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聖書 Part10
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地球人類にとっての最も標準的な聖書として、誰しもがその地位を疑うことのない聖書、四書五経。
その全文はあくまで二千二百年以上前に用意されたものではあるものの(偽古文尚書の一部を除く)、
論語・大学・中庸・孟子の四書と、易経・詩経・書経(尚書)・礼記・春秋の五経を合わせて
「四書五経」として定型化されたのは宋代以降、朱子がこれらの経書を特薦してからである。
それ以前は四書五経だけでなく、他の数多の経書が四書五経並みかそれ以上もの扱いすらをも受けていた。
今でも「孝経」などが儒学の入門書として読むべき筆頭格として重んじられたりもしているが、
昔はそのような扱いすらをも受けていたのに、今では相当に程度の低い経書として扱われるように
なった儒書もいくらかあり、その代表格に性悪論を説く荀子の教説集「荀子」がありもする。
荀子の教説は、孟子の教説(性善論や臨戦論など)と決定的に食い違っている部分があり、
実際に荀子自身も「荀子」非十二子第六で孟子を槍玉に挙げつつその主張を非難するなどしている。
そのため、新儒学の大家である朱子が孟子の教説のほうに軍配を挙げたことを通じて、荀子の教説
のほうは「あくまで反面教師として扱うべきもの」として取り扱われるようになったのである。
ただ、荀子の自説はともかく、その知識や博学さは目を見張るものがある。「荀子」を実際に読めば
分かるとおり、単なる学知の披露度では孟子以上であり、文飾にかけても当時の究極級のものであった
だろうことがうかがえる。(そのため、諸子百家の文筆が粗雑で典雅さに欠けると非難していた
司馬遷までもが、「史記」礼書で「荀子」の文章を多量に引用するなどしてもいる)
にもかかわらず荀子は孟子以下とされ、朱子学はおろかその他の新儒学すらもが、荀子以上にも孟子を
尊重する道を歩んでいったのである。それはなぜかといえば、孟子の教説は簡易であっても誠実さや
情熱に満ちている一方、荀子の教説は博学ではあっても皮相的で誠実さにも欠けるものだったからである。

その全文はあくまで二千二百年以上前に用意されたものではあるものの(偽古文尚書の一部を除く)、
論語・大学・中庸・孟子の四書と、易経・詩経・書経(尚書)・礼記・春秋の五経を合わせて
「四書五経」として定型化されたのは宋代以降、朱子がこれらの経書を特薦してからである。
それ以前は四書五経だけでなく、他の数多の経書が四書五経並みかそれ以上もの扱いすらをも受けていた。
今でも「孝経」などが儒学の入門書として読むべき筆頭格として重んじられたりもしているが、
昔はそのような扱いすらをも受けていたのに、今では相当に程度の低い経書として扱われるように
なった儒書もいくらかあり、その代表格に性悪論を説く荀子の教説集「荀子」がありもする。
荀子の教説は、孟子の教説(性善論や臨戦論など)と決定的に食い違っている部分があり、
実際に荀子自身も「荀子」非十二子第六で孟子を槍玉に挙げつつその主張を非難するなどしている。
そのため、新儒学の大家である朱子が孟子の教説のほうに軍配を挙げたことを通じて、荀子の教説
のほうは「あくまで反面教師として扱うべきもの」として取り扱われるようになったのである。
ただ、荀子の自説はともかく、その知識や博学さは目を見張るものがある。「荀子」を実際に読めば
分かるとおり、単なる学知の披露度では孟子以上であり、文飾にかけても当時の究極級のものであった
だろうことがうかがえる。(そのため、諸子百家の文筆が粗雑で典雅さに欠けると非難していた
司馬遷までもが、「史記」礼書で「荀子」の文章を多量に引用するなどしてもいる)
にもかかわらず荀子は孟子以下とされ、朱子学はおろかその他の新儒学すらもが、荀子以上にも孟子を
尊重する道を歩んでいったのである。それはなぜかといえば、孟子の教説は簡易であっても誠実さや
情熱に満ちている一方、荀子の教説は博学ではあっても皮相的で誠実さにも欠けるものだったからである。

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なんだ、sheもララァなんかと同じただのpsycho circus pierrotか。
おまえに場合分けを駆使した中正論は理解できないようだ。
まずその極論志向からおまえ自身が卒業して行くしかない。
おまえに場合分けを駆使した中正論は理解できないようだ。
まずその極論志向からおまえ自身が卒業して行くしかない。
禅門などでは、自分たちが自力作善による現世往生を志す「一世教」であることに合わせて、
他力本願の来世往生を希う浄土信仰やアブラハム教などを「二世教」と呼ぶ場合がある。
当然自分たちが一世教の帰依者であるわけだから、それこそは至上であるとしている
わけだけれども、二世教が世界的な猛威を振るっていることなどにも対応して、
「二世教で満足できるようなものはそうすればいい」などとも言ったりしている。
(以上は玄峰老師が「無門関提唱」で論じられていたことの略抄でもある)
ただ、やはり二世教ばかりが「宗教の王道」として世界的に持て囃されている現代世界こそは、
人類が滅亡の危機に見舞われているほどもの乱世でもある。現世を蔑ろにして来世を希ってばかり
いるわけだから、当然現世のほうは荒廃に見舞われていくこととなる。「だからこそ来世での
往生を願う」ではなく、来世の往生ばかりに囚われた結果、現世の破滅を招いているのである。
日本浄土教などは、公家の腐敗と武家の専横が深刻化したことにより乱世がもたらされて後、
鎌倉時代の中期に法然上人や親鸞聖人によって初めて民間にまで行き渡ったものであり、
(それ以前にも空也上人などによる布教があったが、まだ勢力を擁するまでには至らなかった)
乱世が別の理由でもたらされてから、仕方なく来世での極楽浄土への往生を願うという順序を
辛うじて守っている。だからこそ、来世往生ばかりを乞い求めた結果、自分たちが現世を
蔑ろにして乱世を招いたなどということにはなっていないことまでもが確かとなっている。
キリスト教などは、そうではないのである。妾腹の私生児が妄言妄動を来たした挙句に
無実の罪で重罪人の代わりに処刑されたという、かの世界一有名な疑獄事件が人々に決定的な
心の荒廃を植え付けた結果として、西洋社会やイスラム勃興以前の中東社会が暗黒の世へと
陥れられたのである。そこから来世での往生というものを信者に希うよう強要しているわけだから、
こちらの場合は、自分たちで破滅を招いておいて来世往生を欲するという、醜悪なマッチポンプ
としての条件を満たしてしまっているのである。(そのキリスト教の撃退を目的として創立された
イスラム教などは、教義の良し悪しはともかくとして、マッチポンプの条件は満たしていない)
他力本願の来世往生を希う浄土信仰やアブラハム教などを「二世教」と呼ぶ場合がある。
当然自分たちが一世教の帰依者であるわけだから、それこそは至上であるとしている
わけだけれども、二世教が世界的な猛威を振るっていることなどにも対応して、
「二世教で満足できるようなものはそうすればいい」などとも言ったりしている。
(以上は玄峰老師が「無門関提唱」で論じられていたことの略抄でもある)
ただ、やはり二世教ばかりが「宗教の王道」として世界的に持て囃されている現代世界こそは、
人類が滅亡の危機に見舞われているほどもの乱世でもある。現世を蔑ろにして来世を希ってばかり
いるわけだから、当然現世のほうは荒廃に見舞われていくこととなる。「だからこそ来世での
往生を願う」ではなく、来世の往生ばかりに囚われた結果、現世の破滅を招いているのである。
日本浄土教などは、公家の腐敗と武家の専横が深刻化したことにより乱世がもたらされて後、
鎌倉時代の中期に法然上人や親鸞聖人によって初めて民間にまで行き渡ったものであり、
(それ以前にも空也上人などによる布教があったが、まだ勢力を擁するまでには至らなかった)
乱世が別の理由でもたらされてから、仕方なく来世での極楽浄土への往生を願うという順序を
辛うじて守っている。だからこそ、来世往生ばかりを乞い求めた結果、自分たちが現世を
蔑ろにして乱世を招いたなどということにはなっていないことまでもが確かとなっている。
キリスト教などは、そうではないのである。妾腹の私生児が妄言妄動を来たした挙句に
無実の罪で重罪人の代わりに処刑されたという、かの世界一有名な疑獄事件が人々に決定的な
心の荒廃を植え付けた結果として、西洋社会やイスラム勃興以前の中東社会が暗黒の世へと
陥れられたのである。そこから来世での往生というものを信者に希うよう強要しているわけだから、
こちらの場合は、自分たちで破滅を招いておいて来世往生を欲するという、醜悪なマッチポンプ
としての条件を満たしてしまっているのである。(そのキリスト教の撃退を目的として創立された
イスラム教などは、教義の良し悪しはともかくとして、マッチポンプの条件は満たしていない)
それで結局、マッチポンプの条件を満たしている二世教こそは、プラスマイナスゼロ以下の
有害無益な悪影響を人と世にもたらすことが原理的に運命付けられてもいる。二世教であっても
マッチポンプとしての条件を満たしていない信教であれば、とんでもなくいい影響をもたらす
とまではいかずとも、大いなる害悪をもたらすということもない結果をもたらすものである。
二世教ってのは、それぐらいのもんである。害があるか、害も益もないかという程のもの。
大いなる益をもたらそうというのなら、一世教や無宗教の儒学などによる精進が必要である。
それは、現世か来世かなどにも関係のないことであるから、玄峰老師も遷化の際に「旅に出るぞ、
支度しろ」と遺言し、未来永劫永世にわたるまでの精進の持続を示唆もされたのである。
二世教に価値が全くないなどとは言わない。ただ、現代人の多くが考えているよりも遥かに、
二世教の存在価値というものは低い。それこそあるよりもないほうがマシな負の存在価値を
持った邪教も二世教にこそ多々あり得るもの。一世教も帰依姿勢が二世教的に成り下がった
挙句に腐敗してしまったりするものなのだから、そんな信教に帰依するぐらいなら、信教
なんか打ち捨ててしまったほうがマシであるということも確かに言えなくはないのである。
(自分たちも宗教者であるため、禅僧などがここまで突っ込んだ物言いをすることもないが)
激烈な他力信仰が心の修養に結び付くなんてのも、極めて低率な未曾有の事態であり、
そんなことはまずあり得ないぐらいのことと思ったがいい。もちろん皆無なわけでもないが、
奇跡的にそれを実現している浄土教の悪人正機説なども、種を明かしてみれば随分と粗末な
頓知となっている。そのような稀有な事例を含めて考えてみても、まあ、他力本願の二世教自体、
なくて済むならそうすりゃいいぐらいのものとして、成熟した大人なら考えておくべきである。
有害無益な悪影響を人と世にもたらすことが原理的に運命付けられてもいる。二世教であっても
マッチポンプとしての条件を満たしていない信教であれば、とんでもなくいい影響をもたらす
とまではいかずとも、大いなる害悪をもたらすということもない結果をもたらすものである。
二世教ってのは、それぐらいのもんである。害があるか、害も益もないかという程のもの。
大いなる益をもたらそうというのなら、一世教や無宗教の儒学などによる精進が必要である。
それは、現世か来世かなどにも関係のないことであるから、玄峰老師も遷化の際に「旅に出るぞ、
支度しろ」と遺言し、未来永劫永世にわたるまでの精進の持続を示唆もされたのである。
二世教に価値が全くないなどとは言わない。ただ、現代人の多くが考えているよりも遥かに、
二世教の存在価値というものは低い。それこそあるよりもないほうがマシな負の存在価値を
持った邪教も二世教にこそ多々あり得るもの。一世教も帰依姿勢が二世教的に成り下がった
挙句に腐敗してしまったりするものなのだから、そんな信教に帰依するぐらいなら、信教
なんか打ち捨ててしまったほうがマシであるということも確かに言えなくはないのである。
(自分たちも宗教者であるため、禅僧などがここまで突っ込んだ物言いをすることもないが)
激烈な他力信仰が心の修養に結び付くなんてのも、極めて低率な未曾有の事態であり、
そんなことはまずあり得ないぐらいのことと思ったがいい。もちろん皆無なわけでもないが、
奇跡的にそれを実現している浄土教の悪人正機説なども、種を明かしてみれば随分と粗末な
頓知となっている。そのような稀有な事例を含めて考えてみても、まあ、他力本願の二世教自体、
なくて済むならそうすりゃいいぐらいのものとして、成熟した大人なら考えておくべきである。
「成湯、桀を南巣に放つ、惟れ徳に慚ずる有り。曰く、予れ来世に台れを以って口実と為さんことを恐る」
「殷の湯王は暴虐の限りを尽くしていた夏の桀王を南巣に放伐して新たな王朝を創建した。しかし、
(放伐革命という)その所業に仁徳に照らし合わせて恥ずる所があったため、こう言って悔やんだ。
『私は次の世で、(私の所業が体制転覆の)口実となることを恐れている』(桀王の暴虐によって
『奴すら死ぬのなら共に死んだって構わない〈湯誓〉』というほどもの思いに駆られていた民衆たち
にとって、湯王による放伐革命でもたらされた治世はそれこそ『新しい世界への生まれ変わり』という
ほどのものであったに違いない。しかし、そうであっても当の湯王自身は、自らの行いが不徳ではなかったか
と羞じるところがったのである。民衆たちにとっての二世教的な救いを実現しながら、当の湯王自身は
二世教的な事態に及んだことを恥じた。二世教的志向はそれ自体が徳に即して恥ずべきものなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)
「殷の湯王は暴虐の限りを尽くしていた夏の桀王を南巣に放伐して新たな王朝を創建した。しかし、
(放伐革命という)その所業に仁徳に照らし合わせて恥ずる所があったため、こう言って悔やんだ。
『私は次の世で、(私の所業が体制転覆の)口実となることを恐れている』(桀王の暴虐によって
『奴すら死ぬのなら共に死んだって構わない〈湯誓〉』というほどもの思いに駆られていた民衆たち
にとって、湯王による放伐革命でもたらされた治世はそれこそ『新しい世界への生まれ変わり』という
ほどのものであったに違いない。しかし、そうであっても当の湯王自身は、自らの行いが不徳ではなかったか
と羞じるところがったのである。民衆たちにとっての二世教的な救いを実現しながら、当の湯王自身は
二世教的な事態に及んだことを恥じた。二世教的志向はそれ自体が徳に即して恥ずべきものなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)
完璧Ill。^^
>>20
(ええと。なんで携帯なんですか? 関係ないですが。PCは名無し投稿用ですか?
あー、こっち連投規制になるよ。携帯レスのあとだと。そういう意味? だとしたら、どんだけセコいんだよ)
で、それ何の話しですか?
場合分けを駆使した中世論? それはどこのレスですか? 説明していただけますか?
と、ここで理解できないヤツに、説明は不可能とか、言うんでしょうな? 何が、
人の心だよ、聴いて呆れます。本物(口だけの人間としての)ダこいつ。
もうグーの根も出なくなったら、前はレス切ってましたが、さすがに長ーく続くスレは、
意地でもアホなこじつけ続けるわけですね。本物の下衆だ。つまり身の程知らずの下の衆だ。
そちらは、バタイユも知らない、自然理念の形而上学が哲学においては西洋基督教の教義にある
普遍の作用をもとに体系づけられたことも知らずに、いっぽうで否定し、一方でエラそうに普遍が
どうのと宣い、引用したヨハネ伝の読み違えを認める勇気もない、まったくの腰抜けだ。
前に言ったよね? そちらの言動は「信が真なきゆえに、義は欺に成り果ててたか」と。
今も、同じ感想だ。人の心が基本の信条と言うならば、「したり止めたりすべからず」であるはず
が、その>>20のレスによってまったくそちらは持ち得るわけもないと言うのが、よくわかりました。
貴賤貴賤とわめく、心人。そんなものがおれば、そこには永劫機先などなし。
(ええと。なんで携帯なんですか? 関係ないですが。PCは名無し投稿用ですか?
あー、こっち連投規制になるよ。携帯レスのあとだと。そういう意味? だとしたら、どんだけセコいんだよ)
で、それ何の話しですか?
場合分けを駆使した中世論? それはどこのレスですか? 説明していただけますか?
と、ここで理解できないヤツに、説明は不可能とか、言うんでしょうな? 何が、
人の心だよ、聴いて呆れます。本物(口だけの人間としての)ダこいつ。
もうグーの根も出なくなったら、前はレス切ってましたが、さすがに長ーく続くスレは、
意地でもアホなこじつけ続けるわけですね。本物の下衆だ。つまり身の程知らずの下の衆だ。
そちらは、バタイユも知らない、自然理念の形而上学が哲学においては西洋基督教の教義にある
普遍の作用をもとに体系づけられたことも知らずに、いっぽうで否定し、一方でエラそうに普遍が
どうのと宣い、引用したヨハネ伝の読み違えを認める勇気もない、まったくの腰抜けだ。
前に言ったよね? そちらの言動は「信が真なきゆえに、義は欺に成り果ててたか」と。
今も、同じ感想だ。人の心が基本の信条と言うならば、「したり止めたりすべからず」であるはず
が、その>>20のレスによってまったくそちらは持ち得るわけもないと言うのが、よくわかりました。
貴賤貴賤とわめく、心人。そんなものがおれば、そこには永劫機先などなし。
ある雑貨屋さんが、問屋さんに買い付けに行ったとき、そこには店にある在庫商品と重複するような
商品ばかりで、仕入れなくともプロパー商品の量や質は事足りるので、何も買い付けをしなかった。
というような、物質の数量によって配置できる物ではないわけで。
つまり、そちらが掲げるゴギョウハコベラホトケノザ?の書は西洋の基督教的(なぜかこれに固執してますがー)土壌で育った思想?哲学?、なんでいいや、それをも内包しているからとか、
最近は、それゆえにこれを持ってすれば、それらのものがいかに排すべきものであるかがよくわかり、
またそれらを間違いを一切質すことができる、と言わんばかりでやんす。
大体、そちらの考えは西洋文化が入る前に寄っているから、それらがあると停滞するわけでしょう?
(漢籍を編んだ人たちは、西洋の考え方などに触れてもいない前提があり、なのでそこに
西洋思想がないのは当然で、だからといって、現代人もそれを排していくことが理にかなっている
とか、雄三毛猫が貴重だからと雄の白いネコをヘアカラーで三毛にするようなものだ)
で、冒頭のたとえ話は、そちらの姿勢を言っているのだが、東洋の漢籍を中心とした思想があれば
事足りるとは、森羅万象あますことなく網羅することの意味では全くないということ。逆に言え
ば、
森羅万象というものは、現在までにある悠久の時間の蓄積の上にある。だからといって、
その祖たる物がまた一番エラいと言うわけでもないし、大げさに人類すべてから、
その上のものまでに触れるという話しの中で排除という形があれば、
そこにたどり着くことは不可能になるということを知っていなければならない。
(森羅万象が歯抜け言葉になり「し○ら○んしょう」という無知の章が出来上がると言う次第)
西洋を知らぬところから始めるのでなく、つまり引用から話し(もはや論というには幼稚すぎる)が引き出されたり、
真意を扨措いたままに言葉の強調のみに活用しているのは、そちら>>1が殊更低くあることの現れだ。
商品ばかりで、仕入れなくともプロパー商品の量や質は事足りるので、何も買い付けをしなかった。
というような、物質の数量によって配置できる物ではないわけで。
つまり、そちらが掲げるゴギョウハコベラホトケノザ?の書は西洋の基督教的(なぜかこれに固執してますがー)土壌で育った思想?哲学?、なんでいいや、それをも内包しているからとか、
最近は、それゆえにこれを持ってすれば、それらのものがいかに排すべきものであるかがよくわかり、
またそれらを間違いを一切質すことができる、と言わんばかりでやんす。
大体、そちらの考えは西洋文化が入る前に寄っているから、それらがあると停滞するわけでしょう?
(漢籍を編んだ人たちは、西洋の考え方などに触れてもいない前提があり、なのでそこに
西洋思想がないのは当然で、だからといって、現代人もそれを排していくことが理にかなっている
とか、雄三毛猫が貴重だからと雄の白いネコをヘアカラーで三毛にするようなものだ)
で、冒頭のたとえ話は、そちらの姿勢を言っているのだが、東洋の漢籍を中心とした思想があれば
事足りるとは、森羅万象あますことなく網羅することの意味では全くないということ。逆に言え
ば、
森羅万象というものは、現在までにある悠久の時間の蓄積の上にある。だからといって、
その祖たる物がまた一番エラいと言うわけでもないし、大げさに人類すべてから、
その上のものまでに触れるという話しの中で排除という形があれば、
そこにたどり着くことは不可能になるということを知っていなければならない。
(森羅万象が歯抜け言葉になり「し○ら○んしょう」という無知の章が出来上がると言う次第)
西洋を知らぬところから始めるのでなく、つまり引用から話し(もはや論というには幼稚すぎる)が引き出されたり、
真意を扨措いたままに言葉の強調のみに活用しているのは、そちら>>1が殊更低くあることの現れだ。
「君子の道は始めは暗然としているが、次第に明らかとなって行く(中庸)」とか
「大いなる任務を帯びた人間はまず始めに心志を苦しまされる(孟子)」だとかいった風に、
まず率先して暗中模索の努力に務めた上で大いなる結果を出そうとすることが、
自力作善の徳行の基本となっている。故に、自力作善本位の儒者の有り様を
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/134941759...
上のように「盲目だ」などとまで決め付けるものが昔からいたのでもある。
他力本願の二世教の信者なども、現世が闇雲であったりすることは認めていて、
だからこそ来世での光明を期待したりはするわけだけれども、別に光明に与るための
現世での自助努力に務めたりするわけでもなく、ただただ闇を嫌って光を好むというばかりの
姿勢でいる。だからこそ、現世の暗雲の中ですら自助努力に勤めて行こうなどとする者を
「光を嫌って闇に溺れる者」だなどとまで決め付けてあざ笑ったりすることすらもがあるのである。
そんな他力本願者と自力作善者とが並存していたとして、なおかつ来世の往生など
あり得ないと確定してしまったとする。したらば、現世の暗闇の中から努力を積んで行こうとした
自力作善者こそは功労の結実による光明に与れる一方で、他力本願者のほうは今まで
甘受すべき闇すらをも拒絶して光への嗜好ばかりに明け暮れていた不実がたたって、
今からこそ真っ暗闇の中での幽閉生活を強いられて行くことにすらなってしまうのである。
辛うじて「これからの暗闇」を免れられることとなった二世教(浄土教、イスラム教、拝火教など)
はといえば、いずれも「信仰のための自制」こそを少なからず信者に促すものであった。
戒律主義のイスラム教や拝火教はおろか、無戒律の浄土教すらもが、信仰によって信者たちの
自制心を育ませる方便上の効能を伴っているものであった。であるからには、闇と汚濁に
まみれた現世における開き直りを信者に促すものでまではなかったわけで、そのような
堅実さが伴っていればこそ、他力本願といえども、来世の光明などなかったとしたところで、
今さら暗闇に突き落とされるような運命に見舞われることもなくて済んだわけである。
「大いなる任務を帯びた人間はまず始めに心志を苦しまされる(孟子)」だとかいった風に、
まず率先して暗中模索の努力に務めた上で大いなる結果を出そうとすることが、
自力作善の徳行の基本となっている。故に、自力作善本位の儒者の有り様を
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/134941759...
上のように「盲目だ」などとまで決め付けるものが昔からいたのでもある。
他力本願の二世教の信者なども、現世が闇雲であったりすることは認めていて、
だからこそ来世での光明を期待したりはするわけだけれども、別に光明に与るための
現世での自助努力に務めたりするわけでもなく、ただただ闇を嫌って光を好むというばかりの
姿勢でいる。だからこそ、現世の暗雲の中ですら自助努力に勤めて行こうなどとする者を
「光を嫌って闇に溺れる者」だなどとまで決め付けてあざ笑ったりすることすらもがあるのである。
そんな他力本願者と自力作善者とが並存していたとして、なおかつ来世の往生など
あり得ないと確定してしまったとする。したらば、現世の暗闇の中から努力を積んで行こうとした
自力作善者こそは功労の結実による光明に与れる一方で、他力本願者のほうは今まで
甘受すべき闇すらをも拒絶して光への嗜好ばかりに明け暮れていた不実がたたって、
今からこそ真っ暗闇の中での幽閉生活を強いられて行くことにすらなってしまうのである。
辛うじて「これからの暗闇」を免れられることとなった二世教(浄土教、イスラム教、拝火教など)
はといえば、いずれも「信仰のための自制」こそを少なからず信者に促すものであった。
戒律主義のイスラム教や拝火教はおろか、無戒律の浄土教すらもが、信仰によって信者たちの
自制心を育ませる方便上の効能を伴っているものであった。であるからには、闇と汚濁に
まみれた現世における開き直りを信者に促すものでまではなかったわけで、そのような
堅実さが伴っていればこそ、他力本願といえども、来世の光明などなかったとしたところで、
今さら暗闇に突き落とされるような運命に見舞われることもなくて済んだわけである。
正直、二世教こそは、この世の害悪の主体的な元凶になってしまいがちなものである。
今はたまたま聖書信仰がその代表格たり得ているけれども、他力本願の現世努力放り投げという
姿勢全般が罪悪に繋がりがちなものなのであり、普通に考えて忌むべきものなのである。
その中でたまたま害悪の抑制に与するような二世教があったとしたところで、むしろそのような
信教のほうが二世教のうちでは変則的なものとなっている。(だから浄土教の悪人正機説
なども見てくれ変則的な論説となっている)現世をないがしろにしてまで来世を希求するのと、
現世は現世でそれなりでいながら来世の光明までをも希求するのとでは、むしろ現世を蔑ろに
する場合のほうが「より二世教らしい」といえる。だから、二世教の一般的価値というものを
高く見積もるのであれば、自然と聖書信仰あたりが突出した権威性をも帯びてくるようになって
しまう。そうならないためには、聖書信仰という特定の信教を非とするだけでなく、二世教
という宗教的体裁全般の価値の見直しまでもが講じられていかなければならないのである。
ペルシャの哲学者スフラワルディーも、東方こそは光の精神文明、西方こそは闇の物質文明で
あるとする照明論哲学を展開しているが、東方こそは自力作善を主体とした文化の隆盛地と
なって来た一方、西方こそは他力本願を主体とした文化の蔓延地ともなっている。現世での
光の希求を拒絶して来世への嘱望に逃避して来たからこそ、現世の西洋文化こそは闇を主体
とした文化文明であり続けて来てしまった。それは結局、来世にしか光明を見出すべきでない
とした最悪級の二世教の根拠地ともなって来たからなのだから、真の光に与るためにこそ、
そのような志向を信者に強要する邪教の払拭を講じていくことで、西洋人までもが真の光明に
与っていけるようになるのだといえる。無論、真の光明に与りたいのかどうかは知らないが。
今はたまたま聖書信仰がその代表格たり得ているけれども、他力本願の現世努力放り投げという
姿勢全般が罪悪に繋がりがちなものなのであり、普通に考えて忌むべきものなのである。
その中でたまたま害悪の抑制に与するような二世教があったとしたところで、むしろそのような
信教のほうが二世教のうちでは変則的なものとなっている。(だから浄土教の悪人正機説
なども見てくれ変則的な論説となっている)現世をないがしろにしてまで来世を希求するのと、
現世は現世でそれなりでいながら来世の光明までをも希求するのとでは、むしろ現世を蔑ろに
する場合のほうが「より二世教らしい」といえる。だから、二世教の一般的価値というものを
高く見積もるのであれば、自然と聖書信仰あたりが突出した権威性をも帯びてくるようになって
しまう。そうならないためには、聖書信仰という特定の信教を非とするだけでなく、二世教
という宗教的体裁全般の価値の見直しまでもが講じられていかなければならないのである。
ペルシャの哲学者スフラワルディーも、東方こそは光の精神文明、西方こそは闇の物質文明で
あるとする照明論哲学を展開しているが、東方こそは自力作善を主体とした文化の隆盛地と
なって来た一方、西方こそは他力本願を主体とした文化の蔓延地ともなっている。現世での
光の希求を拒絶して来世への嘱望に逃避して来たからこそ、現世の西洋文化こそは闇を主体
とした文化文明であり続けて来てしまった。それは結局、来世にしか光明を見出すべきでない
とした最悪級の二世教の根拠地ともなって来たからなのだから、真の光に与るためにこそ、
そのような志向を信者に強要する邪教の払拭を講じていくことで、西洋人までもが真の光明に
与っていけるようになるのだといえる。無論、真の光明に与りたいのかどうかは知らないが。
「飶たる其の香り、邦家の光なる。椒たる其の馨り、胡考の寧らぎなる。
且のみ且く有るに匪ず、今のみ今の斯くに匪ず、振古よりして茲の如し」
「豊穣のために神前に祭られた供物もかぐわしく、邦家の光となり、長老たちにとっての
安心の糧ともなっている。昔こうだったというのでも、今に限ってこうだというのでもない。
昔からの努力があるからこそ斯くの如くでいられるのである。(長年の努力こそが光を呼び込む)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・閔予小子之什・載芟より)
且のみ且く有るに匪ず、今のみ今の斯くに匪ず、振古よりして茲の如し」
「豊穣のために神前に祭られた供物もかぐわしく、邦家の光となり、長老たちにとっての
安心の糧ともなっている。昔こうだったというのでも、今に限ってこうだというのでもない。
昔からの努力があるからこそ斯くの如くでいられるのである。(長年の努力こそが光を呼び込む)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・閔予小子之什・載芟より)
>>1
まず排他主義的思考を改めるべきだ。そして、自分の無知と恥の意味を知るべきだ。
本当のところは、勝ったー負けたーハイ論破などが好きなだけだろう。ただの意固地なだけで、
バカを応援したくなる人たちのお陰で、
『小人閑居為不善、在有己無知、是無之有』になってるだけだよー。
そちらは、○○を現代の人にも分かるように流布することが自分の努め、
だとか言ってる宗教家と変わらない。徳、説くが、“得”無し。
>>27->>28
[The fact that’s light to one in the jet-black is for answer to one of them physical. "One of them" is mean of all from answer from question of here.]
まず排他主義的思考を改めるべきだ。そして、自分の無知と恥の意味を知るべきだ。
本当のところは、勝ったー負けたーハイ論破などが好きなだけだろう。ただの意固地なだけで、
バカを応援したくなる人たちのお陰で、
『小人閑居為不善、在有己無知、是無之有』になってるだけだよー。
そちらは、○○を現代の人にも分かるように流布することが自分の努め、
だとか言ってる宗教家と変わらない。徳、説くが、“得”無し。
>>27->>28
[The fact that’s light to one in the jet-black is for answer to one of them physical. "One of them" is mean of all from answer from question of here.]
さして込み入った話し合いをすべきでもない所。
たとえ自分が世界の帝王になるとしたって、他人を押しのけて自分がその座に
就くのではなく、むしろその座において自らが人並み以上の精進虚静に励む
ぐらいのつもりでいて初めて、仁徳ある帝王ともなり得るのである。
そのような条件を満たしていたのが、たとえば近代以前の日本の天皇である。
平安期までの律令制時代においては、藤原摂関家のごとき重臣たちの栄華を温かく見守り、
自身はといえば「天上人」としての責務に即して清廉を尽くした生活を守っていた。
実権が公家から武家へと移行した武家時代においても、やはり大名将軍の栄達を
禁裏から見守る最終統率者としての立場に徹していた。(南北朝時代など一部を除く)
これは、陰陽道を発祥地の中国以上にも精練することで確立された日本ならではの
優良な統治システムであり、その起源は聖徳太子による天皇(的立場)の提唱あたりにまで
さかのぼる。中国の皇帝のようなあからさまな栄華を自分自身が享受しないのと引き換えに、
革命による皇位簒奪などを厳禁した、恒久的な立場の維持を実現して行くものとしたのである。
その、「臣下の繁栄こそを約束する王者」としての天皇の立場が決定的に揺るがされたのが、
近代以降の大日本帝国や国家神道の擁立に基づく天皇の一尊化であった。天皇以下の臣下臣民は
みな天皇のために全てをなげうつ下僕とされ、「天皇陛下万歳」と叫びながらであれば戦中での
特攻や玉砕もお咎めなしという、日本史上に未だかつて前例のない異常事態を招いた。
敗戦後、天皇の権限や権威に大幅な制限が加えられることとなったために、最悪級の集団
ヒステリー状態ぐらいは回避されるようになったが(それでも一部の極右団体などが残存する)、
最大級の権威は保持しても権力は独り占めせず、特に有能な重臣やその末裔たちの
勇躍を公認しつつ温かく見守るという天皇本来のあり方が修復されたわけでは全く
ないわけで、統治もしなければ、ほとんど君臨すらしなくなってしまったその
存在性が、ほとんど意義を喪失しかけるような状態となってしまったのだった。
就くのではなく、むしろその座において自らが人並み以上の精進虚静に励む
ぐらいのつもりでいて初めて、仁徳ある帝王ともなり得るのである。
そのような条件を満たしていたのが、たとえば近代以前の日本の天皇である。
平安期までの律令制時代においては、藤原摂関家のごとき重臣たちの栄華を温かく見守り、
自身はといえば「天上人」としての責務に即して清廉を尽くした生活を守っていた。
実権が公家から武家へと移行した武家時代においても、やはり大名将軍の栄達を
禁裏から見守る最終統率者としての立場に徹していた。(南北朝時代など一部を除く)
これは、陰陽道を発祥地の中国以上にも精練することで確立された日本ならではの
優良な統治システムであり、その起源は聖徳太子による天皇(的立場)の提唱あたりにまで
さかのぼる。中国の皇帝のようなあからさまな栄華を自分自身が享受しないのと引き換えに、
革命による皇位簒奪などを厳禁した、恒久的な立場の維持を実現して行くものとしたのである。
その、「臣下の繁栄こそを約束する王者」としての天皇の立場が決定的に揺るがされたのが、
近代以降の大日本帝国や国家神道の擁立に基づく天皇の一尊化であった。天皇以下の臣下臣民は
みな天皇のために全てをなげうつ下僕とされ、「天皇陛下万歳」と叫びながらであれば戦中での
特攻や玉砕もお咎めなしという、日本史上に未だかつて前例のない異常事態を招いた。
敗戦後、天皇の権限や権威に大幅な制限が加えられることとなったために、最悪級の集団
ヒステリー状態ぐらいは回避されるようになったが(それでも一部の極右団体などが残存する)、
最大級の権威は保持しても権力は独り占めせず、特に有能な重臣やその末裔たちの
勇躍を公認しつつ温かく見守るという天皇本来のあり方が修復されたわけでは全く
ないわけで、統治もしなければ、ほとんど君臨すらしなくなってしまったその
存在性が、ほとんど意義を喪失しかけるような状態となってしまったのだった。
究極級の陰陽道の精査にも即して確立された天皇という立場の存在意義の復興のためにも、
「全体主義か独裁主義か」といったような両極端を排した、中庸的な考え方が必要となる。
「他人を押しのけてでも自分がのし上がる」というような独尊志向を排するためにこそ、
天皇も万世一系の世襲制でいる。天皇以下の臣下ならばまだ成り上がりの可能性も
あり得るが、それとて豊臣秀吉のように新たな本姓を創設してまで、百姓から関白家
にまでのし上がろうとするような突発性を伴っているようなら、危ういものである。
名目上の位階からでも、無闇なのし上がりを抑制する厳格さを保った上で、なだらかな
上下の序列を形成して行くことが、独裁的でも全体的でもない中正なあり方となる。
そのような中庸を保った体制を是認できて、実際に自分が服して行ける人間こそは自らが
中庸を尊べる君子でもある一方、いまいちそんな分かりにくい体制にはなじめなくて、
自分一人が他者を押しのけてでものし上がりってたいというような人間は、やはり自分自身が
君子としての素養を欠いているのだといえる。身分が上か下か官か民かなどによらず、
できる限りそういった意味での君子的な品位の持ち主ばかりで世の中が占められるように
なるに越したことはないわけだから、上記のような本来の有り方を取り戻した天皇や、
それに準ずる君主が君臨する世の中が世界規模でも実現されていったならば、それに
よってこの地球上も破滅の危機を免れられるのはもちろんのこと、未だかつて到来した
こともないような未曾有の繁栄が全人類に対して実現されて行くこととすらなるだろう。
「損益は盛衰の始めなり」
「損益の自然な流れが物事の盛衰の発端となる。
(盛衰いずれかで言えば盛んであるに越したことはないが、世に限りある富を
人々が分け合う上での損益が極まった時に仕方なく盛衰のうねりが生ずるのである。
故に、そこに『〜ねばならない』などといった恣意を差し挟むべきでもないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・雑卦伝より)
「全体主義か独裁主義か」といったような両極端を排した、中庸的な考え方が必要となる。
「他人を押しのけてでも自分がのし上がる」というような独尊志向を排するためにこそ、
天皇も万世一系の世襲制でいる。天皇以下の臣下ならばまだ成り上がりの可能性も
あり得るが、それとて豊臣秀吉のように新たな本姓を創設してまで、百姓から関白家
にまでのし上がろうとするような突発性を伴っているようなら、危ういものである。
名目上の位階からでも、無闇なのし上がりを抑制する厳格さを保った上で、なだらかな
上下の序列を形成して行くことが、独裁的でも全体的でもない中正なあり方となる。
そのような中庸を保った体制を是認できて、実際に自分が服して行ける人間こそは自らが
中庸を尊べる君子でもある一方、いまいちそんな分かりにくい体制にはなじめなくて、
自分一人が他者を押しのけてでものし上がりってたいというような人間は、やはり自分自身が
君子としての素養を欠いているのだといえる。身分が上か下か官か民かなどによらず、
できる限りそういった意味での君子的な品位の持ち主ばかりで世の中が占められるように
なるに越したことはないわけだから、上記のような本来の有り方を取り戻した天皇や、
それに準ずる君主が君臨する世の中が世界規模でも実現されていったならば、それに
よってこの地球上も破滅の危機を免れられるのはもちろんのこと、未だかつて到来した
こともないような未曾有の繁栄が全人類に対して実現されて行くこととすらなるだろう。
「損益は盛衰の始めなり」
「損益の自然な流れが物事の盛衰の発端となる。
(盛衰いずれかで言えば盛んであるに越したことはないが、世に限りある富を
人々が分け合う上での損益が極まった時に仕方なく盛衰のうねりが生ずるのである。
故に、そこに『〜ねばならない』などといった恣意を差し挟むべきでもないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・雑卦伝より)
このスレなどでレスしている事柄などが、そちらの目的や理由というものから興っているとおっしゃる?
まず、そちらの言動は、非を否定するための卑しいものと言わざるを得ない。ここでいう非は、そちらが自ら起こした
不始末のことで、端緒においてある目的というものは、これらの言動の中にある。つまり、そこ元の目的と理由は、
自らの非を否定するためにすでに還元されている状態だ。
それは、第一の目的が、先人のご託宣を掲げることは自らの主張ではなく、洋服買ってきて、それを着飾って見せびらかすのと同じで、
その出で立ちがちぐはぐだと言われて腹を立て、すべからく人の道理を非を否とするために活用しているのみである。
そちらが、掲げようとする書物等の在る事の根本を考えていただきたいが。
話し合いなどするつもりなど毛頭ないと言うか、無理なのは分かっている。こちらの指摘について、ちょっと触って、
別のうんちゃら。はいさいなら。それは>>35などでもやはりかわらず、その発言の真意(そちらの中身についての指摘)ではなく、
『〜べきではない』などを使うのは人の行動として良からぬ事、と、カードゲームで遊んでるようなレスを返して来るだけだ。ほんと子供だ。
このレスで言っているのは、そういう事。次は、それ以外のくだらない部分での返答はいらない。わたしのこれまでのレスの返答レスで、
話し返答言えるものは全く皆無である現実、それは確かにあることというのを自覚した方がいい。
(「込み入った」とは入り込んだという意味? 混み入った話し風にして人へ当てこするのは好きだよな? そちら)
>「他人を押しのけてでも自分がのし上がる」
こういうことを書くのが厚顔無恥の恥知らずというのだ。
>>30で、わざわざヘタクソな漢文を作ったのにまったく聴いちゃいない風だな。
〜〜〜『小人閑居為不善、在有己無知、是無之有』
悪さをするやつは不始末のために引きこもり、それは己の無知あるところ、それが無しということのが有るからだ。〜〜〜
まず、そちらの言動は、非を否定するための卑しいものと言わざるを得ない。ここでいう非は、そちらが自ら起こした
不始末のことで、端緒においてある目的というものは、これらの言動の中にある。つまり、そこ元の目的と理由は、
自らの非を否定するためにすでに還元されている状態だ。
それは、第一の目的が、先人のご託宣を掲げることは自らの主張ではなく、洋服買ってきて、それを着飾って見せびらかすのと同じで、
その出で立ちがちぐはぐだと言われて腹を立て、すべからく人の道理を非を否とするために活用しているのみである。
そちらが、掲げようとする書物等の在る事の根本を考えていただきたいが。
話し合いなどするつもりなど毛頭ないと言うか、無理なのは分かっている。こちらの指摘について、ちょっと触って、
別のうんちゃら。はいさいなら。それは>>35などでもやはりかわらず、その発言の真意(そちらの中身についての指摘)ではなく、
『〜べきではない』などを使うのは人の行動として良からぬ事、と、カードゲームで遊んでるようなレスを返して来るだけだ。ほんと子供だ。
このレスで言っているのは、そういう事。次は、それ以外のくだらない部分での返答はいらない。わたしのこれまでのレスの返答レスで、
話し返答言えるものは全く皆無である現実、それは確かにあることというのを自覚した方がいい。
(「込み入った」とは入り込んだという意味? 混み入った話し風にして人へ当てこするのは好きだよな? そちら)
>「他人を押しのけてでも自分がのし上がる」
こういうことを書くのが厚顔無恥の恥知らずというのだ。
>>30で、わざわざヘタクソな漢文を作ったのにまったく聴いちゃいない風だな。
〜〜〜『小人閑居為不善、在有己無知、是無之有』
悪さをするやつは不始末のために引きこもり、それは己の無知あるところ、それが無しということのが有るからだ。〜〜〜
でー、(本文長過ぎると、言われたー、アホにアホレスしているとちょっと恥を知る)
いろんなレスを見ていると、2〜3行のレスでも、実に多くのことを語れる人は、たくさんいるが、そちらは、100行書いても根幹は、
すべて卑しい言動に集約されているので、なにを書こうがいまのところ、ひとつの意味にしか発展しない。そして、オリジナリティなどまったく感じない。
そして、目的と理由、もっとしっかりしたものがあるというなら、それをちゃんと自分の文章で、引用によるところなく書けますか?(つまり、いまのような引用の仕方でなくという意味)
ご立派なそれがあるのなら、是非、伺ってみたのですが? ちゃんとしたものなら、否定や論いで遊ぼうなどということはいたしません。
では、ばいちゃ〜まったく無駄足下〜イカのゲソー、めんどーで改行ちゃんとしてませーん、『まったくNon、she得る得る〜』でしょうかねー。
いろんなレスを見ていると、2〜3行のレスでも、実に多くのことを語れる人は、たくさんいるが、そちらは、100行書いても根幹は、
すべて卑しい言動に集約されているので、なにを書こうがいまのところ、ひとつの意味にしか発展しない。そして、オリジナリティなどまったく感じない。
そして、目的と理由、もっとしっかりしたものがあるというなら、それをちゃんと自分の文章で、引用によるところなく書けますか?(つまり、いまのような引用の仕方でなくという意味)
ご立派なそれがあるのなら、是非、伺ってみたのですが? ちゃんとしたものなら、否定や論いで遊ぼうなどということはいたしません。
では、ばいちゃ〜まったく無駄足下〜イカのゲソー、めんどーで改行ちゃんとしてませーん、『まったくNon、she得る得る〜』でしょうかねー。
仮に地震や津波や台風のような災害が国内で巻き起これば、救助隊員や自衛隊員なども、
国籍や身分の如何に関わらず被害者全員を救助対象とする。のみならず、海外で大規模な
災害が発生した場合にすら、救助隊を編成しての人道支援を試みたりもする。それは全て、
「国」という枠組みに即して災害救助という業務が想定されているからであり、もしも
「利権」という枠組みに即して想定されていたりしたならばそうはいかないのである。
東日本大震災の事後復興などでも、利権が絡んでいるせいでの滞りが問題視されているが、
これも、国や自治体よりは遥かに矮小な私的利権への一部の人間の拘泥があればこそ
呈してしまっていることである。東証一部上場級の大企業であろうとも、国営企業で
ない以上は国益よりも企業自体の利益のほうが優先される。そしてその私益のうまみに
与れる人間も一部の重役や正社員に制限されて、派遣社員や末端のパート・アルバイト
などに対しては所帯を持つのもままならないような生活苦を強いることともなるのである。
それが私企業というものの本分だからそうするまでであって、そもそも私企業なんてものを
やたらと肥大化させる資本主義社会の姿勢からして、国や世の中の側の疲弊を招くことが
避けられないものである。そうであることの陰惨さが今、震災復興の停滞などの形でも
露呈してしまっているわけだが、これもまた、日本が「資本主義」などというものを
国是とし続けてきた以上は、自業自得で免れることの出来なかった運命なのである。
公益や国益よりも私益を優先することで膨れ上がる利権こそは、見るからに甚大である。
古くはエジプトのピラミッドや秦始皇帝の王宮陵墓など、今だと大企業の自社ビルなどの
巨大さこそが、いかにも見る者を圧倒させたがりな体でいる。事業としての規模では、
灌漑や治水などの公共事業のほうがより大きかったりもするわけだが、大都市の
中心部のような多くの人間が居住を希望したがるような場所にドカンと巨大な建造物を
拵えてそこに居座るということが、特にそれを見る者に羨望を抱かせやすいと共に、
そこに居座れた者の自己権顕示欲を存分に充足させる効果をも発揮するのである。
国籍や身分の如何に関わらず被害者全員を救助対象とする。のみならず、海外で大規模な
災害が発生した場合にすら、救助隊を編成しての人道支援を試みたりもする。それは全て、
「国」という枠組みに即して災害救助という業務が想定されているからであり、もしも
「利権」という枠組みに即して想定されていたりしたならばそうはいかないのである。
東日本大震災の事後復興などでも、利権が絡んでいるせいでの滞りが問題視されているが、
これも、国や自治体よりは遥かに矮小な私的利権への一部の人間の拘泥があればこそ
呈してしまっていることである。東証一部上場級の大企業であろうとも、国営企業で
ない以上は国益よりも企業自体の利益のほうが優先される。そしてその私益のうまみに
与れる人間も一部の重役や正社員に制限されて、派遣社員や末端のパート・アルバイト
などに対しては所帯を持つのもままならないような生活苦を強いることともなるのである。
それが私企業というものの本分だからそうするまでであって、そもそも私企業なんてものを
やたらと肥大化させる資本主義社会の姿勢からして、国や世の中の側の疲弊を招くことが
避けられないものである。そうであることの陰惨さが今、震災復興の停滞などの形でも
露呈してしまっているわけだが、これもまた、日本が「資本主義」などというものを
国是とし続けてきた以上は、自業自得で免れることの出来なかった運命なのである。
公益や国益よりも私益を優先することで膨れ上がる利権こそは、見るからに甚大である。
古くはエジプトのピラミッドや秦始皇帝の王宮陵墓など、今だと大企業の自社ビルなどの
巨大さこそが、いかにも見る者を圧倒させたがりな体でいる。事業としての規模では、
灌漑や治水などの公共事業のほうがより大きかったりもするわけだが、大都市の
中心部のような多くの人間が居住を希望したがるような場所にドカンと巨大な建造物を
拵えてそこに居座るということが、特にそれを見る者に羨望を抱かせやすいと共に、
そこに居座れた者の自己権顕示欲を存分に充足させる効果をも発揮するのである。

神格化したのが犯罪聖書の神でもあるわけで、聖書の神が一部の人間を救って他の人間は
破滅に陥れるとしているのも、そうするしかないからそうしているまでのことである。
国内で災害に見舞われた人間は誰と言わず救助する救助隊や自衛隊などとは違って、利権に
与れたものだけを優遇し、そうでないものを冷遇するという立場の神格化であるからこそ、
救済如何も「信じるか否か」なんていう極めて恣意的な条件に還元してしまうのである。
世の中が、私益よりも公益を尊重する傾向を盤石化させていったならば、そんな邪神から
して生じ得ない。素封家が完全にこの世から絶やされるとまでいかずとも、ある程度まで
素封の規模が抑制すらされたならば(最低でも政商としての横暴が許されない程度に)、
そこで溜め込まれた利権の嵩にかかることを「神」として崇めたてるほどもの暴行ぐらいは
防ぎ止められるようになるのである。古典的な手段ではあるが、商家や庄屋の人間には
身分に合わせた垢抜けない格好をさせて、そのような立場の人間に対する人々の羨望を
立ち消えにさせるなどというのも、一つの有効な手立てとなる。それは、イギリスあたり
を発祥地とする背広(スーツ)の見てくれのよさが、商売人を「ビジネスマン」などと
して美化する効果を発揮してしまっている現代の様相を鑑みても言えることである。
結局、いま社会人の象徴として持て囃されているビジネススーツなども、作業服の軽便さと
より伝統的な礼服の見栄えのよさを合体させた奇形的なものであり、「権力者はゆったりと
した衣服を来て重厚な為政を執り行うべきである(易経・繋辞伝)」という易学上の奨励
事項にも反しているものである。権力者は袴のようなゆったりとした着物を着、今でいう
ブルーカラーの人間は今まで通り軽便な格好をし、商売などの素封に専らである人間は
「前掛け」のような格好でいるようにするのが社会的に適切である。前掛けといえば、
昔は百姓にすら卑しまれていたな格好ではあるけれども、まあそれぐらいでいるべきだ。
「君子如し夷らげれば、悪むも怒るも是こに違れり(既出)」
「仁徳ある君子が天下を平らげれば、憎しみも怒りも消え去るだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・節南山より)
「君子如し怒れば、乱も庶わば遄かに沮みなん(既出)」
「君子がひとたび怒れば、乱もその願いどおり速やかにやむであろう。
(君子の怒りは乱を鎮めるものであり、いつまでも持ち越すようなものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
「王の厥の武を奮うや、震れるが如く怒れるが如く。厥の虎臣を進めるも、闞れること
虓虎の如く。淮濆に鋪敦して、仍に醜虜を執え、彼の淮浦を截めて、王師の所とす」
「王者がその武力を奮う有り様たるや、まさに震撼として怒れるがごとく。臣下たち
の進軍する有り様も、まさに吼え狂う虎のごとく。淮河のほとりに敵を追い詰めて、
またたくまに逃げ惑う敵を捉えて虜とし、南国一帯を治めて王の師の住まう所とした。
(天下を統べる王者の怒りが一過性のものであり、道理にも適っている実例。既出の
大雅・皇矣における文王の怒りやそれに基づく凶賊の討伐などもこれと同様にあたる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・常武より)
「仁徳ある君子が天下を平らげれば、憎しみも怒りも消え去るだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・節南山より)
「君子如し怒れば、乱も庶わば遄かに沮みなん(既出)」
「君子がひとたび怒れば、乱もその願いどおり速やかにやむであろう。
(君子の怒りは乱を鎮めるものであり、いつまでも持ち越すようなものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
「王の厥の武を奮うや、震れるが如く怒れるが如く。厥の虎臣を進めるも、闞れること
虓虎の如く。淮濆に鋪敦して、仍に醜虜を執え、彼の淮浦を截めて、王師の所とす」
「王者がその武力を奮う有り様たるや、まさに震撼として怒れるがごとく。臣下たち
の進軍する有り様も、まさに吼え狂う虎のごとく。淮河のほとりに敵を追い詰めて、
またたくまに逃げ惑う敵を捉えて虜とし、南国一帯を治めて王の師の住まう所とした。
(天下を統べる王者の怒りが一過性のものであり、道理にも適っている実例。既出の
大雅・皇矣における文王の怒りやそれに基づく凶賊の討伐などもこれと同様にあたる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・常武より)
[YouTubeで再生]
>>1
そちらの頓珍漢ぶりを知ったのは、昨年の秋だったか。
精神性の鍛錬だとか言ってたスレ。心がどうのも、その延長のようだが、
そちらの目的や理由といったものは、エラいと思われたいところ。
そういうことを言っているのは、普遍的な事柄あるいは、すべてを含有しているものを
把握しておけば、誰が来ようがロンパー的なものが出来ると思っているからだろう?
四書五経は、確かに「こころ」の在り方というものが朧げでも入って来る書物だとは思うがー。
この動画を見てどう思いますか?(そう二度目だ。相対的なことを言い含んだ引用などをしても、
中身には全く心当たりがないので、どうでもいいっすよー、っと)
前よりは、マシな事を書けますかね? というか、別にアンカーつけてないし、
こちらから、一方的に絡まれてるだけ〜、って感じですか?
百姓云々、そして、武家の家柄や血筋など、別に珍しくもないという話しなど、あるが、どうでも
いいな。そちらが馬鹿にする、町人(職人)などで、墓標に十六菊花紋を刻印することを許されているものなどがいたりするのを知ってる?
アホ草〜。

そちらの頓珍漢ぶりを知ったのは、昨年の秋だったか。
精神性の鍛錬だとか言ってたスレ。心がどうのも、その延長のようだが、
そちらの目的や理由といったものは、エラいと思われたいところ。
そういうことを言っているのは、普遍的な事柄あるいは、すべてを含有しているものを
把握しておけば、誰が来ようがロンパー的なものが出来ると思っているからだろう?
四書五経は、確かに「こころ」の在り方というものが朧げでも入って来る書物だとは思うがー。
この動画を見てどう思いますか?(そう二度目だ。相対的なことを言い含んだ引用などをしても、
中身には全く心当たりがないので、どうでもいいっすよー、っと)
前よりは、マシな事を書けますかね? というか、別にアンカーつけてないし、
こちらから、一方的に絡まれてるだけ〜、って感じですか?
百姓云々、そして、武家の家柄や血筋など、別に珍しくもないという話しなど、あるが、どうでも
いいな。そちらが馬鹿にする、町人(職人)などで、墓標に十六菊花紋を刻印することを許されているものなどがいたりするのを知ってる?
アホ草〜。
実際問題、世の中で極大級の権能を持つ人間というのは、どうしたって限られる。
王侯から権能が剥奪された民主主義社会などにおいても、今度は政商身分に相当
するような富豪が極大級の権力を裏で掌握するようなことになってしまったり
するだけであり、そのほうがかえって権力の寡占度も高まることにすらなる。
そのような、限られた権力を持つものだけができることというのがある。
「世の中で実行し得る最大級の善行や悪行」こそは、まさにそれである。
小善でも偽善でも小悪でもない、大善や大悪がそこでのみ実行可能となる。
世界を破滅に陥れたり、破滅に陥っている世界を救ったりといったことも、
世の中における究極級の権能を持つ者だけが可能とすることである。実際には
政商が最大の権力を握っている民主主義社会において、名目上の最高権力者として
擁立されている大統領だとか総理大臣だとかにすら、それだけの善行や悪行を
成し遂げることは不可能である。成し得ているように見えたりしたところで、
実際には究極級の権力者が裏から仕組んでいるだけであって、特に本人たちが
自分たちの悪行の罪を表向きの最高権力者に擦り付ける場合などにそれが顕著である。
まず「極大級の善行や悪行を為し得る権能は、限られた権力者だけが持ち得るもの」
という事実関係がある。仮に極大級の権能を悪人が掌握して、専ら悪行のために濫用
したりしているようならば、善人が極大級の善行を為したりすることも不可能となる。
孔子や孟子といった古代中国の著名な儒者もた、そのような理由で最大級の善行が
自分たちには為しえなかったわけである。本当は自分たちが堯舜や湯文武のような
聖王となって治世を実現して行きたかったわけだが、小人や悪人が極大級の権力を
握っていた当時の世の中においてはそれも叶わなかったから、仕方なく儒学の
興隆や醸成といった治世実現のための材料の温存活動に専念していたわけである。
王侯から権能が剥奪された民主主義社会などにおいても、今度は政商身分に相当
するような富豪が極大級の権力を裏で掌握するようなことになってしまったり
するだけであり、そのほうがかえって権力の寡占度も高まることにすらなる。
そのような、限られた権力を持つものだけができることというのがある。
「世の中で実行し得る最大級の善行や悪行」こそは、まさにそれである。
小善でも偽善でも小悪でもない、大善や大悪がそこでのみ実行可能となる。
世界を破滅に陥れたり、破滅に陥っている世界を救ったりといったことも、
世の中における究極級の権能を持つ者だけが可能とすることである。実際には
政商が最大の権力を握っている民主主義社会において、名目上の最高権力者として
擁立されている大統領だとか総理大臣だとかにすら、それだけの善行や悪行を
成し遂げることは不可能である。成し得ているように見えたりしたところで、
実際には究極級の権力者が裏から仕組んでいるだけであって、特に本人たちが
自分たちの悪行の罪を表向きの最高権力者に擦り付ける場合などにそれが顕著である。
まず「極大級の善行や悪行を為し得る権能は、限られた権力者だけが持ち得るもの」
という事実関係がある。仮に極大級の権能を悪人が掌握して、専ら悪行のために濫用
したりしているようならば、善人が極大級の善行を為したりすることも不可能となる。
孔子や孟子といった古代中国の著名な儒者もた、そのような理由で最大級の善行が
自分たちには為しえなかったわけである。本当は自分たちが堯舜や湯文武のような
聖王となって治世を実現して行きたかったわけだが、小人や悪人が極大級の権力を
握っていた当時の世の中においてはそれも叶わなかったから、仕方なく儒学の
興隆や醸成といった治世実現のための材料の温存活動に専念していたわけである。
政商級の権力犯罪者が跋扈している世の中においては、儒学の実践を企図していくほど
もの権力道徳者の活動が不能と化してしまうのも、そういった理由に基づくのである。
村社会程度の小規模な世の中の権力ならともかく、都市社会を形成するほどにも巨大な
権力ともなれば、それらを中央集権的に統率する大権力者がいないことには絶対に
世の中を保って行くことができない。だからそのような権力者がどこかに必ず
生ずるが、だからといってその権力者が必ずしも善良であるとも限らない。
むしろ、世の中を破滅に陥れるような極大級の権力犯罪者こそは、権力の寡占姿勢が
権力道徳者以上にも「妄り」である。素性も知れない全くの他人を「食客」として
死兵要員に用いたりまですることで、権力の掌握を盤石化せしめたりもする。それは、
権力を得るものを禄高などによって厳格に管理する権力道徳者などと比べても、むしろ
謹厳さを欠いた権力の取り扱い方であるからこそ、早急な自滅をも招いてしまうのである。
極大級の権力を一部の人間が掌握しないことにはやっていけないのが大社会というもので
あるという法則をわきまえた上で、その法則に即した権力の扱いを適正化することで磐石な
治世を呼び込む、これもまた権力道徳者こそが則って行こうとする使命である。権力犯罪者
が「友愛」を旗印に極大級の権力を山分けしようとしたりすることのほうは警戒すべきである。
「中心無為なりて、以って至正を守る」
「心の底からの無為によって、正善さを守る。
(善は人の心中にこそあるものなのだから、どんな善行を為すこと以上にも、
無為によって己れの善性を養い守ることこそが重要である。>>3の引用も参照)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
もの権力道徳者の活動が不能と化してしまうのも、そういった理由に基づくのである。
村社会程度の小規模な世の中の権力ならともかく、都市社会を形成するほどにも巨大な
権力ともなれば、それらを中央集権的に統率する大権力者がいないことには絶対に
世の中を保って行くことができない。だからそのような権力者がどこかに必ず
生ずるが、だからといってその権力者が必ずしも善良であるとも限らない。
むしろ、世の中を破滅に陥れるような極大級の権力犯罪者こそは、権力の寡占姿勢が
権力道徳者以上にも「妄り」である。素性も知れない全くの他人を「食客」として
死兵要員に用いたりまですることで、権力の掌握を盤石化せしめたりもする。それは、
権力を得るものを禄高などによって厳格に管理する権力道徳者などと比べても、むしろ
謹厳さを欠いた権力の取り扱い方であるからこそ、早急な自滅をも招いてしまうのである。
極大級の権力を一部の人間が掌握しないことにはやっていけないのが大社会というもので
あるという法則をわきまえた上で、その法則に即した権力の扱いを適正化することで磐石な
治世を呼び込む、これもまた権力道徳者こそが則って行こうとする使命である。権力犯罪者
が「友愛」を旗印に極大級の権力を山分けしようとしたりすることのほうは警戒すべきである。
「中心無為なりて、以って至正を守る」
「心の底からの無為によって、正善さを守る。
(善は人の心中にこそあるものなのだから、どんな善行を為すこと以上にも、
無為によって己れの善性を養い守ることこそが重要である。>>3の引用も参照)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
[YouTubeで再生]
わたしの知人に、祖を源八幡太郎義家の家臣団に属したという人がいる。
その祖先は平氏である。鎌倉初期に武門から離れ、山を開墾して山間農家となったそうだ。
>>1にしてみれば、これな武門とはいわないだろうな。いまだに武門がどうとうそぶくが、
芸事などをまったくたしなまない、珍しい武門もあると、笑いが起こる。
〜〜
遠き声 いま身のうちに 起こりおり
やおらにわかも 庭無き箱屋
〜〜〜
>>41の曲感想をかかなったのは、精神の修練が適わず、
前と同じレベルに心の状態があるということですね。

その祖先は平氏である。鎌倉初期に武門から離れ、山を開墾して山間農家となったそうだ。
>>1にしてみれば、これな武門とはいわないだろうな。いまだに武門がどうとうそぶくが、
芸事などをまったくたしなまない、珍しい武門もあると、笑いが起こる。
〜〜
遠き声 いま身のうちに 起こりおり
やおらにわかも 庭無き箱屋
〜〜〜
>>41の曲感想をかかなったのは、精神の修練が適わず、
前と同じレベルに心の状態があるということですね。
カス地蔵は真正キ印
こいつの言っていることはすべて妄想・妄言
こいつの言っていることはすべて妄想・妄言
ルサンチマンを原動力とした言行からは、
何らの成長も見込めはしない。
何らの成長も見込めはしない。
現実から目をそらしての妄想へと逃げ込むものが、己れの妄想の内側で帰依している
神への信仰を真摯なものとしたりしたならば、それが逆に、現実における自らの
悪業に対する無視を盤石化させる効果を持ち合わせることにすらなってしまう。
そこまで、架空の超越神への帰依を体系的に盤石化させるということ自体、まともな
人間のすることではない。ただ頭がおかしくなってしまっているというだけでなく、
妄想の内側でこそ大層な「神の物語」を捏造していかなければならなくなってしまった
それなりの事情というものが伴っているのでなければ、とうてい成せることではない。
古代オリエント社会に巣食う政商犯としての立場に身を窶していた古代のユダヤ人
などには、そんなものを構築していってしまうほどもの事情があった。現実に目を
向ければ、自分たちが諸国の王侯とつるんでやらかしている無駄な大事業や戦争に
かかずらわされて死ぬほど嫌な思いをさせられている人々の姿ばかりが目に付く。
かといって、政商犯としての自分たちが威力を発揮できるのはそのような無駄な
ほどにも甚大な政財癒着の事業への協力ぐらいなものだから、そのせいで人々が
極度の疲弊に晒されていることにも目を背けていくようにしなければならない。
その結果として、妄想上に「自分たちこそを選民として庇護してくれる超越神」
などというものをでっち上げて、ユダヤ教という信教の範疇でその神を祀る祭壇
などもこしらえて、体系的に帰依して行く手段すらをも整えて行ったのだった。
もちろん、そんな神への帰依の仕方などが、神仏帰依一般のあり方などであるわけでもない。
むしろ天下国家の現実からの泰平や繁栄を祈願するための帰依対象となる神仏などのほうが
一般的な存在であり、神道や道教やヒンズー教などで祀られている神などもそのような条件を
ほぼ満たしている。全ての神が必ずしも国家鎮護を旗印に掲げているわけではないにしても、
少なくとも天下の安寧を害するほどもの邪までをも帯びたりはしないようになっている。
神への信仰を真摯なものとしたりしたならば、それが逆に、現実における自らの
悪業に対する無視を盤石化させる効果を持ち合わせることにすらなってしまう。
そこまで、架空の超越神への帰依を体系的に盤石化させるということ自体、まともな
人間のすることではない。ただ頭がおかしくなってしまっているというだけでなく、
妄想の内側でこそ大層な「神の物語」を捏造していかなければならなくなってしまった
それなりの事情というものが伴っているのでなければ、とうてい成せることではない。
古代オリエント社会に巣食う政商犯としての立場に身を窶していた古代のユダヤ人
などには、そんなものを構築していってしまうほどもの事情があった。現実に目を
向ければ、自分たちが諸国の王侯とつるんでやらかしている無駄な大事業や戦争に
かかずらわされて死ぬほど嫌な思いをさせられている人々の姿ばかりが目に付く。
かといって、政商犯としての自分たちが威力を発揮できるのはそのような無駄な
ほどにも甚大な政財癒着の事業への協力ぐらいなものだから、そのせいで人々が
極度の疲弊に晒されていることにも目を背けていくようにしなければならない。
その結果として、妄想上に「自分たちこそを選民として庇護してくれる超越神」
などというものをでっち上げて、ユダヤ教という信教の範疇でその神を祀る祭壇
などもこしらえて、体系的に帰依して行く手段すらをも整えて行ったのだった。
もちろん、そんな神への帰依の仕方などが、神仏帰依一般のあり方などであるわけでもない。
むしろ天下国家の現実からの泰平や繁栄を祈願するための帰依対象となる神仏などのほうが
一般的な存在であり、神道や道教やヒンズー教などで祀られている神などもそのような条件を
ほぼ満たしている。全ての神が必ずしも国家鎮護を旗印に掲げているわけではないにしても、
少なくとも天下の安寧を害するほどもの邪までをも帯びたりはしないようになっている。
神仏帰依の敬虔さというものすらもが、自他の破滅を呼び込む原因になることがある。
ユダヤ教徒やキリスト教徒の神への帰依姿勢もまた敬虔なものだったりする。のみならず、
念仏信仰あたりよりは見てくれの敬虔さがより際立っていたりもする。にもかかわらず、
聖書の神への敬虔な帰依こそは、阿弥陀仏への帰依などによっては絶対にあり得ないような
禍いを招いてしまったりもする。神への帰依の人一倍の敬虔さこそが、それほどでもない
帰依以上もの禍いを招いてしまうのだから、そこに不条理すらをも感じてしまいかねない。
ただ、現実から目を背けるための神などに敬虔に帰依しようなどとしたことからして
すでに不条理の発端だったのであり、その敬虔さ故の破滅もまた、不条理のドミノ倒しと
いうばかりのものである。神への帰依の不条理な悪用であると共に、帰依の敬虔さの悪用でも
あった。悪用するぐらいなら敬虔な帰依などないほうがマシということであり、もしも善用
するというのなら、神仏への敬虔な帰依が無信仰以上の好影響を持つことだって当然あり得る。
しかし、「ある種の神」への敬虔な帰依こそが地球規模の破滅を招いてしまっている昨今、
神仏への敬虔な帰依を善用することなどにまで配慮を及ばせるのもなかなか難しいことである。
せっかく聖書の神に敬虔に帰依して来たのに、その果報たるや惨憺たるものだった、だから
もう神なんか信じないと短絡化してしまう人間なども多発してしまうことが避けられないだろう。
今はまだそれでも仕方ないとして、いつかはまた、人々が(まともな)神仏への帰依に帰って
来られるように、新しい世界を司る為政者の側が計らってやるようにすればいいのである。
「親に悦ばるるに道有り。身に反りて誠ならざれば親に悦ばれず。
身に誠なるに道有り。善に明らかならざればその身に誠ならず」
「親に喜ばれるのにも道というものがある。わが身に省みて誠があるのでなければ
親に喜ばれもしない。わが身に誠が伴うのにも道というものがある。自らが善に明らかで
あるのでなければわが身に誠が伴いもしない。(聖書の神は善に暗い者の帰依にも誠が
伴っていると認めるが、実の親はそんなものが誠であるなどとは認めないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一二より)
ユダヤ教徒やキリスト教徒の神への帰依姿勢もまた敬虔なものだったりする。のみならず、
念仏信仰あたりよりは見てくれの敬虔さがより際立っていたりもする。にもかかわらず、
聖書の神への敬虔な帰依こそは、阿弥陀仏への帰依などによっては絶対にあり得ないような
禍いを招いてしまったりもする。神への帰依の人一倍の敬虔さこそが、それほどでもない
帰依以上もの禍いを招いてしまうのだから、そこに不条理すらをも感じてしまいかねない。
ただ、現実から目を背けるための神などに敬虔に帰依しようなどとしたことからして
すでに不条理の発端だったのであり、その敬虔さ故の破滅もまた、不条理のドミノ倒しと
いうばかりのものである。神への帰依の不条理な悪用であると共に、帰依の敬虔さの悪用でも
あった。悪用するぐらいなら敬虔な帰依などないほうがマシということであり、もしも善用
するというのなら、神仏への敬虔な帰依が無信仰以上の好影響を持つことだって当然あり得る。
しかし、「ある種の神」への敬虔な帰依こそが地球規模の破滅を招いてしまっている昨今、
神仏への敬虔な帰依を善用することなどにまで配慮を及ばせるのもなかなか難しいことである。
せっかく聖書の神に敬虔に帰依して来たのに、その果報たるや惨憺たるものだった、だから
もう神なんか信じないと短絡化してしまう人間なども多発してしまうことが避けられないだろう。
今はまだそれでも仕方ないとして、いつかはまた、人々が(まともな)神仏への帰依に帰って
来られるように、新しい世界を司る為政者の側が計らってやるようにすればいいのである。
「親に悦ばるるに道有り。身に反りて誠ならざれば親に悦ばれず。
身に誠なるに道有り。善に明らかならざればその身に誠ならず」
「親に喜ばれるのにも道というものがある。わが身に省みて誠があるのでなければ
親に喜ばれもしない。わが身に誠が伴うのにも道というものがある。自らが善に明らかで
あるのでなければわが身に誠が伴いもしない。(聖書の神は善に暗い者の帰依にも誠が
伴っていると認めるが、実の親はそんなものが誠であるなどとは認めないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一二より)
磔刑への恐怖が極まって、知能がIQ40以下にまで退行することに喜びを感じる者がいるとすれば、
それは、動物レベルの低能によって世の中の問題が理解できなくなることがマシに
感じられるほどにも、世の中のほうが陰惨化してしまっていたりするからである。
ただ、そこまで人間が作為的に低能化するためには、一定以上の精神薄弱までもが共に必要となる。
そしてその精神薄弱こそは、世の中の実情をよく理解もしないままでの経済的な犯罪行為などに
及ぶ原因ともなってしまう。資本主義国の人間による極度の富の寡占によって毎年1000万人以上もの
餓死者が発生していることなどについても、別に全ての資本主義者にとっての確信犯だったりするわけ
ではなく、大局規模の世の中の実情を把握もできない精神薄弱に基づく過失犯だったりもするわけで、
知能退行をもたらすほどの精神薄弱こそは、世の中の陰惨化をもたらす原因ともなっているのである。
確信犯であると見なす他ないほどにも、金融犯罪の主導的な立場にある人間などはごく少数であり、
だからこその極刑に服す必要のある人間なども確かに限られているが、だからといって、過失犯
として資本主義の横暴に与した多くの人間を全くの無罪放免に処していいなどとまでもいえない。
それらの人間もまた、世の中の大局を計り知ることもできないレベルの精神薄弱と、にもかかわらず
旺盛な社会的活動を試みようとする心根の不埒さとを兼ね備えてしまっているわけだから、それに応じて、
精神薄弱の矯正や社会活動の制限といった措置を講じてやる必要がある。精神薄弱を十分に克服できた者
から社会的制限を緩和し、克服できないでいる者には制限を課し続けるといった風にしていくようにする。
そうして、徐々に世の中のほうが、動物レベルの知能退行での現実逃避に喜びを感じたりしないで
いられるほどにも、マシなものとなって行く。むしろ、知能退行による現実逃避などを人としての恥と
考えられるようになる。精神薄弱こそが全てをもたらしていた、「陰惨な世の中での知能退行による
現実逃避の喜び」というマッチポンプが丸ごとこの世から排されることで、そうなっていくようになる。
それは、動物レベルの低能によって世の中の問題が理解できなくなることがマシに
感じられるほどにも、世の中のほうが陰惨化してしまっていたりするからである。
ただ、そこまで人間が作為的に低能化するためには、一定以上の精神薄弱までもが共に必要となる。
そしてその精神薄弱こそは、世の中の実情をよく理解もしないままでの経済的な犯罪行為などに
及ぶ原因ともなってしまう。資本主義国の人間による極度の富の寡占によって毎年1000万人以上もの
餓死者が発生していることなどについても、別に全ての資本主義者にとっての確信犯だったりするわけ
ではなく、大局規模の世の中の実情を把握もできない精神薄弱に基づく過失犯だったりもするわけで、
知能退行をもたらすほどの精神薄弱こそは、世の中の陰惨化をもたらす原因ともなっているのである。
確信犯であると見なす他ないほどにも、金融犯罪の主導的な立場にある人間などはごく少数であり、
だからこその極刑に服す必要のある人間なども確かに限られているが、だからといって、過失犯
として資本主義の横暴に与した多くの人間を全くの無罪放免に処していいなどとまでもいえない。
それらの人間もまた、世の中の大局を計り知ることもできないレベルの精神薄弱と、にもかかわらず
旺盛な社会的活動を試みようとする心根の不埒さとを兼ね備えてしまっているわけだから、それに応じて、
精神薄弱の矯正や社会活動の制限といった措置を講じてやる必要がある。精神薄弱を十分に克服できた者
から社会的制限を緩和し、克服できないでいる者には制限を課し続けるといった風にしていくようにする。
そうして、徐々に世の中のほうが、動物レベルの知能退行での現実逃避に喜びを感じたりしないで
いられるほどにも、マシなものとなって行く。むしろ、知能退行による現実逃避などを人としての恥と
考えられるようになる。精神薄弱こそが全てをもたらしていた、「陰惨な世の中での知能退行による
現実逃避の喜び」というマッチポンプが丸ごとこの世から排されることで、そうなっていくようになる。
人間が世の中を健全に営んでいくためには、必ず一定以上の精神力が必要となる。文明社会というもの
からして人間にこそ特有のものであり、動物レベルの知能で作り上げられたりするようなものではない。
ライオンやクマのような猛獣ですら、大きな音や火を恐れたりするほどにも臆病であり、人間にこそ
特有な精神力の旺盛さに根ざした大勇などを抱けたりすることもない。人間こそは万物の霊長であるが、
そうあらしめているのも他でもない、動物以上にも突出した精神力の高さなのであり、その精神力に
よってのみ、発達した脳が司っている知能を健全に活用していくことまでもが可能となるのである。
人間としての発達した知能に見合った精神力が伴っている場合にのみ、人は健全な社会活動を営むことが
できる。そうであるからには、精神力の旺盛な人間にほど大きな社会的役割を担わせるべきであり、
貧弱な精神力しか持ち合わせていないような人間は軽い役割や無役に止めさせるべきだといえる。
知能自体は、四書五経を読みこなせる程度の能力があれば十分である。それ以上の知能があっても
精神のほうが薄弱だったりするようじゃ、大いなる悪知恵を存分に悪用するようなことになるだけだし、
高度な知能も精神力も兼ね備えているとした所で、社会的な大役などよりは、高僧としての大成あたり
のほうが見合うことになる。突出した知能の高さがかえって、仁者同士の和を乱すようなことにすら
なりかねないから、高度な知能も精神力もあるような人間は、もはや全ての俗人が畏敬するに値する
ような立場にいてくれてもらったほうがよかったりするのである。旺盛な精神力と高度な知能を
兼ね備えている人間などというものがどうしたって少数派であらざるを得ないからこそ、そう言えるのだ。
からして人間にこそ特有のものであり、動物レベルの知能で作り上げられたりするようなものではない。
ライオンやクマのような猛獣ですら、大きな音や火を恐れたりするほどにも臆病であり、人間にこそ
特有な精神力の旺盛さに根ざした大勇などを抱けたりすることもない。人間こそは万物の霊長であるが、
そうあらしめているのも他でもない、動物以上にも突出した精神力の高さなのであり、その精神力に
よってのみ、発達した脳が司っている知能を健全に活用していくことまでもが可能となるのである。
人間としての発達した知能に見合った精神力が伴っている場合にのみ、人は健全な社会活動を営むことが
できる。そうであるからには、精神力の旺盛な人間にほど大きな社会的役割を担わせるべきであり、
貧弱な精神力しか持ち合わせていないような人間は軽い役割や無役に止めさせるべきだといえる。
知能自体は、四書五経を読みこなせる程度の能力があれば十分である。それ以上の知能があっても
精神のほうが薄弱だったりするようじゃ、大いなる悪知恵を存分に悪用するようなことになるだけだし、
高度な知能も精神力も兼ね備えているとした所で、社会的な大役などよりは、高僧としての大成あたり
のほうが見合うことになる。突出した知能の高さがかえって、仁者同士の和を乱すようなことにすら
なりかねないから、高度な知能も精神力もあるような人間は、もはや全ての俗人が畏敬するに値する
ような立場にいてくれてもらったほうがよかったりするのである。旺盛な精神力と高度な知能を
兼ね備えている人間などというものがどうしたって少数派であらざるを得ないからこそ、そう言えるのだ。
「山に漆有り、隰に栗有り。子に酒食有り、何ぞ日に瑟を鼓かざる。
且つ以て喜び楽しみ、且く以て日を永くせよ。宛に其れ死せば、他人の室に入らん」
「山には漆の木があり、沢には栗の木がある。子供にやる酒食すら有り余る程だというのに、
どうして琴を弾いて楽しみもしないのか。喜び楽しみ、のんびりすごせばいいではないか。
どうせ死ねば全て他人のものになるのだから。(喜楽の儚さを開き直りつつ諦観している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・唐風・山有枢より)
且つ以て喜び楽しみ、且く以て日を永くせよ。宛に其れ死せば、他人の室に入らん」
「山には漆の木があり、沢には栗の木がある。子供にやる酒食すら有り余る程だというのに、
どうして琴を弾いて楽しみもしないのか。喜び楽しみ、のんびりすごせばいいではないか。
どうせ死ねば全て他人のものになるのだから。(喜楽の儚さを開き直りつつ諦観している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・唐風・山有枢より)
場違いな事なかれ主義こそが、だらしない乱世の存続に一役買ってしまうことがあるとは、
すでに何度か述べたことである。世の中に大いなる悪影響を及ぼしている権力犯罪者が
個人的に徹底的な警護下に置かれたりすることが、本人の平和と引き換えの乱世の持続に
加担してしまうのはもちろんのこと、ただ特定の人物や集団に対する過剰な警備が
敷かれているというだけでも、警備にかかる費用が多大なる負担を世の中にかけて、
経済的な困窮を原因とした乱世をもたらしてしまったりもするのである。
そういうことがないようにするためにこそ、孟子のような大勇による、荀子のような過剰な臆病さの
駆逐が必要となるのである。「君子は戦いを欲しないが、戦う以上は必ず勝つ(孟子)」という心持ちで、
「戦うものはただそれだけでも親を無みしたも同然である(荀子)」などという行き過ぎた平和志向を排する。
いずれにしろ好戦主義でまであってはいけないことには変わりないわけだが、いついかなる場合に
おいても戦闘の意義を否定する女子供のような性根のままに社会的な権能すらをも持ちえたならば、
それが今度は防護過剰による経費増大のような弊害を招くことともなってしまう、これこそは
「過ぎたるはなお及ばざるが如し」の典型ともなっているわけだから、そういうことが
なくて済む程度の戦いに対する覚悟ぐらいは社会人として持ち合わせているべきだといえる。
本格的な乱世の鎮圧のためにこそ、社会人が一定以上の勇気を持ち合わせている必要がある。
これは、「それが抑止力になるから」などという理由にすら基づかない。「過剰防護を省くことによる
経費削減」というより切実な理由に基づいている。一方、今の国際社会で最大級の抑止力を持ち合わせて
いる核ミサイルなども、今となっては北朝鮮のような貧国が保有できるほどにも安上がりな部類の
兵器となっているが、大量破壊兵器としてのその性能を最も穏健に活用していくために必要となるのも、
やはり一定以上の臨戦に対する勇気ではある。その勇気がなければ、先の大戦の頃のアメリカのように、
数多の民間人の頭上に原爆を落とすようなヒステリー状態の蛮行に及んだりもしてしまいかねないから。
(今またあれと同じことをやらかしたなら、核攻撃の応酬による人類の滅亡すらもが免れられない)
すでに何度か述べたことである。世の中に大いなる悪影響を及ぼしている権力犯罪者が
個人的に徹底的な警護下に置かれたりすることが、本人の平和と引き換えの乱世の持続に
加担してしまうのはもちろんのこと、ただ特定の人物や集団に対する過剰な警備が
敷かれているというだけでも、警備にかかる費用が多大なる負担を世の中にかけて、
経済的な困窮を原因とした乱世をもたらしてしまったりもするのである。
そういうことがないようにするためにこそ、孟子のような大勇による、荀子のような過剰な臆病さの
駆逐が必要となるのである。「君子は戦いを欲しないが、戦う以上は必ず勝つ(孟子)」という心持ちで、
「戦うものはただそれだけでも親を無みしたも同然である(荀子)」などという行き過ぎた平和志向を排する。
いずれにしろ好戦主義でまであってはいけないことには変わりないわけだが、いついかなる場合に
おいても戦闘の意義を否定する女子供のような性根のままに社会的な権能すらをも持ちえたならば、
それが今度は防護過剰による経費増大のような弊害を招くことともなってしまう、これこそは
「過ぎたるはなお及ばざるが如し」の典型ともなっているわけだから、そういうことが
なくて済む程度の戦いに対する覚悟ぐらいは社会人として持ち合わせているべきだといえる。
本格的な乱世の鎮圧のためにこそ、社会人が一定以上の勇気を持ち合わせている必要がある。
これは、「それが抑止力になるから」などという理由にすら基づかない。「過剰防護を省くことによる
経費削減」というより切実な理由に基づいている。一方、今の国際社会で最大級の抑止力を持ち合わせて
いる核ミサイルなども、今となっては北朝鮮のような貧国が保有できるほどにも安上がりな部類の
兵器となっているが、大量破壊兵器としてのその性能を最も穏健に活用していくために必要となるのも、
やはり一定以上の臨戦に対する勇気ではある。その勇気がなければ、先の大戦の頃のアメリカのように、
数多の民間人の頭上に原爆を落とすようなヒステリー状態の蛮行に及んだりもしてしまいかねないから。
(今またあれと同じことをやらかしたなら、核攻撃の応酬による人類の滅亡すらもが免れられない)
世の中を構成する社会人に一定以上の勇気が備わっていたならば、それが過剰防衛を抑制するから
世の中にかける負担が減って乱世の予防になるというのが第一、そして上に述べたように、核兵器を
含む武器なり兵器なりを適切に扱うことが可能となるために、それがヒステリーからなる動乱の予防に
なるというのが第二。主にこれらの理由によって、勇気こそが世界規模の平和の立役者となり得る。
一方で、それだけの勇気を常日頃から持ち合わせていることができるのは、十分な修練を積んだ
大人の男に限られている。成人男性といえども不可能な者には不可能であり、女子供ともなれば
ほぼ100%不可能である。だから結局、人々の勇気によって世界の平和を確立して行くためには、
世の中を司るような重職には総じて立派な大人の男だけが就くようにし、女子供や小人男は相当に
譲ったところに居るようにしなければならない。基本、戦い嫌いである女などが重職に就いたから
といって、それで乱世が深刻化するなどとは短絡的には考えにくいことだろうが、むしろその過剰な
戦い嫌いこそが過剰防衛による経費の増大だとか、ヒステリックで無鉄砲な攻撃だとかを呼び込んで、
持続的な乱世の到来に加担してしまうといったことが世の中の普遍法則としてあるのである。
益荒男の大勇こそは治世の礎ともなるのだから、その牙を折るような真似をしていいわけもない。
武士には帯刀が許されていたような形で、その勇気の養生にすら勤めさせるべきである。そして
そのような人一倍勇気を増大させた益荒男の後援者としての優秀さを、妻となる女などが
磨いて行くようにしなければならない。自分たちが重職に就けなくなったからといって、
ただ安穏としていればいいのではなく、むしろ今まで以上もの「身の程をわきまえた精進」
にこそ励まなければならない。そしてそれが、女なりの平和への貢献ともなっていくのである。
「辞無くして情を行えば、則ち民争う」
「譲り合いの心もなく情のままに行えば、民たちも争う。
(聖書の神の選別志向な救済の提示、それに群がってただ自分が豊かになろうと
するような人間の多発化こそは、世の中に無益な争いをもたらす劣情の元凶となる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・坊記第三十より)
世の中にかける負担が減って乱世の予防になるというのが第一、そして上に述べたように、核兵器を
含む武器なり兵器なりを適切に扱うことが可能となるために、それがヒステリーからなる動乱の予防に
なるというのが第二。主にこれらの理由によって、勇気こそが世界規模の平和の立役者となり得る。
一方で、それだけの勇気を常日頃から持ち合わせていることができるのは、十分な修練を積んだ
大人の男に限られている。成人男性といえども不可能な者には不可能であり、女子供ともなれば
ほぼ100%不可能である。だから結局、人々の勇気によって世界の平和を確立して行くためには、
世の中を司るような重職には総じて立派な大人の男だけが就くようにし、女子供や小人男は相当に
譲ったところに居るようにしなければならない。基本、戦い嫌いである女などが重職に就いたから
といって、それで乱世が深刻化するなどとは短絡的には考えにくいことだろうが、むしろその過剰な
戦い嫌いこそが過剰防衛による経費の増大だとか、ヒステリックで無鉄砲な攻撃だとかを呼び込んで、
持続的な乱世の到来に加担してしまうといったことが世の中の普遍法則としてあるのである。
益荒男の大勇こそは治世の礎ともなるのだから、その牙を折るような真似をしていいわけもない。
武士には帯刀が許されていたような形で、その勇気の養生にすら勤めさせるべきである。そして
そのような人一倍勇気を増大させた益荒男の後援者としての優秀さを、妻となる女などが
磨いて行くようにしなければならない。自分たちが重職に就けなくなったからといって、
ただ安穏としていればいいのではなく、むしろ今まで以上もの「身の程をわきまえた精進」
にこそ励まなければならない。そしてそれが、女なりの平和への貢献ともなっていくのである。
「辞無くして情を行えば、則ち民争う」
「譲り合いの心もなく情のままに行えば、民たちも争う。
(聖書の神の選別志向な救済の提示、それに群がってただ自分が豊かになろうと
するような人間の多発化こそは、世の中に無益な争いをもたらす劣情の元凶となる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・坊記第三十より)
人間自身の精神だとか先祖だとか、日月星辰のごとき自然現象の普遍性だとかいったものを
神性の根源に見立てるならば、この世界この宇宙に「神」と見なせるものはいくらでもある。
日本神話やインド神話などで高位の神とされている神などは軒並みそうであり、低位の神や
妖怪などとして扱われる物も、カオス帯びた現象の具象化としてそれなりの意味が伴っている。
ギリシャ神話やローマ神話の神などは、東洋では妖怪程度のものとして扱われるような
ものがほとんどであり、あまり普遍的な高尚さを伴ってはいない。ただそれにしたって、
カオスを帯びた普遍現象の具象化としてはそれなりの意味合いを持ち合わせていて、
2500年以上に渡って語り継がれてきたなりの普遍性がそこにもあるといえる。
キリスト教やユダヤ教の神こそは、上記のような条件に即して「神」と見なせるものではない。
磔刑への恐怖が極まって知能が退行することを「神がかり」と見なしたり、単なる政商としての
威力の溜め込みを神に偽託していたりするのみであり、そこに何らの普遍的な神性というものが
伴っていないことが確実である。にもかかわらずそれこそを「神」と見なすものがいるのは、
精神の危機や罪業からの逃避だとかの、本人たちにとっての負の理由があるからである。
どうして、聖書の神が存在しないからといって、この世に神など存在しないなどとまで
決め付けたりすることができようか。聖書の神が神として扱われる所以よりも、上記のような
定義に基づく神が神たる所以のほうが、よっぽど神秘的である。精神薄弱や罪業逃避に駆られて
仕方なく唯一神として狂信する神などのほうが、よっぽど神として不純な存在であり、そんな
神によって他の神の価値をも無みしようなどとすることの失礼さと恥を知らねばならない。
神性の根源に見立てるならば、この世界この宇宙に「神」と見なせるものはいくらでもある。
日本神話やインド神話などで高位の神とされている神などは軒並みそうであり、低位の神や
妖怪などとして扱われる物も、カオス帯びた現象の具象化としてそれなりの意味が伴っている。
ギリシャ神話やローマ神話の神などは、東洋では妖怪程度のものとして扱われるような
ものがほとんどであり、あまり普遍的な高尚さを伴ってはいない。ただそれにしたって、
カオスを帯びた普遍現象の具象化としてはそれなりの意味合いを持ち合わせていて、
2500年以上に渡って語り継がれてきたなりの普遍性がそこにもあるといえる。
キリスト教やユダヤ教の神こそは、上記のような条件に即して「神」と見なせるものではない。
磔刑への恐怖が極まって知能が退行することを「神がかり」と見なしたり、単なる政商としての
威力の溜め込みを神に偽託していたりするのみであり、そこに何らの普遍的な神性というものが
伴っていないことが確実である。にもかかわらずそれこそを「神」と見なすものがいるのは、
精神の危機や罪業からの逃避だとかの、本人たちにとっての負の理由があるからである。
どうして、聖書の神が存在しないからといって、この世に神など存在しないなどとまで
決め付けたりすることができようか。聖書の神が神として扱われる所以よりも、上記のような
定義に基づく神が神たる所以のほうが、よっぽど神秘的である。精神薄弱や罪業逃避に駆られて
仕方なく唯一神として狂信する神などのほうが、よっぽど神として不純な存在であり、そんな
神によって他の神の価値をも無みしようなどとすることの失礼さと恥を知らねばならない。
聖書の神が不正で非実在だから、全ての神もまた非実在であるなどと見なしてしまうこと、
これが自殺衝動を伴うような虚無感の原因となる。それは、聖書の神こそを唯一至上の神で
あるなどと見なすことのみならず、そのような考え方を多少なりとも是認してきただけの
ことによってですら来たしかねないことである。今の日本人などもキリスト教徒でまである
人間は少数に止まるが、キリスト教徒のようなあり方を是認している人間となればほとんど
大多数となっている。「聖書の神こそは神の中の神」などという考え方を多少なりとも他人事
として容認してしまっているだけでも、聖書の神の非実在の証明に伴う虚無が避け難いものとなる。
そんな人間にとっては、ここでの自分の発言すらもが「読むに耐えない」とまではいかずとも、
やはり読んでいい気分になれるようなものでまではないであろう。自らの精神の安定条件の中に、
「聖書の神のような神も認める」という条件が多少なりとも含まれてしまっているからこそ、
それを非とすべきだとするここでの発言が、いい気分にまでは思えないのである。
ただそれを非とするだけなら、確かにつらい思いに駆られたりもするだろう。そこからさらに、
「聖書の神こそは神に値しない」「聖書の神以外の神こそは真に神と見なすに値する」という
所にまで考え方が是正して行けた時に初めて、聖書の神も神と認めていた頃以上もの精神の安定
が得られる。そしてそれこそは、人間にとっての本来のまともな精神の安住の場なのでもある。
聖書の神みたいな奇形的な神モドキを信じたり認めたりすることによっても、ある種の
精神的な安定が得られたりする、それも確かに人間にとっての特殊な機能ではあるが、それこそ、
致命傷を負った場合に痛覚神経が麻痺して痛みを感じなくなるようなものであり、決して健全な
精神の安住の場でまであるわけではない。そんなことにならず済むなら済ませるべきことなのだ。
これが自殺衝動を伴うような虚無感の原因となる。それは、聖書の神こそを唯一至上の神で
あるなどと見なすことのみならず、そのような考え方を多少なりとも是認してきただけの
ことによってですら来たしかねないことである。今の日本人などもキリスト教徒でまである
人間は少数に止まるが、キリスト教徒のようなあり方を是認している人間となればほとんど
大多数となっている。「聖書の神こそは神の中の神」などという考え方を多少なりとも他人事
として容認してしまっているだけでも、聖書の神の非実在の証明に伴う虚無が避け難いものとなる。
そんな人間にとっては、ここでの自分の発言すらもが「読むに耐えない」とまではいかずとも、
やはり読んでいい気分になれるようなものでまではないであろう。自らの精神の安定条件の中に、
「聖書の神のような神も認める」という条件が多少なりとも含まれてしまっているからこそ、
それを非とすべきだとするここでの発言が、いい気分にまでは思えないのである。
ただそれを非とするだけなら、確かにつらい思いに駆られたりもするだろう。そこからさらに、
「聖書の神こそは神に値しない」「聖書の神以外の神こそは真に神と見なすに値する」という
所にまで考え方が是正して行けた時に初めて、聖書の神も神と認めていた頃以上もの精神の安定
が得られる。そしてそれこそは、人間にとっての本来のまともな精神の安住の場なのでもある。
聖書の神みたいな奇形的な神モドキを信じたり認めたりすることによっても、ある種の
精神的な安定が得られたりする、それも確かに人間にとっての特殊な機能ではあるが、それこそ、
致命傷を負った場合に痛覚神経が麻痺して痛みを感じなくなるようなものであり、決して健全な
精神の安住の場でまであるわけではない。そんなことにならず済むなら済ませるべきことなのだ。
神などというものを一切信じもしなければ認めもしないなどという所で
精神の安定を保っていられる人間なども、実はそんなに多くないのである。
近代以降の科学至上主義の世の中で人々が神に頼らないでいられていたりするのも、
資本主義によって膨大な富をむさぼってそれで虚無感を紛らわしていたりするからである。
それができない資本主義後進国などでは、富をむさぼる代わりに性をむさぼり、
無軌道な乱交によって人口を爆発させてもいる。しかれば結局、人間社会というものを
安定的に統治していくためには、やはり神仏帰依といったものも多少は必要となるのだといえる。
であるからには、信じたり認めたりすべきでない神を排して、信じても害のないような神を
信じたり認めさせたりするようにして行くのみである。完全な泰平統治の便宜として。
「反ることを諸れ幽に望むは、諸れを鬼神に求むるの道なり」
「(死者の霊が)幽界に返ることを希望するのが、神に本来求めるべきことである。
(永遠の命を神に求めたりすることからしてすでに不正なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
精神の安定を保っていられる人間なども、実はそんなに多くないのである。
近代以降の科学至上主義の世の中で人々が神に頼らないでいられていたりするのも、
資本主義によって膨大な富をむさぼってそれで虚無感を紛らわしていたりするからである。
それができない資本主義後進国などでは、富をむさぼる代わりに性をむさぼり、
無軌道な乱交によって人口を爆発させてもいる。しかれば結局、人間社会というものを
安定的に統治していくためには、やはり神仏帰依といったものも多少は必要となるのだといえる。
であるからには、信じたり認めたりすべきでない神を排して、信じても害のないような神を
信じたり認めさせたりするようにして行くのみである。完全な泰平統治の便宜として。
「反ることを諸れ幽に望むは、諸れを鬼神に求むるの道なり」
「(死者の霊が)幽界に返ることを希望するのが、神に本来求めるべきことである。
(永遠の命を神に求めたりすることからしてすでに不正なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
乱世には依存的な気休めというものが付き物であり、そこに数多の利権すらもが生ずる。
昔の日本でも、貧農の多い地域の庄屋が造り酒屋を兼業して百姓たちに安酒を配り、
貧しさの気休めにさせるなどということがあった。酒なんかで気休めさせるよりは、
健全な農地経営で百姓たちにもそんなに貧しい思いをさせないようにすることの
ほうが最善となるわけだから、決して褒められたような所業ではなかったといえる。
それをさらにひどくしたような状態にあるのが今のメキシコなどであり、FTA協定で
アメリカに権益をごっそり持って行かれて自国の産業が壊滅状態となり、人々は麻薬に
依存することで困窮の苦しみを紛らわし、麻薬カルテルの強大化をも招いてしまっている。
(自分たちの国こそがもたらしたものだから、米軍なども手を出しあぐねたままでいる)
麻薬だ酒だはまだ気休めとして分かりやすいが、宗教も似たような意味での依存的な
気休めの対象となる場合がある。ただ乱世の気休めになるだけでなく、自分たちこそが
乱世を招いて慢性化させる元凶とすらなる。農地経営よりも造り酒屋のほうに執心する
庄屋だとか、FTA参加によって自国の経済的壊滅と麻薬漬け状態を共に招いた今の
メキシコの権力者のような存在性を、ある種の宗教というものが持ち得るのである。
そしてそれはもう、あって当たり前な普通の宗教の一つとして、今の世界を蝕んでいる。
口先だけの気休めで信者たちにいい思いをさせつつ、自分たちが乱世を招き、乱世だから
こそせしめられる私的な利益の貪りに執心する。造り酒屋を兼業していた庄屋なども、
貧農に酒をタダで配るわけではなく、それなりの値段で売りつけていたわけだから、
それによって自分たちがより大きな私益をもせしめられていた。健全な農地経営なんか
に専念しているよりも、そのほうがよっぽど儲けになるじゃないかということで、百姓の
世話人としての庄屋の本分を蔑ろにした有り様でいた。それと同じような過ちを、世の中
や人間のあり方を教義的な指針によって指し示す宗教というものが犯していたりもするのだ。
昔の日本でも、貧農の多い地域の庄屋が造り酒屋を兼業して百姓たちに安酒を配り、
貧しさの気休めにさせるなどということがあった。酒なんかで気休めさせるよりは、
健全な農地経営で百姓たちにもそんなに貧しい思いをさせないようにすることの
ほうが最善となるわけだから、決して褒められたような所業ではなかったといえる。
それをさらにひどくしたような状態にあるのが今のメキシコなどであり、FTA協定で
アメリカに権益をごっそり持って行かれて自国の産業が壊滅状態となり、人々は麻薬に
依存することで困窮の苦しみを紛らわし、麻薬カルテルの強大化をも招いてしまっている。
(自分たちの国こそがもたらしたものだから、米軍なども手を出しあぐねたままでいる)
麻薬だ酒だはまだ気休めとして分かりやすいが、宗教も似たような意味での依存的な
気休めの対象となる場合がある。ただ乱世の気休めになるだけでなく、自分たちこそが
乱世を招いて慢性化させる元凶とすらなる。農地経営よりも造り酒屋のほうに執心する
庄屋だとか、FTA参加によって自国の経済的壊滅と麻薬漬け状態を共に招いた今の
メキシコの権力者のような存在性を、ある種の宗教というものが持ち得るのである。
そしてそれはもう、あって当たり前な普通の宗教の一つとして、今の世界を蝕んでいる。
口先だけの気休めで信者たちにいい思いをさせつつ、自分たちが乱世を招き、乱世だから
こそせしめられる私的な利益の貪りに執心する。造り酒屋を兼業していた庄屋なども、
貧農に酒をタダで配るわけではなく、それなりの値段で売りつけていたわけだから、
それによって自分たちがより大きな私益をもせしめられていた。健全な農地経営なんか
に専念しているよりも、そのほうがよっぽど儲けになるじゃないかということで、百姓の
世話人としての庄屋の本分を蔑ろにした有り様でいた。それと同じような過ちを、世の中
や人間のあり方を教義的な指針によって指し示す宗教というものが犯していたりもするのだ。
世の中や国家や農地の健全な経営に務めたりするよりも、自分たちの怠惰のせいで社会的困窮
を招いてしまった状態でのマッチポンプに執心していたほうが、自分たち自身の利益にはなる。
そこに味を占めてしまった庄屋だとか公権力者だとか宗教家だとかに対して、自主的な更生を
期待するのも、なかなか難しいことである。酒だ麻薬だ信仰だによって、自分たちが困窮に
追いやっている人々もそれなりに気を紛らわせられているからこそ、「このままでもいいじゃ
ないか」という気になって、いつまでもダラダラとした乱世を続けてしまいがちなのである。
そのような怠慢が極まって、餓死者すらもが多発してしまっている、さらには、紛らわしきれない
苦しみを乱交に仕向けて人口爆発すらをも来たしてしまっていて、このままでは世界も破滅に陥る。
だからもうこれ以上怠慢を続けさせるわけにもいかない。という今のような状態において、
まずはマッチポンプで暴利を巻き上げている今の世界の主導者に体質改善を警告してみるとする。
そこで一番致命的な頑迷さを来たすに違いないのが、宗教的な指導者である。酒や麻薬での気休めを
人々に提供している人間などは、「分かっちゃいるけどやめられない」程度の心理状態でいるから、
「このままでは実力行使による矯正も辞さない」とまでいえば、是正にも取り組み得るものだ。
しかし、邪教によって暴利を巻き上げている宗教家ともなれば、自分たち自身が信念を持って
それに取り組んでいたりするものだから、自己矯正のしようもなかったりする。だからもう、
軍事行動を含む実力行使によって現状を強制的に打開して行く他なかったりするのである。
麻薬や酒を利用している場合もあるが、今の世界で「至上の気休め」の座にあるのは、やはり
ある種の信教である。麻薬漬け状態の今のメキシコでも、ドクロ化したマリア像を崇めるような
カルト宗教が流行っていたりもするという。麻薬や酒で人々を不健全な気休めに溺れさせていようと
すること自体、ある種のカルト的な理念にも即していたりするわけだから、やはり信教こそは要である。
乱世と気休めのマッチポンプの要。そんな役割を果たすような宗教にまで自由があっていいはずもない。
を招いてしまった状態でのマッチポンプに執心していたほうが、自分たち自身の利益にはなる。
そこに味を占めてしまった庄屋だとか公権力者だとか宗教家だとかに対して、自主的な更生を
期待するのも、なかなか難しいことである。酒だ麻薬だ信仰だによって、自分たちが困窮に
追いやっている人々もそれなりに気を紛らわせられているからこそ、「このままでもいいじゃ
ないか」という気になって、いつまでもダラダラとした乱世を続けてしまいがちなのである。
そのような怠慢が極まって、餓死者すらもが多発してしまっている、さらには、紛らわしきれない
苦しみを乱交に仕向けて人口爆発すらをも来たしてしまっていて、このままでは世界も破滅に陥る。
だからもうこれ以上怠慢を続けさせるわけにもいかない。という今のような状態において、
まずはマッチポンプで暴利を巻き上げている今の世界の主導者に体質改善を警告してみるとする。
そこで一番致命的な頑迷さを来たすに違いないのが、宗教的な指導者である。酒や麻薬での気休めを
人々に提供している人間などは、「分かっちゃいるけどやめられない」程度の心理状態でいるから、
「このままでは実力行使による矯正も辞さない」とまでいえば、是正にも取り組み得るものだ。
しかし、邪教によって暴利を巻き上げている宗教家ともなれば、自分たち自身が信念を持って
それに取り組んでいたりするものだから、自己矯正のしようもなかったりする。だからもう、
軍事行動を含む実力行使によって現状を強制的に打開して行く他なかったりするのである。
麻薬や酒を利用している場合もあるが、今の世界で「至上の気休め」の座にあるのは、やはり
ある種の信教である。麻薬漬け状態の今のメキシコでも、ドクロ化したマリア像を崇めるような
カルト宗教が流行っていたりもするという。麻薬や酒で人々を不健全な気休めに溺れさせていようと
すること自体、ある種のカルト的な理念にも即していたりするわけだから、やはり信教こそは要である。
乱世と気休めのマッチポンプの要。そんな役割を果たすような宗教にまで自由があっていいはずもない。
「陰は美有ると雖も、之れを含んで以て王事に従い、敢えて成す弗きなり。
地の道なり、妻の道なり、臣の道なり。地の道は成すこと无くして代わり、終わり有るなり」
「(他者に拠り頼む)陰の立場にあるものは、自らに善美な部分があるとしてもそれを隠して
ことさら主君の命に従い、あえて自分からは何もしようとはしない。天地でいえば地の道であり、
夫妻でいえば妻の道であり、君臣でいえば臣下の道である。地の道は自分からは何も成すこと
なくして受動的にのみ変化し、それだけで有終の美を飾る。(他力本願の者こそは終わり有れ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・文言伝より)
地の道なり、妻の道なり、臣の道なり。地の道は成すこと无くして代わり、終わり有るなり」
「(他者に拠り頼む)陰の立場にあるものは、自らに善美な部分があるとしてもそれを隠して
ことさら主君の命に従い、あえて自分からは何もしようとはしない。天地でいえば地の道であり、
夫妻でいえば妻の道であり、君臣でいえば臣下の道である。地の道は自分からは何も成すこと
なくして受動的にのみ変化し、それだけで有終の美を飾る。(他力本願の者こそは終わり有れ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・文言伝より)
存在の耐えられない軽さ
[YouTubeで再生]
孔子は、諸侯の専横によって廃れかかっていた夏殷周の礼楽文化の存続を企図して、
自らこそがその保全のための活動に従事し、六経(現存するのは五経)や儒学の体系化を果たした。
本人自身はいち民間人に過ぎなかったわけだが、公権力者たちが礼楽文化の保全を疎かに
しつつあったものだから、孔子のような立場の人間がその保全役を担わざるを得なかった。
故に、古代中国文化の孔子への継承もまた、一種の正統な継承であらざるを得なかったわけである。
ヴェーダやウパニシャッドなどを根本とするインドの古代文化はといえば、こちらは今に至るまで
バラモン階級に当たるような人間が継承し続けて来ている。一時、仏教の隆盛に押されて勢力を
弱めていた頃もあったが、それでもマハーバーラタやシャンカラ哲学などによる補強を通じて
その沽券を保ち続けている。そして、古代のインド文化をも参考に仏教を創始した釈迦のほうも、
ヴェーダやウパニシャッドの論説とは袂を分かった独自の出家哲学を展開して行った。
俗世における最上位のカーストとしてのバラモンの立場にも配慮しつつ、万人の平等と
自由とを実現する超俗の真理哲学というものを新たに醸成して行ったのである。
孔子のほうは、ほとんど已む無い理由によるにしろ、古代の中国文化の正統な継承であったのに対し、
釈迦のほうはといえば、古代からの伝統的なインド文化とは袂を分かっての新たな文化の興隆であった。
これらはいずれも文句の付けようのない文化の扱い方であったといえる。このようなあり方に反して、
既存の文化を勝手に自分のものだなどと豪語して略奪したりするようなことがあったとしたならば、
それはもう、文化を司る者のあり方として致命的な問題性を帯びていることになるのである。

自らこそがその保全のための活動に従事し、六経(現存するのは五経)や儒学の体系化を果たした。
本人自身はいち民間人に過ぎなかったわけだが、公権力者たちが礼楽文化の保全を疎かに
しつつあったものだから、孔子のような立場の人間がその保全役を担わざるを得なかった。
故に、古代中国文化の孔子への継承もまた、一種の正統な継承であらざるを得なかったわけである。
ヴェーダやウパニシャッドなどを根本とするインドの古代文化はといえば、こちらは今に至るまで
バラモン階級に当たるような人間が継承し続けて来ている。一時、仏教の隆盛に押されて勢力を
弱めていた頃もあったが、それでもマハーバーラタやシャンカラ哲学などによる補強を通じて
その沽券を保ち続けている。そして、古代のインド文化をも参考に仏教を創始した釈迦のほうも、
ヴェーダやウパニシャッドの論説とは袂を分かった独自の出家哲学を展開して行った。
俗世における最上位のカーストとしてのバラモンの立場にも配慮しつつ、万人の平等と
自由とを実現する超俗の真理哲学というものを新たに醸成して行ったのである。
孔子のほうは、ほとんど已む無い理由によるにしろ、古代の中国文化の正統な継承であったのに対し、
釈迦のほうはといえば、古代からの伝統的なインド文化とは袂を分かっての新たな文化の興隆であった。
これらはいずれも文句の付けようのない文化の扱い方であったといえる。このようなあり方に反して、
既存の文化を勝手に自分のものだなどと豪語して略奪したりするようなことがあったとしたならば、
それはもう、文化を司る者のあり方として致命的な問題性を帯びていることになるのである。
普遍的な真理や道理を指し示した言葉であるのなら、たとえそれが既成のものであっても、
真理や道理を志す者にとって極めて共感の置ける言葉だったりもするものである。しかし、
だからといってそれが自分ばかりにとってのものだったりするわけもない。真理や道理を窮めんと
する者誰しもにとっての金言であるに違いないのであり、独占する権利なども誰にもないのだといえる。
実際、本当に真理や道理を指し示した言葉ならば、不埒な独占意識など自然と解消させるだけの
納得がその理解に伴ってもいるはずである。未だ独占意欲などにかられたままでいたりするのなら、
そもそもその言葉が真理や道理に適った言葉ですらないか、もしくは言葉の本意を本人自身が理解
できていないかのいずれかに違いない。旧約の言葉を独占したがっていたイエスなんぞは、確かにその
意味をそれなりに理解してもいただろうが、真理にも道理にも全く反している旧約の言葉をそれなりに
理解しもした結果として、旺盛な独占意識をも持ち越したままでいただろうと考えられるのである。
洋学上の定理なり公式なりにも、「ピタゴラスの定理」「サラスの公式」などと発見者個人の名前を勝手に
付ける場合が非常に多い。「署名文化」といえば聞こえはいいが、要は、独占意欲タラタラな者たちに
よって拵えられて来た文化であるというばかりのこと。独占意識にまみれている時点で、本人たちが
真理を悟るほどもの納得下にあるなどということがなかったこともまた自明である。ピタゴラスの定理
こと三平方の定理なんざもただの概念上の定理であり、釈迦が「真理とは関係がない」としてあえて
論及を避けた「無記」に相当するものである。だから、そんなものがいくら数理的な普遍性を帯びている
からといって、真理の悟りに基づく大いなる納得などを理解者にもたらしたりすることもないのである。
真理や道理を志す者にとって極めて共感の置ける言葉だったりもするものである。しかし、
だからといってそれが自分ばかりにとってのものだったりするわけもない。真理や道理を窮めんと
する者誰しもにとっての金言であるに違いないのであり、独占する権利なども誰にもないのだといえる。
実際、本当に真理や道理を指し示した言葉ならば、不埒な独占意識など自然と解消させるだけの
納得がその理解に伴ってもいるはずである。未だ独占意欲などにかられたままでいたりするのなら、
そもそもその言葉が真理や道理に適った言葉ですらないか、もしくは言葉の本意を本人自身が理解
できていないかのいずれかに違いない。旧約の言葉を独占したがっていたイエスなんぞは、確かにその
意味をそれなりに理解してもいただろうが、真理にも道理にも全く反している旧約の言葉をそれなりに
理解しもした結果として、旺盛な独占意識をも持ち越したままでいただろうと考えられるのである。
洋学上の定理なり公式なりにも、「ピタゴラスの定理」「サラスの公式」などと発見者個人の名前を勝手に
付ける場合が非常に多い。「署名文化」といえば聞こえはいいが、要は、独占意欲タラタラな者たちに
よって拵えられて来た文化であるというばかりのこと。独占意識にまみれている時点で、本人たちが
真理を悟るほどもの納得下にあるなどということがなかったこともまた自明である。ピタゴラスの定理
こと三平方の定理なんざもただの概念上の定理であり、釈迦が「真理とは関係がない」としてあえて
論及を避けた「無記」に相当するものである。だから、そんなものがいくら数理的な普遍性を帯びている
からといって、真理の悟りに基づく大いなる納得などを理解者にもたらしたりすることもないのである。
真理や道理に即した言葉を好むか、そうでない言葉を好むかでいえば、当然前者のほうがよい。
ただ、そうした結果として、かえって不埒な独占意識は削がれていく。故に、
本物の金言こそはのめり込むように好き好まれるということもそうはないものである。
それで結局その受容の仕方も、孔子のようないたって平易なあり方に止まることとなる。
受容するのなら専らな受容に徹し、しないのなら一切より所にしたりもしない。
そういったメリハリが付くことによって、不埒な創作というものもまた排されて行く。
それは、邪曲にまみれた文化を好き勝手にこねくり回してきたような人間からすれば、
味気ないもののようにすら映りかねないわけだが、人間としての受容者たち自身の着実な
成長はむしろ、そのようなメリハリのきいた文化享受と共にのみ実現されて行くものである。
人としての着実な成長に基づく人生総出からの楽しみと引き換えに、
腐った文化をこね回す不健全な惑溺の楽しみからは卒業して行くのである。
「圭を執りては鞠躬如たり。勝えざるが如し。上ぐるは揖するが如く、下ぐるは授くるが如し。
勃如として戦色あり、足は蹜蹜如として循うこと有り。享礼には容色有り。私覿には愉愉如たり」
「孔先生は、(諸侯の特使として授けられた)圭を諸外国で取り扱う時はおそるおそる、自分には
持ちきれないような姿勢でおられた。上げるときも会釈する程度、下げるときもものを授けるように。
いつも緊張して戦かんばかりで、足取りも重々しく規則正しくされた。(もう少しざっくばらんとした
贈り物の儀式である)享の儀式ではだいぶ和やかな態度になられ、個人的な謁見ともなれば楽しげだった。
(公事と私事、公有と私有の厳格な区別。孔子の著した五経も古来の文化の保全にこそ最善が尽くされている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・五)
ただ、そうした結果として、かえって不埒な独占意識は削がれていく。故に、
本物の金言こそはのめり込むように好き好まれるということもそうはないものである。
それで結局その受容の仕方も、孔子のようないたって平易なあり方に止まることとなる。
受容するのなら専らな受容に徹し、しないのなら一切より所にしたりもしない。
そういったメリハリが付くことによって、不埒な創作というものもまた排されて行く。
それは、邪曲にまみれた文化を好き勝手にこねくり回してきたような人間からすれば、
味気ないもののようにすら映りかねないわけだが、人間としての受容者たち自身の着実な
成長はむしろ、そのようなメリハリのきいた文化享受と共にのみ実現されて行くものである。
人としての着実な成長に基づく人生総出からの楽しみと引き換えに、
腐った文化をこね回す不健全な惑溺の楽しみからは卒業して行くのである。
「圭を執りては鞠躬如たり。勝えざるが如し。上ぐるは揖するが如く、下ぐるは授くるが如し。
勃如として戦色あり、足は蹜蹜如として循うこと有り。享礼には容色有り。私覿には愉愉如たり」
「孔先生は、(諸侯の特使として授けられた)圭を諸外国で取り扱う時はおそるおそる、自分には
持ちきれないような姿勢でおられた。上げるときも会釈する程度、下げるときもものを授けるように。
いつも緊張して戦かんばかりで、足取りも重々しく規則正しくされた。(もう少しざっくばらんとした
贈り物の儀式である)享の儀式ではだいぶ和やかな態度になられ、個人的な謁見ともなれば楽しげだった。
(公事と私事、公有と私有の厳格な区別。孔子の著した五経も古来の文化の保全にこそ最善が尽くされている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・五)
人間、俗世で栄誉を追い求めるか、栄誉全般を超俗志向で諦観するかの二つに一つである。
あえて俗世で栄誉を求めないというのも小人だし、超俗での栄誉を求めよなんてのも何らかの
反社会組織の常套句ってなもんで、それこそ「ガン細胞人種」を生み出す元凶となってしまう。
世俗での道義性を伴った栄誉の獲得という儒家の本旨なども、正しい人間のあり方の一つだし、
全ての栄誉を捨て去っての超俗での精進という仏教の本旨なども、一つの正しいあり方だといえる。
本格の儒者や仏者としてそれを実践して行くのもある種の極例であり、そこまでいかない立場
(単なる仕事人や為政者)に即して上のようなあり方を模倣して行くことだって当然可能である。
ただ、上のようなあり方を実践していこうとする場合に、あまりにもその立場が不正である場合には、
結局大局規模での実践が叶うことなく、むしろ「ガン細胞人種」としての栄誉を追い求めることに
すらなってしまったりするのである。たとえば、商売人としての最大級の栄誉を追い求めた場合、
売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よしなどを頑なに守っていたりしたのでは、かえって
儲けが限られることとなって栄誉に与るともいかなくなる。だからといって、悪徳商売に手を
染めたり、挙句には政商として世の中から暴利を巻き上げるような所業にすら及んでしまったならば、
それでこそ商人としての最大級の栄誉には与れるとした所で、道義性には全く反することとなる。
所詮は世の中に多大なる危害を及ぼすことで虚栄を謳歌しているというばかりのことだから、
いつかはしっぺ返しによって全ての栄誉を剥奪されることすらもが免れられるものではない。
世俗での道義性を伴った栄誉を追い求めて行く最善の手段は、やはり為政であるといえる。
それこそ、君臣父子夫婦兄弟朋友といった人間関係の妙技の限りを尽くすことでこそ、そこでの栄誉を
獲得することもまた可能となるのであり、そこで得られる栄誉こそは、人間の人間による人間のための
栄誉であるといえる。超俗での栄誉を求めよとするカルトの徒輩などはそこが不純だと嘯くわけだが、
むしろそこにこそ、栄誉の中の栄誉、第一の栄誉があるのだと考えるほうが人として正しいのである。
あえて俗世で栄誉を求めないというのも小人だし、超俗での栄誉を求めよなんてのも何らかの
反社会組織の常套句ってなもんで、それこそ「ガン細胞人種」を生み出す元凶となってしまう。
世俗での道義性を伴った栄誉の獲得という儒家の本旨なども、正しい人間のあり方の一つだし、
全ての栄誉を捨て去っての超俗での精進という仏教の本旨なども、一つの正しいあり方だといえる。
本格の儒者や仏者としてそれを実践して行くのもある種の極例であり、そこまでいかない立場
(単なる仕事人や為政者)に即して上のようなあり方を模倣して行くことだって当然可能である。
ただ、上のようなあり方を実践していこうとする場合に、あまりにもその立場が不正である場合には、
結局大局規模での実践が叶うことなく、むしろ「ガン細胞人種」としての栄誉を追い求めることに
すらなってしまったりするのである。たとえば、商売人としての最大級の栄誉を追い求めた場合、
売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よしなどを頑なに守っていたりしたのでは、かえって
儲けが限られることとなって栄誉に与るともいかなくなる。だからといって、悪徳商売に手を
染めたり、挙句には政商として世の中から暴利を巻き上げるような所業にすら及んでしまったならば、
それでこそ商人としての最大級の栄誉には与れるとした所で、道義性には全く反することとなる。
所詮は世の中に多大なる危害を及ぼすことで虚栄を謳歌しているというばかりのことだから、
いつかはしっぺ返しによって全ての栄誉を剥奪されることすらもが免れられるものではない。
世俗での道義性を伴った栄誉を追い求めて行く最善の手段は、やはり為政であるといえる。
それこそ、君臣父子夫婦兄弟朋友といった人間関係の妙技の限りを尽くすことでこそ、そこでの栄誉を
獲得することもまた可能となるのであり、そこで得られる栄誉こそは、人間の人間による人間のための
栄誉であるといえる。超俗での栄誉を求めよとするカルトの徒輩などはそこが不純だと嘯くわけだが、
むしろそこにこそ、栄誉の中の栄誉、第一の栄誉があるのだと考えるほうが人として正しいのである。
人間同士での信頼や栄誉が獲得できもしない所に、神からの栄誉なども当然ないのである。
人間不信の法家主義者だった秦始皇帝が泰山での封禅に及んだ時、大風が吹いて興ざめとなったという。
それを理由に儒者たちも始皇帝を批判したというが、山の天気というのは変わりやすいもの、
当地の天候の動態なども熟知している人間などとの信頼関係を築けたりしていたなら、何も
大風の吹く日時に封禅を執り行ったりする必要もなかったかもしれないわけだから、これも始皇帝の
自業自得の落ち度だった可能性もあるわけで、決してただの迷信というばかりのことでもないといえる。
高祖劉邦が秦帝国に代わって漢帝国を興してからも、劉邦本人は封禅などには無頓着でいた。
その後もしばらく祭祀事業などは簡易的なものに止められ、七代武帝の代になって初めてまた泰山
での封禅が実現に移されることとなった。当時の実情を鑑みてみるに、高祖劉邦の死後にも呂氏の
専横や匈奴からの侵略、民間での贋金作りの横行や、そのような世相の荒みを原因とした餓死の多発
などの問題が山積していたわけで、そういった人間同士での問題を十分に解決するにも至らぬままに
大規模な封禅などを執り行ったのでは、神もいい顔をしたりはしなかっただろうから、善処だったといえる。
人からの栄誉よりも神からの栄誉を優先した秦始皇帝のあり方と、神からの栄誉よりも人からの
栄誉のほうを優先した漢帝国のあり方と、どちらのほうが正しいかは、もう指摘するまでもあるまい。
神からの栄誉も一切求めるべきでないとまではいかないが、少なくとも最優先とはすべきでない。
それこそ、最優先とすべきだなどとする神などがいたとすれば、そうであることこそはありのままに
邪神である証拠だといえる。人間同士の信頼まで自分こそが略奪しようとする邪神。そんな邪神が提供
するなどと放言していた新世界なども永遠に来ないことの思い知りと共に、邪信をも破棄したがいい。
人間不信の法家主義者だった秦始皇帝が泰山での封禅に及んだ時、大風が吹いて興ざめとなったという。
それを理由に儒者たちも始皇帝を批判したというが、山の天気というのは変わりやすいもの、
当地の天候の動態なども熟知している人間などとの信頼関係を築けたりしていたなら、何も
大風の吹く日時に封禅を執り行ったりする必要もなかったかもしれないわけだから、これも始皇帝の
自業自得の落ち度だった可能性もあるわけで、決してただの迷信というばかりのことでもないといえる。
高祖劉邦が秦帝国に代わって漢帝国を興してからも、劉邦本人は封禅などには無頓着でいた。
その後もしばらく祭祀事業などは簡易的なものに止められ、七代武帝の代になって初めてまた泰山
での封禅が実現に移されることとなった。当時の実情を鑑みてみるに、高祖劉邦の死後にも呂氏の
専横や匈奴からの侵略、民間での贋金作りの横行や、そのような世相の荒みを原因とした餓死の多発
などの問題が山積していたわけで、そういった人間同士での問題を十分に解決するにも至らぬままに
大規模な封禅などを執り行ったのでは、神もいい顔をしたりはしなかっただろうから、善処だったといえる。
人からの栄誉よりも神からの栄誉を優先した秦始皇帝のあり方と、神からの栄誉よりも人からの
栄誉のほうを優先した漢帝国のあり方と、どちらのほうが正しいかは、もう指摘するまでもあるまい。
神からの栄誉も一切求めるべきでないとまではいかないが、少なくとも最優先とはすべきでない。
それこそ、最優先とすべきだなどとする神などがいたとすれば、そうであることこそはありのままに
邪神である証拠だといえる。人間同士の信頼まで自分こそが略奪しようとする邪神。そんな邪神が提供
するなどと放言していた新世界なども永遠に来ないことの思い知りと共に、邪信をも破棄したがいい。
「吾れの人に於けるや、誰をか毀り誰をか誉めん。如し誉める所の者有れば、
其れ試みる所有り。斯の民や、三代の直道を以ってして行う所の者なり」
「私は妄りに人を謗ったり誉めたりすることはしない。もし誉めることがあったとしても、
それは相手をよく試してやってからのことだ。(乱世である)今の民ですら、夏・殷・周三代の頃に正直な道を
執り行っていた人々とも何も変わりはしないのだから、(当世風の偽善などによって誉めてやっててもいけない。)
(人間こそが正しい栄誉を人に寄与する例。自分に服従すらすれば栄誉を与えるなどという不正さもありはしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・二五より)
其れ試みる所有り。斯の民や、三代の直道を以ってして行う所の者なり」
「私は妄りに人を謗ったり誉めたりすることはしない。もし誉めることがあったとしても、
それは相手をよく試してやってからのことだ。(乱世である)今の民ですら、夏・殷・周三代の頃に正直な道を
執り行っていた人々とも何も変わりはしないのだから、(当世風の偽善などによって誉めてやっててもいけない。)
(人間こそが正しい栄誉を人に寄与する例。自分に服従すらすれば栄誉を与えるなどという不正さもありはしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・二五より)
やはり、だれにも邪魔されずに自分の趣味を全うするスタンスのブログ(ま、自己顕示欲で
やっている人もいるでしょうが、このブログは平明でそんな内容では無いようで)の方が、
自分のレス(しかも、携帯の名無しでイエスキリストスレーだとよ。やっぱ、あれそっちだったのかー、それが笑った)への腹いせか、「どやツ」だろ。残念ながら、一度もそういう内容のもので関心したという記憶はありません。
このスレも、なんだか知らないが、基督教の教典である書名を掻っ攫って、こちらでは立てられないように押さえ込んでる感じが、なんとも女の腐った水戸黄門さまって感じで、なにがなにやら
もうさっぱりわかりません。万景峰号とジェンキンスさんがハーレーは身近? かんけーないか。
後は、聖書とかセイント=聖なるという訳だが、そちらは字面にだけあこがれを抱いている封ですな。
このすれたいだと、こうしもろうしも孟子も(変換下の方で面倒)みんな、聖こうしと解釈されますがねー。
それは西洋の思想に則った考え方と、オッさるでしょうが(誤字脱字イキ)、じゃあ、東洋的な解釈では、どういう解釈で、ここにその字を持ってきたか、語ってもらえますか?
「これこそが本物」とか言っていますが、あっちが偽でこっちが、とかって、やっぱり解釈は、
同じだったりするのでしょうか? そして、こういうことはスルー(ミーハー的なやつでしかない
という辛辣で、答えに窮するところは)ですかね。
このスレ、これこそが人のせいっしょ。という、醜い人の絵姿があるスレですな。
今は、おっさん臭い書き込みから、余り外しませんが、前にみんなから一度に、やいやい言われて
た時、「いつも喧嘩ばかりの笠・・」とか言われて、もう半べそな感じで
「喧嘩を打ってくるのは、いつもおまえらの方だ! いつもそうだ」、いつもそうだという言葉と
同じ内容の文を二度、「いつもそうなんだ!」とか書いていたような気がする。
ほんとに、いい加減にギャグでもかます余裕を持たないと。別に、知識が豊富とか、専門知識があるとか、
思われなくてもいいじゃん。そんなの、実際はだれでもあるよ、ひとつや二つ。ただ、意固地で
あり続けるは、そういう成長が出来たとしても、見栄坊の粋がりにしかならないわけで。
やっている人もいるでしょうが、このブログは平明でそんな内容では無いようで)の方が、
自分のレス(しかも、携帯の名無しでイエスキリストスレーだとよ。やっぱ、あれそっちだったのかー、それが笑った)への腹いせか、「どやツ」だろ。残念ながら、一度もそういう内容のもので関心したという記憶はありません。
このスレも、なんだか知らないが、基督教の教典である書名を掻っ攫って、こちらでは立てられないように押さえ込んでる感じが、なんとも女の腐った水戸黄門さまって感じで、なにがなにやら
もうさっぱりわかりません。万景峰号とジェンキンスさんがハーレーは身近? かんけーないか。
後は、聖書とかセイント=聖なるという訳だが、そちらは字面にだけあこがれを抱いている封ですな。
このすれたいだと、こうしもろうしも孟子も(変換下の方で面倒)みんな、聖こうしと解釈されますがねー。
それは西洋の思想に則った考え方と、オッさるでしょうが(誤字脱字イキ)、じゃあ、東洋的な解釈では、どういう解釈で、ここにその字を持ってきたか、語ってもらえますか?
「これこそが本物」とか言っていますが、あっちが偽でこっちが、とかって、やっぱり解釈は、
同じだったりするのでしょうか? そして、こういうことはスルー(ミーハー的なやつでしかない
という辛辣で、答えに窮するところは)ですかね。
このスレ、これこそが人のせいっしょ。という、醜い人の絵姿があるスレですな。
今は、おっさん臭い書き込みから、余り外しませんが、前にみんなから一度に、やいやい言われて
た時、「いつも喧嘩ばかりの笠・・」とか言われて、もう半べそな感じで
「喧嘩を打ってくるのは、いつもおまえらの方だ! いつもそうだ」、いつもそうだという言葉と
同じ内容の文を二度、「いつもそうなんだ!」とか書いていたような気がする。
ほんとに、いい加減にギャグでもかます余裕を持たないと。別に、知識が豊富とか、専門知識があるとか、
思われなくてもいいじゃん。そんなの、実際はだれでもあるよ、ひとつや二つ。ただ、意固地で
あり続けるは、そういう成長が出来たとしても、見栄坊の粋がりにしかならないわけで。

67ー1)
>>1。
>>66
ま、それなんかも「毀誉褒貶」と「子、曰く」とか、「漢籍」、「字引」、「目録」とかで
ググって引き出してきた引用なんでしょうなー、どうせ。
ちなみ、今、最初の三個の単語でググってみました。いろいろヒットしました。(※画像参照)
で、その中で、わたしが興味深いと思ったのは、ブログの記事で新來子のこれ。
〜〜〜〜
新 來 子 曰。
人 之 樂。 夫 有 成 就 於 我 本 能。 人 抱 欲 望 無 限 乎。則 其 餓 魂 而 不 癒。
嘗 老 子 嘆 而 曰。 吾 言 甚 易 知。
甚 易 行。 天 下 莫 能 知。 莫 能 行。 今 天 下 之 百 姓。多 危 身 棄 生 以 殉 物。 其 志 散 旦 暮。 遑 遑 爾 過 日 矣。
各 爲 其 所 欲 焉 以。絞 知 傾 精。 然 而 天 下 臨 矣。我 本 性 従 欲 生 乎。 則 天 下 轢 轢 矣。 天 下 之 人。
各 爲 其 所 欲 焉 以 自 爲 方。 是 故 内 聖 外 王 之 道。闇 而 不 明。 鬱 而 不 發。 必 不 合 矣。 此 如 態。
道 徳 不 一。 天 下 難 安 住 也。 故 其 言 相 與 穣 乎。夫 爲 天 下 之 安 寧 也。 是 即 寡 欲 之 意 也。 故 得 至 教 于 人 已。
夫 欲 我 所 窮 爲 之。 苦 心 勞 形 已。 我 本 性 如 何。吟 一 時 之 毀 誉。 要 死 後 數 百 年 中 餘 名。 真 生 之 樂。
奈 何 以 知 我 本 性 耶。 老 子 曰。 是 之 謂 知 足 矣。
〜〜〜〜
読み方省略いたします。興味のある方は、上記の単語でググれば、1P目にヒットいたします。
〜〜〜次へ。

(原文)「開元十八年、侍中裴光庭、兼吏部尚書、始作循資格。
而賢愚一概、必與格合、乃得銓授、限年躡級、不得踰越。於是久淹不收者皆便之、謂之聖書」
(読み下し)「開元十八年、侍中の裴光庭、吏部尚書を兼ぬ、資格に循いて始作す。
賢愚を一概にし、必ず格と與に合わしめ、乃ち銓授を得、年に限り級を躡わしめ、
踰越を得ず。是れに於て久淹し收めざる者は皆な之れを便り、之れを聖書と謂う」
(訳文)「開元十八年、宮廷の侍中で吏部尚書(文官の叙勲を司る記録部の長官)を兼ねる裴光庭が、資格に則って叙勲の
仕事を始めた。賢明であった者も愚昧であった者もみなおしなべて取り上げ、それぞれの格の上下に合わせて叙勲を選び授け、
年功に限って等級にも従わしめ、決して本分を超えさせるようなことがなかった。そのためこの功績を久しく称え続けて
お蔵入りもさせぬようにする人々が相次ぎ、彼らは皆その公正な評価尺度に頼り、本人が記録した書類を『聖書』と呼んだ」
(中国正史「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下より)
四書五経こそは「聖書」としての条件を完璧に満たしている一方、
新旧約は見事なまでにその条件を満たせていない。あんな作文集を
「聖書」などと呼ぶことからして、孔子が憂えていた「名辞の乱れ」
であり、何よりもまずそこから直していかなければならない
というのが真正聖書——四書五経の教えでもある。
「子路曰く、(略)政を為さば、子将に奚をか先にせん。子曰く、必ずや名を正さんか」
「子路が問うた。『もし政治を任されたとすれば、先生はまず何をなされますか』
先生は言われた。『とりあえず名辞を正さねばな』(名辞の乱れこそは天下の乱れの元凶である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・三より)
>>77
しかし、出典がその上げている本からって、さ。そんな手前味噌的な軽い書物ししてるそちらって。
で、>>25ー26あたりはもう、直でなにも言わないし。あのー、新來子(にらいし)の訳文は別のスレに投稿したが、あれ、そちらはなにも感ぜず、同じ事の繰り返しをやる雰囲気って。転載。
〜〜〜〜(訳文) 新來子曰く。
人の楽しみはわが本能の欲することが達せられたときです。
人は欲望を無限に抱くため、魂の餓えは癒えることがありません。
人の欲望は千差万別であり、その達成手段も各人各様です。
嘗て老子が「吾が言は甚だ知り易く、甚だ行い易し。
天下能く知るなければ、能く行う莫し」と嘆いたが、人は自身の天命によりその生涯を全うすることに集中するあまり、朝に目覚めてから夕べに就寝するまで目先のことに追われ、
ただ日々を慌しく過しているにしかすぎません。
だれもが自身の目的達成のため、知恵を絞り精力を傾け、社会に挑んでいるのです。
わが本能に従順に生きようとすれば、世間との軋轢を生じます。
世間の人々もまた吾が本能に従順だからです。
そうなると、どこもかしこも欲望のぶつかり合いとなり、世の中が騒然とます。
このような状態では世界中どこへ行っても住みにくいので、お互いの主張をゆずり合い、
より大多数の心が安らぐところで落ち着かせる必要が生じてきます。
これが寡欲の思考であり、人間にしかできない精神作用です。
だとするならば、その目的達成のためにわが身を苦しめる、わが本能とはいかなるものでしょうか
一時の毀誉褒貶や、死後数百年にしかすぎない名声を求めるといった、小賢しさを離れた、
本当の人生の楽しみを、いかにわが本姓に知らしめるか。老子に言う「知足」とはこのことなのです。
〜〜
==で、>>30のレスの英文、あれ無意味で書いていると思うか? そちらは光が良いもの闇は悪の象徴として
レスに書いていたが、文の内容は『光もまた漆黒のうちに生じる、それらの中のものうちのひとつ』。
分かる? この意味。森羅万象をすべてコンプリートと宣っているのに、それが出来ない理由についての
指摘もスルーだもんな。
しかし、出典がその上げている本からって、さ。そんな手前味噌的な軽い書物ししてるそちらって。
で、>>25ー26あたりはもう、直でなにも言わないし。あのー、新來子(にらいし)の訳文は別のスレに投稿したが、あれ、そちらはなにも感ぜず、同じ事の繰り返しをやる雰囲気って。転載。
〜〜〜〜(訳文) 新來子曰く。
人の楽しみはわが本能の欲することが達せられたときです。
人は欲望を無限に抱くため、魂の餓えは癒えることがありません。
人の欲望は千差万別であり、その達成手段も各人各様です。
嘗て老子が「吾が言は甚だ知り易く、甚だ行い易し。
天下能く知るなければ、能く行う莫し」と嘆いたが、人は自身の天命によりその生涯を全うすることに集中するあまり、朝に目覚めてから夕べに就寝するまで目先のことに追われ、
ただ日々を慌しく過しているにしかすぎません。
だれもが自身の目的達成のため、知恵を絞り精力を傾け、社会に挑んでいるのです。
わが本能に従順に生きようとすれば、世間との軋轢を生じます。
世間の人々もまた吾が本能に従順だからです。
そうなると、どこもかしこも欲望のぶつかり合いとなり、世の中が騒然とます。
このような状態では世界中どこへ行っても住みにくいので、お互いの主張をゆずり合い、
より大多数の心が安らぐところで落ち着かせる必要が生じてきます。
これが寡欲の思考であり、人間にしかできない精神作用です。
だとするならば、その目的達成のためにわが身を苦しめる、わが本能とはいかなるものでしょうか
一時の毀誉褒貶や、死後数百年にしかすぎない名声を求めるといった、小賢しさを離れた、
本当の人生の楽しみを、いかにわが本姓に知らしめるか。老子に言う「知足」とはこのことなのです。
〜〜
==で、>>30のレスの英文、あれ無意味で書いていると思うか? そちらは光が良いもの闇は悪の象徴として
レスに書いていたが、文の内容は『光もまた漆黒のうちに生じる、それらの中のものうちのひとつ』。
分かる? この意味。森羅万象をすべてコンプリートと宣っているのに、それが出来ない理由についての
指摘もスルーだもんな。
自意識過剰の思い上がりをどこまでも肥大化させ続けられる状態が「生」であり、
その術を失って絶望にかられるのが「死」であるとするのは、比喩表現としても不正である。
むしろ、過剰に肥大化した思い上がりによって精神的な成長の術を失ってしまうことこそは
人としての「死」であり、そのような事態を招かないようにするための貞正さを保つことが
「生」であるとするほうが、人々を教導するための比喩表現としても正しいといえる。
思い上がりをどこまでも肥大化させてしまっていたからこそ、それを禁止されることを通じて
絶望にかられたりすることがあったとしても、それが精神的な成長の術を取り戻して行くための
過程であるというのならば、そうなった人間はむしろ「生」を取り戻していこうとしている
といえるわけだから、決してそれを「死」であるなどとほざいたりしてはならないのである。
上記のような比喩表現としての「生死」の転倒もまた、一種の「名辞の乱れ」であるといえる。
比喩表現だから何でもアリってのも一つの名辞の乱れであり、その悪用が傾国の元凶に
すらなりかねないことは、蜀漢の軍師諸葛亮が「出師表」でも指摘していたことである。
佞臣が個人的に主君に気に入られるために都合のいいように比喩表現を用いたりすることは、
古代の頃から連綿と持ち越されてきた人間にとっての致命的な悪癖であるため、仏門でも
そのような物言いを「妄語の罪」として固く戒めるようにもして来ているのである。
その妄語の罪を完全に開き直らせるのが、今の日本憲法にも明記されている「表現の自由」である。
表現の自由を尊ぶべきだとするからこそ、西洋文学では、ジャンル性を一切放棄した小説こそは
「純文学」として至上のものにすら祭り上げられている。実在する歴史上の聖賢や偉大な為政者の
言行をありのままに記録した「大説」などと比べれば、ごく瑣末なものとして東洋では扱われて
来た小説文学こそが、純文学としてノンフィクションを上回るもののようにすら扱われている。
その術を失って絶望にかられるのが「死」であるとするのは、比喩表現としても不正である。
むしろ、過剰に肥大化した思い上がりによって精神的な成長の術を失ってしまうことこそは
人としての「死」であり、そのような事態を招かないようにするための貞正さを保つことが
「生」であるとするほうが、人々を教導するための比喩表現としても正しいといえる。
思い上がりをどこまでも肥大化させてしまっていたからこそ、それを禁止されることを通じて
絶望にかられたりすることがあったとしても、それが精神的な成長の術を取り戻して行くための
過程であるというのならば、そうなった人間はむしろ「生」を取り戻していこうとしている
といえるわけだから、決してそれを「死」であるなどとほざいたりしてはならないのである。
上記のような比喩表現としての「生死」の転倒もまた、一種の「名辞の乱れ」であるといえる。
比喩表現だから何でもアリってのも一つの名辞の乱れであり、その悪用が傾国の元凶に
すらなりかねないことは、蜀漢の軍師諸葛亮が「出師表」でも指摘していたことである。
佞臣が個人的に主君に気に入られるために都合のいいように比喩表現を用いたりすることは、
古代の頃から連綿と持ち越されてきた人間にとっての致命的な悪癖であるため、仏門でも
そのような物言いを「妄語の罪」として固く戒めるようにもして来ているのである。
その妄語の罪を完全に開き直らせるのが、今の日本憲法にも明記されている「表現の自由」である。
表現の自由を尊ぶべきだとするからこそ、西洋文学では、ジャンル性を一切放棄した小説こそは
「純文学」として至上のものにすら祭り上げられている。実在する歴史上の聖賢や偉大な為政者の
言行をありのままに記録した「大説」などと比べれば、ごく瑣末なものとして東洋では扱われて
来た小説文学こそが、純文学としてノンフィクションを上回るもののようにすら扱われている。
別に小説文学が「あってはならないもの」として東洋で扱われて来たような事実もないのだが、
ことに西洋においては、自分たちの最大級のより所である新旧約からして架空の物語を列挙
しただけの小説止まりであるものだから、小説こそは至上のものとして扱われて来てもいる。
西洋で「表現の自由」というものが提唱されたのも、元はといえば新旧約なんぞを金科玉条に
掲げ続けて来た自分たちの性向こそを元凶としているわけだから、結局、比喩表現の悪用を助長
する諸々の正当化材料にしろ小説の祭り上げにしろ、全ては新旧約を元凶としているのだといえる。
フィクションとしての宮廷文学の金字塔である源氏物語なども、仏門の立場から「妄語戒に反する」
と批判されていたようなこともあったわけだが、それにしたって、家康公を始めとする多くの歴史上
の人物が源氏物語の愛読者でもあり続けて来てもいる。小説文学というものがその程度の扱いを受けて、
表現の自由などもそれなりの戒めの対象になりつつ、成人図書のような警戒的な受容に止められて行く
というのならば、完全に根絶されたりまでする必要もない。三国志演義も封神演義も小説文学には
違いないが、前者のほうがより史実に即している一方、後者のほうは怪力乱神を導入しまくった
濃厚なフィクションであるから、文学作品としての評価も三国志演義>封神演義だったりする、
その程度の扱いとしてフィクションだらけの小説作品が許容されていくことはこれからも可能である。
ただ、それにしたって、フィクションをノンフィクションの下に置き、不正な表現を適切な表現の
下に置く分別はしっかりと講じていく必要がある。新旧約なんぞは、不正な表現の限りを尽くした
完全なフィクション小説であるものだから、それこそ最低劣の文筆として扱われなければならない。
経書や仏典は適切な表現の宝庫だから尊重され、正史もフィクションの明記だから尊重される。
(正史「三国志」のように三国志演義以上にも出来の悪い正史も中にはあるので注意が必要)
それらの下に全ての不正な表現やノンフィクションまみれの文筆が置かれていくようにする。
ことに西洋においては、自分たちの最大級のより所である新旧約からして架空の物語を列挙
しただけの小説止まりであるものだから、小説こそは至上のものとして扱われて来てもいる。
西洋で「表現の自由」というものが提唱されたのも、元はといえば新旧約なんぞを金科玉条に
掲げ続けて来た自分たちの性向こそを元凶としているわけだから、結局、比喩表現の悪用を助長
する諸々の正当化材料にしろ小説の祭り上げにしろ、全ては新旧約を元凶としているのだといえる。
フィクションとしての宮廷文学の金字塔である源氏物語なども、仏門の立場から「妄語戒に反する」
と批判されていたようなこともあったわけだが、それにしたって、家康公を始めとする多くの歴史上
の人物が源氏物語の愛読者でもあり続けて来てもいる。小説文学というものがその程度の扱いを受けて、
表現の自由などもそれなりの戒めの対象になりつつ、成人図書のような警戒的な受容に止められて行く
というのならば、完全に根絶されたりまでする必要もない。三国志演義も封神演義も小説文学には
違いないが、前者のほうがより史実に即している一方、後者のほうは怪力乱神を導入しまくった
濃厚なフィクションであるから、文学作品としての評価も三国志演義>封神演義だったりする、
その程度の扱いとしてフィクションだらけの小説作品が許容されていくことはこれからも可能である。
ただ、それにしたって、フィクションをノンフィクションの下に置き、不正な表現を適切な表現の
下に置く分別はしっかりと講じていく必要がある。新旧約なんぞは、不正な表現の限りを尽くした
完全なフィクション小説であるものだから、それこそ最低劣の文筆として扱われなければならない。
経書や仏典は適切な表現の宝庫だから尊重され、正史もフィクションの明記だから尊重される。
(正史「三国志」のように三国志演義以上にも出来の悪い正史も中にはあるので注意が必要)
それらの下に全ての不正な表現やノンフィクションまみれの文筆が置かれていくようにする。
>>72のアンカー>>70です。
で、これは>>72の続きです。
要するに、それらを包みもの込む森羅万象とも密接になっている事柄とは、洋の東西や文化系統(これもごく数百年という最近の)だけを取り上げて、
一方からの見方だけで、圧出した理論を持って排除できるものでないし、ましてやそれが、包括するという意味でない、と、
理屈の間違いや不正な事(西洋でいえば、中世基督教国の布教という世界規模の侵略略奪行為や
ナチスのニーチェやワーグナーなど優れた学者や文化を利用してのナショナリズムへの誘導など)
は、それが正しくなかったことは、これまで時間の流れというものがすべて証明していっている。
何度言っても馬鹿のフリは、ネットでウダウダウヨウヨしている姑息な姿。要するに、宗教を否定
しておきながら(都合の悪いところはつぎはぎの矛盾だらけの言い訳)、結局、自分はその書物を
持ってして、それが自分の徳であることを強調しつつ、恰も宗教のように取り扱っているわけだ。
(もう最近さ、こちらが何かを指摘すると、それを阿呆な、そもそもの基本の話しに矛盾することなどもおかまい無しに言い訳修正を始めるだろ? 言い訳をひとつするごとに、自分の穴が埋まっていって
目的(?)達成へ近づいたとでも思ってるのか? それが阿呆だと。呆れるよまったく)
ええと、で、>>30英文だが、つまり、尊いことを教えていくのは大事な事だけども、そちらは、私利私欲にまみれていると。
そして、それを淘汰するものはもっと形而上的なもので、そちらの話している事柄だけでは足りない、というか、
そちらの言動自体がそれに矛盾しているわけで。アーくそ、で、英文の内容は、そういう事。
内容は光を正義とし闇を悪とするいかにも〜な話しをそちらはレスしていたが、
『そちらの言っている事の矛盾していることも、それらのうちのひとつ。光またも漆黒の中に生じるうちのもののひとつ』というもの。
で、「one of them=そのうちのひとつが〜]という文。全体を表す代名詞が「them」の発音は、
禅=zenにつながるというシャレだったのだが、こういう偶然的なことがらは、
実際にあるものだが、とても説明できないものという存在のone of themなのだ、っと。
で、これは>>72の続きです。
要するに、それらを包みもの込む森羅万象とも密接になっている事柄とは、洋の東西や文化系統(これもごく数百年という最近の)だけを取り上げて、
一方からの見方だけで、圧出した理論を持って排除できるものでないし、ましてやそれが、包括するという意味でない、と、
理屈の間違いや不正な事(西洋でいえば、中世基督教国の布教という世界規模の侵略略奪行為や
ナチスのニーチェやワーグナーなど優れた学者や文化を利用してのナショナリズムへの誘導など)
は、それが正しくなかったことは、これまで時間の流れというものがすべて証明していっている。
何度言っても馬鹿のフリは、ネットでウダウダウヨウヨしている姑息な姿。要するに、宗教を否定
しておきながら(都合の悪いところはつぎはぎの矛盾だらけの言い訳)、結局、自分はその書物を
持ってして、それが自分の徳であることを強調しつつ、恰も宗教のように取り扱っているわけだ。
(もう最近さ、こちらが何かを指摘すると、それを阿呆な、そもそもの基本の話しに矛盾することなどもおかまい無しに言い訳修正を始めるだろ? 言い訳をひとつするごとに、自分の穴が埋まっていって
目的(?)達成へ近づいたとでも思ってるのか? それが阿呆だと。呆れるよまったく)
ええと、で、>>30英文だが、つまり、尊いことを教えていくのは大事な事だけども、そちらは、私利私欲にまみれていると。
そして、それを淘汰するものはもっと形而上的なもので、そちらの話している事柄だけでは足りない、というか、
そちらの言動自体がそれに矛盾しているわけで。アーくそ、で、英文の内容は、そういう事。
内容は光を正義とし闇を悪とするいかにも〜な話しをそちらはレスしていたが、
『そちらの言っている事の矛盾していることも、それらのうちのひとつ。光またも漆黒の中に生じるうちのもののひとつ』というもの。
で、「one of them=そのうちのひとつが〜]という文。全体を表す代名詞が「them」の発音は、
禅=zenにつながるというシャレだったのだが、こういう偶然的なことがらは、
実際にあるものだが、とても説明できないものという存在のone of themなのだ、っと。
現代などは、法律文書や商取引書類あたりにも不正な表現を駆使された代物が無数にあるわけだから、
お縄を頂戴することとなって行く文書の量も、それこそ膨大な量に上るだろうことが予見される。
まことに、言葉の禍いというものは、武器のもたらす禍以上にも時に甚大となるのだといえる。
「我れ其の声を聞くも、其の身を見ず。人に愧じざるや、天を畏れざるや」
「俺はその声を聞きはするが、その姿を見たことはない。(出歯亀然とした
そのあり方を)どうして人に恥じもしないのか。どうして天を畏れもしないのか。
(『あなた方は神の姿を見ない』とは犯罪聖書にもあるし、そもそも犯罪聖書の著者からして
匿名な上に、その記述内容も架空である。それこそ恥ずべきこと、畏れ慎むべきことなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・何人斯より)
>>she
俺がここでものを言っている動機は↓このスレに明記されている。
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/134149088...
一時の激情や保身に駆られて暴論を巻き起こしているおまえなどとは発言の動機
からして別格なのだから、そんな低い所から俺に文句を付けて来た所で全くの無駄だ。
お縄を頂戴することとなって行く文書の量も、それこそ膨大な量に上るだろうことが予見される。
まことに、言葉の禍いというものは、武器のもたらす禍以上にも時に甚大となるのだといえる。
「我れ其の声を聞くも、其の身を見ず。人に愧じざるや、天を畏れざるや」
「俺はその声を聞きはするが、その姿を見たことはない。(出歯亀然とした
そのあり方を)どうして人に恥じもしないのか。どうして天を畏れもしないのか。
(『あなた方は神の姿を見ない』とは犯罪聖書にもあるし、そもそも犯罪聖書の著者からして
匿名な上に、その記述内容も架空である。それこそ恥ずべきこと、畏れ慎むべきことなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・何人斯より)
>>she
俺がここでものを言っている動機は↓このスレに明記されている。
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/134149088...
一時の激情や保身に駆られて暴論を巻き起こしているおまえなどとは発言の動機
からして別格なのだから、そんな低い所から俺に文句を付けて来た所で全くの無駄だ。
>>74
また阿呆な事をいいだしてますな。ネット頭から解放されろって。
全部読んでませんが、小説=フィクション、基督教の聖書はフィクションだからとかの
話し。講師とか労使とか孟子(なぜかこれだけ一発変換できる)とかの話しも、いわゆる
比喩文学だといえば、そうなんですがー。
阿呆が、本板で小説の中身の話しのレスを読んで、切り返してるつもりか? もっと、
切れよく頼みますよ。
と屁理屈〜です。だから、本当に普遍的な事柄は、すべてを包括しているって、ことです。
>>30より、>>75で。そちらは視点が狭量で、理解するということは、まず把握するという意味であるのに、ただ自分が体よく生きる(ネットで)ためへの利発さを求めているに過ぎないというのは、
成長出来ない証明でもあります。さいならーっと。
また阿呆な事をいいだしてますな。ネット頭から解放されろって。
全部読んでませんが、小説=フィクション、基督教の聖書はフィクションだからとかの
話し。講師とか労使とか孟子(なぜかこれだけ一発変換できる)とかの話しも、いわゆる
比喩文学だといえば、そうなんですがー。
阿呆が、本板で小説の中身の話しのレスを読んで、切り返してるつもりか? もっと、
切れよく頼みますよ。
と屁理屈〜です。だから、本当に普遍的な事柄は、すべてを包括しているって、ことです。
>>30より、>>75で。そちらは視点が狭量で、理解するということは、まず把握するという意味であるのに、ただ自分が体よく生きる(ネットで)ためへの利発さを求めているに過ぎないというのは、
成長出来ない証明でもあります。さいならーっと。

米英主導の今の世界もちゃんと動いている。
そして案の定、人類は滅亡への地獄道を絶賛邁進中だ。
おまえの言い分は、最終防衛線死守思想としての条件を全く満たせていないから、
それこそを本分としている俺の物言いにケチを付けるような資格はない。
俺の考えや発言に寸分ほどの抑制をかける効果すらをも持ちはしない。
「苟くも社稷を利すには、死生之れを以ってす。
且つ吾れ聞くに、善を為す者は其の度を改めずと、故に能く済む有るなり」
「天下国家の利益のためには、自分個人の生死などは度外視すべきものである。
なおかつ私(子産)の聞いた言葉には『善を為す者はそのやり方を中途で改め
たりはしない』というのがある。だからこそ大偉業を成し遂げられもするのだ。
(最初の一文は個人の生死ばかりを偏重する新旧約の物言いへの批判になっている。
以降の文は善を為すことに一心不乱であることすら非難するsheへの反論になっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公四年より)
普通の人間は、信仰と行いは別物であると考えるし、正統な信教でも両者を完全な別物として扱う。
自分には自力での善行なんか到底できはしない、だから信仰にすがる、だからといって、信仰に
よって自分が善行を為せるようになるというのでも、信仰それ自体が善行になるというのでもない。
ただひたすら濁悪からの救いを求めて、無力ながらの信仰にすがるというばかりのことである。
「そういう信仰で救われるというのならそれでもいい、それだけじゃ不足だというのなら禅門にもおいで」
と臨済宗妙心寺派管長だった玄峰老師も仰られていたが、その玄峰老師が、キリスト教教義の
「善行によって救われる」という部分を引いて、キリスト教を是とするようなことも言っておられた。
顕教である禅仏教の立場からすれば、そんなに異教の内実にまで立ち入ってものを言うことも避けようと
しておられたのかもしれないが、キリスト教における「善行」とは信仰そのものだったりするわけで、
信と行を別個のものとして捉える仏教版の他力信仰(浄土教など)の観点などからすれば、信仰第一の
キリスト教が「善行によって救われる」などということを謳っていること自体、是認しかねることなのである。
信仰と行いを混同して、信仰すなわち善行だなどと思い込んだならば、行い全般の重大さが蔑ろにされる
こととなる。農夫が耕作を怠って作物をろくに実らせないでいた所で、信仰を善行に代えられるのなら、
それでチャラになるということにすらなる。信仰と行いを全くの別物として捉えるのならそんなことには
ならないが、両者の境があやふやであるようならそうすらなりかねないから、重農主義的な為政を敷いた
徳川幕府も信行の分別ある浄土教などは許容した一方、信行を混同しがちなキリシタンは禁止したのだった。
自分には自力での善行なんか到底できはしない、だから信仰にすがる、だからといって、信仰に
よって自分が善行を為せるようになるというのでも、信仰それ自体が善行になるというのでもない。
ただひたすら濁悪からの救いを求めて、無力ながらの信仰にすがるというばかりのことである。
「そういう信仰で救われるというのならそれでもいい、それだけじゃ不足だというのなら禅門にもおいで」
と臨済宗妙心寺派管長だった玄峰老師も仰られていたが、その玄峰老師が、キリスト教教義の
「善行によって救われる」という部分を引いて、キリスト教を是とするようなことも言っておられた。
顕教である禅仏教の立場からすれば、そんなに異教の内実にまで立ち入ってものを言うことも避けようと
しておられたのかもしれないが、キリスト教における「善行」とは信仰そのものだったりするわけで、
信と行を別個のものとして捉える仏教版の他力信仰(浄土教など)の観点などからすれば、信仰第一の
キリスト教が「善行によって救われる」などということを謳っていること自体、是認しかねることなのである。
信仰と行いを混同して、信仰すなわち善行だなどと思い込んだならば、行い全般の重大さが蔑ろにされる
こととなる。農夫が耕作を怠って作物をろくに実らせないでいた所で、信仰を善行に代えられるのなら、
それでチャラになるということにすらなる。信仰と行いを全くの別物として捉えるのならそんなことには
ならないが、両者の境があやふやであるようならそうすらなりかねないから、重農主義的な為政を敷いた
徳川幕府も信行の分別ある浄土教などは許容した一方、信行を混同しがちなキリシタンは禁止したのだった。
信仰と行いの間に明確な分別を付けるということは、宗教全般に対する不信が蔓延してしまっている
現代社会においてこそ特に見失われてしまっていることである。戦国時代の一向一揆なども、本来は行いと
分けて然るべき信仰が武装蜂起に繋がってしまった事例に当たるわけだが、乱世こそは、信仰と行いの分別が
疎かになってしまいがちな時代なのだといえる。無論、信仰と行いを混同する類いの信教こそがそのような
乱世をもたらす場合もあるわけで、聖書信仰が侵略の魔の手を広げている事態などもそれに当たるといえる。
信教の健全化、信仰への不信の払拭のためにこそ、信と行の厳格な分別というものが必要ともなる。
自力作善の宗門なども、修養のために信仰を指針とすることがあるが、やはり信仰とはまた
別の物としての精進修行などに励んで行く。そして信仰一辺倒の他力信仰というものもまたある。
その二つに信教の有り方というものが厳格化されたならば、科学的発想が定着している現代人であっても、
信教を鼻つまみもの扱いまでしたりはせずに済むのである。にもかかわらず、今の宗教というものが
信と行を混同するような風潮を大いに是としているものだから、宗教への不信も絶えることがない。
これはもう、今の宗教の側にとっての完全な自業自得であると見なすほかはない問題であるといえる。
自他に対して他力本願を促しているような信教が、善行としての布施を信者に要求したりするのも
言行不一致となっている。厳格に戒律も守る自力作善の信教が、信者に善行としての布施を促したり、
他力本願系の信教が「やむない悪行」としての布施を求めたりするのならまだありだといえるが、
他力本願のくせして、どうして教団への布施に限っては善行であるなどということがあろうか。
現代社会においてこそ特に見失われてしまっていることである。戦国時代の一向一揆なども、本来は行いと
分けて然るべき信仰が武装蜂起に繋がってしまった事例に当たるわけだが、乱世こそは、信仰と行いの分別が
疎かになってしまいがちな時代なのだといえる。無論、信仰と行いを混同する類いの信教こそがそのような
乱世をもたらす場合もあるわけで、聖書信仰が侵略の魔の手を広げている事態などもそれに当たるといえる。
信教の健全化、信仰への不信の払拭のためにこそ、信と行の厳格な分別というものが必要ともなる。
自力作善の宗門なども、修養のために信仰を指針とすることがあるが、やはり信仰とはまた
別の物としての精進修行などに励んで行く。そして信仰一辺倒の他力信仰というものもまたある。
その二つに信教の有り方というものが厳格化されたならば、科学的発想が定着している現代人であっても、
信教を鼻つまみもの扱いまでしたりはせずに済むのである。にもかかわらず、今の宗教というものが
信と行を混同するような風潮を大いに是としているものだから、宗教への不信も絶えることがない。
これはもう、今の宗教の側にとっての完全な自業自得であると見なすほかはない問題であるといえる。
自他に対して他力本願を促しているような信教が、善行としての布施を信者に要求したりするのも
言行不一致となっている。厳格に戒律も守る自力作善の信教が、信者に善行としての布施を促したり、
他力本願系の信教が「やむない悪行」としての布施を求めたりするのならまだありだといえるが、
他力本願のくせして、どうして教団への布施に限っては善行であるなどということがあろうか。
「信教の自由」の名の下での宗教優遇もそのような、他力本願を信者に促すくせして、教団への布施だけは
善行として大いに奨励するような類いの邪教の保護にこそ一役買ってしまっている。信教などは寺社奉行
によって厳重な監査の対象となっていた時代の日本においてこそ、そんな邪教の肥大化こそは防がれても
いたわけだから、信教の自由というもの自体、邪教の振興にばかり与してしまうものであるのが確かだ。
信と行の混同や信教の自由こそは、信と行の分別を付けるまともな信教を日陰へと追いやる原因とも
なってしまっている。聖書信仰を是としている以上は寸分たりとも儒学の信仰が叶わないのとも同じように、
信仰の乱れこそが「悪教は良教を駆逐する」といった事態を招いてしまいもする。信教全般を駆逐するため
ではなく、邪教を駆逐することで正教を保護するためにこそ、信教の是正というものもまた必要とされるのである。
「昔中葉に在りて、震いて且つ業なるもの有り。允なる天子、卿士も降れり、実に維れ阿衡、実に商王に左右す」
「昔、(当時から見て)中世のころ、震撼するような大いなる神の業があった。殷の王が真の天子であったために、
諸国の公卿たちも心からそこに服した。ついには名臣伊尹までもが現れて、殷の王を左右から補佐したのだった。
(実物の帝業がありのままに『神の業』であるからこそ、東洋では政治史が重んじられて来てもいる。
本物の神の業というものを決して軽んじたりしてはならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・商頌・長発より)
善行として大いに奨励するような類いの邪教の保護にこそ一役買ってしまっている。信教などは寺社奉行
によって厳重な監査の対象となっていた時代の日本においてこそ、そんな邪教の肥大化こそは防がれても
いたわけだから、信教の自由というもの自体、邪教の振興にばかり与してしまうものであるのが確かだ。
信と行の混同や信教の自由こそは、信と行の分別を付けるまともな信教を日陰へと追いやる原因とも
なってしまっている。聖書信仰を是としている以上は寸分たりとも儒学の信仰が叶わないのとも同じように、
信仰の乱れこそが「悪教は良教を駆逐する」といった事態を招いてしまいもする。信教全般を駆逐するため
ではなく、邪教を駆逐することで正教を保護するためにこそ、信教の是正というものもまた必要とされるのである。
「昔中葉に在りて、震いて且つ業なるもの有り。允なる天子、卿士も降れり、実に維れ阿衡、実に商王に左右す」
「昔、(当時から見て)中世のころ、震撼するような大いなる神の業があった。殷の王が真の天子であったために、
諸国の公卿たちも心からそこに服した。ついには名臣伊尹までもが現れて、殷の王を左右から補佐したのだった。
(実物の帝業がありのままに『神の業』であるからこそ、東洋では政治史が重んじられて来てもいる。
本物の神の業というものを決して軽んじたりしてはならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・商頌・長発より)
奪って与え、害して施すマッチポンプを主体とした部類の文化文明こそは、
プラスマイナスゼロ以下のあるよりもないほうがマシな悪影響しか
この世にもたらさないままに終わることが決定付けられている。
そうであることがいま如実に現実化しているのが、ブラックアフリカのキリスト教国の
現状でもある。元はといえば完全な未開の土人社会であったところに、マッチポンプを
教理としたキリスト教圏の侵略の魔の手が襲い掛かり、以前にはあり得なかったような
大規模な飢饉や、近代兵装を用いての深刻な戦乱状態を来たすようになってしまった。
同様の侵略によって、経済面ではブラックアフリカ並みの疲弊状態に置かれてしまって
いる今のインドなども、麻薬汚染などのそれなりの問題を来たしてしまってはいるものの、
最悪級の飢餓や戦乱が常態化してしまっているブラックアフリカなどと比べれば、まだ
観光地として楽しめる程度の柔和さが保てていたりもする。それは、インド独自の
伝統文化がマッチポンプを主体としたものなどではなく、人々に逆境をものともしない
精神からの強さすら与えるものであったからで、そのような伝統文化によって聖書圏による
文化的な侵略を防止することを通じて、人災としての社会問題を未然に防げてもいるのだ。
地域によって程度の違いはあるものの、マッチポンプを究極的な志向としている聖書信仰が
この世にもたらしている影響は、どれもプラスマイナスゼロ以下の悪影響ばかりであり、
ただその受容が抑制や防止できている限りにおいて、多少なりともマシ以上であることが
あるばかりである。それは、物理的にもエントロピー増大則によってその絶対性が確証されて
いることであり、純粋な科学的発想に即して価値がないと見なすことができるものでもある。
エントロピーの増大が物理的に絶対的であるから、同程度の事物を構築することよりも
破壊することのほうが必ずたやすい。コップからこぼした水を元に戻すよりは、ただ
こぼすだけのほうが遥かに簡単なことであり、その簡単さに慣れてしまった以上は、
修復や構築を丹念に心がけていく困難さをどうしても疎かにしてしまいがちになる。
プラスマイナスゼロ以下のあるよりもないほうがマシな悪影響しか
この世にもたらさないままに終わることが決定付けられている。
そうであることがいま如実に現実化しているのが、ブラックアフリカのキリスト教国の
現状でもある。元はといえば完全な未開の土人社会であったところに、マッチポンプを
教理としたキリスト教圏の侵略の魔の手が襲い掛かり、以前にはあり得なかったような
大規模な飢饉や、近代兵装を用いての深刻な戦乱状態を来たすようになってしまった。
同様の侵略によって、経済面ではブラックアフリカ並みの疲弊状態に置かれてしまって
いる今のインドなども、麻薬汚染などのそれなりの問題を来たしてしまってはいるものの、
最悪級の飢餓や戦乱が常態化してしまっているブラックアフリカなどと比べれば、まだ
観光地として楽しめる程度の柔和さが保てていたりもする。それは、インド独自の
伝統文化がマッチポンプを主体としたものなどではなく、人々に逆境をものともしない
精神からの強さすら与えるものであったからで、そのような伝統文化によって聖書圏による
文化的な侵略を防止することを通じて、人災としての社会問題を未然に防げてもいるのだ。
地域によって程度の違いはあるものの、マッチポンプを究極的な志向としている聖書信仰が
この世にもたらしている影響は、どれもプラスマイナスゼロ以下の悪影響ばかりであり、
ただその受容が抑制や防止できている限りにおいて、多少なりともマシ以上であることが
あるばかりである。それは、物理的にもエントロピー増大則によってその絶対性が確証されて
いることであり、純粋な科学的発想に即して価値がないと見なすことができるものでもある。
エントロピーの増大が物理的に絶対的であるから、同程度の事物を構築することよりも
破壊することのほうが必ずたやすい。コップからこぼした水を元に戻すよりは、ただ
こぼすだけのほうが遥かに簡単なことであり、その簡単さに慣れてしまった以上は、
修復や構築を丹念に心がけていく困難さをどうしても疎かにしてしまいがちになる。
そうならないためには、わざわざコップから水をこぼしておいて後からくみ上げる
みたいな遊び心をさしはさむ不埒さを根こそぎ排していくしかない。わざわざコップの
水をこぼしたりせずに、始めからこぼしたりしないようにする慎重さを保ったままでいる、
そういった努力精進の積み重ねだけが、エントロピーの増大が遍在するこの世界において
プラスマイナスゼロ以上の成果を挙げる糧ともなるのだから、わざわざ必要もなくあえて
好き好んで自分からコップの水をこぼすようなマッチポンプを許していいわけがないのである。
信教ではなく、国家規模の為政のあり方としてマッチポンプに相当するのが覇道(覇権主義)
であり、無為自然のままであればそれでいい所にわざわざ征服の魔の手を広げて行って、
それで征服地の安全を保障したりすることが典型的なマッチポンプとなっている。この逆を
行くのが王道であり、自分たちからの外界侵略は徹底して自制する一方、自国内の統治には
手塩をかけて、諸外国が自然と自分たちのあり方に随順して行こうとするようにもなったり
することを目指す。こちらは、マッチポンプの「マッチ」となる外界侵略を一切介すること
なく天下の泰平統治を企図しているものだから、マッチポンプの条件を満たしてはおらず、
故に、世の中にプラマイゼロ以上の好影響をも及ぼし得ることが決定付けられてもいる。
「大道廃れて仁義あり」という物言いで、老子も王道統治と覇道支配の対立を両成敗しては
いるけれども、王道統治には世の中にプラマイゼロ以上の好影響を及ぼすことが可能である
一方、覇道支配にはそれが不可能であり、ただ専ら悪影響ばかりを及ぼすしかないといった
両者の相違は厳然としてあるものである。覇権主義による世の中の荒廃が極まって、破滅の危機に
まで陥ってしまった時に、否応なく王道統治に切り替えての修復を試みていくとすればこれはもう
一つの「縁起」であるといえ、もはや仏法の真理にすら即しているともいえるから、仏教よりは
ずいぶんと大雑把な真理の概括を取り扱っているだけの老荘なども押し黙るほかはないといえる。
みたいな遊び心をさしはさむ不埒さを根こそぎ排していくしかない。わざわざコップの
水をこぼしたりせずに、始めからこぼしたりしないようにする慎重さを保ったままでいる、
そういった努力精進の積み重ねだけが、エントロピーの増大が遍在するこの世界において
プラスマイナスゼロ以上の成果を挙げる糧ともなるのだから、わざわざ必要もなくあえて
好き好んで自分からコップの水をこぼすようなマッチポンプを許していいわけがないのである。
信教ではなく、国家規模の為政のあり方としてマッチポンプに相当するのが覇道(覇権主義)
であり、無為自然のままであればそれでいい所にわざわざ征服の魔の手を広げて行って、
それで征服地の安全を保障したりすることが典型的なマッチポンプとなっている。この逆を
行くのが王道であり、自分たちからの外界侵略は徹底して自制する一方、自国内の統治には
手塩をかけて、諸外国が自然と自分たちのあり方に随順して行こうとするようにもなったり
することを目指す。こちらは、マッチポンプの「マッチ」となる外界侵略を一切介すること
なく天下の泰平統治を企図しているものだから、マッチポンプの条件を満たしてはおらず、
故に、世の中にプラマイゼロ以上の好影響をも及ぼし得ることが決定付けられてもいる。
「大道廃れて仁義あり」という物言いで、老子も王道統治と覇道支配の対立を両成敗しては
いるけれども、王道統治には世の中にプラマイゼロ以上の好影響を及ぼすことが可能である
一方、覇道支配にはそれが不可能であり、ただ専ら悪影響ばかりを及ぼすしかないといった
両者の相違は厳然としてあるものである。覇権主義による世の中の荒廃が極まって、破滅の危機に
まで陥ってしまった時に、否応なく王道統治に切り替えての修復を試みていくとすればこれはもう
一つの「縁起」であるといえ、もはや仏法の真理にすら即しているともいえるから、仏教よりは
ずいぶんと大雑把な真理の概括を取り扱っているだけの老荘なども押し黙るほかはないといえる。
「六尺の孤を以って託す可く、百里の命を以って寄すべくも、
大節に臨みて奪う可からず。君子人なるか、君子人なり」
「身長六尺(約130cm)程度の幼い若君の摂政を任せることもできれば、
百里を超えるような大国の政令権を寄与することもできるが、大事を任せるから
といって今までの志操を奪い去ることもできない。これこそは君子たる者ではなかろうか。
君子たる者であろう。(君子に身勝手なナギブアンドテイクなどは通用しない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・六より)
大節に臨みて奪う可からず。君子人なるか、君子人なり」
「身長六尺(約130cm)程度の幼い若君の摂政を任せることもできれば、
百里を超えるような大国の政令権を寄与することもできるが、大事を任せるから
といって今までの志操を奪い去ることもできない。これこそは君子たる者ではなかろうか。
君子たる者であろう。(君子に身勝手なナギブアンドテイクなどは通用しない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・六より)
生き物が死ぬのは悲しいことだが、死の先にあるものこそは「仏」でもある。
その仏と同等の状態を生前から会得するが人間にとっての「悟り」であり、
生きてる内からの悟り(成道、有余涅槃)によってこそ、人は生死の迷いを脱することができる。
死後の状態を会得するのが悟りではあるが、悟りそのものは生前に得るものこそが如実である。
一人の人間が自分一代のうちに悟りを拓いて、常道者としての健全な活動などに臨んだ後、死に至る。
そこに「死んで生き返る」などという要素は当然伴っておらず、なおかつ「生きているからこそ迷いを
脱せている」などということもない。生か死かなんていう尺度ではとうてい計り知ることのできない所に
悟りとか涅槃とかいったものはあるのであり、そのあり方こそはありのままに中道にも適っているといえる。
悟りを拓いたからといって、それ以降には死んだような生を送るというのでもない。
むしろ、根本的な迷いを晴らしたがための、心の底からの快活な生と文句のない死に与ることができる。
確かに、旺盛な生を送ろうとすることが、聖書信者のような迷いまみれの生に繋がってしまうことも
あるわけだが、同様かそれ以上にも旺盛な人生というものを悟り並みの達観と共に送ったならば、
>>85に引用した曾子の言葉にも沿うような、盛大かつ健全な生が送れたりもするのである。
度し難いのは、最悪の迷いの中での動顚こそを「救い」だなどと勘違いしてしまうことである。
磔刑への恐怖に駆られて気が動顚してまともな感情を失ってしまうことなどもその一つであり、
さらに悪いことには、世の中が総出を挙げてそれこそを悟り並みの扱いにすらしてしまったりもする。
確かに人間が悟りを拓けるということも、動顚によってまともな感情を失ってしまうことがあると
いうことも、いずれも人間という生き物の器質的な構造に根ざした普遍法則ではある。ただ、どちらの
ほうが健全でどちらのほうが不健全かといえば、当然悟りのほうが健全であり、動顚のほうが不健全である。
その仏と同等の状態を生前から会得するが人間にとっての「悟り」であり、
生きてる内からの悟り(成道、有余涅槃)によってこそ、人は生死の迷いを脱することができる。
死後の状態を会得するのが悟りではあるが、悟りそのものは生前に得るものこそが如実である。
一人の人間が自分一代のうちに悟りを拓いて、常道者としての健全な活動などに臨んだ後、死に至る。
そこに「死んで生き返る」などという要素は当然伴っておらず、なおかつ「生きているからこそ迷いを
脱せている」などということもない。生か死かなんていう尺度ではとうてい計り知ることのできない所に
悟りとか涅槃とかいったものはあるのであり、そのあり方こそはありのままに中道にも適っているといえる。
悟りを拓いたからといって、それ以降には死んだような生を送るというのでもない。
むしろ、根本的な迷いを晴らしたがための、心の底からの快活な生と文句のない死に与ることができる。
確かに、旺盛な生を送ろうとすることが、聖書信者のような迷いまみれの生に繋がってしまうことも
あるわけだが、同様かそれ以上にも旺盛な人生というものを悟り並みの達観と共に送ったならば、
>>85に引用した曾子の言葉にも沿うような、盛大かつ健全な生が送れたりもするのである。
度し難いのは、最悪の迷いの中での動顚こそを「救い」だなどと勘違いしてしまうことである。
磔刑への恐怖に駆られて気が動顚してまともな感情を失ってしまうことなどもその一つであり、
さらに悪いことには、世の中が総出を挙げてそれこそを悟り並みの扱いにすらしてしまったりもする。
確かに人間が悟りを拓けるということも、動顚によってまともな感情を失ってしまうことがあると
いうことも、いずれも人間という生き物の器質的な構造に根ざした普遍法則ではある。ただ、どちらの
ほうが健全でどちらのほうが不健全かといえば、当然悟りのほうが健全であり、動顚のほうが不健全である。
悟りは人としての一種のあるべき姿であるとすら言える一方、動顚はなるべくないようにすべきものである。
万人が悟りを拓いている世の中などというのもなかなかあり得ないことではあるが、一家に一人、
一集落に一人ぐらいは悟りを拓けた人間がいれば、それが家や村の繁栄の礎ともなる。もしも国家が
総出を挙げて大悟者を増産するための仏門の興隆を企図したならば、それが永年にわたる繁栄を約束する
ことともなるので、歴史的にそういった事業が幾度にも渡って試みられてきた。一方、人々に動顚を
促すような邪教たるや、国家や王家の引っ切り無しの興亡を征服圏に強い続けて来たわけで、悟りと動顚、
それぞれが人と世にもたらす影響の好悪の如何たるや、人類の歴史こそがそれを実証して来ているともいえる。
人間が生存中からの悟りを志すこともまた、コップの水を予めこぼさないでいるようにするような、
エントロピー増大則への適切な対処であるといえる。人間、ただただ生きれば迷いに見舞われる、最悪、
恐怖が極まっての動顚あたりにしか救いを求めることができなくなってしまったりもいる。そうならないために
あらかじめ悟りによって迷いを克服しておくということもまた、人間が生きるということに対する最善の対処で
あるといえ、迷いを増長させた挙句に動顚での虚構の救いを施したりすることは、比較的最善ではないといえる。
今回は「悟りと動顚」という、儒学の領域からはかけ離れた論議に及んでしまったけれども、動顚を促すような
邪教を排して、悟りを促す正教のみを振興して行くためには結局、無宗教の権力者こそがそれを心がける必要がある。
悟りを促すような正教こそは権力に取り入ったりもしたがらない一方、動顚を促すような邪教こそは
国家権力すらをも征服の対象などにしようとするものだから、まず権力者こそはいかなる宗教にも翻弄されない
立派な徳治者でいて、そこからトップダウンに邪教を排して正教を優遇していくようにすることが必要になる。
悟りも動顚も客観視して冷静な比較の対象とした以上のような論議自体、寺社奉行的な観点にも即している。
万人が悟りを拓いている世の中などというのもなかなかあり得ないことではあるが、一家に一人、
一集落に一人ぐらいは悟りを拓けた人間がいれば、それが家や村の繁栄の礎ともなる。もしも国家が
総出を挙げて大悟者を増産するための仏門の興隆を企図したならば、それが永年にわたる繁栄を約束する
ことともなるので、歴史的にそういった事業が幾度にも渡って試みられてきた。一方、人々に動顚を
促すような邪教たるや、国家や王家の引っ切り無しの興亡を征服圏に強い続けて来たわけで、悟りと動顚、
それぞれが人と世にもたらす影響の好悪の如何たるや、人類の歴史こそがそれを実証して来ているともいえる。
人間が生存中からの悟りを志すこともまた、コップの水を予めこぼさないでいるようにするような、
エントロピー増大則への適切な対処であるといえる。人間、ただただ生きれば迷いに見舞われる、最悪、
恐怖が極まっての動顚あたりにしか救いを求めることができなくなってしまったりもいる。そうならないために
あらかじめ悟りによって迷いを克服しておくということもまた、人間が生きるということに対する最善の対処で
あるといえ、迷いを増長させた挙句に動顚での虚構の救いを施したりすることは、比較的最善ではないといえる。
今回は「悟りと動顚」という、儒学の領域からはかけ離れた論議に及んでしまったけれども、動顚を促すような
邪教を排して、悟りを促す正教のみを振興して行くためには結局、無宗教の権力者こそがそれを心がける必要がある。
悟りを促すような正教こそは権力に取り入ったりもしたがらない一方、動顚を促すような邪教こそは
国家権力すらをも征服の対象などにしようとするものだから、まず権力者こそはいかなる宗教にも翻弄されない
立派な徳治者でいて、そこからトップダウンに邪教を排して正教を優遇していくようにすることが必要になる。
悟りも動顚も客観視して冷静な比較の対象とした以上のような論議自体、寺社奉行的な観点にも即している。
「天子は介なし」
「天子には仲介者として取り成すものは付かない。
(仲介は来賓のために行うもの。天子は天下全土を治められる立場であるから、
他人行儀な仲介役などを立てたりすることはない。商人の作法などとは別格な所。
仲介神ヘルメスを多用するギリシャ神話の神などもこれには至らない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼器第十より)
「天子には仲介者として取り成すものは付かない。
(仲介は来賓のために行うもの。天子は天下全土を治められる立場であるから、
他人行儀な仲介役などを立てたりすることはない。商人の作法などとは別格な所。
仲介神ヘルメスを多用するギリシャ神話の神などもこれには至らない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼器第十より)
「人の生けるは直ければなり、之れを罔いて生けるは、幸いにして免るるなり(既出)」
「人が生きていられるのは正直だからだ。それを歪めて生きているのは、まぐれで助かっているだけだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・十九より)
上記の孔子の言葉は、「邪曲で生き延びている人間はまぐれで助かっている」と述べている点が、
多少の謙遜や辞譲が込められている部分だといえる。実際には、まぐれで助かっているようなことすらない。
正直を貫くことで着実に生きている人々の貯金を掠め取ることでこそ、邪曲を本分としているような
人間も何とか生き延びられている。自分たちの他に、正直に生きている人間など一人もいないというので
あれば、そんな連中もとっくの昔に死に絶えてしまっているのであり、他者を余分に養える程にも正直の
限りを尽くして生きている人間こそは、邪曲と共に生き延びている連中の飼い主であるとすら言えるのである。
物理的にもあり得なければ、道徳的にも決してあるべきでないような嘘偽りの限りを尽くした邪教である
聖書信仰が西洋社会を文化的に征服した最初期の頃、やはり西洋は社会的に極端な停滞状態に見舞われた。
共にキリスト教の征服下にあった中東社会がイスラム教の創始によってキリスト教を撃退して後、
しばらくして、キリスト教徒による初めての大々的な外界侵略としての十字軍遠征が勃発した。
その口実は「聖徒エルサレムの異教徒からの奪還」などというものではあったが、実質上は、
自分たちキリスト教徒が経済的な困窮に駆られての強奪目的であるというのが主だった理由であった。
だからこそ、中世以降は自分たちにとっての聖地でも何でもない世界中の土地を侵略植民してまわり、
近現代以降は、聖地であるはずのエルサレムをすでに強奪しておきながら、それ以降も中東諸国への
侵略戦争を繰り返すといった本末転倒の所業にすら及んでもいる。結局、嘘偽りの限りを尽くした邪教を
金科玉条に祭り上げているような連中が、自分たちだけで経済的にやって来られたようなことからして
大昔からなかったのであり、勢力規模でも邪教圏を遥かに上回るような「正直を旨とした人々の集まり」
が他にあったればこそ、地球人類もこれまで邪教に自滅させられることもなくやって来られたのだといえる。
「人が生きていられるのは正直だからだ。それを歪めて生きているのは、まぐれで助かっているだけだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・十九より)
上記の孔子の言葉は、「邪曲で生き延びている人間はまぐれで助かっている」と述べている点が、
多少の謙遜や辞譲が込められている部分だといえる。実際には、まぐれで助かっているようなことすらない。
正直を貫くことで着実に生きている人々の貯金を掠め取ることでこそ、邪曲を本分としているような
人間も何とか生き延びられている。自分たちの他に、正直に生きている人間など一人もいないというので
あれば、そんな連中もとっくの昔に死に絶えてしまっているのであり、他者を余分に養える程にも正直の
限りを尽くして生きている人間こそは、邪曲と共に生き延びている連中の飼い主であるとすら言えるのである。
物理的にもあり得なければ、道徳的にも決してあるべきでないような嘘偽りの限りを尽くした邪教である
聖書信仰が西洋社会を文化的に征服した最初期の頃、やはり西洋は社会的に極端な停滞状態に見舞われた。
共にキリスト教の征服下にあった中東社会がイスラム教の創始によってキリスト教を撃退して後、
しばらくして、キリスト教徒による初めての大々的な外界侵略としての十字軍遠征が勃発した。
その口実は「聖徒エルサレムの異教徒からの奪還」などというものではあったが、実質上は、
自分たちキリスト教徒が経済的な困窮に駆られての強奪目的であるというのが主だった理由であった。
だからこそ、中世以降は自分たちにとっての聖地でも何でもない世界中の土地を侵略植民してまわり、
近現代以降は、聖地であるはずのエルサレムをすでに強奪しておきながら、それ以降も中東諸国への
侵略戦争を繰り返すといった本末転倒の所業にすら及んでもいる。結局、嘘偽りの限りを尽くした邪教を
金科玉条に祭り上げているような連中が、自分たちだけで経済的にやって来られたようなことからして
大昔からなかったのであり、勢力規模でも邪教圏を遥かに上回るような「正直を旨とした人々の集まり」
が他にあったればこそ、地球人類もこれまで邪教に自滅させられることもなくやって来られたのだといえる。
それでももう、これ以上いままでのやり方でやっていけるようなこともないのである。
自分たちよりも多数派であるような正しい人々に経済的に依存することで初めて、今まで生き延びて
来られた邪宗門の帰依者たちが、さらには、他人への依存ではなく神への帰依によってこそ自分たちが
生き延びて来られたなどとすら思い込んでいる、これこそは、もう決して存続していくことが許されない
悪習だといえる。そんな風に思い込んでいればこそ、何らの後ろめたさも抱くことなく、他者への経済的依存に
頼りきりでの生き延びを続けていくことができる。ただ続けていくことができるのみならず、他者を困窮から
なる人口爆発に追いやってまで自分たちの栄華を貪るほどもの、不埒な貪欲さまでをも保ったままでいるのである。
実際には、神への帰依などではなく、正しい生き方に務めている異教徒への経済的な依存によってこそ
生き延びてきた。その現実を直視して心底から恥を知り、経済的依存ありきな自分たちの生き方から改めて行く。
そのためには当然、他者への経済的依存を神への帰依に掏り返るような邪教を破棄して行くことも必要である。
他人への恩義は虚構の神が掠め取り、恩ある相手は敵扱いとする、致命的な恩知らず助長の邪教、そんな
ものを許容し続けていけるほどに、他人行儀ばかりでやっていけるほど、もうこの世界も広くはないのである。
「帝曰く、咨、四岳、能く朕の三礼を典る有らんか。僉な曰く、伯夷と。
帝曰く、兪り。咨、伯、汝秩宗と作れ。夙夜惟れ寅み、直からん哉、惟れ清なれ」
「舜帝は言われた。『四岳(堯舜の重臣団)よ、私の天地人にまつわる典礼を正しく司れる者はいないだろうか』
みな口を揃えて『それは伯夷です』と答えた。舜帝は言われた。『よろしい、伯夷よ、汝こそは典礼を司る祭祀長となれ。
朝早くから夜遅くまで、清く正しくその役目に励んでくれ』(天地人の三礼うちの『人』が祖霊を祀る典礼だから、祖先の
正業を継ぎ、過ちを繰り返さないことにかけても清く正しくあらねばならない。清く正しくあるべき道というものがある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)
自分たちよりも多数派であるような正しい人々に経済的に依存することで初めて、今まで生き延びて
来られた邪宗門の帰依者たちが、さらには、他人への依存ではなく神への帰依によってこそ自分たちが
生き延びて来られたなどとすら思い込んでいる、これこそは、もう決して存続していくことが許されない
悪習だといえる。そんな風に思い込んでいればこそ、何らの後ろめたさも抱くことなく、他者への経済的依存に
頼りきりでの生き延びを続けていくことができる。ただ続けていくことができるのみならず、他者を困窮から
なる人口爆発に追いやってまで自分たちの栄華を貪るほどもの、不埒な貪欲さまでをも保ったままでいるのである。
実際には、神への帰依などではなく、正しい生き方に務めている異教徒への経済的な依存によってこそ
生き延びてきた。その現実を直視して心底から恥を知り、経済的依存ありきな自分たちの生き方から改めて行く。
そのためには当然、他者への経済的依存を神への帰依に掏り返るような邪教を破棄して行くことも必要である。
他人への恩義は虚構の神が掠め取り、恩ある相手は敵扱いとする、致命的な恩知らず助長の邪教、そんな
ものを許容し続けていけるほどに、他人行儀ばかりでやっていけるほど、もうこの世界も広くはないのである。
「帝曰く、咨、四岳、能く朕の三礼を典る有らんか。僉な曰く、伯夷と。
帝曰く、兪り。咨、伯、汝秩宗と作れ。夙夜惟れ寅み、直からん哉、惟れ清なれ」
「舜帝は言われた。『四岳(堯舜の重臣団)よ、私の天地人にまつわる典礼を正しく司れる者はいないだろうか』
みな口を揃えて『それは伯夷です』と答えた。舜帝は言われた。『よろしい、伯夷よ、汝こそは典礼を司る祭祀長となれ。
朝早くから夜遅くまで、清く正しくその役目に励んでくれ』(天地人の三礼うちの『人』が祖霊を祀る典礼だから、祖先の
正業を継ぎ、過ちを繰り返さないことにかけても清く正しくあらねばならない。清く正しくあるべき道というものがある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)

IQ40以下にまで知能を低下させてしまうというのも、人間にとっての一つの生理現象であるわけだから、
そのような手品を駆使することで「神からの掲示」などをうそぶく者がいた場合に、
本当にそうであるかのように思い込まれたりもし得るのである。
そのような手品に特に引っかかりやすいのは白人や黒人であり、
黄色人種や有色コーカソイドは一切引っかからないこともないにしろ、なかなか引っかかりにくい。
前者二人種は地球社会の西方を伝統的な居住地としているのに対し、後者二人種は東方を伝統的な居住地として来ている。
日出ずる東方を居住地に選んだか、日没する西方を居住地に選んだかが、両者の精神力の高低を決定的に分かったらしく、
精神薄弱に取り入って人々をだまくらかすような邪教への耐性の有無をも大きく左右したのだった。
黄色人種や有色コーカソイドを主体とする東洋人のほうはといえば、
精神薄弱と極度の恐怖が相まっての知能低下などには見舞われにくい一方で、
「知能の重心を適正化することでの濁念の克服」を得意ともしている。それがいわゆる「悟り」というものであり、
コンピュータのファイルの適正化(デフラグ)などとも原理的には似たものである。
原理を指し示してみたからといって、悟りが「粗末な手品」だなんてこともなく、
パソコンも定期的なデフラグを欠かさないでいるべきなのと同じように、人間も悟りを拓かないよりは拓いていたほうがよい。
別に「キリストの救い」などのように知能を低下させての現実逃避などに及ぶわけでもなく、
むしろ知能を最善級に有効活用させた思考が活性化すらされるわけだから、奨励に値しない理由などというものもないわけである。
人間が知能を適正化することで濁念を克服できるということも、精神薄弱と恐怖の相乗効果によって
知能をチンパンジー以下にまで低下させられるということも、人種の違いによる適性の差違もまたあるにしろ、
それなりに普遍的な人間にとっての生理現象であることには変わりない。しかも、
いずれも本人たちにとっての致命的な健康被害を及ぼすものでまではなかったりもする。
日々の礼拝で知能低下を慣習付けているキリスト教徒が、だからといって異教徒よりも短命だなんてこともない。
悟りも拓かずにただ知能を博覧強記化させたりするよりは、それなりに脳を休ませる習慣を持ち合わせているほうが
認知症への罹患なども防げるようであり、知能を低下させることも悪いことばかりではないようである。
ただ、ひっきりなしに自らの知能をチンパンジー以下にまで低下させているような人間が
我が物顔でいるような世の中のほうが破綻して立ち行かなくなるという問題性は厳然としてあるわけで、
だからこそそんな悪習の持ち主を世の中にのさばらせていてはならないことには違いない。
悟りもまた、知能の適正化によって脳への過度の負担を抑制する効果があるから、ボケ防止のためにも奨励できる。
(高齢となった晩年に至るまで聡明であった名僧の逸話なども多い)
なおかつ悟りのほうには、知能を乱高下させることで世の中に多大なる迷惑をかけるような
問題性も帯びていないわけだから、それこそ「キリストの救い」の代替としても文句なしなものだといえる。
知能を乱高下させる慣習に慣れて来たキリスト教徒などにとって、
一定以上の知能や精神力でい続けることには「面倒さ」ばかりが先入観として抱けるものだろう。
ただ知能や精神力を保つだけなら、面倒に違いない。さらにその先に悟りを拓くことで、
一定以上の知能や精神力の下でこそ無上の安楽を得るようにすればよい。
知能低下の快楽に慣れてしまっているキリスト教徒などにとってこそ、そこまでをも目指すことが必須とすらなるであろう。
「心を動かし性を忍ばせ、其の能くせざる所を曾益せしむ。(既出だが、前文の引用のためについでに引用した部分)」
「(何もうまくいかない中に)よく心を動かして性情を忍ばせて、至らない部分を埋め合わせて行く。
(孟子は同時に達観者の境地としての『不動心』を提示してもいる。心を動かし行う所があるのは、未熟な証拠である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・一五より)
悟りも拓かずにただ知能を博覧強記化させたりするよりは、それなりに脳を休ませる習慣を持ち合わせているほうが
認知症への罹患なども防げるようであり、知能を低下させることも悪いことばかりではないようである。
ただ、ひっきりなしに自らの知能をチンパンジー以下にまで低下させているような人間が
我が物顔でいるような世の中のほうが破綻して立ち行かなくなるという問題性は厳然としてあるわけで、
だからこそそんな悪習の持ち主を世の中にのさばらせていてはならないことには違いない。
悟りもまた、知能の適正化によって脳への過度の負担を抑制する効果があるから、ボケ防止のためにも奨励できる。
(高齢となった晩年に至るまで聡明であった名僧の逸話なども多い)
なおかつ悟りのほうには、知能を乱高下させることで世の中に多大なる迷惑をかけるような
問題性も帯びていないわけだから、それこそ「キリストの救い」の代替としても文句なしなものだといえる。
知能を乱高下させる慣習に慣れて来たキリスト教徒などにとって、
一定以上の知能や精神力でい続けることには「面倒さ」ばかりが先入観として抱けるものだろう。
ただ知能や精神力を保つだけなら、面倒に違いない。さらにその先に悟りを拓くことで、
一定以上の知能や精神力の下でこそ無上の安楽を得るようにすればよい。
知能低下の快楽に慣れてしまっているキリスト教徒などにとってこそ、そこまでをも目指すことが必須とすらなるであろう。
「心を動かし性を忍ばせ、其の能くせざる所を曾益せしむ。(既出だが、前文の引用のためについでに引用した部分)」
「(何もうまくいかない中に)よく心を動かして性情を忍ばせて、至らない部分を埋め合わせて行く。
(孟子は同時に達観者の境地としての『不動心』を提示してもいる。心を動かし行う所があるのは、未熟な証拠である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・一五より)
体系的な実物の仁政というものを知る者からすれば、人々を虐げておいて
救済を施すようなマッチポンプの虐政を働くことも、施されることも恥辱の限りである。
もしもそれを誇ったり嬉しがったりしたとしたなら、それも「恥の上塗り」というものであり、
本人たち自身の気休めになるようなことがあろうとも、客観的に見た場合の惨めさまでをも覆い隠せるものでない。
マッチポンプが何らの名誉ともならないのは、当然「一旦だけでも虐げられた」という前科が伴うからでもある。
未熟者が成長のための試練として虐げられるのでもなければ、罪人が処罰を被るために虐げられるというのでもなく、
一人前の大人が虐げられるというのでは、たとえ後々に救われるのであっても恥辱となることには変わりない。
我が子や後輩に対して顔向けもできなくなるような恥辱を加えられたままでいさせられることになるのには
違いないから、自らが名誉を取り戻すためには、虐げを加えてきた者への借りをしっかりと返さねばならない。
家康公がまだ幼名の竹千代を名乗っていた頃、始めは今川の人質となり、次いで織田の人質となるという、
弱小大名の倅としてのそれはそれは不遇な処遇を被っていた。その頃の借りも、家康公は適切な範囲で返している。
今川は信長が滅ぼして、家康公の下には今川の娘の正室・築山殿が残された。その築山殿を「信長からの命」
という範囲によって謀殺し、また信長の死後には、その子孫を外様大名としてそれなりの扱いに処してもいる。
結局、これらの対応は、自らが幼少期の頃に辱めを受けた相手に対する応対としてこそ適切なものとなっている。
自らがすでに成長して大大名となってから、大勢の目前で土下座させるなどの恥辱を味わわせた
豊臣秀吉の残党などに対しては容赦ない追討を加えたが、これも一人前の大人となってからの
自分に対して恥辱を加えた相手に対する処遇としては、適切なものとなっている。
江戸幕府の創始者となった家康公こそは、幼少期から数多の辛酸を舐めさせられながら、その借りを返す形で
天下を平らげていった経歴の持ち主だったものだから、その家康公を模範としていた江戸時代の日本人もまた、
恥とは何か、恥をかかされた場合の返し方はいかなるものであるべきかということをよく研究しぬいていた。
救済を施すようなマッチポンプの虐政を働くことも、施されることも恥辱の限りである。
もしもそれを誇ったり嬉しがったりしたとしたなら、それも「恥の上塗り」というものであり、
本人たち自身の気休めになるようなことがあろうとも、客観的に見た場合の惨めさまでをも覆い隠せるものでない。
マッチポンプが何らの名誉ともならないのは、当然「一旦だけでも虐げられた」という前科が伴うからでもある。
未熟者が成長のための試練として虐げられるのでもなければ、罪人が処罰を被るために虐げられるというのでもなく、
一人前の大人が虐げられるというのでは、たとえ後々に救われるのであっても恥辱となることには変わりない。
我が子や後輩に対して顔向けもできなくなるような恥辱を加えられたままでいさせられることになるのには
違いないから、自らが名誉を取り戻すためには、虐げを加えてきた者への借りをしっかりと返さねばならない。
家康公がまだ幼名の竹千代を名乗っていた頃、始めは今川の人質となり、次いで織田の人質となるという、
弱小大名の倅としてのそれはそれは不遇な処遇を被っていた。その頃の借りも、家康公は適切な範囲で返している。
今川は信長が滅ぼして、家康公の下には今川の娘の正室・築山殿が残された。その築山殿を「信長からの命」
という範囲によって謀殺し、また信長の死後には、その子孫を外様大名としてそれなりの扱いに処してもいる。
結局、これらの対応は、自らが幼少期の頃に辱めを受けた相手に対する応対としてこそ適切なものとなっている。
自らがすでに成長して大大名となってから、大勢の目前で土下座させるなどの恥辱を味わわせた
豊臣秀吉の残党などに対しては容赦ない追討を加えたが、これも一人前の大人となってからの
自分に対して恥辱を加えた相手に対する処遇としては、適切なものとなっている。
江戸幕府の創始者となった家康公こそは、幼少期から数多の辛酸を舐めさせられながら、その借りを返す形で
天下を平らげていった経歴の持ち主だったものだから、その家康公を模範としていた江戸時代の日本人もまた、
恥とは何か、恥をかかされた場合の返し方はいかなるものであるべきかということをよく研究しぬいていた。
結局、恥を漱ぐためにこそ、それなりの忍耐が必要であるということを誰しもがわきまえてもいた。
赤穂浪士の面々も、早々とした吉良への仇討ちを欲してはいたものの、上杉家も背後にある高家吉良への
仕返しが生半可な試みによって成し遂げられるはずもないことが分かっていたものだから、一年九ヶ月にも
およぶ綿密な下調べや計画立ての後に初めて一挙に及ぶことで、吉良への仇討ちをも完遂させたのだった。
恥辱を加えられた相手をただ許さないというのも、ただ許すというのも、安易なことである。的確に恥辱を晴らす
ための処理を講ずるということこそは最も難儀なことであり、そこでこそ最大級の忍耐をも必要とするのである。
的確に恥辱を晴らすことと比べれば、恥辱を加えられた相手をただ許すことすら安易なことでしかないから、
マッチポンプで加えられた恥辱を許したりすることも恥の上塗りにしかならないのである。体系的な
仇討ちという文化の存在しない地域では、それこそ相手を許すことばかりが至上の美談みたいにすら
扱わたりしていたわけだが、それこそ未開の部落社会でしか通用しない、恥ずべき悪習であったといえる。
ちゃんと恥を漱いだ先にこそ、何の後残りもない清清しさが得られもするからこそ、それを目指せする。
その清清しさを知っているからこそ、自らの恥辱を晴らせもせずにただ相手を許したりすることにも
耐え難い不快感を抱き、「決してこのままでは終わらせまい」と決意もできる。恨みがあるからというよりは、
ただ気分を晴らしたいからというぐらいの心持ちであり、恥を漱ぐべき必要性はむしろ、実際問題としての
名誉回復による権益の確保とかいった所にこそある。それがマッチポンプの一環として被った恥であるというのなら、
マッチポンプがプラマイゼロ以下の悪影響しかもたらさないという実際的な公共性に即して漱がれるべきでもある。
「小恵を思いて大恥を忘る。戦うにも如かず」
「目先の恵みに囚われて(かつて受けた)大恥をも忘れてしまっている。対戦相手にすらならない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十八年より)
赤穂浪士の面々も、早々とした吉良への仇討ちを欲してはいたものの、上杉家も背後にある高家吉良への
仕返しが生半可な試みによって成し遂げられるはずもないことが分かっていたものだから、一年九ヶ月にも
およぶ綿密な下調べや計画立ての後に初めて一挙に及ぶことで、吉良への仇討ちをも完遂させたのだった。
恥辱を加えられた相手をただ許さないというのも、ただ許すというのも、安易なことである。的確に恥辱を晴らす
ための処理を講ずるということこそは最も難儀なことであり、そこでこそ最大級の忍耐をも必要とするのである。
的確に恥辱を晴らすことと比べれば、恥辱を加えられた相手をただ許すことすら安易なことでしかないから、
マッチポンプで加えられた恥辱を許したりすることも恥の上塗りにしかならないのである。体系的な
仇討ちという文化の存在しない地域では、それこそ相手を許すことばかりが至上の美談みたいにすら
扱わたりしていたわけだが、それこそ未開の部落社会でしか通用しない、恥ずべき悪習であったといえる。
ちゃんと恥を漱いだ先にこそ、何の後残りもない清清しさが得られもするからこそ、それを目指せする。
その清清しさを知っているからこそ、自らの恥辱を晴らせもせずにただ相手を許したりすることにも
耐え難い不快感を抱き、「決してこのままでは終わらせまい」と決意もできる。恨みがあるからというよりは、
ただ気分を晴らしたいからというぐらいの心持ちであり、恥を漱ぐべき必要性はむしろ、実際問題としての
名誉回復による権益の確保とかいった所にこそある。それがマッチポンプの一環として被った恥であるというのなら、
マッチポンプがプラマイゼロ以下の悪影響しかもたらさないという実際的な公共性に即して漱がれるべきでもある。
「小恵を思いて大恥を忘る。戦うにも如かず」
「目先の恵みに囚われて(かつて受けた)大恥をも忘れてしまっている。対戦相手にすらならない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十八年より)
削除(by投稿者)
うらみ、恥へのうらみは昔から誰でも悩ましいが
生理現象、腹がすく暑い寒いと同じ感覚と考えて自分の中ではスルーすることもあるな。
一方で外に対してはアスペ並みに一切の融通を利かせてないつもりだ。
生理現象、腹がすく暑い寒いと同じ感覚と考えて自分の中ではスルーすることもあるな。
一方で外に対してはアスペ並みに一切の融通を利かせてないつもりだ。
今日は忍術聖書、正忍記
諜報に携わるものとして最も大事なのは具体的な情報であり、
占いや心理分析でもない。経験に基づく洞察よりも具体的な情報の方が大事である。
しかしながらどうしても身に着けなければならない、基本的な
小学生レベルの簡単な洞察的素養も存在する。
その正体はまだ明かさないが、
それがなければ、具体的な情報の姿をした偽情報にいともたやすく
騙されることになる。
それが出来ない人間、組織は、勇敢で知性があって愛情深くても
謀略機関の走狗に過ぎない。
それは簡単な事で七情七欲の理というものであり、自分の七情つまり喜怒哀楽、
具体的には煽て、同情させ、憤怒の念を抱かせ、脅すということ。
七欲つまり食欲、性欲、金銭欲等である。
そもそも謀略の基本の一つは相手のこれらの感情(七情七欲)を利用することであり、
つまり謀略の受け手は自分の感情(七情七欲)を見張り、そこにセンサーをつけ、
自分自身の心を見張らなければならない。ハリウッドの感動ヒューマン映画を
見ても自分の感動を疑うほどである。
小野田少尉は鈴木紀夫青年が救出に来たときに、青年を毒マンジュウだと思ったという。
「毒マンジュウ」とは見た目はおいしいが食べると死ぬということである。
30年間の潜伏、地形の把握、住民の心理の把握、そして機を見ての
ゲリラ戦を想定していた者の疑い深さである。
これは生存欲、に対する対処なのかもしれない。
諜報に携わるものとして最も大事なのは具体的な情報であり、
占いや心理分析でもない。経験に基づく洞察よりも具体的な情報の方が大事である。
しかしながらどうしても身に着けなければならない、基本的な
小学生レベルの簡単な洞察的素養も存在する。
その正体はまだ明かさないが、
それがなければ、具体的な情報の姿をした偽情報にいともたやすく
騙されることになる。
それが出来ない人間、組織は、勇敢で知性があって愛情深くても
謀略機関の走狗に過ぎない。
それは簡単な事で七情七欲の理というものであり、自分の七情つまり喜怒哀楽、
具体的には煽て、同情させ、憤怒の念を抱かせ、脅すということ。
七欲つまり食欲、性欲、金銭欲等である。
そもそも謀略の基本の一つは相手のこれらの感情(七情七欲)を利用することであり、
つまり謀略の受け手は自分の感情(七情七欲)を見張り、そこにセンサーをつけ、
自分自身の心を見張らなければならない。ハリウッドの感動ヒューマン映画を
見ても自分の感動を疑うほどである。
小野田少尉は鈴木紀夫青年が救出に来たときに、青年を毒マンジュウだと思ったという。
「毒マンジュウ」とは見た目はおいしいが食べると死ぬということである。
30年間の潜伏、地形の把握、住民の心理の把握、そして機を見ての
ゲリラ戦を想定していた者の疑い深さである。
これは生存欲、に対する対処なのかもしれない。
しかし人間関係の基本は相手を思いやることであり、感化されることであるから
このように自分の感情にセンサーをつけるような行為を続けると
ほとんど人の感情を解さないアスペのようになってしまう。
これでは逆に人間関係がうまくいかず、諜報に失敗する。
菜根譚を読んで人間性を復活させないといけない。
最後に、七情七欲について記された古典を笠地蔵のように紹介したい
のだが、昨年、正忍記を売り払ってしまったので、
「正忍記を読んでね(はぁと)」としておきたい。
このように自分の感情にセンサーをつけるような行為を続けると
ほとんど人の感情を解さないアスペのようになってしまう。
これでは逆に人間関係がうまくいかず、諜報に失敗する。
菜根譚を読んで人間性を復活させないといけない。
最後に、七情七欲について記された古典を笠地蔵のように紹介したい
のだが、昨年、正忍記を売り払ってしまったので、
「正忍記を読んでね(はぁと)」としておきたい。
個人的に怨んでるかどうかなんかが一番の問題ではない。
最悪、人類の存亡にすら直結する実際問題のほうが、一番の問題だ。
善は内から、悪は外から。
仇云々は悪にまつわる事項だから、外的な問題にこそ致命点がある。
最悪、人類の存亡にすら直結する実際問題のほうが、一番の問題だ。
善は内から、悪は外から。
仇云々は悪にまつわる事項だから、外的な問題にこそ致命点がある。
吉田松陰の口癖。
「わしは、外国に行きたくて行きたくて、仕方がないんじゃよ」
そして、阿呆は自分のことが絶対だと思うから×、と言っている部分は、
その通りだと思うよー。で、そういう阿呆って、他人の指摘など耳に
入れようとしない無知蒙昧ってことだよなー。つまり、阿呆のこの手の
ことをアゲツラっての批判って、自分のこととだと気付かない厚顔無恥。
「わしは、外国に行きたくて行きたくて、仕方がないんじゃよ」
そして、阿呆は自分のことが絶対だと思うから×、と言っている部分は、
その通りだと思うよー。で、そういう阿呆って、他人の指摘など耳に
入れようとしない無知蒙昧ってことだよなー。つまり、阿呆のこの手の
ことをアゲツラっての批判って、自分のこととだと気付かない厚顔無恥。
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先導するものと追従するものとの間に、積極消極の緩急が付けられるべきだとするのが易学的見解である。
だから>>59の坤卦の文言でも、陰柔の立場にあるものは最後まで無為を決め込んでこそ吉だとしているのである。
人間同士が、完全な横並び状態でいられるなんていうことからして、本当のところ単なる夢想であり、
今の教育制度で学年が同じとされるような人間でも、数日や数ヶ月程度の誕生日の開きが普通にある。
その数日や数ヶ月程度の誕生日の差で以って、昔は異母兄弟の家督相続権が左右されたりも
していたわけで、妻妾制も家門主義も排しての横並びを強いている近現代の世界もただ、
以前と比べて個々人の扱い方を大雑把なものにしてしまっているだけでしかないのである。
上記の事例を見ても分かるとおり、陰陽法則への準拠を徹底することこそは細緻さを極める一方で、
実在する陰陽法則をも蔑ろにすることこそは物事を大雑把に済ませることに繋がる。妻妾制が婦女を
大雑把に扱うものであるかのように思われた所で、それも女の立場から見た場合の文句である。陰陽で言えば
陰に当たる女に自分から文句を言うような積極性を与えないこともまた、>>59のような陰陽法則に適っていて、
それでこそ家督をしっかりと継承して行く昔ながらの家の存続が可能ともなって行くのである。
共産主義なども、陰陽法則のわきまえによる細緻さの徹底などをほとんど完全に取っ払ってしまうものである。
だからこそ、易学発祥の地である中国なども、赤化して後はそれはそれは粗悪な文化文明の吹き溜まりと
化してしまっている。「産業従事者が政権をも掌握する」という共産主義の手法からいって陰陽不全の
極みであり、そのせいで統制者を失った産業従事者の堕落などの問題をも生じさせてしまったのである。
だから>>59の坤卦の文言でも、陰柔の立場にあるものは最後まで無為を決め込んでこそ吉だとしているのである。
人間同士が、完全な横並び状態でいられるなんていうことからして、本当のところ単なる夢想であり、
今の教育制度で学年が同じとされるような人間でも、数日や数ヶ月程度の誕生日の開きが普通にある。
その数日や数ヶ月程度の誕生日の差で以って、昔は異母兄弟の家督相続権が左右されたりも
していたわけで、妻妾制も家門主義も排しての横並びを強いている近現代の世界もただ、
以前と比べて個々人の扱い方を大雑把なものにしてしまっているだけでしかないのである。
上記の事例を見ても分かるとおり、陰陽法則への準拠を徹底することこそは細緻さを極める一方で、
実在する陰陽法則をも蔑ろにすることこそは物事を大雑把に済ませることに繋がる。妻妾制が婦女を
大雑把に扱うものであるかのように思われた所で、それも女の立場から見た場合の文句である。陰陽で言えば
陰に当たる女に自分から文句を言うような積極性を与えないこともまた、>>59のような陰陽法則に適っていて、
それでこそ家督をしっかりと継承して行く昔ながらの家の存続が可能ともなって行くのである。
共産主義なども、陰陽法則のわきまえによる細緻さの徹底などをほとんど完全に取っ払ってしまうものである。
だからこそ、易学発祥の地である中国なども、赤化して後はそれはそれは粗悪な文化文明の吹き溜まりと
化してしまっている。「産業従事者が政権をも掌握する」という共産主義の手法からいって陰陽不全の
極みであり、そのせいで統制者を失った産業従事者の堕落などの問題をも生じさせてしまったのである。
政治イデオロギーとしては共産主義並みかそれ以上の問題性を孕んでいるにしたって、
資本主義などの場合は、消費者を満足させるだけのモノ作りの追求のための細緻さなどを極めて、
その過程で陰陽法則にすら則って行こうとする場合などもあるから、ことに陰陽法則に則るという
ことにかけては、共産主義よりも資本主義のほうが時にマシなものですらあったりもするのである。
(資本主義も金融依存が過ぎてモノ作りすら疎かにし始めたりするようなら全くこの限りではない)
とはいえ結局、資本主義は消費者としての民間人の積極性を奨励するイデオロギーであり、共産主義は
生産者としての民間人の積極性を奨励するイデオロギーであるという差異があるまでのことであり、
いずれも官の追従者としてこそ吉祥である民の積極性をけしかけているから不吉であるという点では共通している。
そもそもが、資本主義によって産業従事者の人権が蔑ろにされ過ぎていたことに対するアンチテーゼとして
提唱されたのが共産主義であるわけで、資本主義がなければ共産主義なんてものも生じなかったのである。
ガンが新たなガンを発生させるような悪循環の先に資本主義と共産主義の対立なんてものが生じて
しまったりしたわけで、ガンを撲滅して行く以上は両者ともなる廃絶こそが必須ともなっていく。
日本に西洋の近代文明が流入した明治期頃には、「自由民権」という名の下で官民の平等が謳われた。
それが先の敗戦後、GHQによる新憲法の押し付けなどを通じて「国民主権」という民本官末の思想信条に
まで発展してしまった。全てが日本人自身の意思によるのでもないにしろ、横並びなど所詮は不能な立場に
あるもの同士(官と民)を無理に横並びにした結果、最終的な本末転倒を招いてしまった典型例だといえる。
世界的にも、民権思想というものが提唱されてからは君主制→共和制→民主制といったような流れが
逆らいようのない潮流として固定化されてしまったわけで、自由民権レベルの横並びの発想すら、事態の
悪化を止められるものではない。あくまで、陰陽でいえば陰柔に相当する立場にある以上は、あえて先導者の
一歩後を行くようにすらして行かねばならないのだということが、近代史の惨状からもうかがえるのである。
資本主義などの場合は、消費者を満足させるだけのモノ作りの追求のための細緻さなどを極めて、
その過程で陰陽法則にすら則って行こうとする場合などもあるから、ことに陰陽法則に則るという
ことにかけては、共産主義よりも資本主義のほうが時にマシなものですらあったりもするのである。
(資本主義も金融依存が過ぎてモノ作りすら疎かにし始めたりするようなら全くこの限りではない)
とはいえ結局、資本主義は消費者としての民間人の積極性を奨励するイデオロギーであり、共産主義は
生産者としての民間人の積極性を奨励するイデオロギーであるという差異があるまでのことであり、
いずれも官の追従者としてこそ吉祥である民の積極性をけしかけているから不吉であるという点では共通している。
そもそもが、資本主義によって産業従事者の人権が蔑ろにされ過ぎていたことに対するアンチテーゼとして
提唱されたのが共産主義であるわけで、資本主義がなければ共産主義なんてものも生じなかったのである。
ガンが新たなガンを発生させるような悪循環の先に資本主義と共産主義の対立なんてものが生じて
しまったりしたわけで、ガンを撲滅して行く以上は両者ともなる廃絶こそが必須ともなっていく。
日本に西洋の近代文明が流入した明治期頃には、「自由民権」という名の下で官民の平等が謳われた。
それが先の敗戦後、GHQによる新憲法の押し付けなどを通じて「国民主権」という民本官末の思想信条に
まで発展してしまった。全てが日本人自身の意思によるのでもないにしろ、横並びなど所詮は不能な立場に
あるもの同士(官と民)を無理に横並びにした結果、最終的な本末転倒を招いてしまった典型例だといえる。
世界的にも、民権思想というものが提唱されてからは君主制→共和制→民主制といったような流れが
逆らいようのない潮流として固定化されてしまったわけで、自由民権レベルの横並びの発想すら、事態の
悪化を止められるものではない。あくまで、陰陽でいえば陰柔に相当する立場にある以上は、あえて先導者の
一歩後を行くようにすらして行かねばならないのだということが、近代史の惨状からもうかがえるのである。
「君子は頃歩も敢えて孝を忘るること弗きなり」
「君子は半歩あゆむ間にすら孝悌を忘れることはない。(多動で我を忘れさせるのも
カルト洗脳の常套手段だが、当然君子はそのようなたぶらかしにも惑わされない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
「君子は半歩あゆむ間にすら孝悌を忘れることはない。(多動で我を忘れさせるのも
カルト洗脳の常套手段だが、当然君子はそのようなたぶらかしにも惑わされない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
ずいぶん遅れて投稿しやがったもんだから、こっちが捕捉し抜かってた。
もう遅いから今日は引用ぐらいにする。
「杕の杜有りて、道の左に生ず。彼の君子こそ、噬れ肯えて我れに適かんや。
中心より之れ好みて、曷ぞ之れ飲食せしめん。
杕の杜有りて、道の周りに生ず。彼の君子こそ、噬れ肯えて来たりて遊ばん。
中心より之れ好みて、曷ぞ之れ飲食せしめん」
「かの偉大なお人が私に会って下さると聞いて、私も道端の熟れたヤマナシのような気分。
心の底から喜ぶばかりで、いったい何を飲み食いさせてあげようかばかりを考えています。
かの偉大なお人が私と遊んで下さると聞いて、私も道の周りいっぱいに熟れたヤマナシのような気分。
心の底から喜ぶばかりで、いったい何を飲み食いさせてあげようかばかりを考えています。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・唐風・有杕之杜)
馳走を振舞う側が偉そうにするなってんだ。
この詩の作者の女(年齢上は旧約の作者よりも先輩)のように、
自分のほうこそが心の底から喜んでの恭しいもてなしに徹しろってんだ。
偉そうなもてなしなど、君子なら御免被る。
もう遅いから今日は引用ぐらいにする。
「杕の杜有りて、道の左に生ず。彼の君子こそ、噬れ肯えて我れに適かんや。
中心より之れ好みて、曷ぞ之れ飲食せしめん。
杕の杜有りて、道の周りに生ず。彼の君子こそ、噬れ肯えて来たりて遊ばん。
中心より之れ好みて、曷ぞ之れ飲食せしめん」
「かの偉大なお人が私に会って下さると聞いて、私も道端の熟れたヤマナシのような気分。
心の底から喜ぶばかりで、いったい何を飲み食いさせてあげようかばかりを考えています。
かの偉大なお人が私と遊んで下さると聞いて、私も道の周りいっぱいに熟れたヤマナシのような気分。
心の底から喜ぶばかりで、いったい何を飲み食いさせてあげようかばかりを考えています。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・唐風・有杕之杜)
馳走を振舞う側が偉そうにするなってんだ。
この詩の作者の女(年齢上は旧約の作者よりも先輩)のように、
自分のほうこそが心の底から喜んでの恭しいもてなしに徹しろってんだ。
偉そうなもてなしなど、君子なら御免被る。
油は、それ自体に腐食作用がなく、なおかつ腐食作用のある水分をはじく性質があるからこそ、
刀剣やその他の鋼鉄製品に塗布した場合に防錆効果を発揮する。儒学が天下国家を安定へと
導けるのも、それ自体に国家権力を腐敗させる意味合いがなく、なおかつ権力腐敗を
推進させる聖書信仰のような邪教を自明に排斥する存在性をも帯びているからで、
まさにこれは、油が刀の錆を防ぐ理由などと全く同じ原理性を伴っているといえる。
儒学の正典である四書五経の言葉だけを読み解いてみた所で、そのほとんどが平易な物言いばかりで、
常人には特別面白くも感じられないようなものとなっている。しかし、その一つ一つの言葉からして、
犯罪聖書の言葉のような人と世とを致命的にダメにしてしまう汚濁にまみれた言葉などと全く真逆の
意味合いを兼ね備えていて、それを受容する以上は濁悪な言葉を受容できなくなるようにもなっている。
だからこそ、儒学の教条には権力腐敗などを防止する効果が伴ってもいるのであり、教条それ自体に
独立的な防腐効果があるのかどうか以上にも、その点こそが如実な防腐作用の根拠となっているのである。
これと全く逆のことが、聖書信仰の側についても言えるのである。
犯罪聖書の邪義を自分たちが受容している以上は、四書五経にあるような権力道徳の実践のための
言葉などを受容することも決して覚束なくなる。なればこそ、権力腐敗によって私的な暴利を
せしめて行くことが盤石化されたりもするわけで、私利私益だけが全てである小人などにとっては、
それが自分たちにとっての「防錆効果のある油」のような役割を果たしてくれるとも言えるわけだ。
刀剣やその他の鋼鉄製品に塗布した場合に防錆効果を発揮する。儒学が天下国家を安定へと
導けるのも、それ自体に国家権力を腐敗させる意味合いがなく、なおかつ権力腐敗を
推進させる聖書信仰のような邪教を自明に排斥する存在性をも帯びているからで、
まさにこれは、油が刀の錆を防ぐ理由などと全く同じ原理性を伴っているといえる。
儒学の正典である四書五経の言葉だけを読み解いてみた所で、そのほとんどが平易な物言いばかりで、
常人には特別面白くも感じられないようなものとなっている。しかし、その一つ一つの言葉からして、
犯罪聖書の言葉のような人と世とを致命的にダメにしてしまう汚濁にまみれた言葉などと全く真逆の
意味合いを兼ね備えていて、それを受容する以上は濁悪な言葉を受容できなくなるようにもなっている。
だからこそ、儒学の教条には権力腐敗などを防止する効果が伴ってもいるのであり、教条それ自体に
独立的な防腐効果があるのかどうか以上にも、その点こそが如実な防腐作用の根拠となっているのである。
これと全く逆のことが、聖書信仰の側についても言えるのである。
犯罪聖書の邪義を自分たちが受容している以上は、四書五経にあるような権力道徳の実践のための
言葉などを受容することも決して覚束なくなる。なればこそ、権力腐敗によって私的な暴利を
せしめて行くことが盤石化されたりもするわけで、私利私益だけが全てである小人などにとっては、
それが自分たちにとっての「防錆効果のある油」のような役割を果たしてくれるとも言えるわけだ。

止まることである。それは善でも悪でもない「無記」の領域であり、実用学としても概念論としても
善用悪用いずれもが可能なものである。さまざまな組成の油が実際に世のため人のために用いられたり、
人と世とを損なっての我田引水の糧として用いられたりもしている。そして上記のように油の防錆効果
を概念論として儒学や聖書信仰の概説に用いることも可能であり、儒学の価値を分かりやすく説明する
道具にもなる一方で、聖書信仰の邪悪さから目を背けさせるための悪巧方便にもなってしまうのである。
上記の「防錆」にまつわる比喩では、油が善玉、水が悪玉みたいな意味合いを持ち合わせてしまった
けれども、逆に水のどこまでも重力に従って低い所へと落ちて行く性質を、人間の謙譲さに比肩させる
こともまた可能である。それが儒学における「恭」という徳目の解説のためにも格好である一方で、
犯罪聖書の信者の神への帰依姿勢の解説などにもまた利用できなくはない。実在する君父や祖神では
なく虚構の超越神に対する帰依であるものだから、どうしたって浮ついている処がありはするが、
それにしたって一応は聖書の神というものを畏怖するわけだから、その姿勢が多少は水のようでもある。
実在もしない虚構神への無理な帰依であるものだから、苦痛なものには苦痛と感じられもする。
ニーチェが「重力の魔」などと呼んでキリスト教徒的下卑さを忌み嫌ったのもまさにそれが理由だが、
虚構神への帰依が苦痛に感じられたからといって、実在する君父や祖神への恭敬までもが苦痛に
感じられるとは限らない。そのような相手への恭敬こそは演技止まりなどであってもならない
からこそ、真摯であることの不可欠さが気に入って苦痛とも思わなかったりもする。
水の性質も油の性質も、儒学や聖書信仰の理念を分かりやすく説明する比喩として引き合いに出す
ことが可能ではあるが、比喩を用いてしまった以上は、少なからず浮ついた概念論の域に入り込んで
しまっていることにも変わりはない。あまりにもその辺にばかり深入りしすぎたなら、聖書の神への
帰依が苦痛だからといって、君父や祖神への恭敬までもが苦痛だということにすらなってしまいかねない。
これこそは「概念中毒の病」であるといえ、そこに陥ってしまった人間が聖書信仰の側にはまることは
可能であるとしても、儒学のほうを真摯に受容して実践して行くことはまず無理であると考えたがいい。
老子の言うような、仁と不仁の表裏一体関係もまた、両者が同一の概念論によって似たような正当化を
講ずることが可能であることをも一つの根拠としている。仁君も豪商も、誰か恵む相手がいることには
変わりなく、前者はそれが天下万人である一方、後者は限られた顧客だけである点だけが異なるように、
仁者も不仁者もやることの一部が全く似通っているには違いないからこそ、両者に似たような比喩表現での
説明を講ずることができるのでもある。似た部分もそうでない部分もある、仁と不仁の微妙な関係性を
弁えてよく分別して行くことが必要となるわけだが、それこそは仁者のみがよくするところなのでもある。
「其の膏を屯らす、小貞なれば吉、大貞なれば凶なり。其の膏を屯らすは、施すこと未だ光ならざればなり」
「油を注ぐことを未だ一部の人間までに滞らせている。(普遍的な真理に適った状態ではないので)小事に
かけて貞節でいるのは吉だが、大事にかけてまで頑なでいるのでは凶である。施しがまだ光の照らすように
遍きものではないからである。(油は染み渡りやすい性質を持っているので与れた人間にはよく行き渡るが、
光が万事を照らし出すほどにも遍く行き渡るとも限らないので、油の性質を仁政の指針などにするのは
不適である。孟子も光を仁政の比喩に用いているし、『華厳経』でも真理が光に喩えられていたり
するとおり、光を真理や仁徳の比喩として用いるほうが、比喩表現としても適切である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・屯・九五‐象伝)
ことが可能ではあるが、比喩を用いてしまった以上は、少なからず浮ついた概念論の域に入り込んで
しまっていることにも変わりはない。あまりにもその辺にばかり深入りしすぎたなら、聖書の神への
帰依が苦痛だからといって、君父や祖神への恭敬までもが苦痛だということにすらなってしまいかねない。
これこそは「概念中毒の病」であるといえ、そこに陥ってしまった人間が聖書信仰の側にはまることは
可能であるとしても、儒学のほうを真摯に受容して実践して行くことはまず無理であると考えたがいい。
老子の言うような、仁と不仁の表裏一体関係もまた、両者が同一の概念論によって似たような正当化を
講ずることが可能であることをも一つの根拠としている。仁君も豪商も、誰か恵む相手がいることには
変わりなく、前者はそれが天下万人である一方、後者は限られた顧客だけである点だけが異なるように、
仁者も不仁者もやることの一部が全く似通っているには違いないからこそ、両者に似たような比喩表現での
説明を講ずることができるのでもある。似た部分もそうでない部分もある、仁と不仁の微妙な関係性を
弁えてよく分別して行くことが必要となるわけだが、それこそは仁者のみがよくするところなのでもある。
「其の膏を屯らす、小貞なれば吉、大貞なれば凶なり。其の膏を屯らすは、施すこと未だ光ならざればなり」
「油を注ぐことを未だ一部の人間までに滞らせている。(普遍的な真理に適った状態ではないので)小事に
かけて貞節でいるのは吉だが、大事にかけてまで頑なでいるのでは凶である。施しがまだ光の照らすように
遍きものではないからである。(油は染み渡りやすい性質を持っているので与れた人間にはよく行き渡るが、
光が万事を照らし出すほどにも遍く行き渡るとも限らないので、油の性質を仁政の指針などにするのは
不適である。孟子も光を仁政の比喩に用いているし、『華厳経』でも真理が光に喩えられていたり
するとおり、光を真理や仁徳の比喩として用いるほうが、比喩表現としても適切である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・屯・九五‐象伝)
実際問題、邪教などというものは全世界にまで行き渡らせたりできるようなものではない。
それ自体が、他者への経済的依存なくして生きられもしないような社会的不能者を
増産してしまう代物だから、一定度(だいたい全世界の三分の一程度)まで服従者が
増加してしまえば、それ以上の比率からの覇権拡大を実現できたりはしないのである。
欧米聖書圏が伝統的に経済依存の対象として来たのは中東やアフリカ、インドなどだが、
近頃では欧米から見た場合の「世界の果て」に当たる日本や中国といった極東の大国に
金融面、物質面両方における多大なる依存を来たすようにもなっている。
すでに国債操作で、日本からアメリカへと債務上限ギリギリにあたる1000兆円が貸し出されている。
それでもアメリカの富裕層の底なしの我田引水を支えきることができなくなり、今ではアメリカ政府が
公共機関のための歳出を削減させられることをも迫られている。法定上の自動削減を緩和するための
修正予算案が上院で可決されたが、自分たちが富裕層への増税を拒絶したせいで自動削減を招いて
しまった下院もまた可決する見込みであるという。もちろん、上乗せされる修正予算のための健全な
歳入先などを用意しているわけでもないのだから、下院で多数派を占めている共和党の議員などは、
ただただ我を張り通して無茶を通すだけの駄々っ子も同然な所業に及ぶことになるわけである。
無論、アメリカの共和党議員などというのは国内の富裕層の代理人というまでの存在であり、
「自分たちが増税されるのもイヤ、国としてのアメリカが傾くのもイヤ」というイヤイヤ尽くしの
無理をアメリカの富裕層こそが通そうとしているのが実態である。そして共和党の支持団体には
キリスト教原理主義勢力も含まれているわけで(もちろんこれが富裕層ともかぶっている)、
まともな経済政策もままならないままに私利私欲だけは底抜けでいようとする今のアメリカの
知能破綻者たちの精神的な拠り所にも聖書信仰がなっていることが分かるわけである。
それ自体が、他者への経済的依存なくして生きられもしないような社会的不能者を
増産してしまう代物だから、一定度(だいたい全世界の三分の一程度)まで服従者が
増加してしまえば、それ以上の比率からの覇権拡大を実現できたりはしないのである。
欧米聖書圏が伝統的に経済依存の対象として来たのは中東やアフリカ、インドなどだが、
近頃では欧米から見た場合の「世界の果て」に当たる日本や中国といった極東の大国に
金融面、物質面両方における多大なる依存を来たすようにもなっている。
すでに国債操作で、日本からアメリカへと債務上限ギリギリにあたる1000兆円が貸し出されている。
それでもアメリカの富裕層の底なしの我田引水を支えきることができなくなり、今ではアメリカ政府が
公共機関のための歳出を削減させられることをも迫られている。法定上の自動削減を緩和するための
修正予算案が上院で可決されたが、自分たちが富裕層への増税を拒絶したせいで自動削減を招いて
しまった下院もまた可決する見込みであるという。もちろん、上乗せされる修正予算のための健全な
歳入先などを用意しているわけでもないのだから、下院で多数派を占めている共和党の議員などは、
ただただ我を張り通して無茶を通すだけの駄々っ子も同然な所業に及ぶことになるわけである。
無論、アメリカの共和党議員などというのは国内の富裕層の代理人というまでの存在であり、
「自分たちが増税されるのもイヤ、国としてのアメリカが傾くのもイヤ」というイヤイヤ尽くしの
無理をアメリカの富裕層こそが通そうとしているのが実態である。そして共和党の支持団体には
キリスト教原理主義勢力も含まれているわけで(もちろんこれが富裕層ともかぶっている)、
まともな経済政策もままならないままに私利私欲だけは底抜けでいようとする今のアメリカの
知能破綻者たちの精神的な拠り所にも聖書信仰がなっていることが分かるわけである。
そういった今のアメリカの瀕死状態な懐事情などを見ても分かるのが、資本主義とか民主主義とか
いった聖書圏由来の政治イデオロギーは、「個が公を食い物にする理念」であるということである。
儒学を始めとする権力道徳学は、公(君子階級)が個(小人階級)を食い物とすることを完全に
認めた上で、人の上に立つ人としての君子が義務的に仁政を執り行ってゆくべきだとするものである。
その逆に、民間人こそが公を食い物にして行く場合には、そこに義務的な仁政を執り行って行く
余地などがどこにもない。民間人は元から私利私欲第一であり、そうであるのと引き換えに
産業をも担って行くのが本分であるわけだから、自分たちに主権があるからと言って
仁政までをも志している余裕などは少しもないのである。
どうあっても仁政を実現することができないからこそ、全世界を統一する理念たり得もしない。
個が公を食い物にすることを最初期から正当化しているのは聖書教義であるわけで、それだけでは
世の中を立ち行かせることもままならないから資本主義だとか民主主義だとか行ったイデオロギー
での補強を試みたわけだけれども、所詮は個が公を食い物にする指針などが一定以上の存在たり得る
ことなどが原理的にあり得ないわけだから、後付けの補強などではどうにもならなかったのである。
どんなに個を優遇するのであるにしたって、所詮は民人などというものからして、私利私欲ばかりを
優先させる畜生も同然の存在であるわけだから、支配者の側からすればペットを愛玩するも同然の
ことであるといえる。動物虐待絶対反対とか言っておきながら、去勢や避妊は平気でやるような
破綻した可愛がりようなわけで、それよりは狩猟用やネズミ除けなどに割り切って犬猫を飼ったり
することのほうがまだ誠実である。ソリ引かせるためになど犬を酷使して、死ねばその肉を
食らうエスキモーの慣習などのほうが、まだ人と畜生の関係性としては自然なものだといえる。
いった聖書圏由来の政治イデオロギーは、「個が公を食い物にする理念」であるということである。
儒学を始めとする権力道徳学は、公(君子階級)が個(小人階級)を食い物とすることを完全に
認めた上で、人の上に立つ人としての君子が義務的に仁政を執り行ってゆくべきだとするものである。
その逆に、民間人こそが公を食い物にして行く場合には、そこに義務的な仁政を執り行って行く
余地などがどこにもない。民間人は元から私利私欲第一であり、そうであるのと引き換えに
産業をも担って行くのが本分であるわけだから、自分たちに主権があるからと言って
仁政までをも志している余裕などは少しもないのである。
どうあっても仁政を実現することができないからこそ、全世界を統一する理念たり得もしない。
個が公を食い物にすることを最初期から正当化しているのは聖書教義であるわけで、それだけでは
世の中を立ち行かせることもままならないから資本主義だとか民主主義だとか行ったイデオロギー
での補強を試みたわけだけれども、所詮は個が公を食い物にする指針などが一定以上の存在たり得る
ことなどが原理的にあり得ないわけだから、後付けの補強などではどうにもならなかったのである。
どんなに個を優遇するのであるにしたって、所詮は民人などというものからして、私利私欲ばかりを
優先させる畜生も同然の存在であるわけだから、支配者の側からすればペットを愛玩するも同然の
ことであるといえる。動物虐待絶対反対とか言っておきながら、去勢や避妊は平気でやるような
破綻した可愛がりようなわけで、それよりは狩猟用やネズミ除けなどに割り切って犬猫を飼ったり
することのほうがまだ誠実である。ソリ引かせるためになど犬を酷使して、死ねばその肉を
食らうエスキモーの慣習などのほうが、まだ人と畜生の関係性としては自然なものだといえる。
それと同じように、公と個のあり方にも健全なメリハリを付けて、それと引き換えに天下万人を
利する仁政を公人が義務的に実施して行くようにすることでこそ、単なる私人たち自身の福利厚生
すらもが底上げされていくのである。万人の福利厚生を底上げできるぐらいだから、天下全土を司る
資格すらをも持ち得る。それを始めから企図しているのが儒学であるために、孔子や孟子も君子が
民間に取り入りすぎることを戒めてもいる。民間人の立場からすれば決して聞こえのいいものでも
ないが、それでこそ全ての民間人までをも安楽ならしめる畏れ多い道理というものがあるのである。
「教え有りて類無し」
「人を導く教えのほうに様々な違いがあるだけであって、人間自身に大した類別は存在しない。
(生まれつきダメな人間だったりするのではなく、邪教に洗脳されることでダメ人間になったりする。
こういう記述が四書五経中に存在してもいること自体が、儒学の専攻者がドグマを強いられたり
することなく諸々の教学の巧拙を自己判断して行くことを促している証拠となっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三九より)
「猱に木に升るを教うる毋れ、塗を塗に附るが如し。
君子にして徽猷有らば、小人も属するを与る。(既出)」
「猿に木の登り方を教えるような真似をするな。泥に泥を上塗りするようなもの。
君子階級の者がしっかりとしていれば、小人階級の人間も従属するところを得るのだから。
(上の引用のように、儒学はドグマに凝り固まらない高尚な見地の持ち主たる君子である
ことを促している。犯罪聖書は信者にドグマに凝り固まるような小人でいさせようとする。
そんな程度の低い人間に何かを教えるたりすることからして猿に木登りを教えたり、泥に泥を
上塗りしたりするも同然だからすべきでない。ものを教える姿勢として根本的に間違っている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・桑扈之什・角弓より)
利する仁政を公人が義務的に実施して行くようにすることでこそ、単なる私人たち自身の福利厚生
すらもが底上げされていくのである。万人の福利厚生を底上げできるぐらいだから、天下全土を司る
資格すらをも持ち得る。それを始めから企図しているのが儒学であるために、孔子や孟子も君子が
民間に取り入りすぎることを戒めてもいる。民間人の立場からすれば決して聞こえのいいものでも
ないが、それでこそ全ての民間人までをも安楽ならしめる畏れ多い道理というものがあるのである。
「教え有りて類無し」
「人を導く教えのほうに様々な違いがあるだけであって、人間自身に大した類別は存在しない。
(生まれつきダメな人間だったりするのではなく、邪教に洗脳されることでダメ人間になったりする。
こういう記述が四書五経中に存在してもいること自体が、儒学の専攻者がドグマを強いられたり
することなく諸々の教学の巧拙を自己判断して行くことを促している証拠となっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三九より)
「猱に木に升るを教うる毋れ、塗を塗に附るが如し。
君子にして徽猷有らば、小人も属するを与る。(既出)」
「猿に木の登り方を教えるような真似をするな。泥に泥を上塗りするようなもの。
君子階級の者がしっかりとしていれば、小人階級の人間も従属するところを得るのだから。
(上の引用のように、儒学はドグマに凝り固まらない高尚な見地の持ち主たる君子である
ことを促している。犯罪聖書は信者にドグマに凝り固まるような小人でいさせようとする。
そんな程度の低い人間に何かを教えるたりすることからして猿に木登りを教えたり、泥に泥を
上塗りしたりするも同然だからすべきでない。ものを教える姿勢として根本的に間違っている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・桑扈之什・角弓より)
聖書の神は、信者の悪業を地獄の底まで掘り下げさせる悪巧方便の化身としては「実」である。
信者を悪業から最終的に救い上げる救済神としては全くの「偽」であるけれども、信者が
悪業を積み重ねている限りにおいて、悪因苦果の苦しみから意識を逸らさせるための
鎮痛剤的な役割を果たすことにかけては、確かな効能が見られるものである。
「最終的に信者たちを悪業から救い上げる」という予言自体がすでに、そのための悪巧方便である。
ただ悪業から救い上げてやるのみならず、聖書の信者こそは異教徒を蔑ろにしてまでの優先的な
救済対象にすらなるとする聖書の記述自体が、信者の悪業を深刻化させるためのものでしかなかった。
そんなことは絶対に無いにも関わらず、そうなると信じ込んで悪業を積み重ねて来てしまった
信者たちが、最終的には「過失犯」として扱われる余地もある。聖書の記述など全くの偽りであり、
自分たちは犯罪聖書の作文者に騙されて悪業を積み重ねてきてしまったのだと認めたならば、
それによって元信者たちも「確信犯」ではなくなり、それなりの酌量の余地が生じもする。
しかし、過失犯といえども罪人であるには変わりないから、ただ罰が軽くなるというだけのことで、
当然無罪の異教徒などよりも優先的な優遇対象になったりするわけでは決して無い。だから、
そのような意味合いをも持つ聖書の記述に即して信者が救われたりすることはなく、「過失犯には寛大に、
確信犯には厳酷に(書経など)」といった儒学の教条などに即した多少の救いがあるのみである。
実際、最終的な救いすらもがあり得るように思い込めるほどにも、「仮初めの過渡的な救い」
というものを聖書信者たちもそれなりに享受して来ているのである。外界侵略による財物の収奪
などを通じて、欧米聖書圏こそは近現代世界における最大級の物質的栄華を誇りもした。かつては
世界最高級の富裕国でもあったインドや中国の大多数の人間もジリ貧に追いやってまで、自分たち
こそが人類史上最大級の財政的豊満に与れもしたのだから、最終的な救いがないことぐらいは
ただのプラマイゼロでしかないと、物質主義的な観点から見た場合にこそ言えるのである。
信者を悪業から最終的に救い上げる救済神としては全くの「偽」であるけれども、信者が
悪業を積み重ねている限りにおいて、悪因苦果の苦しみから意識を逸らさせるための
鎮痛剤的な役割を果たすことにかけては、確かな効能が見られるものである。
「最終的に信者たちを悪業から救い上げる」という予言自体がすでに、そのための悪巧方便である。
ただ悪業から救い上げてやるのみならず、聖書の信者こそは異教徒を蔑ろにしてまでの優先的な
救済対象にすらなるとする聖書の記述自体が、信者の悪業を深刻化させるためのものでしかなかった。
そんなことは絶対に無いにも関わらず、そうなると信じ込んで悪業を積み重ねて来てしまった
信者たちが、最終的には「過失犯」として扱われる余地もある。聖書の記述など全くの偽りであり、
自分たちは犯罪聖書の作文者に騙されて悪業を積み重ねてきてしまったのだと認めたならば、
それによって元信者たちも「確信犯」ではなくなり、それなりの酌量の余地が生じもする。
しかし、過失犯といえども罪人であるには変わりないから、ただ罰が軽くなるというだけのことで、
当然無罪の異教徒などよりも優先的な優遇対象になったりするわけでは決して無い。だから、
そのような意味合いをも持つ聖書の記述に即して信者が救われたりすることはなく、「過失犯には寛大に、
確信犯には厳酷に(書経など)」といった儒学の教条などに即した多少の救いがあるのみである。
実際、最終的な救いすらもがあり得るように思い込めるほどにも、「仮初めの過渡的な救い」
というものを聖書信者たちもそれなりに享受して来ているのである。外界侵略による財物の収奪
などを通じて、欧米聖書圏こそは近現代世界における最大級の物質的栄華を誇りもした。かつては
世界最高級の富裕国でもあったインドや中国の大多数の人間もジリ貧に追いやってまで、自分たち
こそが人類史上最大級の財政的豊満に与れもしたのだから、最終的な救いがないことぐらいは
ただのプラマイゼロでしかないと、物質主義的な観点から見た場合にこそ言えるのである。
古くは殷の紂王や秦の始皇帝、その流れをも汲む今の日本の支配層などについてもいえることだが、
半ば確信的に国家規模の悪業を積み重ねて来ているような連中というのは、その過程において、
収奪した財物などに基づく相応のうまみにも与れて来ているものである。それこそ、悪因苦果の
精神的苦しみなどからは完全に目を背けられるほどにも狂乱的な享楽に耽ったりもして来ているわけで、
聖書信者はただ、そのような苦しみからの目の逸らし方が多少高尚じみていただけに過ぎないのである。
故に、悪業を積み重ねていた限りにおいて救いもあるような気がしたから、最終的な救いもあるなどと
思い込んだりしたことが全くの虚妄であることまでもが判明するのである。悪党が過渡的な虚栄を
貪った挙句に最終的な破滅に陥ったりするのは典型的なことであり、聖書信仰に基づく悪業への
邁進なども、聖書教義に基づく最終的な救いなどが絶対にあり得ないと確証されてしまった以上は、
並みの悪党の末路並みの破滅によって終結したところで何らおかしい所などもないのだといえる。
「聖書の教義に基づく最終的な救いがあると思っていたから」という言い訳は、
「人間は他者を不幸にしてでも自分が幸せでいられればいいものだから」などという言い訳と
比べればだいぶ可愛らしいものである。後者の言い訳は、無宗教の権力犯罪者などがよく本音と
するところであるけれども、元聖書信者が「そんな気は毛頭なかった」ということもあり得る。
昔は先祖たちが本気で信じていたらしいけれども、今となってはただ二千年来の伝統だから
惰性で信じてるような体でいるというのも分からないことではない。聖書の教義などに
基づかない範囲での情状酌量に即した救いは相当に期待できるものであり、その分だけ、
ただの権力犯罪者などよりもマシな処遇であったりすることもなくはないのである。
それも偏に、「信仰の過ち」という恥辱を呑まなければならないが故にこその特権だといえる。
半ば確信的に国家規模の悪業を積み重ねて来ているような連中というのは、その過程において、
収奪した財物などに基づく相応のうまみにも与れて来ているものである。それこそ、悪因苦果の
精神的苦しみなどからは完全に目を背けられるほどにも狂乱的な享楽に耽ったりもして来ているわけで、
聖書信者はただ、そのような苦しみからの目の逸らし方が多少高尚じみていただけに過ぎないのである。
故に、悪業を積み重ねていた限りにおいて救いもあるような気がしたから、最終的な救いもあるなどと
思い込んだりしたことが全くの虚妄であることまでもが判明するのである。悪党が過渡的な虚栄を
貪った挙句に最終的な破滅に陥ったりするのは典型的なことであり、聖書信仰に基づく悪業への
邁進なども、聖書教義に基づく最終的な救いなどが絶対にあり得ないと確証されてしまった以上は、
並みの悪党の末路並みの破滅によって終結したところで何らおかしい所などもないのだといえる。
「聖書の教義に基づく最終的な救いがあると思っていたから」という言い訳は、
「人間は他者を不幸にしてでも自分が幸せでいられればいいものだから」などという言い訳と
比べればだいぶ可愛らしいものである。後者の言い訳は、無宗教の権力犯罪者などがよく本音と
するところであるけれども、元聖書信者が「そんな気は毛頭なかった」ということもあり得る。
昔は先祖たちが本気で信じていたらしいけれども、今となってはただ二千年来の伝統だから
惰性で信じてるような体でいるというのも分からないことではない。聖書の教義などに
基づかない範囲での情状酌量に即した救いは相当に期待できるものであり、その分だけ、
ただの権力犯罪者などよりもマシな処遇であったりすることもなくはないのである。
それも偏に、「信仰の過ち」という恥辱を呑まなければならないが故にこその特権だといえる。
「上位に在りては下を陵がず、下位に在りては上を援けとせず、己れを正しくして人に求めざれば則ち怨み無し」
「社会的な上位にあるからといって下位のものを束縛の対象とせず、下位にあるからといって上位のものばかりを
支えとせず、自分自身のあり方を正してなるべく人に求めずにいようとすれば、怨みつらみも無くて済む。
(犯罪聖書の神とその信者みたいな過度の依存関係なんてのもできる限りないに越したことはないのである。
社会的上下関係自体は存在せざるを得ないものであるにしろ、服従関係が偉いものだったりいるのでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一四より)
「社会的な上位にあるからといって下位のものを束縛の対象とせず、下位にあるからといって上位のものばかりを
支えとせず、自分自身のあり方を正してなるべく人に求めずにいようとすれば、怨みつらみも無くて済む。
(犯罪聖書の神とその信者みたいな過度の依存関係なんてのもできる限りないに越したことはないのである。
社会的上下関係自体は存在せざるを得ないものであるにしろ、服従関係が偉いものだったりいるのでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一四より)
明るい場所から急に暗所に移れば、瞳孔の拡張が追いつかなくて何も見えなくなる。
瞳孔が開いて目の集光能力が高まれば、暗所でもそれなりにものが見えるようになる。
その時に多少明るく見えるものが邪教の教祖とでもいったところで、天下国家を遍く
照らし出す仁君聖賢の光明などと比べれば、明るい内にすら入らないものである。
暗闇の中でこそ多少明るめに見える邪教の教祖なんぞを光明として崇め立てるためにこそ、
無量の光明を放つ数多の聖賢が放逐されざるを得なくなる。そこにこそ醜悪な追い落としの
元凶があるのであり、そのような邪教の教祖こそを特定して貶めなければならなくなることが
あるとしても、それも不正な追い落としの罪を罰するといった相殺沙汰でしかないのである。
まずは、全体を見てみる。別に全体主義者でなくとも世の中の全体の様相を鑑みて、全体的に
善くなっているか悪くなっているかを査定しておくのである。それで全体が善くなっている
ようならば、そのような世の中をもたらした人間なり理念なりを尊ぶようにし、悪くなって
いるようなら、そのような世の中をもたらした理念なり人間なりを卑しむようにするのである。
誰にでもやろうと思えばできることなのに、誰もやろうとすらしないこととは、
まさにこのことを言う。全体の利害を見るからといって、別に個人の利害を無視するという
のでもない、全ての人間にとっての利益の根本となるのは天下国家であり、個人の利益などは
そこからかじり取るだけの末節の利益に過ぎないわけだから、全体の利害を慮ることすなわち
普遍的な個人の利害を慮ることでもあるというのに、全体把握の尊重を「全体主義」だなんだと
決め付けて、それが個人の利益などには繋がらないとすら思い込んで避けようとするのである。
瞳孔が開いて目の集光能力が高まれば、暗所でもそれなりにものが見えるようになる。
その時に多少明るく見えるものが邪教の教祖とでもいったところで、天下国家を遍く
照らし出す仁君聖賢の光明などと比べれば、明るい内にすら入らないものである。
暗闇の中でこそ多少明るめに見える邪教の教祖なんぞを光明として崇め立てるためにこそ、
無量の光明を放つ数多の聖賢が放逐されざるを得なくなる。そこにこそ醜悪な追い落としの
元凶があるのであり、そのような邪教の教祖こそを特定して貶めなければならなくなることが
あるとしても、それも不正な追い落としの罪を罰するといった相殺沙汰でしかないのである。
まずは、全体を見てみる。別に全体主義者でなくとも世の中の全体の様相を鑑みて、全体的に
善くなっているか悪くなっているかを査定しておくのである。それで全体が善くなっている
ようならば、そのような世の中をもたらした人間なり理念なりを尊ぶようにし、悪くなって
いるようなら、そのような世の中をもたらした理念なり人間なりを卑しむようにするのである。
誰にでもやろうと思えばできることなのに、誰もやろうとすらしないこととは、
まさにこのことを言う。全体の利害を見るからといって、別に個人の利害を無視するという
のでもない、全ての人間にとっての利益の根本となるのは天下国家であり、個人の利益などは
そこからかじり取るだけの末節の利益に過ぎないわけだから、全体の利害を慮ることすなわち
普遍的な個人の利害を慮ることでもあるというのに、全体把握の尊重を「全体主義」だなんだと
決め付けて、それが個人の利益などには繋がらないとすら思い込んで避けようとするのである。
全体の尊重が個の蔑ろに直結するかのような思い込みを流布してしまったのが、近代の
共産主義や独裁主義であった。そこで試みられたのはただただ、人々の没個性化に基づく
無機質な強権支配というばかりのことであり、それは同様に全体の公益を貴んでいる儒学の
>>114のような教条にも決定的に悖っていたものである。全体の公益を貴ぶのもあくまで
個々人の有機的な営みを育んで行くためであり、そこでこそ個人の私益を偏重する場合以上
もの個人的満足すらもが獲得されていくべきであるというのに、全体への配慮があたかも
その逆の影響を及ぼしてしまうかのような既成認識までもがでっち上げられてしまったのだった。
全体の尊重が個人個人のより一層の福利厚生の増進にまで昇華されるためにこそ必要と
なるのが、忠孝に基づく君父の尊位の尊重である。ただ天下国家の公益を増進するのみならず、
そこで得られた公益を君臣父子夫婦兄弟朋友といった緻密な人間関係の序列に即して消費して
行くことでこそ、不健全な富の偏在などを防止しつつの万人の福利厚生を企図して行く
ことができるのだから、公益と君父の尊位の共なる尊重こそが重要となるのだといえる。
近代以降の全体主義とされるイデオロギーなどには、公益の尊重はあっても君父の尊位の
尊重まではなかったから、公益の運用の仕方に不手際が生じて、一部の独裁者による暴利の
退蔵などの問題を生じてもしまったのである。結局、全体をダメにしてまで一部だけを
輝かせようとする聖書信仰の悪癖を持ち越していた西洋人こそが思いついたイデオロギー
だったものだから、そんな稚拙な域に止まることしかできなかったのである。君父の尊位の
尊重もまた、キリストあたりが特定して否定していたことでもあるから、公益を尊重するから
といって君父の尊位まで共に尊重しようなどとまでは到底考えが及びもしなかったのだった。
共産主義や独裁主義であった。そこで試みられたのはただただ、人々の没個性化に基づく
無機質な強権支配というばかりのことであり、それは同様に全体の公益を貴んでいる儒学の
>>114のような教条にも決定的に悖っていたものである。全体の公益を貴ぶのもあくまで
個々人の有機的な営みを育んで行くためであり、そこでこそ個人の私益を偏重する場合以上
もの個人的満足すらもが獲得されていくべきであるというのに、全体への配慮があたかも
その逆の影響を及ぼしてしまうかのような既成認識までもがでっち上げられてしまったのだった。
全体の尊重が個人個人のより一層の福利厚生の増進にまで昇華されるためにこそ必要と
なるのが、忠孝に基づく君父の尊位の尊重である。ただ天下国家の公益を増進するのみならず、
そこで得られた公益を君臣父子夫婦兄弟朋友といった緻密な人間関係の序列に即して消費して
行くことでこそ、不健全な富の偏在などを防止しつつの万人の福利厚生を企図して行く
ことができるのだから、公益と君父の尊位の共なる尊重こそが重要となるのだといえる。
近代以降の全体主義とされるイデオロギーなどには、公益の尊重はあっても君父の尊位の
尊重まではなかったから、公益の運用の仕方に不手際が生じて、一部の独裁者による暴利の
退蔵などの問題を生じてもしまったのである。結局、全体をダメにしてまで一部だけを
輝かせようとする聖書信仰の悪癖を持ち越していた西洋人こそが思いついたイデオロギー
だったものだから、そんな稚拙な域に止まることしかできなかったのである。君父の尊位の
尊重もまた、キリストあたりが特定して否定していたことでもあるから、公益を尊重するから
といって君父の尊位まで共に尊重しようなどとまでは到底考えが及びもしなかったのだった。
全体の公益の尊重から個人の福利厚生を実現して行く事こそは、
個人の利益ばかりを偏重する場合以上もの体系性や、
それを体得して実践して行くための努力が必要となるのである。
到底洋学者の一人や二人が並べ立てた机上の空論などで
実現して行くこともままならないものであり、数千年に渡る
伝統に即して培われて来た権力道徳学のみがそれを可能とするのである。
「国の光を観る。用て王に賓たるに利ろし。国の光を観るとは、賓を尚ぶなり」
「天下国家の光たるに相応しい人物を見る。帝王の賓客とするにも値する。
世の光を見るということは、賓客として持て成すに相応しい相手を見るということである。
(イエスの如き天下国家の敵となるならず者などが世の光であるわけがないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・観・六四‐象伝)
個人の利益ばかりを偏重する場合以上もの体系性や、
それを体得して実践して行くための努力が必要となるのである。
到底洋学者の一人や二人が並べ立てた机上の空論などで
実現して行くこともままならないものであり、数千年に渡る
伝統に即して培われて来た権力道徳学のみがそれを可能とするのである。
「国の光を観る。用て王に賓たるに利ろし。国の光を観るとは、賓を尚ぶなり」
「天下国家の光たるに相応しい人物を見る。帝王の賓客とするにも値する。
世の光を見るということは、賓客として持て成すに相応しい相手を見るということである。
(イエスの如き天下国家の敵となるならず者などが世の光であるわけがないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・観・六四‐象伝)
自らの罪に自責の念を抱けない者こそは、永久に罪業から免れられる可能性もない。
重罰を受けようが社会的な制限を科されようが、本人が罪業の種を持ち越したままで
居続けていることには変わりないわけで、罰や制限もそのような素養の持ち主に対する
世の中の側からの拒絶反応という以上の意味は持たない(当然それだけの意味はある)。
たとえ罰や制限を科されなくても、心からの反省すらできたなら、自らの罪業の種子を絶やすことも
できるわけだが、そんな都合のいいことも実際にはないわけで、本当に心から反省すればこそ、
自らが相応の罰を受けることで「社会的な戒め」のための見せしめ役を果たさねばならない
という所にまで配慮が及ぶから、進んで罰や制限を受けようとするようにもなるのである。
だからこそ、自分から進んで罰を受けようとすらするか否かが、罪人自身に心からの反省が伴っているか
否かの確かな判断材料ともなるのである。自分自身が心から反省しているのだから、今さら実際の罰まで
受ける必要もないなどと結論付けたとするならば、そのような人間は「免罪を見越した模倣犯の頻発」という
社会的危険性にまで配慮が及んでいないが故に、十分な反省が足りていないとも見受けられるのである。
反省があるから配慮が利くのであり、ないならそこまでの配慮は利かないのである。
両者は表裏一体であり、十分に反省しているにも関わらず社会的配慮は利かないなどということもない。
配慮がないにも関わらず反省しているようであるとしても、それも偽りの反省を脳内で
観念として構築しているだけのことである。そのための格好の手段として多くの罪人に用いられて
来たのが他でもない十字架信仰であり、「罪人は相応の罰を受けるのでなければ社会的な決まりが付かない」
という事実関係から目を背けさせつつの、偽りの反省をやり込める余地を人々にもたらしたのだった。
重罰を受けようが社会的な制限を科されようが、本人が罪業の種を持ち越したままで
居続けていることには変わりないわけで、罰や制限もそのような素養の持ち主に対する
世の中の側からの拒絶反応という以上の意味は持たない(当然それだけの意味はある)。
たとえ罰や制限を科されなくても、心からの反省すらできたなら、自らの罪業の種子を絶やすことも
できるわけだが、そんな都合のいいことも実際にはないわけで、本当に心から反省すればこそ、
自らが相応の罰を受けることで「社会的な戒め」のための見せしめ役を果たさねばならない
という所にまで配慮が及ぶから、進んで罰や制限を受けようとするようにもなるのである。
だからこそ、自分から進んで罰を受けようとすらするか否かが、罪人自身に心からの反省が伴っているか
否かの確かな判断材料ともなるのである。自分自身が心から反省しているのだから、今さら実際の罰まで
受ける必要もないなどと結論付けたとするならば、そのような人間は「免罪を見越した模倣犯の頻発」という
社会的危険性にまで配慮が及んでいないが故に、十分な反省が足りていないとも見受けられるのである。
反省があるから配慮が利くのであり、ないならそこまでの配慮は利かないのである。
両者は表裏一体であり、十分に反省しているにも関わらず社会的配慮は利かないなどということもない。
配慮がないにも関わらず反省しているようであるとしても、それも偽りの反省を脳内で
観念として構築しているだけのことである。そのための格好の手段として多くの罪人に用いられて
来たのが他でもない十字架信仰であり、「罪人は相応の罰を受けるのでなければ社会的な決まりが付かない」
という事実関係から目を背けさせつつの、偽りの反省をやり込める余地を人々にもたらしたのだった。
相応の罰や制限を自分自身が被らないにもかかわらずの偽りの反省、その反省がいかにも本物らしいかどうかを
懺悔(この語も仏語からの盗用)を通じて神父が判定し、いかにも迫真じみていれば「罪は許された」とする。
要は演技の巧拙の判定であり、キリスト教徒は迫真の演技で自分たちの罪から目を背け続けて来たわけである。
そういう悪例があるものだから、「人生は演技だ」などという考え方を奨励してもならないといえる。
世の中では嫌なこともたくさんあるから、本音を隠した上っ面の演技で済ませねばならないことがある
ということに絡んで、上のようなことを言いたがる人間がいるけども、だとしたところで、演技でなくて
済むならそれに越したことはない。できる限り演技などでない本音からの生き方を目指すべきであり、
演技で塗り固めた生き方を「大人としての生き方」などとして達観の対象にしたりしてもならない。
演技で生きて行くことが異教徒以上にも堂に入ってるのがキリスト教徒であるものだから、
キリスト教徒たちも、だからこそ自分たちが異教徒以上にも大人じみているなどとすら思い込んでいる。
特に、イギリス人のキリスト教徒などにその傾向が顕著であり、二枚舌三枚舌の外連を方々で使いこなせば
こそ自分たちも紳士淑女であるのだなどとすらうそぶいているわけだけれども、それこそ、そんな間違った
根拠に基づいたプライドこそは、演技によって自分たちの大罪からすら目を背け続けて来た愚人で
あるが故の自業自得の破滅によって、根底から崩壊してしまうに越したこともないのである。
「演技の巧みさ」を根拠に大人ぶる、そんな子供じみた世の中にもはや引導を渡すべきである。
「君の故に微ざれば、胡ぞ中露に為さんや。〜君の躬に微ざれば、胡ぞ泥中に為さんや」
「主君のためとあらば、雨露の中でも泥の中でも。(『罪の中』などは主君のためにもならないから予め
入らないようにもするが、自らが過酷な条件の中に入っていくことも辞さないのが忠臣の心構えである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・式微より
懺悔(この語も仏語からの盗用)を通じて神父が判定し、いかにも迫真じみていれば「罪は許された」とする。
要は演技の巧拙の判定であり、キリスト教徒は迫真の演技で自分たちの罪から目を背け続けて来たわけである。
そういう悪例があるものだから、「人生は演技だ」などという考え方を奨励してもならないといえる。
世の中では嫌なこともたくさんあるから、本音を隠した上っ面の演技で済ませねばならないことがある
ということに絡んで、上のようなことを言いたがる人間がいるけども、だとしたところで、演技でなくて
済むならそれに越したことはない。できる限り演技などでない本音からの生き方を目指すべきであり、
演技で塗り固めた生き方を「大人としての生き方」などとして達観の対象にしたりしてもならない。
演技で生きて行くことが異教徒以上にも堂に入ってるのがキリスト教徒であるものだから、
キリスト教徒たちも、だからこそ自分たちが異教徒以上にも大人じみているなどとすら思い込んでいる。
特に、イギリス人のキリスト教徒などにその傾向が顕著であり、二枚舌三枚舌の外連を方々で使いこなせば
こそ自分たちも紳士淑女であるのだなどとすらうそぶいているわけだけれども、それこそ、そんな間違った
根拠に基づいたプライドこそは、演技によって自分たちの大罪からすら目を背け続けて来た愚人で
あるが故の自業自得の破滅によって、根底から崩壊してしまうに越したこともないのである。
「演技の巧みさ」を根拠に大人ぶる、そんな子供じみた世の中にもはや引導を渡すべきである。
「君の故に微ざれば、胡ぞ中露に為さんや。〜君の躬に微ざれば、胡ぞ泥中に為さんや」
「主君のためとあらば、雨露の中でも泥の中でも。(『罪の中』などは主君のためにもならないから予め
入らないようにもするが、自らが過酷な条件の中に入っていくことも辞さないのが忠臣の心構えである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・式微より
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