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聖書 Part10
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地球人類にとっての最も標準的な聖書として、誰しもがその地位を疑うことのない聖書、四書五経。
その全文はあくまで二千二百年以上前に用意されたものではあるものの(偽古文尚書の一部を除く)、
論語・大学・中庸・孟子の四書と、易経・詩経・書経(尚書)・礼記・春秋の五経を合わせて
「四書五経」として定型化されたのは宋代以降、朱子がこれらの経書を特薦してからである。
それ以前は四書五経だけでなく、他の数多の経書が四書五経並みかそれ以上もの扱いすらをも受けていた。
今でも「孝経」などが儒学の入門書として読むべき筆頭格として重んじられたりもしているが、
昔はそのような扱いすらをも受けていたのに、今では相当に程度の低い経書として扱われるように
なった儒書もいくらかあり、その代表格に性悪論を説く荀子の教説集「荀子」がありもする。
荀子の教説は、孟子の教説(性善論や臨戦論など)と決定的に食い違っている部分があり、
実際に荀子自身も「荀子」非十二子第六で孟子を槍玉に挙げつつその主張を非難するなどしている。
そのため、新儒学の大家である朱子が孟子の教説のほうに軍配を挙げたことを通じて、荀子の教説
のほうは「あくまで反面教師として扱うべきもの」として取り扱われるようになったのである。
ただ、荀子の自説はともかく、その知識や博学さは目を見張るものがある。「荀子」を実際に読めば
分かるとおり、単なる学知の披露度では孟子以上であり、文飾にかけても当時の究極級のものであった
だろうことがうかがえる。(そのため、諸子百家の文筆が粗雑で典雅さに欠けると非難していた
司馬遷までもが、「史記」礼書で「荀子」の文章を多量に引用するなどしてもいる)
にもかかわらず荀子は孟子以下とされ、朱子学はおろかその他の新儒学すらもが、荀子以上にも孟子を
尊重する道を歩んでいったのである。それはなぜかといえば、孟子の教説は簡易であっても誠実さや
情熱に満ちている一方、荀子の教説は博学ではあっても皮相的で誠実さにも欠けるものだったからである。

その全文はあくまで二千二百年以上前に用意されたものではあるものの(偽古文尚書の一部を除く)、
論語・大学・中庸・孟子の四書と、易経・詩経・書経(尚書)・礼記・春秋の五経を合わせて
「四書五経」として定型化されたのは宋代以降、朱子がこれらの経書を特薦してからである。
それ以前は四書五経だけでなく、他の数多の経書が四書五経並みかそれ以上もの扱いすらをも受けていた。
今でも「孝経」などが儒学の入門書として読むべき筆頭格として重んじられたりもしているが、
昔はそのような扱いすらをも受けていたのに、今では相当に程度の低い経書として扱われるように
なった儒書もいくらかあり、その代表格に性悪論を説く荀子の教説集「荀子」がありもする。
荀子の教説は、孟子の教説(性善論や臨戦論など)と決定的に食い違っている部分があり、
実際に荀子自身も「荀子」非十二子第六で孟子を槍玉に挙げつつその主張を非難するなどしている。
そのため、新儒学の大家である朱子が孟子の教説のほうに軍配を挙げたことを通じて、荀子の教説
のほうは「あくまで反面教師として扱うべきもの」として取り扱われるようになったのである。
ただ、荀子の自説はともかく、その知識や博学さは目を見張るものがある。「荀子」を実際に読めば
分かるとおり、単なる学知の披露度では孟子以上であり、文飾にかけても当時の究極級のものであった
だろうことがうかがえる。(そのため、諸子百家の文筆が粗雑で典雅さに欠けると非難していた
司馬遷までもが、「史記」礼書で「荀子」の文章を多量に引用するなどしてもいる)
にもかかわらず荀子は孟子以下とされ、朱子学はおろかその他の新儒学すらもが、荀子以上にも孟子を
尊重する道を歩んでいったのである。それはなぜかといえば、孟子の教説は簡易であっても誠実さや
情熱に満ちている一方、荀子の教説は博学ではあっても皮相的で誠実さにも欠けるものだったからである。

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たとえば、古代中国ほどもの大規模かつ完結した国際社会であれば、
全体社会の公益を蔑ろにしてまでの我田引水による私益の貪りが、最終的にはそれを
企てた本人たち自身の自業自得での破滅に直結することをよく認知することができた。
しかもそれを、平易かつ冷厳な文体で記録して後世に述べ伝えようとするものがあった。
統一秦帝国の崩壊を如実に記録した司馬遷のような有能な史学者が多々いて、なおかつその
記録書類を当代の王朝の崩壊後に至るまで念入りに享受して行くことまでもが心がけられた。
だからこそ、世の中の公益を損なってまで個人が私益を貪ったりすることは強く戒められていた。
中国の十分の一程度の国家規模である日本などでは、その中国の経書や史書を受容の対象としての
仁政が試みられた。屠殺や製革などの特定の職種の差別と引き換えに商業への差別を緩和するなどの
独自の政策も敷かれたものの、基本としては公益を尊んで私益の貪りを卑しむことを基調としていた。
イスラエルやギリシャのように、国家規模も中国やインドの百分の一程度の矮小さでいて、
なおかつ近隣に仁政の模範とするに値するような国も存在しなかった小国においては、公益を
蔑ろにしてまでの私益の専らな貪りが自分たち自身の自滅に繋がるということにまでは誰も
考えが及ぶことがなかった。だから、そのような社会規模の我田引水を深刻化させていく
ことに野望を抱かせるような夢物語然とした邪教の教義などがでっち上げられもしたのだった。
ただ、イスラエルやギリシャの近隣に大国が全く存在しなかったわけでもない。バビロニアや
ペルシャなどの相応な大国も存在していたし、何といっても、ローマ帝国という超大国が
新約が編纂された頃などには存在していたわけだから、もしもそこで数多の人々が世の中を
俯瞰しての政治のあり方というものを考究し抜いていたならば、公益を蔑ろにしてでも私益を
貪ることを正当化したような邪義などを容認するようなことも決してなかったはずなのである。
全体社会の公益を蔑ろにしてまでの我田引水による私益の貪りが、最終的にはそれを
企てた本人たち自身の自業自得での破滅に直結することをよく認知することができた。
しかもそれを、平易かつ冷厳な文体で記録して後世に述べ伝えようとするものがあった。
統一秦帝国の崩壊を如実に記録した司馬遷のような有能な史学者が多々いて、なおかつその
記録書類を当代の王朝の崩壊後に至るまで念入りに享受して行くことまでもが心がけられた。
だからこそ、世の中の公益を損なってまで個人が私益を貪ったりすることは強く戒められていた。
中国の十分の一程度の国家規模である日本などでは、その中国の経書や史書を受容の対象としての
仁政が試みられた。屠殺や製革などの特定の職種の差別と引き換えに商業への差別を緩和するなどの
独自の政策も敷かれたものの、基本としては公益を尊んで私益の貪りを卑しむことを基調としていた。
イスラエルやギリシャのように、国家規模も中国やインドの百分の一程度の矮小さでいて、
なおかつ近隣に仁政の模範とするに値するような国も存在しなかった小国においては、公益を
蔑ろにしてまでの私益の専らな貪りが自分たち自身の自滅に繋がるということにまでは誰も
考えが及ぶことがなかった。だから、そのような社会規模の我田引水を深刻化させていく
ことに野望を抱かせるような夢物語然とした邪教の教義などがでっち上げられもしたのだった。
ただ、イスラエルやギリシャの近隣に大国が全く存在しなかったわけでもない。バビロニアや
ペルシャなどの相応な大国も存在していたし、何といっても、ローマ帝国という超大国が
新約が編纂された頃などには存在していたわけだから、もしもそこで数多の人々が世の中を
俯瞰しての政治のあり方というものを考究し抜いていたならば、公益を蔑ろにしてでも私益を
貪ることを正当化したような邪義などを容認するようなことも決してなかったはずなのである。
しかし、そうはならなかった。西洋における致命的な悪癖として、頭を使うことはギリシャや
イギリスみたいな小国の一部の人間に任せきり、ローマやアメリカみたいな大国は低俗な文化のみを
生産や享受する「烏合の衆」であればよいとする風潮があったものだから、国家規模が壮大である、
にもかかわらずではなくだからこそ、古代ローマなどにおいても高尚な政治文化などを発達させて
行こうとしたりすることもなかったのだった。だからこそ、図体ばかりでかい能無しとして、
イスラエルやギリシャの小人が捏造した我田引水主義の邪義をそのまま享受したりもしたのだった。
紀元前には、ユダヤ人の政商としての跋扈を容認してしまっていた中東人のほうはといえば、
キリスト教による侵略が深刻化して後にやっとイスラムを立ち上げて、我田引水を本分とする
邪教を勢力圏から撃退することに本腰を入れ始めたのだった。しかし、ローマ帝国を中心とした
西洋社会のほうはといえば、いつまでたっても邪教の払拭に取り掛かることもなく、自分たちの
ための国際規模での我田引水をどこまでも深刻化させ続けた挙句に自分たち自身の大破滅を
招くという最悪のシナリオばかりを一途にまい進して行った。その結末が今であり、
数多の欧米のキリスト教徒が禁治産や参政権剥奪などの強制措置を被らない
ことには人類の滅亡すらもが免れ得ない事態と化してしまっている。
四書五経を含む中国文化が西洋に流入した啓蒙時代の頃にはすでに、仁政の何たるかを文面ぐらい
では西洋人も知ることができたはずで、孔子や孟子の言葉を参考にすることで、我田引水が
自滅に至ることの不可避さをも察知することができなくもなかったはずである。それでも
やはり自分たちのあり方を正すことができずに、旧来のあり方を等比級数的に深刻化させていく
選択ばかりを果たしてきたのだった。過ちは一つや二つではなく、幾重にも折り重なって
来ているものであるが故に、その矯正も生半なもので済むようなことは決してないだろう。
イギリスみたいな小国の一部の人間に任せきり、ローマやアメリカみたいな大国は低俗な文化のみを
生産や享受する「烏合の衆」であればよいとする風潮があったものだから、国家規模が壮大である、
にもかかわらずではなくだからこそ、古代ローマなどにおいても高尚な政治文化などを発達させて
行こうとしたりすることもなかったのだった。だからこそ、図体ばかりでかい能無しとして、
イスラエルやギリシャの小人が捏造した我田引水主義の邪義をそのまま享受したりもしたのだった。
紀元前には、ユダヤ人の政商としての跋扈を容認してしまっていた中東人のほうはといえば、
キリスト教による侵略が深刻化して後にやっとイスラムを立ち上げて、我田引水を本分とする
邪教を勢力圏から撃退することに本腰を入れ始めたのだった。しかし、ローマ帝国を中心とした
西洋社会のほうはといえば、いつまでたっても邪教の払拭に取り掛かることもなく、自分たちの
ための国際規模での我田引水をどこまでも深刻化させ続けた挙句に自分たち自身の大破滅を
招くという最悪のシナリオばかりを一途にまい進して行った。その結末が今であり、
数多の欧米のキリスト教徒が禁治産や参政権剥奪などの強制措置を被らない
ことには人類の滅亡すらもが免れ得ない事態と化してしまっている。
四書五経を含む中国文化が西洋に流入した啓蒙時代の頃にはすでに、仁政の何たるかを文面ぐらい
では西洋人も知ることができたはずで、孔子や孟子の言葉を参考にすることで、我田引水が
自滅に至ることの不可避さをも察知することができなくもなかったはずである。それでも
やはり自分たちのあり方を正すことができずに、旧来のあり方を等比級数的に深刻化させていく
選択ばかりを果たしてきたのだった。過ちは一つや二つではなく、幾重にも折り重なって
来ているものであるが故に、その矯正も生半なもので済むようなことは決してないだろう。
過ちを改めることもなく何度も繰り返していこうとする性向こそは、恒久にも渡るほどの
厳酷な制限や矯正措置を必要とする。それこそ、「そんなものは望んでいなかった」と白状
せざるを得なくなるほどもの制限や矯正が待っている。これもまた「最終防衛線死守思想」であり、
これすら蔑ろにしようものなら、欧米人を含む人類の滅亡すらもが免れ得ないものであるのだから、
拒絶を極めて自分たちごと人類を滅亡させるか、それとも完全に屈服して二度と文句一つ
言わないでいることで自他を救うか、どちらを選ぶのかをよく考えて決めるがいい。
「至誠は息む無し。息まざれば則ち久しく、久しければ則ち徴あり、徴あれば則ち悠遠たり、
悠遠たれば則ち博厚たり、博厚たれば則ち高明たり。〜高明たるは、物を覆う所以なり。
今夫れ天は斯れ昭昭の多きなり、其の窮まり無きに及んでは、日月星辰に繋り、万物覆わる。
(詩に)云く、維れ天の命、於あ穆として已まず、蓋し天の天たる所以を曰うと。於乎顕われ
ざらんや、文王の徳の純なることと。蓋し文王の文たる所以を曰うと、純なることも亦た已まず」
「至誠は決して止むことがなく、止まないが故に久しく、久しきが故に効験があり、効験によって
悠久で深遠となり、悠遠たるが故に博く篤くなり、博厚たるが故に高く明らかとなる。高明であるが
故に万物を覆っていく。天の明るさも部分部分は多少の明るさであるにしろ、それが日月精神の輝きを通じて
天全体を覆うことで万物をも覆い尽くしてしまう。詩経(維天之命)にも『ああ、天命は決して止むことがない』
とあるが、これも天の天たる所以を示したものである。『ああ、文王の徳の純粋さも明らかに顕れる』ともあるが、
これも文王の文王たる所以を示したものである。その徳の純粋さも天のように止むことがないのである。
(天下全土を高明な輝きで覆い尽くすことこそは天の働きであり、仁者の徳の働きなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二六より)
厳酷な制限や矯正措置を必要とする。それこそ、「そんなものは望んでいなかった」と白状
せざるを得なくなるほどもの制限や矯正が待っている。これもまた「最終防衛線死守思想」であり、
これすら蔑ろにしようものなら、欧米人を含む人類の滅亡すらもが免れ得ないものであるのだから、
拒絶を極めて自分たちごと人類を滅亡させるか、それとも完全に屈服して二度と文句一つ
言わないでいることで自他を救うか、どちらを選ぶのかをよく考えて決めるがいい。
「至誠は息む無し。息まざれば則ち久しく、久しければ則ち徴あり、徴あれば則ち悠遠たり、
悠遠たれば則ち博厚たり、博厚たれば則ち高明たり。〜高明たるは、物を覆う所以なり。
今夫れ天は斯れ昭昭の多きなり、其の窮まり無きに及んでは、日月星辰に繋り、万物覆わる。
(詩に)云く、維れ天の命、於あ穆として已まず、蓋し天の天たる所以を曰うと。於乎顕われ
ざらんや、文王の徳の純なることと。蓋し文王の文たる所以を曰うと、純なることも亦た已まず」
「至誠は決して止むことがなく、止まないが故に久しく、久しきが故に効験があり、効験によって
悠久で深遠となり、悠遠たるが故に博く篤くなり、博厚たるが故に高く明らかとなる。高明であるが
故に万物を覆っていく。天の明るさも部分部分は多少の明るさであるにしろ、それが日月精神の輝きを通じて
天全体を覆うことで万物をも覆い尽くしてしまう。詩経(維天之命)にも『ああ、天命は決して止むことがない』
とあるが、これも天の天たる所以を示したものである。『ああ、文王の徳の純粋さも明らかに顕れる』ともあるが、
これも文王の文王たる所以を示したものである。その徳の純粋さも天のように止むことがないのである。
(天下全土を高明な輝きで覆い尽くすことこそは天の働きであり、仁者の徳の働きなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二六より)
人間にとっての「善」というものは己れの心の本性の所にしか存在していないから、
心を蔑ろにする者は他のどんなものに頼るのであっても、善に与ることなどはできない。
もしも、自らの心のうちにある善性を省みることもできないような愚人が、他者に
すがることでの善の享受を試みるとしても、その相手であるべき人間というのは必ず、
信奉者たち自身に己れの善性への立ち返りを外的に促してやる人間であるべきなのである。
そうである人間こそは、人々の先導者たるにも値する聖賢であるわけで、架空の如来である
阿弥陀仏すらもが、その方便によって信者を己れの心中の善性に立ち返らせてくれるが故に、
その条件を満たしていたりするわけだけれども。当然、万事万物万人がそのような教導者
としての条件を満たしていたりするわけでもなく、かえって己れの心中の善性を完全に
見失わせての染悪を促すような邪曲の徒輩すらもが存在しているのである。
「人間の心中などに善とすべき拠り所などはない」とした上で、他力本願的な随順を促す
者こそはそれである。たとえ「随順の先に善の享受が実現される」などと吹いていた所で、
それも完全な偽りであり、偽りの善を本物の善であるかのように享受することを通じて、
本物の善への帰服をより困難なものにすらしてしまうものである。
本物の善は悪にとって都合の悪い存在である一方、偽善は悪にとってはむしろ自分たちの
活動を助長してくれる裏からの味方となる。本物の善は悪を一方的な懲らしめの対象とするが、
偽善は何だかんだと屁理屈を付けて悪の存続を許し、自らの美々しさに衆目を逸らさせる
ことでの悪の増進にすら加担する。だからこそ、悪逆非道を推し進めようとする者は、本物の
善の在りかである心を見失わせて、外的な偽善に溺れることを人々にけしかけもするのである。
人々に善性を見失わせて悪の増進を黙認させる偽善の化身として人類史上最大級であるのが、
他でもないイエス・キリストであり、そんなものが社会的に容認されている以上は、人々が
心中の善性に立ち返ることも、悪の増進を十分に抑制することも決して覚束なくなる。
心を蔑ろにする者は他のどんなものに頼るのであっても、善に与ることなどはできない。
もしも、自らの心のうちにある善性を省みることもできないような愚人が、他者に
すがることでの善の享受を試みるとしても、その相手であるべき人間というのは必ず、
信奉者たち自身に己れの善性への立ち返りを外的に促してやる人間であるべきなのである。
そうである人間こそは、人々の先導者たるにも値する聖賢であるわけで、架空の如来である
阿弥陀仏すらもが、その方便によって信者を己れの心中の善性に立ち返らせてくれるが故に、
その条件を満たしていたりするわけだけれども。当然、万事万物万人がそのような教導者
としての条件を満たしていたりするわけでもなく、かえって己れの心中の善性を完全に
見失わせての染悪を促すような邪曲の徒輩すらもが存在しているのである。
「人間の心中などに善とすべき拠り所などはない」とした上で、他力本願的な随順を促す
者こそはそれである。たとえ「随順の先に善の享受が実現される」などと吹いていた所で、
それも完全な偽りであり、偽りの善を本物の善であるかのように享受することを通じて、
本物の善への帰服をより困難なものにすらしてしまうものである。
本物の善は悪にとって都合の悪い存在である一方、偽善は悪にとってはむしろ自分たちの
活動を助長してくれる裏からの味方となる。本物の善は悪を一方的な懲らしめの対象とするが、
偽善は何だかんだと屁理屈を付けて悪の存続を許し、自らの美々しさに衆目を逸らさせる
ことでの悪の増進にすら加担する。だからこそ、悪逆非道を推し進めようとする者は、本物の
善の在りかである心を見失わせて、外的な偽善に溺れることを人々にけしかけもするのである。
人々に善性を見失わせて悪の増進を黙認させる偽善の化身として人類史上最大級であるのが、
他でもないイエス・キリストであり、そんなものが社会的に容認されている以上は、人々が
心中の善性に立ち返ることも、悪の増進を十分に抑制することも決して覚束なくなる。
イエキリ信仰なんぞが容認されてしまっている残念な世の中においても、自主的に勧善懲悪や
断悪修善を志す人間も多少は生じ得るにしろ、決して十分な権勢を擁するに至ることがなく、
故に世界規模での悪逆非道の過度の推進による人類の滅亡を防ぎ止めることもできはしない。
人類の滅亡を食い止められる程度に、総体規模での悪逆非道を抑制するためには必ず、
イエキリレベルの勧悪懲善の化身への信奉の根絶ぐらいは必須となる。己れの心中の
善性に立ち返っての勧善懲悪や断悪修善を推進すらすることは、もはや人類の繁栄
すらをもを企図する域であるわけで、それ以前に、人類を滅亡にすら追いやって
しまう程もの勧悪懲善の推進の予めからの途絶が必要となるわけである。
勧善懲悪や断悪修善が積極的に推進されていなければ、必ず人類が滅亡するなんてこともない。
善にも悪にもさほど積極的でない無為自然を基調とするのであってもそれなりの治世が
得られる、のみならず、乱世に善心を見失わされてしまった人々に対する癒しとしては
そのほうがより適切なものですらある。なればこそ、今のような最悪の乱世において
急に勧善懲悪や断悪修善を志していくよりは、まずは過度の悪逆非道を途絶して
無為自然の境地に至ることを本是ともすべきなのである。乱世は、何よりもまず、
悪が死んでいなくなることでこそ変わるべきなのである。
「人一たび之れを能くすれば己れは之れを百たびし、
人十たび之れを能くすれば己れは之れを千たびす。
果して此の道を能くすれば、愚と雖も必ず明なり、柔と雖も必ず強ならん」
「人が一度よく成し遂げたことを自分は百回成し遂げようとし、人が十回よく成し遂げたことを
自分は千回成し遂げる。果たしてこの道をやり通したなら、愚かといえども必ず明らかとなり、
柔弱といえども必ず剛強となるであろう。(まさに桁外れな自修作善への志しだといえる。
己れの心を頼りとする努力の人並みはずれた積み重ねによって、愚かさをも超越するのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二〇より)
断悪修善を志す人間も多少は生じ得るにしろ、決して十分な権勢を擁するに至ることがなく、
故に世界規模での悪逆非道の過度の推進による人類の滅亡を防ぎ止めることもできはしない。
人類の滅亡を食い止められる程度に、総体規模での悪逆非道を抑制するためには必ず、
イエキリレベルの勧悪懲善の化身への信奉の根絶ぐらいは必須となる。己れの心中の
善性に立ち返っての勧善懲悪や断悪修善を推進すらすることは、もはや人類の繁栄
すらをもを企図する域であるわけで、それ以前に、人類を滅亡にすら追いやって
しまう程もの勧悪懲善の推進の予めからの途絶が必要となるわけである。
勧善懲悪や断悪修善が積極的に推進されていなければ、必ず人類が滅亡するなんてこともない。
善にも悪にもさほど積極的でない無為自然を基調とするのであってもそれなりの治世が
得られる、のみならず、乱世に善心を見失わされてしまった人々に対する癒しとしては
そのほうがより適切なものですらある。なればこそ、今のような最悪の乱世において
急に勧善懲悪や断悪修善を志していくよりは、まずは過度の悪逆非道を途絶して
無為自然の境地に至ることを本是ともすべきなのである。乱世は、何よりもまず、
悪が死んでいなくなることでこそ変わるべきなのである。
「人一たび之れを能くすれば己れは之れを百たびし、
人十たび之れを能くすれば己れは之れを千たびす。
果して此の道を能くすれば、愚と雖も必ず明なり、柔と雖も必ず強ならん」
「人が一度よく成し遂げたことを自分は百回成し遂げようとし、人が十回よく成し遂げたことを
自分は千回成し遂げる。果たしてこの道をやり通したなら、愚かといえども必ず明らかとなり、
柔弱といえども必ず剛強となるであろう。(まさに桁外れな自修作善への志しだといえる。
己れの心を頼りとする努力の人並みはずれた積み重ねによって、愚かさをも超越するのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二〇より)
「章を含みて貞にす可し。或いは王事に従うも、成すこと无くして終わり有り」
「能力があっても貞節にしてひけらかさず、王事に従うようなことがあっても、
自分からは何も功を成そうとしないままに有終の美を飾る。(>>59の引用も参照)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・六三)
随順者たるもの、ただ従順であるだけでなく、消極的でもあるべきである。
自我を肥大化させて能動性の塊と化し、その能動性によってこそ何者かに強く随順する
などということがあってもならない。能動的であるべきなのは先導者たるものであり、
自らが先導者に付いて行くような立場であるのなら、自分はむしろ消極的であるべきなのだ。
赤穂浪士の討ち入り事件よろしく、「忠臣は二君に使えず」ということがよく言われるが、
これは、裏切りが戦略上からの問題扱いをされる「修羅道」での話である。そもそもが、
裏切りなどが問題視されることもない平時の王道統治下において、臣下が通常的に主君に
仕える場合などにおいて重視されるべきなのは、主君に対して積極的に過ぎないことである。
よく消極的で安静に主君に仕えることができればこそ、主君の過ちを見定めての慎重な諫言
なども可能となるのであり、服従に対して積極的に過ぎればそれも不可能となるのである。
そもそも、戦国期に諸国の平民でいる人間などが、自らの国を治める諸侯だ大名だが
成り代わったからといって「自分は今度の王様には従わない」などと主張することもない。
名君が滅ぼされて暴君が支配者に成り代わったりしたなら、「これで生活も苦しくなる」
などと落胆することはあるだろうし、最悪、生活苦が極まって逃散するようなこともあった
わけだけれども、それも別に支配者への忠義の有無などを理由としていることではない。
「能力があっても貞節にしてひけらかさず、王事に従うようなことがあっても、
自分からは何も功を成そうとしないままに有終の美を飾る。(>>59の引用も参照)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・六三)
随順者たるもの、ただ従順であるだけでなく、消極的でもあるべきである。
自我を肥大化させて能動性の塊と化し、その能動性によってこそ何者かに強く随順する
などということがあってもならない。能動的であるべきなのは先導者たるものであり、
自らが先導者に付いて行くような立場であるのなら、自分はむしろ消極的であるべきなのだ。
赤穂浪士の討ち入り事件よろしく、「忠臣は二君に使えず」ということがよく言われるが、
これは、裏切りが戦略上からの問題扱いをされる「修羅道」での話である。そもそもが、
裏切りなどが問題視されることもない平時の王道統治下において、臣下が通常的に主君に
仕える場合などにおいて重視されるべきなのは、主君に対して積極的に過ぎないことである。
よく消極的で安静に主君に仕えることができればこそ、主君の過ちを見定めての慎重な諫言
なども可能となるのであり、服従に対して積極的に過ぎればそれも不可能となるのである。
そもそも、戦国期に諸国の平民でいる人間などが、自らの国を治める諸侯だ大名だが
成り代わったからといって「自分は今度の王様には従わない」などと主張することもない。
名君が滅ぼされて暴君が支配者に成り代わったりしたなら、「これで生活も苦しくなる」
などと落胆することはあるだろうし、最悪、生活苦が極まって逃散するようなこともあった
わけだけれども、それも別に支配者への忠義の有無などを理由としていることではない。
平時の君臣関係でもなければ、官民の主従関係でもない、兵事を介する君臣関係に限って
「忠臣は二君に仕えず」ということがある。人間関係が実際にそのような条件を満たしている
場合にはそれも守るべきであるが、そうでもないのに無闇にそうしたりするのもよくない。
誰に仕える、仕えないなどということを臣従者の側が無闇に選り好みしたりするようなら、
それこそが争いごとの原因にすらなってしまいかねないのだから、大概にすべきだといえる。
誰かに強く随順しようとすることは、特に不貞な婦女子などに特徴的な性向だといえる。
相手に対して男ばりの求愛や求婚を迫っておいて、結婚するや自分のほうが夫の主人であるか
のようなでかい顔をし始める。近頃ではありきたりな夫婦関係こそがまさにそれであり、
夫婦間だけでそのような問題を払拭するのはほとんど不可能に等しいことだといえる。
実際の世の中においても、古くから有力者が食客やフラタニティ構成員を囲い込んで私的に
用いるということが悪癖として横行して来ている。主人となる者は食客となる者を最高級に礼遇し、
自分とも同格の扱いにすら処してやった上で、不正を働くための死兵要員に用いたりする。
正規の君臣関係などでは到底通らないような暴挙を委任するためにこそそのような手段が用いられる
のであり、そこにも「服従者の側こそが積極性を過剰化させる」という不健全性が伴っているのである。
不貞な女や食客要員がもたらす家庭的、社会的不健全さを撃退して行くためにも、正規の君臣関係や
父子関係こそをよく尊んで健全化させて行くことが必要となる。両者の主従関係を、夫婦関係や雑多な
社会関係よりもよく重んじて、なおかつ臣下や子たるものが、主君や親に対して消極的かつ従順なあり方を
守っていく。婦女子や食客などが自分たちからそのようなあり方を実現していくのはほとんど不可能に
等しいから(もちろん食客は始めから存在すべきでもない)、人の子供や臣下たる男こそは、模範的な
忠臣や孝子たることで、自らに仕える妻たる女などにも、そのようなあり方を見習わせるべきなのである。
「忠臣は二君に仕えず」ということがある。人間関係が実際にそのような条件を満たしている
場合にはそれも守るべきであるが、そうでもないのに無闇にそうしたりするのもよくない。
誰に仕える、仕えないなどということを臣従者の側が無闇に選り好みしたりするようなら、
それこそが争いごとの原因にすらなってしまいかねないのだから、大概にすべきだといえる。
誰かに強く随順しようとすることは、特に不貞な婦女子などに特徴的な性向だといえる。
相手に対して男ばりの求愛や求婚を迫っておいて、結婚するや自分のほうが夫の主人であるか
のようなでかい顔をし始める。近頃ではありきたりな夫婦関係こそがまさにそれであり、
夫婦間だけでそのような問題を払拭するのはほとんど不可能に等しいことだといえる。
実際の世の中においても、古くから有力者が食客やフラタニティ構成員を囲い込んで私的に
用いるということが悪癖として横行して来ている。主人となる者は食客となる者を最高級に礼遇し、
自分とも同格の扱いにすら処してやった上で、不正を働くための死兵要員に用いたりする。
正規の君臣関係などでは到底通らないような暴挙を委任するためにこそそのような手段が用いられる
のであり、そこにも「服従者の側こそが積極性を過剰化させる」という不健全性が伴っているのである。
不貞な女や食客要員がもたらす家庭的、社会的不健全さを撃退して行くためにも、正規の君臣関係や
父子関係こそをよく尊んで健全化させて行くことが必要となる。両者の主従関係を、夫婦関係や雑多な
社会関係よりもよく重んじて、なおかつ臣下や子たるものが、主君や親に対して消極的かつ従順なあり方を
守っていく。婦女子や食客などが自分たちからそのようなあり方を実現していくのはほとんど不可能に
等しいから(もちろん食客は始めから存在すべきでもない)、人の子供や臣下たる男こそは、模範的な
忠臣や孝子たることで、自らに仕える妻たる女などにも、そのようなあり方を見習わせるべきなのである。
「君子の役にゆくや、其の期を知らず、曷か至らんかな。鶏は塒に棲まり、
日は夕れて、羊牛も来たらん。君子役にゆくに、之れ如何か思う勿らん」
「君子の役目に赴かれるお姿たるや、その期限も知れません。いつかは帰って来て欲しいもの。
鶏もねぐらに帰り、日が暮れて羊や牛も畜舎に帰ってくるというのに、君子にはその保証もありません。
(君子が牧獣並みの行動規範でいていいはずもない。自らの生活を蔑ろにするぐらいの覚悟が必要だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・君子于役より)
日は夕れて、羊牛も来たらん。君子役にゆくに、之れ如何か思う勿らん」
「君子の役目に赴かれるお姿たるや、その期限も知れません。いつかは帰って来て欲しいもの。
鶏もねぐらに帰り、日が暮れて羊や牛も畜舎に帰ってくるというのに、君子にはその保証もありません。
(君子が牧獣並みの行動規範でいていいはずもない。自らの生活を蔑ろにするぐらいの覚悟が必要だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・君子于役より)

女子供はみなそうなりやすいものだし、大人の男といえども小人止まりであればそうなってしまう。
これらの人間を合計すれば世の中の多数派にもなってしまうから、やもすれば、世の中というのは、
畜生級の品性の持ち主こそは大多数を占めるようにすらなってしまいかねないのである。
「畜生レベルの人間でいられることこそは自由の証し」ということで、自由主義の名の下に畜人
ばかりで世の中が塗り固められることとなったのが、孔子没後約2500年に当たる今という時代である。
漢唐時代の中国や平安江戸時代の日本などが、儒学道徳を規範として世界最大かつ最高級の栄華を
誇ったのも今は昔で、そもそも儒学道徳などを通じて、世の中の大多数の人々が畜生級の品性から
脱却できるという事実関係すらもがほとんど忘れ去られてからすでに久しいものである。昔の日本や
中国の文化を慕う人といえども、ただ「いい時代だった」という風に思うぐらいのもので、当時にこそ
近現代にはない、総体面からの人々の品性の向上が図られていたことにまでは考えが及ぶこともない。
かつての日本や中国では、畜生級の品性に陥りがちな女子供や小人男すらをも、君子たる男が
教導してそれなりの品性たらしめてやっていたのが、今では逆に、誰しもが畜生級の品性に陥って
それでよしとされ、そうなりやすい女子供や小人男こそは尊ばれて、本当は君子たり得るような
男こそは逆に卑しめられているような状態にある。そこまで世の中の大局が逆転してしまえば、
もはや今と逆の状態など誰も想像も付かない。今の道徳喪失著しい中国社会などを見てみれば、
誰も落し物一つ横取りしなかったという前漢の文帝期の中国の世相なども想像すら付きはしない。
想像が付かないものだから、底が見えない程にも深い海を見たときなどに抱くような恐怖をも抱く。
明らかにそれがいいものであったとしても、ただ未知なるものであるというだけで恐怖の対象となる。
特に、現状に満足することこそは全てである畜生級の品性のさ中にあればこそ、恐怖も一しおとなる。
「論考上の不確定要素は容赦なく切り捨てる」という「オッカムの剃刀」が一つの論理志向として
提唱されたのも、神に帰依する畜人こそは道徳的存在であるとする聖書圏においてでこそあった。
畜人的存在といい、オッカムの剃刀的論理といい、古今東西を問わず存在し得るし、また想定し得る
ものである。ただ、儒学や仏教が振興された東洋社会などではそのような事物が「非理想的存在」
として冷徹に卑しまれていた一方で、聖書信仰や洋学に支配された西洋社会ではそのような
事物こそが「理想的存在」として尊ばれすらして来たという点のみが異なるのである。
畜生級の品性に陥りきって一切の不確定要素を排除し、二度とそこから出てこようともしないとは、
まさに弘法大師が「十住心論」で最低級の住心として提示された異生羝羊心そのものであるといえる。
そういうものはどこにでも存在し得るからこそ、極東社会でもそういった存在が示唆されていた
のであり、同時にそのような存在を十分に卑しめていたからこそ、十個あるうちの
最低級の一つに過ぎない程度のもの扱いに処することができてもいたのである。
聖書信仰や洋学といえども、この世の中に遍在するものを取り扱っているに過ぎないのである。
それは別の教学によってより適切に扱われていたりもするわけで、本来なら卑しみの対象とすらすべき
ものを尊崇の対象にすらしてしまったものだから破滅的な結末をも招いたというだけのことである。
自分たちにこそ独自の新たな発見があったればこその結果などではないのだと知らねばならない。
「誕に后稷の穡するや、相くるの道有り。厥の豊草を茀い、種れに黄茂なるを種う。実に方し実に苞み、
実に種え実に褎び、実に發け実に秀で、実に堅く実に好しく、実に穎じ実に栗れば、即ち家室を台う有り」
「(農業の神である)后稷は、人々に(ただ恵むのではなく)自給自足の助けをしてやった。土地の雑草を
払って黄色く実る穀物の種を植えさせた。種は芽生えて生い茂り、よく伸び育って秀で、着実に実ることで、
それぞれの家を養う基いとさせた。(ただ与えるのではなく、自給自足の助けこそが道徳的でもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・生民之什・生民より)
提唱されたのも、神に帰依する畜人こそは道徳的存在であるとする聖書圏においてでこそあった。
畜人的存在といい、オッカムの剃刀的論理といい、古今東西を問わず存在し得るし、また想定し得る
ものである。ただ、儒学や仏教が振興された東洋社会などではそのような事物が「非理想的存在」
として冷徹に卑しまれていた一方で、聖書信仰や洋学に支配された西洋社会ではそのような
事物こそが「理想的存在」として尊ばれすらして来たという点のみが異なるのである。
畜生級の品性に陥りきって一切の不確定要素を排除し、二度とそこから出てこようともしないとは、
まさに弘法大師が「十住心論」で最低級の住心として提示された異生羝羊心そのものであるといえる。
そういうものはどこにでも存在し得るからこそ、極東社会でもそういった存在が示唆されていた
のであり、同時にそのような存在を十分に卑しめていたからこそ、十個あるうちの
最低級の一つに過ぎない程度のもの扱いに処することができてもいたのである。
聖書信仰や洋学といえども、この世の中に遍在するものを取り扱っているに過ぎないのである。
それは別の教学によってより適切に扱われていたりもするわけで、本来なら卑しみの対象とすらすべき
ものを尊崇の対象にすらしてしまったものだから破滅的な結末をも招いたというだけのことである。
自分たちにこそ独自の新たな発見があったればこその結果などではないのだと知らねばならない。
「誕に后稷の穡するや、相くるの道有り。厥の豊草を茀い、種れに黄茂なるを種う。実に方し実に苞み、
実に種え実に褎び、実に發け実に秀で、実に堅く実に好しく、実に穎じ実に栗れば、即ち家室を台う有り」
「(農業の神である)后稷は、人々に(ただ恵むのではなく)自給自足の助けをしてやった。土地の雑草を
払って黄色く実る穀物の種を植えさせた。種は芽生えて生い茂り、よく伸び育って秀で、着実に実ることで、
それぞれの家を養う基いとさせた。(ただ与えるのではなく、自給自足の助けこそが道徳的でもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・生民之什・生民より)
結局、自然状態では、特定の道などをあえて歩もうなどともしないのが人間の常である。
孟子の言うような仁徳の大道をあえて歩もうなどともしなければ、イエスのほざく
ような重権力犯罪の小道をあえて歩もうなどともしないのがごく普通の状態であり、
だからといって破滅に陥ることもなければ、繁栄に与れるようなこともないものである。
それでいて、あえて歩もうともしないままに歩んでいる道というものがあり、それが
時には大道であったり小道であったり、天道だったり畜生道だったりするのである。
世の中が治世であれば自然と優良な道を歩んでいたりするし、乱世であれば自然と
劣悪な道を歩んでいたりする。資本主義国の株式会社に勤めるだけで多少なりとも
貧困国での餓死を増長させてしまっていたりするのも、概ねは後者の理由によるのであり、
故意に穀物価格を吊り上げて貧困国などに行き渡らせないようにしている確信犯ほどでも
ない限りは、何らの悪意もないままに人の命すらをも奪う罪を重ねていたりするのである。
特定の道を歩もうなどとしているわけでもない人間にまで鬼畜道を歩ませてしまった
責任は当然、当世の支配者こそが最大級に負って行き、過失の従犯となってしまった人々は、
最悪でも交通刑務所での短期服役程度の処置を受けるのみである。ということはつまり、
行動即犯罪状態の最悪の乱世においては、特定の道などをあえて歩もうなどともしないほうが
マシだったりもし得るということであり、それはまさに「成すことなくして終わりあり」
という「易経」坤・六三の言葉が正当たり得る場合がある確かな根拠ともなっている。
無為自然第一な道家的見地からすれば、人間は積極的な求道者などではないほうが
より好ましいといえる。もう少し分別を利かした儒家や仏家の見地に即するなら、善道の
求道者であるのは求道者でないよりもよいが、悪道の求道者であるよりは求道者などで
ないほうがマシであるといえる。いずれにしろ、「求道者であること即ち偉い」などと
いう結論にだけは至らないわけで、これだけはあらゆる正統な教学が認めない所だといえる。
孟子の言うような仁徳の大道をあえて歩もうなどともしなければ、イエスのほざく
ような重権力犯罪の小道をあえて歩もうなどともしないのがごく普通の状態であり、
だからといって破滅に陥ることもなければ、繁栄に与れるようなこともないものである。
それでいて、あえて歩もうともしないままに歩んでいる道というものがあり、それが
時には大道であったり小道であったり、天道だったり畜生道だったりするのである。
世の中が治世であれば自然と優良な道を歩んでいたりするし、乱世であれば自然と
劣悪な道を歩んでいたりする。資本主義国の株式会社に勤めるだけで多少なりとも
貧困国での餓死を増長させてしまっていたりするのも、概ねは後者の理由によるのであり、
故意に穀物価格を吊り上げて貧困国などに行き渡らせないようにしている確信犯ほどでも
ない限りは、何らの悪意もないままに人の命すらをも奪う罪を重ねていたりするのである。
特定の道を歩もうなどとしているわけでもない人間にまで鬼畜道を歩ませてしまった
責任は当然、当世の支配者こそが最大級に負って行き、過失の従犯となってしまった人々は、
最悪でも交通刑務所での短期服役程度の処置を受けるのみである。ということはつまり、
行動即犯罪状態の最悪の乱世においては、特定の道などをあえて歩もうなどともしないほうが
マシだったりもし得るということであり、それはまさに「成すことなくして終わりあり」
という「易経」坤・六三の言葉が正当たり得る場合がある確かな根拠ともなっている。
無為自然第一な道家的見地からすれば、人間は積極的な求道者などではないほうが
より好ましいといえる。もう少し分別を利かした儒家や仏家の見地に即するなら、善道の
求道者であるのは求道者でないよりもよいが、悪道の求道者であるよりは求道者などで
ないほうがマシであるといえる。いずれにしろ、「求道者であること即ち偉い」などと
いう結論にだけは至らないわけで、これだけはあらゆる正統な教学が認めない所だといえる。
それでいて、「求道者であること即ち偉い」というような考え方が今の世の中などでも
それなりに認められてしまっている。それはやはり「信教の自由」などが認められてしまって
いるからでもある。何らかの思想信条を持ってそこにまい進していくことはそれだけでも偉い
ことだとされているから、あらゆる正学正教が認めることのない考え方までもが通っている。
しかれば、「信教の自由」というものもまた、正統な教学に即して是とできるものではない
のだといえる。信教の自由などが認められてしまっている以上は、求道者の無条件な礼賛にも
繋がってしまうから、それを非とする正学に即して信教の自由などを認めることもできないのである。
正統な学問や信教こそは、求道が求道だからといって是とされるようなことをよしとしたりも
しないわけだから、正学や正教こそはそんなに目だって求道的でもなかったりするのである。
厳しい修行に励む聖道門の仏門こそは山中に寺を構えて修行する姿を衆目から逸らしたりする。
それでいて無戒律の浄土門は行いが全く求道的でなかったりするから、仏門自体、見てくれの
敬虔さばかりを作り込む類いの他信教などと比べて「なってない」扱いをされたりもするが、
そんなことはない、むしろあからさまに求道的すぎたりしない所こそは教育的要素でもある。
求道ばかりにめくら滅法でもない所にこそある正道にこそ、まずは立ち返るべきなのだから。
「踧踧たる周道も、鞫がりて茂草となる。我が心憂傷し、惄焉として擣めるが如し。
仮寐して永嘆し、維れ憂えて用て老ゆ。心の憂えるや、疢くして首を疾ましむが如し」
「かつては広く大きく整備されていた周朝の道(これは実物の道路と理念としての道両方を
意味している)も、塞がって雑草の茂る狭い道と化してしまっている。そのせいで我が心も痛み、
まるんで腹の底から病んでいるかのようだ。寝ても覚めてもずっと嘆くばかりで、このまま老い
さらばえんかの如く。心からの憂いは炎症となって頭を痛めるようだ。(狭い道では所詮万人を
導くことができないから、良識あるこの詩の作者は善道が狭まっていることから嘆いたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小弁より)
それなりに認められてしまっている。それはやはり「信教の自由」などが認められてしまって
いるからでもある。何らかの思想信条を持ってそこにまい進していくことはそれだけでも偉い
ことだとされているから、あらゆる正学正教が認めることのない考え方までもが通っている。
しかれば、「信教の自由」というものもまた、正統な教学に即して是とできるものではない
のだといえる。信教の自由などが認められてしまっている以上は、求道者の無条件な礼賛にも
繋がってしまうから、それを非とする正学に即して信教の自由などを認めることもできないのである。
正統な学問や信教こそは、求道が求道だからといって是とされるようなことをよしとしたりも
しないわけだから、正学や正教こそはそんなに目だって求道的でもなかったりするのである。
厳しい修行に励む聖道門の仏門こそは山中に寺を構えて修行する姿を衆目から逸らしたりする。
それでいて無戒律の浄土門は行いが全く求道的でなかったりするから、仏門自体、見てくれの
敬虔さばかりを作り込む類いの他信教などと比べて「なってない」扱いをされたりもするが、
そんなことはない、むしろあからさまに求道的すぎたりしない所こそは教育的要素でもある。
求道ばかりにめくら滅法でもない所にこそある正道にこそ、まずは立ち返るべきなのだから。
「踧踧たる周道も、鞫がりて茂草となる。我が心憂傷し、惄焉として擣めるが如し。
仮寐して永嘆し、維れ憂えて用て老ゆ。心の憂えるや、疢くして首を疾ましむが如し」
「かつては広く大きく整備されていた周朝の道(これは実物の道路と理念としての道両方を
意味している)も、塞がって雑草の茂る狭い道と化してしまっている。そのせいで我が心も痛み、
まるんで腹の底から病んでいるかのようだ。寝ても覚めてもずっと嘆くばかりで、このまま老い
さらばえんかの如く。心からの憂いは炎症となって頭を痛めるようだ。(狭い道では所詮万人を
導くことができないから、良識あるこの詩の作者は善道が狭まっていることから嘆いたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小弁より)

幕営で知謀を巡らす将校ならともかく、先陣を切って敵に突っ込んで行く兵士などには勇墳こそが第一である。
武技を繰り出す瞬間などには、もはや心に省みることもない無念無想の境地であったほうがよい。
仁政を敷くために、しごく穏健な手段で無血なままに各地の城を攻め落としていった高祖劉邦のような偉人もいる。
結局、どんなに聞こえのいい言葉であっても、適切な場合わけを欠く以上はいくらでも例外を想定できる。
なおかつ、その例外こそは堂に入った正当性をも帯びていて、単なる揚げ足取りの域に止まっていなかったりする。
だからこそ、どんなに字面でよさげな言葉を吐いたりするよりも、まずは場合わけをよく尽くすこと、
特に、自分自身の身の程をわきまえた分相応の言葉のみを述べることのほうが大事なのである。
場合わけをちゃんと尽くしすらすればいい結果をも招くにもかかわらず、場合わけを欠いたせいで
破滅的な事態を招いた事例に「日の丸の濫用」がある。日の丸自体は、古くから武将の旗印や軍扇模様
などとして好んで用いられて来たものである。ただ、日の丸には「戦意の鼓舞」という明確な利用目的が
伴っていたものだから、常日頃からどこでも用いることなどは避けられていたのである。それが明治以降、
島津斉彬の発案で日章旗が日本の国旗として正式に採用されることとなり、時と場合とを選ばすどこでも日の丸が
掲げられるようになった。それにより日本人も潜在面からの戦意を増長させていって、挙句には太東亜戦争での
兵站無視な特攻玉砕といった無鉄砲な戦いにすら及ばせていって、それが原因での敗戦にすら見舞わせたのだった。
(戦国時代に日の丸を旗印として用いていた武田軍や石田三成も、好戦主義が過ぎて最終勝利には至れなかった)
場合わけを無視してまで用いたい美しい言葉だとか、立派な記号だとかは概念上にはいくらでもあるものである。
しかし、それをめくら滅法に現実で用いたからといっていい結果を招くわむでもない。それは、この世界この宇宙が
「諸法実相」の真理にこそ司られているからで、実相ありのままこそを最大級に尊ぶことと比べれば、概念上の
理想などを人工的に現実化させて行くことなどのほうが、どうしても最善の結果には至らないからである。
日の丸に関して言えば、戦意を鼓舞したり武運長久を願ったりすべき時に限って用いるという場合わけを尽くせば、
かえって最盛期の武田軍のような強大さにすら繋がるものである。それは要するに、よろしき理念を実相に即して
適正利用するからこその福果の獲得なのであり、理念自体はそういった形での善用も可能なのである。
四書五経の言葉なども、特に穏健なものが多いが、それも治世を実現するための仁政の実践目的に特化された
ものだからである。最悪の乱世の只中から頑なにそのようなあり方ばかりでいようとすればバカを見ることにも
なりかねないから、経書とは相反するような教えをも多々含む兵法などをも兼修するようにしたほうがよい。
そういうことがあるものだから、絶対的な金科玉条にしていいような特定の言葉などというものもないのだといえる。
絶対的な金科玉条にさせようなどとする言葉こそは、人々に何らかの過ちを犯させる言葉に違いないのである。
「彼れ何人ぞや、河の麋りに居て。拳無く勇無くして、職に乱階を為す。
既に微にして且つ尰なる、爾じの勇や伊れ何に。猶を為すや将た多く、爾じが居る徒は幾何なる」
「川のほとり(危うい場所の喩え)にいるあいつは何者だ。力も勇気もないままに、世を乱す。
(危うい)水際ばかりにいるものだからその足もふやけて腫れている、おまえの勇気はどこにある。
陰湿な悪巧みばかりを為しているが、おまえの仲間は何人いるのやら。(勇無きが陰謀に繋がる悪例の提示)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
しかし、それをめくら滅法に現実で用いたからといっていい結果を招くわむでもない。それは、この世界この宇宙が
「諸法実相」の真理にこそ司られているからで、実相ありのままこそを最大級に尊ぶことと比べれば、概念上の
理想などを人工的に現実化させて行くことなどのほうが、どうしても最善の結果には至らないからである。
日の丸に関して言えば、戦意を鼓舞したり武運長久を願ったりすべき時に限って用いるという場合わけを尽くせば、
かえって最盛期の武田軍のような強大さにすら繋がるものである。それは要するに、よろしき理念を実相に即して
適正利用するからこその福果の獲得なのであり、理念自体はそういった形での善用も可能なのである。
四書五経の言葉なども、特に穏健なものが多いが、それも治世を実現するための仁政の実践目的に特化された
ものだからである。最悪の乱世の只中から頑なにそのようなあり方ばかりでいようとすればバカを見ることにも
なりかねないから、経書とは相反するような教えをも多々含む兵法などをも兼修するようにしたほうがよい。
そういうことがあるものだから、絶対的な金科玉条にしていいような特定の言葉などというものもないのだといえる。
絶対的な金科玉条にさせようなどとする言葉こそは、人々に何らかの過ちを犯させる言葉に違いないのである。
「彼れ何人ぞや、河の麋りに居て。拳無く勇無くして、職に乱階を為す。
既に微にして且つ尰なる、爾じの勇や伊れ何に。猶を為すや将た多く、爾じが居る徒は幾何なる」
「川のほとり(危うい場所の喩え)にいるあいつは何者だ。力も勇気もないままに、世を乱す。
(危うい)水際ばかりにいるものだからその足もふやけて腫れている、おまえの勇気はどこにある。
陰湿な悪巧みばかりを為しているが、おまえの仲間は何人いるのやら。(勇無きが陰謀に繋がる悪例の提示)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
この世には善悪があり、最善を尽くすということも最悪の限りを尽くすということも
それなりに可能である。だからこそ、いずれかの道を尽くした場合に、
一定の必然性に即してことが運ばれて行っているように感じられたりもする。
しかしそれは、別に神の采配だなんだがあるからではなく、この世に遍在する
善悪の普遍的基準が自然とそうさせるものである。超俗的な観点からいえば
世の中が虚妄であるが故に善悪も虚妄であり、世の中でことを穏便に運んでいった
結果として絶対的な必然性が伴っているように思えることもまた一つの虚妄だといえる。
本質的には虚妄であるともわきまえられながら、この世の中に遍在する必然性をも
それなりのものとして認められるものこそは、必然性に惑わされないでいることができる。
感傷的に翻弄されたりもすることがないからこそ、最善を尽くす道と最悪を尽くす道とをよく
分別して、後者を除けて前者のみを歩んで行く所にある必然性をも的確に享受することができる。
必然性が必然的だからといって惑わされている人間などにそれは不可能であり、必然的な法則全般を
ウレシがっていた結果として、より歩みやすい悪を尽くす道のほうにばかり陥ってしまうのである。
故に、善悪だとか、それに基づく世の中の必然性だとかを、超俗的な観点から諦観しておくことが
善良なこととして奨められるのである。いま日本で最大級の政商利権を形作っている旧長宗我部勢
なぞも、戦国期には四国中の寺院を破壊し回って不興を買ってもいたわけで、世の内側で悪の法則に
溺れたがっていたがるような連中にとってこそ、超俗からの世俗法則の諦観などは都合が悪いのである。
世俗での究極悪が「政商」であることはすでに実証的にも述べてきたことだが、この世における
悪の法則を避けて善の法則に与ろうとする者ならば、自らが政商と化すことぐらいは避けるものだ。
しかし、そのような志向性を持たないままに、この世が一定の法則性に司られていること全般を
ウレシがっているようならば、より大きな威力を奮える手段としての政商にすら手を出しかねない。
それなりに可能である。だからこそ、いずれかの道を尽くした場合に、
一定の必然性に即してことが運ばれて行っているように感じられたりもする。
しかしそれは、別に神の采配だなんだがあるからではなく、この世に遍在する
善悪の普遍的基準が自然とそうさせるものである。超俗的な観点からいえば
世の中が虚妄であるが故に善悪も虚妄であり、世の中でことを穏便に運んでいった
結果として絶対的な必然性が伴っているように思えることもまた一つの虚妄だといえる。
本質的には虚妄であるともわきまえられながら、この世の中に遍在する必然性をも
それなりのものとして認められるものこそは、必然性に惑わされないでいることができる。
感傷的に翻弄されたりもすることがないからこそ、最善を尽くす道と最悪を尽くす道とをよく
分別して、後者を除けて前者のみを歩んで行く所にある必然性をも的確に享受することができる。
必然性が必然的だからといって惑わされている人間などにそれは不可能であり、必然的な法則全般を
ウレシがっていた結果として、より歩みやすい悪を尽くす道のほうにばかり陥ってしまうのである。
故に、善悪だとか、それに基づく世の中の必然性だとかを、超俗的な観点から諦観しておくことが
善良なこととして奨められるのである。いま日本で最大級の政商利権を形作っている旧長宗我部勢
なぞも、戦国期には四国中の寺院を破壊し回って不興を買ってもいたわけで、世の内側で悪の法則に
溺れたがっていたがるような連中にとってこそ、超俗からの世俗法則の諦観などは都合が悪いのである。
世俗での究極悪が「政商」であることはすでに実証的にも述べてきたことだが、この世における
悪の法則を避けて善の法則に与ろうとする者ならば、自らが政商と化すことぐらいは避けるものだ。
しかし、そのような志向性を持たないままに、この世が一定の法則性に司られていること全般を
ウレシがっているようならば、より大きな威力を奮える手段としての政商にすら手を出しかねない。
政商にまつわる上記のような実例一つを見ても、この世における必然性が一つばかりではないことが
分かる。自らが政商とまで化すか、政商にまではならないか、最低でもこの二つぐらいの道は拓けて
いて、前者を採れば地獄のような末路に見舞われる一方、後者でいれば最悪の難ぐらいは免れられる。
だからこそ、この世の法則性全般をウレシがるような神経はできる限り排しておくべきだといえる。
「中庸」二〇章にある「国家規模の事業は万全の準備が整ってから実行に移せ」という忠告も、
当然勧善懲悪や断悪修善にかけての準備が万端となることを意味している。最善を尽くすところにも
必然性が存在するから、その機が熟すということも実際にあり得るわけだが、善の法則だけでなく
悪の法則にもかかずらわって、政商との癒着に踏ん切りが付けられないでいたりしたならば、
勧善懲悪の国家事業を実行に移すことができる機会なども永遠にやって来はしないのである。
この世に遍在する法則性を、さらに勧善懲悪や断悪修善に限って享受して行く。これこそは仁政の
指針であり、特に限らないのが無為自然の統治であり、悪逆非道の法則こそを享受して行くのが
破滅への一本道である。政商の横行ぐらいはないようにしておけば、前二つのみでいられるものだ。
「孟子、梁の襄王に見ゆ。出でて人に語りて曰く、之れを望むに人君に似ず、
之れに就いて畏るる所を見ず。卒然と問うて曰く、天下悪くにか定まらんと」
「孟先生は梁国の襄王と会見されたが、退出されてから人にこう言われた。『(どうも、あの王様は
主君たるに相応しい人間ではないようだ。)遠くから見ても主君らしいところがなく、近くにいても
畏怖できるような所がなかった。初対面でも始めから私に〈天下はどう定まるのでしょうか〉
などと聞いてきたのだから』(運命を全て丸投げする者などは人の上に立つ器ではない。
しかもそのような薄弱さこそは、自業自得で乱世を招く原因ともなってしまう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・六より)
分かる。自らが政商とまで化すか、政商にまではならないか、最低でもこの二つぐらいの道は拓けて
いて、前者を採れば地獄のような末路に見舞われる一方、後者でいれば最悪の難ぐらいは免れられる。
だからこそ、この世の法則性全般をウレシがるような神経はできる限り排しておくべきだといえる。
「中庸」二〇章にある「国家規模の事業は万全の準備が整ってから実行に移せ」という忠告も、
当然勧善懲悪や断悪修善にかけての準備が万端となることを意味している。最善を尽くすところにも
必然性が存在するから、その機が熟すということも実際にあり得るわけだが、善の法則だけでなく
悪の法則にもかかずらわって、政商との癒着に踏ん切りが付けられないでいたりしたならば、
勧善懲悪の国家事業を実行に移すことができる機会なども永遠にやって来はしないのである。
この世に遍在する法則性を、さらに勧善懲悪や断悪修善に限って享受して行く。これこそは仁政の
指針であり、特に限らないのが無為自然の統治であり、悪逆非道の法則こそを享受して行くのが
破滅への一本道である。政商の横行ぐらいはないようにしておけば、前二つのみでいられるものだ。
「孟子、梁の襄王に見ゆ。出でて人に語りて曰く、之れを望むに人君に似ず、
之れに就いて畏るる所を見ず。卒然と問うて曰く、天下悪くにか定まらんと」
「孟先生は梁国の襄王と会見されたが、退出されてから人にこう言われた。『(どうも、あの王様は
主君たるに相応しい人間ではないようだ。)遠くから見ても主君らしいところがなく、近くにいても
畏怖できるような所がなかった。初対面でも始めから私に〈天下はどう定まるのでしょうか〉
などと聞いてきたのだから』(運命を全て丸投げする者などは人の上に立つ器ではない。
しかもそのような薄弱さこそは、自業自得で乱世を招く原因ともなってしまう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・六より)

世間においてはあざなわれた縄の如く入り組んでいるからで、実際に
禍を除けて福を招くための勧善懲悪や断悪修善を講ずることもまた、
あざなえる縄を適切に扱っていくがごとき絶妙さを必要とするものである。
縄もらせん状などに編み込まれているからには、それを取り扱うものもまた
螺旋のような絶妙な手際を必要とするものである。天下万人を利せんがために
君臣父子夫婦の序列を正したりすることもそのような絶妙さに即しているのであり、
気に入った相手に一方的に恵みを与えてやることなどと比べればその意義も分かりにくい
ものでもある。しかし、君父の尊位の確立こそは着実な福果を自他にもたらすことができる一方、
隣人への恵みなどは、少数部落の我田引水としてより大きな禍いを招く原因にすらなってしまう。
だからこそ、勧善懲悪や断悪修善を分かりやすさばかりで割り切れることもないのだといえる。
この世において積極的に勧善懲悪や断悪修善を実践して行くことは、易の卦でいえば
「乾」のような男性性をも象徴する事態に相当するものである。しかし、男らしい積極性が
隣人への恵みみたいな単細胞な実践ばかりに移されたのでは、真の勧善懲悪たり得もしない。
男らしいということは単純でもあるということ、思慮深かったりするのは女々しいことであると、
西洋文化や田舎武士の風習が持て囃されている現状では思い込まれてしまっていたりもするが、
いくら積極的であっても、それが隣人愛みたいな勧善懲悪たり得ない実践に落とし込まれた以上は、
かえって自分たちばかりが肥え太るような、男らしくも何ともない結果を招くことになってしまう。
世間での着実な勧善懲悪によって大いなる福を招くことができたなら、それこそは真の男の偉業たり得
もするのであり、そのためには、思慮深さによって着実な仁政を講じていくこともまた必要である。故に、
男らしさが単純さと不可分なものばかりであっていいはずもない。そういう評価基準に即してはかえって
男らしくないとすらとれるような男こそは、真の男たり得る可能性すらをも秘めているのだと知らねばならぬ。
思慮深さをも持ち合わせた男であればこそ、妄りに険を犯したりもしないように務める。
殿軍(しんがり)といえば、総軍が退却する際に最後尾で追っ手を撃退する役割を担うものであり、
それを務めることが非常な危険を伴う上に、殿軍に頼らざるを得なくなるような事態をなるべく
招かないようにするのが兵法上の定石でもあるといえる。それでいて、斉軍に敗れた魯軍のしんがりを
務めた大夫の孟之反は、無事役目を果たして最後に自国の城門をくぐった時に「あえて遅れたのではない、
馬がなかなか進まなかったのだ(雍也第六・一五)」と虚偽の弁解して人々を安心させようとしたのだった。
なるべくなら頼るべきでないしんがりという存在に頼りきってしまった人々の後ろめたさをやわらげて
やるために、あえて自分から進んでしんがりを務めたわけでもないという風に述べてもいたのだった。
ただ功を妄りに誇らないというばかりではない。人々への入念な配慮をも利かし、時にはウソすらをも
方便として用いる、それほどもの機転を利かせられるものこそは、単細胞な男以上にも男らしい存在
たり得もする。治世における仁政でも、乱世における臨戦でも、それなりの男の見せようというものがあり、
むしろ手段自体は男らしいとも言えない先にこそ、より男らしいといえる功業を挙げたりもするのである。
「衛の公孟彄曹を伐ち、郊に克つ。還るに、滑羅殿す。未だ出でずに、列を退かず。其の御曰く、
殿に而て列に在るは、其れ勇無きと為さんか。羅曰く、其の素﨤に与らんよりは、寧ろ勇無きと為さん」
「衛軍の公孟彄が曹軍を討ち、郊という村で勝利を収めた。帰還する際に滑羅がしんがりを
務めたが、まだ曹の国境を出もしないうちから本隊に列したままでいた。御者が滑羅に問うた。
『しんがりでありながら本隊に列したままでいるのでは、勇気のない奴らだなどと思われませんか』
羅は答えた。『不必要に奮い立つよりは、勇気がないとでも思われていたほうがマシだ』
(哀公十一年では、孟之反と共に魯軍の殿将を務めた林不狃というものが、足早な退却を無闇に拒んだ
ために戦死してもいる。重要な役割とはいえ、殿軍として目立とうなどとすべきではないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・定公十二年より)
殿軍(しんがり)といえば、総軍が退却する際に最後尾で追っ手を撃退する役割を担うものであり、
それを務めることが非常な危険を伴う上に、殿軍に頼らざるを得なくなるような事態をなるべく
招かないようにするのが兵法上の定石でもあるといえる。それでいて、斉軍に敗れた魯軍のしんがりを
務めた大夫の孟之反は、無事役目を果たして最後に自国の城門をくぐった時に「あえて遅れたのではない、
馬がなかなか進まなかったのだ(雍也第六・一五)」と虚偽の弁解して人々を安心させようとしたのだった。
なるべくなら頼るべきでないしんがりという存在に頼りきってしまった人々の後ろめたさをやわらげて
やるために、あえて自分から進んでしんがりを務めたわけでもないという風に述べてもいたのだった。
ただ功を妄りに誇らないというばかりではない。人々への入念な配慮をも利かし、時にはウソすらをも
方便として用いる、それほどもの機転を利かせられるものこそは、単細胞な男以上にも男らしい存在
たり得もする。治世における仁政でも、乱世における臨戦でも、それなりの男の見せようというものがあり、
むしろ手段自体は男らしいとも言えない先にこそ、より男らしいといえる功業を挙げたりもするのである。
「衛の公孟彄曹を伐ち、郊に克つ。還るに、滑羅殿す。未だ出でずに、列を退かず。其の御曰く、
殿に而て列に在るは、其れ勇無きと為さんか。羅曰く、其の素﨤に与らんよりは、寧ろ勇無きと為さん」
「衛軍の公孟彄が曹軍を討ち、郊という村で勝利を収めた。帰還する際に滑羅がしんがりを
務めたが、まだ曹の国境を出もしないうちから本隊に列したままでいた。御者が滑羅に問うた。
『しんがりでありながら本隊に列したままでいるのでは、勇気のない奴らだなどと思われませんか』
羅は答えた。『不必要に奮い立つよりは、勇気がないとでも思われていたほうがマシだ』
(哀公十一年では、孟之反と共に魯軍の殿将を務めた林不狃というものが、足早な退却を無闇に拒んだ
ために戦死してもいる。重要な役割とはいえ、殿軍として目立とうなどとすべきではないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・定公十二年より)
誰も読んでないよ笠地蔵。^^
俺が読んでいる。
たとえこの世の中の富が無限大であるとした所で、人々が総出を挙げて過剰な欲望を慎んで
行くのでなければ、必ず世の中が富者と貧者へと両極化してしまうこととなるのである。
この地球上だって、もう少し世界人口が少なくて、人々が仁徳に根ざした分け合いの心がけを
義務的に持ち合わせているようにしたならば、ほとんど無尽蔵なほどもの人間にとっての富や
資源が存在しているとすらいえるわけである。それをわざわざ、他者の利益を横取りしてでも
自分たちばかりが肥え太ろうとする際限のない欲望によって、総体的な貧窮状態に陥らせている。
地球上ですらそのようでしかいられないのだから、地球外に飛び出して新たな惑星世界などを
形作った所で、きっとまた同じ過ちを繰り返すに違いない。世の中を餓鬼と畜生に両極化させて
しまう程もの不埒な欲求を自分たち自身が正して行くのでなければ、絶対にそうでしかあり得ない。
自らに適切な自制心が伴っているということが、自力作善を志す聖賢のみならず、他力本願で
いようとする凡人にすら多少は必要となる。無戒律とされる浄土門においても、弥陀の本願に即して
五逆(父母殺し、僧侶の殺傷、僧団破壊)や誹謗正法の禁止程度の戒めは必ず守る。そんな行いは、
普通に考えてもしないでいて当たり前なことなわけだけれども、自らに固く禁ずる所のものがある
ということ自体が、信者たちの心象からの健全さを養生させる指針ともなる。そういった方向性が
他力本願を旨とする人間にすら備わっているのでなければ、世の中が餓鬼と畜生に両極化する
ことでの総体的な貧窮に見舞われたりしないでいられることを保証できもしないのである。
たとえこの世の中の富が無限大であるとした所で、人々が総出を挙げて過剰な欲望を慎んで
行くのでなければ、必ず世の中が富者と貧者へと両極化してしまうこととなるのである。
この地球上だって、もう少し世界人口が少なくて、人々が仁徳に根ざした分け合いの心がけを
義務的に持ち合わせているようにしたならば、ほとんど無尽蔵なほどもの人間にとっての富や
資源が存在しているとすらいえるわけである。それをわざわざ、他者の利益を横取りしてでも
自分たちばかりが肥え太ろうとする際限のない欲望によって、総体的な貧窮状態に陥らせている。
地球上ですらそのようでしかいられないのだから、地球外に飛び出して新たな惑星世界などを
形作った所で、きっとまた同じ過ちを繰り返すに違いない。世の中を餓鬼と畜生に両極化させて
しまう程もの不埒な欲求を自分たち自身が正して行くのでなければ、絶対にそうでしかあり得ない。
自らに適切な自制心が伴っているということが、自力作善を志す聖賢のみならず、他力本願で
いようとする凡人にすら多少は必要となる。無戒律とされる浄土門においても、弥陀の本願に即して
五逆(父母殺し、僧侶の殺傷、僧団破壊)や誹謗正法の禁止程度の戒めは必ず守る。そんな行いは、
普通に考えてもしないでいて当たり前なことなわけだけれども、自らに固く禁ずる所のものがある
ということ自体が、信者たちの心象からの健全さを養生させる指針ともなる。そういった方向性が
他力本願を旨とする人間にすら備わっているのでなければ、世の中が餓鬼と畜生に両極化する
ことでの総体的な貧窮に見舞われたりしないでいられることを保証できもしないのである。
際限のない欲望で世の中を貧窮に陥れている張本人であるような人間こそは、世の中が奪う者と
奪われる者とに両極化してしまうことを「仕方のないことだ」などと言って正当化しようとする。
もちろん仕方のないことでも何でもないわけで、他でもないおまえ自身が欲望まみれの性向を
正したなら、あっという間にそのような事態は解消されるのである。しかし、自分自身が性向を
正す気になれないものだから、事態を解消して行くこともままならない、だから仕方のないことだ
とする。そのような詭弁論理に陥ってしまっている人間はもはや、外的な矯正を施されるのでも
なければ、自らの考えが過ちであることに気づくきっかけを得ることもできはしないのである。
「際限のない欲望が横行する以上は総体的な貧窮に見舞われる」とか、「冤罪で罪が解消される
ことなどは被害者の立場からいってもあり得ない」とかいったことは、わざわざ実証例を挙げる
までもない思考実験によって自明に明らかとなることである。にもかかわらずそれを解さない
人間は必ず、人並み以上に注意力が欠けている。その注意欠陥に基づく社会的害悪度が過ぎる
ようであるのならば、本人たちに病識がないとしたところで、有害型の精神障害として制限措置や
強制治療の対象ともしていかねばならない。でなければ本当に世の中も立ち行かなくなるのだから。
それが自明に不正なことであるからこそ、際限のない欲望を満たしてくれる神だとか、冤罪で
罪を解消してくれるとされる神などを信じたりしてもならない。そのような神は紛れもない
邪神であり、そのような神を信じたりすることも紛れもない邪信であるのだから、自明に
邪まであることを思い知ることでこそ、そのような神への信仰を自他に禁ずべきである。
「願いて則ち嚏す。〜願いて則ち懐む」
「願ってばかりで気が詰まる。願ってばかりで心が痛む。(渇望それ自体が心痛である。
仏教などでよく教えられることだが、この詩の成立は仏教創始以前でもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・終風より)
奪われる者とに両極化してしまうことを「仕方のないことだ」などと言って正当化しようとする。
もちろん仕方のないことでも何でもないわけで、他でもないおまえ自身が欲望まみれの性向を
正したなら、あっという間にそのような事態は解消されるのである。しかし、自分自身が性向を
正す気になれないものだから、事態を解消して行くこともままならない、だから仕方のないことだ
とする。そのような詭弁論理に陥ってしまっている人間はもはや、外的な矯正を施されるのでも
なければ、自らの考えが過ちであることに気づくきっかけを得ることもできはしないのである。
「際限のない欲望が横行する以上は総体的な貧窮に見舞われる」とか、「冤罪で罪が解消される
ことなどは被害者の立場からいってもあり得ない」とかいったことは、わざわざ実証例を挙げる
までもない思考実験によって自明に明らかとなることである。にもかかわらずそれを解さない
人間は必ず、人並み以上に注意力が欠けている。その注意欠陥に基づく社会的害悪度が過ぎる
ようであるのならば、本人たちに病識がないとしたところで、有害型の精神障害として制限措置や
強制治療の対象ともしていかねばならない。でなければ本当に世の中も立ち行かなくなるのだから。
それが自明に不正なことであるからこそ、際限のない欲望を満たしてくれる神だとか、冤罪で
罪を解消してくれるとされる神などを信じたりしてもならない。そのような神は紛れもない
邪神であり、そのような神を信じたりすることも紛れもない邪信であるのだから、自明に
邪まであることを思い知ることでこそ、そのような神への信仰を自他に禁ずべきである。
「願いて則ち嚏す。〜願いて則ち懐む」
「願ってばかりで気が詰まる。願ってばかりで心が痛む。(渇望それ自体が心痛である。
仏教などでよく教えられることだが、この詩の成立は仏教創始以前でもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・終風より)
よく本人たちの言うことを味わいつつ「孟子」や「荀子」を読んでみれば、孟子の言い分には心の底から
突き動かされるような厚みがあることがうかがえる一方、荀子の言い分は薄っぺらくて、どこか読者の
機嫌をうかがうような下卑た態度と思えざるを得ないような所がある。孟子は孔子のいう「巧言令色」
を排している一方、荀子はそのあたりを排しきれていない。だからこそ存命中に李斯や韓非のような、
腐敗まみれな時の権力者に好まれるほどもの門弟を多数排出しもしたのだが、同時にそのせいで
李斯や韓非を拷問死や服毒死や一族郎党皆殺しのような非業の運命に追いやりもしたのだった。
結局、その学知の真偽については、孟子だけでなく荀子もそれなりの信憑性が置けるものである。
しかし、その自説の真偽については、孟子の自説のほうが真であり、荀子の自説のほうが偽であった。
性善説こそは真であり、性悪説こそは偽であるから、孟子の言行には心動かされる一方、荀子の言行には
目を見張る程度のことはあっても、心動かされるまでのことはない。そこが両者の優劣を決定的に分かっている。
人間の本性こそは善だから、本性を見失って悪人と化してしまった人間をその心から矯正して行って
やったりすることもできない。あくまで刑罰や身分差別のような厳酷な実力行使によって、本性の自省を
可能とできるような環境にまず持って行ってやらねばならない。実際のところ、世の中というものもそういう風に
していかなければ埒が明かないようにもなっているから、社会的な実証に即しても孟子の性善説のほうが真であり、
本性の悪を外的な礼儀礼節によって正して行くべきだとする荀子の自説のほうが偽であるとも断じられるのである。
突き動かされるような厚みがあることがうかがえる一方、荀子の言い分は薄っぺらくて、どこか読者の
機嫌をうかがうような下卑た態度と思えざるを得ないような所がある。孟子は孔子のいう「巧言令色」
を排している一方、荀子はそのあたりを排しきれていない。だからこそ存命中に李斯や韓非のような、
腐敗まみれな時の権力者に好まれるほどもの門弟を多数排出しもしたのだが、同時にそのせいで
李斯や韓非を拷問死や服毒死や一族郎党皆殺しのような非業の運命に追いやりもしたのだった。
結局、その学知の真偽については、孟子だけでなく荀子もそれなりの信憑性が置けるものである。
しかし、その自説の真偽については、孟子の自説のほうが真であり、荀子の自説のほうが偽であった。
性善説こそは真であり、性悪説こそは偽であるから、孟子の言行には心動かされる一方、荀子の言行には
目を見張る程度のことはあっても、心動かされるまでのことはない。そこが両者の優劣を決定的に分かっている。
人間の本性こそは善だから、本性を見失って悪人と化してしまった人間をその心から矯正して行って
やったりすることもできない。あくまで刑罰や身分差別のような厳酷な実力行使によって、本性の自省を
可能とできるような環境にまず持って行ってやらねばならない。実際のところ、世の中というものもそういう風に
していかなければ埒が明かないようにもなっているから、社会的な実証に即しても孟子の性善説のほうが真であり、
本性の悪を外的な礼儀礼節によって正して行くべきだとする荀子の自説のほうが偽であるとも断じられるのである。
聖書信仰が厳禁されていた江戸時代までと、
解禁された維新後とでは、極端な社会構造の変節が生じた。
道徳力や武力などの実力で世を治めていた武士がその立場を追われ、
実力なんか何もない代わりに、武士と小作人、武士と工匠などの仲介役を
ピエロ的な立場として担っていた、庄屋や問屋や豪商などが支配者に躍り出た。
「自由民権」だの「国民主権」だのの、欺瞞的な言葉遊びをあてがったところで、
「被支配者は支配者のあり方に倣う」という、易学にも根ざした普遍法則によって、
日本国民も元庄屋の政治家などのあり方に倣って、ろくでもない性格ばかりと化した。
為政者が武士のような一端の道徳者であれば、ちゃんと民までもが生真面目でいたのに、
おちゃらけピエロに過ぎない庄屋や問屋の出身者などが支配者と化したために、イヤでも
全国民がふざけきった道化のような佇まいであることを強制させられる破目となった。
そんなことがもう二度とないようにするためには、やはり武士並みの道徳者が為政者で
ある必要がある。武士並みの道徳者が為政者であるためには、人間道徳に致命的に反する
カルトの邪義の詰め合わせである聖書信仰の、完全に永久なる根絶もまた不可避なこと。
聖書信仰を根絶することで、確かに世の中の体質構造の着実な改善が見込める。
今の日本国民の勤勉さもまた、江戸時代までの徳治によってこそ養われたものなので、
このままその勤勉さを食いつぶすだけでは、いつかは日本人も聖書信者並みの畜群と
化してしまいかねない。日本国民の勤勉さや生真面目さを消費するだけではなく、
新たに補充してもいくために、さらには全世界の人々にも日本人並みの人としての
優秀さを広めていくために、聖書信仰の根絶による徳治の復興が有効であるといえる。
解禁された維新後とでは、極端な社会構造の変節が生じた。
道徳力や武力などの実力で世を治めていた武士がその立場を追われ、
実力なんか何もない代わりに、武士と小作人、武士と工匠などの仲介役を
ピエロ的な立場として担っていた、庄屋や問屋や豪商などが支配者に躍り出た。
「自由民権」だの「国民主権」だのの、欺瞞的な言葉遊びをあてがったところで、
「被支配者は支配者のあり方に倣う」という、易学にも根ざした普遍法則によって、
日本国民も元庄屋の政治家などのあり方に倣って、ろくでもない性格ばかりと化した。
為政者が武士のような一端の道徳者であれば、ちゃんと民までもが生真面目でいたのに、
おちゃらけピエロに過ぎない庄屋や問屋の出身者などが支配者と化したために、イヤでも
全国民がふざけきった道化のような佇まいであることを強制させられる破目となった。
そんなことがもう二度とないようにするためには、やはり武士並みの道徳者が為政者で
ある必要がある。武士並みの道徳者が為政者であるためには、人間道徳に致命的に反する
カルトの邪義の詰め合わせである聖書信仰の、完全に永久なる根絶もまた不可避なこと。
聖書信仰を根絶することで、確かに世の中の体質構造の着実な改善が見込める。
今の日本国民の勤勉さもまた、江戸時代までの徳治によってこそ養われたものなので、
このままその勤勉さを食いつぶすだけでは、いつかは日本人も聖書信者並みの畜群と
化してしまいかねない。日本国民の勤勉さや生真面目さを消費するだけではなく、
新たに補充してもいくために、さらには全世界の人々にも日本人並みの人としての
優秀さを広めていくために、聖書信仰の根絶による徳治の復興が有効であるといえる。
相手を貶めてから救ってやろうなどという、マッチポンプを作為的に講じようと
する者の心象というのは、本質的に「不埒」なものである。始めから危害などを
加えることなく仁政を施してやったりすることと比べて、明らかに最善を尽くす
姿勢ではない。不埒な遊び心によって他者に危害を加えて、それから救って
やろうとするのは、明らかに神の仮面をかぶった悪魔の所業であるといえる。
マッチポンプなど完全に排して、万人救済にかけての最善を尽くしたところで、
それで万人が救えるとも知れない。人間社会での仁政を尽くしても、予期せぬ
自然災害などによって人々が大きな危害を被ったりもする。そのような危害によって
人々が心を荒ませて、詐欺や強盗などの人為的危害を企てたりもしかねないから、
(ちょうど天明の大飢饉の直後に江戸中で火付け盗賊が横行したりしたように)
仁政にかけての最善策である「修己治人」の限りすらをも尽くしたとしても、
それで人々を心中から治めきれるかどうかすらもが知れないのである。
特に作為的に危害を加えたりしなくとも腐敗したりしやすいのが世の中というもの
だから、そこでさらにマッチポンプなどを講じたなら、必ずプラスマイナスゼロ
以下の悲惨な結果を招いてしまうのである。マッチポンプを講じようとする者たち
自身の心象もまた不埒なものだから、修己治人とは逆に人々の心を荒ませてしまい、
世の中の自ずからの腐敗を自然状態以上にも活性化すらさせてしまう。だから、
マッチポンプはプラスマイナスゼロ以下の結果を招くのみならず、世の中の
腐敗を大々的に推進して行く虐政のキャンペーンにすらなってしまうのである。
世の中を一概によくして行こうなどとまでせずとも、支配者が無為自然を決め込む
ことで、人々の自ずからの良心に基づく治世を実現して行くこともまた不可能ではない。
する者の心象というのは、本質的に「不埒」なものである。始めから危害などを
加えることなく仁政を施してやったりすることと比べて、明らかに最善を尽くす
姿勢ではない。不埒な遊び心によって他者に危害を加えて、それから救って
やろうとするのは、明らかに神の仮面をかぶった悪魔の所業であるといえる。
マッチポンプなど完全に排して、万人救済にかけての最善を尽くしたところで、
それで万人が救えるとも知れない。人間社会での仁政を尽くしても、予期せぬ
自然災害などによって人々が大きな危害を被ったりもする。そのような危害によって
人々が心を荒ませて、詐欺や強盗などの人為的危害を企てたりもしかねないから、
(ちょうど天明の大飢饉の直後に江戸中で火付け盗賊が横行したりしたように)
仁政にかけての最善策である「修己治人」の限りすらをも尽くしたとしても、
それで人々を心中から治めきれるかどうかすらもが知れないのである。
特に作為的に危害を加えたりしなくとも腐敗したりしやすいのが世の中というもの
だから、そこでさらにマッチポンプなどを講じたなら、必ずプラスマイナスゼロ
以下の悲惨な結果を招いてしまうのである。マッチポンプを講じようとする者たち
自身の心象もまた不埒なものだから、修己治人とは逆に人々の心を荒ませてしまい、
世の中の自ずからの腐敗を自然状態以上にも活性化すらさせてしまう。だから、
マッチポンプはプラスマイナスゼロ以下の結果を招くのみならず、世の中の
腐敗を大々的に推進して行く虐政のキャンペーンにすらなってしまうのである。
世の中を一概によくして行こうなどとまでせずとも、支配者が無為自然を決め込む
ことで、人々の自ずからの良心に基づく治世を実現して行くこともまた不可能ではない。
それがいわゆる道家的統治というもので、前漢の五代文帝の統治などがその成功例
として史実上にも存在するが、仮にマッチポンプの支配を講じたのならば、そのような
無為自然の統治による治世すらもが期待できなくなる。為政者が安静を決め込むという
こと自体一つの修己治人であり、情動にかられやすい小民たちにとっての鎮静剤的な
役割を果たすものであるけれども、マッチポンプを講ずる支配者にはそのような虚勢さ
も伴っていないものだから、無為自然の統治とも相容れることがないのである。
結局、マッチポンプを基調とした支配というのは最悪級の支配構造であるわけで、
ただただ被支配者を一方的に痛めつけ尽くすのが「悪の支配」であるとするならば、
貶めて救うマッチポンプの支配は「偽善の支配」であるといえ、これもまた本質的には
悪の支配であるといえる。秦帝国による支配のようなあからさまな悪逆非道の支配と
比べれば、被支配者に「気休め」の余地が生ずるから、マッチポンプによる偽善の支配
はより延命が可能であるという点のみが異なる。無論、延命を講じた結果としてより
悲惨な破滅的結果を招いたりもしかねないわけだから、一概な悪逆非道の支配と
比べてマシな支配であるということすらない。五十歩百歩の虐政同士として、
早急かつ恒久的な撲滅の対象としていくに越したことはないものであるといえる。
「慈しめば則ち忠たり」
「支配者が慈しみ深くあれば、被支配者もまた忠義深くなる。
(真に慈しみ深い支配者の下には、懲らしめの対象にしていいような被支配者もいないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・為政第二・二〇より)
として史実上にも存在するが、仮にマッチポンプの支配を講じたのならば、そのような
無為自然の統治による治世すらもが期待できなくなる。為政者が安静を決め込むという
こと自体一つの修己治人であり、情動にかられやすい小民たちにとっての鎮静剤的な
役割を果たすものであるけれども、マッチポンプを講ずる支配者にはそのような虚勢さ
も伴っていないものだから、無為自然の統治とも相容れることがないのである。
結局、マッチポンプを基調とした支配というのは最悪級の支配構造であるわけで、
ただただ被支配者を一方的に痛めつけ尽くすのが「悪の支配」であるとするならば、
貶めて救うマッチポンプの支配は「偽善の支配」であるといえ、これもまた本質的には
悪の支配であるといえる。秦帝国による支配のようなあからさまな悪逆非道の支配と
比べれば、被支配者に「気休め」の余地が生ずるから、マッチポンプによる偽善の支配
はより延命が可能であるという点のみが異なる。無論、延命を講じた結果としてより
悲惨な破滅的結果を招いたりもしかねないわけだから、一概な悪逆非道の支配と
比べてマシな支配であるということすらない。五十歩百歩の虐政同士として、
早急かつ恒久的な撲滅の対象としていくに越したことはないものであるといえる。
「慈しめば則ち忠たり」
「支配者が慈しみ深くあれば、被支配者もまた忠義深くなる。
(真に慈しみ深い支配者の下には、懲らしめの対象にしていいような被支配者もいないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・為政第二・二〇より)
人間が世の中を健全に営んでいくためには、必ず一定以上の精神力が必要となる。文明社会というもの
からして人間にこそ特有のものであり、動物レベルの知能で作り上げられたりするようなものではない。
ライオンやクマのような猛獣ですら、大きな音や火を恐れたりするほどにも臆病であり、人間にこそ
特有な精神力の旺盛さに根ざした大勇などを抱けたりすることもない。人間こそは万物の霊長であるが、
そうあらしめているのも他でもない、動物以上にも突出した精神力の高さなのであり、その精神力に
よってのみ、発達した脳が司っている知能を健全に活用していくことまでもが可能となるのである。
人間としての発達した知能に見合った精神力が伴っている場合にのみ、人は健全な社会活動を営むことが
できる。そうであるからには、精神力の旺盛な人間にほど大きな社会的役割を担わせるべきであり、
貧弱な精神力しか持ち合わせていないような人間は軽い役割や無役に止めさせるべきだといえる。
知能自体は、四書五経を読みこなせる程度の能力があれば十分である。それ以上の知能があっても
精神のほうが薄弱だったりするようじゃ、大いなる悪知恵を存分に悪用するようなことになるだけだし、
高度な知能も精神力も兼ね備えているとした所で、社会的な大役などよりは、高僧としての大成あたり
のほうが見合うことになる。突出した知能の高さがかえって、仁者同士の和を乱すようなことにすら
なりかねないから、高度な知能も精神力もあるような人間は、もはや全ての俗人が畏敬するに値する
ような立場にいてくれてもらったほうがよかったりするのである。旺盛な精神力と高度な知能を
兼ね備えている人間などというものがどうしたって少数派であらざるを得ないからこそ、そう言えるのだ。
からして人間にこそ特有のものであり、動物レベルの知能で作り上げられたりするようなものではない。
ライオンやクマのような猛獣ですら、大きな音や火を恐れたりするほどにも臆病であり、人間にこそ
特有な精神力の旺盛さに根ざした大勇などを抱けたりすることもない。人間こそは万物の霊長であるが、
そうあらしめているのも他でもない、動物以上にも突出した精神力の高さなのであり、その精神力に
よってのみ、発達した脳が司っている知能を健全に活用していくことまでもが可能となるのである。
人間としての発達した知能に見合った精神力が伴っている場合にのみ、人は健全な社会活動を営むことが
できる。そうであるからには、精神力の旺盛な人間にほど大きな社会的役割を担わせるべきであり、
貧弱な精神力しか持ち合わせていないような人間は軽い役割や無役に止めさせるべきだといえる。
知能自体は、四書五経を読みこなせる程度の能力があれば十分である。それ以上の知能があっても
精神のほうが薄弱だったりするようじゃ、大いなる悪知恵を存分に悪用するようなことになるだけだし、
高度な知能も精神力も兼ね備えているとした所で、社会的な大役などよりは、高僧としての大成あたり
のほうが見合うことになる。突出した知能の高さがかえって、仁者同士の和を乱すようなことにすら
なりかねないから、高度な知能も精神力もあるような人間は、もはや全ての俗人が畏敬するに値する
ような立場にいてくれてもらったほうがよかったりするのである。旺盛な精神力と高度な知能を
兼ね備えている人間などというものがどうしたって少数派であらざるを得ないからこそ、そう言えるのだ。
人は、勧善懲悪や断悪修善の楽しみ、それに最低限悪を為さないでいることの安らぎを
知ればこそ、好き好んで悪を為すことが一概な苦しみであるが故の恥というものを知る。
「悪を為すということは、善を為すことや悪を為さないことと比べれば根本的な苦しみである」
という事実関係への知悉もないままに、好き好んで悪を為すことで苦しんでいるわけだから、
それが根本的無知ゆえの自業自得の苦しみであるが故に、恥であると見なせるのである。
盗みや殺人のような罪悪を好き好んで積み重ねようとする邪神などもまた、己れの恥さらし
加減もわきまえぬ無知の象徴でこそある。そんな神が実在した所で「頭隠して尻隠さず」の
恥さらしだし、架空の神であるとしたなら、そんな神を思いついて捏造した人間たち自身が
物事の本質をろくにわきまえることもできない痴人であったことが紛れもないのである。
人が限りある命を持つ生き物として、また永久不変の絶対真理すらをも理解できる存在として
本当に知っておくべき物事というのは、多いようでいて実は限られている。上の罪福異熟に
まつわる知識などはそのうちの一つであり、このような事実関係すらをも了解していない
ことこそは根本的無知にあたり、まだまだ全知全能などをめざすどころの話ですらない。
一応知識としては把握しているが、雑多な知識に惑わされてその重要性を疎かにし、
そんなことがないにもかかわらず「そうでない場合もあり得る」というような知見の変節に
及んでしまうことがある、これもまた根本的無知の一つであるといえ、そもそも大切なことを
始めから知らないでいた場合以上にも、その過ちを正してやることが困難なものだったりする。
知ればこそ、好き好んで悪を為すことが一概な苦しみであるが故の恥というものを知る。
「悪を為すということは、善を為すことや悪を為さないことと比べれば根本的な苦しみである」
という事実関係への知悉もないままに、好き好んで悪を為すことで苦しんでいるわけだから、
それが根本的無知ゆえの自業自得の苦しみであるが故に、恥であると見なせるのである。
盗みや殺人のような罪悪を好き好んで積み重ねようとする邪神などもまた、己れの恥さらし
加減もわきまえぬ無知の象徴でこそある。そんな神が実在した所で「頭隠して尻隠さず」の
恥さらしだし、架空の神であるとしたなら、そんな神を思いついて捏造した人間たち自身が
物事の本質をろくにわきまえることもできない痴人であったことが紛れもないのである。
人が限りある命を持つ生き物として、また永久不変の絶対真理すらをも理解できる存在として
本当に知っておくべき物事というのは、多いようでいて実は限られている。上の罪福異熟に
まつわる知識などはそのうちの一つであり、このような事実関係すらをも了解していない
ことこそは根本的無知にあたり、まだまだ全知全能などをめざすどころの話ですらない。
一応知識としては把握しているが、雑多な知識に惑わされてその重要性を疎かにし、
そんなことがないにもかかわらず「そうでない場合もあり得る」というような知見の変節に
及んでしまうことがある、これもまた根本的無知の一つであるといえ、そもそも大切なことを
始めから知らないでいた場合以上にも、その過ちを正してやることが困難なものだったりする。
特に大切なことを先天的にも後天的にも知らない、知ってはいるが有害な知識に惑わされて
その重要性へのわきまえを決定的に疎かにしてしまっている、この二つの根本的無知こそは、
時に世の中を破滅へと追いやる程もの害悪の元凶となる。もちろん、そんな連中が世の中を
主導的に形作って来たりしているのでもなく、良識ある人々が予め形作っていた世の中に
後から寄生して害悪を撒き散らしているガン細胞人種であったりするのみである。
世の中というものがどういった源流から形作られて来たのかも知らな至らず者であるもの
だから、創世それ自体を超越神に偽託して、自分たちによる世の中の損壊を当該の超越神に
よる采配などに見立てたりする。それら全てが人間自身の悪業としての欺瞞であり、
権力機構に政商などの詐欺行為が蔓延することを抑止することなどで防がれても行く。
(無論、権力詐欺に依存し過ぎた挙句に国ごとの崩壊を招くこともある)
先天後天にかかわらず、本当にわきまえておくべき知見こそを大事にして来た人々こそは
この世の中を地盤から形作り、無知者が多少のやんちゃをやらかした所で丸く収まる程もの
磐石さすらをも確立して来た。根本的無知者が世界の創始を無責任な超越神に偽託して
破壊活動をやらかしても多少は持つ程度の猶予が生じたのも、そんな無責任な振る舞いに
及ぶことなく世の中を根本から形作ってきた人々がいたからこそなのであり、そのような
人々への感謝と尊敬の念を育むことで、不実な超越神への幻想などを捨て去るべきなのである。
「謀閉じて興らず、盗竊乱賊而かも作らず、故に外戸を閉じず、是れを大同と謂う」
「陰謀も絶え、盗みや乱暴の類いも起こらなくなったため、人々も家の戸を閉める
ことすらない。これを『大同』と言い、大道の行われている治世ならではの現象とする。
(好んで大道の行われない乱世をもたらそうとすることにも恥を知るべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
その重要性へのわきまえを決定的に疎かにしてしまっている、この二つの根本的無知こそは、
時に世の中を破滅へと追いやる程もの害悪の元凶となる。もちろん、そんな連中が世の中を
主導的に形作って来たりしているのでもなく、良識ある人々が予め形作っていた世の中に
後から寄生して害悪を撒き散らしているガン細胞人種であったりするのみである。
世の中というものがどういった源流から形作られて来たのかも知らな至らず者であるもの
だから、創世それ自体を超越神に偽託して、自分たちによる世の中の損壊を当該の超越神に
よる采配などに見立てたりする。それら全てが人間自身の悪業としての欺瞞であり、
権力機構に政商などの詐欺行為が蔓延することを抑止することなどで防がれても行く。
(無論、権力詐欺に依存し過ぎた挙句に国ごとの崩壊を招くこともある)
先天後天にかかわらず、本当にわきまえておくべき知見こそを大事にして来た人々こそは
この世の中を地盤から形作り、無知者が多少のやんちゃをやらかした所で丸く収まる程もの
磐石さすらをも確立して来た。根本的無知者が世界の創始を無責任な超越神に偽託して
破壊活動をやらかしても多少は持つ程度の猶予が生じたのも、そんな無責任な振る舞いに
及ぶことなく世の中を根本から形作ってきた人々がいたからこそなのであり、そのような
人々への感謝と尊敬の念を育むことで、不実な超越神への幻想などを捨て去るべきなのである。
「謀閉じて興らず、盗竊乱賊而かも作らず、故に外戸を閉じず、是れを大同と謂う」
「陰謀も絶え、盗みや乱暴の類いも起こらなくなったため、人々も家の戸を閉める
ことすらない。これを『大同』と言い、大道の行われている治世ならではの現象とする。
(好んで大道の行われない乱世をもたらそうとすることにも恥を知るべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
「瞻るとして父に匪ざるは靡く、依るとして母に匪ざるは靡し。
毛もてにも属さず、裹にも罹かずんば、天の我れを生むも、我れ辰の安くにか在らん(既出)」
「実父ほどに見習うべきものはなく、実母ほどにより所とすべきものは本来ほかにない。もし実父にも属せず、
実母に添うこともできないというのなら、仮に天神が我れを産んだのだとしても、全くの不遇というもの」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小弁より)
もしも自らが孝の理念に即して父母を敬いの対象とし、老いては介助の対象としたりもしたならば、
それが自分を産み育ててきてくれた相手への恩返しともなって、自らの依存性を打ち消す効能をも持ち得る。
そしたら卑俗な奴隷的根性などもなくなって、本物の独立心を持って物事に臨んでいくことができる
ようにもなる。自らが禄を頂く相手としての主君を敬う場合なども同様の効果を伴う一方、依り頼みと
尊崇の差し引きが必ずしもゼロとならないような関係においては、かえって依存心を募らせることともなる。
架空の超越神への信者の信仰だとか、商売人の顧客への敬いだとかは、依り頼みよりも尊崇の度合いのほう
が多かったり少なかったりするものだから、依存心をより募らせることともなる。虚構神への信仰なぞは、
依り頼む所よりも尊崇の度合いのほうが多かったりするわけだが、それでも依存心を募らせる原因となる。
それは、本当に経済的にも依り頼む所であった父母なり主君なりへの尊崇を蔑ろにしてまで、
虚構神なぞへの尊崇に励んでいるからであり、本当に敬うべき相手への尊崇を怠っているが
故の罪悪感を紛らわすためにこそ、不健全な依存心をも募らせていくこととなるのである。
何者をも敬いの対象としないニヒリストやアナーキストだからといって、依存心を脱却できるわけでもない。
ニーチェなぞも「永遠と言う名の指輪を愛す」云々と、奇形的な依存心を結局は募らせていったわけで、
本当に自らの依存心を乗り越えて精神面からの大人になって行くためにこそ、むしろ父母や主君の如き
恩ある相手への実を伴った尊崇による恩返しを講じて行く必要があるのである。
毛もてにも属さず、裹にも罹かずんば、天の我れを生むも、我れ辰の安くにか在らん(既出)」
「実父ほどに見習うべきものはなく、実母ほどにより所とすべきものは本来ほかにない。もし実父にも属せず、
実母に添うこともできないというのなら、仮に天神が我れを産んだのだとしても、全くの不遇というもの」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小弁より)
もしも自らが孝の理念に即して父母を敬いの対象とし、老いては介助の対象としたりもしたならば、
それが自分を産み育ててきてくれた相手への恩返しともなって、自らの依存性を打ち消す効能をも持ち得る。
そしたら卑俗な奴隷的根性などもなくなって、本物の独立心を持って物事に臨んでいくことができる
ようにもなる。自らが禄を頂く相手としての主君を敬う場合なども同様の効果を伴う一方、依り頼みと
尊崇の差し引きが必ずしもゼロとならないような関係においては、かえって依存心を募らせることともなる。
架空の超越神への信者の信仰だとか、商売人の顧客への敬いだとかは、依り頼みよりも尊崇の度合いのほう
が多かったり少なかったりするものだから、依存心をより募らせることともなる。虚構神への信仰なぞは、
依り頼む所よりも尊崇の度合いのほうが多かったりするわけだが、それでも依存心を募らせる原因となる。
それは、本当に経済的にも依り頼む所であった父母なり主君なりへの尊崇を蔑ろにしてまで、
虚構神なぞへの尊崇に励んでいるからであり、本当に敬うべき相手への尊崇を怠っているが
故の罪悪感を紛らわすためにこそ、不健全な依存心をも募らせていくこととなるのである。
何者をも敬いの対象としないニヒリストやアナーキストだからといって、依存心を脱却できるわけでもない。
ニーチェなぞも「永遠と言う名の指輪を愛す」云々と、奇形的な依存心を結局は募らせていったわけで、
本当に自らの依存心を乗り越えて精神面からの大人になって行くためにこそ、むしろ父母や主君の如き
恩ある相手への実を伴った尊崇による恩返しを講じて行く必要があるのである。
そして、そのような手段に即した完全なる依存心の脱却の先にこそ、孟子が「浩然の気」とも呼んだような
満足至極な境地が得られもする。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」でのイワンの譫妄症罹患の
描写などに代表されるように、依存心を持つことこそは道徳的なこととされているキリスト教圏などに
おいては、依存心がなければ人は心を病むかの如く思い込まれてすらいる。とはいえそれも、「依存心を
捨てるためにはニヒリストやアナーキストにならなければならない」という思い違いに即しているのであり、
それはかえって奇形的な依存心を募らせることになるからこそ、心を病む原因ともなってしまうのである。
虚構神などへの依存状態が麻薬中毒なら、ニヒリズムの狂気は麻薬中毒者のバッドトリップだといえる。
親や祖神や主君らへの尊崇を通じて本当に依存性から脱却して行くことが、麻薬中毒の克服となる。
女子供までもが必ずしも満たすべき条件でまではないが、大人の男ならぜひ克服すべきことだといえる。
「既に内自ら尽くし、又た外に助けを求む。昏礼是れなり。故に国君夫人を取るの辞に曰く、
君の玉女と共に、寡人と共に敝邑を有ち、宗廟社稷に事うることを請うと。此れ助けを求むるの本なり」
「できる限り自分自身が内実からの努力を尽くしてから、初めて外にも助けを求めるようにもする。
婚礼などもその一つであり、主君が不仁を娶る場合などにも、『願わくばよき妻と共にわが国を保ち、
社稷宋廟に仕えて行かんことを』と、共に成すべきことを前面に押し出した辞を述べるのである。これこそは
人が誰かに助けを求めて共なす手本とすべきあり方だといえる。(ただただ依存する相手などいるべきでない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭統第二十五より)
満足至極な境地が得られもする。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」でのイワンの譫妄症罹患の
描写などに代表されるように、依存心を持つことこそは道徳的なこととされているキリスト教圏などに
おいては、依存心がなければ人は心を病むかの如く思い込まれてすらいる。とはいえそれも、「依存心を
捨てるためにはニヒリストやアナーキストにならなければならない」という思い違いに即しているのであり、
それはかえって奇形的な依存心を募らせることになるからこそ、心を病む原因ともなってしまうのである。
虚構神などへの依存状態が麻薬中毒なら、ニヒリズムの狂気は麻薬中毒者のバッドトリップだといえる。
親や祖神や主君らへの尊崇を通じて本当に依存性から脱却して行くことが、麻薬中毒の克服となる。
女子供までもが必ずしも満たすべき条件でまではないが、大人の男ならぜひ克服すべきことだといえる。
「既に内自ら尽くし、又た外に助けを求む。昏礼是れなり。故に国君夫人を取るの辞に曰く、
君の玉女と共に、寡人と共に敝邑を有ち、宗廟社稷に事うることを請うと。此れ助けを求むるの本なり」
「できる限り自分自身が内実からの努力を尽くしてから、初めて外にも助けを求めるようにもする。
婚礼などもその一つであり、主君が不仁を娶る場合などにも、『願わくばよき妻と共にわが国を保ち、
社稷宋廟に仕えて行かんことを』と、共に成すべきことを前面に押し出した辞を述べるのである。これこそは
人が誰かに助けを求めて共なす手本とすべきあり方だといえる。(ただただ依存する相手などいるべきでない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭統第二十五より)
結婚の辞で、
「○○子を一生大事にします」とか言われないわけだよ。
「○○子と一緒によりよい世の中を作り上げていきます」と言わなければならない。
それが不可能であるようなら、離婚も辞さないぐらいの覚悟でな。
「○○子を一生大事にします」とか言われないわけだよ。
「○○子と一緒によりよい世の中を作り上げていきます」と言わなければならない。
それが不可能であるようなら、離婚も辞さないぐらいの覚悟でな。
禅門などでは、自分たちが自力作善による現世往生を志す「一世教」であることに合わせて、
他力本願の来世往生を希う浄土信仰やアブラハム教などを「二世教」と呼ぶ場合がある。
当然自分たちが一世教の帰依者であるわけだから、それこそは至上であるとしている
わけだけれども、二世教が世界的な猛威を振るっていることなどにも対応して、
「二世教で満足できるようなものはそうすればいい」などとも言ったりしている。
(以上は玄峰老師が「無門関提唱」で論じられていたことの略抄でもある)
ただ、やはり二世教ばかりが「宗教の王道」として世界的に持て囃されている現代世界こそは、
人類が滅亡の危機に見舞われているほどもの乱世でもある。現世を蔑ろにして来世を希ってばかり
いるわけだから、当然現世のほうは荒廃に見舞われていくこととなる。「だからこそ来世での
往生を願う」ではなく、来世の往生ばかりに囚われた結果、現世の破滅を招いているのである。
日本浄土教などは、公家の腐敗と武家の専横が深刻化したことにより乱世がもたらされて後、
鎌倉時代の中期に法然上人や親鸞聖人によって初めて民間にまで行き渡ったものであり、
(それ以前にも空也上人などによる布教があったが、まだ勢力を擁するまでには至らなかった)
乱世が別の理由でもたらされてから、仕方なく来世での極楽浄土への往生を願うという順序を
辛うじて守っている。だからこそ、来世往生ばかりを乞い求めた結果、自分たちが現世を
蔑ろにして乱世を招いたなどということにはなっていないことまでもが確かとなっている。
キリスト教などは、そうではないのである。妾腹の私生児が妄言妄動を来たした挙句に
無実の罪で重罪人の代わりに処刑されたという、かの世界一有名な疑獄事件が人々に決定的な
心の荒廃を植え付けた結果として、西洋社会やイスラム勃興以前の中東社会が暗黒の世へと
陥れられたのである。そこから来世での往生というものを信者に希うよう強要しているわけだから、
こちらの場合は、自分たちで破滅を招いておいて来世往生を欲するという、醜悪なマッチポンプ
としての条件を満たしてしまっているのである。(そのキリスト教の撃退を目的として創立された
イスラム教などは、教義の良し悪しはともかくとして、マッチポンプの条件は満たしていない)
他力本願の来世往生を希う浄土信仰やアブラハム教などを「二世教」と呼ぶ場合がある。
当然自分たちが一世教の帰依者であるわけだから、それこそは至上であるとしている
わけだけれども、二世教が世界的な猛威を振るっていることなどにも対応して、
「二世教で満足できるようなものはそうすればいい」などとも言ったりしている。
(以上は玄峰老師が「無門関提唱」で論じられていたことの略抄でもある)
ただ、やはり二世教ばかりが「宗教の王道」として世界的に持て囃されている現代世界こそは、
人類が滅亡の危機に見舞われているほどもの乱世でもある。現世を蔑ろにして来世を希ってばかり
いるわけだから、当然現世のほうは荒廃に見舞われていくこととなる。「だからこそ来世での
往生を願う」ではなく、来世の往生ばかりに囚われた結果、現世の破滅を招いているのである。
日本浄土教などは、公家の腐敗と武家の専横が深刻化したことにより乱世がもたらされて後、
鎌倉時代の中期に法然上人や親鸞聖人によって初めて民間にまで行き渡ったものであり、
(それ以前にも空也上人などによる布教があったが、まだ勢力を擁するまでには至らなかった)
乱世が別の理由でもたらされてから、仕方なく来世での極楽浄土への往生を願うという順序を
辛うじて守っている。だからこそ、来世往生ばかりを乞い求めた結果、自分たちが現世を
蔑ろにして乱世を招いたなどということにはなっていないことまでもが確かとなっている。
キリスト教などは、そうではないのである。妾腹の私生児が妄言妄動を来たした挙句に
無実の罪で重罪人の代わりに処刑されたという、かの世界一有名な疑獄事件が人々に決定的な
心の荒廃を植え付けた結果として、西洋社会やイスラム勃興以前の中東社会が暗黒の世へと
陥れられたのである。そこから来世での往生というものを信者に希うよう強要しているわけだから、
こちらの場合は、自分たちで破滅を招いておいて来世往生を欲するという、醜悪なマッチポンプ
としての条件を満たしてしまっているのである。(そのキリスト教の撃退を目的として創立された
イスラム教などは、教義の良し悪しはともかくとして、マッチポンプの条件は満たしていない)
「郊の祭は、大いに天に報いて日を主とし、月を以って配する。
夏后氏は其の闇に祭し、殷人は其の陽に祭す。周人は日を祭るに朝を以って闇に及ぶ」
「天神地祇を祀る祭においては、大いに天の恵みを尊んで日を主神とし、月を副神とする。
夏王朝では暗い夜の内に祭を行ったが、殷王朝では明るい朝昼の内に祭を行った。
周朝においては、日月の神を祀るために朝から晩まで祭りを行った」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
始め、まだ治世が磐石であった夏王朝の頃には、晩時に日月の神を祀るだけで済んでいた。
しかし、桀王のごとき暴君が現れて湯王がそれを放伐し、殷王朝を立ち上げて後には、
より一層の権力の防腐を図るために、気の引き締まりやすい日中の内にだけ郊祀を行うようになった。
しかし、その反動でこれまた極度の腐敗を招き、末代の紂王の頃には王宮の窓という窓を塞いで
昼となく夜となく宴会を繰り返すようなザマを招いた。そのため、次代の周王朝では昼だけでなく
夜にも祭りを行うようにして、昼夜の清濁を併せ呑むことでの安定を図って行ったのだった。
日中にしか郊祭を執り行っていなかった殷人たちも、それを堅苦しいことだと感じていたのである。
だからこそ末代の紂王も、王宮の窓という窓を閉ざしての万年夜遊び状態すらをも欲したのだ。
そして中国史上にも屈指の大破綻からなる亡国を招いた。紂王の所業を是とするような余地も
当然ありはしないが、日中にしか祭を行わなかった殷の伝統もまた清廉に過ぎたと言え、
昼にも夜にも祭りを行った周の風習こそは中庸にも適っていたものだといえる。
その周朝の風習に倣って、昼にも夜にも祭を行っている日本においては、厳粛な祭りは日中の内に、
夜店も軒を連ねるようなざっくばらんとした祭りは夜の内にといった風な扱い分けを講じている。
中には夜祭を主体としているような祭りもあり、ぼんぼりだ花火だといったイルミネーションにも通ずる
ような風物詩を売りとしているようなものもある。決してそれを全否定したりする必要はないのであり、
ただその度が越して、万年夜遊び状態になってしまうようなことにすらならなければいいのである。
夏后氏は其の闇に祭し、殷人は其の陽に祭す。周人は日を祭るに朝を以って闇に及ぶ」
「天神地祇を祀る祭においては、大いに天の恵みを尊んで日を主神とし、月を副神とする。
夏王朝では暗い夜の内に祭を行ったが、殷王朝では明るい朝昼の内に祭を行った。
周朝においては、日月の神を祀るために朝から晩まで祭りを行った」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
始め、まだ治世が磐石であった夏王朝の頃には、晩時に日月の神を祀るだけで済んでいた。
しかし、桀王のごとき暴君が現れて湯王がそれを放伐し、殷王朝を立ち上げて後には、
より一層の権力の防腐を図るために、気の引き締まりやすい日中の内にだけ郊祀を行うようになった。
しかし、その反動でこれまた極度の腐敗を招き、末代の紂王の頃には王宮の窓という窓を塞いで
昼となく夜となく宴会を繰り返すようなザマを招いた。そのため、次代の周王朝では昼だけでなく
夜にも祭りを行うようにして、昼夜の清濁を併せ呑むことでの安定を図って行ったのだった。
日中にしか郊祭を執り行っていなかった殷人たちも、それを堅苦しいことだと感じていたのである。
だからこそ末代の紂王も、王宮の窓という窓を閉ざしての万年夜遊び状態すらをも欲したのだ。
そして中国史上にも屈指の大破綻からなる亡国を招いた。紂王の所業を是とするような余地も
当然ありはしないが、日中にしか祭を行わなかった殷の伝統もまた清廉に過ぎたと言え、
昼にも夜にも祭りを行った周の風習こそは中庸にも適っていたものだといえる。
その周朝の風習に倣って、昼にも夜にも祭を行っている日本においては、厳粛な祭りは日中の内に、
夜店も軒を連ねるようなざっくばらんとした祭りは夜の内にといった風な扱い分けを講じている。
中には夜祭を主体としているような祭りもあり、ぼんぼりだ花火だといったイルミネーションにも通ずる
ような風物詩を売りとしているようなものもある。決してそれを全否定したりする必要はないのであり、
ただその度が越して、万年夜遊び状態になってしまうようなことにすらならなければいいのである。

したりするものではない。面白くないからといって止めるべきようなものではなく、むしろ気を
引き締めるためにこそ執り行うべきものである。その引き締まりがあってこそ、夜祭を健全な範囲で
楽しんで行くこともできるのだから、おかしな理由で取りやめるようなことがあってはならない。
人間の視力では、日中には視野が開け、夜間には視野が狭まる。日中にこそ、まさに全てが白日の下に
さらけ出されて、ごまかしの余地もなくなる。その潔癖さと共にでも清清しくいられるということが
一つの人間としての品位高さであり、君子たる人間であれば当然備えていなければならぬものである。
その品位高さを育むためにこそ日中の厳粛な祭りなども執り行うべきであるわけだが、夏王朝の頃の人々
のように、そのような品位高さを予め備えていればこそ、祭りなどは夜にしか行わなかった例もある。
近代以降の日本などでは、日中の仕事が倍増して忙しくなったものだから、諸々の祭りを
夜間だけに執り行うようなことが多くなった。これは、日中の仕事が曜日制で厳しく管理される
ようにもなったなどの制度上の理由があってものことであり、日本人が日中にも清清しくいられる
品位高さを得られるようになったからそうしたわけなどでは決してない。むしろ、日中に行う仕事
などは辛いものであるという割り切りと共にそうなったわけで、仕事の後の酔いつぶれなどを欲する
頻度もより高まることとなった。これは、日中にだけ執り行っていた祭りが形骸化して人々にとっての
重荷となり、挙句に紂王の万年夜遊び状態を招いた末期の殷のあり方などにも酷似した姿だといえる。
手法をこれとばかりに限る必要はないが、日中の事業をイヤイヤながらの義務などと感じてしまう
ような事態に陥らないようにしていくことが肝要だといえる。そうなってしまってから、日光からの
逃避を促すような邪神への帰依にすら人々が陥ったりしてしまったなら、もう終わりだと言える。
むしろ夜間に執り行う祭すら、日月のためであるぐらいでなければならないのである。
俺が謝罪しろというのは天皇スレではない。
責めたい気持ちも俺も無礼なことを言ってきたので心当たりがあるが
口座の残高を元に、「呪い」等の勘違いを重ねた上に
犬と罵倒したことだ。勘違いの上の発言だけに
改めて罵倒するのか、それとも謝罪するのかはっきりしてもらえないか。
責めたい気持ちも俺も無礼なことを言ってきたので心当たりがあるが
口座の残高を元に、「呪い」等の勘違いを重ねた上に
犬と罵倒したことだ。勘違いの上の発言だけに
改めて罵倒するのか、それとも謝罪するのかはっきりしてもらえないか。
自分自身に何らかの能力があったりするからではなく、わが身わが命が親先祖から
頂いたものであるからこそ貴いということがある。しかし、ただそれだけでは
親先祖への依存心を帯びることともなるから、実践と尊敬を伴う孝養を尽くすことで、
自分が親先祖への依存心を脱却して行くようにもする。(>>160-161を参照)すると、
自らの先天的な貴さと独立心とを兼ね備えた立派な大人へと成長して行けるようになる。
そこにこそ、わざわざ自分から偉ぶったりすることもない、磐石な自尊心が生じもする。
「自分自身が貴いからこそ偉ぶる」ということにもならず、「自分自身に頭が下がる
思いとなるから、誰しもに対して恭しくあろうともする」ということになる。自分自身
への尊崇が不足しているか、もしくは虚構の尊崇であるからこそ偉ぶったりもするのであり、
それをして「自尊心を持つことは悪いことだ」などと決め付けるのもおかしいのである。
本当のところ、自分が貴い存在だなどとは思えない、心中の底の底の部分に自分自身を
蔑むような思いがくすぶっているものだから、自分を尊ぼうとした所で演技止まりとなる。
演技なものだから考えが上ずって、自分を尊ぶのと引き換えに他人を蔑むようなことともなる。
確かに、そんな虚構の自尊心を持つぐらいなら持たないでいたほうがいいとも言えるわけで、
そんな人間と比べれば、宗教信仰が敬虔であるような人間のほうが見てくれ真摯だったり
もするものだから、自らを賤しんでまで信仰に敬虔で居させるような信教に帰依して
いるほうがマシだということにすらなってしまいかねないのである。
確かに、自らを卑下してまで神仏に拠り縋るような類いの信教もまた、必ずしもあっては
ならないものとまでは言えないのである。そういう志向性の信教であって、なおかつ信者
に社会的冷遇への甘んじをも受け入れさせるような教義をも持ち合わせているようなら、
特に問題はない。底辺の百姓や部落民あたりに阿弥陀仏への他力本願を促していた浄土教
などはその条件を満たしており、自尊心の持ちようもない被差別対象となるような人間が
未だこの世に存在せざるを得ない以上は、そういうものもまた必要悪となり得るのである。
頂いたものであるからこそ貴いということがある。しかし、ただそれだけでは
親先祖への依存心を帯びることともなるから、実践と尊敬を伴う孝養を尽くすことで、
自分が親先祖への依存心を脱却して行くようにもする。(>>160-161を参照)すると、
自らの先天的な貴さと独立心とを兼ね備えた立派な大人へと成長して行けるようになる。
そこにこそ、わざわざ自分から偉ぶったりすることもない、磐石な自尊心が生じもする。
「自分自身が貴いからこそ偉ぶる」ということにもならず、「自分自身に頭が下がる
思いとなるから、誰しもに対して恭しくあろうともする」ということになる。自分自身
への尊崇が不足しているか、もしくは虚構の尊崇であるからこそ偉ぶったりもするのであり、
それをして「自尊心を持つことは悪いことだ」などと決め付けるのもおかしいのである。
本当のところ、自分が貴い存在だなどとは思えない、心中の底の底の部分に自分自身を
蔑むような思いがくすぶっているものだから、自分を尊ぼうとした所で演技止まりとなる。
演技なものだから考えが上ずって、自分を尊ぶのと引き換えに他人を蔑むようなことともなる。
確かに、そんな虚構の自尊心を持つぐらいなら持たないでいたほうがいいとも言えるわけで、
そんな人間と比べれば、宗教信仰が敬虔であるような人間のほうが見てくれ真摯だったり
もするものだから、自らを賤しんでまで信仰に敬虔で居させるような信教に帰依して
いるほうがマシだということにすらなってしまいかねないのである。
確かに、自らを卑下してまで神仏に拠り縋るような類いの信教もまた、必ずしもあっては
ならないものとまでは言えないのである。そういう志向性の信教であって、なおかつ信者
に社会的冷遇への甘んじをも受け入れさせるような教義をも持ち合わせているようなら、
特に問題はない。底辺の百姓や部落民あたりに阿弥陀仏への他力本願を促していた浄土教
などはその条件を満たしており、自尊心の持ちようもない被差別対象となるような人間が
未だこの世に存在せざるを得ない以上は、そういうものもまた必要悪となり得るのである。
そうではなく、必要もなくわざわざあえて万人に自己卑下を促すような信教とも
なれば、これは虚構の自尊心を持つこと並みに百害あって一利もないものだといえる。
そのような信教によって本当に無駄な自己卑下が万人に植え付けられたとしたなら、
それが、心底の自己卑下をくすぶらせたままでの虚構の自尊心に基づく偉ぶりを
増産する元凶にすらなってしまいもするのだから、虚構の自尊心が有害無益なもので
あることにも連動して、それもまた有害無益なものであると結論付けられるのである。
「自尊心は真正なものたり得る」ということが全く認知されてもいなかったような
地域においてこそ、あえて自己卑下を奨励するような邪教までもが推進されたのだった。
自尊心は、上記のような意味での虚構物でしかあり得ないと思われていたからこそ、
偉ぶりを捨てるための自己卑下が道徳的なあり方だとすら思い込まれていたのである。
それは、自尊心が親先祖への孝養などを通じて真正なものたり得るということが認知
された後においては、もはやお払い箱となる考え方であり、免疫が付いた以上はもう
二度とかからない奇病のようなものである。真に正しい選択肢が認知されていない
限りにおいて、複数の間違った選択肢同士での対立が生ずるのは典型的なことであり、
いずれにも与することなく両成敗の中道に徹して行くのが進歩的な姿勢だといえる。
「賢を進むるにも已むを得ざるが如くすべし。
将に卑を使て尊きを踰え、疏きをして戚を踰えしむ、慎まざる可けんや」
「たとえ賢者を取り立てるのであっても、(尊くも親しくもないというのなら)あくまで
やむを得ずの場合に限るべきだ。卑しい者をあえて尊い者の上に置いたり、疎遠な者を
あえて親しい者の上に置いたりすることは、どこまでも慎んでいくに越したことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・七より)
なれば、これは虚構の自尊心を持つこと並みに百害あって一利もないものだといえる。
そのような信教によって本当に無駄な自己卑下が万人に植え付けられたとしたなら、
それが、心底の自己卑下をくすぶらせたままでの虚構の自尊心に基づく偉ぶりを
増産する元凶にすらなってしまいもするのだから、虚構の自尊心が有害無益なもので
あることにも連動して、それもまた有害無益なものであると結論付けられるのである。
「自尊心は真正なものたり得る」ということが全く認知されてもいなかったような
地域においてこそ、あえて自己卑下を奨励するような邪教までもが推進されたのだった。
自尊心は、上記のような意味での虚構物でしかあり得ないと思われていたからこそ、
偉ぶりを捨てるための自己卑下が道徳的なあり方だとすら思い込まれていたのである。
それは、自尊心が親先祖への孝養などを通じて真正なものたり得るということが認知
された後においては、もはやお払い箱となる考え方であり、免疫が付いた以上はもう
二度とかからない奇病のようなものである。真に正しい選択肢が認知されていない
限りにおいて、複数の間違った選択肢同士での対立が生ずるのは典型的なことであり、
いずれにも与することなく両成敗の中道に徹して行くのが進歩的な姿勢だといえる。
「賢を進むるにも已むを得ざるが如くすべし。
将に卑を使て尊きを踰え、疏きをして戚を踰えしむ、慎まざる可けんや」
「たとえ賢者を取り立てるのであっても、(尊くも親しくもないというのなら)あくまで
やむを得ずの場合に限るべきだ。卑しい者をあえて尊い者の上に置いたり、疎遠な者を
あえて親しい者の上に置いたりすることは、どこまでも慎んでいくに越したことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・七より)
そうですか。邪魔してしまいましたね。

急に本当の明るみに引き出されたりしたなら、目がくらんで
明るさを楽しむどころでもなくなる。だからこそ、性分陰湿な
自分たちにとっての適度な明るさの光のほうをより好むということがある。
そんな人間でも、ずっと本当の明るさの中にいれば、そこに慣れて
あえて低度の明るみを好んだりするようなこともなくなるわけだけれども、
たとえば白人のように、先祖代々北方や西方の暗がりばかりを追い求め続けて
来た結果、自分たちの肌の色素すら抜け落ちてしまったような人種が、今から
本当の明るみに慣れて行こうとしたりしたなら、他人種と比べても大きく
出遅れることとなるわけで、そこに一種の辟易が生じたりもするのである。
実際、「光を是とし、闇を非とする」などという考え方は、陰陽法則に即しても
不健全なものであるといえる。光と闇が織り交ざることでこそ万事万物も
成り立っているのであり、どちらが欠けても成し得るものなどありはしない。
ただ、「光を先とし、闇を後とする」という程度の優劣関係を光と闇の間に
講ずれば、万事万物がより健全に成し得る一方で、その優劣関係を欠いたり、
挙句には「闇を先とし、光を後とする」などという所にまで優劣関係を
追いやってしまったりしたなら、万物の化育もまた不健全なものとなり、
最悪の場合は種の滅亡級の破滅にすら至ることがあるのである。
故に「光は善であり、闇は悪である」という判別も幼稚に過ぎるものだといえる。
「光と闇を共に適切に扱うことが善であり、不適切に扱うことが悪である」
というのが、一瞥して分かりにくいにしろ、堅実な善悪の分別であるといえ、
そのような分別に即して構築されているのが儒学の仁義道徳だったりする一方、
光と闇を善悪と短絡して無理な分別をきかせたのが犯罪聖書の教義だったりする。
「無理な」というのは、結局、光を善とし闇を悪とするような幼稚な分別では
全く世の中の実相に即した分別たり得ないからで、そこでこじ付けとして、
実際には光の場とも呼べないような比較的な暗がりを光に見て取ったりの
錯誤を凝らすことで、多少世の中の実相に沿うような教義ともしているからだ。
するとそれが、光闇の扱いの適切さ如何を善悪の基準とする分別に即した場合の
「悪」となる。幼稚な分別を無理に実相に当てはめようとして、光闇の扱いを
ひどく不適切なものとしてしまったものだから、純悪の教義と化してしまっている。
必要なのは、幼稚な分別を脱却して、成熟した分別を会得することである。
光が善でも闇が悪でもその逆でもない、中正さを保った分別を旨とする。
そしたら結局、日照面において明るい地域も暗い地域もあるこの地球上において、
絶対に是とされたり非とされたりすべき人種民族などが存在するわけでもない
ことを知るのである。尊厳ある人種民族を騙るカルト集団などは別として。
「誠よりして明らかなるを之れ性と謂う。〜能く其の性を尽くせば、則ち能く人の
性を尽くす。能く人の性を尽くせば、則ち能く物の性を尽くす。能く物の性を尽くせば、
則ち以て天地の化育を賛ずべし。天地の化育を賛ず可くんば、則ち以て天地と与に参ず可し」
「己れの至誠によって光明豊かなることを天性という。よく己れの天性を尽くせたなら、
他人の天性をも尽くさせることができる。よく他人の天性をも尽くさせられたなら、諸々の
事物の天性すらをも尽くさせることができる。よく万物の天性をも尽くさせられたなら、
もはや天地の化育に協賛するにも等しい。天地の化育に協賛するからには、天地と
肩を並べる真人たり得る。(他力本願で光明に与るのではなく、至誠で光明を自得する。
その光明によって天地万物の化育にすら協賛し、天地人三才の一角ともなるという主意)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二一‐二二より)
全く世の中の実相に即した分別たり得ないからで、そこでこじ付けとして、
実際には光の場とも呼べないような比較的な暗がりを光に見て取ったりの
錯誤を凝らすことで、多少世の中の実相に沿うような教義ともしているからだ。
するとそれが、光闇の扱いの適切さ如何を善悪の基準とする分別に即した場合の
「悪」となる。幼稚な分別を無理に実相に当てはめようとして、光闇の扱いを
ひどく不適切なものとしてしまったものだから、純悪の教義と化してしまっている。
必要なのは、幼稚な分別を脱却して、成熟した分別を会得することである。
光が善でも闇が悪でもその逆でもない、中正さを保った分別を旨とする。
そしたら結局、日照面において明るい地域も暗い地域もあるこの地球上において、
絶対に是とされたり非とされたりすべき人種民族などが存在するわけでもない
ことを知るのである。尊厳ある人種民族を騙るカルト集団などは別として。
「誠よりして明らかなるを之れ性と謂う。〜能く其の性を尽くせば、則ち能く人の
性を尽くす。能く人の性を尽くせば、則ち能く物の性を尽くす。能く物の性を尽くせば、
則ち以て天地の化育を賛ずべし。天地の化育を賛ず可くんば、則ち以て天地と与に参ず可し」
「己れの至誠によって光明豊かなることを天性という。よく己れの天性を尽くせたなら、
他人の天性をも尽くさせることができる。よく他人の天性をも尽くさせられたなら、諸々の
事物の天性すらをも尽くさせることができる。よく万物の天性をも尽くさせられたなら、
もはや天地の化育に協賛するにも等しい。天地の化育に協賛するからには、天地と
肩を並べる真人たり得る。(他力本願で光明に与るのではなく、至誠で光明を自得する。
その光明によって天地万物の化育にすら協賛し、天地人三才の一角ともなるという主意)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二一‐二二より)
気持ちわりぃ。^^
削除(by投稿者)
「道徳統治を敷ける能力の持ち主などそうそうには現れないから、
法治主義によって世の中を治めて行くことこそは最善となる」というのが、
古代中国の法家や近代の法治主義者の言い分だったりする。そこには、
自分たち自身が徳治を実践して行く君子たり得ないことに対する負い目
への開き直りまでもがあるわけで、実際、法家の韓非なども、まるで
自分自身の君子としての素養の欠如を正当化するためか何かのように、自著
「韓非子」で当時の醜悪な政治ゴシップなどを延々と書き連ねてもいるのである。
治世を持続させて行くための君子たる人材の確保に困るなどということは、
国を挙げての本格的な徳治を実践して行く場合などには、決してありはしない。
漢や唐や宋のように厳格な官僚試験で君子階級を養成していく手もあるし、
(明などは科挙試験を簡素化し過ぎたために政治的腐敗を招いてしまっている)
江戸時代の日本のように、清廉さを旨とする目付身分の武士を多数おくことで
権力の致命的な腐敗を防いでいくようにすることもできる。これらは、
君子による統治というものを人工的に持続させて行くための制度だったといえ、
実定法などとはまた別にそのような施策を講ずることでこそ、
徳治というものを長期的に持続させて行くことが可能ともなるのである。
ただ、科挙試験にしろ目付制度にしろ、為政者たち自身がより厳格な職責を
持って役務に励んで行くことを義務付けたものである。韓非が持論の正当化のために
あげつらったような類いの権力腐敗などを事前に防止して行く制度だったからこそ、
為政者が負い目持ちのままであっても構わないとする法治主義者などにとっては、
それが実際的な効果を持つものであるにしたって、遠ざけて置きたいものとなるのである。
法治主義によって世の中を治めて行くことこそは最善となる」というのが、
古代中国の法家や近代の法治主義者の言い分だったりする。そこには、
自分たち自身が徳治を実践して行く君子たり得ないことに対する負い目
への開き直りまでもがあるわけで、実際、法家の韓非なども、まるで
自分自身の君子としての素養の欠如を正当化するためか何かのように、自著
「韓非子」で当時の醜悪な政治ゴシップなどを延々と書き連ねてもいるのである。
治世を持続させて行くための君子たる人材の確保に困るなどということは、
国を挙げての本格的な徳治を実践して行く場合などには、決してありはしない。
漢や唐や宋のように厳格な官僚試験で君子階級を養成していく手もあるし、
(明などは科挙試験を簡素化し過ぎたために政治的腐敗を招いてしまっている)
江戸時代の日本のように、清廉さを旨とする目付身分の武士を多数おくことで
権力の致命的な腐敗を防いでいくようにすることもできる。これらは、
君子による統治というものを人工的に持続させて行くための制度だったといえ、
実定法などとはまた別にそのような施策を講ずることでこそ、
徳治というものを長期的に持続させて行くことが可能ともなるのである。
ただ、科挙試験にしろ目付制度にしろ、為政者たち自身がより厳格な職責を
持って役務に励んで行くことを義務付けたものである。韓非が持論の正当化のために
あげつらったような類いの権力腐敗などを事前に防止して行く制度だったからこそ、
為政者が負い目持ちのままであっても構わないとする法治主義者などにとっては、
それが実際的な効果を持つものであるにしたって、遠ざけて置きたいものとなるのである。
負い目を開き直ると言うことが、自分たちの怠惰に即しているぐらいなら、
開き直った先に被差別対象としての処遇があったとしても拒否できるものではない。
法家支配の精神的怠惰に慣れきってしまった秦からの渡来人なども、日本で
被差別部落などに落ち延びる場合が多々あったわけだが、それも全く仕方のない
ことだといえる。その精神的怠惰こそは、秦帝国崩壊級の破滅すらをも招く
元凶にすらなってしまうものなのだから、最低限の公益保護のためにすら
一定以上の社会的制限の対象となることが免れられないものだと言える。
キリスト教の「七つの大罪」のうちにも「怠惰」が含まれているが、克服のしようもある
自らの負い目への開き直りを許可したりするようならば、かえって人々の怠惰も増長
されることとなるわけで、少しも戒めとしての意味などは持ち合わせないといえる。
実際、権力犯罪などの素行の悪さからなる負い目は、先天的な心身の障害などと
比べても遥かに克服がたやすいものなのだから、その負い目を許そうとする聖書の
神はさしずめ、被差別賤民を増産するために到来した神であるとすらいえる。
そんな経緯で被差別対象になってしまったりするのも哀れに過ぎるから、
むしろ聖書の神などは本物の神のうちにすら入らないとすらすべきなのである。
そのような神など始めからいなかったという程の戒めと共にこそ、被差別対象としての
処遇から早急に脱却して行ける可能性もまた、多少なりとも生じ得るのだから。
「負い且つ乗り、寇の至るを致す。貞なれども吝かなり。(ここまで既出)
負い且つ乗るとは、亦た醜ず可きなり。我より戎を致す、又た誰をか咎めんや」
「負い目のあるような卑しい立場にありながら、車に乗るような豪華な生活をし、
嫉みで強盗にすら遭わんかの如くである。貞節な態度でいた所で危ういことには変わりない。
負い目がありながら裕福でいたりするのは恥ずべきことであり、自分から兵事を
呼び込んでいるも同然であるのだから、自分以外の誰をとがめたりする権利もありはしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・解・六三‐象伝)
開き直った先に被差別対象としての処遇があったとしても拒否できるものではない。
法家支配の精神的怠惰に慣れきってしまった秦からの渡来人なども、日本で
被差別部落などに落ち延びる場合が多々あったわけだが、それも全く仕方のない
ことだといえる。その精神的怠惰こそは、秦帝国崩壊級の破滅すらをも招く
元凶にすらなってしまうものなのだから、最低限の公益保護のためにすら
一定以上の社会的制限の対象となることが免れられないものだと言える。
キリスト教の「七つの大罪」のうちにも「怠惰」が含まれているが、克服のしようもある
自らの負い目への開き直りを許可したりするようならば、かえって人々の怠惰も増長
されることとなるわけで、少しも戒めとしての意味などは持ち合わせないといえる。
実際、権力犯罪などの素行の悪さからなる負い目は、先天的な心身の障害などと
比べても遥かに克服がたやすいものなのだから、その負い目を許そうとする聖書の
神はさしずめ、被差別賤民を増産するために到来した神であるとすらいえる。
そんな経緯で被差別対象になってしまったりするのも哀れに過ぎるから、
むしろ聖書の神などは本物の神のうちにすら入らないとすらすべきなのである。
そのような神など始めからいなかったという程の戒めと共にこそ、被差別対象としての
処遇から早急に脱却して行ける可能性もまた、多少なりとも生じ得るのだから。
「負い且つ乗り、寇の至るを致す。貞なれども吝かなり。(ここまで既出)
負い且つ乗るとは、亦た醜ず可きなり。我より戎を致す、又た誰をか咎めんや」
「負い目のあるような卑しい立場にありながら、車に乗るような豪華な生活をし、
嫉みで強盗にすら遭わんかの如くである。貞節な態度でいた所で危ういことには変わりない。
負い目がありながら裕福でいたりするのは恥ずべきことであり、自分から兵事を
呼び込んでいるも同然であるのだから、自分以外の誰をとがめたりする権利もありはしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・解・六三‐象伝)

「自らが言責を放棄するため」「最初の発言者を尊重するため」
テッド・バンディのような快楽犯罪者が、自らの婦女暴行殺人の様相をあたかも
他人事か何かのような口調で供述したのも、自らが罪責を免れたいからであった。
神戸連続自動殺傷犯の通称少年Aが、自らの狂気を「バモイドオキ神」などという
架空の神に自らの罪責をを偽託していたことなども同様の理由に基づく。自らの発言や
思考に十分な責任を負わないでいようとする目的での他人事語りには以上のような例がある。
孔子や孟子が「詩(経)に曰く」「書(経)に曰く」などと、出典を明示してから金言を
述べたりしていたのは、元の発言者を尊重すると共に、自らの盗用的姿勢を控えるためである。
言責の放棄のために他人事のような物言いを企てる不埒さとは逆に、こちらは
引用者たち自身の誠実さが如実に発揮されている事例であるといえる。
自らの発言を架空神に偽託したりすることまでもが、時に「誠実さの表れ」として
感心されてしまったりもする。それこそ馬鹿げた話であり、バモイドオキ神に
自らの言行の責任を押し付けようとした少年Aを評価するも同然の暴挙だといえる。
そして逆に、ことあるごとに詩書などからの引用を、出典を明示した上で述べようとする
儒者のあり方を「依存的」などとして酷評するものもいる。こちらは逆に失礼である
といえ、むしろ最初の発言者を尊重しようとするその真摯さを買うべきだとすらいえる。
孔孟級の大儒であれば、経書などから金言を引用して、なおかつそれを参考にしながら
自分の言葉でさらなる金言を述べたりもする。それはもはや創作的な偉業であるとすら
いえるわけだが、そしたら今度は引用元の提示が創作としての偉業を半減させることとなる。
自分の言葉も借り物の言葉もみんな自分の言葉として述べようとする西洋の哲学者や
思想家などと比べて、儒者がその分野での評価を低くされているのも、引用元の執拗な
提示が原因だったりするわけだけれども「述べて作らず、信じて古えを好む(述而第七・一)」
というとおり、それもまた儒者の確信的な捨て身の真摯さに基づくものなのである。
イエスの如きが、「自分はただ神から授かった言葉を述べているだけだ」とうそぶきながら、
本人自身もまた神の如く扱われていたりするのは全く矛盾している。本来の発言者を尊重して
いるから偉いというのではなく、実際問題、本人自身の創作的な発言であって、なおかつ
精神薄弱者が精神的苦痛を紛らわすのに格好な言葉だったりもするものだから、そのような
発言の創作者としてのイエスが、重度精神障害者でもある信者たちに崇められているのである。
アラーから啓示された言葉を述べたとされるムハンマドへのムスリムたちの尊崇姿勢などは、
まだ正気を帯びている。それはそれで崇敬の対象ともされているわけだが、ただ神からの啓示
を授かっただけの人間であるから、本人自身が神も同然の存在としてまでは扱われていない。
その点、イエス本人を神の如く扱うキリシタンなどと比べてシラフな姿だといえ、いくら
ムハンマドを侮辱するものへの攻撃を企てたりするのであっても、まだマシであるといえる。
不埒な他人事語りは卑しみの対象とし、誠実な引用元の提示はむしろ評価の対象とすべきである。
この点、評価と卑しみの対象が転倒してしまっていたりすることも今は多いので、そのような
他人の狂態に惑わされることなく、一人々々からの正気に根ざした判断が志されて行くべきである。
「吾れ、猶お史の闕文に及べり。馬有る者は人に借して之れに乗らしむ。今は夫れ亡し」
「私は昔、歴史記録の欠文などをよく参照させてもらっていた。それはちょうど、馬を持っている
者が他人に馬を貸して乗せてくれるようなものだった。今はもうそういうことはなくなってしまった。
(孔子自身の知見が熟成されて、わざわざ重箱の隅をつつくような調査などをしなくとも歴史の概括を
把握できるようになったのだろう。十分に成長すれば人の言葉を借りる必要などもなくなるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・二六より)
本人自身もまた神の如く扱われていたりするのは全く矛盾している。本来の発言者を尊重して
いるから偉いというのではなく、実際問題、本人自身の創作的な発言であって、なおかつ
精神薄弱者が精神的苦痛を紛らわすのに格好な言葉だったりもするものだから、そのような
発言の創作者としてのイエスが、重度精神障害者でもある信者たちに崇められているのである。
アラーから啓示された言葉を述べたとされるムハンマドへのムスリムたちの尊崇姿勢などは、
まだ正気を帯びている。それはそれで崇敬の対象ともされているわけだが、ただ神からの啓示
を授かっただけの人間であるから、本人自身が神も同然の存在としてまでは扱われていない。
その点、イエス本人を神の如く扱うキリシタンなどと比べてシラフな姿だといえ、いくら
ムハンマドを侮辱するものへの攻撃を企てたりするのであっても、まだマシであるといえる。
不埒な他人事語りは卑しみの対象とし、誠実な引用元の提示はむしろ評価の対象とすべきである。
この点、評価と卑しみの対象が転倒してしまっていたりすることも今は多いので、そのような
他人の狂態に惑わされることなく、一人々々からの正気に根ざした判断が志されて行くべきである。
「吾れ、猶お史の闕文に及べり。馬有る者は人に借して之れに乗らしむ。今は夫れ亡し」
「私は昔、歴史記録の欠文などをよく参照させてもらっていた。それはちょうど、馬を持っている
者が他人に馬を貸して乗せてくれるようなものだった。今はもうそういうことはなくなってしまった。
(孔子自身の知見が熟成されて、わざわざ重箱の隅をつつくような調査などをしなくとも歴史の概括を
把握できるようになったのだろう。十分に成長すれば人の言葉を借りる必要などもなくなるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・二六より)
「人間が生涯のうちに踏みしめられる土地などはごくわずかに限られていて、
地上の大半の土地は永遠に未踏の地のままであり続ける。そしてそれほどにも
くまなく地上が広がっていればこそ、人は地を踏みしめていくことができる」
とは、荘子が「無用の用」を分かりやすく説明するために述べたことでもある。
その荘子を含む道家の論説を、儒家までもが伝統的な参考の対象として来ている。
道家の論弁は決して儒家を支持するようなものばかりではなく、中には「荘子」盜跖篇
のようにあからさまに儒家を糾弾するような説話までもが含まれているわけだけども、
それでも道家の論説というものを、儒家までもがそれなりの尊重の対象として来ている。
その理由を計り知ることができるのが、上記の荘子の無用の用地にまつわる論説でもある。
結局、無用の用地への尊重も欠くような人間こそは、際限なく外界への侵略を推し進めて行く
覇道をも好みとするのであり、それは王道を覇道の上に置く儒家にとっても忌むべき姿である。
覇権主義を抑制するために無用の用地への尊重が有効となるからには、そのような道家の教理が
王道志向の儒家にとっての「敵の敵は味方」となるわけで、故にこそ信奉の対象ともするのである。
道家の本義である隠遁主義も、それ自体は「過ぎたるはなお及ばざるが如し」でもあるにしろ、
「乱世には世を避ける」といった分別のうちにおける参考の対象ぐらいにはなる。不労を違法行為
にすら指定して人々の奴隷的使役を強いる法家の暴挙などとの均衡を取る極論ともなることから、
これまた「敵の敵は味方」の論理で以って、法家を仇敵とする儒家が道家を尊重しもするのである。
地上の大半の土地は永遠に未踏の地のままであり続ける。そしてそれほどにも
くまなく地上が広がっていればこそ、人は地を踏みしめていくことができる」
とは、荘子が「無用の用」を分かりやすく説明するために述べたことでもある。
その荘子を含む道家の論説を、儒家までもが伝統的な参考の対象として来ている。
道家の論弁は決して儒家を支持するようなものばかりではなく、中には「荘子」盜跖篇
のようにあからさまに儒家を糾弾するような説話までもが含まれているわけだけども、
それでも道家の論説というものを、儒家までもがそれなりの尊重の対象として来ている。
その理由を計り知ることができるのが、上記の荘子の無用の用地にまつわる論説でもある。
結局、無用の用地への尊重も欠くような人間こそは、際限なく外界への侵略を推し進めて行く
覇道をも好みとするのであり、それは王道を覇道の上に置く儒家にとっても忌むべき姿である。
覇権主義を抑制するために無用の用地への尊重が有効となるからには、そのような道家の教理が
王道志向の儒家にとっての「敵の敵は味方」となるわけで、故にこそ信奉の対象ともするのである。
道家の本義である隠遁主義も、それ自体は「過ぎたるはなお及ばざるが如し」でもあるにしろ、
「乱世には世を避ける」といった分別のうちにおける参考の対象ぐらいにはなる。不労を違法行為
にすら指定して人々の奴隷的使役を強いる法家の暴挙などとの均衡を取る極論ともなることから、
これまた「敵の敵は味方」の論理で以って、法家を仇敵とする儒家が道家を尊重しもするのである。
「荘子」では、なぜか美人よりも好かれる醜女だとか、五体満足な男子よりも支持される障害者
だとかの説話も引き合いにされている。(ただし荘子本人の著作ではないとされる外篇や雑篇にある)
これも一つの極論であり、儒家などの立場からしたって、五体満足な男前や美人であったほうが
いいには違いないのである。しかし、美しいものばかりをめでて醜い人間などを執拗に嫌っていた
エリザベス一世のような女こそは、人類史上最悪の世界侵略の旗頭ともなってしまったわけだから、
無用の用地への尊重の如き、醜人や障害者への存在性の尊重もそれなりにあるべきなのである。
実際孔子も、最初は外貌が醜悪だった澹台滅明という弟子を嫌っていたものの、その行いが貞節で道に
適っていたことから、外見ばかりで人を判断することを改めたともいう(「史記」仲尼弟子列伝参照)。
荘子のごとき醜女や障害者の礼賛にまでは及ばずとも、この孔子程度の配慮は誰しもが持つべきだといえる。
結局、無用の用地だとか隠退志向だとか醜女だとか障害者だとかいったものにまで配慮を利かせる
道家の教理を尊重することが、そうしていく本人たち自身にとっての心の余裕の確保ともなる。
そしてそれは、地球環境の保全などのためにもこれから必須とすらなって行くことである。
自分が踏みしめた場所や、自分が好き好むものばかりを執拗に偏愛するような狭量さを、
道家のおおらかな教理で中和して、分別ある大人になって行ければいいのである。
「周道は砥の如く、其の直なるや矢の如し。君子の履む所にして、小人り視る所なり」
「文王が敷かれた周の道は砥石のように平滑でいて、なおかつ矢のように真っ直ぐである。
これこそは君子の踏襲する道であると共に、小人の仰ぎ見る所でもある。(君子の踏み行くべき
正道はすでに先人が敷設済みのものでいて、なおかつ小人たち自身には踏めもしないものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・大東より)
だとかの説話も引き合いにされている。(ただし荘子本人の著作ではないとされる外篇や雑篇にある)
これも一つの極論であり、儒家などの立場からしたって、五体満足な男前や美人であったほうが
いいには違いないのである。しかし、美しいものばかりをめでて醜い人間などを執拗に嫌っていた
エリザベス一世のような女こそは、人類史上最悪の世界侵略の旗頭ともなってしまったわけだから、
無用の用地への尊重の如き、醜人や障害者への存在性の尊重もそれなりにあるべきなのである。
実際孔子も、最初は外貌が醜悪だった澹台滅明という弟子を嫌っていたものの、その行いが貞節で道に
適っていたことから、外見ばかりで人を判断することを改めたともいう(「史記」仲尼弟子列伝参照)。
荘子のごとき醜女や障害者の礼賛にまでは及ばずとも、この孔子程度の配慮は誰しもが持つべきだといえる。
結局、無用の用地だとか隠退志向だとか醜女だとか障害者だとかいったものにまで配慮を利かせる
道家の教理を尊重することが、そうしていく本人たち自身にとっての心の余裕の確保ともなる。
そしてそれは、地球環境の保全などのためにもこれから必須とすらなって行くことである。
自分が踏みしめた場所や、自分が好き好むものばかりを執拗に偏愛するような狭量さを、
道家のおおらかな教理で中和して、分別ある大人になって行ければいいのである。
「周道は砥の如く、其の直なるや矢の如し。君子の履む所にして、小人り視る所なり」
「文王が敷かれた周の道は砥石のように平滑でいて、なおかつ矢のように真っ直ぐである。
これこそは君子の踏襲する道であると共に、小人の仰ぎ見る所でもある。(君子の踏み行くべき
正道はすでに先人が敷設済みのものでいて、なおかつ小人たち自身には踏めもしないものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・大東より)
罪を隠す者も、罪を開き直る者も、罪の重さ自体はさして変わらない。
むしろ、罪の恥深さを知るが故に隠そうとしたりするような者のほうが、
恥知らずにも罪を開き直る者などよりも、まだ反省のしようがあるというもの。
人が罪を償って立ち直れるか否かの境界線もそこにあるといえるぐらいで、
もしも人が生きてるうちに償える程度の罪を犯した場合に、思わず罪を隠したく
なるような恥じらいを原動力として罪を償えば、精神的に立ち直れたりもする
一方、もはや罪を開き直って恥らうこともないというのなら、形式上の罰などを
受けた所で、もはや精神的に立ち直れる気概なども残ってはいないといえる。
自らの罪を開き直ることが、自らの品性を罪人としての堂に入らせる。もはや
二度と浩然の気などを味わうこともできない、致命的な精神障害者と化してしまう。
心理面からいえば、それは確かに可哀想なことでもあるが、哀れんでやったから
といって本人たちが健全な精神を取り戻せるわけでもない。その哀れみを、
できる限りそんな人間をこの世から撲滅して行く自らの気概に転ずるというのなら、
心の中で哀れんでやってもいいだろうが、本人たちに対してはむしろ鼻つまみ者
としての扱いを処してやるのが、本人たちのためにもなることである。
鼻つまみ者扱いか、もしくは全く特別扱いをしないことである。
罪を開き直って恥も知らぬような心持ちでいる者は、実際に罪があるのであれ
ないのであれ、この世にとって百害あって一利もない上に、本人たち自身も
浩然の気を伴う健全な精神を知らぬ、潜在的かつ自得の苦悩者でいるわけだから、
そこに特別な価値か何かがあるかのような捉え方だけはすべきでない。
むしろ、罪の恥深さを知るが故に隠そうとしたりするような者のほうが、
恥知らずにも罪を開き直る者などよりも、まだ反省のしようがあるというもの。
人が罪を償って立ち直れるか否かの境界線もそこにあるといえるぐらいで、
もしも人が生きてるうちに償える程度の罪を犯した場合に、思わず罪を隠したく
なるような恥じらいを原動力として罪を償えば、精神的に立ち直れたりもする
一方、もはや罪を開き直って恥らうこともないというのなら、形式上の罰などを
受けた所で、もはや精神的に立ち直れる気概なども残ってはいないといえる。
自らの罪を開き直ることが、自らの品性を罪人としての堂に入らせる。もはや
二度と浩然の気などを味わうこともできない、致命的な精神障害者と化してしまう。
心理面からいえば、それは確かに可哀想なことでもあるが、哀れんでやったから
といって本人たちが健全な精神を取り戻せるわけでもない。その哀れみを、
できる限りそんな人間をこの世から撲滅して行く自らの気概に転ずるというのなら、
心の中で哀れんでやってもいいだろうが、本人たちに対してはむしろ鼻つまみ者
としての扱いを処してやるのが、本人たちのためにもなることである。
鼻つまみ者扱いか、もしくは全く特別扱いをしないことである。
罪を開き直って恥も知らぬような心持ちでいる者は、実際に罪があるのであれ
ないのであれ、この世にとって百害あって一利もない上に、本人たち自身も
浩然の気を伴う健全な精神を知らぬ、潜在的かつ自得の苦悩者でいるわけだから、
そこに特別な価値か何かがあるかのような捉え方だけはすべきでない。
理想を言えば、そんな劣悪な心理状態に追い込まれた人間がこの世に生じないに
越したことはない。生じてしまったとしても実際に罪を犯させないのがその次で、
大量に発生してしまった挙句に大罪までもが犯し尽くされたりするのが最悪である。
そして今こそは、最悪の時である。罪に対する恥を寸分たりとも知らぬ者たちが、
確信的にも無自覚的にも罪という罪を犯し尽くしている時代。罪あるものには
当然罰を科すのが最優先だが、刑罰などは有害鳥獣に対する保健衛生措置も
同然のものであり、罰以上にも人としての立ち直りを促す民事的な
矯正措置のほうがより重要なものとなって行くのである。
すなわち、罪に対する恥を知る教育であり、大人の人間への教育でもあるからには、
実際に恥を知る者を社会的に優遇したり、恥を知らぬ者を冷遇したりもして行く。
それが参政権の剥奪や禁治産のような措置ともなって行くわけで、これも人々への
恥を知るための心の矯正としての効果が伴えばこそ、その意義を持つものだといえる。
「嗚呼、邦伯、師長、百執事の人、尚くば、
皆な隠さんかな。朕れ貨を好むに肩せず、敢えて生生なるを恭す」
「ああ、諸国の頭領や、地方官の長や、その他の公務を司る人々よ、できることなら、
みな(常日頃から些細な問題にも罪悪感を抱いて、その気持ちを)隠しているように
して欲しい。私は財貨による栄華を好むようなものを登用したくはない。あえて自ら
清々としたあり方に励むものにこそ恭敬の念を抱く。(殷王19代盤庚の言葉)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚下より)
越したことはない。生じてしまったとしても実際に罪を犯させないのがその次で、
大量に発生してしまった挙句に大罪までもが犯し尽くされたりするのが最悪である。
そして今こそは、最悪の時である。罪に対する恥を寸分たりとも知らぬ者たちが、
確信的にも無自覚的にも罪という罪を犯し尽くしている時代。罪あるものには
当然罰を科すのが最優先だが、刑罰などは有害鳥獣に対する保健衛生措置も
同然のものであり、罰以上にも人としての立ち直りを促す民事的な
矯正措置のほうがより重要なものとなって行くのである。
すなわち、罪に対する恥を知る教育であり、大人の人間への教育でもあるからには、
実際に恥を知る者を社会的に優遇したり、恥を知らぬ者を冷遇したりもして行く。
それが参政権の剥奪や禁治産のような措置ともなって行くわけで、これも人々への
恥を知るための心の矯正としての効果が伴えばこそ、その意義を持つものだといえる。
「嗚呼、邦伯、師長、百執事の人、尚くば、
皆な隠さんかな。朕れ貨を好むに肩せず、敢えて生生なるを恭す」
「ああ、諸国の頭領や、地方官の長や、その他の公務を司る人々よ、できることなら、
みな(常日頃から些細な問題にも罪悪感を抱いて、その気持ちを)隠しているように
して欲しい。私は財貨による栄華を好むようなものを登用したくはない。あえて自ら
清々としたあり方に励むものにこそ恭敬の念を抱く。(殷王19代盤庚の言葉)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚下より)
俺が謝罪しろというのは天皇スレではない。
責めたい気持ちも俺も無礼なことを言ってきたので心当たりがあるが
口座の残高を元に、「呪い」等の勘違いを重ねた上に
犬と罵倒したことだ。勘違いの上の発言だけに
改めて罵倒するのか、それとも謝罪するのかはっきりしてもらえないか。
責めたい気持ちも俺も無礼なことを言ってきたので心当たりがあるが
口座の残高を元に、「呪い」等の勘違いを重ねた上に
犬と罵倒したことだ。勘違いの上の発言だけに
改めて罵倒するのか、それとも謝罪するのかはっきりしてもらえないか。
親子や夫婦でもないような全くの他人同士の関係でいて、なおかつ人が人を
庇護下に置くということ——もっと言えば、人が人を牧するということは、
ごくごく限られた条件下においてのみ無害や有益たり得るものであり、
そうでもないような場合には、かえって害すらをももたらしかねないものである。
ごくごく大まかなところでは、公人が他人を庇護下に置くということが、
有益無害たり得る人間同士の依存関係である一方、私人が他人を庇護下に置く
というのは、かえって世の中に害をもたらす依存関係となりやすい。一定の
封土の統治責任を負う公人が領民を庇護下に置くことが益になるのは自明なこと
である一方、むしろその封土から私益を吸い上げているだけの存在である民間の
資本家などが他者を庇護対象としたりすることには、そのような自明さは伴わない。
むしろ、自分が気に入った相手ばかりを偏った庇護の対象とすることが、
我田引水の激化を招くことともなって、世の中への負担を増大せしめてしまう。
そのあたりの分別がよく利かされていたから、昔の日本などでは、私人からの
投げ銭のごとき支援によって生活をつなぐ一般的な芸能人などは被差別民として
の処遇を被った一方、公家や武家からの庇護や承認も得た能や歌舞伎や相撲などの
一部の芸能に限っては、被差別対象などになることもなく市民権を得たのだった。
形式や程度の違いこそあれ、私人がパトロンとなることを忌む認識というのが
東洋には遍在していた一方、西洋にはなかった。そもそも「劇場主義」で以って、
舞台裏での支援被支援の関係などから目を背ける悪習が完全に堂に入ってしまって
いるものだから、それが善いも悪いもない完全なタブー扱いのままでいるのである。
だからこそ、東洋では私的なパトロンによる振興などをそもそも是としないような
分野までもが西洋では資本家の支援などによって振興されて来てしまったのである。
その代表格が「洋学(西洋の学術)」であり、相当に理念化が凝らされていたりも
するものの、その内実は「いかにして大金を儲けてウハウハとなるか」
ばかりを目的としたものとなってしまっている。
庇護下に置くということ——もっと言えば、人が人を牧するということは、
ごくごく限られた条件下においてのみ無害や有益たり得るものであり、
そうでもないような場合には、かえって害すらをももたらしかねないものである。
ごくごく大まかなところでは、公人が他人を庇護下に置くということが、
有益無害たり得る人間同士の依存関係である一方、私人が他人を庇護下に置く
というのは、かえって世の中に害をもたらす依存関係となりやすい。一定の
封土の統治責任を負う公人が領民を庇護下に置くことが益になるのは自明なこと
である一方、むしろその封土から私益を吸い上げているだけの存在である民間の
資本家などが他者を庇護対象としたりすることには、そのような自明さは伴わない。
むしろ、自分が気に入った相手ばかりを偏った庇護の対象とすることが、
我田引水の激化を招くことともなって、世の中への負担を増大せしめてしまう。
そのあたりの分別がよく利かされていたから、昔の日本などでは、私人からの
投げ銭のごとき支援によって生活をつなぐ一般的な芸能人などは被差別民として
の処遇を被った一方、公家や武家からの庇護や承認も得た能や歌舞伎や相撲などの
一部の芸能に限っては、被差別対象などになることもなく市民権を得たのだった。
形式や程度の違いこそあれ、私人がパトロンとなることを忌む認識というのが
東洋には遍在していた一方、西洋にはなかった。そもそも「劇場主義」で以って、
舞台裏での支援被支援の関係などから目を背ける悪習が完全に堂に入ってしまって
いるものだから、それが善いも悪いもない完全なタブー扱いのままでいるのである。
だからこそ、東洋では私的なパトロンによる振興などをそもそも是としないような
分野までもが西洋では資本家の支援などによって振興されて来てしまったのである。
その代表格が「洋学(西洋の学術)」であり、相当に理念化が凝らされていたりも
するものの、その内実は「いかにして大金を儲けてウハウハとなるか」
ばかりを目的としたものとなってしまっている。
その点、理念化などは程ほどでいながらも、いかに天下の公益に
寄与せしめるかこそをピンポイントに追求しぬいている儒学などとは
対照的であり、実際、その成立過程からして、「君子の学と小人の学」
という決定的な相違を両者は持ち合わせてきているのである。
主に資本家をパトロンとして構築されて来たのが洋学であればこそ、
その振興が自明に世の中にとっての害ともなる。既得権益に与れたものの
栄華には寄与する一方で、そのための我田引水で世の中の大局からの窮乏を招く。
まさに「異端をおさめるは害あるのみ(為政第二・一六)」であり、逆に、
徳治者のための学問であることを徹底してきた儒学の正統さ故の
有益さをも比較対照的に計り知ることができるのである。
私的なパトロンによる文化振興などがろくな結果を招きもしないのは、
近現代の文明発達の末路としての人類滅亡の危機などからも知れることである。
芸能が私的支援の対象となるぐらいならともかく、学問までもがそんな扱いを受けて、
天下国家のための正学を退けるようなことにまでなったなら、もはや致命的だといえる。
特に、莫大な私益を稼ぎ挙げた素封家などにとって、「他人を飼う」ということは
えもいわれぬ甘美さを伴って誘惑してくる金の使い道のようであるけれども、
私人が他人を囲い込むなどということ自体、もはや究極悪への呼び水である、
素封家の分際などで人様を庇護の対象などにする資格などはないのだと知らねばならない。
世の一般的な人々もまた、金持ちだからといって私人に庇護されたりするようなことの、
世の中にとって有害無益極まりないが故の恥というものを知らねばならない。
「行い得ざる者有れば、皆な反りて諸れを己れに求めよ。其の身正しければ天下之れに帰す」
「自分が望まないような振る舞いをするような者がいるのであれば、誰でもまずは自分自身に
省みて間違いがないかを確かめよ。自分自身が正しいようであれば、天下すらもが自らに帰順
するであろう。(相手に帰服するかどうかを選ばせたりすること自体、仁者の姿勢ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・四より)
寄与せしめるかこそをピンポイントに追求しぬいている儒学などとは
対照的であり、実際、その成立過程からして、「君子の学と小人の学」
という決定的な相違を両者は持ち合わせてきているのである。
主に資本家をパトロンとして構築されて来たのが洋学であればこそ、
その振興が自明に世の中にとっての害ともなる。既得権益に与れたものの
栄華には寄与する一方で、そのための我田引水で世の中の大局からの窮乏を招く。
まさに「異端をおさめるは害あるのみ(為政第二・一六)」であり、逆に、
徳治者のための学問であることを徹底してきた儒学の正統さ故の
有益さをも比較対照的に計り知ることができるのである。
私的なパトロンによる文化振興などがろくな結果を招きもしないのは、
近現代の文明発達の末路としての人類滅亡の危機などからも知れることである。
芸能が私的支援の対象となるぐらいならともかく、学問までもがそんな扱いを受けて、
天下国家のための正学を退けるようなことにまでなったなら、もはや致命的だといえる。
特に、莫大な私益を稼ぎ挙げた素封家などにとって、「他人を飼う」ということは
えもいわれぬ甘美さを伴って誘惑してくる金の使い道のようであるけれども、
私人が他人を囲い込むなどということ自体、もはや究極悪への呼び水である、
素封家の分際などで人様を庇護の対象などにする資格などはないのだと知らねばならない。
世の一般的な人々もまた、金持ちだからといって私人に庇護されたりするようなことの、
世の中にとって有害無益極まりないが故の恥というものを知らねばならない。
「行い得ざる者有れば、皆な反りて諸れを己れに求めよ。其の身正しければ天下之れに帰す」
「自分が望まないような振る舞いをするような者がいるのであれば、誰でもまずは自分自身に
省みて間違いがないかを確かめよ。自分自身が正しいようであれば、天下すらもが自らに帰順
するであろう。(相手に帰服するかどうかを選ばせたりすること自体、仁者の姿勢ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・四より)
桃屋のごはんですよ

それも鬼畜道や地獄道のような「ある種の道」の比喩的表現なのであり、
仏門などではそのような非人道の如実な描写までもが試みられていたりもする。
それをたとえば、朱子が「巨石を抱いて川に身を投ずるような無駄手間」
と批判したように、そんなものをわざわざ描くべきですらないとする
純人道の立場から、専ら「非道」や「無道」として扱ったりもするのである。
人が生きる以上は、そこに道がある。ただ、それが「道」と標榜するに値する程にも
できた道であるか否かが異なるだけである。日本には神道や武道や書道や茶道など、
「〜道」と呼ぶ嗜みが多く、仏教すらもが「仏道」として日本化されていたりする。
中国や欧米のような大陸国とも違って、地理的にも実物の道からして固定化されやすい
条件を満たしているから、それに倣って理念としての〜道の保全にも余念がないのである。
永年にわたって道を保全する伝統があればこそ、悪道を排して善道のみを守る、
片刃の太刀の醸成のごとき道の良質化にも熱心でいる。中国こそが発祥地である
陰陽思想なども「陰陽道」としてより高尚な域へと昇華し、迷信的な要素を省きつつ
神道や仏道や武道や土建業などへの応用を利かせている。だからこそ、神道の祭祀長たる
天皇も、古代中国の周朝をも上回る人類史上最長の皇統を存続して来られたのでもあり、
(摂関家や将軍家が天皇の地位までは決して侵そうとしなかったのも陰陽道の弁えによる)
道統そのものの洗練こそは永続的な保全にも繋がる、紛れもない証拠となっているのである。
キリスト教やユダヤ教の如きも、「ある種の道の洗練」を念頭に置いてきたのには違いない。
その点、道自体の洗練は適当な範囲に止めて、物量ばかりを稼いで来た中国文化などとは、
日本文化と共に袂を分かつものである。ただ、日本文化のほうは「善道の洗練」に
執心して来た一方で、聖書信仰のほうは「悪道の洗練」にこそ執心して来た点が異なる。
なればこそ、日本と聖書圏こそは決定的に敵対するか、あるいはいずれかが
一方に服従する形で和睦するかのいずれかでしかあり得ないのでもある。
いま、服従的な姿勢での和睦に与っているのは日本のほうだが、むしろ、
聖書文化のほうが強制的な途絶を迫られる事態ともなっている。自分たちのほうが過ちを
認めて文化振興を中絶しないことには人類の滅亡すら免れ得ないから、自主的に途絶する。
それも「悪道の洗練」ばかりに終始して来たればこその自業自得の末路であるわけだが、
どんな道であれ、「道の洗練」に専らでい続けてきた手合いとして、そもそも道の洗練自体が
緩慢で疎かなままである中国文化などに鞍替えさせられるのは納得の行かない所があるかも
知れない。自分たちとは真逆の道を歩んできたとはいえ、道の洗練にも専らでい続けて来た
日本文化あたりのほうが、まだ志向性を似つかわすものとして負けも認めやすいかもしれない。
それが「悪道」ですらなかったならば、道の洗練への専念によって、自分たちこそが
恒久的な王道楽土を築き上げる主体とすらなり得たのである。残念ながら聖書文化はそうでは
なかったが、これからも、道の洗練を尊ぶ姿勢だけは大事にしてもらいたいものである。
「憤らずんば啓せず」
「憤っているぐらいでなければ、ものを教えてやるにも値しない。
(これはものが分からなくて憤っている場合の話だが、発憤という心持ち自体、
向学のためなどに有用となるものであり、決して全否定されるべきものでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・八より)
その点、道自体の洗練は適当な範囲に止めて、物量ばかりを稼いで来た中国文化などとは、
日本文化と共に袂を分かつものである。ただ、日本文化のほうは「善道の洗練」に
執心して来た一方で、聖書信仰のほうは「悪道の洗練」にこそ執心して来た点が異なる。
なればこそ、日本と聖書圏こそは決定的に敵対するか、あるいはいずれかが
一方に服従する形で和睦するかのいずれかでしかあり得ないのでもある。
いま、服従的な姿勢での和睦に与っているのは日本のほうだが、むしろ、
聖書文化のほうが強制的な途絶を迫られる事態ともなっている。自分たちのほうが過ちを
認めて文化振興を中絶しないことには人類の滅亡すら免れ得ないから、自主的に途絶する。
それも「悪道の洗練」ばかりに終始して来たればこその自業自得の末路であるわけだが、
どんな道であれ、「道の洗練」に専らでい続けてきた手合いとして、そもそも道の洗練自体が
緩慢で疎かなままである中国文化などに鞍替えさせられるのは納得の行かない所があるかも
知れない。自分たちとは真逆の道を歩んできたとはいえ、道の洗練にも専らでい続けて来た
日本文化あたりのほうが、まだ志向性を似つかわすものとして負けも認めやすいかもしれない。
それが「悪道」ですらなかったならば、道の洗練への専念によって、自分たちこそが
恒久的な王道楽土を築き上げる主体とすらなり得たのである。残念ながら聖書文化はそうでは
なかったが、これからも、道の洗練を尊ぶ姿勢だけは大事にしてもらいたいものである。
「憤らずんば啓せず」
「憤っているぐらいでなければ、ものを教えてやるにも値しない。
(これはものが分からなくて憤っている場合の話だが、発憤という心持ち自体、
向学のためなどに有用となるものであり、決して全否定されるべきものでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・八より)
明和から出ていくときは全部消していってね。^^
あとを濁さず。^^
あとを濁さず。^^
鼻つまみ者扱いをされたままですることは何もない。
人間にとって、先天的かつ最も近しい間柄であると共に、多大なる実益からの恩恵をも
被ってきた相手こそは親であるから、まずは親を孝養の対象とすることが真善となる一方、
親を蔑ろにしてまで近隣の他人などにまず尽くそうとすることが普遍的な偽善止まりとなる。
「遠くの親戚より近くの他人」ということわざにも、これはこれでそれなりの根拠がある。
兵法書「三略」にも「近きを捨てて遠きを謀れば労すれども功なし。遠きを捨てて近きを
謀ればた易く終わりあり」とあるとおり、戦闘状態での謀略を主とした姿勢としては、近隣
同士での協力こそを最優先にするのが有効だといえる。しかし、それは平時における恒常的な
人間のあり方としては相応しいものではなく、あくまで戦闘状態の如き非常時の緊急措置に
止め置くべきものである。でなければ、逆に平時にまで臨戦態勢を持ち込んでしまったこと
での無闇な戦乱の呼び込みにすら繋がってしまいかねないのである。(上記のことわざも、
ほとほと困り果てたような非常時にかけての感慨こそを具象化したものでこそある)
非常時の緊急措置としての釈遠謀近を認めたからといって、恒常的な徳目としての孝悌が
否定されたりすることはないが、釈遠謀近が「隣人愛」などとして堂に入った徳目とまで
定義されてしまったならば、そのせいで孝悌の重要さは疎かにされてしまうことになる。
あまつさえ、実物の親(義親含む)とはまた別に架空の父などを脳内の形而上に捏造して、
「隣人愛によってこそ天の父に近づける」などとしたならば、それこそ孝を無みするも
同然の暴挙となる。そしてそこにこそ、人類を滅亡に陥れる程もの邪念が生じてもいる。
君臣父子夫婦の三綱の序列を重んじ、それら全てを兄弟師弟や朋友といったより
広い人間関係の上に置く儒家の学理教義自体、ひどく人工的なものに思えなくもない。
特に、人間関係が極限まで希薄化してしまっている現代などにおいては、いびつな上に
堅苦しい教理だなどとも思われてしまいがちである。しかし、現状は現状で特殊な人間
関係の序列を来たしてしまっているだけだったりする。快楽に溢れた異性関係こそは至上
被ってきた相手こそは親であるから、まずは親を孝養の対象とすることが真善となる一方、
親を蔑ろにしてまで近隣の他人などにまず尽くそうとすることが普遍的な偽善止まりとなる。
「遠くの親戚より近くの他人」ということわざにも、これはこれでそれなりの根拠がある。
兵法書「三略」にも「近きを捨てて遠きを謀れば労すれども功なし。遠きを捨てて近きを
謀ればた易く終わりあり」とあるとおり、戦闘状態での謀略を主とした姿勢としては、近隣
同士での協力こそを最優先にするのが有効だといえる。しかし、それは平時における恒常的な
人間のあり方としては相応しいものではなく、あくまで戦闘状態の如き非常時の緊急措置に
止め置くべきものである。でなければ、逆に平時にまで臨戦態勢を持ち込んでしまったこと
での無闇な戦乱の呼び込みにすら繋がってしまいかねないのである。(上記のことわざも、
ほとほと困り果てたような非常時にかけての感慨こそを具象化したものでこそある)
非常時の緊急措置としての釈遠謀近を認めたからといって、恒常的な徳目としての孝悌が
否定されたりすることはないが、釈遠謀近が「隣人愛」などとして堂に入った徳目とまで
定義されてしまったならば、そのせいで孝悌の重要さは疎かにされてしまうことになる。
あまつさえ、実物の親(義親含む)とはまた別に架空の父などを脳内の形而上に捏造して、
「隣人愛によってこそ天の父に近づける」などとしたならば、それこそ孝を無みするも
同然の暴挙となる。そしてそこにこそ、人類を滅亡に陥れる程もの邪念が生じてもいる。
君臣父子夫婦の三綱の序列を重んじ、それら全てを兄弟師弟や朋友といったより
広い人間関係の上に置く儒家の学理教義自体、ひどく人工的なものに思えなくもない。
特に、人間関係が極限まで希薄化してしまっている現代などにおいては、いびつな上に
堅苦しい教理だなどとも思われてしまいがちである。しかし、現状は現状で特殊な人間
関係の序列を来たしてしまっているだけだったりする。快楽に溢れた異性関係こそは至上
のものとされ、その男女関係を成立させるための仕事関係がそれに次ぎ、仕事の息抜きや
コネになるような友人関係がさらにそれに次ぎ、肉親関係などは最低のものとされる。君臣>
父子>夫婦>朋友が男女>仕事>友人>家族に変わっただけのことで、要するに、君父の尊位
を重んじた人間関係が、それを蔑ろにした人間関係へと劣化してしまっただけのことである。
君父の尊位を尊ぶことが半ば義務的に必要となるのが公人の身分であり、公人すらもが
男女>仕事>友人>家族なんていう人間関係に慣れてしまったりしたなら、もはやその
ような国自体の破綻すらもが免れ得ない。(年間セックス回数世界一でいて、公務員の怠慢
でデフォルトを来たしたギリシャなどがその例である)だから公人ぐらいは君臣父子夫婦の
序列を重んじて行くようにしたとして、果たしてそれだけでいいかといえば、それだけでも
まだ不足な所がある。別に自分たちにとって必要不可欠なことでもないにしろ、民間人にすら、
君父の尊位を尊ばないよりは尊んでいたほうがよりよいぐらいの考え方は持たせるべきである。
ちょうど今はその逆で、民主主義や自由主義の名の下に、君父の尊位を喪失した人間関係
こそは至上のものとされているような時代であるが、ちょうどその逆を行くべきなのである。
まずは親や主君への忠孝を尽くすということが、民間人にとっての偽善の撃退手段にすらなる。
偽善を排する真善を尊ぶ立場から、多少作為的すぎるような序列関係をも奨励して行くのである。
「皇帝、〜乃ち重と黎に命じて、地天の通を絶ち、降格有る罔からしむ。
群后の下に逮在するも、明明もて常を棐け、鰥寡蓋うことも無からしむ」
「堯帝は、重や黎といった重臣に命じて、諸侯以下の人間の地上からの天への通行を絶ち、
『自分が天の神に通じている』などということを根拠にした天啓降臨的な言行を無からしめた。
それにより、諸侯たちもあたりまえな道徳的常識に即した自明な為政のみを執り行うようになり、
身寄りのない者を見捨てるようなこともなくなったのだった。(私的な天地の通行など害あるのみ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・呂刑より)
コネになるような友人関係がさらにそれに次ぎ、肉親関係などは最低のものとされる。君臣>
父子>夫婦>朋友が男女>仕事>友人>家族に変わっただけのことで、要するに、君父の尊位
を重んじた人間関係が、それを蔑ろにした人間関係へと劣化してしまっただけのことである。
君父の尊位を尊ぶことが半ば義務的に必要となるのが公人の身分であり、公人すらもが
男女>仕事>友人>家族なんていう人間関係に慣れてしまったりしたなら、もはやその
ような国自体の破綻すらもが免れ得ない。(年間セックス回数世界一でいて、公務員の怠慢
でデフォルトを来たしたギリシャなどがその例である)だから公人ぐらいは君臣父子夫婦の
序列を重んじて行くようにしたとして、果たしてそれだけでいいかといえば、それだけでも
まだ不足な所がある。別に自分たちにとって必要不可欠なことでもないにしろ、民間人にすら、
君父の尊位を尊ばないよりは尊んでいたほうがよりよいぐらいの考え方は持たせるべきである。
ちょうど今はその逆で、民主主義や自由主義の名の下に、君父の尊位を喪失した人間関係
こそは至上のものとされているような時代であるが、ちょうどその逆を行くべきなのである。
まずは親や主君への忠孝を尽くすということが、民間人にとっての偽善の撃退手段にすらなる。
偽善を排する真善を尊ぶ立場から、多少作為的すぎるような序列関係をも奨励して行くのである。
「皇帝、〜乃ち重と黎に命じて、地天の通を絶ち、降格有る罔からしむ。
群后の下に逮在するも、明明もて常を棐け、鰥寡蓋うことも無からしむ」
「堯帝は、重や黎といった重臣に命じて、諸侯以下の人間の地上からの天への通行を絶ち、
『自分が天の神に通じている』などということを根拠にした天啓降臨的な言行を無からしめた。
それにより、諸侯たちもあたりまえな道徳的常識に即した自明な為政のみを執り行うようになり、
身寄りのない者を見捨てるようなこともなくなったのだった。(私的な天地の通行など害あるのみ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・呂刑より)
>>193の「書経」からの引用は、最後の部分で多少の意訳を噛ましているけれども、
要は「『自分こそは天の神に通じている』などとうそぶくことで人気や権威を得ようなどと
する軽薄者は、救済すべき孤独者などを覆い隠して始めから存在しないことにしてしまう」
というのである。これはまさに、今のブラックアフリカのキリスト教圏で、死亡診断も得られる
ことなく餓死していっている何千万人もの児童たちへのキリスト教団の処遇そのものだといえる。
マザーテレサのごとく、それなりに救済活動を講じているキリシタンもいるけれども、そもそも
自分たちの救済活動が「焼け石に水」レベルの代物にしかなっていないことまでは問題視しない。
それは、何千万から何億という窮死者たちの実在を自分たちの脳内で覆い隠してしまっているから
に他ならない。本質的、総合的な問題から目を背けて、部分的な問題への対処ばかりに執心する
ことで気を紛らわすというのは偽善者の常套手段であって、致命的な道徳観の欠如と、ある程度
以上の注意力不足が本人に帯びている場合にこそ「それでよし」とされてしまうものである。
そして、そのような道徳観の欠如や注意力不足を引き起こす決定的な要因となるのが、
「自分こそは神と通じている」などとうそぶきたがるような脳内お花畑状態でこそある。
>193の引用部分の場合、庶民はおろか、中小国を統べる諸侯が天啓を根拠とした為政などを
企てたりする場合にすら諸々の隠蔽問題などを来たすことになってしまうという。これにも
確かに政治哲学や史実に根ざした根拠が存在している。戦国時代以前の中国の戦闘においては、
天性を司るものとしての陰陽五行思想を兵法にすら援用する場合が多かったが、激戦が極まれば、
もはや天性を無視しての陰湿な権謀術数すらもが動員されて行くことにもなるから、孫子や呉子
などが陰陽五行ばかりに囚われない自明な兵法を構築して行くようになり、それが戦国時代以降の
東洋社会における兵法の常道として扱われるようになった。これなど、諸侯レベルの大権力すらもが
必ずしも天に通ずるものたり得ない証拠になっていて、同時に、もしも諸侯が戦争ではなく仁政に
取り組むというのであれば、自明な仁義道徳によってこそ政治を為すべきである証拠ともなっている。
要は「『自分こそは天の神に通じている』などとうそぶくことで人気や権威を得ようなどと
する軽薄者は、救済すべき孤独者などを覆い隠して始めから存在しないことにしてしまう」
というのである。これはまさに、今のブラックアフリカのキリスト教圏で、死亡診断も得られる
ことなく餓死していっている何千万人もの児童たちへのキリスト教団の処遇そのものだといえる。
マザーテレサのごとく、それなりに救済活動を講じているキリシタンもいるけれども、そもそも
自分たちの救済活動が「焼け石に水」レベルの代物にしかなっていないことまでは問題視しない。
それは、何千万から何億という窮死者たちの実在を自分たちの脳内で覆い隠してしまっているから
に他ならない。本質的、総合的な問題から目を背けて、部分的な問題への対処ばかりに執心する
ことで気を紛らわすというのは偽善者の常套手段であって、致命的な道徳観の欠如と、ある程度
以上の注意力不足が本人に帯びている場合にこそ「それでよし」とされてしまうものである。
そして、そのような道徳観の欠如や注意力不足を引き起こす決定的な要因となるのが、
「自分こそは神と通じている」などとうそぶきたがるような脳内お花畑状態でこそある。
>193の引用部分の場合、庶民はおろか、中小国を統べる諸侯が天啓を根拠とした為政などを
企てたりする場合にすら諸々の隠蔽問題などを来たすことになってしまうという。これにも
確かに政治哲学や史実に根ざした根拠が存在している。戦国時代以前の中国の戦闘においては、
天性を司るものとしての陰陽五行思想を兵法にすら援用する場合が多かったが、激戦が極まれば、
もはや天性を無視しての陰湿な権謀術数すらもが動員されて行くことにもなるから、孫子や呉子
などが陰陽五行ばかりに囚われない自明な兵法を構築して行くようになり、それが戦国時代以降の
東洋社会における兵法の常道として扱われるようになった。これなど、諸侯レベルの大権力すらもが
必ずしも天に通ずるものたり得ない証拠になっていて、同時に、もしも諸侯が戦争ではなく仁政に
取り組むというのであれば、自明な仁義道徳によってこそ政治を為すべきである証拠ともなっている。
諸侯ですら、私的に天啓を掲げたりはすべきでないのだから、イスラエルで活動していた頃の
イエスを含むただの民間人などが、自らの活動を天の神などに仮託していいような正当性も
当然ない。今の日本などでも、街角で易者が一般人相手に占いをしたりしているけれども、
易者も大昔から賤しい職業とされて来たのであり、そのアドバイスなども大概なものとして
受け取るべきとされているのである。それでいて、易占の論拠ともなっている陰陽思想が
帝王や幕府将軍にすら尊ばれたりするのは、全国全土を治めるほどもの大局からの大事業に
おいては確かに、陰陽法則すらもが天下国家の栄枯盛衰すら左右するほどもの実体性を
帯びてくるからで、帝王級の大権力者が天啓を尊ぶのと、そんじょそこらの一般人が
天啓に頼るのとでは、まさに天と地ほどもの価値の開きが生ずるのだといえる。
全国全土を統べる帝王ともなれば天啓に与るのも可とする(「皇帝」という名称も本来そのような
意味がある)古代の中国や日本とも違って、インドなどではそもそも祭祀階級と権力者階級が
バラモンとクシャトリアとして厳密に分かたれてもいる。そのせいで、全国規模での権力者の
統制による国際関係での強大化のような選択肢が絶たれているのと引き換えに、自分たち同士では
和睦を徹底することでの万年平和状態をも実現している。もしも国際紛争などこの地球上から
絶やされるのであればインドのようなあり方が理想となるけれども、未だ世の中を乱す覇権主義
などが横行している場合には、ある程度は天啓を頂く帝王などによる統制も必要となる場合がある。
いずれにしろ、庶人が勝手に天啓をうそぶいていいような選択肢だけはないのである。
イエスを含むただの民間人などが、自らの活動を天の神などに仮託していいような正当性も
当然ない。今の日本などでも、街角で易者が一般人相手に占いをしたりしているけれども、
易者も大昔から賤しい職業とされて来たのであり、そのアドバイスなども大概なものとして
受け取るべきとされているのである。それでいて、易占の論拠ともなっている陰陽思想が
帝王や幕府将軍にすら尊ばれたりするのは、全国全土を治めるほどもの大局からの大事業に
おいては確かに、陰陽法則すらもが天下国家の栄枯盛衰すら左右するほどもの実体性を
帯びてくるからで、帝王級の大権力者が天啓を尊ぶのと、そんじょそこらの一般人が
天啓に頼るのとでは、まさに天と地ほどもの価値の開きが生ずるのだといえる。
全国全土を統べる帝王ともなれば天啓に与るのも可とする(「皇帝」という名称も本来そのような
意味がある)古代の中国や日本とも違って、インドなどではそもそも祭祀階級と権力者階級が
バラモンとクシャトリアとして厳密に分かたれてもいる。そのせいで、全国規模での権力者の
統制による国際関係での強大化のような選択肢が絶たれているのと引き換えに、自分たち同士では
和睦を徹底することでの万年平和状態をも実現している。もしも国際紛争などこの地球上から
絶やされるのであればインドのようなあり方が理想となるけれども、未だ世の中を乱す覇権主義
などが横行している場合には、ある程度は天啓を頂く帝王などによる統制も必要となる場合がある。
いずれにしろ、庶人が勝手に天啓をうそぶいていいような選択肢だけはないのである。
「孔子少くして孤なり、其の墓を知らず。五父の衢に殯す。人の之れを見る者、
皆な葬と為せり。其の慎めるや蓋し殯なり。郰曼父の母に問いて、然る後防に合葬するを得たり」
「孔先生は若いうちに父母を亡くして孤児となられた。(妾腹の私生児だったため)父の墓を
知らなかったので五父という所の路地で母のかりもがりを執り行った。これを見たものはみな
立派な葬儀だと認めた。(妾だった母だからあえて路地でかりもがりを行った)その慎み深さ
こそは認められた。その後、母の親類に問うて父の墓を探り当て、防という場所に合葬した。
(孤児でいながら、あえて妾の子である自分を遠ざけた父の意向をも孔子は汲んだのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
皆な葬と為せり。其の慎めるや蓋し殯なり。郰曼父の母に問いて、然る後防に合葬するを得たり」
「孔先生は若いうちに父母を亡くして孤児となられた。(妾腹の私生児だったため)父の墓を
知らなかったので五父という所の路地で母のかりもがりを執り行った。これを見たものはみな
立派な葬儀だと認めた。(妾だった母だからあえて路地でかりもがりを行った)その慎み深さ
こそは認められた。その後、母の親類に問うて父の墓を探り当て、防という場所に合葬した。
(孤児でいながら、あえて妾の子である自分を遠ざけた父の意向をも孔子は汲んだのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
ある程度、一世代上や二世代上といった領域を想定することでこそ
心からの安心を得られるのも、人間という生き物に与えられたサガである。
生物としての人間には親がいて、なおかつ低能な動物などと違って、
先祖代々の血脈というものまでをも認知することができる。なればこそ、
自分自身の父母のみならず、祖父母や曾祖父母やさらにその上といった
連綿たる我が家の歴史にも思いをはせることで、ただ安心を得るだけでなく、
自らが生きて活動していく上での指針や誇り高さをも会得して行けるのである。
むろん、動物でも自分の親を認知して慕うぐらいのことはあり得る。
クモの一種などのように、親の死骸を食い物として生まれ育って行く
動物などもいるけれども、特に哺乳類などの高等な動物であれば、自分の
母親への愛慕くらいは抱けるものである。それは、自分より一世代上の親
への愛情であり、それを抱けるのであれば、父親への親愛をも抱けなくはない。
そこを悪用しているのが、「父なる神」を信仰対象に見立てている部類の邪教であり、
一世代上である親への愛慕程度は畜生でも抱けるから、白痴化洗脳で知能を動物程度
にまで低下させたとしても、その信仰を保っていることができる。なおかつ、哺乳動物は
母親への愛慕を抱きやすい一方、父親への愛慕などは抱きにくいものだから、「母なる神」
ではなく「父なる神」への服従に屈することが、なにか得体の知れないようなものでいて、
なおかつ崇高なものへの帰依に繋がるかのような思い込みにもかられがちなのである。
むろん、そんなことは、実の父親への崇敬も欠かさないでいればあり得ないことである。
最大級に偉大であるといえども、便所にも行けば加齢臭もする、そして何よりも自分の
母親を手篭めにすることで自分を産ませた実の父親というものを、そうでいてなおかつ
崇敬の対象とするぐらいの心尽くしを利かせたならば、父なる神云々なんぞへの
帰依が不実きわまりない戯れ事でしかないことをも十分に計り知れるのである。
心からの安心を得られるのも、人間という生き物に与えられたサガである。
生物としての人間には親がいて、なおかつ低能な動物などと違って、
先祖代々の血脈というものまでをも認知することができる。なればこそ、
自分自身の父母のみならず、祖父母や曾祖父母やさらにその上といった
連綿たる我が家の歴史にも思いをはせることで、ただ安心を得るだけでなく、
自らが生きて活動していく上での指針や誇り高さをも会得して行けるのである。
むろん、動物でも自分の親を認知して慕うぐらいのことはあり得る。
クモの一種などのように、親の死骸を食い物として生まれ育って行く
動物などもいるけれども、特に哺乳類などの高等な動物であれば、自分の
母親への愛慕くらいは抱けるものである。それは、自分より一世代上の親
への愛情であり、それを抱けるのであれば、父親への親愛をも抱けなくはない。
そこを悪用しているのが、「父なる神」を信仰対象に見立てている部類の邪教であり、
一世代上である親への愛慕程度は畜生でも抱けるから、白痴化洗脳で知能を動物程度
にまで低下させたとしても、その信仰を保っていることができる。なおかつ、哺乳動物は
母親への愛慕を抱きやすい一方、父親への愛慕などは抱きにくいものだから、「母なる神」
ではなく「父なる神」への服従に屈することが、なにか得体の知れないようなものでいて、
なおかつ崇高なものへの帰依に繋がるかのような思い込みにもかられがちなのである。
むろん、そんなことは、実の父親への崇敬も欠かさないでいればあり得ないことである。
最大級に偉大であるといえども、便所にも行けば加齢臭もする、そして何よりも自分の
母親を手篭めにすることで自分を産ませた実の父親というものを、そうでいてなおかつ
崇敬の対象とするぐらいの心尽くしを利かせたならば、父なる神云々なんぞへの
帰依が不実きわまりない戯れ事でしかないことをも十分に計り知れるのである。
イエスのごときは、自分が妾腹の私生児でいて、娼婦だった母親と義父の下で生まれ
育ったものだから、脳内妄想中の父なる神などへの服従意識などを勝手に思い募らせて
行ったのだけれども、孔子も同じく妾腹の私生児でいて、なおかつ義父もいない母子家庭に
育ちながら、実の父親こそを最大級に尊重して、我が母を妾扱いとした父の意向をも汲んで
母を路地での葬儀に付してから父の墓に合葬するなどしたのだった。これなど、生まれ育った
環境が、父なる神への妄想などを正当化する理由には全くならない最たる根拠となってる。
商売人や被差別部落のような賤しい身分であれば、自らの先祖などへの尊崇意識なども
なかなか抱けないものだけれども、だからといって実の父親への敬いまでをも無みして、
父なる神への夢想などに耽っていていいはずもない。身分の如何に関わらず、一世代上の
父および母への崇敬ぐらいは誰しもが持つべきであり、それにより、私的な天との疎通などを
嘯いた邪教の触れ回りなどをも防ぐようにして行くべきである。そのためには、なかなか
親などを敬いの対象ともしにくいような身分の人間の手本とすらなるように、君子階級の
人間などが、先祖代々に至るまでの祖神の崇敬などにも専念して行かなければならない。
「命士由り以上は、父子皆な宮を異にする」
「士人以上の階級の人間は、父子同士は全員、家を別個にする。
(それぞれに責任ある君子たるものが父子の親を尊ぶのが儒家道徳である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・内則第二十より)
育ったものだから、脳内妄想中の父なる神などへの服従意識などを勝手に思い募らせて
行ったのだけれども、孔子も同じく妾腹の私生児でいて、なおかつ義父もいない母子家庭に
育ちながら、実の父親こそを最大級に尊重して、我が母を妾扱いとした父の意向をも汲んで
母を路地での葬儀に付してから父の墓に合葬するなどしたのだった。これなど、生まれ育った
環境が、父なる神への妄想などを正当化する理由には全くならない最たる根拠となってる。
商売人や被差別部落のような賤しい身分であれば、自らの先祖などへの尊崇意識なども
なかなか抱けないものだけれども、だからといって実の父親への敬いまでをも無みして、
父なる神への夢想などに耽っていていいはずもない。身分の如何に関わらず、一世代上の
父および母への崇敬ぐらいは誰しもが持つべきであり、それにより、私的な天との疎通などを
嘯いた邪教の触れ回りなどをも防ぐようにして行くべきである。そのためには、なかなか
親などを敬いの対象ともしにくいような身分の人間の手本とすらなるように、君子階級の
人間などが、先祖代々に至るまでの祖神の崇敬などにも専念して行かなければならない。
「命士由り以上は、父子皆な宮を異にする」
「士人以上の階級の人間は、父子同士は全員、家を別個にする。
(それぞれに責任ある君子たるものが父子の親を尊ぶのが儒家道徳である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・内則第二十より)
「礼は節を踰えず。侵して侮らず、好みて狎れず」
「礼儀をわきまえるものは決して節度を超えない。特定の対象を侵して侮り蔑む
ようなこともなければ、特定の相手のみを好き好んで馴れ親しんだりすることもない。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
「狎れ侮るものは死するまで畏れざるなり」
「馴れ合って人を侮るようなものは死ぬまで他者を畏れるようなことがない。
(上記の引用と合わせて。自明な礼節にも基づかずに架空の超越神などに慣れ親しもう
とするような姿勢自体、本当はむしろ万事万物への侮りや蔑みを深刻化させるものである。
超越神への畏怖などはただの演技止まりで、演技の畏怖に執心するのと引き換えに
生身の人間への侮蔑を募らせる。そのような心理状態に陥ってしまっている人間は、
死ぬまで他者を畏怖の対象とすることもできないままに終わるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——表記第三十二より)
「礼儀をわきまえるものは決して節度を超えない。特定の対象を侵して侮り蔑む
ようなこともなければ、特定の相手のみを好き好んで馴れ親しんだりすることもない。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
「狎れ侮るものは死するまで畏れざるなり」
「馴れ合って人を侮るようなものは死ぬまで他者を畏れるようなことがない。
(上記の引用と合わせて。自明な礼節にも基づかずに架空の超越神などに慣れ親しもう
とするような姿勢自体、本当はむしろ万事万物への侮りや蔑みを深刻化させるものである。
超越神への畏怖などはただの演技止まりで、演技の畏怖に執心するのと引き換えに
生身の人間への侮蔑を募らせる。そのような心理状態に陥ってしまっている人間は、
死ぬまで他者を畏怖の対象とすることもできないままに終わるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——表記第三十二より)

欧米主導の平等主義が日本を含む世界中へと蔓延し始めたからだった。
日本では主に部落差別が撤廃の対象とされ、近頃の中国などでは商工業への差別が
著しく緩和されたために工業超大国などへと発展している。しかし、差別されるには
差別されるなりの理由もそれなりにあったわけで、その差別が撤廃された結果、
日本では血肉の穢れで精神をやられた部落出身者が逆差別の我田引水を企てたり、
中国でも政財界の深刻な腐敗だとか、工業の過剰な推進による致命的な環境汚染だとか
いった問題を来たしている。同様な問題を欧米社会は克服しているように思えた所で、
やはりアフリカやインドや中東のような伝統的な搾取対象から膨大な富を巻き上げて、
その取り回しによって腐敗を腐敗でないかのように見せかけているだけなのだから、
この世から然るべき差別すらをも撤廃したことの埋め合わせまではできていないといえる。
差別を絶対的な悪と見なす他ないのは、そう見なす本人たちに中庸的なものの考え方が
全く欠けているからである。今でも糞尿を不浄なものとして卑しむぐらいのことは
認められているけれども、不浄でいながらも栄養素の塊でもあるものだから、昔は
肥溜めで人の糞尿を発酵させて天然の堆肥として用いるなどもしていたのである。
しかし、今はもうただただ不浄なだけのものとされて、下水道から浄化槽へと直行させたり
することが半ば義務付けられている。それを日本で推進したのも日本人ではなくGHQであり、
アメリカ人の差別対象に対する徹底的な否定意識こそが垣間見られる事例ともなっている。
被差別部落なぞも、元はといえば政争で敗れた権力者などの落ち延び先として
あてがわれたものだったわけで、まさに「社会の肥溜め」そのものであったわけだけれども、
肥溜めが禁止されたのと同じようにして、それが差別対象とされることも禁止された結果、
日本最大級の被差別部落であった旧長宗我部勢などが政財界のトップをも掌握するに至り、
権力者の腐敗などはあって当たり前なもの扱いにすらされ始めてしまったのだった。
糞尿にすら堆肥としての再利用先を与えるような中庸的な観点があればこそ、この世における
必要悪としての差別をも容認して行くことができる。むしろ、何物に対しても一定以上の存在意義
を認められるだけの寛容さがあればこそ、人の上に立つ人の存在をも素直に尊んで行けるのである。
旧部落出身者に限らず、商業権力全般が甚大な腐敗を来たしている昨今、必要悪の身分差別を
講ずるとしたところで、屠殺や製革などの特定の職種ばかりを差別対象とするのではなく、
私利私益第一な虚業への従事者全般を被差別対象に指定して行くことのほうが現実的となる。
となると、商業全般を伝統的な差別対象として来た中国のあり方に近似することとなるわけだ
けれども、未だ世界規模での商業権力の横暴冷めやらぬうちから、世界に先んじて商業全般
を抑圧の対象として来た中国という国の、近世以降における国家規模でのサンドバック状態な
体たらくなどを鑑みれば、商業全般を差別対象として行くことへの忌避感なども募らせかねない。
ただ、そこは中国のほうが「過ぎたるはなお及ばざるが如し」だった部分であるといえ、
世界全体が足並みを揃えて、過剰な商業権力の横暴を廃絶して行くようにしたならば、
清代末期の中国のような陰惨な事態に世界が陥るようなこともなくて済むのである。
あてがわれたものだったわけで、まさに「社会の肥溜め」そのものであったわけだけれども、
肥溜めが禁止されたのと同じようにして、それが差別対象とされることも禁止された結果、
日本最大級の被差別部落であった旧長宗我部勢などが政財界のトップをも掌握するに至り、
権力者の腐敗などはあって当たり前なもの扱いにすらされ始めてしまったのだった。
糞尿にすら堆肥としての再利用先を与えるような中庸的な観点があればこそ、この世における
必要悪としての差別をも容認して行くことができる。むしろ、何物に対しても一定以上の存在意義
を認められるだけの寛容さがあればこそ、人の上に立つ人の存在をも素直に尊んで行けるのである。
旧部落出身者に限らず、商業権力全般が甚大な腐敗を来たしている昨今、必要悪の身分差別を
講ずるとしたところで、屠殺や製革などの特定の職種ばかりを差別対象とするのではなく、
私利私益第一な虚業への従事者全般を被差別対象に指定して行くことのほうが現実的となる。
となると、商業全般を伝統的な差別対象として来た中国のあり方に近似することとなるわけだ
けれども、未だ世界規模での商業権力の横暴冷めやらぬうちから、世界に先んじて商業全般
を抑圧の対象として来た中国という国の、近世以降における国家規模でのサンドバック状態な
体たらくなどを鑑みれば、商業全般を差別対象として行くことへの忌避感なども募らせかねない。
ただ、そこは中国のほうが「過ぎたるはなお及ばざるが如し」だった部分であるといえ、
世界全体が足並みを揃えて、過剰な商業権力の横暴を廃絶して行くようにしたならば、
清代末期の中国のような陰惨な事態に世界が陥るようなこともなくて済むのである。
この世に正統なものとして認知されている思想教学のほとんどは、
個人的、社会的な破滅をわざわざ招いたりしないことを目的としたものである。
この世に破滅をもたらさないための教学。良妻賢母の神である天照大神を最高神として
祀る日本神道などがその典型例であり、人々がアマテラス的な神への尊崇を大きく
損ねてしまっている近代以降には、堅実な家族計画を反故にしてしまっているせいでの
人類滅亡級の危害を伴う世界規模の人口爆発といった問題を来たしてしまってもいる。
破滅をもたらすような邪教邪学を廃絶するための教学。他でもない儒学がその代表格であり、
わざわざ必要もなく破滅をもたらす邪神エホバを最高神として崇める新旧約聖書と
真逆の教理学説を儒学の正典四書五経が擁していることからも、それが明らかである。
仏教もまた、元はといえば六師外道のごとき異端派を相手取っていたものであり、
それらの外道のほうに洋学や聖書教にも通ずる邪見が多く具わっていたわけだけれども、
仏教自体は邪教邪学を敵に回して降伏するばかりのところにとどまらない、独立的な
荘厳を湛えた善教ともなっているため、儒学ほど勧善懲悪の傾向は色濃くない。
わざわざ破滅をもたらすような邪神を何らかの形で想定する教学。
破壊神シヴァを創造神ブラフマーや維持神ヴィシュヌと共に祀り上げるヒンズー教だとか、
最高神にして善神たるアフラ・マズダーの敵役としての邪神アンラ・マンユを規定する
拝火教だとかもそのうちに入るわけだが、これらの教学においては、破滅をもたらす神が
「主人公」としての役割までは果たしておらず、相応の扱いに止められている。そのため、
これらの教学だけで「マッチポンプ」という条件まで満たすことはなく、故にこの世に
わざわざあえて破滅をもたらすような所にまでは至らない点が特筆すべき点だといえる。
個人的、社会的な破滅をわざわざ招いたりしないことを目的としたものである。
この世に破滅をもたらさないための教学。良妻賢母の神である天照大神を最高神として
祀る日本神道などがその典型例であり、人々がアマテラス的な神への尊崇を大きく
損ねてしまっている近代以降には、堅実な家族計画を反故にしてしまっているせいでの
人類滅亡級の危害を伴う世界規模の人口爆発といった問題を来たしてしまってもいる。
破滅をもたらすような邪教邪学を廃絶するための教学。他でもない儒学がその代表格であり、
わざわざ必要もなく破滅をもたらす邪神エホバを最高神として崇める新旧約聖書と
真逆の教理学説を儒学の正典四書五経が擁していることからも、それが明らかである。
仏教もまた、元はといえば六師外道のごとき異端派を相手取っていたものであり、
それらの外道のほうに洋学や聖書教にも通ずる邪見が多く具わっていたわけだけれども、
仏教自体は邪教邪学を敵に回して降伏するばかりのところにとどまらない、独立的な
荘厳を湛えた善教ともなっているため、儒学ほど勧善懲悪の傾向は色濃くない。
わざわざ破滅をもたらすような邪神を何らかの形で想定する教学。
破壊神シヴァを創造神ブラフマーや維持神ヴィシュヌと共に祀り上げるヒンズー教だとか、
最高神にして善神たるアフラ・マズダーの敵役としての邪神アンラ・マンユを規定する
拝火教だとかもそのうちに入るわけだが、これらの教学においては、破滅をもたらす神が
「主人公」としての役割までは果たしておらず、相応の扱いに止められている。そのため、
これらの教学だけで「マッチポンプ」という条件まで満たすことはなく、故にこの世に
わざわざあえて破滅をもたらすような所にまでは至らない点が特筆すべき点だといえる。
破滅をもたらす邪神こそを唯一最高の神に祀り上げる教学。
アブラハム教がそれであり、唯一神エホバは自分こそがこの世に破滅をもたらす過程に
おいて、信者のみを救おうとする。そのエホバの邪まな傾向をありのままに称えている
のがユダヤ教とキリスト教=聖書信仰である一方、イスラム教だけは、エホバをアラー
に摩り替えて、根本聖典コーランの中で新旧約とは真逆の教説ばかりを語らせているため、
最高神が辛うじて自分から破滅を招くような真似にまでは及ばないようになっている。
以上の教学うちで、教学そのものがわざわざあえてこの世に破滅をもたらす傾向すらをも
持ち合わせているのは、ユダヤ教とキリスト教の両聖書信仰のみである。それ以外の
教学でも、「この世の破滅」的な事態に対する対処の仕方にはそれなりの段階の違いが
あるけだけれども、わざわざ自分たちから破滅をもたらすような傾向までをも備えている
ような教学ともなれば、聖書信仰以外には一つもないのである。聖書信仰すらこの世に存在
しなければ、特定の教学によってこの世が破滅に陥れられるようなことはあり得ないのだ。
人間自身の文化的な教学が破滅をもたらしたりせずとも、天災によって天下国家が傾国級の
危害に見舞われたり、秦帝国の悪宦官趙高のような重権力犯罪者が、特定の思想教学などに
よることもなく、腐れきった政治姿勢によって亡国を招いたりすることもあるわけである。
そのような事例は一旦取り置くとして、特定の堂に入った人造文化があえてこの世に破滅
をもたらすということは、今のところ社会的に十分に承認すらされていないことである。
聖書信仰といえども、多少は世の中を安寧に持って行こうとする傾向があるものと思われて
いる。この世にプラスマイナスゼロ以上の好影響をもたらすのが「文化」というものの役割
であると完全に決め込まれているものだから、未だ聖書信仰すらもがおおっぴらな振興の
対象とされて、人類を滅亡に陥れない程度の抑制の対象にされることすらないのである。
アブラハム教がそれであり、唯一神エホバは自分こそがこの世に破滅をもたらす過程に
おいて、信者のみを救おうとする。そのエホバの邪まな傾向をありのままに称えている
のがユダヤ教とキリスト教=聖書信仰である一方、イスラム教だけは、エホバをアラー
に摩り替えて、根本聖典コーランの中で新旧約とは真逆の教説ばかりを語らせているため、
最高神が辛うじて自分から破滅を招くような真似にまでは及ばないようになっている。
以上の教学うちで、教学そのものがわざわざあえてこの世に破滅をもたらす傾向すらをも
持ち合わせているのは、ユダヤ教とキリスト教の両聖書信仰のみである。それ以外の
教学でも、「この世の破滅」的な事態に対する対処の仕方にはそれなりの段階の違いが
あるけだけれども、わざわざ自分たちから破滅をもたらすような傾向までをも備えている
ような教学ともなれば、聖書信仰以外には一つもないのである。聖書信仰すらこの世に存在
しなければ、特定の教学によってこの世が破滅に陥れられるようなことはあり得ないのだ。
人間自身の文化的な教学が破滅をもたらしたりせずとも、天災によって天下国家が傾国級の
危害に見舞われたり、秦帝国の悪宦官趙高のような重権力犯罪者が、特定の思想教学などに
よることもなく、腐れきった政治姿勢によって亡国を招いたりすることもあるわけである。
そのような事例は一旦取り置くとして、特定の堂に入った人造文化があえてこの世に破滅
をもたらすということは、今のところ社会的に十分に承認すらされていないことである。
聖書信仰といえども、多少は世の中を安寧に持って行こうとする傾向があるものと思われて
いる。この世にプラスマイナスゼロ以上の好影響をもたらすのが「文化」というものの役割
であると完全に決め込まれているものだから、未だ聖書信仰すらもがおおっぴらな振興の
対象とされて、人類を滅亡に陥れない程度の抑制の対象にされることすらないのである。
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そのような事態で、「エホバやキリストに帰依するものしか救われない」とする犯罪聖書
の教義がそれなりの実効性を持つこともまた確かなことである。有益無害な正教も有害無益
な邪教もみそくそに扱われて、無理に足並みを揃えさせられているような限りにおいては、
そもそも破滅をもたらしたりしないことを目的としている聖書信仰以外の教学ほぼ全てが、
その時点で完全にその存在意義を無効化させられてしまっているのである。破滅をこの世に
もたらさないことが目的であるからには、まずは聖書信仰のような邪教をこの世から根絶
することが最優先の課題となるのに、それすらもが実現されていないわけだから、後付けで
どんなに良質な教学を振興して行ったりしたところで、全くの「焼け石に水」となるわけだ。
目の前に立てた薄板が右に倒れるか左に倒れるかぐらいに、まず聖書信仰を是とするか
非とするかこそが問題である。是とするほうに倒れるのなら、もはや破滅もまた絶対に免れ
得ないものとなる一方、非とするほうに倒れるのなら、人間が自分たちの文化によって自滅
に見舞われるようなことまではなくなる。致死量の千倍の猛毒を飲むか飲まないかぐらいの
違いが両者にはあるのであり、それを良薬で癒せる癒せないどころの話ではないのである。
「悪を長じて悛めずんば、従いて自ら及ばん。之れを救わんと欲すと雖も、其れ将に能くせんや」
「害悪を増長させ続けて改めようともしないのならば、いずれはそのせいでの禍いが自らに
及んでくる。そうなってからでは、もはや救ってやろうとしたところで、救えるものではない。
(自分こそは多大なる害悪を増長させて来た元凶である犯罪聖書の邪神にこそ、救いはない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隠公六年より)
の教義がそれなりの実効性を持つこともまた確かなことである。有益無害な正教も有害無益
な邪教もみそくそに扱われて、無理に足並みを揃えさせられているような限りにおいては、
そもそも破滅をもたらしたりしないことを目的としている聖書信仰以外の教学ほぼ全てが、
その時点で完全にその存在意義を無効化させられてしまっているのである。破滅をこの世に
もたらさないことが目的であるからには、まずは聖書信仰のような邪教をこの世から根絶
することが最優先の課題となるのに、それすらもが実現されていないわけだから、後付けで
どんなに良質な教学を振興して行ったりしたところで、全くの「焼け石に水」となるわけだ。
目の前に立てた薄板が右に倒れるか左に倒れるかぐらいに、まず聖書信仰を是とするか
非とするかこそが問題である。是とするほうに倒れるのなら、もはや破滅もまた絶対に免れ
得ないものとなる一方、非とするほうに倒れるのなら、人間が自分たちの文化によって自滅
に見舞われるようなことまではなくなる。致死量の千倍の猛毒を飲むか飲まないかぐらいの
違いが両者にはあるのであり、それを良薬で癒せる癒せないどころの話ではないのである。
「悪を長じて悛めずんば、従いて自ら及ばん。之れを救わんと欲すと雖も、其れ将に能くせんや」
「害悪を増長させ続けて改めようともしないのならば、いずれはそのせいでの禍いが自らに
及んでくる。そうなってからでは、もはや救ってやろうとしたところで、救えるものではない。
(自分こそは多大なる害悪を増長させて来た元凶である犯罪聖書の邪神にこそ、救いはない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隠公六年より)
まだやってるんだ。^^
「君子は群して党せず(衛霊公第十五・二二)」の「党」とは、「組織」のことでもある。
テロ組織やねずみ講のための詐欺組織などを組まないのはもちろんのこと、
それなりに公益を目的とした組織すらなるべく組もうとはしないというのである。
とはいえ孔子自身、3000人を超える弟子が居たとされ、それがもはや一つの学問組織に
なってしまっていたわけである。それを源流とした儒学教団の興隆は孔子の死後にも続き、
秦始皇帝による焚書坑儒の弾圧なども被った後、前漢の代になってやっと「国学」として
のその地位が確立され、儒学が公的な振興対象とされて行くようになったのである。
未だ私的な学団に過ぎない派閥を形成してしまっていた孔子や孟子の態度姿勢たるや、
やはりそのようなあり方自体を変則的であるとする自覚があったようである。だからこそ、
「子、疾病す。子路、門人を使わして臣と為す。病、饟なりて曰く、久しいかな、
由の詐りを行うや、臣無くして臣有りと為す。吾れ誰をか欺むかんや、天を欺かんか」
「孔先生が重病になられた。もはや死にそうですらあったので、高弟の子路が門弟たちを
臣下に見立てて、先生を主君として崇める偽りの儀礼を執り行って慰めようとした。
病が少しよくなってから先生は言われた。『由(子路)の偽り好きも久しいものだ。
臣下もいないのに臣下があるように見せかけるなど、どうして私がそんなことをして
欺かねばならないのか。なにか、天をでも欺かねばならない理由があるのか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一二より)
という風に、公職者としての成功に
与れなかったことを門弟に無理に慰められるようなことすらもがあったのである。
テロ組織やねずみ講のための詐欺組織などを組まないのはもちろんのこと、
それなりに公益を目的とした組織すらなるべく組もうとはしないというのである。
とはいえ孔子自身、3000人を超える弟子が居たとされ、それがもはや一つの学問組織に
なってしまっていたわけである。それを源流とした儒学教団の興隆は孔子の死後にも続き、
秦始皇帝による焚書坑儒の弾圧なども被った後、前漢の代になってやっと「国学」として
のその地位が確立され、儒学が公的な振興対象とされて行くようになったのである。
未だ私的な学団に過ぎない派閥を形成してしまっていた孔子や孟子の態度姿勢たるや、
やはりそのようなあり方自体を変則的であるとする自覚があったようである。だからこそ、
「子、疾病す。子路、門人を使わして臣と為す。病、饟なりて曰く、久しいかな、
由の詐りを行うや、臣無くして臣有りと為す。吾れ誰をか欺むかんや、天を欺かんか」
「孔先生が重病になられた。もはや死にそうですらあったので、高弟の子路が門弟たちを
臣下に見立てて、先生を主君として崇める偽りの儀礼を執り行って慰めようとした。
病が少しよくなってから先生は言われた。『由(子路)の偽り好きも久しいものだ。
臣下もいないのに臣下があるように見せかけるなど、どうして私がそんなことをして
欺かねばならないのか。なにか、天をでも欺かねばならない理由があるのか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一二より)
という風に、公職者としての成功に
与れなかったことを門弟に無理に慰められるようなことすらもがあったのである。
上の引用では、まだ孔子も自分のことであるものだから、現状を嘆くようなことも
強がりによって避けているけれども、下の引用などではその本音までもが吐露されている。
「顔淵死す。門人厚く之れを葬らんことを欲す。子曰く、不可なり。
門人厚く之れを葬る。子曰く、回や、予れを視ること猶お父のごとし。
予れは視ること猶お子のごとくするを得ず。我れに非ざるなり、夫の二三子なり」
「高弟の顔淵が若くして死んだ。門人たちは手厚く葬ろうとした。先生は『だめだ』
と言われた。しかし門人たちはそれも聞かずに手厚く葬った。先生は言われた。
『回(顔淵)は私を実の父親のように慕ってくれたが、私は回をわが子のように
遇してやることができなかった。(だから葬儀ばかりを厚くするのも恥じていた)
私が手厚く葬ろうとしたのではない。何人かの弟子たちが勝手にやったのだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・一一)
自分が君子階級としての成功者でもなかったがために、最高弟だった顔淵すらをも
苦学状態ないち書生のままに死なせてしまったことを大いに恥じたのである。子貢
あたりが投機で大金を得てもいたものだから、単なる物質的な富裕に与れないなんて
こともなかったはずだが、清廉を旨とする顔淵はそのような私的な富裕などを由と
することもなかった。あくまで君子としての栄華にこそ与らせてやりたかったのに、
たかがいち学団の構成者止まりで居させてしまったことを孔子も酷く嘆いたのである。
「群して党せず」は理想論の極致として、実際問題、多少の組織を組んだりすることも
あるというのは孔子や孟子の事績からも知れることである。ただ、そんなものを誇りと
したりはせず、むしろ恥とする。組織の連帯意識を高める友愛の理念などもあって余計
であり、なくて別に困らないものとする、それぐらいの心がけは必要だといえる。
強がりによって避けているけれども、下の引用などではその本音までもが吐露されている。
「顔淵死す。門人厚く之れを葬らんことを欲す。子曰く、不可なり。
門人厚く之れを葬る。子曰く、回や、予れを視ること猶お父のごとし。
予れは視ること猶お子のごとくするを得ず。我れに非ざるなり、夫の二三子なり」
「高弟の顔淵が若くして死んだ。門人たちは手厚く葬ろうとした。先生は『だめだ』
と言われた。しかし門人たちはそれも聞かずに手厚く葬った。先生は言われた。
『回(顔淵)は私を実の父親のように慕ってくれたが、私は回をわが子のように
遇してやることができなかった。(だから葬儀ばかりを厚くするのも恥じていた)
私が手厚く葬ろうとしたのではない。何人かの弟子たちが勝手にやったのだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・一一)
自分が君子階級としての成功者でもなかったがために、最高弟だった顔淵すらをも
苦学状態ないち書生のままに死なせてしまったことを大いに恥じたのである。子貢
あたりが投機で大金を得てもいたものだから、単なる物質的な富裕に与れないなんて
こともなかったはずだが、清廉を旨とする顔淵はそのような私的な富裕などを由と
することもなかった。あくまで君子としての栄華にこそ与らせてやりたかったのに、
たかがいち学団の構成者止まりで居させてしまったことを孔子も酷く嘆いたのである。
「群して党せず」は理想論の極致として、実際問題、多少の組織を組んだりすることも
あるというのは孔子や孟子の事績からも知れることである。ただ、そんなものを誇りと
したりはせず、むしろ恥とする。組織の連帯意識を高める友愛の理念などもあって余計
であり、なくて別に困らないものとする、それぐらいの心がけは必要だといえる。
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作為は人事であり、天命は無為である。
儒家は人事としての自力作善を自分たちの本題とする一方、
そこに付随したりしなかったりする程度のものとしての天命をも尊ぶ。
ただ、天命を尊ぶからこそ無為自然を理想とする道家思想をも尊ぶのであり、
天命を尊ばんがために「作為的な神の業」などを是とすることもないのである。
人事にかけての最善を尽くせばこそ、
作為が神の業などではあり得ないことも知るのである。
犯罪聖書で絶対不可侵の超越神とされているエホバの業なんぞも、古代中国や
今の世界で横行している政商や食客や縦横家の如き権力犯罪者が巻き起こす
犯罪現象に過ぎないと完全に看破することができる。しかもそれは、人間が
為しうる作為のうちでも決して最善の部類に入るものなどではなく、商業権力への
過保護だとかの甚だしい怠慢と共にこそ成立しているだけのものに過ぎないわけだから、
それ以上にも為政や武事にかけて最善を尽くそうとする人間の立場からすれば、
ただただ見下げたものとして取り扱うほかはないものとなるわけである。
そんなものが、人事にかけて最善を尽くす人間が「神の業」などとして尊ぶに
値するものでないのは当然のこととして、やはりそのような人間にとっても、
もはや神の業と見なす他ない現象というものが、無為自然の中にこそ見出される。
「無為自然」というからには、何もしないことばかりを想定してしまいがちだけれども、
何もしないでいようとする中にも、どうしたって転変せざるを得ないようなことがある。
そのような消極性の限りを尽くした変転の中にこそ、超絶的な神の業とも見なし得る
現象というものが少なからず散見されるものであり、そのような現象こそは、全世界、
天下国家の命運を司るほどもの大局からの神威を発揮したりしてもいるのである。
儒家は人事としての自力作善を自分たちの本題とする一方、
そこに付随したりしなかったりする程度のものとしての天命をも尊ぶ。
ただ、天命を尊ぶからこそ無為自然を理想とする道家思想をも尊ぶのであり、
天命を尊ばんがために「作為的な神の業」などを是とすることもないのである。
人事にかけての最善を尽くせばこそ、
作為が神の業などではあり得ないことも知るのである。
犯罪聖書で絶対不可侵の超越神とされているエホバの業なんぞも、古代中国や
今の世界で横行している政商や食客や縦横家の如き権力犯罪者が巻き起こす
犯罪現象に過ぎないと完全に看破することができる。しかもそれは、人間が
為しうる作為のうちでも決して最善の部類に入るものなどではなく、商業権力への
過保護だとかの甚だしい怠慢と共にこそ成立しているだけのものに過ぎないわけだから、
それ以上にも為政や武事にかけて最善を尽くそうとする人間の立場からすれば、
ただただ見下げたものとして取り扱うほかはないものとなるわけである。
そんなものが、人事にかけて最善を尽くす人間が「神の業」などとして尊ぶに
値するものでないのは当然のこととして、やはりそのような人間にとっても、
もはや神の業と見なす他ない現象というものが、無為自然の中にこそ見出される。
「無為自然」というからには、何もしないことばかりを想定してしまいがちだけれども、
何もしないでいようとする中にも、どうしたって転変せざるを得ないようなことがある。
そのような消極性の限りを尽くした変転の中にこそ、超絶的な神の業とも見なし得る
現象というものが少なからず散見されるものであり、そのような現象こそは、全世界、
天下国家の命運を司るほどもの大局からの神威を発揮したりしてもいるのである。
そのような真の神の業の下で、人間もただただ立ちすくんでいるべきなのではなく、
人事にかけて最善を尽くすことでこそ天命に与れもする。ただただ怠慢なままで
いたりするのでは、天命に与れないのはもちろんのこと、無為自然の中にこそある
超絶的な神の業を計り知ることもできないままに終わる。鬼畜米英と反幕勢力の共倒れ
という幕府のはかりごとに一切気づくこともなく破滅が不可避な事態にまで陥ってしまった
今の日米英の資本主義者などもその例である。ただただ金を稼ぐことばかりに奔走すると
いうこと自体が、決して人としての最善を尽くしたあり方ではないものだから、自分たち
が神君家康公の手玉に取られていたことにも全く気づくことができなかったのだった。
人としての怠慢に溺れている所でこそ、政商の如き重権力犯罪者を超越神に
見立てるような虚構の神様ごっこすらもが催されたわけで、それによりさらなる
怠慢の助長すらをも図ってきたわけだから、虚構の超越神こそは、無為自然の
中にこそある真の神の業を見失わせる元凶ともなって来たのだといえる。
神様ごっこというのは、やはり罰当たりなことだったのである。
本物の神仏の霊威を人々に見失わせての破滅を招くが故にこそ、自明に罰当たりとなる。
人々に本物の神仏への崇敬を損なわせると共に、本物の神威を計り知れるだけの最善の人事
を尽くして行く道をも閉ざさせる。いかにも罰当たりそうでいて、実際そうだったのである。
「天は民を矜れみたまう。民の欲する所は、天も必ず之れに従う」
「上天は人々を憐れんでくれるもの。人々が心から願うことは、必ず聞き入れてくれる。
(性善説ならぬ天性善説。万人の願いこそは天に聞き入れられるのだから、
部分の願いばかりを聞き入れるような神は偽物なのである。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓上より)
人事にかけて最善を尽くすことでこそ天命に与れもする。ただただ怠慢なままで
いたりするのでは、天命に与れないのはもちろんのこと、無為自然の中にこそある
超絶的な神の業を計り知ることもできないままに終わる。鬼畜米英と反幕勢力の共倒れ
という幕府のはかりごとに一切気づくこともなく破滅が不可避な事態にまで陥ってしまった
今の日米英の資本主義者などもその例である。ただただ金を稼ぐことばかりに奔走すると
いうこと自体が、決して人としての最善を尽くしたあり方ではないものだから、自分たち
が神君家康公の手玉に取られていたことにも全く気づくことができなかったのだった。
人としての怠慢に溺れている所でこそ、政商の如き重権力犯罪者を超越神に
見立てるような虚構の神様ごっこすらもが催されたわけで、それによりさらなる
怠慢の助長すらをも図ってきたわけだから、虚構の超越神こそは、無為自然の
中にこそある真の神の業を見失わせる元凶ともなって来たのだといえる。
神様ごっこというのは、やはり罰当たりなことだったのである。
本物の神仏の霊威を人々に見失わせての破滅を招くが故にこそ、自明に罰当たりとなる。
人々に本物の神仏への崇敬を損なわせると共に、本物の神威を計り知れるだけの最善の人事
を尽くして行く道をも閉ざさせる。いかにも罰当たりそうでいて、実際そうだったのである。
「天は民を矜れみたまう。民の欲する所は、天も必ず之れに従う」
「上天は人々を憐れんでくれるもの。人々が心から願うことは、必ず聞き入れてくれる。
(性善説ならぬ天性善説。万人の願いこそは天に聞き入れられるのだから、
部分の願いばかりを聞き入れるような神は偽物なのである。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓上より)
結局居座りですか。みっともない。^^
結局、勧善懲悪に務める者にとっても、悪逆非道にひた走る者にとっても、
ただただ自分たちにとって都合のいい神などというものが絶対的な
ものとして君臨するなどということもあり得ないのである。
たとえば、勧善懲悪の仁政を心がける者などにとって、良妻賢母の貞節さを司る
天照大神ほど都合のいい神も他にいないわけだけれども、だからといって天照大神が
この世に絶対的なものとして君臨し続けてくれるのかといえば、そういうわけでもない。
世の中が一定以上の汚濁にまみれてしまったならば、容赦なくお隠れになる神でもあり、
それにより人口爆発のような人類滅亡級の災禍すらをももたらしてしまったりする。
人間の側が人事を尽くして清廉な為政に励むことでこそ、天照大神のごとき
善神もまた崇敬に値する神威を湛えてくれる一方で、権力犯罪やりたい放題の
濁世を推し進めていった先にこそ生ずる神威じみた現象というものもまたある。
それが犯罪聖書におけるエホバやキリストの所業のようであったりもするわけで、
善神にしろ邪神にしろ、人間たちの行いに呼応して生ずる神であるには違いないのである。
善神は人々の最善なる努力と共にこそその神威を発揮してくださる一方で、
邪神は人間どものやりたい放題に合わせてその神威を発揮する。善神のほうが
崇めにくいものの、崇められたならその効験も恒久的である一方、邪神はしごく
崇めやすい一方で、いつかは崇めることでの効験などが得られなくなってしまう。
今まで権力腐敗による経済破綻の埋め合わせを全て外界侵略による収奪によって
埋め合わせていた欧米聖書圏が、ついには収奪先がなくなって自滅寸前の様相を
来たしてしまっている現状などが、まさにその実例になっているといえる。
ただただ自分たちにとって都合のいい神などというものが絶対的な
ものとして君臨するなどということもあり得ないのである。
たとえば、勧善懲悪の仁政を心がける者などにとって、良妻賢母の貞節さを司る
天照大神ほど都合のいい神も他にいないわけだけれども、だからといって天照大神が
この世に絶対的なものとして君臨し続けてくれるのかといえば、そういうわけでもない。
世の中が一定以上の汚濁にまみれてしまったならば、容赦なくお隠れになる神でもあり、
それにより人口爆発のような人類滅亡級の災禍すらをももたらしてしまったりする。
人間の側が人事を尽くして清廉な為政に励むことでこそ、天照大神のごとき
善神もまた崇敬に値する神威を湛えてくれる一方で、権力犯罪やりたい放題の
濁世を推し進めていった先にこそ生ずる神威じみた現象というものもまたある。
それが犯罪聖書におけるエホバやキリストの所業のようであったりもするわけで、
善神にしろ邪神にしろ、人間たちの行いに呼応して生ずる神であるには違いないのである。
善神は人々の最善なる努力と共にこそその神威を発揮してくださる一方で、
邪神は人間どものやりたい放題に合わせてその神威を発揮する。善神のほうが
崇めにくいものの、崇められたならその効験も恒久的である一方、邪神はしごく
崇めやすい一方で、いつかは崇めることでの効験などが得られなくなってしまう。
今まで権力腐敗による経済破綻の埋め合わせを全て外界侵略による収奪によって
埋め合わせていた欧米聖書圏が、ついには収奪先がなくなって自滅寸前の様相を
来たしてしまっている現状などが、まさにその実例になっているといえる。
真理は、その語義からいって「永久普遍」でもなければならないものであるから、
人間の側が崇められさえすればその効験も永遠である善神こそは、真理を司る神でも
あるといえる一方で、崇めた所でもはや効験など得られなくなる邪神などは、真理を
騙る虚偽を司る神ないし妖怪であるに過ぎなかったといえる。犯罪聖書中では、比較的
人間たち自身のあるべき姿を具体的に述べているイエスの物言いなぞも、それを実践
していった先にどうしようもない破滅をもたらすものばかりであったわけで、最終的
に明かされたのも「そんなものは真理でもなんでもない」ということでこそあった。
人々の努力に呼応してその神威を発揮してくださるのが善神であるが故に、
怠惰まみれな愚人などは善神を真理の顕現などとして認めたがりもしない。
むしろ、自分たちの怠惰を許容してくれるような邪神こそを、真理をも司るもの
として崇めたくもなる。だからといって真理がねじまげられたりすることが
ないのも当然のことであり、善神こそは真理の顕現であり続ける一方で、
邪神は真理を騙る虚偽の象徴のままでしかいられないのである。
「惟れ助けて王と成し、徳を顕らかにし、人を尹すに越いて辟を祗む」
「主君を助けて真の王道の体現者と成し、それにより自明な徳を顕らかにし、
そこから導き出される純正な法度によって人々をも正して行くようにする。
(『神は神』『真理は真理』などという自己中毒的な証しなどを是とすることなく、
自明な徳によって王業を助け、純正な法度によって人々を正して行くのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・酒誥より)
人間の側が崇められさえすればその効験も永遠である善神こそは、真理を司る神でも
あるといえる一方で、崇めた所でもはや効験など得られなくなる邪神などは、真理を
騙る虚偽を司る神ないし妖怪であるに過ぎなかったといえる。犯罪聖書中では、比較的
人間たち自身のあるべき姿を具体的に述べているイエスの物言いなぞも、それを実践
していった先にどうしようもない破滅をもたらすものばかりであったわけで、最終的
に明かされたのも「そんなものは真理でもなんでもない」ということでこそあった。
人々の努力に呼応してその神威を発揮してくださるのが善神であるが故に、
怠惰まみれな愚人などは善神を真理の顕現などとして認めたがりもしない。
むしろ、自分たちの怠惰を許容してくれるような邪神こそを、真理をも司るもの
として崇めたくもなる。だからといって真理がねじまげられたりすることが
ないのも当然のことであり、善神こそは真理の顕現であり続ける一方で、
邪神は真理を騙る虚偽の象徴のままでしかいられないのである。
「惟れ助けて王と成し、徳を顕らかにし、人を尹すに越いて辟を祗む」
「主君を助けて真の王道の体現者と成し、それにより自明な徳を顕らかにし、
そこから導き出される純正な法度によって人々をも正して行くようにする。
(『神は神』『真理は真理』などという自己中毒的な証しなどを是とすることなく、
自明な徳によって王業を助け、純正な法度によって人々を正して行くのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・酒誥より)
真理にことごとく違うような邪義ばかりを好き好んで信奉して来たからには、
ほとんど全ての真理を敵に回して、真理に基づく救いを得られるようなこともない。
まず、「神」が司るような大まかな真理に即して救われるということは絶対にない。
マリア崇拝もアマテラス崇拝と決定的に相反するものなら、アダムの原罪としての
労働義務なども、道家の無為自然の真理と決定的に相反するものである。天道の
神が司っている真理というのは、大まかな概括のところの真理であるために、
それをよく尊ぶことが手っ取り早く天下の安寧を実現していく上では格好と
なるのだが、大まかなだけに、真理に違うような邪義こそを好き好んでいる
ような相手までをも救ってやるような汎用性は持ち合わせていないのである。
「仏」が司る微にわたり細にわたる絶対真理といえども、大半の真理が邪義の
信奉者にとっての救いになるようなことはない。実質的には道家思想に多少の
哲学的な要素を加えた程度のものとなっている小乗仏教の教理が、今まさに悪逆非道の
放辟邪侈に溺れている邪義の信奉者にとっての救いなどにならないのはもちろんのこと、
自分たち自身の菩薩業の助けにこそなる大乗仏教の唯識思想や中観思想、菩薩業の
先に拓かれた悟りこそを司る華厳思想や法華思想が救いになるようなこともやはりない。
これらは多少なりともの自力作善と共にこそ効験のある絶対真理の教理であるため、
自助努力がまったく不十分なままである邪信の徒の救いなどになることはないのである。
仏の中でも、西方浄土での他力本願の救済を司る阿弥陀如来のみが、"元"邪信者に
対する早急な救いの可能性を多少なりとも示している。当然、邪教を信仰している
最中から救済の対象としてやることはないにしろ(邪教の教理は誹謗正法の条件を
満たしてしまっているため、阿弥陀如来からの救いも受けられない)、邪教への狂信
に基づく悪業の程度が比較的軽度でいて、なおかつ完全なる邪教の棄教と共なる念仏
への帰依を徹底するというのであれば、救いがないとも限らないものとなっている。
ほとんど全ての真理を敵に回して、真理に基づく救いを得られるようなこともない。
まず、「神」が司るような大まかな真理に即して救われるということは絶対にない。
マリア崇拝もアマテラス崇拝と決定的に相反するものなら、アダムの原罪としての
労働義務なども、道家の無為自然の真理と決定的に相反するものである。天道の
神が司っている真理というのは、大まかな概括のところの真理であるために、
それをよく尊ぶことが手っ取り早く天下の安寧を実現していく上では格好と
なるのだが、大まかなだけに、真理に違うような邪義こそを好き好んでいる
ような相手までをも救ってやるような汎用性は持ち合わせていないのである。
「仏」が司る微にわたり細にわたる絶対真理といえども、大半の真理が邪義の
信奉者にとっての救いになるようなことはない。実質的には道家思想に多少の
哲学的な要素を加えた程度のものとなっている小乗仏教の教理が、今まさに悪逆非道の
放辟邪侈に溺れている邪義の信奉者にとっての救いなどにならないのはもちろんのこと、
自分たち自身の菩薩業の助けにこそなる大乗仏教の唯識思想や中観思想、菩薩業の
先に拓かれた悟りこそを司る華厳思想や法華思想が救いになるようなこともやはりない。
これらは多少なりともの自力作善と共にこそ効験のある絶対真理の教理であるため、
自助努力がまったく不十分なままである邪信の徒の救いなどになることはないのである。
仏の中でも、西方浄土での他力本願の救済を司る阿弥陀如来のみが、"元"邪信者に
対する早急な救いの可能性を多少なりとも示している。当然、邪教を信仰している
最中から救済の対象としてやることはないにしろ(邪教の教理は誹謗正法の条件を
満たしてしまっているため、阿弥陀如来からの救いも受けられない)、邪教への狂信
に基づく悪業の程度が比較的軽度でいて、なおかつ完全なる邪教の棄教と共なる念仏
への帰依を徹底するというのであれば、救いがないとも限らないものとなっている。
真理によって救われることがあるにしろないにしろ、真理に違う邪教への帰依などが、
真理に即した救いに与れる可能性を狭めていることには違いないのである。そんな過ち
すら犯していなければ、真理によって救われることはおろか、そもそも救われなければ
いられないような苦しみの中に陥れられるようなことすら始めからなくて済む選択肢
というものが無数にすら存在しているわけで、真理と共なる救済や破滅の防止を欲する
というのなら、邪教への帰依などが最悪級の遠回りとなることには違いないのである。
それでいて、邪教が提示する数々の誤謬もまた、真理に相反するものであればこそ、
真理じみていたのでもある。邪まな誤謬というもの自体、真理あってこそのもの
だったわけだから、所詮は真理にまつわる諸事のうちであったのだと言えなくもない。
真理が真理であり、誤謬が誤謬であることを確証するための背理であったのだという
運命を受け入れるのならば、それ相応の寛大な対処というものも期待できるのである。
「父なくんば何をか怙まん、母なくんば何をか恃まん。
(ここまで既出)出でては則ち恤いを銜み、入りては則ち至しき靡し」
「実の父母でなければ、いったい誰を拠り所にしていいものか。(当然他には誰もいない。
親を拠り所にするような正しい姿勢でいるのでなければ)外に出ても憂いに苛まれるばかり、
内に入っても親しむ相手もいない。(真理に導きいれられるかどうか以前の問題)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・蓼莪より)
真理に即した救いに与れる可能性を狭めていることには違いないのである。そんな過ち
すら犯していなければ、真理によって救われることはおろか、そもそも救われなければ
いられないような苦しみの中に陥れられるようなことすら始めからなくて済む選択肢
というものが無数にすら存在しているわけで、真理と共なる救済や破滅の防止を欲する
というのなら、邪教への帰依などが最悪級の遠回りとなることには違いないのである。
それでいて、邪教が提示する数々の誤謬もまた、真理に相反するものであればこそ、
真理じみていたのでもある。邪まな誤謬というもの自体、真理あってこそのもの
だったわけだから、所詮は真理にまつわる諸事のうちであったのだと言えなくもない。
真理が真理であり、誤謬が誤謬であることを確証するための背理であったのだという
運命を受け入れるのならば、それ相応の寛大な対処というものも期待できるのである。
「父なくんば何をか怙まん、母なくんば何をか恃まん。
(ここまで既出)出でては則ち恤いを銜み、入りては則ち至しき靡し」
「実の父母でなければ、いったい誰を拠り所にしていいものか。(当然他には誰もいない。
親を拠り所にするような正しい姿勢でいるのでなければ)外に出ても憂いに苛まれるばかり、
内に入っても親しむ相手もいない。(真理に導きいれられるかどうか以前の問題)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・蓼莪より)
人間は、自らの行いに相応の対価を得るか、回向を期待する対象への他力本願によって
利益に授かるかのいずれかの方法によってこそ、着実な収益を上げて行くことができる。
たとえば、天下万人を利する仁君がいたところで、自らがその為政に背いて帰服を拒否
したりしたなら、当然利益に与れるものではない。さらには、仁君による為政を封建制
ごと放逐し去ったりしたなら、自他共に徳治による恵みなどを受けられなくなってしまう。
だからといって、自分自身の我田引水ばかりを深刻化させて行ったり、仁政によるわけでも
ない不審な手法によって無制限の恵みを与えてくれる何者かなどに帰依することでの利益
などを企図したりしたなら、そのせいでのしっぺ返しが後々に跳ね飛んで来ることともなる。
自力によるのであれ他力によるのであれ、後々のしっぺ返しなどがなくて済むような
利益の追い求め方こそは、非常識に莫大な私益をもたらすようなこともない上に、
自力の場合には多大なる自助努力を、他力の場合には帰服対象への至心なる崇敬を
必要とするものである。天下万人の公益寄与を企図する仁政などがまさにそれであり、
それを志したからといって何らのしっぺ返しなどを恐れたりする必要もない一方で、
仁政の旗手となる君臣たちには挺身級の尽力が必要となるし、その帝業がもたらす利益に
与る民たちもまた、仁君たちへのお上としての崇敬を欠かしてはならないものとなる。
上記のような利殖上の障壁は、他者の利益を損なってでも自分たちの利益を貪り尽くす
我田引水すら可とするのであれば、全く以って立ちふさがりもしないのである。自分たちが
世の中において十分なほどの矮小集団でいて、自分たち以外の多数派から富を巻き上げるように
したなら、それを自力で企図する者にしろ、他力本願で与る者にしろ、大した努力も他者への
入念なる崇敬も必要としないままに、膨大な富を巻き上げての栄華に与れたりするのである。
利益に授かるかのいずれかの方法によってこそ、着実な収益を上げて行くことができる。
たとえば、天下万人を利する仁君がいたところで、自らがその為政に背いて帰服を拒否
したりしたなら、当然利益に与れるものではない。さらには、仁君による為政を封建制
ごと放逐し去ったりしたなら、自他共に徳治による恵みなどを受けられなくなってしまう。
だからといって、自分自身の我田引水ばかりを深刻化させて行ったり、仁政によるわけでも
ない不審な手法によって無制限の恵みを与えてくれる何者かなどに帰依することでの利益
などを企図したりしたなら、そのせいでのしっぺ返しが後々に跳ね飛んで来ることともなる。
自力によるのであれ他力によるのであれ、後々のしっぺ返しなどがなくて済むような
利益の追い求め方こそは、非常識に莫大な私益をもたらすようなこともない上に、
自力の場合には多大なる自助努力を、他力の場合には帰服対象への至心なる崇敬を
必要とするものである。天下万人の公益寄与を企図する仁政などがまさにそれであり、
それを志したからといって何らのしっぺ返しなどを恐れたりする必要もない一方で、
仁政の旗手となる君臣たちには挺身級の尽力が必要となるし、その帝業がもたらす利益に
与る民たちもまた、仁君たちへのお上としての崇敬を欠かしてはならないものとなる。
上記のような利殖上の障壁は、他者の利益を損なってでも自分たちの利益を貪り尽くす
我田引水すら可とするのであれば、全く以って立ちふさがりもしないのである。自分たちが
世の中において十分なほどの矮小集団でいて、自分たち以外の多数派から富を巻き上げるように
したなら、それを自力で企図する者にしろ、他力本願で与る者にしろ、大した努力も他者への
入念なる崇敬も必要としないままに、膨大な富を巻き上げての栄華に与れたりするのである。
とはいえ、そのような我田引水を可とする利殖には、因果応報のしっぺ返しが完全に
不可分なものとして伴って来る。この世に存在する悪因苦果の因果応報のうちでも、
最も完璧に因果律が保存された類いの因果応報としてのしっぺ返しが確実に伴って来る。
にもかかわらず、そればかりを追い求めて来たのが聖書信者であるものだから、
聖書圏では非聖書圏並みに国や家が長期の安寧を保てていた試しもない。ユダヤ教徒
なども聖書圏の中で生じては滅び、生じて亡びするあぶれ者集団としてのみ存在し続けて
来たわけだから、仮に今これから根絶されるとした所で、断然が惜しまれるべき伝統的系統
などが一つでも存在しているようなこともないのである。(最長かつ最大級のユダヤ財閥
であるロスチャイルド財閥ですら、日本の住友家などにその古さで及ばないでいる)
特定の家や国の安寧を約束するわけでもなく、聖書を信仰する人間を散発的に短期の
栄華に与らせては突き落とすということを繰り返して来たのが聖書信仰であるものだから、
聖書圏は聖書を拠り所とするところにしか自分たちの同一性を還元できない体たらくと化して
しまっている。だからこそ聖書信仰そのものまでをも廃絶してしまうことには極大級の抵抗感
を偉大してしまうのに違いないが、もはや聖書を信仰し続けること自体からして持たない程にも、
我田引水による利殖を可とし続けてきたことの悪因苦果が極まってしまっているのである。
聖書信仰がその根本から潰えることで、「諸法因果」の絶対真理が万人に向けて確証される
こととなる。我田引水が悪因苦果の因果応報に結び付くことは昔から仏門などによって固く
戒められて来てはいるが、所詮はいち信教の教義に過ぎないものとして未だ軽んじられたまま
でいるところがある。聖書圏である欧米はおろか、国を挙げての仏門への帰依も篤かった
この日本においてですら、儲けにしか目が行かないような承認根性の持ち主が一定数以上に
巣食ったままでいる。そのような洋の東西を問わぬ諸法因果のわきまえへの手落ちを是正して
行く機縁に聖書信仰の根絶がなったならば、聖書信仰もまた、>>216で書いたような
意味での絶対真理の探究への貢献者ともなることができるのである。
不可分なものとして伴って来る。この世に存在する悪因苦果の因果応報のうちでも、
最も完璧に因果律が保存された類いの因果応報としてのしっぺ返しが確実に伴って来る。
にもかかわらず、そればかりを追い求めて来たのが聖書信者であるものだから、
聖書圏では非聖書圏並みに国や家が長期の安寧を保てていた試しもない。ユダヤ教徒
なども聖書圏の中で生じては滅び、生じて亡びするあぶれ者集団としてのみ存在し続けて
来たわけだから、仮に今これから根絶されるとした所で、断然が惜しまれるべき伝統的系統
などが一つでも存在しているようなこともないのである。(最長かつ最大級のユダヤ財閥
であるロスチャイルド財閥ですら、日本の住友家などにその古さで及ばないでいる)
特定の家や国の安寧を約束するわけでもなく、聖書を信仰する人間を散発的に短期の
栄華に与らせては突き落とすということを繰り返して来たのが聖書信仰であるものだから、
聖書圏は聖書を拠り所とするところにしか自分たちの同一性を還元できない体たらくと化して
しまっている。だからこそ聖書信仰そのものまでをも廃絶してしまうことには極大級の抵抗感
を偉大してしまうのに違いないが、もはや聖書を信仰し続けること自体からして持たない程にも、
我田引水による利殖を可とし続けてきたことの悪因苦果が極まってしまっているのである。
聖書信仰がその根本から潰えることで、「諸法因果」の絶対真理が万人に向けて確証される
こととなる。我田引水が悪因苦果の因果応報に結び付くことは昔から仏門などによって固く
戒められて来てはいるが、所詮はいち信教の教義に過ぎないものとして未だ軽んじられたまま
でいるところがある。聖書圏である欧米はおろか、国を挙げての仏門への帰依も篤かった
この日本においてですら、儲けにしか目が行かないような承認根性の持ち主が一定数以上に
巣食ったままでいる。そのような洋の東西を問わぬ諸法因果のわきまえへの手落ちを是正して
行く機縁に聖書信仰の根絶がなったならば、聖書信仰もまた、>>216で書いたような
意味での絶対真理の探究への貢献者ともなることができるのである。
「克く邦のために勤め、克く家を倹し、自ら満仮せず、惟れ汝じの賢なり
(以下既出)満は損を招き、謙は益を受く。時れ乃ち天の道なり」
「よく国のための事業に励み、自らの家では倹約に努め、自分ばかりが虚仮に満たされよう
などともしない。これはおまえ(禹)の賢さに基づく立派な振る舞いだといえる。
満たされようとばかりすることはかえって損を招く一方で、謙りに勤めていたなら
(かえって長期的な)利益となる。これが天道であるのだから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・大禹謨より)
(以下既出)満は損を招き、謙は益を受く。時れ乃ち天の道なり」
「よく国のための事業に励み、自らの家では倹約に努め、自分ばかりが虚仮に満たされよう
などともしない。これはおまえ(禹)の賢さに基づく立派な振る舞いだといえる。
満たされようとばかりすることはかえって損を招く一方で、謙りに勤めていたなら
(かえって長期的な)利益となる。これが天道であるのだから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・大禹謨より)
妾腹の私生児のような恵まれない境遇に生まれたことに心を苛まれて不埒な
軽挙妄動に及んだりしたならば、そのような人間は世の中に負けたのだといえる。
立派な母親を持てなかったことや、親に認知もしてもらえなかったことなどは、
世の中の価値基準に即してこそ「恥」と見なされることであり、世の中と価値観を
共にすればこそ当事者も深く恥じ入るのである。実の父親が誰とも知れないことを
いいことに、実在もしない超越神を我が父に見立てての邪教を触れ回ったイエス
なんぞも、自らの境遇をひどく恥じ入る所があったからこそ、そのような妄動に
及んでしまったわけだから、これこそは世の中に負けた典型であるといえる。
同じような不遇の中に生まれ育ちながらも、学者や士大夫のごとき公正な身分に
即して名を成した孔子などは、世の中に勝ったとまでいかずとも負けなかったと
ぐらいは言える一方で、イエスこそは世の中に負け去った輩だったといえる。
故にこそ「恥の上塗り」であったともいえる。孔子は恥を漱いで偉人として尊ばれる
立場を手に入れたが、イエスはより恥ずべき醜態を晒したのである。その恥さらし
加減があまりにも見るに堪えなかったものだから、元から精神薄弱者の多かった極西
の地で、それこそを神の姿と崇めるような転倒夢想のブームをも巻き起こしたのである。
精神薄弱者でいて、なおかつ自分たちも世の中への引け目を感じていたものだから、
実際には恥の上塗りに過ぎないイエスの妄動などを絶対神に見立てたがったのである。
当時はインドや中国のような東洋社会こそが世界の三分の二以上のGDPを占める最隆盛
を誇っていた時代であり、西洋などは本当に世界の片隅の小部落社会でしかなかった
わけである。今でこそローマ帝国が隆盛を誇っていたようなプロパガンダ宣伝が
触れ回られているけれども、実際には極西の弱小国の緩やかな連合とでもいった
程度のものでしかなかったわけで、人々の劣等感も甚だしかったものだから、
イエスによる恥さらしの極みなどを崇めたがりもしたのである。 http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/thought/img2/13615953030221.jpg 152 114 www.nicovideo.jp 2272334
軽挙妄動に及んだりしたならば、そのような人間は世の中に負けたのだといえる。
立派な母親を持てなかったことや、親に認知もしてもらえなかったことなどは、
世の中の価値基準に即してこそ「恥」と見なされることであり、世の中と価値観を
共にすればこそ当事者も深く恥じ入るのである。実の父親が誰とも知れないことを
いいことに、実在もしない超越神を我が父に見立てての邪教を触れ回ったイエス
なんぞも、自らの境遇をひどく恥じ入る所があったからこそ、そのような妄動に
及んでしまったわけだから、これこそは世の中に負けた典型であるといえる。
同じような不遇の中に生まれ育ちながらも、学者や士大夫のごとき公正な身分に
即して名を成した孔子などは、世の中に勝ったとまでいかずとも負けなかったと
ぐらいは言える一方で、イエスこそは世の中に負け去った輩だったといえる。
故にこそ「恥の上塗り」であったともいえる。孔子は恥を漱いで偉人として尊ばれる
立場を手に入れたが、イエスはより恥ずべき醜態を晒したのである。その恥さらし
加減があまりにも見るに堪えなかったものだから、元から精神薄弱者の多かった極西
の地で、それこそを神の姿と崇めるような転倒夢想のブームをも巻き起こしたのである。
精神薄弱者でいて、なおかつ自分たちも世の中への引け目を感じていたものだから、
実際には恥の上塗りに過ぎないイエスの妄動などを絶対神に見立てたがったのである。
当時はインドや中国のような東洋社会こそが世界の三分の二以上のGDPを占める最隆盛
を誇っていた時代であり、西洋などは本当に世界の片隅の小部落社会でしかなかった
わけである。今でこそローマ帝国が隆盛を誇っていたようなプロパガンダ宣伝が
触れ回られているけれども、実際には極西の弱小国の緩やかな連合とでもいった
程度のものでしかなかったわけで、人々の劣等感も甚だしかったものだから、
イエスによる恥さらしの極みなどを崇めたがりもしたのである。 http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/thought/img2/13615953030221.jpg 152 114 www.nicovideo.jp 2272334
キリスト教などというものが西洋社会に蔓延し始めたきっかけからして、ろくな
ものではなかった。世の中への引け目ばかりを抱いているような陰湿な神経の持ち主
たちが、妾腹の私生児の恥の上塗りを神として崇めたがったりしたその最原初の
あり方からしてすでに、世界史上最悪級の人類にとっての失態だったのである。
そこですでに、西洋人の世界的敗北もまた確定してしまったのである。
孔子のような、着実に自らの身の上の恥を漱いで行った賢人こそを尊崇したの
ならともかく、恥の上塗りをやらかしたような愚人こそを絶対神にまで見立てて
崇め立てたりしたのだから、そんなことを至尊の伝統ともして来た時点ですでに、
西洋人が地球人類のうちでも最劣等の人種とされることもまた決していたのである。
ただ自らの身の上が恥ずべきものだったりするだけなら、まだその恥の漱ぎようが
あるが、先天的な恥を自らの妄動という後天的な恥によって上塗りしたりしたのなら、
もはや恥の漱ぎようもないというもの、そしてしそのようなあり方こそを西洋人は
是とした。それこそ、二度と世の中に勝てなくなる烙印というものだったわけで、
その烙印を捺されたままでの妄動をエスカレートさせて世界侵略にまで及んだものの、
その侵略や植民の仕方があまりにも無責任で身勝手なものであったために、自分たち
が世界に降伏するのでもなければ自分たちごとの人類の滅亡すら免れ得ない事態をも
招いてしまった。これも、始めから負けが確定していた者の案の定な末路だといえる。
世の中に勝つか負けるかでいうところの負けを喫した。そもそも世の中と戦ったり
しようとするような公共意識の欠如からしてあるべきことではなく、そのような
不埒な観念の持ち主である事からして、すでに敗北の呼び水であったともいえる。
人の身でいながら世の中を敵視するようなことからして、あるべきではないのである。
ものではなかった。世の中への引け目ばかりを抱いているような陰湿な神経の持ち主
たちが、妾腹の私生児の恥の上塗りを神として崇めたがったりしたその最原初の
あり方からしてすでに、世界史上最悪級の人類にとっての失態だったのである。
そこですでに、西洋人の世界的敗北もまた確定してしまったのである。
孔子のような、着実に自らの身の上の恥を漱いで行った賢人こそを尊崇したの
ならともかく、恥の上塗りをやらかしたような愚人こそを絶対神にまで見立てて
崇め立てたりしたのだから、そんなことを至尊の伝統ともして来た時点ですでに、
西洋人が地球人類のうちでも最劣等の人種とされることもまた決していたのである。
ただ自らの身の上が恥ずべきものだったりするだけなら、まだその恥の漱ぎようが
あるが、先天的な恥を自らの妄動という後天的な恥によって上塗りしたりしたのなら、
もはや恥の漱ぎようもないというもの、そしてしそのようなあり方こそを西洋人は
是とした。それこそ、二度と世の中に勝てなくなる烙印というものだったわけで、
その烙印を捺されたままでの妄動をエスカレートさせて世界侵略にまで及んだものの、
その侵略や植民の仕方があまりにも無責任で身勝手なものであったために、自分たち
が世界に降伏するのでもなければ自分たちごとの人類の滅亡すら免れ得ない事態をも
招いてしまった。これも、始めから負けが確定していた者の案の定な末路だといえる。
世の中に勝つか負けるかでいうところの負けを喫した。そもそも世の中と戦ったり
しようとするような公共意識の欠如からしてあるべきことではなく、そのような
不埒な観念の持ち主である事からして、すでに敗北の呼び水であったともいえる。
人の身でいながら世の中を敵視するようなことからして、あるべきではないのである。
「春秋に義戦無し。彼、此れより善きは則ち之れ有り。
征者は上として下を伐つなり。敵国相い征せざるなり」
「(春秋時代の諸侯の身勝手な抗争を記録した孔子編纂の歴史書である)『春秋経』には、
道義に根ざした戦いというものは一つも載っていない。あっちの国がこっちの国より
マシという程度のことはある(が、本当に道義に適った戦いでの勝者などはいない)。
勅命に則った上からの下への征伐であれば道義にも適うが、ほとんど同等な国同士が
敵同士としていがみ合って戦ったりするのはそのような征伐の条件を満たしていないから。
(庶人が勝手に世の中を敵視して戦ったりすることも、これと同等かそれ以上の不義
だといえる。戦いを本是とする修羅道もそれはそれで一つの道だが、決して理想とすべき
道などでもない。理想の所では、勅命に適った征伐のみを義戦とし、それ以外の私的な
戦いなどは道義に沿わぬものとしてできる限り避けるぐらいの心持ちでいるべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二より)
征者は上として下を伐つなり。敵国相い征せざるなり」
「(春秋時代の諸侯の身勝手な抗争を記録した孔子編纂の歴史書である)『春秋経』には、
道義に根ざした戦いというものは一つも載っていない。あっちの国がこっちの国より
マシという程度のことはある(が、本当に道義に適った戦いでの勝者などはいない)。
勅命に則った上からの下への征伐であれば道義にも適うが、ほとんど同等な国同士が
敵同士としていがみ合って戦ったりするのはそのような征伐の条件を満たしていないから。
(庶人が勝手に世の中を敵視して戦ったりすることも、これと同等かそれ以上の不義
だといえる。戦いを本是とする修羅道もそれはそれで一つの道だが、決して理想とすべき
道などでもない。理想の所では、勅命に適った征伐のみを義戦とし、それ以外の私的な
戦いなどは道義に沿わぬものとしてできる限り避けるぐらいの心持ちでいるべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二より)
結局、人が人を支配するということからして、ある程度以上に大規模な都市社会における必要悪であり、
最小限に止められるに越したこともないことである。だからこそ、自分たちでは礼楽による作為的な
統治を本務とする儒者もまた、無為自然の放任志向である道家思想をも副次的な尊重の対象とするのである。
ただ、支配をするからには最善も尽くすのである。
最も有効な支配を心がけるからこそ、最も純正な為政者としての君臣による礼楽統治を敷こうとする、
それが儒家思想における必然的な帰結でもあるわけだが、なぜか今では、君臣による封建統治などが
うまくいくわけがないかのような思い込みがまかり通ることともなってしまっている。それは、
純正な封建統治によっては特筆して冷遇の対象となる商人身分への過保護に連動して来たして
しまっている全くの事実誤認であり、むしろ君臣関係を徹底した封建統治によるのでもない限りは、
世の中の統治もまた持続的にうまくいくようなことがないというのが実際である。
封建統治そのものは堅苦しいものであるけれども、堅苦しければこそ世の中の乱脈を最小限に控えられもする。
そこで「人が人を支配する」ということの健全性が善くも悪しくも極まるのであり、悪しき側面としての
束縛志向を緩和するためには道家の無為自然志向などをも参考的な尊重の対象として行くべきなのである。
そのようなメリハリこそが世の中を最善の平穏に導くわけだけれども、自由主義者や民主主義者たるや、
封建統治の束縛志向という側面ばかりを捉えて「悪しき蛮習だ」などと決めつけたがる。
それで封建主義ほどの束縛性を伴わないものとしての民主主義や法治主義をよりよい統治理念として
推薦したがるわけだが、そこでこそ逆に労働義務だとか納税義務だとかの、道家思想にも
決定的に反する作為的支配による人々へのがんじがらめを講じてしまったりもするのである。
最小限に止められるに越したこともないことである。だからこそ、自分たちでは礼楽による作為的な
統治を本務とする儒者もまた、無為自然の放任志向である道家思想をも副次的な尊重の対象とするのである。
ただ、支配をするからには最善も尽くすのである。
最も有効な支配を心がけるからこそ、最も純正な為政者としての君臣による礼楽統治を敷こうとする、
それが儒家思想における必然的な帰結でもあるわけだが、なぜか今では、君臣による封建統治などが
うまくいくわけがないかのような思い込みがまかり通ることともなってしまっている。それは、
純正な封建統治によっては特筆して冷遇の対象となる商人身分への過保護に連動して来たして
しまっている全くの事実誤認であり、むしろ君臣関係を徹底した封建統治によるのでもない限りは、
世の中の統治もまた持続的にうまくいくようなことがないというのが実際である。
封建統治そのものは堅苦しいものであるけれども、堅苦しければこそ世の中の乱脈を最小限に控えられもする。
そこで「人が人を支配する」ということの健全性が善くも悪しくも極まるのであり、悪しき側面としての
束縛志向を緩和するためには道家の無為自然志向などをも参考的な尊重の対象として行くべきなのである。
そのようなメリハリこそが世の中を最善の平穏に導くわけだけれども、自由主義者や民主主義者たるや、
封建統治の束縛志向という側面ばかりを捉えて「悪しき蛮習だ」などと決めつけたがる。
それで封建主義ほどの束縛性を伴わないものとしての民主主義や法治主義をよりよい統治理念として
推薦したがるわけだが、そこでこそ逆に労働義務だとか納税義務だとかの、道家思想にも
決定的に反する作為的支配による人々へのがんじがらめを講じてしまったりもするのである。
今一度、「まだマシな部類のもの」としての、純正な封建統治の存在価値を見直すべき時が来ている。
封建統治とて、人が人を支配するという側面がある時点で、一定の辟易を抱かざるを得ないものでは
あるけれども、最低限の統制すら失っての人々の無制限な放辟邪侈を許容した挙げ句に、人類滅亡級の
破滅を招いたりする自由主義的民主主義的、カルト宗教的支配よりはよっぽどリスクも低くて、人々が嫌な
思いをしたりすることも少なくて済むのが封建統治であるという厳然たる現実に目を向けねばならない。
重ねて言うが、支配そのものはあくまで必要悪である。人が人を支配することなんてないに越したことは
ないのだけれども、全くないのでは破滅級の危害すら免れ得ない、だから仕方なく作為的支配を敷く、
敷くからには四民の序列も厳格に正すような純正な封建統治を敷いて行くべきであり、
ただその支配の強度に加減を利かせて行くようにもするのが肝要となるのである。
徳治が排されて法治支配が敷かれている現代においてですら、
警察官あたりの庶民に対する強権行使の加減などは目に余るものがある。それでいて、
目付のような自浄作用の要となる身分を設置することもなく、身内同士での腐敗は平気で
揉み消していたりするわけだから、それこそ封建時代の武家以上の嫌らしさというものである。
強権も行使できるような士分の人間は敬いの対象とされるのと引き換えに、
致命的な不手際を犯そうものなら本当に切腹やお家取り潰しも辞されないようにしたならば、
今と比べても、どれほど人々の溜め込む鬱屈が少なくて済むだろうか。
「朋は家に仇を作し、権を脅して相滅す。無辜天に籲び、穢徳彰聞す」
「友人程度の疎遠な関係の者同士で家に仇を成し、公正に取り扱われるべき権能を脅かして不正に濫用する
ことでお互いに滅ぼし合っている。罪なき人々は天に泣き叫び、その穢れた性分も明らかなものとなっている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓中より)
封建統治とて、人が人を支配するという側面がある時点で、一定の辟易を抱かざるを得ないものでは
あるけれども、最低限の統制すら失っての人々の無制限な放辟邪侈を許容した挙げ句に、人類滅亡級の
破滅を招いたりする自由主義的民主主義的、カルト宗教的支配よりはよっぽどリスクも低くて、人々が嫌な
思いをしたりすることも少なくて済むのが封建統治であるという厳然たる現実に目を向けねばならない。
重ねて言うが、支配そのものはあくまで必要悪である。人が人を支配することなんてないに越したことは
ないのだけれども、全くないのでは破滅級の危害すら免れ得ない、だから仕方なく作為的支配を敷く、
敷くからには四民の序列も厳格に正すような純正な封建統治を敷いて行くべきであり、
ただその支配の強度に加減を利かせて行くようにもするのが肝要となるのである。
徳治が排されて法治支配が敷かれている現代においてですら、
警察官あたりの庶民に対する強権行使の加減などは目に余るものがある。それでいて、
目付のような自浄作用の要となる身分を設置することもなく、身内同士での腐敗は平気で
揉み消していたりするわけだから、それこそ封建時代の武家以上の嫌らしさというものである。
強権も行使できるような士分の人間は敬いの対象とされるのと引き換えに、
致命的な不手際を犯そうものなら本当に切腹やお家取り潰しも辞されないようにしたならば、
今と比べても、どれほど人々の溜め込む鬱屈が少なくて済むだろうか。
「朋は家に仇を作し、権を脅して相滅す。無辜天に籲び、穢徳彰聞す」
「友人程度の疎遠な関係の者同士で家に仇を成し、公正に取り扱われるべき権能を脅かして不正に濫用する
ことでお互いに滅ぼし合っている。罪なき人々は天に泣き叫び、その穢れた性分も明らかなものとなっている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓中より)
たとえば、一度や二度ぐらいは人々に分別ある良心が育まれたことのある
日本や中国のような国家社会においても、世相の乱れや文化破壊などによって
容易にその良心の蓄えが損なわれる。人々から良心が失われたものだから
引っ切り無しの争いにも没頭するようになり、何が正しくて何が間違って
いるかなどよりも、ただ自分が争いに勝って生き延びることばかりが至上の
命題とされるようになる。相手の考えのほうが完璧に正しくて、自分の考えの
ほうが完全に間違っているとしたって、とにかく自分が勝って生き延びる
ために間違っている自己意見のほうを徹底的に押し通そうとしたりする。
そこで「鹿をも馬と言い張る」バカの心理状態が確立されるわけだが、
その馬鹿の状態こそは、俗に「お花畑」などとも言われる、
一種の恍惚状態を人々にもたらすものともなっている。
分別ある良心を堅く守り通している所でもまた、孟子が抱いていたとも
いう「浩然の気」と呼ばれる清清しい心持ちが得られもする。これこそは、
俗世で俗人が俗人であるままに得られる悟りとも言えるわけで、麻薬的陶酔
などとは無縁である代わりに、恒常的な清清しさと共にあることができる。
一方で、馬鹿の心理状態というのはまさに麻薬中毒にも近似するものであり、
鹿を馬だなどと頑なに決め付ける心持ちと共に多大なる陶酔が得られる一方で、
平静状態に返ってみれば多大なる虚無感に囚われるものである。それは、時に
自殺衝動にすら発展しかねないものなので、馬鹿の心理状態を好む人間という
のは、引っ切り無しの感情の焼け付きを欲するようになってしまうのである。
(そのために、際限のない富の貪りなどにすら及んでしまうようにもなる)
日本や中国のような国家社会においても、世相の乱れや文化破壊などによって
容易にその良心の蓄えが損なわれる。人々から良心が失われたものだから
引っ切り無しの争いにも没頭するようになり、何が正しくて何が間違って
いるかなどよりも、ただ自分が争いに勝って生き延びることばかりが至上の
命題とされるようになる。相手の考えのほうが完璧に正しくて、自分の考えの
ほうが完全に間違っているとしたって、とにかく自分が勝って生き延びる
ために間違っている自己意見のほうを徹底的に押し通そうとしたりする。
そこで「鹿をも馬と言い張る」バカの心理状態が確立されるわけだが、
その馬鹿の状態こそは、俗に「お花畑」などとも言われる、
一種の恍惚状態を人々にもたらすものともなっている。
分別ある良心を堅く守り通している所でもまた、孟子が抱いていたとも
いう「浩然の気」と呼ばれる清清しい心持ちが得られもする。これこそは、
俗世で俗人が俗人であるままに得られる悟りとも言えるわけで、麻薬的陶酔
などとは無縁である代わりに、恒常的な清清しさと共にあることができる。
一方で、馬鹿の心理状態というのはまさに麻薬中毒にも近似するものであり、
鹿を馬だなどと頑なに決め付ける心持ちと共に多大なる陶酔が得られる一方で、
平静状態に返ってみれば多大なる虚無感に囚われるものである。それは、時に
自殺衝動にすら発展しかねないものなので、馬鹿の心理状態を好む人間という
のは、引っ切り無しの感情の焼け付きを欲するようになってしまうのである。
(そのために、際限のない富の貪りなどにすら及んでしまうようにもなる)
浩然の気を伴う良心ある心理状態と、麻薬的陶酔を伴う馬鹿の心理状態とが、
「人間が自らの心持ちによって固定化する磐石な心理状態」の双璧となっている。
片や健全な心持ちである一方、片や不健全の極みという他ない心持ちである
わけだから、当然良心ある心理状態を推奨し、馬鹿の心理状態を戒めるように
して行くべきでもあるわけだが、極度の乱世などにおいては、むしろ馬鹿の
心理状態に陥ってしまっているような人間のほうが世の中の主導権すら握るように
なってしまっていたりする。もちろん馬鹿ばかりでは世の中もままならないから、
乱世といえども馬鹿とまではいかない平常心の持ち主がこの世の中の生命線を
司り続けて居てくれたりするわけだが、そのような人間とて、浩然の気を伴う
良心までをも抱けていたりすることはほとんどないわけだから、そうともいかず、
なおかつ完全なるバカにまではなれないでいる自分たちの有り様がバカどもから
「負け組」扱いされるようなことにすらなってしまい、逆に自分たちのほうもまた、
バカゆえのイケイケによってこそ暴利を巻き上げているような連中を「勝ち組」
などとして崇め立てるようなザマにすら陥ってしまったりするのである。
権力を握った馬鹿が世の中を破滅へと陥れている昨今、馬鹿は馬鹿で適切な
駆除の対象とするのみとして、それで、心持ちが堂に入った人間がこの世から
いなくなるのでは、馬鹿といえども羨望する対象があったればこそ、自分たちも
心の平安を得られていた大多数の庶民が多大なる不安にかられることともなる。
だからこそ、新たな心の拠り所であると共に、真に拠り所とすべき殿堂入りの
心持ちとしての、浩然の気を伴う良心というものを尊んでも行くべきなのである。
「否を傾く。先には否がり後には喜ぶ。否終わるに傾く、何ぞ長かる可けんや」
「(小人が権力を握って乱世をもたらしているような)否塞の時が傾きかけている。
傾きかけているからには終焉も間近なので、最初のうちはまだ塞がり気味でも、
最終的には喜ばしい結果となる。(否塞の時には喜んだりもしないのが吉である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・否・上九‐象伝より)
「人間が自らの心持ちによって固定化する磐石な心理状態」の双璧となっている。
片や健全な心持ちである一方、片や不健全の極みという他ない心持ちである
わけだから、当然良心ある心理状態を推奨し、馬鹿の心理状態を戒めるように
して行くべきでもあるわけだが、極度の乱世などにおいては、むしろ馬鹿の
心理状態に陥ってしまっているような人間のほうが世の中の主導権すら握るように
なってしまっていたりする。もちろん馬鹿ばかりでは世の中もままならないから、
乱世といえども馬鹿とまではいかない平常心の持ち主がこの世の中の生命線を
司り続けて居てくれたりするわけだが、そのような人間とて、浩然の気を伴う
良心までをも抱けていたりすることはほとんどないわけだから、そうともいかず、
なおかつ完全なるバカにまではなれないでいる自分たちの有り様がバカどもから
「負け組」扱いされるようなことにすらなってしまい、逆に自分たちのほうもまた、
バカゆえのイケイケによってこそ暴利を巻き上げているような連中を「勝ち組」
などとして崇め立てるようなザマにすら陥ってしまったりするのである。
権力を握った馬鹿が世の中を破滅へと陥れている昨今、馬鹿は馬鹿で適切な
駆除の対象とするのみとして、それで、心持ちが堂に入った人間がこの世から
いなくなるのでは、馬鹿といえども羨望する対象があったればこそ、自分たちも
心の平安を得られていた大多数の庶民が多大なる不安にかられることともなる。
だからこそ、新たな心の拠り所であると共に、真に拠り所とすべき殿堂入りの
心持ちとしての、浩然の気を伴う良心というものを尊んでも行くべきなのである。
「否を傾く。先には否がり後には喜ぶ。否終わるに傾く、何ぞ長かる可けんや」
「(小人が権力を握って乱世をもたらしているような)否塞の時が傾きかけている。
傾きかけているからには終焉も間近なので、最初のうちはまだ塞がり気味でも、
最終的には喜ばしい結果となる。(否塞の時には喜んだりもしないのが吉である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・否・上九‐象伝より)
世界を暗黒の破滅に陥れておきながら、限られた信者だけを救おうとする
邪神の姿は夜空の星屑に見立てられる一方(これも星にとって迷惑な話だが)、
天下全土万人への恵みを施そうとする仁君の姿は、それこそ天下全土を
あまねく照らし出す太陽のあり方に見立てることができるといえる。
恒常的に観測できる最も明るい星である金星(最大-4.7等級)といえども、
月の明るさ(-12.7等級)に遠く及ばない。そしてその月の明るさといえども、
太陽の明るさ(-26.7等級)に遥かに及ばない。たとえ天空を全て月の明るさで
満たしたとしても、一つの太陽が昇っている日中の空の明るさに及ぶこともない。
それほどにも、天をあまねく照らし出すことと、暗闇の中で部分的な輝きを放つ
こととには途方もない開きがあるのであり、暗闇の中での輝きを愛でるような志向を
いくら発展させてみた所で、日中の明るさを尊ぶことに近似するようなこともないのである。
以上の科学的な論議は実際、この世における仁君の振る舞いと、聖書の邪神に
見立てた権力犯罪者の振る舞いの対比などにも敷衍として適用できるものである。
天下に多大なる損害をもたらすことでこそ私益を稼ぎ上げ、一部の友愛相手だけに恵もうと
するような権力犯罪者の振る舞いをいくら発展させていった所で、天下万人が福利に与れる
ようなことは永遠にありはしない。むしろ天下全土が極度の貧窮に見舞われることこそが恒常化
してしまい、万人を富ませようとする仁君の尽力すらをも徒労に終わらせてしまうようになる。
邪神の姿は夜空の星屑に見立てられる一方(これも星にとって迷惑な話だが)、
天下全土万人への恵みを施そうとする仁君の姿は、それこそ天下全土を
あまねく照らし出す太陽のあり方に見立てることができるといえる。
恒常的に観測できる最も明るい星である金星(最大-4.7等級)といえども、
月の明るさ(-12.7等級)に遠く及ばない。そしてその月の明るさといえども、
太陽の明るさ(-26.7等級)に遥かに及ばない。たとえ天空を全て月の明るさで
満たしたとしても、一つの太陽が昇っている日中の空の明るさに及ぶこともない。
それほどにも、天をあまねく照らし出すことと、暗闇の中で部分的な輝きを放つ
こととには途方もない開きがあるのであり、暗闇の中での輝きを愛でるような志向を
いくら発展させてみた所で、日中の明るさを尊ぶことに近似するようなこともないのである。
以上の科学的な論議は実際、この世における仁君の振る舞いと、聖書の邪神に
見立てた権力犯罪者の振る舞いの対比などにも敷衍として適用できるものである。
天下に多大なる損害をもたらすことでこそ私益を稼ぎ上げ、一部の友愛相手だけに恵もうと
するような権力犯罪者の振る舞いをいくら発展させていった所で、天下万人が福利に与れる
ようなことは永遠にありはしない。むしろ天下全土が極度の貧窮に見舞われることこそが恒常化
してしまい、万人を富ませようとする仁君の尽力すらをも徒労に終わらせてしまうようになる。

そしてそれぞれの社会における権力者のあり方というものが、城郭や宗教施設などの
建築様式にまで反映されてきている。東洋の王宮や城郭や寺社などは、日中に見栄えがする
ような形式のものがそのほとんどを占めている。日本の伝統建築など、燃えやすいにも
関わらずあえて加工の容易な木材を多用している場合が多い。土蔵などの建築もあるとおり、
決して木造ばかりが日本建築の選択肢でもなかったわけだが、日中に見栄えがするような
精緻かつ大胆な造形を目指すために、あえて木造が優先されて来た。そのぶん夜中の
火の扱いなどにも厳重な注意が尽くされて、近頃電光でのライトアップが試みられるように
なり始める以前までは、夜中に建築物を大々的に照らし出すようなことも控えられていた。
近代建築や、西洋の教会建築は、それに真っ向から反するような様式こそを追求して来ている。
日中の見栄えはそこそことして、むしろ夜中にライトアップされた時の美しさなどを第一
としている。キャンドルなどで燃えたりすることがないように建材は主に石材などとし、
地震が多かったり地盤が軟弱だったりするような土地での建造を忌み嫌いもする。
そういった諸々の建築様式の建物の内側で執り行われる業務もまた、それなりのものとなる。
東洋的な建物での業務は日中が専らとなる一方、西洋的近代的な建物での業務は夜中が
主になるとまでは行かずとも、昼夜を問わなくなる。暗闇での謀議なども非常的なもので
すらない、恒常的なもの、しかも何か神秘性を帯びたようなものとしてすら扱われるように
なってしまう。東洋でも兵家が暗闇での謀をよくすることなどがありはするが、そこには理想も
神秘性もへったくれもないのであり、そのような分別の有無が分岐してしまうことになるのである。
夜中に東洋建築の内側で謀が行われたことがないわけでもなければ、日中に西洋建築や
近代建築の内側で業務が執り行われないわけでもない。ただ、尊重したりあえて卑しんだり
しているものの分別に違いがあるということであり、東洋的な分別は健全であった一方、
近代的、西洋的な分別は不健全であったと結論付けるほかない。夜分に持ち越すような謀など、
野外に布陣した幕営の内側あたりで済ませるがマシというもの。それでいてそのような
武家の慣習が「幕府」という権力機構の名称にも援用された。何気ない尊卑の分別が、
国や天下の命運をも決する大業の成功失敗如何にも直結する。ゆえに、ただ分別を
持つということではなく、分別を正すということこそは肝要となるのだといえる。
「日中に沫を見る、其の右肱を折る」
「真昼の日中にすら、わずかな光しか放たないような星屑を見ている。
まるで右ひじが折れたときのように、自分でできることは何もない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・豐・九三より)
近代建築の内側で業務が執り行われないわけでもない。ただ、尊重したりあえて卑しんだり
しているものの分別に違いがあるということであり、東洋的な分別は健全であった一方、
近代的、西洋的な分別は不健全であったと結論付けるほかない。夜分に持ち越すような謀など、
野外に布陣した幕営の内側あたりで済ませるがマシというもの。それでいてそのような
武家の慣習が「幕府」という権力機構の名称にも援用された。何気ない尊卑の分別が、
国や天下の命運をも決する大業の成功失敗如何にも直結する。ゆえに、ただ分別を
持つということではなく、分別を正すということこそは肝要となるのだといえる。
「日中に沫を見る、其の右肱を折る」
「真昼の日中にすら、わずかな光しか放たないような星屑を見ている。
まるで右ひじが折れたときのように、自分でできることは何もない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・豐・九三より)
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