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聖書 Part10
▼ページ最下部
地球人類にとっての最も標準的な聖書として、誰しもがその地位を疑うことのない聖書、四書五経。
その全文はあくまで二千二百年以上前に用意されたものではあるものの(偽古文尚書の一部を除く)、
論語・大学・中庸・孟子の四書と、易経・詩経・書経(尚書)・礼記・春秋の五経を合わせて
「四書五経」として定型化されたのは宋代以降、朱子がこれらの経書を特薦してからである。
それ以前は四書五経だけでなく、他の数多の経書が四書五経並みかそれ以上もの扱いすらをも受けていた。
今でも「孝経」などが儒学の入門書として読むべき筆頭格として重んじられたりもしているが、
昔はそのような扱いすらをも受けていたのに、今では相当に程度の低い経書として扱われるように
なった儒書もいくらかあり、その代表格に性悪論を説く荀子の教説集「荀子」がありもする。
荀子の教説は、孟子の教説(性善論や臨戦論など)と決定的に食い違っている部分があり、
実際に荀子自身も「荀子」非十二子第六で孟子を槍玉に挙げつつその主張を非難するなどしている。
そのため、新儒学の大家である朱子が孟子の教説のほうに軍配を挙げたことを通じて、荀子の教説
のほうは「あくまで反面教師として扱うべきもの」として取り扱われるようになったのである。
ただ、荀子の自説はともかく、その知識や博学さは目を見張るものがある。「荀子」を実際に読めば
分かるとおり、単なる学知の披露度では孟子以上であり、文飾にかけても当時の究極級のものであった
だろうことがうかがえる。(そのため、諸子百家の文筆が粗雑で典雅さに欠けると非難していた
司馬遷までもが、「史記」礼書で「荀子」の文章を多量に引用するなどしてもいる)
にもかかわらず荀子は孟子以下とされ、朱子学はおろかその他の新儒学すらもが、荀子以上にも孟子を
尊重する道を歩んでいったのである。それはなぜかといえば、孟子の教説は簡易であっても誠実さや
情熱に満ちている一方、荀子の教説は博学ではあっても皮相的で誠実さにも欠けるものだったからである。

その全文はあくまで二千二百年以上前に用意されたものではあるものの(偽古文尚書の一部を除く)、
論語・大学・中庸・孟子の四書と、易経・詩経・書経(尚書)・礼記・春秋の五経を合わせて
「四書五経」として定型化されたのは宋代以降、朱子がこれらの経書を特薦してからである。
それ以前は四書五経だけでなく、他の数多の経書が四書五経並みかそれ以上もの扱いすらをも受けていた。
今でも「孝経」などが儒学の入門書として読むべき筆頭格として重んじられたりもしているが、
昔はそのような扱いすらをも受けていたのに、今では相当に程度の低い経書として扱われるように
なった儒書もいくらかあり、その代表格に性悪論を説く荀子の教説集「荀子」がありもする。
荀子の教説は、孟子の教説(性善論や臨戦論など)と決定的に食い違っている部分があり、
実際に荀子自身も「荀子」非十二子第六で孟子を槍玉に挙げつつその主張を非難するなどしている。
そのため、新儒学の大家である朱子が孟子の教説のほうに軍配を挙げたことを通じて、荀子の教説
のほうは「あくまで反面教師として扱うべきもの」として取り扱われるようになったのである。
ただ、荀子の自説はともかく、その知識や博学さは目を見張るものがある。「荀子」を実際に読めば
分かるとおり、単なる学知の披露度では孟子以上であり、文飾にかけても当時の究極級のものであった
だろうことがうかがえる。(そのため、諸子百家の文筆が粗雑で典雅さに欠けると非難していた
司馬遷までもが、「史記」礼書で「荀子」の文章を多量に引用するなどしてもいる)
にもかかわらず荀子は孟子以下とされ、朱子学はおろかその他の新儒学すらもが、荀子以上にも孟子を
尊重する道を歩んでいったのである。それはなぜかといえば、孟子の教説は簡易であっても誠実さや
情熱に満ちている一方、荀子の教説は博学ではあっても皮相的で誠実さにも欠けるものだったからである。

よく本人たちの言うことを味わいつつ「孟子」や「荀子」を読んでみれば、孟子の言い分には心の底から
突き動かされるような厚みがあることがうかがえる一方、荀子の言い分は薄っぺらくて、どこか読者の
機嫌をうかがうような下卑た態度と思えざるを得ないような所がある。孟子は孔子のいう「巧言令色」
を排している一方、荀子はそのあたりを排しきれていない。だからこそ存命中に李斯や韓非のような、
腐敗まみれな時の権力者に好まれるほどもの門弟を多数排出しもしたのだが、同時にそのせいで
李斯や韓非を拷問死や服毒死や一族郎党皆殺しのような非業の運命に追いやりもしたのだった。
結局、その学知の真偽については、孟子だけでなく荀子もそれなりの信憑性が置けるものである。
しかし、その自説の真偽については、孟子の自説のほうが真であり、荀子の自説のほうが偽であった。
性善説こそは真であり、性悪説こそは偽であるから、孟子の言行には心動かされる一方、荀子の言行には
目を見張る程度のことはあっても、心動かされるまでのことはない。そこが両者の優劣を決定的に分かっている。
人間の本性こそは善だから、本性を見失って悪人と化してしまった人間をその心から矯正して行って
やったりすることもできない。あくまで刑罰や身分差別のような厳酷な実力行使によって、本性の自省を
可能とできるような環境にまず持って行ってやらねばならない。実際のところ、世の中というものもそういう風に
していかなければ埒が明かないようにもなっているから、社会的な実証に即しても孟子の性善説のほうが真であり、
本性の悪を外的な礼儀礼節によって正して行くべきだとする荀子の自説のほうが偽であるとも断じられるのである。
突き動かされるような厚みがあることがうかがえる一方、荀子の言い分は薄っぺらくて、どこか読者の
機嫌をうかがうような下卑た態度と思えざるを得ないような所がある。孟子は孔子のいう「巧言令色」
を排している一方、荀子はそのあたりを排しきれていない。だからこそ存命中に李斯や韓非のような、
腐敗まみれな時の権力者に好まれるほどもの門弟を多数排出しもしたのだが、同時にそのせいで
李斯や韓非を拷問死や服毒死や一族郎党皆殺しのような非業の運命に追いやりもしたのだった。
結局、その学知の真偽については、孟子だけでなく荀子もそれなりの信憑性が置けるものである。
しかし、その自説の真偽については、孟子の自説のほうが真であり、荀子の自説のほうが偽であった。
性善説こそは真であり、性悪説こそは偽であるから、孟子の言行には心動かされる一方、荀子の言行には
目を見張る程度のことはあっても、心動かされるまでのことはない。そこが両者の優劣を決定的に分かっている。
人間の本性こそは善だから、本性を見失って悪人と化してしまった人間をその心から矯正して行って
やったりすることもできない。あくまで刑罰や身分差別のような厳酷な実力行使によって、本性の自省を
可能とできるような環境にまず持って行ってやらねばならない。実際のところ、世の中というものもそういう風に
していかなければ埒が明かないようにもなっているから、社会的な実証に即しても孟子の性善説のほうが真であり、
本性の悪を外的な礼儀礼節によって正して行くべきだとする荀子の自説のほうが偽であるとも断じられるのである。
人間の本性の部分にある善性は信用できる。のみならず、人が最高の信頼を置くべき対象でもあり、
どんな信頼も最後はそこにこそ帰結せねばならないものである。人間の心を一切信用しないと
いうのでは、結局信じるべきものを信じるということを完全に拒むことにもなり、そこで神を
信じたりするというのなら、そのような神が信じるべきでない神であることまでもが確かである。
確かに、本性の所の善性を見失うことで、上っ面だけの振る舞いしかできなくなってしまったような
人間の言うことなどは全く信用に値するものでもないが、だからといって人を信じず、人の心に
信頼の集約先を一切置かないというのなら、もはやどこにも信ずるべきものがなくなるばかりである。
それこそ、人の心の本当のあり方というものを理解できていない、無知者の致命的な事実誤認である。
「万章問うて曰く、敢えて問う交際は何をか心とすべきか。孟子曰く、恭なれ」
「孟子の門弟の万章が尋ねた。『交際にかけては何に心を尽くすべきでしょうか』
孟先生は答えられた。『(相手を信頼した)恭敬の心でいることだ』(孟子は性善論者だから、
相手の本性の部分に偏在する善性を尊重して、まずは人に対して信頼的な態度でいろというのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・四より)
「孔子曰く、操れば則ち存し、舍つれば則ち亡う。出入時無く、其の郷を知る莫しと。惟れ心の謂いか」
「孔先生も『ちゃんと保っておこうとすれば持っていられるが、捨ててしまえば完全に失ってしまう。
出るも入るもその時すら定まらず、どこを一番の居場所としているのかも知れない』と言われていた。
私はこれは『心』のことを言っているのだと解釈している。(上記のような性善説を基調とした論陣を
敷きながらも、あくまで孟子自身も人が心を失うのはたやすいことだとも考えているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——告子章句上・八より)
どんな信頼も最後はそこにこそ帰結せねばならないものである。人間の心を一切信用しないと
いうのでは、結局信じるべきものを信じるということを完全に拒むことにもなり、そこで神を
信じたりするというのなら、そのような神が信じるべきでない神であることまでもが確かである。
確かに、本性の所の善性を見失うことで、上っ面だけの振る舞いしかできなくなってしまったような
人間の言うことなどは全く信用に値するものでもないが、だからといって人を信じず、人の心に
信頼の集約先を一切置かないというのなら、もはやどこにも信ずるべきものがなくなるばかりである。
それこそ、人の心の本当のあり方というものを理解できていない、無知者の致命的な事実誤認である。
「万章問うて曰く、敢えて問う交際は何をか心とすべきか。孟子曰く、恭なれ」
「孟子の門弟の万章が尋ねた。『交際にかけては何に心を尽くすべきでしょうか』
孟先生は答えられた。『(相手を信頼した)恭敬の心でいることだ』(孟子は性善論者だから、
相手の本性の部分に偏在する善性を尊重して、まずは人に対して信頼的な態度でいろというのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・四より)
「孔子曰く、操れば則ち存し、舍つれば則ち亡う。出入時無く、其の郷を知る莫しと。惟れ心の謂いか」
「孔先生も『ちゃんと保っておこうとすれば持っていられるが、捨ててしまえば完全に失ってしまう。
出るも入るもその時すら定まらず、どこを一番の居場所としているのかも知れない』と言われていた。
私はこれは『心』のことを言っているのだと解釈している。(上記のような性善説を基調とした論陣を
敷きながらも、あくまで孟子自身も人が心を失うのはたやすいことだとも考えているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——告子章句上・八より)
>>3
まず、そちらの言の結びが、“無知者の致命的な事実誤認”となっていますが、
それは“人の心に 信頼の集約先を一切置かない”ことが不始末となっている風で、
さらにその波及の元は“本性の所の善性を見失うことで、上っ面だけの振る舞いしか
できなくなってしまったような 人間の言うことなどは全く信用に値するものでもないが、”
と前置きをしておられます。
で、
>そこで神を 信じたりするというのなら、
>そのような神が信じるべきでない神であることまでもが確かである。
とありますが、仏だろうが神だろうが、宗教的なことがらについての信じる行為は、
その人間の根本に由来しておりませんか? どの宗教が正しいとかの話しではなく、
そちらがレスの頭で、“人間の本性の部分にある善性は信用できる”と言い、
さらに宗教などでの信心は、その人それぞれの周囲の評価などを度外視した人間的な行為ではないですかね?
それが、妄信であればあるほど、なりふり構わない言動をしたりすることもあるようで、
倫理や社会通念など明後日においている感じで、より濃いような気もしますが。
人間の心とおっしゃるのなら、その人が信じる神が“信じるべき神でない”と誰が否定できますでしょうか?
(レスの引用はレスから直接コピペで、半角スペースは原文ママです)
まず、そちらの言の結びが、“無知者の致命的な事実誤認”となっていますが、
それは“人の心に 信頼の集約先を一切置かない”ことが不始末となっている風で、
さらにその波及の元は“本性の所の善性を見失うことで、上っ面だけの振る舞いしか
できなくなってしまったような 人間の言うことなどは全く信用に値するものでもないが、”
と前置きをしておられます。
で、
>そこで神を 信じたりするというのなら、
>そのような神が信じるべきでない神であることまでもが確かである。
とありますが、仏だろうが神だろうが、宗教的なことがらについての信じる行為は、
その人間の根本に由来しておりませんか? どの宗教が正しいとかの話しではなく、
そちらがレスの頭で、“人間の本性の部分にある善性は信用できる”と言い、
さらに宗教などでの信心は、その人それぞれの周囲の評価などを度外視した人間的な行為ではないですかね?
それが、妄信であればあるほど、なりふり構わない言動をしたりすることもあるようで、
倫理や社会通念など明後日においている感じで、より濃いような気もしますが。
人間の心とおっしゃるのなら、その人が信じる神が“信じるべき神でない”と誰が否定できますでしょうか?
(レスの引用はレスから直接コピペで、半角スペースは原文ママです)
所詮小説レベル
>>4
実際、大抵のまともな宗教は人の心の修養を念頭に置いているわけだけれども。
「イエスは人間の心を知っておられる。イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、
そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、
イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
人間についてだれからも証しをしてもらう必要がなかったからである。
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」
(権力犯罪聖書——通称聖書——ヨハネ禍音書2:23〜25)
驚くべきことに、イエキリは人の心には信ずるに値するものなど何もないとしている。
人の心の価値などを一切認めることなく、ただ外的な神に帰依しろとしている。
これこそは、人としての心の修養をかえって拒絶させることを本義とした
邪教となっていて、まあ、ここまで露骨な邪義を触れ回っているカルトでも
ない限りは、普通は信教もそれなりに心の修養を目的としていると考えていい。
実際、大抵のまともな宗教は人の心の修養を念頭に置いているわけだけれども。
「イエスは人間の心を知っておられる。イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、
そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、
イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
人間についてだれからも証しをしてもらう必要がなかったからである。
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」
(権力犯罪聖書——通称聖書——ヨハネ禍音書2:23〜25)
驚くべきことに、イエキリは人の心には信ずるに値するものなど何もないとしている。
人の心の価値などを一切認めることなく、ただ外的な神に帰依しろとしている。
これこそは、人としての心の修養をかえって拒絶させることを本義とした
邪教となっていて、まあ、ここまで露骨な邪義を触れ回っているカルトでも
ない限りは、普通は信教もそれなりに心の修養を目的としていると考えていい。
「イエスが人の心を信じていなかった」とヨハネ禍音書にある。
刑死して生き返るなんていう与太話を模倣することはできなくても、
人の心を信じないことぐらいは誰にでも真似することができる。
そして、人の心を信じないでいることを信仰によって実践しよう
とした結果、自他の心を信じもせず、人としての根本に当たる
心を蔑ろにする信者が出来上がるというわけだ。
心が心を信じないことを希求して、実際に当人が心を失う。
信仰は実際、そういうことにも悪用が可能なんだ。
信仰すなわち篤心だなんてことは全くない。むしろ心を
薄弱化や損失させるためにこそ信仰を為すこともまたできるのだ。
のめり込みが尽心に基づくのは、あくまで仁徳に基づく場合のみ。
仁徳に基づかないのめり込みは、かえって本人の心を失わせる原因となる。
刑死して生き返るなんていう与太話を模倣することはできなくても、
人の心を信じないことぐらいは誰にでも真似することができる。
そして、人の心を信じないでいることを信仰によって実践しよう
とした結果、自他の心を信じもせず、人としての根本に当たる
心を蔑ろにする信者が出来上がるというわけだ。
心が心を信じないことを希求して、実際に当人が心を失う。
信仰は実際、そういうことにも悪用が可能なんだ。
信仰すなわち篤心だなんてことは全くない。むしろ心を
薄弱化や損失させるためにこそ信仰を為すこともまたできるのだ。
のめり込みが尽心に基づくのは、あくまで仁徳に基づく場合のみ。
仁徳に基づかないのめり込みは、かえって本人の心を失わせる原因となる。
>>9
ええ、ええ、ですからー、、、。>>3ですね、これ。何度も言いますが、キリスト教が正しいとか
仏教が正しいとか、そういう話しを言っているのではないです。こちらは。ここのレスの自分の
言っていることに中にある矛盾に気がつかないですか? >>4のレスでのそちらの引用とそれぞれの
解釈、そしてそれらの他の言にかかる意味合いについて自身はまるで何とも思わないですか?
じゃあ、それはあとで、というか、>>9の話し。前提の引用はそちらが邪教と言っている宗教の
聖典ですが? そちらが>>3で人間の心の話しをベースに、神という存在(基督教に限っているんですかね?)が確実なものでないという話しに持っていっていますが、わたしは宗教への信奉もまた
人のこころの動作のうちにあり、他者において、その対象を否定するのは、おっしゃっていることに
全く相反すると言っているのです。単純に。すると、こんどはその指摘に対し、イエスという物が、
人の心に信を置かなかったことが、その宗教の欠陥であり、その証拠どこにあるかと言えば、
その邪教の聖典とは、これ如何に?
しかも、『ヨハネ禍音書』の引用部分で『人の心を信用していなかった』は、読み違えておられる
と思いますが。
わたしの解釈はこうです。
まず、人々はイエスの名を信じた。「名」とは身分や名跡であり、イエスのそれを信じる人々に
対しての表現は、冒頭に『イエスは人間の心を知っておられる』とあることから、どんな名跡を
つげられようが、それは表層の事柄に過ぎず、それよりも人の心の中を重んじていたという話しでは
ないんですか? そのヨハネうんちゃらの引用の最後の文言は、
“”人間についてだれからも証しをしてもらう必要がなかったからである。
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである”
と、なっていますよね?
こうなって来ると、そちらが常日頃、家柄が(って、どこにも品などそちらに感じ得ないが)どうとか
言っているそれ自体、おおよそ人の心よりも表層の某をアピールすることで、自己を堆くみせる
姑息な姿にしか見えない、というわけです。
ええ、ええ、ですからー、、、。>>3ですね、これ。何度も言いますが、キリスト教が正しいとか
仏教が正しいとか、そういう話しを言っているのではないです。こちらは。ここのレスの自分の
言っていることに中にある矛盾に気がつかないですか? >>4のレスでのそちらの引用とそれぞれの
解釈、そしてそれらの他の言にかかる意味合いについて自身はまるで何とも思わないですか?
じゃあ、それはあとで、というか、>>9の話し。前提の引用はそちらが邪教と言っている宗教の
聖典ですが? そちらが>>3で人間の心の話しをベースに、神という存在(基督教に限っているんですかね?)が確実なものでないという話しに持っていっていますが、わたしは宗教への信奉もまた
人のこころの動作のうちにあり、他者において、その対象を否定するのは、おっしゃっていることに
全く相反すると言っているのです。単純に。すると、こんどはその指摘に対し、イエスという物が、
人の心に信を置かなかったことが、その宗教の欠陥であり、その証拠どこにあるかと言えば、
その邪教の聖典とは、これ如何に?
しかも、『ヨハネ禍音書』の引用部分で『人の心を信用していなかった』は、読み違えておられる
と思いますが。
わたしの解釈はこうです。
まず、人々はイエスの名を信じた。「名」とは身分や名跡であり、イエスのそれを信じる人々に
対しての表現は、冒頭に『イエスは人間の心を知っておられる』とあることから、どんな名跡を
つげられようが、それは表層の事柄に過ぎず、それよりも人の心の中を重んじていたという話しでは
ないんですか? そのヨハネうんちゃらの引用の最後の文言は、
“”人間についてだれからも証しをしてもらう必要がなかったからである。
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである”
と、なっていますよね?
こうなって来ると、そちらが常日頃、家柄が(って、どこにも品などそちらに感じ得ないが)どうとか
言っているそれ自体、おおよそ人の心よりも表層の某をアピールすることで、自己を堆くみせる
姑息な姿にしか見えない、というわけです。
>>10の正誤です(すみません、今度はちゃんと推敲いたします)。
・3行目)言っていることに中にある矛盾に→言っていることの中にある矛盾に
・3行目〜4行目)それぞれの解釈、→それぞれのこちらの解釈
・2C/2L)確実なものでない→信じるべき神でない
※補足。この「神」ですが、わたしは基督教における神という前提で言っているのではないことを
確認しておいて下さい。おそらくは、この話しのヨハネウンチャラの引用は、そちらの予定の内に
あったようですね。
・2C/4L)おっしゃっていることに全く相反する→おっしゃっていることの意味がまったく相反してくる
・2C/6L)その証拠どこにあるかと言えば→その証拠がどこにあるかといえば信じるべきでない神とそちらがいう
〜〜
以上です。
・3行目)言っていることに中にある矛盾に→言っていることの中にある矛盾に
・3行目〜4行目)それぞれの解釈、→それぞれのこちらの解釈
・2C/2L)確実なものでない→信じるべき神でない
※補足。この「神」ですが、わたしは基督教における神という前提で言っているのではないことを
確認しておいて下さい。おそらくは、この話しのヨハネウンチャラの引用は、そちらの予定の内に
あったようですね。
・2C/4L)おっしゃっていることに全く相反する→おっしゃっていることの意味がまったく相反してくる
・2C/6L)その証拠どこにあるかと言えば→その証拠がどこにあるかといえば信じるべきでない神とそちらがいう
〜〜
以上です。
神を信じるだ信じないだは一旦おいといてさ。
人の心を知っていればこそ、そんなものは信じないつってんだ。
これは、イエキリが荀子などと同じ性悪論者であったことの記録だ。
そういう記録があるから、荀子が本性劣悪な心を礼制によって正して
行こうとしたのと同じようにして、キリシタンもまた本性劣悪な人の心を
外的な神への信仰などによって正して行こうなどともしてしまったわけだ。
それは、性善説が真実である場合には、かえってよくないことなんだ。
自分の外側に心の正し所などを求めてるようじゃ、かえって心の正しさを見失う。
人間が正心の拠り所とすべき善は己れの本性の部分にしか存在しないのだから、
それを全否定して外的な治療などを乞うたりしてるようじゃ、
かえって正心を損ねた状態が磐石なものと化してしまう。
人間の本性こそは善である、そこにしか最終的な善の拠り所は存在しない
という事実関係があればこその、そのような特殊事情があるわけだ。
人の心を知っていればこそ、そんなものは信じないつってんだ。
これは、イエキリが荀子などと同じ性悪論者であったことの記録だ。
そういう記録があるから、荀子が本性劣悪な心を礼制によって正して
行こうとしたのと同じようにして、キリシタンもまた本性劣悪な人の心を
外的な神への信仰などによって正して行こうなどともしてしまったわけだ。
それは、性善説が真実である場合には、かえってよくないことなんだ。
自分の外側に心の正し所などを求めてるようじゃ、かえって心の正しさを見失う。
人間が正心の拠り所とすべき善は己れの本性の部分にしか存在しないのだから、
それを全否定して外的な治療などを乞うたりしてるようじゃ、
かえって正心を損ねた状態が磐石なものと化してしまう。
人間の本性こそは善である、そこにしか最終的な善の拠り所は存在しない
という事実関係があればこその、そのような特殊事情があるわけだ。
礼節を尊ぶことも、神仏を信じることも、
それによって心を正して行こうなどとしたのでは、本末転倒になる。
それこそ、心の正しさを失った状態を磐石化させる原因になってしまう。
心の正しさだけは自分で会得して、その状態を保って行くために
礼節を尊んだり神仏を信じたりするのが、正しいあり方。
そうであって初めて、礼儀礼節や神仏信仰が多少なりともの好影響を及ぼせる。
それによって心を正して行こうなどとしたのでは、本末転倒になる。
それこそ、心の正しさを失った状態を磐石化させる原因になってしまう。
心の正しさだけは自分で会得して、その状態を保って行くために
礼節を尊んだり神仏を信じたりするのが、正しいあり方。
そうであって初めて、礼儀礼節や神仏信仰が多少なりともの好影響を及ぼせる。
>>17
ほうほう、それで? つーか、話しになりません。
>>10で二度目として言ってますよね? 「だから、神や仏のどちらが正しいとかの話しでなく」と。
なんで、こっちの理論にいつの間に乗っかってるんですか?
で、>>9もその前のレスとほぼ同じ意味のレス(ヨハネの解体新書だかなんだかを引き合いにして)を
しているから、そちらのレスがそもそもの矛盾から出発しているから、言い訳も矛盾を帯びること
になることが露呈したわけですよ。それが、>>11までです。ほんと無様です。それを誤摩化す
気の抜けたレスはいりません。
では、もう一度、>>3の指摘に帰りましょう。(おかしいよ、そっち。的を射ないよ、まったく)
で、>>17は、
「人の心を一切信頼の対象とすべきでない」って、そんな文言>>3のどこにもないですがね?
ほうほう、それで? つーか、話しになりません。
>>10で二度目として言ってますよね? 「だから、神や仏のどちらが正しいとかの話しでなく」と。
なんで、こっちの理論にいつの間に乗っかってるんですか?
で、>>9もその前のレスとほぼ同じ意味のレス(ヨハネの解体新書だかなんだかを引き合いにして)を
しているから、そちらのレスがそもそもの矛盾から出発しているから、言い訳も矛盾を帯びること
になることが露呈したわけですよ。それが、>>11までです。ほんと無様です。それを誤摩化す
気の抜けたレスはいりません。
では、もう一度、>>3の指摘に帰りましょう。(おかしいよ、そっち。的を射ないよ、まったく)
で、>>17は、
「人の心を一切信頼の対象とすべきでない」って、そんな文言>>3のどこにもないですがね?
なんだ、sheもララァなんかと同じただのpsycho circus pierrotか。
おまえに場合分けを駆使した中正論は理解できないようだ。
まずその極論志向からおまえ自身が卒業して行くしかない。
おまえに場合分けを駆使した中正論は理解できないようだ。
まずその極論志向からおまえ自身が卒業して行くしかない。
禅門などでは、自分たちが自力作善による現世往生を志す「一世教」であることに合わせて、
他力本願の来世往生を希う浄土信仰やアブラハム教などを「二世教」と呼ぶ場合がある。
当然自分たちが一世教の帰依者であるわけだから、それこそは至上であるとしている
わけだけれども、二世教が世界的な猛威を振るっていることなどにも対応して、
「二世教で満足できるようなものはそうすればいい」などとも言ったりしている。
(以上は玄峰老師が「無門関提唱」で論じられていたことの略抄でもある)
ただ、やはり二世教ばかりが「宗教の王道」として世界的に持て囃されている現代世界こそは、
人類が滅亡の危機に見舞われているほどもの乱世でもある。現世を蔑ろにして来世を希ってばかり
いるわけだから、当然現世のほうは荒廃に見舞われていくこととなる。「だからこそ来世での
往生を願う」ではなく、来世の往生ばかりに囚われた結果、現世の破滅を招いているのである。
日本浄土教などは、公家の腐敗と武家の専横が深刻化したことにより乱世がもたらされて後、
鎌倉時代の中期に法然上人や親鸞聖人によって初めて民間にまで行き渡ったものであり、
(それ以前にも空也上人などによる布教があったが、まだ勢力を擁するまでには至らなかった)
乱世が別の理由でもたらされてから、仕方なく来世での極楽浄土への往生を願うという順序を
辛うじて守っている。だからこそ、来世往生ばかりを乞い求めた結果、自分たちが現世を
蔑ろにして乱世を招いたなどということにはなっていないことまでもが確かとなっている。
キリスト教などは、そうではないのである。妾腹の私生児が妄言妄動を来たした挙句に
無実の罪で重罪人の代わりに処刑されたという、かの世界一有名な疑獄事件が人々に決定的な
心の荒廃を植え付けた結果として、西洋社会やイスラム勃興以前の中東社会が暗黒の世へと
陥れられたのである。そこから来世での往生というものを信者に希うよう強要しているわけだから、
こちらの場合は、自分たちで破滅を招いておいて来世往生を欲するという、醜悪なマッチポンプ
としての条件を満たしてしまっているのである。(そのキリスト教の撃退を目的として創立された
イスラム教などは、教義の良し悪しはともかくとして、マッチポンプの条件は満たしていない)
他力本願の来世往生を希う浄土信仰やアブラハム教などを「二世教」と呼ぶ場合がある。
当然自分たちが一世教の帰依者であるわけだから、それこそは至上であるとしている
わけだけれども、二世教が世界的な猛威を振るっていることなどにも対応して、
「二世教で満足できるようなものはそうすればいい」などとも言ったりしている。
(以上は玄峰老師が「無門関提唱」で論じられていたことの略抄でもある)
ただ、やはり二世教ばかりが「宗教の王道」として世界的に持て囃されている現代世界こそは、
人類が滅亡の危機に見舞われているほどもの乱世でもある。現世を蔑ろにして来世を希ってばかり
いるわけだから、当然現世のほうは荒廃に見舞われていくこととなる。「だからこそ来世での
往生を願う」ではなく、来世の往生ばかりに囚われた結果、現世の破滅を招いているのである。
日本浄土教などは、公家の腐敗と武家の専横が深刻化したことにより乱世がもたらされて後、
鎌倉時代の中期に法然上人や親鸞聖人によって初めて民間にまで行き渡ったものであり、
(それ以前にも空也上人などによる布教があったが、まだ勢力を擁するまでには至らなかった)
乱世が別の理由でもたらされてから、仕方なく来世での極楽浄土への往生を願うという順序を
辛うじて守っている。だからこそ、来世往生ばかりを乞い求めた結果、自分たちが現世を
蔑ろにして乱世を招いたなどということにはなっていないことまでもが確かとなっている。
キリスト教などは、そうではないのである。妾腹の私生児が妄言妄動を来たした挙句に
無実の罪で重罪人の代わりに処刑されたという、かの世界一有名な疑獄事件が人々に決定的な
心の荒廃を植え付けた結果として、西洋社会やイスラム勃興以前の中東社会が暗黒の世へと
陥れられたのである。そこから来世での往生というものを信者に希うよう強要しているわけだから、
こちらの場合は、自分たちで破滅を招いておいて来世往生を欲するという、醜悪なマッチポンプ
としての条件を満たしてしまっているのである。(そのキリスト教の撃退を目的として創立された
イスラム教などは、教義の良し悪しはともかくとして、マッチポンプの条件は満たしていない)
それで結局、マッチポンプの条件を満たしている二世教こそは、プラスマイナスゼロ以下の
有害無益な悪影響を人と世にもたらすことが原理的に運命付けられてもいる。二世教であっても
マッチポンプとしての条件を満たしていない信教であれば、とんでもなくいい影響をもたらす
とまではいかずとも、大いなる害悪をもたらすということもない結果をもたらすものである。
二世教ってのは、それぐらいのもんである。害があるか、害も益もないかという程のもの。
大いなる益をもたらそうというのなら、一世教や無宗教の儒学などによる精進が必要である。
それは、現世か来世かなどにも関係のないことであるから、玄峰老師も遷化の際に「旅に出るぞ、
支度しろ」と遺言し、未来永劫永世にわたるまでの精進の持続を示唆もされたのである。
二世教に価値が全くないなどとは言わない。ただ、現代人の多くが考えているよりも遥かに、
二世教の存在価値というものは低い。それこそあるよりもないほうがマシな負の存在価値を
持った邪教も二世教にこそ多々あり得るもの。一世教も帰依姿勢が二世教的に成り下がった
挙句に腐敗してしまったりするものなのだから、そんな信教に帰依するぐらいなら、信教
なんか打ち捨ててしまったほうがマシであるということも確かに言えなくはないのである。
(自分たちも宗教者であるため、禅僧などがここまで突っ込んだ物言いをすることもないが)
激烈な他力信仰が心の修養に結び付くなんてのも、極めて低率な未曾有の事態であり、
そんなことはまずあり得ないぐらいのことと思ったがいい。もちろん皆無なわけでもないが、
奇跡的にそれを実現している浄土教の悪人正機説なども、種を明かしてみれば随分と粗末な
頓知となっている。そのような稀有な事例を含めて考えてみても、まあ、他力本願の二世教自体、
なくて済むならそうすりゃいいぐらいのものとして、成熟した大人なら考えておくべきである。
有害無益な悪影響を人と世にもたらすことが原理的に運命付けられてもいる。二世教であっても
マッチポンプとしての条件を満たしていない信教であれば、とんでもなくいい影響をもたらす
とまではいかずとも、大いなる害悪をもたらすということもない結果をもたらすものである。
二世教ってのは、それぐらいのもんである。害があるか、害も益もないかという程のもの。
大いなる益をもたらそうというのなら、一世教や無宗教の儒学などによる精進が必要である。
それは、現世か来世かなどにも関係のないことであるから、玄峰老師も遷化の際に「旅に出るぞ、
支度しろ」と遺言し、未来永劫永世にわたるまでの精進の持続を示唆もされたのである。
二世教に価値が全くないなどとは言わない。ただ、現代人の多くが考えているよりも遥かに、
二世教の存在価値というものは低い。それこそあるよりもないほうがマシな負の存在価値を
持った邪教も二世教にこそ多々あり得るもの。一世教も帰依姿勢が二世教的に成り下がった
挙句に腐敗してしまったりするものなのだから、そんな信教に帰依するぐらいなら、信教
なんか打ち捨ててしまったほうがマシであるということも確かに言えなくはないのである。
(自分たちも宗教者であるため、禅僧などがここまで突っ込んだ物言いをすることもないが)
激烈な他力信仰が心の修養に結び付くなんてのも、極めて低率な未曾有の事態であり、
そんなことはまずあり得ないぐらいのことと思ったがいい。もちろん皆無なわけでもないが、
奇跡的にそれを実現している浄土教の悪人正機説なども、種を明かしてみれば随分と粗末な
頓知となっている。そのような稀有な事例を含めて考えてみても、まあ、他力本願の二世教自体、
なくて済むならそうすりゃいいぐらいのものとして、成熟した大人なら考えておくべきである。
「成湯、桀を南巣に放つ、惟れ徳に慚ずる有り。曰く、予れ来世に台れを以って口実と為さんことを恐る」
「殷の湯王は暴虐の限りを尽くしていた夏の桀王を南巣に放伐して新たな王朝を創建した。しかし、
(放伐革命という)その所業に仁徳に照らし合わせて恥ずる所があったため、こう言って悔やんだ。
『私は次の世で、(私の所業が体制転覆の)口実となることを恐れている』(桀王の暴虐によって
『奴すら死ぬのなら共に死んだって構わない〈湯誓〉』というほどもの思いに駆られていた民衆たち
にとって、湯王による放伐革命でもたらされた治世はそれこそ『新しい世界への生まれ変わり』という
ほどのものであったに違いない。しかし、そうであっても当の湯王自身は、自らの行いが不徳ではなかったか
と羞じるところがったのである。民衆たちにとっての二世教的な救いを実現しながら、当の湯王自身は
二世教的な事態に及んだことを恥じた。二世教的志向はそれ自体が徳に即して恥ずべきものなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)
「殷の湯王は暴虐の限りを尽くしていた夏の桀王を南巣に放伐して新たな王朝を創建した。しかし、
(放伐革命という)その所業に仁徳に照らし合わせて恥ずる所があったため、こう言って悔やんだ。
『私は次の世で、(私の所業が体制転覆の)口実となることを恐れている』(桀王の暴虐によって
『奴すら死ぬのなら共に死んだって構わない〈湯誓〉』というほどもの思いに駆られていた民衆たち
にとって、湯王による放伐革命でもたらされた治世はそれこそ『新しい世界への生まれ変わり』という
ほどのものであったに違いない。しかし、そうであっても当の湯王自身は、自らの行いが不徳ではなかったか
と羞じるところがったのである。民衆たちにとっての二世教的な救いを実現しながら、当の湯王自身は
二世教的な事態に及んだことを恥じた。二世教的志向はそれ自体が徳に即して恥ずべきものなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)
完璧Ill。^^
>>20
(ええと。なんで携帯なんですか? 関係ないですが。PCは名無し投稿用ですか?
あー、こっち連投規制になるよ。携帯レスのあとだと。そういう意味? だとしたら、どんだけセコいんだよ)
で、それ何の話しですか?
場合分けを駆使した中世論? それはどこのレスですか? 説明していただけますか?
と、ここで理解できないヤツに、説明は不可能とか、言うんでしょうな? 何が、
人の心だよ、聴いて呆れます。本物(口だけの人間としての)ダこいつ。
もうグーの根も出なくなったら、前はレス切ってましたが、さすがに長ーく続くスレは、
意地でもアホなこじつけ続けるわけですね。本物の下衆だ。つまり身の程知らずの下の衆だ。
そちらは、バタイユも知らない、自然理念の形而上学が哲学においては西洋基督教の教義にある
普遍の作用をもとに体系づけられたことも知らずに、いっぽうで否定し、一方でエラそうに普遍が
どうのと宣い、引用したヨハネ伝の読み違えを認める勇気もない、まったくの腰抜けだ。
前に言ったよね? そちらの言動は「信が真なきゆえに、義は欺に成り果ててたか」と。
今も、同じ感想だ。人の心が基本の信条と言うならば、「したり止めたりすべからず」であるはず
が、その>>20のレスによってまったくそちらは持ち得るわけもないと言うのが、よくわかりました。
貴賤貴賤とわめく、心人。そんなものがおれば、そこには永劫機先などなし。
(ええと。なんで携帯なんですか? 関係ないですが。PCは名無し投稿用ですか?
あー、こっち連投規制になるよ。携帯レスのあとだと。そういう意味? だとしたら、どんだけセコいんだよ)
で、それ何の話しですか?
場合分けを駆使した中世論? それはどこのレスですか? 説明していただけますか?
と、ここで理解できないヤツに、説明は不可能とか、言うんでしょうな? 何が、
人の心だよ、聴いて呆れます。本物(口だけの人間としての)ダこいつ。
もうグーの根も出なくなったら、前はレス切ってましたが、さすがに長ーく続くスレは、
意地でもアホなこじつけ続けるわけですね。本物の下衆だ。つまり身の程知らずの下の衆だ。
そちらは、バタイユも知らない、自然理念の形而上学が哲学においては西洋基督教の教義にある
普遍の作用をもとに体系づけられたことも知らずに、いっぽうで否定し、一方でエラそうに普遍が
どうのと宣い、引用したヨハネ伝の読み違えを認める勇気もない、まったくの腰抜けだ。
前に言ったよね? そちらの言動は「信が真なきゆえに、義は欺に成り果ててたか」と。
今も、同じ感想だ。人の心が基本の信条と言うならば、「したり止めたりすべからず」であるはず
が、その>>20のレスによってまったくそちらは持ち得るわけもないと言うのが、よくわかりました。
貴賤貴賤とわめく、心人。そんなものがおれば、そこには永劫機先などなし。
ある雑貨屋さんが、問屋さんに買い付けに行ったとき、そこには店にある在庫商品と重複するような
商品ばかりで、仕入れなくともプロパー商品の量や質は事足りるので、何も買い付けをしなかった。
というような、物質の数量によって配置できる物ではないわけで。
つまり、そちらが掲げるゴギョウハコベラホトケノザ?の書は西洋の基督教的(なぜかこれに固執してますがー)土壌で育った思想?哲学?、なんでいいや、それをも内包しているからとか、
最近は、それゆえにこれを持ってすれば、それらのものがいかに排すべきものであるかがよくわかり、
またそれらを間違いを一切質すことができる、と言わんばかりでやんす。
大体、そちらの考えは西洋文化が入る前に寄っているから、それらがあると停滞するわけでしょう?
(漢籍を編んだ人たちは、西洋の考え方などに触れてもいない前提があり、なのでそこに
西洋思想がないのは当然で、だからといって、現代人もそれを排していくことが理にかなっている
とか、雄三毛猫が貴重だからと雄の白いネコをヘアカラーで三毛にするようなものだ)
で、冒頭のたとえ話は、そちらの姿勢を言っているのだが、東洋の漢籍を中心とした思想があれば
事足りるとは、森羅万象あますことなく網羅することの意味では全くないということ。逆に言え
ば、
森羅万象というものは、現在までにある悠久の時間の蓄積の上にある。だからといって、
その祖たる物がまた一番エラいと言うわけでもないし、大げさに人類すべてから、
その上のものまでに触れるという話しの中で排除という形があれば、
そこにたどり着くことは不可能になるということを知っていなければならない。
(森羅万象が歯抜け言葉になり「し○ら○んしょう」という無知の章が出来上がると言う次第)
西洋を知らぬところから始めるのでなく、つまり引用から話し(もはや論というには幼稚すぎる)が引き出されたり、
真意を扨措いたままに言葉の強調のみに活用しているのは、そちら>>1が殊更低くあることの現れだ。
商品ばかりで、仕入れなくともプロパー商品の量や質は事足りるので、何も買い付けをしなかった。
というような、物質の数量によって配置できる物ではないわけで。
つまり、そちらが掲げるゴギョウハコベラホトケノザ?の書は西洋の基督教的(なぜかこれに固執してますがー)土壌で育った思想?哲学?、なんでいいや、それをも内包しているからとか、
最近は、それゆえにこれを持ってすれば、それらのものがいかに排すべきものであるかがよくわかり、
またそれらを間違いを一切質すことができる、と言わんばかりでやんす。
大体、そちらの考えは西洋文化が入る前に寄っているから、それらがあると停滞するわけでしょう?
(漢籍を編んだ人たちは、西洋の考え方などに触れてもいない前提があり、なのでそこに
西洋思想がないのは当然で、だからといって、現代人もそれを排していくことが理にかなっている
とか、雄三毛猫が貴重だからと雄の白いネコをヘアカラーで三毛にするようなものだ)
で、冒頭のたとえ話は、そちらの姿勢を言っているのだが、東洋の漢籍を中心とした思想があれば
事足りるとは、森羅万象あますことなく網羅することの意味では全くないということ。逆に言え
ば、
森羅万象というものは、現在までにある悠久の時間の蓄積の上にある。だからといって、
その祖たる物がまた一番エラいと言うわけでもないし、大げさに人類すべてから、
その上のものまでに触れるという話しの中で排除という形があれば、
そこにたどり着くことは不可能になるということを知っていなければならない。
(森羅万象が歯抜け言葉になり「し○ら○んしょう」という無知の章が出来上がると言う次第)
西洋を知らぬところから始めるのでなく、つまり引用から話し(もはや論というには幼稚すぎる)が引き出されたり、
真意を扨措いたままに言葉の強調のみに活用しているのは、そちら>>1が殊更低くあることの現れだ。
「君子の道は始めは暗然としているが、次第に明らかとなって行く(中庸)」とか
「大いなる任務を帯びた人間はまず始めに心志を苦しまされる(孟子)」だとかいった風に、
まず率先して暗中模索の努力に務めた上で大いなる結果を出そうとすることが、
自力作善の徳行の基本となっている。故に、自力作善本位の儒者の有り様を
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/134941759...
上のように「盲目だ」などとまで決め付けるものが昔からいたのでもある。
他力本願の二世教の信者なども、現世が闇雲であったりすることは認めていて、
だからこそ来世での光明を期待したりはするわけだけれども、別に光明に与るための
現世での自助努力に務めたりするわけでもなく、ただただ闇を嫌って光を好むというばかりの
姿勢でいる。だからこそ、現世の暗雲の中ですら自助努力に勤めて行こうなどとする者を
「光を嫌って闇に溺れる者」だなどとまで決め付けてあざ笑ったりすることすらもがあるのである。
そんな他力本願者と自力作善者とが並存していたとして、なおかつ来世の往生など
あり得ないと確定してしまったとする。したらば、現世の暗闇の中から努力を積んで行こうとした
自力作善者こそは功労の結実による光明に与れる一方で、他力本願者のほうは今まで
甘受すべき闇すらをも拒絶して光への嗜好ばかりに明け暮れていた不実がたたって、
今からこそ真っ暗闇の中での幽閉生活を強いられて行くことにすらなってしまうのである。
辛うじて「これからの暗闇」を免れられることとなった二世教(浄土教、イスラム教、拝火教など)
はといえば、いずれも「信仰のための自制」こそを少なからず信者に促すものであった。
戒律主義のイスラム教や拝火教はおろか、無戒律の浄土教すらもが、信仰によって信者たちの
自制心を育ませる方便上の効能を伴っているものであった。であるからには、闇と汚濁に
まみれた現世における開き直りを信者に促すものでまではなかったわけで、そのような
堅実さが伴っていればこそ、他力本願といえども、来世の光明などなかったとしたところで、
今さら暗闇に突き落とされるような運命に見舞われることもなくて済んだわけである。
「大いなる任務を帯びた人間はまず始めに心志を苦しまされる(孟子)」だとかいった風に、
まず率先して暗中模索の努力に務めた上で大いなる結果を出そうとすることが、
自力作善の徳行の基本となっている。故に、自力作善本位の儒者の有り様を
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/134941759...
上のように「盲目だ」などとまで決め付けるものが昔からいたのでもある。
他力本願の二世教の信者なども、現世が闇雲であったりすることは認めていて、
だからこそ来世での光明を期待したりはするわけだけれども、別に光明に与るための
現世での自助努力に務めたりするわけでもなく、ただただ闇を嫌って光を好むというばかりの
姿勢でいる。だからこそ、現世の暗雲の中ですら自助努力に勤めて行こうなどとする者を
「光を嫌って闇に溺れる者」だなどとまで決め付けてあざ笑ったりすることすらもがあるのである。
そんな他力本願者と自力作善者とが並存していたとして、なおかつ来世の往生など
あり得ないと確定してしまったとする。したらば、現世の暗闇の中から努力を積んで行こうとした
自力作善者こそは功労の結実による光明に与れる一方で、他力本願者のほうは今まで
甘受すべき闇すらをも拒絶して光への嗜好ばかりに明け暮れていた不実がたたって、
今からこそ真っ暗闇の中での幽閉生活を強いられて行くことにすらなってしまうのである。
辛うじて「これからの暗闇」を免れられることとなった二世教(浄土教、イスラム教、拝火教など)
はといえば、いずれも「信仰のための自制」こそを少なからず信者に促すものであった。
戒律主義のイスラム教や拝火教はおろか、無戒律の浄土教すらもが、信仰によって信者たちの
自制心を育ませる方便上の効能を伴っているものであった。であるからには、闇と汚濁に
まみれた現世における開き直りを信者に促すものでまではなかったわけで、そのような
堅実さが伴っていればこそ、他力本願といえども、来世の光明などなかったとしたところで、
今さら暗闇に突き落とされるような運命に見舞われることもなくて済んだわけである。
正直、二世教こそは、この世の害悪の主体的な元凶になってしまいがちなものである。
今はたまたま聖書信仰がその代表格たり得ているけれども、他力本願の現世努力放り投げという
姿勢全般が罪悪に繋がりがちなものなのであり、普通に考えて忌むべきものなのである。
その中でたまたま害悪の抑制に与するような二世教があったとしたところで、むしろそのような
信教のほうが二世教のうちでは変則的なものとなっている。(だから浄土教の悪人正機説
なども見てくれ変則的な論説となっている)現世をないがしろにしてまで来世を希求するのと、
現世は現世でそれなりでいながら来世の光明までをも希求するのとでは、むしろ現世を蔑ろに
する場合のほうが「より二世教らしい」といえる。だから、二世教の一般的価値というものを
高く見積もるのであれば、自然と聖書信仰あたりが突出した権威性をも帯びてくるようになって
しまう。そうならないためには、聖書信仰という特定の信教を非とするだけでなく、二世教
という宗教的体裁全般の価値の見直しまでもが講じられていかなければならないのである。
ペルシャの哲学者スフラワルディーも、東方こそは光の精神文明、西方こそは闇の物質文明で
あるとする照明論哲学を展開しているが、東方こそは自力作善を主体とした文化の隆盛地と
なって来た一方、西方こそは他力本願を主体とした文化の蔓延地ともなっている。現世での
光の希求を拒絶して来世への嘱望に逃避して来たからこそ、現世の西洋文化こそは闇を主体
とした文化文明であり続けて来てしまった。それは結局、来世にしか光明を見出すべきでない
とした最悪級の二世教の根拠地ともなって来たからなのだから、真の光に与るためにこそ、
そのような志向を信者に強要する邪教の払拭を講じていくことで、西洋人までもが真の光明に
与っていけるようになるのだといえる。無論、真の光明に与りたいのかどうかは知らないが。
今はたまたま聖書信仰がその代表格たり得ているけれども、他力本願の現世努力放り投げという
姿勢全般が罪悪に繋がりがちなものなのであり、普通に考えて忌むべきものなのである。
その中でたまたま害悪の抑制に与するような二世教があったとしたところで、むしろそのような
信教のほうが二世教のうちでは変則的なものとなっている。(だから浄土教の悪人正機説
なども見てくれ変則的な論説となっている)現世をないがしろにしてまで来世を希求するのと、
現世は現世でそれなりでいながら来世の光明までをも希求するのとでは、むしろ現世を蔑ろに
する場合のほうが「より二世教らしい」といえる。だから、二世教の一般的価値というものを
高く見積もるのであれば、自然と聖書信仰あたりが突出した権威性をも帯びてくるようになって
しまう。そうならないためには、聖書信仰という特定の信教を非とするだけでなく、二世教
という宗教的体裁全般の価値の見直しまでもが講じられていかなければならないのである。
ペルシャの哲学者スフラワルディーも、東方こそは光の精神文明、西方こそは闇の物質文明で
あるとする照明論哲学を展開しているが、東方こそは自力作善を主体とした文化の隆盛地と
なって来た一方、西方こそは他力本願を主体とした文化の蔓延地ともなっている。現世での
光の希求を拒絶して来世への嘱望に逃避して来たからこそ、現世の西洋文化こそは闇を主体
とした文化文明であり続けて来てしまった。それは結局、来世にしか光明を見出すべきでない
とした最悪級の二世教の根拠地ともなって来たからなのだから、真の光に与るためにこそ、
そのような志向を信者に強要する邪教の払拭を講じていくことで、西洋人までもが真の光明に
与っていけるようになるのだといえる。無論、真の光明に与りたいのかどうかは知らないが。
「飶たる其の香り、邦家の光なる。椒たる其の馨り、胡考の寧らぎなる。
且のみ且く有るに匪ず、今のみ今の斯くに匪ず、振古よりして茲の如し」
「豊穣のために神前に祭られた供物もかぐわしく、邦家の光となり、長老たちにとっての
安心の糧ともなっている。昔こうだったというのでも、今に限ってこうだというのでもない。
昔からの努力があるからこそ斯くの如くでいられるのである。(長年の努力こそが光を呼び込む)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・閔予小子之什・載芟より)
且のみ且く有るに匪ず、今のみ今の斯くに匪ず、振古よりして茲の如し」
「豊穣のために神前に祭られた供物もかぐわしく、邦家の光となり、長老たちにとっての
安心の糧ともなっている。昔こうだったというのでも、今に限ってこうだというのでもない。
昔からの努力があるからこそ斯くの如くでいられるのである。(長年の努力こそが光を呼び込む)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・閔予小子之什・載芟より)
>>1
まず排他主義的思考を改めるべきだ。そして、自分の無知と恥の意味を知るべきだ。
本当のところは、勝ったー負けたーハイ論破などが好きなだけだろう。ただの意固地なだけで、
バカを応援したくなる人たちのお陰で、
『小人閑居為不善、在有己無知、是無之有』になってるだけだよー。
そちらは、○○を現代の人にも分かるように流布することが自分の努め、
だとか言ってる宗教家と変わらない。徳、説くが、“得”無し。
>>27->>28
[The fact that’s light to one in the jet-black is for answer to one of them physical. "One of them" is mean of all from answer from question of here.]
まず排他主義的思考を改めるべきだ。そして、自分の無知と恥の意味を知るべきだ。
本当のところは、勝ったー負けたーハイ論破などが好きなだけだろう。ただの意固地なだけで、
バカを応援したくなる人たちのお陰で、
『小人閑居為不善、在有己無知、是無之有』になってるだけだよー。
そちらは、○○を現代の人にも分かるように流布することが自分の努め、
だとか言ってる宗教家と変わらない。徳、説くが、“得”無し。
>>27->>28
[The fact that’s light to one in the jet-black is for answer to one of them physical. "One of them" is mean of all from answer from question of here.]
さして込み入った話し合いをすべきでもない所。
たとえ自分が世界の帝王になるとしたって、他人を押しのけて自分がその座に
就くのではなく、むしろその座において自らが人並み以上の精進虚静に励む
ぐらいのつもりでいて初めて、仁徳ある帝王ともなり得るのである。
そのような条件を満たしていたのが、たとえば近代以前の日本の天皇である。
平安期までの律令制時代においては、藤原摂関家のごとき重臣たちの栄華を温かく見守り、
自身はといえば「天上人」としての責務に即して清廉を尽くした生活を守っていた。
実権が公家から武家へと移行した武家時代においても、やはり大名将軍の栄達を
禁裏から見守る最終統率者としての立場に徹していた。(南北朝時代など一部を除く)
これは、陰陽道を発祥地の中国以上にも精練することで確立された日本ならではの
優良な統治システムであり、その起源は聖徳太子による天皇(的立場)の提唱あたりにまで
さかのぼる。中国の皇帝のようなあからさまな栄華を自分自身が享受しないのと引き換えに、
革命による皇位簒奪などを厳禁した、恒久的な立場の維持を実現して行くものとしたのである。
その、「臣下の繁栄こそを約束する王者」としての天皇の立場が決定的に揺るがされたのが、
近代以降の大日本帝国や国家神道の擁立に基づく天皇の一尊化であった。天皇以下の臣下臣民は
みな天皇のために全てをなげうつ下僕とされ、「天皇陛下万歳」と叫びながらであれば戦中での
特攻や玉砕もお咎めなしという、日本史上に未だかつて前例のない異常事態を招いた。
敗戦後、天皇の権限や権威に大幅な制限が加えられることとなったために、最悪級の集団
ヒステリー状態ぐらいは回避されるようになったが(それでも一部の極右団体などが残存する)、
最大級の権威は保持しても権力は独り占めせず、特に有能な重臣やその末裔たちの
勇躍を公認しつつ温かく見守るという天皇本来のあり方が修復されたわけでは全く
ないわけで、統治もしなければ、ほとんど君臨すらしなくなってしまったその
存在性が、ほとんど意義を喪失しかけるような状態となってしまったのだった。
就くのではなく、むしろその座において自らが人並み以上の精進虚静に励む
ぐらいのつもりでいて初めて、仁徳ある帝王ともなり得るのである。
そのような条件を満たしていたのが、たとえば近代以前の日本の天皇である。
平安期までの律令制時代においては、藤原摂関家のごとき重臣たちの栄華を温かく見守り、
自身はといえば「天上人」としての責務に即して清廉を尽くした生活を守っていた。
実権が公家から武家へと移行した武家時代においても、やはり大名将軍の栄達を
禁裏から見守る最終統率者としての立場に徹していた。(南北朝時代など一部を除く)
これは、陰陽道を発祥地の中国以上にも精練することで確立された日本ならではの
優良な統治システムであり、その起源は聖徳太子による天皇(的立場)の提唱あたりにまで
さかのぼる。中国の皇帝のようなあからさまな栄華を自分自身が享受しないのと引き換えに、
革命による皇位簒奪などを厳禁した、恒久的な立場の維持を実現して行くものとしたのである。
その、「臣下の繁栄こそを約束する王者」としての天皇の立場が決定的に揺るがされたのが、
近代以降の大日本帝国や国家神道の擁立に基づく天皇の一尊化であった。天皇以下の臣下臣民は
みな天皇のために全てをなげうつ下僕とされ、「天皇陛下万歳」と叫びながらであれば戦中での
特攻や玉砕もお咎めなしという、日本史上に未だかつて前例のない異常事態を招いた。
敗戦後、天皇の権限や権威に大幅な制限が加えられることとなったために、最悪級の集団
ヒステリー状態ぐらいは回避されるようになったが(それでも一部の極右団体などが残存する)、
最大級の権威は保持しても権力は独り占めせず、特に有能な重臣やその末裔たちの
勇躍を公認しつつ温かく見守るという天皇本来のあり方が修復されたわけでは全く
ないわけで、統治もしなければ、ほとんど君臨すらしなくなってしまったその
存在性が、ほとんど意義を喪失しかけるような状態となってしまったのだった。
究極級の陰陽道の精査にも即して確立された天皇という立場の存在意義の復興のためにも、
「全体主義か独裁主義か」といったような両極端を排した、中庸的な考え方が必要となる。
「他人を押しのけてでも自分がのし上がる」というような独尊志向を排するためにこそ、
天皇も万世一系の世襲制でいる。天皇以下の臣下ならばまだ成り上がりの可能性も
あり得るが、それとて豊臣秀吉のように新たな本姓を創設してまで、百姓から関白家
にまでのし上がろうとするような突発性を伴っているようなら、危ういものである。
名目上の位階からでも、無闇なのし上がりを抑制する厳格さを保った上で、なだらかな
上下の序列を形成して行くことが、独裁的でも全体的でもない中正なあり方となる。
そのような中庸を保った体制を是認できて、実際に自分が服して行ける人間こそは自らが
中庸を尊べる君子でもある一方、いまいちそんな分かりにくい体制にはなじめなくて、
自分一人が他者を押しのけてでものし上がりってたいというような人間は、やはり自分自身が
君子としての素養を欠いているのだといえる。身分が上か下か官か民かなどによらず、
できる限りそういった意味での君子的な品位の持ち主ばかりで世の中が占められるように
なるに越したことはないわけだから、上記のような本来の有り方を取り戻した天皇や、
それに準ずる君主が君臨する世の中が世界規模でも実現されていったならば、それに
よってこの地球上も破滅の危機を免れられるのはもちろんのこと、未だかつて到来した
こともないような未曾有の繁栄が全人類に対して実現されて行くこととすらなるだろう。
「損益は盛衰の始めなり」
「損益の自然な流れが物事の盛衰の発端となる。
(盛衰いずれかで言えば盛んであるに越したことはないが、世に限りある富を
人々が分け合う上での損益が極まった時に仕方なく盛衰のうねりが生ずるのである。
故に、そこに『〜ねばならない』などといった恣意を差し挟むべきでもないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・雑卦伝より)
「全体主義か独裁主義か」といったような両極端を排した、中庸的な考え方が必要となる。
「他人を押しのけてでも自分がのし上がる」というような独尊志向を排するためにこそ、
天皇も万世一系の世襲制でいる。天皇以下の臣下ならばまだ成り上がりの可能性も
あり得るが、それとて豊臣秀吉のように新たな本姓を創設してまで、百姓から関白家
にまでのし上がろうとするような突発性を伴っているようなら、危ういものである。
名目上の位階からでも、無闇なのし上がりを抑制する厳格さを保った上で、なだらかな
上下の序列を形成して行くことが、独裁的でも全体的でもない中正なあり方となる。
そのような中庸を保った体制を是認できて、実際に自分が服して行ける人間こそは自らが
中庸を尊べる君子でもある一方、いまいちそんな分かりにくい体制にはなじめなくて、
自分一人が他者を押しのけてでものし上がりってたいというような人間は、やはり自分自身が
君子としての素養を欠いているのだといえる。身分が上か下か官か民かなどによらず、
できる限りそういった意味での君子的な品位の持ち主ばかりで世の中が占められるように
なるに越したことはないわけだから、上記のような本来の有り方を取り戻した天皇や、
それに準ずる君主が君臨する世の中が世界規模でも実現されていったならば、それに
よってこの地球上も破滅の危機を免れられるのはもちろんのこと、未だかつて到来した
こともないような未曾有の繁栄が全人類に対して実現されて行くこととすらなるだろう。
「損益は盛衰の始めなり」
「損益の自然な流れが物事の盛衰の発端となる。
(盛衰いずれかで言えば盛んであるに越したことはないが、世に限りある富を
人々が分け合う上での損益が極まった時に仕方なく盛衰のうねりが生ずるのである。
故に、そこに『〜ねばならない』などといった恣意を差し挟むべきでもないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・雑卦伝より)
このスレなどでレスしている事柄などが、そちらの目的や理由というものから興っているとおっしゃる?
まず、そちらの言動は、非を否定するための卑しいものと言わざるを得ない。ここでいう非は、そちらが自ら起こした
不始末のことで、端緒においてある目的というものは、これらの言動の中にある。つまり、そこ元の目的と理由は、
自らの非を否定するためにすでに還元されている状態だ。
それは、第一の目的が、先人のご託宣を掲げることは自らの主張ではなく、洋服買ってきて、それを着飾って見せびらかすのと同じで、
その出で立ちがちぐはぐだと言われて腹を立て、すべからく人の道理を非を否とするために活用しているのみである。
そちらが、掲げようとする書物等の在る事の根本を考えていただきたいが。
話し合いなどするつもりなど毛頭ないと言うか、無理なのは分かっている。こちらの指摘について、ちょっと触って、
別のうんちゃら。はいさいなら。それは>>35などでもやはりかわらず、その発言の真意(そちらの中身についての指摘)ではなく、
『〜べきではない』などを使うのは人の行動として良からぬ事、と、カードゲームで遊んでるようなレスを返して来るだけだ。ほんと子供だ。
このレスで言っているのは、そういう事。次は、それ以外のくだらない部分での返答はいらない。わたしのこれまでのレスの返答レスで、
話し返答言えるものは全く皆無である現実、それは確かにあることというのを自覚した方がいい。
(「込み入った」とは入り込んだという意味? 混み入った話し風にして人へ当てこするのは好きだよな? そちら)
>「他人を押しのけてでも自分がのし上がる」
こういうことを書くのが厚顔無恥の恥知らずというのだ。
>>30で、わざわざヘタクソな漢文を作ったのにまったく聴いちゃいない風だな。
〜〜〜『小人閑居為不善、在有己無知、是無之有』
悪さをするやつは不始末のために引きこもり、それは己の無知あるところ、それが無しということのが有るからだ。〜〜〜
まず、そちらの言動は、非を否定するための卑しいものと言わざるを得ない。ここでいう非は、そちらが自ら起こした
不始末のことで、端緒においてある目的というものは、これらの言動の中にある。つまり、そこ元の目的と理由は、
自らの非を否定するためにすでに還元されている状態だ。
それは、第一の目的が、先人のご託宣を掲げることは自らの主張ではなく、洋服買ってきて、それを着飾って見せびらかすのと同じで、
その出で立ちがちぐはぐだと言われて腹を立て、すべからく人の道理を非を否とするために活用しているのみである。
そちらが、掲げようとする書物等の在る事の根本を考えていただきたいが。
話し合いなどするつもりなど毛頭ないと言うか、無理なのは分かっている。こちらの指摘について、ちょっと触って、
別のうんちゃら。はいさいなら。それは>>35などでもやはりかわらず、その発言の真意(そちらの中身についての指摘)ではなく、
『〜べきではない』などを使うのは人の行動として良からぬ事、と、カードゲームで遊んでるようなレスを返して来るだけだ。ほんと子供だ。
このレスで言っているのは、そういう事。次は、それ以外のくだらない部分での返答はいらない。わたしのこれまでのレスの返答レスで、
話し返答言えるものは全く皆無である現実、それは確かにあることというのを自覚した方がいい。
(「込み入った」とは入り込んだという意味? 混み入った話し風にして人へ当てこするのは好きだよな? そちら)
>「他人を押しのけてでも自分がのし上がる」
こういうことを書くのが厚顔無恥の恥知らずというのだ。
>>30で、わざわざヘタクソな漢文を作ったのにまったく聴いちゃいない風だな。
〜〜〜『小人閑居為不善、在有己無知、是無之有』
悪さをするやつは不始末のために引きこもり、それは己の無知あるところ、それが無しということのが有るからだ。〜〜〜
でー、(本文長過ぎると、言われたー、アホにアホレスしているとちょっと恥を知る)
いろんなレスを見ていると、2〜3行のレスでも、実に多くのことを語れる人は、たくさんいるが、そちらは、100行書いても根幹は、
すべて卑しい言動に集約されているので、なにを書こうがいまのところ、ひとつの意味にしか発展しない。そして、オリジナリティなどまったく感じない。
そして、目的と理由、もっとしっかりしたものがあるというなら、それをちゃんと自分の文章で、引用によるところなく書けますか?(つまり、いまのような引用の仕方でなくという意味)
ご立派なそれがあるのなら、是非、伺ってみたのですが? ちゃんとしたものなら、否定や論いで遊ぼうなどということはいたしません。
では、ばいちゃ〜まったく無駄足下〜イカのゲソー、めんどーで改行ちゃんとしてませーん、『まったくNon、she得る得る〜』でしょうかねー。
いろんなレスを見ていると、2〜3行のレスでも、実に多くのことを語れる人は、たくさんいるが、そちらは、100行書いても根幹は、
すべて卑しい言動に集約されているので、なにを書こうがいまのところ、ひとつの意味にしか発展しない。そして、オリジナリティなどまったく感じない。
そして、目的と理由、もっとしっかりしたものがあるというなら、それをちゃんと自分の文章で、引用によるところなく書けますか?(つまり、いまのような引用の仕方でなくという意味)
ご立派なそれがあるのなら、是非、伺ってみたのですが? ちゃんとしたものなら、否定や論いで遊ぼうなどということはいたしません。
では、ばいちゃ〜まったく無駄足下〜イカのゲソー、めんどーで改行ちゃんとしてませーん、『まったくNon、she得る得る〜』でしょうかねー。
仮に地震や津波や台風のような災害が国内で巻き起これば、救助隊員や自衛隊員なども、
国籍や身分の如何に関わらず被害者全員を救助対象とする。のみならず、海外で大規模な
災害が発生した場合にすら、救助隊を編成しての人道支援を試みたりもする。それは全て、
「国」という枠組みに即して災害救助という業務が想定されているからであり、もしも
「利権」という枠組みに即して想定されていたりしたならばそうはいかないのである。
東日本大震災の事後復興などでも、利権が絡んでいるせいでの滞りが問題視されているが、
これも、国や自治体よりは遥かに矮小な私的利権への一部の人間の拘泥があればこそ
呈してしまっていることである。東証一部上場級の大企業であろうとも、国営企業で
ない以上は国益よりも企業自体の利益のほうが優先される。そしてその私益のうまみに
与れる人間も一部の重役や正社員に制限されて、派遣社員や末端のパート・アルバイト
などに対しては所帯を持つのもままならないような生活苦を強いることともなるのである。
それが私企業というものの本分だからそうするまでであって、そもそも私企業なんてものを
やたらと肥大化させる資本主義社会の姿勢からして、国や世の中の側の疲弊を招くことが
避けられないものである。そうであることの陰惨さが今、震災復興の停滞などの形でも
露呈してしまっているわけだが、これもまた、日本が「資本主義」などというものを
国是とし続けてきた以上は、自業自得で免れることの出来なかった運命なのである。
公益や国益よりも私益を優先することで膨れ上がる利権こそは、見るからに甚大である。
古くはエジプトのピラミッドや秦始皇帝の王宮陵墓など、今だと大企業の自社ビルなどの
巨大さこそが、いかにも見る者を圧倒させたがりな体でいる。事業としての規模では、
灌漑や治水などの公共事業のほうがより大きかったりもするわけだが、大都市の
中心部のような多くの人間が居住を希望したがるような場所にドカンと巨大な建造物を
拵えてそこに居座るということが、特にそれを見る者に羨望を抱かせやすいと共に、
そこに居座れた者の自己権顕示欲を存分に充足させる効果をも発揮するのである。
国籍や身分の如何に関わらず被害者全員を救助対象とする。のみならず、海外で大規模な
災害が発生した場合にすら、救助隊を編成しての人道支援を試みたりもする。それは全て、
「国」という枠組みに即して災害救助という業務が想定されているからであり、もしも
「利権」という枠組みに即して想定されていたりしたならばそうはいかないのである。
東日本大震災の事後復興などでも、利権が絡んでいるせいでの滞りが問題視されているが、
これも、国や自治体よりは遥かに矮小な私的利権への一部の人間の拘泥があればこそ
呈してしまっていることである。東証一部上場級の大企業であろうとも、国営企業で
ない以上は国益よりも企業自体の利益のほうが優先される。そしてその私益のうまみに
与れる人間も一部の重役や正社員に制限されて、派遣社員や末端のパート・アルバイト
などに対しては所帯を持つのもままならないような生活苦を強いることともなるのである。
それが私企業というものの本分だからそうするまでであって、そもそも私企業なんてものを
やたらと肥大化させる資本主義社会の姿勢からして、国や世の中の側の疲弊を招くことが
避けられないものである。そうであることの陰惨さが今、震災復興の停滞などの形でも
露呈してしまっているわけだが、これもまた、日本が「資本主義」などというものを
国是とし続けてきた以上は、自業自得で免れることの出来なかった運命なのである。
公益や国益よりも私益を優先することで膨れ上がる利権こそは、見るからに甚大である。
古くはエジプトのピラミッドや秦始皇帝の王宮陵墓など、今だと大企業の自社ビルなどの
巨大さこそが、いかにも見る者を圧倒させたがりな体でいる。事業としての規模では、
灌漑や治水などの公共事業のほうがより大きかったりもするわけだが、大都市の
中心部のような多くの人間が居住を希望したがるような場所にドカンと巨大な建造物を
拵えてそこに居座るということが、特にそれを見る者に羨望を抱かせやすいと共に、
そこに居座れた者の自己権顕示欲を存分に充足させる効果をも発揮するのである。

神格化したのが犯罪聖書の神でもあるわけで、聖書の神が一部の人間を救って他の人間は
破滅に陥れるとしているのも、そうするしかないからそうしているまでのことである。
国内で災害に見舞われた人間は誰と言わず救助する救助隊や自衛隊などとは違って、利権に
与れたものだけを優遇し、そうでないものを冷遇するという立場の神格化であるからこそ、
救済如何も「信じるか否か」なんていう極めて恣意的な条件に還元してしまうのである。
世の中が、私益よりも公益を尊重する傾向を盤石化させていったならば、そんな邪神から
して生じ得ない。素封家が完全にこの世から絶やされるとまでいかずとも、ある程度まで
素封の規模が抑制すらされたならば(最低でも政商としての横暴が許されない程度に)、
そこで溜め込まれた利権の嵩にかかることを「神」として崇めたてるほどもの暴行ぐらいは
防ぎ止められるようになるのである。古典的な手段ではあるが、商家や庄屋の人間には
身分に合わせた垢抜けない格好をさせて、そのような立場の人間に対する人々の羨望を
立ち消えにさせるなどというのも、一つの有効な手立てとなる。それは、イギリスあたり
を発祥地とする背広(スーツ)の見てくれのよさが、商売人を「ビジネスマン」などと
して美化する効果を発揮してしまっている現代の様相を鑑みても言えることである。
結局、いま社会人の象徴として持て囃されているビジネススーツなども、作業服の軽便さと
より伝統的な礼服の見栄えのよさを合体させた奇形的なものであり、「権力者はゆったりと
した衣服を来て重厚な為政を執り行うべきである(易経・繋辞伝)」という易学上の奨励
事項にも反しているものである。権力者は袴のようなゆったりとした着物を着、今でいう
ブルーカラーの人間は今まで通り軽便な格好をし、商売などの素封に専らである人間は
「前掛け」のような格好でいるようにするのが社会的に適切である。前掛けといえば、
昔は百姓にすら卑しまれていたな格好ではあるけれども、まあそれぐらいでいるべきだ。
「君子如し夷らげれば、悪むも怒るも是こに違れり(既出)」
「仁徳ある君子が天下を平らげれば、憎しみも怒りも消え去るだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・節南山より)
「君子如し怒れば、乱も庶わば遄かに沮みなん(既出)」
「君子がひとたび怒れば、乱もその願いどおり速やかにやむであろう。
(君子の怒りは乱を鎮めるものであり、いつまでも持ち越すようなものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
「王の厥の武を奮うや、震れるが如く怒れるが如く。厥の虎臣を進めるも、闞れること
虓虎の如く。淮濆に鋪敦して、仍に醜虜を執え、彼の淮浦を截めて、王師の所とす」
「王者がその武力を奮う有り様たるや、まさに震撼として怒れるがごとく。臣下たち
の進軍する有り様も、まさに吼え狂う虎のごとく。淮河のほとりに敵を追い詰めて、
またたくまに逃げ惑う敵を捉えて虜とし、南国一帯を治めて王の師の住まう所とした。
(天下を統べる王者の怒りが一過性のものであり、道理にも適っている実例。既出の
大雅・皇矣における文王の怒りやそれに基づく凶賊の討伐などもこれと同様にあたる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・常武より)
「仁徳ある君子が天下を平らげれば、憎しみも怒りも消え去るだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・節南山より)
「君子如し怒れば、乱も庶わば遄かに沮みなん(既出)」
「君子がひとたび怒れば、乱もその願いどおり速やかにやむであろう。
(君子の怒りは乱を鎮めるものであり、いつまでも持ち越すようなものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
「王の厥の武を奮うや、震れるが如く怒れるが如く。厥の虎臣を進めるも、闞れること
虓虎の如く。淮濆に鋪敦して、仍に醜虜を執え、彼の淮浦を截めて、王師の所とす」
「王者がその武力を奮う有り様たるや、まさに震撼として怒れるがごとく。臣下たち
の進軍する有り様も、まさに吼え狂う虎のごとく。淮河のほとりに敵を追い詰めて、
またたくまに逃げ惑う敵を捉えて虜とし、南国一帯を治めて王の師の住まう所とした。
(天下を統べる王者の怒りが一過性のものであり、道理にも適っている実例。既出の
大雅・皇矣における文王の怒りやそれに基づく凶賊の討伐などもこれと同様にあたる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・常武より)
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>>1
そちらの頓珍漢ぶりを知ったのは、昨年の秋だったか。
精神性の鍛錬だとか言ってたスレ。心がどうのも、その延長のようだが、
そちらの目的や理由といったものは、エラいと思われたいところ。
そういうことを言っているのは、普遍的な事柄あるいは、すべてを含有しているものを
把握しておけば、誰が来ようがロンパー的なものが出来ると思っているからだろう?
四書五経は、確かに「こころ」の在り方というものが朧げでも入って来る書物だとは思うがー。
この動画を見てどう思いますか?(そう二度目だ。相対的なことを言い含んだ引用などをしても、
中身には全く心当たりがないので、どうでもいいっすよー、っと)
前よりは、マシな事を書けますかね? というか、別にアンカーつけてないし、
こちらから、一方的に絡まれてるだけ〜、って感じですか?
百姓云々、そして、武家の家柄や血筋など、別に珍しくもないという話しなど、あるが、どうでも
いいな。そちらが馬鹿にする、町人(職人)などで、墓標に十六菊花紋を刻印することを許されているものなどがいたりするのを知ってる?
アホ草〜。

そちらの頓珍漢ぶりを知ったのは、昨年の秋だったか。
精神性の鍛錬だとか言ってたスレ。心がどうのも、その延長のようだが、
そちらの目的や理由といったものは、エラいと思われたいところ。
そういうことを言っているのは、普遍的な事柄あるいは、すべてを含有しているものを
把握しておけば、誰が来ようがロンパー的なものが出来ると思っているからだろう?
四書五経は、確かに「こころ」の在り方というものが朧げでも入って来る書物だとは思うがー。
この動画を見てどう思いますか?(そう二度目だ。相対的なことを言い含んだ引用などをしても、
中身には全く心当たりがないので、どうでもいいっすよー、っと)
前よりは、マシな事を書けますかね? というか、別にアンカーつけてないし、
こちらから、一方的に絡まれてるだけ〜、って感じですか?
百姓云々、そして、武家の家柄や血筋など、別に珍しくもないという話しなど、あるが、どうでも
いいな。そちらが馬鹿にする、町人(職人)などで、墓標に十六菊花紋を刻印することを許されているものなどがいたりするのを知ってる?
アホ草〜。
実際問題、世の中で極大級の権能を持つ人間というのは、どうしたって限られる。
王侯から権能が剥奪された民主主義社会などにおいても、今度は政商身分に相当
するような富豪が極大級の権力を裏で掌握するようなことになってしまったり
するだけであり、そのほうがかえって権力の寡占度も高まることにすらなる。
そのような、限られた権力を持つものだけができることというのがある。
「世の中で実行し得る最大級の善行や悪行」こそは、まさにそれである。
小善でも偽善でも小悪でもない、大善や大悪がそこでのみ実行可能となる。
世界を破滅に陥れたり、破滅に陥っている世界を救ったりといったことも、
世の中における究極級の権能を持つ者だけが可能とすることである。実際には
政商が最大の権力を握っている民主主義社会において、名目上の最高権力者として
擁立されている大統領だとか総理大臣だとかにすら、それだけの善行や悪行を
成し遂げることは不可能である。成し得ているように見えたりしたところで、
実際には究極級の権力者が裏から仕組んでいるだけであって、特に本人たちが
自分たちの悪行の罪を表向きの最高権力者に擦り付ける場合などにそれが顕著である。
まず「極大級の善行や悪行を為し得る権能は、限られた権力者だけが持ち得るもの」
という事実関係がある。仮に極大級の権能を悪人が掌握して、専ら悪行のために濫用
したりしているようならば、善人が極大級の善行を為したりすることも不可能となる。
孔子や孟子といった古代中国の著名な儒者もた、そのような理由で最大級の善行が
自分たちには為しえなかったわけである。本当は自分たちが堯舜や湯文武のような
聖王となって治世を実現して行きたかったわけだが、小人や悪人が極大級の権力を
握っていた当時の世の中においてはそれも叶わなかったから、仕方なく儒学の
興隆や醸成といった治世実現のための材料の温存活動に専念していたわけである。
王侯から権能が剥奪された民主主義社会などにおいても、今度は政商身分に相当
するような富豪が極大級の権力を裏で掌握するようなことになってしまったり
するだけであり、そのほうがかえって権力の寡占度も高まることにすらなる。
そのような、限られた権力を持つものだけができることというのがある。
「世の中で実行し得る最大級の善行や悪行」こそは、まさにそれである。
小善でも偽善でも小悪でもない、大善や大悪がそこでのみ実行可能となる。
世界を破滅に陥れたり、破滅に陥っている世界を救ったりといったことも、
世の中における究極級の権能を持つ者だけが可能とすることである。実際には
政商が最大の権力を握っている民主主義社会において、名目上の最高権力者として
擁立されている大統領だとか総理大臣だとかにすら、それだけの善行や悪行を
成し遂げることは不可能である。成し得ているように見えたりしたところで、
実際には究極級の権力者が裏から仕組んでいるだけであって、特に本人たちが
自分たちの悪行の罪を表向きの最高権力者に擦り付ける場合などにそれが顕著である。
まず「極大級の善行や悪行を為し得る権能は、限られた権力者だけが持ち得るもの」
という事実関係がある。仮に極大級の権能を悪人が掌握して、専ら悪行のために濫用
したりしているようならば、善人が極大級の善行を為したりすることも不可能となる。
孔子や孟子といった古代中国の著名な儒者もた、そのような理由で最大級の善行が
自分たちには為しえなかったわけである。本当は自分たちが堯舜や湯文武のような
聖王となって治世を実現して行きたかったわけだが、小人や悪人が極大級の権力を
握っていた当時の世の中においてはそれも叶わなかったから、仕方なく儒学の
興隆や醸成といった治世実現のための材料の温存活動に専念していたわけである。
政商級の権力犯罪者が跋扈している世の中においては、儒学の実践を企図していくほど
もの権力道徳者の活動が不能と化してしまうのも、そういった理由に基づくのである。
村社会程度の小規模な世の中の権力ならともかく、都市社会を形成するほどにも巨大な
権力ともなれば、それらを中央集権的に統率する大権力者がいないことには絶対に
世の中を保って行くことができない。だからそのような権力者がどこかに必ず
生ずるが、だからといってその権力者が必ずしも善良であるとも限らない。
むしろ、世の中を破滅に陥れるような極大級の権力犯罪者こそは、権力の寡占姿勢が
権力道徳者以上にも「妄り」である。素性も知れない全くの他人を「食客」として
死兵要員に用いたりまですることで、権力の掌握を盤石化せしめたりもする。それは、
権力を得るものを禄高などによって厳格に管理する権力道徳者などと比べても、むしろ
謹厳さを欠いた権力の取り扱い方であるからこそ、早急な自滅をも招いてしまうのである。
極大級の権力を一部の人間が掌握しないことにはやっていけないのが大社会というもので
あるという法則をわきまえた上で、その法則に即した権力の扱いを適正化することで磐石な
治世を呼び込む、これもまた権力道徳者こそが則って行こうとする使命である。権力犯罪者
が「友愛」を旗印に極大級の権力を山分けしようとしたりすることのほうは警戒すべきである。
「中心無為なりて、以って至正を守る」
「心の底からの無為によって、正善さを守る。
(善は人の心中にこそあるものなのだから、どんな善行を為すこと以上にも、
無為によって己れの善性を養い守ることこそが重要である。>>3の引用も参照)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
もの権力道徳者の活動が不能と化してしまうのも、そういった理由に基づくのである。
村社会程度の小規模な世の中の権力ならともかく、都市社会を形成するほどにも巨大な
権力ともなれば、それらを中央集権的に統率する大権力者がいないことには絶対に
世の中を保って行くことができない。だからそのような権力者がどこかに必ず
生ずるが、だからといってその権力者が必ずしも善良であるとも限らない。
むしろ、世の中を破滅に陥れるような極大級の権力犯罪者こそは、権力の寡占姿勢が
権力道徳者以上にも「妄り」である。素性も知れない全くの他人を「食客」として
死兵要員に用いたりまですることで、権力の掌握を盤石化せしめたりもする。それは、
権力を得るものを禄高などによって厳格に管理する権力道徳者などと比べても、むしろ
謹厳さを欠いた権力の取り扱い方であるからこそ、早急な自滅をも招いてしまうのである。
極大級の権力を一部の人間が掌握しないことにはやっていけないのが大社会というもので
あるという法則をわきまえた上で、その法則に即した権力の扱いを適正化することで磐石な
治世を呼び込む、これもまた権力道徳者こそが則って行こうとする使命である。権力犯罪者
が「友愛」を旗印に極大級の権力を山分けしようとしたりすることのほうは警戒すべきである。
「中心無為なりて、以って至正を守る」
「心の底からの無為によって、正善さを守る。
(善は人の心中にこそあるものなのだから、どんな善行を為すこと以上にも、
無為によって己れの善性を養い守ることこそが重要である。>>3の引用も参照)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
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わたしの知人に、祖を源八幡太郎義家の家臣団に属したという人がいる。
その祖先は平氏である。鎌倉初期に武門から離れ、山を開墾して山間農家となったそうだ。
>>1にしてみれば、これな武門とはいわないだろうな。いまだに武門がどうとうそぶくが、
芸事などをまったくたしなまない、珍しい武門もあると、笑いが起こる。
〜〜
遠き声 いま身のうちに 起こりおり
やおらにわかも 庭無き箱屋
〜〜〜
>>41の曲感想をかかなったのは、精神の修練が適わず、
前と同じレベルに心の状態があるということですね。

その祖先は平氏である。鎌倉初期に武門から離れ、山を開墾して山間農家となったそうだ。
>>1にしてみれば、これな武門とはいわないだろうな。いまだに武門がどうとうそぶくが、
芸事などをまったくたしなまない、珍しい武門もあると、笑いが起こる。
〜〜
遠き声 いま身のうちに 起こりおり
やおらにわかも 庭無き箱屋
〜〜〜
>>41の曲感想をかかなったのは、精神の修練が適わず、
前と同じレベルに心の状態があるということですね。
カス地蔵は真正キ印
こいつの言っていることはすべて妄想・妄言
こいつの言っていることはすべて妄想・妄言
ルサンチマンを原動力とした言行からは、
何らの成長も見込めはしない。
何らの成長も見込めはしない。
現実から目をそらしての妄想へと逃げ込むものが、己れの妄想の内側で帰依している
神への信仰を真摯なものとしたりしたならば、それが逆に、現実における自らの
悪業に対する無視を盤石化させる効果を持ち合わせることにすらなってしまう。
そこまで、架空の超越神への帰依を体系的に盤石化させるということ自体、まともな
人間のすることではない。ただ頭がおかしくなってしまっているというだけでなく、
妄想の内側でこそ大層な「神の物語」を捏造していかなければならなくなってしまった
それなりの事情というものが伴っているのでなければ、とうてい成せることではない。
古代オリエント社会に巣食う政商犯としての立場に身を窶していた古代のユダヤ人
などには、そんなものを構築していってしまうほどもの事情があった。現実に目を
向ければ、自分たちが諸国の王侯とつるんでやらかしている無駄な大事業や戦争に
かかずらわされて死ぬほど嫌な思いをさせられている人々の姿ばかりが目に付く。
かといって、政商犯としての自分たちが威力を発揮できるのはそのような無駄な
ほどにも甚大な政財癒着の事業への協力ぐらいなものだから、そのせいで人々が
極度の疲弊に晒されていることにも目を背けていくようにしなければならない。
その結果として、妄想上に「自分たちこそを選民として庇護してくれる超越神」
などというものをでっち上げて、ユダヤ教という信教の範疇でその神を祀る祭壇
などもこしらえて、体系的に帰依して行く手段すらをも整えて行ったのだった。
もちろん、そんな神への帰依の仕方などが、神仏帰依一般のあり方などであるわけでもない。
むしろ天下国家の現実からの泰平や繁栄を祈願するための帰依対象となる神仏などのほうが
一般的な存在であり、神道や道教やヒンズー教などで祀られている神などもそのような条件を
ほぼ満たしている。全ての神が必ずしも国家鎮護を旗印に掲げているわけではないにしても、
少なくとも天下の安寧を害するほどもの邪までをも帯びたりはしないようになっている。
神への信仰を真摯なものとしたりしたならば、それが逆に、現実における自らの
悪業に対する無視を盤石化させる効果を持ち合わせることにすらなってしまう。
そこまで、架空の超越神への帰依を体系的に盤石化させるということ自体、まともな
人間のすることではない。ただ頭がおかしくなってしまっているというだけでなく、
妄想の内側でこそ大層な「神の物語」を捏造していかなければならなくなってしまった
それなりの事情というものが伴っているのでなければ、とうてい成せることではない。
古代オリエント社会に巣食う政商犯としての立場に身を窶していた古代のユダヤ人
などには、そんなものを構築していってしまうほどもの事情があった。現実に目を
向ければ、自分たちが諸国の王侯とつるんでやらかしている無駄な大事業や戦争に
かかずらわされて死ぬほど嫌な思いをさせられている人々の姿ばかりが目に付く。
かといって、政商犯としての自分たちが威力を発揮できるのはそのような無駄な
ほどにも甚大な政財癒着の事業への協力ぐらいなものだから、そのせいで人々が
極度の疲弊に晒されていることにも目を背けていくようにしなければならない。
その結果として、妄想上に「自分たちこそを選民として庇護してくれる超越神」
などというものをでっち上げて、ユダヤ教という信教の範疇でその神を祀る祭壇
などもこしらえて、体系的に帰依して行く手段すらをも整えて行ったのだった。
もちろん、そんな神への帰依の仕方などが、神仏帰依一般のあり方などであるわけでもない。
むしろ天下国家の現実からの泰平や繁栄を祈願するための帰依対象となる神仏などのほうが
一般的な存在であり、神道や道教やヒンズー教などで祀られている神などもそのような条件を
ほぼ満たしている。全ての神が必ずしも国家鎮護を旗印に掲げているわけではないにしても、
少なくとも天下の安寧を害するほどもの邪までをも帯びたりはしないようになっている。
神仏帰依の敬虔さというものすらもが、自他の破滅を呼び込む原因になることがある。
ユダヤ教徒やキリスト教徒の神への帰依姿勢もまた敬虔なものだったりする。のみならず、
念仏信仰あたりよりは見てくれの敬虔さがより際立っていたりもする。にもかかわらず、
聖書の神への敬虔な帰依こそは、阿弥陀仏への帰依などによっては絶対にあり得ないような
禍いを招いてしまったりもする。神への帰依の人一倍の敬虔さこそが、それほどでもない
帰依以上もの禍いを招いてしまうのだから、そこに不条理すらをも感じてしまいかねない。
ただ、現実から目を背けるための神などに敬虔に帰依しようなどとしたことからして
すでに不条理の発端だったのであり、その敬虔さ故の破滅もまた、不条理のドミノ倒しと
いうばかりのものである。神への帰依の不条理な悪用であると共に、帰依の敬虔さの悪用でも
あった。悪用するぐらいなら敬虔な帰依などないほうがマシということであり、もしも善用
するというのなら、神仏への敬虔な帰依が無信仰以上の好影響を持つことだって当然あり得る。
しかし、「ある種の神」への敬虔な帰依こそが地球規模の破滅を招いてしまっている昨今、
神仏への敬虔な帰依を善用することなどにまで配慮を及ばせるのもなかなか難しいことである。
せっかく聖書の神に敬虔に帰依して来たのに、その果報たるや惨憺たるものだった、だから
もう神なんか信じないと短絡化してしまう人間なども多発してしまうことが避けられないだろう。
今はまだそれでも仕方ないとして、いつかはまた、人々が(まともな)神仏への帰依に帰って
来られるように、新しい世界を司る為政者の側が計らってやるようにすればいいのである。
「親に悦ばるるに道有り。身に反りて誠ならざれば親に悦ばれず。
身に誠なるに道有り。善に明らかならざればその身に誠ならず」
「親に喜ばれるのにも道というものがある。わが身に省みて誠があるのでなければ
親に喜ばれもしない。わが身に誠が伴うのにも道というものがある。自らが善に明らかで
あるのでなければわが身に誠が伴いもしない。(聖書の神は善に暗い者の帰依にも誠が
伴っていると認めるが、実の親はそんなものが誠であるなどとは認めないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一二より)
ユダヤ教徒やキリスト教徒の神への帰依姿勢もまた敬虔なものだったりする。のみならず、
念仏信仰あたりよりは見てくれの敬虔さがより際立っていたりもする。にもかかわらず、
聖書の神への敬虔な帰依こそは、阿弥陀仏への帰依などによっては絶対にあり得ないような
禍いを招いてしまったりもする。神への帰依の人一倍の敬虔さこそが、それほどでもない
帰依以上もの禍いを招いてしまうのだから、そこに不条理すらをも感じてしまいかねない。
ただ、現実から目を背けるための神などに敬虔に帰依しようなどとしたことからして
すでに不条理の発端だったのであり、その敬虔さ故の破滅もまた、不条理のドミノ倒しと
いうばかりのものである。神への帰依の不条理な悪用であると共に、帰依の敬虔さの悪用でも
あった。悪用するぐらいなら敬虔な帰依などないほうがマシということであり、もしも善用
するというのなら、神仏への敬虔な帰依が無信仰以上の好影響を持つことだって当然あり得る。
しかし、「ある種の神」への敬虔な帰依こそが地球規模の破滅を招いてしまっている昨今、
神仏への敬虔な帰依を善用することなどにまで配慮を及ばせるのもなかなか難しいことである。
せっかく聖書の神に敬虔に帰依して来たのに、その果報たるや惨憺たるものだった、だから
もう神なんか信じないと短絡化してしまう人間なども多発してしまうことが避けられないだろう。
今はまだそれでも仕方ないとして、いつかはまた、人々が(まともな)神仏への帰依に帰って
来られるように、新しい世界を司る為政者の側が計らってやるようにすればいいのである。
「親に悦ばるるに道有り。身に反りて誠ならざれば親に悦ばれず。
身に誠なるに道有り。善に明らかならざればその身に誠ならず」
「親に喜ばれるのにも道というものがある。わが身に省みて誠があるのでなければ
親に喜ばれもしない。わが身に誠が伴うのにも道というものがある。自らが善に明らかで
あるのでなければわが身に誠が伴いもしない。(聖書の神は善に暗い者の帰依にも誠が
伴っていると認めるが、実の親はそんなものが誠であるなどとは認めないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一二より)
磔刑への恐怖が極まって、知能がIQ40以下にまで退行することに喜びを感じる者がいるとすれば、
それは、動物レベルの低能によって世の中の問題が理解できなくなることがマシに
感じられるほどにも、世の中のほうが陰惨化してしまっていたりするからである。
ただ、そこまで人間が作為的に低能化するためには、一定以上の精神薄弱までもが共に必要となる。
そしてその精神薄弱こそは、世の中の実情をよく理解もしないままでの経済的な犯罪行為などに
及ぶ原因ともなってしまう。資本主義国の人間による極度の富の寡占によって毎年1000万人以上もの
餓死者が発生していることなどについても、別に全ての資本主義者にとっての確信犯だったりするわけ
ではなく、大局規模の世の中の実情を把握もできない精神薄弱に基づく過失犯だったりもするわけで、
知能退行をもたらすほどの精神薄弱こそは、世の中の陰惨化をもたらす原因ともなっているのである。
確信犯であると見なす他ないほどにも、金融犯罪の主導的な立場にある人間などはごく少数であり、
だからこその極刑に服す必要のある人間なども確かに限られているが、だからといって、過失犯
として資本主義の横暴に与した多くの人間を全くの無罪放免に処していいなどとまでもいえない。
それらの人間もまた、世の中の大局を計り知ることもできないレベルの精神薄弱と、にもかかわらず
旺盛な社会的活動を試みようとする心根の不埒さとを兼ね備えてしまっているわけだから、それに応じて、
精神薄弱の矯正や社会活動の制限といった措置を講じてやる必要がある。精神薄弱を十分に克服できた者
から社会的制限を緩和し、克服できないでいる者には制限を課し続けるといった風にしていくようにする。
そうして、徐々に世の中のほうが、動物レベルの知能退行での現実逃避に喜びを感じたりしないで
いられるほどにも、マシなものとなって行く。むしろ、知能退行による現実逃避などを人としての恥と
考えられるようになる。精神薄弱こそが全てをもたらしていた、「陰惨な世の中での知能退行による
現実逃避の喜び」というマッチポンプが丸ごとこの世から排されることで、そうなっていくようになる。
それは、動物レベルの低能によって世の中の問題が理解できなくなることがマシに
感じられるほどにも、世の中のほうが陰惨化してしまっていたりするからである。
ただ、そこまで人間が作為的に低能化するためには、一定以上の精神薄弱までもが共に必要となる。
そしてその精神薄弱こそは、世の中の実情をよく理解もしないままでの経済的な犯罪行為などに
及ぶ原因ともなってしまう。資本主義国の人間による極度の富の寡占によって毎年1000万人以上もの
餓死者が発生していることなどについても、別に全ての資本主義者にとっての確信犯だったりするわけ
ではなく、大局規模の世の中の実情を把握もできない精神薄弱に基づく過失犯だったりもするわけで、
知能退行をもたらすほどの精神薄弱こそは、世の中の陰惨化をもたらす原因ともなっているのである。
確信犯であると見なす他ないほどにも、金融犯罪の主導的な立場にある人間などはごく少数であり、
だからこその極刑に服す必要のある人間なども確かに限られているが、だからといって、過失犯
として資本主義の横暴に与した多くの人間を全くの無罪放免に処していいなどとまでもいえない。
それらの人間もまた、世の中の大局を計り知ることもできないレベルの精神薄弱と、にもかかわらず
旺盛な社会的活動を試みようとする心根の不埒さとを兼ね備えてしまっているわけだから、それに応じて、
精神薄弱の矯正や社会活動の制限といった措置を講じてやる必要がある。精神薄弱を十分に克服できた者
から社会的制限を緩和し、克服できないでいる者には制限を課し続けるといった風にしていくようにする。
そうして、徐々に世の中のほうが、動物レベルの知能退行での現実逃避に喜びを感じたりしないで
いられるほどにも、マシなものとなって行く。むしろ、知能退行による現実逃避などを人としての恥と
考えられるようになる。精神薄弱こそが全てをもたらしていた、「陰惨な世の中での知能退行による
現実逃避の喜び」というマッチポンプが丸ごとこの世から排されることで、そうなっていくようになる。
人間が世の中を健全に営んでいくためには、必ず一定以上の精神力が必要となる。文明社会というもの
からして人間にこそ特有のものであり、動物レベルの知能で作り上げられたりするようなものではない。
ライオンやクマのような猛獣ですら、大きな音や火を恐れたりするほどにも臆病であり、人間にこそ
特有な精神力の旺盛さに根ざした大勇などを抱けたりすることもない。人間こそは万物の霊長であるが、
そうあらしめているのも他でもない、動物以上にも突出した精神力の高さなのであり、その精神力に
よってのみ、発達した脳が司っている知能を健全に活用していくことまでもが可能となるのである。
人間としての発達した知能に見合った精神力が伴っている場合にのみ、人は健全な社会活動を営むことが
できる。そうであるからには、精神力の旺盛な人間にほど大きな社会的役割を担わせるべきであり、
貧弱な精神力しか持ち合わせていないような人間は軽い役割や無役に止めさせるべきだといえる。
知能自体は、四書五経を読みこなせる程度の能力があれば十分である。それ以上の知能があっても
精神のほうが薄弱だったりするようじゃ、大いなる悪知恵を存分に悪用するようなことになるだけだし、
高度な知能も精神力も兼ね備えているとした所で、社会的な大役などよりは、高僧としての大成あたり
のほうが見合うことになる。突出した知能の高さがかえって、仁者同士の和を乱すようなことにすら
なりかねないから、高度な知能も精神力もあるような人間は、もはや全ての俗人が畏敬するに値する
ような立場にいてくれてもらったほうがよかったりするのである。旺盛な精神力と高度な知能を
兼ね備えている人間などというものがどうしたって少数派であらざるを得ないからこそ、そう言えるのだ。
からして人間にこそ特有のものであり、動物レベルの知能で作り上げられたりするようなものではない。
ライオンやクマのような猛獣ですら、大きな音や火を恐れたりするほどにも臆病であり、人間にこそ
特有な精神力の旺盛さに根ざした大勇などを抱けたりすることもない。人間こそは万物の霊長であるが、
そうあらしめているのも他でもない、動物以上にも突出した精神力の高さなのであり、その精神力に
よってのみ、発達した脳が司っている知能を健全に活用していくことまでもが可能となるのである。
人間としての発達した知能に見合った精神力が伴っている場合にのみ、人は健全な社会活動を営むことが
できる。そうであるからには、精神力の旺盛な人間にほど大きな社会的役割を担わせるべきであり、
貧弱な精神力しか持ち合わせていないような人間は軽い役割や無役に止めさせるべきだといえる。
知能自体は、四書五経を読みこなせる程度の能力があれば十分である。それ以上の知能があっても
精神のほうが薄弱だったりするようじゃ、大いなる悪知恵を存分に悪用するようなことになるだけだし、
高度な知能も精神力も兼ね備えているとした所で、社会的な大役などよりは、高僧としての大成あたり
のほうが見合うことになる。突出した知能の高さがかえって、仁者同士の和を乱すようなことにすら
なりかねないから、高度な知能も精神力もあるような人間は、もはや全ての俗人が畏敬するに値する
ような立場にいてくれてもらったほうがよかったりするのである。旺盛な精神力と高度な知能を
兼ね備えている人間などというものがどうしたって少数派であらざるを得ないからこそ、そう言えるのだ。
「山に漆有り、隰に栗有り。子に酒食有り、何ぞ日に瑟を鼓かざる。
且つ以て喜び楽しみ、且く以て日を永くせよ。宛に其れ死せば、他人の室に入らん」
「山には漆の木があり、沢には栗の木がある。子供にやる酒食すら有り余る程だというのに、
どうして琴を弾いて楽しみもしないのか。喜び楽しみ、のんびりすごせばいいではないか。
どうせ死ねば全て他人のものになるのだから。(喜楽の儚さを開き直りつつ諦観している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・唐風・山有枢より)
且つ以て喜び楽しみ、且く以て日を永くせよ。宛に其れ死せば、他人の室に入らん」
「山には漆の木があり、沢には栗の木がある。子供にやる酒食すら有り余る程だというのに、
どうして琴を弾いて楽しみもしないのか。喜び楽しみ、のんびりすごせばいいではないか。
どうせ死ねば全て他人のものになるのだから。(喜楽の儚さを開き直りつつ諦観している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・唐風・山有枢より)
場違いな事なかれ主義こそが、だらしない乱世の存続に一役買ってしまうことがあるとは、
すでに何度か述べたことである。世の中に大いなる悪影響を及ぼしている権力犯罪者が
個人的に徹底的な警護下に置かれたりすることが、本人の平和と引き換えの乱世の持続に
加担してしまうのはもちろんのこと、ただ特定の人物や集団に対する過剰な警備が
敷かれているというだけでも、警備にかかる費用が多大なる負担を世の中にかけて、
経済的な困窮を原因とした乱世をもたらしてしまったりもするのである。
そういうことがないようにするためにこそ、孟子のような大勇による、荀子のような過剰な臆病さの
駆逐が必要となるのである。「君子は戦いを欲しないが、戦う以上は必ず勝つ(孟子)」という心持ちで、
「戦うものはただそれだけでも親を無みしたも同然である(荀子)」などという行き過ぎた平和志向を排する。
いずれにしろ好戦主義でまであってはいけないことには変わりないわけだが、いついかなる場合に
おいても戦闘の意義を否定する女子供のような性根のままに社会的な権能すらをも持ちえたならば、
それが今度は防護過剰による経費増大のような弊害を招くことともなってしまう、これこそは
「過ぎたるはなお及ばざるが如し」の典型ともなっているわけだから、そういうことが
なくて済む程度の戦いに対する覚悟ぐらいは社会人として持ち合わせているべきだといえる。
本格的な乱世の鎮圧のためにこそ、社会人が一定以上の勇気を持ち合わせている必要がある。
これは、「それが抑止力になるから」などという理由にすら基づかない。「過剰防護を省くことによる
経費削減」というより切実な理由に基づいている。一方、今の国際社会で最大級の抑止力を持ち合わせて
いる核ミサイルなども、今となっては北朝鮮のような貧国が保有できるほどにも安上がりな部類の
兵器となっているが、大量破壊兵器としてのその性能を最も穏健に活用していくために必要となるのも、
やはり一定以上の臨戦に対する勇気ではある。その勇気がなければ、先の大戦の頃のアメリカのように、
数多の民間人の頭上に原爆を落とすようなヒステリー状態の蛮行に及んだりもしてしまいかねないから。
(今またあれと同じことをやらかしたなら、核攻撃の応酬による人類の滅亡すらもが免れられない)
すでに何度か述べたことである。世の中に大いなる悪影響を及ぼしている権力犯罪者が
個人的に徹底的な警護下に置かれたりすることが、本人の平和と引き換えの乱世の持続に
加担してしまうのはもちろんのこと、ただ特定の人物や集団に対する過剰な警備が
敷かれているというだけでも、警備にかかる費用が多大なる負担を世の中にかけて、
経済的な困窮を原因とした乱世をもたらしてしまったりもするのである。
そういうことがないようにするためにこそ、孟子のような大勇による、荀子のような過剰な臆病さの
駆逐が必要となるのである。「君子は戦いを欲しないが、戦う以上は必ず勝つ(孟子)」という心持ちで、
「戦うものはただそれだけでも親を無みしたも同然である(荀子)」などという行き過ぎた平和志向を排する。
いずれにしろ好戦主義でまであってはいけないことには変わりないわけだが、いついかなる場合に
おいても戦闘の意義を否定する女子供のような性根のままに社会的な権能すらをも持ちえたならば、
それが今度は防護過剰による経費増大のような弊害を招くことともなってしまう、これこそは
「過ぎたるはなお及ばざるが如し」の典型ともなっているわけだから、そういうことが
なくて済む程度の戦いに対する覚悟ぐらいは社会人として持ち合わせているべきだといえる。
本格的な乱世の鎮圧のためにこそ、社会人が一定以上の勇気を持ち合わせている必要がある。
これは、「それが抑止力になるから」などという理由にすら基づかない。「過剰防護を省くことによる
経費削減」というより切実な理由に基づいている。一方、今の国際社会で最大級の抑止力を持ち合わせて
いる核ミサイルなども、今となっては北朝鮮のような貧国が保有できるほどにも安上がりな部類の
兵器となっているが、大量破壊兵器としてのその性能を最も穏健に活用していくために必要となるのも、
やはり一定以上の臨戦に対する勇気ではある。その勇気がなければ、先の大戦の頃のアメリカのように、
数多の民間人の頭上に原爆を落とすようなヒステリー状態の蛮行に及んだりもしてしまいかねないから。
(今またあれと同じことをやらかしたなら、核攻撃の応酬による人類の滅亡すらもが免れられない)
世の中を構成する社会人に一定以上の勇気が備わっていたならば、それが過剰防衛を抑制するから
世の中にかける負担が減って乱世の予防になるというのが第一、そして上に述べたように、核兵器を
含む武器なり兵器なりを適切に扱うことが可能となるために、それがヒステリーからなる動乱の予防に
なるというのが第二。主にこれらの理由によって、勇気こそが世界規模の平和の立役者となり得る。
一方で、それだけの勇気を常日頃から持ち合わせていることができるのは、十分な修練を積んだ
大人の男に限られている。成人男性といえども不可能な者には不可能であり、女子供ともなれば
ほぼ100%不可能である。だから結局、人々の勇気によって世界の平和を確立して行くためには、
世の中を司るような重職には総じて立派な大人の男だけが就くようにし、女子供や小人男は相当に
譲ったところに居るようにしなければならない。基本、戦い嫌いである女などが重職に就いたから
といって、それで乱世が深刻化するなどとは短絡的には考えにくいことだろうが、むしろその過剰な
戦い嫌いこそが過剰防衛による経費の増大だとか、ヒステリックで無鉄砲な攻撃だとかを呼び込んで、
持続的な乱世の到来に加担してしまうといったことが世の中の普遍法則としてあるのである。
益荒男の大勇こそは治世の礎ともなるのだから、その牙を折るような真似をしていいわけもない。
武士には帯刀が許されていたような形で、その勇気の養生にすら勤めさせるべきである。そして
そのような人一倍勇気を増大させた益荒男の後援者としての優秀さを、妻となる女などが
磨いて行くようにしなければならない。自分たちが重職に就けなくなったからといって、
ただ安穏としていればいいのではなく、むしろ今まで以上もの「身の程をわきまえた精進」
にこそ励まなければならない。そしてそれが、女なりの平和への貢献ともなっていくのである。
「辞無くして情を行えば、則ち民争う」
「譲り合いの心もなく情のままに行えば、民たちも争う。
(聖書の神の選別志向な救済の提示、それに群がってただ自分が豊かになろうと
するような人間の多発化こそは、世の中に無益な争いをもたらす劣情の元凶となる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・坊記第三十より)
世の中にかける負担が減って乱世の予防になるというのが第一、そして上に述べたように、核兵器を
含む武器なり兵器なりを適切に扱うことが可能となるために、それがヒステリーからなる動乱の予防に
なるというのが第二。主にこれらの理由によって、勇気こそが世界規模の平和の立役者となり得る。
一方で、それだけの勇気を常日頃から持ち合わせていることができるのは、十分な修練を積んだ
大人の男に限られている。成人男性といえども不可能な者には不可能であり、女子供ともなれば
ほぼ100%不可能である。だから結局、人々の勇気によって世界の平和を確立して行くためには、
世の中を司るような重職には総じて立派な大人の男だけが就くようにし、女子供や小人男は相当に
譲ったところに居るようにしなければならない。基本、戦い嫌いである女などが重職に就いたから
といって、それで乱世が深刻化するなどとは短絡的には考えにくいことだろうが、むしろその過剰な
戦い嫌いこそが過剰防衛による経費の増大だとか、ヒステリックで無鉄砲な攻撃だとかを呼び込んで、
持続的な乱世の到来に加担してしまうといったことが世の中の普遍法則としてあるのである。
益荒男の大勇こそは治世の礎ともなるのだから、その牙を折るような真似をしていいわけもない。
武士には帯刀が許されていたような形で、その勇気の養生にすら勤めさせるべきである。そして
そのような人一倍勇気を増大させた益荒男の後援者としての優秀さを、妻となる女などが
磨いて行くようにしなければならない。自分たちが重職に就けなくなったからといって、
ただ安穏としていればいいのではなく、むしろ今まで以上もの「身の程をわきまえた精進」
にこそ励まなければならない。そしてそれが、女なりの平和への貢献ともなっていくのである。
「辞無くして情を行えば、則ち民争う」
「譲り合いの心もなく情のままに行えば、民たちも争う。
(聖書の神の選別志向な救済の提示、それに群がってただ自分が豊かになろうと
するような人間の多発化こそは、世の中に無益な争いをもたらす劣情の元凶となる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・坊記第三十より)
人間自身の精神だとか先祖だとか、日月星辰のごとき自然現象の普遍性だとかいったものを
神性の根源に見立てるならば、この世界この宇宙に「神」と見なせるものはいくらでもある。
日本神話やインド神話などで高位の神とされている神などは軒並みそうであり、低位の神や
妖怪などとして扱われる物も、カオス帯びた現象の具象化としてそれなりの意味が伴っている。
ギリシャ神話やローマ神話の神などは、東洋では妖怪程度のものとして扱われるような
ものがほとんどであり、あまり普遍的な高尚さを伴ってはいない。ただそれにしたって、
カオスを帯びた普遍現象の具象化としてはそれなりの意味合いを持ち合わせていて、
2500年以上に渡って語り継がれてきたなりの普遍性がそこにもあるといえる。
キリスト教やユダヤ教の神こそは、上記のような条件に即して「神」と見なせるものではない。
磔刑への恐怖が極まって知能が退行することを「神がかり」と見なしたり、単なる政商としての
威力の溜め込みを神に偽託していたりするのみであり、そこに何らの普遍的な神性というものが
伴っていないことが確実である。にもかかわらずそれこそを「神」と見なすものがいるのは、
精神の危機や罪業からの逃避だとかの、本人たちにとっての負の理由があるからである。
どうして、聖書の神が存在しないからといって、この世に神など存在しないなどとまで
決め付けたりすることができようか。聖書の神が神として扱われる所以よりも、上記のような
定義に基づく神が神たる所以のほうが、よっぽど神秘的である。精神薄弱や罪業逃避に駆られて
仕方なく唯一神として狂信する神などのほうが、よっぽど神として不純な存在であり、そんな
神によって他の神の価値をも無みしようなどとすることの失礼さと恥を知らねばならない。
神性の根源に見立てるならば、この世界この宇宙に「神」と見なせるものはいくらでもある。
日本神話やインド神話などで高位の神とされている神などは軒並みそうであり、低位の神や
妖怪などとして扱われる物も、カオス帯びた現象の具象化としてそれなりの意味が伴っている。
ギリシャ神話やローマ神話の神などは、東洋では妖怪程度のものとして扱われるような
ものがほとんどであり、あまり普遍的な高尚さを伴ってはいない。ただそれにしたって、
カオスを帯びた普遍現象の具象化としてはそれなりの意味合いを持ち合わせていて、
2500年以上に渡って語り継がれてきたなりの普遍性がそこにもあるといえる。
キリスト教やユダヤ教の神こそは、上記のような条件に即して「神」と見なせるものではない。
磔刑への恐怖が極まって知能が退行することを「神がかり」と見なしたり、単なる政商としての
威力の溜め込みを神に偽託していたりするのみであり、そこに何らの普遍的な神性というものが
伴っていないことが確実である。にもかかわらずそれこそを「神」と見なすものがいるのは、
精神の危機や罪業からの逃避だとかの、本人たちにとっての負の理由があるからである。
どうして、聖書の神が存在しないからといって、この世に神など存在しないなどとまで
決め付けたりすることができようか。聖書の神が神として扱われる所以よりも、上記のような
定義に基づく神が神たる所以のほうが、よっぽど神秘的である。精神薄弱や罪業逃避に駆られて
仕方なく唯一神として狂信する神などのほうが、よっぽど神として不純な存在であり、そんな
神によって他の神の価値をも無みしようなどとすることの失礼さと恥を知らねばならない。
聖書の神が不正で非実在だから、全ての神もまた非実在であるなどと見なしてしまうこと、
これが自殺衝動を伴うような虚無感の原因となる。それは、聖書の神こそを唯一至上の神で
あるなどと見なすことのみならず、そのような考え方を多少なりとも是認してきただけの
ことによってですら来たしかねないことである。今の日本人などもキリスト教徒でまである
人間は少数に止まるが、キリスト教徒のようなあり方を是認している人間となればほとんど
大多数となっている。「聖書の神こそは神の中の神」などという考え方を多少なりとも他人事
として容認してしまっているだけでも、聖書の神の非実在の証明に伴う虚無が避け難いものとなる。
そんな人間にとっては、ここでの自分の発言すらもが「読むに耐えない」とまではいかずとも、
やはり読んでいい気分になれるようなものでまではないであろう。自らの精神の安定条件の中に、
「聖書の神のような神も認める」という条件が多少なりとも含まれてしまっているからこそ、
それを非とすべきだとするここでの発言が、いい気分にまでは思えないのである。
ただそれを非とするだけなら、確かにつらい思いに駆られたりもするだろう。そこからさらに、
「聖書の神こそは神に値しない」「聖書の神以外の神こそは真に神と見なすに値する」という
所にまで考え方が是正して行けた時に初めて、聖書の神も神と認めていた頃以上もの精神の安定
が得られる。そしてそれこそは、人間にとっての本来のまともな精神の安住の場なのでもある。
聖書の神みたいな奇形的な神モドキを信じたり認めたりすることによっても、ある種の
精神的な安定が得られたりする、それも確かに人間にとっての特殊な機能ではあるが、それこそ、
致命傷を負った場合に痛覚神経が麻痺して痛みを感じなくなるようなものであり、決して健全な
精神の安住の場でまであるわけではない。そんなことにならず済むなら済ませるべきことなのだ。
これが自殺衝動を伴うような虚無感の原因となる。それは、聖書の神こそを唯一至上の神で
あるなどと見なすことのみならず、そのような考え方を多少なりとも是認してきただけの
ことによってですら来たしかねないことである。今の日本人などもキリスト教徒でまである
人間は少数に止まるが、キリスト教徒のようなあり方を是認している人間となればほとんど
大多数となっている。「聖書の神こそは神の中の神」などという考え方を多少なりとも他人事
として容認してしまっているだけでも、聖書の神の非実在の証明に伴う虚無が避け難いものとなる。
そんな人間にとっては、ここでの自分の発言すらもが「読むに耐えない」とまではいかずとも、
やはり読んでいい気分になれるようなものでまではないであろう。自らの精神の安定条件の中に、
「聖書の神のような神も認める」という条件が多少なりとも含まれてしまっているからこそ、
それを非とすべきだとするここでの発言が、いい気分にまでは思えないのである。
ただそれを非とするだけなら、確かにつらい思いに駆られたりもするだろう。そこからさらに、
「聖書の神こそは神に値しない」「聖書の神以外の神こそは真に神と見なすに値する」という
所にまで考え方が是正して行けた時に初めて、聖書の神も神と認めていた頃以上もの精神の安定
が得られる。そしてそれこそは、人間にとっての本来のまともな精神の安住の場なのでもある。
聖書の神みたいな奇形的な神モドキを信じたり認めたりすることによっても、ある種の
精神的な安定が得られたりする、それも確かに人間にとっての特殊な機能ではあるが、それこそ、
致命傷を負った場合に痛覚神経が麻痺して痛みを感じなくなるようなものであり、決して健全な
精神の安住の場でまであるわけではない。そんなことにならず済むなら済ませるべきことなのだ。
神などというものを一切信じもしなければ認めもしないなどという所で
精神の安定を保っていられる人間なども、実はそんなに多くないのである。
近代以降の科学至上主義の世の中で人々が神に頼らないでいられていたりするのも、
資本主義によって膨大な富をむさぼってそれで虚無感を紛らわしていたりするからである。
それができない資本主義後進国などでは、富をむさぼる代わりに性をむさぼり、
無軌道な乱交によって人口を爆発させてもいる。しかれば結局、人間社会というものを
安定的に統治していくためには、やはり神仏帰依といったものも多少は必要となるのだといえる。
であるからには、信じたり認めたりすべきでない神を排して、信じても害のないような神を
信じたり認めさせたりするようにして行くのみである。完全な泰平統治の便宜として。
「反ることを諸れ幽に望むは、諸れを鬼神に求むるの道なり」
「(死者の霊が)幽界に返ることを希望するのが、神に本来求めるべきことである。
(永遠の命を神に求めたりすることからしてすでに不正なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
精神の安定を保っていられる人間なども、実はそんなに多くないのである。
近代以降の科学至上主義の世の中で人々が神に頼らないでいられていたりするのも、
資本主義によって膨大な富をむさぼってそれで虚無感を紛らわしていたりするからである。
それができない資本主義後進国などでは、富をむさぼる代わりに性をむさぼり、
無軌道な乱交によって人口を爆発させてもいる。しかれば結局、人間社会というものを
安定的に統治していくためには、やはり神仏帰依といったものも多少は必要となるのだといえる。
であるからには、信じたり認めたりすべきでない神を排して、信じても害のないような神を
信じたり認めさせたりするようにして行くのみである。完全な泰平統治の便宜として。
「反ることを諸れ幽に望むは、諸れを鬼神に求むるの道なり」
「(死者の霊が)幽界に返ることを希望するのが、神に本来求めるべきことである。
(永遠の命を神に求めたりすることからしてすでに不正なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
乱世には依存的な気休めというものが付き物であり、そこに数多の利権すらもが生ずる。
昔の日本でも、貧農の多い地域の庄屋が造り酒屋を兼業して百姓たちに安酒を配り、
貧しさの気休めにさせるなどということがあった。酒なんかで気休めさせるよりは、
健全な農地経営で百姓たちにもそんなに貧しい思いをさせないようにすることの
ほうが最善となるわけだから、決して褒められたような所業ではなかったといえる。
それをさらにひどくしたような状態にあるのが今のメキシコなどであり、FTA協定で
アメリカに権益をごっそり持って行かれて自国の産業が壊滅状態となり、人々は麻薬に
依存することで困窮の苦しみを紛らわし、麻薬カルテルの強大化をも招いてしまっている。
(自分たちの国こそがもたらしたものだから、米軍なども手を出しあぐねたままでいる)
麻薬だ酒だはまだ気休めとして分かりやすいが、宗教も似たような意味での依存的な
気休めの対象となる場合がある。ただ乱世の気休めになるだけでなく、自分たちこそが
乱世を招いて慢性化させる元凶とすらなる。農地経営よりも造り酒屋のほうに執心する
庄屋だとか、FTA参加によって自国の経済的壊滅と麻薬漬け状態を共に招いた今の
メキシコの権力者のような存在性を、ある種の宗教というものが持ち得るのである。
そしてそれはもう、あって当たり前な普通の宗教の一つとして、今の世界を蝕んでいる。
口先だけの気休めで信者たちにいい思いをさせつつ、自分たちが乱世を招き、乱世だから
こそせしめられる私的な利益の貪りに執心する。造り酒屋を兼業していた庄屋なども、
貧農に酒をタダで配るわけではなく、それなりの値段で売りつけていたわけだから、
それによって自分たちがより大きな私益をもせしめられていた。健全な農地経営なんか
に専念しているよりも、そのほうがよっぽど儲けになるじゃないかということで、百姓の
世話人としての庄屋の本分を蔑ろにした有り様でいた。それと同じような過ちを、世の中
や人間のあり方を教義的な指針によって指し示す宗教というものが犯していたりもするのだ。
昔の日本でも、貧農の多い地域の庄屋が造り酒屋を兼業して百姓たちに安酒を配り、
貧しさの気休めにさせるなどということがあった。酒なんかで気休めさせるよりは、
健全な農地経営で百姓たちにもそんなに貧しい思いをさせないようにすることの
ほうが最善となるわけだから、決して褒められたような所業ではなかったといえる。
それをさらにひどくしたような状態にあるのが今のメキシコなどであり、FTA協定で
アメリカに権益をごっそり持って行かれて自国の産業が壊滅状態となり、人々は麻薬に
依存することで困窮の苦しみを紛らわし、麻薬カルテルの強大化をも招いてしまっている。
(自分たちの国こそがもたらしたものだから、米軍なども手を出しあぐねたままでいる)
麻薬だ酒だはまだ気休めとして分かりやすいが、宗教も似たような意味での依存的な
気休めの対象となる場合がある。ただ乱世の気休めになるだけでなく、自分たちこそが
乱世を招いて慢性化させる元凶とすらなる。農地経営よりも造り酒屋のほうに執心する
庄屋だとか、FTA参加によって自国の経済的壊滅と麻薬漬け状態を共に招いた今の
メキシコの権力者のような存在性を、ある種の宗教というものが持ち得るのである。
そしてそれはもう、あって当たり前な普通の宗教の一つとして、今の世界を蝕んでいる。
口先だけの気休めで信者たちにいい思いをさせつつ、自分たちが乱世を招き、乱世だから
こそせしめられる私的な利益の貪りに執心する。造り酒屋を兼業していた庄屋なども、
貧農に酒をタダで配るわけではなく、それなりの値段で売りつけていたわけだから、
それによって自分たちがより大きな私益をもせしめられていた。健全な農地経営なんか
に専念しているよりも、そのほうがよっぽど儲けになるじゃないかということで、百姓の
世話人としての庄屋の本分を蔑ろにした有り様でいた。それと同じような過ちを、世の中
や人間のあり方を教義的な指針によって指し示す宗教というものが犯していたりもするのだ。
世の中や国家や農地の健全な経営に務めたりするよりも、自分たちの怠惰のせいで社会的困窮
を招いてしまった状態でのマッチポンプに執心していたほうが、自分たち自身の利益にはなる。
そこに味を占めてしまった庄屋だとか公権力者だとか宗教家だとかに対して、自主的な更生を
期待するのも、なかなか難しいことである。酒だ麻薬だ信仰だによって、自分たちが困窮に
追いやっている人々もそれなりに気を紛らわせられているからこそ、「このままでもいいじゃ
ないか」という気になって、いつまでもダラダラとした乱世を続けてしまいがちなのである。
そのような怠慢が極まって、餓死者すらもが多発してしまっている、さらには、紛らわしきれない
苦しみを乱交に仕向けて人口爆発すらをも来たしてしまっていて、このままでは世界も破滅に陥る。
だからもうこれ以上怠慢を続けさせるわけにもいかない。という今のような状態において、
まずはマッチポンプで暴利を巻き上げている今の世界の主導者に体質改善を警告してみるとする。
そこで一番致命的な頑迷さを来たすに違いないのが、宗教的な指導者である。酒や麻薬での気休めを
人々に提供している人間などは、「分かっちゃいるけどやめられない」程度の心理状態でいるから、
「このままでは実力行使による矯正も辞さない」とまでいえば、是正にも取り組み得るものだ。
しかし、邪教によって暴利を巻き上げている宗教家ともなれば、自分たち自身が信念を持って
それに取り組んでいたりするものだから、自己矯正のしようもなかったりする。だからもう、
軍事行動を含む実力行使によって現状を強制的に打開して行く他なかったりするのである。
麻薬や酒を利用している場合もあるが、今の世界で「至上の気休め」の座にあるのは、やはり
ある種の信教である。麻薬漬け状態の今のメキシコでも、ドクロ化したマリア像を崇めるような
カルト宗教が流行っていたりもするという。麻薬や酒で人々を不健全な気休めに溺れさせていようと
すること自体、ある種のカルト的な理念にも即していたりするわけだから、やはり信教こそは要である。
乱世と気休めのマッチポンプの要。そんな役割を果たすような宗教にまで自由があっていいはずもない。
を招いてしまった状態でのマッチポンプに執心していたほうが、自分たち自身の利益にはなる。
そこに味を占めてしまった庄屋だとか公権力者だとか宗教家だとかに対して、自主的な更生を
期待するのも、なかなか難しいことである。酒だ麻薬だ信仰だによって、自分たちが困窮に
追いやっている人々もそれなりに気を紛らわせられているからこそ、「このままでもいいじゃ
ないか」という気になって、いつまでもダラダラとした乱世を続けてしまいがちなのである。
そのような怠慢が極まって、餓死者すらもが多発してしまっている、さらには、紛らわしきれない
苦しみを乱交に仕向けて人口爆発すらをも来たしてしまっていて、このままでは世界も破滅に陥る。
だからもうこれ以上怠慢を続けさせるわけにもいかない。という今のような状態において、
まずはマッチポンプで暴利を巻き上げている今の世界の主導者に体質改善を警告してみるとする。
そこで一番致命的な頑迷さを来たすに違いないのが、宗教的な指導者である。酒や麻薬での気休めを
人々に提供している人間などは、「分かっちゃいるけどやめられない」程度の心理状態でいるから、
「このままでは実力行使による矯正も辞さない」とまでいえば、是正にも取り組み得るものだ。
しかし、邪教によって暴利を巻き上げている宗教家ともなれば、自分たち自身が信念を持って
それに取り組んでいたりするものだから、自己矯正のしようもなかったりする。だからもう、
軍事行動を含む実力行使によって現状を強制的に打開して行く他なかったりするのである。
麻薬や酒を利用している場合もあるが、今の世界で「至上の気休め」の座にあるのは、やはり
ある種の信教である。麻薬漬け状態の今のメキシコでも、ドクロ化したマリア像を崇めるような
カルト宗教が流行っていたりもするという。麻薬や酒で人々を不健全な気休めに溺れさせていようと
すること自体、ある種のカルト的な理念にも即していたりするわけだから、やはり信教こそは要である。
乱世と気休めのマッチポンプの要。そんな役割を果たすような宗教にまで自由があっていいはずもない。
「陰は美有ると雖も、之れを含んで以て王事に従い、敢えて成す弗きなり。
地の道なり、妻の道なり、臣の道なり。地の道は成すこと无くして代わり、終わり有るなり」
「(他者に拠り頼む)陰の立場にあるものは、自らに善美な部分があるとしてもそれを隠して
ことさら主君の命に従い、あえて自分からは何もしようとはしない。天地でいえば地の道であり、
夫妻でいえば妻の道であり、君臣でいえば臣下の道である。地の道は自分からは何も成すこと
なくして受動的にのみ変化し、それだけで有終の美を飾る。(他力本願の者こそは終わり有れ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・文言伝より)
地の道なり、妻の道なり、臣の道なり。地の道は成すこと无くして代わり、終わり有るなり」
「(他者に拠り頼む)陰の立場にあるものは、自らに善美な部分があるとしてもそれを隠して
ことさら主君の命に従い、あえて自分からは何もしようとはしない。天地でいえば地の道であり、
夫妻でいえば妻の道であり、君臣でいえば臣下の道である。地の道は自分からは何も成すこと
なくして受動的にのみ変化し、それだけで有終の美を飾る。(他力本願の者こそは終わり有れ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・文言伝より)
存在の耐えられない軽さ
[YouTubeで再生]
孔子は、諸侯の専横によって廃れかかっていた夏殷周の礼楽文化の存続を企図して、
自らこそがその保全のための活動に従事し、六経(現存するのは五経)や儒学の体系化を果たした。
本人自身はいち民間人に過ぎなかったわけだが、公権力者たちが礼楽文化の保全を疎かに
しつつあったものだから、孔子のような立場の人間がその保全役を担わざるを得なかった。
故に、古代中国文化の孔子への継承もまた、一種の正統な継承であらざるを得なかったわけである。
ヴェーダやウパニシャッドなどを根本とするインドの古代文化はといえば、こちらは今に至るまで
バラモン階級に当たるような人間が継承し続けて来ている。一時、仏教の隆盛に押されて勢力を
弱めていた頃もあったが、それでもマハーバーラタやシャンカラ哲学などによる補強を通じて
その沽券を保ち続けている。そして、古代のインド文化をも参考に仏教を創始した釈迦のほうも、
ヴェーダやウパニシャッドの論説とは袂を分かった独自の出家哲学を展開して行った。
俗世における最上位のカーストとしてのバラモンの立場にも配慮しつつ、万人の平等と
自由とを実現する超俗の真理哲学というものを新たに醸成して行ったのである。
孔子のほうは、ほとんど已む無い理由によるにしろ、古代の中国文化の正統な継承であったのに対し、
釈迦のほうはといえば、古代からの伝統的なインド文化とは袂を分かっての新たな文化の興隆であった。
これらはいずれも文句の付けようのない文化の扱い方であったといえる。このようなあり方に反して、
既存の文化を勝手に自分のものだなどと豪語して略奪したりするようなことがあったとしたならば、
それはもう、文化を司る者のあり方として致命的な問題性を帯びていることになるのである。

自らこそがその保全のための活動に従事し、六経(現存するのは五経)や儒学の体系化を果たした。
本人自身はいち民間人に過ぎなかったわけだが、公権力者たちが礼楽文化の保全を疎かに
しつつあったものだから、孔子のような立場の人間がその保全役を担わざるを得なかった。
故に、古代中国文化の孔子への継承もまた、一種の正統な継承であらざるを得なかったわけである。
ヴェーダやウパニシャッドなどを根本とするインドの古代文化はといえば、こちらは今に至るまで
バラモン階級に当たるような人間が継承し続けて来ている。一時、仏教の隆盛に押されて勢力を
弱めていた頃もあったが、それでもマハーバーラタやシャンカラ哲学などによる補強を通じて
その沽券を保ち続けている。そして、古代のインド文化をも参考に仏教を創始した釈迦のほうも、
ヴェーダやウパニシャッドの論説とは袂を分かった独自の出家哲学を展開して行った。
俗世における最上位のカーストとしてのバラモンの立場にも配慮しつつ、万人の平等と
自由とを実現する超俗の真理哲学というものを新たに醸成して行ったのである。
孔子のほうは、ほとんど已む無い理由によるにしろ、古代の中国文化の正統な継承であったのに対し、
釈迦のほうはといえば、古代からの伝統的なインド文化とは袂を分かっての新たな文化の興隆であった。
これらはいずれも文句の付けようのない文化の扱い方であったといえる。このようなあり方に反して、
既存の文化を勝手に自分のものだなどと豪語して略奪したりするようなことがあったとしたならば、
それはもう、文化を司る者のあり方として致命的な問題性を帯びていることになるのである。
普遍的な真理や道理を指し示した言葉であるのなら、たとえそれが既成のものであっても、
真理や道理を志す者にとって極めて共感の置ける言葉だったりもするものである。しかし、
だからといってそれが自分ばかりにとってのものだったりするわけもない。真理や道理を窮めんと
する者誰しもにとっての金言であるに違いないのであり、独占する権利なども誰にもないのだといえる。
実際、本当に真理や道理を指し示した言葉ならば、不埒な独占意識など自然と解消させるだけの
納得がその理解に伴ってもいるはずである。未だ独占意欲などにかられたままでいたりするのなら、
そもそもその言葉が真理や道理に適った言葉ですらないか、もしくは言葉の本意を本人自身が理解
できていないかのいずれかに違いない。旧約の言葉を独占したがっていたイエスなんぞは、確かにその
意味をそれなりに理解してもいただろうが、真理にも道理にも全く反している旧約の言葉をそれなりに
理解しもした結果として、旺盛な独占意識をも持ち越したままでいただろうと考えられるのである。
洋学上の定理なり公式なりにも、「ピタゴラスの定理」「サラスの公式」などと発見者個人の名前を勝手に
付ける場合が非常に多い。「署名文化」といえば聞こえはいいが、要は、独占意欲タラタラな者たちに
よって拵えられて来た文化であるというばかりのこと。独占意識にまみれている時点で、本人たちが
真理を悟るほどもの納得下にあるなどということがなかったこともまた自明である。ピタゴラスの定理
こと三平方の定理なんざもただの概念上の定理であり、釈迦が「真理とは関係がない」としてあえて
論及を避けた「無記」に相当するものである。だから、そんなものがいくら数理的な普遍性を帯びている
からといって、真理の悟りに基づく大いなる納得などを理解者にもたらしたりすることもないのである。
真理や道理を志す者にとって極めて共感の置ける言葉だったりもするものである。しかし、
だからといってそれが自分ばかりにとってのものだったりするわけもない。真理や道理を窮めんと
する者誰しもにとっての金言であるに違いないのであり、独占する権利なども誰にもないのだといえる。
実際、本当に真理や道理を指し示した言葉ならば、不埒な独占意識など自然と解消させるだけの
納得がその理解に伴ってもいるはずである。未だ独占意欲などにかられたままでいたりするのなら、
そもそもその言葉が真理や道理に適った言葉ですらないか、もしくは言葉の本意を本人自身が理解
できていないかのいずれかに違いない。旧約の言葉を独占したがっていたイエスなんぞは、確かにその
意味をそれなりに理解してもいただろうが、真理にも道理にも全く反している旧約の言葉をそれなりに
理解しもした結果として、旺盛な独占意識をも持ち越したままでいただろうと考えられるのである。
洋学上の定理なり公式なりにも、「ピタゴラスの定理」「サラスの公式」などと発見者個人の名前を勝手に
付ける場合が非常に多い。「署名文化」といえば聞こえはいいが、要は、独占意欲タラタラな者たちに
よって拵えられて来た文化であるというばかりのこと。独占意識にまみれている時点で、本人たちが
真理を悟るほどもの納得下にあるなどということがなかったこともまた自明である。ピタゴラスの定理
こと三平方の定理なんざもただの概念上の定理であり、釈迦が「真理とは関係がない」としてあえて
論及を避けた「無記」に相当するものである。だから、そんなものがいくら数理的な普遍性を帯びている
からといって、真理の悟りに基づく大いなる納得などを理解者にもたらしたりすることもないのである。
真理や道理に即した言葉を好むか、そうでない言葉を好むかでいえば、当然前者のほうがよい。
ただ、そうした結果として、かえって不埒な独占意識は削がれていく。故に、
本物の金言こそはのめり込むように好き好まれるということもそうはないものである。
それで結局その受容の仕方も、孔子のようないたって平易なあり方に止まることとなる。
受容するのなら専らな受容に徹し、しないのなら一切より所にしたりもしない。
そういったメリハリが付くことによって、不埒な創作というものもまた排されて行く。
それは、邪曲にまみれた文化を好き勝手にこねくり回してきたような人間からすれば、
味気ないもののようにすら映りかねないわけだが、人間としての受容者たち自身の着実な
成長はむしろ、そのようなメリハリのきいた文化享受と共にのみ実現されて行くものである。
人としての着実な成長に基づく人生総出からの楽しみと引き換えに、
腐った文化をこね回す不健全な惑溺の楽しみからは卒業して行くのである。
「圭を執りては鞠躬如たり。勝えざるが如し。上ぐるは揖するが如く、下ぐるは授くるが如し。
勃如として戦色あり、足は蹜蹜如として循うこと有り。享礼には容色有り。私覿には愉愉如たり」
「孔先生は、(諸侯の特使として授けられた)圭を諸外国で取り扱う時はおそるおそる、自分には
持ちきれないような姿勢でおられた。上げるときも会釈する程度、下げるときもものを授けるように。
いつも緊張して戦かんばかりで、足取りも重々しく規則正しくされた。(もう少しざっくばらんとした
贈り物の儀式である)享の儀式ではだいぶ和やかな態度になられ、個人的な謁見ともなれば楽しげだった。
(公事と私事、公有と私有の厳格な区別。孔子の著した五経も古来の文化の保全にこそ最善が尽くされている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・五)
ただ、そうした結果として、かえって不埒な独占意識は削がれていく。故に、
本物の金言こそはのめり込むように好き好まれるということもそうはないものである。
それで結局その受容の仕方も、孔子のようないたって平易なあり方に止まることとなる。
受容するのなら専らな受容に徹し、しないのなら一切より所にしたりもしない。
そういったメリハリが付くことによって、不埒な創作というものもまた排されて行く。
それは、邪曲にまみれた文化を好き勝手にこねくり回してきたような人間からすれば、
味気ないもののようにすら映りかねないわけだが、人間としての受容者たち自身の着実な
成長はむしろ、そのようなメリハリのきいた文化享受と共にのみ実現されて行くものである。
人としての着実な成長に基づく人生総出からの楽しみと引き換えに、
腐った文化をこね回す不健全な惑溺の楽しみからは卒業して行くのである。
「圭を執りては鞠躬如たり。勝えざるが如し。上ぐるは揖するが如く、下ぐるは授くるが如し。
勃如として戦色あり、足は蹜蹜如として循うこと有り。享礼には容色有り。私覿には愉愉如たり」
「孔先生は、(諸侯の特使として授けられた)圭を諸外国で取り扱う時はおそるおそる、自分には
持ちきれないような姿勢でおられた。上げるときも会釈する程度、下げるときもものを授けるように。
いつも緊張して戦かんばかりで、足取りも重々しく規則正しくされた。(もう少しざっくばらんとした
贈り物の儀式である)享の儀式ではだいぶ和やかな態度になられ、個人的な謁見ともなれば楽しげだった。
(公事と私事、公有と私有の厳格な区別。孔子の著した五経も古来の文化の保全にこそ最善が尽くされている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・五)
人間、俗世で栄誉を追い求めるか、栄誉全般を超俗志向で諦観するかの二つに一つである。
あえて俗世で栄誉を求めないというのも小人だし、超俗での栄誉を求めよなんてのも何らかの
反社会組織の常套句ってなもんで、それこそ「ガン細胞人種」を生み出す元凶となってしまう。
世俗での道義性を伴った栄誉の獲得という儒家の本旨なども、正しい人間のあり方の一つだし、
全ての栄誉を捨て去っての超俗での精進という仏教の本旨なども、一つの正しいあり方だといえる。
本格の儒者や仏者としてそれを実践して行くのもある種の極例であり、そこまでいかない立場
(単なる仕事人や為政者)に即して上のようなあり方を模倣して行くことだって当然可能である。
ただ、上のようなあり方を実践していこうとする場合に、あまりにもその立場が不正である場合には、
結局大局規模での実践が叶うことなく、むしろ「ガン細胞人種」としての栄誉を追い求めることに
すらなってしまったりするのである。たとえば、商売人としての最大級の栄誉を追い求めた場合、
売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よしなどを頑なに守っていたりしたのでは、かえって
儲けが限られることとなって栄誉に与るともいかなくなる。だからといって、悪徳商売に手を
染めたり、挙句には政商として世の中から暴利を巻き上げるような所業にすら及んでしまったならば、
それでこそ商人としての最大級の栄誉には与れるとした所で、道義性には全く反することとなる。
所詮は世の中に多大なる危害を及ぼすことで虚栄を謳歌しているというばかりのことだから、
いつかはしっぺ返しによって全ての栄誉を剥奪されることすらもが免れられるものではない。
世俗での道義性を伴った栄誉を追い求めて行く最善の手段は、やはり為政であるといえる。
それこそ、君臣父子夫婦兄弟朋友といった人間関係の妙技の限りを尽くすことでこそ、そこでの栄誉を
獲得することもまた可能となるのであり、そこで得られる栄誉こそは、人間の人間による人間のための
栄誉であるといえる。超俗での栄誉を求めよとするカルトの徒輩などはそこが不純だと嘯くわけだが、
むしろそこにこそ、栄誉の中の栄誉、第一の栄誉があるのだと考えるほうが人として正しいのである。
あえて俗世で栄誉を求めないというのも小人だし、超俗での栄誉を求めよなんてのも何らかの
反社会組織の常套句ってなもんで、それこそ「ガン細胞人種」を生み出す元凶となってしまう。
世俗での道義性を伴った栄誉の獲得という儒家の本旨なども、正しい人間のあり方の一つだし、
全ての栄誉を捨て去っての超俗での精進という仏教の本旨なども、一つの正しいあり方だといえる。
本格の儒者や仏者としてそれを実践して行くのもある種の極例であり、そこまでいかない立場
(単なる仕事人や為政者)に即して上のようなあり方を模倣して行くことだって当然可能である。
ただ、上のようなあり方を実践していこうとする場合に、あまりにもその立場が不正である場合には、
結局大局規模での実践が叶うことなく、むしろ「ガン細胞人種」としての栄誉を追い求めることに
すらなってしまったりするのである。たとえば、商売人としての最大級の栄誉を追い求めた場合、
売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よしなどを頑なに守っていたりしたのでは、かえって
儲けが限られることとなって栄誉に与るともいかなくなる。だからといって、悪徳商売に手を
染めたり、挙句には政商として世の中から暴利を巻き上げるような所業にすら及んでしまったならば、
それでこそ商人としての最大級の栄誉には与れるとした所で、道義性には全く反することとなる。
所詮は世の中に多大なる危害を及ぼすことで虚栄を謳歌しているというばかりのことだから、
いつかはしっぺ返しによって全ての栄誉を剥奪されることすらもが免れられるものではない。
世俗での道義性を伴った栄誉を追い求めて行く最善の手段は、やはり為政であるといえる。
それこそ、君臣父子夫婦兄弟朋友といった人間関係の妙技の限りを尽くすことでこそ、そこでの栄誉を
獲得することもまた可能となるのであり、そこで得られる栄誉こそは、人間の人間による人間のための
栄誉であるといえる。超俗での栄誉を求めよとするカルトの徒輩などはそこが不純だと嘯くわけだが、
むしろそこにこそ、栄誉の中の栄誉、第一の栄誉があるのだと考えるほうが人として正しいのである。
人間同士での信頼や栄誉が獲得できもしない所に、神からの栄誉なども当然ないのである。
人間不信の法家主義者だった秦始皇帝が泰山での封禅に及んだ時、大風が吹いて興ざめとなったという。
それを理由に儒者たちも始皇帝を批判したというが、山の天気というのは変わりやすいもの、
当地の天候の動態なども熟知している人間などとの信頼関係を築けたりしていたなら、何も
大風の吹く日時に封禅を執り行ったりする必要もなかったかもしれないわけだから、これも始皇帝の
自業自得の落ち度だった可能性もあるわけで、決してただの迷信というばかりのことでもないといえる。
高祖劉邦が秦帝国に代わって漢帝国を興してからも、劉邦本人は封禅などには無頓着でいた。
その後もしばらく祭祀事業などは簡易的なものに止められ、七代武帝の代になって初めてまた泰山
での封禅が実現に移されることとなった。当時の実情を鑑みてみるに、高祖劉邦の死後にも呂氏の
専横や匈奴からの侵略、民間での贋金作りの横行や、そのような世相の荒みを原因とした餓死の多発
などの問題が山積していたわけで、そういった人間同士での問題を十分に解決するにも至らぬままに
大規模な封禅などを執り行ったのでは、神もいい顔をしたりはしなかっただろうから、善処だったといえる。
人からの栄誉よりも神からの栄誉を優先した秦始皇帝のあり方と、神からの栄誉よりも人からの
栄誉のほうを優先した漢帝国のあり方と、どちらのほうが正しいかは、もう指摘するまでもあるまい。
神からの栄誉も一切求めるべきでないとまではいかないが、少なくとも最優先とはすべきでない。
それこそ、最優先とすべきだなどとする神などがいたとすれば、そうであることこそはありのままに
邪神である証拠だといえる。人間同士の信頼まで自分こそが略奪しようとする邪神。そんな邪神が提供
するなどと放言していた新世界なども永遠に来ないことの思い知りと共に、邪信をも破棄したがいい。
人間不信の法家主義者だった秦始皇帝が泰山での封禅に及んだ時、大風が吹いて興ざめとなったという。
それを理由に儒者たちも始皇帝を批判したというが、山の天気というのは変わりやすいもの、
当地の天候の動態なども熟知している人間などとの信頼関係を築けたりしていたなら、何も
大風の吹く日時に封禅を執り行ったりする必要もなかったかもしれないわけだから、これも始皇帝の
自業自得の落ち度だった可能性もあるわけで、決してただの迷信というばかりのことでもないといえる。
高祖劉邦が秦帝国に代わって漢帝国を興してからも、劉邦本人は封禅などには無頓着でいた。
その後もしばらく祭祀事業などは簡易的なものに止められ、七代武帝の代になって初めてまた泰山
での封禅が実現に移されることとなった。当時の実情を鑑みてみるに、高祖劉邦の死後にも呂氏の
専横や匈奴からの侵略、民間での贋金作りの横行や、そのような世相の荒みを原因とした餓死の多発
などの問題が山積していたわけで、そういった人間同士での問題を十分に解決するにも至らぬままに
大規模な封禅などを執り行ったのでは、神もいい顔をしたりはしなかっただろうから、善処だったといえる。
人からの栄誉よりも神からの栄誉を優先した秦始皇帝のあり方と、神からの栄誉よりも人からの
栄誉のほうを優先した漢帝国のあり方と、どちらのほうが正しいかは、もう指摘するまでもあるまい。
神からの栄誉も一切求めるべきでないとまではいかないが、少なくとも最優先とはすべきでない。
それこそ、最優先とすべきだなどとする神などがいたとすれば、そうであることこそはありのままに
邪神である証拠だといえる。人間同士の信頼まで自分こそが略奪しようとする邪神。そんな邪神が提供
するなどと放言していた新世界なども永遠に来ないことの思い知りと共に、邪信をも破棄したがいい。
「吾れの人に於けるや、誰をか毀り誰をか誉めん。如し誉める所の者有れば、
其れ試みる所有り。斯の民や、三代の直道を以ってして行う所の者なり」
「私は妄りに人を謗ったり誉めたりすることはしない。もし誉めることがあったとしても、
それは相手をよく試してやってからのことだ。(乱世である)今の民ですら、夏・殷・周三代の頃に正直な道を
執り行っていた人々とも何も変わりはしないのだから、(当世風の偽善などによって誉めてやっててもいけない。)
(人間こそが正しい栄誉を人に寄与する例。自分に服従すらすれば栄誉を与えるなどという不正さもありはしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・二五より)
其れ試みる所有り。斯の民や、三代の直道を以ってして行う所の者なり」
「私は妄りに人を謗ったり誉めたりすることはしない。もし誉めることがあったとしても、
それは相手をよく試してやってからのことだ。(乱世である)今の民ですら、夏・殷・周三代の頃に正直な道を
執り行っていた人々とも何も変わりはしないのだから、(当世風の偽善などによって誉めてやっててもいけない。)
(人間こそが正しい栄誉を人に寄与する例。自分に服従すらすれば栄誉を与えるなどという不正さもありはしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・二五より)
やはり、だれにも邪魔されずに自分の趣味を全うするスタンスのブログ(ま、自己顕示欲で
やっている人もいるでしょうが、このブログは平明でそんな内容では無いようで)の方が、
自分のレス(しかも、携帯の名無しでイエスキリストスレーだとよ。やっぱ、あれそっちだったのかー、それが笑った)への腹いせか、「どやツ」だろ。残念ながら、一度もそういう内容のもので関心したという記憶はありません。
このスレも、なんだか知らないが、基督教の教典である書名を掻っ攫って、こちらでは立てられないように押さえ込んでる感じが、なんとも女の腐った水戸黄門さまって感じで、なにがなにやら
もうさっぱりわかりません。万景峰号とジェンキンスさんがハーレーは身近? かんけーないか。
後は、聖書とかセイント=聖なるという訳だが、そちらは字面にだけあこがれを抱いている封ですな。
このすれたいだと、こうしもろうしも孟子も(変換下の方で面倒)みんな、聖こうしと解釈されますがねー。
それは西洋の思想に則った考え方と、オッさるでしょうが(誤字脱字イキ)、じゃあ、東洋的な解釈では、どういう解釈で、ここにその字を持ってきたか、語ってもらえますか?
「これこそが本物」とか言っていますが、あっちが偽でこっちが、とかって、やっぱり解釈は、
同じだったりするのでしょうか? そして、こういうことはスルー(ミーハー的なやつでしかない
という辛辣で、答えに窮するところは)ですかね。
このスレ、これこそが人のせいっしょ。という、醜い人の絵姿があるスレですな。
今は、おっさん臭い書き込みから、余り外しませんが、前にみんなから一度に、やいやい言われて
た時、「いつも喧嘩ばかりの笠・・」とか言われて、もう半べそな感じで
「喧嘩を打ってくるのは、いつもおまえらの方だ! いつもそうだ」、いつもそうだという言葉と
同じ内容の文を二度、「いつもそうなんだ!」とか書いていたような気がする。
ほんとに、いい加減にギャグでもかます余裕を持たないと。別に、知識が豊富とか、専門知識があるとか、
思われなくてもいいじゃん。そんなの、実際はだれでもあるよ、ひとつや二つ。ただ、意固地で
あり続けるは、そういう成長が出来たとしても、見栄坊の粋がりにしかならないわけで。
やっている人もいるでしょうが、このブログは平明でそんな内容では無いようで)の方が、
自分のレス(しかも、携帯の名無しでイエスキリストスレーだとよ。やっぱ、あれそっちだったのかー、それが笑った)への腹いせか、「どやツ」だろ。残念ながら、一度もそういう内容のもので関心したという記憶はありません。
このスレも、なんだか知らないが、基督教の教典である書名を掻っ攫って、こちらでは立てられないように押さえ込んでる感じが、なんとも女の腐った水戸黄門さまって感じで、なにがなにやら
もうさっぱりわかりません。万景峰号とジェンキンスさんがハーレーは身近? かんけーないか。
後は、聖書とかセイント=聖なるという訳だが、そちらは字面にだけあこがれを抱いている封ですな。
このすれたいだと、こうしもろうしも孟子も(変換下の方で面倒)みんな、聖こうしと解釈されますがねー。
それは西洋の思想に則った考え方と、オッさるでしょうが(誤字脱字イキ)、じゃあ、東洋的な解釈では、どういう解釈で、ここにその字を持ってきたか、語ってもらえますか?
「これこそが本物」とか言っていますが、あっちが偽でこっちが、とかって、やっぱり解釈は、
同じだったりするのでしょうか? そして、こういうことはスルー(ミーハー的なやつでしかない
という辛辣で、答えに窮するところは)ですかね。
このスレ、これこそが人のせいっしょ。という、醜い人の絵姿があるスレですな。
今は、おっさん臭い書き込みから、余り外しませんが、前にみんなから一度に、やいやい言われて
た時、「いつも喧嘩ばかりの笠・・」とか言われて、もう半べそな感じで
「喧嘩を打ってくるのは、いつもおまえらの方だ! いつもそうだ」、いつもそうだという言葉と
同じ内容の文を二度、「いつもそうなんだ!」とか書いていたような気がする。
ほんとに、いい加減にギャグでもかます余裕を持たないと。別に、知識が豊富とか、専門知識があるとか、
思われなくてもいいじゃん。そんなの、実際はだれでもあるよ、ひとつや二つ。ただ、意固地で
あり続けるは、そういう成長が出来たとしても、見栄坊の粋がりにしかならないわけで。

67ー1)
>>1。
>>66
ま、それなんかも「毀誉褒貶」と「子、曰く」とか、「漢籍」、「字引」、「目録」とかで
ググって引き出してきた引用なんでしょうなー、どうせ。
ちなみ、今、最初の三個の単語でググってみました。いろいろヒットしました。(※画像参照)
で、その中で、わたしが興味深いと思ったのは、ブログの記事で新來子のこれ。
〜〜〜〜
新 來 子 曰。
人 之 樂。 夫 有 成 就 於 我 本 能。 人 抱 欲 望 無 限 乎。則 其 餓 魂 而 不 癒。
嘗 老 子 嘆 而 曰。 吾 言 甚 易 知。
甚 易 行。 天 下 莫 能 知。 莫 能 行。 今 天 下 之 百 姓。多 危 身 棄 生 以 殉 物。 其 志 散 旦 暮。 遑 遑 爾 過 日 矣。
各 爲 其 所 欲 焉 以。絞 知 傾 精。 然 而 天 下 臨 矣。我 本 性 従 欲 生 乎。 則 天 下 轢 轢 矣。 天 下 之 人。
各 爲 其 所 欲 焉 以 自 爲 方。 是 故 内 聖 外 王 之 道。闇 而 不 明。 鬱 而 不 發。 必 不 合 矣。 此 如 態。
道 徳 不 一。 天 下 難 安 住 也。 故 其 言 相 與 穣 乎。夫 爲 天 下 之 安 寧 也。 是 即 寡 欲 之 意 也。 故 得 至 教 于 人 已。
夫 欲 我 所 窮 爲 之。 苦 心 勞 形 已。 我 本 性 如 何。吟 一 時 之 毀 誉。 要 死 後 數 百 年 中 餘 名。 真 生 之 樂。
奈 何 以 知 我 本 性 耶。 老 子 曰。 是 之 謂 知 足 矣。
〜〜〜〜
読み方省略いたします。興味のある方は、上記の単語でググれば、1P目にヒットいたします。
〜〜〜次へ。

(原文)「開元十八年、侍中裴光庭、兼吏部尚書、始作循資格。
而賢愚一概、必與格合、乃得銓授、限年躡級、不得踰越。於是久淹不收者皆便之、謂之聖書」
(読み下し)「開元十八年、侍中の裴光庭、吏部尚書を兼ぬ、資格に循いて始作す。
賢愚を一概にし、必ず格と與に合わしめ、乃ち銓授を得、年に限り級を躡わしめ、
踰越を得ず。是れに於て久淹し收めざる者は皆な之れを便り、之れを聖書と謂う」
(訳文)「開元十八年、宮廷の侍中で吏部尚書(文官の叙勲を司る記録部の長官)を兼ねる裴光庭が、資格に則って叙勲の
仕事を始めた。賢明であった者も愚昧であった者もみなおしなべて取り上げ、それぞれの格の上下に合わせて叙勲を選び授け、
年功に限って等級にも従わしめ、決して本分を超えさせるようなことがなかった。そのためこの功績を久しく称え続けて
お蔵入りもさせぬようにする人々が相次ぎ、彼らは皆その公正な評価尺度に頼り、本人が記録した書類を『聖書』と呼んだ」
(中国正史「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下より)
四書五経こそは「聖書」としての条件を完璧に満たしている一方、
新旧約は見事なまでにその条件を満たせていない。あんな作文集を
「聖書」などと呼ぶことからして、孔子が憂えていた「名辞の乱れ」
であり、何よりもまずそこから直していかなければならない
というのが真正聖書——四書五経の教えでもある。
「子路曰く、(略)政を為さば、子将に奚をか先にせん。子曰く、必ずや名を正さんか」
「子路が問うた。『もし政治を任されたとすれば、先生はまず何をなされますか』
先生は言われた。『とりあえず名辞を正さねばな』(名辞の乱れこそは天下の乱れの元凶である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・三より)
>>77
しかし、出典がその上げている本からって、さ。そんな手前味噌的な軽い書物ししてるそちらって。
で、>>25ー26あたりはもう、直でなにも言わないし。あのー、新來子(にらいし)の訳文は別のスレに投稿したが、あれ、そちらはなにも感ぜず、同じ事の繰り返しをやる雰囲気って。転載。
〜〜〜〜(訳文) 新來子曰く。
人の楽しみはわが本能の欲することが達せられたときです。
人は欲望を無限に抱くため、魂の餓えは癒えることがありません。
人の欲望は千差万別であり、その達成手段も各人各様です。
嘗て老子が「吾が言は甚だ知り易く、甚だ行い易し。
天下能く知るなければ、能く行う莫し」と嘆いたが、人は自身の天命によりその生涯を全うすることに集中するあまり、朝に目覚めてから夕べに就寝するまで目先のことに追われ、
ただ日々を慌しく過しているにしかすぎません。
だれもが自身の目的達成のため、知恵を絞り精力を傾け、社会に挑んでいるのです。
わが本能に従順に生きようとすれば、世間との軋轢を生じます。
世間の人々もまた吾が本能に従順だからです。
そうなると、どこもかしこも欲望のぶつかり合いとなり、世の中が騒然とます。
このような状態では世界中どこへ行っても住みにくいので、お互いの主張をゆずり合い、
より大多数の心が安らぐところで落ち着かせる必要が生じてきます。
これが寡欲の思考であり、人間にしかできない精神作用です。
だとするならば、その目的達成のためにわが身を苦しめる、わが本能とはいかなるものでしょうか
一時の毀誉褒貶や、死後数百年にしかすぎない名声を求めるといった、小賢しさを離れた、
本当の人生の楽しみを、いかにわが本姓に知らしめるか。老子に言う「知足」とはこのことなのです。
〜〜
==で、>>30のレスの英文、あれ無意味で書いていると思うか? そちらは光が良いもの闇は悪の象徴として
レスに書いていたが、文の内容は『光もまた漆黒のうちに生じる、それらの中のものうちのひとつ』。
分かる? この意味。森羅万象をすべてコンプリートと宣っているのに、それが出来ない理由についての
指摘もスルーだもんな。
しかし、出典がその上げている本からって、さ。そんな手前味噌的な軽い書物ししてるそちらって。
で、>>25ー26あたりはもう、直でなにも言わないし。あのー、新來子(にらいし)の訳文は別のスレに投稿したが、あれ、そちらはなにも感ぜず、同じ事の繰り返しをやる雰囲気って。転載。
〜〜〜〜(訳文) 新來子曰く。
人の楽しみはわが本能の欲することが達せられたときです。
人は欲望を無限に抱くため、魂の餓えは癒えることがありません。
人の欲望は千差万別であり、その達成手段も各人各様です。
嘗て老子が「吾が言は甚だ知り易く、甚だ行い易し。
天下能く知るなければ、能く行う莫し」と嘆いたが、人は自身の天命によりその生涯を全うすることに集中するあまり、朝に目覚めてから夕べに就寝するまで目先のことに追われ、
ただ日々を慌しく過しているにしかすぎません。
だれもが自身の目的達成のため、知恵を絞り精力を傾け、社会に挑んでいるのです。
わが本能に従順に生きようとすれば、世間との軋轢を生じます。
世間の人々もまた吾が本能に従順だからです。
そうなると、どこもかしこも欲望のぶつかり合いとなり、世の中が騒然とます。
このような状態では世界中どこへ行っても住みにくいので、お互いの主張をゆずり合い、
より大多数の心が安らぐところで落ち着かせる必要が生じてきます。
これが寡欲の思考であり、人間にしかできない精神作用です。
だとするならば、その目的達成のためにわが身を苦しめる、わが本能とはいかなるものでしょうか
一時の毀誉褒貶や、死後数百年にしかすぎない名声を求めるといった、小賢しさを離れた、
本当の人生の楽しみを、いかにわが本姓に知らしめるか。老子に言う「知足」とはこのことなのです。
〜〜
==で、>>30のレスの英文、あれ無意味で書いていると思うか? そちらは光が良いもの闇は悪の象徴として
レスに書いていたが、文の内容は『光もまた漆黒のうちに生じる、それらの中のものうちのひとつ』。
分かる? この意味。森羅万象をすべてコンプリートと宣っているのに、それが出来ない理由についての
指摘もスルーだもんな。
自意識過剰の思い上がりをどこまでも肥大化させ続けられる状態が「生」であり、
その術を失って絶望にかられるのが「死」であるとするのは、比喩表現としても不正である。
むしろ、過剰に肥大化した思い上がりによって精神的な成長の術を失ってしまうことこそは
人としての「死」であり、そのような事態を招かないようにするための貞正さを保つことが
「生」であるとするほうが、人々を教導するための比喩表現としても正しいといえる。
思い上がりをどこまでも肥大化させてしまっていたからこそ、それを禁止されることを通じて
絶望にかられたりすることがあったとしても、それが精神的な成長の術を取り戻して行くための
過程であるというのならば、そうなった人間はむしろ「生」を取り戻していこうとしている
といえるわけだから、決してそれを「死」であるなどとほざいたりしてはならないのである。
上記のような比喩表現としての「生死」の転倒もまた、一種の「名辞の乱れ」であるといえる。
比喩表現だから何でもアリってのも一つの名辞の乱れであり、その悪用が傾国の元凶に
すらなりかねないことは、蜀漢の軍師諸葛亮が「出師表」でも指摘していたことである。
佞臣が個人的に主君に気に入られるために都合のいいように比喩表現を用いたりすることは、
古代の頃から連綿と持ち越されてきた人間にとっての致命的な悪癖であるため、仏門でも
そのような物言いを「妄語の罪」として固く戒めるようにもして来ているのである。
その妄語の罪を完全に開き直らせるのが、今の日本憲法にも明記されている「表現の自由」である。
表現の自由を尊ぶべきだとするからこそ、西洋文学では、ジャンル性を一切放棄した小説こそは
「純文学」として至上のものにすら祭り上げられている。実在する歴史上の聖賢や偉大な為政者の
言行をありのままに記録した「大説」などと比べれば、ごく瑣末なものとして東洋では扱われて
来た小説文学こそが、純文学としてノンフィクションを上回るもののようにすら扱われている。
その術を失って絶望にかられるのが「死」であるとするのは、比喩表現としても不正である。
むしろ、過剰に肥大化した思い上がりによって精神的な成長の術を失ってしまうことこそは
人としての「死」であり、そのような事態を招かないようにするための貞正さを保つことが
「生」であるとするほうが、人々を教導するための比喩表現としても正しいといえる。
思い上がりをどこまでも肥大化させてしまっていたからこそ、それを禁止されることを通じて
絶望にかられたりすることがあったとしても、それが精神的な成長の術を取り戻して行くための
過程であるというのならば、そうなった人間はむしろ「生」を取り戻していこうとしている
といえるわけだから、決してそれを「死」であるなどとほざいたりしてはならないのである。
上記のような比喩表現としての「生死」の転倒もまた、一種の「名辞の乱れ」であるといえる。
比喩表現だから何でもアリってのも一つの名辞の乱れであり、その悪用が傾国の元凶に
すらなりかねないことは、蜀漢の軍師諸葛亮が「出師表」でも指摘していたことである。
佞臣が個人的に主君に気に入られるために都合のいいように比喩表現を用いたりすることは、
古代の頃から連綿と持ち越されてきた人間にとっての致命的な悪癖であるため、仏門でも
そのような物言いを「妄語の罪」として固く戒めるようにもして来ているのである。
その妄語の罪を完全に開き直らせるのが、今の日本憲法にも明記されている「表現の自由」である。
表現の自由を尊ぶべきだとするからこそ、西洋文学では、ジャンル性を一切放棄した小説こそは
「純文学」として至上のものにすら祭り上げられている。実在する歴史上の聖賢や偉大な為政者の
言行をありのままに記録した「大説」などと比べれば、ごく瑣末なものとして東洋では扱われて
来た小説文学こそが、純文学としてノンフィクションを上回るもののようにすら扱われている。
別に小説文学が「あってはならないもの」として東洋で扱われて来たような事実もないのだが、
ことに西洋においては、自分たちの最大級のより所である新旧約からして架空の物語を列挙
しただけの小説止まりであるものだから、小説こそは至上のものとして扱われて来てもいる。
西洋で「表現の自由」というものが提唱されたのも、元はといえば新旧約なんぞを金科玉条に
掲げ続けて来た自分たちの性向こそを元凶としているわけだから、結局、比喩表現の悪用を助長
する諸々の正当化材料にしろ小説の祭り上げにしろ、全ては新旧約を元凶としているのだといえる。
フィクションとしての宮廷文学の金字塔である源氏物語なども、仏門の立場から「妄語戒に反する」
と批判されていたようなこともあったわけだが、それにしたって、家康公を始めとする多くの歴史上
の人物が源氏物語の愛読者でもあり続けて来てもいる。小説文学というものがその程度の扱いを受けて、
表現の自由などもそれなりの戒めの対象になりつつ、成人図書のような警戒的な受容に止められて行く
というのならば、完全に根絶されたりまでする必要もない。三国志演義も封神演義も小説文学には
違いないが、前者のほうがより史実に即している一方、後者のほうは怪力乱神を導入しまくった
濃厚なフィクションであるから、文学作品としての評価も三国志演義>封神演義だったりする、
その程度の扱いとしてフィクションだらけの小説作品が許容されていくことはこれからも可能である。
ただ、それにしたって、フィクションをノンフィクションの下に置き、不正な表現を適切な表現の
下に置く分別はしっかりと講じていく必要がある。新旧約なんぞは、不正な表現の限りを尽くした
完全なフィクション小説であるものだから、それこそ最低劣の文筆として扱われなければならない。
経書や仏典は適切な表現の宝庫だから尊重され、正史もフィクションの明記だから尊重される。
(正史「三国志」のように三国志演義以上にも出来の悪い正史も中にはあるので注意が必要)
それらの下に全ての不正な表現やノンフィクションまみれの文筆が置かれていくようにする。
ことに西洋においては、自分たちの最大級のより所である新旧約からして架空の物語を列挙
しただけの小説止まりであるものだから、小説こそは至上のものとして扱われて来てもいる。
西洋で「表現の自由」というものが提唱されたのも、元はといえば新旧約なんぞを金科玉条に
掲げ続けて来た自分たちの性向こそを元凶としているわけだから、結局、比喩表現の悪用を助長
する諸々の正当化材料にしろ小説の祭り上げにしろ、全ては新旧約を元凶としているのだといえる。
フィクションとしての宮廷文学の金字塔である源氏物語なども、仏門の立場から「妄語戒に反する」
と批判されていたようなこともあったわけだが、それにしたって、家康公を始めとする多くの歴史上
の人物が源氏物語の愛読者でもあり続けて来てもいる。小説文学というものがその程度の扱いを受けて、
表現の自由などもそれなりの戒めの対象になりつつ、成人図書のような警戒的な受容に止められて行く
というのならば、完全に根絶されたりまでする必要もない。三国志演義も封神演義も小説文学には
違いないが、前者のほうがより史実に即している一方、後者のほうは怪力乱神を導入しまくった
濃厚なフィクションであるから、文学作品としての評価も三国志演義>封神演義だったりする、
その程度の扱いとしてフィクションだらけの小説作品が許容されていくことはこれからも可能である。
ただ、それにしたって、フィクションをノンフィクションの下に置き、不正な表現を適切な表現の
下に置く分別はしっかりと講じていく必要がある。新旧約なんぞは、不正な表現の限りを尽くした
完全なフィクション小説であるものだから、それこそ最低劣の文筆として扱われなければならない。
経書や仏典は適切な表現の宝庫だから尊重され、正史もフィクションの明記だから尊重される。
(正史「三国志」のように三国志演義以上にも出来の悪い正史も中にはあるので注意が必要)
それらの下に全ての不正な表現やノンフィクションまみれの文筆が置かれていくようにする。
>>72のアンカー>>70です。
で、これは>>72の続きです。
要するに、それらを包みもの込む森羅万象とも密接になっている事柄とは、洋の東西や文化系統(これもごく数百年という最近の)だけを取り上げて、
一方からの見方だけで、圧出した理論を持って排除できるものでないし、ましてやそれが、包括するという意味でない、と、
理屈の間違いや不正な事(西洋でいえば、中世基督教国の布教という世界規模の侵略略奪行為や
ナチスのニーチェやワーグナーなど優れた学者や文化を利用してのナショナリズムへの誘導など)
は、それが正しくなかったことは、これまで時間の流れというものがすべて証明していっている。
何度言っても馬鹿のフリは、ネットでウダウダウヨウヨしている姑息な姿。要するに、宗教を否定
しておきながら(都合の悪いところはつぎはぎの矛盾だらけの言い訳)、結局、自分はその書物を
持ってして、それが自分の徳であることを強調しつつ、恰も宗教のように取り扱っているわけだ。
(もう最近さ、こちらが何かを指摘すると、それを阿呆な、そもそもの基本の話しに矛盾することなどもおかまい無しに言い訳修正を始めるだろ? 言い訳をひとつするごとに、自分の穴が埋まっていって
目的(?)達成へ近づいたとでも思ってるのか? それが阿呆だと。呆れるよまったく)
ええと、で、>>30英文だが、つまり、尊いことを教えていくのは大事な事だけども、そちらは、私利私欲にまみれていると。
そして、それを淘汰するものはもっと形而上的なもので、そちらの話している事柄だけでは足りない、というか、
そちらの言動自体がそれに矛盾しているわけで。アーくそ、で、英文の内容は、そういう事。
内容は光を正義とし闇を悪とするいかにも〜な話しをそちらはレスしていたが、
『そちらの言っている事の矛盾していることも、それらのうちのひとつ。光またも漆黒の中に生じるうちのもののひとつ』というもの。
で、「one of them=そのうちのひとつが〜]という文。全体を表す代名詞が「them」の発音は、
禅=zenにつながるというシャレだったのだが、こういう偶然的なことがらは、
実際にあるものだが、とても説明できないものという存在のone of themなのだ、っと。
で、これは>>72の続きです。
要するに、それらを包みもの込む森羅万象とも密接になっている事柄とは、洋の東西や文化系統(これもごく数百年という最近の)だけを取り上げて、
一方からの見方だけで、圧出した理論を持って排除できるものでないし、ましてやそれが、包括するという意味でない、と、
理屈の間違いや不正な事(西洋でいえば、中世基督教国の布教という世界規模の侵略略奪行為や
ナチスのニーチェやワーグナーなど優れた学者や文化を利用してのナショナリズムへの誘導など)
は、それが正しくなかったことは、これまで時間の流れというものがすべて証明していっている。
何度言っても馬鹿のフリは、ネットでウダウダウヨウヨしている姑息な姿。要するに、宗教を否定
しておきながら(都合の悪いところはつぎはぎの矛盾だらけの言い訳)、結局、自分はその書物を
持ってして、それが自分の徳であることを強調しつつ、恰も宗教のように取り扱っているわけだ。
(もう最近さ、こちらが何かを指摘すると、それを阿呆な、そもそもの基本の話しに矛盾することなどもおかまい無しに言い訳修正を始めるだろ? 言い訳をひとつするごとに、自分の穴が埋まっていって
目的(?)達成へ近づいたとでも思ってるのか? それが阿呆だと。呆れるよまったく)
ええと、で、>>30英文だが、つまり、尊いことを教えていくのは大事な事だけども、そちらは、私利私欲にまみれていると。
そして、それを淘汰するものはもっと形而上的なもので、そちらの話している事柄だけでは足りない、というか、
そちらの言動自体がそれに矛盾しているわけで。アーくそ、で、英文の内容は、そういう事。
内容は光を正義とし闇を悪とするいかにも〜な話しをそちらはレスしていたが、
『そちらの言っている事の矛盾していることも、それらのうちのひとつ。光またも漆黒の中に生じるうちのもののひとつ』というもの。
で、「one of them=そのうちのひとつが〜]という文。全体を表す代名詞が「them」の発音は、
禅=zenにつながるというシャレだったのだが、こういう偶然的なことがらは、
実際にあるものだが、とても説明できないものという存在のone of themなのだ、っと。
現代などは、法律文書や商取引書類あたりにも不正な表現を駆使された代物が無数にあるわけだから、
お縄を頂戴することとなって行く文書の量も、それこそ膨大な量に上るだろうことが予見される。
まことに、言葉の禍いというものは、武器のもたらす禍以上にも時に甚大となるのだといえる。
「我れ其の声を聞くも、其の身を見ず。人に愧じざるや、天を畏れざるや」
「俺はその声を聞きはするが、その姿を見たことはない。(出歯亀然とした
そのあり方を)どうして人に恥じもしないのか。どうして天を畏れもしないのか。
(『あなた方は神の姿を見ない』とは犯罪聖書にもあるし、そもそも犯罪聖書の著者からして
匿名な上に、その記述内容も架空である。それこそ恥ずべきこと、畏れ慎むべきことなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・何人斯より)
>>she
俺がここでものを言っている動機は↓このスレに明記されている。
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/134149088...
一時の激情や保身に駆られて暴論を巻き起こしているおまえなどとは発言の動機
からして別格なのだから、そんな低い所から俺に文句を付けて来た所で全くの無駄だ。
お縄を頂戴することとなって行く文書の量も、それこそ膨大な量に上るだろうことが予見される。
まことに、言葉の禍いというものは、武器のもたらす禍以上にも時に甚大となるのだといえる。
「我れ其の声を聞くも、其の身を見ず。人に愧じざるや、天を畏れざるや」
「俺はその声を聞きはするが、その姿を見たことはない。(出歯亀然とした
そのあり方を)どうして人に恥じもしないのか。どうして天を畏れもしないのか。
(『あなた方は神の姿を見ない』とは犯罪聖書にもあるし、そもそも犯罪聖書の著者からして
匿名な上に、その記述内容も架空である。それこそ恥ずべきこと、畏れ慎むべきことなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・何人斯より)
>>she
俺がここでものを言っている動機は↓このスレに明記されている。
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/134149088...
一時の激情や保身に駆られて暴論を巻き起こしているおまえなどとは発言の動機
からして別格なのだから、そんな低い所から俺に文句を付けて来た所で全くの無駄だ。
>>74
また阿呆な事をいいだしてますな。ネット頭から解放されろって。
全部読んでませんが、小説=フィクション、基督教の聖書はフィクションだからとかの
話し。講師とか労使とか孟子(なぜかこれだけ一発変換できる)とかの話しも、いわゆる
比喩文学だといえば、そうなんですがー。
阿呆が、本板で小説の中身の話しのレスを読んで、切り返してるつもりか? もっと、
切れよく頼みますよ。
と屁理屈〜です。だから、本当に普遍的な事柄は、すべてを包括しているって、ことです。
>>30より、>>75で。そちらは視点が狭量で、理解するということは、まず把握するという意味であるのに、ただ自分が体よく生きる(ネットで)ためへの利発さを求めているに過ぎないというのは、
成長出来ない証明でもあります。さいならーっと。
また阿呆な事をいいだしてますな。ネット頭から解放されろって。
全部読んでませんが、小説=フィクション、基督教の聖書はフィクションだからとかの
話し。講師とか労使とか孟子(なぜかこれだけ一発変換できる)とかの話しも、いわゆる
比喩文学だといえば、そうなんですがー。
阿呆が、本板で小説の中身の話しのレスを読んで、切り返してるつもりか? もっと、
切れよく頼みますよ。
と屁理屈〜です。だから、本当に普遍的な事柄は、すべてを包括しているって、ことです。
>>30より、>>75で。そちらは視点が狭量で、理解するということは、まず把握するという意味であるのに、ただ自分が体よく生きる(ネットで)ためへの利発さを求めているに過ぎないというのは、
成長出来ない証明でもあります。さいならーっと。

米英主導の今の世界もちゃんと動いている。
そして案の定、人類は滅亡への地獄道を絶賛邁進中だ。
おまえの言い分は、最終防衛線死守思想としての条件を全く満たせていないから、
それこそを本分としている俺の物言いにケチを付けるような資格はない。
俺の考えや発言に寸分ほどの抑制をかける効果すらをも持ちはしない。
「苟くも社稷を利すには、死生之れを以ってす。
且つ吾れ聞くに、善を為す者は其の度を改めずと、故に能く済む有るなり」
「天下国家の利益のためには、自分個人の生死などは度外視すべきものである。
なおかつ私(子産)の聞いた言葉には『善を為す者はそのやり方を中途で改め
たりはしない』というのがある。だからこそ大偉業を成し遂げられもするのだ。
(最初の一文は個人の生死ばかりを偏重する新旧約の物言いへの批判になっている。
以降の文は善を為すことに一心不乱であることすら非難するsheへの反論になっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公四年より)
普通の人間は、信仰と行いは別物であると考えるし、正統な信教でも両者を完全な別物として扱う。
自分には自力での善行なんか到底できはしない、だから信仰にすがる、だからといって、信仰に
よって自分が善行を為せるようになるというのでも、信仰それ自体が善行になるというのでもない。
ただひたすら濁悪からの救いを求めて、無力ながらの信仰にすがるというばかりのことである。
「そういう信仰で救われるというのならそれでもいい、それだけじゃ不足だというのなら禅門にもおいで」
と臨済宗妙心寺派管長だった玄峰老師も仰られていたが、その玄峰老師が、キリスト教教義の
「善行によって救われる」という部分を引いて、キリスト教を是とするようなことも言っておられた。
顕教である禅仏教の立場からすれば、そんなに異教の内実にまで立ち入ってものを言うことも避けようと
しておられたのかもしれないが、キリスト教における「善行」とは信仰そのものだったりするわけで、
信と行を別個のものとして捉える仏教版の他力信仰(浄土教など)の観点などからすれば、信仰第一の
キリスト教が「善行によって救われる」などということを謳っていること自体、是認しかねることなのである。
信仰と行いを混同して、信仰すなわち善行だなどと思い込んだならば、行い全般の重大さが蔑ろにされる
こととなる。農夫が耕作を怠って作物をろくに実らせないでいた所で、信仰を善行に代えられるのなら、
それでチャラになるということにすらなる。信仰と行いを全くの別物として捉えるのならそんなことには
ならないが、両者の境があやふやであるようならそうすらなりかねないから、重農主義的な為政を敷いた
徳川幕府も信行の分別ある浄土教などは許容した一方、信行を混同しがちなキリシタンは禁止したのだった。
自分には自力での善行なんか到底できはしない、だから信仰にすがる、だからといって、信仰に
よって自分が善行を為せるようになるというのでも、信仰それ自体が善行になるというのでもない。
ただひたすら濁悪からの救いを求めて、無力ながらの信仰にすがるというばかりのことである。
「そういう信仰で救われるというのならそれでもいい、それだけじゃ不足だというのなら禅門にもおいで」
と臨済宗妙心寺派管長だった玄峰老師も仰られていたが、その玄峰老師が、キリスト教教義の
「善行によって救われる」という部分を引いて、キリスト教を是とするようなことも言っておられた。
顕教である禅仏教の立場からすれば、そんなに異教の内実にまで立ち入ってものを言うことも避けようと
しておられたのかもしれないが、キリスト教における「善行」とは信仰そのものだったりするわけで、
信と行を別個のものとして捉える仏教版の他力信仰(浄土教など)の観点などからすれば、信仰第一の
キリスト教が「善行によって救われる」などということを謳っていること自体、是認しかねることなのである。
信仰と行いを混同して、信仰すなわち善行だなどと思い込んだならば、行い全般の重大さが蔑ろにされる
こととなる。農夫が耕作を怠って作物をろくに実らせないでいた所で、信仰を善行に代えられるのなら、
それでチャラになるということにすらなる。信仰と行いを全くの別物として捉えるのならそんなことには
ならないが、両者の境があやふやであるようならそうすらなりかねないから、重農主義的な為政を敷いた
徳川幕府も信行の分別ある浄土教などは許容した一方、信行を混同しがちなキリシタンは禁止したのだった。
信仰と行いの間に明確な分別を付けるということは、宗教全般に対する不信が蔓延してしまっている
現代社会においてこそ特に見失われてしまっていることである。戦国時代の一向一揆なども、本来は行いと
分けて然るべき信仰が武装蜂起に繋がってしまった事例に当たるわけだが、乱世こそは、信仰と行いの分別が
疎かになってしまいがちな時代なのだといえる。無論、信仰と行いを混同する類いの信教こそがそのような
乱世をもたらす場合もあるわけで、聖書信仰が侵略の魔の手を広げている事態などもそれに当たるといえる。
信教の健全化、信仰への不信の払拭のためにこそ、信と行の厳格な分別というものが必要ともなる。
自力作善の宗門なども、修養のために信仰を指針とすることがあるが、やはり信仰とはまた
別の物としての精進修行などに励んで行く。そして信仰一辺倒の他力信仰というものもまたある。
その二つに信教の有り方というものが厳格化されたならば、科学的発想が定着している現代人であっても、
信教を鼻つまみもの扱いまでしたりはせずに済むのである。にもかかわらず、今の宗教というものが
信と行を混同するような風潮を大いに是としているものだから、宗教への不信も絶えることがない。
これはもう、今の宗教の側にとっての完全な自業自得であると見なすほかはない問題であるといえる。
自他に対して他力本願を促しているような信教が、善行としての布施を信者に要求したりするのも
言行不一致となっている。厳格に戒律も守る自力作善の信教が、信者に善行としての布施を促したり、
他力本願系の信教が「やむない悪行」としての布施を求めたりするのならまだありだといえるが、
他力本願のくせして、どうして教団への布施に限っては善行であるなどということがあろうか。
現代社会においてこそ特に見失われてしまっていることである。戦国時代の一向一揆なども、本来は行いと
分けて然るべき信仰が武装蜂起に繋がってしまった事例に当たるわけだが、乱世こそは、信仰と行いの分別が
疎かになってしまいがちな時代なのだといえる。無論、信仰と行いを混同する類いの信教こそがそのような
乱世をもたらす場合もあるわけで、聖書信仰が侵略の魔の手を広げている事態などもそれに当たるといえる。
信教の健全化、信仰への不信の払拭のためにこそ、信と行の厳格な分別というものが必要ともなる。
自力作善の宗門なども、修養のために信仰を指針とすることがあるが、やはり信仰とはまた
別の物としての精進修行などに励んで行く。そして信仰一辺倒の他力信仰というものもまたある。
その二つに信教の有り方というものが厳格化されたならば、科学的発想が定着している現代人であっても、
信教を鼻つまみもの扱いまでしたりはせずに済むのである。にもかかわらず、今の宗教というものが
信と行を混同するような風潮を大いに是としているものだから、宗教への不信も絶えることがない。
これはもう、今の宗教の側にとっての完全な自業自得であると見なすほかはない問題であるといえる。
自他に対して他力本願を促しているような信教が、善行としての布施を信者に要求したりするのも
言行不一致となっている。厳格に戒律も守る自力作善の信教が、信者に善行としての布施を促したり、
他力本願系の信教が「やむない悪行」としての布施を求めたりするのならまだありだといえるが、
他力本願のくせして、どうして教団への布施に限っては善行であるなどということがあろうか。
「信教の自由」の名の下での宗教優遇もそのような、他力本願を信者に促すくせして、教団への布施だけは
善行として大いに奨励するような類いの邪教の保護にこそ一役買ってしまっている。信教などは寺社奉行
によって厳重な監査の対象となっていた時代の日本においてこそ、そんな邪教の肥大化こそは防がれても
いたわけだから、信教の自由というもの自体、邪教の振興にばかり与してしまうものであるのが確かだ。
信と行の混同や信教の自由こそは、信と行の分別を付けるまともな信教を日陰へと追いやる原因とも
なってしまっている。聖書信仰を是としている以上は寸分たりとも儒学の信仰が叶わないのとも同じように、
信仰の乱れこそが「悪教は良教を駆逐する」といった事態を招いてしまいもする。信教全般を駆逐するため
ではなく、邪教を駆逐することで正教を保護するためにこそ、信教の是正というものもまた必要とされるのである。
「昔中葉に在りて、震いて且つ業なるもの有り。允なる天子、卿士も降れり、実に維れ阿衡、実に商王に左右す」
「昔、(当時から見て)中世のころ、震撼するような大いなる神の業があった。殷の王が真の天子であったために、
諸国の公卿たちも心からそこに服した。ついには名臣伊尹までもが現れて、殷の王を左右から補佐したのだった。
(実物の帝業がありのままに『神の業』であるからこそ、東洋では政治史が重んじられて来てもいる。
本物の神の業というものを決して軽んじたりしてはならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・商頌・長発より)
善行として大いに奨励するような類いの邪教の保護にこそ一役買ってしまっている。信教などは寺社奉行
によって厳重な監査の対象となっていた時代の日本においてこそ、そんな邪教の肥大化こそは防がれても
いたわけだから、信教の自由というもの自体、邪教の振興にばかり与してしまうものであるのが確かだ。
信と行の混同や信教の自由こそは、信と行の分別を付けるまともな信教を日陰へと追いやる原因とも
なってしまっている。聖書信仰を是としている以上は寸分たりとも儒学の信仰が叶わないのとも同じように、
信仰の乱れこそが「悪教は良教を駆逐する」といった事態を招いてしまいもする。信教全般を駆逐するため
ではなく、邪教を駆逐することで正教を保護するためにこそ、信教の是正というものもまた必要とされるのである。
「昔中葉に在りて、震いて且つ業なるもの有り。允なる天子、卿士も降れり、実に維れ阿衡、実に商王に左右す」
「昔、(当時から見て)中世のころ、震撼するような大いなる神の業があった。殷の王が真の天子であったために、
諸国の公卿たちも心からそこに服した。ついには名臣伊尹までもが現れて、殷の王を左右から補佐したのだった。
(実物の帝業がありのままに『神の業』であるからこそ、東洋では政治史が重んじられて来てもいる。
本物の神の業というものを決して軽んじたりしてはならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・商頌・長発より)
奪って与え、害して施すマッチポンプを主体とした部類の文化文明こそは、
プラスマイナスゼロ以下のあるよりもないほうがマシな悪影響しか
この世にもたらさないままに終わることが決定付けられている。
そうであることがいま如実に現実化しているのが、ブラックアフリカのキリスト教国の
現状でもある。元はといえば完全な未開の土人社会であったところに、マッチポンプを
教理としたキリスト教圏の侵略の魔の手が襲い掛かり、以前にはあり得なかったような
大規模な飢饉や、近代兵装を用いての深刻な戦乱状態を来たすようになってしまった。
同様の侵略によって、経済面ではブラックアフリカ並みの疲弊状態に置かれてしまって
いる今のインドなども、麻薬汚染などのそれなりの問題を来たしてしまってはいるものの、
最悪級の飢餓や戦乱が常態化してしまっているブラックアフリカなどと比べれば、まだ
観光地として楽しめる程度の柔和さが保てていたりもする。それは、インド独自の
伝統文化がマッチポンプを主体としたものなどではなく、人々に逆境をものともしない
精神からの強さすら与えるものであったからで、そのような伝統文化によって聖書圏による
文化的な侵略を防止することを通じて、人災としての社会問題を未然に防げてもいるのだ。
地域によって程度の違いはあるものの、マッチポンプを究極的な志向としている聖書信仰が
この世にもたらしている影響は、どれもプラスマイナスゼロ以下の悪影響ばかりであり、
ただその受容が抑制や防止できている限りにおいて、多少なりともマシ以上であることが
あるばかりである。それは、物理的にもエントロピー増大則によってその絶対性が確証されて
いることであり、純粋な科学的発想に即して価値がないと見なすことができるものでもある。
エントロピーの増大が物理的に絶対的であるから、同程度の事物を構築することよりも
破壊することのほうが必ずたやすい。コップからこぼした水を元に戻すよりは、ただ
こぼすだけのほうが遥かに簡単なことであり、その簡単さに慣れてしまった以上は、
修復や構築を丹念に心がけていく困難さをどうしても疎かにしてしまいがちになる。
プラスマイナスゼロ以下のあるよりもないほうがマシな悪影響しか
この世にもたらさないままに終わることが決定付けられている。
そうであることがいま如実に現実化しているのが、ブラックアフリカのキリスト教国の
現状でもある。元はといえば完全な未開の土人社会であったところに、マッチポンプを
教理としたキリスト教圏の侵略の魔の手が襲い掛かり、以前にはあり得なかったような
大規模な飢饉や、近代兵装を用いての深刻な戦乱状態を来たすようになってしまった。
同様の侵略によって、経済面ではブラックアフリカ並みの疲弊状態に置かれてしまって
いる今のインドなども、麻薬汚染などのそれなりの問題を来たしてしまってはいるものの、
最悪級の飢餓や戦乱が常態化してしまっているブラックアフリカなどと比べれば、まだ
観光地として楽しめる程度の柔和さが保てていたりもする。それは、インド独自の
伝統文化がマッチポンプを主体としたものなどではなく、人々に逆境をものともしない
精神からの強さすら与えるものであったからで、そのような伝統文化によって聖書圏による
文化的な侵略を防止することを通じて、人災としての社会問題を未然に防げてもいるのだ。
地域によって程度の違いはあるものの、マッチポンプを究極的な志向としている聖書信仰が
この世にもたらしている影響は、どれもプラスマイナスゼロ以下の悪影響ばかりであり、
ただその受容が抑制や防止できている限りにおいて、多少なりともマシ以上であることが
あるばかりである。それは、物理的にもエントロピー増大則によってその絶対性が確証されて
いることであり、純粋な科学的発想に即して価値がないと見なすことができるものでもある。
エントロピーの増大が物理的に絶対的であるから、同程度の事物を構築することよりも
破壊することのほうが必ずたやすい。コップからこぼした水を元に戻すよりは、ただ
こぼすだけのほうが遥かに簡単なことであり、その簡単さに慣れてしまった以上は、
修復や構築を丹念に心がけていく困難さをどうしても疎かにしてしまいがちになる。
そうならないためには、わざわざコップから水をこぼしておいて後からくみ上げる
みたいな遊び心をさしはさむ不埒さを根こそぎ排していくしかない。わざわざコップの
水をこぼしたりせずに、始めからこぼしたりしないようにする慎重さを保ったままでいる、
そういった努力精進の積み重ねだけが、エントロピーの増大が遍在するこの世界において
プラスマイナスゼロ以上の成果を挙げる糧ともなるのだから、わざわざ必要もなくあえて
好き好んで自分からコップの水をこぼすようなマッチポンプを許していいわけがないのである。
信教ではなく、国家規模の為政のあり方としてマッチポンプに相当するのが覇道(覇権主義)
であり、無為自然のままであればそれでいい所にわざわざ征服の魔の手を広げて行って、
それで征服地の安全を保障したりすることが典型的なマッチポンプとなっている。この逆を
行くのが王道であり、自分たちからの外界侵略は徹底して自制する一方、自国内の統治には
手塩をかけて、諸外国が自然と自分たちのあり方に随順して行こうとするようにもなったり
することを目指す。こちらは、マッチポンプの「マッチ」となる外界侵略を一切介すること
なく天下の泰平統治を企図しているものだから、マッチポンプの条件を満たしてはおらず、
故に、世の中にプラマイゼロ以上の好影響をも及ぼし得ることが決定付けられてもいる。
「大道廃れて仁義あり」という物言いで、老子も王道統治と覇道支配の対立を両成敗しては
いるけれども、王道統治には世の中にプラマイゼロ以上の好影響を及ぼすことが可能である
一方、覇道支配にはそれが不可能であり、ただ専ら悪影響ばかりを及ぼすしかないといった
両者の相違は厳然としてあるものである。覇権主義による世の中の荒廃が極まって、破滅の危機に
まで陥ってしまった時に、否応なく王道統治に切り替えての修復を試みていくとすればこれはもう
一つの「縁起」であるといえ、もはや仏法の真理にすら即しているともいえるから、仏教よりは
ずいぶんと大雑把な真理の概括を取り扱っているだけの老荘なども押し黙るほかはないといえる。
みたいな遊び心をさしはさむ不埒さを根こそぎ排していくしかない。わざわざコップの
水をこぼしたりせずに、始めからこぼしたりしないようにする慎重さを保ったままでいる、
そういった努力精進の積み重ねだけが、エントロピーの増大が遍在するこの世界において
プラスマイナスゼロ以上の成果を挙げる糧ともなるのだから、わざわざ必要もなくあえて
好き好んで自分からコップの水をこぼすようなマッチポンプを許していいわけがないのである。
信教ではなく、国家規模の為政のあり方としてマッチポンプに相当するのが覇道(覇権主義)
であり、無為自然のままであればそれでいい所にわざわざ征服の魔の手を広げて行って、
それで征服地の安全を保障したりすることが典型的なマッチポンプとなっている。この逆を
行くのが王道であり、自分たちからの外界侵略は徹底して自制する一方、自国内の統治には
手塩をかけて、諸外国が自然と自分たちのあり方に随順して行こうとするようにもなったり
することを目指す。こちらは、マッチポンプの「マッチ」となる外界侵略を一切介すること
なく天下の泰平統治を企図しているものだから、マッチポンプの条件を満たしてはおらず、
故に、世の中にプラマイゼロ以上の好影響をも及ぼし得ることが決定付けられてもいる。
「大道廃れて仁義あり」という物言いで、老子も王道統治と覇道支配の対立を両成敗しては
いるけれども、王道統治には世の中にプラマイゼロ以上の好影響を及ぼすことが可能である
一方、覇道支配にはそれが不可能であり、ただ専ら悪影響ばかりを及ぼすしかないといった
両者の相違は厳然としてあるものである。覇権主義による世の中の荒廃が極まって、破滅の危機に
まで陥ってしまった時に、否応なく王道統治に切り替えての修復を試みていくとすればこれはもう
一つの「縁起」であるといえ、もはや仏法の真理にすら即しているともいえるから、仏教よりは
ずいぶんと大雑把な真理の概括を取り扱っているだけの老荘なども押し黙るほかはないといえる。
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