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聖書 Part10
▼ページ最下部
地球人類にとっての最も標準的な聖書として、誰しもがその地位を疑うことのない聖書、四書五経。
その全文はあくまで二千二百年以上前に用意されたものではあるものの(偽古文尚書の一部を除く)、
論語・大学・中庸・孟子の四書と、易経・詩経・書経(尚書)・礼記・春秋の五経を合わせて
「四書五経」として定型化されたのは宋代以降、朱子がこれらの経書を特薦してからである。
それ以前は四書五経だけでなく、他の数多の経書が四書五経並みかそれ以上もの扱いすらをも受けていた。
今でも「孝経」などが儒学の入門書として読むべき筆頭格として重んじられたりもしているが、
昔はそのような扱いすらをも受けていたのに、今では相当に程度の低い経書として扱われるように
なった儒書もいくらかあり、その代表格に性悪論を説く荀子の教説集「荀子」がありもする。
荀子の教説は、孟子の教説(性善論や臨戦論など)と決定的に食い違っている部分があり、
実際に荀子自身も「荀子」非十二子第六で孟子を槍玉に挙げつつその主張を非難するなどしている。
そのため、新儒学の大家である朱子が孟子の教説のほうに軍配を挙げたことを通じて、荀子の教説
のほうは「あくまで反面教師として扱うべきもの」として取り扱われるようになったのである。
ただ、荀子の自説はともかく、その知識や博学さは目を見張るものがある。「荀子」を実際に読めば
分かるとおり、単なる学知の披露度では孟子以上であり、文飾にかけても当時の究極級のものであった
だろうことがうかがえる。(そのため、諸子百家の文筆が粗雑で典雅さに欠けると非難していた
司馬遷までもが、「史記」礼書で「荀子」の文章を多量に引用するなどしてもいる)
にもかかわらず荀子は孟子以下とされ、朱子学はおろかその他の新儒学すらもが、荀子以上にも孟子を
尊重する道を歩んでいったのである。それはなぜかといえば、孟子の教説は簡易であっても誠実さや
情熱に満ちている一方、荀子の教説は博学ではあっても皮相的で誠実さにも欠けるものだったからである。

その全文はあくまで二千二百年以上前に用意されたものではあるものの(偽古文尚書の一部を除く)、
論語・大学・中庸・孟子の四書と、易経・詩経・書経(尚書)・礼記・春秋の五経を合わせて
「四書五経」として定型化されたのは宋代以降、朱子がこれらの経書を特薦してからである。
それ以前は四書五経だけでなく、他の数多の経書が四書五経並みかそれ以上もの扱いすらをも受けていた。
今でも「孝経」などが儒学の入門書として読むべき筆頭格として重んじられたりもしているが、
昔はそのような扱いすらをも受けていたのに、今では相当に程度の低い経書として扱われるように
なった儒書もいくらかあり、その代表格に性悪論を説く荀子の教説集「荀子」がありもする。
荀子の教説は、孟子の教説(性善論や臨戦論など)と決定的に食い違っている部分があり、
実際に荀子自身も「荀子」非十二子第六で孟子を槍玉に挙げつつその主張を非難するなどしている。
そのため、新儒学の大家である朱子が孟子の教説のほうに軍配を挙げたことを通じて、荀子の教説
のほうは「あくまで反面教師として扱うべきもの」として取り扱われるようになったのである。
ただ、荀子の自説はともかく、その知識や博学さは目を見張るものがある。「荀子」を実際に読めば
分かるとおり、単なる学知の披露度では孟子以上であり、文飾にかけても当時の究極級のものであった
だろうことがうかがえる。(そのため、諸子百家の文筆が粗雑で典雅さに欠けると非難していた
司馬遷までもが、「史記」礼書で「荀子」の文章を多量に引用するなどしてもいる)
にもかかわらず荀子は孟子以下とされ、朱子学はおろかその他の新儒学すらもが、荀子以上にも孟子を
尊重する道を歩んでいったのである。それはなぜかといえば、孟子の教説は簡易であっても誠実さや
情熱に満ちている一方、荀子の教説は博学ではあっても皮相的で誠実さにも欠けるものだったからである。

よく本人たちの言うことを味わいつつ「孟子」や「荀子」を読んでみれば、孟子の言い分には心の底から
突き動かされるような厚みがあることがうかがえる一方、荀子の言い分は薄っぺらくて、どこか読者の
機嫌をうかがうような下卑た態度と思えざるを得ないような所がある。孟子は孔子のいう「巧言令色」
を排している一方、荀子はそのあたりを排しきれていない。だからこそ存命中に李斯や韓非のような、
腐敗まみれな時の権力者に好まれるほどもの門弟を多数排出しもしたのだが、同時にそのせいで
李斯や韓非を拷問死や服毒死や一族郎党皆殺しのような非業の運命に追いやりもしたのだった。
結局、その学知の真偽については、孟子だけでなく荀子もそれなりの信憑性が置けるものである。
しかし、その自説の真偽については、孟子の自説のほうが真であり、荀子の自説のほうが偽であった。
性善説こそは真であり、性悪説こそは偽であるから、孟子の言行には心動かされる一方、荀子の言行には
目を見張る程度のことはあっても、心動かされるまでのことはない。そこが両者の優劣を決定的に分かっている。
人間の本性こそは善だから、本性を見失って悪人と化してしまった人間をその心から矯正して行って
やったりすることもできない。あくまで刑罰や身分差別のような厳酷な実力行使によって、本性の自省を
可能とできるような環境にまず持って行ってやらねばならない。実際のところ、世の中というものもそういう風に
していかなければ埒が明かないようにもなっているから、社会的な実証に即しても孟子の性善説のほうが真であり、
本性の悪を外的な礼儀礼節によって正して行くべきだとする荀子の自説のほうが偽であるとも断じられるのである。
突き動かされるような厚みがあることがうかがえる一方、荀子の言い分は薄っぺらくて、どこか読者の
機嫌をうかがうような下卑た態度と思えざるを得ないような所がある。孟子は孔子のいう「巧言令色」
を排している一方、荀子はそのあたりを排しきれていない。だからこそ存命中に李斯や韓非のような、
腐敗まみれな時の権力者に好まれるほどもの門弟を多数排出しもしたのだが、同時にそのせいで
李斯や韓非を拷問死や服毒死や一族郎党皆殺しのような非業の運命に追いやりもしたのだった。
結局、その学知の真偽については、孟子だけでなく荀子もそれなりの信憑性が置けるものである。
しかし、その自説の真偽については、孟子の自説のほうが真であり、荀子の自説のほうが偽であった。
性善説こそは真であり、性悪説こそは偽であるから、孟子の言行には心動かされる一方、荀子の言行には
目を見張る程度のことはあっても、心動かされるまでのことはない。そこが両者の優劣を決定的に分かっている。
人間の本性こそは善だから、本性を見失って悪人と化してしまった人間をその心から矯正して行って
やったりすることもできない。あくまで刑罰や身分差別のような厳酷な実力行使によって、本性の自省を
可能とできるような環境にまず持って行ってやらねばならない。実際のところ、世の中というものもそういう風に
していかなければ埒が明かないようにもなっているから、社会的な実証に即しても孟子の性善説のほうが真であり、
本性の悪を外的な礼儀礼節によって正して行くべきだとする荀子の自説のほうが偽であるとも断じられるのである。
人間の本性の部分にある善性は信用できる。のみならず、人が最高の信頼を置くべき対象でもあり、
どんな信頼も最後はそこにこそ帰結せねばならないものである。人間の心を一切信用しないと
いうのでは、結局信じるべきものを信じるということを完全に拒むことにもなり、そこで神を
信じたりするというのなら、そのような神が信じるべきでない神であることまでもが確かである。
確かに、本性の所の善性を見失うことで、上っ面だけの振る舞いしかできなくなってしまったような
人間の言うことなどは全く信用に値するものでもないが、だからといって人を信じず、人の心に
信頼の集約先を一切置かないというのなら、もはやどこにも信ずるべきものがなくなるばかりである。
それこそ、人の心の本当のあり方というものを理解できていない、無知者の致命的な事実誤認である。
「万章問うて曰く、敢えて問う交際は何をか心とすべきか。孟子曰く、恭なれ」
「孟子の門弟の万章が尋ねた。『交際にかけては何に心を尽くすべきでしょうか』
孟先生は答えられた。『(相手を信頼した)恭敬の心でいることだ』(孟子は性善論者だから、
相手の本性の部分に偏在する善性を尊重して、まずは人に対して信頼的な態度でいろというのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・四より)
「孔子曰く、操れば則ち存し、舍つれば則ち亡う。出入時無く、其の郷を知る莫しと。惟れ心の謂いか」
「孔先生も『ちゃんと保っておこうとすれば持っていられるが、捨ててしまえば完全に失ってしまう。
出るも入るもその時すら定まらず、どこを一番の居場所としているのかも知れない』と言われていた。
私はこれは『心』のことを言っているのだと解釈している。(上記のような性善説を基調とした論陣を
敷きながらも、あくまで孟子自身も人が心を失うのはたやすいことだとも考えているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——告子章句上・八より)
どんな信頼も最後はそこにこそ帰結せねばならないものである。人間の心を一切信用しないと
いうのでは、結局信じるべきものを信じるということを完全に拒むことにもなり、そこで神を
信じたりするというのなら、そのような神が信じるべきでない神であることまでもが確かである。
確かに、本性の所の善性を見失うことで、上っ面だけの振る舞いしかできなくなってしまったような
人間の言うことなどは全く信用に値するものでもないが、だからといって人を信じず、人の心に
信頼の集約先を一切置かないというのなら、もはやどこにも信ずるべきものがなくなるばかりである。
それこそ、人の心の本当のあり方というものを理解できていない、無知者の致命的な事実誤認である。
「万章問うて曰く、敢えて問う交際は何をか心とすべきか。孟子曰く、恭なれ」
「孟子の門弟の万章が尋ねた。『交際にかけては何に心を尽くすべきでしょうか』
孟先生は答えられた。『(相手を信頼した)恭敬の心でいることだ』(孟子は性善論者だから、
相手の本性の部分に偏在する善性を尊重して、まずは人に対して信頼的な態度でいろというのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・四より)
「孔子曰く、操れば則ち存し、舍つれば則ち亡う。出入時無く、其の郷を知る莫しと。惟れ心の謂いか」
「孔先生も『ちゃんと保っておこうとすれば持っていられるが、捨ててしまえば完全に失ってしまう。
出るも入るもその時すら定まらず、どこを一番の居場所としているのかも知れない』と言われていた。
私はこれは『心』のことを言っているのだと解釈している。(上記のような性善説を基調とした論陣を
敷きながらも、あくまで孟子自身も人が心を失うのはたやすいことだとも考えているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——告子章句上・八より)
>>3
まず、そちらの言の結びが、“無知者の致命的な事実誤認”となっていますが、
それは“人の心に 信頼の集約先を一切置かない”ことが不始末となっている風で、
さらにその波及の元は“本性の所の善性を見失うことで、上っ面だけの振る舞いしか
できなくなってしまったような 人間の言うことなどは全く信用に値するものでもないが、”
と前置きをしておられます。
で、
>そこで神を 信じたりするというのなら、
>そのような神が信じるべきでない神であることまでもが確かである。
とありますが、仏だろうが神だろうが、宗教的なことがらについての信じる行為は、
その人間の根本に由来しておりませんか? どの宗教が正しいとかの話しではなく、
そちらがレスの頭で、“人間の本性の部分にある善性は信用できる”と言い、
さらに宗教などでの信心は、その人それぞれの周囲の評価などを度外視した人間的な行為ではないですかね?
それが、妄信であればあるほど、なりふり構わない言動をしたりすることもあるようで、
倫理や社会通念など明後日においている感じで、より濃いような気もしますが。
人間の心とおっしゃるのなら、その人が信じる神が“信じるべき神でない”と誰が否定できますでしょうか?
(レスの引用はレスから直接コピペで、半角スペースは原文ママです)
まず、そちらの言の結びが、“無知者の致命的な事実誤認”となっていますが、
それは“人の心に 信頼の集約先を一切置かない”ことが不始末となっている風で、
さらにその波及の元は“本性の所の善性を見失うことで、上っ面だけの振る舞いしか
できなくなってしまったような 人間の言うことなどは全く信用に値するものでもないが、”
と前置きをしておられます。
で、
>そこで神を 信じたりするというのなら、
>そのような神が信じるべきでない神であることまでもが確かである。
とありますが、仏だろうが神だろうが、宗教的なことがらについての信じる行為は、
その人間の根本に由来しておりませんか? どの宗教が正しいとかの話しではなく、
そちらがレスの頭で、“人間の本性の部分にある善性は信用できる”と言い、
さらに宗教などでの信心は、その人それぞれの周囲の評価などを度外視した人間的な行為ではないですかね?
それが、妄信であればあるほど、なりふり構わない言動をしたりすることもあるようで、
倫理や社会通念など明後日においている感じで、より濃いような気もしますが。
人間の心とおっしゃるのなら、その人が信じる神が“信じるべき神でない”と誰が否定できますでしょうか?
(レスの引用はレスから直接コピペで、半角スペースは原文ママです)
所詮小説レベル
>>4
実際、大抵のまともな宗教は人の心の修養を念頭に置いているわけだけれども。
「イエスは人間の心を知っておられる。イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、
そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、
イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
人間についてだれからも証しをしてもらう必要がなかったからである。
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」
(権力犯罪聖書——通称聖書——ヨハネ禍音書2:23〜25)
驚くべきことに、イエキリは人の心には信ずるに値するものなど何もないとしている。
人の心の価値などを一切認めることなく、ただ外的な神に帰依しろとしている。
これこそは、人としての心の修養をかえって拒絶させることを本義とした
邪教となっていて、まあ、ここまで露骨な邪義を触れ回っているカルトでも
ない限りは、普通は信教もそれなりに心の修養を目的としていると考えていい。
実際、大抵のまともな宗教は人の心の修養を念頭に置いているわけだけれども。
「イエスは人間の心を知っておられる。イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、
そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、
イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
人間についてだれからも証しをしてもらう必要がなかったからである。
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」
(権力犯罪聖書——通称聖書——ヨハネ禍音書2:23〜25)
驚くべきことに、イエキリは人の心には信ずるに値するものなど何もないとしている。
人の心の価値などを一切認めることなく、ただ外的な神に帰依しろとしている。
これこそは、人としての心の修養をかえって拒絶させることを本義とした
邪教となっていて、まあ、ここまで露骨な邪義を触れ回っているカルトでも
ない限りは、普通は信教もそれなりに心の修養を目的としていると考えていい。
「イエスが人の心を信じていなかった」とヨハネ禍音書にある。
刑死して生き返るなんていう与太話を模倣することはできなくても、
人の心を信じないことぐらいは誰にでも真似することができる。
そして、人の心を信じないでいることを信仰によって実践しよう
とした結果、自他の心を信じもせず、人としての根本に当たる
心を蔑ろにする信者が出来上がるというわけだ。
心が心を信じないことを希求して、実際に当人が心を失う。
信仰は実際、そういうことにも悪用が可能なんだ。
信仰すなわち篤心だなんてことは全くない。むしろ心を
薄弱化や損失させるためにこそ信仰を為すこともまたできるのだ。
のめり込みが尽心に基づくのは、あくまで仁徳に基づく場合のみ。
仁徳に基づかないのめり込みは、かえって本人の心を失わせる原因となる。
刑死して生き返るなんていう与太話を模倣することはできなくても、
人の心を信じないことぐらいは誰にでも真似することができる。
そして、人の心を信じないでいることを信仰によって実践しよう
とした結果、自他の心を信じもせず、人としての根本に当たる
心を蔑ろにする信者が出来上がるというわけだ。
心が心を信じないことを希求して、実際に当人が心を失う。
信仰は実際、そういうことにも悪用が可能なんだ。
信仰すなわち篤心だなんてことは全くない。むしろ心を
薄弱化や損失させるためにこそ信仰を為すこともまたできるのだ。
のめり込みが尽心に基づくのは、あくまで仁徳に基づく場合のみ。
仁徳に基づかないのめり込みは、かえって本人の心を失わせる原因となる。
>>9
ええ、ええ、ですからー、、、。>>3ですね、これ。何度も言いますが、キリスト教が正しいとか
仏教が正しいとか、そういう話しを言っているのではないです。こちらは。ここのレスの自分の
言っていることに中にある矛盾に気がつかないですか? >>4のレスでのそちらの引用とそれぞれの
解釈、そしてそれらの他の言にかかる意味合いについて自身はまるで何とも思わないですか?
じゃあ、それはあとで、というか、>>9の話し。前提の引用はそちらが邪教と言っている宗教の
聖典ですが? そちらが>>3で人間の心の話しをベースに、神という存在(基督教に限っているんですかね?)が確実なものでないという話しに持っていっていますが、わたしは宗教への信奉もまた
人のこころの動作のうちにあり、他者において、その対象を否定するのは、おっしゃっていることに
全く相反すると言っているのです。単純に。すると、こんどはその指摘に対し、イエスという物が、
人の心に信を置かなかったことが、その宗教の欠陥であり、その証拠どこにあるかと言えば、
その邪教の聖典とは、これ如何に?
しかも、『ヨハネ禍音書』の引用部分で『人の心を信用していなかった』は、読み違えておられる
と思いますが。
わたしの解釈はこうです。
まず、人々はイエスの名を信じた。「名」とは身分や名跡であり、イエスのそれを信じる人々に
対しての表現は、冒頭に『イエスは人間の心を知っておられる』とあることから、どんな名跡を
つげられようが、それは表層の事柄に過ぎず、それよりも人の心の中を重んじていたという話しでは
ないんですか? そのヨハネうんちゃらの引用の最後の文言は、
“”人間についてだれからも証しをしてもらう必要がなかったからである。
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである”
と、なっていますよね?
こうなって来ると、そちらが常日頃、家柄が(って、どこにも品などそちらに感じ得ないが)どうとか
言っているそれ自体、おおよそ人の心よりも表層の某をアピールすることで、自己を堆くみせる
姑息な姿にしか見えない、というわけです。
ええ、ええ、ですからー、、、。>>3ですね、これ。何度も言いますが、キリスト教が正しいとか
仏教が正しいとか、そういう話しを言っているのではないです。こちらは。ここのレスの自分の
言っていることに中にある矛盾に気がつかないですか? >>4のレスでのそちらの引用とそれぞれの
解釈、そしてそれらの他の言にかかる意味合いについて自身はまるで何とも思わないですか?
じゃあ、それはあとで、というか、>>9の話し。前提の引用はそちらが邪教と言っている宗教の
聖典ですが? そちらが>>3で人間の心の話しをベースに、神という存在(基督教に限っているんですかね?)が確実なものでないという話しに持っていっていますが、わたしは宗教への信奉もまた
人のこころの動作のうちにあり、他者において、その対象を否定するのは、おっしゃっていることに
全く相反すると言っているのです。単純に。すると、こんどはその指摘に対し、イエスという物が、
人の心に信を置かなかったことが、その宗教の欠陥であり、その証拠どこにあるかと言えば、
その邪教の聖典とは、これ如何に?
しかも、『ヨハネ禍音書』の引用部分で『人の心を信用していなかった』は、読み違えておられる
と思いますが。
わたしの解釈はこうです。
まず、人々はイエスの名を信じた。「名」とは身分や名跡であり、イエスのそれを信じる人々に
対しての表現は、冒頭に『イエスは人間の心を知っておられる』とあることから、どんな名跡を
つげられようが、それは表層の事柄に過ぎず、それよりも人の心の中を重んじていたという話しでは
ないんですか? そのヨハネうんちゃらの引用の最後の文言は、
“”人間についてだれからも証しをしてもらう必要がなかったからである。
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである”
と、なっていますよね?
こうなって来ると、そちらが常日頃、家柄が(って、どこにも品などそちらに感じ得ないが)どうとか
言っているそれ自体、おおよそ人の心よりも表層の某をアピールすることで、自己を堆くみせる
姑息な姿にしか見えない、というわけです。
>>10の正誤です(すみません、今度はちゃんと推敲いたします)。
・3行目)言っていることに中にある矛盾に→言っていることの中にある矛盾に
・3行目〜4行目)それぞれの解釈、→それぞれのこちらの解釈
・2C/2L)確実なものでない→信じるべき神でない
※補足。この「神」ですが、わたしは基督教における神という前提で言っているのではないことを
確認しておいて下さい。おそらくは、この話しのヨハネウンチャラの引用は、そちらの予定の内に
あったようですね。
・2C/4L)おっしゃっていることに全く相反する→おっしゃっていることの意味がまったく相反してくる
・2C/6L)その証拠どこにあるかと言えば→その証拠がどこにあるかといえば信じるべきでない神とそちらがいう
〜〜
以上です。
・3行目)言っていることに中にある矛盾に→言っていることの中にある矛盾に
・3行目〜4行目)それぞれの解釈、→それぞれのこちらの解釈
・2C/2L)確実なものでない→信じるべき神でない
※補足。この「神」ですが、わたしは基督教における神という前提で言っているのではないことを
確認しておいて下さい。おそらくは、この話しのヨハネウンチャラの引用は、そちらの予定の内に
あったようですね。
・2C/4L)おっしゃっていることに全く相反する→おっしゃっていることの意味がまったく相反してくる
・2C/6L)その証拠どこにあるかと言えば→その証拠がどこにあるかといえば信じるべきでない神とそちらがいう
〜〜
以上です。
神を信じるだ信じないだは一旦おいといてさ。
人の心を知っていればこそ、そんなものは信じないつってんだ。
これは、イエキリが荀子などと同じ性悪論者であったことの記録だ。
そういう記録があるから、荀子が本性劣悪な心を礼制によって正して
行こうとしたのと同じようにして、キリシタンもまた本性劣悪な人の心を
外的な神への信仰などによって正して行こうなどともしてしまったわけだ。
それは、性善説が真実である場合には、かえってよくないことなんだ。
自分の外側に心の正し所などを求めてるようじゃ、かえって心の正しさを見失う。
人間が正心の拠り所とすべき善は己れの本性の部分にしか存在しないのだから、
それを全否定して外的な治療などを乞うたりしてるようじゃ、
かえって正心を損ねた状態が磐石なものと化してしまう。
人間の本性こそは善である、そこにしか最終的な善の拠り所は存在しない
という事実関係があればこその、そのような特殊事情があるわけだ。
人の心を知っていればこそ、そんなものは信じないつってんだ。
これは、イエキリが荀子などと同じ性悪論者であったことの記録だ。
そういう記録があるから、荀子が本性劣悪な心を礼制によって正して
行こうとしたのと同じようにして、キリシタンもまた本性劣悪な人の心を
外的な神への信仰などによって正して行こうなどともしてしまったわけだ。
それは、性善説が真実である場合には、かえってよくないことなんだ。
自分の外側に心の正し所などを求めてるようじゃ、かえって心の正しさを見失う。
人間が正心の拠り所とすべき善は己れの本性の部分にしか存在しないのだから、
それを全否定して外的な治療などを乞うたりしてるようじゃ、
かえって正心を損ねた状態が磐石なものと化してしまう。
人間の本性こそは善である、そこにしか最終的な善の拠り所は存在しない
という事実関係があればこその、そのような特殊事情があるわけだ。
礼節を尊ぶことも、神仏を信じることも、
それによって心を正して行こうなどとしたのでは、本末転倒になる。
それこそ、心の正しさを失った状態を磐石化させる原因になってしまう。
心の正しさだけは自分で会得して、その状態を保って行くために
礼節を尊んだり神仏を信じたりするのが、正しいあり方。
そうであって初めて、礼儀礼節や神仏信仰が多少なりともの好影響を及ぼせる。
それによって心を正して行こうなどとしたのでは、本末転倒になる。
それこそ、心の正しさを失った状態を磐石化させる原因になってしまう。
心の正しさだけは自分で会得して、その状態を保って行くために
礼節を尊んだり神仏を信じたりするのが、正しいあり方。
そうであって初めて、礼儀礼節や神仏信仰が多少なりともの好影響を及ぼせる。
>>17
ほうほう、それで? つーか、話しになりません。
>>10で二度目として言ってますよね? 「だから、神や仏のどちらが正しいとかの話しでなく」と。
なんで、こっちの理論にいつの間に乗っかってるんですか?
で、>>9もその前のレスとほぼ同じ意味のレス(ヨハネの解体新書だかなんだかを引き合いにして)を
しているから、そちらのレスがそもそもの矛盾から出発しているから、言い訳も矛盾を帯びること
になることが露呈したわけですよ。それが、>>11までです。ほんと無様です。それを誤摩化す
気の抜けたレスはいりません。
では、もう一度、>>3の指摘に帰りましょう。(おかしいよ、そっち。的を射ないよ、まったく)
で、>>17は、
「人の心を一切信頼の対象とすべきでない」って、そんな文言>>3のどこにもないですがね?
ほうほう、それで? つーか、話しになりません。
>>10で二度目として言ってますよね? 「だから、神や仏のどちらが正しいとかの話しでなく」と。
なんで、こっちの理論にいつの間に乗っかってるんですか?
で、>>9もその前のレスとほぼ同じ意味のレス(ヨハネの解体新書だかなんだかを引き合いにして)を
しているから、そちらのレスがそもそもの矛盾から出発しているから、言い訳も矛盾を帯びること
になることが露呈したわけですよ。それが、>>11までです。ほんと無様です。それを誤摩化す
気の抜けたレスはいりません。
では、もう一度、>>3の指摘に帰りましょう。(おかしいよ、そっち。的を射ないよ、まったく)
で、>>17は、
「人の心を一切信頼の対象とすべきでない」って、そんな文言>>3のどこにもないですがね?
なんだ、sheもララァなんかと同じただのpsycho circus pierrotか。
おまえに場合分けを駆使した中正論は理解できないようだ。
まずその極論志向からおまえ自身が卒業して行くしかない。
おまえに場合分けを駆使した中正論は理解できないようだ。
まずその極論志向からおまえ自身が卒業して行くしかない。
禅門などでは、自分たちが自力作善による現世往生を志す「一世教」であることに合わせて、
他力本願の来世往生を希う浄土信仰やアブラハム教などを「二世教」と呼ぶ場合がある。
当然自分たちが一世教の帰依者であるわけだから、それこそは至上であるとしている
わけだけれども、二世教が世界的な猛威を振るっていることなどにも対応して、
「二世教で満足できるようなものはそうすればいい」などとも言ったりしている。
(以上は玄峰老師が「無門関提唱」で論じられていたことの略抄でもある)
ただ、やはり二世教ばかりが「宗教の王道」として世界的に持て囃されている現代世界こそは、
人類が滅亡の危機に見舞われているほどもの乱世でもある。現世を蔑ろにして来世を希ってばかり
いるわけだから、当然現世のほうは荒廃に見舞われていくこととなる。「だからこそ来世での
往生を願う」ではなく、来世の往生ばかりに囚われた結果、現世の破滅を招いているのである。
日本浄土教などは、公家の腐敗と武家の専横が深刻化したことにより乱世がもたらされて後、
鎌倉時代の中期に法然上人や親鸞聖人によって初めて民間にまで行き渡ったものであり、
(それ以前にも空也上人などによる布教があったが、まだ勢力を擁するまでには至らなかった)
乱世が別の理由でもたらされてから、仕方なく来世での極楽浄土への往生を願うという順序を
辛うじて守っている。だからこそ、来世往生ばかりを乞い求めた結果、自分たちが現世を
蔑ろにして乱世を招いたなどということにはなっていないことまでもが確かとなっている。
キリスト教などは、そうではないのである。妾腹の私生児が妄言妄動を来たした挙句に
無実の罪で重罪人の代わりに処刑されたという、かの世界一有名な疑獄事件が人々に決定的な
心の荒廃を植え付けた結果として、西洋社会やイスラム勃興以前の中東社会が暗黒の世へと
陥れられたのである。そこから来世での往生というものを信者に希うよう強要しているわけだから、
こちらの場合は、自分たちで破滅を招いておいて来世往生を欲するという、醜悪なマッチポンプ
としての条件を満たしてしまっているのである。(そのキリスト教の撃退を目的として創立された
イスラム教などは、教義の良し悪しはともかくとして、マッチポンプの条件は満たしていない)
他力本願の来世往生を希う浄土信仰やアブラハム教などを「二世教」と呼ぶ場合がある。
当然自分たちが一世教の帰依者であるわけだから、それこそは至上であるとしている
わけだけれども、二世教が世界的な猛威を振るっていることなどにも対応して、
「二世教で満足できるようなものはそうすればいい」などとも言ったりしている。
(以上は玄峰老師が「無門関提唱」で論じられていたことの略抄でもある)
ただ、やはり二世教ばかりが「宗教の王道」として世界的に持て囃されている現代世界こそは、
人類が滅亡の危機に見舞われているほどもの乱世でもある。現世を蔑ろにして来世を希ってばかり
いるわけだから、当然現世のほうは荒廃に見舞われていくこととなる。「だからこそ来世での
往生を願う」ではなく、来世の往生ばかりに囚われた結果、現世の破滅を招いているのである。
日本浄土教などは、公家の腐敗と武家の専横が深刻化したことにより乱世がもたらされて後、
鎌倉時代の中期に法然上人や親鸞聖人によって初めて民間にまで行き渡ったものであり、
(それ以前にも空也上人などによる布教があったが、まだ勢力を擁するまでには至らなかった)
乱世が別の理由でもたらされてから、仕方なく来世での極楽浄土への往生を願うという順序を
辛うじて守っている。だからこそ、来世往生ばかりを乞い求めた結果、自分たちが現世を
蔑ろにして乱世を招いたなどということにはなっていないことまでもが確かとなっている。
キリスト教などは、そうではないのである。妾腹の私生児が妄言妄動を来たした挙句に
無実の罪で重罪人の代わりに処刑されたという、かの世界一有名な疑獄事件が人々に決定的な
心の荒廃を植え付けた結果として、西洋社会やイスラム勃興以前の中東社会が暗黒の世へと
陥れられたのである。そこから来世での往生というものを信者に希うよう強要しているわけだから、
こちらの場合は、自分たちで破滅を招いておいて来世往生を欲するという、醜悪なマッチポンプ
としての条件を満たしてしまっているのである。(そのキリスト教の撃退を目的として創立された
イスラム教などは、教義の良し悪しはともかくとして、マッチポンプの条件は満たしていない)
それで結局、マッチポンプの条件を満たしている二世教こそは、プラスマイナスゼロ以下の
有害無益な悪影響を人と世にもたらすことが原理的に運命付けられてもいる。二世教であっても
マッチポンプとしての条件を満たしていない信教であれば、とんでもなくいい影響をもたらす
とまではいかずとも、大いなる害悪をもたらすということもない結果をもたらすものである。
二世教ってのは、それぐらいのもんである。害があるか、害も益もないかという程のもの。
大いなる益をもたらそうというのなら、一世教や無宗教の儒学などによる精進が必要である。
それは、現世か来世かなどにも関係のないことであるから、玄峰老師も遷化の際に「旅に出るぞ、
支度しろ」と遺言し、未来永劫永世にわたるまでの精進の持続を示唆もされたのである。
二世教に価値が全くないなどとは言わない。ただ、現代人の多くが考えているよりも遥かに、
二世教の存在価値というものは低い。それこそあるよりもないほうがマシな負の存在価値を
持った邪教も二世教にこそ多々あり得るもの。一世教も帰依姿勢が二世教的に成り下がった
挙句に腐敗してしまったりするものなのだから、そんな信教に帰依するぐらいなら、信教
なんか打ち捨ててしまったほうがマシであるということも確かに言えなくはないのである。
(自分たちも宗教者であるため、禅僧などがここまで突っ込んだ物言いをすることもないが)
激烈な他力信仰が心の修養に結び付くなんてのも、極めて低率な未曾有の事態であり、
そんなことはまずあり得ないぐらいのことと思ったがいい。もちろん皆無なわけでもないが、
奇跡的にそれを実現している浄土教の悪人正機説なども、種を明かしてみれば随分と粗末な
頓知となっている。そのような稀有な事例を含めて考えてみても、まあ、他力本願の二世教自体、
なくて済むならそうすりゃいいぐらいのものとして、成熟した大人なら考えておくべきである。
有害無益な悪影響を人と世にもたらすことが原理的に運命付けられてもいる。二世教であっても
マッチポンプとしての条件を満たしていない信教であれば、とんでもなくいい影響をもたらす
とまではいかずとも、大いなる害悪をもたらすということもない結果をもたらすものである。
二世教ってのは、それぐらいのもんである。害があるか、害も益もないかという程のもの。
大いなる益をもたらそうというのなら、一世教や無宗教の儒学などによる精進が必要である。
それは、現世か来世かなどにも関係のないことであるから、玄峰老師も遷化の際に「旅に出るぞ、
支度しろ」と遺言し、未来永劫永世にわたるまでの精進の持続を示唆もされたのである。
二世教に価値が全くないなどとは言わない。ただ、現代人の多くが考えているよりも遥かに、
二世教の存在価値というものは低い。それこそあるよりもないほうがマシな負の存在価値を
持った邪教も二世教にこそ多々あり得るもの。一世教も帰依姿勢が二世教的に成り下がった
挙句に腐敗してしまったりするものなのだから、そんな信教に帰依するぐらいなら、信教
なんか打ち捨ててしまったほうがマシであるということも確かに言えなくはないのである。
(自分たちも宗教者であるため、禅僧などがここまで突っ込んだ物言いをすることもないが)
激烈な他力信仰が心の修養に結び付くなんてのも、極めて低率な未曾有の事態であり、
そんなことはまずあり得ないぐらいのことと思ったがいい。もちろん皆無なわけでもないが、
奇跡的にそれを実現している浄土教の悪人正機説なども、種を明かしてみれば随分と粗末な
頓知となっている。そのような稀有な事例を含めて考えてみても、まあ、他力本願の二世教自体、
なくて済むならそうすりゃいいぐらいのものとして、成熟した大人なら考えておくべきである。
「成湯、桀を南巣に放つ、惟れ徳に慚ずる有り。曰く、予れ来世に台れを以って口実と為さんことを恐る」
「殷の湯王は暴虐の限りを尽くしていた夏の桀王を南巣に放伐して新たな王朝を創建した。しかし、
(放伐革命という)その所業に仁徳に照らし合わせて恥ずる所があったため、こう言って悔やんだ。
『私は次の世で、(私の所業が体制転覆の)口実となることを恐れている』(桀王の暴虐によって
『奴すら死ぬのなら共に死んだって構わない〈湯誓〉』というほどもの思いに駆られていた民衆たち
にとって、湯王による放伐革命でもたらされた治世はそれこそ『新しい世界への生まれ変わり』という
ほどのものであったに違いない。しかし、そうであっても当の湯王自身は、自らの行いが不徳ではなかったか
と羞じるところがったのである。民衆たちにとっての二世教的な救いを実現しながら、当の湯王自身は
二世教的な事態に及んだことを恥じた。二世教的志向はそれ自体が徳に即して恥ずべきものなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)
「殷の湯王は暴虐の限りを尽くしていた夏の桀王を南巣に放伐して新たな王朝を創建した。しかし、
(放伐革命という)その所業に仁徳に照らし合わせて恥ずる所があったため、こう言って悔やんだ。
『私は次の世で、(私の所業が体制転覆の)口実となることを恐れている』(桀王の暴虐によって
『奴すら死ぬのなら共に死んだって構わない〈湯誓〉』というほどもの思いに駆られていた民衆たち
にとって、湯王による放伐革命でもたらされた治世はそれこそ『新しい世界への生まれ変わり』という
ほどのものであったに違いない。しかし、そうであっても当の湯王自身は、自らの行いが不徳ではなかったか
と羞じるところがったのである。民衆たちにとっての二世教的な救いを実現しながら、当の湯王自身は
二世教的な事態に及んだことを恥じた。二世教的志向はそれ自体が徳に即して恥ずべきものなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)
完璧Ill。^^
>>20
(ええと。なんで携帯なんですか? 関係ないですが。PCは名無し投稿用ですか?
あー、こっち連投規制になるよ。携帯レスのあとだと。そういう意味? だとしたら、どんだけセコいんだよ)
で、それ何の話しですか?
場合分けを駆使した中世論? それはどこのレスですか? 説明していただけますか?
と、ここで理解できないヤツに、説明は不可能とか、言うんでしょうな? 何が、
人の心だよ、聴いて呆れます。本物(口だけの人間としての)ダこいつ。
もうグーの根も出なくなったら、前はレス切ってましたが、さすがに長ーく続くスレは、
意地でもアホなこじつけ続けるわけですね。本物の下衆だ。つまり身の程知らずの下の衆だ。
そちらは、バタイユも知らない、自然理念の形而上学が哲学においては西洋基督教の教義にある
普遍の作用をもとに体系づけられたことも知らずに、いっぽうで否定し、一方でエラそうに普遍が
どうのと宣い、引用したヨハネ伝の読み違えを認める勇気もない、まったくの腰抜けだ。
前に言ったよね? そちらの言動は「信が真なきゆえに、義は欺に成り果ててたか」と。
今も、同じ感想だ。人の心が基本の信条と言うならば、「したり止めたりすべからず」であるはず
が、その>>20のレスによってまったくそちらは持ち得るわけもないと言うのが、よくわかりました。
貴賤貴賤とわめく、心人。そんなものがおれば、そこには永劫機先などなし。
(ええと。なんで携帯なんですか? 関係ないですが。PCは名無し投稿用ですか?
あー、こっち連投規制になるよ。携帯レスのあとだと。そういう意味? だとしたら、どんだけセコいんだよ)
で、それ何の話しですか?
場合分けを駆使した中世論? それはどこのレスですか? 説明していただけますか?
と、ここで理解できないヤツに、説明は不可能とか、言うんでしょうな? 何が、
人の心だよ、聴いて呆れます。本物(口だけの人間としての)ダこいつ。
もうグーの根も出なくなったら、前はレス切ってましたが、さすがに長ーく続くスレは、
意地でもアホなこじつけ続けるわけですね。本物の下衆だ。つまり身の程知らずの下の衆だ。
そちらは、バタイユも知らない、自然理念の形而上学が哲学においては西洋基督教の教義にある
普遍の作用をもとに体系づけられたことも知らずに、いっぽうで否定し、一方でエラそうに普遍が
どうのと宣い、引用したヨハネ伝の読み違えを認める勇気もない、まったくの腰抜けだ。
前に言ったよね? そちらの言動は「信が真なきゆえに、義は欺に成り果ててたか」と。
今も、同じ感想だ。人の心が基本の信条と言うならば、「したり止めたりすべからず」であるはず
が、その>>20のレスによってまったくそちらは持ち得るわけもないと言うのが、よくわかりました。
貴賤貴賤とわめく、心人。そんなものがおれば、そこには永劫機先などなし。
ある雑貨屋さんが、問屋さんに買い付けに行ったとき、そこには店にある在庫商品と重複するような
商品ばかりで、仕入れなくともプロパー商品の量や質は事足りるので、何も買い付けをしなかった。
というような、物質の数量によって配置できる物ではないわけで。
つまり、そちらが掲げるゴギョウハコベラホトケノザ?の書は西洋の基督教的(なぜかこれに固執してますがー)土壌で育った思想?哲学?、なんでいいや、それをも内包しているからとか、
最近は、それゆえにこれを持ってすれば、それらのものがいかに排すべきものであるかがよくわかり、
またそれらを間違いを一切質すことができる、と言わんばかりでやんす。
大体、そちらの考えは西洋文化が入る前に寄っているから、それらがあると停滞するわけでしょう?
(漢籍を編んだ人たちは、西洋の考え方などに触れてもいない前提があり、なのでそこに
西洋思想がないのは当然で、だからといって、現代人もそれを排していくことが理にかなっている
とか、雄三毛猫が貴重だからと雄の白いネコをヘアカラーで三毛にするようなものだ)
で、冒頭のたとえ話は、そちらの姿勢を言っているのだが、東洋の漢籍を中心とした思想があれば
事足りるとは、森羅万象あますことなく網羅することの意味では全くないということ。逆に言え
ば、
森羅万象というものは、現在までにある悠久の時間の蓄積の上にある。だからといって、
その祖たる物がまた一番エラいと言うわけでもないし、大げさに人類すべてから、
その上のものまでに触れるという話しの中で排除という形があれば、
そこにたどり着くことは不可能になるということを知っていなければならない。
(森羅万象が歯抜け言葉になり「し○ら○んしょう」という無知の章が出来上がると言う次第)
西洋を知らぬところから始めるのでなく、つまり引用から話し(もはや論というには幼稚すぎる)が引き出されたり、
真意を扨措いたままに言葉の強調のみに活用しているのは、そちら>>1が殊更低くあることの現れだ。
商品ばかりで、仕入れなくともプロパー商品の量や質は事足りるので、何も買い付けをしなかった。
というような、物質の数量によって配置できる物ではないわけで。
つまり、そちらが掲げるゴギョウハコベラホトケノザ?の書は西洋の基督教的(なぜかこれに固執してますがー)土壌で育った思想?哲学?、なんでいいや、それをも内包しているからとか、
最近は、それゆえにこれを持ってすれば、それらのものがいかに排すべきものであるかがよくわかり、
またそれらを間違いを一切質すことができる、と言わんばかりでやんす。
大体、そちらの考えは西洋文化が入る前に寄っているから、それらがあると停滞するわけでしょう?
(漢籍を編んだ人たちは、西洋の考え方などに触れてもいない前提があり、なのでそこに
西洋思想がないのは当然で、だからといって、現代人もそれを排していくことが理にかなっている
とか、雄三毛猫が貴重だからと雄の白いネコをヘアカラーで三毛にするようなものだ)
で、冒頭のたとえ話は、そちらの姿勢を言っているのだが、東洋の漢籍を中心とした思想があれば
事足りるとは、森羅万象あますことなく網羅することの意味では全くないということ。逆に言え
ば、
森羅万象というものは、現在までにある悠久の時間の蓄積の上にある。だからといって、
その祖たる物がまた一番エラいと言うわけでもないし、大げさに人類すべてから、
その上のものまでに触れるという話しの中で排除という形があれば、
そこにたどり着くことは不可能になるということを知っていなければならない。
(森羅万象が歯抜け言葉になり「し○ら○んしょう」という無知の章が出来上がると言う次第)
西洋を知らぬところから始めるのでなく、つまり引用から話し(もはや論というには幼稚すぎる)が引き出されたり、
真意を扨措いたままに言葉の強調のみに活用しているのは、そちら>>1が殊更低くあることの現れだ。
「君子の道は始めは暗然としているが、次第に明らかとなって行く(中庸)」とか
「大いなる任務を帯びた人間はまず始めに心志を苦しまされる(孟子)」だとかいった風に、
まず率先して暗中模索の努力に務めた上で大いなる結果を出そうとすることが、
自力作善の徳行の基本となっている。故に、自力作善本位の儒者の有り様を
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/134941759...
上のように「盲目だ」などとまで決め付けるものが昔からいたのでもある。
他力本願の二世教の信者なども、現世が闇雲であったりすることは認めていて、
だからこそ来世での光明を期待したりはするわけだけれども、別に光明に与るための
現世での自助努力に務めたりするわけでもなく、ただただ闇を嫌って光を好むというばかりの
姿勢でいる。だからこそ、現世の暗雲の中ですら自助努力に勤めて行こうなどとする者を
「光を嫌って闇に溺れる者」だなどとまで決め付けてあざ笑ったりすることすらもがあるのである。
そんな他力本願者と自力作善者とが並存していたとして、なおかつ来世の往生など
あり得ないと確定してしまったとする。したらば、現世の暗闇の中から努力を積んで行こうとした
自力作善者こそは功労の結実による光明に与れる一方で、他力本願者のほうは今まで
甘受すべき闇すらをも拒絶して光への嗜好ばかりに明け暮れていた不実がたたって、
今からこそ真っ暗闇の中での幽閉生活を強いられて行くことにすらなってしまうのである。
辛うじて「これからの暗闇」を免れられることとなった二世教(浄土教、イスラム教、拝火教など)
はといえば、いずれも「信仰のための自制」こそを少なからず信者に促すものであった。
戒律主義のイスラム教や拝火教はおろか、無戒律の浄土教すらもが、信仰によって信者たちの
自制心を育ませる方便上の効能を伴っているものであった。であるからには、闇と汚濁に
まみれた現世における開き直りを信者に促すものでまではなかったわけで、そのような
堅実さが伴っていればこそ、他力本願といえども、来世の光明などなかったとしたところで、
今さら暗闇に突き落とされるような運命に見舞われることもなくて済んだわけである。
「大いなる任務を帯びた人間はまず始めに心志を苦しまされる(孟子)」だとかいった風に、
まず率先して暗中模索の努力に務めた上で大いなる結果を出そうとすることが、
自力作善の徳行の基本となっている。故に、自力作善本位の儒者の有り様を
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/134941759...
上のように「盲目だ」などとまで決め付けるものが昔からいたのでもある。
他力本願の二世教の信者なども、現世が闇雲であったりすることは認めていて、
だからこそ来世での光明を期待したりはするわけだけれども、別に光明に与るための
現世での自助努力に務めたりするわけでもなく、ただただ闇を嫌って光を好むというばかりの
姿勢でいる。だからこそ、現世の暗雲の中ですら自助努力に勤めて行こうなどとする者を
「光を嫌って闇に溺れる者」だなどとまで決め付けてあざ笑ったりすることすらもがあるのである。
そんな他力本願者と自力作善者とが並存していたとして、なおかつ来世の往生など
あり得ないと確定してしまったとする。したらば、現世の暗闇の中から努力を積んで行こうとした
自力作善者こそは功労の結実による光明に与れる一方で、他力本願者のほうは今まで
甘受すべき闇すらをも拒絶して光への嗜好ばかりに明け暮れていた不実がたたって、
今からこそ真っ暗闇の中での幽閉生活を強いられて行くことにすらなってしまうのである。
辛うじて「これからの暗闇」を免れられることとなった二世教(浄土教、イスラム教、拝火教など)
はといえば、いずれも「信仰のための自制」こそを少なからず信者に促すものであった。
戒律主義のイスラム教や拝火教はおろか、無戒律の浄土教すらもが、信仰によって信者たちの
自制心を育ませる方便上の効能を伴っているものであった。であるからには、闇と汚濁に
まみれた現世における開き直りを信者に促すものでまではなかったわけで、そのような
堅実さが伴っていればこそ、他力本願といえども、来世の光明などなかったとしたところで、
今さら暗闇に突き落とされるような運命に見舞われることもなくて済んだわけである。
正直、二世教こそは、この世の害悪の主体的な元凶になってしまいがちなものである。
今はたまたま聖書信仰がその代表格たり得ているけれども、他力本願の現世努力放り投げという
姿勢全般が罪悪に繋がりがちなものなのであり、普通に考えて忌むべきものなのである。
その中でたまたま害悪の抑制に与するような二世教があったとしたところで、むしろそのような
信教のほうが二世教のうちでは変則的なものとなっている。(だから浄土教の悪人正機説
なども見てくれ変則的な論説となっている)現世をないがしろにしてまで来世を希求するのと、
現世は現世でそれなりでいながら来世の光明までをも希求するのとでは、むしろ現世を蔑ろに
する場合のほうが「より二世教らしい」といえる。だから、二世教の一般的価値というものを
高く見積もるのであれば、自然と聖書信仰あたりが突出した権威性をも帯びてくるようになって
しまう。そうならないためには、聖書信仰という特定の信教を非とするだけでなく、二世教
という宗教的体裁全般の価値の見直しまでもが講じられていかなければならないのである。
ペルシャの哲学者スフラワルディーも、東方こそは光の精神文明、西方こそは闇の物質文明で
あるとする照明論哲学を展開しているが、東方こそは自力作善を主体とした文化の隆盛地と
なって来た一方、西方こそは他力本願を主体とした文化の蔓延地ともなっている。現世での
光の希求を拒絶して来世への嘱望に逃避して来たからこそ、現世の西洋文化こそは闇を主体
とした文化文明であり続けて来てしまった。それは結局、来世にしか光明を見出すべきでない
とした最悪級の二世教の根拠地ともなって来たからなのだから、真の光に与るためにこそ、
そのような志向を信者に強要する邪教の払拭を講じていくことで、西洋人までもが真の光明に
与っていけるようになるのだといえる。無論、真の光明に与りたいのかどうかは知らないが。
今はたまたま聖書信仰がその代表格たり得ているけれども、他力本願の現世努力放り投げという
姿勢全般が罪悪に繋がりがちなものなのであり、普通に考えて忌むべきものなのである。
その中でたまたま害悪の抑制に与するような二世教があったとしたところで、むしろそのような
信教のほうが二世教のうちでは変則的なものとなっている。(だから浄土教の悪人正機説
なども見てくれ変則的な論説となっている)現世をないがしろにしてまで来世を希求するのと、
現世は現世でそれなりでいながら来世の光明までをも希求するのとでは、むしろ現世を蔑ろに
する場合のほうが「より二世教らしい」といえる。だから、二世教の一般的価値というものを
高く見積もるのであれば、自然と聖書信仰あたりが突出した権威性をも帯びてくるようになって
しまう。そうならないためには、聖書信仰という特定の信教を非とするだけでなく、二世教
という宗教的体裁全般の価値の見直しまでもが講じられていかなければならないのである。
ペルシャの哲学者スフラワルディーも、東方こそは光の精神文明、西方こそは闇の物質文明で
あるとする照明論哲学を展開しているが、東方こそは自力作善を主体とした文化の隆盛地と
なって来た一方、西方こそは他力本願を主体とした文化の蔓延地ともなっている。現世での
光の希求を拒絶して来世への嘱望に逃避して来たからこそ、現世の西洋文化こそは闇を主体
とした文化文明であり続けて来てしまった。それは結局、来世にしか光明を見出すべきでない
とした最悪級の二世教の根拠地ともなって来たからなのだから、真の光に与るためにこそ、
そのような志向を信者に強要する邪教の払拭を講じていくことで、西洋人までもが真の光明に
与っていけるようになるのだといえる。無論、真の光明に与りたいのかどうかは知らないが。
「飶たる其の香り、邦家の光なる。椒たる其の馨り、胡考の寧らぎなる。
且のみ且く有るに匪ず、今のみ今の斯くに匪ず、振古よりして茲の如し」
「豊穣のために神前に祭られた供物もかぐわしく、邦家の光となり、長老たちにとっての
安心の糧ともなっている。昔こうだったというのでも、今に限ってこうだというのでもない。
昔からの努力があるからこそ斯くの如くでいられるのである。(長年の努力こそが光を呼び込む)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・閔予小子之什・載芟より)
且のみ且く有るに匪ず、今のみ今の斯くに匪ず、振古よりして茲の如し」
「豊穣のために神前に祭られた供物もかぐわしく、邦家の光となり、長老たちにとっての
安心の糧ともなっている。昔こうだったというのでも、今に限ってこうだというのでもない。
昔からの努力があるからこそ斯くの如くでいられるのである。(長年の努力こそが光を呼び込む)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・閔予小子之什・載芟より)
>>1
まず排他主義的思考を改めるべきだ。そして、自分の無知と恥の意味を知るべきだ。
本当のところは、勝ったー負けたーハイ論破などが好きなだけだろう。ただの意固地なだけで、
バカを応援したくなる人たちのお陰で、
『小人閑居為不善、在有己無知、是無之有』になってるだけだよー。
そちらは、○○を現代の人にも分かるように流布することが自分の努め、
だとか言ってる宗教家と変わらない。徳、説くが、“得”無し。
>>27->>28
[The fact that’s light to one in the jet-black is for answer to one of them physical. "One of them" is mean of all from answer from question of here.]
まず排他主義的思考を改めるべきだ。そして、自分の無知と恥の意味を知るべきだ。
本当のところは、勝ったー負けたーハイ論破などが好きなだけだろう。ただの意固地なだけで、
バカを応援したくなる人たちのお陰で、
『小人閑居為不善、在有己無知、是無之有』になってるだけだよー。
そちらは、○○を現代の人にも分かるように流布することが自分の努め、
だとか言ってる宗教家と変わらない。徳、説くが、“得”無し。
>>27->>28
[The fact that’s light to one in the jet-black is for answer to one of them physical. "One of them" is mean of all from answer from question of here.]
さして込み入った話し合いをすべきでもない所。
たとえ自分が世界の帝王になるとしたって、他人を押しのけて自分がその座に
就くのではなく、むしろその座において自らが人並み以上の精進虚静に励む
ぐらいのつもりでいて初めて、仁徳ある帝王ともなり得るのである。
そのような条件を満たしていたのが、たとえば近代以前の日本の天皇である。
平安期までの律令制時代においては、藤原摂関家のごとき重臣たちの栄華を温かく見守り、
自身はといえば「天上人」としての責務に即して清廉を尽くした生活を守っていた。
実権が公家から武家へと移行した武家時代においても、やはり大名将軍の栄達を
禁裏から見守る最終統率者としての立場に徹していた。(南北朝時代など一部を除く)
これは、陰陽道を発祥地の中国以上にも精練することで確立された日本ならではの
優良な統治システムであり、その起源は聖徳太子による天皇(的立場)の提唱あたりにまで
さかのぼる。中国の皇帝のようなあからさまな栄華を自分自身が享受しないのと引き換えに、
革命による皇位簒奪などを厳禁した、恒久的な立場の維持を実現して行くものとしたのである。
その、「臣下の繁栄こそを約束する王者」としての天皇の立場が決定的に揺るがされたのが、
近代以降の大日本帝国や国家神道の擁立に基づく天皇の一尊化であった。天皇以下の臣下臣民は
みな天皇のために全てをなげうつ下僕とされ、「天皇陛下万歳」と叫びながらであれば戦中での
特攻や玉砕もお咎めなしという、日本史上に未だかつて前例のない異常事態を招いた。
敗戦後、天皇の権限や権威に大幅な制限が加えられることとなったために、最悪級の集団
ヒステリー状態ぐらいは回避されるようになったが(それでも一部の極右団体などが残存する)、
最大級の権威は保持しても権力は独り占めせず、特に有能な重臣やその末裔たちの
勇躍を公認しつつ温かく見守るという天皇本来のあり方が修復されたわけでは全く
ないわけで、統治もしなければ、ほとんど君臨すらしなくなってしまったその
存在性が、ほとんど意義を喪失しかけるような状態となってしまったのだった。
就くのではなく、むしろその座において自らが人並み以上の精進虚静に励む
ぐらいのつもりでいて初めて、仁徳ある帝王ともなり得るのである。
そのような条件を満たしていたのが、たとえば近代以前の日本の天皇である。
平安期までの律令制時代においては、藤原摂関家のごとき重臣たちの栄華を温かく見守り、
自身はといえば「天上人」としての責務に即して清廉を尽くした生活を守っていた。
実権が公家から武家へと移行した武家時代においても、やはり大名将軍の栄達を
禁裏から見守る最終統率者としての立場に徹していた。(南北朝時代など一部を除く)
これは、陰陽道を発祥地の中国以上にも精練することで確立された日本ならではの
優良な統治システムであり、その起源は聖徳太子による天皇(的立場)の提唱あたりにまで
さかのぼる。中国の皇帝のようなあからさまな栄華を自分自身が享受しないのと引き換えに、
革命による皇位簒奪などを厳禁した、恒久的な立場の維持を実現して行くものとしたのである。
その、「臣下の繁栄こそを約束する王者」としての天皇の立場が決定的に揺るがされたのが、
近代以降の大日本帝国や国家神道の擁立に基づく天皇の一尊化であった。天皇以下の臣下臣民は
みな天皇のために全てをなげうつ下僕とされ、「天皇陛下万歳」と叫びながらであれば戦中での
特攻や玉砕もお咎めなしという、日本史上に未だかつて前例のない異常事態を招いた。
敗戦後、天皇の権限や権威に大幅な制限が加えられることとなったために、最悪級の集団
ヒステリー状態ぐらいは回避されるようになったが(それでも一部の極右団体などが残存する)、
最大級の権威は保持しても権力は独り占めせず、特に有能な重臣やその末裔たちの
勇躍を公認しつつ温かく見守るという天皇本来のあり方が修復されたわけでは全く
ないわけで、統治もしなければ、ほとんど君臨すらしなくなってしまったその
存在性が、ほとんど意義を喪失しかけるような状態となってしまったのだった。
究極級の陰陽道の精査にも即して確立された天皇という立場の存在意義の復興のためにも、
「全体主義か独裁主義か」といったような両極端を排した、中庸的な考え方が必要となる。
「他人を押しのけてでも自分がのし上がる」というような独尊志向を排するためにこそ、
天皇も万世一系の世襲制でいる。天皇以下の臣下ならばまだ成り上がりの可能性も
あり得るが、それとて豊臣秀吉のように新たな本姓を創設してまで、百姓から関白家
にまでのし上がろうとするような突発性を伴っているようなら、危ういものである。
名目上の位階からでも、無闇なのし上がりを抑制する厳格さを保った上で、なだらかな
上下の序列を形成して行くことが、独裁的でも全体的でもない中正なあり方となる。
そのような中庸を保った体制を是認できて、実際に自分が服して行ける人間こそは自らが
中庸を尊べる君子でもある一方、いまいちそんな分かりにくい体制にはなじめなくて、
自分一人が他者を押しのけてでものし上がりってたいというような人間は、やはり自分自身が
君子としての素養を欠いているのだといえる。身分が上か下か官か民かなどによらず、
できる限りそういった意味での君子的な品位の持ち主ばかりで世の中が占められるように
なるに越したことはないわけだから、上記のような本来の有り方を取り戻した天皇や、
それに準ずる君主が君臨する世の中が世界規模でも実現されていったならば、それに
よってこの地球上も破滅の危機を免れられるのはもちろんのこと、未だかつて到来した
こともないような未曾有の繁栄が全人類に対して実現されて行くこととすらなるだろう。
「損益は盛衰の始めなり」
「損益の自然な流れが物事の盛衰の発端となる。
(盛衰いずれかで言えば盛んであるに越したことはないが、世に限りある富を
人々が分け合う上での損益が極まった時に仕方なく盛衰のうねりが生ずるのである。
故に、そこに『〜ねばならない』などといった恣意を差し挟むべきでもないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・雑卦伝より)
「全体主義か独裁主義か」といったような両極端を排した、中庸的な考え方が必要となる。
「他人を押しのけてでも自分がのし上がる」というような独尊志向を排するためにこそ、
天皇も万世一系の世襲制でいる。天皇以下の臣下ならばまだ成り上がりの可能性も
あり得るが、それとて豊臣秀吉のように新たな本姓を創設してまで、百姓から関白家
にまでのし上がろうとするような突発性を伴っているようなら、危ういものである。
名目上の位階からでも、無闇なのし上がりを抑制する厳格さを保った上で、なだらかな
上下の序列を形成して行くことが、独裁的でも全体的でもない中正なあり方となる。
そのような中庸を保った体制を是認できて、実際に自分が服して行ける人間こそは自らが
中庸を尊べる君子でもある一方、いまいちそんな分かりにくい体制にはなじめなくて、
自分一人が他者を押しのけてでものし上がりってたいというような人間は、やはり自分自身が
君子としての素養を欠いているのだといえる。身分が上か下か官か民かなどによらず、
できる限りそういった意味での君子的な品位の持ち主ばかりで世の中が占められるように
なるに越したことはないわけだから、上記のような本来の有り方を取り戻した天皇や、
それに準ずる君主が君臨する世の中が世界規模でも実現されていったならば、それに
よってこの地球上も破滅の危機を免れられるのはもちろんのこと、未だかつて到来した
こともないような未曾有の繁栄が全人類に対して実現されて行くこととすらなるだろう。
「損益は盛衰の始めなり」
「損益の自然な流れが物事の盛衰の発端となる。
(盛衰いずれかで言えば盛んであるに越したことはないが、世に限りある富を
人々が分け合う上での損益が極まった時に仕方なく盛衰のうねりが生ずるのである。
故に、そこに『〜ねばならない』などといった恣意を差し挟むべきでもないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・雑卦伝より)
このスレなどでレスしている事柄などが、そちらの目的や理由というものから興っているとおっしゃる?
まず、そちらの言動は、非を否定するための卑しいものと言わざるを得ない。ここでいう非は、そちらが自ら起こした
不始末のことで、端緒においてある目的というものは、これらの言動の中にある。つまり、そこ元の目的と理由は、
自らの非を否定するためにすでに還元されている状態だ。
それは、第一の目的が、先人のご託宣を掲げることは自らの主張ではなく、洋服買ってきて、それを着飾って見せびらかすのと同じで、
その出で立ちがちぐはぐだと言われて腹を立て、すべからく人の道理を非を否とするために活用しているのみである。
そちらが、掲げようとする書物等の在る事の根本を考えていただきたいが。
話し合いなどするつもりなど毛頭ないと言うか、無理なのは分かっている。こちらの指摘について、ちょっと触って、
別のうんちゃら。はいさいなら。それは>>35などでもやはりかわらず、その発言の真意(そちらの中身についての指摘)ではなく、
『〜べきではない』などを使うのは人の行動として良からぬ事、と、カードゲームで遊んでるようなレスを返して来るだけだ。ほんと子供だ。
このレスで言っているのは、そういう事。次は、それ以外のくだらない部分での返答はいらない。わたしのこれまでのレスの返答レスで、
話し返答言えるものは全く皆無である現実、それは確かにあることというのを自覚した方がいい。
(「込み入った」とは入り込んだという意味? 混み入った話し風にして人へ当てこするのは好きだよな? そちら)
>「他人を押しのけてでも自分がのし上がる」
こういうことを書くのが厚顔無恥の恥知らずというのだ。
>>30で、わざわざヘタクソな漢文を作ったのにまったく聴いちゃいない風だな。
〜〜〜『小人閑居為不善、在有己無知、是無之有』
悪さをするやつは不始末のために引きこもり、それは己の無知あるところ、それが無しということのが有るからだ。〜〜〜
まず、そちらの言動は、非を否定するための卑しいものと言わざるを得ない。ここでいう非は、そちらが自ら起こした
不始末のことで、端緒においてある目的というものは、これらの言動の中にある。つまり、そこ元の目的と理由は、
自らの非を否定するためにすでに還元されている状態だ。
それは、第一の目的が、先人のご託宣を掲げることは自らの主張ではなく、洋服買ってきて、それを着飾って見せびらかすのと同じで、
その出で立ちがちぐはぐだと言われて腹を立て、すべからく人の道理を非を否とするために活用しているのみである。
そちらが、掲げようとする書物等の在る事の根本を考えていただきたいが。
話し合いなどするつもりなど毛頭ないと言うか、無理なのは分かっている。こちらの指摘について、ちょっと触って、
別のうんちゃら。はいさいなら。それは>>35などでもやはりかわらず、その発言の真意(そちらの中身についての指摘)ではなく、
『〜べきではない』などを使うのは人の行動として良からぬ事、と、カードゲームで遊んでるようなレスを返して来るだけだ。ほんと子供だ。
このレスで言っているのは、そういう事。次は、それ以外のくだらない部分での返答はいらない。わたしのこれまでのレスの返答レスで、
話し返答言えるものは全く皆無である現実、それは確かにあることというのを自覚した方がいい。
(「込み入った」とは入り込んだという意味? 混み入った話し風にして人へ当てこするのは好きだよな? そちら)
>「他人を押しのけてでも自分がのし上がる」
こういうことを書くのが厚顔無恥の恥知らずというのだ。
>>30で、わざわざヘタクソな漢文を作ったのにまったく聴いちゃいない風だな。
〜〜〜『小人閑居為不善、在有己無知、是無之有』
悪さをするやつは不始末のために引きこもり、それは己の無知あるところ、それが無しということのが有るからだ。〜〜〜
でー、(本文長過ぎると、言われたー、アホにアホレスしているとちょっと恥を知る)
いろんなレスを見ていると、2〜3行のレスでも、実に多くのことを語れる人は、たくさんいるが、そちらは、100行書いても根幹は、
すべて卑しい言動に集約されているので、なにを書こうがいまのところ、ひとつの意味にしか発展しない。そして、オリジナリティなどまったく感じない。
そして、目的と理由、もっとしっかりしたものがあるというなら、それをちゃんと自分の文章で、引用によるところなく書けますか?(つまり、いまのような引用の仕方でなくという意味)
ご立派なそれがあるのなら、是非、伺ってみたのですが? ちゃんとしたものなら、否定や論いで遊ぼうなどということはいたしません。
では、ばいちゃ〜まったく無駄足下〜イカのゲソー、めんどーで改行ちゃんとしてませーん、『まったくNon、she得る得る〜』でしょうかねー。
いろんなレスを見ていると、2〜3行のレスでも、実に多くのことを語れる人は、たくさんいるが、そちらは、100行書いても根幹は、
すべて卑しい言動に集約されているので、なにを書こうがいまのところ、ひとつの意味にしか発展しない。そして、オリジナリティなどまったく感じない。
そして、目的と理由、もっとしっかりしたものがあるというなら、それをちゃんと自分の文章で、引用によるところなく書けますか?(つまり、いまのような引用の仕方でなくという意味)
ご立派なそれがあるのなら、是非、伺ってみたのですが? ちゃんとしたものなら、否定や論いで遊ぼうなどということはいたしません。
では、ばいちゃ〜まったく無駄足下〜イカのゲソー、めんどーで改行ちゃんとしてませーん、『まったくNon、she得る得る〜』でしょうかねー。
仮に地震や津波や台風のような災害が国内で巻き起これば、救助隊員や自衛隊員なども、
国籍や身分の如何に関わらず被害者全員を救助対象とする。のみならず、海外で大規模な
災害が発生した場合にすら、救助隊を編成しての人道支援を試みたりもする。それは全て、
「国」という枠組みに即して災害救助という業務が想定されているからであり、もしも
「利権」という枠組みに即して想定されていたりしたならばそうはいかないのである。
東日本大震災の事後復興などでも、利権が絡んでいるせいでの滞りが問題視されているが、
これも、国や自治体よりは遥かに矮小な私的利権への一部の人間の拘泥があればこそ
呈してしまっていることである。東証一部上場級の大企業であろうとも、国営企業で
ない以上は国益よりも企業自体の利益のほうが優先される。そしてその私益のうまみに
与れる人間も一部の重役や正社員に制限されて、派遣社員や末端のパート・アルバイト
などに対しては所帯を持つのもままならないような生活苦を強いることともなるのである。
それが私企業というものの本分だからそうするまでであって、そもそも私企業なんてものを
やたらと肥大化させる資本主義社会の姿勢からして、国や世の中の側の疲弊を招くことが
避けられないものである。そうであることの陰惨さが今、震災復興の停滞などの形でも
露呈してしまっているわけだが、これもまた、日本が「資本主義」などというものを
国是とし続けてきた以上は、自業自得で免れることの出来なかった運命なのである。
公益や国益よりも私益を優先することで膨れ上がる利権こそは、見るからに甚大である。
古くはエジプトのピラミッドや秦始皇帝の王宮陵墓など、今だと大企業の自社ビルなどの
巨大さこそが、いかにも見る者を圧倒させたがりな体でいる。事業としての規模では、
灌漑や治水などの公共事業のほうがより大きかったりもするわけだが、大都市の
中心部のような多くの人間が居住を希望したがるような場所にドカンと巨大な建造物を
拵えてそこに居座るということが、特にそれを見る者に羨望を抱かせやすいと共に、
そこに居座れた者の自己権顕示欲を存分に充足させる効果をも発揮するのである。
国籍や身分の如何に関わらず被害者全員を救助対象とする。のみならず、海外で大規模な
災害が発生した場合にすら、救助隊を編成しての人道支援を試みたりもする。それは全て、
「国」という枠組みに即して災害救助という業務が想定されているからであり、もしも
「利権」という枠組みに即して想定されていたりしたならばそうはいかないのである。
東日本大震災の事後復興などでも、利権が絡んでいるせいでの滞りが問題視されているが、
これも、国や自治体よりは遥かに矮小な私的利権への一部の人間の拘泥があればこそ
呈してしまっていることである。東証一部上場級の大企業であろうとも、国営企業で
ない以上は国益よりも企業自体の利益のほうが優先される。そしてその私益のうまみに
与れる人間も一部の重役や正社員に制限されて、派遣社員や末端のパート・アルバイト
などに対しては所帯を持つのもままならないような生活苦を強いることともなるのである。
それが私企業というものの本分だからそうするまでであって、そもそも私企業なんてものを
やたらと肥大化させる資本主義社会の姿勢からして、国や世の中の側の疲弊を招くことが
避けられないものである。そうであることの陰惨さが今、震災復興の停滞などの形でも
露呈してしまっているわけだが、これもまた、日本が「資本主義」などというものを
国是とし続けてきた以上は、自業自得で免れることの出来なかった運命なのである。
公益や国益よりも私益を優先することで膨れ上がる利権こそは、見るからに甚大である。
古くはエジプトのピラミッドや秦始皇帝の王宮陵墓など、今だと大企業の自社ビルなどの
巨大さこそが、いかにも見る者を圧倒させたがりな体でいる。事業としての規模では、
灌漑や治水などの公共事業のほうがより大きかったりもするわけだが、大都市の
中心部のような多くの人間が居住を希望したがるような場所にドカンと巨大な建造物を
拵えてそこに居座るということが、特にそれを見る者に羨望を抱かせやすいと共に、
そこに居座れた者の自己権顕示欲を存分に充足させる効果をも発揮するのである。

神格化したのが犯罪聖書の神でもあるわけで、聖書の神が一部の人間を救って他の人間は
破滅に陥れるとしているのも、そうするしかないからそうしているまでのことである。
国内で災害に見舞われた人間は誰と言わず救助する救助隊や自衛隊などとは違って、利権に
与れたものだけを優遇し、そうでないものを冷遇するという立場の神格化であるからこそ、
救済如何も「信じるか否か」なんていう極めて恣意的な条件に還元してしまうのである。
世の中が、私益よりも公益を尊重する傾向を盤石化させていったならば、そんな邪神から
して生じ得ない。素封家が完全にこの世から絶やされるとまでいかずとも、ある程度まで
素封の規模が抑制すらされたならば(最低でも政商としての横暴が許されない程度に)、
そこで溜め込まれた利権の嵩にかかることを「神」として崇めたてるほどもの暴行ぐらいは
防ぎ止められるようになるのである。古典的な手段ではあるが、商家や庄屋の人間には
身分に合わせた垢抜けない格好をさせて、そのような立場の人間に対する人々の羨望を
立ち消えにさせるなどというのも、一つの有効な手立てとなる。それは、イギリスあたり
を発祥地とする背広(スーツ)の見てくれのよさが、商売人を「ビジネスマン」などと
して美化する効果を発揮してしまっている現代の様相を鑑みても言えることである。
結局、いま社会人の象徴として持て囃されているビジネススーツなども、作業服の軽便さと
より伝統的な礼服の見栄えのよさを合体させた奇形的なものであり、「権力者はゆったりと
した衣服を来て重厚な為政を執り行うべきである(易経・繋辞伝)」という易学上の奨励
事項にも反しているものである。権力者は袴のようなゆったりとした着物を着、今でいう
ブルーカラーの人間は今まで通り軽便な格好をし、商売などの素封に専らである人間は
「前掛け」のような格好でいるようにするのが社会的に適切である。前掛けといえば、
昔は百姓にすら卑しまれていたな格好ではあるけれども、まあそれぐらいでいるべきだ。
「君子如し夷らげれば、悪むも怒るも是こに違れり(既出)」
「仁徳ある君子が天下を平らげれば、憎しみも怒りも消え去るだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・節南山より)
「君子如し怒れば、乱も庶わば遄かに沮みなん(既出)」
「君子がひとたび怒れば、乱もその願いどおり速やかにやむであろう。
(君子の怒りは乱を鎮めるものであり、いつまでも持ち越すようなものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
「王の厥の武を奮うや、震れるが如く怒れるが如く。厥の虎臣を進めるも、闞れること
虓虎の如く。淮濆に鋪敦して、仍に醜虜を執え、彼の淮浦を截めて、王師の所とす」
「王者がその武力を奮う有り様たるや、まさに震撼として怒れるがごとく。臣下たち
の進軍する有り様も、まさに吼え狂う虎のごとく。淮河のほとりに敵を追い詰めて、
またたくまに逃げ惑う敵を捉えて虜とし、南国一帯を治めて王の師の住まう所とした。
(天下を統べる王者の怒りが一過性のものであり、道理にも適っている実例。既出の
大雅・皇矣における文王の怒りやそれに基づく凶賊の討伐などもこれと同様にあたる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・常武より)
「仁徳ある君子が天下を平らげれば、憎しみも怒りも消え去るだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・節南山より)
「君子如し怒れば、乱も庶わば遄かに沮みなん(既出)」
「君子がひとたび怒れば、乱もその願いどおり速やかにやむであろう。
(君子の怒りは乱を鎮めるものであり、いつまでも持ち越すようなものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
「王の厥の武を奮うや、震れるが如く怒れるが如く。厥の虎臣を進めるも、闞れること
虓虎の如く。淮濆に鋪敦して、仍に醜虜を執え、彼の淮浦を截めて、王師の所とす」
「王者がその武力を奮う有り様たるや、まさに震撼として怒れるがごとく。臣下たち
の進軍する有り様も、まさに吼え狂う虎のごとく。淮河のほとりに敵を追い詰めて、
またたくまに逃げ惑う敵を捉えて虜とし、南国一帯を治めて王の師の住まう所とした。
(天下を統べる王者の怒りが一過性のものであり、道理にも適っている実例。既出の
大雅・皇矣における文王の怒りやそれに基づく凶賊の討伐などもこれと同様にあたる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・常武より)
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