。紂王の所業を是とするような余地も
当然ありはしないが、日中にしか祭を行わなかった殷の伝統もまた清廉に過ぎたと言え、
昼にも夜にも祭りを行った周の風習こそは中庸にも適っていたものだといえる。
その周朝の風習に倣って、昼にも夜にも祭を行っている日本においては、厳粛な祭りは日中の内に、
夜店も軒を連ねるようなざっくばらんとした祭りは夜の内にといった風な扱い分けを講じている。
中には夜祭を主体としているような祭りもあり、ぼんぼりだ花火だといったイルミネーションにも通ずる
ような風物詩を売りとしているようなものもある。決してそれを全否定したりする必要はないのであり、
ただその度が越して、万年夜遊び状態になってしまうようなことにすらならなければいいのである。

したりするものではない。面白くないからといって止めるべきようなものではなく、むしろ気を
引き締めるためにこそ執り行うべきものである。その引き締まりがあってこそ、夜祭を健全な範囲で
楽しんで行くこともできるのだから、おかしな理由で取りやめるようなことがあってはならない。
人間の視力では、日中には視野が開け、夜間には視野が狭まる。日中にこそ、まさに全てが白日の下に
さらけ出されて、ごまかしの余地もなくなる。その潔癖さと共にでも清清しくいられるということが
一つの人間としての品位高さであり、君子たる人間であれば当然備えていなければならぬものである。
その品位高さを育むためにこそ日中の厳粛な祭りなども執り行うべきであるわけだが、夏王朝の頃の人々
のように、そのような品位高さを予め備えていればこそ、祭りなどは夜にしか行わなかった例もある。
近代以降の日本などでは、日中の仕事が倍増して忙しくなったものだから、諸々の祭りを
夜間だけに執り行うようなことが多くなった。これは、日中の仕事が曜日制で厳しく管理される
ようにもなったなどの制度上の理由があってものことであり、日本人が日中にも清清しくいられる
品位高さを得られるようになったからそうしたわけなどでは決してない。むしろ、日中に行う仕事
などは辛いものであるという割り切りと共にそうなったわけで、仕事の後の酔いつぶれなどを欲する
頻度もより高まることとなった。これは、日中にだけ執り行っていた祭りが形骸化して人々にとっての
重荷となり、挙句に紂王の万年夜遊び状態を招いた末期の殷のあり方などにも酷似した姿だといえる。
手法をこれとばかりに限る必要はないが、日中の事業をイヤイヤながらの義務などと感じてしまう
ような事態に陥らないようにしていくことが肝要だといえる。そうなってしまってから、日光からの
逃避を促すような邪神への帰依にすら人々が陥ったりしてしまったなら、もう終わりだと言える。
むしろ夜間に執り行う祭すら、日月のためであるぐらいでなければならないのである。
俺が謝罪しろというのは天皇スレではない。
責めたい気持ちも俺も無礼なことを言ってきたので心当たりがあるが
口座の残高を元に、「呪い」等の勘違いを重ねた上に
犬と罵倒したことだ。勘違いの上の発言だけに
改めて罵倒するのか、それとも謝罪するのかはっきりしてもらえないか。
責めたい気持ちも俺も無礼なことを言ってきたので心当たりがあるが
口座の残高を元に、「呪い」等の勘違いを重ねた上に
犬と罵倒したことだ。勘違いの上の発言だけに
改めて罵倒するのか、それとも謝罪するのかはっきりしてもらえないか。
自分自身に何らかの能力があったりするからではなく、わが身わが命が親先祖から
頂いたものであるからこそ貴いということがある。しかし、ただそれだけでは
親先祖への依存心を帯びることともなるから、実践と尊敬を伴う孝養を尽くすことで、
自分が親先祖への依存心を脱却して行くようにもする。(>>160-161を参照)すると、
自らの先天的な貴さと独立心とを兼ね備えた立派な大人へと成長して行けるようになる。
そこにこそ、わざわざ自分から偉ぶったりすることもない、磐石な自尊心が生じもする。
「自分自身が貴いからこそ偉ぶる」ということにもならず、「自分自身に頭が下がる
思いとなるから、誰しもに対して恭しくあろうともする」ということになる。自分自身
への尊崇が不足しているか、もしくは虚構の尊崇であるからこそ偉ぶったりもするのであり、
それをして「自尊心を持つことは悪いことだ」などと決め付けるのもおかしいのである。
本当のところ、自分が貴い存在だなどとは思えない、心中の底の底の部分に自分自身を
蔑むような思いがくすぶっているものだから、自分を尊ぼうとした所で演技止まりとなる。
演技なものだから考えが上ずって、自分を尊ぶのと引き換えに他人を蔑むようなことともなる。
確かに、そんな虚構の自尊心を持つぐらいなら持たないでいたほうがいいとも言えるわけで、
そんな人間と比べれば、宗教信仰が敬虔であるような人間のほうが見てくれ真摯だったり
もするものだから、自らを賤しんでまで信仰に敬虔で居させるような信教に帰依して
いるほうがマシだということにすらなってしまいかねないのである。
確かに、自らを卑下してまで神仏に拠り縋るような類いの信教もまた、必ずしもあっては
ならないものとまでは言えないのである。そういう志向性の信教であって、なおかつ信者
に社会的冷遇への甘んじをも受け入れさせるような教義をも持ち合わせているようなら、
特に問題はない。底辺の百姓や部落民あたりに阿弥陀仏への他力本願を促していた浄土教
などはその条件を満たしており、自尊心の持ちようもない被差別対象となるような人間が
未だこの世に存在せざるを得ない以上は、そういうものもまた必要悪となり得るのである。
頂いたものであるからこそ貴いということがある。しかし、ただそれだけでは
親先祖への依存心を帯びることともなるから、実践と尊敬を伴う孝養を尽くすことで、
自分が親先祖への依存心を脱却して行くようにもする。(>>160-161を参照)すると、
自らの先天的な貴さと独立心とを兼ね備えた立派な大人へと成長して行けるようになる。
そこにこそ、わざわざ自分から偉ぶったりすることもない、磐石な自尊心が生じもする。
「自分自身が貴いからこそ偉ぶる」ということにもならず、「自分自身に頭が下がる
思いとなるから、誰しもに対して恭しくあろうともする」ということになる。自分自身
への尊崇が不足しているか、もしくは虚構の尊崇であるからこそ偉ぶったりもするのであり、
それをして「自尊心を持つことは悪いことだ」などと決め付けるのもおかしいのである。
本当のところ、自分が貴い存在だなどとは思えない、心中の底の底の部分に自分自身を
蔑むような思いがくすぶっているものだから、自分を尊ぼうとした所で演技止まりとなる。
演技なものだから考えが上ずって、自分を尊ぶのと引き換えに他人を蔑むようなことともなる。
確かに、そんな虚構の自尊心を持つぐらいなら持たないでいたほうがいいとも言えるわけで、
そんな人間と比べれば、宗教信仰が敬虔であるような人間のほうが見てくれ真摯だったり
もするものだから、自らを賤しんでまで信仰に敬虔で居させるような信教に帰依して
いるほうがマシだということにすらなってしまいかねないのである。
確かに、自らを卑下してまで神仏に拠り縋るような類いの信教もまた、必ずしもあっては
ならないものとまでは言えないのである。そういう志向性の信教であって、なおかつ信者
に社会的冷遇への甘んじをも受け入れさせるような教義をも持ち合わせているようなら、
特に問題はない。底辺の百姓や部落民あたりに阿弥陀仏への他力本願を促していた浄土教
などはその条件を満たしており、自尊心の持ちようもない被差別対象となるような人間が
未だこの世に存在せざるを得ない以上は、そういうものもまた必要悪となり得るのである。
そうではなく、必要もなくわざわざあえて万人に自己卑下を促すような信教とも
なれば、これは虚構の自尊心を持つこと並みに百害あって一利もないものだといえる。
そのような信教によって本当に無駄な自己卑下が万人に植え付けられたとしたなら、
それが、心底の自己卑下をくすぶらせたままでの虚構の自尊心に基づく偉ぶりを
増産する元凶にすらなってしまいもするのだから、虚構の自尊心が有害無益なもので
あることにも連動して、それもまた有害無益なものであると結論付けられるのである。
「自尊心は真正なものたり得る」ということが全く認知されてもいなかったような
地域においてこそ、あえて自己卑下を奨励するような邪教までもが推進されたのだった。
自尊心は、上記のような意味での虚構物でしかあり得ないと思われていたからこそ、
偉ぶりを捨てるための自己卑下が道徳的なあり方だとすら思い込まれていたのである。
それは、自尊心が親先祖への孝養などを通じて真正なものたり得るということが認知
された後においては、もはやお払い箱となる考え方であり、免疫が付いた以上はもう
二度とかからない奇病のようなものである。真に正しい選択肢が認知されていない
限りにおいて、複数の間違った選択肢同士での対立が生ずるのは典型的なことであり、
いずれにも与することなく両成敗の中道に徹して行くのが進歩的な姿勢だといえる。
「賢を進むるにも已むを得ざるが如くすべし。
将に卑を使て尊きを踰え、疏きをして戚を踰えしむ、慎まざる可けんや」
「たとえ賢者を取り立てるのであっても、(尊くも親しくもないというのなら)あくまで
やむを得ずの場合に限るべきだ。卑しい者をあえて尊い者の上に置いたり、疎遠な者を
あえて親しい者の上に置いたりすることは、どこまでも慎んでいくに越したことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・七より)
なれば、これは虚構の自尊心を持つこと並みに百害あって一利もないものだといえる。
そのような信教によって本当に無駄な自己卑下が万人に植え付けられたとしたなら、
それが、心底の自己卑下をくすぶらせたままでの虚構の自尊心に基づく偉ぶりを
増産する元凶にすらなってしまいもするのだから、虚構の自尊心が有害無益なもので
あることにも連動して、それもまた有害無益なものであると結論付けられるのである。
「自尊心は真正なものたり得る」ということが全く認知されてもいなかったような
地域においてこそ、あえて自己卑下を奨励するような邪教までもが推進されたのだった。
自尊心は、上記のような意味での虚構物でしかあり得ないと思われていたからこそ、
偉ぶりを捨てるための自己卑下が道徳的なあり方だとすら思い込まれていたのである。
それは、自尊心が親先祖への孝養などを通じて真正なものたり得るということが認知
された後においては、もはやお払い箱となる考え方であり、免疫が付いた以上はもう
二度とかからない奇病のようなものである。真に正しい選択肢が認知されていない
限りにおいて、複数の間違った選択肢同士での対立が生ずるのは典型的なことであり、
いずれにも与することなく両成敗の中道に徹して行くのが進歩的な姿勢だといえる。
「賢を進むるにも已むを得ざるが如くすべし。
将に卑を使て尊きを踰え、疏きをして戚を踰えしむ、慎まざる可けんや」
「たとえ賢者を取り立てるのであっても、(尊くも親しくもないというのなら)あくまで
やむを得ずの場合に限るべきだ。卑しい者をあえて尊い者の上に置いたり、疎遠な者を
あえて親しい者の上に置いたりすることは、どこまでも慎んでいくに越したことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・七より)
そうですか。邪魔してしまいましたね。

急に本当の明るみに引き出されたりしたなら、目がくらんで
明るさを楽しむどころでもなくなる。だからこそ、性分陰湿な
自分たちにとっての適度な明るさの光のほうをより好むということがある。
そんな人間でも、ずっと本当の明るさの中にいれば、そこに慣れて
あえて低度の明るみを好んだりするようなこともなくなるわけだけれども、
たとえば白人のように、先祖代々北方や西方の暗がりばかりを追い求め続けて
来た結果、自分たちの肌の色素すら抜け落ちてしまったような人種が、今から
本当の明るみに慣れて行こうとしたりしたなら、他人種と比べても大きく
出遅れることとなるわけで、そこに一種の辟易が生じたりもするのである。
実際、「光を是とし、闇を非とする」などという考え方は、陰陽法則に即しても
不健全なものであるといえる。光と闇が織り交ざることでこそ万事万物も
成り立っているのであり、どちらが欠けても成し得るものなどありはしない。
ただ、「光を先とし、闇を後とする」という程度の優劣関係を光と闇の間に
講ずれば、万事万物がより健全に成し得る一方で、その優劣関係を欠いたり、
挙句には「闇を先とし、光を後とする」などという所にまで優劣関係を
追いやってしまったりしたなら、万物の化育もまた不健全なものとなり、
最悪の場合は種の滅亡級の破滅にすら至ることがあるのである。
故に「光は善であり、闇は悪である」という判別も幼稚に過ぎるものだといえる。
「光と闇を共に適切に扱うことが善であり、不適切に扱うことが悪である」
というのが、一瞥して分かりにくいにしろ、堅実な善悪の分別であるといえ、
そのような分別に即して構築されているのが儒学の仁義道徳だったりする一方、
光と闇を善悪と短絡して無理な分別をきかせたのが犯罪聖書の教義だったりする。
「無理な」というのは、結局、光を善とし闇を悪とするような幼稚な分別では
全く世の中の実相に即した分別たり得ないからで、そこでこじ付けとして、
実際には光の場とも呼べないような比較的な暗がりを光に見て取ったりの
錯誤を凝らすことで、多少世の中の実相に沿うような教義ともしているからだ。
するとそれが、光闇の扱いの適切さ如何を善悪の基準とする分別に即した場合の
「悪」となる。幼稚な分別を無理に実相に当てはめようとして、光闇の扱いを
ひどく不適切なものとしてしまったものだから、純悪の教義と化してしまっている。
必要なのは、幼稚な分別を脱却して、成熟した分別を会得することである。
光が善でも闇が悪でもその逆でもない、中正さを保った分別を旨とする。
そしたら結局、日照面において明るい地域も暗い地域もあるこの地球上において、
絶対に是とされたり非とされたりすべき人種民族などが存在するわけでもない
ことを知るのである。尊厳ある人種民族を騙るカルト集団などは別として。
「誠よりして明らかなるを之れ性と謂う。〜能く其の性を尽くせば、則ち能く人の
性を尽くす。能く人の性を尽くせば、則ち能く物の性を尽くす。能く物の性を尽くせば、
則ち以て天地の化育を賛ずべし。天地の化育を賛ず可くんば、則ち以て天地と与に参ず可し」
「己れの至誠によって光明豊かなることを天性という。よく己れの天性を尽くせたなら、
他人の天性をも尽くさせることができる。よく他人の天性をも尽くさせられたなら、諸々の
事物の天性すらをも尽くさせることができる。よく万物の天性をも尽くさせられたなら、
もはや天地の化育に協賛するにも等しい。天地の化育に協賛するからには、天地と
肩を並べる真人たり得る。(他力本願で光明に与るのではなく、至誠で光明を自得する。
その光明によって天地万物の化育にすら協賛し、天地人三才の一角ともなるという主意)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二一‐二二より)
全く世の中の実相に即した分別たり得ないからで、そこでこじ付けとして、
実際には光の場とも呼べないような比較的な暗がりを光に見て取ったりの
錯誤を凝らすことで、多少世の中の実相に沿うような教義ともしているからだ。
するとそれが、光闇の扱いの適切さ如何を善悪の基準とする分別に即した場合の
「悪」となる。幼稚な分別を無理に実相に当てはめようとして、光闇の扱いを
ひどく不適切なものとしてしまったものだから、純悪の教義と化してしまっている。
必要なのは、幼稚な分別を脱却して、成熟した分別を会得することである。
光が善でも闇が悪でもその逆でもない、中正さを保った分別を旨とする。
そしたら結局、日照面において明るい地域も暗い地域もあるこの地球上において、
絶対に是とされたり非とされたりすべき人種民族などが存在するわけでもない
ことを知るのである。尊厳ある人種民族を騙るカルト集団などは別として。
「誠よりして明らかなるを之れ性と謂う。〜能く其の性を尽くせば、則ち能く人の
性を尽くす。能く人の性を尽くせば、則ち能く物の性を尽くす。能く物の性を尽くせば、
則ち以て天地の化育を賛ずべし。天地の化育を賛ず可くんば、則ち以て天地と与に参ず可し」
「己れの至誠によって光明豊かなることを天性という。よく己れの天性を尽くせたなら、
他人の天性をも尽くさせることができる。よく他人の天性をも尽くさせられたなら、諸々の
事物の天性すらをも尽くさせることができる。よく万物の天性をも尽くさせられたなら、
もはや天地の化育に協賛するにも等しい。天地の化育に協賛するからには、天地と
肩を並べる真人たり得る。(他力本願で光明に与るのではなく、至誠で光明を自得する。
その光明によって天地万物の化育にすら協賛し、天地人三才の一角ともなるという主意)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二一‐二二より)
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