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聖書 Part10
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地球人類にとっての最も標準的な聖書として、誰しもがその地位を疑うことのない聖書、四書五経。
その全文はあくまで二千二百年以上前に用意されたものではあるものの(偽古文尚書の一部を除く)、
論語・大学・中庸・孟子の四書と、易経・詩経・書経(尚書)・礼記・春秋の五経を合わせて
「四書五経」として定型化されたのは宋代以降、朱子がこれらの経書を特薦してからである。
それ以前は四書五経だけでなく、他の数多の経書が四書五経並みかそれ以上もの扱いすらをも受けていた。
今でも「孝経」などが儒学の入門書として読むべき筆頭格として重んじられたりもしているが、
昔はそのような扱いすらをも受けていたのに、今では相当に程度の低い経書として扱われるように
なった儒書もいくらかあり、その代表格に性悪論を説く荀子の教説集「荀子」がありもする。
荀子の教説は、孟子の教説(性善論や臨戦論など)と決定的に食い違っている部分があり、
実際に荀子自身も「荀子」非十二子第六で孟子を槍玉に挙げつつその主張を非難するなどしている。
そのため、新儒学の大家である朱子が孟子の教説のほうに軍配を挙げたことを通じて、荀子の教説
のほうは「あくまで反面教師として扱うべきもの」として取り扱われるようになったのである。
ただ、荀子の自説はともかく、その知識や博学さは目を見張るものがある。「荀子」を実際に読めば
分かるとおり、単なる学知の披露度では孟子以上であり、文飾にかけても当時の究極級のものであった
だろうことがうかがえる。(そのため、諸子百家の文筆が粗雑で典雅さに欠けると非難していた
司馬遷までもが、「史記」礼書で「荀子」の文章を多量に引用するなどしてもいる)
にもかかわらず荀子は孟子以下とされ、朱子学はおろかその他の新儒学すらもが、荀子以上にも孟子を
尊重する道を歩んでいったのである。それはなぜかといえば、孟子の教説は簡易であっても誠実さや
情熱に満ちている一方、荀子の教説は博学ではあっても皮相的で誠実さにも欠けるものだったからである。

その全文はあくまで二千二百年以上前に用意されたものではあるものの(偽古文尚書の一部を除く)、
論語・大学・中庸・孟子の四書と、易経・詩経・書経(尚書)・礼記・春秋の五経を合わせて
「四書五経」として定型化されたのは宋代以降、朱子がこれらの経書を特薦してからである。
それ以前は四書五経だけでなく、他の数多の経書が四書五経並みかそれ以上もの扱いすらをも受けていた。
今でも「孝経」などが儒学の入門書として読むべき筆頭格として重んじられたりもしているが、
昔はそのような扱いすらをも受けていたのに、今では相当に程度の低い経書として扱われるように
なった儒書もいくらかあり、その代表格に性悪論を説く荀子の教説集「荀子」がありもする。
荀子の教説は、孟子の教説(性善論や臨戦論など)と決定的に食い違っている部分があり、
実際に荀子自身も「荀子」非十二子第六で孟子を槍玉に挙げつつその主張を非難するなどしている。
そのため、新儒学の大家である朱子が孟子の教説のほうに軍配を挙げたことを通じて、荀子の教説
のほうは「あくまで反面教師として扱うべきもの」として取り扱われるようになったのである。
ただ、荀子の自説はともかく、その知識や博学さは目を見張るものがある。「荀子」を実際に読めば
分かるとおり、単なる学知の披露度では孟子以上であり、文飾にかけても当時の究極級のものであった
だろうことがうかがえる。(そのため、諸子百家の文筆が粗雑で典雅さに欠けると非難していた
司馬遷までもが、「史記」礼書で「荀子」の文章を多量に引用するなどしてもいる)
にもかかわらず荀子は孟子以下とされ、朱子学はおろかその他の新儒学すらもが、荀子以上にも孟子を
尊重する道を歩んでいったのである。それはなぜかといえば、孟子の教説は簡易であっても誠実さや
情熱に満ちている一方、荀子の教説は博学ではあっても皮相的で誠実さにも欠けるものだったからである。

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「道徳統治を敷ける能力の持ち主などそうそうには現れないから、
法治主義によって世の中を治めて行くことこそは最善となる」というのが、
古代中国の法家や近代の法治主義者の言い分だったりする。そこには、
自分たち自身が徳治を実践して行く君子たり得ないことに対する負い目
への開き直りまでもがあるわけで、実際、法家の韓非なども、まるで
自分自身の君子としての素養の欠如を正当化するためか何かのように、自著
「韓非子」で当時の醜悪な政治ゴシップなどを延々と書き連ねてもいるのである。
治世を持続させて行くための君子たる人材の確保に困るなどということは、
国を挙げての本格的な徳治を実践して行く場合などには、決してありはしない。
漢や唐や宋のように厳格な官僚試験で君子階級を養成していく手もあるし、
(明などは科挙試験を簡素化し過ぎたために政治的腐敗を招いてしまっている)
江戸時代の日本のように、清廉さを旨とする目付身分の武士を多数おくことで
権力の致命的な腐敗を防いでいくようにすることもできる。これらは、
君子による統治というものを人工的に持続させて行くための制度だったといえ、
実定法などとはまた別にそのような施策を講ずることでこそ、
徳治というものを長期的に持続させて行くことが可能ともなるのである。
ただ、科挙試験にしろ目付制度にしろ、為政者たち自身がより厳格な職責を
持って役務に励んで行くことを義務付けたものである。韓非が持論の正当化のために
あげつらったような類いの権力腐敗などを事前に防止して行く制度だったからこそ、
為政者が負い目持ちのままであっても構わないとする法治主義者などにとっては、
それが実際的な効果を持つものであるにしたって、遠ざけて置きたいものとなるのである。
法治主義によって世の中を治めて行くことこそは最善となる」というのが、
古代中国の法家や近代の法治主義者の言い分だったりする。そこには、
自分たち自身が徳治を実践して行く君子たり得ないことに対する負い目
への開き直りまでもがあるわけで、実際、法家の韓非なども、まるで
自分自身の君子としての素養の欠如を正当化するためか何かのように、自著
「韓非子」で当時の醜悪な政治ゴシップなどを延々と書き連ねてもいるのである。
治世を持続させて行くための君子たる人材の確保に困るなどということは、
国を挙げての本格的な徳治を実践して行く場合などには、決してありはしない。
漢や唐や宋のように厳格な官僚試験で君子階級を養成していく手もあるし、
(明などは科挙試験を簡素化し過ぎたために政治的腐敗を招いてしまっている)
江戸時代の日本のように、清廉さを旨とする目付身分の武士を多数おくことで
権力の致命的な腐敗を防いでいくようにすることもできる。これらは、
君子による統治というものを人工的に持続させて行くための制度だったといえ、
実定法などとはまた別にそのような施策を講ずることでこそ、
徳治というものを長期的に持続させて行くことが可能ともなるのである。
ただ、科挙試験にしろ目付制度にしろ、為政者たち自身がより厳格な職責を
持って役務に励んで行くことを義務付けたものである。韓非が持論の正当化のために
あげつらったような類いの権力腐敗などを事前に防止して行く制度だったからこそ、
為政者が負い目持ちのままであっても構わないとする法治主義者などにとっては、
それが実際的な効果を持つものであるにしたって、遠ざけて置きたいものとなるのである。
負い目を開き直ると言うことが、自分たちの怠惰に即しているぐらいなら、
開き直った先に被差別対象としての処遇があったとしても拒否できるものではない。
法家支配の精神的怠惰に慣れきってしまった秦からの渡来人なども、日本で
被差別部落などに落ち延びる場合が多々あったわけだが、それも全く仕方のない
ことだといえる。その精神的怠惰こそは、秦帝国崩壊級の破滅すらをも招く
元凶にすらなってしまうものなのだから、最低限の公益保護のためにすら
一定以上の社会的制限の対象となることが免れられないものだと言える。
キリスト教の「七つの大罪」のうちにも「怠惰」が含まれているが、克服のしようもある
自らの負い目への開き直りを許可したりするようならば、かえって人々の怠惰も増長
されることとなるわけで、少しも戒めとしての意味などは持ち合わせないといえる。
実際、権力犯罪などの素行の悪さからなる負い目は、先天的な心身の障害などと
比べても遥かに克服がたやすいものなのだから、その負い目を許そうとする聖書の
神はさしずめ、被差別賤民を増産するために到来した神であるとすらいえる。
そんな経緯で被差別対象になってしまったりするのも哀れに過ぎるから、
むしろ聖書の神などは本物の神のうちにすら入らないとすらすべきなのである。
そのような神など始めからいなかったという程の戒めと共にこそ、被差別対象としての
処遇から早急に脱却して行ける可能性もまた、多少なりとも生じ得るのだから。
「負い且つ乗り、寇の至るを致す。貞なれども吝かなり。(ここまで既出)
負い且つ乗るとは、亦た醜ず可きなり。我より戎を致す、又た誰をか咎めんや」
「負い目のあるような卑しい立場にありながら、車に乗るような豪華な生活をし、
嫉みで強盗にすら遭わんかの如くである。貞節な態度でいた所で危ういことには変わりない。
負い目がありながら裕福でいたりするのは恥ずべきことであり、自分から兵事を
呼び込んでいるも同然であるのだから、自分以外の誰をとがめたりする権利もありはしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・解・六三‐象伝)
開き直った先に被差別対象としての処遇があったとしても拒否できるものではない。
法家支配の精神的怠惰に慣れきってしまった秦からの渡来人なども、日本で
被差別部落などに落ち延びる場合が多々あったわけだが、それも全く仕方のない
ことだといえる。その精神的怠惰こそは、秦帝国崩壊級の破滅すらをも招く
元凶にすらなってしまうものなのだから、最低限の公益保護のためにすら
一定以上の社会的制限の対象となることが免れられないものだと言える。
キリスト教の「七つの大罪」のうちにも「怠惰」が含まれているが、克服のしようもある
自らの負い目への開き直りを許可したりするようならば、かえって人々の怠惰も増長
されることとなるわけで、少しも戒めとしての意味などは持ち合わせないといえる。
実際、権力犯罪などの素行の悪さからなる負い目は、先天的な心身の障害などと
比べても遥かに克服がたやすいものなのだから、その負い目を許そうとする聖書の
神はさしずめ、被差別賤民を増産するために到来した神であるとすらいえる。
そんな経緯で被差別対象になってしまったりするのも哀れに過ぎるから、
むしろ聖書の神などは本物の神のうちにすら入らないとすらすべきなのである。
そのような神など始めからいなかったという程の戒めと共にこそ、被差別対象としての
処遇から早急に脱却して行ける可能性もまた、多少なりとも生じ得るのだから。
「負い且つ乗り、寇の至るを致す。貞なれども吝かなり。(ここまで既出)
負い且つ乗るとは、亦た醜ず可きなり。我より戎を致す、又た誰をか咎めんや」
「負い目のあるような卑しい立場にありながら、車に乗るような豪華な生活をし、
嫉みで強盗にすら遭わんかの如くである。貞節な態度でいた所で危ういことには変わりない。
負い目がありながら裕福でいたりするのは恥ずべきことであり、自分から兵事を
呼び込んでいるも同然であるのだから、自分以外の誰をとがめたりする権利もありはしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・解・六三‐象伝)

「自らが言責を放棄するため」「最初の発言者を尊重するため」
テッド・バンディのような快楽犯罪者が、自らの婦女暴行殺人の様相をあたかも
他人事か何かのような口調で供述したのも、自らが罪責を免れたいからであった。
神戸連続自動殺傷犯の通称少年Aが、自らの狂気を「バモイドオキ神」などという
架空の神に自らの罪責をを偽託していたことなども同様の理由に基づく。自らの発言や
思考に十分な責任を負わないでいようとする目的での他人事語りには以上のような例がある。
孔子や孟子が「詩(経)に曰く」「書(経)に曰く」などと、出典を明示してから金言を
述べたりしていたのは、元の発言者を尊重すると共に、自らの盗用的姿勢を控えるためである。
言責の放棄のために他人事のような物言いを企てる不埒さとは逆に、こちらは
引用者たち自身の誠実さが如実に発揮されている事例であるといえる。
自らの発言を架空神に偽託したりすることまでもが、時に「誠実さの表れ」として
感心されてしまったりもする。それこそ馬鹿げた話であり、バモイドオキ神に
自らの言行の責任を押し付けようとした少年Aを評価するも同然の暴挙だといえる。
そして逆に、ことあるごとに詩書などからの引用を、出典を明示した上で述べようとする
儒者のあり方を「依存的」などとして酷評するものもいる。こちらは逆に失礼である
といえ、むしろ最初の発言者を尊重しようとするその真摯さを買うべきだとすらいえる。
孔孟級の大儒であれば、経書などから金言を引用して、なおかつそれを参考にしながら
自分の言葉でさらなる金言を述べたりもする。それはもはや創作的な偉業であるとすら
いえるわけだが、そしたら今度は引用元の提示が創作としての偉業を半減させることとなる。
自分の言葉も借り物の言葉もみんな自分の言葉として述べようとする西洋の哲学者や
思想家などと比べて、儒者がその分野での評価を低くされているのも、引用元の執拗な
提示が原因だったりするわけだけれども「述べて作らず、信じて古えを好む(述而第七・一)」
というとおり、それもまた儒者の確信的な捨て身の真摯さに基づくものなのである。
イエスの如きが、「自分はただ神から授かった言葉を述べているだけだ」とうそぶきながら、
本人自身もまた神の如く扱われていたりするのは全く矛盾している。本来の発言者を尊重して
いるから偉いというのではなく、実際問題、本人自身の創作的な発言であって、なおかつ
精神薄弱者が精神的苦痛を紛らわすのに格好な言葉だったりもするものだから、そのような
発言の創作者としてのイエスが、重度精神障害者でもある信者たちに崇められているのである。
アラーから啓示された言葉を述べたとされるムハンマドへのムスリムたちの尊崇姿勢などは、
まだ正気を帯びている。それはそれで崇敬の対象ともされているわけだが、ただ神からの啓示
を授かっただけの人間であるから、本人自身が神も同然の存在としてまでは扱われていない。
その点、イエス本人を神の如く扱うキリシタンなどと比べてシラフな姿だといえ、いくら
ムハンマドを侮辱するものへの攻撃を企てたりするのであっても、まだマシであるといえる。
不埒な他人事語りは卑しみの対象とし、誠実な引用元の提示はむしろ評価の対象とすべきである。
この点、評価と卑しみの対象が転倒してしまっていたりすることも今は多いので、そのような
他人の狂態に惑わされることなく、一人々々からの正気に根ざした判断が志されて行くべきである。
「吾れ、猶お史の闕文に及べり。馬有る者は人に借して之れに乗らしむ。今は夫れ亡し」
「私は昔、歴史記録の欠文などをよく参照させてもらっていた。それはちょうど、馬を持っている
者が他人に馬を貸して乗せてくれるようなものだった。今はもうそういうことはなくなってしまった。
(孔子自身の知見が熟成されて、わざわざ重箱の隅をつつくような調査などをしなくとも歴史の概括を
把握できるようになったのだろう。十分に成長すれば人の言葉を借りる必要などもなくなるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・二六より)
本人自身もまた神の如く扱われていたりするのは全く矛盾している。本来の発言者を尊重して
いるから偉いというのではなく、実際問題、本人自身の創作的な発言であって、なおかつ
精神薄弱者が精神的苦痛を紛らわすのに格好な言葉だったりもするものだから、そのような
発言の創作者としてのイエスが、重度精神障害者でもある信者たちに崇められているのである。
アラーから啓示された言葉を述べたとされるムハンマドへのムスリムたちの尊崇姿勢などは、
まだ正気を帯びている。それはそれで崇敬の対象ともされているわけだが、ただ神からの啓示
を授かっただけの人間であるから、本人自身が神も同然の存在としてまでは扱われていない。
その点、イエス本人を神の如く扱うキリシタンなどと比べてシラフな姿だといえ、いくら
ムハンマドを侮辱するものへの攻撃を企てたりするのであっても、まだマシであるといえる。
不埒な他人事語りは卑しみの対象とし、誠実な引用元の提示はむしろ評価の対象とすべきである。
この点、評価と卑しみの対象が転倒してしまっていたりすることも今は多いので、そのような
他人の狂態に惑わされることなく、一人々々からの正気に根ざした判断が志されて行くべきである。
「吾れ、猶お史の闕文に及べり。馬有る者は人に借して之れに乗らしむ。今は夫れ亡し」
「私は昔、歴史記録の欠文などをよく参照させてもらっていた。それはちょうど、馬を持っている
者が他人に馬を貸して乗せてくれるようなものだった。今はもうそういうことはなくなってしまった。
(孔子自身の知見が熟成されて、わざわざ重箱の隅をつつくような調査などをしなくとも歴史の概括を
把握できるようになったのだろう。十分に成長すれば人の言葉を借りる必要などもなくなるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・二六より)
「人間が生涯のうちに踏みしめられる土地などはごくわずかに限られていて、
地上の大半の土地は永遠に未踏の地のままであり続ける。そしてそれほどにも
くまなく地上が広がっていればこそ、人は地を踏みしめていくことができる」
とは、荘子が「無用の用」を分かりやすく説明するために述べたことでもある。
その荘子を含む道家の論説を、儒家までもが伝統的な参考の対象として来ている。
道家の論弁は決して儒家を支持するようなものばかりではなく、中には「荘子」盜跖篇
のようにあからさまに儒家を糾弾するような説話までもが含まれているわけだけども、
それでも道家の論説というものを、儒家までもがそれなりの尊重の対象として来ている。
その理由を計り知ることができるのが、上記の荘子の無用の用地にまつわる論説でもある。
結局、無用の用地への尊重も欠くような人間こそは、際限なく外界への侵略を推し進めて行く
覇道をも好みとするのであり、それは王道を覇道の上に置く儒家にとっても忌むべき姿である。
覇権主義を抑制するために無用の用地への尊重が有効となるからには、そのような道家の教理が
王道志向の儒家にとっての「敵の敵は味方」となるわけで、故にこそ信奉の対象ともするのである。
道家の本義である隠遁主義も、それ自体は「過ぎたるはなお及ばざるが如し」でもあるにしろ、
「乱世には世を避ける」といった分別のうちにおける参考の対象ぐらいにはなる。不労を違法行為
にすら指定して人々の奴隷的使役を強いる法家の暴挙などとの均衡を取る極論ともなることから、
これまた「敵の敵は味方」の論理で以って、法家を仇敵とする儒家が道家を尊重しもするのである。
地上の大半の土地は永遠に未踏の地のままであり続ける。そしてそれほどにも
くまなく地上が広がっていればこそ、人は地を踏みしめていくことができる」
とは、荘子が「無用の用」を分かりやすく説明するために述べたことでもある。
その荘子を含む道家の論説を、儒家までもが伝統的な参考の対象として来ている。
道家の論弁は決して儒家を支持するようなものばかりではなく、中には「荘子」盜跖篇
のようにあからさまに儒家を糾弾するような説話までもが含まれているわけだけども、
それでも道家の論説というものを、儒家までもがそれなりの尊重の対象として来ている。
その理由を計り知ることができるのが、上記の荘子の無用の用地にまつわる論説でもある。
結局、無用の用地への尊重も欠くような人間こそは、際限なく外界への侵略を推し進めて行く
覇道をも好みとするのであり、それは王道を覇道の上に置く儒家にとっても忌むべき姿である。
覇権主義を抑制するために無用の用地への尊重が有効となるからには、そのような道家の教理が
王道志向の儒家にとっての「敵の敵は味方」となるわけで、故にこそ信奉の対象ともするのである。
道家の本義である隠遁主義も、それ自体は「過ぎたるはなお及ばざるが如し」でもあるにしろ、
「乱世には世を避ける」といった分別のうちにおける参考の対象ぐらいにはなる。不労を違法行為
にすら指定して人々の奴隷的使役を強いる法家の暴挙などとの均衡を取る極論ともなることから、
これまた「敵の敵は味方」の論理で以って、法家を仇敵とする儒家が道家を尊重しもするのである。
「荘子」では、なぜか美人よりも好かれる醜女だとか、五体満足な男子よりも支持される障害者
だとかの説話も引き合いにされている。(ただし荘子本人の著作ではないとされる外篇や雑篇にある)
これも一つの極論であり、儒家などの立場からしたって、五体満足な男前や美人であったほうが
いいには違いないのである。しかし、美しいものばかりをめでて醜い人間などを執拗に嫌っていた
エリザベス一世のような女こそは、人類史上最悪の世界侵略の旗頭ともなってしまったわけだから、
無用の用地への尊重の如き、醜人や障害者への存在性の尊重もそれなりにあるべきなのである。
実際孔子も、最初は外貌が醜悪だった澹台滅明という弟子を嫌っていたものの、その行いが貞節で道に
適っていたことから、外見ばかりで人を判断することを改めたともいう(「史記」仲尼弟子列伝参照)。
荘子のごとき醜女や障害者の礼賛にまでは及ばずとも、この孔子程度の配慮は誰しもが持つべきだといえる。
結局、無用の用地だとか隠退志向だとか醜女だとか障害者だとかいったものにまで配慮を利かせる
道家の教理を尊重することが、そうしていく本人たち自身にとっての心の余裕の確保ともなる。
そしてそれは、地球環境の保全などのためにもこれから必須とすらなって行くことである。
自分が踏みしめた場所や、自分が好き好むものばかりを執拗に偏愛するような狭量さを、
道家のおおらかな教理で中和して、分別ある大人になって行ければいいのである。
「周道は砥の如く、其の直なるや矢の如し。君子の履む所にして、小人り視る所なり」
「文王が敷かれた周の道は砥石のように平滑でいて、なおかつ矢のように真っ直ぐである。
これこそは君子の踏襲する道であると共に、小人の仰ぎ見る所でもある。(君子の踏み行くべき
正道はすでに先人が敷設済みのものでいて、なおかつ小人たち自身には踏めもしないものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・大東より)
だとかの説話も引き合いにされている。(ただし荘子本人の著作ではないとされる外篇や雑篇にある)
これも一つの極論であり、儒家などの立場からしたって、五体満足な男前や美人であったほうが
いいには違いないのである。しかし、美しいものばかりをめでて醜い人間などを執拗に嫌っていた
エリザベス一世のような女こそは、人類史上最悪の世界侵略の旗頭ともなってしまったわけだから、
無用の用地への尊重の如き、醜人や障害者への存在性の尊重もそれなりにあるべきなのである。
実際孔子も、最初は外貌が醜悪だった澹台滅明という弟子を嫌っていたものの、その行いが貞節で道に
適っていたことから、外見ばかりで人を判断することを改めたともいう(「史記」仲尼弟子列伝参照)。
荘子のごとき醜女や障害者の礼賛にまでは及ばずとも、この孔子程度の配慮は誰しもが持つべきだといえる。
結局、無用の用地だとか隠退志向だとか醜女だとか障害者だとかいったものにまで配慮を利かせる
道家の教理を尊重することが、そうしていく本人たち自身にとっての心の余裕の確保ともなる。
そしてそれは、地球環境の保全などのためにもこれから必須とすらなって行くことである。
自分が踏みしめた場所や、自分が好き好むものばかりを執拗に偏愛するような狭量さを、
道家のおおらかな教理で中和して、分別ある大人になって行ければいいのである。
「周道は砥の如く、其の直なるや矢の如し。君子の履む所にして、小人り視る所なり」
「文王が敷かれた周の道は砥石のように平滑でいて、なおかつ矢のように真っ直ぐである。
これこそは君子の踏襲する道であると共に、小人の仰ぎ見る所でもある。(君子の踏み行くべき
正道はすでに先人が敷設済みのものでいて、なおかつ小人たち自身には踏めもしないものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・大東より)
罪を隠す者も、罪を開き直る者も、罪の重さ自体はさして変わらない。
むしろ、罪の恥深さを知るが故に隠そうとしたりするような者のほうが、
恥知らずにも罪を開き直る者などよりも、まだ反省のしようがあるというもの。
人が罪を償って立ち直れるか否かの境界線もそこにあるといえるぐらいで、
もしも人が生きてるうちに償える程度の罪を犯した場合に、思わず罪を隠したく
なるような恥じらいを原動力として罪を償えば、精神的に立ち直れたりもする
一方、もはや罪を開き直って恥らうこともないというのなら、形式上の罰などを
受けた所で、もはや精神的に立ち直れる気概なども残ってはいないといえる。
自らの罪を開き直ることが、自らの品性を罪人としての堂に入らせる。もはや
二度と浩然の気などを味わうこともできない、致命的な精神障害者と化してしまう。
心理面からいえば、それは確かに可哀想なことでもあるが、哀れんでやったから
といって本人たちが健全な精神を取り戻せるわけでもない。その哀れみを、
できる限りそんな人間をこの世から撲滅して行く自らの気概に転ずるというのなら、
心の中で哀れんでやってもいいだろうが、本人たちに対してはむしろ鼻つまみ者
としての扱いを処してやるのが、本人たちのためにもなることである。
鼻つまみ者扱いか、もしくは全く特別扱いをしないことである。
罪を開き直って恥も知らぬような心持ちでいる者は、実際に罪があるのであれ
ないのであれ、この世にとって百害あって一利もない上に、本人たち自身も
浩然の気を伴う健全な精神を知らぬ、潜在的かつ自得の苦悩者でいるわけだから、
そこに特別な価値か何かがあるかのような捉え方だけはすべきでない。
むしろ、罪の恥深さを知るが故に隠そうとしたりするような者のほうが、
恥知らずにも罪を開き直る者などよりも、まだ反省のしようがあるというもの。
人が罪を償って立ち直れるか否かの境界線もそこにあるといえるぐらいで、
もしも人が生きてるうちに償える程度の罪を犯した場合に、思わず罪を隠したく
なるような恥じらいを原動力として罪を償えば、精神的に立ち直れたりもする
一方、もはや罪を開き直って恥らうこともないというのなら、形式上の罰などを
受けた所で、もはや精神的に立ち直れる気概なども残ってはいないといえる。
自らの罪を開き直ることが、自らの品性を罪人としての堂に入らせる。もはや
二度と浩然の気などを味わうこともできない、致命的な精神障害者と化してしまう。
心理面からいえば、それは確かに可哀想なことでもあるが、哀れんでやったから
といって本人たちが健全な精神を取り戻せるわけでもない。その哀れみを、
できる限りそんな人間をこの世から撲滅して行く自らの気概に転ずるというのなら、
心の中で哀れんでやってもいいだろうが、本人たちに対してはむしろ鼻つまみ者
としての扱いを処してやるのが、本人たちのためにもなることである。
鼻つまみ者扱いか、もしくは全く特別扱いをしないことである。
罪を開き直って恥も知らぬような心持ちでいる者は、実際に罪があるのであれ
ないのであれ、この世にとって百害あって一利もない上に、本人たち自身も
浩然の気を伴う健全な精神を知らぬ、潜在的かつ自得の苦悩者でいるわけだから、
そこに特別な価値か何かがあるかのような捉え方だけはすべきでない。
理想を言えば、そんな劣悪な心理状態に追い込まれた人間がこの世に生じないに
越したことはない。生じてしまったとしても実際に罪を犯させないのがその次で、
大量に発生してしまった挙句に大罪までもが犯し尽くされたりするのが最悪である。
そして今こそは、最悪の時である。罪に対する恥を寸分たりとも知らぬ者たちが、
確信的にも無自覚的にも罪という罪を犯し尽くしている時代。罪あるものには
当然罰を科すのが最優先だが、刑罰などは有害鳥獣に対する保健衛生措置も
同然のものであり、罰以上にも人としての立ち直りを促す民事的な
矯正措置のほうがより重要なものとなって行くのである。
すなわち、罪に対する恥を知る教育であり、大人の人間への教育でもあるからには、
実際に恥を知る者を社会的に優遇したり、恥を知らぬ者を冷遇したりもして行く。
それが参政権の剥奪や禁治産のような措置ともなって行くわけで、これも人々への
恥を知るための心の矯正としての効果が伴えばこそ、その意義を持つものだといえる。
「嗚呼、邦伯、師長、百執事の人、尚くば、
皆な隠さんかな。朕れ貨を好むに肩せず、敢えて生生なるを恭す」
「ああ、諸国の頭領や、地方官の長や、その他の公務を司る人々よ、できることなら、
みな(常日頃から些細な問題にも罪悪感を抱いて、その気持ちを)隠しているように
して欲しい。私は財貨による栄華を好むようなものを登用したくはない。あえて自ら
清々としたあり方に励むものにこそ恭敬の念を抱く。(殷王19代盤庚の言葉)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚下より)
越したことはない。生じてしまったとしても実際に罪を犯させないのがその次で、
大量に発生してしまった挙句に大罪までもが犯し尽くされたりするのが最悪である。
そして今こそは、最悪の時である。罪に対する恥を寸分たりとも知らぬ者たちが、
確信的にも無自覚的にも罪という罪を犯し尽くしている時代。罪あるものには
当然罰を科すのが最優先だが、刑罰などは有害鳥獣に対する保健衛生措置も
同然のものであり、罰以上にも人としての立ち直りを促す民事的な
矯正措置のほうがより重要なものとなって行くのである。
すなわち、罪に対する恥を知る教育であり、大人の人間への教育でもあるからには、
実際に恥を知る者を社会的に優遇したり、恥を知らぬ者を冷遇したりもして行く。
それが参政権の剥奪や禁治産のような措置ともなって行くわけで、これも人々への
恥を知るための心の矯正としての効果が伴えばこそ、その意義を持つものだといえる。
「嗚呼、邦伯、師長、百執事の人、尚くば、
皆な隠さんかな。朕れ貨を好むに肩せず、敢えて生生なるを恭す」
「ああ、諸国の頭領や、地方官の長や、その他の公務を司る人々よ、できることなら、
みな(常日頃から些細な問題にも罪悪感を抱いて、その気持ちを)隠しているように
して欲しい。私は財貨による栄華を好むようなものを登用したくはない。あえて自ら
清々としたあり方に励むものにこそ恭敬の念を抱く。(殷王19代盤庚の言葉)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚下より)
俺が謝罪しろというのは天皇スレではない。
責めたい気持ちも俺も無礼なことを言ってきたので心当たりがあるが
口座の残高を元に、「呪い」等の勘違いを重ねた上に
犬と罵倒したことだ。勘違いの上の発言だけに
改めて罵倒するのか、それとも謝罪するのかはっきりしてもらえないか。
責めたい気持ちも俺も無礼なことを言ってきたので心当たりがあるが
口座の残高を元に、「呪い」等の勘違いを重ねた上に
犬と罵倒したことだ。勘違いの上の発言だけに
改めて罵倒するのか、それとも謝罪するのかはっきりしてもらえないか。
親子や夫婦でもないような全くの他人同士の関係でいて、なおかつ人が人を
庇護下に置くということ——もっと言えば、人が人を牧するということは、
ごくごく限られた条件下においてのみ無害や有益たり得るものであり、
そうでもないような場合には、かえって害すらをももたらしかねないものである。
ごくごく大まかなところでは、公人が他人を庇護下に置くということが、
有益無害たり得る人間同士の依存関係である一方、私人が他人を庇護下に置く
というのは、かえって世の中に害をもたらす依存関係となりやすい。一定の
封土の統治責任を負う公人が領民を庇護下に置くことが益になるのは自明なこと
である一方、むしろその封土から私益を吸い上げているだけの存在である民間の
資本家などが他者を庇護対象としたりすることには、そのような自明さは伴わない。
むしろ、自分が気に入った相手ばかりを偏った庇護の対象とすることが、
我田引水の激化を招くことともなって、世の中への負担を増大せしめてしまう。
そのあたりの分別がよく利かされていたから、昔の日本などでは、私人からの
投げ銭のごとき支援によって生活をつなぐ一般的な芸能人などは被差別民として
の処遇を被った一方、公家や武家からの庇護や承認も得た能や歌舞伎や相撲などの
一部の芸能に限っては、被差別対象などになることもなく市民権を得たのだった。
形式や程度の違いこそあれ、私人がパトロンとなることを忌む認識というのが
東洋には遍在していた一方、西洋にはなかった。そもそも「劇場主義」で以って、
舞台裏での支援被支援の関係などから目を背ける悪習が完全に堂に入ってしまって
いるものだから、それが善いも悪いもない完全なタブー扱いのままでいるのである。
だからこそ、東洋では私的なパトロンによる振興などをそもそも是としないような
分野までもが西洋では資本家の支援などによって振興されて来てしまったのである。
その代表格が「洋学(西洋の学術)」であり、相当に理念化が凝らされていたりも
するものの、その内実は「いかにして大金を儲けてウハウハとなるか」
ばかりを目的としたものとなってしまっている。
庇護下に置くということ——もっと言えば、人が人を牧するということは、
ごくごく限られた条件下においてのみ無害や有益たり得るものであり、
そうでもないような場合には、かえって害すらをももたらしかねないものである。
ごくごく大まかなところでは、公人が他人を庇護下に置くということが、
有益無害たり得る人間同士の依存関係である一方、私人が他人を庇護下に置く
というのは、かえって世の中に害をもたらす依存関係となりやすい。一定の
封土の統治責任を負う公人が領民を庇護下に置くことが益になるのは自明なこと
である一方、むしろその封土から私益を吸い上げているだけの存在である民間の
資本家などが他者を庇護対象としたりすることには、そのような自明さは伴わない。
むしろ、自分が気に入った相手ばかりを偏った庇護の対象とすることが、
我田引水の激化を招くことともなって、世の中への負担を増大せしめてしまう。
そのあたりの分別がよく利かされていたから、昔の日本などでは、私人からの
投げ銭のごとき支援によって生活をつなぐ一般的な芸能人などは被差別民として
の処遇を被った一方、公家や武家からの庇護や承認も得た能や歌舞伎や相撲などの
一部の芸能に限っては、被差別対象などになることもなく市民権を得たのだった。
形式や程度の違いこそあれ、私人がパトロンとなることを忌む認識というのが
東洋には遍在していた一方、西洋にはなかった。そもそも「劇場主義」で以って、
舞台裏での支援被支援の関係などから目を背ける悪習が完全に堂に入ってしまって
いるものだから、それが善いも悪いもない完全なタブー扱いのままでいるのである。
だからこそ、東洋では私的なパトロンによる振興などをそもそも是としないような
分野までもが西洋では資本家の支援などによって振興されて来てしまったのである。
その代表格が「洋学(西洋の学術)」であり、相当に理念化が凝らされていたりも
するものの、その内実は「いかにして大金を儲けてウハウハとなるか」
ばかりを目的としたものとなってしまっている。
その点、理念化などは程ほどでいながらも、いかに天下の公益に
寄与せしめるかこそをピンポイントに追求しぬいている儒学などとは
対照的であり、実際、その成立過程からして、「君子の学と小人の学」
という決定的な相違を両者は持ち合わせてきているのである。
主に資本家をパトロンとして構築されて来たのが洋学であればこそ、
その振興が自明に世の中にとっての害ともなる。既得権益に与れたものの
栄華には寄与する一方で、そのための我田引水で世の中の大局からの窮乏を招く。
まさに「異端をおさめるは害あるのみ(為政第二・一六)」であり、逆に、
徳治者のための学問であることを徹底してきた儒学の正統さ故の
有益さをも比較対照的に計り知ることができるのである。
私的なパトロンによる文化振興などがろくな結果を招きもしないのは、
近現代の文明発達の末路としての人類滅亡の危機などからも知れることである。
芸能が私的支援の対象となるぐらいならともかく、学問までもがそんな扱いを受けて、
天下国家のための正学を退けるようなことにまでなったなら、もはや致命的だといえる。
特に、莫大な私益を稼ぎ挙げた素封家などにとって、「他人を飼う」ということは
えもいわれぬ甘美さを伴って誘惑してくる金の使い道のようであるけれども、
私人が他人を囲い込むなどということ自体、もはや究極悪への呼び水である、
素封家の分際などで人様を庇護の対象などにする資格などはないのだと知らねばならない。
世の一般的な人々もまた、金持ちだからといって私人に庇護されたりするようなことの、
世の中にとって有害無益極まりないが故の恥というものを知らねばならない。
「行い得ざる者有れば、皆な反りて諸れを己れに求めよ。其の身正しければ天下之れに帰す」
「自分が望まないような振る舞いをするような者がいるのであれば、誰でもまずは自分自身に
省みて間違いがないかを確かめよ。自分自身が正しいようであれば、天下すらもが自らに帰順
するであろう。(相手に帰服するかどうかを選ばせたりすること自体、仁者の姿勢ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・四より)
寄与せしめるかこそをピンポイントに追求しぬいている儒学などとは
対照的であり、実際、その成立過程からして、「君子の学と小人の学」
という決定的な相違を両者は持ち合わせてきているのである。
主に資本家をパトロンとして構築されて来たのが洋学であればこそ、
その振興が自明に世の中にとっての害ともなる。既得権益に与れたものの
栄華には寄与する一方で、そのための我田引水で世の中の大局からの窮乏を招く。
まさに「異端をおさめるは害あるのみ(為政第二・一六)」であり、逆に、
徳治者のための学問であることを徹底してきた儒学の正統さ故の
有益さをも比較対照的に計り知ることができるのである。
私的なパトロンによる文化振興などがろくな結果を招きもしないのは、
近現代の文明発達の末路としての人類滅亡の危機などからも知れることである。
芸能が私的支援の対象となるぐらいならともかく、学問までもがそんな扱いを受けて、
天下国家のための正学を退けるようなことにまでなったなら、もはや致命的だといえる。
特に、莫大な私益を稼ぎ挙げた素封家などにとって、「他人を飼う」ということは
えもいわれぬ甘美さを伴って誘惑してくる金の使い道のようであるけれども、
私人が他人を囲い込むなどということ自体、もはや究極悪への呼び水である、
素封家の分際などで人様を庇護の対象などにする資格などはないのだと知らねばならない。
世の一般的な人々もまた、金持ちだからといって私人に庇護されたりするようなことの、
世の中にとって有害無益極まりないが故の恥というものを知らねばならない。
「行い得ざる者有れば、皆な反りて諸れを己れに求めよ。其の身正しければ天下之れに帰す」
「自分が望まないような振る舞いをするような者がいるのであれば、誰でもまずは自分自身に
省みて間違いがないかを確かめよ。自分自身が正しいようであれば、天下すらもが自らに帰順
するであろう。(相手に帰服するかどうかを選ばせたりすること自体、仁者の姿勢ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・四より)
桃屋のごはんですよ

それも鬼畜道や地獄道のような「ある種の道」の比喩的表現なのであり、
仏門などではそのような非人道の如実な描写までもが試みられていたりもする。
それをたとえば、朱子が「巨石を抱いて川に身を投ずるような無駄手間」
と批判したように、そんなものをわざわざ描くべきですらないとする
純人道の立場から、専ら「非道」や「無道」として扱ったりもするのである。
人が生きる以上は、そこに道がある。ただ、それが「道」と標榜するに値する程にも
できた道であるか否かが異なるだけである。日本には神道や武道や書道や茶道など、
「〜道」と呼ぶ嗜みが多く、仏教すらもが「仏道」として日本化されていたりする。
中国や欧米のような大陸国とも違って、地理的にも実物の道からして固定化されやすい
条件を満たしているから、それに倣って理念としての〜道の保全にも余念がないのである。
永年にわたって道を保全する伝統があればこそ、悪道を排して善道のみを守る、
片刃の太刀の醸成のごとき道の良質化にも熱心でいる。中国こそが発祥地である
陰陽思想なども「陰陽道」としてより高尚な域へと昇華し、迷信的な要素を省きつつ
神道や仏道や武道や土建業などへの応用を利かせている。だからこそ、神道の祭祀長たる
天皇も、古代中国の周朝をも上回る人類史上最長の皇統を存続して来られたのでもあり、
(摂関家や将軍家が天皇の地位までは決して侵そうとしなかったのも陰陽道の弁えによる)
道統そのものの洗練こそは永続的な保全にも繋がる、紛れもない証拠となっているのである。
キリスト教やユダヤ教の如きも、「ある種の道の洗練」を念頭に置いてきたのには違いない。
その点、道自体の洗練は適当な範囲に止めて、物量ばかりを稼いで来た中国文化などとは、
日本文化と共に袂を分かつものである。ただ、日本文化のほうは「善道の洗練」に
執心して来た一方で、聖書信仰のほうは「悪道の洗練」にこそ執心して来た点が異なる。
なればこそ、日本と聖書圏こそは決定的に敵対するか、あるいはいずれかが
一方に服従する形で和睦するかのいずれかでしかあり得ないのでもある。
いま、服従的な姿勢での和睦に与っているのは日本のほうだが、むしろ、
聖書文化のほうが強制的な途絶を迫られる事態ともなっている。自分たちのほうが過ちを
認めて文化振興を中絶しないことには人類の滅亡すら免れ得ないから、自主的に途絶する。
それも「悪道の洗練」ばかりに終始して来たればこその自業自得の末路であるわけだが、
どんな道であれ、「道の洗練」に専らでい続けてきた手合いとして、そもそも道の洗練自体が
緩慢で疎かなままである中国文化などに鞍替えさせられるのは納得の行かない所があるかも
知れない。自分たちとは真逆の道を歩んできたとはいえ、道の洗練にも専らでい続けて来た
日本文化あたりのほうが、まだ志向性を似つかわすものとして負けも認めやすいかもしれない。
それが「悪道」ですらなかったならば、道の洗練への専念によって、自分たちこそが
恒久的な王道楽土を築き上げる主体とすらなり得たのである。残念ながら聖書文化はそうでは
なかったが、これからも、道の洗練を尊ぶ姿勢だけは大事にしてもらいたいものである。
「憤らずんば啓せず」
「憤っているぐらいでなければ、ものを教えてやるにも値しない。
(これはものが分からなくて憤っている場合の話だが、発憤という心持ち自体、
向学のためなどに有用となるものであり、決して全否定されるべきものでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・八より)
その点、道自体の洗練は適当な範囲に止めて、物量ばかりを稼いで来た中国文化などとは、
日本文化と共に袂を分かつものである。ただ、日本文化のほうは「善道の洗練」に
執心して来た一方で、聖書信仰のほうは「悪道の洗練」にこそ執心して来た点が異なる。
なればこそ、日本と聖書圏こそは決定的に敵対するか、あるいはいずれかが
一方に服従する形で和睦するかのいずれかでしかあり得ないのでもある。
いま、服従的な姿勢での和睦に与っているのは日本のほうだが、むしろ、
聖書文化のほうが強制的な途絶を迫られる事態ともなっている。自分たちのほうが過ちを
認めて文化振興を中絶しないことには人類の滅亡すら免れ得ないから、自主的に途絶する。
それも「悪道の洗練」ばかりに終始して来たればこその自業自得の末路であるわけだが、
どんな道であれ、「道の洗練」に専らでい続けてきた手合いとして、そもそも道の洗練自体が
緩慢で疎かなままである中国文化などに鞍替えさせられるのは納得の行かない所があるかも
知れない。自分たちとは真逆の道を歩んできたとはいえ、道の洗練にも専らでい続けて来た
日本文化あたりのほうが、まだ志向性を似つかわすものとして負けも認めやすいかもしれない。
それが「悪道」ですらなかったならば、道の洗練への専念によって、自分たちこそが
恒久的な王道楽土を築き上げる主体とすらなり得たのである。残念ながら聖書文化はそうでは
なかったが、これからも、道の洗練を尊ぶ姿勢だけは大事にしてもらいたいものである。
「憤らずんば啓せず」
「憤っているぐらいでなければ、ものを教えてやるにも値しない。
(これはものが分からなくて憤っている場合の話だが、発憤という心持ち自体、
向学のためなどに有用となるものであり、決して全否定されるべきものでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・八より)
明和から出ていくときは全部消していってね。^^
あとを濁さず。^^
あとを濁さず。^^
鼻つまみ者扱いをされたままですることは何もない。
人間にとって、先天的かつ最も近しい間柄であると共に、多大なる実益からの恩恵をも
被ってきた相手こそは親であるから、まずは親を孝養の対象とすることが真善となる一方、
親を蔑ろにしてまで近隣の他人などにまず尽くそうとすることが普遍的な偽善止まりとなる。
「遠くの親戚より近くの他人」ということわざにも、これはこれでそれなりの根拠がある。
兵法書「三略」にも「近きを捨てて遠きを謀れば労すれども功なし。遠きを捨てて近きを
謀ればた易く終わりあり」とあるとおり、戦闘状態での謀略を主とした姿勢としては、近隣
同士での協力こそを最優先にするのが有効だといえる。しかし、それは平時における恒常的な
人間のあり方としては相応しいものではなく、あくまで戦闘状態の如き非常時の緊急措置に
止め置くべきものである。でなければ、逆に平時にまで臨戦態勢を持ち込んでしまったこと
での無闇な戦乱の呼び込みにすら繋がってしまいかねないのである。(上記のことわざも、
ほとほと困り果てたような非常時にかけての感慨こそを具象化したものでこそある)
非常時の緊急措置としての釈遠謀近を認めたからといって、恒常的な徳目としての孝悌が
否定されたりすることはないが、釈遠謀近が「隣人愛」などとして堂に入った徳目とまで
定義されてしまったならば、そのせいで孝悌の重要さは疎かにされてしまうことになる。
あまつさえ、実物の親(義親含む)とはまた別に架空の父などを脳内の形而上に捏造して、
「隣人愛によってこそ天の父に近づける」などとしたならば、それこそ孝を無みするも
同然の暴挙となる。そしてそこにこそ、人類を滅亡に陥れる程もの邪念が生じてもいる。
君臣父子夫婦の三綱の序列を重んじ、それら全てを兄弟師弟や朋友といったより
広い人間関係の上に置く儒家の学理教義自体、ひどく人工的なものに思えなくもない。
特に、人間関係が極限まで希薄化してしまっている現代などにおいては、いびつな上に
堅苦しい教理だなどとも思われてしまいがちである。しかし、現状は現状で特殊な人間
関係の序列を来たしてしまっているだけだったりする。快楽に溢れた異性関係こそは至上
被ってきた相手こそは親であるから、まずは親を孝養の対象とすることが真善となる一方、
親を蔑ろにしてまで近隣の他人などにまず尽くそうとすることが普遍的な偽善止まりとなる。
「遠くの親戚より近くの他人」ということわざにも、これはこれでそれなりの根拠がある。
兵法書「三略」にも「近きを捨てて遠きを謀れば労すれども功なし。遠きを捨てて近きを
謀ればた易く終わりあり」とあるとおり、戦闘状態での謀略を主とした姿勢としては、近隣
同士での協力こそを最優先にするのが有効だといえる。しかし、それは平時における恒常的な
人間のあり方としては相応しいものではなく、あくまで戦闘状態の如き非常時の緊急措置に
止め置くべきものである。でなければ、逆に平時にまで臨戦態勢を持ち込んでしまったこと
での無闇な戦乱の呼び込みにすら繋がってしまいかねないのである。(上記のことわざも、
ほとほと困り果てたような非常時にかけての感慨こそを具象化したものでこそある)
非常時の緊急措置としての釈遠謀近を認めたからといって、恒常的な徳目としての孝悌が
否定されたりすることはないが、釈遠謀近が「隣人愛」などとして堂に入った徳目とまで
定義されてしまったならば、そのせいで孝悌の重要さは疎かにされてしまうことになる。
あまつさえ、実物の親(義親含む)とはまた別に架空の父などを脳内の形而上に捏造して、
「隣人愛によってこそ天の父に近づける」などとしたならば、それこそ孝を無みするも
同然の暴挙となる。そしてそこにこそ、人類を滅亡に陥れる程もの邪念が生じてもいる。
君臣父子夫婦の三綱の序列を重んじ、それら全てを兄弟師弟や朋友といったより
広い人間関係の上に置く儒家の学理教義自体、ひどく人工的なものに思えなくもない。
特に、人間関係が極限まで希薄化してしまっている現代などにおいては、いびつな上に
堅苦しい教理だなどとも思われてしまいがちである。しかし、現状は現状で特殊な人間
関係の序列を来たしてしまっているだけだったりする。快楽に溢れた異性関係こそは至上
のものとされ、その男女関係を成立させるための仕事関係がそれに次ぎ、仕事の息抜きや
コネになるような友人関係がさらにそれに次ぎ、肉親関係などは最低のものとされる。君臣>
父子>夫婦>朋友が男女>仕事>友人>家族に変わっただけのことで、要するに、君父の尊位
を重んじた人間関係が、それを蔑ろにした人間関係へと劣化してしまっただけのことである。
君父の尊位を尊ぶことが半ば義務的に必要となるのが公人の身分であり、公人すらもが
男女>仕事>友人>家族なんていう人間関係に慣れてしまったりしたなら、もはやその
ような国自体の破綻すらもが免れ得ない。(年間セックス回数世界一でいて、公務員の怠慢
でデフォルトを来たしたギリシャなどがその例である)だから公人ぐらいは君臣父子夫婦の
序列を重んじて行くようにしたとして、果たしてそれだけでいいかといえば、それだけでも
まだ不足な所がある。別に自分たちにとって必要不可欠なことでもないにしろ、民間人にすら、
君父の尊位を尊ばないよりは尊んでいたほうがよりよいぐらいの考え方は持たせるべきである。
ちょうど今はその逆で、民主主義や自由主義の名の下に、君父の尊位を喪失した人間関係
こそは至上のものとされているような時代であるが、ちょうどその逆を行くべきなのである。
まずは親や主君への忠孝を尽くすということが、民間人にとっての偽善の撃退手段にすらなる。
偽善を排する真善を尊ぶ立場から、多少作為的すぎるような序列関係をも奨励して行くのである。
「皇帝、〜乃ち重と黎に命じて、地天の通を絶ち、降格有る罔からしむ。
群后の下に逮在するも、明明もて常を棐け、鰥寡蓋うことも無からしむ」
「堯帝は、重や黎といった重臣に命じて、諸侯以下の人間の地上からの天への通行を絶ち、
『自分が天の神に通じている』などということを根拠にした天啓降臨的な言行を無からしめた。
それにより、諸侯たちもあたりまえな道徳的常識に即した自明な為政のみを執り行うようになり、
身寄りのない者を見捨てるようなこともなくなったのだった。(私的な天地の通行など害あるのみ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・呂刑より)
コネになるような友人関係がさらにそれに次ぎ、肉親関係などは最低のものとされる。君臣>
父子>夫婦>朋友が男女>仕事>友人>家族に変わっただけのことで、要するに、君父の尊位
を重んじた人間関係が、それを蔑ろにした人間関係へと劣化してしまっただけのことである。
君父の尊位を尊ぶことが半ば義務的に必要となるのが公人の身分であり、公人すらもが
男女>仕事>友人>家族なんていう人間関係に慣れてしまったりしたなら、もはやその
ような国自体の破綻すらもが免れ得ない。(年間セックス回数世界一でいて、公務員の怠慢
でデフォルトを来たしたギリシャなどがその例である)だから公人ぐらいは君臣父子夫婦の
序列を重んじて行くようにしたとして、果たしてそれだけでいいかといえば、それだけでも
まだ不足な所がある。別に自分たちにとって必要不可欠なことでもないにしろ、民間人にすら、
君父の尊位を尊ばないよりは尊んでいたほうがよりよいぐらいの考え方は持たせるべきである。
ちょうど今はその逆で、民主主義や自由主義の名の下に、君父の尊位を喪失した人間関係
こそは至上のものとされているような時代であるが、ちょうどその逆を行くべきなのである。
まずは親や主君への忠孝を尽くすということが、民間人にとっての偽善の撃退手段にすらなる。
偽善を排する真善を尊ぶ立場から、多少作為的すぎるような序列関係をも奨励して行くのである。
「皇帝、〜乃ち重と黎に命じて、地天の通を絶ち、降格有る罔からしむ。
群后の下に逮在するも、明明もて常を棐け、鰥寡蓋うことも無からしむ」
「堯帝は、重や黎といった重臣に命じて、諸侯以下の人間の地上からの天への通行を絶ち、
『自分が天の神に通じている』などということを根拠にした天啓降臨的な言行を無からしめた。
それにより、諸侯たちもあたりまえな道徳的常識に即した自明な為政のみを執り行うようになり、
身寄りのない者を見捨てるようなこともなくなったのだった。(私的な天地の通行など害あるのみ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・呂刑より)
>>193の「書経」からの引用は、最後の部分で多少の意訳を噛ましているけれども、
要は「『自分こそは天の神に通じている』などとうそぶくことで人気や権威を得ようなどと
する軽薄者は、救済すべき孤独者などを覆い隠して始めから存在しないことにしてしまう」
というのである。これはまさに、今のブラックアフリカのキリスト教圏で、死亡診断も得られる
ことなく餓死していっている何千万人もの児童たちへのキリスト教団の処遇そのものだといえる。
マザーテレサのごとく、それなりに救済活動を講じているキリシタンもいるけれども、そもそも
自分たちの救済活動が「焼け石に水」レベルの代物にしかなっていないことまでは問題視しない。
それは、何千万から何億という窮死者たちの実在を自分たちの脳内で覆い隠してしまっているから
に他ならない。本質的、総合的な問題から目を背けて、部分的な問題への対処ばかりに執心する
ことで気を紛らわすというのは偽善者の常套手段であって、致命的な道徳観の欠如と、ある程度
以上の注意力不足が本人に帯びている場合にこそ「それでよし」とされてしまうものである。
そして、そのような道徳観の欠如や注意力不足を引き起こす決定的な要因となるのが、
「自分こそは神と通じている」などとうそぶきたがるような脳内お花畑状態でこそある。
>193の引用部分の場合、庶民はおろか、中小国を統べる諸侯が天啓を根拠とした為政などを
企てたりする場合にすら諸々の隠蔽問題などを来たすことになってしまうという。これにも
確かに政治哲学や史実に根ざした根拠が存在している。戦国時代以前の中国の戦闘においては、
天性を司るものとしての陰陽五行思想を兵法にすら援用する場合が多かったが、激戦が極まれば、
もはや天性を無視しての陰湿な権謀術数すらもが動員されて行くことにもなるから、孫子や呉子
などが陰陽五行ばかりに囚われない自明な兵法を構築して行くようになり、それが戦国時代以降の
東洋社会における兵法の常道として扱われるようになった。これなど、諸侯レベルの大権力すらもが
必ずしも天に通ずるものたり得ない証拠になっていて、同時に、もしも諸侯が戦争ではなく仁政に
取り組むというのであれば、自明な仁義道徳によってこそ政治を為すべきである証拠ともなっている。
要は「『自分こそは天の神に通じている』などとうそぶくことで人気や権威を得ようなどと
する軽薄者は、救済すべき孤独者などを覆い隠して始めから存在しないことにしてしまう」
というのである。これはまさに、今のブラックアフリカのキリスト教圏で、死亡診断も得られる
ことなく餓死していっている何千万人もの児童たちへのキリスト教団の処遇そのものだといえる。
マザーテレサのごとく、それなりに救済活動を講じているキリシタンもいるけれども、そもそも
自分たちの救済活動が「焼け石に水」レベルの代物にしかなっていないことまでは問題視しない。
それは、何千万から何億という窮死者たちの実在を自分たちの脳内で覆い隠してしまっているから
に他ならない。本質的、総合的な問題から目を背けて、部分的な問題への対処ばかりに執心する
ことで気を紛らわすというのは偽善者の常套手段であって、致命的な道徳観の欠如と、ある程度
以上の注意力不足が本人に帯びている場合にこそ「それでよし」とされてしまうものである。
そして、そのような道徳観の欠如や注意力不足を引き起こす決定的な要因となるのが、
「自分こそは神と通じている」などとうそぶきたがるような脳内お花畑状態でこそある。
>193の引用部分の場合、庶民はおろか、中小国を統べる諸侯が天啓を根拠とした為政などを
企てたりする場合にすら諸々の隠蔽問題などを来たすことになってしまうという。これにも
確かに政治哲学や史実に根ざした根拠が存在している。戦国時代以前の中国の戦闘においては、
天性を司るものとしての陰陽五行思想を兵法にすら援用する場合が多かったが、激戦が極まれば、
もはや天性を無視しての陰湿な権謀術数すらもが動員されて行くことにもなるから、孫子や呉子
などが陰陽五行ばかりに囚われない自明な兵法を構築して行くようになり、それが戦国時代以降の
東洋社会における兵法の常道として扱われるようになった。これなど、諸侯レベルの大権力すらもが
必ずしも天に通ずるものたり得ない証拠になっていて、同時に、もしも諸侯が戦争ではなく仁政に
取り組むというのであれば、自明な仁義道徳によってこそ政治を為すべきである証拠ともなっている。
諸侯ですら、私的に天啓を掲げたりはすべきでないのだから、イスラエルで活動していた頃の
イエスを含むただの民間人などが、自らの活動を天の神などに仮託していいような正当性も
当然ない。今の日本などでも、街角で易者が一般人相手に占いをしたりしているけれども、
易者も大昔から賤しい職業とされて来たのであり、そのアドバイスなども大概なものとして
受け取るべきとされているのである。それでいて、易占の論拠ともなっている陰陽思想が
帝王や幕府将軍にすら尊ばれたりするのは、全国全土を治めるほどもの大局からの大事業に
おいては確かに、陰陽法則すらもが天下国家の栄枯盛衰すら左右するほどもの実体性を
帯びてくるからで、帝王級の大権力者が天啓を尊ぶのと、そんじょそこらの一般人が
天啓に頼るのとでは、まさに天と地ほどもの価値の開きが生ずるのだといえる。
全国全土を統べる帝王ともなれば天啓に与るのも可とする(「皇帝」という名称も本来そのような
意味がある)古代の中国や日本とも違って、インドなどではそもそも祭祀階級と権力者階級が
バラモンとクシャトリアとして厳密に分かたれてもいる。そのせいで、全国規模での権力者の
統制による国際関係での強大化のような選択肢が絶たれているのと引き換えに、自分たち同士では
和睦を徹底することでの万年平和状態をも実現している。もしも国際紛争などこの地球上から
絶やされるのであればインドのようなあり方が理想となるけれども、未だ世の中を乱す覇権主義
などが横行している場合には、ある程度は天啓を頂く帝王などによる統制も必要となる場合がある。
いずれにしろ、庶人が勝手に天啓をうそぶいていいような選択肢だけはないのである。
イエスを含むただの民間人などが、自らの活動を天の神などに仮託していいような正当性も
当然ない。今の日本などでも、街角で易者が一般人相手に占いをしたりしているけれども、
易者も大昔から賤しい職業とされて来たのであり、そのアドバイスなども大概なものとして
受け取るべきとされているのである。それでいて、易占の論拠ともなっている陰陽思想が
帝王や幕府将軍にすら尊ばれたりするのは、全国全土を治めるほどもの大局からの大事業に
おいては確かに、陰陽法則すらもが天下国家の栄枯盛衰すら左右するほどもの実体性を
帯びてくるからで、帝王級の大権力者が天啓を尊ぶのと、そんじょそこらの一般人が
天啓に頼るのとでは、まさに天と地ほどもの価値の開きが生ずるのだといえる。
全国全土を統べる帝王ともなれば天啓に与るのも可とする(「皇帝」という名称も本来そのような
意味がある)古代の中国や日本とも違って、インドなどではそもそも祭祀階級と権力者階級が
バラモンとクシャトリアとして厳密に分かたれてもいる。そのせいで、全国規模での権力者の
統制による国際関係での強大化のような選択肢が絶たれているのと引き換えに、自分たち同士では
和睦を徹底することでの万年平和状態をも実現している。もしも国際紛争などこの地球上から
絶やされるのであればインドのようなあり方が理想となるけれども、未だ世の中を乱す覇権主義
などが横行している場合には、ある程度は天啓を頂く帝王などによる統制も必要となる場合がある。
いずれにしろ、庶人が勝手に天啓をうそぶいていいような選択肢だけはないのである。
「孔子少くして孤なり、其の墓を知らず。五父の衢に殯す。人の之れを見る者、
皆な葬と為せり。其の慎めるや蓋し殯なり。郰曼父の母に問いて、然る後防に合葬するを得たり」
「孔先生は若いうちに父母を亡くして孤児となられた。(妾腹の私生児だったため)父の墓を
知らなかったので五父という所の路地で母のかりもがりを執り行った。これを見たものはみな
立派な葬儀だと認めた。(妾だった母だからあえて路地でかりもがりを行った)その慎み深さ
こそは認められた。その後、母の親類に問うて父の墓を探り当て、防という場所に合葬した。
(孤児でいながら、あえて妾の子である自分を遠ざけた父の意向をも孔子は汲んだのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
皆な葬と為せり。其の慎めるや蓋し殯なり。郰曼父の母に問いて、然る後防に合葬するを得たり」
「孔先生は若いうちに父母を亡くして孤児となられた。(妾腹の私生児だったため)父の墓を
知らなかったので五父という所の路地で母のかりもがりを執り行った。これを見たものはみな
立派な葬儀だと認めた。(妾だった母だからあえて路地でかりもがりを行った)その慎み深さ
こそは認められた。その後、母の親類に問うて父の墓を探り当て、防という場所に合葬した。
(孤児でいながら、あえて妾の子である自分を遠ざけた父の意向をも孔子は汲んだのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
ある程度、一世代上や二世代上といった領域を想定することでこそ
心からの安心を得られるのも、人間という生き物に与えられたサガである。
生物としての人間には親がいて、なおかつ低能な動物などと違って、
先祖代々の血脈というものまでをも認知することができる。なればこそ、
自分自身の父母のみならず、祖父母や曾祖父母やさらにその上といった
連綿たる我が家の歴史にも思いをはせることで、ただ安心を得るだけでなく、
自らが生きて活動していく上での指針や誇り高さをも会得して行けるのである。
むろん、動物でも自分の親を認知して慕うぐらいのことはあり得る。
クモの一種などのように、親の死骸を食い物として生まれ育って行く
動物などもいるけれども、特に哺乳類などの高等な動物であれば、自分の
母親への愛慕くらいは抱けるものである。それは、自分より一世代上の親
への愛情であり、それを抱けるのであれば、父親への親愛をも抱けなくはない。
そこを悪用しているのが、「父なる神」を信仰対象に見立てている部類の邪教であり、
一世代上である親への愛慕程度は畜生でも抱けるから、白痴化洗脳で知能を動物程度
にまで低下させたとしても、その信仰を保っていることができる。なおかつ、哺乳動物は
母親への愛慕を抱きやすい一方、父親への愛慕などは抱きにくいものだから、「母なる神」
ではなく「父なる神」への服従に屈することが、なにか得体の知れないようなものでいて、
なおかつ崇高なものへの帰依に繋がるかのような思い込みにもかられがちなのである。
むろん、そんなことは、実の父親への崇敬も欠かさないでいればあり得ないことである。
最大級に偉大であるといえども、便所にも行けば加齢臭もする、そして何よりも自分の
母親を手篭めにすることで自分を産ませた実の父親というものを、そうでいてなおかつ
崇敬の対象とするぐらいの心尽くしを利かせたならば、父なる神云々なんぞへの
帰依が不実きわまりない戯れ事でしかないことをも十分に計り知れるのである。
心からの安心を得られるのも、人間という生き物に与えられたサガである。
生物としての人間には親がいて、なおかつ低能な動物などと違って、
先祖代々の血脈というものまでをも認知することができる。なればこそ、
自分自身の父母のみならず、祖父母や曾祖父母やさらにその上といった
連綿たる我が家の歴史にも思いをはせることで、ただ安心を得るだけでなく、
自らが生きて活動していく上での指針や誇り高さをも会得して行けるのである。
むろん、動物でも自分の親を認知して慕うぐらいのことはあり得る。
クモの一種などのように、親の死骸を食い物として生まれ育って行く
動物などもいるけれども、特に哺乳類などの高等な動物であれば、自分の
母親への愛慕くらいは抱けるものである。それは、自分より一世代上の親
への愛情であり、それを抱けるのであれば、父親への親愛をも抱けなくはない。
そこを悪用しているのが、「父なる神」を信仰対象に見立てている部類の邪教であり、
一世代上である親への愛慕程度は畜生でも抱けるから、白痴化洗脳で知能を動物程度
にまで低下させたとしても、その信仰を保っていることができる。なおかつ、哺乳動物は
母親への愛慕を抱きやすい一方、父親への愛慕などは抱きにくいものだから、「母なる神」
ではなく「父なる神」への服従に屈することが、なにか得体の知れないようなものでいて、
なおかつ崇高なものへの帰依に繋がるかのような思い込みにもかられがちなのである。
むろん、そんなことは、実の父親への崇敬も欠かさないでいればあり得ないことである。
最大級に偉大であるといえども、便所にも行けば加齢臭もする、そして何よりも自分の
母親を手篭めにすることで自分を産ませた実の父親というものを、そうでいてなおかつ
崇敬の対象とするぐらいの心尽くしを利かせたならば、父なる神云々なんぞへの
帰依が不実きわまりない戯れ事でしかないことをも十分に計り知れるのである。
イエスのごときは、自分が妾腹の私生児でいて、娼婦だった母親と義父の下で生まれ
育ったものだから、脳内妄想中の父なる神などへの服従意識などを勝手に思い募らせて
行ったのだけれども、孔子も同じく妾腹の私生児でいて、なおかつ義父もいない母子家庭に
育ちながら、実の父親こそを最大級に尊重して、我が母を妾扱いとした父の意向をも汲んで
母を路地での葬儀に付してから父の墓に合葬するなどしたのだった。これなど、生まれ育った
環境が、父なる神への妄想などを正当化する理由には全くならない最たる根拠となってる。
商売人や被差別部落のような賤しい身分であれば、自らの先祖などへの尊崇意識なども
なかなか抱けないものだけれども、だからといって実の父親への敬いまでをも無みして、
父なる神への夢想などに耽っていていいはずもない。身分の如何に関わらず、一世代上の
父および母への崇敬ぐらいは誰しもが持つべきであり、それにより、私的な天との疎通などを
嘯いた邪教の触れ回りなどをも防ぐようにして行くべきである。そのためには、なかなか
親などを敬いの対象ともしにくいような身分の人間の手本とすらなるように、君子階級の
人間などが、先祖代々に至るまでの祖神の崇敬などにも専念して行かなければならない。
「命士由り以上は、父子皆な宮を異にする」
「士人以上の階級の人間は、父子同士は全員、家を別個にする。
(それぞれに責任ある君子たるものが父子の親を尊ぶのが儒家道徳である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・内則第二十より)
育ったものだから、脳内妄想中の父なる神などへの服従意識などを勝手に思い募らせて
行ったのだけれども、孔子も同じく妾腹の私生児でいて、なおかつ義父もいない母子家庭に
育ちながら、実の父親こそを最大級に尊重して、我が母を妾扱いとした父の意向をも汲んで
母を路地での葬儀に付してから父の墓に合葬するなどしたのだった。これなど、生まれ育った
環境が、父なる神への妄想などを正当化する理由には全くならない最たる根拠となってる。
商売人や被差別部落のような賤しい身分であれば、自らの先祖などへの尊崇意識なども
なかなか抱けないものだけれども、だからといって実の父親への敬いまでをも無みして、
父なる神への夢想などに耽っていていいはずもない。身分の如何に関わらず、一世代上の
父および母への崇敬ぐらいは誰しもが持つべきであり、それにより、私的な天との疎通などを
嘯いた邪教の触れ回りなどをも防ぐようにして行くべきである。そのためには、なかなか
親などを敬いの対象ともしにくいような身分の人間の手本とすらなるように、君子階級の
人間などが、先祖代々に至るまでの祖神の崇敬などにも専念して行かなければならない。
「命士由り以上は、父子皆な宮を異にする」
「士人以上の階級の人間は、父子同士は全員、家を別個にする。
(それぞれに責任ある君子たるものが父子の親を尊ぶのが儒家道徳である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・内則第二十より)
「礼は節を踰えず。侵して侮らず、好みて狎れず」
「礼儀をわきまえるものは決して節度を超えない。特定の対象を侵して侮り蔑む
ようなこともなければ、特定の相手のみを好き好んで馴れ親しんだりすることもない。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
「狎れ侮るものは死するまで畏れざるなり」
「馴れ合って人を侮るようなものは死ぬまで他者を畏れるようなことがない。
(上記の引用と合わせて。自明な礼節にも基づかずに架空の超越神などに慣れ親しもう
とするような姿勢自体、本当はむしろ万事万物への侮りや蔑みを深刻化させるものである。
超越神への畏怖などはただの演技止まりで、演技の畏怖に執心するのと引き換えに
生身の人間への侮蔑を募らせる。そのような心理状態に陥ってしまっている人間は、
死ぬまで他者を畏怖の対象とすることもできないままに終わるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——表記第三十二より)
「礼儀をわきまえるものは決して節度を超えない。特定の対象を侵して侮り蔑む
ようなこともなければ、特定の相手のみを好き好んで馴れ親しんだりすることもない。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
「狎れ侮るものは死するまで畏れざるなり」
「馴れ合って人を侮るようなものは死ぬまで他者を畏れるようなことがない。
(上記の引用と合わせて。自明な礼節にも基づかずに架空の超越神などに慣れ親しもう
とするような姿勢自体、本当はむしろ万事万物への侮りや蔑みを深刻化させるものである。
超越神への畏怖などはただの演技止まりで、演技の畏怖に執心するのと引き換えに
生身の人間への侮蔑を募らせる。そのような心理状態に陥ってしまっている人間は、
死ぬまで他者を畏怖の対象とすることもできないままに終わるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——表記第三十二より)

欧米主導の平等主義が日本を含む世界中へと蔓延し始めたからだった。
日本では主に部落差別が撤廃の対象とされ、近頃の中国などでは商工業への差別が
著しく緩和されたために工業超大国などへと発展している。しかし、差別されるには
差別されるなりの理由もそれなりにあったわけで、その差別が撤廃された結果、
日本では血肉の穢れで精神をやられた部落出身者が逆差別の我田引水を企てたり、
中国でも政財界の深刻な腐敗だとか、工業の過剰な推進による致命的な環境汚染だとか
いった問題を来たしている。同様な問題を欧米社会は克服しているように思えた所で、
やはりアフリカやインドや中東のような伝統的な搾取対象から膨大な富を巻き上げて、
その取り回しによって腐敗を腐敗でないかのように見せかけているだけなのだから、
この世から然るべき差別すらをも撤廃したことの埋め合わせまではできていないといえる。
差別を絶対的な悪と見なす他ないのは、そう見なす本人たちに中庸的なものの考え方が
全く欠けているからである。今でも糞尿を不浄なものとして卑しむぐらいのことは
認められているけれども、不浄でいながらも栄養素の塊でもあるものだから、昔は
肥溜めで人の糞尿を発酵させて天然の堆肥として用いるなどもしていたのである。
しかし、今はもうただただ不浄なだけのものとされて、下水道から浄化槽へと直行させたり
することが半ば義務付けられている。それを日本で推進したのも日本人ではなくGHQであり、
アメリカ人の差別対象に対する徹底的な否定意識こそが垣間見られる事例ともなっている。
被差別部落なぞも、元はといえば政争で敗れた権力者などの落ち延び先として
あてがわれたものだったわけで、まさに「社会の肥溜め」そのものであったわけだけれども、
肥溜めが禁止されたのと同じようにして、それが差別対象とされることも禁止された結果、
日本最大級の被差別部落であった旧長宗我部勢などが政財界のトップをも掌握するに至り、
権力者の腐敗などはあって当たり前なもの扱いにすらされ始めてしまったのだった。
糞尿にすら堆肥としての再利用先を与えるような中庸的な観点があればこそ、この世における
必要悪としての差別をも容認して行くことができる。むしろ、何物に対しても一定以上の存在意義
を認められるだけの寛容さがあればこそ、人の上に立つ人の存在をも素直に尊んで行けるのである。
旧部落出身者に限らず、商業権力全般が甚大な腐敗を来たしている昨今、必要悪の身分差別を
講ずるとしたところで、屠殺や製革などの特定の職種ばかりを差別対象とするのではなく、
私利私益第一な虚業への従事者全般を被差別対象に指定して行くことのほうが現実的となる。
となると、商業全般を伝統的な差別対象として来た中国のあり方に近似することとなるわけだ
けれども、未だ世界規模での商業権力の横暴冷めやらぬうちから、世界に先んじて商業全般
を抑圧の対象として来た中国という国の、近世以降における国家規模でのサンドバック状態な
体たらくなどを鑑みれば、商業全般を差別対象として行くことへの忌避感なども募らせかねない。
ただ、そこは中国のほうが「過ぎたるはなお及ばざるが如し」だった部分であるといえ、
世界全体が足並みを揃えて、過剰な商業権力の横暴を廃絶して行くようにしたならば、
清代末期の中国のような陰惨な事態に世界が陥るようなこともなくて済むのである。
あてがわれたものだったわけで、まさに「社会の肥溜め」そのものであったわけだけれども、
肥溜めが禁止されたのと同じようにして、それが差別対象とされることも禁止された結果、
日本最大級の被差別部落であった旧長宗我部勢などが政財界のトップをも掌握するに至り、
権力者の腐敗などはあって当たり前なもの扱いにすらされ始めてしまったのだった。
糞尿にすら堆肥としての再利用先を与えるような中庸的な観点があればこそ、この世における
必要悪としての差別をも容認して行くことができる。むしろ、何物に対しても一定以上の存在意義
を認められるだけの寛容さがあればこそ、人の上に立つ人の存在をも素直に尊んで行けるのである。
旧部落出身者に限らず、商業権力全般が甚大な腐敗を来たしている昨今、必要悪の身分差別を
講ずるとしたところで、屠殺や製革などの特定の職種ばかりを差別対象とするのではなく、
私利私益第一な虚業への従事者全般を被差別対象に指定して行くことのほうが現実的となる。
となると、商業全般を伝統的な差別対象として来た中国のあり方に近似することとなるわけだ
けれども、未だ世界規模での商業権力の横暴冷めやらぬうちから、世界に先んじて商業全般
を抑圧の対象として来た中国という国の、近世以降における国家規模でのサンドバック状態な
体たらくなどを鑑みれば、商業全般を差別対象として行くことへの忌避感なども募らせかねない。
ただ、そこは中国のほうが「過ぎたるはなお及ばざるが如し」だった部分であるといえ、
世界全体が足並みを揃えて、過剰な商業権力の横暴を廃絶して行くようにしたならば、
清代末期の中国のような陰惨な事態に世界が陥るようなこともなくて済むのである。
この世に正統なものとして認知されている思想教学のほとんどは、
個人的、社会的な破滅をわざわざ招いたりしないことを目的としたものである。
この世に破滅をもたらさないための教学。良妻賢母の神である天照大神を最高神として
祀る日本神道などがその典型例であり、人々がアマテラス的な神への尊崇を大きく
損ねてしまっている近代以降には、堅実な家族計画を反故にしてしまっているせいでの
人類滅亡級の危害を伴う世界規模の人口爆発といった問題を来たしてしまってもいる。
破滅をもたらすような邪教邪学を廃絶するための教学。他でもない儒学がその代表格であり、
わざわざ必要もなく破滅をもたらす邪神エホバを最高神として崇める新旧約聖書と
真逆の教理学説を儒学の正典四書五経が擁していることからも、それが明らかである。
仏教もまた、元はといえば六師外道のごとき異端派を相手取っていたものであり、
それらの外道のほうに洋学や聖書教にも通ずる邪見が多く具わっていたわけだけれども、
仏教自体は邪教邪学を敵に回して降伏するばかりのところにとどまらない、独立的な
荘厳を湛えた善教ともなっているため、儒学ほど勧善懲悪の傾向は色濃くない。
わざわざ破滅をもたらすような邪神を何らかの形で想定する教学。
破壊神シヴァを創造神ブラフマーや維持神ヴィシュヌと共に祀り上げるヒンズー教だとか、
最高神にして善神たるアフラ・マズダーの敵役としての邪神アンラ・マンユを規定する
拝火教だとかもそのうちに入るわけだが、これらの教学においては、破滅をもたらす神が
「主人公」としての役割までは果たしておらず、相応の扱いに止められている。そのため、
これらの教学だけで「マッチポンプ」という条件まで満たすことはなく、故にこの世に
わざわざあえて破滅をもたらすような所にまでは至らない点が特筆すべき点だといえる。
個人的、社会的な破滅をわざわざ招いたりしないことを目的としたものである。
この世に破滅をもたらさないための教学。良妻賢母の神である天照大神を最高神として
祀る日本神道などがその典型例であり、人々がアマテラス的な神への尊崇を大きく
損ねてしまっている近代以降には、堅実な家族計画を反故にしてしまっているせいでの
人類滅亡級の危害を伴う世界規模の人口爆発といった問題を来たしてしまってもいる。
破滅をもたらすような邪教邪学を廃絶するための教学。他でもない儒学がその代表格であり、
わざわざ必要もなく破滅をもたらす邪神エホバを最高神として崇める新旧約聖書と
真逆の教理学説を儒学の正典四書五経が擁していることからも、それが明らかである。
仏教もまた、元はといえば六師外道のごとき異端派を相手取っていたものであり、
それらの外道のほうに洋学や聖書教にも通ずる邪見が多く具わっていたわけだけれども、
仏教自体は邪教邪学を敵に回して降伏するばかりのところにとどまらない、独立的な
荘厳を湛えた善教ともなっているため、儒学ほど勧善懲悪の傾向は色濃くない。
わざわざ破滅をもたらすような邪神を何らかの形で想定する教学。
破壊神シヴァを創造神ブラフマーや維持神ヴィシュヌと共に祀り上げるヒンズー教だとか、
最高神にして善神たるアフラ・マズダーの敵役としての邪神アンラ・マンユを規定する
拝火教だとかもそのうちに入るわけだが、これらの教学においては、破滅をもたらす神が
「主人公」としての役割までは果たしておらず、相応の扱いに止められている。そのため、
これらの教学だけで「マッチポンプ」という条件まで満たすことはなく、故にこの世に
わざわざあえて破滅をもたらすような所にまでは至らない点が特筆すべき点だといえる。
破滅をもたらす邪神こそを唯一最高の神に祀り上げる教学。
アブラハム教がそれであり、唯一神エホバは自分こそがこの世に破滅をもたらす過程に
おいて、信者のみを救おうとする。そのエホバの邪まな傾向をありのままに称えている
のがユダヤ教とキリスト教=聖書信仰である一方、イスラム教だけは、エホバをアラー
に摩り替えて、根本聖典コーランの中で新旧約とは真逆の教説ばかりを語らせているため、
最高神が辛うじて自分から破滅を招くような真似にまでは及ばないようになっている。
以上の教学うちで、教学そのものがわざわざあえてこの世に破滅をもたらす傾向すらをも
持ち合わせているのは、ユダヤ教とキリスト教の両聖書信仰のみである。それ以外の
教学でも、「この世の破滅」的な事態に対する対処の仕方にはそれなりの段階の違いが
あるけだけれども、わざわざ自分たちから破滅をもたらすような傾向までをも備えている
ような教学ともなれば、聖書信仰以外には一つもないのである。聖書信仰すらこの世に存在
しなければ、特定の教学によってこの世が破滅に陥れられるようなことはあり得ないのだ。
人間自身の文化的な教学が破滅をもたらしたりせずとも、天災によって天下国家が傾国級の
危害に見舞われたり、秦帝国の悪宦官趙高のような重権力犯罪者が、特定の思想教学などに
よることもなく、腐れきった政治姿勢によって亡国を招いたりすることもあるわけである。
そのような事例は一旦取り置くとして、特定の堂に入った人造文化があえてこの世に破滅
をもたらすということは、今のところ社会的に十分に承認すらされていないことである。
聖書信仰といえども、多少は世の中を安寧に持って行こうとする傾向があるものと思われて
いる。この世にプラスマイナスゼロ以上の好影響をもたらすのが「文化」というものの役割
であると完全に決め込まれているものだから、未だ聖書信仰すらもがおおっぴらな振興の
対象とされて、人類を滅亡に陥れない程度の抑制の対象にされることすらないのである。
アブラハム教がそれであり、唯一神エホバは自分こそがこの世に破滅をもたらす過程に
おいて、信者のみを救おうとする。そのエホバの邪まな傾向をありのままに称えている
のがユダヤ教とキリスト教=聖書信仰である一方、イスラム教だけは、エホバをアラー
に摩り替えて、根本聖典コーランの中で新旧約とは真逆の教説ばかりを語らせているため、
最高神が辛うじて自分から破滅を招くような真似にまでは及ばないようになっている。
以上の教学うちで、教学そのものがわざわざあえてこの世に破滅をもたらす傾向すらをも
持ち合わせているのは、ユダヤ教とキリスト教の両聖書信仰のみである。それ以外の
教学でも、「この世の破滅」的な事態に対する対処の仕方にはそれなりの段階の違いが
あるけだけれども、わざわざ自分たちから破滅をもたらすような傾向までをも備えている
ような教学ともなれば、聖書信仰以外には一つもないのである。聖書信仰すらこの世に存在
しなければ、特定の教学によってこの世が破滅に陥れられるようなことはあり得ないのだ。
人間自身の文化的な教学が破滅をもたらしたりせずとも、天災によって天下国家が傾国級の
危害に見舞われたり、秦帝国の悪宦官趙高のような重権力犯罪者が、特定の思想教学などに
よることもなく、腐れきった政治姿勢によって亡国を招いたりすることもあるわけである。
そのような事例は一旦取り置くとして、特定の堂に入った人造文化があえてこの世に破滅
をもたらすということは、今のところ社会的に十分に承認すらされていないことである。
聖書信仰といえども、多少は世の中を安寧に持って行こうとする傾向があるものと思われて
いる。この世にプラスマイナスゼロ以上の好影響をもたらすのが「文化」というものの役割
であると完全に決め込まれているものだから、未だ聖書信仰すらもがおおっぴらな振興の
対象とされて、人類を滅亡に陥れない程度の抑制の対象にされることすらないのである。
削除(by投稿者)
そのような事態で、「エホバやキリストに帰依するものしか救われない」とする犯罪聖書
の教義がそれなりの実効性を持つこともまた確かなことである。有益無害な正教も有害無益
な邪教もみそくそに扱われて、無理に足並みを揃えさせられているような限りにおいては、
そもそも破滅をもたらしたりしないことを目的としている聖書信仰以外の教学ほぼ全てが、
その時点で完全にその存在意義を無効化させられてしまっているのである。破滅をこの世に
もたらさないことが目的であるからには、まずは聖書信仰のような邪教をこの世から根絶
することが最優先の課題となるのに、それすらもが実現されていないわけだから、後付けで
どんなに良質な教学を振興して行ったりしたところで、全くの「焼け石に水」となるわけだ。
目の前に立てた薄板が右に倒れるか左に倒れるかぐらいに、まず聖書信仰を是とするか
非とするかこそが問題である。是とするほうに倒れるのなら、もはや破滅もまた絶対に免れ
得ないものとなる一方、非とするほうに倒れるのなら、人間が自分たちの文化によって自滅
に見舞われるようなことまではなくなる。致死量の千倍の猛毒を飲むか飲まないかぐらいの
違いが両者にはあるのであり、それを良薬で癒せる癒せないどころの話ではないのである。
「悪を長じて悛めずんば、従いて自ら及ばん。之れを救わんと欲すと雖も、其れ将に能くせんや」
「害悪を増長させ続けて改めようともしないのならば、いずれはそのせいでの禍いが自らに
及んでくる。そうなってからでは、もはや救ってやろうとしたところで、救えるものではない。
(自分こそは多大なる害悪を増長させて来た元凶である犯罪聖書の邪神にこそ、救いはない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隠公六年より)
の教義がそれなりの実効性を持つこともまた確かなことである。有益無害な正教も有害無益
な邪教もみそくそに扱われて、無理に足並みを揃えさせられているような限りにおいては、
そもそも破滅をもたらしたりしないことを目的としている聖書信仰以外の教学ほぼ全てが、
その時点で完全にその存在意義を無効化させられてしまっているのである。破滅をこの世に
もたらさないことが目的であるからには、まずは聖書信仰のような邪教をこの世から根絶
することが最優先の課題となるのに、それすらもが実現されていないわけだから、後付けで
どんなに良質な教学を振興して行ったりしたところで、全くの「焼け石に水」となるわけだ。
目の前に立てた薄板が右に倒れるか左に倒れるかぐらいに、まず聖書信仰を是とするか
非とするかこそが問題である。是とするほうに倒れるのなら、もはや破滅もまた絶対に免れ
得ないものとなる一方、非とするほうに倒れるのなら、人間が自分たちの文化によって自滅
に見舞われるようなことまではなくなる。致死量の千倍の猛毒を飲むか飲まないかぐらいの
違いが両者にはあるのであり、それを良薬で癒せる癒せないどころの話ではないのである。
「悪を長じて悛めずんば、従いて自ら及ばん。之れを救わんと欲すと雖も、其れ将に能くせんや」
「害悪を増長させ続けて改めようともしないのならば、いずれはそのせいでの禍いが自らに
及んでくる。そうなってからでは、もはや救ってやろうとしたところで、救えるものではない。
(自分こそは多大なる害悪を増長させて来た元凶である犯罪聖書の邪神にこそ、救いはない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隠公六年より)
まだやってるんだ。^^
「君子は群して党せず(衛霊公第十五・二二)」の「党」とは、「組織」のことでもある。
テロ組織やねずみ講のための詐欺組織などを組まないのはもちろんのこと、
それなりに公益を目的とした組織すらなるべく組もうとはしないというのである。
とはいえ孔子自身、3000人を超える弟子が居たとされ、それがもはや一つの学問組織に
なってしまっていたわけである。それを源流とした儒学教団の興隆は孔子の死後にも続き、
秦始皇帝による焚書坑儒の弾圧なども被った後、前漢の代になってやっと「国学」として
のその地位が確立され、儒学が公的な振興対象とされて行くようになったのである。
未だ私的な学団に過ぎない派閥を形成してしまっていた孔子や孟子の態度姿勢たるや、
やはりそのようなあり方自体を変則的であるとする自覚があったようである。だからこそ、
「子、疾病す。子路、門人を使わして臣と為す。病、饟なりて曰く、久しいかな、
由の詐りを行うや、臣無くして臣有りと為す。吾れ誰をか欺むかんや、天を欺かんか」
「孔先生が重病になられた。もはや死にそうですらあったので、高弟の子路が門弟たちを
臣下に見立てて、先生を主君として崇める偽りの儀礼を執り行って慰めようとした。
病が少しよくなってから先生は言われた。『由(子路)の偽り好きも久しいものだ。
臣下もいないのに臣下があるように見せかけるなど、どうして私がそんなことをして
欺かねばならないのか。なにか、天をでも欺かねばならない理由があるのか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一二より)
という風に、公職者としての成功に
与れなかったことを門弟に無理に慰められるようなことすらもがあったのである。
テロ組織やねずみ講のための詐欺組織などを組まないのはもちろんのこと、
それなりに公益を目的とした組織すらなるべく組もうとはしないというのである。
とはいえ孔子自身、3000人を超える弟子が居たとされ、それがもはや一つの学問組織に
なってしまっていたわけである。それを源流とした儒学教団の興隆は孔子の死後にも続き、
秦始皇帝による焚書坑儒の弾圧なども被った後、前漢の代になってやっと「国学」として
のその地位が確立され、儒学が公的な振興対象とされて行くようになったのである。
未だ私的な学団に過ぎない派閥を形成してしまっていた孔子や孟子の態度姿勢たるや、
やはりそのようなあり方自体を変則的であるとする自覚があったようである。だからこそ、
「子、疾病す。子路、門人を使わして臣と為す。病、饟なりて曰く、久しいかな、
由の詐りを行うや、臣無くして臣有りと為す。吾れ誰をか欺むかんや、天を欺かんか」
「孔先生が重病になられた。もはや死にそうですらあったので、高弟の子路が門弟たちを
臣下に見立てて、先生を主君として崇める偽りの儀礼を執り行って慰めようとした。
病が少しよくなってから先生は言われた。『由(子路)の偽り好きも久しいものだ。
臣下もいないのに臣下があるように見せかけるなど、どうして私がそんなことをして
欺かねばならないのか。なにか、天をでも欺かねばならない理由があるのか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一二より)
という風に、公職者としての成功に
与れなかったことを門弟に無理に慰められるようなことすらもがあったのである。
上の引用では、まだ孔子も自分のことであるものだから、現状を嘆くようなことも
強がりによって避けているけれども、下の引用などではその本音までもが吐露されている。
「顔淵死す。門人厚く之れを葬らんことを欲す。子曰く、不可なり。
門人厚く之れを葬る。子曰く、回や、予れを視ること猶お父のごとし。
予れは視ること猶お子のごとくするを得ず。我れに非ざるなり、夫の二三子なり」
「高弟の顔淵が若くして死んだ。門人たちは手厚く葬ろうとした。先生は『だめだ』
と言われた。しかし門人たちはそれも聞かずに手厚く葬った。先生は言われた。
『回(顔淵)は私を実の父親のように慕ってくれたが、私は回をわが子のように
遇してやることができなかった。(だから葬儀ばかりを厚くするのも恥じていた)
私が手厚く葬ろうとしたのではない。何人かの弟子たちが勝手にやったのだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・一一)
自分が君子階級としての成功者でもなかったがために、最高弟だった顔淵すらをも
苦学状態ないち書生のままに死なせてしまったことを大いに恥じたのである。子貢
あたりが投機で大金を得てもいたものだから、単なる物質的な富裕に与れないなんて
こともなかったはずだが、清廉を旨とする顔淵はそのような私的な富裕などを由と
することもなかった。あくまで君子としての栄華にこそ与らせてやりたかったのに、
たかがいち学団の構成者止まりで居させてしまったことを孔子も酷く嘆いたのである。
「群して党せず」は理想論の極致として、実際問題、多少の組織を組んだりすることも
あるというのは孔子や孟子の事績からも知れることである。ただ、そんなものを誇りと
したりはせず、むしろ恥とする。組織の連帯意識を高める友愛の理念などもあって余計
であり、なくて別に困らないものとする、それぐらいの心がけは必要だといえる。
強がりによって避けているけれども、下の引用などではその本音までもが吐露されている。
「顔淵死す。門人厚く之れを葬らんことを欲す。子曰く、不可なり。
門人厚く之れを葬る。子曰く、回や、予れを視ること猶お父のごとし。
予れは視ること猶お子のごとくするを得ず。我れに非ざるなり、夫の二三子なり」
「高弟の顔淵が若くして死んだ。門人たちは手厚く葬ろうとした。先生は『だめだ』
と言われた。しかし門人たちはそれも聞かずに手厚く葬った。先生は言われた。
『回(顔淵)は私を実の父親のように慕ってくれたが、私は回をわが子のように
遇してやることができなかった。(だから葬儀ばかりを厚くするのも恥じていた)
私が手厚く葬ろうとしたのではない。何人かの弟子たちが勝手にやったのだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・一一)
自分が君子階級としての成功者でもなかったがために、最高弟だった顔淵すらをも
苦学状態ないち書生のままに死なせてしまったことを大いに恥じたのである。子貢
あたりが投機で大金を得てもいたものだから、単なる物質的な富裕に与れないなんて
こともなかったはずだが、清廉を旨とする顔淵はそのような私的な富裕などを由と
することもなかった。あくまで君子としての栄華にこそ与らせてやりたかったのに、
たかがいち学団の構成者止まりで居させてしまったことを孔子も酷く嘆いたのである。
「群して党せず」は理想論の極致として、実際問題、多少の組織を組んだりすることも
あるというのは孔子や孟子の事績からも知れることである。ただ、そんなものを誇りと
したりはせず、むしろ恥とする。組織の連帯意識を高める友愛の理念などもあって余計
であり、なくて別に困らないものとする、それぐらいの心がけは必要だといえる。
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作為は人事であり、天命は無為である。
儒家は人事としての自力作善を自分たちの本題とする一方、
そこに付随したりしなかったりする程度のものとしての天命をも尊ぶ。
ただ、天命を尊ぶからこそ無為自然を理想とする道家思想をも尊ぶのであり、
天命を尊ばんがために「作為的な神の業」などを是とすることもないのである。
人事にかけての最善を尽くせばこそ、
作為が神の業などではあり得ないことも知るのである。
犯罪聖書で絶対不可侵の超越神とされているエホバの業なんぞも、古代中国や
今の世界で横行している政商や食客や縦横家の如き権力犯罪者が巻き起こす
犯罪現象に過ぎないと完全に看破することができる。しかもそれは、人間が
為しうる作為のうちでも決して最善の部類に入るものなどではなく、商業権力への
過保護だとかの甚だしい怠慢と共にこそ成立しているだけのものに過ぎないわけだから、
それ以上にも為政や武事にかけて最善を尽くそうとする人間の立場からすれば、
ただただ見下げたものとして取り扱うほかはないものとなるわけである。
そんなものが、人事にかけて最善を尽くす人間が「神の業」などとして尊ぶに
値するものでないのは当然のこととして、やはりそのような人間にとっても、
もはや神の業と見なす他ない現象というものが、無為自然の中にこそ見出される。
「無為自然」というからには、何もしないことばかりを想定してしまいがちだけれども、
何もしないでいようとする中にも、どうしたって転変せざるを得ないようなことがある。
そのような消極性の限りを尽くした変転の中にこそ、超絶的な神の業とも見なし得る
現象というものが少なからず散見されるものであり、そのような現象こそは、全世界、
天下国家の命運を司るほどもの大局からの神威を発揮したりしてもいるのである。
儒家は人事としての自力作善を自分たちの本題とする一方、
そこに付随したりしなかったりする程度のものとしての天命をも尊ぶ。
ただ、天命を尊ぶからこそ無為自然を理想とする道家思想をも尊ぶのであり、
天命を尊ばんがために「作為的な神の業」などを是とすることもないのである。
人事にかけての最善を尽くせばこそ、
作為が神の業などではあり得ないことも知るのである。
犯罪聖書で絶対不可侵の超越神とされているエホバの業なんぞも、古代中国や
今の世界で横行している政商や食客や縦横家の如き権力犯罪者が巻き起こす
犯罪現象に過ぎないと完全に看破することができる。しかもそれは、人間が
為しうる作為のうちでも決して最善の部類に入るものなどではなく、商業権力への
過保護だとかの甚だしい怠慢と共にこそ成立しているだけのものに過ぎないわけだから、
それ以上にも為政や武事にかけて最善を尽くそうとする人間の立場からすれば、
ただただ見下げたものとして取り扱うほかはないものとなるわけである。
そんなものが、人事にかけて最善を尽くす人間が「神の業」などとして尊ぶに
値するものでないのは当然のこととして、やはりそのような人間にとっても、
もはや神の業と見なす他ない現象というものが、無為自然の中にこそ見出される。
「無為自然」というからには、何もしないことばかりを想定してしまいがちだけれども、
何もしないでいようとする中にも、どうしたって転変せざるを得ないようなことがある。
そのような消極性の限りを尽くした変転の中にこそ、超絶的な神の業とも見なし得る
現象というものが少なからず散見されるものであり、そのような現象こそは、全世界、
天下国家の命運を司るほどもの大局からの神威を発揮したりしてもいるのである。
そのような真の神の業の下で、人間もただただ立ちすくんでいるべきなのではなく、
人事にかけて最善を尽くすことでこそ天命に与れもする。ただただ怠慢なままで
いたりするのでは、天命に与れないのはもちろんのこと、無為自然の中にこそある
超絶的な神の業を計り知ることもできないままに終わる。鬼畜米英と反幕勢力の共倒れ
という幕府のはかりごとに一切気づくこともなく破滅が不可避な事態にまで陥ってしまった
今の日米英の資本主義者などもその例である。ただただ金を稼ぐことばかりに奔走すると
いうこと自体が、決して人としての最善を尽くしたあり方ではないものだから、自分たち
が神君家康公の手玉に取られていたことにも全く気づくことができなかったのだった。
人としての怠慢に溺れている所でこそ、政商の如き重権力犯罪者を超越神に
見立てるような虚構の神様ごっこすらもが催されたわけで、それによりさらなる
怠慢の助長すらをも図ってきたわけだから、虚構の超越神こそは、無為自然の
中にこそある真の神の業を見失わせる元凶ともなって来たのだといえる。
神様ごっこというのは、やはり罰当たりなことだったのである。
本物の神仏の霊威を人々に見失わせての破滅を招くが故にこそ、自明に罰当たりとなる。
人々に本物の神仏への崇敬を損なわせると共に、本物の神威を計り知れるだけの最善の人事
を尽くして行く道をも閉ざさせる。いかにも罰当たりそうでいて、実際そうだったのである。
「天は民を矜れみたまう。民の欲する所は、天も必ず之れに従う」
「上天は人々を憐れんでくれるもの。人々が心から願うことは、必ず聞き入れてくれる。
(性善説ならぬ天性善説。万人の願いこそは天に聞き入れられるのだから、
部分の願いばかりを聞き入れるような神は偽物なのである。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓上より)
人事にかけて最善を尽くすことでこそ天命に与れもする。ただただ怠慢なままで
いたりするのでは、天命に与れないのはもちろんのこと、無為自然の中にこそある
超絶的な神の業を計り知ることもできないままに終わる。鬼畜米英と反幕勢力の共倒れ
という幕府のはかりごとに一切気づくこともなく破滅が不可避な事態にまで陥ってしまった
今の日米英の資本主義者などもその例である。ただただ金を稼ぐことばかりに奔走すると
いうこと自体が、決して人としての最善を尽くしたあり方ではないものだから、自分たち
が神君家康公の手玉に取られていたことにも全く気づくことができなかったのだった。
人としての怠慢に溺れている所でこそ、政商の如き重権力犯罪者を超越神に
見立てるような虚構の神様ごっこすらもが催されたわけで、それによりさらなる
怠慢の助長すらをも図ってきたわけだから、虚構の超越神こそは、無為自然の
中にこそある真の神の業を見失わせる元凶ともなって来たのだといえる。
神様ごっこというのは、やはり罰当たりなことだったのである。
本物の神仏の霊威を人々に見失わせての破滅を招くが故にこそ、自明に罰当たりとなる。
人々に本物の神仏への崇敬を損なわせると共に、本物の神威を計り知れるだけの最善の人事
を尽くして行く道をも閉ざさせる。いかにも罰当たりそうでいて、実際そうだったのである。
「天は民を矜れみたまう。民の欲する所は、天も必ず之れに従う」
「上天は人々を憐れんでくれるもの。人々が心から願うことは、必ず聞き入れてくれる。
(性善説ならぬ天性善説。万人の願いこそは天に聞き入れられるのだから、
部分の願いばかりを聞き入れるような神は偽物なのである。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓上より)
結局居座りですか。みっともない。^^
結局、勧善懲悪に務める者にとっても、悪逆非道にひた走る者にとっても、
ただただ自分たちにとって都合のいい神などというものが絶対的な
ものとして君臨するなどということもあり得ないのである。
たとえば、勧善懲悪の仁政を心がける者などにとって、良妻賢母の貞節さを司る
天照大神ほど都合のいい神も他にいないわけだけれども、だからといって天照大神が
この世に絶対的なものとして君臨し続けてくれるのかといえば、そういうわけでもない。
世の中が一定以上の汚濁にまみれてしまったならば、容赦なくお隠れになる神でもあり、
それにより人口爆発のような人類滅亡級の災禍すらをももたらしてしまったりする。
人間の側が人事を尽くして清廉な為政に励むことでこそ、天照大神のごとき
善神もまた崇敬に値する神威を湛えてくれる一方で、権力犯罪やりたい放題の
濁世を推し進めていった先にこそ生ずる神威じみた現象というものもまたある。
それが犯罪聖書におけるエホバやキリストの所業のようであったりもするわけで、
善神にしろ邪神にしろ、人間たちの行いに呼応して生ずる神であるには違いないのである。
善神は人々の最善なる努力と共にこそその神威を発揮してくださる一方で、
邪神は人間どものやりたい放題に合わせてその神威を発揮する。善神のほうが
崇めにくいものの、崇められたならその効験も恒久的である一方、邪神はしごく
崇めやすい一方で、いつかは崇めることでの効験などが得られなくなってしまう。
今まで権力腐敗による経済破綻の埋め合わせを全て外界侵略による収奪によって
埋め合わせていた欧米聖書圏が、ついには収奪先がなくなって自滅寸前の様相を
来たしてしまっている現状などが、まさにその実例になっているといえる。
ただただ自分たちにとって都合のいい神などというものが絶対的な
ものとして君臨するなどということもあり得ないのである。
たとえば、勧善懲悪の仁政を心がける者などにとって、良妻賢母の貞節さを司る
天照大神ほど都合のいい神も他にいないわけだけれども、だからといって天照大神が
この世に絶対的なものとして君臨し続けてくれるのかといえば、そういうわけでもない。
世の中が一定以上の汚濁にまみれてしまったならば、容赦なくお隠れになる神でもあり、
それにより人口爆発のような人類滅亡級の災禍すらをももたらしてしまったりする。
人間の側が人事を尽くして清廉な為政に励むことでこそ、天照大神のごとき
善神もまた崇敬に値する神威を湛えてくれる一方で、権力犯罪やりたい放題の
濁世を推し進めていった先にこそ生ずる神威じみた現象というものもまたある。
それが犯罪聖書におけるエホバやキリストの所業のようであったりもするわけで、
善神にしろ邪神にしろ、人間たちの行いに呼応して生ずる神であるには違いないのである。
善神は人々の最善なる努力と共にこそその神威を発揮してくださる一方で、
邪神は人間どものやりたい放題に合わせてその神威を発揮する。善神のほうが
崇めにくいものの、崇められたならその効験も恒久的である一方、邪神はしごく
崇めやすい一方で、いつかは崇めることでの効験などが得られなくなってしまう。
今まで権力腐敗による経済破綻の埋め合わせを全て外界侵略による収奪によって
埋め合わせていた欧米聖書圏が、ついには収奪先がなくなって自滅寸前の様相を
来たしてしまっている現状などが、まさにその実例になっているといえる。
真理は、その語義からいって「永久普遍」でもなければならないものであるから、
人間の側が崇められさえすればその効験も永遠である善神こそは、真理を司る神でも
あるといえる一方で、崇めた所でもはや効験など得られなくなる邪神などは、真理を
騙る虚偽を司る神ないし妖怪であるに過ぎなかったといえる。犯罪聖書中では、比較的
人間たち自身のあるべき姿を具体的に述べているイエスの物言いなぞも、それを実践
していった先にどうしようもない破滅をもたらすものばかりであったわけで、最終的
に明かされたのも「そんなものは真理でもなんでもない」ということでこそあった。
人々の努力に呼応してその神威を発揮してくださるのが善神であるが故に、
怠惰まみれな愚人などは善神を真理の顕現などとして認めたがりもしない。
むしろ、自分たちの怠惰を許容してくれるような邪神こそを、真理をも司るもの
として崇めたくもなる。だからといって真理がねじまげられたりすることが
ないのも当然のことであり、善神こそは真理の顕現であり続ける一方で、
邪神は真理を騙る虚偽の象徴のままでしかいられないのである。
「惟れ助けて王と成し、徳を顕らかにし、人を尹すに越いて辟を祗む」
「主君を助けて真の王道の体現者と成し、それにより自明な徳を顕らかにし、
そこから導き出される純正な法度によって人々をも正して行くようにする。
(『神は神』『真理は真理』などという自己中毒的な証しなどを是とすることなく、
自明な徳によって王業を助け、純正な法度によって人々を正して行くのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・酒誥より)
人間の側が崇められさえすればその効験も永遠である善神こそは、真理を司る神でも
あるといえる一方で、崇めた所でもはや効験など得られなくなる邪神などは、真理を
騙る虚偽を司る神ないし妖怪であるに過ぎなかったといえる。犯罪聖書中では、比較的
人間たち自身のあるべき姿を具体的に述べているイエスの物言いなぞも、それを実践
していった先にどうしようもない破滅をもたらすものばかりであったわけで、最終的
に明かされたのも「そんなものは真理でもなんでもない」ということでこそあった。
人々の努力に呼応してその神威を発揮してくださるのが善神であるが故に、
怠惰まみれな愚人などは善神を真理の顕現などとして認めたがりもしない。
むしろ、自分たちの怠惰を許容してくれるような邪神こそを、真理をも司るもの
として崇めたくもなる。だからといって真理がねじまげられたりすることが
ないのも当然のことであり、善神こそは真理の顕現であり続ける一方で、
邪神は真理を騙る虚偽の象徴のままでしかいられないのである。
「惟れ助けて王と成し、徳を顕らかにし、人を尹すに越いて辟を祗む」
「主君を助けて真の王道の体現者と成し、それにより自明な徳を顕らかにし、
そこから導き出される純正な法度によって人々をも正して行くようにする。
(『神は神』『真理は真理』などという自己中毒的な証しなどを是とすることなく、
自明な徳によって王業を助け、純正な法度によって人々を正して行くのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・酒誥より)
真理にことごとく違うような邪義ばかりを好き好んで信奉して来たからには、
ほとんど全ての真理を敵に回して、真理に基づく救いを得られるようなこともない。
まず、「神」が司るような大まかな真理に即して救われるということは絶対にない。
マリア崇拝もアマテラス崇拝と決定的に相反するものなら、アダムの原罪としての
労働義務なども、道家の無為自然の真理と決定的に相反するものである。天道の
神が司っている真理というのは、大まかな概括のところの真理であるために、
それをよく尊ぶことが手っ取り早く天下の安寧を実現していく上では格好と
なるのだが、大まかなだけに、真理に違うような邪義こそを好き好んでいる
ような相手までをも救ってやるような汎用性は持ち合わせていないのである。
「仏」が司る微にわたり細にわたる絶対真理といえども、大半の真理が邪義の
信奉者にとっての救いになるようなことはない。実質的には道家思想に多少の
哲学的な要素を加えた程度のものとなっている小乗仏教の教理が、今まさに悪逆非道の
放辟邪侈に溺れている邪義の信奉者にとっての救いなどにならないのはもちろんのこと、
自分たち自身の菩薩業の助けにこそなる大乗仏教の唯識思想や中観思想、菩薩業の
先に拓かれた悟りこそを司る華厳思想や法華思想が救いになるようなこともやはりない。
これらは多少なりともの自力作善と共にこそ効験のある絶対真理の教理であるため、
自助努力がまったく不十分なままである邪信の徒の救いなどになることはないのである。
仏の中でも、西方浄土での他力本願の救済を司る阿弥陀如来のみが、"元"邪信者に
対する早急な救いの可能性を多少なりとも示している。当然、邪教を信仰している
最中から救済の対象としてやることはないにしろ(邪教の教理は誹謗正法の条件を
満たしてしまっているため、阿弥陀如来からの救いも受けられない)、邪教への狂信
に基づく悪業の程度が比較的軽度でいて、なおかつ完全なる邪教の棄教と共なる念仏
への帰依を徹底するというのであれば、救いがないとも限らないものとなっている。
ほとんど全ての真理を敵に回して、真理に基づく救いを得られるようなこともない。
まず、「神」が司るような大まかな真理に即して救われるということは絶対にない。
マリア崇拝もアマテラス崇拝と決定的に相反するものなら、アダムの原罪としての
労働義務なども、道家の無為自然の真理と決定的に相反するものである。天道の
神が司っている真理というのは、大まかな概括のところの真理であるために、
それをよく尊ぶことが手っ取り早く天下の安寧を実現していく上では格好と
なるのだが、大まかなだけに、真理に違うような邪義こそを好き好んでいる
ような相手までをも救ってやるような汎用性は持ち合わせていないのである。
「仏」が司る微にわたり細にわたる絶対真理といえども、大半の真理が邪義の
信奉者にとっての救いになるようなことはない。実質的には道家思想に多少の
哲学的な要素を加えた程度のものとなっている小乗仏教の教理が、今まさに悪逆非道の
放辟邪侈に溺れている邪義の信奉者にとっての救いなどにならないのはもちろんのこと、
自分たち自身の菩薩業の助けにこそなる大乗仏教の唯識思想や中観思想、菩薩業の
先に拓かれた悟りこそを司る華厳思想や法華思想が救いになるようなこともやはりない。
これらは多少なりともの自力作善と共にこそ効験のある絶対真理の教理であるため、
自助努力がまったく不十分なままである邪信の徒の救いなどになることはないのである。
仏の中でも、西方浄土での他力本願の救済を司る阿弥陀如来のみが、"元"邪信者に
対する早急な救いの可能性を多少なりとも示している。当然、邪教を信仰している
最中から救済の対象としてやることはないにしろ(邪教の教理は誹謗正法の条件を
満たしてしまっているため、阿弥陀如来からの救いも受けられない)、邪教への狂信
に基づく悪業の程度が比較的軽度でいて、なおかつ完全なる邪教の棄教と共なる念仏
への帰依を徹底するというのであれば、救いがないとも限らないものとなっている。
真理によって救われることがあるにしろないにしろ、真理に違う邪教への帰依などが、
真理に即した救いに与れる可能性を狭めていることには違いないのである。そんな過ち
すら犯していなければ、真理によって救われることはおろか、そもそも救われなければ
いられないような苦しみの中に陥れられるようなことすら始めからなくて済む選択肢
というものが無数にすら存在しているわけで、真理と共なる救済や破滅の防止を欲する
というのなら、邪教への帰依などが最悪級の遠回りとなることには違いないのである。
それでいて、邪教が提示する数々の誤謬もまた、真理に相反するものであればこそ、
真理じみていたのでもある。邪まな誤謬というもの自体、真理あってこそのもの
だったわけだから、所詮は真理にまつわる諸事のうちであったのだと言えなくもない。
真理が真理であり、誤謬が誤謬であることを確証するための背理であったのだという
運命を受け入れるのならば、それ相応の寛大な対処というものも期待できるのである。
「父なくんば何をか怙まん、母なくんば何をか恃まん。
(ここまで既出)出でては則ち恤いを銜み、入りては則ち至しき靡し」
「実の父母でなければ、いったい誰を拠り所にしていいものか。(当然他には誰もいない。
親を拠り所にするような正しい姿勢でいるのでなければ)外に出ても憂いに苛まれるばかり、
内に入っても親しむ相手もいない。(真理に導きいれられるかどうか以前の問題)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・蓼莪より)
真理に即した救いに与れる可能性を狭めていることには違いないのである。そんな過ち
すら犯していなければ、真理によって救われることはおろか、そもそも救われなければ
いられないような苦しみの中に陥れられるようなことすら始めからなくて済む選択肢
というものが無数にすら存在しているわけで、真理と共なる救済や破滅の防止を欲する
というのなら、邪教への帰依などが最悪級の遠回りとなることには違いないのである。
それでいて、邪教が提示する数々の誤謬もまた、真理に相反するものであればこそ、
真理じみていたのでもある。邪まな誤謬というもの自体、真理あってこそのもの
だったわけだから、所詮は真理にまつわる諸事のうちであったのだと言えなくもない。
真理が真理であり、誤謬が誤謬であることを確証するための背理であったのだという
運命を受け入れるのならば、それ相応の寛大な対処というものも期待できるのである。
「父なくんば何をか怙まん、母なくんば何をか恃まん。
(ここまで既出)出でては則ち恤いを銜み、入りては則ち至しき靡し」
「実の父母でなければ、いったい誰を拠り所にしていいものか。(当然他には誰もいない。
親を拠り所にするような正しい姿勢でいるのでなければ)外に出ても憂いに苛まれるばかり、
内に入っても親しむ相手もいない。(真理に導きいれられるかどうか以前の問題)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・蓼莪より)
人間は、自らの行いに相応の対価を得るか、回向を期待する対象への他力本願によって
利益に授かるかのいずれかの方法によってこそ、着実な収益を上げて行くことができる。
たとえば、天下万人を利する仁君がいたところで、自らがその為政に背いて帰服を拒否
したりしたなら、当然利益に与れるものではない。さらには、仁君による為政を封建制
ごと放逐し去ったりしたなら、自他共に徳治による恵みなどを受けられなくなってしまう。
だからといって、自分自身の我田引水ばかりを深刻化させて行ったり、仁政によるわけでも
ない不審な手法によって無制限の恵みを与えてくれる何者かなどに帰依することでの利益
などを企図したりしたなら、そのせいでのしっぺ返しが後々に跳ね飛んで来ることともなる。
自力によるのであれ他力によるのであれ、後々のしっぺ返しなどがなくて済むような
利益の追い求め方こそは、非常識に莫大な私益をもたらすようなこともない上に、
自力の場合には多大なる自助努力を、他力の場合には帰服対象への至心なる崇敬を
必要とするものである。天下万人の公益寄与を企図する仁政などがまさにそれであり、
それを志したからといって何らのしっぺ返しなどを恐れたりする必要もない一方で、
仁政の旗手となる君臣たちには挺身級の尽力が必要となるし、その帝業がもたらす利益に
与る民たちもまた、仁君たちへのお上としての崇敬を欠かしてはならないものとなる。
上記のような利殖上の障壁は、他者の利益を損なってでも自分たちの利益を貪り尽くす
我田引水すら可とするのであれば、全く以って立ちふさがりもしないのである。自分たちが
世の中において十分なほどの矮小集団でいて、自分たち以外の多数派から富を巻き上げるように
したなら、それを自力で企図する者にしろ、他力本願で与る者にしろ、大した努力も他者への
入念なる崇敬も必要としないままに、膨大な富を巻き上げての栄華に与れたりするのである。
利益に授かるかのいずれかの方法によってこそ、着実な収益を上げて行くことができる。
たとえば、天下万人を利する仁君がいたところで、自らがその為政に背いて帰服を拒否
したりしたなら、当然利益に与れるものではない。さらには、仁君による為政を封建制
ごと放逐し去ったりしたなら、自他共に徳治による恵みなどを受けられなくなってしまう。
だからといって、自分自身の我田引水ばかりを深刻化させて行ったり、仁政によるわけでも
ない不審な手法によって無制限の恵みを与えてくれる何者かなどに帰依することでの利益
などを企図したりしたなら、そのせいでのしっぺ返しが後々に跳ね飛んで来ることともなる。
自力によるのであれ他力によるのであれ、後々のしっぺ返しなどがなくて済むような
利益の追い求め方こそは、非常識に莫大な私益をもたらすようなこともない上に、
自力の場合には多大なる自助努力を、他力の場合には帰服対象への至心なる崇敬を
必要とするものである。天下万人の公益寄与を企図する仁政などがまさにそれであり、
それを志したからといって何らのしっぺ返しなどを恐れたりする必要もない一方で、
仁政の旗手となる君臣たちには挺身級の尽力が必要となるし、その帝業がもたらす利益に
与る民たちもまた、仁君たちへのお上としての崇敬を欠かしてはならないものとなる。
上記のような利殖上の障壁は、他者の利益を損なってでも自分たちの利益を貪り尽くす
我田引水すら可とするのであれば、全く以って立ちふさがりもしないのである。自分たちが
世の中において十分なほどの矮小集団でいて、自分たち以外の多数派から富を巻き上げるように
したなら、それを自力で企図する者にしろ、他力本願で与る者にしろ、大した努力も他者への
入念なる崇敬も必要としないままに、膨大な富を巻き上げての栄華に与れたりするのである。
とはいえ、そのような我田引水を可とする利殖には、因果応報のしっぺ返しが完全に
不可分なものとして伴って来る。この世に存在する悪因苦果の因果応報のうちでも、
最も完璧に因果律が保存された類いの因果応報としてのしっぺ返しが確実に伴って来る。
にもかかわらず、そればかりを追い求めて来たのが聖書信者であるものだから、
聖書圏では非聖書圏並みに国や家が長期の安寧を保てていた試しもない。ユダヤ教徒
なども聖書圏の中で生じては滅び、生じて亡びするあぶれ者集団としてのみ存在し続けて
来たわけだから、仮に今これから根絶されるとした所で、断然が惜しまれるべき伝統的系統
などが一つでも存在しているようなこともないのである。(最長かつ最大級のユダヤ財閥
であるロスチャイルド財閥ですら、日本の住友家などにその古さで及ばないでいる)
特定の家や国の安寧を約束するわけでもなく、聖書を信仰する人間を散発的に短期の
栄華に与らせては突き落とすということを繰り返して来たのが聖書信仰であるものだから、
聖書圏は聖書を拠り所とするところにしか自分たちの同一性を還元できない体たらくと化して
しまっている。だからこそ聖書信仰そのものまでをも廃絶してしまうことには極大級の抵抗感
を偉大してしまうのに違いないが、もはや聖書を信仰し続けること自体からして持たない程にも、
我田引水による利殖を可とし続けてきたことの悪因苦果が極まってしまっているのである。
聖書信仰がその根本から潰えることで、「諸法因果」の絶対真理が万人に向けて確証される
こととなる。我田引水が悪因苦果の因果応報に結び付くことは昔から仏門などによって固く
戒められて来てはいるが、所詮はいち信教の教義に過ぎないものとして未だ軽んじられたまま
でいるところがある。聖書圏である欧米はおろか、国を挙げての仏門への帰依も篤かった
この日本においてですら、儲けにしか目が行かないような承認根性の持ち主が一定数以上に
巣食ったままでいる。そのような洋の東西を問わぬ諸法因果のわきまえへの手落ちを是正して
行く機縁に聖書信仰の根絶がなったならば、聖書信仰もまた、>>216で書いたような
意味での絶対真理の探究への貢献者ともなることができるのである。
不可分なものとして伴って来る。この世に存在する悪因苦果の因果応報のうちでも、
最も完璧に因果律が保存された類いの因果応報としてのしっぺ返しが確実に伴って来る。
にもかかわらず、そればかりを追い求めて来たのが聖書信者であるものだから、
聖書圏では非聖書圏並みに国や家が長期の安寧を保てていた試しもない。ユダヤ教徒
なども聖書圏の中で生じては滅び、生じて亡びするあぶれ者集団としてのみ存在し続けて
来たわけだから、仮に今これから根絶されるとした所で、断然が惜しまれるべき伝統的系統
などが一つでも存在しているようなこともないのである。(最長かつ最大級のユダヤ財閥
であるロスチャイルド財閥ですら、日本の住友家などにその古さで及ばないでいる)
特定の家や国の安寧を約束するわけでもなく、聖書を信仰する人間を散発的に短期の
栄華に与らせては突き落とすということを繰り返して来たのが聖書信仰であるものだから、
聖書圏は聖書を拠り所とするところにしか自分たちの同一性を還元できない体たらくと化して
しまっている。だからこそ聖書信仰そのものまでをも廃絶してしまうことには極大級の抵抗感
を偉大してしまうのに違いないが、もはや聖書を信仰し続けること自体からして持たない程にも、
我田引水による利殖を可とし続けてきたことの悪因苦果が極まってしまっているのである。
聖書信仰がその根本から潰えることで、「諸法因果」の絶対真理が万人に向けて確証される
こととなる。我田引水が悪因苦果の因果応報に結び付くことは昔から仏門などによって固く
戒められて来てはいるが、所詮はいち信教の教義に過ぎないものとして未だ軽んじられたまま
でいるところがある。聖書圏である欧米はおろか、国を挙げての仏門への帰依も篤かった
この日本においてですら、儲けにしか目が行かないような承認根性の持ち主が一定数以上に
巣食ったままでいる。そのような洋の東西を問わぬ諸法因果のわきまえへの手落ちを是正して
行く機縁に聖書信仰の根絶がなったならば、聖書信仰もまた、>>216で書いたような
意味での絶対真理の探究への貢献者ともなることができるのである。
「克く邦のために勤め、克く家を倹し、自ら満仮せず、惟れ汝じの賢なり
(以下既出)満は損を招き、謙は益を受く。時れ乃ち天の道なり」
「よく国のための事業に励み、自らの家では倹約に努め、自分ばかりが虚仮に満たされよう
などともしない。これはおまえ(禹)の賢さに基づく立派な振る舞いだといえる。
満たされようとばかりすることはかえって損を招く一方で、謙りに勤めていたなら
(かえって長期的な)利益となる。これが天道であるのだから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・大禹謨より)
(以下既出)満は損を招き、謙は益を受く。時れ乃ち天の道なり」
「よく国のための事業に励み、自らの家では倹約に努め、自分ばかりが虚仮に満たされよう
などともしない。これはおまえ(禹)の賢さに基づく立派な振る舞いだといえる。
満たされようとばかりすることはかえって損を招く一方で、謙りに勤めていたなら
(かえって長期的な)利益となる。これが天道であるのだから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・大禹謨より)
妾腹の私生児のような恵まれない境遇に生まれたことに心を苛まれて不埒な
軽挙妄動に及んだりしたならば、そのような人間は世の中に負けたのだといえる。
立派な母親を持てなかったことや、親に認知もしてもらえなかったことなどは、
世の中の価値基準に即してこそ「恥」と見なされることであり、世の中と価値観を
共にすればこそ当事者も深く恥じ入るのである。実の父親が誰とも知れないことを
いいことに、実在もしない超越神を我が父に見立てての邪教を触れ回ったイエス
なんぞも、自らの境遇をひどく恥じ入る所があったからこそ、そのような妄動に
及んでしまったわけだから、これこそは世の中に負けた典型であるといえる。
同じような不遇の中に生まれ育ちながらも、学者や士大夫のごとき公正な身分に
即して名を成した孔子などは、世の中に勝ったとまでいかずとも負けなかったと
ぐらいは言える一方で、イエスこそは世の中に負け去った輩だったといえる。
故にこそ「恥の上塗り」であったともいえる。孔子は恥を漱いで偉人として尊ばれる
立場を手に入れたが、イエスはより恥ずべき醜態を晒したのである。その恥さらし
加減があまりにも見るに堪えなかったものだから、元から精神薄弱者の多かった極西
の地で、それこそを神の姿と崇めるような転倒夢想のブームをも巻き起こしたのである。
精神薄弱者でいて、なおかつ自分たちも世の中への引け目を感じていたものだから、
実際には恥の上塗りに過ぎないイエスの妄動などを絶対神に見立てたがったのである。
当時はインドや中国のような東洋社会こそが世界の三分の二以上のGDPを占める最隆盛
を誇っていた時代であり、西洋などは本当に世界の片隅の小部落社会でしかなかった
わけである。今でこそローマ帝国が隆盛を誇っていたようなプロパガンダ宣伝が
触れ回られているけれども、実際には極西の弱小国の緩やかな連合とでもいった
程度のものでしかなかったわけで、人々の劣等感も甚だしかったものだから、
イエスによる恥さらしの極みなどを崇めたがりもしたのである。 http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/thought/img2/13615953030221.jpg 152 114 www.nicovideo.jp 2272334
軽挙妄動に及んだりしたならば、そのような人間は世の中に負けたのだといえる。
立派な母親を持てなかったことや、親に認知もしてもらえなかったことなどは、
世の中の価値基準に即してこそ「恥」と見なされることであり、世の中と価値観を
共にすればこそ当事者も深く恥じ入るのである。実の父親が誰とも知れないことを
いいことに、実在もしない超越神を我が父に見立てての邪教を触れ回ったイエス
なんぞも、自らの境遇をひどく恥じ入る所があったからこそ、そのような妄動に
及んでしまったわけだから、これこそは世の中に負けた典型であるといえる。
同じような不遇の中に生まれ育ちながらも、学者や士大夫のごとき公正な身分に
即して名を成した孔子などは、世の中に勝ったとまでいかずとも負けなかったと
ぐらいは言える一方で、イエスこそは世の中に負け去った輩だったといえる。
故にこそ「恥の上塗り」であったともいえる。孔子は恥を漱いで偉人として尊ばれる
立場を手に入れたが、イエスはより恥ずべき醜態を晒したのである。その恥さらし
加減があまりにも見るに堪えなかったものだから、元から精神薄弱者の多かった極西
の地で、それこそを神の姿と崇めるような転倒夢想のブームをも巻き起こしたのである。
精神薄弱者でいて、なおかつ自分たちも世の中への引け目を感じていたものだから、
実際には恥の上塗りに過ぎないイエスの妄動などを絶対神に見立てたがったのである。
当時はインドや中国のような東洋社会こそが世界の三分の二以上のGDPを占める最隆盛
を誇っていた時代であり、西洋などは本当に世界の片隅の小部落社会でしかなかった
わけである。今でこそローマ帝国が隆盛を誇っていたようなプロパガンダ宣伝が
触れ回られているけれども、実際には極西の弱小国の緩やかな連合とでもいった
程度のものでしかなかったわけで、人々の劣等感も甚だしかったものだから、
イエスによる恥さらしの極みなどを崇めたがりもしたのである。 http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/thought/img2/13615953030221.jpg 152 114 www.nicovideo.jp 2272334
キリスト教などというものが西洋社会に蔓延し始めたきっかけからして、ろくな
ものではなかった。世の中への引け目ばかりを抱いているような陰湿な神経の持ち主
たちが、妾腹の私生児の恥の上塗りを神として崇めたがったりしたその最原初の
あり方からしてすでに、世界史上最悪級の人類にとっての失態だったのである。
そこですでに、西洋人の世界的敗北もまた確定してしまったのである。
孔子のような、着実に自らの身の上の恥を漱いで行った賢人こそを尊崇したの
ならともかく、恥の上塗りをやらかしたような愚人こそを絶対神にまで見立てて
崇め立てたりしたのだから、そんなことを至尊の伝統ともして来た時点ですでに、
西洋人が地球人類のうちでも最劣等の人種とされることもまた決していたのである。
ただ自らの身の上が恥ずべきものだったりするだけなら、まだその恥の漱ぎようが
あるが、先天的な恥を自らの妄動という後天的な恥によって上塗りしたりしたのなら、
もはや恥の漱ぎようもないというもの、そしてしそのようなあり方こそを西洋人は
是とした。それこそ、二度と世の中に勝てなくなる烙印というものだったわけで、
その烙印を捺されたままでの妄動をエスカレートさせて世界侵略にまで及んだものの、
その侵略や植民の仕方があまりにも無責任で身勝手なものであったために、自分たち
が世界に降伏するのでもなければ自分たちごとの人類の滅亡すら免れ得ない事態をも
招いてしまった。これも、始めから負けが確定していた者の案の定な末路だといえる。
世の中に勝つか負けるかでいうところの負けを喫した。そもそも世の中と戦ったり
しようとするような公共意識の欠如からしてあるべきことではなく、そのような
不埒な観念の持ち主である事からして、すでに敗北の呼び水であったともいえる。
人の身でいながら世の中を敵視するようなことからして、あるべきではないのである。
ものではなかった。世の中への引け目ばかりを抱いているような陰湿な神経の持ち主
たちが、妾腹の私生児の恥の上塗りを神として崇めたがったりしたその最原初の
あり方からしてすでに、世界史上最悪級の人類にとっての失態だったのである。
そこですでに、西洋人の世界的敗北もまた確定してしまったのである。
孔子のような、着実に自らの身の上の恥を漱いで行った賢人こそを尊崇したの
ならともかく、恥の上塗りをやらかしたような愚人こそを絶対神にまで見立てて
崇め立てたりしたのだから、そんなことを至尊の伝統ともして来た時点ですでに、
西洋人が地球人類のうちでも最劣等の人種とされることもまた決していたのである。
ただ自らの身の上が恥ずべきものだったりするだけなら、まだその恥の漱ぎようが
あるが、先天的な恥を自らの妄動という後天的な恥によって上塗りしたりしたのなら、
もはや恥の漱ぎようもないというもの、そしてしそのようなあり方こそを西洋人は
是とした。それこそ、二度と世の中に勝てなくなる烙印というものだったわけで、
その烙印を捺されたままでの妄動をエスカレートさせて世界侵略にまで及んだものの、
その侵略や植民の仕方があまりにも無責任で身勝手なものであったために、自分たち
が世界に降伏するのでもなければ自分たちごとの人類の滅亡すら免れ得ない事態をも
招いてしまった。これも、始めから負けが確定していた者の案の定な末路だといえる。
世の中に勝つか負けるかでいうところの負けを喫した。そもそも世の中と戦ったり
しようとするような公共意識の欠如からしてあるべきことではなく、そのような
不埒な観念の持ち主である事からして、すでに敗北の呼び水であったともいえる。
人の身でいながら世の中を敵視するようなことからして、あるべきではないのである。
「春秋に義戦無し。彼、此れより善きは則ち之れ有り。
征者は上として下を伐つなり。敵国相い征せざるなり」
「(春秋時代の諸侯の身勝手な抗争を記録した孔子編纂の歴史書である)『春秋経』には、
道義に根ざした戦いというものは一つも載っていない。あっちの国がこっちの国より
マシという程度のことはある(が、本当に道義に適った戦いでの勝者などはいない)。
勅命に則った上からの下への征伐であれば道義にも適うが、ほとんど同等な国同士が
敵同士としていがみ合って戦ったりするのはそのような征伐の条件を満たしていないから。
(庶人が勝手に世の中を敵視して戦ったりすることも、これと同等かそれ以上の不義
だといえる。戦いを本是とする修羅道もそれはそれで一つの道だが、決して理想とすべき
道などでもない。理想の所では、勅命に適った征伐のみを義戦とし、それ以外の私的な
戦いなどは道義に沿わぬものとしてできる限り避けるぐらいの心持ちでいるべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二より)
征者は上として下を伐つなり。敵国相い征せざるなり」
「(春秋時代の諸侯の身勝手な抗争を記録した孔子編纂の歴史書である)『春秋経』には、
道義に根ざした戦いというものは一つも載っていない。あっちの国がこっちの国より
マシという程度のことはある(が、本当に道義に適った戦いでの勝者などはいない)。
勅命に則った上からの下への征伐であれば道義にも適うが、ほとんど同等な国同士が
敵同士としていがみ合って戦ったりするのはそのような征伐の条件を満たしていないから。
(庶人が勝手に世の中を敵視して戦ったりすることも、これと同等かそれ以上の不義
だといえる。戦いを本是とする修羅道もそれはそれで一つの道だが、決して理想とすべき
道などでもない。理想の所では、勅命に適った征伐のみを義戦とし、それ以外の私的な
戦いなどは道義に沿わぬものとしてできる限り避けるぐらいの心持ちでいるべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二より)
結局、人が人を支配するということからして、ある程度以上に大規模な都市社会における必要悪であり、
最小限に止められるに越したこともないことである。だからこそ、自分たちでは礼楽による作為的な
統治を本務とする儒者もまた、無為自然の放任志向である道家思想をも副次的な尊重の対象とするのである。
ただ、支配をするからには最善も尽くすのである。
最も有効な支配を心がけるからこそ、最も純正な為政者としての君臣による礼楽統治を敷こうとする、
それが儒家思想における必然的な帰結でもあるわけだが、なぜか今では、君臣による封建統治などが
うまくいくわけがないかのような思い込みがまかり通ることともなってしまっている。それは、
純正な封建統治によっては特筆して冷遇の対象となる商人身分への過保護に連動して来たして
しまっている全くの事実誤認であり、むしろ君臣関係を徹底した封建統治によるのでもない限りは、
世の中の統治もまた持続的にうまくいくようなことがないというのが実際である。
封建統治そのものは堅苦しいものであるけれども、堅苦しければこそ世の中の乱脈を最小限に控えられもする。
そこで「人が人を支配する」ということの健全性が善くも悪しくも極まるのであり、悪しき側面としての
束縛志向を緩和するためには道家の無為自然志向などをも参考的な尊重の対象として行くべきなのである。
そのようなメリハリこそが世の中を最善の平穏に導くわけだけれども、自由主義者や民主主義者たるや、
封建統治の束縛志向という側面ばかりを捉えて「悪しき蛮習だ」などと決めつけたがる。
それで封建主義ほどの束縛性を伴わないものとしての民主主義や法治主義をよりよい統治理念として
推薦したがるわけだが、そこでこそ逆に労働義務だとか納税義務だとかの、道家思想にも
決定的に反する作為的支配による人々へのがんじがらめを講じてしまったりもするのである。
最小限に止められるに越したこともないことである。だからこそ、自分たちでは礼楽による作為的な
統治を本務とする儒者もまた、無為自然の放任志向である道家思想をも副次的な尊重の対象とするのである。
ただ、支配をするからには最善も尽くすのである。
最も有効な支配を心がけるからこそ、最も純正な為政者としての君臣による礼楽統治を敷こうとする、
それが儒家思想における必然的な帰結でもあるわけだが、なぜか今では、君臣による封建統治などが
うまくいくわけがないかのような思い込みがまかり通ることともなってしまっている。それは、
純正な封建統治によっては特筆して冷遇の対象となる商人身分への過保護に連動して来たして
しまっている全くの事実誤認であり、むしろ君臣関係を徹底した封建統治によるのでもない限りは、
世の中の統治もまた持続的にうまくいくようなことがないというのが実際である。
封建統治そのものは堅苦しいものであるけれども、堅苦しければこそ世の中の乱脈を最小限に控えられもする。
そこで「人が人を支配する」ということの健全性が善くも悪しくも極まるのであり、悪しき側面としての
束縛志向を緩和するためには道家の無為自然志向などをも参考的な尊重の対象として行くべきなのである。
そのようなメリハリこそが世の中を最善の平穏に導くわけだけれども、自由主義者や民主主義者たるや、
封建統治の束縛志向という側面ばかりを捉えて「悪しき蛮習だ」などと決めつけたがる。
それで封建主義ほどの束縛性を伴わないものとしての民主主義や法治主義をよりよい統治理念として
推薦したがるわけだが、そこでこそ逆に労働義務だとか納税義務だとかの、道家思想にも
決定的に反する作為的支配による人々へのがんじがらめを講じてしまったりもするのである。
今一度、「まだマシな部類のもの」としての、純正な封建統治の存在価値を見直すべき時が来ている。
封建統治とて、人が人を支配するという側面がある時点で、一定の辟易を抱かざるを得ないものでは
あるけれども、最低限の統制すら失っての人々の無制限な放辟邪侈を許容した挙げ句に、人類滅亡級の
破滅を招いたりする自由主義的民主主義的、カルト宗教的支配よりはよっぽどリスクも低くて、人々が嫌な
思いをしたりすることも少なくて済むのが封建統治であるという厳然たる現実に目を向けねばならない。
重ねて言うが、支配そのものはあくまで必要悪である。人が人を支配することなんてないに越したことは
ないのだけれども、全くないのでは破滅級の危害すら免れ得ない、だから仕方なく作為的支配を敷く、
敷くからには四民の序列も厳格に正すような純正な封建統治を敷いて行くべきであり、
ただその支配の強度に加減を利かせて行くようにもするのが肝要となるのである。
徳治が排されて法治支配が敷かれている現代においてですら、
警察官あたりの庶民に対する強権行使の加減などは目に余るものがある。それでいて、
目付のような自浄作用の要となる身分を設置することもなく、身内同士での腐敗は平気で
揉み消していたりするわけだから、それこそ封建時代の武家以上の嫌らしさというものである。
強権も行使できるような士分の人間は敬いの対象とされるのと引き換えに、
致命的な不手際を犯そうものなら本当に切腹やお家取り潰しも辞されないようにしたならば、
今と比べても、どれほど人々の溜め込む鬱屈が少なくて済むだろうか。
「朋は家に仇を作し、権を脅して相滅す。無辜天に籲び、穢徳彰聞す」
「友人程度の疎遠な関係の者同士で家に仇を成し、公正に取り扱われるべき権能を脅かして不正に濫用する
ことでお互いに滅ぼし合っている。罪なき人々は天に泣き叫び、その穢れた性分も明らかなものとなっている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓中より)
封建統治とて、人が人を支配するという側面がある時点で、一定の辟易を抱かざるを得ないものでは
あるけれども、最低限の統制すら失っての人々の無制限な放辟邪侈を許容した挙げ句に、人類滅亡級の
破滅を招いたりする自由主義的民主主義的、カルト宗教的支配よりはよっぽどリスクも低くて、人々が嫌な
思いをしたりすることも少なくて済むのが封建統治であるという厳然たる現実に目を向けねばならない。
重ねて言うが、支配そのものはあくまで必要悪である。人が人を支配することなんてないに越したことは
ないのだけれども、全くないのでは破滅級の危害すら免れ得ない、だから仕方なく作為的支配を敷く、
敷くからには四民の序列も厳格に正すような純正な封建統治を敷いて行くべきであり、
ただその支配の強度に加減を利かせて行くようにもするのが肝要となるのである。
徳治が排されて法治支配が敷かれている現代においてですら、
警察官あたりの庶民に対する強権行使の加減などは目に余るものがある。それでいて、
目付のような自浄作用の要となる身分を設置することもなく、身内同士での腐敗は平気で
揉み消していたりするわけだから、それこそ封建時代の武家以上の嫌らしさというものである。
強権も行使できるような士分の人間は敬いの対象とされるのと引き換えに、
致命的な不手際を犯そうものなら本当に切腹やお家取り潰しも辞されないようにしたならば、
今と比べても、どれほど人々の溜め込む鬱屈が少なくて済むだろうか。
「朋は家に仇を作し、権を脅して相滅す。無辜天に籲び、穢徳彰聞す」
「友人程度の疎遠な関係の者同士で家に仇を成し、公正に取り扱われるべき権能を脅かして不正に濫用する
ことでお互いに滅ぼし合っている。罪なき人々は天に泣き叫び、その穢れた性分も明らかなものとなっている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓中より)
たとえば、一度や二度ぐらいは人々に分別ある良心が育まれたことのある
日本や中国のような国家社会においても、世相の乱れや文化破壊などによって
容易にその良心の蓄えが損なわれる。人々から良心が失われたものだから
引っ切り無しの争いにも没頭するようになり、何が正しくて何が間違って
いるかなどよりも、ただ自分が争いに勝って生き延びることばかりが至上の
命題とされるようになる。相手の考えのほうが完璧に正しくて、自分の考えの
ほうが完全に間違っているとしたって、とにかく自分が勝って生き延びる
ために間違っている自己意見のほうを徹底的に押し通そうとしたりする。
そこで「鹿をも馬と言い張る」バカの心理状態が確立されるわけだが、
その馬鹿の状態こそは、俗に「お花畑」などとも言われる、
一種の恍惚状態を人々にもたらすものともなっている。
分別ある良心を堅く守り通している所でもまた、孟子が抱いていたとも
いう「浩然の気」と呼ばれる清清しい心持ちが得られもする。これこそは、
俗世で俗人が俗人であるままに得られる悟りとも言えるわけで、麻薬的陶酔
などとは無縁である代わりに、恒常的な清清しさと共にあることができる。
一方で、馬鹿の心理状態というのはまさに麻薬中毒にも近似するものであり、
鹿を馬だなどと頑なに決め付ける心持ちと共に多大なる陶酔が得られる一方で、
平静状態に返ってみれば多大なる虚無感に囚われるものである。それは、時に
自殺衝動にすら発展しかねないものなので、馬鹿の心理状態を好む人間という
のは、引っ切り無しの感情の焼け付きを欲するようになってしまうのである。
(そのために、際限のない富の貪りなどにすら及んでしまうようにもなる)
日本や中国のような国家社会においても、世相の乱れや文化破壊などによって
容易にその良心の蓄えが損なわれる。人々から良心が失われたものだから
引っ切り無しの争いにも没頭するようになり、何が正しくて何が間違って
いるかなどよりも、ただ自分が争いに勝って生き延びることばかりが至上の
命題とされるようになる。相手の考えのほうが完璧に正しくて、自分の考えの
ほうが完全に間違っているとしたって、とにかく自分が勝って生き延びる
ために間違っている自己意見のほうを徹底的に押し通そうとしたりする。
そこで「鹿をも馬と言い張る」バカの心理状態が確立されるわけだが、
その馬鹿の状態こそは、俗に「お花畑」などとも言われる、
一種の恍惚状態を人々にもたらすものともなっている。
分別ある良心を堅く守り通している所でもまた、孟子が抱いていたとも
いう「浩然の気」と呼ばれる清清しい心持ちが得られもする。これこそは、
俗世で俗人が俗人であるままに得られる悟りとも言えるわけで、麻薬的陶酔
などとは無縁である代わりに、恒常的な清清しさと共にあることができる。
一方で、馬鹿の心理状態というのはまさに麻薬中毒にも近似するものであり、
鹿を馬だなどと頑なに決め付ける心持ちと共に多大なる陶酔が得られる一方で、
平静状態に返ってみれば多大なる虚無感に囚われるものである。それは、時に
自殺衝動にすら発展しかねないものなので、馬鹿の心理状態を好む人間という
のは、引っ切り無しの感情の焼け付きを欲するようになってしまうのである。
(そのために、際限のない富の貪りなどにすら及んでしまうようにもなる)
浩然の気を伴う良心ある心理状態と、麻薬的陶酔を伴う馬鹿の心理状態とが、
「人間が自らの心持ちによって固定化する磐石な心理状態」の双璧となっている。
片や健全な心持ちである一方、片や不健全の極みという他ない心持ちである
わけだから、当然良心ある心理状態を推奨し、馬鹿の心理状態を戒めるように
して行くべきでもあるわけだが、極度の乱世などにおいては、むしろ馬鹿の
心理状態に陥ってしまっているような人間のほうが世の中の主導権すら握るように
なってしまっていたりする。もちろん馬鹿ばかりでは世の中もままならないから、
乱世といえども馬鹿とまではいかない平常心の持ち主がこの世の中の生命線を
司り続けて居てくれたりするわけだが、そのような人間とて、浩然の気を伴う
良心までをも抱けていたりすることはほとんどないわけだから、そうともいかず、
なおかつ完全なるバカにまではなれないでいる自分たちの有り様がバカどもから
「負け組」扱いされるようなことにすらなってしまい、逆に自分たちのほうもまた、
バカゆえのイケイケによってこそ暴利を巻き上げているような連中を「勝ち組」
などとして崇め立てるようなザマにすら陥ってしまったりするのである。
権力を握った馬鹿が世の中を破滅へと陥れている昨今、馬鹿は馬鹿で適切な
駆除の対象とするのみとして、それで、心持ちが堂に入った人間がこの世から
いなくなるのでは、馬鹿といえども羨望する対象があったればこそ、自分たちも
心の平安を得られていた大多数の庶民が多大なる不安にかられることともなる。
だからこそ、新たな心の拠り所であると共に、真に拠り所とすべき殿堂入りの
心持ちとしての、浩然の気を伴う良心というものを尊んでも行くべきなのである。
「否を傾く。先には否がり後には喜ぶ。否終わるに傾く、何ぞ長かる可けんや」
「(小人が権力を握って乱世をもたらしているような)否塞の時が傾きかけている。
傾きかけているからには終焉も間近なので、最初のうちはまだ塞がり気味でも、
最終的には喜ばしい結果となる。(否塞の時には喜んだりもしないのが吉である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・否・上九‐象伝より)
「人間が自らの心持ちによって固定化する磐石な心理状態」の双璧となっている。
片や健全な心持ちである一方、片や不健全の極みという他ない心持ちである
わけだから、当然良心ある心理状態を推奨し、馬鹿の心理状態を戒めるように
して行くべきでもあるわけだが、極度の乱世などにおいては、むしろ馬鹿の
心理状態に陥ってしまっているような人間のほうが世の中の主導権すら握るように
なってしまっていたりする。もちろん馬鹿ばかりでは世の中もままならないから、
乱世といえども馬鹿とまではいかない平常心の持ち主がこの世の中の生命線を
司り続けて居てくれたりするわけだが、そのような人間とて、浩然の気を伴う
良心までをも抱けていたりすることはほとんどないわけだから、そうともいかず、
なおかつ完全なるバカにまではなれないでいる自分たちの有り様がバカどもから
「負け組」扱いされるようなことにすらなってしまい、逆に自分たちのほうもまた、
バカゆえのイケイケによってこそ暴利を巻き上げているような連中を「勝ち組」
などとして崇め立てるようなザマにすら陥ってしまったりするのである。
権力を握った馬鹿が世の中を破滅へと陥れている昨今、馬鹿は馬鹿で適切な
駆除の対象とするのみとして、それで、心持ちが堂に入った人間がこの世から
いなくなるのでは、馬鹿といえども羨望する対象があったればこそ、自分たちも
心の平安を得られていた大多数の庶民が多大なる不安にかられることともなる。
だからこそ、新たな心の拠り所であると共に、真に拠り所とすべき殿堂入りの
心持ちとしての、浩然の気を伴う良心というものを尊んでも行くべきなのである。
「否を傾く。先には否がり後には喜ぶ。否終わるに傾く、何ぞ長かる可けんや」
「(小人が権力を握って乱世をもたらしているような)否塞の時が傾きかけている。
傾きかけているからには終焉も間近なので、最初のうちはまだ塞がり気味でも、
最終的には喜ばしい結果となる。(否塞の時には喜んだりもしないのが吉である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・否・上九‐象伝より)
世界を暗黒の破滅に陥れておきながら、限られた信者だけを救おうとする
邪神の姿は夜空の星屑に見立てられる一方(これも星にとって迷惑な話だが)、
天下全土万人への恵みを施そうとする仁君の姿は、それこそ天下全土を
あまねく照らし出す太陽のあり方に見立てることができるといえる。
恒常的に観測できる最も明るい星である金星(最大-4.7等級)といえども、
月の明るさ(-12.7等級)に遠く及ばない。そしてその月の明るさといえども、
太陽の明るさ(-26.7等級)に遥かに及ばない。たとえ天空を全て月の明るさで
満たしたとしても、一つの太陽が昇っている日中の空の明るさに及ぶこともない。
それほどにも、天をあまねく照らし出すことと、暗闇の中で部分的な輝きを放つ
こととには途方もない開きがあるのであり、暗闇の中での輝きを愛でるような志向を
いくら発展させてみた所で、日中の明るさを尊ぶことに近似するようなこともないのである。
以上の科学的な論議は実際、この世における仁君の振る舞いと、聖書の邪神に
見立てた権力犯罪者の振る舞いの対比などにも敷衍として適用できるものである。
天下に多大なる損害をもたらすことでこそ私益を稼ぎ上げ、一部の友愛相手だけに恵もうと
するような権力犯罪者の振る舞いをいくら発展させていった所で、天下万人が福利に与れる
ようなことは永遠にありはしない。むしろ天下全土が極度の貧窮に見舞われることこそが恒常化
してしまい、万人を富ませようとする仁君の尽力すらをも徒労に終わらせてしまうようになる。
邪神の姿は夜空の星屑に見立てられる一方(これも星にとって迷惑な話だが)、
天下全土万人への恵みを施そうとする仁君の姿は、それこそ天下全土を
あまねく照らし出す太陽のあり方に見立てることができるといえる。
恒常的に観測できる最も明るい星である金星(最大-4.7等級)といえども、
月の明るさ(-12.7等級)に遠く及ばない。そしてその月の明るさといえども、
太陽の明るさ(-26.7等級)に遥かに及ばない。たとえ天空を全て月の明るさで
満たしたとしても、一つの太陽が昇っている日中の空の明るさに及ぶこともない。
それほどにも、天をあまねく照らし出すことと、暗闇の中で部分的な輝きを放つ
こととには途方もない開きがあるのであり、暗闇の中での輝きを愛でるような志向を
いくら発展させてみた所で、日中の明るさを尊ぶことに近似するようなこともないのである。
以上の科学的な論議は実際、この世における仁君の振る舞いと、聖書の邪神に
見立てた権力犯罪者の振る舞いの対比などにも敷衍として適用できるものである。
天下に多大なる損害をもたらすことでこそ私益を稼ぎ上げ、一部の友愛相手だけに恵もうと
するような権力犯罪者の振る舞いをいくら発展させていった所で、天下万人が福利に与れる
ようなことは永遠にありはしない。むしろ天下全土が極度の貧窮に見舞われることこそが恒常化
してしまい、万人を富ませようとする仁君の尽力すらをも徒労に終わらせてしまうようになる。

そしてそれぞれの社会における権力者のあり方というものが、城郭や宗教施設などの
建築様式にまで反映されてきている。東洋の王宮や城郭や寺社などは、日中に見栄えがする
ような形式のものがそのほとんどを占めている。日本の伝統建築など、燃えやすいにも
関わらずあえて加工の容易な木材を多用している場合が多い。土蔵などの建築もあるとおり、
決して木造ばかりが日本建築の選択肢でもなかったわけだが、日中に見栄えがするような
精緻かつ大胆な造形を目指すために、あえて木造が優先されて来た。そのぶん夜中の
火の扱いなどにも厳重な注意が尽くされて、近頃電光でのライトアップが試みられるように
なり始める以前までは、夜中に建築物を大々的に照らし出すようなことも控えられていた。
近代建築や、西洋の教会建築は、それに真っ向から反するような様式こそを追求して来ている。
日中の見栄えはそこそことして、むしろ夜中にライトアップされた時の美しさなどを第一
としている。キャンドルなどで燃えたりすることがないように建材は主に石材などとし、
地震が多かったり地盤が軟弱だったりするような土地での建造を忌み嫌いもする。
そういった諸々の建築様式の建物の内側で執り行われる業務もまた、それなりのものとなる。
東洋的な建物での業務は日中が専らとなる一方、西洋的近代的な建物での業務は夜中が
主になるとまでは行かずとも、昼夜を問わなくなる。暗闇での謀議なども非常的なもので
すらない、恒常的なもの、しかも何か神秘性を帯びたようなものとしてすら扱われるように
なってしまう。東洋でも兵家が暗闇での謀をよくすることなどがありはするが、そこには理想も
神秘性もへったくれもないのであり、そのような分別の有無が分岐してしまうことになるのである。
夜中に東洋建築の内側で謀が行われたことがないわけでもなければ、日中に西洋建築や
近代建築の内側で業務が執り行われないわけでもない。ただ、尊重したりあえて卑しんだり
しているものの分別に違いがあるということであり、東洋的な分別は健全であった一方、
近代的、西洋的な分別は不健全であったと結論付けるほかない。夜分に持ち越すような謀など、
野外に布陣した幕営の内側あたりで済ませるがマシというもの。それでいてそのような
武家の慣習が「幕府」という権力機構の名称にも援用された。何気ない尊卑の分別が、
国や天下の命運をも決する大業の成功失敗如何にも直結する。ゆえに、ただ分別を
持つということではなく、分別を正すということこそは肝要となるのだといえる。
「日中に沫を見る、其の右肱を折る」
「真昼の日中にすら、わずかな光しか放たないような星屑を見ている。
まるで右ひじが折れたときのように、自分でできることは何もない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・豐・九三より)
近代建築の内側で業務が執り行われないわけでもない。ただ、尊重したりあえて卑しんだり
しているものの分別に違いがあるということであり、東洋的な分別は健全であった一方、
近代的、西洋的な分別は不健全であったと結論付けるほかない。夜分に持ち越すような謀など、
野外に布陣した幕営の内側あたりで済ませるがマシというもの。それでいてそのような
武家の慣習が「幕府」という権力機構の名称にも援用された。何気ない尊卑の分別が、
国や天下の命運をも決する大業の成功失敗如何にも直結する。ゆえに、ただ分別を
持つということではなく、分別を正すということこそは肝要となるのだといえる。
「日中に沫を見る、其の右肱を折る」
「真昼の日中にすら、わずかな光しか放たないような星屑を見ている。
まるで右ひじが折れたときのように、自分でできることは何もない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・豐・九三より)

人々に一定度以上の不健康をわずらう温床をもたらした。
たとえばインドではヨガ行、中国では太極拳、日本では合気道などに継承されている
古武術技法などといった風に、健康法を兼ねた体術というものが非聖書圏では
多数考案されて来ているものの、聖書圏では、形而上の架空神への狂信のせいで、
形而下の実体現象を軽視する悪癖が根付いたものだから、精密な人体にまつわる
健康法などを独自に体系化して行くことなどもできなかったのだった。
身体のラインをあえて出すためにきつめに作られている洋服なども、
関節の動きを限定させてしまうために諸々の骨格障害をもたらしてしまうし、
対症療法として極限まで発達している西洋医学なども、それが存在するに
ことかけての不養生を人々にけしかけるものともなってしまっている。
ただただ気に入った人間に対しては優しくあろうとする聖書信仰のあり方が、
かえって相手の心身両面における不健康を増長させてしまう。真向法などに代表される
身体の筋を伸ばす体操も、始めは痛い思いをするぐらいでないと、伸ばすべき筋が
伸びて行くこともない。行水にも熱中症を予防する効果などがあるが、始めは
活動が活発化し過ぎていた心臓が、水の冷たさに驚いてバクバクと過剰な鼓動を
起こすために怖い思いもする(実際、心臓が弱い人間などの場合は注意が必要でもある)。
しかし、それを通じてこそ熱中症予防の効果なども初めて発揮されていくわけで、そういった
一定以上の試練を乗り越えることでこそ克ち得る健康というものが多々あるわけだが、
聖書信仰のただただ優しくあろうとする志向性などでは、それも克ち得るものではない。
形而下の現実こそをしっかりと見据えること、ただただ人に優しくするばかりでも
済まさないこと、この二つを最も徹底して来ているのが他でもない、仏門である。
形而上的な概念論は無記に付し、諸法実相、諸行無常の真理こそをしかと見据える。
自力作善の聖道門における精進修行の厳しさも死ぬほどのものでいて、なおかつ
そこでただただわが身を痛め付けるのではなく、多大なる苦しみの先にこそ拓かれる
悟りの境地といったものを着実に追い求めて行く。そういった仏門のあり方が東洋に
おける養生志向の根本的な規範ともなっていて、人間たち自身の養生を軽視したりする
ことなく、真の健康のためにはそれなりの試練も乗り越えるといった指針ともなっている。
仏門それ自体はまさに究極といえる純粋な思想哲学の宝庫ともなっているわけで、
さらにそこに精密な実践法が付帯してもいるものである。いわゆる「文科系と体育会系」
みたいな両極化によってその真価が計り知れるようなこともない、文武両道の極致でもある。
ただ形而下の実体(人体を含む)を重んずべきだというばかりでなく、そこにこそ拓かれる
ガンジス河の砂の数ほどもの法門というものもまたあるわけで、高度な思想哲学の追求の
ためにこそ形而上への幻想を捨てて、形而下への精進に励むべきだともいえるのである。
「天行健なり、君子以て自強して息まず」
「天の運行は不断でいて、ありのままに健やかなものである。だからこそ、
君子もそれに倣って、常日頃からの自助努力に励んで怠けることがないのである。
(物言わぬ天行に倣って努力精進に励むことが、ありのままに健康なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾・象伝より)
済まさないこと、この二つを最も徹底して来ているのが他でもない、仏門である。
形而上的な概念論は無記に付し、諸法実相、諸行無常の真理こそをしかと見据える。
自力作善の聖道門における精進修行の厳しさも死ぬほどのものでいて、なおかつ
そこでただただわが身を痛め付けるのではなく、多大なる苦しみの先にこそ拓かれる
悟りの境地といったものを着実に追い求めて行く。そういった仏門のあり方が東洋に
おける養生志向の根本的な規範ともなっていて、人間たち自身の養生を軽視したりする
ことなく、真の健康のためにはそれなりの試練も乗り越えるといった指針ともなっている。
仏門それ自体はまさに究極といえる純粋な思想哲学の宝庫ともなっているわけで、
さらにそこに精密な実践法が付帯してもいるものである。いわゆる「文科系と体育会系」
みたいな両極化によってその真価が計り知れるようなこともない、文武両道の極致でもある。
ただ形而下の実体(人体を含む)を重んずべきだというばかりでなく、そこにこそ拓かれる
ガンジス河の砂の数ほどもの法門というものもまたあるわけで、高度な思想哲学の追求の
ためにこそ形而上への幻想を捨てて、形而下への精進に励むべきだともいえるのである。
「天行健なり、君子以て自強して息まず」
「天の運行は不断でいて、ありのままに健やかなものである。だからこそ、
君子もそれに倣って、常日頃からの自助努力に励んで怠けることがないのである。
(物言わぬ天行に倣って努力精進に励むことが、ありのままに健康なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾・象伝より)
「大用現前軌則を存ぜす」
「真に大いなる作用が生ずるとき、そこに決まりきった規則性などはない」
(「碧巌録」第三則より)
儒家でも「人事を尽くして天命を待つ」といい、いかにして人事を尽くすかを
細密な事務などにわたってまで取り決めていたりすることもない。儒家の本旨とする
徳治自体、法治などと違って成文での規定をできる限り排することでこそ臨機応変な
事務での最善を尽くすものであり、その結果としてどのように人事が尽くされるかも
成文でああだこうだと定めつくせるようなことはないのである。
行動で最善を尽くせるというのなら行動を尽くすべきだし、行動では無理なようなら
言葉ででも最善を尽くすべきである。それすら無理であるようなら黙るべきである。
秦始皇帝によって焚書坑儒が催された際、経書を壁の中に塗り込むなどして避難した
儒者なども「黙る」に相当する措置を講じたわけだし、あえて狂人のフリをすることで
自らの発言価値を引き下げた酈食其の姿などもそれに準ずるものであったといえる。
愚人こそが政権を牛耳っていた春秋戦国時代に、論説なども通じての伝統文化の保全を
心がける目的で派生したのが儒者であるわけだから、その儒者が弁舌での活動すらをも
禁じられた秦帝国時代はまさに暗黒の時代であったといえ、逆にただ弁舌での活動に
済まされるだけでなく、実際に儒学こそを国是とすらして行けた漢帝国の頃などは
春秋戦国時代以上にも儒者や儒学が恵まれた時代であったといえる。
実際、真に大いなる歴史の転換の際には、「事実は小説よりも奇なり」どころですらない、
小説を遥かに上回る衝撃の事態こそが現前すらするものである。楚漢戦争末期における
項羽の奮闘の姿など、ただのフィクション小説だとすればかえって激烈すぎて興醒めもの
となるわけだけれども、本物の史実だからこそ、「史記」におけるその描写などが迫真の
ものとして人々を大いなる感銘へと持ち込むのである。そういった、奇妙ではなくても、
現実であればこそ小説以上の衝撃をもたらす事態というものがあるものだから、机上の
空論中でああだこうだと予想することなどが大用の現前を捉えきれることもないのである。
「真に大いなる作用が生ずるとき、そこに決まりきった規則性などはない」
(「碧巌録」第三則より)
儒家でも「人事を尽くして天命を待つ」といい、いかにして人事を尽くすかを
細密な事務などにわたってまで取り決めていたりすることもない。儒家の本旨とする
徳治自体、法治などと違って成文での規定をできる限り排することでこそ臨機応変な
事務での最善を尽くすものであり、その結果としてどのように人事が尽くされるかも
成文でああだこうだと定めつくせるようなことはないのである。
行動で最善を尽くせるというのなら行動を尽くすべきだし、行動では無理なようなら
言葉ででも最善を尽くすべきである。それすら無理であるようなら黙るべきである。
秦始皇帝によって焚書坑儒が催された際、経書を壁の中に塗り込むなどして避難した
儒者なども「黙る」に相当する措置を講じたわけだし、あえて狂人のフリをすることで
自らの発言価値を引き下げた酈食其の姿などもそれに準ずるものであったといえる。
愚人こそが政権を牛耳っていた春秋戦国時代に、論説なども通じての伝統文化の保全を
心がける目的で派生したのが儒者であるわけだから、その儒者が弁舌での活動すらをも
禁じられた秦帝国時代はまさに暗黒の時代であったといえ、逆にただ弁舌での活動に
済まされるだけでなく、実際に儒学こそを国是とすらして行けた漢帝国の頃などは
春秋戦国時代以上にも儒者や儒学が恵まれた時代であったといえる。
実際、真に大いなる歴史の転換の際には、「事実は小説よりも奇なり」どころですらない、
小説を遥かに上回る衝撃の事態こそが現前すらするものである。楚漢戦争末期における
項羽の奮闘の姿など、ただのフィクション小説だとすればかえって激烈すぎて興醒めもの
となるわけだけれども、本物の史実だからこそ、「史記」におけるその描写などが迫真の
ものとして人々を大いなる感銘へと持ち込むのである。そういった、奇妙ではなくても、
現実であればこそ小説以上の衝撃をもたらす事態というものがあるものだから、机上の
空論中でああだこうだと予想することなどが大用の現前を捉えきれることもないのである。
大用の現前の際に黙るべきか黙るべきでないかでいうなら、「そんなことはどうでもいい」
というのが実際のところである。焚書坑儒のような黙らざるを得ない事態があるのなら
ともかく、黙ってても黙らなくてもどうでもいいというのなら、本当にどうでもいいのだ。
覇王項羽との奮闘の際にも、漢王劉邦は項羽を挑発するようなことを散々述べていた。
自分が石弓で軽傷を負わされた際にも、「小僧(項羽)め、わしの指に当ておった」などと
余裕の軽口をひけらかす始末で、それでかえって漢兵たちを安心すらさせていたのだった。
劉邦の場合、春秋戦国時代や秦代に散々辛酸を舐めさせられ続けていた百姓の代表といった
存在性も持ち合わせていたものだから、多少のやんちゃで自分の存在価値が傷つくような
こともなかった。口の悪さなども、百姓への教化を600年近くにもわたって怠り続けてきた
為政者たち自身の自業自得の産物であるとすらいえたわけだから、劉邦本人が帝王として
勉学の奨励を許容したことなどを通じて、本人の悪口の責任も十分に漱がれたのだった。
以上のような、軽口が許容された大用の現前の事例もあればこそ、黙るべきか黙るべきで
ないかなどは事態に応じてどうとでもあるべきことだといえる。予言書というもの事態、
将来を成文化するものであるわけだから、せせこましい予言が真の衝撃的事態を
捉え切れるなどということ自体、永遠にありはしないのだといえる。
「黙して之れを成し、言わずして信あるは、徳行に存す」
「黙したままに成り、言うことなくして信実であるということは、
専ら本人の徳行の如何による。(他力本願者のあるべき姿というわけでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
というのが実際のところである。焚書坑儒のような黙らざるを得ない事態があるのなら
ともかく、黙ってても黙らなくてもどうでもいいというのなら、本当にどうでもいいのだ。
覇王項羽との奮闘の際にも、漢王劉邦は項羽を挑発するようなことを散々述べていた。
自分が石弓で軽傷を負わされた際にも、「小僧(項羽)め、わしの指に当ておった」などと
余裕の軽口をひけらかす始末で、それでかえって漢兵たちを安心すらさせていたのだった。
劉邦の場合、春秋戦国時代や秦代に散々辛酸を舐めさせられ続けていた百姓の代表といった
存在性も持ち合わせていたものだから、多少のやんちゃで自分の存在価値が傷つくような
こともなかった。口の悪さなども、百姓への教化を600年近くにもわたって怠り続けてきた
為政者たち自身の自業自得の産物であるとすらいえたわけだから、劉邦本人が帝王として
勉学の奨励を許容したことなどを通じて、本人の悪口の責任も十分に漱がれたのだった。
以上のような、軽口が許容された大用の現前の事例もあればこそ、黙るべきか黙るべきで
ないかなどは事態に応じてどうとでもあるべきことだといえる。予言書というもの事態、
将来を成文化するものであるわけだから、せせこましい予言が真の衝撃的事態を
捉え切れるなどということ自体、永遠にありはしないのだといえる。
「黙して之れを成し、言わずして信あるは、徳行に存す」
「黙したままに成り、言うことなくして信実であるということは、
専ら本人の徳行の如何による。(他力本願者のあるべき姿というわけでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
真っ当な人道は、世俗での自助努力と、正統な神仏への崇敬に即する。
愚か者ではあるものの、辛うじて人道を歩んでいる者の道はといえば、
俗世での努力もあまり至らないでいて、なおかつ崇敬の対象も阿弥陀仏のような、
愚人こそを救済の対象としてくださるとする特殊な神仏であったりする。
(それなりにできた人間でも、謙譲の意を込めて阿弥陀仏にすがる場合などはある)
他者を貶めてでも自分ばかりが救われようとするような輩を救う邪神
なぞに帰依して、なおかつ自分もそれに即した悪逆非道をはたらいて行く
ともなれば、これはもはや人でなしの道、鬼畜道の地獄道であるといえる。
前者二つは人道としての条件を満たしているが、後一つはその条件を満たしていない。
それでいて、こうやって並べ立ててみれば、やはり人道の条件を満たしている道こそは
ごくごく当たり前な範囲の道である一方、条件を満たせていない人でなしの道は
といえば、これもまた見るからに許しがたい犯罪性を伴っていることが分かる。
だから、ちゃんと人としての正しいあり方というものを見据えられてすらいたなら、
好き好んで人でなしの道にはまるようなことも絶対にないのである。そもそも人としての
正しいあり方など見据えられてもいないような者こそは、人でなしの道にも陥るのである。
日本人も八割がた以上は、百姓や町人といった教養豊かとも行かない身分の出身であり、
決して高尚な精神文化などを自力で理解して実践することまではできないでいたわけだが、
それでも聖書信仰のような、人の道から決定的に外れた側面を持つ信教に対しては
本能的な忌避感を抱いて、99%以上の人間が本気の信仰対象などにはしないでいる。
愚か者ではあるものの、辛うじて人道を歩んでいる者の道はといえば、
俗世での努力もあまり至らないでいて、なおかつ崇敬の対象も阿弥陀仏のような、
愚人こそを救済の対象としてくださるとする特殊な神仏であったりする。
(それなりにできた人間でも、謙譲の意を込めて阿弥陀仏にすがる場合などはある)
他者を貶めてでも自分ばかりが救われようとするような輩を救う邪神
なぞに帰依して、なおかつ自分もそれに即した悪逆非道をはたらいて行く
ともなれば、これはもはや人でなしの道、鬼畜道の地獄道であるといえる。
前者二つは人道としての条件を満たしているが、後一つはその条件を満たしていない。
それでいて、こうやって並べ立ててみれば、やはり人道の条件を満たしている道こそは
ごくごく当たり前な範囲の道である一方、条件を満たせていない人でなしの道は
といえば、これもまた見るからに許しがたい犯罪性を伴っていることが分かる。
だから、ちゃんと人としての正しいあり方というものを見据えられてすらいたなら、
好き好んで人でなしの道にはまるようなことも絶対にないのである。そもそも人としての
正しいあり方など見据えられてもいないような者こそは、人でなしの道にも陥るのである。
日本人も八割がた以上は、百姓や町人といった教養豊かとも行かない身分の出身であり、
決して高尚な精神文化などを自力で理解して実践することまではできないでいたわけだが、
それでも聖書信仰のような、人の道から決定的に外れた側面を持つ信教に対しては
本能的な忌避感を抱いて、99%以上の人間が本気の信仰対象などにはしないでいる。
それも、浄土信仰のような、人としての最低限のあり方を示した信仰文化の享受
などを通じて、教養ではなく本能の部分から、人道と非人道とを判別する能力が
育まれて来ているからで、大半の日本人は、自分たちではよく自覚もしない内から、
最低限の人としての道ぐらいは踏み外さないでいられるようになっているのである。
日本の隣りの韓国などは、儒学を儒教化して仏教と対立化させてしまったのと、
阿弥陀信仰よりも程度が高すぎる弥勒信仰などばかりを好んで享受してしまったせいで、
「最低限の人道」というものを判別する能力が人々に育まれることがなかった。結果、
朝鮮戦争で伝統文化を破壊されて後にはキリスト教が広く信仰されるようになり、
国家ぐるみで人でなしだらけの様相を呈してしまうことともなったのだった。
人道も、ちゃんと歩もうとすればそれなりに大変なものである。乱世にすら頑なに
真っ当な人道ばかりに居座ろうとしたなら、孔子の高弟の顔淵のような非業の末路
(清貧の無理が祟っての夭折)を辿ることにすらなってしまいかねない。だから、
完全真人道でもなければ非人道でもない、最低限の人道というもので難を逃れるという
のも一つの手である。それこそ、今みたいな「行動即犯罪」となる極度の乱世ともなれば、
最低限の人道あたりでしか、人道に落ち着いていることもできないのが実際の所である。
最低限の人道の指針を方便として示している親鸞聖人の悪人正機説なども、見るからに
不可解なものである。その不可解さが、人道がほとんど通用しない乱世にこそ活きて
来たりもするわけで、乱世には人道こそが変則的な様相を呈するということもある。
人としての正しいあり方など始めから解してもいないような致命傷級の愚人が、人でなし
の道こそを堂に入らせようとするからそうなってしまうわけで、そこでもそれなりの
人道家でいるためには、美観を損ねるぐらいの覚悟は必要だといえる。見てくればかり
が美しい非人道の偽善に惑わされることなく、素朴な真善を守って行くのである。
などを通じて、教養ではなく本能の部分から、人道と非人道とを判別する能力が
育まれて来ているからで、大半の日本人は、自分たちではよく自覚もしない内から、
最低限の人としての道ぐらいは踏み外さないでいられるようになっているのである。
日本の隣りの韓国などは、儒学を儒教化して仏教と対立化させてしまったのと、
阿弥陀信仰よりも程度が高すぎる弥勒信仰などばかりを好んで享受してしまったせいで、
「最低限の人道」というものを判別する能力が人々に育まれることがなかった。結果、
朝鮮戦争で伝統文化を破壊されて後にはキリスト教が広く信仰されるようになり、
国家ぐるみで人でなしだらけの様相を呈してしまうことともなったのだった。
人道も、ちゃんと歩もうとすればそれなりに大変なものである。乱世にすら頑なに
真っ当な人道ばかりに居座ろうとしたなら、孔子の高弟の顔淵のような非業の末路
(清貧の無理が祟っての夭折)を辿ることにすらなってしまいかねない。だから、
完全真人道でもなければ非人道でもない、最低限の人道というもので難を逃れるという
のも一つの手である。それこそ、今みたいな「行動即犯罪」となる極度の乱世ともなれば、
最低限の人道あたりでしか、人道に落ち着いていることもできないのが実際の所である。
最低限の人道の指針を方便として示している親鸞聖人の悪人正機説なども、見るからに
不可解なものである。その不可解さが、人道がほとんど通用しない乱世にこそ活きて
来たりもするわけで、乱世には人道こそが変則的な様相を呈するということもある。
人としての正しいあり方など始めから解してもいないような致命傷級の愚人が、人でなし
の道こそを堂に入らせようとするからそうなってしまうわけで、そこでもそれなりの
人道家でいるためには、美観を損ねるぐらいの覚悟は必要だといえる。見てくればかり
が美しい非人道の偽善に惑わされることなく、素朴な真善を守って行くのである。
「孔子、哀公に侍座す。哀公曰く、敢えて問う、人道は誰をか大と為さん。孔子、愀然と色を作して
対えて曰く、君の此の言に及べるや、百姓の徳なり。固に臣敢えて辞すること無くして対えん。人道は、
政を大と為す。公曰く、敢えて問う、何をか為政と謂わん。孔子、対えて曰く、政は正なり。君正しきを
為さば、則ち百姓も政に従わん。君の為す所は、百姓の従う所なり。君の為さざる所は、百姓何をか従わん」
「孔先生が魯の哀公に侍従していたとき、哀公が孔子に問うた。『人道のうちでは、何が至大であるといえる
だろうか』 孔先生は、思わず色めきだちながら答えられた。『主君がそのような発言に及ばれましたことは、
ただそれだけでも民にとって幸いこの上ないことです。(まず、人道の中でも特に尊重すべきものを模索する
姿勢を孔子は評価した。エホバの監視している道などはそもそも人道ですらないということもいえるが、
ただただ道を当分に眺めているだけとするその姿勢もまた評価するに値しないものである)あえて辞退すること
もなくお答えさせていただきます。人道の中では、まつりごとこそを至大とするのです』 哀公はまた問うた。
『そこでいうまつりごととは、どういったものであろうか』 孔先生は答えられた。『まつりごと(政)とは、その
字義からいって正すことを意味します。主君がもし正しいことをなされましたならば、百姓もまたそのまつりごと
に従いましょう。君の為されることこそは百姓の従うところ。君の為されぬことには一体、どうして百姓が従う
ようなことがありましょうか』(至大なる人道は、為政者としての正しき行いでこそある。これもまた、自らの
行いが悪逆非道の限りである犯罪聖書の神のあり方などとはその様相を真逆にするものだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・哀公問第二十七より)
対えて曰く、君の此の言に及べるや、百姓の徳なり。固に臣敢えて辞すること無くして対えん。人道は、
政を大と為す。公曰く、敢えて問う、何をか為政と謂わん。孔子、対えて曰く、政は正なり。君正しきを
為さば、則ち百姓も政に従わん。君の為す所は、百姓の従う所なり。君の為さざる所は、百姓何をか従わん」
「孔先生が魯の哀公に侍従していたとき、哀公が孔子に問うた。『人道のうちでは、何が至大であるといえる
だろうか』 孔先生は、思わず色めきだちながら答えられた。『主君がそのような発言に及ばれましたことは、
ただそれだけでも民にとって幸いこの上ないことです。(まず、人道の中でも特に尊重すべきものを模索する
姿勢を孔子は評価した。エホバの監視している道などはそもそも人道ですらないということもいえるが、
ただただ道を当分に眺めているだけとするその姿勢もまた評価するに値しないものである)あえて辞退すること
もなくお答えさせていただきます。人道の中では、まつりごとこそを至大とするのです』 哀公はまた問うた。
『そこでいうまつりごととは、どういったものであろうか』 孔先生は答えられた。『まつりごと(政)とは、その
字義からいって正すことを意味します。主君がもし正しいことをなされましたならば、百姓もまたそのまつりごと
に従いましょう。君の為されることこそは百姓の従うところ。君の為されぬことには一体、どうして百姓が従う
ようなことがありましょうか』(至大なる人道は、為政者としての正しき行いでこそある。これもまた、自らの
行いが悪逆非道の限りである犯罪聖書の神のあり方などとはその様相を真逆にするものだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・哀公問第二十七より)
日本神話上では物言う神として活躍するアマテラスやオオクニヌシといった神々が、
伊勢神宮や出雲大社などでは物言わぬままに祀られている。それでいて「神」だから死ぬこともないため、
墓のような辛気臭さも徹底して排した清浄の場としての神社にこそ祀られている。
正統な神が語りもしないで鎮座して居られることは、むしろ人々にとっての安心材料にすらなっている。
「触らぬ神に祟りなし」もとい「語らぬ神に祟りなし」であり、神が激情を以て口を開くような
ことを畏れるのが、むしろ人としての適切な神への姿勢になるのだといえる。
仏ともなれば、もはやその語る言葉が常人の理解を超えてしまっていたりするために、
聞いて怖い、聞かなくて安心などという段階にすらない。ただ、そこには人々を安寧へと導く
有難い意味が込められているには違いないわけだから、それを聞く以上はよく尊んで、
意味不明だからといって軽んじたりすることがないようにするのが得策だといえる。
意味も明瞭でいて、なおかつ恐ろしげでもないような言葉の一つが、儒説に代表される人道一辺倒の言葉である。
それこそ、「論語」における孔子の弟子たちへの諭しの言葉などがその最好例であり、
(五経中の孔子の言葉などは、もう少し専門的で分かりにくいものが多い)
その内容は時に辛口だったりもする一方で、弟子たちの将来を本気で慮る優しさにも満ちている。
意味もそれなりに平易でいて、なおかつ聞くものに麻薬的な陶酔をももたらすのが犯罪聖書の言葉であり、
信者をただただ優遇するような詐欺師然とした言葉遣いでいて、別に孔子が弟子たちを慮る時のような
本質的な優しさを湛えているわけでもない。その上っ面だけの甘ったるさがかえって聞くものの不安を煽り、
その不安を紛らわすためにさらに犯罪聖書の言葉に依存するといった、中毒性をもたらすようにもなっている。
伊勢神宮や出雲大社などでは物言わぬままに祀られている。それでいて「神」だから死ぬこともないため、
墓のような辛気臭さも徹底して排した清浄の場としての神社にこそ祀られている。
正統な神が語りもしないで鎮座して居られることは、むしろ人々にとっての安心材料にすらなっている。
「触らぬ神に祟りなし」もとい「語らぬ神に祟りなし」であり、神が激情を以て口を開くような
ことを畏れるのが、むしろ人としての適切な神への姿勢になるのだといえる。
仏ともなれば、もはやその語る言葉が常人の理解を超えてしまっていたりするために、
聞いて怖い、聞かなくて安心などという段階にすらない。ただ、そこには人々を安寧へと導く
有難い意味が込められているには違いないわけだから、それを聞く以上はよく尊んで、
意味不明だからといって軽んじたりすることがないようにするのが得策だといえる。
意味も明瞭でいて、なおかつ恐ろしげでもないような言葉の一つが、儒説に代表される人道一辺倒の言葉である。
それこそ、「論語」における孔子の弟子たちへの諭しの言葉などがその最好例であり、
(五経中の孔子の言葉などは、もう少し専門的で分かりにくいものが多い)
その内容は時に辛口だったりもする一方で、弟子たちの将来を本気で慮る優しさにも満ちている。
意味もそれなりに平易でいて、なおかつ聞くものに麻薬的な陶酔をももたらすのが犯罪聖書の言葉であり、
信者をただただ優遇するような詐欺師然とした言葉遣いでいて、別に孔子が弟子たちを慮る時のような
本質的な優しさを湛えているわけでもない。その上っ面だけの甘ったるさがかえって聞くものの不安を煽り、
その不安を紛らわすためにさらに犯罪聖書の言葉に依存するといった、中毒性をもたらすようにもなっている。
犯罪聖書の神などは全くの架空神であり、実際には古代のユダヤ人を名乗る政商犯が
自分たちの不満の捌け口として捏造した超越神に過ぎないわけだが、そのような発祥の不純さもまた、
犯罪聖書の言葉が人々の不安を煽る主な原因となっている。政商のような非道な活動に及んでいたからには、
本人たちもまた精神を病んで極度の不安状態に陥っていたに違いない。そしてその不安感が、犯罪聖書の言葉
にもそのまま落とし込まれているものだから、それを読む者もまた耐え難い不安感に苛まれることとなるのである。
人々の不安感を極度に煽る不埒な言葉が書物として残されたままでいて、
その語り手もすでに死んでこの世にない。これもまたさらなる不安感を上塗りする要因となっている。
必要もなく人々の不安を煽っておいて、そのままほったらかしという、迷惑極まりないならず者の妄動で
あったわけだが、すでに起こってしまっている以上は、適切な対処を施して行くようにもするしかない。
犯罪聖書の神など始めからいなかったということ、犯罪聖書中の言葉などは全て重度累犯障害者の妄言であり、
だからこそ人々の不安を極度に煽った上での特別待遇みたいな内容でもある。それは精神衛生上も教育上も
決してよろしくない代物であるのだから、その嗜好的な享受を元から断って行くようにしなければならない。
受容しておいてから救いを求めるようなことから止めて行くようにしなければならぬと、固く戒めて行く必要がある。
罵詈雑言が有害性を伴うということは、すでに衆知なこととなっているけれども、
甘ったるい言葉の中にこそ不安感を煽るような有害性が秘められている場合があるということは
まだまだ認知が行き届いてはいない。人生、そうそうにうまく行くもんじゃないのに、
何もかもがうまく行くなどとほざくものがいる、そんな言葉には確かに裏があったりするわけで、
むしろ不安感を抱かされたりするほうが自然な反応であるのだと考えるべきである。
そのような言葉によって人々が不安を煽られたりすること自体、
公共性に即して有害であると断定していいのである。
自分たちの不満の捌け口として捏造した超越神に過ぎないわけだが、そのような発祥の不純さもまた、
犯罪聖書の言葉が人々の不安を煽る主な原因となっている。政商のような非道な活動に及んでいたからには、
本人たちもまた精神を病んで極度の不安状態に陥っていたに違いない。そしてその不安感が、犯罪聖書の言葉
にもそのまま落とし込まれているものだから、それを読む者もまた耐え難い不安感に苛まれることとなるのである。
人々の不安感を極度に煽る不埒な言葉が書物として残されたままでいて、
その語り手もすでに死んでこの世にない。これもまたさらなる不安感を上塗りする要因となっている。
必要もなく人々の不安を煽っておいて、そのままほったらかしという、迷惑極まりないならず者の妄動で
あったわけだが、すでに起こってしまっている以上は、適切な対処を施して行くようにもするしかない。
犯罪聖書の神など始めからいなかったということ、犯罪聖書中の言葉などは全て重度累犯障害者の妄言であり、
だからこそ人々の不安を極度に煽った上での特別待遇みたいな内容でもある。それは精神衛生上も教育上も
決してよろしくない代物であるのだから、その嗜好的な享受を元から断って行くようにしなければならない。
受容しておいてから救いを求めるようなことから止めて行くようにしなければならぬと、固く戒めて行く必要がある。
罵詈雑言が有害性を伴うということは、すでに衆知なこととなっているけれども、
甘ったるい言葉の中にこそ不安感を煽るような有害性が秘められている場合があるということは
まだまだ認知が行き届いてはいない。人生、そうそうにうまく行くもんじゃないのに、
何もかもがうまく行くなどとほざくものがいる、そんな言葉には確かに裏があったりするわけで、
むしろ不安感を抱かされたりするほうが自然な反応であるのだと考えるべきである。
そのような言葉によって人々が不安を煽られたりすること自体、
公共性に即して有害であると断定していいのである。
「仁言は、仁声の人に深く入るには如かざるなり。善政は、善教の民を得るに如かざるなり。
善政は民、之れを畏れ、善教は、民之れを愛す。善政は民の財を得、善教は民の心を得」
「為政者が仁なる言葉を触れ回る以上にも、人々が自然と善なる言葉を発するようになったほうが
なおのことよい。為政者が頭ごなしな善政を敷く以上にも、善い教えを自主的に学んだ民たちが
いてくれるほうがなおのことよい。善政は民に畏怖を抱かせる一方、善教の教化は民たちがこれを
愛慕するようになるものである。善政は民の税の滞納などを防ぐために財貨を徴収しやすいなどの
利点がありはするが、善教による教化はそれ以上にも民たちの心を得ることができる。(採算を
度外視してでも、民たちの自主的な徳育こそを直接的な声かけなどよりも尊べというのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・一六より)
善政は民、之れを畏れ、善教は、民之れを愛す。善政は民の財を得、善教は民の心を得」
「為政者が仁なる言葉を触れ回る以上にも、人々が自然と善なる言葉を発するようになったほうが
なおのことよい。為政者が頭ごなしな善政を敷く以上にも、善い教えを自主的に学んだ民たちが
いてくれるほうがなおのことよい。善政は民に畏怖を抱かせる一方、善教の教化は民たちがこれを
愛慕するようになるものである。善政は民の税の滞納などを防ぐために財貨を徴収しやすいなどの
利点がありはするが、善教による教化はそれ以上にも民たちの心を得ることができる。(採算を
度外視してでも、民たちの自主的な徳育こそを直接的な声かけなどよりも尊べというのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・一六より)
天下に無二なる一大事ほど、個人的な思い立ちで取り掛かられるようなことがあってはならぬ。
準備が万端に整った上で、誰しもが心待ちにしていながら、なおのこと、その実行の責任者は
仕方なく重い腰を上げるぐらいの姿勢でなければ、大事に取り掛かる状況として相応しくない。
そこまで厳重の限りを尽くさずとも、下準備がちゃんとできてすらいればそうそうに失敗などが
起こり得るものではない。それでも実行にかけて、後手後手となるほどの慎重の限りを尽くして行く、
そういった姿勢こそが、大事を為しているのだということを示し出す意味を持ち合わせることとなる。
ただただ前に走り出す脚力では、黒人が最高で、次に白人、黄色人種は総合的には最低とされる。
それでいて、平均的な知能指数はこの逆の順位であり、安定した文明社会を築き上げて行ける能力
でもこの逆の順位となる。ただ前に進み出す能力以上にも、立ち止まったり、進退を使い分けたり
といった能力のほうが、人間にこそ特有の能力であり、ただただ前進する能力で人間を上回る動物は
無数にいる一方で、立ち止まってよく物事に注意を働かせる能力では人間こそがずば抜けている。
ただ立ち止まるだけでなく、一定の場所での駆け引きを講ずる能力でも人間こそは突出して優れている。
クマのような人間より遥かに力の強大な動物といえども、敵となる相手を見るや襲いかかるか、もしくは
敵わないとみて一目散に逃げ去るかのいずれかばかりであろうとする。動物には、勇気を持って物事に
取り掛かるという能力が欠けているものだから、前身か後退かのいずれかでしかいられないわけである。
むろん、勇気ばかりではなく、相手との間合いをよく計り知って、一足一刀の間合い付近での
警戒をこなすような高度な注意力があればこそ、敵に対峙し続けたからといって即座に致命傷を
負ったりすることもないのである。なおかつ、衝突寸前の間合いから声をかけるなり、伝令を
発するなどして、言葉での交渉に取り組むことすらできなくはないから、言葉ばかりでも争い
ばかりでもない文武両道によってこそ対立を処理して行くこともまたできるわけである。
準備が万端に整った上で、誰しもが心待ちにしていながら、なおのこと、その実行の責任者は
仕方なく重い腰を上げるぐらいの姿勢でなければ、大事に取り掛かる状況として相応しくない。
そこまで厳重の限りを尽くさずとも、下準備がちゃんとできてすらいればそうそうに失敗などが
起こり得るものではない。それでも実行にかけて、後手後手となるほどの慎重の限りを尽くして行く、
そういった姿勢こそが、大事を為しているのだということを示し出す意味を持ち合わせることとなる。
ただただ前に走り出す脚力では、黒人が最高で、次に白人、黄色人種は総合的には最低とされる。
それでいて、平均的な知能指数はこの逆の順位であり、安定した文明社会を築き上げて行ける能力
でもこの逆の順位となる。ただ前に進み出す能力以上にも、立ち止まったり、進退を使い分けたり
といった能力のほうが、人間にこそ特有の能力であり、ただただ前進する能力で人間を上回る動物は
無数にいる一方で、立ち止まってよく物事に注意を働かせる能力では人間こそがずば抜けている。
ただ立ち止まるだけでなく、一定の場所での駆け引きを講ずる能力でも人間こそは突出して優れている。
クマのような人間より遥かに力の強大な動物といえども、敵となる相手を見るや襲いかかるか、もしくは
敵わないとみて一目散に逃げ去るかのいずれかばかりであろうとする。動物には、勇気を持って物事に
取り掛かるという能力が欠けているものだから、前身か後退かのいずれかでしかいられないわけである。
むろん、勇気ばかりではなく、相手との間合いをよく計り知って、一足一刀の間合い付近での
警戒をこなすような高度な注意力があればこそ、敵に対峙し続けたからといって即座に致命傷を
負ったりすることもないのである。なおかつ、衝突寸前の間合いから声をかけるなり、伝令を
発するなどして、言葉での交渉に取り組むことすらできなくはないから、言葉ばかりでも争い
ばかりでもない文武両道によってこそ対立を処理して行くこともまたできるわけである。
そこに、「人間」という生き物の本髄があるとすらいえる。
ただただ相手に対して前進するのでも、後退するのでもなく、一定の間合いでの時間をかけた交渉に臨む、
そういったあり方こそが人を人たらしめているのであり、気に入った相手とだけ密着し合い、そうでない
相手とは極端な疎外状態でばかりあろうとするのでは、畜生とも何ら変わるところがないといえる。
他人との間合いをよく注意して、慎重深く物事に臨もうとする心持ちこそは、真人間の心持ちである一方、
何事にかけてもはやる気持ちを募らせてばかりしかいられない心持ちこそは、畜生の心持ちだといえる。
別に、前者がよくて後者が悪いようにも思われない、特に、子供のような感情の焼け付きこそは持て
囃されている現代においては、むしろ後者のような心持ちのほうがよさげにすら思われたりする
わけだけれども、残念ながら、本質的にそれは畜生とも何ら変わるところがないものなのである。
天下国家を自らの権能によって動かすして行く責務を負う君子などは、それこそ逸る気持ちなどを
徹底して抑制することのできる能力の持ち主でもなければならぬ。個人的にも公的にも、がっつこうと
するような不埒な意欲は排し去ることができるぐらいでなければ、意義ある帝業に与することもままならぬ。
そのあたり、商売人としての成功条件などとは位相を真逆にすらするところであり、商売人などとしての
成功を徹底して拒み通すような人間こそは、君子として大成する素養があったりする所以なのである。
「亢龍悔い有り。〜亢の言たるや、進むを知って退くを知らず。(一部既出)」
「亢龍の如きあり方は悔いばかりを残す結果となる。『亢』とは、ただ
積極的に進もうとするばかりで、退くことを知らぬことを意味する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾・上九‐文言伝より)
以下も参考までに。
「聖人は躊躇して以て事を興し、以て毎ごとに成功す。奈何ぞや其れ載とせん。矜に終わらんのみ」
「聖人は何事もためらいがちなままに為し、それでいていつも必ず成功させる。にもかかわらず、
どうしておまえは逸り立ってばかりいるのか。ただ思い上がりを募らせてるばかりではないか」
(荘子・雑篇・外物第二十六)
ただただ相手に対して前進するのでも、後退するのでもなく、一定の間合いでの時間をかけた交渉に臨む、
そういったあり方こそが人を人たらしめているのであり、気に入った相手とだけ密着し合い、そうでない
相手とは極端な疎外状態でばかりあろうとするのでは、畜生とも何ら変わるところがないといえる。
他人との間合いをよく注意して、慎重深く物事に臨もうとする心持ちこそは、真人間の心持ちである一方、
何事にかけてもはやる気持ちを募らせてばかりしかいられない心持ちこそは、畜生の心持ちだといえる。
別に、前者がよくて後者が悪いようにも思われない、特に、子供のような感情の焼け付きこそは持て
囃されている現代においては、むしろ後者のような心持ちのほうがよさげにすら思われたりする
わけだけれども、残念ながら、本質的にそれは畜生とも何ら変わるところがないものなのである。
天下国家を自らの権能によって動かすして行く責務を負う君子などは、それこそ逸る気持ちなどを
徹底して抑制することのできる能力の持ち主でもなければならぬ。個人的にも公的にも、がっつこうと
するような不埒な意欲は排し去ることができるぐらいでなければ、意義ある帝業に与することもままならぬ。
そのあたり、商売人としての成功条件などとは位相を真逆にすらするところであり、商売人などとしての
成功を徹底して拒み通すような人間こそは、君子として大成する素養があったりする所以なのである。
「亢龍悔い有り。〜亢の言たるや、進むを知って退くを知らず。(一部既出)」
「亢龍の如きあり方は悔いばかりを残す結果となる。『亢』とは、ただ
積極的に進もうとするばかりで、退くことを知らぬことを意味する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾・上九‐文言伝より)
以下も参考までに。
「聖人は躊躇して以て事を興し、以て毎ごとに成功す。奈何ぞや其れ載とせん。矜に終わらんのみ」
「聖人は何事もためらいがちなままに為し、それでいていつも必ず成功させる。にもかかわらず、
どうしておまえは逸り立ってばかりいるのか。ただ思い上がりを募らせてるばかりではないか」
(荘子・雑篇・外物第二十六)
子路が衛国の大夫である孔悝の荘園の行政官になっていたころ、衛国に父子の王位争いが起こった。子路はこのお家騒動にまきこまれて、殺された。子路の屍は細かく切りきざまれ、無惨にも《醢》にされた。それは使者によって孔子の食卓にまで届けられてきた。
以来、孔子は大好物の《醢》を食べるのをやめた。
これは『礼記』、『東周列国志』、『荘子』にも記されている。
>稼がないで食う飯はうめえなあ。
恥知らずの笠地蔵に親の庇護から解脱する気概はあるまいてwww
以来、孔子は大好物の《醢》を食べるのをやめた。
これは『礼記』、『東周列国志』、『荘子』にも記されている。
>稼がないで食う飯はうめえなあ。
恥知らずの笠地蔵に親の庇護から解脱する気概はあるまいてwww
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾
荘子は孔子のこともコテンパンになじってんだからさ、
何とかの両成敗ということで、な。(^ ^)
何とかの両成敗ということで、な。(^ ^)
道理は、「論語」の孔子の物言いほどにも平易に示すことができる一方で、
真理は、大乗仏典ほどにも難解な記述によってすら示しきれているとは言えない。
(小乗仏典の記述は平易で道理にも適っているが、真理そのものを
指し示した記録としては粗雑に過ぎるところがある)
犯罪聖書(新旧約)の言葉なんぞは、真理に背を向ける言葉ですらない。
儒学で取り扱うようなごくごく平易な世俗の道理にこそ決定的に反する邪義の集成
であり、もしも真理の裁きにかけられるとすれば、そこで道理に敗れ去るものである。
そこで真理はただの裁判官役として立ち回るのみであり、犯罪聖書の邪教などは
それに味方することも敵対することもできない。真理の公正な裁きによって
敗れ去って後もその結果に抗い続けるのなら、真理と道理両方を敵に回すことに
なるにしろ、それはもはや、背理ですらない無理を通そうとする暴挙となってしまう。
真理は、言葉では表せないぐらいに考えるのが賢明であり、自らが世俗での
活動者となるぐらいなら、真理などは敬遠して、当たり前な道理に適った範囲の言行
に務めて行くようにすべきである。そうともせずに、無理に世俗での真理の触れ回りなど
に及ぼうとしたなら、それが全く本物の真理に適わないままに終わるのはもちろんのこと、
単なる道理にすら決定的に反する邪義の触れ回りに終始してしまうことにすらなる。
真理は真理で、実際にあるわけで、それはそれで十全な尊重の対象として行くべきものだ。
ただ、それはどうしたって難解なものである。最高級に頭のいい人間が命の保証もない
ような厳しい修行研鑽を積み重ねた先に、やっと会得できるかできないかといったほどの
代物であり、決しておいそれとそれを分かった気などになるべきものでもないのである。
真理は、大乗仏典ほどにも難解な記述によってすら示しきれているとは言えない。
(小乗仏典の記述は平易で道理にも適っているが、真理そのものを
指し示した記録としては粗雑に過ぎるところがある)
犯罪聖書(新旧約)の言葉なんぞは、真理に背を向ける言葉ですらない。
儒学で取り扱うようなごくごく平易な世俗の道理にこそ決定的に反する邪義の集成
であり、もしも真理の裁きにかけられるとすれば、そこで道理に敗れ去るものである。
そこで真理はただの裁判官役として立ち回るのみであり、犯罪聖書の邪教などは
それに味方することも敵対することもできない。真理の公正な裁きによって
敗れ去って後もその結果に抗い続けるのなら、真理と道理両方を敵に回すことに
なるにしろ、それはもはや、背理ですらない無理を通そうとする暴挙となってしまう。
真理は、言葉では表せないぐらいに考えるのが賢明であり、自らが世俗での
活動者となるぐらいなら、真理などは敬遠して、当たり前な道理に適った範囲の言行
に務めて行くようにすべきである。そうともせずに、無理に世俗での真理の触れ回りなど
に及ぼうとしたなら、それが全く本物の真理に適わないままに終わるのはもちろんのこと、
単なる道理にすら決定的に反する邪義の触れ回りに終始してしまうことにすらなる。
真理は真理で、実際にあるわけで、それはそれで十全な尊重の対象として行くべきものだ。
ただ、それはどうしたって難解なものである。最高級に頭のいい人間が命の保証もない
ような厳しい修行研鑽を積み重ねた先に、やっと会得できるかできないかといったほどの
代物であり、決しておいそれとそれを分かった気などになるべきものでもないのである。
それでいて、その難解至極な真理に即して是認できる平易な道理というものもまたあって、
それこそは儒家の提示する仁義道徳であったりもする。こちらは分かった気になるまで
もなく、実際、頭で理解するぐらいは容易い程度の教えばかりであり、ただ理解するだけ
でなく、誠実な実践に移して行くことのほうがより重要とされるものである。だからこそ、
道理のほうもまた衒学での思い上がりの材料などにしているわけにはいかない。真理に
しろ道理にしろ、純正なものほどそれを驕り高ぶりの道具にしていいような余地が
どこにもないのであり、犯罪聖書におけるイエキリの妄動のような、思い上がり
まみれの所業の正当化材料にしていいような余地も一切ありはしないのである。
とはいえ、イエキリのごとき思い上がりまみれの活動姿勢というものが、大学研究者の
論文発表姿勢から作家の文芸発表姿勢、芸能人の演芸姿勢にいたるまで、方々で持て
囃されてしまっているのが今という時代の現状でもある。自分が言わんとする所が何で
あるかなど以前に、それほどにも思い上がりまみれのがっついた態度姿勢であるので
なければ相手にもされないといった悪習すらもがまかり通ってしまっている。これは
むしろ逆であるべきなのであり、そのような態度姿勢での活動を試みる輩こそは軒並み、
真理にも道理にも適わない邪曲を触れ回ろうとする者と見なして忌むべきなのである。
歴史上に名高い東洋古典なども、大学で正式に発表されたものなどよりは、聖賢が私的に
編纂したものが徐々に評価を上げていったようなものがほとんどとなっている。司馬遷の
「史記」のように、あえて著者の死後まで発表を見送ることでその記述の公正さを期した
大古典もまたあるわけで、それぐらい発表姿勢が貞節である書物なり活動なりの価値こそ
を今一度見直して行くべきなのだといえる。
それこそは儒家の提示する仁義道徳であったりもする。こちらは分かった気になるまで
もなく、実際、頭で理解するぐらいは容易い程度の教えばかりであり、ただ理解するだけ
でなく、誠実な実践に移して行くことのほうがより重要とされるものである。だからこそ、
道理のほうもまた衒学での思い上がりの材料などにしているわけにはいかない。真理に
しろ道理にしろ、純正なものほどそれを驕り高ぶりの道具にしていいような余地が
どこにもないのであり、犯罪聖書におけるイエキリの妄動のような、思い上がり
まみれの所業の正当化材料にしていいような余地も一切ありはしないのである。
とはいえ、イエキリのごとき思い上がりまみれの活動姿勢というものが、大学研究者の
論文発表姿勢から作家の文芸発表姿勢、芸能人の演芸姿勢にいたるまで、方々で持て
囃されてしまっているのが今という時代の現状でもある。自分が言わんとする所が何で
あるかなど以前に、それほどにも思い上がりまみれのがっついた態度姿勢であるので
なければ相手にもされないといった悪習すらもがまかり通ってしまっている。これは
むしろ逆であるべきなのであり、そのような態度姿勢での活動を試みる輩こそは軒並み、
真理にも道理にも適わない邪曲を触れ回ろうとする者と見なして忌むべきなのである。
歴史上に名高い東洋古典なども、大学で正式に発表されたものなどよりは、聖賢が私的に
編纂したものが徐々に評価を上げていったようなものがほとんどとなっている。司馬遷の
「史記」のように、あえて著者の死後まで発表を見送ることでその記述の公正さを期した
大古典もまたあるわけで、それぐらい発表姿勢が貞節である書物なり活動なりの価値こそ
を今一度見直して行くべきなのだといえる。
「詩に曰く、予れ明徳を懐い、声と色とを大にせずと。子曰く、声色を之れ以って民を化するは末なりと。
詩に曰く、徳の輶きこと毛の如しと。毛猶お倫有り。上天の載は声も無く臭いも無し。至れるかな」
「詩経(大雅・皇矣)に『私はただひたすら明徳を思って、声や顔色を尊大にするようなことは控える』とある。
孔先生はこれを評して『声や顔色によって民を化育するのは、ごくごく瑣末なことに過ぎない』と言われた。
また詩経(大雅・烝民)に『徳は毛筋のように軽やか(で実践しようと思えばいつでも実践できるものである)』
ともある。毛筋ほどのところにすら実践すべき倫理というものがある(のだから、声を荒げて人々にそれを
説いたりするのは、辟易によって実践を滞らせる原因にすらなりかねない)。上天は声もなく臭いもないままで、
ありのままに真理でもある(大雅・文王)。そのようであることこそは至上といえるのではなかろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・三三より)
詩に曰く、徳の輶きこと毛の如しと。毛猶お倫有り。上天の載は声も無く臭いも無し。至れるかな」
「詩経(大雅・皇矣)に『私はただひたすら明徳を思って、声や顔色を尊大にするようなことは控える』とある。
孔先生はこれを評して『声や顔色によって民を化育するのは、ごくごく瑣末なことに過ぎない』と言われた。
また詩経(大雅・烝民)に『徳は毛筋のように軽やか(で実践しようと思えばいつでも実践できるものである)』
ともある。毛筋ほどのところにすら実践すべき倫理というものがある(のだから、声を荒げて人々にそれを
説いたりするのは、辟易によって実践を滞らせる原因にすらなりかねない)。上天は声もなく臭いもないままで、
ありのままに真理でもある(大雅・文王)。そのようであることこそは至上といえるのではなかろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・三三より)
人間社会ってのは、誰かが努力したぶんだけ成り立つもの。
飲む食う遊ぶ、それらの材料となる諸々の事物を汗水たらして
生産している人間がいればこそ、それを享受して行くこともできる。
だから、生産者の側の身になってものを考えることこそは道徳的ともなる一方、
消費者の側からしかものを考えないことは反道徳的なあり方ともなる。
士大夫や仏僧が直接生産活動に従事するわけでもないが、政治や布教活動を通じて
生産事業を教導する場合もあるし、実際に治水や灌漑のような、潤沢な生産の
ための下準備となる事業を推進したりもする。そして、そのようなあり方を心がけて
行くことこそは儒学や大乗仏教における本分ともされ、そのための心の持ちよう
こそが儒説や仏説として膨大な分量にわたって構築されてきているのでもある。
(大乗仏教ではそれこそを「悟りに到るための菩薩業の一環」ともしている)
かろうじて「礼記」の王制第五などに、「治世が大成功して飢え渇くような
民が一人もいなくなった時には、主君が日日の宴食に舞楽を呼んで祝えばよい」
といったような記述がある。それこそ、誰にも文句の付けようのない飲めや歌えやの
姿であるし、実際に平安時代の最隆盛期の日本の朝廷などは、このような記述にも
則った歌舞宴楽を楽しんでいたりしたわけだけれども。当然、ブラックアフリカの
キリスト教国などで膨大な数の餓死者が発生してしまっている今の世界において、
世界の支配者に相当するような権能の持ち主が、飲めや歌えやのお楽しみ状態でいても
構わないなどとする記述には全くなっていないのもまた、見るに明らかなことである。
飲む食う遊ぶ、それらの材料となる諸々の事物を汗水たらして
生産している人間がいればこそ、それを享受して行くこともできる。
だから、生産者の側の身になってものを考えることこそは道徳的ともなる一方、
消費者の側からしかものを考えないことは反道徳的なあり方ともなる。
士大夫や仏僧が直接生産活動に従事するわけでもないが、政治や布教活動を通じて
生産事業を教導する場合もあるし、実際に治水や灌漑のような、潤沢な生産の
ための下準備となる事業を推進したりもする。そして、そのようなあり方を心がけて
行くことこそは儒学や大乗仏教における本分ともされ、そのための心の持ちよう
こそが儒説や仏説として膨大な分量にわたって構築されてきているのでもある。
(大乗仏教ではそれこそを「悟りに到るための菩薩業の一環」ともしている)
かろうじて「礼記」の王制第五などに、「治世が大成功して飢え渇くような
民が一人もいなくなった時には、主君が日日の宴食に舞楽を呼んで祝えばよい」
といったような記述がある。それこそ、誰にも文句の付けようのない飲めや歌えやの
姿であるし、実際に平安時代の最隆盛期の日本の朝廷などは、このような記述にも
則った歌舞宴楽を楽しんでいたりしたわけだけれども。当然、ブラックアフリカの
キリスト教国などで膨大な数の餓死者が発生してしまっている今の世界において、
世界の支配者に相当するような権能の持ち主が、飲めや歌えやのお楽しみ状態でいても
構わないなどとする記述には全くなっていないのもまた、見るに明らかなことである。
ただひたすら世のため人のため自分のための菩薩業や仁政に邁進して行くことと、
それが十二分に成功している場合に限って自らもまた富貴を謳歌することまでが、
然るべき人のあり方を指し示した理念として是認するに足るものである一方、
ただひたすら自分が幸福でいられればそれでいいなどというのは、まったく理想
として扱うべき心持ちであるとはいえない。全くなってない人間の残念な性分として、
ただただ自分が幸福でいたいというような思いもまたあるにしたって、それが人間
社会において理想として扱っていいようなものではないこともまた確かなことである。
ただただ自分が幸福でいたいのが庶民の一般的な性分であるというのなら、
そもそも庶民の思いなどを尊重すべきでもないのである。>>240で孟子も示したような、
教化が行き届いて民までもが自主的に仁徳を重んじているような世の中ともなれば、
自利ばかりを専らにしなくなった民たちの思いすらをも尊重して行くようにすべきだが、
愚民化のせいで自利以外に何も考えられなくなってしまっていたりするようならば、
あえてそのような民たちの意向に反することもまた時に必要となるに違いない。
自利以上の利他を志して行くことを、愚民だらけの世の中にこそ押し広めるならば、
それこそ、まず民にそのような姿勢を強制したりするのでは、決してうまくいくこと
もあるまい。まずは為政者や指導者たるものこそが率先して仁者としてのあり方を
実践して、次いで民たちにもそのあり方を見習わせて行くようにする。なかなか志し
がたい善行を社会規模で広めて行くためにこそ、民主的ともいえないような手順を
踏んでいく必要があったりするわけだから、ただただ欲望芬芬たる愚民の要望ばかりを
聞き入れて行く民主制というものの問題性もまた考えて行くようにしなければならない。
それが十二分に成功している場合に限って自らもまた富貴を謳歌することまでが、
然るべき人のあり方を指し示した理念として是認するに足るものである一方、
ただひたすら自分が幸福でいられればそれでいいなどというのは、まったく理想
として扱うべき心持ちであるとはいえない。全くなってない人間の残念な性分として、
ただただ自分が幸福でいたいというような思いもまたあるにしたって、それが人間
社会において理想として扱っていいようなものではないこともまた確かなことである。
ただただ自分が幸福でいたいのが庶民の一般的な性分であるというのなら、
そもそも庶民の思いなどを尊重すべきでもないのである。>>240で孟子も示したような、
教化が行き届いて民までもが自主的に仁徳を重んじているような世の中ともなれば、
自利ばかりを専らにしなくなった民たちの思いすらをも尊重して行くようにすべきだが、
愚民化のせいで自利以外に何も考えられなくなってしまっていたりするようならば、
あえてそのような民たちの意向に反することもまた時に必要となるに違いない。
自利以上の利他を志して行くことを、愚民だらけの世の中にこそ押し広めるならば、
それこそ、まず民にそのような姿勢を強制したりするのでは、決してうまくいくこと
もあるまい。まずは為政者や指導者たるものこそが率先して仁者としてのあり方を
実践して、次いで民たちにもそのあり方を見習わせて行くようにする。なかなか志し
がたい善行を社会規模で広めて行くためにこそ、民主的ともいえないような手順を
踏んでいく必要があったりするわけだから、ただただ欲望芬芬たる愚民の要望ばかりを
聞き入れて行く民主制というものの問題性もまた考えて行くようにしなければならない。
「君子は遠慮有るも、小人は邇きに従う。飢寒も之れ恤えずして、誰をか其れ後に遑あらん」
「君子には遠い将来に到るまでの配慮があるが、小人は目先のことばかりに囚われたがる。
飢渇や凍えへの心配すら疎かにするようでいて、どうして後々のことを慮る余裕などがあろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十九年より)
上の引用とは志しを反しているような寓話ではあるが、
「死生存亡、窮達貧富、賢不肖、毀誉、飢渇、寒暑は、是れ事の変にして、命の行なり。
日夜前に相代わるも、知も其の始めを規うこと能わざる者なり。故に以て和を滑すに足らず、
霊府に入る可からず。之れをして和豫せしめ、通じて兌びを失わず、日夜をして郤無からしめ、
物と与に春を為す。是れ接ぎて時を心に生ずる者なり。是れを之れ才の全しと謂う」
「生死存亡、栄枯盛衰、貧富、賢不賢、毀誉褒貶、飢渇寒暑といったものは、すべて事の
移り変わりというものであり、天命の為す所である。日夜ことごとに変わり果てるもので、
誰もその発端を予測することもできやしない。故に姑息な猿知恵などによってその変化による
調和を乱すこともではしない。人間の分際でそのような問題を交渉に考え込むべきでもなく、
先天的な調和として許容し、一貫して喜びを失うことなく、日夜その境地にわが身を置いて、
万物と青春を共にして行く心持ちでいよ。これこそは心を時に一致させた境地で
あるといえ、人としての才分が全うされた姿であるともいえるのだ」
(「荘子」内篇・徳充符第五・四より)
将来の飢渇を憂う賢しらでいるか、もしくは飢渇自体を受け入れる大らかさでいよというのが
諸子百家の総論だ。飢渇を根絶して安心しきってしまおうなどという怠慢だけはダメだってんだ。
「君子には遠い将来に到るまでの配慮があるが、小人は目先のことばかりに囚われたがる。
飢渇や凍えへの心配すら疎かにするようでいて、どうして後々のことを慮る余裕などがあろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十九年より)
上の引用とは志しを反しているような寓話ではあるが、
「死生存亡、窮達貧富、賢不肖、毀誉、飢渇、寒暑は、是れ事の変にして、命の行なり。
日夜前に相代わるも、知も其の始めを規うこと能わざる者なり。故に以て和を滑すに足らず、
霊府に入る可からず。之れをして和豫せしめ、通じて兌びを失わず、日夜をして郤無からしめ、
物と与に春を為す。是れ接ぎて時を心に生ずる者なり。是れを之れ才の全しと謂う」
「生死存亡、栄枯盛衰、貧富、賢不賢、毀誉褒貶、飢渇寒暑といったものは、すべて事の
移り変わりというものであり、天命の為す所である。日夜ことごとに変わり果てるもので、
誰もその発端を予測することもできやしない。故に姑息な猿知恵などによってその変化による
調和を乱すこともではしない。人間の分際でそのような問題を交渉に考え込むべきでもなく、
先天的な調和として許容し、一貫して喜びを失うことなく、日夜その境地にわが身を置いて、
万物と青春を共にして行く心持ちでいよ。これこそは心を時に一致させた境地で
あるといえ、人としての才分が全うされた姿であるともいえるのだ」
(「荘子」内篇・徳充符第五・四より)
将来の飢渇を憂う賢しらでいるか、もしくは飢渇自体を受け入れる大らかさでいよというのが
諸子百家の総論だ。飢渇を根絶して安心しきってしまおうなどという怠慢だけはダメだってんだ。
「棖や慾なり。焉んぞ剛なることを得ん(既出)」
「申棖には欲がある。どうして頑強といえよう。(欲があることは軟弱なことである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一一より)
「願い欲しすら叶えられる」という発想が
卑しまれるべき悪徳の範疇であるとする根拠には、おおよそ三つある。
①.欲したがるような財富にも限りがあり、自分ばかりが独占すべきではないから。
②.やたらと欲したがるということ自体が自らの軟弱さの発露であるが故に恥となるから。
③.欲望にまみれている状態の劣情が自業自得で自らを苦悩に陥れるから。
儒家は①と②の理由で際限のない欲望を戒めるし、
仏門や道家は③の理由で欲望を戒める。
①は共産主義、③はさほど上等ともいえないような異端宗教などでも問題視されることであり、
そのような粗悪な思想信条に基づいて被支配者や信者が寡欲に務めた結果、寡欲によって
溜め込まれた財富の集約元としての支配者なり教祖なりを肥え太らせるようなことにも
なってしまいかねない。そしてそれが資本主義者のような、際限のない欲望を大いに
是とする人種にとっての、制欲を非とする根拠とされるようにもなってしまう。
本当は、①や③のような根拠に即して人々を扇動した結果、自分たち自身が暴利を
巻き上げようとするような異端の思想家なり宗教家なりがいなければそれに越したことが
ないわけだが、残念ながら存在する。そのため、制欲を推奨する根拠として決して
間違っているわけでもない①や③のような根拠までもが眉唾物と化してしまう。そのため、
ここは一つ②の根拠に即して、欲望を十分に抑制できている者こそを「剛者」として
尊び、欲望まみれの人間を「軟弱者」として卑しむことに務めて行くべきだといえる。
「申棖には欲がある。どうして頑強といえよう。(欲があることは軟弱なことである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一一より)
「願い欲しすら叶えられる」という発想が
卑しまれるべき悪徳の範疇であるとする根拠には、おおよそ三つある。
①.欲したがるような財富にも限りがあり、自分ばかりが独占すべきではないから。
②.やたらと欲したがるということ自体が自らの軟弱さの発露であるが故に恥となるから。
③.欲望にまみれている状態の劣情が自業自得で自らを苦悩に陥れるから。
儒家は①と②の理由で際限のない欲望を戒めるし、
仏門や道家は③の理由で欲望を戒める。
①は共産主義、③はさほど上等ともいえないような異端宗教などでも問題視されることであり、
そのような粗悪な思想信条に基づいて被支配者や信者が寡欲に務めた結果、寡欲によって
溜め込まれた財富の集約元としての支配者なり教祖なりを肥え太らせるようなことにも
なってしまいかねない。そしてそれが資本主義者のような、際限のない欲望を大いに
是とする人種にとっての、制欲を非とする根拠とされるようにもなってしまう。
本当は、①や③のような根拠に即して人々を扇動した結果、自分たち自身が暴利を
巻き上げようとするような異端の思想家なり宗教家なりがいなければそれに越したことが
ないわけだが、残念ながら存在する。そのため、制欲を推奨する根拠として決して
間違っているわけでもない①や③のような根拠までもが眉唾物と化してしまう。そのため、
ここは一つ②の根拠に即して、欲望を十分に抑制できている者こそを「剛者」として
尊び、欲望まみれの人間を「軟弱者」として卑しむことに務めて行くべきだといえる。
聖人や賢人だから尊ぶという以前に、男らしい剛者だからこそ尊ぶのである。
「剛毅木訥は仁に近し(子路第十三・二七)」とある通り、そのような意味で剛毅である
人間は確かに仁者たり得もするのであり、仁者たることは社会的強者たる上での確かな
糧ともなるのだから、そのような人間こそを大丈夫として尊ぶことは、見せ掛けばかりの
男らしさなどではない、真の男らしさの持ち主こそを尊ぶことにも繋がるのである。
男に随順するような貞節さもないところでは、どこまでも欲望を肥大化させるのが女であるし、
親などからの躾がなっていないほど、何でも買ってもらいたがるのが子供の性分でもある。
そして女子供は大人の男よりも弱い。女子供の軟弱さこそは確かに際限のない欲望とも親しい。
女子供とはまた別の、大人の男ならではの偉大なる性分としての剛毅なる制欲を尊ぶ、
宗教的な聖賢の領域にあるわけですらない、そういった志向性こそを大切にして行くべきである。
「君子は多くの人に上たることを欲せず」
「立派な人間は、多くの人間の上に立つことを欲したりはしない。
(封建制は当然序列志向だが、支配者である君子階級同士でも厳格な序列があり、
庶民の直接的な支配などは専ら下っ端の役人あたりが務める。中士上士から王侯に到るまで、
自分自身が直接上位に立つような相手は限られることとなり、あまりにも身分の違いすぎる
者同士などはお目通りから制限されるようになる。だから、犯罪聖書の神のような、誰も彼も
の上に立って直接その願いを叶えてやろうとするようなあり方からして是とすることがない。
犯罪聖書の神は、君子が願い欲さぬようなあり方を自分自身が帯びているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・桓公五年より)
「剛毅木訥は仁に近し(子路第十三・二七)」とある通り、そのような意味で剛毅である
人間は確かに仁者たり得もするのであり、仁者たることは社会的強者たる上での確かな
糧ともなるのだから、そのような人間こそを大丈夫として尊ぶことは、見せ掛けばかりの
男らしさなどではない、真の男らしさの持ち主こそを尊ぶことにも繋がるのである。
男に随順するような貞節さもないところでは、どこまでも欲望を肥大化させるのが女であるし、
親などからの躾がなっていないほど、何でも買ってもらいたがるのが子供の性分でもある。
そして女子供は大人の男よりも弱い。女子供の軟弱さこそは確かに際限のない欲望とも親しい。
女子供とはまた別の、大人の男ならではの偉大なる性分としての剛毅なる制欲を尊ぶ、
宗教的な聖賢の領域にあるわけですらない、そういった志向性こそを大切にして行くべきである。
「君子は多くの人に上たることを欲せず」
「立派な人間は、多くの人間の上に立つことを欲したりはしない。
(封建制は当然序列志向だが、支配者である君子階級同士でも厳格な序列があり、
庶民の直接的な支配などは専ら下っ端の役人あたりが務める。中士上士から王侯に到るまで、
自分自身が直接上位に立つような相手は限られることとなり、あまりにも身分の違いすぎる
者同士などはお目通りから制限されるようになる。だから、犯罪聖書の神のような、誰も彼も
の上に立って直接その願いを叶えてやろうとするようなあり方からして是とすることがない。
犯罪聖書の神は、君子が願い欲さぬようなあり方を自分自身が帯びているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・桓公五年より)
春秋戦国時代に、なんでもありな鶏鳴狗盗の働きによってスポンサーに奉仕する数多の食客が暗躍していたことは、
「史記」などの正確な歴史記録からも伺えることである。それは、孟嘗君や春申君や平原君や呂不韋といった、
乱世のどさくさに紛れて膨大な富を占有していた権力者らがパトロンとなればこそ可能とされていたことであり、
いわば、暴政によって深刻な疲弊に晒されていた民たちの犠牲の上にこそ成り立つものであった。
だからこそ、乱世の最たる被害者である百姓の出身だった劉邦も、なんでもありな食客を利用することは極力控えた。
漢王だった頃に、有能な人材を徴発するために拵えた面会所も「招賢館」と名付け、一芸に秀でてすらいれば
それでよしとするような食客制=一領具足的姿勢はあえて遠ざけた。その招賢館での募集を通じて漢軍方の説客となり、
楚軍との偽りの和睦の締結で功を成した候公という人物に対しても、「平国君」といういかにも善良じみた
号と共に万戸公としての身分を授け、「それなりの責任を持って為政に励め」ということを暗に喚起した。
(結局、候公はその重圧に耐えきれずに逐電した)
すでに歴史上に名高い名臣や名将としてその評価が定着している陳平や韓信のような人物も、最初劉邦は、
その素行に不審な点があることや、実際に一時期食客身分でもあったことなどを理由に登用を渋った。
その上で、張良や蕭可のような古馴染みの臣下からの説得を受けるなどして、やっと受け入れるに至った。
そして登用するや、最側近の寵臣や大将軍として、既存の部下たちが羨むほどの重用をも果たしたわけだが、
これもまた、「決して食客のごとき死兵要員として扱ったりするつもりはない」という意思表示になっていた。
「史記」などの正確な歴史記録からも伺えることである。それは、孟嘗君や春申君や平原君や呂不韋といった、
乱世のどさくさに紛れて膨大な富を占有していた権力者らがパトロンとなればこそ可能とされていたことであり、
いわば、暴政によって深刻な疲弊に晒されていた民たちの犠牲の上にこそ成り立つものであった。
だからこそ、乱世の最たる被害者である百姓の出身だった劉邦も、なんでもありな食客を利用することは極力控えた。
漢王だった頃に、有能な人材を徴発するために拵えた面会所も「招賢館」と名付け、一芸に秀でてすらいれば
それでよしとするような食客制=一領具足的姿勢はあえて遠ざけた。その招賢館での募集を通じて漢軍方の説客となり、
楚軍との偽りの和睦の締結で功を成した候公という人物に対しても、「平国君」といういかにも善良じみた
号と共に万戸公としての身分を授け、「それなりの責任を持って為政に励め」ということを暗に喚起した。
(結局、候公はその重圧に耐えきれずに逐電した)
すでに歴史上に名高い名臣や名将としてその評価が定着している陳平や韓信のような人物も、最初劉邦は、
その素行に不審な点があることや、実際に一時期食客身分でもあったことなどを理由に登用を渋った。
その上で、張良や蕭可のような古馴染みの臣下からの説得を受けるなどして、やっと受け入れるに至った。
そして登用するや、最側近の寵臣や大将軍として、既存の部下たちが羨むほどの重用をも果たしたわけだが、
これもまた、「決して食客のごとき死兵要員として扱ったりするつもりはない」という意思表示になっていた。
田畑の作物に付きっきりで居させられる百姓の仕事は、ただそれだけでも不自由の極みとなる。
いわば、「なんでもなし」でいてこそ百姓はその職分を全うするのであり、なんでもありのやりたい放題で
パトロンに奉仕する食客のあり方などとはその様相を真逆にする。無論、そのような鈍重なあり方に嫌悪感を示した
百姓のどら息子なぞが、反動で食客身分を目指したりすることもなくはなかっただろうにしろ(秀吉の出世姿勢などもそれに近い)、
少なくとも劉邦は、そのような気概によって百姓からの出世を志したのではなかった。むしろ、無責任な
遊興三昧の末子であった自分を見下していた親兄弟を正しく見返してやるためにこそ出世を志しもしたわけで、
その望みを叶えるためには当然、食客としての死兵ばたらきなどで我が身を軽んずるわけにもいかなかった。
むしろ、親兄弟を上皇や親王として厚遇できるぐらいの磐石な成功が必要だったわけで、その栄達も子々孫々の後世にまで
至らないよりは至るほうがよかったから、悪辣な食客の多用などで世を新たな乱脈に陥れるわけにもいかなかった。
そういった堅実な見通しと共に出世を志したからこそ、劉邦も自分が食客になったりしないのはもちろんのこと、
財ある権力者の側から食客を死兵として濫用するような真似にも及ばなかった(そのぶん正規の臣下に対する
羽振りはよかった)。要するに、百姓特有の「なんでもなし」でいようとする性向を持ち越したままでの出世を
志したからこそ、劉邦も食客の蠢動を排した長期の治世の礎となることができたのだった。
同じ百姓の出身であっても、豊臣秀吉なぞは、百姓本来の性分を完全に捨て去っての「なんでもあり」な
志向性での出世を志したものだから、自らの死後に至るまで(素行の不良な配下などの)乱世の火種を持ち越した。
だからこそ、徳川による妻子の放伐すらをも被らざるを得なかったわけで、そこには確かな秀吉自身の落ち度があったのである。
いわば、「なんでもなし」でいてこそ百姓はその職分を全うするのであり、なんでもありのやりたい放題で
パトロンに奉仕する食客のあり方などとはその様相を真逆にする。無論、そのような鈍重なあり方に嫌悪感を示した
百姓のどら息子なぞが、反動で食客身分を目指したりすることもなくはなかっただろうにしろ(秀吉の出世姿勢などもそれに近い)、
少なくとも劉邦は、そのような気概によって百姓からの出世を志したのではなかった。むしろ、無責任な
遊興三昧の末子であった自分を見下していた親兄弟を正しく見返してやるためにこそ出世を志しもしたわけで、
その望みを叶えるためには当然、食客としての死兵ばたらきなどで我が身を軽んずるわけにもいかなかった。
むしろ、親兄弟を上皇や親王として厚遇できるぐらいの磐石な成功が必要だったわけで、その栄達も子々孫々の後世にまで
至らないよりは至るほうがよかったから、悪辣な食客の多用などで世を新たな乱脈に陥れるわけにもいかなかった。
そういった堅実な見通しと共に出世を志したからこそ、劉邦も自分が食客になったりしないのはもちろんのこと、
財ある権力者の側から食客を死兵として濫用するような真似にも及ばなかった(そのぶん正規の臣下に対する
羽振りはよかった)。要するに、百姓特有の「なんでもなし」でいようとする性向を持ち越したままでの出世を
志したからこそ、劉邦も食客の蠢動を排した長期の治世の礎となることができたのだった。
同じ百姓の出身であっても、豊臣秀吉なぞは、百姓本来の性分を完全に捨て去っての「なんでもあり」な
志向性での出世を志したものだから、自らの死後に至るまで(素行の不良な配下などの)乱世の火種を持ち越した。
だからこそ、徳川による妻子の放伐すらをも被らざるを得なかったわけで、そこには確かな秀吉自身の落ち度があったのである。
食客の多用などに基づく「なんでもあり」の魔性などに囚われなかったか否かが、漢の劉家と豊臣家との命運を決定的に分かちもした。
方や中国史上最良の帝国の礎となり、方や日本近世史上最極端な栄枯盛衰の道化となった。
「なんでもあり」の魔性などに囚われないことが、天下を統べる帝王にとってこそ必須な要素である如実な証拠となっている。
「日びに其の亡き所を知り、月づきに其の能くする所を忘るる無し、学を好むと謂うべきのみ。
(ここまで既出)博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う、仁其の中に在り」
「常日ごろからまだ自分に足りてないものを知ろうとし、月ごとにできるようになったことをおさらいして忘れないようにする、
それでこそ学問を好む姿だといえる。多くのことを広く学んでなおのこと学問を篤く志し、込み入った所まで問いたずねて
身近な所にまで考察を働かせる、そういった所に仁徳もまたあるのである。(万能感は仁徳に反するのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・五‐六より)
方や中国史上最良の帝国の礎となり、方や日本近世史上最極端な栄枯盛衰の道化となった。
「なんでもあり」の魔性などに囚われないことが、天下を統べる帝王にとってこそ必須な要素である如実な証拠となっている。
「日びに其の亡き所を知り、月づきに其の能くする所を忘るる無し、学を好むと謂うべきのみ。
(ここまで既出)博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う、仁其の中に在り」
「常日ごろからまだ自分に足りてないものを知ろうとし、月ごとにできるようになったことをおさらいして忘れないようにする、
それでこそ学問を好む姿だといえる。多くのことを広く学んでなおのこと学問を篤く志し、込み入った所まで問いたずねて
身近な所にまで考察を働かせる、そういった所に仁徳もまたあるのである。(万能感は仁徳に反するのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・五‐六より)
念仏信仰で観想される金銀財宝だらけの極楽浄土だとか、
それ以上にも卑猥な描写のあるイスラムの天国描写だとかを、
聖書信者こそが「低俗なもの」として撥ね付けている。その聖書信者が
希求の対象としている天国はといえば、たとえばダンテの「神曲」天国篇などで
一応描写されてはいるものの、いたって抽象的で淡白な描写ばかりに限られていて、
聖書信者にこそ特有の天国観というものを如実化しているなどとはとうてい言いがたい。
実際の所、聖書信者には、自分たち特有の天国観というものはない。
せいぜい「飲み食いに困るようなこともない」という程度の想像があるだけで、
それは現実社会における仁政などによってもそれなりに実現が可能なものである。
「永遠の命を手に入れる」といったところで、永遠の命と共にどのような天国での
生活が待っているかなどを具体的に示しているわけでもない。永遠の命があった所で、
それで地獄の責め苦に苛まれ続けるのなら、かえって死んだほうがマシというものだろうに、
「永遠の命が手に入る」というだけの所で望みが天井打ちになってしまっているのである。
どのような天国を希求しているかの具体的な構想もないからこそ、聖書信者は
自分たちのほうが異教の昇天往生信者よりも高尚であるなどと思い込んでいたりする。
それはただ、望むべき世界の構想すらをも怠っているという究極級の精神的怠慢が
そうしているだけのことであるにもかかわらず、それをして、自分たちこそは
より高尚な昇天の希求者であるなどと転倒夢想しているのである。
そもそも、現世での最善の精進を怠って、来世での救済などを欲したりすること自体が
下劣なことだから、その欲求の充足先としての天国や浄土が下劣だったりしたとしてもむべ
なることである。浄土教やイスラム教の往生先の描写はそのあたりにかけても適当でいるから、
そのおかげで信者たちが自分たちの身の程をわきまえられていたりもするのである。
それ以上にも卑猥な描写のあるイスラムの天国描写だとかを、
聖書信者こそが「低俗なもの」として撥ね付けている。その聖書信者が
希求の対象としている天国はといえば、たとえばダンテの「神曲」天国篇などで
一応描写されてはいるものの、いたって抽象的で淡白な描写ばかりに限られていて、
聖書信者にこそ特有の天国観というものを如実化しているなどとはとうてい言いがたい。
実際の所、聖書信者には、自分たち特有の天国観というものはない。
せいぜい「飲み食いに困るようなこともない」という程度の想像があるだけで、
それは現実社会における仁政などによってもそれなりに実現が可能なものである。
「永遠の命を手に入れる」といったところで、永遠の命と共にどのような天国での
生活が待っているかなどを具体的に示しているわけでもない。永遠の命があった所で、
それで地獄の責め苦に苛まれ続けるのなら、かえって死んだほうがマシというものだろうに、
「永遠の命が手に入る」というだけの所で望みが天井打ちになってしまっているのである。
どのような天国を希求しているかの具体的な構想もないからこそ、聖書信者は
自分たちのほうが異教の昇天往生信者よりも高尚であるなどと思い込んでいたりする。
それはただ、望むべき世界の構想すらをも怠っているという究極級の精神的怠慢が
そうしているだけのことであるにもかかわらず、それをして、自分たちこそは
より高尚な昇天の希求者であるなどと転倒夢想しているのである。
そもそも、現世での最善の精進を怠って、来世での救済などを欲したりすること自体が
下劣なことだから、その欲求の充足先としての天国や浄土が下劣だったりしたとしてもむべ
なることである。浄土教やイスラム教の往生先の描写はそのあたりにかけても適当でいるから、
そのおかげで信者たちが自分たちの身の程をわきまえられていたりもするのである。

いるものだから、信者が自分たちの下劣な身の程をわきまえることもできない。
それでいて、身の程をわきまえることもない来世教信者としての活動を無制限に推進して
行ったものだから、現世としてのこの世界を自分たちで破滅に陥れることともなったのである。
抽象化にも、善い面と悪い面がある。善巧方便になる抽象化と悪巧方便になる抽象化との両方
があり、聖書信仰における天国や(自分たちでそうだと定義する)上知の抽象化は、明らかに
悪巧方便としての抽象化の部類に入る。単なる新たな金儲けの指南を○○経済学などとして
抽象化したりするのと同じで、本質的な下劣さから目を逸らすための気休めでしかない。
日本人は、自分たちが本音と建前を使い分けていることを自覚しているが、西洋の聖書信者は、
自分たちの本性の所の下劣さを本当に見失った上で、自らを高尚な人物ぶっていたりする。
だから、まずは、自分たちもまた二面性を使い分けて来た演技者であったに過ぎないという
ことを聖書信者に自覚させてから、問題である部分を直させて行くようにもせねばならない。
「(陽貨)曰く、其の宝を懐きて其の邦を迷わすは、仁と謂う可きか。(子)曰く、不可なり」
「陽貨『いったい、天下の至宝ともいうべき知恵を持ちながら、自らのいる国を混迷のままに
しておくのが仁であるなどと言えるでしょうか』 孔先生『いいえ』(陽貨が孔子に仕官を
囃し立てる問答。孔子は陽貨を嫌っていたが、財宝の如き知恵を国のために用いるべきだと
いう陽貨の意見自体には同意している。知恵を財宝以上のものとして象牙の塔に仕舞い
込んだりしてしまうのでは、陽貨ほどの堅実さすらをも損なうこととなってしまう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・一より)
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾

と共に、「我あり、故に神あり」というという論説を主張してもいる。結果的に言えば、
この両方ともの論説が、人々の心神喪失や精神分裂を促す妄説であったのであり、なおかつ
「我あり、故に神あり」という論説の典拠は、犯罪聖書におけるイエスの物言いにまで
その起源を遡ることができるわけだから、近代以降もずっと聖書信仰を基調として来た
西洋の歴史というのは、まさに精神障害を深刻化させ続ける歴史だったのだといえる。
「我思う、故に我あり」は、現象把握を構築する人間の思考を自我そのものであるとし、
「我あり、故に神あり」は、思考が自律的であることの根拠を神の実在に頼ろうとしている。
そこでは、現象操作を超越した所にある真我の実在性が完全に見落とされていて、そのような
意味での真我が不在であるにことかけての超越神の定立というすり替えが企てられているわけで、
人々の自律的な言行の自己責任性を喪失させようとする不埒さまでもが垣間見られるのである。
そういった誤りを一切排した心理哲学が、インドでは3000年以上前からウパニシャッド哲学や
仏教哲学として構築されて来ているわけだが、西洋哲学こそは哲学の本流みたいな扱われ方をされ
続けているものだから、未だに日本などではインド哲学が肩身の狭い思いをさせられ続けてもいる。
現象的な思考全般を否定しての真我や無我の把捉が、現象上の体系構築を好むヘーゲルなどの
西洋哲学者にも忌み嫌われて、なおかつショーペンハウアーのような亜流の西洋哲学者ばかりに
好まれたりもしたものだから、そのせいでインド哲学全般が亜流の哲学扱いをされるようにも
なってしまった。それこそ、本当は西洋哲学全般が異端の亜流哲学として扱われ、インド哲学や
中国思想こそは正統の思想哲学として扱われるべきなのであり、そのような習慣が定着することを
通じて初めて、人々もまた深く植え付けられた心の病から脱却して行けるようになるのである。
近世までは、聖書信者たちだけが邪教の狂信を通じて患っていた心の病が、近代以降は、
聖書信仰の毒性が西洋哲学の仮面を被って広められたことを通じて、非聖書圏を含む
世界中の人間が同様の病を患うようになってしまった。キリスト教などはほとんど信仰対象
として退けている日本人なども、西洋哲学への警戒までは十分に行き届いておらず、
「難解でとっつきがたいけれども、近代文明の精神的支柱となってきたありがたい教え」
程度のパブリックイメージは持ち越したままでいてしまっている。「近代文明が物質構築の面で
あまりにも盛大だったものだから、西洋哲学もまた高尚な精神性を帯びているに違いない」
などと、まともに哲学書を読むこともなく勝手に思い込んでいたりするわけだが、とんでもない、
西洋哲学こそは人々の精神薄弱を学術的に深刻化させる元凶でこそあったのであり、精神薄弱による
渇望を物質的構築によって紛らわせさせようとする原動力にこそなって来たに過ぎないのである。
西洋主導の近代文明の物質的構築の過剰さこそは、いま致命的な環境破壊を世界にもたらしていて、
これが人口爆発にも匹敵する世界の破滅の要因ともなっている。だからといって、ただ物質的
構築を取りやめにしたのでは、それによってこそ精神薄弱からなる渇望を紛らわしていた人々が
極度の鬱屈にかられてのゾンビ状態などとも化してしまいかねない。だから、物質的構築の
抑制と共なる、人々の精神薄弱の治療もまた必要となって行く。そのためには、あらゆる
哲学の中でも心身の壮健化に貢献するインド哲学のごとき哲学を尊び、精神の薄弱化を助長する
西洋哲学などの哲学の有害性をも認めて行くようにしなければならない。なんとなくでも、
権威があるかのようなつもりでいたりすることから是正して行くようにするのでなければ、
潜在意識からの洗脳を払拭して行く上でには不足であるのだと戒めて行くようにすべきだ。
聖書信仰の毒性が西洋哲学の仮面を被って広められたことを通じて、非聖書圏を含む
世界中の人間が同様の病を患うようになってしまった。キリスト教などはほとんど信仰対象
として退けている日本人なども、西洋哲学への警戒までは十分に行き届いておらず、
「難解でとっつきがたいけれども、近代文明の精神的支柱となってきたありがたい教え」
程度のパブリックイメージは持ち越したままでいてしまっている。「近代文明が物質構築の面で
あまりにも盛大だったものだから、西洋哲学もまた高尚な精神性を帯びているに違いない」
などと、まともに哲学書を読むこともなく勝手に思い込んでいたりするわけだが、とんでもない、
西洋哲学こそは人々の精神薄弱を学術的に深刻化させる元凶でこそあったのであり、精神薄弱による
渇望を物質的構築によって紛らわせさせようとする原動力にこそなって来たに過ぎないのである。
西洋主導の近代文明の物質的構築の過剰さこそは、いま致命的な環境破壊を世界にもたらしていて、
これが人口爆発にも匹敵する世界の破滅の要因ともなっている。だからといって、ただ物質的
構築を取りやめにしたのでは、それによってこそ精神薄弱からなる渇望を紛らわしていた人々が
極度の鬱屈にかられてのゾンビ状態などとも化してしまいかねない。だから、物質的構築の
抑制と共なる、人々の精神薄弱の治療もまた必要となって行く。そのためには、あらゆる
哲学の中でも心身の壮健化に貢献するインド哲学のごとき哲学を尊び、精神の薄弱化を助長する
西洋哲学などの哲学の有害性をも認めて行くようにしなければならない。なんとなくでも、
権威があるかのようなつもりでいたりすることから是正して行くようにするのでなければ、
潜在意識からの洗脳を払拭して行く上でには不足であるのだと戒めて行くようにすべきだ。
「子、子産を謂う。『君子の道四つ有り。其の己れを行うや恭、
其の上に事うるや敬、其の民を養うや恵、其の民を使うや義』(既出)」
「先生が鄭の名宰相の子産を評された。『彼は君子として四つの道を立てられた。己れの行いは常に恭しく、
目上の相手に仕える場合は敬意を尽くし、民を養うことにかけては恵み深く、民を使役することも必ず義に適わせた』
(自分でものを行うにしろ、主君からの命でことを為すにしろ、恭敬の限りを尽くすわけだから、
いずれにしろ道義に適うこととなるわけで、絶対にどちらでならないなどということはないのである。
自分自身もできた上で、さらに上に仕えもするのが、君子の道というものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一六)
「人の技有るは冒疾して之れを悪み、人の彦聖なるは、之れに違いて達せざらしむ。
是れ容るること能わず。以って我が子孫黎民を保つこと能わず、亦た殆ういと曰わんかな」
「他者に技能があるようなら嫉妬してこれを憎み、他者が賢聖であるようなら、自分とはまた
別のものとして捨て置く。そんな態度姿勢では自らの子孫や領民を保つこともできないほどに危い」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・秦誓より)
其の上に事うるや敬、其の民を養うや恵、其の民を使うや義』(既出)」
「先生が鄭の名宰相の子産を評された。『彼は君子として四つの道を立てられた。己れの行いは常に恭しく、
目上の相手に仕える場合は敬意を尽くし、民を養うことにかけては恵み深く、民を使役することも必ず義に適わせた』
(自分でものを行うにしろ、主君からの命でことを為すにしろ、恭敬の限りを尽くすわけだから、
いずれにしろ道義に適うこととなるわけで、絶対にどちらでならないなどということはないのである。
自分自身もできた上で、さらに上に仕えもするのが、君子の道というものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一六)
「人の技有るは冒疾して之れを悪み、人の彦聖なるは、之れに違いて達せざらしむ。
是れ容るること能わず。以って我が子孫黎民を保つこと能わず、亦た殆ういと曰わんかな」
「他者に技能があるようなら嫉妬してこれを憎み、他者が賢聖であるようなら、自分とはまた
別のものとして捨て置く。そんな態度姿勢では自らの子孫や領民を保つこともできないほどに危い」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・秦誓より)

自覚症状がある場合もない場合もあるにしろ、そこでこそ人は心を病んでいる。
「神を信じてすらいれば罪を犯しても許されるし、死んでも天国に逝ける」
などという思い込みは、全く事実に反しているものだから、人々の心を病ましめる
原因となってしまう一方、「自らが犯した罪は、自らが罰を受けねば償われない」
「人はみないつかは死に、二度と蘇ることもない」といった考えは実情に合致して
いるものだから、そのような考えを恒常化させていられるほど心が壮健ともなる。
しかし、未だ未熟な精神力しか持ち合わせていないような人間からすれば、
実情からかけ離れてまでの無制限な自由を欲するような心持ちこそは魅力的に
思える一方で、現実ありのままに過不足なく合致しようとするような心持ちは、
さして魅力的にも思えなかったりする。前者は限りなく天空を舞い上がるような
心持ちとでもいえる一方で、後者は地べたに張り付いたままでいさせられるような
心持ちであるものだから、十分に思い上がりを抑えられているわけでもない未熟な
精神構造の持ち主からすれば、後者よりも前者のほうが魅力的に思えるのである。
より高く、上空へと舞い上がろうとする心持ちばかりでいたものだから、
聖書圏の欧米人こそは飛行機を発明したし、食品に成長材を混ぜてまで
自分たちの身長を高くしようともした。しかし、そのような心持ちでばかりいた
結果として、自分たちの住まう世の中というものを蔑ろにし、誰しもが過剰な
富を貪ろうとし続けたせいでの経済破綻などを招くことともなってしまった。
日本の伝統的武道などは、腰をしっかりと落として剣技を繰り出したり柔術の技を
かけたりするものがほとんどであるし、石高制に基づく江戸時代の社会統治なども、
一人頭の食い扶持から厳しく管理して行くものだったから、日本人全体の体格を戦国
時代など以上にも矮小化させる原因となってしまった。しかし、それほどにも低い所、
低い所ばかりへとへばり付いていようとする心持ちこそは、日本人に世界でも最高級に磐石
な経済感覚を植え付けさせ、以って安定した世の中を築き上げられるようにもしたのだった。
ただ経済感覚がより磐石となるから、舞い上がるような心持ちよりも、しっかりと地に足を
付けた心持ちでいるべきだというのなら、永年聖書信仰を通じて舞い上がるような心持ち
ばかりに慣れ続けて来た欧米人などは、禁治産者となって世の中を放り出してでも、今の
ような心持ちのままでいたいとすら思うかもしれない。ただそれだけの理由ではなく、
しっかりと地に足を付けた堅実な心持ちでいればこそ、より心神が壮健で快い
心持ちでもいられるという理由があればこそ、旧聖書圏の人間にすら、
地に足を付けた心持ちへの成長を促していけるものだといえる。
そのあたりの心理法則を主導的に考え抜いて来たのは、主にインド人であり、
ドイツ人やイギリス人とも同じアーリア系のコーカソイド(ただし有色)である。
実際にヨガなどの体術でも、しっかりと腰を落とす動きなどが重んじられているし、
元はいえば、日本でもそのようなヨガの行法が密教などを通じてもたらされたものだから、
それらをヒントにして武術が発達して来たのでもあ。故に、しっかりと地に足を付ける
考え方というものを尊んだからといって、それが極東のモンゴロイドばかりを至上化すること
にはならないと考えていいのであり、日本人ばかりに引け目を抱く必要もないのだといえる。
日本や中国と違って、ろくに国家規模での近代経済への参入にも取り組まなかったものだから、
経済状態もブラックアフリカ並みのままでいるインドこそは、これからの世界における
人間のあり方の指針というものを、膨大な分量にわたって用意して来てくれてもいる。
だからこそ、これからはインドのような国こそを尊んでいくようにもしなければ
ならない。そのあたり、世界というものもまたよくできているものだといえる。
付けた心持ちでいるべきだというのなら、永年聖書信仰を通じて舞い上がるような心持ち
ばかりに慣れ続けて来た欧米人などは、禁治産者となって世の中を放り出してでも、今の
ような心持ちのままでいたいとすら思うかもしれない。ただそれだけの理由ではなく、
しっかりと地に足を付けた堅実な心持ちでいればこそ、より心神が壮健で快い
心持ちでもいられるという理由があればこそ、旧聖書圏の人間にすら、
地に足を付けた心持ちへの成長を促していけるものだといえる。
そのあたりの心理法則を主導的に考え抜いて来たのは、主にインド人であり、
ドイツ人やイギリス人とも同じアーリア系のコーカソイド(ただし有色)である。
実際にヨガなどの体術でも、しっかりと腰を落とす動きなどが重んじられているし、
元はいえば、日本でもそのようなヨガの行法が密教などを通じてもたらされたものだから、
それらをヒントにして武術が発達して来たのでもあ。故に、しっかりと地に足を付ける
考え方というものを尊んだからといって、それが極東のモンゴロイドばかりを至上化すること
にはならないと考えていいのであり、日本人ばかりに引け目を抱く必要もないのだといえる。
日本や中国と違って、ろくに国家規模での近代経済への参入にも取り組まなかったものだから、
経済状態もブラックアフリカ並みのままでいるインドこそは、これからの世界における
人間のあり方の指針というものを、膨大な分量にわたって用意して来てくれてもいる。
だからこそ、これからはインドのような国こそを尊んでいくようにもしなければ
ならない。そのあたり、世界というものもまたよくできているものだといえる。
「聖人は百世の師なり。伯夷・柳下恵是れなり。故に伯夷の風を聞く者は、頑夫は廉に、
懦夫も志しを立つる有り。柳下恵の風を聞く者は、薄夫は敦に、鄙夫は寛たる。百世の上に
奮いて、百世の下に聞く者も興起せざる莫きなり。聖人に非ずして能く是くの若くならんか」
「聖人は百世の後にいたるまで人々の師であり続ける。伯夷や柳下恵こそはその代表例である。
伯夷の伝説を聞かされた者は、貪欲なら清廉に、臆病者も志しを立てるようになる。柳下恵の
伝説を聞いた者は、薄情であるなら敦厚に、狭量であっても寛容となる。百世の太古に活躍
しながら、百世の後に到るまで、その伝説を聞く者の身に起こることの模範とならぬことがない。
どうして聖人でなければそのようであり得ようか。(キリストの業など誰の身にも起こらぬ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・一五より)
懦夫も志しを立つる有り。柳下恵の風を聞く者は、薄夫は敦に、鄙夫は寛たる。百世の上に
奮いて、百世の下に聞く者も興起せざる莫きなり。聖人に非ずして能く是くの若くならんか」
「聖人は百世の後にいたるまで人々の師であり続ける。伯夷や柳下恵こそはその代表例である。
伯夷の伝説を聞かされた者は、貪欲なら清廉に、臆病者も志しを立てるようになる。柳下恵の
伝説を聞いた者は、薄情であるなら敦厚に、狭量であっても寛容となる。百世の太古に活躍
しながら、百世の後に到るまで、その伝説を聞く者の身に起こることの模範とならぬことがない。
どうして聖人でなければそのようであり得ようか。(キリストの業など誰の身にも起こらぬ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・一五より)
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
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