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聖書 Part10
▼ページ最下部
地球人類にとっての最も標準的な聖書として、誰しもがその地位を疑うことのない聖書、四書五経。
その全文はあくまで二千二百年以上前に用意されたものではあるものの(偽古文尚書の一部を除く)、
論語・大学・中庸・孟子の四書と、易経・詩経・書経(尚書)・礼記・春秋の五経を合わせて
「四書五経」として定型化されたのは宋代以降、朱子がこれらの経書を特薦してからである。
それ以前は四書五経だけでなく、他の数多の経書が四書五経並みかそれ以上もの扱いすらをも受けていた。
今でも「孝経」などが儒学の入門書として読むべき筆頭格として重んじられたりもしているが、
昔はそのような扱いすらをも受けていたのに、今では相当に程度の低い経書として扱われるように
なった儒書もいくらかあり、その代表格に性悪論を説く荀子の教説集「荀子」がありもする。
荀子の教説は、孟子の教説(性善論や臨戦論など)と決定的に食い違っている部分があり、
実際に荀子自身も「荀子」非十二子第六で孟子を槍玉に挙げつつその主張を非難するなどしている。
そのため、新儒学の大家である朱子が孟子の教説のほうに軍配を挙げたことを通じて、荀子の教説
のほうは「あくまで反面教師として扱うべきもの」として取り扱われるようになったのである。
ただ、荀子の自説はともかく、その知識や博学さは目を見張るものがある。「荀子」を実際に読めば
分かるとおり、単なる学知の披露度では孟子以上であり、文飾にかけても当時の究極級のものであった
だろうことがうかがえる。(そのため、諸子百家の文筆が粗雑で典雅さに欠けると非難していた
司馬遷までもが、「史記」礼書で「荀子」の文章を多量に引用するなどしてもいる)
にもかかわらず荀子は孟子以下とされ、朱子学はおろかその他の新儒学すらもが、荀子以上にも孟子を
尊重する道を歩んでいったのである。それはなぜかといえば、孟子の教説は簡易であっても誠実さや
情熱に満ちている一方、荀子の教説は博学ではあっても皮相的で誠実さにも欠けるものだったからである。

その全文はあくまで二千二百年以上前に用意されたものではあるものの(偽古文尚書の一部を除く)、
論語・大学・中庸・孟子の四書と、易経・詩経・書経(尚書)・礼記・春秋の五経を合わせて
「四書五経」として定型化されたのは宋代以降、朱子がこれらの経書を特薦してからである。
それ以前は四書五経だけでなく、他の数多の経書が四書五経並みかそれ以上もの扱いすらをも受けていた。
今でも「孝経」などが儒学の入門書として読むべき筆頭格として重んじられたりもしているが、
昔はそのような扱いすらをも受けていたのに、今では相当に程度の低い経書として扱われるように
なった儒書もいくらかあり、その代表格に性悪論を説く荀子の教説集「荀子」がありもする。
荀子の教説は、孟子の教説(性善論や臨戦論など)と決定的に食い違っている部分があり、
実際に荀子自身も「荀子」非十二子第六で孟子を槍玉に挙げつつその主張を非難するなどしている。
そのため、新儒学の大家である朱子が孟子の教説のほうに軍配を挙げたことを通じて、荀子の教説
のほうは「あくまで反面教師として扱うべきもの」として取り扱われるようになったのである。
ただ、荀子の自説はともかく、その知識や博学さは目を見張るものがある。「荀子」を実際に読めば
分かるとおり、単なる学知の披露度では孟子以上であり、文飾にかけても当時の究極級のものであった
だろうことがうかがえる。(そのため、諸子百家の文筆が粗雑で典雅さに欠けると非難していた
司馬遷までもが、「史記」礼書で「荀子」の文章を多量に引用するなどしてもいる)
にもかかわらず荀子は孟子以下とされ、朱子学はおろかその他の新儒学すらもが、荀子以上にも孟子を
尊重する道を歩んでいったのである。それはなぜかといえば、孟子の教説は簡易であっても誠実さや
情熱に満ちている一方、荀子の教説は博学ではあっても皮相的で誠実さにも欠けるものだったからである。

よく本人たちの言うことを味わいつつ「孟子」や「荀子」を読んでみれば、孟子の言い分には心の底から
突き動かされるような厚みがあることがうかがえる一方、荀子の言い分は薄っぺらくて、どこか読者の
機嫌をうかがうような下卑た態度と思えざるを得ないような所がある。孟子は孔子のいう「巧言令色」
を排している一方、荀子はそのあたりを排しきれていない。だからこそ存命中に李斯や韓非のような、
腐敗まみれな時の権力者に好まれるほどもの門弟を多数排出しもしたのだが、同時にそのせいで
李斯や韓非を拷問死や服毒死や一族郎党皆殺しのような非業の運命に追いやりもしたのだった。
結局、その学知の真偽については、孟子だけでなく荀子もそれなりの信憑性が置けるものである。
しかし、その自説の真偽については、孟子の自説のほうが真であり、荀子の自説のほうが偽であった。
性善説こそは真であり、性悪説こそは偽であるから、孟子の言行には心動かされる一方、荀子の言行には
目を見張る程度のことはあっても、心動かされるまでのことはない。そこが両者の優劣を決定的に分かっている。
人間の本性こそは善だから、本性を見失って悪人と化してしまった人間をその心から矯正して行って
やったりすることもできない。あくまで刑罰や身分差別のような厳酷な実力行使によって、本性の自省を
可能とできるような環境にまず持って行ってやらねばならない。実際のところ、世の中というものもそういう風に
していかなければ埒が明かないようにもなっているから、社会的な実証に即しても孟子の性善説のほうが真であり、
本性の悪を外的な礼儀礼節によって正して行くべきだとする荀子の自説のほうが偽であるとも断じられるのである。
突き動かされるような厚みがあることがうかがえる一方、荀子の言い分は薄っぺらくて、どこか読者の
機嫌をうかがうような下卑た態度と思えざるを得ないような所がある。孟子は孔子のいう「巧言令色」
を排している一方、荀子はそのあたりを排しきれていない。だからこそ存命中に李斯や韓非のような、
腐敗まみれな時の権力者に好まれるほどもの門弟を多数排出しもしたのだが、同時にそのせいで
李斯や韓非を拷問死や服毒死や一族郎党皆殺しのような非業の運命に追いやりもしたのだった。
結局、その学知の真偽については、孟子だけでなく荀子もそれなりの信憑性が置けるものである。
しかし、その自説の真偽については、孟子の自説のほうが真であり、荀子の自説のほうが偽であった。
性善説こそは真であり、性悪説こそは偽であるから、孟子の言行には心動かされる一方、荀子の言行には
目を見張る程度のことはあっても、心動かされるまでのことはない。そこが両者の優劣を決定的に分かっている。
人間の本性こそは善だから、本性を見失って悪人と化してしまった人間をその心から矯正して行って
やったりすることもできない。あくまで刑罰や身分差別のような厳酷な実力行使によって、本性の自省を
可能とできるような環境にまず持って行ってやらねばならない。実際のところ、世の中というものもそういう風に
していかなければ埒が明かないようにもなっているから、社会的な実証に即しても孟子の性善説のほうが真であり、
本性の悪を外的な礼儀礼節によって正して行くべきだとする荀子の自説のほうが偽であるとも断じられるのである。
人間の本性の部分にある善性は信用できる。のみならず、人が最高の信頼を置くべき対象でもあり、
どんな信頼も最後はそこにこそ帰結せねばならないものである。人間の心を一切信用しないと
いうのでは、結局信じるべきものを信じるということを完全に拒むことにもなり、そこで神を
信じたりするというのなら、そのような神が信じるべきでない神であることまでもが確かである。
確かに、本性の所の善性を見失うことで、上っ面だけの振る舞いしかできなくなってしまったような
人間の言うことなどは全く信用に値するものでもないが、だからといって人を信じず、人の心に
信頼の集約先を一切置かないというのなら、もはやどこにも信ずるべきものがなくなるばかりである。
それこそ、人の心の本当のあり方というものを理解できていない、無知者の致命的な事実誤認である。
「万章問うて曰く、敢えて問う交際は何をか心とすべきか。孟子曰く、恭なれ」
「孟子の門弟の万章が尋ねた。『交際にかけては何に心を尽くすべきでしょうか』
孟先生は答えられた。『(相手を信頼した)恭敬の心でいることだ』(孟子は性善論者だから、
相手の本性の部分に偏在する善性を尊重して、まずは人に対して信頼的な態度でいろというのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・四より)
「孔子曰く、操れば則ち存し、舍つれば則ち亡う。出入時無く、其の郷を知る莫しと。惟れ心の謂いか」
「孔先生も『ちゃんと保っておこうとすれば持っていられるが、捨ててしまえば完全に失ってしまう。
出るも入るもその時すら定まらず、どこを一番の居場所としているのかも知れない』と言われていた。
私はこれは『心』のことを言っているのだと解釈している。(上記のような性善説を基調とした論陣を
敷きながらも、あくまで孟子自身も人が心を失うのはたやすいことだとも考えているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——告子章句上・八より)
どんな信頼も最後はそこにこそ帰結せねばならないものである。人間の心を一切信用しないと
いうのでは、結局信じるべきものを信じるということを完全に拒むことにもなり、そこで神を
信じたりするというのなら、そのような神が信じるべきでない神であることまでもが確かである。
確かに、本性の所の善性を見失うことで、上っ面だけの振る舞いしかできなくなってしまったような
人間の言うことなどは全く信用に値するものでもないが、だからといって人を信じず、人の心に
信頼の集約先を一切置かないというのなら、もはやどこにも信ずるべきものがなくなるばかりである。
それこそ、人の心の本当のあり方というものを理解できていない、無知者の致命的な事実誤認である。
「万章問うて曰く、敢えて問う交際は何をか心とすべきか。孟子曰く、恭なれ」
「孟子の門弟の万章が尋ねた。『交際にかけては何に心を尽くすべきでしょうか』
孟先生は答えられた。『(相手を信頼した)恭敬の心でいることだ』(孟子は性善論者だから、
相手の本性の部分に偏在する善性を尊重して、まずは人に対して信頼的な態度でいろというのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・四より)
「孔子曰く、操れば則ち存し、舍つれば則ち亡う。出入時無く、其の郷を知る莫しと。惟れ心の謂いか」
「孔先生も『ちゃんと保っておこうとすれば持っていられるが、捨ててしまえば完全に失ってしまう。
出るも入るもその時すら定まらず、どこを一番の居場所としているのかも知れない』と言われていた。
私はこれは『心』のことを言っているのだと解釈している。(上記のような性善説を基調とした論陣を
敷きながらも、あくまで孟子自身も人が心を失うのはたやすいことだとも考えているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——告子章句上・八より)
>>3
まず、そちらの言の結びが、“無知者の致命的な事実誤認”となっていますが、
それは“人の心に 信頼の集約先を一切置かない”ことが不始末となっている風で、
さらにその波及の元は“本性の所の善性を見失うことで、上っ面だけの振る舞いしか
できなくなってしまったような 人間の言うことなどは全く信用に値するものでもないが、”
と前置きをしておられます。
で、
>そこで神を 信じたりするというのなら、
>そのような神が信じるべきでない神であることまでもが確かである。
とありますが、仏だろうが神だろうが、宗教的なことがらについての信じる行為は、
その人間の根本に由来しておりませんか? どの宗教が正しいとかの話しではなく、
そちらがレスの頭で、“人間の本性の部分にある善性は信用できる”と言い、
さらに宗教などでの信心は、その人それぞれの周囲の評価などを度外視した人間的な行為ではないですかね?
それが、妄信であればあるほど、なりふり構わない言動をしたりすることもあるようで、
倫理や社会通念など明後日においている感じで、より濃いような気もしますが。
人間の心とおっしゃるのなら、その人が信じる神が“信じるべき神でない”と誰が否定できますでしょうか?
(レスの引用はレスから直接コピペで、半角スペースは原文ママです)
まず、そちらの言の結びが、“無知者の致命的な事実誤認”となっていますが、
それは“人の心に 信頼の集約先を一切置かない”ことが不始末となっている風で、
さらにその波及の元は“本性の所の善性を見失うことで、上っ面だけの振る舞いしか
できなくなってしまったような 人間の言うことなどは全く信用に値するものでもないが、”
と前置きをしておられます。
で、
>そこで神を 信じたりするというのなら、
>そのような神が信じるべきでない神であることまでもが確かである。
とありますが、仏だろうが神だろうが、宗教的なことがらについての信じる行為は、
その人間の根本に由来しておりませんか? どの宗教が正しいとかの話しではなく、
そちらがレスの頭で、“人間の本性の部分にある善性は信用できる”と言い、
さらに宗教などでの信心は、その人それぞれの周囲の評価などを度外視した人間的な行為ではないですかね?
それが、妄信であればあるほど、なりふり構わない言動をしたりすることもあるようで、
倫理や社会通念など明後日においている感じで、より濃いような気もしますが。
人間の心とおっしゃるのなら、その人が信じる神が“信じるべき神でない”と誰が否定できますでしょうか?
(レスの引用はレスから直接コピペで、半角スペースは原文ママです)
所詮小説レベル
>>4
実際、大抵のまともな宗教は人の心の修養を念頭に置いているわけだけれども。
「イエスは人間の心を知っておられる。イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、
そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、
イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
人間についてだれからも証しをしてもらう必要がなかったからである。
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」
(権力犯罪聖書——通称聖書——ヨハネ禍音書2:23〜25)
驚くべきことに、イエキリは人の心には信ずるに値するものなど何もないとしている。
人の心の価値などを一切認めることなく、ただ外的な神に帰依しろとしている。
これこそは、人としての心の修養をかえって拒絶させることを本義とした
邪教となっていて、まあ、ここまで露骨な邪義を触れ回っているカルトでも
ない限りは、普通は信教もそれなりに心の修養を目的としていると考えていい。
実際、大抵のまともな宗教は人の心の修養を念頭に置いているわけだけれども。
「イエスは人間の心を知っておられる。イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、
そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、
イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
人間についてだれからも証しをしてもらう必要がなかったからである。
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」
(権力犯罪聖書——通称聖書——ヨハネ禍音書2:23〜25)
驚くべきことに、イエキリは人の心には信ずるに値するものなど何もないとしている。
人の心の価値などを一切認めることなく、ただ外的な神に帰依しろとしている。
これこそは、人としての心の修養をかえって拒絶させることを本義とした
邪教となっていて、まあ、ここまで露骨な邪義を触れ回っているカルトでも
ない限りは、普通は信教もそれなりに心の修養を目的としていると考えていい。
「イエスが人の心を信じていなかった」とヨハネ禍音書にある。
刑死して生き返るなんていう与太話を模倣することはできなくても、
人の心を信じないことぐらいは誰にでも真似することができる。
そして、人の心を信じないでいることを信仰によって実践しよう
とした結果、自他の心を信じもせず、人としての根本に当たる
心を蔑ろにする信者が出来上がるというわけだ。
心が心を信じないことを希求して、実際に当人が心を失う。
信仰は実際、そういうことにも悪用が可能なんだ。
信仰すなわち篤心だなんてことは全くない。むしろ心を
薄弱化や損失させるためにこそ信仰を為すこともまたできるのだ。
のめり込みが尽心に基づくのは、あくまで仁徳に基づく場合のみ。
仁徳に基づかないのめり込みは、かえって本人の心を失わせる原因となる。
刑死して生き返るなんていう与太話を模倣することはできなくても、
人の心を信じないことぐらいは誰にでも真似することができる。
そして、人の心を信じないでいることを信仰によって実践しよう
とした結果、自他の心を信じもせず、人としての根本に当たる
心を蔑ろにする信者が出来上がるというわけだ。
心が心を信じないことを希求して、実際に当人が心を失う。
信仰は実際、そういうことにも悪用が可能なんだ。
信仰すなわち篤心だなんてことは全くない。むしろ心を
薄弱化や損失させるためにこそ信仰を為すこともまたできるのだ。
のめり込みが尽心に基づくのは、あくまで仁徳に基づく場合のみ。
仁徳に基づかないのめり込みは、かえって本人の心を失わせる原因となる。
>>9
ええ、ええ、ですからー、、、。>>3ですね、これ。何度も言いますが、キリスト教が正しいとか
仏教が正しいとか、そういう話しを言っているのではないです。こちらは。ここのレスの自分の
言っていることに中にある矛盾に気がつかないですか? >>4のレスでのそちらの引用とそれぞれの
解釈、そしてそれらの他の言にかかる意味合いについて自身はまるで何とも思わないですか?
じゃあ、それはあとで、というか、>>9の話し。前提の引用はそちらが邪教と言っている宗教の
聖典ですが? そちらが>>3で人間の心の話しをベースに、神という存在(基督教に限っているんですかね?)が確実なものでないという話しに持っていっていますが、わたしは宗教への信奉もまた
人のこころの動作のうちにあり、他者において、その対象を否定するのは、おっしゃっていることに
全く相反すると言っているのです。単純に。すると、こんどはその指摘に対し、イエスという物が、
人の心に信を置かなかったことが、その宗教の欠陥であり、その証拠どこにあるかと言えば、
その邪教の聖典とは、これ如何に?
しかも、『ヨハネ禍音書』の引用部分で『人の心を信用していなかった』は、読み違えておられる
と思いますが。
わたしの解釈はこうです。
まず、人々はイエスの名を信じた。「名」とは身分や名跡であり、イエスのそれを信じる人々に
対しての表現は、冒頭に『イエスは人間の心を知っておられる』とあることから、どんな名跡を
つげられようが、それは表層の事柄に過ぎず、それよりも人の心の中を重んじていたという話しでは
ないんですか? そのヨハネうんちゃらの引用の最後の文言は、
“”人間についてだれからも証しをしてもらう必要がなかったからである。
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである”
と、なっていますよね?
こうなって来ると、そちらが常日頃、家柄が(って、どこにも品などそちらに感じ得ないが)どうとか
言っているそれ自体、おおよそ人の心よりも表層の某をアピールすることで、自己を堆くみせる
姑息な姿にしか見えない、というわけです。
ええ、ええ、ですからー、、、。>>3ですね、これ。何度も言いますが、キリスト教が正しいとか
仏教が正しいとか、そういう話しを言っているのではないです。こちらは。ここのレスの自分の
言っていることに中にある矛盾に気がつかないですか? >>4のレスでのそちらの引用とそれぞれの
解釈、そしてそれらの他の言にかかる意味合いについて自身はまるで何とも思わないですか?
じゃあ、それはあとで、というか、>>9の話し。前提の引用はそちらが邪教と言っている宗教の
聖典ですが? そちらが>>3で人間の心の話しをベースに、神という存在(基督教に限っているんですかね?)が確実なものでないという話しに持っていっていますが、わたしは宗教への信奉もまた
人のこころの動作のうちにあり、他者において、その対象を否定するのは、おっしゃっていることに
全く相反すると言っているのです。単純に。すると、こんどはその指摘に対し、イエスという物が、
人の心に信を置かなかったことが、その宗教の欠陥であり、その証拠どこにあるかと言えば、
その邪教の聖典とは、これ如何に?
しかも、『ヨハネ禍音書』の引用部分で『人の心を信用していなかった』は、読み違えておられる
と思いますが。
わたしの解釈はこうです。
まず、人々はイエスの名を信じた。「名」とは身分や名跡であり、イエスのそれを信じる人々に
対しての表現は、冒頭に『イエスは人間の心を知っておられる』とあることから、どんな名跡を
つげられようが、それは表層の事柄に過ぎず、それよりも人の心の中を重んじていたという話しでは
ないんですか? そのヨハネうんちゃらの引用の最後の文言は、
“”人間についてだれからも証しをしてもらう必要がなかったからである。
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである”
と、なっていますよね?
こうなって来ると、そちらが常日頃、家柄が(って、どこにも品などそちらに感じ得ないが)どうとか
言っているそれ自体、おおよそ人の心よりも表層の某をアピールすることで、自己を堆くみせる
姑息な姿にしか見えない、というわけです。
>>10の正誤です(すみません、今度はちゃんと推敲いたします)。
・3行目)言っていることに中にある矛盾に→言っていることの中にある矛盾に
・3行目〜4行目)それぞれの解釈、→それぞれのこちらの解釈
・2C/2L)確実なものでない→信じるべき神でない
※補足。この「神」ですが、わたしは基督教における神という前提で言っているのではないことを
確認しておいて下さい。おそらくは、この話しのヨハネウンチャラの引用は、そちらの予定の内に
あったようですね。
・2C/4L)おっしゃっていることに全く相反する→おっしゃっていることの意味がまったく相反してくる
・2C/6L)その証拠どこにあるかと言えば→その証拠がどこにあるかといえば信じるべきでない神とそちらがいう
〜〜
以上です。
・3行目)言っていることに中にある矛盾に→言っていることの中にある矛盾に
・3行目〜4行目)それぞれの解釈、→それぞれのこちらの解釈
・2C/2L)確実なものでない→信じるべき神でない
※補足。この「神」ですが、わたしは基督教における神という前提で言っているのではないことを
確認しておいて下さい。おそらくは、この話しのヨハネウンチャラの引用は、そちらの予定の内に
あったようですね。
・2C/4L)おっしゃっていることに全く相反する→おっしゃっていることの意味がまったく相反してくる
・2C/6L)その証拠どこにあるかと言えば→その証拠がどこにあるかといえば信じるべきでない神とそちらがいう
〜〜
以上です。
神を信じるだ信じないだは一旦おいといてさ。
人の心を知っていればこそ、そんなものは信じないつってんだ。
これは、イエキリが荀子などと同じ性悪論者であったことの記録だ。
そういう記録があるから、荀子が本性劣悪な心を礼制によって正して
行こうとしたのと同じようにして、キリシタンもまた本性劣悪な人の心を
外的な神への信仰などによって正して行こうなどともしてしまったわけだ。
それは、性善説が真実である場合には、かえってよくないことなんだ。
自分の外側に心の正し所などを求めてるようじゃ、かえって心の正しさを見失う。
人間が正心の拠り所とすべき善は己れの本性の部分にしか存在しないのだから、
それを全否定して外的な治療などを乞うたりしてるようじゃ、
かえって正心を損ねた状態が磐石なものと化してしまう。
人間の本性こそは善である、そこにしか最終的な善の拠り所は存在しない
という事実関係があればこその、そのような特殊事情があるわけだ。
人の心を知っていればこそ、そんなものは信じないつってんだ。
これは、イエキリが荀子などと同じ性悪論者であったことの記録だ。
そういう記録があるから、荀子が本性劣悪な心を礼制によって正して
行こうとしたのと同じようにして、キリシタンもまた本性劣悪な人の心を
外的な神への信仰などによって正して行こうなどともしてしまったわけだ。
それは、性善説が真実である場合には、かえってよくないことなんだ。
自分の外側に心の正し所などを求めてるようじゃ、かえって心の正しさを見失う。
人間が正心の拠り所とすべき善は己れの本性の部分にしか存在しないのだから、
それを全否定して外的な治療などを乞うたりしてるようじゃ、
かえって正心を損ねた状態が磐石なものと化してしまう。
人間の本性こそは善である、そこにしか最終的な善の拠り所は存在しない
という事実関係があればこその、そのような特殊事情があるわけだ。
礼節を尊ぶことも、神仏を信じることも、
それによって心を正して行こうなどとしたのでは、本末転倒になる。
それこそ、心の正しさを失った状態を磐石化させる原因になってしまう。
心の正しさだけは自分で会得して、その状態を保って行くために
礼節を尊んだり神仏を信じたりするのが、正しいあり方。
そうであって初めて、礼儀礼節や神仏信仰が多少なりともの好影響を及ぼせる。
それによって心を正して行こうなどとしたのでは、本末転倒になる。
それこそ、心の正しさを失った状態を磐石化させる原因になってしまう。
心の正しさだけは自分で会得して、その状態を保って行くために
礼節を尊んだり神仏を信じたりするのが、正しいあり方。
そうであって初めて、礼儀礼節や神仏信仰が多少なりともの好影響を及ぼせる。
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