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聖書 Part10
▼ページ最下部
地球人類にとっての最も標準的な聖書として、誰しもがその地位を疑うことのない聖書、四書五経。
その全文はあくまで二千二百年以上前に用意されたものではあるものの(偽古文尚書の一部を除く)、
論語・大学・中庸・孟子の四書と、易経・詩経・書経(尚書)・礼記・春秋の五経を合わせて
「四書五経」として定型化されたのは宋代以降、朱子がこれらの経書を特薦してからである。
それ以前は四書五経だけでなく、他の数多の経書が四書五経並みかそれ以上もの扱いすらをも受けていた。
今でも「孝経」などが儒学の入門書として読むべき筆頭格として重んじられたりもしているが、
昔はそのような扱いすらをも受けていたのに、今では相当に程度の低い経書として扱われるように
なった儒書もいくらかあり、その代表格に性悪論を説く荀子の教説集「荀子」がありもする。
荀子の教説は、孟子の教説(性善論や臨戦論など)と決定的に食い違っている部分があり、
実際に荀子自身も「荀子」非十二子第六で孟子を槍玉に挙げつつその主張を非難するなどしている。
そのため、新儒学の大家である朱子が孟子の教説のほうに軍配を挙げたことを通じて、荀子の教説
のほうは「あくまで反面教師として扱うべきもの」として取り扱われるようになったのである。
ただ、荀子の自説はともかく、その知識や博学さは目を見張るものがある。「荀子」を実際に読めば
分かるとおり、単なる学知の披露度では孟子以上であり、文飾にかけても当時の究極級のものであった
だろうことがうかがえる。(そのため、諸子百家の文筆が粗雑で典雅さに欠けると非難していた
司馬遷までもが、「史記」礼書で「荀子」の文章を多量に引用するなどしてもいる)
にもかかわらず荀子は孟子以下とされ、朱子学はおろかその他の新儒学すらもが、荀子以上にも孟子を
尊重する道を歩んでいったのである。それはなぜかといえば、孟子の教説は簡易であっても誠実さや
情熱に満ちている一方、荀子の教説は博学ではあっても皮相的で誠実さにも欠けるものだったからである。

その全文はあくまで二千二百年以上前に用意されたものではあるものの(偽古文尚書の一部を除く)、
論語・大学・中庸・孟子の四書と、易経・詩経・書経(尚書)・礼記・春秋の五経を合わせて
「四書五経」として定型化されたのは宋代以降、朱子がこれらの経書を特薦してからである。
それ以前は四書五経だけでなく、他の数多の経書が四書五経並みかそれ以上もの扱いすらをも受けていた。
今でも「孝経」などが儒学の入門書として読むべき筆頭格として重んじられたりもしているが、
昔はそのような扱いすらをも受けていたのに、今では相当に程度の低い経書として扱われるように
なった儒書もいくらかあり、その代表格に性悪論を説く荀子の教説集「荀子」がありもする。
荀子の教説は、孟子の教説(性善論や臨戦論など)と決定的に食い違っている部分があり、
実際に荀子自身も「荀子」非十二子第六で孟子を槍玉に挙げつつその主張を非難するなどしている。
そのため、新儒学の大家である朱子が孟子の教説のほうに軍配を挙げたことを通じて、荀子の教説
のほうは「あくまで反面教師として扱うべきもの」として取り扱われるようになったのである。
ただ、荀子の自説はともかく、その知識や博学さは目を見張るものがある。「荀子」を実際に読めば
分かるとおり、単なる学知の披露度では孟子以上であり、文飾にかけても当時の究極級のものであった
だろうことがうかがえる。(そのため、諸子百家の文筆が粗雑で典雅さに欠けると非難していた
司馬遷までもが、「史記」礼書で「荀子」の文章を多量に引用するなどしてもいる)
にもかかわらず荀子は孟子以下とされ、朱子学はおろかその他の新儒学すらもが、荀子以上にも孟子を
尊重する道を歩んでいったのである。それはなぜかといえば、孟子の教説は簡易であっても誠実さや
情熱に満ちている一方、荀子の教説は博学ではあっても皮相的で誠実さにも欠けるものだったからである。

よく本人たちの言うことを味わいつつ「孟子」や「荀子」を読んでみれば、孟子の言い分には心の底から
突き動かされるような厚みがあることがうかがえる一方、荀子の言い分は薄っぺらくて、どこか読者の
機嫌をうかがうような下卑た態度と思えざるを得ないような所がある。孟子は孔子のいう「巧言令色」
を排している一方、荀子はそのあたりを排しきれていない。だからこそ存命中に李斯や韓非のような、
腐敗まみれな時の権力者に好まれるほどもの門弟を多数排出しもしたのだが、同時にそのせいで
李斯や韓非を拷問死や服毒死や一族郎党皆殺しのような非業の運命に追いやりもしたのだった。
結局、その学知の真偽については、孟子だけでなく荀子もそれなりの信憑性が置けるものである。
しかし、その自説の真偽については、孟子の自説のほうが真であり、荀子の自説のほうが偽であった。
性善説こそは真であり、性悪説こそは偽であるから、孟子の言行には心動かされる一方、荀子の言行には
目を見張る程度のことはあっても、心動かされるまでのことはない。そこが両者の優劣を決定的に分かっている。
人間の本性こそは善だから、本性を見失って悪人と化してしまった人間をその心から矯正して行って
やったりすることもできない。あくまで刑罰や身分差別のような厳酷な実力行使によって、本性の自省を
可能とできるような環境にまず持って行ってやらねばならない。実際のところ、世の中というものもそういう風に
していかなければ埒が明かないようにもなっているから、社会的な実証に即しても孟子の性善説のほうが真であり、
本性の悪を外的な礼儀礼節によって正して行くべきだとする荀子の自説のほうが偽であるとも断じられるのである。
突き動かされるような厚みがあることがうかがえる一方、荀子の言い分は薄っぺらくて、どこか読者の
機嫌をうかがうような下卑た態度と思えざるを得ないような所がある。孟子は孔子のいう「巧言令色」
を排している一方、荀子はそのあたりを排しきれていない。だからこそ存命中に李斯や韓非のような、
腐敗まみれな時の権力者に好まれるほどもの門弟を多数排出しもしたのだが、同時にそのせいで
李斯や韓非を拷問死や服毒死や一族郎党皆殺しのような非業の運命に追いやりもしたのだった。
結局、その学知の真偽については、孟子だけでなく荀子もそれなりの信憑性が置けるものである。
しかし、その自説の真偽については、孟子の自説のほうが真であり、荀子の自説のほうが偽であった。
性善説こそは真であり、性悪説こそは偽であるから、孟子の言行には心動かされる一方、荀子の言行には
目を見張る程度のことはあっても、心動かされるまでのことはない。そこが両者の優劣を決定的に分かっている。
人間の本性こそは善だから、本性を見失って悪人と化してしまった人間をその心から矯正して行って
やったりすることもできない。あくまで刑罰や身分差別のような厳酷な実力行使によって、本性の自省を
可能とできるような環境にまず持って行ってやらねばならない。実際のところ、世の中というものもそういう風に
していかなければ埒が明かないようにもなっているから、社会的な実証に即しても孟子の性善説のほうが真であり、
本性の悪を外的な礼儀礼節によって正して行くべきだとする荀子の自説のほうが偽であるとも断じられるのである。
人間の本性の部分にある善性は信用できる。のみならず、人が最高の信頼を置くべき対象でもあり、
どんな信頼も最後はそこにこそ帰結せねばならないものである。人間の心を一切信用しないと
いうのでは、結局信じるべきものを信じるということを完全に拒むことにもなり、そこで神を
信じたりするというのなら、そのような神が信じるべきでない神であることまでもが確かである。
確かに、本性の所の善性を見失うことで、上っ面だけの振る舞いしかできなくなってしまったような
人間の言うことなどは全く信用に値するものでもないが、だからといって人を信じず、人の心に
信頼の集約先を一切置かないというのなら、もはやどこにも信ずるべきものがなくなるばかりである。
それこそ、人の心の本当のあり方というものを理解できていない、無知者の致命的な事実誤認である。
「万章問うて曰く、敢えて問う交際は何をか心とすべきか。孟子曰く、恭なれ」
「孟子の門弟の万章が尋ねた。『交際にかけては何に心を尽くすべきでしょうか』
孟先生は答えられた。『(相手を信頼した)恭敬の心でいることだ』(孟子は性善論者だから、
相手の本性の部分に偏在する善性を尊重して、まずは人に対して信頼的な態度でいろというのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・四より)
「孔子曰く、操れば則ち存し、舍つれば則ち亡う。出入時無く、其の郷を知る莫しと。惟れ心の謂いか」
「孔先生も『ちゃんと保っておこうとすれば持っていられるが、捨ててしまえば完全に失ってしまう。
出るも入るもその時すら定まらず、どこを一番の居場所としているのかも知れない』と言われていた。
私はこれは『心』のことを言っているのだと解釈している。(上記のような性善説を基調とした論陣を
敷きながらも、あくまで孟子自身も人が心を失うのはたやすいことだとも考えているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——告子章句上・八より)
どんな信頼も最後はそこにこそ帰結せねばならないものである。人間の心を一切信用しないと
いうのでは、結局信じるべきものを信じるということを完全に拒むことにもなり、そこで神を
信じたりするというのなら、そのような神が信じるべきでない神であることまでもが確かである。
確かに、本性の所の善性を見失うことで、上っ面だけの振る舞いしかできなくなってしまったような
人間の言うことなどは全く信用に値するものでもないが、だからといって人を信じず、人の心に
信頼の集約先を一切置かないというのなら、もはやどこにも信ずるべきものがなくなるばかりである。
それこそ、人の心の本当のあり方というものを理解できていない、無知者の致命的な事実誤認である。
「万章問うて曰く、敢えて問う交際は何をか心とすべきか。孟子曰く、恭なれ」
「孟子の門弟の万章が尋ねた。『交際にかけては何に心を尽くすべきでしょうか』
孟先生は答えられた。『(相手を信頼した)恭敬の心でいることだ』(孟子は性善論者だから、
相手の本性の部分に偏在する善性を尊重して、まずは人に対して信頼的な態度でいろというのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・四より)
「孔子曰く、操れば則ち存し、舍つれば則ち亡う。出入時無く、其の郷を知る莫しと。惟れ心の謂いか」
「孔先生も『ちゃんと保っておこうとすれば持っていられるが、捨ててしまえば完全に失ってしまう。
出るも入るもその時すら定まらず、どこを一番の居場所としているのかも知れない』と言われていた。
私はこれは『心』のことを言っているのだと解釈している。(上記のような性善説を基調とした論陣を
敷きながらも、あくまで孟子自身も人が心を失うのはたやすいことだとも考えているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——告子章句上・八より)
>>3
まず、そちらの言の結びが、“無知者の致命的な事実誤認”となっていますが、
それは“人の心に 信頼の集約先を一切置かない”ことが不始末となっている風で、
さらにその波及の元は“本性の所の善性を見失うことで、上っ面だけの振る舞いしか
できなくなってしまったような 人間の言うことなどは全く信用に値するものでもないが、”
と前置きをしておられます。
で、
>そこで神を 信じたりするというのなら、
>そのような神が信じるべきでない神であることまでもが確かである。
とありますが、仏だろうが神だろうが、宗教的なことがらについての信じる行為は、
その人間の根本に由来しておりませんか? どの宗教が正しいとかの話しではなく、
そちらがレスの頭で、“人間の本性の部分にある善性は信用できる”と言い、
さらに宗教などでの信心は、その人それぞれの周囲の評価などを度外視した人間的な行為ではないですかね?
それが、妄信であればあるほど、なりふり構わない言動をしたりすることもあるようで、
倫理や社会通念など明後日においている感じで、より濃いような気もしますが。
人間の心とおっしゃるのなら、その人が信じる神が“信じるべき神でない”と誰が否定できますでしょうか?
(レスの引用はレスから直接コピペで、半角スペースは原文ママです)
まず、そちらの言の結びが、“無知者の致命的な事実誤認”となっていますが、
それは“人の心に 信頼の集約先を一切置かない”ことが不始末となっている風で、
さらにその波及の元は“本性の所の善性を見失うことで、上っ面だけの振る舞いしか
できなくなってしまったような 人間の言うことなどは全く信用に値するものでもないが、”
と前置きをしておられます。
で、
>そこで神を 信じたりするというのなら、
>そのような神が信じるべきでない神であることまでもが確かである。
とありますが、仏だろうが神だろうが、宗教的なことがらについての信じる行為は、
その人間の根本に由来しておりませんか? どの宗教が正しいとかの話しではなく、
そちらがレスの頭で、“人間の本性の部分にある善性は信用できる”と言い、
さらに宗教などでの信心は、その人それぞれの周囲の評価などを度外視した人間的な行為ではないですかね?
それが、妄信であればあるほど、なりふり構わない言動をしたりすることもあるようで、
倫理や社会通念など明後日においている感じで、より濃いような気もしますが。
人間の心とおっしゃるのなら、その人が信じる神が“信じるべき神でない”と誰が否定できますでしょうか?
(レスの引用はレスから直接コピペで、半角スペースは原文ママです)
所詮小説レベル
>>4
実際、大抵のまともな宗教は人の心の修養を念頭に置いているわけだけれども。
「イエスは人間の心を知っておられる。イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、
そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、
イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
人間についてだれからも証しをしてもらう必要がなかったからである。
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」
(権力犯罪聖書——通称聖書——ヨハネ禍音書2:23〜25)
驚くべきことに、イエキリは人の心には信ずるに値するものなど何もないとしている。
人の心の価値などを一切認めることなく、ただ外的な神に帰依しろとしている。
これこそは、人としての心の修養をかえって拒絶させることを本義とした
邪教となっていて、まあ、ここまで露骨な邪義を触れ回っているカルトでも
ない限りは、普通は信教もそれなりに心の修養を目的としていると考えていい。
実際、大抵のまともな宗教は人の心の修養を念頭に置いているわけだけれども。
「イエスは人間の心を知っておられる。イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、
そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、
イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
人間についてだれからも証しをしてもらう必要がなかったからである。
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」
(権力犯罪聖書——通称聖書——ヨハネ禍音書2:23〜25)
驚くべきことに、イエキリは人の心には信ずるに値するものなど何もないとしている。
人の心の価値などを一切認めることなく、ただ外的な神に帰依しろとしている。
これこそは、人としての心の修養をかえって拒絶させることを本義とした
邪教となっていて、まあ、ここまで露骨な邪義を触れ回っているカルトでも
ない限りは、普通は信教もそれなりに心の修養を目的としていると考えていい。
「イエスが人の心を信じていなかった」とヨハネ禍音書にある。
刑死して生き返るなんていう与太話を模倣することはできなくても、
人の心を信じないことぐらいは誰にでも真似することができる。
そして、人の心を信じないでいることを信仰によって実践しよう
とした結果、自他の心を信じもせず、人としての根本に当たる
心を蔑ろにする信者が出来上がるというわけだ。
心が心を信じないことを希求して、実際に当人が心を失う。
信仰は実際、そういうことにも悪用が可能なんだ。
信仰すなわち篤心だなんてことは全くない。むしろ心を
薄弱化や損失させるためにこそ信仰を為すこともまたできるのだ。
のめり込みが尽心に基づくのは、あくまで仁徳に基づく場合のみ。
仁徳に基づかないのめり込みは、かえって本人の心を失わせる原因となる。
刑死して生き返るなんていう与太話を模倣することはできなくても、
人の心を信じないことぐらいは誰にでも真似することができる。
そして、人の心を信じないでいることを信仰によって実践しよう
とした結果、自他の心を信じもせず、人としての根本に当たる
心を蔑ろにする信者が出来上がるというわけだ。
心が心を信じないことを希求して、実際に当人が心を失う。
信仰は実際、そういうことにも悪用が可能なんだ。
信仰すなわち篤心だなんてことは全くない。むしろ心を
薄弱化や損失させるためにこそ信仰を為すこともまたできるのだ。
のめり込みが尽心に基づくのは、あくまで仁徳に基づく場合のみ。
仁徳に基づかないのめり込みは、かえって本人の心を失わせる原因となる。
>>9
ええ、ええ、ですからー、、、。>>3ですね、これ。何度も言いますが、キリスト教が正しいとか
仏教が正しいとか、そういう話しを言っているのではないです。こちらは。ここのレスの自分の
言っていることに中にある矛盾に気がつかないですか? >>4のレスでのそちらの引用とそれぞれの
解釈、そしてそれらの他の言にかかる意味合いについて自身はまるで何とも思わないですか?
じゃあ、それはあとで、というか、>>9の話し。前提の引用はそちらが邪教と言っている宗教の
聖典ですが? そちらが>>3で人間の心の話しをベースに、神という存在(基督教に限っているんですかね?)が確実なものでないという話しに持っていっていますが、わたしは宗教への信奉もまた
人のこころの動作のうちにあり、他者において、その対象を否定するのは、おっしゃっていることに
全く相反すると言っているのです。単純に。すると、こんどはその指摘に対し、イエスという物が、
人の心に信を置かなかったことが、その宗教の欠陥であり、その証拠どこにあるかと言えば、
その邪教の聖典とは、これ如何に?
しかも、『ヨハネ禍音書』の引用部分で『人の心を信用していなかった』は、読み違えておられる
と思いますが。
わたしの解釈はこうです。
まず、人々はイエスの名を信じた。「名」とは身分や名跡であり、イエスのそれを信じる人々に
対しての表現は、冒頭に『イエスは人間の心を知っておられる』とあることから、どんな名跡を
つげられようが、それは表層の事柄に過ぎず、それよりも人の心の中を重んじていたという話しでは
ないんですか? そのヨハネうんちゃらの引用の最後の文言は、
“”人間についてだれからも証しをしてもらう必要がなかったからである。
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである”
と、なっていますよね?
こうなって来ると、そちらが常日頃、家柄が(って、どこにも品などそちらに感じ得ないが)どうとか
言っているそれ自体、おおよそ人の心よりも表層の某をアピールすることで、自己を堆くみせる
姑息な姿にしか見えない、というわけです。
ええ、ええ、ですからー、、、。>>3ですね、これ。何度も言いますが、キリスト教が正しいとか
仏教が正しいとか、そういう話しを言っているのではないです。こちらは。ここのレスの自分の
言っていることに中にある矛盾に気がつかないですか? >>4のレスでのそちらの引用とそれぞれの
解釈、そしてそれらの他の言にかかる意味合いについて自身はまるで何とも思わないですか?
じゃあ、それはあとで、というか、>>9の話し。前提の引用はそちらが邪教と言っている宗教の
聖典ですが? そちらが>>3で人間の心の話しをベースに、神という存在(基督教に限っているんですかね?)が確実なものでないという話しに持っていっていますが、わたしは宗教への信奉もまた
人のこころの動作のうちにあり、他者において、その対象を否定するのは、おっしゃっていることに
全く相反すると言っているのです。単純に。すると、こんどはその指摘に対し、イエスという物が、
人の心に信を置かなかったことが、その宗教の欠陥であり、その証拠どこにあるかと言えば、
その邪教の聖典とは、これ如何に?
しかも、『ヨハネ禍音書』の引用部分で『人の心を信用していなかった』は、読み違えておられる
と思いますが。
わたしの解釈はこうです。
まず、人々はイエスの名を信じた。「名」とは身分や名跡であり、イエスのそれを信じる人々に
対しての表現は、冒頭に『イエスは人間の心を知っておられる』とあることから、どんな名跡を
つげられようが、それは表層の事柄に過ぎず、それよりも人の心の中を重んじていたという話しでは
ないんですか? そのヨハネうんちゃらの引用の最後の文言は、
“”人間についてだれからも証しをしてもらう必要がなかったからである。
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである”
と、なっていますよね?
こうなって来ると、そちらが常日頃、家柄が(って、どこにも品などそちらに感じ得ないが)どうとか
言っているそれ自体、おおよそ人の心よりも表層の某をアピールすることで、自己を堆くみせる
姑息な姿にしか見えない、というわけです。
>>10の正誤です(すみません、今度はちゃんと推敲いたします)。
・3行目)言っていることに中にある矛盾に→言っていることの中にある矛盾に
・3行目〜4行目)それぞれの解釈、→それぞれのこちらの解釈
・2C/2L)確実なものでない→信じるべき神でない
※補足。この「神」ですが、わたしは基督教における神という前提で言っているのではないことを
確認しておいて下さい。おそらくは、この話しのヨハネウンチャラの引用は、そちらの予定の内に
あったようですね。
・2C/4L)おっしゃっていることに全く相反する→おっしゃっていることの意味がまったく相反してくる
・2C/6L)その証拠どこにあるかと言えば→その証拠がどこにあるかといえば信じるべきでない神とそちらがいう
〜〜
以上です。
・3行目)言っていることに中にある矛盾に→言っていることの中にある矛盾に
・3行目〜4行目)それぞれの解釈、→それぞれのこちらの解釈
・2C/2L)確実なものでない→信じるべき神でない
※補足。この「神」ですが、わたしは基督教における神という前提で言っているのではないことを
確認しておいて下さい。おそらくは、この話しのヨハネウンチャラの引用は、そちらの予定の内に
あったようですね。
・2C/4L)おっしゃっていることに全く相反する→おっしゃっていることの意味がまったく相反してくる
・2C/6L)その証拠どこにあるかと言えば→その証拠がどこにあるかといえば信じるべきでない神とそちらがいう
〜〜
以上です。
神を信じるだ信じないだは一旦おいといてさ。
人の心を知っていればこそ、そんなものは信じないつってんだ。
これは、イエキリが荀子などと同じ性悪論者であったことの記録だ。
そういう記録があるから、荀子が本性劣悪な心を礼制によって正して
行こうとしたのと同じようにして、キリシタンもまた本性劣悪な人の心を
外的な神への信仰などによって正して行こうなどともしてしまったわけだ。
それは、性善説が真実である場合には、かえってよくないことなんだ。
自分の外側に心の正し所などを求めてるようじゃ、かえって心の正しさを見失う。
人間が正心の拠り所とすべき善は己れの本性の部分にしか存在しないのだから、
それを全否定して外的な治療などを乞うたりしてるようじゃ、
かえって正心を損ねた状態が磐石なものと化してしまう。
人間の本性こそは善である、そこにしか最終的な善の拠り所は存在しない
という事実関係があればこその、そのような特殊事情があるわけだ。
人の心を知っていればこそ、そんなものは信じないつってんだ。
これは、イエキリが荀子などと同じ性悪論者であったことの記録だ。
そういう記録があるから、荀子が本性劣悪な心を礼制によって正して
行こうとしたのと同じようにして、キリシタンもまた本性劣悪な人の心を
外的な神への信仰などによって正して行こうなどともしてしまったわけだ。
それは、性善説が真実である場合には、かえってよくないことなんだ。
自分の外側に心の正し所などを求めてるようじゃ、かえって心の正しさを見失う。
人間が正心の拠り所とすべき善は己れの本性の部分にしか存在しないのだから、
それを全否定して外的な治療などを乞うたりしてるようじゃ、
かえって正心を損ねた状態が磐石なものと化してしまう。
人間の本性こそは善である、そこにしか最終的な善の拠り所は存在しない
という事実関係があればこその、そのような特殊事情があるわけだ。
礼節を尊ぶことも、神仏を信じることも、
それによって心を正して行こうなどとしたのでは、本末転倒になる。
それこそ、心の正しさを失った状態を磐石化させる原因になってしまう。
心の正しさだけは自分で会得して、その状態を保って行くために
礼節を尊んだり神仏を信じたりするのが、正しいあり方。
そうであって初めて、礼儀礼節や神仏信仰が多少なりともの好影響を及ぼせる。
それによって心を正して行こうなどとしたのでは、本末転倒になる。
それこそ、心の正しさを失った状態を磐石化させる原因になってしまう。
心の正しさだけは自分で会得して、その状態を保って行くために
礼節を尊んだり神仏を信じたりするのが、正しいあり方。
そうであって初めて、礼儀礼節や神仏信仰が多少なりともの好影響を及ぼせる。
>>17
ほうほう、それで? つーか、話しになりません。
>>10で二度目として言ってますよね? 「だから、神や仏のどちらが正しいとかの話しでなく」と。
なんで、こっちの理論にいつの間に乗っかってるんですか?
で、>>9もその前のレスとほぼ同じ意味のレス(ヨハネの解体新書だかなんだかを引き合いにして)を
しているから、そちらのレスがそもそもの矛盾から出発しているから、言い訳も矛盾を帯びること
になることが露呈したわけですよ。それが、>>11までです。ほんと無様です。それを誤摩化す
気の抜けたレスはいりません。
では、もう一度、>>3の指摘に帰りましょう。(おかしいよ、そっち。的を射ないよ、まったく)
で、>>17は、
「人の心を一切信頼の対象とすべきでない」って、そんな文言>>3のどこにもないですがね?
ほうほう、それで? つーか、話しになりません。
>>10で二度目として言ってますよね? 「だから、神や仏のどちらが正しいとかの話しでなく」と。
なんで、こっちの理論にいつの間に乗っかってるんですか?
で、>>9もその前のレスとほぼ同じ意味のレス(ヨハネの解体新書だかなんだかを引き合いにして)を
しているから、そちらのレスがそもそもの矛盾から出発しているから、言い訳も矛盾を帯びること
になることが露呈したわけですよ。それが、>>11までです。ほんと無様です。それを誤摩化す
気の抜けたレスはいりません。
では、もう一度、>>3の指摘に帰りましょう。(おかしいよ、そっち。的を射ないよ、まったく)
で、>>17は、
「人の心を一切信頼の対象とすべきでない」って、そんな文言>>3のどこにもないですがね?
なんだ、sheもララァなんかと同じただのpsycho circus pierrotか。
おまえに場合分けを駆使した中正論は理解できないようだ。
まずその極論志向からおまえ自身が卒業して行くしかない。
おまえに場合分けを駆使した中正論は理解できないようだ。
まずその極論志向からおまえ自身が卒業して行くしかない。
禅門などでは、自分たちが自力作善による現世往生を志す「一世教」であることに合わせて、
他力本願の来世往生を希う浄土信仰やアブラハム教などを「二世教」と呼ぶ場合がある。
当然自分たちが一世教の帰依者であるわけだから、それこそは至上であるとしている
わけだけれども、二世教が世界的な猛威を振るっていることなどにも対応して、
「二世教で満足できるようなものはそうすればいい」などとも言ったりしている。
(以上は玄峰老師が「無門関提唱」で論じられていたことの略抄でもある)
ただ、やはり二世教ばかりが「宗教の王道」として世界的に持て囃されている現代世界こそは、
人類が滅亡の危機に見舞われているほどもの乱世でもある。現世を蔑ろにして来世を希ってばかり
いるわけだから、当然現世のほうは荒廃に見舞われていくこととなる。「だからこそ来世での
往生を願う」ではなく、来世の往生ばかりに囚われた結果、現世の破滅を招いているのである。
日本浄土教などは、公家の腐敗と武家の専横が深刻化したことにより乱世がもたらされて後、
鎌倉時代の中期に法然上人や親鸞聖人によって初めて民間にまで行き渡ったものであり、
(それ以前にも空也上人などによる布教があったが、まだ勢力を擁するまでには至らなかった)
乱世が別の理由でもたらされてから、仕方なく来世での極楽浄土への往生を願うという順序を
辛うじて守っている。だからこそ、来世往生ばかりを乞い求めた結果、自分たちが現世を
蔑ろにして乱世を招いたなどということにはなっていないことまでもが確かとなっている。
キリスト教などは、そうではないのである。妾腹の私生児が妄言妄動を来たした挙句に
無実の罪で重罪人の代わりに処刑されたという、かの世界一有名な疑獄事件が人々に決定的な
心の荒廃を植え付けた結果として、西洋社会やイスラム勃興以前の中東社会が暗黒の世へと
陥れられたのである。そこから来世での往生というものを信者に希うよう強要しているわけだから、
こちらの場合は、自分たちで破滅を招いておいて来世往生を欲するという、醜悪なマッチポンプ
としての条件を満たしてしまっているのである。(そのキリスト教の撃退を目的として創立された
イスラム教などは、教義の良し悪しはともかくとして、マッチポンプの条件は満たしていない)
他力本願の来世往生を希う浄土信仰やアブラハム教などを「二世教」と呼ぶ場合がある。
当然自分たちが一世教の帰依者であるわけだから、それこそは至上であるとしている
わけだけれども、二世教が世界的な猛威を振るっていることなどにも対応して、
「二世教で満足できるようなものはそうすればいい」などとも言ったりしている。
(以上は玄峰老師が「無門関提唱」で論じられていたことの略抄でもある)
ただ、やはり二世教ばかりが「宗教の王道」として世界的に持て囃されている現代世界こそは、
人類が滅亡の危機に見舞われているほどもの乱世でもある。現世を蔑ろにして来世を希ってばかり
いるわけだから、当然現世のほうは荒廃に見舞われていくこととなる。「だからこそ来世での
往生を願う」ではなく、来世の往生ばかりに囚われた結果、現世の破滅を招いているのである。
日本浄土教などは、公家の腐敗と武家の専横が深刻化したことにより乱世がもたらされて後、
鎌倉時代の中期に法然上人や親鸞聖人によって初めて民間にまで行き渡ったものであり、
(それ以前にも空也上人などによる布教があったが、まだ勢力を擁するまでには至らなかった)
乱世が別の理由でもたらされてから、仕方なく来世での極楽浄土への往生を願うという順序を
辛うじて守っている。だからこそ、来世往生ばかりを乞い求めた結果、自分たちが現世を
蔑ろにして乱世を招いたなどということにはなっていないことまでもが確かとなっている。
キリスト教などは、そうではないのである。妾腹の私生児が妄言妄動を来たした挙句に
無実の罪で重罪人の代わりに処刑されたという、かの世界一有名な疑獄事件が人々に決定的な
心の荒廃を植え付けた結果として、西洋社会やイスラム勃興以前の中東社会が暗黒の世へと
陥れられたのである。そこから来世での往生というものを信者に希うよう強要しているわけだから、
こちらの場合は、自分たちで破滅を招いておいて来世往生を欲するという、醜悪なマッチポンプ
としての条件を満たしてしまっているのである。(そのキリスト教の撃退を目的として創立された
イスラム教などは、教義の良し悪しはともかくとして、マッチポンプの条件は満たしていない)
それで結局、マッチポンプの条件を満たしている二世教こそは、プラスマイナスゼロ以下の
有害無益な悪影響を人と世にもたらすことが原理的に運命付けられてもいる。二世教であっても
マッチポンプとしての条件を満たしていない信教であれば、とんでもなくいい影響をもたらす
とまではいかずとも、大いなる害悪をもたらすということもない結果をもたらすものである。
二世教ってのは、それぐらいのもんである。害があるか、害も益もないかという程のもの。
大いなる益をもたらそうというのなら、一世教や無宗教の儒学などによる精進が必要である。
それは、現世か来世かなどにも関係のないことであるから、玄峰老師も遷化の際に「旅に出るぞ、
支度しろ」と遺言し、未来永劫永世にわたるまでの精進の持続を示唆もされたのである。
二世教に価値が全くないなどとは言わない。ただ、現代人の多くが考えているよりも遥かに、
二世教の存在価値というものは低い。それこそあるよりもないほうがマシな負の存在価値を
持った邪教も二世教にこそ多々あり得るもの。一世教も帰依姿勢が二世教的に成り下がった
挙句に腐敗してしまったりするものなのだから、そんな信教に帰依するぐらいなら、信教
なんか打ち捨ててしまったほうがマシであるということも確かに言えなくはないのである。
(自分たちも宗教者であるため、禅僧などがここまで突っ込んだ物言いをすることもないが)
激烈な他力信仰が心の修養に結び付くなんてのも、極めて低率な未曾有の事態であり、
そんなことはまずあり得ないぐらいのことと思ったがいい。もちろん皆無なわけでもないが、
奇跡的にそれを実現している浄土教の悪人正機説なども、種を明かしてみれば随分と粗末な
頓知となっている。そのような稀有な事例を含めて考えてみても、まあ、他力本願の二世教自体、
なくて済むならそうすりゃいいぐらいのものとして、成熟した大人なら考えておくべきである。
有害無益な悪影響を人と世にもたらすことが原理的に運命付けられてもいる。二世教であっても
マッチポンプとしての条件を満たしていない信教であれば、とんでもなくいい影響をもたらす
とまではいかずとも、大いなる害悪をもたらすということもない結果をもたらすものである。
二世教ってのは、それぐらいのもんである。害があるか、害も益もないかという程のもの。
大いなる益をもたらそうというのなら、一世教や無宗教の儒学などによる精進が必要である。
それは、現世か来世かなどにも関係のないことであるから、玄峰老師も遷化の際に「旅に出るぞ、
支度しろ」と遺言し、未来永劫永世にわたるまでの精進の持続を示唆もされたのである。
二世教に価値が全くないなどとは言わない。ただ、現代人の多くが考えているよりも遥かに、
二世教の存在価値というものは低い。それこそあるよりもないほうがマシな負の存在価値を
持った邪教も二世教にこそ多々あり得るもの。一世教も帰依姿勢が二世教的に成り下がった
挙句に腐敗してしまったりするものなのだから、そんな信教に帰依するぐらいなら、信教
なんか打ち捨ててしまったほうがマシであるということも確かに言えなくはないのである。
(自分たちも宗教者であるため、禅僧などがここまで突っ込んだ物言いをすることもないが)
激烈な他力信仰が心の修養に結び付くなんてのも、極めて低率な未曾有の事態であり、
そんなことはまずあり得ないぐらいのことと思ったがいい。もちろん皆無なわけでもないが、
奇跡的にそれを実現している浄土教の悪人正機説なども、種を明かしてみれば随分と粗末な
頓知となっている。そのような稀有な事例を含めて考えてみても、まあ、他力本願の二世教自体、
なくて済むならそうすりゃいいぐらいのものとして、成熟した大人なら考えておくべきである。
「成湯、桀を南巣に放つ、惟れ徳に慚ずる有り。曰く、予れ来世に台れを以って口実と為さんことを恐る」
「殷の湯王は暴虐の限りを尽くしていた夏の桀王を南巣に放伐して新たな王朝を創建した。しかし、
(放伐革命という)その所業に仁徳に照らし合わせて恥ずる所があったため、こう言って悔やんだ。
『私は次の世で、(私の所業が体制転覆の)口実となることを恐れている』(桀王の暴虐によって
『奴すら死ぬのなら共に死んだって構わない〈湯誓〉』というほどもの思いに駆られていた民衆たち
にとって、湯王による放伐革命でもたらされた治世はそれこそ『新しい世界への生まれ変わり』という
ほどのものであったに違いない。しかし、そうであっても当の湯王自身は、自らの行いが不徳ではなかったか
と羞じるところがったのである。民衆たちにとっての二世教的な救いを実現しながら、当の湯王自身は
二世教的な事態に及んだことを恥じた。二世教的志向はそれ自体が徳に即して恥ずべきものなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)
「殷の湯王は暴虐の限りを尽くしていた夏の桀王を南巣に放伐して新たな王朝を創建した。しかし、
(放伐革命という)その所業に仁徳に照らし合わせて恥ずる所があったため、こう言って悔やんだ。
『私は次の世で、(私の所業が体制転覆の)口実となることを恐れている』(桀王の暴虐によって
『奴すら死ぬのなら共に死んだって構わない〈湯誓〉』というほどもの思いに駆られていた民衆たち
にとって、湯王による放伐革命でもたらされた治世はそれこそ『新しい世界への生まれ変わり』という
ほどのものであったに違いない。しかし、そうであっても当の湯王自身は、自らの行いが不徳ではなかったか
と羞じるところがったのである。民衆たちにとっての二世教的な救いを実現しながら、当の湯王自身は
二世教的な事態に及んだことを恥じた。二世教的志向はそれ自体が徳に即して恥ずべきものなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)
完璧Ill。^^
>>20
(ええと。なんで携帯なんですか? 関係ないですが。PCは名無し投稿用ですか?
あー、こっち連投規制になるよ。携帯レスのあとだと。そういう意味? だとしたら、どんだけセコいんだよ)
で、それ何の話しですか?
場合分けを駆使した中世論? それはどこのレスですか? 説明していただけますか?
と、ここで理解できないヤツに、説明は不可能とか、言うんでしょうな? 何が、
人の心だよ、聴いて呆れます。本物(口だけの人間としての)ダこいつ。
もうグーの根も出なくなったら、前はレス切ってましたが、さすがに長ーく続くスレは、
意地でもアホなこじつけ続けるわけですね。本物の下衆だ。つまり身の程知らずの下の衆だ。
そちらは、バタイユも知らない、自然理念の形而上学が哲学においては西洋基督教の教義にある
普遍の作用をもとに体系づけられたことも知らずに、いっぽうで否定し、一方でエラそうに普遍が
どうのと宣い、引用したヨハネ伝の読み違えを認める勇気もない、まったくの腰抜けだ。
前に言ったよね? そちらの言動は「信が真なきゆえに、義は欺に成り果ててたか」と。
今も、同じ感想だ。人の心が基本の信条と言うならば、「したり止めたりすべからず」であるはず
が、その>>20のレスによってまったくそちらは持ち得るわけもないと言うのが、よくわかりました。
貴賤貴賤とわめく、心人。そんなものがおれば、そこには永劫機先などなし。
(ええと。なんで携帯なんですか? 関係ないですが。PCは名無し投稿用ですか?
あー、こっち連投規制になるよ。携帯レスのあとだと。そういう意味? だとしたら、どんだけセコいんだよ)
で、それ何の話しですか?
場合分けを駆使した中世論? それはどこのレスですか? 説明していただけますか?
と、ここで理解できないヤツに、説明は不可能とか、言うんでしょうな? 何が、
人の心だよ、聴いて呆れます。本物(口だけの人間としての)ダこいつ。
もうグーの根も出なくなったら、前はレス切ってましたが、さすがに長ーく続くスレは、
意地でもアホなこじつけ続けるわけですね。本物の下衆だ。つまり身の程知らずの下の衆だ。
そちらは、バタイユも知らない、自然理念の形而上学が哲学においては西洋基督教の教義にある
普遍の作用をもとに体系づけられたことも知らずに、いっぽうで否定し、一方でエラそうに普遍が
どうのと宣い、引用したヨハネ伝の読み違えを認める勇気もない、まったくの腰抜けだ。
前に言ったよね? そちらの言動は「信が真なきゆえに、義は欺に成り果ててたか」と。
今も、同じ感想だ。人の心が基本の信条と言うならば、「したり止めたりすべからず」であるはず
が、その>>20のレスによってまったくそちらは持ち得るわけもないと言うのが、よくわかりました。
貴賤貴賤とわめく、心人。そんなものがおれば、そこには永劫機先などなし。
ある雑貨屋さんが、問屋さんに買い付けに行ったとき、そこには店にある在庫商品と重複するような
商品ばかりで、仕入れなくともプロパー商品の量や質は事足りるので、何も買い付けをしなかった。
というような、物質の数量によって配置できる物ではないわけで。
つまり、そちらが掲げるゴギョウハコベラホトケノザ?の書は西洋の基督教的(なぜかこれに固執してますがー)土壌で育った思想?哲学?、なんでいいや、それをも内包しているからとか、
最近は、それゆえにこれを持ってすれば、それらのものがいかに排すべきものであるかがよくわかり、
またそれらを間違いを一切質すことができる、と言わんばかりでやんす。
大体、そちらの考えは西洋文化が入る前に寄っているから、それらがあると停滞するわけでしょう?
(漢籍を編んだ人たちは、西洋の考え方などに触れてもいない前提があり、なのでそこに
西洋思想がないのは当然で、だからといって、現代人もそれを排していくことが理にかなっている
とか、雄三毛猫が貴重だからと雄の白いネコをヘアカラーで三毛にするようなものだ)
で、冒頭のたとえ話は、そちらの姿勢を言っているのだが、東洋の漢籍を中心とした思想があれば
事足りるとは、森羅万象あますことなく網羅することの意味では全くないということ。逆に言え
ば、
森羅万象というものは、現在までにある悠久の時間の蓄積の上にある。だからといって、
その祖たる物がまた一番エラいと言うわけでもないし、大げさに人類すべてから、
その上のものまでに触れるという話しの中で排除という形があれば、
そこにたどり着くことは不可能になるということを知っていなければならない。
(森羅万象が歯抜け言葉になり「し○ら○んしょう」という無知の章が出来上がると言う次第)
西洋を知らぬところから始めるのでなく、つまり引用から話し(もはや論というには幼稚すぎる)が引き出されたり、
真意を扨措いたままに言葉の強調のみに活用しているのは、そちら>>1が殊更低くあることの現れだ。
商品ばかりで、仕入れなくともプロパー商品の量や質は事足りるので、何も買い付けをしなかった。
というような、物質の数量によって配置できる物ではないわけで。
つまり、そちらが掲げるゴギョウハコベラホトケノザ?の書は西洋の基督教的(なぜかこれに固執してますがー)土壌で育った思想?哲学?、なんでいいや、それをも内包しているからとか、
最近は、それゆえにこれを持ってすれば、それらのものがいかに排すべきものであるかがよくわかり、
またそれらを間違いを一切質すことができる、と言わんばかりでやんす。
大体、そちらの考えは西洋文化が入る前に寄っているから、それらがあると停滞するわけでしょう?
(漢籍を編んだ人たちは、西洋の考え方などに触れてもいない前提があり、なのでそこに
西洋思想がないのは当然で、だからといって、現代人もそれを排していくことが理にかなっている
とか、雄三毛猫が貴重だからと雄の白いネコをヘアカラーで三毛にするようなものだ)
で、冒頭のたとえ話は、そちらの姿勢を言っているのだが、東洋の漢籍を中心とした思想があれば
事足りるとは、森羅万象あますことなく網羅することの意味では全くないということ。逆に言え
ば、
森羅万象というものは、現在までにある悠久の時間の蓄積の上にある。だからといって、
その祖たる物がまた一番エラいと言うわけでもないし、大げさに人類すべてから、
その上のものまでに触れるという話しの中で排除という形があれば、
そこにたどり着くことは不可能になるということを知っていなければならない。
(森羅万象が歯抜け言葉になり「し○ら○んしょう」という無知の章が出来上がると言う次第)
西洋を知らぬところから始めるのでなく、つまり引用から話し(もはや論というには幼稚すぎる)が引き出されたり、
真意を扨措いたままに言葉の強調のみに活用しているのは、そちら>>1が殊更低くあることの現れだ。
「君子の道は始めは暗然としているが、次第に明らかとなって行く(中庸)」とか
「大いなる任務を帯びた人間はまず始めに心志を苦しまされる(孟子)」だとかいった風に、
まず率先して暗中模索の努力に務めた上で大いなる結果を出そうとすることが、
自力作善の徳行の基本となっている。故に、自力作善本位の儒者の有り様を
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/134941759...
上のように「盲目だ」などとまで決め付けるものが昔からいたのでもある。
他力本願の二世教の信者なども、現世が闇雲であったりすることは認めていて、
だからこそ来世での光明を期待したりはするわけだけれども、別に光明に与るための
現世での自助努力に務めたりするわけでもなく、ただただ闇を嫌って光を好むというばかりの
姿勢でいる。だからこそ、現世の暗雲の中ですら自助努力に勤めて行こうなどとする者を
「光を嫌って闇に溺れる者」だなどとまで決め付けてあざ笑ったりすることすらもがあるのである。
そんな他力本願者と自力作善者とが並存していたとして、なおかつ来世の往生など
あり得ないと確定してしまったとする。したらば、現世の暗闇の中から努力を積んで行こうとした
自力作善者こそは功労の結実による光明に与れる一方で、他力本願者のほうは今まで
甘受すべき闇すらをも拒絶して光への嗜好ばかりに明け暮れていた不実がたたって、
今からこそ真っ暗闇の中での幽閉生活を強いられて行くことにすらなってしまうのである。
辛うじて「これからの暗闇」を免れられることとなった二世教(浄土教、イスラム教、拝火教など)
はといえば、いずれも「信仰のための自制」こそを少なからず信者に促すものであった。
戒律主義のイスラム教や拝火教はおろか、無戒律の浄土教すらもが、信仰によって信者たちの
自制心を育ませる方便上の効能を伴っているものであった。であるからには、闇と汚濁に
まみれた現世における開き直りを信者に促すものでまではなかったわけで、そのような
堅実さが伴っていればこそ、他力本願といえども、来世の光明などなかったとしたところで、
今さら暗闇に突き落とされるような運命に見舞われることもなくて済んだわけである。
「大いなる任務を帯びた人間はまず始めに心志を苦しまされる(孟子)」だとかいった風に、
まず率先して暗中模索の努力に務めた上で大いなる結果を出そうとすることが、
自力作善の徳行の基本となっている。故に、自力作善本位の儒者の有り様を
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/134941759...
上のように「盲目だ」などとまで決め付けるものが昔からいたのでもある。
他力本願の二世教の信者なども、現世が闇雲であったりすることは認めていて、
だからこそ来世での光明を期待したりはするわけだけれども、別に光明に与るための
現世での自助努力に務めたりするわけでもなく、ただただ闇を嫌って光を好むというばかりの
姿勢でいる。だからこそ、現世の暗雲の中ですら自助努力に勤めて行こうなどとする者を
「光を嫌って闇に溺れる者」だなどとまで決め付けてあざ笑ったりすることすらもがあるのである。
そんな他力本願者と自力作善者とが並存していたとして、なおかつ来世の往生など
あり得ないと確定してしまったとする。したらば、現世の暗闇の中から努力を積んで行こうとした
自力作善者こそは功労の結実による光明に与れる一方で、他力本願者のほうは今まで
甘受すべき闇すらをも拒絶して光への嗜好ばかりに明け暮れていた不実がたたって、
今からこそ真っ暗闇の中での幽閉生活を強いられて行くことにすらなってしまうのである。
辛うじて「これからの暗闇」を免れられることとなった二世教(浄土教、イスラム教、拝火教など)
はといえば、いずれも「信仰のための自制」こそを少なからず信者に促すものであった。
戒律主義のイスラム教や拝火教はおろか、無戒律の浄土教すらもが、信仰によって信者たちの
自制心を育ませる方便上の効能を伴っているものであった。であるからには、闇と汚濁に
まみれた現世における開き直りを信者に促すものでまではなかったわけで、そのような
堅実さが伴っていればこそ、他力本願といえども、来世の光明などなかったとしたところで、
今さら暗闇に突き落とされるような運命に見舞われることもなくて済んだわけである。
正直、二世教こそは、この世の害悪の主体的な元凶になってしまいがちなものである。
今はたまたま聖書信仰がその代表格たり得ているけれども、他力本願の現世努力放り投げという
姿勢全般が罪悪に繋がりがちなものなのであり、普通に考えて忌むべきものなのである。
その中でたまたま害悪の抑制に与するような二世教があったとしたところで、むしろそのような
信教のほうが二世教のうちでは変則的なものとなっている。(だから浄土教の悪人正機説
なども見てくれ変則的な論説となっている)現世をないがしろにしてまで来世を希求するのと、
現世は現世でそれなりでいながら来世の光明までをも希求するのとでは、むしろ現世を蔑ろに
する場合のほうが「より二世教らしい」といえる。だから、二世教の一般的価値というものを
高く見積もるのであれば、自然と聖書信仰あたりが突出した権威性をも帯びてくるようになって
しまう。そうならないためには、聖書信仰という特定の信教を非とするだけでなく、二世教
という宗教的体裁全般の価値の見直しまでもが講じられていかなければならないのである。
ペルシャの哲学者スフラワルディーも、東方こそは光の精神文明、西方こそは闇の物質文明で
あるとする照明論哲学を展開しているが、東方こそは自力作善を主体とした文化の隆盛地と
なって来た一方、西方こそは他力本願を主体とした文化の蔓延地ともなっている。現世での
光の希求を拒絶して来世への嘱望に逃避して来たからこそ、現世の西洋文化こそは闇を主体
とした文化文明であり続けて来てしまった。それは結局、来世にしか光明を見出すべきでない
とした最悪級の二世教の根拠地ともなって来たからなのだから、真の光に与るためにこそ、
そのような志向を信者に強要する邪教の払拭を講じていくことで、西洋人までもが真の光明に
与っていけるようになるのだといえる。無論、真の光明に与りたいのかどうかは知らないが。
今はたまたま聖書信仰がその代表格たり得ているけれども、他力本願の現世努力放り投げという
姿勢全般が罪悪に繋がりがちなものなのであり、普通に考えて忌むべきものなのである。
その中でたまたま害悪の抑制に与するような二世教があったとしたところで、むしろそのような
信教のほうが二世教のうちでは変則的なものとなっている。(だから浄土教の悪人正機説
なども見てくれ変則的な論説となっている)現世をないがしろにしてまで来世を希求するのと、
現世は現世でそれなりでいながら来世の光明までをも希求するのとでは、むしろ現世を蔑ろに
する場合のほうが「より二世教らしい」といえる。だから、二世教の一般的価値というものを
高く見積もるのであれば、自然と聖書信仰あたりが突出した権威性をも帯びてくるようになって
しまう。そうならないためには、聖書信仰という特定の信教を非とするだけでなく、二世教
という宗教的体裁全般の価値の見直しまでもが講じられていかなければならないのである。
ペルシャの哲学者スフラワルディーも、東方こそは光の精神文明、西方こそは闇の物質文明で
あるとする照明論哲学を展開しているが、東方こそは自力作善を主体とした文化の隆盛地と
なって来た一方、西方こそは他力本願を主体とした文化の蔓延地ともなっている。現世での
光の希求を拒絶して来世への嘱望に逃避して来たからこそ、現世の西洋文化こそは闇を主体
とした文化文明であり続けて来てしまった。それは結局、来世にしか光明を見出すべきでない
とした最悪級の二世教の根拠地ともなって来たからなのだから、真の光に与るためにこそ、
そのような志向を信者に強要する邪教の払拭を講じていくことで、西洋人までもが真の光明に
与っていけるようになるのだといえる。無論、真の光明に与りたいのかどうかは知らないが。
「飶たる其の香り、邦家の光なる。椒たる其の馨り、胡考の寧らぎなる。
且のみ且く有るに匪ず、今のみ今の斯くに匪ず、振古よりして茲の如し」
「豊穣のために神前に祭られた供物もかぐわしく、邦家の光となり、長老たちにとっての
安心の糧ともなっている。昔こうだったというのでも、今に限ってこうだというのでもない。
昔からの努力があるからこそ斯くの如くでいられるのである。(長年の努力こそが光を呼び込む)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・閔予小子之什・載芟より)
且のみ且く有るに匪ず、今のみ今の斯くに匪ず、振古よりして茲の如し」
「豊穣のために神前に祭られた供物もかぐわしく、邦家の光となり、長老たちにとっての
安心の糧ともなっている。昔こうだったというのでも、今に限ってこうだというのでもない。
昔からの努力があるからこそ斯くの如くでいられるのである。(長年の努力こそが光を呼び込む)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・閔予小子之什・載芟より)
>>1
まず排他主義的思考を改めるべきだ。そして、自分の無知と恥の意味を知るべきだ。
本当のところは、勝ったー負けたーハイ論破などが好きなだけだろう。ただの意固地なだけで、
バカを応援したくなる人たちのお陰で、
『小人閑居為不善、在有己無知、是無之有』になってるだけだよー。
そちらは、○○を現代の人にも分かるように流布することが自分の努め、
だとか言ってる宗教家と変わらない。徳、説くが、“得”無し。
>>27->>28
[The fact that’s light to one in the jet-black is for answer to one of them physical. "One of them" is mean of all from answer from question of here.]
まず排他主義的思考を改めるべきだ。そして、自分の無知と恥の意味を知るべきだ。
本当のところは、勝ったー負けたーハイ論破などが好きなだけだろう。ただの意固地なだけで、
バカを応援したくなる人たちのお陰で、
『小人閑居為不善、在有己無知、是無之有』になってるだけだよー。
そちらは、○○を現代の人にも分かるように流布することが自分の努め、
だとか言ってる宗教家と変わらない。徳、説くが、“得”無し。
>>27->>28
[The fact that’s light to one in the jet-black is for answer to one of them physical. "One of them" is mean of all from answer from question of here.]
さして込み入った話し合いをすべきでもない所。
たとえ自分が世界の帝王になるとしたって、他人を押しのけて自分がその座に
就くのではなく、むしろその座において自らが人並み以上の精進虚静に励む
ぐらいのつもりでいて初めて、仁徳ある帝王ともなり得るのである。
そのような条件を満たしていたのが、たとえば近代以前の日本の天皇である。
平安期までの律令制時代においては、藤原摂関家のごとき重臣たちの栄華を温かく見守り、
自身はといえば「天上人」としての責務に即して清廉を尽くした生活を守っていた。
実権が公家から武家へと移行した武家時代においても、やはり大名将軍の栄達を
禁裏から見守る最終統率者としての立場に徹していた。(南北朝時代など一部を除く)
これは、陰陽道を発祥地の中国以上にも精練することで確立された日本ならではの
優良な統治システムであり、その起源は聖徳太子による天皇(的立場)の提唱あたりにまで
さかのぼる。中国の皇帝のようなあからさまな栄華を自分自身が享受しないのと引き換えに、
革命による皇位簒奪などを厳禁した、恒久的な立場の維持を実現して行くものとしたのである。
その、「臣下の繁栄こそを約束する王者」としての天皇の立場が決定的に揺るがされたのが、
近代以降の大日本帝国や国家神道の擁立に基づく天皇の一尊化であった。天皇以下の臣下臣民は
みな天皇のために全てをなげうつ下僕とされ、「天皇陛下万歳」と叫びながらであれば戦中での
特攻や玉砕もお咎めなしという、日本史上に未だかつて前例のない異常事態を招いた。
敗戦後、天皇の権限や権威に大幅な制限が加えられることとなったために、最悪級の集団
ヒステリー状態ぐらいは回避されるようになったが(それでも一部の極右団体などが残存する)、
最大級の権威は保持しても権力は独り占めせず、特に有能な重臣やその末裔たちの
勇躍を公認しつつ温かく見守るという天皇本来のあり方が修復されたわけでは全く
ないわけで、統治もしなければ、ほとんど君臨すらしなくなってしまったその
存在性が、ほとんど意義を喪失しかけるような状態となってしまったのだった。
就くのではなく、むしろその座において自らが人並み以上の精進虚静に励む
ぐらいのつもりでいて初めて、仁徳ある帝王ともなり得るのである。
そのような条件を満たしていたのが、たとえば近代以前の日本の天皇である。
平安期までの律令制時代においては、藤原摂関家のごとき重臣たちの栄華を温かく見守り、
自身はといえば「天上人」としての責務に即して清廉を尽くした生活を守っていた。
実権が公家から武家へと移行した武家時代においても、やはり大名将軍の栄達を
禁裏から見守る最終統率者としての立場に徹していた。(南北朝時代など一部を除く)
これは、陰陽道を発祥地の中国以上にも精練することで確立された日本ならではの
優良な統治システムであり、その起源は聖徳太子による天皇(的立場)の提唱あたりにまで
さかのぼる。中国の皇帝のようなあからさまな栄華を自分自身が享受しないのと引き換えに、
革命による皇位簒奪などを厳禁した、恒久的な立場の維持を実現して行くものとしたのである。
その、「臣下の繁栄こそを約束する王者」としての天皇の立場が決定的に揺るがされたのが、
近代以降の大日本帝国や国家神道の擁立に基づく天皇の一尊化であった。天皇以下の臣下臣民は
みな天皇のために全てをなげうつ下僕とされ、「天皇陛下万歳」と叫びながらであれば戦中での
特攻や玉砕もお咎めなしという、日本史上に未だかつて前例のない異常事態を招いた。
敗戦後、天皇の権限や権威に大幅な制限が加えられることとなったために、最悪級の集団
ヒステリー状態ぐらいは回避されるようになったが(それでも一部の極右団体などが残存する)、
最大級の権威は保持しても権力は独り占めせず、特に有能な重臣やその末裔たちの
勇躍を公認しつつ温かく見守るという天皇本来のあり方が修復されたわけでは全く
ないわけで、統治もしなければ、ほとんど君臨すらしなくなってしまったその
存在性が、ほとんど意義を喪失しかけるような状態となってしまったのだった。
究極級の陰陽道の精査にも即して確立された天皇という立場の存在意義の復興のためにも、
「全体主義か独裁主義か」といったような両極端を排した、中庸的な考え方が必要となる。
「他人を押しのけてでも自分がのし上がる」というような独尊志向を排するためにこそ、
天皇も万世一系の世襲制でいる。天皇以下の臣下ならばまだ成り上がりの可能性も
あり得るが、それとて豊臣秀吉のように新たな本姓を創設してまで、百姓から関白家
にまでのし上がろうとするような突発性を伴っているようなら、危ういものである。
名目上の位階からでも、無闇なのし上がりを抑制する厳格さを保った上で、なだらかな
上下の序列を形成して行くことが、独裁的でも全体的でもない中正なあり方となる。
そのような中庸を保った体制を是認できて、実際に自分が服して行ける人間こそは自らが
中庸を尊べる君子でもある一方、いまいちそんな分かりにくい体制にはなじめなくて、
自分一人が他者を押しのけてでものし上がりってたいというような人間は、やはり自分自身が
君子としての素養を欠いているのだといえる。身分が上か下か官か民かなどによらず、
できる限りそういった意味での君子的な品位の持ち主ばかりで世の中が占められるように
なるに越したことはないわけだから、上記のような本来の有り方を取り戻した天皇や、
それに準ずる君主が君臨する世の中が世界規模でも実現されていったならば、それに
よってこの地球上も破滅の危機を免れられるのはもちろんのこと、未だかつて到来した
こともないような未曾有の繁栄が全人類に対して実現されて行くこととすらなるだろう。
「損益は盛衰の始めなり」
「損益の自然な流れが物事の盛衰の発端となる。
(盛衰いずれかで言えば盛んであるに越したことはないが、世に限りある富を
人々が分け合う上での損益が極まった時に仕方なく盛衰のうねりが生ずるのである。
故に、そこに『〜ねばならない』などといった恣意を差し挟むべきでもないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・雑卦伝より)
「全体主義か独裁主義か」といったような両極端を排した、中庸的な考え方が必要となる。
「他人を押しのけてでも自分がのし上がる」というような独尊志向を排するためにこそ、
天皇も万世一系の世襲制でいる。天皇以下の臣下ならばまだ成り上がりの可能性も
あり得るが、それとて豊臣秀吉のように新たな本姓を創設してまで、百姓から関白家
にまでのし上がろうとするような突発性を伴っているようなら、危ういものである。
名目上の位階からでも、無闇なのし上がりを抑制する厳格さを保った上で、なだらかな
上下の序列を形成して行くことが、独裁的でも全体的でもない中正なあり方となる。
そのような中庸を保った体制を是認できて、実際に自分が服して行ける人間こそは自らが
中庸を尊べる君子でもある一方、いまいちそんな分かりにくい体制にはなじめなくて、
自分一人が他者を押しのけてでものし上がりってたいというような人間は、やはり自分自身が
君子としての素養を欠いているのだといえる。身分が上か下か官か民かなどによらず、
できる限りそういった意味での君子的な品位の持ち主ばかりで世の中が占められるように
なるに越したことはないわけだから、上記のような本来の有り方を取り戻した天皇や、
それに準ずる君主が君臨する世の中が世界規模でも実現されていったならば、それに
よってこの地球上も破滅の危機を免れられるのはもちろんのこと、未だかつて到来した
こともないような未曾有の繁栄が全人類に対して実現されて行くこととすらなるだろう。
「損益は盛衰の始めなり」
「損益の自然な流れが物事の盛衰の発端となる。
(盛衰いずれかで言えば盛んであるに越したことはないが、世に限りある富を
人々が分け合う上での損益が極まった時に仕方なく盛衰のうねりが生ずるのである。
故に、そこに『〜ねばならない』などといった恣意を差し挟むべきでもないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・雑卦伝より)
このスレなどでレスしている事柄などが、そちらの目的や理由というものから興っているとおっしゃる?
まず、そちらの言動は、非を否定するための卑しいものと言わざるを得ない。ここでいう非は、そちらが自ら起こした
不始末のことで、端緒においてある目的というものは、これらの言動の中にある。つまり、そこ元の目的と理由は、
自らの非を否定するためにすでに還元されている状態だ。
それは、第一の目的が、先人のご託宣を掲げることは自らの主張ではなく、洋服買ってきて、それを着飾って見せびらかすのと同じで、
その出で立ちがちぐはぐだと言われて腹を立て、すべからく人の道理を非を否とするために活用しているのみである。
そちらが、掲げようとする書物等の在る事の根本を考えていただきたいが。
話し合いなどするつもりなど毛頭ないと言うか、無理なのは分かっている。こちらの指摘について、ちょっと触って、
別のうんちゃら。はいさいなら。それは>>35などでもやはりかわらず、その発言の真意(そちらの中身についての指摘)ではなく、
『〜べきではない』などを使うのは人の行動として良からぬ事、と、カードゲームで遊んでるようなレスを返して来るだけだ。ほんと子供だ。
このレスで言っているのは、そういう事。次は、それ以外のくだらない部分での返答はいらない。わたしのこれまでのレスの返答レスで、
話し返答言えるものは全く皆無である現実、それは確かにあることというのを自覚した方がいい。
(「込み入った」とは入り込んだという意味? 混み入った話し風にして人へ当てこするのは好きだよな? そちら)
>「他人を押しのけてでも自分がのし上がる」
こういうことを書くのが厚顔無恥の恥知らずというのだ。
>>30で、わざわざヘタクソな漢文を作ったのにまったく聴いちゃいない風だな。
〜〜〜『小人閑居為不善、在有己無知、是無之有』
悪さをするやつは不始末のために引きこもり、それは己の無知あるところ、それが無しということのが有るからだ。〜〜〜
まず、そちらの言動は、非を否定するための卑しいものと言わざるを得ない。ここでいう非は、そちらが自ら起こした
不始末のことで、端緒においてある目的というものは、これらの言動の中にある。つまり、そこ元の目的と理由は、
自らの非を否定するためにすでに還元されている状態だ。
それは、第一の目的が、先人のご託宣を掲げることは自らの主張ではなく、洋服買ってきて、それを着飾って見せびらかすのと同じで、
その出で立ちがちぐはぐだと言われて腹を立て、すべからく人の道理を非を否とするために活用しているのみである。
そちらが、掲げようとする書物等の在る事の根本を考えていただきたいが。
話し合いなどするつもりなど毛頭ないと言うか、無理なのは分かっている。こちらの指摘について、ちょっと触って、
別のうんちゃら。はいさいなら。それは>>35などでもやはりかわらず、その発言の真意(そちらの中身についての指摘)ではなく、
『〜べきではない』などを使うのは人の行動として良からぬ事、と、カードゲームで遊んでるようなレスを返して来るだけだ。ほんと子供だ。
このレスで言っているのは、そういう事。次は、それ以外のくだらない部分での返答はいらない。わたしのこれまでのレスの返答レスで、
話し返答言えるものは全く皆無である現実、それは確かにあることというのを自覚した方がいい。
(「込み入った」とは入り込んだという意味? 混み入った話し風にして人へ当てこするのは好きだよな? そちら)
>「他人を押しのけてでも自分がのし上がる」
こういうことを書くのが厚顔無恥の恥知らずというのだ。
>>30で、わざわざヘタクソな漢文を作ったのにまったく聴いちゃいない風だな。
〜〜〜『小人閑居為不善、在有己無知、是無之有』
悪さをするやつは不始末のために引きこもり、それは己の無知あるところ、それが無しということのが有るからだ。〜〜〜
でー、(本文長過ぎると、言われたー、アホにアホレスしているとちょっと恥を知る)
いろんなレスを見ていると、2〜3行のレスでも、実に多くのことを語れる人は、たくさんいるが、そちらは、100行書いても根幹は、
すべて卑しい言動に集約されているので、なにを書こうがいまのところ、ひとつの意味にしか発展しない。そして、オリジナリティなどまったく感じない。
そして、目的と理由、もっとしっかりしたものがあるというなら、それをちゃんと自分の文章で、引用によるところなく書けますか?(つまり、いまのような引用の仕方でなくという意味)
ご立派なそれがあるのなら、是非、伺ってみたのですが? ちゃんとしたものなら、否定や論いで遊ぼうなどということはいたしません。
では、ばいちゃ〜まったく無駄足下〜イカのゲソー、めんどーで改行ちゃんとしてませーん、『まったくNon、she得る得る〜』でしょうかねー。
いろんなレスを見ていると、2〜3行のレスでも、実に多くのことを語れる人は、たくさんいるが、そちらは、100行書いても根幹は、
すべて卑しい言動に集約されているので、なにを書こうがいまのところ、ひとつの意味にしか発展しない。そして、オリジナリティなどまったく感じない。
そして、目的と理由、もっとしっかりしたものがあるというなら、それをちゃんと自分の文章で、引用によるところなく書けますか?(つまり、いまのような引用の仕方でなくという意味)
ご立派なそれがあるのなら、是非、伺ってみたのですが? ちゃんとしたものなら、否定や論いで遊ぼうなどということはいたしません。
では、ばいちゃ〜まったく無駄足下〜イカのゲソー、めんどーで改行ちゃんとしてませーん、『まったくNon、she得る得る〜』でしょうかねー。
仮に地震や津波や台風のような災害が国内で巻き起これば、救助隊員や自衛隊員なども、
国籍や身分の如何に関わらず被害者全員を救助対象とする。のみならず、海外で大規模な
災害が発生した場合にすら、救助隊を編成しての人道支援を試みたりもする。それは全て、
「国」という枠組みに即して災害救助という業務が想定されているからであり、もしも
「利権」という枠組みに即して想定されていたりしたならばそうはいかないのである。
東日本大震災の事後復興などでも、利権が絡んでいるせいでの滞りが問題視されているが、
これも、国や自治体よりは遥かに矮小な私的利権への一部の人間の拘泥があればこそ
呈してしまっていることである。東証一部上場級の大企業であろうとも、国営企業で
ない以上は国益よりも企業自体の利益のほうが優先される。そしてその私益のうまみに
与れる人間も一部の重役や正社員に制限されて、派遣社員や末端のパート・アルバイト
などに対しては所帯を持つのもままならないような生活苦を強いることともなるのである。
それが私企業というものの本分だからそうするまでであって、そもそも私企業なんてものを
やたらと肥大化させる資本主義社会の姿勢からして、国や世の中の側の疲弊を招くことが
避けられないものである。そうであることの陰惨さが今、震災復興の停滞などの形でも
露呈してしまっているわけだが、これもまた、日本が「資本主義」などというものを
国是とし続けてきた以上は、自業自得で免れることの出来なかった運命なのである。
公益や国益よりも私益を優先することで膨れ上がる利権こそは、見るからに甚大である。
古くはエジプトのピラミッドや秦始皇帝の王宮陵墓など、今だと大企業の自社ビルなどの
巨大さこそが、いかにも見る者を圧倒させたがりな体でいる。事業としての規模では、
灌漑や治水などの公共事業のほうがより大きかったりもするわけだが、大都市の
中心部のような多くの人間が居住を希望したがるような場所にドカンと巨大な建造物を
拵えてそこに居座るということが、特にそれを見る者に羨望を抱かせやすいと共に、
そこに居座れた者の自己権顕示欲を存分に充足させる効果をも発揮するのである。
国籍や身分の如何に関わらず被害者全員を救助対象とする。のみならず、海外で大規模な
災害が発生した場合にすら、救助隊を編成しての人道支援を試みたりもする。それは全て、
「国」という枠組みに即して災害救助という業務が想定されているからであり、もしも
「利権」という枠組みに即して想定されていたりしたならばそうはいかないのである。
東日本大震災の事後復興などでも、利権が絡んでいるせいでの滞りが問題視されているが、
これも、国や自治体よりは遥かに矮小な私的利権への一部の人間の拘泥があればこそ
呈してしまっていることである。東証一部上場級の大企業であろうとも、国営企業で
ない以上は国益よりも企業自体の利益のほうが優先される。そしてその私益のうまみに
与れる人間も一部の重役や正社員に制限されて、派遣社員や末端のパート・アルバイト
などに対しては所帯を持つのもままならないような生活苦を強いることともなるのである。
それが私企業というものの本分だからそうするまでであって、そもそも私企業なんてものを
やたらと肥大化させる資本主義社会の姿勢からして、国や世の中の側の疲弊を招くことが
避けられないものである。そうであることの陰惨さが今、震災復興の停滞などの形でも
露呈してしまっているわけだが、これもまた、日本が「資本主義」などというものを
国是とし続けてきた以上は、自業自得で免れることの出来なかった運命なのである。
公益や国益よりも私益を優先することで膨れ上がる利権こそは、見るからに甚大である。
古くはエジプトのピラミッドや秦始皇帝の王宮陵墓など、今だと大企業の自社ビルなどの
巨大さこそが、いかにも見る者を圧倒させたがりな体でいる。事業としての規模では、
灌漑や治水などの公共事業のほうがより大きかったりもするわけだが、大都市の
中心部のような多くの人間が居住を希望したがるような場所にドカンと巨大な建造物を
拵えてそこに居座るということが、特にそれを見る者に羨望を抱かせやすいと共に、
そこに居座れた者の自己権顕示欲を存分に充足させる効果をも発揮するのである。

神格化したのが犯罪聖書の神でもあるわけで、聖書の神が一部の人間を救って他の人間は
破滅に陥れるとしているのも、そうするしかないからそうしているまでのことである。
国内で災害に見舞われた人間は誰と言わず救助する救助隊や自衛隊などとは違って、利権に
与れたものだけを優遇し、そうでないものを冷遇するという立場の神格化であるからこそ、
救済如何も「信じるか否か」なんていう極めて恣意的な条件に還元してしまうのである。
世の中が、私益よりも公益を尊重する傾向を盤石化させていったならば、そんな邪神から
して生じ得ない。素封家が完全にこの世から絶やされるとまでいかずとも、ある程度まで
素封の規模が抑制すらされたならば(最低でも政商としての横暴が許されない程度に)、
そこで溜め込まれた利権の嵩にかかることを「神」として崇めたてるほどもの暴行ぐらいは
防ぎ止められるようになるのである。古典的な手段ではあるが、商家や庄屋の人間には
身分に合わせた垢抜けない格好をさせて、そのような立場の人間に対する人々の羨望を
立ち消えにさせるなどというのも、一つの有効な手立てとなる。それは、イギリスあたり
を発祥地とする背広(スーツ)の見てくれのよさが、商売人を「ビジネスマン」などと
して美化する効果を発揮してしまっている現代の様相を鑑みても言えることである。
結局、いま社会人の象徴として持て囃されているビジネススーツなども、作業服の軽便さと
より伝統的な礼服の見栄えのよさを合体させた奇形的なものであり、「権力者はゆったりと
した衣服を来て重厚な為政を執り行うべきである(易経・繋辞伝)」という易学上の奨励
事項にも反しているものである。権力者は袴のようなゆったりとした着物を着、今でいう
ブルーカラーの人間は今まで通り軽便な格好をし、商売などの素封に専らである人間は
「前掛け」のような格好でいるようにするのが社会的に適切である。前掛けといえば、
昔は百姓にすら卑しまれていたな格好ではあるけれども、まあそれぐらいでいるべきだ。
「君子如し夷らげれば、悪むも怒るも是こに違れり(既出)」
「仁徳ある君子が天下を平らげれば、憎しみも怒りも消え去るだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・節南山より)
「君子如し怒れば、乱も庶わば遄かに沮みなん(既出)」
「君子がひとたび怒れば、乱もその願いどおり速やかにやむであろう。
(君子の怒りは乱を鎮めるものであり、いつまでも持ち越すようなものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
「王の厥の武を奮うや、震れるが如く怒れるが如く。厥の虎臣を進めるも、闞れること
虓虎の如く。淮濆に鋪敦して、仍に醜虜を執え、彼の淮浦を截めて、王師の所とす」
「王者がその武力を奮う有り様たるや、まさに震撼として怒れるがごとく。臣下たち
の進軍する有り様も、まさに吼え狂う虎のごとく。淮河のほとりに敵を追い詰めて、
またたくまに逃げ惑う敵を捉えて虜とし、南国一帯を治めて王の師の住まう所とした。
(天下を統べる王者の怒りが一過性のものであり、道理にも適っている実例。既出の
大雅・皇矣における文王の怒りやそれに基づく凶賊の討伐などもこれと同様にあたる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・常武より)
「仁徳ある君子が天下を平らげれば、憎しみも怒りも消え去るだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・節南山より)
「君子如し怒れば、乱も庶わば遄かに沮みなん(既出)」
「君子がひとたび怒れば、乱もその願いどおり速やかにやむであろう。
(君子の怒りは乱を鎮めるものであり、いつまでも持ち越すようなものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
「王の厥の武を奮うや、震れるが如く怒れるが如く。厥の虎臣を進めるも、闞れること
虓虎の如く。淮濆に鋪敦して、仍に醜虜を執え、彼の淮浦を截めて、王師の所とす」
「王者がその武力を奮う有り様たるや、まさに震撼として怒れるがごとく。臣下たち
の進軍する有り様も、まさに吼え狂う虎のごとく。淮河のほとりに敵を追い詰めて、
またたくまに逃げ惑う敵を捉えて虜とし、南国一帯を治めて王の師の住まう所とした。
(天下を統べる王者の怒りが一過性のものであり、道理にも適っている実例。既出の
大雅・皇矣における文王の怒りやそれに基づく凶賊の討伐などもこれと同様にあたる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・常武より)
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>>1
そちらの頓珍漢ぶりを知ったのは、昨年の秋だったか。
精神性の鍛錬だとか言ってたスレ。心がどうのも、その延長のようだが、
そちらの目的や理由といったものは、エラいと思われたいところ。
そういうことを言っているのは、普遍的な事柄あるいは、すべてを含有しているものを
把握しておけば、誰が来ようがロンパー的なものが出来ると思っているからだろう?
四書五経は、確かに「こころ」の在り方というものが朧げでも入って来る書物だとは思うがー。
この動画を見てどう思いますか?(そう二度目だ。相対的なことを言い含んだ引用などをしても、
中身には全く心当たりがないので、どうでもいいっすよー、っと)
前よりは、マシな事を書けますかね? というか、別にアンカーつけてないし、
こちらから、一方的に絡まれてるだけ〜、って感じですか?
百姓云々、そして、武家の家柄や血筋など、別に珍しくもないという話しなど、あるが、どうでも
いいな。そちらが馬鹿にする、町人(職人)などで、墓標に十六菊花紋を刻印することを許されているものなどがいたりするのを知ってる?
アホ草〜。

そちらの頓珍漢ぶりを知ったのは、昨年の秋だったか。
精神性の鍛錬だとか言ってたスレ。心がどうのも、その延長のようだが、
そちらの目的や理由といったものは、エラいと思われたいところ。
そういうことを言っているのは、普遍的な事柄あるいは、すべてを含有しているものを
把握しておけば、誰が来ようがロンパー的なものが出来ると思っているからだろう?
四書五経は、確かに「こころ」の在り方というものが朧げでも入って来る書物だとは思うがー。
この動画を見てどう思いますか?(そう二度目だ。相対的なことを言い含んだ引用などをしても、
中身には全く心当たりがないので、どうでもいいっすよー、っと)
前よりは、マシな事を書けますかね? というか、別にアンカーつけてないし、
こちらから、一方的に絡まれてるだけ〜、って感じですか?
百姓云々、そして、武家の家柄や血筋など、別に珍しくもないという話しなど、あるが、どうでも
いいな。そちらが馬鹿にする、町人(職人)などで、墓標に十六菊花紋を刻印することを許されているものなどがいたりするのを知ってる?
アホ草〜。
実際問題、世の中で極大級の権能を持つ人間というのは、どうしたって限られる。
王侯から権能が剥奪された民主主義社会などにおいても、今度は政商身分に相当
するような富豪が極大級の権力を裏で掌握するようなことになってしまったり
するだけであり、そのほうがかえって権力の寡占度も高まることにすらなる。
そのような、限られた権力を持つものだけができることというのがある。
「世の中で実行し得る最大級の善行や悪行」こそは、まさにそれである。
小善でも偽善でも小悪でもない、大善や大悪がそこでのみ実行可能となる。
世界を破滅に陥れたり、破滅に陥っている世界を救ったりといったことも、
世の中における究極級の権能を持つ者だけが可能とすることである。実際には
政商が最大の権力を握っている民主主義社会において、名目上の最高権力者として
擁立されている大統領だとか総理大臣だとかにすら、それだけの善行や悪行を
成し遂げることは不可能である。成し得ているように見えたりしたところで、
実際には究極級の権力者が裏から仕組んでいるだけであって、特に本人たちが
自分たちの悪行の罪を表向きの最高権力者に擦り付ける場合などにそれが顕著である。
まず「極大級の善行や悪行を為し得る権能は、限られた権力者だけが持ち得るもの」
という事実関係がある。仮に極大級の権能を悪人が掌握して、専ら悪行のために濫用
したりしているようならば、善人が極大級の善行を為したりすることも不可能となる。
孔子や孟子といった古代中国の著名な儒者もた、そのような理由で最大級の善行が
自分たちには為しえなかったわけである。本当は自分たちが堯舜や湯文武のような
聖王となって治世を実現して行きたかったわけだが、小人や悪人が極大級の権力を
握っていた当時の世の中においてはそれも叶わなかったから、仕方なく儒学の
興隆や醸成といった治世実現のための材料の温存活動に専念していたわけである。
王侯から権能が剥奪された民主主義社会などにおいても、今度は政商身分に相当
するような富豪が極大級の権力を裏で掌握するようなことになってしまったり
するだけであり、そのほうがかえって権力の寡占度も高まることにすらなる。
そのような、限られた権力を持つものだけができることというのがある。
「世の中で実行し得る最大級の善行や悪行」こそは、まさにそれである。
小善でも偽善でも小悪でもない、大善や大悪がそこでのみ実行可能となる。
世界を破滅に陥れたり、破滅に陥っている世界を救ったりといったことも、
世の中における究極級の権能を持つ者だけが可能とすることである。実際には
政商が最大の権力を握っている民主主義社会において、名目上の最高権力者として
擁立されている大統領だとか総理大臣だとかにすら、それだけの善行や悪行を
成し遂げることは不可能である。成し得ているように見えたりしたところで、
実際には究極級の権力者が裏から仕組んでいるだけであって、特に本人たちが
自分たちの悪行の罪を表向きの最高権力者に擦り付ける場合などにそれが顕著である。
まず「極大級の善行や悪行を為し得る権能は、限られた権力者だけが持ち得るもの」
という事実関係がある。仮に極大級の権能を悪人が掌握して、専ら悪行のために濫用
したりしているようならば、善人が極大級の善行を為したりすることも不可能となる。
孔子や孟子といった古代中国の著名な儒者もた、そのような理由で最大級の善行が
自分たちには為しえなかったわけである。本当は自分たちが堯舜や湯文武のような
聖王となって治世を実現して行きたかったわけだが、小人や悪人が極大級の権力を
握っていた当時の世の中においてはそれも叶わなかったから、仕方なく儒学の
興隆や醸成といった治世実現のための材料の温存活動に専念していたわけである。
政商級の権力犯罪者が跋扈している世の中においては、儒学の実践を企図していくほど
もの権力道徳者の活動が不能と化してしまうのも、そういった理由に基づくのである。
村社会程度の小規模な世の中の権力ならともかく、都市社会を形成するほどにも巨大な
権力ともなれば、それらを中央集権的に統率する大権力者がいないことには絶対に
世の中を保って行くことができない。だからそのような権力者がどこかに必ず
生ずるが、だからといってその権力者が必ずしも善良であるとも限らない。
むしろ、世の中を破滅に陥れるような極大級の権力犯罪者こそは、権力の寡占姿勢が
権力道徳者以上にも「妄り」である。素性も知れない全くの他人を「食客」として
死兵要員に用いたりまですることで、権力の掌握を盤石化せしめたりもする。それは、
権力を得るものを禄高などによって厳格に管理する権力道徳者などと比べても、むしろ
謹厳さを欠いた権力の取り扱い方であるからこそ、早急な自滅をも招いてしまうのである。
極大級の権力を一部の人間が掌握しないことにはやっていけないのが大社会というもので
あるという法則をわきまえた上で、その法則に即した権力の扱いを適正化することで磐石な
治世を呼び込む、これもまた権力道徳者こそが則って行こうとする使命である。権力犯罪者
が「友愛」を旗印に極大級の権力を山分けしようとしたりすることのほうは警戒すべきである。
「中心無為なりて、以って至正を守る」
「心の底からの無為によって、正善さを守る。
(善は人の心中にこそあるものなのだから、どんな善行を為すこと以上にも、
無為によって己れの善性を養い守ることこそが重要である。>>3の引用も参照)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
もの権力道徳者の活動が不能と化してしまうのも、そういった理由に基づくのである。
村社会程度の小規模な世の中の権力ならともかく、都市社会を形成するほどにも巨大な
権力ともなれば、それらを中央集権的に統率する大権力者がいないことには絶対に
世の中を保って行くことができない。だからそのような権力者がどこかに必ず
生ずるが、だからといってその権力者が必ずしも善良であるとも限らない。
むしろ、世の中を破滅に陥れるような極大級の権力犯罪者こそは、権力の寡占姿勢が
権力道徳者以上にも「妄り」である。素性も知れない全くの他人を「食客」として
死兵要員に用いたりまですることで、権力の掌握を盤石化せしめたりもする。それは、
権力を得るものを禄高などによって厳格に管理する権力道徳者などと比べても、むしろ
謹厳さを欠いた権力の取り扱い方であるからこそ、早急な自滅をも招いてしまうのである。
極大級の権力を一部の人間が掌握しないことにはやっていけないのが大社会というもので
あるという法則をわきまえた上で、その法則に即した権力の扱いを適正化することで磐石な
治世を呼び込む、これもまた権力道徳者こそが則って行こうとする使命である。権力犯罪者
が「友愛」を旗印に極大級の権力を山分けしようとしたりすることのほうは警戒すべきである。
「中心無為なりて、以って至正を守る」
「心の底からの無為によって、正善さを守る。
(善は人の心中にこそあるものなのだから、どんな善行を為すこと以上にも、
無為によって己れの善性を養い守ることこそが重要である。>>3の引用も参照)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
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わたしの知人に、祖を源八幡太郎義家の家臣団に属したという人がいる。
その祖先は平氏である。鎌倉初期に武門から離れ、山を開墾して山間農家となったそうだ。
>>1にしてみれば、これな武門とはいわないだろうな。いまだに武門がどうとうそぶくが、
芸事などをまったくたしなまない、珍しい武門もあると、笑いが起こる。
〜〜
遠き声 いま身のうちに 起こりおり
やおらにわかも 庭無き箱屋
〜〜〜
>>41の曲感想をかかなったのは、精神の修練が適わず、
前と同じレベルに心の状態があるということですね。

その祖先は平氏である。鎌倉初期に武門から離れ、山を開墾して山間農家となったそうだ。
>>1にしてみれば、これな武門とはいわないだろうな。いまだに武門がどうとうそぶくが、
芸事などをまったくたしなまない、珍しい武門もあると、笑いが起こる。
〜〜
遠き声 いま身のうちに 起こりおり
やおらにわかも 庭無き箱屋
〜〜〜
>>41の曲感想をかかなったのは、精神の修練が適わず、
前と同じレベルに心の状態があるということですね。
カス地蔵は真正キ印
こいつの言っていることはすべて妄想・妄言
こいつの言っていることはすべて妄想・妄言
ルサンチマンを原動力とした言行からは、
何らの成長も見込めはしない。
何らの成長も見込めはしない。
現実から目をそらしての妄想へと逃げ込むものが、己れの妄想の内側で帰依している
神への信仰を真摯なものとしたりしたならば、それが逆に、現実における自らの
悪業に対する無視を盤石化させる効果を持ち合わせることにすらなってしまう。
そこまで、架空の超越神への帰依を体系的に盤石化させるということ自体、まともな
人間のすることではない。ただ頭がおかしくなってしまっているというだけでなく、
妄想の内側でこそ大層な「神の物語」を捏造していかなければならなくなってしまった
それなりの事情というものが伴っているのでなければ、とうてい成せることではない。
古代オリエント社会に巣食う政商犯としての立場に身を窶していた古代のユダヤ人
などには、そんなものを構築していってしまうほどもの事情があった。現実に目を
向ければ、自分たちが諸国の王侯とつるんでやらかしている無駄な大事業や戦争に
かかずらわされて死ぬほど嫌な思いをさせられている人々の姿ばかりが目に付く。
かといって、政商犯としての自分たちが威力を発揮できるのはそのような無駄な
ほどにも甚大な政財癒着の事業への協力ぐらいなものだから、そのせいで人々が
極度の疲弊に晒されていることにも目を背けていくようにしなければならない。
その結果として、妄想上に「自分たちこそを選民として庇護してくれる超越神」
などというものをでっち上げて、ユダヤ教という信教の範疇でその神を祀る祭壇
などもこしらえて、体系的に帰依して行く手段すらをも整えて行ったのだった。
もちろん、そんな神への帰依の仕方などが、神仏帰依一般のあり方などであるわけでもない。
むしろ天下国家の現実からの泰平や繁栄を祈願するための帰依対象となる神仏などのほうが
一般的な存在であり、神道や道教やヒンズー教などで祀られている神などもそのような条件を
ほぼ満たしている。全ての神が必ずしも国家鎮護を旗印に掲げているわけではないにしても、
少なくとも天下の安寧を害するほどもの邪までをも帯びたりはしないようになっている。
神への信仰を真摯なものとしたりしたならば、それが逆に、現実における自らの
悪業に対する無視を盤石化させる効果を持ち合わせることにすらなってしまう。
そこまで、架空の超越神への帰依を体系的に盤石化させるということ自体、まともな
人間のすることではない。ただ頭がおかしくなってしまっているというだけでなく、
妄想の内側でこそ大層な「神の物語」を捏造していかなければならなくなってしまった
それなりの事情というものが伴っているのでなければ、とうてい成せることではない。
古代オリエント社会に巣食う政商犯としての立場に身を窶していた古代のユダヤ人
などには、そんなものを構築していってしまうほどもの事情があった。現実に目を
向ければ、自分たちが諸国の王侯とつるんでやらかしている無駄な大事業や戦争に
かかずらわされて死ぬほど嫌な思いをさせられている人々の姿ばかりが目に付く。
かといって、政商犯としての自分たちが威力を発揮できるのはそのような無駄な
ほどにも甚大な政財癒着の事業への協力ぐらいなものだから、そのせいで人々が
極度の疲弊に晒されていることにも目を背けていくようにしなければならない。
その結果として、妄想上に「自分たちこそを選民として庇護してくれる超越神」
などというものをでっち上げて、ユダヤ教という信教の範疇でその神を祀る祭壇
などもこしらえて、体系的に帰依して行く手段すらをも整えて行ったのだった。
もちろん、そんな神への帰依の仕方などが、神仏帰依一般のあり方などであるわけでもない。
むしろ天下国家の現実からの泰平や繁栄を祈願するための帰依対象となる神仏などのほうが
一般的な存在であり、神道や道教やヒンズー教などで祀られている神などもそのような条件を
ほぼ満たしている。全ての神が必ずしも国家鎮護を旗印に掲げているわけではないにしても、
少なくとも天下の安寧を害するほどもの邪までをも帯びたりはしないようになっている。
神仏帰依の敬虔さというものすらもが、自他の破滅を呼び込む原因になることがある。
ユダヤ教徒やキリスト教徒の神への帰依姿勢もまた敬虔なものだったりする。のみならず、
念仏信仰あたりよりは見てくれの敬虔さがより際立っていたりもする。にもかかわらず、
聖書の神への敬虔な帰依こそは、阿弥陀仏への帰依などによっては絶対にあり得ないような
禍いを招いてしまったりもする。神への帰依の人一倍の敬虔さこそが、それほどでもない
帰依以上もの禍いを招いてしまうのだから、そこに不条理すらをも感じてしまいかねない。
ただ、現実から目を背けるための神などに敬虔に帰依しようなどとしたことからして
すでに不条理の発端だったのであり、その敬虔さ故の破滅もまた、不条理のドミノ倒しと
いうばかりのものである。神への帰依の不条理な悪用であると共に、帰依の敬虔さの悪用でも
あった。悪用するぐらいなら敬虔な帰依などないほうがマシということであり、もしも善用
するというのなら、神仏への敬虔な帰依が無信仰以上の好影響を持つことだって当然あり得る。
しかし、「ある種の神」への敬虔な帰依こそが地球規模の破滅を招いてしまっている昨今、
神仏への敬虔な帰依を善用することなどにまで配慮を及ばせるのもなかなか難しいことである。
せっかく聖書の神に敬虔に帰依して来たのに、その果報たるや惨憺たるものだった、だから
もう神なんか信じないと短絡化してしまう人間なども多発してしまうことが避けられないだろう。
今はまだそれでも仕方ないとして、いつかはまた、人々が(まともな)神仏への帰依に帰って
来られるように、新しい世界を司る為政者の側が計らってやるようにすればいいのである。
「親に悦ばるるに道有り。身に反りて誠ならざれば親に悦ばれず。
身に誠なるに道有り。善に明らかならざればその身に誠ならず」
「親に喜ばれるのにも道というものがある。わが身に省みて誠があるのでなければ
親に喜ばれもしない。わが身に誠が伴うのにも道というものがある。自らが善に明らかで
あるのでなければわが身に誠が伴いもしない。(聖書の神は善に暗い者の帰依にも誠が
伴っていると認めるが、実の親はそんなものが誠であるなどとは認めないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一二より)
ユダヤ教徒やキリスト教徒の神への帰依姿勢もまた敬虔なものだったりする。のみならず、
念仏信仰あたりよりは見てくれの敬虔さがより際立っていたりもする。にもかかわらず、
聖書の神への敬虔な帰依こそは、阿弥陀仏への帰依などによっては絶対にあり得ないような
禍いを招いてしまったりもする。神への帰依の人一倍の敬虔さこそが、それほどでもない
帰依以上もの禍いを招いてしまうのだから、そこに不条理すらをも感じてしまいかねない。
ただ、現実から目を背けるための神などに敬虔に帰依しようなどとしたことからして
すでに不条理の発端だったのであり、その敬虔さ故の破滅もまた、不条理のドミノ倒しと
いうばかりのものである。神への帰依の不条理な悪用であると共に、帰依の敬虔さの悪用でも
あった。悪用するぐらいなら敬虔な帰依などないほうがマシということであり、もしも善用
するというのなら、神仏への敬虔な帰依が無信仰以上の好影響を持つことだって当然あり得る。
しかし、「ある種の神」への敬虔な帰依こそが地球規模の破滅を招いてしまっている昨今、
神仏への敬虔な帰依を善用することなどにまで配慮を及ばせるのもなかなか難しいことである。
せっかく聖書の神に敬虔に帰依して来たのに、その果報たるや惨憺たるものだった、だから
もう神なんか信じないと短絡化してしまう人間なども多発してしまうことが避けられないだろう。
今はまだそれでも仕方ないとして、いつかはまた、人々が(まともな)神仏への帰依に帰って
来られるように、新しい世界を司る為政者の側が計らってやるようにすればいいのである。
「親に悦ばるるに道有り。身に反りて誠ならざれば親に悦ばれず。
身に誠なるに道有り。善に明らかならざればその身に誠ならず」
「親に喜ばれるのにも道というものがある。わが身に省みて誠があるのでなければ
親に喜ばれもしない。わが身に誠が伴うのにも道というものがある。自らが善に明らかで
あるのでなければわが身に誠が伴いもしない。(聖書の神は善に暗い者の帰依にも誠が
伴っていると認めるが、実の親はそんなものが誠であるなどとは認めないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一二より)
磔刑への恐怖が極まって、知能がIQ40以下にまで退行することに喜びを感じる者がいるとすれば、
それは、動物レベルの低能によって世の中の問題が理解できなくなることがマシに
感じられるほどにも、世の中のほうが陰惨化してしまっていたりするからである。
ただ、そこまで人間が作為的に低能化するためには、一定以上の精神薄弱までもが共に必要となる。
そしてその精神薄弱こそは、世の中の実情をよく理解もしないままでの経済的な犯罪行為などに
及ぶ原因ともなってしまう。資本主義国の人間による極度の富の寡占によって毎年1000万人以上もの
餓死者が発生していることなどについても、別に全ての資本主義者にとっての確信犯だったりするわけ
ではなく、大局規模の世の中の実情を把握もできない精神薄弱に基づく過失犯だったりもするわけで、
知能退行をもたらすほどの精神薄弱こそは、世の中の陰惨化をもたらす原因ともなっているのである。
確信犯であると見なす他ないほどにも、金融犯罪の主導的な立場にある人間などはごく少数であり、
だからこその極刑に服す必要のある人間なども確かに限られているが、だからといって、過失犯
として資本主義の横暴に与した多くの人間を全くの無罪放免に処していいなどとまでもいえない。
それらの人間もまた、世の中の大局を計り知ることもできないレベルの精神薄弱と、にもかかわらず
旺盛な社会的活動を試みようとする心根の不埒さとを兼ね備えてしまっているわけだから、それに応じて、
精神薄弱の矯正や社会活動の制限といった措置を講じてやる必要がある。精神薄弱を十分に克服できた者
から社会的制限を緩和し、克服できないでいる者には制限を課し続けるといった風にしていくようにする。
そうして、徐々に世の中のほうが、動物レベルの知能退行での現実逃避に喜びを感じたりしないで
いられるほどにも、マシなものとなって行く。むしろ、知能退行による現実逃避などを人としての恥と
考えられるようになる。精神薄弱こそが全てをもたらしていた、「陰惨な世の中での知能退行による
現実逃避の喜び」というマッチポンプが丸ごとこの世から排されることで、そうなっていくようになる。
それは、動物レベルの低能によって世の中の問題が理解できなくなることがマシに
感じられるほどにも、世の中のほうが陰惨化してしまっていたりするからである。
ただ、そこまで人間が作為的に低能化するためには、一定以上の精神薄弱までもが共に必要となる。
そしてその精神薄弱こそは、世の中の実情をよく理解もしないままでの経済的な犯罪行為などに
及ぶ原因ともなってしまう。資本主義国の人間による極度の富の寡占によって毎年1000万人以上もの
餓死者が発生していることなどについても、別に全ての資本主義者にとっての確信犯だったりするわけ
ではなく、大局規模の世の中の実情を把握もできない精神薄弱に基づく過失犯だったりもするわけで、
知能退行をもたらすほどの精神薄弱こそは、世の中の陰惨化をもたらす原因ともなっているのである。
確信犯であると見なす他ないほどにも、金融犯罪の主導的な立場にある人間などはごく少数であり、
だからこその極刑に服す必要のある人間なども確かに限られているが、だからといって、過失犯
として資本主義の横暴に与した多くの人間を全くの無罪放免に処していいなどとまでもいえない。
それらの人間もまた、世の中の大局を計り知ることもできないレベルの精神薄弱と、にもかかわらず
旺盛な社会的活動を試みようとする心根の不埒さとを兼ね備えてしまっているわけだから、それに応じて、
精神薄弱の矯正や社会活動の制限といった措置を講じてやる必要がある。精神薄弱を十分に克服できた者
から社会的制限を緩和し、克服できないでいる者には制限を課し続けるといった風にしていくようにする。
そうして、徐々に世の中のほうが、動物レベルの知能退行での現実逃避に喜びを感じたりしないで
いられるほどにも、マシなものとなって行く。むしろ、知能退行による現実逃避などを人としての恥と
考えられるようになる。精神薄弱こそが全てをもたらしていた、「陰惨な世の中での知能退行による
現実逃避の喜び」というマッチポンプが丸ごとこの世から排されることで、そうなっていくようになる。
人間が世の中を健全に営んでいくためには、必ず一定以上の精神力が必要となる。文明社会というもの
からして人間にこそ特有のものであり、動物レベルの知能で作り上げられたりするようなものではない。
ライオンやクマのような猛獣ですら、大きな音や火を恐れたりするほどにも臆病であり、人間にこそ
特有な精神力の旺盛さに根ざした大勇などを抱けたりすることもない。人間こそは万物の霊長であるが、
そうあらしめているのも他でもない、動物以上にも突出した精神力の高さなのであり、その精神力に
よってのみ、発達した脳が司っている知能を健全に活用していくことまでもが可能となるのである。
人間としての発達した知能に見合った精神力が伴っている場合にのみ、人は健全な社会活動を営むことが
できる。そうであるからには、精神力の旺盛な人間にほど大きな社会的役割を担わせるべきであり、
貧弱な精神力しか持ち合わせていないような人間は軽い役割や無役に止めさせるべきだといえる。
知能自体は、四書五経を読みこなせる程度の能力があれば十分である。それ以上の知能があっても
精神のほうが薄弱だったりするようじゃ、大いなる悪知恵を存分に悪用するようなことになるだけだし、
高度な知能も精神力も兼ね備えているとした所で、社会的な大役などよりは、高僧としての大成あたり
のほうが見合うことになる。突出した知能の高さがかえって、仁者同士の和を乱すようなことにすら
なりかねないから、高度な知能も精神力もあるような人間は、もはや全ての俗人が畏敬するに値する
ような立場にいてくれてもらったほうがよかったりするのである。旺盛な精神力と高度な知能を
兼ね備えている人間などというものがどうしたって少数派であらざるを得ないからこそ、そう言えるのだ。
からして人間にこそ特有のものであり、動物レベルの知能で作り上げられたりするようなものではない。
ライオンやクマのような猛獣ですら、大きな音や火を恐れたりするほどにも臆病であり、人間にこそ
特有な精神力の旺盛さに根ざした大勇などを抱けたりすることもない。人間こそは万物の霊長であるが、
そうあらしめているのも他でもない、動物以上にも突出した精神力の高さなのであり、その精神力に
よってのみ、発達した脳が司っている知能を健全に活用していくことまでもが可能となるのである。
人間としての発達した知能に見合った精神力が伴っている場合にのみ、人は健全な社会活動を営むことが
できる。そうであるからには、精神力の旺盛な人間にほど大きな社会的役割を担わせるべきであり、
貧弱な精神力しか持ち合わせていないような人間は軽い役割や無役に止めさせるべきだといえる。
知能自体は、四書五経を読みこなせる程度の能力があれば十分である。それ以上の知能があっても
精神のほうが薄弱だったりするようじゃ、大いなる悪知恵を存分に悪用するようなことになるだけだし、
高度な知能も精神力も兼ね備えているとした所で、社会的な大役などよりは、高僧としての大成あたり
のほうが見合うことになる。突出した知能の高さがかえって、仁者同士の和を乱すようなことにすら
なりかねないから、高度な知能も精神力もあるような人間は、もはや全ての俗人が畏敬するに値する
ような立場にいてくれてもらったほうがよかったりするのである。旺盛な精神力と高度な知能を
兼ね備えている人間などというものがどうしたって少数派であらざるを得ないからこそ、そう言えるのだ。
「山に漆有り、隰に栗有り。子に酒食有り、何ぞ日に瑟を鼓かざる。
且つ以て喜び楽しみ、且く以て日を永くせよ。宛に其れ死せば、他人の室に入らん」
「山には漆の木があり、沢には栗の木がある。子供にやる酒食すら有り余る程だというのに、
どうして琴を弾いて楽しみもしないのか。喜び楽しみ、のんびりすごせばいいではないか。
どうせ死ねば全て他人のものになるのだから。(喜楽の儚さを開き直りつつ諦観している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・唐風・山有枢より)
且つ以て喜び楽しみ、且く以て日を永くせよ。宛に其れ死せば、他人の室に入らん」
「山には漆の木があり、沢には栗の木がある。子供にやる酒食すら有り余る程だというのに、
どうして琴を弾いて楽しみもしないのか。喜び楽しみ、のんびりすごせばいいではないか。
どうせ死ねば全て他人のものになるのだから。(喜楽の儚さを開き直りつつ諦観している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・唐風・山有枢より)
場違いな事なかれ主義こそが、だらしない乱世の存続に一役買ってしまうことがあるとは、
すでに何度か述べたことである。世の中に大いなる悪影響を及ぼしている権力犯罪者が
個人的に徹底的な警護下に置かれたりすることが、本人の平和と引き換えの乱世の持続に
加担してしまうのはもちろんのこと、ただ特定の人物や集団に対する過剰な警備が
敷かれているというだけでも、警備にかかる費用が多大なる負担を世の中にかけて、
経済的な困窮を原因とした乱世をもたらしてしまったりもするのである。
そういうことがないようにするためにこそ、孟子のような大勇による、荀子のような過剰な臆病さの
駆逐が必要となるのである。「君子は戦いを欲しないが、戦う以上は必ず勝つ(孟子)」という心持ちで、
「戦うものはただそれだけでも親を無みしたも同然である(荀子)」などという行き過ぎた平和志向を排する。
いずれにしろ好戦主義でまであってはいけないことには変わりないわけだが、いついかなる場合に
おいても戦闘の意義を否定する女子供のような性根のままに社会的な権能すらをも持ちえたならば、
それが今度は防護過剰による経費増大のような弊害を招くことともなってしまう、これこそは
「過ぎたるはなお及ばざるが如し」の典型ともなっているわけだから、そういうことが
なくて済む程度の戦いに対する覚悟ぐらいは社会人として持ち合わせているべきだといえる。
本格的な乱世の鎮圧のためにこそ、社会人が一定以上の勇気を持ち合わせている必要がある。
これは、「それが抑止力になるから」などという理由にすら基づかない。「過剰防護を省くことによる
経費削減」というより切実な理由に基づいている。一方、今の国際社会で最大級の抑止力を持ち合わせて
いる核ミサイルなども、今となっては北朝鮮のような貧国が保有できるほどにも安上がりな部類の
兵器となっているが、大量破壊兵器としてのその性能を最も穏健に活用していくために必要となるのも、
やはり一定以上の臨戦に対する勇気ではある。その勇気がなければ、先の大戦の頃のアメリカのように、
数多の民間人の頭上に原爆を落とすようなヒステリー状態の蛮行に及んだりもしてしまいかねないから。
(今またあれと同じことをやらかしたなら、核攻撃の応酬による人類の滅亡すらもが免れられない)
すでに何度か述べたことである。世の中に大いなる悪影響を及ぼしている権力犯罪者が
個人的に徹底的な警護下に置かれたりすることが、本人の平和と引き換えの乱世の持続に
加担してしまうのはもちろんのこと、ただ特定の人物や集団に対する過剰な警備が
敷かれているというだけでも、警備にかかる費用が多大なる負担を世の中にかけて、
経済的な困窮を原因とした乱世をもたらしてしまったりもするのである。
そういうことがないようにするためにこそ、孟子のような大勇による、荀子のような過剰な臆病さの
駆逐が必要となるのである。「君子は戦いを欲しないが、戦う以上は必ず勝つ(孟子)」という心持ちで、
「戦うものはただそれだけでも親を無みしたも同然である(荀子)」などという行き過ぎた平和志向を排する。
いずれにしろ好戦主義でまであってはいけないことには変わりないわけだが、いついかなる場合に
おいても戦闘の意義を否定する女子供のような性根のままに社会的な権能すらをも持ちえたならば、
それが今度は防護過剰による経費増大のような弊害を招くことともなってしまう、これこそは
「過ぎたるはなお及ばざるが如し」の典型ともなっているわけだから、そういうことが
なくて済む程度の戦いに対する覚悟ぐらいは社会人として持ち合わせているべきだといえる。
本格的な乱世の鎮圧のためにこそ、社会人が一定以上の勇気を持ち合わせている必要がある。
これは、「それが抑止力になるから」などという理由にすら基づかない。「過剰防護を省くことによる
経費削減」というより切実な理由に基づいている。一方、今の国際社会で最大級の抑止力を持ち合わせて
いる核ミサイルなども、今となっては北朝鮮のような貧国が保有できるほどにも安上がりな部類の
兵器となっているが、大量破壊兵器としてのその性能を最も穏健に活用していくために必要となるのも、
やはり一定以上の臨戦に対する勇気ではある。その勇気がなければ、先の大戦の頃のアメリカのように、
数多の民間人の頭上に原爆を落とすようなヒステリー状態の蛮行に及んだりもしてしまいかねないから。
(今またあれと同じことをやらかしたなら、核攻撃の応酬による人類の滅亡すらもが免れられない)
世の中を構成する社会人に一定以上の勇気が備わっていたならば、それが過剰防衛を抑制するから
世の中にかける負担が減って乱世の予防になるというのが第一、そして上に述べたように、核兵器を
含む武器なり兵器なりを適切に扱うことが可能となるために、それがヒステリーからなる動乱の予防に
なるというのが第二。主にこれらの理由によって、勇気こそが世界規模の平和の立役者となり得る。
一方で、それだけの勇気を常日頃から持ち合わせていることができるのは、十分な修練を積んだ
大人の男に限られている。成人男性といえども不可能な者には不可能であり、女子供ともなれば
ほぼ100%不可能である。だから結局、人々の勇気によって世界の平和を確立して行くためには、
世の中を司るような重職には総じて立派な大人の男だけが就くようにし、女子供や小人男は相当に
譲ったところに居るようにしなければならない。基本、戦い嫌いである女などが重職に就いたから
といって、それで乱世が深刻化するなどとは短絡的には考えにくいことだろうが、むしろその過剰な
戦い嫌いこそが過剰防衛による経費の増大だとか、ヒステリックで無鉄砲な攻撃だとかを呼び込んで、
持続的な乱世の到来に加担してしまうといったことが世の中の普遍法則としてあるのである。
益荒男の大勇こそは治世の礎ともなるのだから、その牙を折るような真似をしていいわけもない。
武士には帯刀が許されていたような形で、その勇気の養生にすら勤めさせるべきである。そして
そのような人一倍勇気を増大させた益荒男の後援者としての優秀さを、妻となる女などが
磨いて行くようにしなければならない。自分たちが重職に就けなくなったからといって、
ただ安穏としていればいいのではなく、むしろ今まで以上もの「身の程をわきまえた精進」
にこそ励まなければならない。そしてそれが、女なりの平和への貢献ともなっていくのである。
「辞無くして情を行えば、則ち民争う」
「譲り合いの心もなく情のままに行えば、民たちも争う。
(聖書の神の選別志向な救済の提示、それに群がってただ自分が豊かになろうと
するような人間の多発化こそは、世の中に無益な争いをもたらす劣情の元凶となる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・坊記第三十より)
世の中にかける負担が減って乱世の予防になるというのが第一、そして上に述べたように、核兵器を
含む武器なり兵器なりを適切に扱うことが可能となるために、それがヒステリーからなる動乱の予防に
なるというのが第二。主にこれらの理由によって、勇気こそが世界規模の平和の立役者となり得る。
一方で、それだけの勇気を常日頃から持ち合わせていることができるのは、十分な修練を積んだ
大人の男に限られている。成人男性といえども不可能な者には不可能であり、女子供ともなれば
ほぼ100%不可能である。だから結局、人々の勇気によって世界の平和を確立して行くためには、
世の中を司るような重職には総じて立派な大人の男だけが就くようにし、女子供や小人男は相当に
譲ったところに居るようにしなければならない。基本、戦い嫌いである女などが重職に就いたから
といって、それで乱世が深刻化するなどとは短絡的には考えにくいことだろうが、むしろその過剰な
戦い嫌いこそが過剰防衛による経費の増大だとか、ヒステリックで無鉄砲な攻撃だとかを呼び込んで、
持続的な乱世の到来に加担してしまうといったことが世の中の普遍法則としてあるのである。
益荒男の大勇こそは治世の礎ともなるのだから、その牙を折るような真似をしていいわけもない。
武士には帯刀が許されていたような形で、その勇気の養生にすら勤めさせるべきである。そして
そのような人一倍勇気を増大させた益荒男の後援者としての優秀さを、妻となる女などが
磨いて行くようにしなければならない。自分たちが重職に就けなくなったからといって、
ただ安穏としていればいいのではなく、むしろ今まで以上もの「身の程をわきまえた精進」
にこそ励まなければならない。そしてそれが、女なりの平和への貢献ともなっていくのである。
「辞無くして情を行えば、則ち民争う」
「譲り合いの心もなく情のままに行えば、民たちも争う。
(聖書の神の選別志向な救済の提示、それに群がってただ自分が豊かになろうと
するような人間の多発化こそは、世の中に無益な争いをもたらす劣情の元凶となる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・坊記第三十より)
人間自身の精神だとか先祖だとか、日月星辰のごとき自然現象の普遍性だとかいったものを
神性の根源に見立てるならば、この世界この宇宙に「神」と見なせるものはいくらでもある。
日本神話やインド神話などで高位の神とされている神などは軒並みそうであり、低位の神や
妖怪などとして扱われる物も、カオス帯びた現象の具象化としてそれなりの意味が伴っている。
ギリシャ神話やローマ神話の神などは、東洋では妖怪程度のものとして扱われるような
ものがほとんどであり、あまり普遍的な高尚さを伴ってはいない。ただそれにしたって、
カオスを帯びた普遍現象の具象化としてはそれなりの意味合いを持ち合わせていて、
2500年以上に渡って語り継がれてきたなりの普遍性がそこにもあるといえる。
キリスト教やユダヤ教の神こそは、上記のような条件に即して「神」と見なせるものではない。
磔刑への恐怖が極まって知能が退行することを「神がかり」と見なしたり、単なる政商としての
威力の溜め込みを神に偽託していたりするのみであり、そこに何らの普遍的な神性というものが
伴っていないことが確実である。にもかかわらずそれこそを「神」と見なすものがいるのは、
精神の危機や罪業からの逃避だとかの、本人たちにとっての負の理由があるからである。
どうして、聖書の神が存在しないからといって、この世に神など存在しないなどとまで
決め付けたりすることができようか。聖書の神が神として扱われる所以よりも、上記のような
定義に基づく神が神たる所以のほうが、よっぽど神秘的である。精神薄弱や罪業逃避に駆られて
仕方なく唯一神として狂信する神などのほうが、よっぽど神として不純な存在であり、そんな
神によって他の神の価値をも無みしようなどとすることの失礼さと恥を知らねばならない。
神性の根源に見立てるならば、この世界この宇宙に「神」と見なせるものはいくらでもある。
日本神話やインド神話などで高位の神とされている神などは軒並みそうであり、低位の神や
妖怪などとして扱われる物も、カオス帯びた現象の具象化としてそれなりの意味が伴っている。
ギリシャ神話やローマ神話の神などは、東洋では妖怪程度のものとして扱われるような
ものがほとんどであり、あまり普遍的な高尚さを伴ってはいない。ただそれにしたって、
カオスを帯びた普遍現象の具象化としてはそれなりの意味合いを持ち合わせていて、
2500年以上に渡って語り継がれてきたなりの普遍性がそこにもあるといえる。
キリスト教やユダヤ教の神こそは、上記のような条件に即して「神」と見なせるものではない。
磔刑への恐怖が極まって知能が退行することを「神がかり」と見なしたり、単なる政商としての
威力の溜め込みを神に偽託していたりするのみであり、そこに何らの普遍的な神性というものが
伴っていないことが確実である。にもかかわらずそれこそを「神」と見なすものがいるのは、
精神の危機や罪業からの逃避だとかの、本人たちにとっての負の理由があるからである。
どうして、聖書の神が存在しないからといって、この世に神など存在しないなどとまで
決め付けたりすることができようか。聖書の神が神として扱われる所以よりも、上記のような
定義に基づく神が神たる所以のほうが、よっぽど神秘的である。精神薄弱や罪業逃避に駆られて
仕方なく唯一神として狂信する神などのほうが、よっぽど神として不純な存在であり、そんな
神によって他の神の価値をも無みしようなどとすることの失礼さと恥を知らねばならない。
聖書の神が不正で非実在だから、全ての神もまた非実在であるなどと見なしてしまうこと、
これが自殺衝動を伴うような虚無感の原因となる。それは、聖書の神こそを唯一至上の神で
あるなどと見なすことのみならず、そのような考え方を多少なりとも是認してきただけの
ことによってですら来たしかねないことである。今の日本人などもキリスト教徒でまである
人間は少数に止まるが、キリスト教徒のようなあり方を是認している人間となればほとんど
大多数となっている。「聖書の神こそは神の中の神」などという考え方を多少なりとも他人事
として容認してしまっているだけでも、聖書の神の非実在の証明に伴う虚無が避け難いものとなる。
そんな人間にとっては、ここでの自分の発言すらもが「読むに耐えない」とまではいかずとも、
やはり読んでいい気分になれるようなものでまではないであろう。自らの精神の安定条件の中に、
「聖書の神のような神も認める」という条件が多少なりとも含まれてしまっているからこそ、
それを非とすべきだとするここでの発言が、いい気分にまでは思えないのである。
ただそれを非とするだけなら、確かにつらい思いに駆られたりもするだろう。そこからさらに、
「聖書の神こそは神に値しない」「聖書の神以外の神こそは真に神と見なすに値する」という
所にまで考え方が是正して行けた時に初めて、聖書の神も神と認めていた頃以上もの精神の安定
が得られる。そしてそれこそは、人間にとっての本来のまともな精神の安住の場なのでもある。
聖書の神みたいな奇形的な神モドキを信じたり認めたりすることによっても、ある種の
精神的な安定が得られたりする、それも確かに人間にとっての特殊な機能ではあるが、それこそ、
致命傷を負った場合に痛覚神経が麻痺して痛みを感じなくなるようなものであり、決して健全な
精神の安住の場でまであるわけではない。そんなことにならず済むなら済ませるべきことなのだ。
これが自殺衝動を伴うような虚無感の原因となる。それは、聖書の神こそを唯一至上の神で
あるなどと見なすことのみならず、そのような考え方を多少なりとも是認してきただけの
ことによってですら来たしかねないことである。今の日本人などもキリスト教徒でまである
人間は少数に止まるが、キリスト教徒のようなあり方を是認している人間となればほとんど
大多数となっている。「聖書の神こそは神の中の神」などという考え方を多少なりとも他人事
として容認してしまっているだけでも、聖書の神の非実在の証明に伴う虚無が避け難いものとなる。
そんな人間にとっては、ここでの自分の発言すらもが「読むに耐えない」とまではいかずとも、
やはり読んでいい気分になれるようなものでまではないであろう。自らの精神の安定条件の中に、
「聖書の神のような神も認める」という条件が多少なりとも含まれてしまっているからこそ、
それを非とすべきだとするここでの発言が、いい気分にまでは思えないのである。
ただそれを非とするだけなら、確かにつらい思いに駆られたりもするだろう。そこからさらに、
「聖書の神こそは神に値しない」「聖書の神以外の神こそは真に神と見なすに値する」という
所にまで考え方が是正して行けた時に初めて、聖書の神も神と認めていた頃以上もの精神の安定
が得られる。そしてそれこそは、人間にとっての本来のまともな精神の安住の場なのでもある。
聖書の神みたいな奇形的な神モドキを信じたり認めたりすることによっても、ある種の
精神的な安定が得られたりする、それも確かに人間にとっての特殊な機能ではあるが、それこそ、
致命傷を負った場合に痛覚神経が麻痺して痛みを感じなくなるようなものであり、決して健全な
精神の安住の場でまであるわけではない。そんなことにならず済むなら済ませるべきことなのだ。
神などというものを一切信じもしなければ認めもしないなどという所で
精神の安定を保っていられる人間なども、実はそんなに多くないのである。
近代以降の科学至上主義の世の中で人々が神に頼らないでいられていたりするのも、
資本主義によって膨大な富をむさぼってそれで虚無感を紛らわしていたりするからである。
それができない資本主義後進国などでは、富をむさぼる代わりに性をむさぼり、
無軌道な乱交によって人口を爆発させてもいる。しかれば結局、人間社会というものを
安定的に統治していくためには、やはり神仏帰依といったものも多少は必要となるのだといえる。
であるからには、信じたり認めたりすべきでない神を排して、信じても害のないような神を
信じたり認めさせたりするようにして行くのみである。完全な泰平統治の便宜として。
「反ることを諸れ幽に望むは、諸れを鬼神に求むるの道なり」
「(死者の霊が)幽界に返ることを希望するのが、神に本来求めるべきことである。
(永遠の命を神に求めたりすることからしてすでに不正なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
精神の安定を保っていられる人間なども、実はそんなに多くないのである。
近代以降の科学至上主義の世の中で人々が神に頼らないでいられていたりするのも、
資本主義によって膨大な富をむさぼってそれで虚無感を紛らわしていたりするからである。
それができない資本主義後進国などでは、富をむさぼる代わりに性をむさぼり、
無軌道な乱交によって人口を爆発させてもいる。しかれば結局、人間社会というものを
安定的に統治していくためには、やはり神仏帰依といったものも多少は必要となるのだといえる。
であるからには、信じたり認めたりすべきでない神を排して、信じても害のないような神を
信じたり認めさせたりするようにして行くのみである。完全な泰平統治の便宜として。
「反ることを諸れ幽に望むは、諸れを鬼神に求むるの道なり」
「(死者の霊が)幽界に返ることを希望するのが、神に本来求めるべきことである。
(永遠の命を神に求めたりすることからしてすでに不正なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
乱世には依存的な気休めというものが付き物であり、そこに数多の利権すらもが生ずる。
昔の日本でも、貧農の多い地域の庄屋が造り酒屋を兼業して百姓たちに安酒を配り、
貧しさの気休めにさせるなどということがあった。酒なんかで気休めさせるよりは、
健全な農地経営で百姓たちにもそんなに貧しい思いをさせないようにすることの
ほうが最善となるわけだから、決して褒められたような所業ではなかったといえる。
それをさらにひどくしたような状態にあるのが今のメキシコなどであり、FTA協定で
アメリカに権益をごっそり持って行かれて自国の産業が壊滅状態となり、人々は麻薬に
依存することで困窮の苦しみを紛らわし、麻薬カルテルの強大化をも招いてしまっている。
(自分たちの国こそがもたらしたものだから、米軍なども手を出しあぐねたままでいる)
麻薬だ酒だはまだ気休めとして分かりやすいが、宗教も似たような意味での依存的な
気休めの対象となる場合がある。ただ乱世の気休めになるだけでなく、自分たちこそが
乱世を招いて慢性化させる元凶とすらなる。農地経営よりも造り酒屋のほうに執心する
庄屋だとか、FTA参加によって自国の経済的壊滅と麻薬漬け状態を共に招いた今の
メキシコの権力者のような存在性を、ある種の宗教というものが持ち得るのである。
そしてそれはもう、あって当たり前な普通の宗教の一つとして、今の世界を蝕んでいる。
口先だけの気休めで信者たちにいい思いをさせつつ、自分たちが乱世を招き、乱世だから
こそせしめられる私的な利益の貪りに執心する。造り酒屋を兼業していた庄屋なども、
貧農に酒をタダで配るわけではなく、それなりの値段で売りつけていたわけだから、
それによって自分たちがより大きな私益をもせしめられていた。健全な農地経営なんか
に専念しているよりも、そのほうがよっぽど儲けになるじゃないかということで、百姓の
世話人としての庄屋の本分を蔑ろにした有り様でいた。それと同じような過ちを、世の中
や人間のあり方を教義的な指針によって指し示す宗教というものが犯していたりもするのだ。
昔の日本でも、貧農の多い地域の庄屋が造り酒屋を兼業して百姓たちに安酒を配り、
貧しさの気休めにさせるなどということがあった。酒なんかで気休めさせるよりは、
健全な農地経営で百姓たちにもそんなに貧しい思いをさせないようにすることの
ほうが最善となるわけだから、決して褒められたような所業ではなかったといえる。
それをさらにひどくしたような状態にあるのが今のメキシコなどであり、FTA協定で
アメリカに権益をごっそり持って行かれて自国の産業が壊滅状態となり、人々は麻薬に
依存することで困窮の苦しみを紛らわし、麻薬カルテルの強大化をも招いてしまっている。
(自分たちの国こそがもたらしたものだから、米軍なども手を出しあぐねたままでいる)
麻薬だ酒だはまだ気休めとして分かりやすいが、宗教も似たような意味での依存的な
気休めの対象となる場合がある。ただ乱世の気休めになるだけでなく、自分たちこそが
乱世を招いて慢性化させる元凶とすらなる。農地経営よりも造り酒屋のほうに執心する
庄屋だとか、FTA参加によって自国の経済的壊滅と麻薬漬け状態を共に招いた今の
メキシコの権力者のような存在性を、ある種の宗教というものが持ち得るのである。
そしてそれはもう、あって当たり前な普通の宗教の一つとして、今の世界を蝕んでいる。
口先だけの気休めで信者たちにいい思いをさせつつ、自分たちが乱世を招き、乱世だから
こそせしめられる私的な利益の貪りに執心する。造り酒屋を兼業していた庄屋なども、
貧農に酒をタダで配るわけではなく、それなりの値段で売りつけていたわけだから、
それによって自分たちがより大きな私益をもせしめられていた。健全な農地経営なんか
に専念しているよりも、そのほうがよっぽど儲けになるじゃないかということで、百姓の
世話人としての庄屋の本分を蔑ろにした有り様でいた。それと同じような過ちを、世の中
や人間のあり方を教義的な指針によって指し示す宗教というものが犯していたりもするのだ。
世の中や国家や農地の健全な経営に務めたりするよりも、自分たちの怠惰のせいで社会的困窮
を招いてしまった状態でのマッチポンプに執心していたほうが、自分たち自身の利益にはなる。
そこに味を占めてしまった庄屋だとか公権力者だとか宗教家だとかに対して、自主的な更生を
期待するのも、なかなか難しいことである。酒だ麻薬だ信仰だによって、自分たちが困窮に
追いやっている人々もそれなりに気を紛らわせられているからこそ、「このままでもいいじゃ
ないか」という気になって、いつまでもダラダラとした乱世を続けてしまいがちなのである。
そのような怠慢が極まって、餓死者すらもが多発してしまっている、さらには、紛らわしきれない
苦しみを乱交に仕向けて人口爆発すらをも来たしてしまっていて、このままでは世界も破滅に陥る。
だからもうこれ以上怠慢を続けさせるわけにもいかない。という今のような状態において、
まずはマッチポンプで暴利を巻き上げている今の世界の主導者に体質改善を警告してみるとする。
そこで一番致命的な頑迷さを来たすに違いないのが、宗教的な指導者である。酒や麻薬での気休めを
人々に提供している人間などは、「分かっちゃいるけどやめられない」程度の心理状態でいるから、
「このままでは実力行使による矯正も辞さない」とまでいえば、是正にも取り組み得るものだ。
しかし、邪教によって暴利を巻き上げている宗教家ともなれば、自分たち自身が信念を持って
それに取り組んでいたりするものだから、自己矯正のしようもなかったりする。だからもう、
軍事行動を含む実力行使によって現状を強制的に打開して行く他なかったりするのである。
麻薬や酒を利用している場合もあるが、今の世界で「至上の気休め」の座にあるのは、やはり
ある種の信教である。麻薬漬け状態の今のメキシコでも、ドクロ化したマリア像を崇めるような
カルト宗教が流行っていたりもするという。麻薬や酒で人々を不健全な気休めに溺れさせていようと
すること自体、ある種のカルト的な理念にも即していたりするわけだから、やはり信教こそは要である。
乱世と気休めのマッチポンプの要。そんな役割を果たすような宗教にまで自由があっていいはずもない。
を招いてしまった状態でのマッチポンプに執心していたほうが、自分たち自身の利益にはなる。
そこに味を占めてしまった庄屋だとか公権力者だとか宗教家だとかに対して、自主的な更生を
期待するのも、なかなか難しいことである。酒だ麻薬だ信仰だによって、自分たちが困窮に
追いやっている人々もそれなりに気を紛らわせられているからこそ、「このままでもいいじゃ
ないか」という気になって、いつまでもダラダラとした乱世を続けてしまいがちなのである。
そのような怠慢が極まって、餓死者すらもが多発してしまっている、さらには、紛らわしきれない
苦しみを乱交に仕向けて人口爆発すらをも来たしてしまっていて、このままでは世界も破滅に陥る。
だからもうこれ以上怠慢を続けさせるわけにもいかない。という今のような状態において、
まずはマッチポンプで暴利を巻き上げている今の世界の主導者に体質改善を警告してみるとする。
そこで一番致命的な頑迷さを来たすに違いないのが、宗教的な指導者である。酒や麻薬での気休めを
人々に提供している人間などは、「分かっちゃいるけどやめられない」程度の心理状態でいるから、
「このままでは実力行使による矯正も辞さない」とまでいえば、是正にも取り組み得るものだ。
しかし、邪教によって暴利を巻き上げている宗教家ともなれば、自分たち自身が信念を持って
それに取り組んでいたりするものだから、自己矯正のしようもなかったりする。だからもう、
軍事行動を含む実力行使によって現状を強制的に打開して行く他なかったりするのである。
麻薬や酒を利用している場合もあるが、今の世界で「至上の気休め」の座にあるのは、やはり
ある種の信教である。麻薬漬け状態の今のメキシコでも、ドクロ化したマリア像を崇めるような
カルト宗教が流行っていたりもするという。麻薬や酒で人々を不健全な気休めに溺れさせていようと
すること自体、ある種のカルト的な理念にも即していたりするわけだから、やはり信教こそは要である。
乱世と気休めのマッチポンプの要。そんな役割を果たすような宗教にまで自由があっていいはずもない。
「陰は美有ると雖も、之れを含んで以て王事に従い、敢えて成す弗きなり。
地の道なり、妻の道なり、臣の道なり。地の道は成すこと无くして代わり、終わり有るなり」
「(他者に拠り頼む)陰の立場にあるものは、自らに善美な部分があるとしてもそれを隠して
ことさら主君の命に従い、あえて自分からは何もしようとはしない。天地でいえば地の道であり、
夫妻でいえば妻の道であり、君臣でいえば臣下の道である。地の道は自分からは何も成すこと
なくして受動的にのみ変化し、それだけで有終の美を飾る。(他力本願の者こそは終わり有れ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・文言伝より)
地の道なり、妻の道なり、臣の道なり。地の道は成すこと无くして代わり、終わり有るなり」
「(他者に拠り頼む)陰の立場にあるものは、自らに善美な部分があるとしてもそれを隠して
ことさら主君の命に従い、あえて自分からは何もしようとはしない。天地でいえば地の道であり、
夫妻でいえば妻の道であり、君臣でいえば臣下の道である。地の道は自分からは何も成すこと
なくして受動的にのみ変化し、それだけで有終の美を飾る。(他力本願の者こそは終わり有れ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・文言伝より)
存在の耐えられない軽さ
[YouTubeで再生]
孔子は、諸侯の専横によって廃れかかっていた夏殷周の礼楽文化の存続を企図して、
自らこそがその保全のための活動に従事し、六経(現存するのは五経)や儒学の体系化を果たした。
本人自身はいち民間人に過ぎなかったわけだが、公権力者たちが礼楽文化の保全を疎かに
しつつあったものだから、孔子のような立場の人間がその保全役を担わざるを得なかった。
故に、古代中国文化の孔子への継承もまた、一種の正統な継承であらざるを得なかったわけである。
ヴェーダやウパニシャッドなどを根本とするインドの古代文化はといえば、こちらは今に至るまで
バラモン階級に当たるような人間が継承し続けて来ている。一時、仏教の隆盛に押されて勢力を
弱めていた頃もあったが、それでもマハーバーラタやシャンカラ哲学などによる補強を通じて
その沽券を保ち続けている。そして、古代のインド文化をも参考に仏教を創始した釈迦のほうも、
ヴェーダやウパニシャッドの論説とは袂を分かった独自の出家哲学を展開して行った。
俗世における最上位のカーストとしてのバラモンの立場にも配慮しつつ、万人の平等と
自由とを実現する超俗の真理哲学というものを新たに醸成して行ったのである。
孔子のほうは、ほとんど已む無い理由によるにしろ、古代の中国文化の正統な継承であったのに対し、
釈迦のほうはといえば、古代からの伝統的なインド文化とは袂を分かっての新たな文化の興隆であった。
これらはいずれも文句の付けようのない文化の扱い方であったといえる。このようなあり方に反して、
既存の文化を勝手に自分のものだなどと豪語して略奪したりするようなことがあったとしたならば、
それはもう、文化を司る者のあり方として致命的な問題性を帯びていることになるのである。

自らこそがその保全のための活動に従事し、六経(現存するのは五経)や儒学の体系化を果たした。
本人自身はいち民間人に過ぎなかったわけだが、公権力者たちが礼楽文化の保全を疎かに
しつつあったものだから、孔子のような立場の人間がその保全役を担わざるを得なかった。
故に、古代中国文化の孔子への継承もまた、一種の正統な継承であらざるを得なかったわけである。
ヴェーダやウパニシャッドなどを根本とするインドの古代文化はといえば、こちらは今に至るまで
バラモン階級に当たるような人間が継承し続けて来ている。一時、仏教の隆盛に押されて勢力を
弱めていた頃もあったが、それでもマハーバーラタやシャンカラ哲学などによる補強を通じて
その沽券を保ち続けている。そして、古代のインド文化をも参考に仏教を創始した釈迦のほうも、
ヴェーダやウパニシャッドの論説とは袂を分かった独自の出家哲学を展開して行った。
俗世における最上位のカーストとしてのバラモンの立場にも配慮しつつ、万人の平等と
自由とを実現する超俗の真理哲学というものを新たに醸成して行ったのである。
孔子のほうは、ほとんど已む無い理由によるにしろ、古代の中国文化の正統な継承であったのに対し、
釈迦のほうはといえば、古代からの伝統的なインド文化とは袂を分かっての新たな文化の興隆であった。
これらはいずれも文句の付けようのない文化の扱い方であったといえる。このようなあり方に反して、
既存の文化を勝手に自分のものだなどと豪語して略奪したりするようなことがあったとしたならば、
それはもう、文化を司る者のあり方として致命的な問題性を帯びていることになるのである。
普遍的な真理や道理を指し示した言葉であるのなら、たとえそれが既成のものであっても、
真理や道理を志す者にとって極めて共感の置ける言葉だったりもするものである。しかし、
だからといってそれが自分ばかりにとってのものだったりするわけもない。真理や道理を窮めんと
する者誰しもにとっての金言であるに違いないのであり、独占する権利なども誰にもないのだといえる。
実際、本当に真理や道理を指し示した言葉ならば、不埒な独占意識など自然と解消させるだけの
納得がその理解に伴ってもいるはずである。未だ独占意欲などにかられたままでいたりするのなら、
そもそもその言葉が真理や道理に適った言葉ですらないか、もしくは言葉の本意を本人自身が理解
できていないかのいずれかに違いない。旧約の言葉を独占したがっていたイエスなんぞは、確かにその
意味をそれなりに理解してもいただろうが、真理にも道理にも全く反している旧約の言葉をそれなりに
理解しもした結果として、旺盛な独占意識をも持ち越したままでいただろうと考えられるのである。
洋学上の定理なり公式なりにも、「ピタゴラスの定理」「サラスの公式」などと発見者個人の名前を勝手に
付ける場合が非常に多い。「署名文化」といえば聞こえはいいが、要は、独占意欲タラタラな者たちに
よって拵えられて来た文化であるというばかりのこと。独占意識にまみれている時点で、本人たちが
真理を悟るほどもの納得下にあるなどということがなかったこともまた自明である。ピタゴラスの定理
こと三平方の定理なんざもただの概念上の定理であり、釈迦が「真理とは関係がない」としてあえて
論及を避けた「無記」に相当するものである。だから、そんなものがいくら数理的な普遍性を帯びている
からといって、真理の悟りに基づく大いなる納得などを理解者にもたらしたりすることもないのである。
真理や道理を志す者にとって極めて共感の置ける言葉だったりもするものである。しかし、
だからといってそれが自分ばかりにとってのものだったりするわけもない。真理や道理を窮めんと
する者誰しもにとっての金言であるに違いないのであり、独占する権利なども誰にもないのだといえる。
実際、本当に真理や道理を指し示した言葉ならば、不埒な独占意識など自然と解消させるだけの
納得がその理解に伴ってもいるはずである。未だ独占意欲などにかられたままでいたりするのなら、
そもそもその言葉が真理や道理に適った言葉ですらないか、もしくは言葉の本意を本人自身が理解
できていないかのいずれかに違いない。旧約の言葉を独占したがっていたイエスなんぞは、確かにその
意味をそれなりに理解してもいただろうが、真理にも道理にも全く反している旧約の言葉をそれなりに
理解しもした結果として、旺盛な独占意識をも持ち越したままでいただろうと考えられるのである。
洋学上の定理なり公式なりにも、「ピタゴラスの定理」「サラスの公式」などと発見者個人の名前を勝手に
付ける場合が非常に多い。「署名文化」といえば聞こえはいいが、要は、独占意欲タラタラな者たちに
よって拵えられて来た文化であるというばかりのこと。独占意識にまみれている時点で、本人たちが
真理を悟るほどもの納得下にあるなどということがなかったこともまた自明である。ピタゴラスの定理
こと三平方の定理なんざもただの概念上の定理であり、釈迦が「真理とは関係がない」としてあえて
論及を避けた「無記」に相当するものである。だから、そんなものがいくら数理的な普遍性を帯びている
からといって、真理の悟りに基づく大いなる納得などを理解者にもたらしたりすることもないのである。
真理や道理に即した言葉を好むか、そうでない言葉を好むかでいえば、当然前者のほうがよい。
ただ、そうした結果として、かえって不埒な独占意識は削がれていく。故に、
本物の金言こそはのめり込むように好き好まれるということもそうはないものである。
それで結局その受容の仕方も、孔子のようないたって平易なあり方に止まることとなる。
受容するのなら専らな受容に徹し、しないのなら一切より所にしたりもしない。
そういったメリハリが付くことによって、不埒な創作というものもまた排されて行く。
それは、邪曲にまみれた文化を好き勝手にこねくり回してきたような人間からすれば、
味気ないもののようにすら映りかねないわけだが、人間としての受容者たち自身の着実な
成長はむしろ、そのようなメリハリのきいた文化享受と共にのみ実現されて行くものである。
人としての着実な成長に基づく人生総出からの楽しみと引き換えに、
腐った文化をこね回す不健全な惑溺の楽しみからは卒業して行くのである。
「圭を執りては鞠躬如たり。勝えざるが如し。上ぐるは揖するが如く、下ぐるは授くるが如し。
勃如として戦色あり、足は蹜蹜如として循うこと有り。享礼には容色有り。私覿には愉愉如たり」
「孔先生は、(諸侯の特使として授けられた)圭を諸外国で取り扱う時はおそるおそる、自分には
持ちきれないような姿勢でおられた。上げるときも会釈する程度、下げるときもものを授けるように。
いつも緊張して戦かんばかりで、足取りも重々しく規則正しくされた。(もう少しざっくばらんとした
贈り物の儀式である)享の儀式ではだいぶ和やかな態度になられ、個人的な謁見ともなれば楽しげだった。
(公事と私事、公有と私有の厳格な区別。孔子の著した五経も古来の文化の保全にこそ最善が尽くされている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・五)
ただ、そうした結果として、かえって不埒な独占意識は削がれていく。故に、
本物の金言こそはのめり込むように好き好まれるということもそうはないものである。
それで結局その受容の仕方も、孔子のようないたって平易なあり方に止まることとなる。
受容するのなら専らな受容に徹し、しないのなら一切より所にしたりもしない。
そういったメリハリが付くことによって、不埒な創作というものもまた排されて行く。
それは、邪曲にまみれた文化を好き勝手にこねくり回してきたような人間からすれば、
味気ないもののようにすら映りかねないわけだが、人間としての受容者たち自身の着実な
成長はむしろ、そのようなメリハリのきいた文化享受と共にのみ実現されて行くものである。
人としての着実な成長に基づく人生総出からの楽しみと引き換えに、
腐った文化をこね回す不健全な惑溺の楽しみからは卒業して行くのである。
「圭を執りては鞠躬如たり。勝えざるが如し。上ぐるは揖するが如く、下ぐるは授くるが如し。
勃如として戦色あり、足は蹜蹜如として循うこと有り。享礼には容色有り。私覿には愉愉如たり」
「孔先生は、(諸侯の特使として授けられた)圭を諸外国で取り扱う時はおそるおそる、自分には
持ちきれないような姿勢でおられた。上げるときも会釈する程度、下げるときもものを授けるように。
いつも緊張して戦かんばかりで、足取りも重々しく規則正しくされた。(もう少しざっくばらんとした
贈り物の儀式である)享の儀式ではだいぶ和やかな態度になられ、個人的な謁見ともなれば楽しげだった。
(公事と私事、公有と私有の厳格な区別。孔子の著した五経も古来の文化の保全にこそ最善が尽くされている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・五)
人間、俗世で栄誉を追い求めるか、栄誉全般を超俗志向で諦観するかの二つに一つである。
あえて俗世で栄誉を求めないというのも小人だし、超俗での栄誉を求めよなんてのも何らかの
反社会組織の常套句ってなもんで、それこそ「ガン細胞人種」を生み出す元凶となってしまう。
世俗での道義性を伴った栄誉の獲得という儒家の本旨なども、正しい人間のあり方の一つだし、
全ての栄誉を捨て去っての超俗での精進という仏教の本旨なども、一つの正しいあり方だといえる。
本格の儒者や仏者としてそれを実践して行くのもある種の極例であり、そこまでいかない立場
(単なる仕事人や為政者)に即して上のようなあり方を模倣して行くことだって当然可能である。
ただ、上のようなあり方を実践していこうとする場合に、あまりにもその立場が不正である場合には、
結局大局規模での実践が叶うことなく、むしろ「ガン細胞人種」としての栄誉を追い求めることに
すらなってしまったりするのである。たとえば、商売人としての最大級の栄誉を追い求めた場合、
売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よしなどを頑なに守っていたりしたのでは、かえって
儲けが限られることとなって栄誉に与るともいかなくなる。だからといって、悪徳商売に手を
染めたり、挙句には政商として世の中から暴利を巻き上げるような所業にすら及んでしまったならば、
それでこそ商人としての最大級の栄誉には与れるとした所で、道義性には全く反することとなる。
所詮は世の中に多大なる危害を及ぼすことで虚栄を謳歌しているというばかりのことだから、
いつかはしっぺ返しによって全ての栄誉を剥奪されることすらもが免れられるものではない。
世俗での道義性を伴った栄誉を追い求めて行く最善の手段は、やはり為政であるといえる。
それこそ、君臣父子夫婦兄弟朋友といった人間関係の妙技の限りを尽くすことでこそ、そこでの栄誉を
獲得することもまた可能となるのであり、そこで得られる栄誉こそは、人間の人間による人間のための
栄誉であるといえる。超俗での栄誉を求めよとするカルトの徒輩などはそこが不純だと嘯くわけだが、
むしろそこにこそ、栄誉の中の栄誉、第一の栄誉があるのだと考えるほうが人として正しいのである。
あえて俗世で栄誉を求めないというのも小人だし、超俗での栄誉を求めよなんてのも何らかの
反社会組織の常套句ってなもんで、それこそ「ガン細胞人種」を生み出す元凶となってしまう。
世俗での道義性を伴った栄誉の獲得という儒家の本旨なども、正しい人間のあり方の一つだし、
全ての栄誉を捨て去っての超俗での精進という仏教の本旨なども、一つの正しいあり方だといえる。
本格の儒者や仏者としてそれを実践して行くのもある種の極例であり、そこまでいかない立場
(単なる仕事人や為政者)に即して上のようなあり方を模倣して行くことだって当然可能である。
ただ、上のようなあり方を実践していこうとする場合に、あまりにもその立場が不正である場合には、
結局大局規模での実践が叶うことなく、むしろ「ガン細胞人種」としての栄誉を追い求めることに
すらなってしまったりするのである。たとえば、商売人としての最大級の栄誉を追い求めた場合、
売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よしなどを頑なに守っていたりしたのでは、かえって
儲けが限られることとなって栄誉に与るともいかなくなる。だからといって、悪徳商売に手を
染めたり、挙句には政商として世の中から暴利を巻き上げるような所業にすら及んでしまったならば、
それでこそ商人としての最大級の栄誉には与れるとした所で、道義性には全く反することとなる。
所詮は世の中に多大なる危害を及ぼすことで虚栄を謳歌しているというばかりのことだから、
いつかはしっぺ返しによって全ての栄誉を剥奪されることすらもが免れられるものではない。
世俗での道義性を伴った栄誉を追い求めて行く最善の手段は、やはり為政であるといえる。
それこそ、君臣父子夫婦兄弟朋友といった人間関係の妙技の限りを尽くすことでこそ、そこでの栄誉を
獲得することもまた可能となるのであり、そこで得られる栄誉こそは、人間の人間による人間のための
栄誉であるといえる。超俗での栄誉を求めよとするカルトの徒輩などはそこが不純だと嘯くわけだが、
むしろそこにこそ、栄誉の中の栄誉、第一の栄誉があるのだと考えるほうが人として正しいのである。
人間同士での信頼や栄誉が獲得できもしない所に、神からの栄誉なども当然ないのである。
人間不信の法家主義者だった秦始皇帝が泰山での封禅に及んだ時、大風が吹いて興ざめとなったという。
それを理由に儒者たちも始皇帝を批判したというが、山の天気というのは変わりやすいもの、
当地の天候の動態なども熟知している人間などとの信頼関係を築けたりしていたなら、何も
大風の吹く日時に封禅を執り行ったりする必要もなかったかもしれないわけだから、これも始皇帝の
自業自得の落ち度だった可能性もあるわけで、決してただの迷信というばかりのことでもないといえる。
高祖劉邦が秦帝国に代わって漢帝国を興してからも、劉邦本人は封禅などには無頓着でいた。
その後もしばらく祭祀事業などは簡易的なものに止められ、七代武帝の代になって初めてまた泰山
での封禅が実現に移されることとなった。当時の実情を鑑みてみるに、高祖劉邦の死後にも呂氏の
専横や匈奴からの侵略、民間での贋金作りの横行や、そのような世相の荒みを原因とした餓死の多発
などの問題が山積していたわけで、そういった人間同士での問題を十分に解決するにも至らぬままに
大規模な封禅などを執り行ったのでは、神もいい顔をしたりはしなかっただろうから、善処だったといえる。
人からの栄誉よりも神からの栄誉を優先した秦始皇帝のあり方と、神からの栄誉よりも人からの
栄誉のほうを優先した漢帝国のあり方と、どちらのほうが正しいかは、もう指摘するまでもあるまい。
神からの栄誉も一切求めるべきでないとまではいかないが、少なくとも最優先とはすべきでない。
それこそ、最優先とすべきだなどとする神などがいたとすれば、そうであることこそはありのままに
邪神である証拠だといえる。人間同士の信頼まで自分こそが略奪しようとする邪神。そんな邪神が提供
するなどと放言していた新世界なども永遠に来ないことの思い知りと共に、邪信をも破棄したがいい。
人間不信の法家主義者だった秦始皇帝が泰山での封禅に及んだ時、大風が吹いて興ざめとなったという。
それを理由に儒者たちも始皇帝を批判したというが、山の天気というのは変わりやすいもの、
当地の天候の動態なども熟知している人間などとの信頼関係を築けたりしていたなら、何も
大風の吹く日時に封禅を執り行ったりする必要もなかったかもしれないわけだから、これも始皇帝の
自業自得の落ち度だった可能性もあるわけで、決してただの迷信というばかりのことでもないといえる。
高祖劉邦が秦帝国に代わって漢帝国を興してからも、劉邦本人は封禅などには無頓着でいた。
その後もしばらく祭祀事業などは簡易的なものに止められ、七代武帝の代になって初めてまた泰山
での封禅が実現に移されることとなった。当時の実情を鑑みてみるに、高祖劉邦の死後にも呂氏の
専横や匈奴からの侵略、民間での贋金作りの横行や、そのような世相の荒みを原因とした餓死の多発
などの問題が山積していたわけで、そういった人間同士での問題を十分に解決するにも至らぬままに
大規模な封禅などを執り行ったのでは、神もいい顔をしたりはしなかっただろうから、善処だったといえる。
人からの栄誉よりも神からの栄誉を優先した秦始皇帝のあり方と、神からの栄誉よりも人からの
栄誉のほうを優先した漢帝国のあり方と、どちらのほうが正しいかは、もう指摘するまでもあるまい。
神からの栄誉も一切求めるべきでないとまではいかないが、少なくとも最優先とはすべきでない。
それこそ、最優先とすべきだなどとする神などがいたとすれば、そうであることこそはありのままに
邪神である証拠だといえる。人間同士の信頼まで自分こそが略奪しようとする邪神。そんな邪神が提供
するなどと放言していた新世界なども永遠に来ないことの思い知りと共に、邪信をも破棄したがいい。
「吾れの人に於けるや、誰をか毀り誰をか誉めん。如し誉める所の者有れば、
其れ試みる所有り。斯の民や、三代の直道を以ってして行う所の者なり」
「私は妄りに人を謗ったり誉めたりすることはしない。もし誉めることがあったとしても、
それは相手をよく試してやってからのことだ。(乱世である)今の民ですら、夏・殷・周三代の頃に正直な道を
執り行っていた人々とも何も変わりはしないのだから、(当世風の偽善などによって誉めてやっててもいけない。)
(人間こそが正しい栄誉を人に寄与する例。自分に服従すらすれば栄誉を与えるなどという不正さもありはしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・二五より)
其れ試みる所有り。斯の民や、三代の直道を以ってして行う所の者なり」
「私は妄りに人を謗ったり誉めたりすることはしない。もし誉めることがあったとしても、
それは相手をよく試してやってからのことだ。(乱世である)今の民ですら、夏・殷・周三代の頃に正直な道を
執り行っていた人々とも何も変わりはしないのだから、(当世風の偽善などによって誉めてやっててもいけない。)
(人間こそが正しい栄誉を人に寄与する例。自分に服従すらすれば栄誉を与えるなどという不正さもありはしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・二五より)
やはり、だれにも邪魔されずに自分の趣味を全うするスタンスのブログ(ま、自己顕示欲で
やっている人もいるでしょうが、このブログは平明でそんな内容では無いようで)の方が、
自分のレス(しかも、携帯の名無しでイエスキリストスレーだとよ。やっぱ、あれそっちだったのかー、それが笑った)への腹いせか、「どやツ」だろ。残念ながら、一度もそういう内容のもので関心したという記憶はありません。
このスレも、なんだか知らないが、基督教の教典である書名を掻っ攫って、こちらでは立てられないように押さえ込んでる感じが、なんとも女の腐った水戸黄門さまって感じで、なにがなにやら
もうさっぱりわかりません。万景峰号とジェンキンスさんがハーレーは身近? かんけーないか。
後は、聖書とかセイント=聖なるという訳だが、そちらは字面にだけあこがれを抱いている封ですな。
このすれたいだと、こうしもろうしも孟子も(変換下の方で面倒)みんな、聖こうしと解釈されますがねー。
それは西洋の思想に則った考え方と、オッさるでしょうが(誤字脱字イキ)、じゃあ、東洋的な解釈では、どういう解釈で、ここにその字を持ってきたか、語ってもらえますか?
「これこそが本物」とか言っていますが、あっちが偽でこっちが、とかって、やっぱり解釈は、
同じだったりするのでしょうか? そして、こういうことはスルー(ミーハー的なやつでしかない
という辛辣で、答えに窮するところは)ですかね。
このスレ、これこそが人のせいっしょ。という、醜い人の絵姿があるスレですな。
今は、おっさん臭い書き込みから、余り外しませんが、前にみんなから一度に、やいやい言われて
た時、「いつも喧嘩ばかりの笠・・」とか言われて、もう半べそな感じで
「喧嘩を打ってくるのは、いつもおまえらの方だ! いつもそうだ」、いつもそうだという言葉と
同じ内容の文を二度、「いつもそうなんだ!」とか書いていたような気がする。
ほんとに、いい加減にギャグでもかます余裕を持たないと。別に、知識が豊富とか、専門知識があるとか、
思われなくてもいいじゃん。そんなの、実際はだれでもあるよ、ひとつや二つ。ただ、意固地で
あり続けるは、そういう成長が出来たとしても、見栄坊の粋がりにしかならないわけで。
やっている人もいるでしょうが、このブログは平明でそんな内容では無いようで)の方が、
自分のレス(しかも、携帯の名無しでイエスキリストスレーだとよ。やっぱ、あれそっちだったのかー、それが笑った)への腹いせか、「どやツ」だろ。残念ながら、一度もそういう内容のもので関心したという記憶はありません。
このスレも、なんだか知らないが、基督教の教典である書名を掻っ攫って、こちらでは立てられないように押さえ込んでる感じが、なんとも女の腐った水戸黄門さまって感じで、なにがなにやら
もうさっぱりわかりません。万景峰号とジェンキンスさんがハーレーは身近? かんけーないか。
後は、聖書とかセイント=聖なるという訳だが、そちらは字面にだけあこがれを抱いている封ですな。
このすれたいだと、こうしもろうしも孟子も(変換下の方で面倒)みんな、聖こうしと解釈されますがねー。
それは西洋の思想に則った考え方と、オッさるでしょうが(誤字脱字イキ)、じゃあ、東洋的な解釈では、どういう解釈で、ここにその字を持ってきたか、語ってもらえますか?
「これこそが本物」とか言っていますが、あっちが偽でこっちが、とかって、やっぱり解釈は、
同じだったりするのでしょうか? そして、こういうことはスルー(ミーハー的なやつでしかない
という辛辣で、答えに窮するところは)ですかね。
このスレ、これこそが人のせいっしょ。という、醜い人の絵姿があるスレですな。
今は、おっさん臭い書き込みから、余り外しませんが、前にみんなから一度に、やいやい言われて
た時、「いつも喧嘩ばかりの笠・・」とか言われて、もう半べそな感じで
「喧嘩を打ってくるのは、いつもおまえらの方だ! いつもそうだ」、いつもそうだという言葉と
同じ内容の文を二度、「いつもそうなんだ!」とか書いていたような気がする。
ほんとに、いい加減にギャグでもかます余裕を持たないと。別に、知識が豊富とか、専門知識があるとか、
思われなくてもいいじゃん。そんなの、実際はだれでもあるよ、ひとつや二つ。ただ、意固地で
あり続けるは、そういう成長が出来たとしても、見栄坊の粋がりにしかならないわけで。

67ー1)
>>1。
>>66
ま、それなんかも「毀誉褒貶」と「子、曰く」とか、「漢籍」、「字引」、「目録」とかで
ググって引き出してきた引用なんでしょうなー、どうせ。
ちなみ、今、最初の三個の単語でググってみました。いろいろヒットしました。(※画像参照)
で、その中で、わたしが興味深いと思ったのは、ブログの記事で新來子のこれ。
〜〜〜〜
新 來 子 曰。
人 之 樂。 夫 有 成 就 於 我 本 能。 人 抱 欲 望 無 限 乎。則 其 餓 魂 而 不 癒。
嘗 老 子 嘆 而 曰。 吾 言 甚 易 知。
甚 易 行。 天 下 莫 能 知。 莫 能 行。 今 天 下 之 百 姓。多 危 身 棄 生 以 殉 物。 其 志 散 旦 暮。 遑 遑 爾 過 日 矣。
各 爲 其 所 欲 焉 以。絞 知 傾 精。 然 而 天 下 臨 矣。我 本 性 従 欲 生 乎。 則 天 下 轢 轢 矣。 天 下 之 人。
各 爲 其 所 欲 焉 以 自 爲 方。 是 故 内 聖 外 王 之 道。闇 而 不 明。 鬱 而 不 發。 必 不 合 矣。 此 如 態。
道 徳 不 一。 天 下 難 安 住 也。 故 其 言 相 與 穣 乎。夫 爲 天 下 之 安 寧 也。 是 即 寡 欲 之 意 也。 故 得 至 教 于 人 已。
夫 欲 我 所 窮 爲 之。 苦 心 勞 形 已。 我 本 性 如 何。吟 一 時 之 毀 誉。 要 死 後 數 百 年 中 餘 名。 真 生 之 樂。
奈 何 以 知 我 本 性 耶。 老 子 曰。 是 之 謂 知 足 矣。
〜〜〜〜
読み方省略いたします。興味のある方は、上記の単語でググれば、1P目にヒットいたします。
〜〜〜次へ。

(原文)「開元十八年、侍中裴光庭、兼吏部尚書、始作循資格。
而賢愚一概、必與格合、乃得銓授、限年躡級、不得踰越。於是久淹不收者皆便之、謂之聖書」
(読み下し)「開元十八年、侍中の裴光庭、吏部尚書を兼ぬ、資格に循いて始作す。
賢愚を一概にし、必ず格と與に合わしめ、乃ち銓授を得、年に限り級を躡わしめ、
踰越を得ず。是れに於て久淹し收めざる者は皆な之れを便り、之れを聖書と謂う」
(訳文)「開元十八年、宮廷の侍中で吏部尚書(文官の叙勲を司る記録部の長官)を兼ねる裴光庭が、資格に則って叙勲の
仕事を始めた。賢明であった者も愚昧であった者もみなおしなべて取り上げ、それぞれの格の上下に合わせて叙勲を選び授け、
年功に限って等級にも従わしめ、決して本分を超えさせるようなことがなかった。そのためこの功績を久しく称え続けて
お蔵入りもさせぬようにする人々が相次ぎ、彼らは皆その公正な評価尺度に頼り、本人が記録した書類を『聖書』と呼んだ」
(中国正史「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下より)
四書五経こそは「聖書」としての条件を完璧に満たしている一方、
新旧約は見事なまでにその条件を満たせていない。あんな作文集を
「聖書」などと呼ぶことからして、孔子が憂えていた「名辞の乱れ」
であり、何よりもまずそこから直していかなければならない
というのが真正聖書——四書五経の教えでもある。
「子路曰く、(略)政を為さば、子将に奚をか先にせん。子曰く、必ずや名を正さんか」
「子路が問うた。『もし政治を任されたとすれば、先生はまず何をなされますか』
先生は言われた。『とりあえず名辞を正さねばな』(名辞の乱れこそは天下の乱れの元凶である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・三より)
>>77
しかし、出典がその上げている本からって、さ。そんな手前味噌的な軽い書物ししてるそちらって。
で、>>25ー26あたりはもう、直でなにも言わないし。あのー、新來子(にらいし)の訳文は別のスレに投稿したが、あれ、そちらはなにも感ぜず、同じ事の繰り返しをやる雰囲気って。転載。
〜〜〜〜(訳文) 新來子曰く。
人の楽しみはわが本能の欲することが達せられたときです。
人は欲望を無限に抱くため、魂の餓えは癒えることがありません。
人の欲望は千差万別であり、その達成手段も各人各様です。
嘗て老子が「吾が言は甚だ知り易く、甚だ行い易し。
天下能く知るなければ、能く行う莫し」と嘆いたが、人は自身の天命によりその生涯を全うすることに集中するあまり、朝に目覚めてから夕べに就寝するまで目先のことに追われ、
ただ日々を慌しく過しているにしかすぎません。
だれもが自身の目的達成のため、知恵を絞り精力を傾け、社会に挑んでいるのです。
わが本能に従順に生きようとすれば、世間との軋轢を生じます。
世間の人々もまた吾が本能に従順だからです。
そうなると、どこもかしこも欲望のぶつかり合いとなり、世の中が騒然とます。
このような状態では世界中どこへ行っても住みにくいので、お互いの主張をゆずり合い、
より大多数の心が安らぐところで落ち着かせる必要が生じてきます。
これが寡欲の思考であり、人間にしかできない精神作用です。
だとするならば、その目的達成のためにわが身を苦しめる、わが本能とはいかなるものでしょうか
一時の毀誉褒貶や、死後数百年にしかすぎない名声を求めるといった、小賢しさを離れた、
本当の人生の楽しみを、いかにわが本姓に知らしめるか。老子に言う「知足」とはこのことなのです。
〜〜
==で、>>30のレスの英文、あれ無意味で書いていると思うか? そちらは光が良いもの闇は悪の象徴として
レスに書いていたが、文の内容は『光もまた漆黒のうちに生じる、それらの中のものうちのひとつ』。
分かる? この意味。森羅万象をすべてコンプリートと宣っているのに、それが出来ない理由についての
指摘もスルーだもんな。
しかし、出典がその上げている本からって、さ。そんな手前味噌的な軽い書物ししてるそちらって。
で、>>25ー26あたりはもう、直でなにも言わないし。あのー、新來子(にらいし)の訳文は別のスレに投稿したが、あれ、そちらはなにも感ぜず、同じ事の繰り返しをやる雰囲気って。転載。
〜〜〜〜(訳文) 新來子曰く。
人の楽しみはわが本能の欲することが達せられたときです。
人は欲望を無限に抱くため、魂の餓えは癒えることがありません。
人の欲望は千差万別であり、その達成手段も各人各様です。
嘗て老子が「吾が言は甚だ知り易く、甚だ行い易し。
天下能く知るなければ、能く行う莫し」と嘆いたが、人は自身の天命によりその生涯を全うすることに集中するあまり、朝に目覚めてから夕べに就寝するまで目先のことに追われ、
ただ日々を慌しく過しているにしかすぎません。
だれもが自身の目的達成のため、知恵を絞り精力を傾け、社会に挑んでいるのです。
わが本能に従順に生きようとすれば、世間との軋轢を生じます。
世間の人々もまた吾が本能に従順だからです。
そうなると、どこもかしこも欲望のぶつかり合いとなり、世の中が騒然とます。
このような状態では世界中どこへ行っても住みにくいので、お互いの主張をゆずり合い、
より大多数の心が安らぐところで落ち着かせる必要が生じてきます。
これが寡欲の思考であり、人間にしかできない精神作用です。
だとするならば、その目的達成のためにわが身を苦しめる、わが本能とはいかなるものでしょうか
一時の毀誉褒貶や、死後数百年にしかすぎない名声を求めるといった、小賢しさを離れた、
本当の人生の楽しみを、いかにわが本姓に知らしめるか。老子に言う「知足」とはこのことなのです。
〜〜
==で、>>30のレスの英文、あれ無意味で書いていると思うか? そちらは光が良いもの闇は悪の象徴として
レスに書いていたが、文の内容は『光もまた漆黒のうちに生じる、それらの中のものうちのひとつ』。
分かる? この意味。森羅万象をすべてコンプリートと宣っているのに、それが出来ない理由についての
指摘もスルーだもんな。
自意識過剰の思い上がりをどこまでも肥大化させ続けられる状態が「生」であり、
その術を失って絶望にかられるのが「死」であるとするのは、比喩表現としても不正である。
むしろ、過剰に肥大化した思い上がりによって精神的な成長の術を失ってしまうことこそは
人としての「死」であり、そのような事態を招かないようにするための貞正さを保つことが
「生」であるとするほうが、人々を教導するための比喩表現としても正しいといえる。
思い上がりをどこまでも肥大化させてしまっていたからこそ、それを禁止されることを通じて
絶望にかられたりすることがあったとしても、それが精神的な成長の術を取り戻して行くための
過程であるというのならば、そうなった人間はむしろ「生」を取り戻していこうとしている
といえるわけだから、決してそれを「死」であるなどとほざいたりしてはならないのである。
上記のような比喩表現としての「生死」の転倒もまた、一種の「名辞の乱れ」であるといえる。
比喩表現だから何でもアリってのも一つの名辞の乱れであり、その悪用が傾国の元凶に
すらなりかねないことは、蜀漢の軍師諸葛亮が「出師表」でも指摘していたことである。
佞臣が個人的に主君に気に入られるために都合のいいように比喩表現を用いたりすることは、
古代の頃から連綿と持ち越されてきた人間にとっての致命的な悪癖であるため、仏門でも
そのような物言いを「妄語の罪」として固く戒めるようにもして来ているのである。
その妄語の罪を完全に開き直らせるのが、今の日本憲法にも明記されている「表現の自由」である。
表現の自由を尊ぶべきだとするからこそ、西洋文学では、ジャンル性を一切放棄した小説こそは
「純文学」として至上のものにすら祭り上げられている。実在する歴史上の聖賢や偉大な為政者の
言行をありのままに記録した「大説」などと比べれば、ごく瑣末なものとして東洋では扱われて
来た小説文学こそが、純文学としてノンフィクションを上回るもののようにすら扱われている。
その術を失って絶望にかられるのが「死」であるとするのは、比喩表現としても不正である。
むしろ、過剰に肥大化した思い上がりによって精神的な成長の術を失ってしまうことこそは
人としての「死」であり、そのような事態を招かないようにするための貞正さを保つことが
「生」であるとするほうが、人々を教導するための比喩表現としても正しいといえる。
思い上がりをどこまでも肥大化させてしまっていたからこそ、それを禁止されることを通じて
絶望にかられたりすることがあったとしても、それが精神的な成長の術を取り戻して行くための
過程であるというのならば、そうなった人間はむしろ「生」を取り戻していこうとしている
といえるわけだから、決してそれを「死」であるなどとほざいたりしてはならないのである。
上記のような比喩表現としての「生死」の転倒もまた、一種の「名辞の乱れ」であるといえる。
比喩表現だから何でもアリってのも一つの名辞の乱れであり、その悪用が傾国の元凶に
すらなりかねないことは、蜀漢の軍師諸葛亮が「出師表」でも指摘していたことである。
佞臣が個人的に主君に気に入られるために都合のいいように比喩表現を用いたりすることは、
古代の頃から連綿と持ち越されてきた人間にとっての致命的な悪癖であるため、仏門でも
そのような物言いを「妄語の罪」として固く戒めるようにもして来ているのである。
その妄語の罪を完全に開き直らせるのが、今の日本憲法にも明記されている「表現の自由」である。
表現の自由を尊ぶべきだとするからこそ、西洋文学では、ジャンル性を一切放棄した小説こそは
「純文学」として至上のものにすら祭り上げられている。実在する歴史上の聖賢や偉大な為政者の
言行をありのままに記録した「大説」などと比べれば、ごく瑣末なものとして東洋では扱われて
来た小説文学こそが、純文学としてノンフィクションを上回るもののようにすら扱われている。
別に小説文学が「あってはならないもの」として東洋で扱われて来たような事実もないのだが、
ことに西洋においては、自分たちの最大級のより所である新旧約からして架空の物語を列挙
しただけの小説止まりであるものだから、小説こそは至上のものとして扱われて来てもいる。
西洋で「表現の自由」というものが提唱されたのも、元はといえば新旧約なんぞを金科玉条に
掲げ続けて来た自分たちの性向こそを元凶としているわけだから、結局、比喩表現の悪用を助長
する諸々の正当化材料にしろ小説の祭り上げにしろ、全ては新旧約を元凶としているのだといえる。
フィクションとしての宮廷文学の金字塔である源氏物語なども、仏門の立場から「妄語戒に反する」
と批判されていたようなこともあったわけだが、それにしたって、家康公を始めとする多くの歴史上
の人物が源氏物語の愛読者でもあり続けて来てもいる。小説文学というものがその程度の扱いを受けて、
表現の自由などもそれなりの戒めの対象になりつつ、成人図書のような警戒的な受容に止められて行く
というのならば、完全に根絶されたりまでする必要もない。三国志演義も封神演義も小説文学には
違いないが、前者のほうがより史実に即している一方、後者のほうは怪力乱神を導入しまくった
濃厚なフィクションであるから、文学作品としての評価も三国志演義>封神演義だったりする、
その程度の扱いとしてフィクションだらけの小説作品が許容されていくことはこれからも可能である。
ただ、それにしたって、フィクションをノンフィクションの下に置き、不正な表現を適切な表現の
下に置く分別はしっかりと講じていく必要がある。新旧約なんぞは、不正な表現の限りを尽くした
完全なフィクション小説であるものだから、それこそ最低劣の文筆として扱われなければならない。
経書や仏典は適切な表現の宝庫だから尊重され、正史もフィクションの明記だから尊重される。
(正史「三国志」のように三国志演義以上にも出来の悪い正史も中にはあるので注意が必要)
それらの下に全ての不正な表現やノンフィクションまみれの文筆が置かれていくようにする。
ことに西洋においては、自分たちの最大級のより所である新旧約からして架空の物語を列挙
しただけの小説止まりであるものだから、小説こそは至上のものとして扱われて来てもいる。
西洋で「表現の自由」というものが提唱されたのも、元はといえば新旧約なんぞを金科玉条に
掲げ続けて来た自分たちの性向こそを元凶としているわけだから、結局、比喩表現の悪用を助長
する諸々の正当化材料にしろ小説の祭り上げにしろ、全ては新旧約を元凶としているのだといえる。
フィクションとしての宮廷文学の金字塔である源氏物語なども、仏門の立場から「妄語戒に反する」
と批判されていたようなこともあったわけだが、それにしたって、家康公を始めとする多くの歴史上
の人物が源氏物語の愛読者でもあり続けて来てもいる。小説文学というものがその程度の扱いを受けて、
表現の自由などもそれなりの戒めの対象になりつつ、成人図書のような警戒的な受容に止められて行く
というのならば、完全に根絶されたりまでする必要もない。三国志演義も封神演義も小説文学には
違いないが、前者のほうがより史実に即している一方、後者のほうは怪力乱神を導入しまくった
濃厚なフィクションであるから、文学作品としての評価も三国志演義>封神演義だったりする、
その程度の扱いとしてフィクションだらけの小説作品が許容されていくことはこれからも可能である。
ただ、それにしたって、フィクションをノンフィクションの下に置き、不正な表現を適切な表現の
下に置く分別はしっかりと講じていく必要がある。新旧約なんぞは、不正な表現の限りを尽くした
完全なフィクション小説であるものだから、それこそ最低劣の文筆として扱われなければならない。
経書や仏典は適切な表現の宝庫だから尊重され、正史もフィクションの明記だから尊重される。
(正史「三国志」のように三国志演義以上にも出来の悪い正史も中にはあるので注意が必要)
それらの下に全ての不正な表現やノンフィクションまみれの文筆が置かれていくようにする。
>>72のアンカー>>70です。
で、これは>>72の続きです。
要するに、それらを包みもの込む森羅万象とも密接になっている事柄とは、洋の東西や文化系統(これもごく数百年という最近の)だけを取り上げて、
一方からの見方だけで、圧出した理論を持って排除できるものでないし、ましてやそれが、包括するという意味でない、と、
理屈の間違いや不正な事(西洋でいえば、中世基督教国の布教という世界規模の侵略略奪行為や
ナチスのニーチェやワーグナーなど優れた学者や文化を利用してのナショナリズムへの誘導など)
は、それが正しくなかったことは、これまで時間の流れというものがすべて証明していっている。
何度言っても馬鹿のフリは、ネットでウダウダウヨウヨしている姑息な姿。要するに、宗教を否定
しておきながら(都合の悪いところはつぎはぎの矛盾だらけの言い訳)、結局、自分はその書物を
持ってして、それが自分の徳であることを強調しつつ、恰も宗教のように取り扱っているわけだ。
(もう最近さ、こちらが何かを指摘すると、それを阿呆な、そもそもの基本の話しに矛盾することなどもおかまい無しに言い訳修正を始めるだろ? 言い訳をひとつするごとに、自分の穴が埋まっていって
目的(?)達成へ近づいたとでも思ってるのか? それが阿呆だと。呆れるよまったく)
ええと、で、>>30英文だが、つまり、尊いことを教えていくのは大事な事だけども、そちらは、私利私欲にまみれていると。
そして、それを淘汰するものはもっと形而上的なもので、そちらの話している事柄だけでは足りない、というか、
そちらの言動自体がそれに矛盾しているわけで。アーくそ、で、英文の内容は、そういう事。
内容は光を正義とし闇を悪とするいかにも〜な話しをそちらはレスしていたが、
『そちらの言っている事の矛盾していることも、それらのうちのひとつ。光またも漆黒の中に生じるうちのもののひとつ』というもの。
で、「one of them=そのうちのひとつが〜]という文。全体を表す代名詞が「them」の発音は、
禅=zenにつながるというシャレだったのだが、こういう偶然的なことがらは、
実際にあるものだが、とても説明できないものという存在のone of themなのだ、っと。
で、これは>>72の続きです。
要するに、それらを包みもの込む森羅万象とも密接になっている事柄とは、洋の東西や文化系統(これもごく数百年という最近の)だけを取り上げて、
一方からの見方だけで、圧出した理論を持って排除できるものでないし、ましてやそれが、包括するという意味でない、と、
理屈の間違いや不正な事(西洋でいえば、中世基督教国の布教という世界規模の侵略略奪行為や
ナチスのニーチェやワーグナーなど優れた学者や文化を利用してのナショナリズムへの誘導など)
は、それが正しくなかったことは、これまで時間の流れというものがすべて証明していっている。
何度言っても馬鹿のフリは、ネットでウダウダウヨウヨしている姑息な姿。要するに、宗教を否定
しておきながら(都合の悪いところはつぎはぎの矛盾だらけの言い訳)、結局、自分はその書物を
持ってして、それが自分の徳であることを強調しつつ、恰も宗教のように取り扱っているわけだ。
(もう最近さ、こちらが何かを指摘すると、それを阿呆な、そもそもの基本の話しに矛盾することなどもおかまい無しに言い訳修正を始めるだろ? 言い訳をひとつするごとに、自分の穴が埋まっていって
目的(?)達成へ近づいたとでも思ってるのか? それが阿呆だと。呆れるよまったく)
ええと、で、>>30英文だが、つまり、尊いことを教えていくのは大事な事だけども、そちらは、私利私欲にまみれていると。
そして、それを淘汰するものはもっと形而上的なもので、そちらの話している事柄だけでは足りない、というか、
そちらの言動自体がそれに矛盾しているわけで。アーくそ、で、英文の内容は、そういう事。
内容は光を正義とし闇を悪とするいかにも〜な話しをそちらはレスしていたが、
『そちらの言っている事の矛盾していることも、それらのうちのひとつ。光またも漆黒の中に生じるうちのもののひとつ』というもの。
で、「one of them=そのうちのひとつが〜]という文。全体を表す代名詞が「them」の発音は、
禅=zenにつながるというシャレだったのだが、こういう偶然的なことがらは、
実際にあるものだが、とても説明できないものという存在のone of themなのだ、っと。
現代などは、法律文書や商取引書類あたりにも不正な表現を駆使された代物が無数にあるわけだから、
お縄を頂戴することとなって行く文書の量も、それこそ膨大な量に上るだろうことが予見される。
まことに、言葉の禍いというものは、武器のもたらす禍以上にも時に甚大となるのだといえる。
「我れ其の声を聞くも、其の身を見ず。人に愧じざるや、天を畏れざるや」
「俺はその声を聞きはするが、その姿を見たことはない。(出歯亀然とした
そのあり方を)どうして人に恥じもしないのか。どうして天を畏れもしないのか。
(『あなた方は神の姿を見ない』とは犯罪聖書にもあるし、そもそも犯罪聖書の著者からして
匿名な上に、その記述内容も架空である。それこそ恥ずべきこと、畏れ慎むべきことなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・何人斯より)
>>she
俺がここでものを言っている動機は↓このスレに明記されている。
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/134149088...
一時の激情や保身に駆られて暴論を巻き起こしているおまえなどとは発言の動機
からして別格なのだから、そんな低い所から俺に文句を付けて来た所で全くの無駄だ。
お縄を頂戴することとなって行く文書の量も、それこそ膨大な量に上るだろうことが予見される。
まことに、言葉の禍いというものは、武器のもたらす禍以上にも時に甚大となるのだといえる。
「我れ其の声を聞くも、其の身を見ず。人に愧じざるや、天を畏れざるや」
「俺はその声を聞きはするが、その姿を見たことはない。(出歯亀然とした
そのあり方を)どうして人に恥じもしないのか。どうして天を畏れもしないのか。
(『あなた方は神の姿を見ない』とは犯罪聖書にもあるし、そもそも犯罪聖書の著者からして
匿名な上に、その記述内容も架空である。それこそ恥ずべきこと、畏れ慎むべきことなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・何人斯より)
>>she
俺がここでものを言っている動機は↓このスレに明記されている。
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/134149088...
一時の激情や保身に駆られて暴論を巻き起こしているおまえなどとは発言の動機
からして別格なのだから、そんな低い所から俺に文句を付けて来た所で全くの無駄だ。
>>74
また阿呆な事をいいだしてますな。ネット頭から解放されろって。
全部読んでませんが、小説=フィクション、基督教の聖書はフィクションだからとかの
話し。講師とか労使とか孟子(なぜかこれだけ一発変換できる)とかの話しも、いわゆる
比喩文学だといえば、そうなんですがー。
阿呆が、本板で小説の中身の話しのレスを読んで、切り返してるつもりか? もっと、
切れよく頼みますよ。
と屁理屈〜です。だから、本当に普遍的な事柄は、すべてを包括しているって、ことです。
>>30より、>>75で。そちらは視点が狭量で、理解するということは、まず把握するという意味であるのに、ただ自分が体よく生きる(ネットで)ためへの利発さを求めているに過ぎないというのは、
成長出来ない証明でもあります。さいならーっと。
また阿呆な事をいいだしてますな。ネット頭から解放されろって。
全部読んでませんが、小説=フィクション、基督教の聖書はフィクションだからとかの
話し。講師とか労使とか孟子(なぜかこれだけ一発変換できる)とかの話しも、いわゆる
比喩文学だといえば、そうなんですがー。
阿呆が、本板で小説の中身の話しのレスを読んで、切り返してるつもりか? もっと、
切れよく頼みますよ。
と屁理屈〜です。だから、本当に普遍的な事柄は、すべてを包括しているって、ことです。
>>30より、>>75で。そちらは視点が狭量で、理解するということは、まず把握するという意味であるのに、ただ自分が体よく生きる(ネットで)ためへの利発さを求めているに過ぎないというのは、
成長出来ない証明でもあります。さいならーっと。

米英主導の今の世界もちゃんと動いている。
そして案の定、人類は滅亡への地獄道を絶賛邁進中だ。
おまえの言い分は、最終防衛線死守思想としての条件を全く満たせていないから、
それこそを本分としている俺の物言いにケチを付けるような資格はない。
俺の考えや発言に寸分ほどの抑制をかける効果すらをも持ちはしない。
「苟くも社稷を利すには、死生之れを以ってす。
且つ吾れ聞くに、善を為す者は其の度を改めずと、故に能く済む有るなり」
「天下国家の利益のためには、自分個人の生死などは度外視すべきものである。
なおかつ私(子産)の聞いた言葉には『善を為す者はそのやり方を中途で改め
たりはしない』というのがある。だからこそ大偉業を成し遂げられもするのだ。
(最初の一文は個人の生死ばかりを偏重する新旧約の物言いへの批判になっている。
以降の文は善を為すことに一心不乱であることすら非難するsheへの反論になっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公四年より)
普通の人間は、信仰と行いは別物であると考えるし、正統な信教でも両者を完全な別物として扱う。
自分には自力での善行なんか到底できはしない、だから信仰にすがる、だからといって、信仰に
よって自分が善行を為せるようになるというのでも、信仰それ自体が善行になるというのでもない。
ただひたすら濁悪からの救いを求めて、無力ながらの信仰にすがるというばかりのことである。
「そういう信仰で救われるというのならそれでもいい、それだけじゃ不足だというのなら禅門にもおいで」
と臨済宗妙心寺派管長だった玄峰老師も仰られていたが、その玄峰老師が、キリスト教教義の
「善行によって救われる」という部分を引いて、キリスト教を是とするようなことも言っておられた。
顕教である禅仏教の立場からすれば、そんなに異教の内実にまで立ち入ってものを言うことも避けようと
しておられたのかもしれないが、キリスト教における「善行」とは信仰そのものだったりするわけで、
信と行を別個のものとして捉える仏教版の他力信仰(浄土教など)の観点などからすれば、信仰第一の
キリスト教が「善行によって救われる」などということを謳っていること自体、是認しかねることなのである。
信仰と行いを混同して、信仰すなわち善行だなどと思い込んだならば、行い全般の重大さが蔑ろにされる
こととなる。農夫が耕作を怠って作物をろくに実らせないでいた所で、信仰を善行に代えられるのなら、
それでチャラになるということにすらなる。信仰と行いを全くの別物として捉えるのならそんなことには
ならないが、両者の境があやふやであるようならそうすらなりかねないから、重農主義的な為政を敷いた
徳川幕府も信行の分別ある浄土教などは許容した一方、信行を混同しがちなキリシタンは禁止したのだった。
自分には自力での善行なんか到底できはしない、だから信仰にすがる、だからといって、信仰に
よって自分が善行を為せるようになるというのでも、信仰それ自体が善行になるというのでもない。
ただひたすら濁悪からの救いを求めて、無力ながらの信仰にすがるというばかりのことである。
「そういう信仰で救われるというのならそれでもいい、それだけじゃ不足だというのなら禅門にもおいで」
と臨済宗妙心寺派管長だった玄峰老師も仰られていたが、その玄峰老師が、キリスト教教義の
「善行によって救われる」という部分を引いて、キリスト教を是とするようなことも言っておられた。
顕教である禅仏教の立場からすれば、そんなに異教の内実にまで立ち入ってものを言うことも避けようと
しておられたのかもしれないが、キリスト教における「善行」とは信仰そのものだったりするわけで、
信と行を別個のものとして捉える仏教版の他力信仰(浄土教など)の観点などからすれば、信仰第一の
キリスト教が「善行によって救われる」などということを謳っていること自体、是認しかねることなのである。
信仰と行いを混同して、信仰すなわち善行だなどと思い込んだならば、行い全般の重大さが蔑ろにされる
こととなる。農夫が耕作を怠って作物をろくに実らせないでいた所で、信仰を善行に代えられるのなら、
それでチャラになるということにすらなる。信仰と行いを全くの別物として捉えるのならそんなことには
ならないが、両者の境があやふやであるようならそうすらなりかねないから、重農主義的な為政を敷いた
徳川幕府も信行の分別ある浄土教などは許容した一方、信行を混同しがちなキリシタンは禁止したのだった。
信仰と行いの間に明確な分別を付けるということは、宗教全般に対する不信が蔓延してしまっている
現代社会においてこそ特に見失われてしまっていることである。戦国時代の一向一揆なども、本来は行いと
分けて然るべき信仰が武装蜂起に繋がってしまった事例に当たるわけだが、乱世こそは、信仰と行いの分別が
疎かになってしまいがちな時代なのだといえる。無論、信仰と行いを混同する類いの信教こそがそのような
乱世をもたらす場合もあるわけで、聖書信仰が侵略の魔の手を広げている事態などもそれに当たるといえる。
信教の健全化、信仰への不信の払拭のためにこそ、信と行の厳格な分別というものが必要ともなる。
自力作善の宗門なども、修養のために信仰を指針とすることがあるが、やはり信仰とはまた
別の物としての精進修行などに励んで行く。そして信仰一辺倒の他力信仰というものもまたある。
その二つに信教の有り方というものが厳格化されたならば、科学的発想が定着している現代人であっても、
信教を鼻つまみもの扱いまでしたりはせずに済むのである。にもかかわらず、今の宗教というものが
信と行を混同するような風潮を大いに是としているものだから、宗教への不信も絶えることがない。
これはもう、今の宗教の側にとっての完全な自業自得であると見なすほかはない問題であるといえる。
自他に対して他力本願を促しているような信教が、善行としての布施を信者に要求したりするのも
言行不一致となっている。厳格に戒律も守る自力作善の信教が、信者に善行としての布施を促したり、
他力本願系の信教が「やむない悪行」としての布施を求めたりするのならまだありだといえるが、
他力本願のくせして、どうして教団への布施に限っては善行であるなどということがあろうか。
現代社会においてこそ特に見失われてしまっていることである。戦国時代の一向一揆なども、本来は行いと
分けて然るべき信仰が武装蜂起に繋がってしまった事例に当たるわけだが、乱世こそは、信仰と行いの分別が
疎かになってしまいがちな時代なのだといえる。無論、信仰と行いを混同する類いの信教こそがそのような
乱世をもたらす場合もあるわけで、聖書信仰が侵略の魔の手を広げている事態などもそれに当たるといえる。
信教の健全化、信仰への不信の払拭のためにこそ、信と行の厳格な分別というものが必要ともなる。
自力作善の宗門なども、修養のために信仰を指針とすることがあるが、やはり信仰とはまた
別の物としての精進修行などに励んで行く。そして信仰一辺倒の他力信仰というものもまたある。
その二つに信教の有り方というものが厳格化されたならば、科学的発想が定着している現代人であっても、
信教を鼻つまみもの扱いまでしたりはせずに済むのである。にもかかわらず、今の宗教というものが
信と行を混同するような風潮を大いに是としているものだから、宗教への不信も絶えることがない。
これはもう、今の宗教の側にとっての完全な自業自得であると見なすほかはない問題であるといえる。
自他に対して他力本願を促しているような信教が、善行としての布施を信者に要求したりするのも
言行不一致となっている。厳格に戒律も守る自力作善の信教が、信者に善行としての布施を促したり、
他力本願系の信教が「やむない悪行」としての布施を求めたりするのならまだありだといえるが、
他力本願のくせして、どうして教団への布施に限っては善行であるなどということがあろうか。
「信教の自由」の名の下での宗教優遇もそのような、他力本願を信者に促すくせして、教団への布施だけは
善行として大いに奨励するような類いの邪教の保護にこそ一役買ってしまっている。信教などは寺社奉行
によって厳重な監査の対象となっていた時代の日本においてこそ、そんな邪教の肥大化こそは防がれても
いたわけだから、信教の自由というもの自体、邪教の振興にばかり与してしまうものであるのが確かだ。
信と行の混同や信教の自由こそは、信と行の分別を付けるまともな信教を日陰へと追いやる原因とも
なってしまっている。聖書信仰を是としている以上は寸分たりとも儒学の信仰が叶わないのとも同じように、
信仰の乱れこそが「悪教は良教を駆逐する」といった事態を招いてしまいもする。信教全般を駆逐するため
ではなく、邪教を駆逐することで正教を保護するためにこそ、信教の是正というものもまた必要とされるのである。
「昔中葉に在りて、震いて且つ業なるもの有り。允なる天子、卿士も降れり、実に維れ阿衡、実に商王に左右す」
「昔、(当時から見て)中世のころ、震撼するような大いなる神の業があった。殷の王が真の天子であったために、
諸国の公卿たちも心からそこに服した。ついには名臣伊尹までもが現れて、殷の王を左右から補佐したのだった。
(実物の帝業がありのままに『神の業』であるからこそ、東洋では政治史が重んじられて来てもいる。
本物の神の業というものを決して軽んじたりしてはならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・商頌・長発より)
善行として大いに奨励するような類いの邪教の保護にこそ一役買ってしまっている。信教などは寺社奉行
によって厳重な監査の対象となっていた時代の日本においてこそ、そんな邪教の肥大化こそは防がれても
いたわけだから、信教の自由というもの自体、邪教の振興にばかり与してしまうものであるのが確かだ。
信と行の混同や信教の自由こそは、信と行の分別を付けるまともな信教を日陰へと追いやる原因とも
なってしまっている。聖書信仰を是としている以上は寸分たりとも儒学の信仰が叶わないのとも同じように、
信仰の乱れこそが「悪教は良教を駆逐する」といった事態を招いてしまいもする。信教全般を駆逐するため
ではなく、邪教を駆逐することで正教を保護するためにこそ、信教の是正というものもまた必要とされるのである。
「昔中葉に在りて、震いて且つ業なるもの有り。允なる天子、卿士も降れり、実に維れ阿衡、実に商王に左右す」
「昔、(当時から見て)中世のころ、震撼するような大いなる神の業があった。殷の王が真の天子であったために、
諸国の公卿たちも心からそこに服した。ついには名臣伊尹までもが現れて、殷の王を左右から補佐したのだった。
(実物の帝業がありのままに『神の業』であるからこそ、東洋では政治史が重んじられて来てもいる。
本物の神の業というものを決して軽んじたりしてはならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・商頌・長発より)
奪って与え、害して施すマッチポンプを主体とした部類の文化文明こそは、
プラスマイナスゼロ以下のあるよりもないほうがマシな悪影響しか
この世にもたらさないままに終わることが決定付けられている。
そうであることがいま如実に現実化しているのが、ブラックアフリカのキリスト教国の
現状でもある。元はといえば完全な未開の土人社会であったところに、マッチポンプを
教理としたキリスト教圏の侵略の魔の手が襲い掛かり、以前にはあり得なかったような
大規模な飢饉や、近代兵装を用いての深刻な戦乱状態を来たすようになってしまった。
同様の侵略によって、経済面ではブラックアフリカ並みの疲弊状態に置かれてしまって
いる今のインドなども、麻薬汚染などのそれなりの問題を来たしてしまってはいるものの、
最悪級の飢餓や戦乱が常態化してしまっているブラックアフリカなどと比べれば、まだ
観光地として楽しめる程度の柔和さが保てていたりもする。それは、インド独自の
伝統文化がマッチポンプを主体としたものなどではなく、人々に逆境をものともしない
精神からの強さすら与えるものであったからで、そのような伝統文化によって聖書圏による
文化的な侵略を防止することを通じて、人災としての社会問題を未然に防げてもいるのだ。
地域によって程度の違いはあるものの、マッチポンプを究極的な志向としている聖書信仰が
この世にもたらしている影響は、どれもプラスマイナスゼロ以下の悪影響ばかりであり、
ただその受容が抑制や防止できている限りにおいて、多少なりともマシ以上であることが
あるばかりである。それは、物理的にもエントロピー増大則によってその絶対性が確証されて
いることであり、純粋な科学的発想に即して価値がないと見なすことができるものでもある。
エントロピーの増大が物理的に絶対的であるから、同程度の事物を構築することよりも
破壊することのほうが必ずたやすい。コップからこぼした水を元に戻すよりは、ただ
こぼすだけのほうが遥かに簡単なことであり、その簡単さに慣れてしまった以上は、
修復や構築を丹念に心がけていく困難さをどうしても疎かにしてしまいがちになる。
プラスマイナスゼロ以下のあるよりもないほうがマシな悪影響しか
この世にもたらさないままに終わることが決定付けられている。
そうであることがいま如実に現実化しているのが、ブラックアフリカのキリスト教国の
現状でもある。元はといえば完全な未開の土人社会であったところに、マッチポンプを
教理としたキリスト教圏の侵略の魔の手が襲い掛かり、以前にはあり得なかったような
大規模な飢饉や、近代兵装を用いての深刻な戦乱状態を来たすようになってしまった。
同様の侵略によって、経済面ではブラックアフリカ並みの疲弊状態に置かれてしまって
いる今のインドなども、麻薬汚染などのそれなりの問題を来たしてしまってはいるものの、
最悪級の飢餓や戦乱が常態化してしまっているブラックアフリカなどと比べれば、まだ
観光地として楽しめる程度の柔和さが保てていたりもする。それは、インド独自の
伝統文化がマッチポンプを主体としたものなどではなく、人々に逆境をものともしない
精神からの強さすら与えるものであったからで、そのような伝統文化によって聖書圏による
文化的な侵略を防止することを通じて、人災としての社会問題を未然に防げてもいるのだ。
地域によって程度の違いはあるものの、マッチポンプを究極的な志向としている聖書信仰が
この世にもたらしている影響は、どれもプラスマイナスゼロ以下の悪影響ばかりであり、
ただその受容が抑制や防止できている限りにおいて、多少なりともマシ以上であることが
あるばかりである。それは、物理的にもエントロピー増大則によってその絶対性が確証されて
いることであり、純粋な科学的発想に即して価値がないと見なすことができるものでもある。
エントロピーの増大が物理的に絶対的であるから、同程度の事物を構築することよりも
破壊することのほうが必ずたやすい。コップからこぼした水を元に戻すよりは、ただ
こぼすだけのほうが遥かに簡単なことであり、その簡単さに慣れてしまった以上は、
修復や構築を丹念に心がけていく困難さをどうしても疎かにしてしまいがちになる。
そうならないためには、わざわざコップから水をこぼしておいて後からくみ上げる
みたいな遊び心をさしはさむ不埒さを根こそぎ排していくしかない。わざわざコップの
水をこぼしたりせずに、始めからこぼしたりしないようにする慎重さを保ったままでいる、
そういった努力精進の積み重ねだけが、エントロピーの増大が遍在するこの世界において
プラスマイナスゼロ以上の成果を挙げる糧ともなるのだから、わざわざ必要もなくあえて
好き好んで自分からコップの水をこぼすようなマッチポンプを許していいわけがないのである。
信教ではなく、国家規模の為政のあり方としてマッチポンプに相当するのが覇道(覇権主義)
であり、無為自然のままであればそれでいい所にわざわざ征服の魔の手を広げて行って、
それで征服地の安全を保障したりすることが典型的なマッチポンプとなっている。この逆を
行くのが王道であり、自分たちからの外界侵略は徹底して自制する一方、自国内の統治には
手塩をかけて、諸外国が自然と自分たちのあり方に随順して行こうとするようにもなったり
することを目指す。こちらは、マッチポンプの「マッチ」となる外界侵略を一切介すること
なく天下の泰平統治を企図しているものだから、マッチポンプの条件を満たしてはおらず、
故に、世の中にプラマイゼロ以上の好影響をも及ぼし得ることが決定付けられてもいる。
「大道廃れて仁義あり」という物言いで、老子も王道統治と覇道支配の対立を両成敗しては
いるけれども、王道統治には世の中にプラマイゼロ以上の好影響を及ぼすことが可能である
一方、覇道支配にはそれが不可能であり、ただ専ら悪影響ばかりを及ぼすしかないといった
両者の相違は厳然としてあるものである。覇権主義による世の中の荒廃が極まって、破滅の危機に
まで陥ってしまった時に、否応なく王道統治に切り替えての修復を試みていくとすればこれはもう
一つの「縁起」であるといえ、もはや仏法の真理にすら即しているともいえるから、仏教よりは
ずいぶんと大雑把な真理の概括を取り扱っているだけの老荘なども押し黙るほかはないといえる。
みたいな遊び心をさしはさむ不埒さを根こそぎ排していくしかない。わざわざコップの
水をこぼしたりせずに、始めからこぼしたりしないようにする慎重さを保ったままでいる、
そういった努力精進の積み重ねだけが、エントロピーの増大が遍在するこの世界において
プラスマイナスゼロ以上の成果を挙げる糧ともなるのだから、わざわざ必要もなくあえて
好き好んで自分からコップの水をこぼすようなマッチポンプを許していいわけがないのである。
信教ではなく、国家規模の為政のあり方としてマッチポンプに相当するのが覇道(覇権主義)
であり、無為自然のままであればそれでいい所にわざわざ征服の魔の手を広げて行って、
それで征服地の安全を保障したりすることが典型的なマッチポンプとなっている。この逆を
行くのが王道であり、自分たちからの外界侵略は徹底して自制する一方、自国内の統治には
手塩をかけて、諸外国が自然と自分たちのあり方に随順して行こうとするようにもなったり
することを目指す。こちらは、マッチポンプの「マッチ」となる外界侵略を一切介すること
なく天下の泰平統治を企図しているものだから、マッチポンプの条件を満たしてはおらず、
故に、世の中にプラマイゼロ以上の好影響をも及ぼし得ることが決定付けられてもいる。
「大道廃れて仁義あり」という物言いで、老子も王道統治と覇道支配の対立を両成敗しては
いるけれども、王道統治には世の中にプラマイゼロ以上の好影響を及ぼすことが可能である
一方、覇道支配にはそれが不可能であり、ただ専ら悪影響ばかりを及ぼすしかないといった
両者の相違は厳然としてあるものである。覇権主義による世の中の荒廃が極まって、破滅の危機に
まで陥ってしまった時に、否応なく王道統治に切り替えての修復を試みていくとすればこれはもう
一つの「縁起」であるといえ、もはや仏法の真理にすら即しているともいえるから、仏教よりは
ずいぶんと大雑把な真理の概括を取り扱っているだけの老荘なども押し黙るほかはないといえる。
「六尺の孤を以って託す可く、百里の命を以って寄すべくも、
大節に臨みて奪う可からず。君子人なるか、君子人なり」
「身長六尺(約130cm)程度の幼い若君の摂政を任せることもできれば、
百里を超えるような大国の政令権を寄与することもできるが、大事を任せるから
といって今までの志操を奪い去ることもできない。これこそは君子たる者ではなかろうか。
君子たる者であろう。(君子に身勝手なナギブアンドテイクなどは通用しない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・六より)
大節に臨みて奪う可からず。君子人なるか、君子人なり」
「身長六尺(約130cm)程度の幼い若君の摂政を任せることもできれば、
百里を超えるような大国の政令権を寄与することもできるが、大事を任せるから
といって今までの志操を奪い去ることもできない。これこそは君子たる者ではなかろうか。
君子たる者であろう。(君子に身勝手なナギブアンドテイクなどは通用しない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・六より)
生き物が死ぬのは悲しいことだが、死の先にあるものこそは「仏」でもある。
その仏と同等の状態を生前から会得するが人間にとっての「悟り」であり、
生きてる内からの悟り(成道、有余涅槃)によってこそ、人は生死の迷いを脱することができる。
死後の状態を会得するのが悟りではあるが、悟りそのものは生前に得るものこそが如実である。
一人の人間が自分一代のうちに悟りを拓いて、常道者としての健全な活動などに臨んだ後、死に至る。
そこに「死んで生き返る」などという要素は当然伴っておらず、なおかつ「生きているからこそ迷いを
脱せている」などということもない。生か死かなんていう尺度ではとうてい計り知ることのできない所に
悟りとか涅槃とかいったものはあるのであり、そのあり方こそはありのままに中道にも適っているといえる。
悟りを拓いたからといって、それ以降には死んだような生を送るというのでもない。
むしろ、根本的な迷いを晴らしたがための、心の底からの快活な生と文句のない死に与ることができる。
確かに、旺盛な生を送ろうとすることが、聖書信者のような迷いまみれの生に繋がってしまうことも
あるわけだが、同様かそれ以上にも旺盛な人生というものを悟り並みの達観と共に送ったならば、
>>85に引用した曾子の言葉にも沿うような、盛大かつ健全な生が送れたりもするのである。
度し難いのは、最悪の迷いの中での動顚こそを「救い」だなどと勘違いしてしまうことである。
磔刑への恐怖に駆られて気が動顚してまともな感情を失ってしまうことなどもその一つであり、
さらに悪いことには、世の中が総出を挙げてそれこそを悟り並みの扱いにすらしてしまったりもする。
確かに人間が悟りを拓けるということも、動顚によってまともな感情を失ってしまうことがあると
いうことも、いずれも人間という生き物の器質的な構造に根ざした普遍法則ではある。ただ、どちらの
ほうが健全でどちらのほうが不健全かといえば、当然悟りのほうが健全であり、動顚のほうが不健全である。
その仏と同等の状態を生前から会得するが人間にとっての「悟り」であり、
生きてる内からの悟り(成道、有余涅槃)によってこそ、人は生死の迷いを脱することができる。
死後の状態を会得するのが悟りではあるが、悟りそのものは生前に得るものこそが如実である。
一人の人間が自分一代のうちに悟りを拓いて、常道者としての健全な活動などに臨んだ後、死に至る。
そこに「死んで生き返る」などという要素は当然伴っておらず、なおかつ「生きているからこそ迷いを
脱せている」などということもない。生か死かなんていう尺度ではとうてい計り知ることのできない所に
悟りとか涅槃とかいったものはあるのであり、そのあり方こそはありのままに中道にも適っているといえる。
悟りを拓いたからといって、それ以降には死んだような生を送るというのでもない。
むしろ、根本的な迷いを晴らしたがための、心の底からの快活な生と文句のない死に与ることができる。
確かに、旺盛な生を送ろうとすることが、聖書信者のような迷いまみれの生に繋がってしまうことも
あるわけだが、同様かそれ以上にも旺盛な人生というものを悟り並みの達観と共に送ったならば、
>>85に引用した曾子の言葉にも沿うような、盛大かつ健全な生が送れたりもするのである。
度し難いのは、最悪の迷いの中での動顚こそを「救い」だなどと勘違いしてしまうことである。
磔刑への恐怖に駆られて気が動顚してまともな感情を失ってしまうことなどもその一つであり、
さらに悪いことには、世の中が総出を挙げてそれこそを悟り並みの扱いにすらしてしまったりもする。
確かに人間が悟りを拓けるということも、動顚によってまともな感情を失ってしまうことがあると
いうことも、いずれも人間という生き物の器質的な構造に根ざした普遍法則ではある。ただ、どちらの
ほうが健全でどちらのほうが不健全かといえば、当然悟りのほうが健全であり、動顚のほうが不健全である。
悟りは人としての一種のあるべき姿であるとすら言える一方、動顚はなるべくないようにすべきものである。
万人が悟りを拓いている世の中などというのもなかなかあり得ないことではあるが、一家に一人、
一集落に一人ぐらいは悟りを拓けた人間がいれば、それが家や村の繁栄の礎ともなる。もしも国家が
総出を挙げて大悟者を増産するための仏門の興隆を企図したならば、それが永年にわたる繁栄を約束する
ことともなるので、歴史的にそういった事業が幾度にも渡って試みられてきた。一方、人々に動顚を
促すような邪教たるや、国家や王家の引っ切り無しの興亡を征服圏に強い続けて来たわけで、悟りと動顚、
それぞれが人と世にもたらす影響の好悪の如何たるや、人類の歴史こそがそれを実証して来ているともいえる。
人間が生存中からの悟りを志すこともまた、コップの水を予めこぼさないでいるようにするような、
エントロピー増大則への適切な対処であるといえる。人間、ただただ生きれば迷いに見舞われる、最悪、
恐怖が極まっての動顚あたりにしか救いを求めることができなくなってしまったりもいる。そうならないために
あらかじめ悟りによって迷いを克服しておくということもまた、人間が生きるということに対する最善の対処で
あるといえ、迷いを増長させた挙句に動顚での虚構の救いを施したりすることは、比較的最善ではないといえる。
今回は「悟りと動顚」という、儒学の領域からはかけ離れた論議に及んでしまったけれども、動顚を促すような
邪教を排して、悟りを促す正教のみを振興して行くためには結局、無宗教の権力者こそがそれを心がける必要がある。
悟りを促すような正教こそは権力に取り入ったりもしたがらない一方、動顚を促すような邪教こそは
国家権力すらをも征服の対象などにしようとするものだから、まず権力者こそはいかなる宗教にも翻弄されない
立派な徳治者でいて、そこからトップダウンに邪教を排して正教を優遇していくようにすることが必要になる。
悟りも動顚も客観視して冷静な比較の対象とした以上のような論議自体、寺社奉行的な観点にも即している。
万人が悟りを拓いている世の中などというのもなかなかあり得ないことではあるが、一家に一人、
一集落に一人ぐらいは悟りを拓けた人間がいれば、それが家や村の繁栄の礎ともなる。もしも国家が
総出を挙げて大悟者を増産するための仏門の興隆を企図したならば、それが永年にわたる繁栄を約束する
ことともなるので、歴史的にそういった事業が幾度にも渡って試みられてきた。一方、人々に動顚を
促すような邪教たるや、国家や王家の引っ切り無しの興亡を征服圏に強い続けて来たわけで、悟りと動顚、
それぞれが人と世にもたらす影響の好悪の如何たるや、人類の歴史こそがそれを実証して来ているともいえる。
人間が生存中からの悟りを志すこともまた、コップの水を予めこぼさないでいるようにするような、
エントロピー増大則への適切な対処であるといえる。人間、ただただ生きれば迷いに見舞われる、最悪、
恐怖が極まっての動顚あたりにしか救いを求めることができなくなってしまったりもいる。そうならないために
あらかじめ悟りによって迷いを克服しておくということもまた、人間が生きるということに対する最善の対処で
あるといえ、迷いを増長させた挙句に動顚での虚構の救いを施したりすることは、比較的最善ではないといえる。
今回は「悟りと動顚」という、儒学の領域からはかけ離れた論議に及んでしまったけれども、動顚を促すような
邪教を排して、悟りを促す正教のみを振興して行くためには結局、無宗教の権力者こそがそれを心がける必要がある。
悟りを促すような正教こそは権力に取り入ったりもしたがらない一方、動顚を促すような邪教こそは
国家権力すらをも征服の対象などにしようとするものだから、まず権力者こそはいかなる宗教にも翻弄されない
立派な徳治者でいて、そこからトップダウンに邪教を排して正教を優遇していくようにすることが必要になる。
悟りも動顚も客観視して冷静な比較の対象とした以上のような論議自体、寺社奉行的な観点にも即している。
「天子は介なし」
「天子には仲介者として取り成すものは付かない。
(仲介は来賓のために行うもの。天子は天下全土を治められる立場であるから、
他人行儀な仲介役などを立てたりすることはない。商人の作法などとは別格な所。
仲介神ヘルメスを多用するギリシャ神話の神などもこれには至らない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼器第十より)
「天子には仲介者として取り成すものは付かない。
(仲介は来賓のために行うもの。天子は天下全土を治められる立場であるから、
他人行儀な仲介役などを立てたりすることはない。商人の作法などとは別格な所。
仲介神ヘルメスを多用するギリシャ神話の神などもこれには至らない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼器第十より)
「人の生けるは直ければなり、之れを罔いて生けるは、幸いにして免るるなり(既出)」
「人が生きていられるのは正直だからだ。それを歪めて生きているのは、まぐれで助かっているだけだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・十九より)
上記の孔子の言葉は、「邪曲で生き延びている人間はまぐれで助かっている」と述べている点が、
多少の謙遜や辞譲が込められている部分だといえる。実際には、まぐれで助かっているようなことすらない。
正直を貫くことで着実に生きている人々の貯金を掠め取ることでこそ、邪曲を本分としているような
人間も何とか生き延びられている。自分たちの他に、正直に生きている人間など一人もいないというので
あれば、そんな連中もとっくの昔に死に絶えてしまっているのであり、他者を余分に養える程にも正直の
限りを尽くして生きている人間こそは、邪曲と共に生き延びている連中の飼い主であるとすら言えるのである。
物理的にもあり得なければ、道徳的にも決してあるべきでないような嘘偽りの限りを尽くした邪教である
聖書信仰が西洋社会を文化的に征服した最初期の頃、やはり西洋は社会的に極端な停滞状態に見舞われた。
共にキリスト教の征服下にあった中東社会がイスラム教の創始によってキリスト教を撃退して後、
しばらくして、キリスト教徒による初めての大々的な外界侵略としての十字軍遠征が勃発した。
その口実は「聖徒エルサレムの異教徒からの奪還」などというものではあったが、実質上は、
自分たちキリスト教徒が経済的な困窮に駆られての強奪目的であるというのが主だった理由であった。
だからこそ、中世以降は自分たちにとっての聖地でも何でもない世界中の土地を侵略植民してまわり、
近現代以降は、聖地であるはずのエルサレムをすでに強奪しておきながら、それ以降も中東諸国への
侵略戦争を繰り返すといった本末転倒の所業にすら及んでもいる。結局、嘘偽りの限りを尽くした邪教を
金科玉条に祭り上げているような連中が、自分たちだけで経済的にやって来られたようなことからして
大昔からなかったのであり、勢力規模でも邪教圏を遥かに上回るような「正直を旨とした人々の集まり」
が他にあったればこそ、地球人類もこれまで邪教に自滅させられることもなくやって来られたのだといえる。
「人が生きていられるのは正直だからだ。それを歪めて生きているのは、まぐれで助かっているだけだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・十九より)
上記の孔子の言葉は、「邪曲で生き延びている人間はまぐれで助かっている」と述べている点が、
多少の謙遜や辞譲が込められている部分だといえる。実際には、まぐれで助かっているようなことすらない。
正直を貫くことで着実に生きている人々の貯金を掠め取ることでこそ、邪曲を本分としているような
人間も何とか生き延びられている。自分たちの他に、正直に生きている人間など一人もいないというので
あれば、そんな連中もとっくの昔に死に絶えてしまっているのであり、他者を余分に養える程にも正直の
限りを尽くして生きている人間こそは、邪曲と共に生き延びている連中の飼い主であるとすら言えるのである。
物理的にもあり得なければ、道徳的にも決してあるべきでないような嘘偽りの限りを尽くした邪教である
聖書信仰が西洋社会を文化的に征服した最初期の頃、やはり西洋は社会的に極端な停滞状態に見舞われた。
共にキリスト教の征服下にあった中東社会がイスラム教の創始によってキリスト教を撃退して後、
しばらくして、キリスト教徒による初めての大々的な外界侵略としての十字軍遠征が勃発した。
その口実は「聖徒エルサレムの異教徒からの奪還」などというものではあったが、実質上は、
自分たちキリスト教徒が経済的な困窮に駆られての強奪目的であるというのが主だった理由であった。
だからこそ、中世以降は自分たちにとっての聖地でも何でもない世界中の土地を侵略植民してまわり、
近現代以降は、聖地であるはずのエルサレムをすでに強奪しておきながら、それ以降も中東諸国への
侵略戦争を繰り返すといった本末転倒の所業にすら及んでもいる。結局、嘘偽りの限りを尽くした邪教を
金科玉条に祭り上げているような連中が、自分たちだけで経済的にやって来られたようなことからして
大昔からなかったのであり、勢力規模でも邪教圏を遥かに上回るような「正直を旨とした人々の集まり」
が他にあったればこそ、地球人類もこれまで邪教に自滅させられることもなくやって来られたのだといえる。
それでももう、これ以上いままでのやり方でやっていけるようなこともないのである。
自分たちよりも多数派であるような正しい人々に経済的に依存することで初めて、今まで生き延びて
来られた邪宗門の帰依者たちが、さらには、他人への依存ではなく神への帰依によってこそ自分たちが
生き延びて来られたなどとすら思い込んでいる、これこそは、もう決して存続していくことが許されない
悪習だといえる。そんな風に思い込んでいればこそ、何らの後ろめたさも抱くことなく、他者への経済的依存に
頼りきりでの生き延びを続けていくことができる。ただ続けていくことができるのみならず、他者を困窮から
なる人口爆発に追いやってまで自分たちの栄華を貪るほどもの、不埒な貪欲さまでをも保ったままでいるのである。
実際には、神への帰依などではなく、正しい生き方に務めている異教徒への経済的な依存によってこそ
生き延びてきた。その現実を直視して心底から恥を知り、経済的依存ありきな自分たちの生き方から改めて行く。
そのためには当然、他者への経済的依存を神への帰依に掏り返るような邪教を破棄して行くことも必要である。
他人への恩義は虚構の神が掠め取り、恩ある相手は敵扱いとする、致命的な恩知らず助長の邪教、そんな
ものを許容し続けていけるほどに、他人行儀ばかりでやっていけるほど、もうこの世界も広くはないのである。
「帝曰く、咨、四岳、能く朕の三礼を典る有らんか。僉な曰く、伯夷と。
帝曰く、兪り。咨、伯、汝秩宗と作れ。夙夜惟れ寅み、直からん哉、惟れ清なれ」
「舜帝は言われた。『四岳(堯舜の重臣団)よ、私の天地人にまつわる典礼を正しく司れる者はいないだろうか』
みな口を揃えて『それは伯夷です』と答えた。舜帝は言われた。『よろしい、伯夷よ、汝こそは典礼を司る祭祀長となれ。
朝早くから夜遅くまで、清く正しくその役目に励んでくれ』(天地人の三礼うちの『人』が祖霊を祀る典礼だから、祖先の
正業を継ぎ、過ちを繰り返さないことにかけても清く正しくあらねばならない。清く正しくあるべき道というものがある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)
自分たちよりも多数派であるような正しい人々に経済的に依存することで初めて、今まで生き延びて
来られた邪宗門の帰依者たちが、さらには、他人への依存ではなく神への帰依によってこそ自分たちが
生き延びて来られたなどとすら思い込んでいる、これこそは、もう決して存続していくことが許されない
悪習だといえる。そんな風に思い込んでいればこそ、何らの後ろめたさも抱くことなく、他者への経済的依存に
頼りきりでの生き延びを続けていくことができる。ただ続けていくことができるのみならず、他者を困窮から
なる人口爆発に追いやってまで自分たちの栄華を貪るほどもの、不埒な貪欲さまでをも保ったままでいるのである。
実際には、神への帰依などではなく、正しい生き方に務めている異教徒への経済的な依存によってこそ
生き延びてきた。その現実を直視して心底から恥を知り、経済的依存ありきな自分たちの生き方から改めて行く。
そのためには当然、他者への経済的依存を神への帰依に掏り返るような邪教を破棄して行くことも必要である。
他人への恩義は虚構の神が掠め取り、恩ある相手は敵扱いとする、致命的な恩知らず助長の邪教、そんな
ものを許容し続けていけるほどに、他人行儀ばかりでやっていけるほど、もうこの世界も広くはないのである。
「帝曰く、咨、四岳、能く朕の三礼を典る有らんか。僉な曰く、伯夷と。
帝曰く、兪り。咨、伯、汝秩宗と作れ。夙夜惟れ寅み、直からん哉、惟れ清なれ」
「舜帝は言われた。『四岳(堯舜の重臣団)よ、私の天地人にまつわる典礼を正しく司れる者はいないだろうか』
みな口を揃えて『それは伯夷です』と答えた。舜帝は言われた。『よろしい、伯夷よ、汝こそは典礼を司る祭祀長となれ。
朝早くから夜遅くまで、清く正しくその役目に励んでくれ』(天地人の三礼うちの『人』が祖霊を祀る典礼だから、祖先の
正業を継ぎ、過ちを繰り返さないことにかけても清く正しくあらねばならない。清く正しくあるべき道というものがある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)

IQ40以下にまで知能を低下させてしまうというのも、人間にとっての一つの生理現象であるわけだから、
そのような手品を駆使することで「神からの掲示」などをうそぶく者がいた場合に、
本当にそうであるかのように思い込まれたりもし得るのである。
そのような手品に特に引っかかりやすいのは白人や黒人であり、
黄色人種や有色コーカソイドは一切引っかからないこともないにしろ、なかなか引っかかりにくい。
前者二人種は地球社会の西方を伝統的な居住地としているのに対し、後者二人種は東方を伝統的な居住地として来ている。
日出ずる東方を居住地に選んだか、日没する西方を居住地に選んだかが、両者の精神力の高低を決定的に分かったらしく、
精神薄弱に取り入って人々をだまくらかすような邪教への耐性の有無をも大きく左右したのだった。
黄色人種や有色コーカソイドを主体とする東洋人のほうはといえば、
精神薄弱と極度の恐怖が相まっての知能低下などには見舞われにくい一方で、
「知能の重心を適正化することでの濁念の克服」を得意ともしている。それがいわゆる「悟り」というものであり、
コンピュータのファイルの適正化(デフラグ)などとも原理的には似たものである。
原理を指し示してみたからといって、悟りが「粗末な手品」だなんてこともなく、
パソコンも定期的なデフラグを欠かさないでいるべきなのと同じように、人間も悟りを拓かないよりは拓いていたほうがよい。
別に「キリストの救い」などのように知能を低下させての現実逃避などに及ぶわけでもなく、
むしろ知能を最善級に有効活用させた思考が活性化すらされるわけだから、奨励に値しない理由などというものもないわけである。
人間が知能を適正化することで濁念を克服できるということも、精神薄弱と恐怖の相乗効果によって
知能をチンパンジー以下にまで低下させられるということも、人種の違いによる適性の差違もまたあるにしろ、
それなりに普遍的な人間にとっての生理現象であることには変わりない。しかも、
いずれも本人たちにとっての致命的な健康被害を及ぼすものでまではなかったりもする。
日々の礼拝で知能低下を慣習付けているキリスト教徒が、だからといって異教徒よりも短命だなんてこともない。
悟りも拓かずにただ知能を博覧強記化させたりするよりは、それなりに脳を休ませる習慣を持ち合わせているほうが
認知症への罹患なども防げるようであり、知能を低下させることも悪いことばかりではないようである。
ただ、ひっきりなしに自らの知能をチンパンジー以下にまで低下させているような人間が
我が物顔でいるような世の中のほうが破綻して立ち行かなくなるという問題性は厳然としてあるわけで、
だからこそそんな悪習の持ち主を世の中にのさばらせていてはならないことには違いない。
悟りもまた、知能の適正化によって脳への過度の負担を抑制する効果があるから、ボケ防止のためにも奨励できる。
(高齢となった晩年に至るまで聡明であった名僧の逸話なども多い)
なおかつ悟りのほうには、知能を乱高下させることで世の中に多大なる迷惑をかけるような
問題性も帯びていないわけだから、それこそ「キリストの救い」の代替としても文句なしなものだといえる。
知能を乱高下させる慣習に慣れて来たキリスト教徒などにとって、
一定以上の知能や精神力でい続けることには「面倒さ」ばかりが先入観として抱けるものだろう。
ただ知能や精神力を保つだけなら、面倒に違いない。さらにその先に悟りを拓くことで、
一定以上の知能や精神力の下でこそ無上の安楽を得るようにすればよい。
知能低下の快楽に慣れてしまっているキリスト教徒などにとってこそ、そこまでをも目指すことが必須とすらなるであろう。
「心を動かし性を忍ばせ、其の能くせざる所を曾益せしむ。(既出だが、前文の引用のためについでに引用した部分)」
「(何もうまくいかない中に)よく心を動かして性情を忍ばせて、至らない部分を埋め合わせて行く。
(孟子は同時に達観者の境地としての『不動心』を提示してもいる。心を動かし行う所があるのは、未熟な証拠である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・一五より)
悟りも拓かずにただ知能を博覧強記化させたりするよりは、それなりに脳を休ませる習慣を持ち合わせているほうが
認知症への罹患なども防げるようであり、知能を低下させることも悪いことばかりではないようである。
ただ、ひっきりなしに自らの知能をチンパンジー以下にまで低下させているような人間が
我が物顔でいるような世の中のほうが破綻して立ち行かなくなるという問題性は厳然としてあるわけで、
だからこそそんな悪習の持ち主を世の中にのさばらせていてはならないことには違いない。
悟りもまた、知能の適正化によって脳への過度の負担を抑制する効果があるから、ボケ防止のためにも奨励できる。
(高齢となった晩年に至るまで聡明であった名僧の逸話なども多い)
なおかつ悟りのほうには、知能を乱高下させることで世の中に多大なる迷惑をかけるような
問題性も帯びていないわけだから、それこそ「キリストの救い」の代替としても文句なしなものだといえる。
知能を乱高下させる慣習に慣れて来たキリスト教徒などにとって、
一定以上の知能や精神力でい続けることには「面倒さ」ばかりが先入観として抱けるものだろう。
ただ知能や精神力を保つだけなら、面倒に違いない。さらにその先に悟りを拓くことで、
一定以上の知能や精神力の下でこそ無上の安楽を得るようにすればよい。
知能低下の快楽に慣れてしまっているキリスト教徒などにとってこそ、そこまでをも目指すことが必須とすらなるであろう。
「心を動かし性を忍ばせ、其の能くせざる所を曾益せしむ。(既出だが、前文の引用のためについでに引用した部分)」
「(何もうまくいかない中に)よく心を動かして性情を忍ばせて、至らない部分を埋め合わせて行く。
(孟子は同時に達観者の境地としての『不動心』を提示してもいる。心を動かし行う所があるのは、未熟な証拠である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・一五より)
体系的な実物の仁政というものを知る者からすれば、人々を虐げておいて
救済を施すようなマッチポンプの虐政を働くことも、施されることも恥辱の限りである。
もしもそれを誇ったり嬉しがったりしたとしたなら、それも「恥の上塗り」というものであり、
本人たち自身の気休めになるようなことがあろうとも、客観的に見た場合の惨めさまでをも覆い隠せるものでない。
マッチポンプが何らの名誉ともならないのは、当然「一旦だけでも虐げられた」という前科が伴うからでもある。
未熟者が成長のための試練として虐げられるのでもなければ、罪人が処罰を被るために虐げられるというのでもなく、
一人前の大人が虐げられるというのでは、たとえ後々に救われるのであっても恥辱となることには変わりない。
我が子や後輩に対して顔向けもできなくなるような恥辱を加えられたままでいさせられることになるのには
違いないから、自らが名誉を取り戻すためには、虐げを加えてきた者への借りをしっかりと返さねばならない。
家康公がまだ幼名の竹千代を名乗っていた頃、始めは今川の人質となり、次いで織田の人質となるという、
弱小大名の倅としてのそれはそれは不遇な処遇を被っていた。その頃の借りも、家康公は適切な範囲で返している。
今川は信長が滅ぼして、家康公の下には今川の娘の正室・築山殿が残された。その築山殿を「信長からの命」
という範囲によって謀殺し、また信長の死後には、その子孫を外様大名としてそれなりの扱いに処してもいる。
結局、これらの対応は、自らが幼少期の頃に辱めを受けた相手に対する応対としてこそ適切なものとなっている。
自らがすでに成長して大大名となってから、大勢の目前で土下座させるなどの恥辱を味わわせた
豊臣秀吉の残党などに対しては容赦ない追討を加えたが、これも一人前の大人となってからの
自分に対して恥辱を加えた相手に対する処遇としては、適切なものとなっている。
江戸幕府の創始者となった家康公こそは、幼少期から数多の辛酸を舐めさせられながら、その借りを返す形で
天下を平らげていった経歴の持ち主だったものだから、その家康公を模範としていた江戸時代の日本人もまた、
恥とは何か、恥をかかされた場合の返し方はいかなるものであるべきかということをよく研究しぬいていた。
救済を施すようなマッチポンプの虐政を働くことも、施されることも恥辱の限りである。
もしもそれを誇ったり嬉しがったりしたとしたなら、それも「恥の上塗り」というものであり、
本人たち自身の気休めになるようなことがあろうとも、客観的に見た場合の惨めさまでをも覆い隠せるものでない。
マッチポンプが何らの名誉ともならないのは、当然「一旦だけでも虐げられた」という前科が伴うからでもある。
未熟者が成長のための試練として虐げられるのでもなければ、罪人が処罰を被るために虐げられるというのでもなく、
一人前の大人が虐げられるというのでは、たとえ後々に救われるのであっても恥辱となることには変わりない。
我が子や後輩に対して顔向けもできなくなるような恥辱を加えられたままでいさせられることになるのには
違いないから、自らが名誉を取り戻すためには、虐げを加えてきた者への借りをしっかりと返さねばならない。
家康公がまだ幼名の竹千代を名乗っていた頃、始めは今川の人質となり、次いで織田の人質となるという、
弱小大名の倅としてのそれはそれは不遇な処遇を被っていた。その頃の借りも、家康公は適切な範囲で返している。
今川は信長が滅ぼして、家康公の下には今川の娘の正室・築山殿が残された。その築山殿を「信長からの命」
という範囲によって謀殺し、また信長の死後には、その子孫を外様大名としてそれなりの扱いに処してもいる。
結局、これらの対応は、自らが幼少期の頃に辱めを受けた相手に対する応対としてこそ適切なものとなっている。
自らがすでに成長して大大名となってから、大勢の目前で土下座させるなどの恥辱を味わわせた
豊臣秀吉の残党などに対しては容赦ない追討を加えたが、これも一人前の大人となってからの
自分に対して恥辱を加えた相手に対する処遇としては、適切なものとなっている。
江戸幕府の創始者となった家康公こそは、幼少期から数多の辛酸を舐めさせられながら、その借りを返す形で
天下を平らげていった経歴の持ち主だったものだから、その家康公を模範としていた江戸時代の日本人もまた、
恥とは何か、恥をかかされた場合の返し方はいかなるものであるべきかということをよく研究しぬいていた。
結局、恥を漱ぐためにこそ、それなりの忍耐が必要であるということを誰しもがわきまえてもいた。
赤穂浪士の面々も、早々とした吉良への仇討ちを欲してはいたものの、上杉家も背後にある高家吉良への
仕返しが生半可な試みによって成し遂げられるはずもないことが分かっていたものだから、一年九ヶ月にも
およぶ綿密な下調べや計画立ての後に初めて一挙に及ぶことで、吉良への仇討ちをも完遂させたのだった。
恥辱を加えられた相手をただ許さないというのも、ただ許すというのも、安易なことである。的確に恥辱を晴らす
ための処理を講ずるということこそは最も難儀なことであり、そこでこそ最大級の忍耐をも必要とするのである。
的確に恥辱を晴らすことと比べれば、恥辱を加えられた相手をただ許すことすら安易なことでしかないから、
マッチポンプで加えられた恥辱を許したりすることも恥の上塗りにしかならないのである。体系的な
仇討ちという文化の存在しない地域では、それこそ相手を許すことばかりが至上の美談みたいにすら
扱わたりしていたわけだが、それこそ未開の部落社会でしか通用しない、恥ずべき悪習であったといえる。
ちゃんと恥を漱いだ先にこそ、何の後残りもない清清しさが得られもするからこそ、それを目指せする。
その清清しさを知っているからこそ、自らの恥辱を晴らせもせずにただ相手を許したりすることにも
耐え難い不快感を抱き、「決してこのままでは終わらせまい」と決意もできる。恨みがあるからというよりは、
ただ気分を晴らしたいからというぐらいの心持ちであり、恥を漱ぐべき必要性はむしろ、実際問題としての
名誉回復による権益の確保とかいった所にこそある。それがマッチポンプの一環として被った恥であるというのなら、
マッチポンプがプラマイゼロ以下の悪影響しかもたらさないという実際的な公共性に即して漱がれるべきでもある。
「小恵を思いて大恥を忘る。戦うにも如かず」
「目先の恵みに囚われて(かつて受けた)大恥をも忘れてしまっている。対戦相手にすらならない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十八年より)
赤穂浪士の面々も、早々とした吉良への仇討ちを欲してはいたものの、上杉家も背後にある高家吉良への
仕返しが生半可な試みによって成し遂げられるはずもないことが分かっていたものだから、一年九ヶ月にも
およぶ綿密な下調べや計画立ての後に初めて一挙に及ぶことで、吉良への仇討ちをも完遂させたのだった。
恥辱を加えられた相手をただ許さないというのも、ただ許すというのも、安易なことである。的確に恥辱を晴らす
ための処理を講ずるということこそは最も難儀なことであり、そこでこそ最大級の忍耐をも必要とするのである。
的確に恥辱を晴らすことと比べれば、恥辱を加えられた相手をただ許すことすら安易なことでしかないから、
マッチポンプで加えられた恥辱を許したりすることも恥の上塗りにしかならないのである。体系的な
仇討ちという文化の存在しない地域では、それこそ相手を許すことばかりが至上の美談みたいにすら
扱わたりしていたわけだが、それこそ未開の部落社会でしか通用しない、恥ずべき悪習であったといえる。
ちゃんと恥を漱いだ先にこそ、何の後残りもない清清しさが得られもするからこそ、それを目指せする。
その清清しさを知っているからこそ、自らの恥辱を晴らせもせずにただ相手を許したりすることにも
耐え難い不快感を抱き、「決してこのままでは終わらせまい」と決意もできる。恨みがあるからというよりは、
ただ気分を晴らしたいからというぐらいの心持ちであり、恥を漱ぐべき必要性はむしろ、実際問題としての
名誉回復による権益の確保とかいった所にこそある。それがマッチポンプの一環として被った恥であるというのなら、
マッチポンプがプラマイゼロ以下の悪影響しかもたらさないという実際的な公共性に即して漱がれるべきでもある。
「小恵を思いて大恥を忘る。戦うにも如かず」
「目先の恵みに囚われて(かつて受けた)大恥をも忘れてしまっている。対戦相手にすらならない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十八年より)
削除(by投稿者)
うらみ、恥へのうらみは昔から誰でも悩ましいが
生理現象、腹がすく暑い寒いと同じ感覚と考えて自分の中ではスルーすることもあるな。
一方で外に対してはアスペ並みに一切の融通を利かせてないつもりだ。
生理現象、腹がすく暑い寒いと同じ感覚と考えて自分の中ではスルーすることもあるな。
一方で外に対してはアスペ並みに一切の融通を利かせてないつもりだ。
今日は忍術聖書、正忍記
諜報に携わるものとして最も大事なのは具体的な情報であり、
占いや心理分析でもない。経験に基づく洞察よりも具体的な情報の方が大事である。
しかしながらどうしても身に着けなければならない、基本的な
小学生レベルの簡単な洞察的素養も存在する。
その正体はまだ明かさないが、
それがなければ、具体的な情報の姿をした偽情報にいともたやすく
騙されることになる。
それが出来ない人間、組織は、勇敢で知性があって愛情深くても
謀略機関の走狗に過ぎない。
それは簡単な事で七情七欲の理というものであり、自分の七情つまり喜怒哀楽、
具体的には煽て、同情させ、憤怒の念を抱かせ、脅すということ。
七欲つまり食欲、性欲、金銭欲等である。
そもそも謀略の基本の一つは相手のこれらの感情(七情七欲)を利用することであり、
つまり謀略の受け手は自分の感情(七情七欲)を見張り、そこにセンサーをつけ、
自分自身の心を見張らなければならない。ハリウッドの感動ヒューマン映画を
見ても自分の感動を疑うほどである。
小野田少尉は鈴木紀夫青年が救出に来たときに、青年を毒マンジュウだと思ったという。
「毒マンジュウ」とは見た目はおいしいが食べると死ぬということである。
30年間の潜伏、地形の把握、住民の心理の把握、そして機を見ての
ゲリラ戦を想定していた者の疑い深さである。
これは生存欲、に対する対処なのかもしれない。
諜報に携わるものとして最も大事なのは具体的な情報であり、
占いや心理分析でもない。経験に基づく洞察よりも具体的な情報の方が大事である。
しかしながらどうしても身に着けなければならない、基本的な
小学生レベルの簡単な洞察的素養も存在する。
その正体はまだ明かさないが、
それがなければ、具体的な情報の姿をした偽情報にいともたやすく
騙されることになる。
それが出来ない人間、組織は、勇敢で知性があって愛情深くても
謀略機関の走狗に過ぎない。
それは簡単な事で七情七欲の理というものであり、自分の七情つまり喜怒哀楽、
具体的には煽て、同情させ、憤怒の念を抱かせ、脅すということ。
七欲つまり食欲、性欲、金銭欲等である。
そもそも謀略の基本の一つは相手のこれらの感情(七情七欲)を利用することであり、
つまり謀略の受け手は自分の感情(七情七欲)を見張り、そこにセンサーをつけ、
自分自身の心を見張らなければならない。ハリウッドの感動ヒューマン映画を
見ても自分の感動を疑うほどである。
小野田少尉は鈴木紀夫青年が救出に来たときに、青年を毒マンジュウだと思ったという。
「毒マンジュウ」とは見た目はおいしいが食べると死ぬということである。
30年間の潜伏、地形の把握、住民の心理の把握、そして機を見ての
ゲリラ戦を想定していた者の疑い深さである。
これは生存欲、に対する対処なのかもしれない。
しかし人間関係の基本は相手を思いやることであり、感化されることであるから
このように自分の感情にセンサーをつけるような行為を続けると
ほとんど人の感情を解さないアスペのようになってしまう。
これでは逆に人間関係がうまくいかず、諜報に失敗する。
菜根譚を読んで人間性を復活させないといけない。
最後に、七情七欲について記された古典を笠地蔵のように紹介したい
のだが、昨年、正忍記を売り払ってしまったので、
「正忍記を読んでね(はぁと)」としておきたい。
このように自分の感情にセンサーをつけるような行為を続けると
ほとんど人の感情を解さないアスペのようになってしまう。
これでは逆に人間関係がうまくいかず、諜報に失敗する。
菜根譚を読んで人間性を復活させないといけない。
最後に、七情七欲について記された古典を笠地蔵のように紹介したい
のだが、昨年、正忍記を売り払ってしまったので、
「正忍記を読んでね(はぁと)」としておきたい。
個人的に怨んでるかどうかなんかが一番の問題ではない。
最悪、人類の存亡にすら直結する実際問題のほうが、一番の問題だ。
善は内から、悪は外から。
仇云々は悪にまつわる事項だから、外的な問題にこそ致命点がある。
最悪、人類の存亡にすら直結する実際問題のほうが、一番の問題だ。
善は内から、悪は外から。
仇云々は悪にまつわる事項だから、外的な問題にこそ致命点がある。
吉田松陰の口癖。
「わしは、外国に行きたくて行きたくて、仕方がないんじゃよ」
そして、阿呆は自分のことが絶対だと思うから×、と言っている部分は、
その通りだと思うよー。で、そういう阿呆って、他人の指摘など耳に
入れようとしない無知蒙昧ってことだよなー。つまり、阿呆のこの手の
ことをアゲツラっての批判って、自分のこととだと気付かない厚顔無恥。
「わしは、外国に行きたくて行きたくて、仕方がないんじゃよ」
そして、阿呆は自分のことが絶対だと思うから×、と言っている部分は、
その通りだと思うよー。で、そういう阿呆って、他人の指摘など耳に
入れようとしない無知蒙昧ってことだよなー。つまり、阿呆のこの手の
ことをアゲツラっての批判って、自分のこととだと気付かない厚顔無恥。
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先導するものと追従するものとの間に、積極消極の緩急が付けられるべきだとするのが易学的見解である。
だから>>59の坤卦の文言でも、陰柔の立場にあるものは最後まで無為を決め込んでこそ吉だとしているのである。
人間同士が、完全な横並び状態でいられるなんていうことからして、本当のところ単なる夢想であり、
今の教育制度で学年が同じとされるような人間でも、数日や数ヶ月程度の誕生日の開きが普通にある。
その数日や数ヶ月程度の誕生日の差で以って、昔は異母兄弟の家督相続権が左右されたりも
していたわけで、妻妾制も家門主義も排しての横並びを強いている近現代の世界もただ、
以前と比べて個々人の扱い方を大雑把なものにしてしまっているだけでしかないのである。
上記の事例を見ても分かるとおり、陰陽法則への準拠を徹底することこそは細緻さを極める一方で、
実在する陰陽法則をも蔑ろにすることこそは物事を大雑把に済ませることに繋がる。妻妾制が婦女を
大雑把に扱うものであるかのように思われた所で、それも女の立場から見た場合の文句である。陰陽で言えば
陰に当たる女に自分から文句を言うような積極性を与えないこともまた、>>59のような陰陽法則に適っていて、
それでこそ家督をしっかりと継承して行く昔ながらの家の存続が可能ともなって行くのである。
共産主義なども、陰陽法則のわきまえによる細緻さの徹底などをほとんど完全に取っ払ってしまうものである。
だからこそ、易学発祥の地である中国なども、赤化して後はそれはそれは粗悪な文化文明の吹き溜まりと
化してしまっている。「産業従事者が政権をも掌握する」という共産主義の手法からいって陰陽不全の
極みであり、そのせいで統制者を失った産業従事者の堕落などの問題をも生じさせてしまったのである。
だから>>59の坤卦の文言でも、陰柔の立場にあるものは最後まで無為を決め込んでこそ吉だとしているのである。
人間同士が、完全な横並び状態でいられるなんていうことからして、本当のところ単なる夢想であり、
今の教育制度で学年が同じとされるような人間でも、数日や数ヶ月程度の誕生日の開きが普通にある。
その数日や数ヶ月程度の誕生日の差で以って、昔は異母兄弟の家督相続権が左右されたりも
していたわけで、妻妾制も家門主義も排しての横並びを強いている近現代の世界もただ、
以前と比べて個々人の扱い方を大雑把なものにしてしまっているだけでしかないのである。
上記の事例を見ても分かるとおり、陰陽法則への準拠を徹底することこそは細緻さを極める一方で、
実在する陰陽法則をも蔑ろにすることこそは物事を大雑把に済ませることに繋がる。妻妾制が婦女を
大雑把に扱うものであるかのように思われた所で、それも女の立場から見た場合の文句である。陰陽で言えば
陰に当たる女に自分から文句を言うような積極性を与えないこともまた、>>59のような陰陽法則に適っていて、
それでこそ家督をしっかりと継承して行く昔ながらの家の存続が可能ともなって行くのである。
共産主義なども、陰陽法則のわきまえによる細緻さの徹底などをほとんど完全に取っ払ってしまうものである。
だからこそ、易学発祥の地である中国なども、赤化して後はそれはそれは粗悪な文化文明の吹き溜まりと
化してしまっている。「産業従事者が政権をも掌握する」という共産主義の手法からいって陰陽不全の
極みであり、そのせいで統制者を失った産業従事者の堕落などの問題をも生じさせてしまったのである。
政治イデオロギーとしては共産主義並みかそれ以上の問題性を孕んでいるにしたって、
資本主義などの場合は、消費者を満足させるだけのモノ作りの追求のための細緻さなどを極めて、
その過程で陰陽法則にすら則って行こうとする場合などもあるから、ことに陰陽法則に則るという
ことにかけては、共産主義よりも資本主義のほうが時にマシなものですらあったりもするのである。
(資本主義も金融依存が過ぎてモノ作りすら疎かにし始めたりするようなら全くこの限りではない)
とはいえ結局、資本主義は消費者としての民間人の積極性を奨励するイデオロギーであり、共産主義は
生産者としての民間人の積極性を奨励するイデオロギーであるという差異があるまでのことであり、
いずれも官の追従者としてこそ吉祥である民の積極性をけしかけているから不吉であるという点では共通している。
そもそもが、資本主義によって産業従事者の人権が蔑ろにされ過ぎていたことに対するアンチテーゼとして
提唱されたのが共産主義であるわけで、資本主義がなければ共産主義なんてものも生じなかったのである。
ガンが新たなガンを発生させるような悪循環の先に資本主義と共産主義の対立なんてものが生じて
しまったりしたわけで、ガンを撲滅して行く以上は両者ともなる廃絶こそが必須ともなっていく。
日本に西洋の近代文明が流入した明治期頃には、「自由民権」という名の下で官民の平等が謳われた。
それが先の敗戦後、GHQによる新憲法の押し付けなどを通じて「国民主権」という民本官末の思想信条に
まで発展してしまった。全てが日本人自身の意思によるのでもないにしろ、横並びなど所詮は不能な立場に
あるもの同士(官と民)を無理に横並びにした結果、最終的な本末転倒を招いてしまった典型例だといえる。
世界的にも、民権思想というものが提唱されてからは君主制→共和制→民主制といったような流れが
逆らいようのない潮流として固定化されてしまったわけで、自由民権レベルの横並びの発想すら、事態の
悪化を止められるものではない。あくまで、陰陽でいえば陰柔に相当する立場にある以上は、あえて先導者の
一歩後を行くようにすらして行かねばならないのだということが、近代史の惨状からもうかがえるのである。
資本主義などの場合は、消費者を満足させるだけのモノ作りの追求のための細緻さなどを極めて、
その過程で陰陽法則にすら則って行こうとする場合などもあるから、ことに陰陽法則に則るという
ことにかけては、共産主義よりも資本主義のほうが時にマシなものですらあったりもするのである。
(資本主義も金融依存が過ぎてモノ作りすら疎かにし始めたりするようなら全くこの限りではない)
とはいえ結局、資本主義は消費者としての民間人の積極性を奨励するイデオロギーであり、共産主義は
生産者としての民間人の積極性を奨励するイデオロギーであるという差異があるまでのことであり、
いずれも官の追従者としてこそ吉祥である民の積極性をけしかけているから不吉であるという点では共通している。
そもそもが、資本主義によって産業従事者の人権が蔑ろにされ過ぎていたことに対するアンチテーゼとして
提唱されたのが共産主義であるわけで、資本主義がなければ共産主義なんてものも生じなかったのである。
ガンが新たなガンを発生させるような悪循環の先に資本主義と共産主義の対立なんてものが生じて
しまったりしたわけで、ガンを撲滅して行く以上は両者ともなる廃絶こそが必須ともなっていく。
日本に西洋の近代文明が流入した明治期頃には、「自由民権」という名の下で官民の平等が謳われた。
それが先の敗戦後、GHQによる新憲法の押し付けなどを通じて「国民主権」という民本官末の思想信条に
まで発展してしまった。全てが日本人自身の意思によるのでもないにしろ、横並びなど所詮は不能な立場に
あるもの同士(官と民)を無理に横並びにした結果、最終的な本末転倒を招いてしまった典型例だといえる。
世界的にも、民権思想というものが提唱されてからは君主制→共和制→民主制といったような流れが
逆らいようのない潮流として固定化されてしまったわけで、自由民権レベルの横並びの発想すら、事態の
悪化を止められるものではない。あくまで、陰陽でいえば陰柔に相当する立場にある以上は、あえて先導者の
一歩後を行くようにすらして行かねばならないのだということが、近代史の惨状からもうかがえるのである。
「君子は頃歩も敢えて孝を忘るること弗きなり」
「君子は半歩あゆむ間にすら孝悌を忘れることはない。(多動で我を忘れさせるのも
カルト洗脳の常套手段だが、当然君子はそのようなたぶらかしにも惑わされない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
「君子は半歩あゆむ間にすら孝悌を忘れることはない。(多動で我を忘れさせるのも
カルト洗脳の常套手段だが、当然君子はそのようなたぶらかしにも惑わされない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
ずいぶん遅れて投稿しやがったもんだから、こっちが捕捉し抜かってた。
もう遅いから今日は引用ぐらいにする。
「杕の杜有りて、道の左に生ず。彼の君子こそ、噬れ肯えて我れに適かんや。
中心より之れ好みて、曷ぞ之れ飲食せしめん。
杕の杜有りて、道の周りに生ず。彼の君子こそ、噬れ肯えて来たりて遊ばん。
中心より之れ好みて、曷ぞ之れ飲食せしめん」
「かの偉大なお人が私に会って下さると聞いて、私も道端の熟れたヤマナシのような気分。
心の底から喜ぶばかりで、いったい何を飲み食いさせてあげようかばかりを考えています。
かの偉大なお人が私と遊んで下さると聞いて、私も道の周りいっぱいに熟れたヤマナシのような気分。
心の底から喜ぶばかりで、いったい何を飲み食いさせてあげようかばかりを考えています。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・唐風・有杕之杜)
馳走を振舞う側が偉そうにするなってんだ。
この詩の作者の女(年齢上は旧約の作者よりも先輩)のように、
自分のほうこそが心の底から喜んでの恭しいもてなしに徹しろってんだ。
偉そうなもてなしなど、君子なら御免被る。
もう遅いから今日は引用ぐらいにする。
「杕の杜有りて、道の左に生ず。彼の君子こそ、噬れ肯えて我れに適かんや。
中心より之れ好みて、曷ぞ之れ飲食せしめん。
杕の杜有りて、道の周りに生ず。彼の君子こそ、噬れ肯えて来たりて遊ばん。
中心より之れ好みて、曷ぞ之れ飲食せしめん」
「かの偉大なお人が私に会って下さると聞いて、私も道端の熟れたヤマナシのような気分。
心の底から喜ぶばかりで、いったい何を飲み食いさせてあげようかばかりを考えています。
かの偉大なお人が私と遊んで下さると聞いて、私も道の周りいっぱいに熟れたヤマナシのような気分。
心の底から喜ぶばかりで、いったい何を飲み食いさせてあげようかばかりを考えています。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・唐風・有杕之杜)
馳走を振舞う側が偉そうにするなってんだ。
この詩の作者の女(年齢上は旧約の作者よりも先輩)のように、
自分のほうこそが心の底から喜んでの恭しいもてなしに徹しろってんだ。
偉そうなもてなしなど、君子なら御免被る。
油は、それ自体に腐食作用がなく、なおかつ腐食作用のある水分をはじく性質があるからこそ、
刀剣やその他の鋼鉄製品に塗布した場合に防錆効果を発揮する。儒学が天下国家を安定へと
導けるのも、それ自体に国家権力を腐敗させる意味合いがなく、なおかつ権力腐敗を
推進させる聖書信仰のような邪教を自明に排斥する存在性をも帯びているからで、
まさにこれは、油が刀の錆を防ぐ理由などと全く同じ原理性を伴っているといえる。
儒学の正典である四書五経の言葉だけを読み解いてみた所で、そのほとんどが平易な物言いばかりで、
常人には特別面白くも感じられないようなものとなっている。しかし、その一つ一つの言葉からして、
犯罪聖書の言葉のような人と世とを致命的にダメにしてしまう汚濁にまみれた言葉などと全く真逆の
意味合いを兼ね備えていて、それを受容する以上は濁悪な言葉を受容できなくなるようにもなっている。
だからこそ、儒学の教条には権力腐敗などを防止する効果が伴ってもいるのであり、教条それ自体に
独立的な防腐効果があるのかどうか以上にも、その点こそが如実な防腐作用の根拠となっているのである。
これと全く逆のことが、聖書信仰の側についても言えるのである。
犯罪聖書の邪義を自分たちが受容している以上は、四書五経にあるような権力道徳の実践のための
言葉などを受容することも決して覚束なくなる。なればこそ、権力腐敗によって私的な暴利を
せしめて行くことが盤石化されたりもするわけで、私利私益だけが全てである小人などにとっては、
それが自分たちにとっての「防錆効果のある油」のような役割を果たしてくれるとも言えるわけだ。
刀剣やその他の鋼鉄製品に塗布した場合に防錆効果を発揮する。儒学が天下国家を安定へと
導けるのも、それ自体に国家権力を腐敗させる意味合いがなく、なおかつ権力腐敗を
推進させる聖書信仰のような邪教を自明に排斥する存在性をも帯びているからで、
まさにこれは、油が刀の錆を防ぐ理由などと全く同じ原理性を伴っているといえる。
儒学の正典である四書五経の言葉だけを読み解いてみた所で、そのほとんどが平易な物言いばかりで、
常人には特別面白くも感じられないようなものとなっている。しかし、その一つ一つの言葉からして、
犯罪聖書の言葉のような人と世とを致命的にダメにしてしまう汚濁にまみれた言葉などと全く真逆の
意味合いを兼ね備えていて、それを受容する以上は濁悪な言葉を受容できなくなるようにもなっている。
だからこそ、儒学の教条には権力腐敗などを防止する効果が伴ってもいるのであり、教条それ自体に
独立的な防腐効果があるのかどうか以上にも、その点こそが如実な防腐作用の根拠となっているのである。
これと全く逆のことが、聖書信仰の側についても言えるのである。
犯罪聖書の邪義を自分たちが受容している以上は、四書五経にあるような権力道徳の実践のための
言葉などを受容することも決して覚束なくなる。なればこそ、権力腐敗によって私的な暴利を
せしめて行くことが盤石化されたりもするわけで、私利私益だけが全てである小人などにとっては、
それが自分たちにとっての「防錆効果のある油」のような役割を果たしてくれるとも言えるわけだ。

止まることである。それは善でも悪でもない「無記」の領域であり、実用学としても概念論としても
善用悪用いずれもが可能なものである。さまざまな組成の油が実際に世のため人のために用いられたり、
人と世とを損なっての我田引水の糧として用いられたりもしている。そして上記のように油の防錆効果
を概念論として儒学や聖書信仰の概説に用いることも可能であり、儒学の価値を分かりやすく説明する
道具にもなる一方で、聖書信仰の邪悪さから目を背けさせるための悪巧方便にもなってしまうのである。
上記の「防錆」にまつわる比喩では、油が善玉、水が悪玉みたいな意味合いを持ち合わせてしまった
けれども、逆に水のどこまでも重力に従って低い所へと落ちて行く性質を、人間の謙譲さに比肩させる
こともまた可能である。それが儒学における「恭」という徳目の解説のためにも格好である一方で、
犯罪聖書の信者の神への帰依姿勢の解説などにもまた利用できなくはない。実在する君父や祖神では
なく虚構の超越神に対する帰依であるものだから、どうしたって浮ついている処がありはするが、
それにしたって一応は聖書の神というものを畏怖するわけだから、その姿勢が多少は水のようでもある。
実在もしない虚構神への無理な帰依であるものだから、苦痛なものには苦痛と感じられもする。
ニーチェが「重力の魔」などと呼んでキリスト教徒的下卑さを忌み嫌ったのもまさにそれが理由だが、
虚構神への帰依が苦痛に感じられたからといって、実在する君父や祖神への恭敬までもが苦痛に
感じられるとは限らない。そのような相手への恭敬こそは演技止まりなどであってもならない
からこそ、真摯であることの不可欠さが気に入って苦痛とも思わなかったりもする。
水の性質も油の性質も、儒学や聖書信仰の理念を分かりやすく説明する比喩として引き合いに出す
ことが可能ではあるが、比喩を用いてしまった以上は、少なからず浮ついた概念論の域に入り込んで
しまっていることにも変わりはない。あまりにもその辺にばかり深入りしすぎたなら、聖書の神への
帰依が苦痛だからといって、君父や祖神への恭敬までもが苦痛だということにすらなってしまいかねない。
これこそは「概念中毒の病」であるといえ、そこに陥ってしまった人間が聖書信仰の側にはまることは
可能であるとしても、儒学のほうを真摯に受容して実践して行くことはまず無理であると考えたがいい。
老子の言うような、仁と不仁の表裏一体関係もまた、両者が同一の概念論によって似たような正当化を
講ずることが可能であることをも一つの根拠としている。仁君も豪商も、誰か恵む相手がいることには
変わりなく、前者はそれが天下万人である一方、後者は限られた顧客だけである点だけが異なるように、
仁者も不仁者もやることの一部が全く似通っているには違いないからこそ、両者に似たような比喩表現での
説明を講ずることができるのでもある。似た部分もそうでない部分もある、仁と不仁の微妙な関係性を
弁えてよく分別して行くことが必要となるわけだが、それこそは仁者のみがよくするところなのでもある。
「其の膏を屯らす、小貞なれば吉、大貞なれば凶なり。其の膏を屯らすは、施すこと未だ光ならざればなり」
「油を注ぐことを未だ一部の人間までに滞らせている。(普遍的な真理に適った状態ではないので)小事に
かけて貞節でいるのは吉だが、大事にかけてまで頑なでいるのでは凶である。施しがまだ光の照らすように
遍きものではないからである。(油は染み渡りやすい性質を持っているので与れた人間にはよく行き渡るが、
光が万事を照らし出すほどにも遍く行き渡るとも限らないので、油の性質を仁政の指針などにするのは
不適である。孟子も光を仁政の比喩に用いているし、『華厳経』でも真理が光に喩えられていたり
するとおり、光を真理や仁徳の比喩として用いるほうが、比喩表現としても適切である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・屯・九五‐象伝)
ことが可能ではあるが、比喩を用いてしまった以上は、少なからず浮ついた概念論の域に入り込んで
しまっていることにも変わりはない。あまりにもその辺にばかり深入りしすぎたなら、聖書の神への
帰依が苦痛だからといって、君父や祖神への恭敬までもが苦痛だということにすらなってしまいかねない。
これこそは「概念中毒の病」であるといえ、そこに陥ってしまった人間が聖書信仰の側にはまることは
可能であるとしても、儒学のほうを真摯に受容して実践して行くことはまず無理であると考えたがいい。
老子の言うような、仁と不仁の表裏一体関係もまた、両者が同一の概念論によって似たような正当化を
講ずることが可能であることをも一つの根拠としている。仁君も豪商も、誰か恵む相手がいることには
変わりなく、前者はそれが天下万人である一方、後者は限られた顧客だけである点だけが異なるように、
仁者も不仁者もやることの一部が全く似通っているには違いないからこそ、両者に似たような比喩表現での
説明を講ずることができるのでもある。似た部分もそうでない部分もある、仁と不仁の微妙な関係性を
弁えてよく分別して行くことが必要となるわけだが、それこそは仁者のみがよくするところなのでもある。
「其の膏を屯らす、小貞なれば吉、大貞なれば凶なり。其の膏を屯らすは、施すこと未だ光ならざればなり」
「油を注ぐことを未だ一部の人間までに滞らせている。(普遍的な真理に適った状態ではないので)小事に
かけて貞節でいるのは吉だが、大事にかけてまで頑なでいるのでは凶である。施しがまだ光の照らすように
遍きものではないからである。(油は染み渡りやすい性質を持っているので与れた人間にはよく行き渡るが、
光が万事を照らし出すほどにも遍く行き渡るとも限らないので、油の性質を仁政の指針などにするのは
不適である。孟子も光を仁政の比喩に用いているし、『華厳経』でも真理が光に喩えられていたり
するとおり、光を真理や仁徳の比喩として用いるほうが、比喩表現としても適切である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・屯・九五‐象伝)
実際問題、邪教などというものは全世界にまで行き渡らせたりできるようなものではない。
それ自体が、他者への経済的依存なくして生きられもしないような社会的不能者を
増産してしまう代物だから、一定度(だいたい全世界の三分の一程度)まで服従者が
増加してしまえば、それ以上の比率からの覇権拡大を実現できたりはしないのである。
欧米聖書圏が伝統的に経済依存の対象として来たのは中東やアフリカ、インドなどだが、
近頃では欧米から見た場合の「世界の果て」に当たる日本や中国といった極東の大国に
金融面、物質面両方における多大なる依存を来たすようにもなっている。
すでに国債操作で、日本からアメリカへと債務上限ギリギリにあたる1000兆円が貸し出されている。
それでもアメリカの富裕層の底なしの我田引水を支えきることができなくなり、今ではアメリカ政府が
公共機関のための歳出を削減させられることをも迫られている。法定上の自動削減を緩和するための
修正予算案が上院で可決されたが、自分たちが富裕層への増税を拒絶したせいで自動削減を招いて
しまった下院もまた可決する見込みであるという。もちろん、上乗せされる修正予算のための健全な
歳入先などを用意しているわけでもないのだから、下院で多数派を占めている共和党の議員などは、
ただただ我を張り通して無茶を通すだけの駄々っ子も同然な所業に及ぶことになるわけである。
無論、アメリカの共和党議員などというのは国内の富裕層の代理人というまでの存在であり、
「自分たちが増税されるのもイヤ、国としてのアメリカが傾くのもイヤ」というイヤイヤ尽くしの
無理をアメリカの富裕層こそが通そうとしているのが実態である。そして共和党の支持団体には
キリスト教原理主義勢力も含まれているわけで(もちろんこれが富裕層ともかぶっている)、
まともな経済政策もままならないままに私利私欲だけは底抜けでいようとする今のアメリカの
知能破綻者たちの精神的な拠り所にも聖書信仰がなっていることが分かるわけである。
それ自体が、他者への経済的依存なくして生きられもしないような社会的不能者を
増産してしまう代物だから、一定度(だいたい全世界の三分の一程度)まで服従者が
増加してしまえば、それ以上の比率からの覇権拡大を実現できたりはしないのである。
欧米聖書圏が伝統的に経済依存の対象として来たのは中東やアフリカ、インドなどだが、
近頃では欧米から見た場合の「世界の果て」に当たる日本や中国といった極東の大国に
金融面、物質面両方における多大なる依存を来たすようにもなっている。
すでに国債操作で、日本からアメリカへと債務上限ギリギリにあたる1000兆円が貸し出されている。
それでもアメリカの富裕層の底なしの我田引水を支えきることができなくなり、今ではアメリカ政府が
公共機関のための歳出を削減させられることをも迫られている。法定上の自動削減を緩和するための
修正予算案が上院で可決されたが、自分たちが富裕層への増税を拒絶したせいで自動削減を招いて
しまった下院もまた可決する見込みであるという。もちろん、上乗せされる修正予算のための健全な
歳入先などを用意しているわけでもないのだから、下院で多数派を占めている共和党の議員などは、
ただただ我を張り通して無茶を通すだけの駄々っ子も同然な所業に及ぶことになるわけである。
無論、アメリカの共和党議員などというのは国内の富裕層の代理人というまでの存在であり、
「自分たちが増税されるのもイヤ、国としてのアメリカが傾くのもイヤ」というイヤイヤ尽くしの
無理をアメリカの富裕層こそが通そうとしているのが実態である。そして共和党の支持団体には
キリスト教原理主義勢力も含まれているわけで(もちろんこれが富裕層ともかぶっている)、
まともな経済政策もままならないままに私利私欲だけは底抜けでいようとする今のアメリカの
知能破綻者たちの精神的な拠り所にも聖書信仰がなっていることが分かるわけである。
そういった今のアメリカの瀕死状態な懐事情などを見ても分かるのが、資本主義とか民主主義とか
いった聖書圏由来の政治イデオロギーは、「個が公を食い物にする理念」であるということである。
儒学を始めとする権力道徳学は、公(君子階級)が個(小人階級)を食い物とすることを完全に
認めた上で、人の上に立つ人としての君子が義務的に仁政を執り行ってゆくべきだとするものである。
その逆に、民間人こそが公を食い物にして行く場合には、そこに義務的な仁政を執り行って行く
余地などがどこにもない。民間人は元から私利私欲第一であり、そうであるのと引き換えに
産業をも担って行くのが本分であるわけだから、自分たちに主権があるからと言って
仁政までをも志している余裕などは少しもないのである。
どうあっても仁政を実現することができないからこそ、全世界を統一する理念たり得もしない。
個が公を食い物にすることを最初期から正当化しているのは聖書教義であるわけで、それだけでは
世の中を立ち行かせることもままならないから資本主義だとか民主主義だとか行ったイデオロギー
での補強を試みたわけだけれども、所詮は個が公を食い物にする指針などが一定以上の存在たり得る
ことなどが原理的にあり得ないわけだから、後付けの補強などではどうにもならなかったのである。
どんなに個を優遇するのであるにしたって、所詮は民人などというものからして、私利私欲ばかりを
優先させる畜生も同然の存在であるわけだから、支配者の側からすればペットを愛玩するも同然の
ことであるといえる。動物虐待絶対反対とか言っておきながら、去勢や避妊は平気でやるような
破綻した可愛がりようなわけで、それよりは狩猟用やネズミ除けなどに割り切って犬猫を飼ったり
することのほうがまだ誠実である。ソリ引かせるためになど犬を酷使して、死ねばその肉を
食らうエスキモーの慣習などのほうが、まだ人と畜生の関係性としては自然なものだといえる。
いった聖書圏由来の政治イデオロギーは、「個が公を食い物にする理念」であるということである。
儒学を始めとする権力道徳学は、公(君子階級)が個(小人階級)を食い物とすることを完全に
認めた上で、人の上に立つ人としての君子が義務的に仁政を執り行ってゆくべきだとするものである。
その逆に、民間人こそが公を食い物にして行く場合には、そこに義務的な仁政を執り行って行く
余地などがどこにもない。民間人は元から私利私欲第一であり、そうであるのと引き換えに
産業をも担って行くのが本分であるわけだから、自分たちに主権があるからと言って
仁政までをも志している余裕などは少しもないのである。
どうあっても仁政を実現することができないからこそ、全世界を統一する理念たり得もしない。
個が公を食い物にすることを最初期から正当化しているのは聖書教義であるわけで、それだけでは
世の中を立ち行かせることもままならないから資本主義だとか民主主義だとか行ったイデオロギー
での補強を試みたわけだけれども、所詮は個が公を食い物にする指針などが一定以上の存在たり得る
ことなどが原理的にあり得ないわけだから、後付けの補強などではどうにもならなかったのである。
どんなに個を優遇するのであるにしたって、所詮は民人などというものからして、私利私欲ばかりを
優先させる畜生も同然の存在であるわけだから、支配者の側からすればペットを愛玩するも同然の
ことであるといえる。動物虐待絶対反対とか言っておきながら、去勢や避妊は平気でやるような
破綻した可愛がりようなわけで、それよりは狩猟用やネズミ除けなどに割り切って犬猫を飼ったり
することのほうがまだ誠実である。ソリ引かせるためになど犬を酷使して、死ねばその肉を
食らうエスキモーの慣習などのほうが、まだ人と畜生の関係性としては自然なものだといえる。
それと同じように、公と個のあり方にも健全なメリハリを付けて、それと引き換えに天下万人を
利する仁政を公人が義務的に実施して行くようにすることでこそ、単なる私人たち自身の福利厚生
すらもが底上げされていくのである。万人の福利厚生を底上げできるぐらいだから、天下全土を司る
資格すらをも持ち得る。それを始めから企図しているのが儒学であるために、孔子や孟子も君子が
民間に取り入りすぎることを戒めてもいる。民間人の立場からすれば決して聞こえのいいものでも
ないが、それでこそ全ての民間人までをも安楽ならしめる畏れ多い道理というものがあるのである。
「教え有りて類無し」
「人を導く教えのほうに様々な違いがあるだけであって、人間自身に大した類別は存在しない。
(生まれつきダメな人間だったりするのではなく、邪教に洗脳されることでダメ人間になったりする。
こういう記述が四書五経中に存在してもいること自体が、儒学の専攻者がドグマを強いられたり
することなく諸々の教学の巧拙を自己判断して行くことを促している証拠となっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三九より)
「猱に木に升るを教うる毋れ、塗を塗に附るが如し。
君子にして徽猷有らば、小人も属するを与る。(既出)」
「猿に木の登り方を教えるような真似をするな。泥に泥を上塗りするようなもの。
君子階級の者がしっかりとしていれば、小人階級の人間も従属するところを得るのだから。
(上の引用のように、儒学はドグマに凝り固まらない高尚な見地の持ち主たる君子である
ことを促している。犯罪聖書は信者にドグマに凝り固まるような小人でいさせようとする。
そんな程度の低い人間に何かを教えるたりすることからして猿に木登りを教えたり、泥に泥を
上塗りしたりするも同然だからすべきでない。ものを教える姿勢として根本的に間違っている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・桑扈之什・角弓より)
利する仁政を公人が義務的に実施して行くようにすることでこそ、単なる私人たち自身の福利厚生
すらもが底上げされていくのである。万人の福利厚生を底上げできるぐらいだから、天下全土を司る
資格すらをも持ち得る。それを始めから企図しているのが儒学であるために、孔子や孟子も君子が
民間に取り入りすぎることを戒めてもいる。民間人の立場からすれば決して聞こえのいいものでも
ないが、それでこそ全ての民間人までをも安楽ならしめる畏れ多い道理というものがあるのである。
「教え有りて類無し」
「人を導く教えのほうに様々な違いがあるだけであって、人間自身に大した類別は存在しない。
(生まれつきダメな人間だったりするのではなく、邪教に洗脳されることでダメ人間になったりする。
こういう記述が四書五経中に存在してもいること自体が、儒学の専攻者がドグマを強いられたり
することなく諸々の教学の巧拙を自己判断して行くことを促している証拠となっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三九より)
「猱に木に升るを教うる毋れ、塗を塗に附るが如し。
君子にして徽猷有らば、小人も属するを与る。(既出)」
「猿に木の登り方を教えるような真似をするな。泥に泥を上塗りするようなもの。
君子階級の者がしっかりとしていれば、小人階級の人間も従属するところを得るのだから。
(上の引用のように、儒学はドグマに凝り固まらない高尚な見地の持ち主たる君子である
ことを促している。犯罪聖書は信者にドグマに凝り固まるような小人でいさせようとする。
そんな程度の低い人間に何かを教えるたりすることからして猿に木登りを教えたり、泥に泥を
上塗りしたりするも同然だからすべきでない。ものを教える姿勢として根本的に間違っている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・桑扈之什・角弓より)
聖書の神は、信者の悪業を地獄の底まで掘り下げさせる悪巧方便の化身としては「実」である。
信者を悪業から最終的に救い上げる救済神としては全くの「偽」であるけれども、信者が
悪業を積み重ねている限りにおいて、悪因苦果の苦しみから意識を逸らさせるための
鎮痛剤的な役割を果たすことにかけては、確かな効能が見られるものである。
「最終的に信者たちを悪業から救い上げる」という予言自体がすでに、そのための悪巧方便である。
ただ悪業から救い上げてやるのみならず、聖書の信者こそは異教徒を蔑ろにしてまでの優先的な
救済対象にすらなるとする聖書の記述自体が、信者の悪業を深刻化させるためのものでしかなかった。
そんなことは絶対に無いにも関わらず、そうなると信じ込んで悪業を積み重ねて来てしまった
信者たちが、最終的には「過失犯」として扱われる余地もある。聖書の記述など全くの偽りであり、
自分たちは犯罪聖書の作文者に騙されて悪業を積み重ねてきてしまったのだと認めたならば、
それによって元信者たちも「確信犯」ではなくなり、それなりの酌量の余地が生じもする。
しかし、過失犯といえども罪人であるには変わりないから、ただ罰が軽くなるというだけのことで、
当然無罪の異教徒などよりも優先的な優遇対象になったりするわけでは決して無い。だから、
そのような意味合いをも持つ聖書の記述に即して信者が救われたりすることはなく、「過失犯には寛大に、
確信犯には厳酷に(書経など)」といった儒学の教条などに即した多少の救いがあるのみである。
実際、最終的な救いすらもがあり得るように思い込めるほどにも、「仮初めの過渡的な救い」
というものを聖書信者たちもそれなりに享受して来ているのである。外界侵略による財物の収奪
などを通じて、欧米聖書圏こそは近現代世界における最大級の物質的栄華を誇りもした。かつては
世界最高級の富裕国でもあったインドや中国の大多数の人間もジリ貧に追いやってまで、自分たち
こそが人類史上最大級の財政的豊満に与れもしたのだから、最終的な救いがないことぐらいは
ただのプラマイゼロでしかないと、物質主義的な観点から見た場合にこそ言えるのである。
信者を悪業から最終的に救い上げる救済神としては全くの「偽」であるけれども、信者が
悪業を積み重ねている限りにおいて、悪因苦果の苦しみから意識を逸らさせるための
鎮痛剤的な役割を果たすことにかけては、確かな効能が見られるものである。
「最終的に信者たちを悪業から救い上げる」という予言自体がすでに、そのための悪巧方便である。
ただ悪業から救い上げてやるのみならず、聖書の信者こそは異教徒を蔑ろにしてまでの優先的な
救済対象にすらなるとする聖書の記述自体が、信者の悪業を深刻化させるためのものでしかなかった。
そんなことは絶対に無いにも関わらず、そうなると信じ込んで悪業を積み重ねて来てしまった
信者たちが、最終的には「過失犯」として扱われる余地もある。聖書の記述など全くの偽りであり、
自分たちは犯罪聖書の作文者に騙されて悪業を積み重ねてきてしまったのだと認めたならば、
それによって元信者たちも「確信犯」ではなくなり、それなりの酌量の余地が生じもする。
しかし、過失犯といえども罪人であるには変わりないから、ただ罰が軽くなるというだけのことで、
当然無罪の異教徒などよりも優先的な優遇対象になったりするわけでは決して無い。だから、
そのような意味合いをも持つ聖書の記述に即して信者が救われたりすることはなく、「過失犯には寛大に、
確信犯には厳酷に(書経など)」といった儒学の教条などに即した多少の救いがあるのみである。
実際、最終的な救いすらもがあり得るように思い込めるほどにも、「仮初めの過渡的な救い」
というものを聖書信者たちもそれなりに享受して来ているのである。外界侵略による財物の収奪
などを通じて、欧米聖書圏こそは近現代世界における最大級の物質的栄華を誇りもした。かつては
世界最高級の富裕国でもあったインドや中国の大多数の人間もジリ貧に追いやってまで、自分たち
こそが人類史上最大級の財政的豊満に与れもしたのだから、最終的な救いがないことぐらいは
ただのプラマイゼロでしかないと、物質主義的な観点から見た場合にこそ言えるのである。
古くは殷の紂王や秦の始皇帝、その流れをも汲む今の日本の支配層などについてもいえることだが、
半ば確信的に国家規模の悪業を積み重ねて来ているような連中というのは、その過程において、
収奪した財物などに基づく相応のうまみにも与れて来ているものである。それこそ、悪因苦果の
精神的苦しみなどからは完全に目を背けられるほどにも狂乱的な享楽に耽ったりもして来ているわけで、
聖書信者はただ、そのような苦しみからの目の逸らし方が多少高尚じみていただけに過ぎないのである。
故に、悪業を積み重ねていた限りにおいて救いもあるような気がしたから、最終的な救いもあるなどと
思い込んだりしたことが全くの虚妄であることまでもが判明するのである。悪党が過渡的な虚栄を
貪った挙句に最終的な破滅に陥ったりするのは典型的なことであり、聖書信仰に基づく悪業への
邁進なども、聖書教義に基づく最終的な救いなどが絶対にあり得ないと確証されてしまった以上は、
並みの悪党の末路並みの破滅によって終結したところで何らおかしい所などもないのだといえる。
「聖書の教義に基づく最終的な救いがあると思っていたから」という言い訳は、
「人間は他者を不幸にしてでも自分が幸せでいられればいいものだから」などという言い訳と
比べればだいぶ可愛らしいものである。後者の言い訳は、無宗教の権力犯罪者などがよく本音と
するところであるけれども、元聖書信者が「そんな気は毛頭なかった」ということもあり得る。
昔は先祖たちが本気で信じていたらしいけれども、今となってはただ二千年来の伝統だから
惰性で信じてるような体でいるというのも分からないことではない。聖書の教義などに
基づかない範囲での情状酌量に即した救いは相当に期待できるものであり、その分だけ、
ただの権力犯罪者などよりもマシな処遇であったりすることもなくはないのである。
それも偏に、「信仰の過ち」という恥辱を呑まなければならないが故にこその特権だといえる。
半ば確信的に国家規模の悪業を積み重ねて来ているような連中というのは、その過程において、
収奪した財物などに基づく相応のうまみにも与れて来ているものである。それこそ、悪因苦果の
精神的苦しみなどからは完全に目を背けられるほどにも狂乱的な享楽に耽ったりもして来ているわけで、
聖書信者はただ、そのような苦しみからの目の逸らし方が多少高尚じみていただけに過ぎないのである。
故に、悪業を積み重ねていた限りにおいて救いもあるような気がしたから、最終的な救いもあるなどと
思い込んだりしたことが全くの虚妄であることまでもが判明するのである。悪党が過渡的な虚栄を
貪った挙句に最終的な破滅に陥ったりするのは典型的なことであり、聖書信仰に基づく悪業への
邁進なども、聖書教義に基づく最終的な救いなどが絶対にあり得ないと確証されてしまった以上は、
並みの悪党の末路並みの破滅によって終結したところで何らおかしい所などもないのだといえる。
「聖書の教義に基づく最終的な救いがあると思っていたから」という言い訳は、
「人間は他者を不幸にしてでも自分が幸せでいられればいいものだから」などという言い訳と
比べればだいぶ可愛らしいものである。後者の言い訳は、無宗教の権力犯罪者などがよく本音と
するところであるけれども、元聖書信者が「そんな気は毛頭なかった」ということもあり得る。
昔は先祖たちが本気で信じていたらしいけれども、今となってはただ二千年来の伝統だから
惰性で信じてるような体でいるというのも分からないことではない。聖書の教義などに
基づかない範囲での情状酌量に即した救いは相当に期待できるものであり、その分だけ、
ただの権力犯罪者などよりもマシな処遇であったりすることもなくはないのである。
それも偏に、「信仰の過ち」という恥辱を呑まなければならないが故にこその特権だといえる。
「上位に在りては下を陵がず、下位に在りては上を援けとせず、己れを正しくして人に求めざれば則ち怨み無し」
「社会的な上位にあるからといって下位のものを束縛の対象とせず、下位にあるからといって上位のものばかりを
支えとせず、自分自身のあり方を正してなるべく人に求めずにいようとすれば、怨みつらみも無くて済む。
(犯罪聖書の神とその信者みたいな過度の依存関係なんてのもできる限りないに越したことはないのである。
社会的上下関係自体は存在せざるを得ないものであるにしろ、服従関係が偉いものだったりいるのでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一四より)
「社会的な上位にあるからといって下位のものを束縛の対象とせず、下位にあるからといって上位のものばかりを
支えとせず、自分自身のあり方を正してなるべく人に求めずにいようとすれば、怨みつらみも無くて済む。
(犯罪聖書の神とその信者みたいな過度の依存関係なんてのもできる限りないに越したことはないのである。
社会的上下関係自体は存在せざるを得ないものであるにしろ、服従関係が偉いものだったりいるのでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一四より)
明るい場所から急に暗所に移れば、瞳孔の拡張が追いつかなくて何も見えなくなる。
瞳孔が開いて目の集光能力が高まれば、暗所でもそれなりにものが見えるようになる。
その時に多少明るく見えるものが邪教の教祖とでもいったところで、天下国家を遍く
照らし出す仁君聖賢の光明などと比べれば、明るい内にすら入らないものである。
暗闇の中でこそ多少明るめに見える邪教の教祖なんぞを光明として崇め立てるためにこそ、
無量の光明を放つ数多の聖賢が放逐されざるを得なくなる。そこにこそ醜悪な追い落としの
元凶があるのであり、そのような邪教の教祖こそを特定して貶めなければならなくなることが
あるとしても、それも不正な追い落としの罪を罰するといった相殺沙汰でしかないのである。
まずは、全体を見てみる。別に全体主義者でなくとも世の中の全体の様相を鑑みて、全体的に
善くなっているか悪くなっているかを査定しておくのである。それで全体が善くなっている
ようならば、そのような世の中をもたらした人間なり理念なりを尊ぶようにし、悪くなって
いるようなら、そのような世の中をもたらした理念なり人間なりを卑しむようにするのである。
誰にでもやろうと思えばできることなのに、誰もやろうとすらしないこととは、
まさにこのことを言う。全体の利害を見るからといって、別に個人の利害を無視するという
のでもない、全ての人間にとっての利益の根本となるのは天下国家であり、個人の利益などは
そこからかじり取るだけの末節の利益に過ぎないわけだから、全体の利害を慮ることすなわち
普遍的な個人の利害を慮ることでもあるというのに、全体把握の尊重を「全体主義」だなんだと
決め付けて、それが個人の利益などには繋がらないとすら思い込んで避けようとするのである。
瞳孔が開いて目の集光能力が高まれば、暗所でもそれなりにものが見えるようになる。
その時に多少明るく見えるものが邪教の教祖とでもいったところで、天下国家を遍く
照らし出す仁君聖賢の光明などと比べれば、明るい内にすら入らないものである。
暗闇の中でこそ多少明るめに見える邪教の教祖なんぞを光明として崇め立てるためにこそ、
無量の光明を放つ数多の聖賢が放逐されざるを得なくなる。そこにこそ醜悪な追い落としの
元凶があるのであり、そのような邪教の教祖こそを特定して貶めなければならなくなることが
あるとしても、それも不正な追い落としの罪を罰するといった相殺沙汰でしかないのである。
まずは、全体を見てみる。別に全体主義者でなくとも世の中の全体の様相を鑑みて、全体的に
善くなっているか悪くなっているかを査定しておくのである。それで全体が善くなっている
ようならば、そのような世の中をもたらした人間なり理念なりを尊ぶようにし、悪くなって
いるようなら、そのような世の中をもたらした理念なり人間なりを卑しむようにするのである。
誰にでもやろうと思えばできることなのに、誰もやろうとすらしないこととは、
まさにこのことを言う。全体の利害を見るからといって、別に個人の利害を無視するという
のでもない、全ての人間にとっての利益の根本となるのは天下国家であり、個人の利益などは
そこからかじり取るだけの末節の利益に過ぎないわけだから、全体の利害を慮ることすなわち
普遍的な個人の利害を慮ることでもあるというのに、全体把握の尊重を「全体主義」だなんだと
決め付けて、それが個人の利益などには繋がらないとすら思い込んで避けようとするのである。
全体の尊重が個の蔑ろに直結するかのような思い込みを流布してしまったのが、近代の
共産主義や独裁主義であった。そこで試みられたのはただただ、人々の没個性化に基づく
無機質な強権支配というばかりのことであり、それは同様に全体の公益を貴んでいる儒学の
>>114のような教条にも決定的に悖っていたものである。全体の公益を貴ぶのもあくまで
個々人の有機的な営みを育んで行くためであり、そこでこそ個人の私益を偏重する場合以上
もの個人的満足すらもが獲得されていくべきであるというのに、全体への配慮があたかも
その逆の影響を及ぼしてしまうかのような既成認識までもがでっち上げられてしまったのだった。
全体の尊重が個人個人のより一層の福利厚生の増進にまで昇華されるためにこそ必要と
なるのが、忠孝に基づく君父の尊位の尊重である。ただ天下国家の公益を増進するのみならず、
そこで得られた公益を君臣父子夫婦兄弟朋友といった緻密な人間関係の序列に即して消費して
行くことでこそ、不健全な富の偏在などを防止しつつの万人の福利厚生を企図して行く
ことができるのだから、公益と君父の尊位の共なる尊重こそが重要となるのだといえる。
近代以降の全体主義とされるイデオロギーなどには、公益の尊重はあっても君父の尊位の
尊重まではなかったから、公益の運用の仕方に不手際が生じて、一部の独裁者による暴利の
退蔵などの問題を生じてもしまったのである。結局、全体をダメにしてまで一部だけを
輝かせようとする聖書信仰の悪癖を持ち越していた西洋人こそが思いついたイデオロギー
だったものだから、そんな稚拙な域に止まることしかできなかったのである。君父の尊位の
尊重もまた、キリストあたりが特定して否定していたことでもあるから、公益を尊重するから
といって君父の尊位まで共に尊重しようなどとまでは到底考えが及びもしなかったのだった。
共産主義や独裁主義であった。そこで試みられたのはただただ、人々の没個性化に基づく
無機質な強権支配というばかりのことであり、それは同様に全体の公益を貴んでいる儒学の
>>114のような教条にも決定的に悖っていたものである。全体の公益を貴ぶのもあくまで
個々人の有機的な営みを育んで行くためであり、そこでこそ個人の私益を偏重する場合以上
もの個人的満足すらもが獲得されていくべきであるというのに、全体への配慮があたかも
その逆の影響を及ぼしてしまうかのような既成認識までもがでっち上げられてしまったのだった。
全体の尊重が個人個人のより一層の福利厚生の増進にまで昇華されるためにこそ必要と
なるのが、忠孝に基づく君父の尊位の尊重である。ただ天下国家の公益を増進するのみならず、
そこで得られた公益を君臣父子夫婦兄弟朋友といった緻密な人間関係の序列に即して消費して
行くことでこそ、不健全な富の偏在などを防止しつつの万人の福利厚生を企図して行く
ことができるのだから、公益と君父の尊位の共なる尊重こそが重要となるのだといえる。
近代以降の全体主義とされるイデオロギーなどには、公益の尊重はあっても君父の尊位の
尊重まではなかったから、公益の運用の仕方に不手際が生じて、一部の独裁者による暴利の
退蔵などの問題を生じてもしまったのである。結局、全体をダメにしてまで一部だけを
輝かせようとする聖書信仰の悪癖を持ち越していた西洋人こそが思いついたイデオロギー
だったものだから、そんな稚拙な域に止まることしかできなかったのである。君父の尊位の
尊重もまた、キリストあたりが特定して否定していたことでもあるから、公益を尊重するから
といって君父の尊位まで共に尊重しようなどとまでは到底考えが及びもしなかったのだった。
全体の公益の尊重から個人の福利厚生を実現して行く事こそは、
個人の利益ばかりを偏重する場合以上もの体系性や、
それを体得して実践して行くための努力が必要となるのである。
到底洋学者の一人や二人が並べ立てた机上の空論などで
実現して行くこともままならないものであり、数千年に渡る
伝統に即して培われて来た権力道徳学のみがそれを可能とするのである。
「国の光を観る。用て王に賓たるに利ろし。国の光を観るとは、賓を尚ぶなり」
「天下国家の光たるに相応しい人物を見る。帝王の賓客とするにも値する。
世の光を見るということは、賓客として持て成すに相応しい相手を見るということである。
(イエスの如き天下国家の敵となるならず者などが世の光であるわけがないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・観・六四‐象伝)
個人の利益ばかりを偏重する場合以上もの体系性や、
それを体得して実践して行くための努力が必要となるのである。
到底洋学者の一人や二人が並べ立てた机上の空論などで
実現して行くこともままならないものであり、数千年に渡る
伝統に即して培われて来た権力道徳学のみがそれを可能とするのである。
「国の光を観る。用て王に賓たるに利ろし。国の光を観るとは、賓を尚ぶなり」
「天下国家の光たるに相応しい人物を見る。帝王の賓客とするにも値する。
世の光を見るということは、賓客として持て成すに相応しい相手を見るということである。
(イエスの如き天下国家の敵となるならず者などが世の光であるわけがないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・観・六四‐象伝)
自らの罪に自責の念を抱けない者こそは、永久に罪業から免れられる可能性もない。
重罰を受けようが社会的な制限を科されようが、本人が罪業の種を持ち越したままで
居続けていることには変わりないわけで、罰や制限もそのような素養の持ち主に対する
世の中の側からの拒絶反応という以上の意味は持たない(当然それだけの意味はある)。
たとえ罰や制限を科されなくても、心からの反省すらできたなら、自らの罪業の種子を絶やすことも
できるわけだが、そんな都合のいいことも実際にはないわけで、本当に心から反省すればこそ、
自らが相応の罰を受けることで「社会的な戒め」のための見せしめ役を果たさねばならない
という所にまで配慮が及ぶから、進んで罰や制限を受けようとするようにもなるのである。
だからこそ、自分から進んで罰を受けようとすらするか否かが、罪人自身に心からの反省が伴っているか
否かの確かな判断材料ともなるのである。自分自身が心から反省しているのだから、今さら実際の罰まで
受ける必要もないなどと結論付けたとするならば、そのような人間は「免罪を見越した模倣犯の頻発」という
社会的危険性にまで配慮が及んでいないが故に、十分な反省が足りていないとも見受けられるのである。
反省があるから配慮が利くのであり、ないならそこまでの配慮は利かないのである。
両者は表裏一体であり、十分に反省しているにも関わらず社会的配慮は利かないなどということもない。
配慮がないにも関わらず反省しているようであるとしても、それも偽りの反省を脳内で
観念として構築しているだけのことである。そのための格好の手段として多くの罪人に用いられて
来たのが他でもない十字架信仰であり、「罪人は相応の罰を受けるのでなければ社会的な決まりが付かない」
という事実関係から目を背けさせつつの、偽りの反省をやり込める余地を人々にもたらしたのだった。
重罰を受けようが社会的な制限を科されようが、本人が罪業の種を持ち越したままで
居続けていることには変わりないわけで、罰や制限もそのような素養の持ち主に対する
世の中の側からの拒絶反応という以上の意味は持たない(当然それだけの意味はある)。
たとえ罰や制限を科されなくても、心からの反省すらできたなら、自らの罪業の種子を絶やすことも
できるわけだが、そんな都合のいいことも実際にはないわけで、本当に心から反省すればこそ、
自らが相応の罰を受けることで「社会的な戒め」のための見せしめ役を果たさねばならない
という所にまで配慮が及ぶから、進んで罰や制限を受けようとするようにもなるのである。
だからこそ、自分から進んで罰を受けようとすらするか否かが、罪人自身に心からの反省が伴っているか
否かの確かな判断材料ともなるのである。自分自身が心から反省しているのだから、今さら実際の罰まで
受ける必要もないなどと結論付けたとするならば、そのような人間は「免罪を見越した模倣犯の頻発」という
社会的危険性にまで配慮が及んでいないが故に、十分な反省が足りていないとも見受けられるのである。
反省があるから配慮が利くのであり、ないならそこまでの配慮は利かないのである。
両者は表裏一体であり、十分に反省しているにも関わらず社会的配慮は利かないなどということもない。
配慮がないにも関わらず反省しているようであるとしても、それも偽りの反省を脳内で
観念として構築しているだけのことである。そのための格好の手段として多くの罪人に用いられて
来たのが他でもない十字架信仰であり、「罪人は相応の罰を受けるのでなければ社会的な決まりが付かない」
という事実関係から目を背けさせつつの、偽りの反省をやり込める余地を人々にもたらしたのだった。
相応の罰や制限を自分自身が被らないにもかかわらずの偽りの反省、その反省がいかにも本物らしいかどうかを
懺悔(この語も仏語からの盗用)を通じて神父が判定し、いかにも迫真じみていれば「罪は許された」とする。
要は演技の巧拙の判定であり、キリスト教徒は迫真の演技で自分たちの罪から目を背け続けて来たわけである。
そういう悪例があるものだから、「人生は演技だ」などという考え方を奨励してもならないといえる。
世の中では嫌なこともたくさんあるから、本音を隠した上っ面の演技で済ませねばならないことがある
ということに絡んで、上のようなことを言いたがる人間がいるけども、だとしたところで、演技でなくて
済むならそれに越したことはない。できる限り演技などでない本音からの生き方を目指すべきであり、
演技で塗り固めた生き方を「大人としての生き方」などとして達観の対象にしたりしてもならない。
演技で生きて行くことが異教徒以上にも堂に入ってるのがキリスト教徒であるものだから、
キリスト教徒たちも、だからこそ自分たちが異教徒以上にも大人じみているなどとすら思い込んでいる。
特に、イギリス人のキリスト教徒などにその傾向が顕著であり、二枚舌三枚舌の外連を方々で使いこなせば
こそ自分たちも紳士淑女であるのだなどとすらうそぶいているわけだけれども、それこそ、そんな間違った
根拠に基づいたプライドこそは、演技によって自分たちの大罪からすら目を背け続けて来た愚人で
あるが故の自業自得の破滅によって、根底から崩壊してしまうに越したこともないのである。
「演技の巧みさ」を根拠に大人ぶる、そんな子供じみた世の中にもはや引導を渡すべきである。
「君の故に微ざれば、胡ぞ中露に為さんや。〜君の躬に微ざれば、胡ぞ泥中に為さんや」
「主君のためとあらば、雨露の中でも泥の中でも。(『罪の中』などは主君のためにもならないから予め
入らないようにもするが、自らが過酷な条件の中に入っていくことも辞さないのが忠臣の心構えである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・式微より
懺悔(この語も仏語からの盗用)を通じて神父が判定し、いかにも迫真じみていれば「罪は許された」とする。
要は演技の巧拙の判定であり、キリスト教徒は迫真の演技で自分たちの罪から目を背け続けて来たわけである。
そういう悪例があるものだから、「人生は演技だ」などという考え方を奨励してもならないといえる。
世の中では嫌なこともたくさんあるから、本音を隠した上っ面の演技で済ませねばならないことがある
ということに絡んで、上のようなことを言いたがる人間がいるけども、だとしたところで、演技でなくて
済むならそれに越したことはない。できる限り演技などでない本音からの生き方を目指すべきであり、
演技で塗り固めた生き方を「大人としての生き方」などとして達観の対象にしたりしてもならない。
演技で生きて行くことが異教徒以上にも堂に入ってるのがキリスト教徒であるものだから、
キリスト教徒たちも、だからこそ自分たちが異教徒以上にも大人じみているなどとすら思い込んでいる。
特に、イギリス人のキリスト教徒などにその傾向が顕著であり、二枚舌三枚舌の外連を方々で使いこなせば
こそ自分たちも紳士淑女であるのだなどとすらうそぶいているわけだけれども、それこそ、そんな間違った
根拠に基づいたプライドこそは、演技によって自分たちの大罪からすら目を背け続けて来た愚人で
あるが故の自業自得の破滅によって、根底から崩壊してしまうに越したこともないのである。
「演技の巧みさ」を根拠に大人ぶる、そんな子供じみた世の中にもはや引導を渡すべきである。
「君の故に微ざれば、胡ぞ中露に為さんや。〜君の躬に微ざれば、胡ぞ泥中に為さんや」
「主君のためとあらば、雨露の中でも泥の中でも。(『罪の中』などは主君のためにもならないから予め
入らないようにもするが、自らが過酷な条件の中に入っていくことも辞さないのが忠臣の心構えである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・式微より
笠ポン、笠ポン、世界の笠ポン。^^
「人はみないつかは死ぬ」「死んだ以上は二度と生き返らない」
「罪を犯せば自分自身が相応の罰を受けねば世の中も破綻する」
そういった本物の真理や道理が絶対的に磐石なものであればこそ、それを
100%非とする完全誤謬を信じ込んでいようとすることもまた最高度に磐石たり得る。
未だ生物学上の分類すら定まっていないような未知の生物を
「これは○○科の△△の一種だ」「いいや、□□科の××の奇形種だ」などと
推断したりする場合などにこそ、そんなに高強度な信じ込みを帯びたりすることもできない。
それよりは、通俗的にも生物学的にも「鹿」と定義されている生き物を私的に「馬だ」と
決め付けたりする場合のほうが「開き直りの信じ込み」を当て付けられるものだから、
より絶対的な信じ込みと共に決め付けたりもすることができるのである。
故に、否定する対象となるものが完全なる真理や道理であればこそ、それを否定し去った
先にある誤謬もまた完全であるが故に、開き直りの信じ込みに基づく大きな陶酔が得られも
するのである。それは、未知なる対象をああだこうだと推断する場合はもちろんのこと、
真理や道理そのものを信仰の対象とする場合にすら得られることのない麻薬的陶酔であり、
同様の陶酔を得たいがための、真理や道理そのものへの信仰への鞍替えを許すものですらない。
完全誤謬への陶酔的狂信に基づく知性の後退こそは、畜生道への没落の原因とも
なるのだから、それと同等の陶酔などを他の信仰などに期待すべきでもないし、
実際期待できもしない。にもかかわらず完全誤謬信仰を破棄しなければならない
ことがあるとすれば、そこにはおおよそ二つの理由が見受けられる。
一つは、そんな劣悪な狂信ばかりに人々が陥っている以上は、最悪、人類滅亡級の
社会的破綻が免れられなくなるからというのがある。そしてもう一つが、完全誤謬などを狂信
すること自体、大いなる陶酔を狂信者にもたらす一方で、人としての本性の所にある善性を
損なわせるが故に、通奏低音的な苦しみを本人たちにもたらしているからというのがある。
「罪を犯せば自分自身が相応の罰を受けねば世の中も破綻する」
そういった本物の真理や道理が絶対的に磐石なものであればこそ、それを
100%非とする完全誤謬を信じ込んでいようとすることもまた最高度に磐石たり得る。
未だ生物学上の分類すら定まっていないような未知の生物を
「これは○○科の△△の一種だ」「いいや、□□科の××の奇形種だ」などと
推断したりする場合などにこそ、そんなに高強度な信じ込みを帯びたりすることもできない。
それよりは、通俗的にも生物学的にも「鹿」と定義されている生き物を私的に「馬だ」と
決め付けたりする場合のほうが「開き直りの信じ込み」を当て付けられるものだから、
より絶対的な信じ込みと共に決め付けたりもすることができるのである。
故に、否定する対象となるものが完全なる真理や道理であればこそ、それを否定し去った
先にある誤謬もまた完全であるが故に、開き直りの信じ込みに基づく大きな陶酔が得られも
するのである。それは、未知なる対象をああだこうだと推断する場合はもちろんのこと、
真理や道理そのものを信仰の対象とする場合にすら得られることのない麻薬的陶酔であり、
同様の陶酔を得たいがための、真理や道理そのものへの信仰への鞍替えを許すものですらない。
完全誤謬への陶酔的狂信に基づく知性の後退こそは、畜生道への没落の原因とも
なるのだから、それと同等の陶酔などを他の信仰などに期待すべきでもないし、
実際期待できもしない。にもかかわらず完全誤謬信仰を破棄しなければならない
ことがあるとすれば、そこにはおおよそ二つの理由が見受けられる。
一つは、そんな劣悪な狂信ばかりに人々が陥っている以上は、最悪、人類滅亡級の
社会的破綻が免れられなくなるからというのがある。そしてもう一つが、完全誤謬などを狂信
すること自体、大いなる陶酔を狂信者にもたらす一方で、人としての本性の所にある善性を
損なわせるが故に、通奏低音的な苦しみを本人たちにもたらしているからというのがある。
それは、陶酔ばかりに心を囚われている狂信者たち自身が必ずしも気づいてすらいない
苦しみだったりもするわけだが、健全な性情の持ち主が完全誤謬への信仰などを仮想的に
自らの心中で想定したりした場合などには、即座にそれが苦しみであると判断できる
ものである。無論、苦しみというよりは「つまらなさ」として感じ取ることのほうが
多いものであり、そんなものを享受していない状態の自分自身の心境が比較的すがすがしい
ものであると分かるからこそ、それをつまらないものだとも判断しやすいのである。
表面的な陶酔もあるが、心底の所からの苦しみもある、故にプラマイゼロでつまらない。
つまらない上に、人類滅亡の元凶とすらなるのだから、破棄するに越したこともないと
なるわけである。楽しみが苦しみを上回る健全な楽しみこそは、真理や道理のわきまえに
即した勧善懲悪や断悪修善の実践と共にのみ得られるわけだから、つまらなくない楽しみを
得たいがためにこそ、そちらのほうを選択して行くようにするのである。「人類の滅亡も
免れられないから」などという理由で狂信を破棄するのは、あくまで最低度のことである。
「曰く、交、鄒君に見ゆるを得ば、以て館をる可し。願くば留まりて業を門に受けん。
(ここから既出)曰く、夫れ道は大路の若く然り。豈に知り難からんや。
人求めざるを病うるのみ。子帰りて而も之を求めば、余れる師有らん」
「曹交『私も鄒の殿様に謁見して宿舎を借りようと思いますので、できれば先生もここに留まって
学問振興を試みていただきたいのですが』 孟先生『道理というものは広大な路のようなもので、
知ろうにも知りがたいようなものではない。ただ誰もそれを求めようとすらしないのが問題であるだけだ。
あなたも国に帰って道理を求めすらしたならば、いくらでもあなたの師となる人物はいることだろう』
(道理や真理を学ぶために、特定の師の下に留まらねばならないなどということもないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・二より)
苦しみだったりもするわけだが、健全な性情の持ち主が完全誤謬への信仰などを仮想的に
自らの心中で想定したりした場合などには、即座にそれが苦しみであると判断できる
ものである。無論、苦しみというよりは「つまらなさ」として感じ取ることのほうが
多いものであり、そんなものを享受していない状態の自分自身の心境が比較的すがすがしい
ものであると分かるからこそ、それをつまらないものだとも判断しやすいのである。
表面的な陶酔もあるが、心底の所からの苦しみもある、故にプラマイゼロでつまらない。
つまらない上に、人類滅亡の元凶とすらなるのだから、破棄するに越したこともないと
なるわけである。楽しみが苦しみを上回る健全な楽しみこそは、真理や道理のわきまえに
即した勧善懲悪や断悪修善の実践と共にのみ得られるわけだから、つまらなくない楽しみを
得たいがためにこそ、そちらのほうを選択して行くようにするのである。「人類の滅亡も
免れられないから」などという理由で狂信を破棄するのは、あくまで最低度のことである。
「曰く、交、鄒君に見ゆるを得ば、以て館をる可し。願くば留まりて業を門に受けん。
(ここから既出)曰く、夫れ道は大路の若く然り。豈に知り難からんや。
人求めざるを病うるのみ。子帰りて而も之を求めば、余れる師有らん」
「曹交『私も鄒の殿様に謁見して宿舎を借りようと思いますので、できれば先生もここに留まって
学問振興を試みていただきたいのですが』 孟先生『道理というものは広大な路のようなもので、
知ろうにも知りがたいようなものではない。ただ誰もそれを求めようとすらしないのが問題であるだけだ。
あなたも国に帰って道理を求めすらしたならば、いくらでもあなたの師となる人物はいることだろう』
(道理や真理を学ぶために、特定の師の下に留まらねばならないなどということもないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・二より)
自己紹介乙。^^
封建制である人間社会で最大級の権能を持つのが君主であるからこそ、
君主こそは「世の中を先導する者」としての最大級の尊崇の対象とすらなる。
民主主義社会で主権の持ち主とされるのは民間人であるけれども、
別に民間人が世の中の先導者となることまでをも是としているわけではない。
民間人には民間人で産業などの本業が別にあるから、政治的な主導は
あくまで選挙で選ばれた政治家らが執り行っていくものとしている。
政治的な先導者こそは最大級の主体的権能の持ち主でもあるか、
もしくは政治的な先導者でない者こそは主権の持ち主となるか、封建制と民主制の違いは
ただこの一点だけに尽きているのであり、官も民も超越した普遍的な観点からいえば、
民主制のほうが封建制よりも優れている根拠などは、どこにもありはしないのである。
むしろ、政治的な先導者が責任を持って為政を執り行っていくことを放棄して、
民間からの闇支配を許容してしまうようなことがあるぶんだけ、民主制のほうが本質的な
権力腐敗に陥ってしまいやすい危険性を孕んでいるといえる。政治的な先導者でもある
国家権力の腐敗は誰しもが注視の対象とするところだが、民間の権力者の動向などは、
自分たちと同じ民間人であるということもあって、自分に甘い大多数の民間人も無視した
ままでいようとする。故に、致命的な権力腐敗を完全に黙認したままでい続けてしまう
ような事態が、国家規模での民主制の実施と共に到来してしまったりもするのである。
君主こそは「世の中を先導する者」としての最大級の尊崇の対象とすらなる。
民主主義社会で主権の持ち主とされるのは民間人であるけれども、
別に民間人が世の中の先導者となることまでをも是としているわけではない。
民間人には民間人で産業などの本業が別にあるから、政治的な主導は
あくまで選挙で選ばれた政治家らが執り行っていくものとしている。
政治的な先導者こそは最大級の主体的権能の持ち主でもあるか、
もしくは政治的な先導者でない者こそは主権の持ち主となるか、封建制と民主制の違いは
ただこの一点だけに尽きているのであり、官も民も超越した普遍的な観点からいえば、
民主制のほうが封建制よりも優れている根拠などは、どこにもありはしないのである。
むしろ、政治的な先導者が責任を持って為政を執り行っていくことを放棄して、
民間からの闇支配を許容してしまうようなことがあるぶんだけ、民主制のほうが本質的な
権力腐敗に陥ってしまいやすい危険性を孕んでいるといえる。政治的な先導者でもある
国家権力の腐敗は誰しもが注視の対象とするところだが、民間の権力者の動向などは、
自分たちと同じ民間人であるということもあって、自分に甘い大多数の民間人も無視した
ままでいようとする。故に、致命的な権力腐敗を完全に黙認したままでい続けてしまう
ような事態が、国家規模での民主制の実施と共に到来してしまったりもするのである。
国家規模の政治のあり方として、封建制は陰陽法則に即した健全性を伴っているといえる一方、
民主制は陰陽法則に逆らう不健全性を帯びているといえる。封建制であっても、王侯と民間の
豪商がつるんで一緒くたな貴族階級を形成していた西洋の封建社会などは、民間人にも権力者
としての一翼を担わせていたものだから陰陽法則に逆らっていたといえる。もしも公権力者と
民間人の立場を完全に分断して両者の序列を徹底すれば、それで陽唱陰和が健全化されたわけ
だけれども、西洋人たるや、その逆に公権力を民間人が主権者として支配下に置くという暴挙
をやらかしたのだった。これによって陰陽関係が健全化されるどころか、不健全化が徹底
されることとなり、人類滅亡級の災禍をこの世にもたらし始めることともなったのだった。
西洋人がそのような政治上からの最悪の選択を重ねていったのも、やはり聖書信仰が原動力と
なっていたからだ。古くからの封建社会で王侯と豪商が結託していたのも、豪商をユダヤ人
に見立てた上でその存在性を許容する悪癖に基づいているし、その豪商が旧約信仰によって
自己正当化やそれに基づく活動の推進を極大化させたからこそ、自分たちの野望を最大級に
成し遂げるための手段としての国家規模、国際規模での民主化が企てられもしたのだった。
聖書信仰と真逆の教理学説を擁する儒学を主な政治理念として来た極東社会においては、
当然、公権力者の主権者としての政治的先導や、公権力と民間の富裕層の分断などの措置が
講じられて来た。なおかつ、時の公権力者の盛衰としての帝国や幕府の興亡が正史書なども通じて
厳密に精査され、その善いところを倣って悪いところを反面教師とする慣習をも根付かせてきた。
中国史が個々の王朝に即して厳密に断代されていたりするのもだからこそなのであって、
決してそれが「中国史こそは乱脈だらけの歴史」である根拠などになっているわけでもない。
民主制は陰陽法則に逆らう不健全性を帯びているといえる。封建制であっても、王侯と民間の
豪商がつるんで一緒くたな貴族階級を形成していた西洋の封建社会などは、民間人にも権力者
としての一翼を担わせていたものだから陰陽法則に逆らっていたといえる。もしも公権力者と
民間人の立場を完全に分断して両者の序列を徹底すれば、それで陽唱陰和が健全化されたわけ
だけれども、西洋人たるや、その逆に公権力を民間人が主権者として支配下に置くという暴挙
をやらかしたのだった。これによって陰陽関係が健全化されるどころか、不健全化が徹底
されることとなり、人類滅亡級の災禍をこの世にもたらし始めることともなったのだった。
西洋人がそのような政治上からの最悪の選択を重ねていったのも、やはり聖書信仰が原動力と
なっていたからだ。古くからの封建社会で王侯と豪商が結託していたのも、豪商をユダヤ人
に見立てた上でその存在性を許容する悪癖に基づいているし、その豪商が旧約信仰によって
自己正当化やそれに基づく活動の推進を極大化させたからこそ、自分たちの野望を最大級に
成し遂げるための手段としての国家規模、国際規模での民主化が企てられもしたのだった。
聖書信仰と真逆の教理学説を擁する儒学を主な政治理念として来た極東社会においては、
当然、公権力者の主権者としての政治的先導や、公権力と民間の富裕層の分断などの措置が
講じられて来た。なおかつ、時の公権力者の盛衰としての帝国や幕府の興亡が正史書なども通じて
厳密に精査され、その善いところを倣って悪いところを反面教師とする慣習をも根付かせてきた。
中国史が個々の王朝に即して厳密に断代されていたりするのもだからこそなのであって、
決してそれが「中国史こそは乱脈だらけの歴史」である根拠などになっているわけでもない。
ただ、特に春秋の筆法で書かれた「漢書」などの正史書は、当時の皇帝に至るまで容赦ない
批評的記録の対象とされていて、そのせいで史書編纂の事業自体が封建制の矮小化を招いて
しまう結果ともなってしまっていたのだった。日本などはそのあたり、平安時代以降の歴史を
四鏡のような歴史文学や日本外史の如き簡素な記録に止めることで避けてきたわけだが、
公権力者純粋主導の封建制も「過ぎたるはなお及ばざるが如し」で、それがどんなに
いいものであるにしたって、硬直的であり過ぎるのではどうにもならなくなることが、
生々流転の易の法則からも肯んぜざるを得ないこととなっているのである。
これも已む無いことではあったにしろ、鎌倉以降、江戸期までの日本では朝廷が政治的主権を
ほとんど持たず、幕府将軍や有力な武将などが代わる代わる政権を持ちまわすという異例の
事態を800年近くに渡って持続して来たのだった。これは封建制の最高権力たる朝廷が先導者
たるわけでもなければ、ずぶの民間人が主権者となるわけでもない特殊な政体であったわけで、
日本でも中国でも朝廷が最高権力たる政体が限界を来たし始めていたからこそ選択された
苦肉の策でもあった。ただ、そうであるにしても「主権は朝廷にあり」という姿勢を
武家たちが崩さないでもいたればこそ、主権すらもが武家や民間に明け渡される
場合ほどもの節操のなさを来たしたりすることもなかったのだった。
東洋では、政体の健全化に務めてきた結果として、最終的に武家統治のような特殊な政体をも
もたらした一方、西洋では、政体の陰陽法則に基づく不健全化を極めた結果として民主制が
もたらされた。いずれも変則的な政体であるには違いなく、朝廷こそが主権者たると共に
政治的先導者でもあるのが人間社会にとっての最善であるには違いない。ただ、そのような
政体が未だ立ち行かない限りにおいて、主権は朝廷で政治的先導者は武家であるのと、
主権は民間で政治的先導者は選挙で選ばれた政治家であるのと、どちらのほがマシであるか
といえば、それは前者のほうであるといえる。前者は人類を滅亡に陥れない程度の政治的
健全性を保てる一方、後者はその程度の健全性すら保てないから、そうであるといえる。
批評的記録の対象とされていて、そのせいで史書編纂の事業自体が封建制の矮小化を招いて
しまう結果ともなってしまっていたのだった。日本などはそのあたり、平安時代以降の歴史を
四鏡のような歴史文学や日本外史の如き簡素な記録に止めることで避けてきたわけだが、
公権力者純粋主導の封建制も「過ぎたるはなお及ばざるが如し」で、それがどんなに
いいものであるにしたって、硬直的であり過ぎるのではどうにもならなくなることが、
生々流転の易の法則からも肯んぜざるを得ないこととなっているのである。
これも已む無いことではあったにしろ、鎌倉以降、江戸期までの日本では朝廷が政治的主権を
ほとんど持たず、幕府将軍や有力な武将などが代わる代わる政権を持ちまわすという異例の
事態を800年近くに渡って持続して来たのだった。これは封建制の最高権力たる朝廷が先導者
たるわけでもなければ、ずぶの民間人が主権者となるわけでもない特殊な政体であったわけで、
日本でも中国でも朝廷が最高権力たる政体が限界を来たし始めていたからこそ選択された
苦肉の策でもあった。ただ、そうであるにしても「主権は朝廷にあり」という姿勢を
武家たちが崩さないでもいたればこそ、主権すらもが武家や民間に明け渡される
場合ほどもの節操のなさを来たしたりすることもなかったのだった。
東洋では、政体の健全化に務めてきた結果として、最終的に武家統治のような特殊な政体をも
もたらした一方、西洋では、政体の陰陽法則に基づく不健全化を極めた結果として民主制が
もたらされた。いずれも変則的な政体であるには違いなく、朝廷こそが主権者たると共に
政治的先導者でもあるのが人間社会にとっての最善であるには違いない。ただ、そのような
政体が未だ立ち行かない限りにおいて、主権は朝廷で政治的先導者は武家であるのと、
主権は民間で政治的先導者は選挙で選ばれた政治家であるのと、どちらのほがマシであるか
といえば、それは前者のほうであるといえる。前者は人類を滅亡に陥れない程度の政治的
健全性を保てる一方、後者はその程度の健全性すら保てないから、そうであるといえる。
武家政権は武力行使で世の中を治めるわけだから、礼楽統治を旨とする朝廷以上にも個々の
政権の安定性の確保が困難なものである。結局武家政権といえども、中後期の江戸幕府の
ように半ば礼楽統治にすら頼るようになることでこそ政治的安定性が得られもするわけだが、
そのせいでかえって武力面での弱体化を招いたことによる倒幕などをも来たしかねない。
だから、あくまで武家による統治というのは過渡的なものとすべきであり、できることなら
朝廷による礼楽統治へと移行するに越したことはないものである。以前の武家時代の次には
民権社会や民主主義社会が日本にもたらされてしまったが、今度はそんな過ちを犯さぬように。
むしろ全世界に向けて礼楽統治を実現して行く上での架け橋にすら武家統治がなるように。
新たな時代の武士たちの腰に差された刀が、全世界の人々の福利厚生のためのものとなるべし。
「之れを瞻れば前に在り、忽焉として後ろに在り。夫子循循然として善く人を誘う。(既出)」
「前にいたかと思えば、今度は後ろにいらっしゃる。先生は臨機応変に人をよく指導される。
(孔子を評した顔淵の言葉。教学を講ずる師としてはこのような姿勢でいるのが正しい。
後ろにいっぱなしのエホバも、先を行きっぱなしのイエスも師たるに値する存在ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一一より)
「言忠信にして、行い篤敬なれば(既出)、
〜立ちては則ち其の前に参するを見、輿に在りても則ち其の衡に倚るを見る」
「相手の言葉に忠節と信義があり、行いにも篤実さや敬意が備わっているようであれば、
ただ立っているだけでも自分の前に相手の真心が現れるようになるし、車に乗っていても、
目前の横木に相手の真心が浮かび上がって来るようになる。(真心は前に現れるものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・六より)
政権の安定性の確保が困難なものである。結局武家政権といえども、中後期の江戸幕府の
ように半ば礼楽統治にすら頼るようになることでこそ政治的安定性が得られもするわけだが、
そのせいでかえって武力面での弱体化を招いたことによる倒幕などをも来たしかねない。
だから、あくまで武家による統治というのは過渡的なものとすべきであり、できることなら
朝廷による礼楽統治へと移行するに越したことはないものである。以前の武家時代の次には
民権社会や民主主義社会が日本にもたらされてしまったが、今度はそんな過ちを犯さぬように。
むしろ全世界に向けて礼楽統治を実現して行く上での架け橋にすら武家統治がなるように。
新たな時代の武士たちの腰に差された刀が、全世界の人々の福利厚生のためのものとなるべし。
「之れを瞻れば前に在り、忽焉として後ろに在り。夫子循循然として善く人を誘う。(既出)」
「前にいたかと思えば、今度は後ろにいらっしゃる。先生は臨機応変に人をよく指導される。
(孔子を評した顔淵の言葉。教学を講ずる師としてはこのような姿勢でいるのが正しい。
後ろにいっぱなしのエホバも、先を行きっぱなしのイエスも師たるに値する存在ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一一より)
「言忠信にして、行い篤敬なれば(既出)、
〜立ちては則ち其の前に参するを見、輿に在りても則ち其の衡に倚るを見る」
「相手の言葉に忠節と信義があり、行いにも篤実さや敬意が備わっているようであれば、
ただ立っているだけでも自分の前に相手の真心が現れるようになるし、車に乗っていても、
目前の横木に相手の真心が浮かび上がって来るようになる。(真心は前に現れるものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・六より)
どんなものであれ、特定の言葉や教義に囚われることは人間にとっての苦しみである。
情報としての言葉や教義を認識したり実践したりするのは脳の役割であり、
その脳が特定の情報処理ばかりに患わされることが普遍的な苦しみとなるからだ。
苦しみにも色々あるが、ここでいう苦しみとは「死以上の苦しみ」のことだ。
死は脳機能を含む生体機能の完全なる停止だから、機械的に考えてみるなら、
それは人間にとっての苦しみでもなければ楽しみでもない、完全なる無苦楽である。
その無苦楽以上の苦しみが、たとえば大怪我や大病を患ったときの苦しみだったりも
する一方で、脳内の思考の極度の苦しみであったりもする。もちろん全ての思考が
死以上もの苦しみであったりするわけではないが、特定の価値があるわけでもないような
情報を反復的に処理させられ続けることなどは、人間にとっての死以上の苦しみとなる。
(機械なら、そのような反復的情報処理に苦しみを感じたりすることも当然ない)
それで、そのような人間にとっての苦しみとなる類いの情報処理が極まったときに、
思考がショートして停止してしまうということがある。それが十字架信仰を快楽と
感じてしまっているキリスト教徒の心境だったりもする。磔刑への恐怖自体は死以上の
苦しみであり、その苦しみが極まった挙句に思考が停止する、停止した瞬間に、苦しみ
からの解放を昇天か何かなどと倒錯して悦に入る。下を向いて墓穴を掘り下げ続けた
挙句に上を向いて、穴の外の光を見て嬉しがるようなもので、これはある種の
「苦しみ主体なマッチポンプのオナニー」であるとも言えなくはない。
そこに価値を見出したりすることが、人間としての深刻な有害無益さの元凶ともなる。
脳を極度に苦しませた挙句の思考停止を欲するものだから、むしろ思考停止の瞬間までの
苦しみは甚大であることを欲する。それこそ実社会上での悪業に基づく悪因苦果であったり
してもいいわけで、そのほうがより苦しいのならあえてそれを求めだしたりもするのである。
情報としての言葉や教義を認識したり実践したりするのは脳の役割であり、
その脳が特定の情報処理ばかりに患わされることが普遍的な苦しみとなるからだ。
苦しみにも色々あるが、ここでいう苦しみとは「死以上の苦しみ」のことだ。
死は脳機能を含む生体機能の完全なる停止だから、機械的に考えてみるなら、
それは人間にとっての苦しみでもなければ楽しみでもない、完全なる無苦楽である。
その無苦楽以上の苦しみが、たとえば大怪我や大病を患ったときの苦しみだったりも
する一方で、脳内の思考の極度の苦しみであったりもする。もちろん全ての思考が
死以上もの苦しみであったりするわけではないが、特定の価値があるわけでもないような
情報を反復的に処理させられ続けることなどは、人間にとっての死以上の苦しみとなる。
(機械なら、そのような反復的情報処理に苦しみを感じたりすることも当然ない)
それで、そのような人間にとっての苦しみとなる類いの情報処理が極まったときに、
思考がショートして停止してしまうということがある。それが十字架信仰を快楽と
感じてしまっているキリスト教徒の心境だったりもする。磔刑への恐怖自体は死以上の
苦しみであり、その苦しみが極まった挙句に思考が停止する、停止した瞬間に、苦しみ
からの解放を昇天か何かなどと倒錯して悦に入る。下を向いて墓穴を掘り下げ続けた
挙句に上を向いて、穴の外の光を見て嬉しがるようなもので、これはある種の
「苦しみ主体なマッチポンプのオナニー」であるとも言えなくはない。
そこに価値を見出したりすることが、人間としての深刻な有害無益さの元凶ともなる。
脳を極度に苦しませた挙句の思考停止を欲するものだから、むしろ思考停止の瞬間までの
苦しみは甚大であることを欲する。それこそ実社会上での悪業に基づく悪因苦果であったり
してもいいわけで、そのほうがより苦しいのならあえてそれを求めだしたりもするのである。
別に、全ての思考が人間にとっての苦しみとなるわけでないのもすでに述べたとおりで、
一定以上の精神的成長を伴うような思考には、人間はかえって「死以上の楽しみ」
すらをも感じるものだし、そもそも死以上の思考の苦しみなどを介することもなく
健全な思考の停止を促す類いの思考もまたあって、しかもそのような思考こそは死以上に
楽しいものであったりもする。これらの思考には死以上の苦しみなどは伴わないから、
当然苦しみこそを追い求めての悪因苦果の積み重ねに走る元凶となったりすることもない。
特に特筆すべきなのは、死以上に楽しい思考の先に健全な思考停止すらもが成し得る
という点であり、これこそは、思考の苦しみを極めた先の思考停止などがあって余計であり、
なくて別に困らない完全なる不要物である証拠ともなっている。別に死以上の思考の苦しみ
などを追い求めなくても思考停止に至ることはできる、のみならず、より楽しい思考や
言行の先にこそ思考停止の悦楽があったりすらするわけだから、もはや苦しみ主体な
マッチポンプのオナニーなどの出しゃばれる余地はどこにもないのだといえる。
要は、思考や言行からの勧善懲悪や断悪修善によってこそ得られる無念無想の境地が
あるということで、それこそは健全な思考の停止であると共に、そこに到達するための
作業が有益無害なものでもあるために、太鼓判を捺して万人に推奨までもができるのである。
そんなものが存在すればこそ、悪逆非道の先に思考停止を得る余地などももうないのである。
「女鄹極まり無く、婦怨終わり無し」
「女の情には際限がなく、女の怨みにも終わりはない。
(四書五経では『終わり有り』という表現が賛辞として多く用いられてもいる。
だらだらといつまでも際限なく持続しようとすること自体、女の性分なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十四年)
一定以上の精神的成長を伴うような思考には、人間はかえって「死以上の楽しみ」
すらをも感じるものだし、そもそも死以上の思考の苦しみなどを介することもなく
健全な思考の停止を促す類いの思考もまたあって、しかもそのような思考こそは死以上に
楽しいものであったりもする。これらの思考には死以上の苦しみなどは伴わないから、
当然苦しみこそを追い求めての悪因苦果の積み重ねに走る元凶となったりすることもない。
特に特筆すべきなのは、死以上に楽しい思考の先に健全な思考停止すらもが成し得る
という点であり、これこそは、思考の苦しみを極めた先の思考停止などがあって余計であり、
なくて別に困らない完全なる不要物である証拠ともなっている。別に死以上の思考の苦しみ
などを追い求めなくても思考停止に至ることはできる、のみならず、より楽しい思考や
言行の先にこそ思考停止の悦楽があったりすらするわけだから、もはや苦しみ主体な
マッチポンプのオナニーなどの出しゃばれる余地はどこにもないのだといえる。
要は、思考や言行からの勧善懲悪や断悪修善によってこそ得られる無念無想の境地が
あるということで、それこそは健全な思考の停止であると共に、そこに到達するための
作業が有益無害なものでもあるために、太鼓判を捺して万人に推奨までもができるのである。
そんなものが存在すればこそ、悪逆非道の先に思考停止を得る余地などももうないのである。
「女鄹極まり無く、婦怨終わり無し」
「女の情には際限がなく、女の怨みにも終わりはない。
(四書五経では『終わり有り』という表現が賛辞として多く用いられてもいる。
だらだらといつまでも際限なく持続しようとすること自体、女の性分なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十四年)
たとえば、古代中国ほどもの大規模かつ完結した国際社会であれば、
全体社会の公益を蔑ろにしてまでの我田引水による私益の貪りが、最終的にはそれを
企てた本人たち自身の自業自得での破滅に直結することをよく認知することができた。
しかもそれを、平易かつ冷厳な文体で記録して後世に述べ伝えようとするものがあった。
統一秦帝国の崩壊を如実に記録した司馬遷のような有能な史学者が多々いて、なおかつその
記録書類を当代の王朝の崩壊後に至るまで念入りに享受して行くことまでもが心がけられた。
だからこそ、世の中の公益を損なってまで個人が私益を貪ったりすることは強く戒められていた。
中国の十分の一程度の国家規模である日本などでは、その中国の経書や史書を受容の対象としての
仁政が試みられた。屠殺や製革などの特定の職種の差別と引き換えに商業への差別を緩和するなどの
独自の政策も敷かれたものの、基本としては公益を尊んで私益の貪りを卑しむことを基調としていた。
イスラエルやギリシャのように、国家規模も中国やインドの百分の一程度の矮小さでいて、
なおかつ近隣に仁政の模範とするに値するような国も存在しなかった小国においては、公益を
蔑ろにしてまでの私益の専らな貪りが自分たち自身の自滅に繋がるということにまでは誰も
考えが及ぶことがなかった。だから、そのような社会規模の我田引水を深刻化させていく
ことに野望を抱かせるような夢物語然とした邪教の教義などがでっち上げられもしたのだった。
ただ、イスラエルやギリシャの近隣に大国が全く存在しなかったわけでもない。バビロニアや
ペルシャなどの相応な大国も存在していたし、何といっても、ローマ帝国という超大国が
新約が編纂された頃などには存在していたわけだから、もしもそこで数多の人々が世の中を
俯瞰しての政治のあり方というものを考究し抜いていたならば、公益を蔑ろにしてでも私益を
貪ることを正当化したような邪義などを容認するようなことも決してなかったはずなのである。
全体社会の公益を蔑ろにしてまでの我田引水による私益の貪りが、最終的にはそれを
企てた本人たち自身の自業自得での破滅に直結することをよく認知することができた。
しかもそれを、平易かつ冷厳な文体で記録して後世に述べ伝えようとするものがあった。
統一秦帝国の崩壊を如実に記録した司馬遷のような有能な史学者が多々いて、なおかつその
記録書類を当代の王朝の崩壊後に至るまで念入りに享受して行くことまでもが心がけられた。
だからこそ、世の中の公益を損なってまで個人が私益を貪ったりすることは強く戒められていた。
中国の十分の一程度の国家規模である日本などでは、その中国の経書や史書を受容の対象としての
仁政が試みられた。屠殺や製革などの特定の職種の差別と引き換えに商業への差別を緩和するなどの
独自の政策も敷かれたものの、基本としては公益を尊んで私益の貪りを卑しむことを基調としていた。
イスラエルやギリシャのように、国家規模も中国やインドの百分の一程度の矮小さでいて、
なおかつ近隣に仁政の模範とするに値するような国も存在しなかった小国においては、公益を
蔑ろにしてまでの私益の専らな貪りが自分たち自身の自滅に繋がるということにまでは誰も
考えが及ぶことがなかった。だから、そのような社会規模の我田引水を深刻化させていく
ことに野望を抱かせるような夢物語然とした邪教の教義などがでっち上げられもしたのだった。
ただ、イスラエルやギリシャの近隣に大国が全く存在しなかったわけでもない。バビロニアや
ペルシャなどの相応な大国も存在していたし、何といっても、ローマ帝国という超大国が
新約が編纂された頃などには存在していたわけだから、もしもそこで数多の人々が世の中を
俯瞰しての政治のあり方というものを考究し抜いていたならば、公益を蔑ろにしてでも私益を
貪ることを正当化したような邪義などを容認するようなことも決してなかったはずなのである。
しかし、そうはならなかった。西洋における致命的な悪癖として、頭を使うことはギリシャや
イギリスみたいな小国の一部の人間に任せきり、ローマやアメリカみたいな大国は低俗な文化のみを
生産や享受する「烏合の衆」であればよいとする風潮があったものだから、国家規模が壮大である、
にもかかわらずではなくだからこそ、古代ローマなどにおいても高尚な政治文化などを発達させて
行こうとしたりすることもなかったのだった。だからこそ、図体ばかりでかい能無しとして、
イスラエルやギリシャの小人が捏造した我田引水主義の邪義をそのまま享受したりもしたのだった。
紀元前には、ユダヤ人の政商としての跋扈を容認してしまっていた中東人のほうはといえば、
キリスト教による侵略が深刻化して後にやっとイスラムを立ち上げて、我田引水を本分とする
邪教を勢力圏から撃退することに本腰を入れ始めたのだった。しかし、ローマ帝国を中心とした
西洋社会のほうはといえば、いつまでたっても邪教の払拭に取り掛かることもなく、自分たちの
ための国際規模での我田引水をどこまでも深刻化させ続けた挙句に自分たち自身の大破滅を
招くという最悪のシナリオばかりを一途にまい進して行った。その結末が今であり、
数多の欧米のキリスト教徒が禁治産や参政権剥奪などの強制措置を被らない
ことには人類の滅亡すらもが免れ得ない事態と化してしまっている。
四書五経を含む中国文化が西洋に流入した啓蒙時代の頃にはすでに、仁政の何たるかを文面ぐらい
では西洋人も知ることができたはずで、孔子や孟子の言葉を参考にすることで、我田引水が
自滅に至ることの不可避さをも察知することができなくもなかったはずである。それでも
やはり自分たちのあり方を正すことができずに、旧来のあり方を等比級数的に深刻化させていく
選択ばかりを果たしてきたのだった。過ちは一つや二つではなく、幾重にも折り重なって
来ているものであるが故に、その矯正も生半なもので済むようなことは決してないだろう。
イギリスみたいな小国の一部の人間に任せきり、ローマやアメリカみたいな大国は低俗な文化のみを
生産や享受する「烏合の衆」であればよいとする風潮があったものだから、国家規模が壮大である、
にもかかわらずではなくだからこそ、古代ローマなどにおいても高尚な政治文化などを発達させて
行こうとしたりすることもなかったのだった。だからこそ、図体ばかりでかい能無しとして、
イスラエルやギリシャの小人が捏造した我田引水主義の邪義をそのまま享受したりもしたのだった。
紀元前には、ユダヤ人の政商としての跋扈を容認してしまっていた中東人のほうはといえば、
キリスト教による侵略が深刻化して後にやっとイスラムを立ち上げて、我田引水を本分とする
邪教を勢力圏から撃退することに本腰を入れ始めたのだった。しかし、ローマ帝国を中心とした
西洋社会のほうはといえば、いつまでたっても邪教の払拭に取り掛かることもなく、自分たちの
ための国際規模での我田引水をどこまでも深刻化させ続けた挙句に自分たち自身の大破滅を
招くという最悪のシナリオばかりを一途にまい進して行った。その結末が今であり、
数多の欧米のキリスト教徒が禁治産や参政権剥奪などの強制措置を被らない
ことには人類の滅亡すらもが免れ得ない事態と化してしまっている。
四書五経を含む中国文化が西洋に流入した啓蒙時代の頃にはすでに、仁政の何たるかを文面ぐらい
では西洋人も知ることができたはずで、孔子や孟子の言葉を参考にすることで、我田引水が
自滅に至ることの不可避さをも察知することができなくもなかったはずである。それでも
やはり自分たちのあり方を正すことができずに、旧来のあり方を等比級数的に深刻化させていく
選択ばかりを果たしてきたのだった。過ちは一つや二つではなく、幾重にも折り重なって
来ているものであるが故に、その矯正も生半なもので済むようなことは決してないだろう。
過ちを改めることもなく何度も繰り返していこうとする性向こそは、恒久にも渡るほどの
厳酷な制限や矯正措置を必要とする。それこそ、「そんなものは望んでいなかった」と白状
せざるを得なくなるほどもの制限や矯正が待っている。これもまた「最終防衛線死守思想」であり、
これすら蔑ろにしようものなら、欧米人を含む人類の滅亡すらもが免れ得ないものであるのだから、
拒絶を極めて自分たちごと人類を滅亡させるか、それとも完全に屈服して二度と文句一つ
言わないでいることで自他を救うか、どちらを選ぶのかをよく考えて決めるがいい。
「至誠は息む無し。息まざれば則ち久しく、久しければ則ち徴あり、徴あれば則ち悠遠たり、
悠遠たれば則ち博厚たり、博厚たれば則ち高明たり。〜高明たるは、物を覆う所以なり。
今夫れ天は斯れ昭昭の多きなり、其の窮まり無きに及んでは、日月星辰に繋り、万物覆わる。
(詩に)云く、維れ天の命、於あ穆として已まず、蓋し天の天たる所以を曰うと。於乎顕われ
ざらんや、文王の徳の純なることと。蓋し文王の文たる所以を曰うと、純なることも亦た已まず」
「至誠は決して止むことがなく、止まないが故に久しく、久しきが故に効験があり、効験によって
悠久で深遠となり、悠遠たるが故に博く篤くなり、博厚たるが故に高く明らかとなる。高明であるが
故に万物を覆っていく。天の明るさも部分部分は多少の明るさであるにしろ、それが日月精神の輝きを通じて
天全体を覆うことで万物をも覆い尽くしてしまう。詩経(維天之命)にも『ああ、天命は決して止むことがない』
とあるが、これも天の天たる所以を示したものである。『ああ、文王の徳の純粋さも明らかに顕れる』ともあるが、
これも文王の文王たる所以を示したものである。その徳の純粋さも天のように止むことがないのである。
(天下全土を高明な輝きで覆い尽くすことこそは天の働きであり、仁者の徳の働きなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二六より)
厳酷な制限や矯正措置を必要とする。それこそ、「そんなものは望んでいなかった」と白状
せざるを得なくなるほどもの制限や矯正が待っている。これもまた「最終防衛線死守思想」であり、
これすら蔑ろにしようものなら、欧米人を含む人類の滅亡すらもが免れ得ないものであるのだから、
拒絶を極めて自分たちごと人類を滅亡させるか、それとも完全に屈服して二度と文句一つ
言わないでいることで自他を救うか、どちらを選ぶのかをよく考えて決めるがいい。
「至誠は息む無し。息まざれば則ち久しく、久しければ則ち徴あり、徴あれば則ち悠遠たり、
悠遠たれば則ち博厚たり、博厚たれば則ち高明たり。〜高明たるは、物を覆う所以なり。
今夫れ天は斯れ昭昭の多きなり、其の窮まり無きに及んでは、日月星辰に繋り、万物覆わる。
(詩に)云く、維れ天の命、於あ穆として已まず、蓋し天の天たる所以を曰うと。於乎顕われ
ざらんや、文王の徳の純なることと。蓋し文王の文たる所以を曰うと、純なることも亦た已まず」
「至誠は決して止むことがなく、止まないが故に久しく、久しきが故に効験があり、効験によって
悠久で深遠となり、悠遠たるが故に博く篤くなり、博厚たるが故に高く明らかとなる。高明であるが
故に万物を覆っていく。天の明るさも部分部分は多少の明るさであるにしろ、それが日月精神の輝きを通じて
天全体を覆うことで万物をも覆い尽くしてしまう。詩経(維天之命)にも『ああ、天命は決して止むことがない』
とあるが、これも天の天たる所以を示したものである。『ああ、文王の徳の純粋さも明らかに顕れる』ともあるが、
これも文王の文王たる所以を示したものである。その徳の純粋さも天のように止むことがないのである。
(天下全土を高明な輝きで覆い尽くすことこそは天の働きであり、仁者の徳の働きなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二六より)
人間にとっての「善」というものは己れの心の本性の所にしか存在していないから、
心を蔑ろにする者は他のどんなものに頼るのであっても、善に与ることなどはできない。
もしも、自らの心のうちにある善性を省みることもできないような愚人が、他者に
すがることでの善の享受を試みるとしても、その相手であるべき人間というのは必ず、
信奉者たち自身に己れの善性への立ち返りを外的に促してやる人間であるべきなのである。
そうである人間こそは、人々の先導者たるにも値する聖賢であるわけで、架空の如来である
阿弥陀仏すらもが、その方便によって信者を己れの心中の善性に立ち返らせてくれるが故に、
その条件を満たしていたりするわけだけれども。当然、万事万物万人がそのような教導者
としての条件を満たしていたりするわけでもなく、かえって己れの心中の善性を完全に
見失わせての染悪を促すような邪曲の徒輩すらもが存在しているのである。
「人間の心中などに善とすべき拠り所などはない」とした上で、他力本願的な随順を促す
者こそはそれである。たとえ「随順の先に善の享受が実現される」などと吹いていた所で、
それも完全な偽りであり、偽りの善を本物の善であるかのように享受することを通じて、
本物の善への帰服をより困難なものにすらしてしまうものである。
本物の善は悪にとって都合の悪い存在である一方、偽善は悪にとってはむしろ自分たちの
活動を助長してくれる裏からの味方となる。本物の善は悪を一方的な懲らしめの対象とするが、
偽善は何だかんだと屁理屈を付けて悪の存続を許し、自らの美々しさに衆目を逸らさせる
ことでの悪の増進にすら加担する。だからこそ、悪逆非道を推し進めようとする者は、本物の
善の在りかである心を見失わせて、外的な偽善に溺れることを人々にけしかけもするのである。
人々に善性を見失わせて悪の増進を黙認させる偽善の化身として人類史上最大級であるのが、
他でもないイエス・キリストであり、そんなものが社会的に容認されている以上は、人々が
心中の善性に立ち返ることも、悪の増進を十分に抑制することも決して覚束なくなる。
心を蔑ろにする者は他のどんなものに頼るのであっても、善に与ることなどはできない。
もしも、自らの心のうちにある善性を省みることもできないような愚人が、他者に
すがることでの善の享受を試みるとしても、その相手であるべき人間というのは必ず、
信奉者たち自身に己れの善性への立ち返りを外的に促してやる人間であるべきなのである。
そうである人間こそは、人々の先導者たるにも値する聖賢であるわけで、架空の如来である
阿弥陀仏すらもが、その方便によって信者を己れの心中の善性に立ち返らせてくれるが故に、
その条件を満たしていたりするわけだけれども。当然、万事万物万人がそのような教導者
としての条件を満たしていたりするわけでもなく、かえって己れの心中の善性を完全に
見失わせての染悪を促すような邪曲の徒輩すらもが存在しているのである。
「人間の心中などに善とすべき拠り所などはない」とした上で、他力本願的な随順を促す
者こそはそれである。たとえ「随順の先に善の享受が実現される」などと吹いていた所で、
それも完全な偽りであり、偽りの善を本物の善であるかのように享受することを通じて、
本物の善への帰服をより困難なものにすらしてしまうものである。
本物の善は悪にとって都合の悪い存在である一方、偽善は悪にとってはむしろ自分たちの
活動を助長してくれる裏からの味方となる。本物の善は悪を一方的な懲らしめの対象とするが、
偽善は何だかんだと屁理屈を付けて悪の存続を許し、自らの美々しさに衆目を逸らさせる
ことでの悪の増進にすら加担する。だからこそ、悪逆非道を推し進めようとする者は、本物の
善の在りかである心を見失わせて、外的な偽善に溺れることを人々にけしかけもするのである。
人々に善性を見失わせて悪の増進を黙認させる偽善の化身として人類史上最大級であるのが、
他でもないイエス・キリストであり、そんなものが社会的に容認されている以上は、人々が
心中の善性に立ち返ることも、悪の増進を十分に抑制することも決して覚束なくなる。
イエキリ信仰なんぞが容認されてしまっている残念な世の中においても、自主的に勧善懲悪や
断悪修善を志す人間も多少は生じ得るにしろ、決して十分な権勢を擁するに至ることがなく、
故に世界規模での悪逆非道の過度の推進による人類の滅亡を防ぎ止めることもできはしない。
人類の滅亡を食い止められる程度に、総体規模での悪逆非道を抑制するためには必ず、
イエキリレベルの勧悪懲善の化身への信奉の根絶ぐらいは必須となる。己れの心中の
善性に立ち返っての勧善懲悪や断悪修善を推進すらすることは、もはや人類の繁栄
すらをもを企図する域であるわけで、それ以前に、人類を滅亡にすら追いやって
しまう程もの勧悪懲善の推進の予めからの途絶が必要となるわけである。
勧善懲悪や断悪修善が積極的に推進されていなければ、必ず人類が滅亡するなんてこともない。
善にも悪にもさほど積極的でない無為自然を基調とするのであってもそれなりの治世が
得られる、のみならず、乱世に善心を見失わされてしまった人々に対する癒しとしては
そのほうがより適切なものですらある。なればこそ、今のような最悪の乱世において
急に勧善懲悪や断悪修善を志していくよりは、まずは過度の悪逆非道を途絶して
無為自然の境地に至ることを本是ともすべきなのである。乱世は、何よりもまず、
悪が死んでいなくなることでこそ変わるべきなのである。
「人一たび之れを能くすれば己れは之れを百たびし、
人十たび之れを能くすれば己れは之れを千たびす。
果して此の道を能くすれば、愚と雖も必ず明なり、柔と雖も必ず強ならん」
「人が一度よく成し遂げたことを自分は百回成し遂げようとし、人が十回よく成し遂げたことを
自分は千回成し遂げる。果たしてこの道をやり通したなら、愚かといえども必ず明らかとなり、
柔弱といえども必ず剛強となるであろう。(まさに桁外れな自修作善への志しだといえる。
己れの心を頼りとする努力の人並みはずれた積み重ねによって、愚かさをも超越するのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二〇より)
断悪修善を志す人間も多少は生じ得るにしろ、決して十分な権勢を擁するに至ることがなく、
故に世界規模での悪逆非道の過度の推進による人類の滅亡を防ぎ止めることもできはしない。
人類の滅亡を食い止められる程度に、総体規模での悪逆非道を抑制するためには必ず、
イエキリレベルの勧悪懲善の化身への信奉の根絶ぐらいは必須となる。己れの心中の
善性に立ち返っての勧善懲悪や断悪修善を推進すらすることは、もはや人類の繁栄
すらをもを企図する域であるわけで、それ以前に、人類を滅亡にすら追いやって
しまう程もの勧悪懲善の推進の予めからの途絶が必要となるわけである。
勧善懲悪や断悪修善が積極的に推進されていなければ、必ず人類が滅亡するなんてこともない。
善にも悪にもさほど積極的でない無為自然を基調とするのであってもそれなりの治世が
得られる、のみならず、乱世に善心を見失わされてしまった人々に対する癒しとしては
そのほうがより適切なものですらある。なればこそ、今のような最悪の乱世において
急に勧善懲悪や断悪修善を志していくよりは、まずは過度の悪逆非道を途絶して
無為自然の境地に至ることを本是ともすべきなのである。乱世は、何よりもまず、
悪が死んでいなくなることでこそ変わるべきなのである。
「人一たび之れを能くすれば己れは之れを百たびし、
人十たび之れを能くすれば己れは之れを千たびす。
果して此の道を能くすれば、愚と雖も必ず明なり、柔と雖も必ず強ならん」
「人が一度よく成し遂げたことを自分は百回成し遂げようとし、人が十回よく成し遂げたことを
自分は千回成し遂げる。果たしてこの道をやり通したなら、愚かといえども必ず明らかとなり、
柔弱といえども必ず剛強となるであろう。(まさに桁外れな自修作善への志しだといえる。
己れの心を頼りとする努力の人並みはずれた積み重ねによって、愚かさをも超越するのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二〇より)
「章を含みて貞にす可し。或いは王事に従うも、成すこと无くして終わり有り」
「能力があっても貞節にしてひけらかさず、王事に従うようなことがあっても、
自分からは何も功を成そうとしないままに有終の美を飾る。(>>59の引用も参照)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・六三)
随順者たるもの、ただ従順であるだけでなく、消極的でもあるべきである。
自我を肥大化させて能動性の塊と化し、その能動性によってこそ何者かに強く随順する
などということがあってもならない。能動的であるべきなのは先導者たるものであり、
自らが先導者に付いて行くような立場であるのなら、自分はむしろ消極的であるべきなのだ。
赤穂浪士の討ち入り事件よろしく、「忠臣は二君に使えず」ということがよく言われるが、
これは、裏切りが戦略上からの問題扱いをされる「修羅道」での話である。そもそもが、
裏切りなどが問題視されることもない平時の王道統治下において、臣下が通常的に主君に
仕える場合などにおいて重視されるべきなのは、主君に対して積極的に過ぎないことである。
よく消極的で安静に主君に仕えることができればこそ、主君の過ちを見定めての慎重な諫言
なども可能となるのであり、服従に対して積極的に過ぎればそれも不可能となるのである。
そもそも、戦国期に諸国の平民でいる人間などが、自らの国を治める諸侯だ大名だが
成り代わったからといって「自分は今度の王様には従わない」などと主張することもない。
名君が滅ぼされて暴君が支配者に成り代わったりしたなら、「これで生活も苦しくなる」
などと落胆することはあるだろうし、最悪、生活苦が極まって逃散するようなこともあった
わけだけれども、それも別に支配者への忠義の有無などを理由としていることではない。
「能力があっても貞節にしてひけらかさず、王事に従うようなことがあっても、
自分からは何も功を成そうとしないままに有終の美を飾る。(>>59の引用も参照)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・六三)
随順者たるもの、ただ従順であるだけでなく、消極的でもあるべきである。
自我を肥大化させて能動性の塊と化し、その能動性によってこそ何者かに強く随順する
などということがあってもならない。能動的であるべきなのは先導者たるものであり、
自らが先導者に付いて行くような立場であるのなら、自分はむしろ消極的であるべきなのだ。
赤穂浪士の討ち入り事件よろしく、「忠臣は二君に使えず」ということがよく言われるが、
これは、裏切りが戦略上からの問題扱いをされる「修羅道」での話である。そもそもが、
裏切りなどが問題視されることもない平時の王道統治下において、臣下が通常的に主君に
仕える場合などにおいて重視されるべきなのは、主君に対して積極的に過ぎないことである。
よく消極的で安静に主君に仕えることができればこそ、主君の過ちを見定めての慎重な諫言
なども可能となるのであり、服従に対して積極的に過ぎればそれも不可能となるのである。
そもそも、戦国期に諸国の平民でいる人間などが、自らの国を治める諸侯だ大名だが
成り代わったからといって「自分は今度の王様には従わない」などと主張することもない。
名君が滅ぼされて暴君が支配者に成り代わったりしたなら、「これで生活も苦しくなる」
などと落胆することはあるだろうし、最悪、生活苦が極まって逃散するようなこともあった
わけだけれども、それも別に支配者への忠義の有無などを理由としていることではない。
平時の君臣関係でもなければ、官民の主従関係でもない、兵事を介する君臣関係に限って
「忠臣は二君に仕えず」ということがある。人間関係が実際にそのような条件を満たしている
場合にはそれも守るべきであるが、そうでもないのに無闇にそうしたりするのもよくない。
誰に仕える、仕えないなどということを臣従者の側が無闇に選り好みしたりするようなら、
それこそが争いごとの原因にすらなってしまいかねないのだから、大概にすべきだといえる。
誰かに強く随順しようとすることは、特に不貞な婦女子などに特徴的な性向だといえる。
相手に対して男ばりの求愛や求婚を迫っておいて、結婚するや自分のほうが夫の主人であるか
のようなでかい顔をし始める。近頃ではありきたりな夫婦関係こそがまさにそれであり、
夫婦間だけでそのような問題を払拭するのはほとんど不可能に等しいことだといえる。
実際の世の中においても、古くから有力者が食客やフラタニティ構成員を囲い込んで私的に
用いるということが悪癖として横行して来ている。主人となる者は食客となる者を最高級に礼遇し、
自分とも同格の扱いにすら処してやった上で、不正を働くための死兵要員に用いたりする。
正規の君臣関係などでは到底通らないような暴挙を委任するためにこそそのような手段が用いられる
のであり、そこにも「服従者の側こそが積極性を過剰化させる」という不健全性が伴っているのである。
不貞な女や食客要員がもたらす家庭的、社会的不健全さを撃退して行くためにも、正規の君臣関係や
父子関係こそをよく尊んで健全化させて行くことが必要となる。両者の主従関係を、夫婦関係や雑多な
社会関係よりもよく重んじて、なおかつ臣下や子たるものが、主君や親に対して消極的かつ従順なあり方を
守っていく。婦女子や食客などが自分たちからそのようなあり方を実現していくのはほとんど不可能に
等しいから(もちろん食客は始めから存在すべきでもない)、人の子供や臣下たる男こそは、模範的な
忠臣や孝子たることで、自らに仕える妻たる女などにも、そのようなあり方を見習わせるべきなのである。
「忠臣は二君に仕えず」ということがある。人間関係が実際にそのような条件を満たしている
場合にはそれも守るべきであるが、そうでもないのに無闇にそうしたりするのもよくない。
誰に仕える、仕えないなどということを臣従者の側が無闇に選り好みしたりするようなら、
それこそが争いごとの原因にすらなってしまいかねないのだから、大概にすべきだといえる。
誰かに強く随順しようとすることは、特に不貞な婦女子などに特徴的な性向だといえる。
相手に対して男ばりの求愛や求婚を迫っておいて、結婚するや自分のほうが夫の主人であるか
のようなでかい顔をし始める。近頃ではありきたりな夫婦関係こそがまさにそれであり、
夫婦間だけでそのような問題を払拭するのはほとんど不可能に等しいことだといえる。
実際の世の中においても、古くから有力者が食客やフラタニティ構成員を囲い込んで私的に
用いるということが悪癖として横行して来ている。主人となる者は食客となる者を最高級に礼遇し、
自分とも同格の扱いにすら処してやった上で、不正を働くための死兵要員に用いたりする。
正規の君臣関係などでは到底通らないような暴挙を委任するためにこそそのような手段が用いられる
のであり、そこにも「服従者の側こそが積極性を過剰化させる」という不健全性が伴っているのである。
不貞な女や食客要員がもたらす家庭的、社会的不健全さを撃退して行くためにも、正規の君臣関係や
父子関係こそをよく尊んで健全化させて行くことが必要となる。両者の主従関係を、夫婦関係や雑多な
社会関係よりもよく重んじて、なおかつ臣下や子たるものが、主君や親に対して消極的かつ従順なあり方を
守っていく。婦女子や食客などが自分たちからそのようなあり方を実現していくのはほとんど不可能に
等しいから(もちろん食客は始めから存在すべきでもない)、人の子供や臣下たる男こそは、模範的な
忠臣や孝子たることで、自らに仕える妻たる女などにも、そのようなあり方を見習わせるべきなのである。
「君子の役にゆくや、其の期を知らず、曷か至らんかな。鶏は塒に棲まり、
日は夕れて、羊牛も来たらん。君子役にゆくに、之れ如何か思う勿らん」
「君子の役目に赴かれるお姿たるや、その期限も知れません。いつかは帰って来て欲しいもの。
鶏もねぐらに帰り、日が暮れて羊や牛も畜舎に帰ってくるというのに、君子にはその保証もありません。
(君子が牧獣並みの行動規範でいていいはずもない。自らの生活を蔑ろにするぐらいの覚悟が必要だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・君子于役より)
日は夕れて、羊牛も来たらん。君子役にゆくに、之れ如何か思う勿らん」
「君子の役目に赴かれるお姿たるや、その期限も知れません。いつかは帰って来て欲しいもの。
鶏もねぐらに帰り、日が暮れて羊や牛も畜舎に帰ってくるというのに、君子にはその保証もありません。
(君子が牧獣並みの行動規範でいていいはずもない。自らの生活を蔑ろにするぐらいの覚悟が必要だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・君子于役より)

女子供はみなそうなりやすいものだし、大人の男といえども小人止まりであればそうなってしまう。
これらの人間を合計すれば世の中の多数派にもなってしまうから、やもすれば、世の中というのは、
畜生級の品性の持ち主こそは大多数を占めるようにすらなってしまいかねないのである。
「畜生レベルの人間でいられることこそは自由の証し」ということで、自由主義の名の下に畜人
ばかりで世の中が塗り固められることとなったのが、孔子没後約2500年に当たる今という時代である。
漢唐時代の中国や平安江戸時代の日本などが、儒学道徳を規範として世界最大かつ最高級の栄華を
誇ったのも今は昔で、そもそも儒学道徳などを通じて、世の中の大多数の人々が畜生級の品性から
脱却できるという事実関係すらもがほとんど忘れ去られてからすでに久しいものである。昔の日本や
中国の文化を慕う人といえども、ただ「いい時代だった」という風に思うぐらいのもので、当時にこそ
近現代にはない、総体面からの人々の品性の向上が図られていたことにまでは考えが及ぶこともない。
かつての日本や中国では、畜生級の品性に陥りがちな女子供や小人男すらをも、君子たる男が
教導してそれなりの品性たらしめてやっていたのが、今では逆に、誰しもが畜生級の品性に陥って
それでよしとされ、そうなりやすい女子供や小人男こそは尊ばれて、本当は君子たり得るような
男こそは逆に卑しめられているような状態にある。そこまで世の中の大局が逆転してしまえば、
もはや今と逆の状態など誰も想像も付かない。今の道徳喪失著しい中国社会などを見てみれば、
誰も落し物一つ横取りしなかったという前漢の文帝期の中国の世相なども想像すら付きはしない。
想像が付かないものだから、底が見えない程にも深い海を見たときなどに抱くような恐怖をも抱く。
明らかにそれがいいものであったとしても、ただ未知なるものであるというだけで恐怖の対象となる。
特に、現状に満足することこそは全てである畜生級の品性のさ中にあればこそ、恐怖も一しおとなる。
「論考上の不確定要素は容赦なく切り捨てる」という「オッカムの剃刀」が一つの論理志向として
提唱されたのも、神に帰依する畜人こそは道徳的存在であるとする聖書圏においてでこそあった。
畜人的存在といい、オッカムの剃刀的論理といい、古今東西を問わず存在し得るし、また想定し得る
ものである。ただ、儒学や仏教が振興された東洋社会などではそのような事物が「非理想的存在」
として冷徹に卑しまれていた一方で、聖書信仰や洋学に支配された西洋社会ではそのような
事物こそが「理想的存在」として尊ばれすらして来たという点のみが異なるのである。
畜生級の品性に陥りきって一切の不確定要素を排除し、二度とそこから出てこようともしないとは、
まさに弘法大師が「十住心論」で最低級の住心として提示された異生羝羊心そのものであるといえる。
そういうものはどこにでも存在し得るからこそ、極東社会でもそういった存在が示唆されていた
のであり、同時にそのような存在を十分に卑しめていたからこそ、十個あるうちの
最低級の一つに過ぎない程度のもの扱いに処することができてもいたのである。
聖書信仰や洋学といえども、この世の中に遍在するものを取り扱っているに過ぎないのである。
それは別の教学によってより適切に扱われていたりもするわけで、本来なら卑しみの対象とすらすべき
ものを尊崇の対象にすらしてしまったものだから破滅的な結末をも招いたというだけのことである。
自分たちにこそ独自の新たな発見があったればこその結果などではないのだと知らねばならない。
「誕に后稷の穡するや、相くるの道有り。厥の豊草を茀い、種れに黄茂なるを種う。実に方し実に苞み、
実に種え実に褎び、実に發け実に秀で、実に堅く実に好しく、実に穎じ実に栗れば、即ち家室を台う有り」
「(農業の神である)后稷は、人々に(ただ恵むのではなく)自給自足の助けをしてやった。土地の雑草を
払って黄色く実る穀物の種を植えさせた。種は芽生えて生い茂り、よく伸び育って秀で、着実に実ることで、
それぞれの家を養う基いとさせた。(ただ与えるのではなく、自給自足の助けこそが道徳的でもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・生民之什・生民より)
提唱されたのも、神に帰依する畜人こそは道徳的存在であるとする聖書圏においてでこそあった。
畜人的存在といい、オッカムの剃刀的論理といい、古今東西を問わず存在し得るし、また想定し得る
ものである。ただ、儒学や仏教が振興された東洋社会などではそのような事物が「非理想的存在」
として冷徹に卑しまれていた一方で、聖書信仰や洋学に支配された西洋社会ではそのような
事物こそが「理想的存在」として尊ばれすらして来たという点のみが異なるのである。
畜生級の品性に陥りきって一切の不確定要素を排除し、二度とそこから出てこようともしないとは、
まさに弘法大師が「十住心論」で最低級の住心として提示された異生羝羊心そのものであるといえる。
そういうものはどこにでも存在し得るからこそ、極東社会でもそういった存在が示唆されていた
のであり、同時にそのような存在を十分に卑しめていたからこそ、十個あるうちの
最低級の一つに過ぎない程度のもの扱いに処することができてもいたのである。
聖書信仰や洋学といえども、この世の中に遍在するものを取り扱っているに過ぎないのである。
それは別の教学によってより適切に扱われていたりもするわけで、本来なら卑しみの対象とすらすべき
ものを尊崇の対象にすらしてしまったものだから破滅的な結末をも招いたというだけのことである。
自分たちにこそ独自の新たな発見があったればこその結果などではないのだと知らねばならない。
「誕に后稷の穡するや、相くるの道有り。厥の豊草を茀い、種れに黄茂なるを種う。実に方し実に苞み、
実に種え実に褎び、実に發け実に秀で、実に堅く実に好しく、実に穎じ実に栗れば、即ち家室を台う有り」
「(農業の神である)后稷は、人々に(ただ恵むのではなく)自給自足の助けをしてやった。土地の雑草を
払って黄色く実る穀物の種を植えさせた。種は芽生えて生い茂り、よく伸び育って秀で、着実に実ることで、
それぞれの家を養う基いとさせた。(ただ与えるのではなく、自給自足の助けこそが道徳的でもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・生民之什・生民より)
結局、自然状態では、特定の道などをあえて歩もうなどともしないのが人間の常である。
孟子の言うような仁徳の大道をあえて歩もうなどともしなければ、イエスのほざく
ような重権力犯罪の小道をあえて歩もうなどともしないのがごく普通の状態であり、
だからといって破滅に陥ることもなければ、繁栄に与れるようなこともないものである。
それでいて、あえて歩もうともしないままに歩んでいる道というものがあり、それが
時には大道であったり小道であったり、天道だったり畜生道だったりするのである。
世の中が治世であれば自然と優良な道を歩んでいたりするし、乱世であれば自然と
劣悪な道を歩んでいたりする。資本主義国の株式会社に勤めるだけで多少なりとも
貧困国での餓死を増長させてしまっていたりするのも、概ねは後者の理由によるのであり、
故意に穀物価格を吊り上げて貧困国などに行き渡らせないようにしている確信犯ほどでも
ない限りは、何らの悪意もないままに人の命すらをも奪う罪を重ねていたりするのである。
特定の道を歩もうなどとしているわけでもない人間にまで鬼畜道を歩ませてしまった
責任は当然、当世の支配者こそが最大級に負って行き、過失の従犯となってしまった人々は、
最悪でも交通刑務所での短期服役程度の処置を受けるのみである。ということはつまり、
行動即犯罪状態の最悪の乱世においては、特定の道などをあえて歩もうなどともしないほうが
マシだったりもし得るということであり、それはまさに「成すことなくして終わりあり」
という「易経」坤・六三の言葉が正当たり得る場合がある確かな根拠ともなっている。
無為自然第一な道家的見地からすれば、人間は積極的な求道者などではないほうが
より好ましいといえる。もう少し分別を利かした儒家や仏家の見地に即するなら、善道の
求道者であるのは求道者でないよりもよいが、悪道の求道者であるよりは求道者などで
ないほうがマシであるといえる。いずれにしろ、「求道者であること即ち偉い」などと
いう結論にだけは至らないわけで、これだけはあらゆる正統な教学が認めない所だといえる。
孟子の言うような仁徳の大道をあえて歩もうなどともしなければ、イエスのほざく
ような重権力犯罪の小道をあえて歩もうなどともしないのがごく普通の状態であり、
だからといって破滅に陥ることもなければ、繁栄に与れるようなこともないものである。
それでいて、あえて歩もうともしないままに歩んでいる道というものがあり、それが
時には大道であったり小道であったり、天道だったり畜生道だったりするのである。
世の中が治世であれば自然と優良な道を歩んでいたりするし、乱世であれば自然と
劣悪な道を歩んでいたりする。資本主義国の株式会社に勤めるだけで多少なりとも
貧困国での餓死を増長させてしまっていたりするのも、概ねは後者の理由によるのであり、
故意に穀物価格を吊り上げて貧困国などに行き渡らせないようにしている確信犯ほどでも
ない限りは、何らの悪意もないままに人の命すらをも奪う罪を重ねていたりするのである。
特定の道を歩もうなどとしているわけでもない人間にまで鬼畜道を歩ませてしまった
責任は当然、当世の支配者こそが最大級に負って行き、過失の従犯となってしまった人々は、
最悪でも交通刑務所での短期服役程度の処置を受けるのみである。ということはつまり、
行動即犯罪状態の最悪の乱世においては、特定の道などをあえて歩もうなどともしないほうが
マシだったりもし得るということであり、それはまさに「成すことなくして終わりあり」
という「易経」坤・六三の言葉が正当たり得る場合がある確かな根拠ともなっている。
無為自然第一な道家的見地からすれば、人間は積極的な求道者などではないほうが
より好ましいといえる。もう少し分別を利かした儒家や仏家の見地に即するなら、善道の
求道者であるのは求道者でないよりもよいが、悪道の求道者であるよりは求道者などで
ないほうがマシであるといえる。いずれにしろ、「求道者であること即ち偉い」などと
いう結論にだけは至らないわけで、これだけはあらゆる正統な教学が認めない所だといえる。
それでいて、「求道者であること即ち偉い」というような考え方が今の世の中などでも
それなりに認められてしまっている。それはやはり「信教の自由」などが認められてしまって
いるからでもある。何らかの思想信条を持ってそこにまい進していくことはそれだけでも偉い
ことだとされているから、あらゆる正学正教が認めることのない考え方までもが通っている。
しかれば、「信教の自由」というものもまた、正統な教学に即して是とできるものではない
のだといえる。信教の自由などが認められてしまっている以上は、求道者の無条件な礼賛にも
繋がってしまうから、それを非とする正学に即して信教の自由などを認めることもできないのである。
正統な学問や信教こそは、求道が求道だからといって是とされるようなことをよしとしたりも
しないわけだから、正学や正教こそはそんなに目だって求道的でもなかったりするのである。
厳しい修行に励む聖道門の仏門こそは山中に寺を構えて修行する姿を衆目から逸らしたりする。
それでいて無戒律の浄土門は行いが全く求道的でなかったりするから、仏門自体、見てくれの
敬虔さばかりを作り込む類いの他信教などと比べて「なってない」扱いをされたりもするが、
そんなことはない、むしろあからさまに求道的すぎたりしない所こそは教育的要素でもある。
求道ばかりにめくら滅法でもない所にこそある正道にこそ、まずは立ち返るべきなのだから。
「踧踧たる周道も、鞫がりて茂草となる。我が心憂傷し、惄焉として擣めるが如し。
仮寐して永嘆し、維れ憂えて用て老ゆ。心の憂えるや、疢くして首を疾ましむが如し」
「かつては広く大きく整備されていた周朝の道(これは実物の道路と理念としての道両方を
意味している)も、塞がって雑草の茂る狭い道と化してしまっている。そのせいで我が心も痛み、
まるんで腹の底から病んでいるかのようだ。寝ても覚めてもずっと嘆くばかりで、このまま老い
さらばえんかの如く。心からの憂いは炎症となって頭を痛めるようだ。(狭い道では所詮万人を
導くことができないから、良識あるこの詩の作者は善道が狭まっていることから嘆いたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小弁より)
それなりに認められてしまっている。それはやはり「信教の自由」などが認められてしまって
いるからでもある。何らかの思想信条を持ってそこにまい進していくことはそれだけでも偉い
ことだとされているから、あらゆる正学正教が認めることのない考え方までもが通っている。
しかれば、「信教の自由」というものもまた、正統な教学に即して是とできるものではない
のだといえる。信教の自由などが認められてしまっている以上は、求道者の無条件な礼賛にも
繋がってしまうから、それを非とする正学に即して信教の自由などを認めることもできないのである。
正統な学問や信教こそは、求道が求道だからといって是とされるようなことをよしとしたりも
しないわけだから、正学や正教こそはそんなに目だって求道的でもなかったりするのである。
厳しい修行に励む聖道門の仏門こそは山中に寺を構えて修行する姿を衆目から逸らしたりする。
それでいて無戒律の浄土門は行いが全く求道的でなかったりするから、仏門自体、見てくれの
敬虔さばかりを作り込む類いの他信教などと比べて「なってない」扱いをされたりもするが、
そんなことはない、むしろあからさまに求道的すぎたりしない所こそは教育的要素でもある。
求道ばかりにめくら滅法でもない所にこそある正道にこそ、まずは立ち返るべきなのだから。
「踧踧たる周道も、鞫がりて茂草となる。我が心憂傷し、惄焉として擣めるが如し。
仮寐して永嘆し、維れ憂えて用て老ゆ。心の憂えるや、疢くして首を疾ましむが如し」
「かつては広く大きく整備されていた周朝の道(これは実物の道路と理念としての道両方を
意味している)も、塞がって雑草の茂る狭い道と化してしまっている。そのせいで我が心も痛み、
まるんで腹の底から病んでいるかのようだ。寝ても覚めてもずっと嘆くばかりで、このまま老い
さらばえんかの如く。心からの憂いは炎症となって頭を痛めるようだ。(狭い道では所詮万人を
導くことができないから、良識あるこの詩の作者は善道が狭まっていることから嘆いたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小弁より)

幕営で知謀を巡らす将校ならともかく、先陣を切って敵に突っ込んで行く兵士などには勇墳こそが第一である。
武技を繰り出す瞬間などには、もはや心に省みることもない無念無想の境地であったほうがよい。
仁政を敷くために、しごく穏健な手段で無血なままに各地の城を攻め落としていった高祖劉邦のような偉人もいる。
結局、どんなに聞こえのいい言葉であっても、適切な場合わけを欠く以上はいくらでも例外を想定できる。
なおかつ、その例外こそは堂に入った正当性をも帯びていて、単なる揚げ足取りの域に止まっていなかったりする。
だからこそ、どんなに字面でよさげな言葉を吐いたりするよりも、まずは場合わけをよく尽くすこと、
特に、自分自身の身の程をわきまえた分相応の言葉のみを述べることのほうが大事なのである。
場合わけをちゃんと尽くしすらすればいい結果をも招くにもかかわらず、場合わけを欠いたせいで
破滅的な事態を招いた事例に「日の丸の濫用」がある。日の丸自体は、古くから武将の旗印や軍扇模様
などとして好んで用いられて来たものである。ただ、日の丸には「戦意の鼓舞」という明確な利用目的が
伴っていたものだから、常日頃からどこでも用いることなどは避けられていたのである。それが明治以降、
島津斉彬の発案で日章旗が日本の国旗として正式に採用されることとなり、時と場合とを選ばすどこでも日の丸が
掲げられるようになった。それにより日本人も潜在面からの戦意を増長させていって、挙句には太東亜戦争での
兵站無視な特攻玉砕といった無鉄砲な戦いにすら及ばせていって、それが原因での敗戦にすら見舞わせたのだった。
(戦国時代に日の丸を旗印として用いていた武田軍や石田三成も、好戦主義が過ぎて最終勝利には至れなかった)
場合わけを無視してまで用いたい美しい言葉だとか、立派な記号だとかは概念上にはいくらでもあるものである。
しかし、それをめくら滅法に現実で用いたからといっていい結果を招くわむでもない。それは、この世界この宇宙が
「諸法実相」の真理にこそ司られているからで、実相ありのままこそを最大級に尊ぶことと比べれば、概念上の
理想などを人工的に現実化させて行くことなどのほうが、どうしても最善の結果には至らないからである。
日の丸に関して言えば、戦意を鼓舞したり武運長久を願ったりすべき時に限って用いるという場合わけを尽くせば、
かえって最盛期の武田軍のような強大さにすら繋がるものである。それは要するに、よろしき理念を実相に即して
適正利用するからこその福果の獲得なのであり、理念自体はそういった形での善用も可能なのである。
四書五経の言葉なども、特に穏健なものが多いが、それも治世を実現するための仁政の実践目的に特化された
ものだからである。最悪の乱世の只中から頑なにそのようなあり方ばかりでいようとすればバカを見ることにも
なりかねないから、経書とは相反するような教えをも多々含む兵法などをも兼修するようにしたほうがよい。
そういうことがあるものだから、絶対的な金科玉条にしていいような特定の言葉などというものもないのだといえる。
絶対的な金科玉条にさせようなどとする言葉こそは、人々に何らかの過ちを犯させる言葉に違いないのである。
「彼れ何人ぞや、河の麋りに居て。拳無く勇無くして、職に乱階を為す。
既に微にして且つ尰なる、爾じの勇や伊れ何に。猶を為すや将た多く、爾じが居る徒は幾何なる」
「川のほとり(危うい場所の喩え)にいるあいつは何者だ。力も勇気もないままに、世を乱す。
(危うい)水際ばかりにいるものだからその足もふやけて腫れている、おまえの勇気はどこにある。
陰湿な悪巧みばかりを為しているが、おまえの仲間は何人いるのやら。(勇無きが陰謀に繋がる悪例の提示)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
しかし、それをめくら滅法に現実で用いたからといっていい結果を招くわむでもない。それは、この世界この宇宙が
「諸法実相」の真理にこそ司られているからで、実相ありのままこそを最大級に尊ぶことと比べれば、概念上の
理想などを人工的に現実化させて行くことなどのほうが、どうしても最善の結果には至らないからである。
日の丸に関して言えば、戦意を鼓舞したり武運長久を願ったりすべき時に限って用いるという場合わけを尽くせば、
かえって最盛期の武田軍のような強大さにすら繋がるものである。それは要するに、よろしき理念を実相に即して
適正利用するからこその福果の獲得なのであり、理念自体はそういった形での善用も可能なのである。
四書五経の言葉なども、特に穏健なものが多いが、それも治世を実現するための仁政の実践目的に特化された
ものだからである。最悪の乱世の只中から頑なにそのようなあり方ばかりでいようとすればバカを見ることにも
なりかねないから、経書とは相反するような教えをも多々含む兵法などをも兼修するようにしたほうがよい。
そういうことがあるものだから、絶対的な金科玉条にしていいような特定の言葉などというものもないのだといえる。
絶対的な金科玉条にさせようなどとする言葉こそは、人々に何らかの過ちを犯させる言葉に違いないのである。
「彼れ何人ぞや、河の麋りに居て。拳無く勇無くして、職に乱階を為す。
既に微にして且つ尰なる、爾じの勇や伊れ何に。猶を為すや将た多く、爾じが居る徒は幾何なる」
「川のほとり(危うい場所の喩え)にいるあいつは何者だ。力も勇気もないままに、世を乱す。
(危うい)水際ばかりにいるものだからその足もふやけて腫れている、おまえの勇気はどこにある。
陰湿な悪巧みばかりを為しているが、おまえの仲間は何人いるのやら。(勇無きが陰謀に繋がる悪例の提示)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
この世には善悪があり、最善を尽くすということも最悪の限りを尽くすということも
それなりに可能である。だからこそ、いずれかの道を尽くした場合に、
一定の必然性に即してことが運ばれて行っているように感じられたりもする。
しかしそれは、別に神の采配だなんだがあるからではなく、この世に遍在する
善悪の普遍的基準が自然とそうさせるものである。超俗的な観点からいえば
世の中が虚妄であるが故に善悪も虚妄であり、世の中でことを穏便に運んでいった
結果として絶対的な必然性が伴っているように思えることもまた一つの虚妄だといえる。
本質的には虚妄であるともわきまえられながら、この世の中に遍在する必然性をも
それなりのものとして認められるものこそは、必然性に惑わされないでいることができる。
感傷的に翻弄されたりもすることがないからこそ、最善を尽くす道と最悪を尽くす道とをよく
分別して、後者を除けて前者のみを歩んで行く所にある必然性をも的確に享受することができる。
必然性が必然的だからといって惑わされている人間などにそれは不可能であり、必然的な法則全般を
ウレシがっていた結果として、より歩みやすい悪を尽くす道のほうにばかり陥ってしまうのである。
故に、善悪だとか、それに基づく世の中の必然性だとかを、超俗的な観点から諦観しておくことが
善良なこととして奨められるのである。いま日本で最大級の政商利権を形作っている旧長宗我部勢
なぞも、戦国期には四国中の寺院を破壊し回って不興を買ってもいたわけで、世の内側で悪の法則に
溺れたがっていたがるような連中にとってこそ、超俗からの世俗法則の諦観などは都合が悪いのである。
世俗での究極悪が「政商」であることはすでに実証的にも述べてきたことだが、この世における
悪の法則を避けて善の法則に与ろうとする者ならば、自らが政商と化すことぐらいは避けるものだ。
しかし、そのような志向性を持たないままに、この世が一定の法則性に司られていること全般を
ウレシがっているようならば、より大きな威力を奮える手段としての政商にすら手を出しかねない。
それなりに可能である。だからこそ、いずれかの道を尽くした場合に、
一定の必然性に即してことが運ばれて行っているように感じられたりもする。
しかしそれは、別に神の采配だなんだがあるからではなく、この世に遍在する
善悪の普遍的基準が自然とそうさせるものである。超俗的な観点からいえば
世の中が虚妄であるが故に善悪も虚妄であり、世の中でことを穏便に運んでいった
結果として絶対的な必然性が伴っているように思えることもまた一つの虚妄だといえる。
本質的には虚妄であるともわきまえられながら、この世の中に遍在する必然性をも
それなりのものとして認められるものこそは、必然性に惑わされないでいることができる。
感傷的に翻弄されたりもすることがないからこそ、最善を尽くす道と最悪を尽くす道とをよく
分別して、後者を除けて前者のみを歩んで行く所にある必然性をも的確に享受することができる。
必然性が必然的だからといって惑わされている人間などにそれは不可能であり、必然的な法則全般を
ウレシがっていた結果として、より歩みやすい悪を尽くす道のほうにばかり陥ってしまうのである。
故に、善悪だとか、それに基づく世の中の必然性だとかを、超俗的な観点から諦観しておくことが
善良なこととして奨められるのである。いま日本で最大級の政商利権を形作っている旧長宗我部勢
なぞも、戦国期には四国中の寺院を破壊し回って不興を買ってもいたわけで、世の内側で悪の法則に
溺れたがっていたがるような連中にとってこそ、超俗からの世俗法則の諦観などは都合が悪いのである。
世俗での究極悪が「政商」であることはすでに実証的にも述べてきたことだが、この世における
悪の法則を避けて善の法則に与ろうとする者ならば、自らが政商と化すことぐらいは避けるものだ。
しかし、そのような志向性を持たないままに、この世が一定の法則性に司られていること全般を
ウレシがっているようならば、より大きな威力を奮える手段としての政商にすら手を出しかねない。
政商にまつわる上記のような実例一つを見ても、この世における必然性が一つばかりではないことが
分かる。自らが政商とまで化すか、政商にまではならないか、最低でもこの二つぐらいの道は拓けて
いて、前者を採れば地獄のような末路に見舞われる一方、後者でいれば最悪の難ぐらいは免れられる。
だからこそ、この世の法則性全般をウレシがるような神経はできる限り排しておくべきだといえる。
「中庸」二〇章にある「国家規模の事業は万全の準備が整ってから実行に移せ」という忠告も、
当然勧善懲悪や断悪修善にかけての準備が万端となることを意味している。最善を尽くすところにも
必然性が存在するから、その機が熟すということも実際にあり得るわけだが、善の法則だけでなく
悪の法則にもかかずらわって、政商との癒着に踏ん切りが付けられないでいたりしたならば、
勧善懲悪の国家事業を実行に移すことができる機会なども永遠にやって来はしないのである。
この世に遍在する法則性を、さらに勧善懲悪や断悪修善に限って享受して行く。これこそは仁政の
指針であり、特に限らないのが無為自然の統治であり、悪逆非道の法則こそを享受して行くのが
破滅への一本道である。政商の横行ぐらいはないようにしておけば、前二つのみでいられるものだ。
「孟子、梁の襄王に見ゆ。出でて人に語りて曰く、之れを望むに人君に似ず、
之れに就いて畏るる所を見ず。卒然と問うて曰く、天下悪くにか定まらんと」
「孟先生は梁国の襄王と会見されたが、退出されてから人にこう言われた。『(どうも、あの王様は
主君たるに相応しい人間ではないようだ。)遠くから見ても主君らしいところがなく、近くにいても
畏怖できるような所がなかった。初対面でも始めから私に〈天下はどう定まるのでしょうか〉
などと聞いてきたのだから』(運命を全て丸投げする者などは人の上に立つ器ではない。
しかもそのような薄弱さこそは、自業自得で乱世を招く原因ともなってしまう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・六より)
分かる。自らが政商とまで化すか、政商にまではならないか、最低でもこの二つぐらいの道は拓けて
いて、前者を採れば地獄のような末路に見舞われる一方、後者でいれば最悪の難ぐらいは免れられる。
だからこそ、この世の法則性全般をウレシがるような神経はできる限り排しておくべきだといえる。
「中庸」二〇章にある「国家規模の事業は万全の準備が整ってから実行に移せ」という忠告も、
当然勧善懲悪や断悪修善にかけての準備が万端となることを意味している。最善を尽くすところにも
必然性が存在するから、その機が熟すということも実際にあり得るわけだが、善の法則だけでなく
悪の法則にもかかずらわって、政商との癒着に踏ん切りが付けられないでいたりしたならば、
勧善懲悪の国家事業を実行に移すことができる機会なども永遠にやって来はしないのである。
この世に遍在する法則性を、さらに勧善懲悪や断悪修善に限って享受して行く。これこそは仁政の
指針であり、特に限らないのが無為自然の統治であり、悪逆非道の法則こそを享受して行くのが
破滅への一本道である。政商の横行ぐらいはないようにしておけば、前二つのみでいられるものだ。
「孟子、梁の襄王に見ゆ。出でて人に語りて曰く、之れを望むに人君に似ず、
之れに就いて畏るる所を見ず。卒然と問うて曰く、天下悪くにか定まらんと」
「孟先生は梁国の襄王と会見されたが、退出されてから人にこう言われた。『(どうも、あの王様は
主君たるに相応しい人間ではないようだ。)遠くから見ても主君らしいところがなく、近くにいても
畏怖できるような所がなかった。初対面でも始めから私に〈天下はどう定まるのでしょうか〉
などと聞いてきたのだから』(運命を全て丸投げする者などは人の上に立つ器ではない。
しかもそのような薄弱さこそは、自業自得で乱世を招く原因ともなってしまう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・六より)

世間においてはあざなわれた縄の如く入り組んでいるからで、実際に
禍を除けて福を招くための勧善懲悪や断悪修善を講ずることもまた、
あざなえる縄を適切に扱っていくがごとき絶妙さを必要とするものである。
縄もらせん状などに編み込まれているからには、それを取り扱うものもまた
螺旋のような絶妙な手際を必要とするものである。天下万人を利せんがために
君臣父子夫婦の序列を正したりすることもそのような絶妙さに即しているのであり、
気に入った相手に一方的に恵みを与えてやることなどと比べればその意義も分かりにくい
ものでもある。しかし、君父の尊位の確立こそは着実な福果を自他にもたらすことができる一方、
隣人への恵みなどは、少数部落の我田引水としてより大きな禍いを招く原因にすらなってしまう。
だからこそ、勧善懲悪や断悪修善を分かりやすさばかりで割り切れることもないのだといえる。
この世において積極的に勧善懲悪や断悪修善を実践して行くことは、易の卦でいえば
「乾」のような男性性をも象徴する事態に相当するものである。しかし、男らしい積極性が
隣人への恵みみたいな単細胞な実践ばかりに移されたのでは、真の勧善懲悪たり得もしない。
男らしいということは単純でもあるということ、思慮深かったりするのは女々しいことであると、
西洋文化や田舎武士の風習が持て囃されている現状では思い込まれてしまっていたりもするが、
いくら積極的であっても、それが隣人愛みたいな勧善懲悪たり得ない実践に落とし込まれた以上は、
かえって自分たちばかりが肥え太るような、男らしくも何ともない結果を招くことになってしまう。
世間での着実な勧善懲悪によって大いなる福を招くことができたなら、それこそは真の男の偉業たり得
もするのであり、そのためには、思慮深さによって着実な仁政を講じていくこともまた必要である。故に、
男らしさが単純さと不可分なものばかりであっていいはずもない。そういう評価基準に即してはかえって
男らしくないとすらとれるような男こそは、真の男たり得る可能性すらをも秘めているのだと知らねばならぬ。
思慮深さをも持ち合わせた男であればこそ、妄りに険を犯したりもしないように務める。
殿軍(しんがり)といえば、総軍が退却する際に最後尾で追っ手を撃退する役割を担うものであり、
それを務めることが非常な危険を伴う上に、殿軍に頼らざるを得なくなるような事態をなるべく
招かないようにするのが兵法上の定石でもあるといえる。それでいて、斉軍に敗れた魯軍のしんがりを
務めた大夫の孟之反は、無事役目を果たして最後に自国の城門をくぐった時に「あえて遅れたのではない、
馬がなかなか進まなかったのだ(雍也第六・一五)」と虚偽の弁解して人々を安心させようとしたのだった。
なるべくなら頼るべきでないしんがりという存在に頼りきってしまった人々の後ろめたさをやわらげて
やるために、あえて自分から進んでしんがりを務めたわけでもないという風に述べてもいたのだった。
ただ功を妄りに誇らないというばかりではない。人々への入念な配慮をも利かし、時にはウソすらをも
方便として用いる、それほどもの機転を利かせられるものこそは、単細胞な男以上にも男らしい存在
たり得もする。治世における仁政でも、乱世における臨戦でも、それなりの男の見せようというものがあり、
むしろ手段自体は男らしいとも言えない先にこそ、より男らしいといえる功業を挙げたりもするのである。
「衛の公孟彄曹を伐ち、郊に克つ。還るに、滑羅殿す。未だ出でずに、列を退かず。其の御曰く、
殿に而て列に在るは、其れ勇無きと為さんか。羅曰く、其の素﨤に与らんよりは、寧ろ勇無きと為さん」
「衛軍の公孟彄が曹軍を討ち、郊という村で勝利を収めた。帰還する際に滑羅がしんがりを
務めたが、まだ曹の国境を出もしないうちから本隊に列したままでいた。御者が滑羅に問うた。
『しんがりでありながら本隊に列したままでいるのでは、勇気のない奴らだなどと思われませんか』
羅は答えた。『不必要に奮い立つよりは、勇気がないとでも思われていたほうがマシだ』
(哀公十一年では、孟之反と共に魯軍の殿将を務めた林不狃というものが、足早な退却を無闇に拒んだ
ために戦死してもいる。重要な役割とはいえ、殿軍として目立とうなどとすべきではないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・定公十二年より)
殿軍(しんがり)といえば、総軍が退却する際に最後尾で追っ手を撃退する役割を担うものであり、
それを務めることが非常な危険を伴う上に、殿軍に頼らざるを得なくなるような事態をなるべく
招かないようにするのが兵法上の定石でもあるといえる。それでいて、斉軍に敗れた魯軍のしんがりを
務めた大夫の孟之反は、無事役目を果たして最後に自国の城門をくぐった時に「あえて遅れたのではない、
馬がなかなか進まなかったのだ(雍也第六・一五)」と虚偽の弁解して人々を安心させようとしたのだった。
なるべくなら頼るべきでないしんがりという存在に頼りきってしまった人々の後ろめたさをやわらげて
やるために、あえて自分から進んでしんがりを務めたわけでもないという風に述べてもいたのだった。
ただ功を妄りに誇らないというばかりではない。人々への入念な配慮をも利かし、時にはウソすらをも
方便として用いる、それほどもの機転を利かせられるものこそは、単細胞な男以上にも男らしい存在
たり得もする。治世における仁政でも、乱世における臨戦でも、それなりの男の見せようというものがあり、
むしろ手段自体は男らしいとも言えない先にこそ、より男らしいといえる功業を挙げたりもするのである。
「衛の公孟彄曹を伐ち、郊に克つ。還るに、滑羅殿す。未だ出でずに、列を退かず。其の御曰く、
殿に而て列に在るは、其れ勇無きと為さんか。羅曰く、其の素﨤に与らんよりは、寧ろ勇無きと為さん」
「衛軍の公孟彄が曹軍を討ち、郊という村で勝利を収めた。帰還する際に滑羅がしんがりを
務めたが、まだ曹の国境を出もしないうちから本隊に列したままでいた。御者が滑羅に問うた。
『しんがりでありながら本隊に列したままでいるのでは、勇気のない奴らだなどと思われませんか』
羅は答えた。『不必要に奮い立つよりは、勇気がないとでも思われていたほうがマシだ』
(哀公十一年では、孟之反と共に魯軍の殿将を務めた林不狃というものが、足早な退却を無闇に拒んだ
ために戦死してもいる。重要な役割とはいえ、殿軍として目立とうなどとすべきではないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・定公十二年より)
誰も読んでないよ笠地蔵。^^
俺が読んでいる。
たとえこの世の中の富が無限大であるとした所で、人々が総出を挙げて過剰な欲望を慎んで
行くのでなければ、必ず世の中が富者と貧者へと両極化してしまうこととなるのである。
この地球上だって、もう少し世界人口が少なくて、人々が仁徳に根ざした分け合いの心がけを
義務的に持ち合わせているようにしたならば、ほとんど無尽蔵なほどもの人間にとっての富や
資源が存在しているとすらいえるわけである。それをわざわざ、他者の利益を横取りしてでも
自分たちばかりが肥え太ろうとする際限のない欲望によって、総体的な貧窮状態に陥らせている。
地球上ですらそのようでしかいられないのだから、地球外に飛び出して新たな惑星世界などを
形作った所で、きっとまた同じ過ちを繰り返すに違いない。世の中を餓鬼と畜生に両極化させて
しまう程もの不埒な欲求を自分たち自身が正して行くのでなければ、絶対にそうでしかあり得ない。
自らに適切な自制心が伴っているということが、自力作善を志す聖賢のみならず、他力本願で
いようとする凡人にすら多少は必要となる。無戒律とされる浄土門においても、弥陀の本願に即して
五逆(父母殺し、僧侶の殺傷、僧団破壊)や誹謗正法の禁止程度の戒めは必ず守る。そんな行いは、
普通に考えてもしないでいて当たり前なことなわけだけれども、自らに固く禁ずる所のものがある
ということ自体が、信者たちの心象からの健全さを養生させる指針ともなる。そういった方向性が
他力本願を旨とする人間にすら備わっているのでなければ、世の中が餓鬼と畜生に両極化する
ことでの総体的な貧窮に見舞われたりしないでいられることを保証できもしないのである。
たとえこの世の中の富が無限大であるとした所で、人々が総出を挙げて過剰な欲望を慎んで
行くのでなければ、必ず世の中が富者と貧者へと両極化してしまうこととなるのである。
この地球上だって、もう少し世界人口が少なくて、人々が仁徳に根ざした分け合いの心がけを
義務的に持ち合わせているようにしたならば、ほとんど無尽蔵なほどもの人間にとっての富や
資源が存在しているとすらいえるわけである。それをわざわざ、他者の利益を横取りしてでも
自分たちばかりが肥え太ろうとする際限のない欲望によって、総体的な貧窮状態に陥らせている。
地球上ですらそのようでしかいられないのだから、地球外に飛び出して新たな惑星世界などを
形作った所で、きっとまた同じ過ちを繰り返すに違いない。世の中を餓鬼と畜生に両極化させて
しまう程もの不埒な欲求を自分たち自身が正して行くのでなければ、絶対にそうでしかあり得ない。
自らに適切な自制心が伴っているということが、自力作善を志す聖賢のみならず、他力本願で
いようとする凡人にすら多少は必要となる。無戒律とされる浄土門においても、弥陀の本願に即して
五逆(父母殺し、僧侶の殺傷、僧団破壊)や誹謗正法の禁止程度の戒めは必ず守る。そんな行いは、
普通に考えてもしないでいて当たり前なことなわけだけれども、自らに固く禁ずる所のものがある
ということ自体が、信者たちの心象からの健全さを養生させる指針ともなる。そういった方向性が
他力本願を旨とする人間にすら備わっているのでなければ、世の中が餓鬼と畜生に両極化する
ことでの総体的な貧窮に見舞われたりしないでいられることを保証できもしないのである。
際限のない欲望で世の中を貧窮に陥れている張本人であるような人間こそは、世の中が奪う者と
奪われる者とに両極化してしまうことを「仕方のないことだ」などと言って正当化しようとする。
もちろん仕方のないことでも何でもないわけで、他でもないおまえ自身が欲望まみれの性向を
正したなら、あっという間にそのような事態は解消されるのである。しかし、自分自身が性向を
正す気になれないものだから、事態を解消して行くこともままならない、だから仕方のないことだ
とする。そのような詭弁論理に陥ってしまっている人間はもはや、外的な矯正を施されるのでも
なければ、自らの考えが過ちであることに気づくきっかけを得ることもできはしないのである。
「際限のない欲望が横行する以上は総体的な貧窮に見舞われる」とか、「冤罪で罪が解消される
ことなどは被害者の立場からいってもあり得ない」とかいったことは、わざわざ実証例を挙げる
までもない思考実験によって自明に明らかとなることである。にもかかわらずそれを解さない
人間は必ず、人並み以上に注意力が欠けている。その注意欠陥に基づく社会的害悪度が過ぎる
ようであるのならば、本人たちに病識がないとしたところで、有害型の精神障害として制限措置や
強制治療の対象ともしていかねばならない。でなければ本当に世の中も立ち行かなくなるのだから。
それが自明に不正なことであるからこそ、際限のない欲望を満たしてくれる神だとか、冤罪で
罪を解消してくれるとされる神などを信じたりしてもならない。そのような神は紛れもない
邪神であり、そのような神を信じたりすることも紛れもない邪信であるのだから、自明に
邪まであることを思い知ることでこそ、そのような神への信仰を自他に禁ずべきである。
「願いて則ち嚏す。〜願いて則ち懐む」
「願ってばかりで気が詰まる。願ってばかりで心が痛む。(渇望それ自体が心痛である。
仏教などでよく教えられることだが、この詩の成立は仏教創始以前でもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・終風より)
奪われる者とに両極化してしまうことを「仕方のないことだ」などと言って正当化しようとする。
もちろん仕方のないことでも何でもないわけで、他でもないおまえ自身が欲望まみれの性向を
正したなら、あっという間にそのような事態は解消されるのである。しかし、自分自身が性向を
正す気になれないものだから、事態を解消して行くこともままならない、だから仕方のないことだ
とする。そのような詭弁論理に陥ってしまっている人間はもはや、外的な矯正を施されるのでも
なければ、自らの考えが過ちであることに気づくきっかけを得ることもできはしないのである。
「際限のない欲望が横行する以上は総体的な貧窮に見舞われる」とか、「冤罪で罪が解消される
ことなどは被害者の立場からいってもあり得ない」とかいったことは、わざわざ実証例を挙げる
までもない思考実験によって自明に明らかとなることである。にもかかわらずそれを解さない
人間は必ず、人並み以上に注意力が欠けている。その注意欠陥に基づく社会的害悪度が過ぎる
ようであるのならば、本人たちに病識がないとしたところで、有害型の精神障害として制限措置や
強制治療の対象ともしていかねばならない。でなければ本当に世の中も立ち行かなくなるのだから。
それが自明に不正なことであるからこそ、際限のない欲望を満たしてくれる神だとか、冤罪で
罪を解消してくれるとされる神などを信じたりしてもならない。そのような神は紛れもない
邪神であり、そのような神を信じたりすることも紛れもない邪信であるのだから、自明に
邪まであることを思い知ることでこそ、そのような神への信仰を自他に禁ずべきである。
「願いて則ち嚏す。〜願いて則ち懐む」
「願ってばかりで気が詰まる。願ってばかりで心が痛む。(渇望それ自体が心痛である。
仏教などでよく教えられることだが、この詩の成立は仏教創始以前でもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・終風より)
よく本人たちの言うことを味わいつつ「孟子」や「荀子」を読んでみれば、孟子の言い分には心の底から
突き動かされるような厚みがあることがうかがえる一方、荀子の言い分は薄っぺらくて、どこか読者の
機嫌をうかがうような下卑た態度と思えざるを得ないような所がある。孟子は孔子のいう「巧言令色」
を排している一方、荀子はそのあたりを排しきれていない。だからこそ存命中に李斯や韓非のような、
腐敗まみれな時の権力者に好まれるほどもの門弟を多数排出しもしたのだが、同時にそのせいで
李斯や韓非を拷問死や服毒死や一族郎党皆殺しのような非業の運命に追いやりもしたのだった。
結局、その学知の真偽については、孟子だけでなく荀子もそれなりの信憑性が置けるものである。
しかし、その自説の真偽については、孟子の自説のほうが真であり、荀子の自説のほうが偽であった。
性善説こそは真であり、性悪説こそは偽であるから、孟子の言行には心動かされる一方、荀子の言行には
目を見張る程度のことはあっても、心動かされるまでのことはない。そこが両者の優劣を決定的に分かっている。
人間の本性こそは善だから、本性を見失って悪人と化してしまった人間をその心から矯正して行って
やったりすることもできない。あくまで刑罰や身分差別のような厳酷な実力行使によって、本性の自省を
可能とできるような環境にまず持って行ってやらねばならない。実際のところ、世の中というものもそういう風に
していかなければ埒が明かないようにもなっているから、社会的な実証に即しても孟子の性善説のほうが真であり、
本性の悪を外的な礼儀礼節によって正して行くべきだとする荀子の自説のほうが偽であるとも断じられるのである。
突き動かされるような厚みがあることがうかがえる一方、荀子の言い分は薄っぺらくて、どこか読者の
機嫌をうかがうような下卑た態度と思えざるを得ないような所がある。孟子は孔子のいう「巧言令色」
を排している一方、荀子はそのあたりを排しきれていない。だからこそ存命中に李斯や韓非のような、
腐敗まみれな時の権力者に好まれるほどもの門弟を多数排出しもしたのだが、同時にそのせいで
李斯や韓非を拷問死や服毒死や一族郎党皆殺しのような非業の運命に追いやりもしたのだった。
結局、その学知の真偽については、孟子だけでなく荀子もそれなりの信憑性が置けるものである。
しかし、その自説の真偽については、孟子の自説のほうが真であり、荀子の自説のほうが偽であった。
性善説こそは真であり、性悪説こそは偽であるから、孟子の言行には心動かされる一方、荀子の言行には
目を見張る程度のことはあっても、心動かされるまでのことはない。そこが両者の優劣を決定的に分かっている。
人間の本性こそは善だから、本性を見失って悪人と化してしまった人間をその心から矯正して行って
やったりすることもできない。あくまで刑罰や身分差別のような厳酷な実力行使によって、本性の自省を
可能とできるような環境にまず持って行ってやらねばならない。実際のところ、世の中というものもそういう風に
していかなければ埒が明かないようにもなっているから、社会的な実証に即しても孟子の性善説のほうが真であり、
本性の悪を外的な礼儀礼節によって正して行くべきだとする荀子の自説のほうが偽であるとも断じられるのである。
聖書信仰が厳禁されていた江戸時代までと、
解禁された維新後とでは、極端な社会構造の変節が生じた。
道徳力や武力などの実力で世を治めていた武士がその立場を追われ、
実力なんか何もない代わりに、武士と小作人、武士と工匠などの仲介役を
ピエロ的な立場として担っていた、庄屋や問屋や豪商などが支配者に躍り出た。
「自由民権」だの「国民主権」だのの、欺瞞的な言葉遊びをあてがったところで、
「被支配者は支配者のあり方に倣う」という、易学にも根ざした普遍法則によって、
日本国民も元庄屋の政治家などのあり方に倣って、ろくでもない性格ばかりと化した。
為政者が武士のような一端の道徳者であれば、ちゃんと民までもが生真面目でいたのに、
おちゃらけピエロに過ぎない庄屋や問屋の出身者などが支配者と化したために、イヤでも
全国民がふざけきった道化のような佇まいであることを強制させられる破目となった。
そんなことがもう二度とないようにするためには、やはり武士並みの道徳者が為政者で
ある必要がある。武士並みの道徳者が為政者であるためには、人間道徳に致命的に反する
カルトの邪義の詰め合わせである聖書信仰の、完全に永久なる根絶もまた不可避なこと。
聖書信仰を根絶することで、確かに世の中の体質構造の着実な改善が見込める。
今の日本国民の勤勉さもまた、江戸時代までの徳治によってこそ養われたものなので、
このままその勤勉さを食いつぶすだけでは、いつかは日本人も聖書信者並みの畜群と
化してしまいかねない。日本国民の勤勉さや生真面目さを消費するだけではなく、
新たに補充してもいくために、さらには全世界の人々にも日本人並みの人としての
優秀さを広めていくために、聖書信仰の根絶による徳治の復興が有効であるといえる。
解禁された維新後とでは、極端な社会構造の変節が生じた。
道徳力や武力などの実力で世を治めていた武士がその立場を追われ、
実力なんか何もない代わりに、武士と小作人、武士と工匠などの仲介役を
ピエロ的な立場として担っていた、庄屋や問屋や豪商などが支配者に躍り出た。
「自由民権」だの「国民主権」だのの、欺瞞的な言葉遊びをあてがったところで、
「被支配者は支配者のあり方に倣う」という、易学にも根ざした普遍法則によって、
日本国民も元庄屋の政治家などのあり方に倣って、ろくでもない性格ばかりと化した。
為政者が武士のような一端の道徳者であれば、ちゃんと民までもが生真面目でいたのに、
おちゃらけピエロに過ぎない庄屋や問屋の出身者などが支配者と化したために、イヤでも
全国民がふざけきった道化のような佇まいであることを強制させられる破目となった。
そんなことがもう二度とないようにするためには、やはり武士並みの道徳者が為政者で
ある必要がある。武士並みの道徳者が為政者であるためには、人間道徳に致命的に反する
カルトの邪義の詰め合わせである聖書信仰の、完全に永久なる根絶もまた不可避なこと。
聖書信仰を根絶することで、確かに世の中の体質構造の着実な改善が見込める。
今の日本国民の勤勉さもまた、江戸時代までの徳治によってこそ養われたものなので、
このままその勤勉さを食いつぶすだけでは、いつかは日本人も聖書信者並みの畜群と
化してしまいかねない。日本国民の勤勉さや生真面目さを消費するだけではなく、
新たに補充してもいくために、さらには全世界の人々にも日本人並みの人としての
優秀さを広めていくために、聖書信仰の根絶による徳治の復興が有効であるといえる。
相手を貶めてから救ってやろうなどという、マッチポンプを作為的に講じようと
する者の心象というのは、本質的に「不埒」なものである。始めから危害などを
加えることなく仁政を施してやったりすることと比べて、明らかに最善を尽くす
姿勢ではない。不埒な遊び心によって他者に危害を加えて、それから救って
やろうとするのは、明らかに神の仮面をかぶった悪魔の所業であるといえる。
マッチポンプなど完全に排して、万人救済にかけての最善を尽くしたところで、
それで万人が救えるとも知れない。人間社会での仁政を尽くしても、予期せぬ
自然災害などによって人々が大きな危害を被ったりもする。そのような危害によって
人々が心を荒ませて、詐欺や強盗などの人為的危害を企てたりもしかねないから、
(ちょうど天明の大飢饉の直後に江戸中で火付け盗賊が横行したりしたように)
仁政にかけての最善策である「修己治人」の限りすらをも尽くしたとしても、
それで人々を心中から治めきれるかどうかすらもが知れないのである。
特に作為的に危害を加えたりしなくとも腐敗したりしやすいのが世の中というもの
だから、そこでさらにマッチポンプなどを講じたなら、必ずプラスマイナスゼロ
以下の悲惨な結果を招いてしまうのである。マッチポンプを講じようとする者たち
自身の心象もまた不埒なものだから、修己治人とは逆に人々の心を荒ませてしまい、
世の中の自ずからの腐敗を自然状態以上にも活性化すらさせてしまう。だから、
マッチポンプはプラスマイナスゼロ以下の結果を招くのみならず、世の中の
腐敗を大々的に推進して行く虐政のキャンペーンにすらなってしまうのである。
世の中を一概によくして行こうなどとまでせずとも、支配者が無為自然を決め込む
ことで、人々の自ずからの良心に基づく治世を実現して行くこともまた不可能ではない。
する者の心象というのは、本質的に「不埒」なものである。始めから危害などを
加えることなく仁政を施してやったりすることと比べて、明らかに最善を尽くす
姿勢ではない。不埒な遊び心によって他者に危害を加えて、それから救って
やろうとするのは、明らかに神の仮面をかぶった悪魔の所業であるといえる。
マッチポンプなど完全に排して、万人救済にかけての最善を尽くしたところで、
それで万人が救えるとも知れない。人間社会での仁政を尽くしても、予期せぬ
自然災害などによって人々が大きな危害を被ったりもする。そのような危害によって
人々が心を荒ませて、詐欺や強盗などの人為的危害を企てたりもしかねないから、
(ちょうど天明の大飢饉の直後に江戸中で火付け盗賊が横行したりしたように)
仁政にかけての最善策である「修己治人」の限りすらをも尽くしたとしても、
それで人々を心中から治めきれるかどうかすらもが知れないのである。
特に作為的に危害を加えたりしなくとも腐敗したりしやすいのが世の中というもの
だから、そこでさらにマッチポンプなどを講じたなら、必ずプラスマイナスゼロ
以下の悲惨な結果を招いてしまうのである。マッチポンプを講じようとする者たち
自身の心象もまた不埒なものだから、修己治人とは逆に人々の心を荒ませてしまい、
世の中の自ずからの腐敗を自然状態以上にも活性化すらさせてしまう。だから、
マッチポンプはプラスマイナスゼロ以下の結果を招くのみならず、世の中の
腐敗を大々的に推進して行く虐政のキャンペーンにすらなってしまうのである。
世の中を一概によくして行こうなどとまでせずとも、支配者が無為自然を決め込む
ことで、人々の自ずからの良心に基づく治世を実現して行くこともまた不可能ではない。
それがいわゆる道家的統治というもので、前漢の五代文帝の統治などがその成功例
として史実上にも存在するが、仮にマッチポンプの支配を講じたのならば、そのような
無為自然の統治による治世すらもが期待できなくなる。為政者が安静を決め込むという
こと自体一つの修己治人であり、情動にかられやすい小民たちにとっての鎮静剤的な
役割を果たすものであるけれども、マッチポンプを講ずる支配者にはそのような虚勢さ
も伴っていないものだから、無為自然の統治とも相容れることがないのである。
結局、マッチポンプを基調とした支配というのは最悪級の支配構造であるわけで、
ただただ被支配者を一方的に痛めつけ尽くすのが「悪の支配」であるとするならば、
貶めて救うマッチポンプの支配は「偽善の支配」であるといえ、これもまた本質的には
悪の支配であるといえる。秦帝国による支配のようなあからさまな悪逆非道の支配と
比べれば、被支配者に「気休め」の余地が生ずるから、マッチポンプによる偽善の支配
はより延命が可能であるという点のみが異なる。無論、延命を講じた結果としてより
悲惨な破滅的結果を招いたりもしかねないわけだから、一概な悪逆非道の支配と
比べてマシな支配であるということすらない。五十歩百歩の虐政同士として、
早急かつ恒久的な撲滅の対象としていくに越したことはないものであるといえる。
「慈しめば則ち忠たり」
「支配者が慈しみ深くあれば、被支配者もまた忠義深くなる。
(真に慈しみ深い支配者の下には、懲らしめの対象にしていいような被支配者もいないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・為政第二・二〇より)
として史実上にも存在するが、仮にマッチポンプの支配を講じたのならば、そのような
無為自然の統治による治世すらもが期待できなくなる。為政者が安静を決め込むという
こと自体一つの修己治人であり、情動にかられやすい小民たちにとっての鎮静剤的な
役割を果たすものであるけれども、マッチポンプを講ずる支配者にはそのような虚勢さ
も伴っていないものだから、無為自然の統治とも相容れることがないのである。
結局、マッチポンプを基調とした支配というのは最悪級の支配構造であるわけで、
ただただ被支配者を一方的に痛めつけ尽くすのが「悪の支配」であるとするならば、
貶めて救うマッチポンプの支配は「偽善の支配」であるといえ、これもまた本質的には
悪の支配であるといえる。秦帝国による支配のようなあからさまな悪逆非道の支配と
比べれば、被支配者に「気休め」の余地が生ずるから、マッチポンプによる偽善の支配
はより延命が可能であるという点のみが異なる。無論、延命を講じた結果としてより
悲惨な破滅的結果を招いたりもしかねないわけだから、一概な悪逆非道の支配と
比べてマシな支配であるということすらない。五十歩百歩の虐政同士として、
早急かつ恒久的な撲滅の対象としていくに越したことはないものであるといえる。
「慈しめば則ち忠たり」
「支配者が慈しみ深くあれば、被支配者もまた忠義深くなる。
(真に慈しみ深い支配者の下には、懲らしめの対象にしていいような被支配者もいないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・為政第二・二〇より)
人間が世の中を健全に営んでいくためには、必ず一定以上の精神力が必要となる。文明社会というもの
からして人間にこそ特有のものであり、動物レベルの知能で作り上げられたりするようなものではない。
ライオンやクマのような猛獣ですら、大きな音や火を恐れたりするほどにも臆病であり、人間にこそ
特有な精神力の旺盛さに根ざした大勇などを抱けたりすることもない。人間こそは万物の霊長であるが、
そうあらしめているのも他でもない、動物以上にも突出した精神力の高さなのであり、その精神力に
よってのみ、発達した脳が司っている知能を健全に活用していくことまでもが可能となるのである。
人間としての発達した知能に見合った精神力が伴っている場合にのみ、人は健全な社会活動を営むことが
できる。そうであるからには、精神力の旺盛な人間にほど大きな社会的役割を担わせるべきであり、
貧弱な精神力しか持ち合わせていないような人間は軽い役割や無役に止めさせるべきだといえる。
知能自体は、四書五経を読みこなせる程度の能力があれば十分である。それ以上の知能があっても
精神のほうが薄弱だったりするようじゃ、大いなる悪知恵を存分に悪用するようなことになるだけだし、
高度な知能も精神力も兼ね備えているとした所で、社会的な大役などよりは、高僧としての大成あたり
のほうが見合うことになる。突出した知能の高さがかえって、仁者同士の和を乱すようなことにすら
なりかねないから、高度な知能も精神力もあるような人間は、もはや全ての俗人が畏敬するに値する
ような立場にいてくれてもらったほうがよかったりするのである。旺盛な精神力と高度な知能を
兼ね備えている人間などというものがどうしたって少数派であらざるを得ないからこそ、そう言えるのだ。
からして人間にこそ特有のものであり、動物レベルの知能で作り上げられたりするようなものではない。
ライオンやクマのような猛獣ですら、大きな音や火を恐れたりするほどにも臆病であり、人間にこそ
特有な精神力の旺盛さに根ざした大勇などを抱けたりすることもない。人間こそは万物の霊長であるが、
そうあらしめているのも他でもない、動物以上にも突出した精神力の高さなのであり、その精神力に
よってのみ、発達した脳が司っている知能を健全に活用していくことまでもが可能となるのである。
人間としての発達した知能に見合った精神力が伴っている場合にのみ、人は健全な社会活動を営むことが
できる。そうであるからには、精神力の旺盛な人間にほど大きな社会的役割を担わせるべきであり、
貧弱な精神力しか持ち合わせていないような人間は軽い役割や無役に止めさせるべきだといえる。
知能自体は、四書五経を読みこなせる程度の能力があれば十分である。それ以上の知能があっても
精神のほうが薄弱だったりするようじゃ、大いなる悪知恵を存分に悪用するようなことになるだけだし、
高度な知能も精神力も兼ね備えているとした所で、社会的な大役などよりは、高僧としての大成あたり
のほうが見合うことになる。突出した知能の高さがかえって、仁者同士の和を乱すようなことにすら
なりかねないから、高度な知能も精神力もあるような人間は、もはや全ての俗人が畏敬するに値する
ような立場にいてくれてもらったほうがよかったりするのである。旺盛な精神力と高度な知能を
兼ね備えている人間などというものがどうしたって少数派であらざるを得ないからこそ、そう言えるのだ。
人は、勧善懲悪や断悪修善の楽しみ、それに最低限悪を為さないでいることの安らぎを
知ればこそ、好き好んで悪を為すことが一概な苦しみであるが故の恥というものを知る。
「悪を為すということは、善を為すことや悪を為さないことと比べれば根本的な苦しみである」
という事実関係への知悉もないままに、好き好んで悪を為すことで苦しんでいるわけだから、
それが根本的無知ゆえの自業自得の苦しみであるが故に、恥であると見なせるのである。
盗みや殺人のような罪悪を好き好んで積み重ねようとする邪神などもまた、己れの恥さらし
加減もわきまえぬ無知の象徴でこそある。そんな神が実在した所で「頭隠して尻隠さず」の
恥さらしだし、架空の神であるとしたなら、そんな神を思いついて捏造した人間たち自身が
物事の本質をろくにわきまえることもできない痴人であったことが紛れもないのである。
人が限りある命を持つ生き物として、また永久不変の絶対真理すらをも理解できる存在として
本当に知っておくべき物事というのは、多いようでいて実は限られている。上の罪福異熟に
まつわる知識などはそのうちの一つであり、このような事実関係すらをも了解していない
ことこそは根本的無知にあたり、まだまだ全知全能などをめざすどころの話ですらない。
一応知識としては把握しているが、雑多な知識に惑わされてその重要性を疎かにし、
そんなことがないにもかかわらず「そうでない場合もあり得る」というような知見の変節に
及んでしまうことがある、これもまた根本的無知の一つであるといえ、そもそも大切なことを
始めから知らないでいた場合以上にも、その過ちを正してやることが困難なものだったりする。
知ればこそ、好き好んで悪を為すことが一概な苦しみであるが故の恥というものを知る。
「悪を為すということは、善を為すことや悪を為さないことと比べれば根本的な苦しみである」
という事実関係への知悉もないままに、好き好んで悪を為すことで苦しんでいるわけだから、
それが根本的無知ゆえの自業自得の苦しみであるが故に、恥であると見なせるのである。
盗みや殺人のような罪悪を好き好んで積み重ねようとする邪神などもまた、己れの恥さらし
加減もわきまえぬ無知の象徴でこそある。そんな神が実在した所で「頭隠して尻隠さず」の
恥さらしだし、架空の神であるとしたなら、そんな神を思いついて捏造した人間たち自身が
物事の本質をろくにわきまえることもできない痴人であったことが紛れもないのである。
人が限りある命を持つ生き物として、また永久不変の絶対真理すらをも理解できる存在として
本当に知っておくべき物事というのは、多いようでいて実は限られている。上の罪福異熟に
まつわる知識などはそのうちの一つであり、このような事実関係すらをも了解していない
ことこそは根本的無知にあたり、まだまだ全知全能などをめざすどころの話ですらない。
一応知識としては把握しているが、雑多な知識に惑わされてその重要性を疎かにし、
そんなことがないにもかかわらず「そうでない場合もあり得る」というような知見の変節に
及んでしまうことがある、これもまた根本的無知の一つであるといえ、そもそも大切なことを
始めから知らないでいた場合以上にも、その過ちを正してやることが困難なものだったりする。
特に大切なことを先天的にも後天的にも知らない、知ってはいるが有害な知識に惑わされて
その重要性へのわきまえを決定的に疎かにしてしまっている、この二つの根本的無知こそは、
時に世の中を破滅へと追いやる程もの害悪の元凶となる。もちろん、そんな連中が世の中を
主導的に形作って来たりしているのでもなく、良識ある人々が予め形作っていた世の中に
後から寄生して害悪を撒き散らしているガン細胞人種であったりするのみである。
世の中というものがどういった源流から形作られて来たのかも知らな至らず者であるもの
だから、創世それ自体を超越神に偽託して、自分たちによる世の中の損壊を当該の超越神に
よる采配などに見立てたりする。それら全てが人間自身の悪業としての欺瞞であり、
権力機構に政商などの詐欺行為が蔓延することを抑止することなどで防がれても行く。
(無論、権力詐欺に依存し過ぎた挙句に国ごとの崩壊を招くこともある)
先天後天にかかわらず、本当にわきまえておくべき知見こそを大事にして来た人々こそは
この世の中を地盤から形作り、無知者が多少のやんちゃをやらかした所で丸く収まる程もの
磐石さすらをも確立して来た。根本的無知者が世界の創始を無責任な超越神に偽託して
破壊活動をやらかしても多少は持つ程度の猶予が生じたのも、そんな無責任な振る舞いに
及ぶことなく世の中を根本から形作ってきた人々がいたからこそなのであり、そのような
人々への感謝と尊敬の念を育むことで、不実な超越神への幻想などを捨て去るべきなのである。
「謀閉じて興らず、盗竊乱賊而かも作らず、故に外戸を閉じず、是れを大同と謂う」
「陰謀も絶え、盗みや乱暴の類いも起こらなくなったため、人々も家の戸を閉める
ことすらない。これを『大同』と言い、大道の行われている治世ならではの現象とする。
(好んで大道の行われない乱世をもたらそうとすることにも恥を知るべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
その重要性へのわきまえを決定的に疎かにしてしまっている、この二つの根本的無知こそは、
時に世の中を破滅へと追いやる程もの害悪の元凶となる。もちろん、そんな連中が世の中を
主導的に形作って来たりしているのでもなく、良識ある人々が予め形作っていた世の中に
後から寄生して害悪を撒き散らしているガン細胞人種であったりするのみである。
世の中というものがどういった源流から形作られて来たのかも知らな至らず者であるもの
だから、創世それ自体を超越神に偽託して、自分たちによる世の中の損壊を当該の超越神に
よる采配などに見立てたりする。それら全てが人間自身の悪業としての欺瞞であり、
権力機構に政商などの詐欺行為が蔓延することを抑止することなどで防がれても行く。
(無論、権力詐欺に依存し過ぎた挙句に国ごとの崩壊を招くこともある)
先天後天にかかわらず、本当にわきまえておくべき知見こそを大事にして来た人々こそは
この世の中を地盤から形作り、無知者が多少のやんちゃをやらかした所で丸く収まる程もの
磐石さすらをも確立して来た。根本的無知者が世界の創始を無責任な超越神に偽託して
破壊活動をやらかしても多少は持つ程度の猶予が生じたのも、そんな無責任な振る舞いに
及ぶことなく世の中を根本から形作ってきた人々がいたからこそなのであり、そのような
人々への感謝と尊敬の念を育むことで、不実な超越神への幻想などを捨て去るべきなのである。
「謀閉じて興らず、盗竊乱賊而かも作らず、故に外戸を閉じず、是れを大同と謂う」
「陰謀も絶え、盗みや乱暴の類いも起こらなくなったため、人々も家の戸を閉める
ことすらない。これを『大同』と言い、大道の行われている治世ならではの現象とする。
(好んで大道の行われない乱世をもたらそうとすることにも恥を知るべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
「瞻るとして父に匪ざるは靡く、依るとして母に匪ざるは靡し。
毛もてにも属さず、裹にも罹かずんば、天の我れを生むも、我れ辰の安くにか在らん(既出)」
「実父ほどに見習うべきものはなく、実母ほどにより所とすべきものは本来ほかにない。もし実父にも属せず、
実母に添うこともできないというのなら、仮に天神が我れを産んだのだとしても、全くの不遇というもの」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小弁より)
もしも自らが孝の理念に即して父母を敬いの対象とし、老いては介助の対象としたりもしたならば、
それが自分を産み育ててきてくれた相手への恩返しともなって、自らの依存性を打ち消す効能をも持ち得る。
そしたら卑俗な奴隷的根性などもなくなって、本物の独立心を持って物事に臨んでいくことができる
ようにもなる。自らが禄を頂く相手としての主君を敬う場合なども同様の効果を伴う一方、依り頼みと
尊崇の差し引きが必ずしもゼロとならないような関係においては、かえって依存心を募らせることともなる。
架空の超越神への信者の信仰だとか、商売人の顧客への敬いだとかは、依り頼みよりも尊崇の度合いのほう
が多かったり少なかったりするものだから、依存心をより募らせることともなる。虚構神への信仰なぞは、
依り頼む所よりも尊崇の度合いのほうが多かったりするわけだが、それでも依存心を募らせる原因となる。
それは、本当に経済的にも依り頼む所であった父母なり主君なりへの尊崇を蔑ろにしてまで、
虚構神なぞへの尊崇に励んでいるからであり、本当に敬うべき相手への尊崇を怠っているが
故の罪悪感を紛らわすためにこそ、不健全な依存心をも募らせていくこととなるのである。
何者をも敬いの対象としないニヒリストやアナーキストだからといって、依存心を脱却できるわけでもない。
ニーチェなぞも「永遠と言う名の指輪を愛す」云々と、奇形的な依存心を結局は募らせていったわけで、
本当に自らの依存心を乗り越えて精神面からの大人になって行くためにこそ、むしろ父母や主君の如き
恩ある相手への実を伴った尊崇による恩返しを講じて行く必要があるのである。
毛もてにも属さず、裹にも罹かずんば、天の我れを生むも、我れ辰の安くにか在らん(既出)」
「実父ほどに見習うべきものはなく、実母ほどにより所とすべきものは本来ほかにない。もし実父にも属せず、
実母に添うこともできないというのなら、仮に天神が我れを産んだのだとしても、全くの不遇というもの」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小弁より)
もしも自らが孝の理念に即して父母を敬いの対象とし、老いては介助の対象としたりもしたならば、
それが自分を産み育ててきてくれた相手への恩返しともなって、自らの依存性を打ち消す効能をも持ち得る。
そしたら卑俗な奴隷的根性などもなくなって、本物の独立心を持って物事に臨んでいくことができる
ようにもなる。自らが禄を頂く相手としての主君を敬う場合なども同様の効果を伴う一方、依り頼みと
尊崇の差し引きが必ずしもゼロとならないような関係においては、かえって依存心を募らせることともなる。
架空の超越神への信者の信仰だとか、商売人の顧客への敬いだとかは、依り頼みよりも尊崇の度合いのほう
が多かったり少なかったりするものだから、依存心をより募らせることともなる。虚構神への信仰なぞは、
依り頼む所よりも尊崇の度合いのほうが多かったりするわけだが、それでも依存心を募らせる原因となる。
それは、本当に経済的にも依り頼む所であった父母なり主君なりへの尊崇を蔑ろにしてまで、
虚構神なぞへの尊崇に励んでいるからであり、本当に敬うべき相手への尊崇を怠っているが
故の罪悪感を紛らわすためにこそ、不健全な依存心をも募らせていくこととなるのである。
何者をも敬いの対象としないニヒリストやアナーキストだからといって、依存心を脱却できるわけでもない。
ニーチェなぞも「永遠と言う名の指輪を愛す」云々と、奇形的な依存心を結局は募らせていったわけで、
本当に自らの依存心を乗り越えて精神面からの大人になって行くためにこそ、むしろ父母や主君の如き
恩ある相手への実を伴った尊崇による恩返しを講じて行く必要があるのである。
そして、そのような手段に即した完全なる依存心の脱却の先にこそ、孟子が「浩然の気」とも呼んだような
満足至極な境地が得られもする。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」でのイワンの譫妄症罹患の
描写などに代表されるように、依存心を持つことこそは道徳的なこととされているキリスト教圏などに
おいては、依存心がなければ人は心を病むかの如く思い込まれてすらいる。とはいえそれも、「依存心を
捨てるためにはニヒリストやアナーキストにならなければならない」という思い違いに即しているのであり、
それはかえって奇形的な依存心を募らせることになるからこそ、心を病む原因ともなってしまうのである。
虚構神などへの依存状態が麻薬中毒なら、ニヒリズムの狂気は麻薬中毒者のバッドトリップだといえる。
親や祖神や主君らへの尊崇を通じて本当に依存性から脱却して行くことが、麻薬中毒の克服となる。
女子供までもが必ずしも満たすべき条件でまではないが、大人の男ならぜひ克服すべきことだといえる。
「既に内自ら尽くし、又た外に助けを求む。昏礼是れなり。故に国君夫人を取るの辞に曰く、
君の玉女と共に、寡人と共に敝邑を有ち、宗廟社稷に事うることを請うと。此れ助けを求むるの本なり」
「できる限り自分自身が内実からの努力を尽くしてから、初めて外にも助けを求めるようにもする。
婚礼などもその一つであり、主君が不仁を娶る場合などにも、『願わくばよき妻と共にわが国を保ち、
社稷宋廟に仕えて行かんことを』と、共に成すべきことを前面に押し出した辞を述べるのである。これこそは
人が誰かに助けを求めて共なす手本とすべきあり方だといえる。(ただただ依存する相手などいるべきでない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭統第二十五より)
満足至極な境地が得られもする。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」でのイワンの譫妄症罹患の
描写などに代表されるように、依存心を持つことこそは道徳的なこととされているキリスト教圏などに
おいては、依存心がなければ人は心を病むかの如く思い込まれてすらいる。とはいえそれも、「依存心を
捨てるためにはニヒリストやアナーキストにならなければならない」という思い違いに即しているのであり、
それはかえって奇形的な依存心を募らせることになるからこそ、心を病む原因ともなってしまうのである。
虚構神などへの依存状態が麻薬中毒なら、ニヒリズムの狂気は麻薬中毒者のバッドトリップだといえる。
親や祖神や主君らへの尊崇を通じて本当に依存性から脱却して行くことが、麻薬中毒の克服となる。
女子供までもが必ずしも満たすべき条件でまではないが、大人の男ならぜひ克服すべきことだといえる。
「既に内自ら尽くし、又た外に助けを求む。昏礼是れなり。故に国君夫人を取るの辞に曰く、
君の玉女と共に、寡人と共に敝邑を有ち、宗廟社稷に事うることを請うと。此れ助けを求むるの本なり」
「できる限り自分自身が内実からの努力を尽くしてから、初めて外にも助けを求めるようにもする。
婚礼などもその一つであり、主君が不仁を娶る場合などにも、『願わくばよき妻と共にわが国を保ち、
社稷宋廟に仕えて行かんことを』と、共に成すべきことを前面に押し出した辞を述べるのである。これこそは
人が誰かに助けを求めて共なす手本とすべきあり方だといえる。(ただただ依存する相手などいるべきでない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭統第二十五より)
結婚の辞で、
「○○子を一生大事にします」とか言われないわけだよ。
「○○子と一緒によりよい世の中を作り上げていきます」と言わなければならない。
それが不可能であるようなら、離婚も辞さないぐらいの覚悟でな。
「○○子を一生大事にします」とか言われないわけだよ。
「○○子と一緒によりよい世の中を作り上げていきます」と言わなければならない。
それが不可能であるようなら、離婚も辞さないぐらいの覚悟でな。
禅門などでは、自分たちが自力作善による現世往生を志す「一世教」であることに合わせて、
他力本願の来世往生を希う浄土信仰やアブラハム教などを「二世教」と呼ぶ場合がある。
当然自分たちが一世教の帰依者であるわけだから、それこそは至上であるとしている
わけだけれども、二世教が世界的な猛威を振るっていることなどにも対応して、
「二世教で満足できるようなものはそうすればいい」などとも言ったりしている。
(以上は玄峰老師が「無門関提唱」で論じられていたことの略抄でもある)
ただ、やはり二世教ばかりが「宗教の王道」として世界的に持て囃されている現代世界こそは、
人類が滅亡の危機に見舞われているほどもの乱世でもある。現世を蔑ろにして来世を希ってばかり
いるわけだから、当然現世のほうは荒廃に見舞われていくこととなる。「だからこそ来世での
往生を願う」ではなく、来世の往生ばかりに囚われた結果、現世の破滅を招いているのである。
日本浄土教などは、公家の腐敗と武家の専横が深刻化したことにより乱世がもたらされて後、
鎌倉時代の中期に法然上人や親鸞聖人によって初めて民間にまで行き渡ったものであり、
(それ以前にも空也上人などによる布教があったが、まだ勢力を擁するまでには至らなかった)
乱世が別の理由でもたらされてから、仕方なく来世での極楽浄土への往生を願うという順序を
辛うじて守っている。だからこそ、来世往生ばかりを乞い求めた結果、自分たちが現世を
蔑ろにして乱世を招いたなどということにはなっていないことまでもが確かとなっている。
キリスト教などは、そうではないのである。妾腹の私生児が妄言妄動を来たした挙句に
無実の罪で重罪人の代わりに処刑されたという、かの世界一有名な疑獄事件が人々に決定的な
心の荒廃を植え付けた結果として、西洋社会やイスラム勃興以前の中東社会が暗黒の世へと
陥れられたのである。そこから来世での往生というものを信者に希うよう強要しているわけだから、
こちらの場合は、自分たちで破滅を招いておいて来世往生を欲するという、醜悪なマッチポンプ
としての条件を満たしてしまっているのである。(そのキリスト教の撃退を目的として創立された
イスラム教などは、教義の良し悪しはともかくとして、マッチポンプの条件は満たしていない)
他力本願の来世往生を希う浄土信仰やアブラハム教などを「二世教」と呼ぶ場合がある。
当然自分たちが一世教の帰依者であるわけだから、それこそは至上であるとしている
わけだけれども、二世教が世界的な猛威を振るっていることなどにも対応して、
「二世教で満足できるようなものはそうすればいい」などとも言ったりしている。
(以上は玄峰老師が「無門関提唱」で論じられていたことの略抄でもある)
ただ、やはり二世教ばかりが「宗教の王道」として世界的に持て囃されている現代世界こそは、
人類が滅亡の危機に見舞われているほどもの乱世でもある。現世を蔑ろにして来世を希ってばかり
いるわけだから、当然現世のほうは荒廃に見舞われていくこととなる。「だからこそ来世での
往生を願う」ではなく、来世の往生ばかりに囚われた結果、現世の破滅を招いているのである。
日本浄土教などは、公家の腐敗と武家の専横が深刻化したことにより乱世がもたらされて後、
鎌倉時代の中期に法然上人や親鸞聖人によって初めて民間にまで行き渡ったものであり、
(それ以前にも空也上人などによる布教があったが、まだ勢力を擁するまでには至らなかった)
乱世が別の理由でもたらされてから、仕方なく来世での極楽浄土への往生を願うという順序を
辛うじて守っている。だからこそ、来世往生ばかりを乞い求めた結果、自分たちが現世を
蔑ろにして乱世を招いたなどということにはなっていないことまでもが確かとなっている。
キリスト教などは、そうではないのである。妾腹の私生児が妄言妄動を来たした挙句に
無実の罪で重罪人の代わりに処刑されたという、かの世界一有名な疑獄事件が人々に決定的な
心の荒廃を植え付けた結果として、西洋社会やイスラム勃興以前の中東社会が暗黒の世へと
陥れられたのである。そこから来世での往生というものを信者に希うよう強要しているわけだから、
こちらの場合は、自分たちで破滅を招いておいて来世往生を欲するという、醜悪なマッチポンプ
としての条件を満たしてしまっているのである。(そのキリスト教の撃退を目的として創立された
イスラム教などは、教義の良し悪しはともかくとして、マッチポンプの条件は満たしていない)
「郊の祭は、大いに天に報いて日を主とし、月を以って配する。
夏后氏は其の闇に祭し、殷人は其の陽に祭す。周人は日を祭るに朝を以って闇に及ぶ」
「天神地祇を祀る祭においては、大いに天の恵みを尊んで日を主神とし、月を副神とする。
夏王朝では暗い夜の内に祭を行ったが、殷王朝では明るい朝昼の内に祭を行った。
周朝においては、日月の神を祀るために朝から晩まで祭りを行った」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
始め、まだ治世が磐石であった夏王朝の頃には、晩時に日月の神を祀るだけで済んでいた。
しかし、桀王のごとき暴君が現れて湯王がそれを放伐し、殷王朝を立ち上げて後には、
より一層の権力の防腐を図るために、気の引き締まりやすい日中の内にだけ郊祀を行うようになった。
しかし、その反動でこれまた極度の腐敗を招き、末代の紂王の頃には王宮の窓という窓を塞いで
昼となく夜となく宴会を繰り返すようなザマを招いた。そのため、次代の周王朝では昼だけでなく
夜にも祭りを行うようにして、昼夜の清濁を併せ呑むことでの安定を図って行ったのだった。
日中にしか郊祭を執り行っていなかった殷人たちも、それを堅苦しいことだと感じていたのである。
だからこそ末代の紂王も、王宮の窓という窓を閉ざしての万年夜遊び状態すらをも欲したのだ。
そして中国史上にも屈指の大破綻からなる亡国を招いた。紂王の所業を是とするような余地も
当然ありはしないが、日中にしか祭を行わなかった殷の伝統もまた清廉に過ぎたと言え、
昼にも夜にも祭りを行った周の風習こそは中庸にも適っていたものだといえる。
その周朝の風習に倣って、昼にも夜にも祭を行っている日本においては、厳粛な祭りは日中の内に、
夜店も軒を連ねるようなざっくばらんとした祭りは夜の内にといった風な扱い分けを講じている。
中には夜祭を主体としているような祭りもあり、ぼんぼりだ花火だといったイルミネーションにも通ずる
ような風物詩を売りとしているようなものもある。決してそれを全否定したりする必要はないのであり、
ただその度が越して、万年夜遊び状態になってしまうようなことにすらならなければいいのである。
夏后氏は其の闇に祭し、殷人は其の陽に祭す。周人は日を祭るに朝を以って闇に及ぶ」
「天神地祇を祀る祭においては、大いに天の恵みを尊んで日を主神とし、月を副神とする。
夏王朝では暗い夜の内に祭を行ったが、殷王朝では明るい朝昼の内に祭を行った。
周朝においては、日月の神を祀るために朝から晩まで祭りを行った」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
始め、まだ治世が磐石であった夏王朝の頃には、晩時に日月の神を祀るだけで済んでいた。
しかし、桀王のごとき暴君が現れて湯王がそれを放伐し、殷王朝を立ち上げて後には、
より一層の権力の防腐を図るために、気の引き締まりやすい日中の内にだけ郊祀を行うようになった。
しかし、その反動でこれまた極度の腐敗を招き、末代の紂王の頃には王宮の窓という窓を塞いで
昼となく夜となく宴会を繰り返すようなザマを招いた。そのため、次代の周王朝では昼だけでなく
夜にも祭りを行うようにして、昼夜の清濁を併せ呑むことでの安定を図って行ったのだった。
日中にしか郊祭を執り行っていなかった殷人たちも、それを堅苦しいことだと感じていたのである。
だからこそ末代の紂王も、王宮の窓という窓を閉ざしての万年夜遊び状態すらをも欲したのだ。
そして中国史上にも屈指の大破綻からなる亡国を招いた。紂王の所業を是とするような余地も
当然ありはしないが、日中にしか祭を行わなかった殷の伝統もまた清廉に過ぎたと言え、
昼にも夜にも祭りを行った周の風習こそは中庸にも適っていたものだといえる。
その周朝の風習に倣って、昼にも夜にも祭を行っている日本においては、厳粛な祭りは日中の内に、
夜店も軒を連ねるようなざっくばらんとした祭りは夜の内にといった風な扱い分けを講じている。
中には夜祭を主体としているような祭りもあり、ぼんぼりだ花火だといったイルミネーションにも通ずる
ような風物詩を売りとしているようなものもある。決してそれを全否定したりする必要はないのであり、
ただその度が越して、万年夜遊び状態になってしまうようなことにすらならなければいいのである。

したりするものではない。面白くないからといって止めるべきようなものではなく、むしろ気を
引き締めるためにこそ執り行うべきものである。その引き締まりがあってこそ、夜祭を健全な範囲で
楽しんで行くこともできるのだから、おかしな理由で取りやめるようなことがあってはならない。
人間の視力では、日中には視野が開け、夜間には視野が狭まる。日中にこそ、まさに全てが白日の下に
さらけ出されて、ごまかしの余地もなくなる。その潔癖さと共にでも清清しくいられるということが
一つの人間としての品位高さであり、君子たる人間であれば当然備えていなければならぬものである。
その品位高さを育むためにこそ日中の厳粛な祭りなども執り行うべきであるわけだが、夏王朝の頃の人々
のように、そのような品位高さを予め備えていればこそ、祭りなどは夜にしか行わなかった例もある。
近代以降の日本などでは、日中の仕事が倍増して忙しくなったものだから、諸々の祭りを
夜間だけに執り行うようなことが多くなった。これは、日中の仕事が曜日制で厳しく管理される
ようにもなったなどの制度上の理由があってものことであり、日本人が日中にも清清しくいられる
品位高さを得られるようになったからそうしたわけなどでは決してない。むしろ、日中に行う仕事
などは辛いものであるという割り切りと共にそうなったわけで、仕事の後の酔いつぶれなどを欲する
頻度もより高まることとなった。これは、日中にだけ執り行っていた祭りが形骸化して人々にとっての
重荷となり、挙句に紂王の万年夜遊び状態を招いた末期の殷のあり方などにも酷似した姿だといえる。
手法をこれとばかりに限る必要はないが、日中の事業をイヤイヤながらの義務などと感じてしまう
ような事態に陥らないようにしていくことが肝要だといえる。そうなってしまってから、日光からの
逃避を促すような邪神への帰依にすら人々が陥ったりしてしまったなら、もう終わりだと言える。
むしろ夜間に執り行う祭すら、日月のためであるぐらいでなければならないのである。
俺が謝罪しろというのは天皇スレではない。
責めたい気持ちも俺も無礼なことを言ってきたので心当たりがあるが
口座の残高を元に、「呪い」等の勘違いを重ねた上に
犬と罵倒したことだ。勘違いの上の発言だけに
改めて罵倒するのか、それとも謝罪するのかはっきりしてもらえないか。
責めたい気持ちも俺も無礼なことを言ってきたので心当たりがあるが
口座の残高を元に、「呪い」等の勘違いを重ねた上に
犬と罵倒したことだ。勘違いの上の発言だけに
改めて罵倒するのか、それとも謝罪するのかはっきりしてもらえないか。
自分自身に何らかの能力があったりするからではなく、わが身わが命が親先祖から
頂いたものであるからこそ貴いということがある。しかし、ただそれだけでは
親先祖への依存心を帯びることともなるから、実践と尊敬を伴う孝養を尽くすことで、
自分が親先祖への依存心を脱却して行くようにもする。(>>160-161を参照)すると、
自らの先天的な貴さと独立心とを兼ね備えた立派な大人へと成長して行けるようになる。
そこにこそ、わざわざ自分から偉ぶったりすることもない、磐石な自尊心が生じもする。
「自分自身が貴いからこそ偉ぶる」ということにもならず、「自分自身に頭が下がる
思いとなるから、誰しもに対して恭しくあろうともする」ということになる。自分自身
への尊崇が不足しているか、もしくは虚構の尊崇であるからこそ偉ぶったりもするのであり、
それをして「自尊心を持つことは悪いことだ」などと決め付けるのもおかしいのである。
本当のところ、自分が貴い存在だなどとは思えない、心中の底の底の部分に自分自身を
蔑むような思いがくすぶっているものだから、自分を尊ぼうとした所で演技止まりとなる。
演技なものだから考えが上ずって、自分を尊ぶのと引き換えに他人を蔑むようなことともなる。
確かに、そんな虚構の自尊心を持つぐらいなら持たないでいたほうがいいとも言えるわけで、
そんな人間と比べれば、宗教信仰が敬虔であるような人間のほうが見てくれ真摯だったり
もするものだから、自らを賤しんでまで信仰に敬虔で居させるような信教に帰依して
いるほうがマシだということにすらなってしまいかねないのである。
確かに、自らを卑下してまで神仏に拠り縋るような類いの信教もまた、必ずしもあっては
ならないものとまでは言えないのである。そういう志向性の信教であって、なおかつ信者
に社会的冷遇への甘んじをも受け入れさせるような教義をも持ち合わせているようなら、
特に問題はない。底辺の百姓や部落民あたりに阿弥陀仏への他力本願を促していた浄土教
などはその条件を満たしており、自尊心の持ちようもない被差別対象となるような人間が
未だこの世に存在せざるを得ない以上は、そういうものもまた必要悪となり得るのである。
頂いたものであるからこそ貴いということがある。しかし、ただそれだけでは
親先祖への依存心を帯びることともなるから、実践と尊敬を伴う孝養を尽くすことで、
自分が親先祖への依存心を脱却して行くようにもする。(>>160-161を参照)すると、
自らの先天的な貴さと独立心とを兼ね備えた立派な大人へと成長して行けるようになる。
そこにこそ、わざわざ自分から偉ぶったりすることもない、磐石な自尊心が生じもする。
「自分自身が貴いからこそ偉ぶる」ということにもならず、「自分自身に頭が下がる
思いとなるから、誰しもに対して恭しくあろうともする」ということになる。自分自身
への尊崇が不足しているか、もしくは虚構の尊崇であるからこそ偉ぶったりもするのであり、
それをして「自尊心を持つことは悪いことだ」などと決め付けるのもおかしいのである。
本当のところ、自分が貴い存在だなどとは思えない、心中の底の底の部分に自分自身を
蔑むような思いがくすぶっているものだから、自分を尊ぼうとした所で演技止まりとなる。
演技なものだから考えが上ずって、自分を尊ぶのと引き換えに他人を蔑むようなことともなる。
確かに、そんな虚構の自尊心を持つぐらいなら持たないでいたほうがいいとも言えるわけで、
そんな人間と比べれば、宗教信仰が敬虔であるような人間のほうが見てくれ真摯だったり
もするものだから、自らを賤しんでまで信仰に敬虔で居させるような信教に帰依して
いるほうがマシだということにすらなってしまいかねないのである。
確かに、自らを卑下してまで神仏に拠り縋るような類いの信教もまた、必ずしもあっては
ならないものとまでは言えないのである。そういう志向性の信教であって、なおかつ信者
に社会的冷遇への甘んじをも受け入れさせるような教義をも持ち合わせているようなら、
特に問題はない。底辺の百姓や部落民あたりに阿弥陀仏への他力本願を促していた浄土教
などはその条件を満たしており、自尊心の持ちようもない被差別対象となるような人間が
未だこの世に存在せざるを得ない以上は、そういうものもまた必要悪となり得るのである。
そうではなく、必要もなくわざわざあえて万人に自己卑下を促すような信教とも
なれば、これは虚構の自尊心を持つこと並みに百害あって一利もないものだといえる。
そのような信教によって本当に無駄な自己卑下が万人に植え付けられたとしたなら、
それが、心底の自己卑下をくすぶらせたままでの虚構の自尊心に基づく偉ぶりを
増産する元凶にすらなってしまいもするのだから、虚構の自尊心が有害無益なもので
あることにも連動して、それもまた有害無益なものであると結論付けられるのである。
「自尊心は真正なものたり得る」ということが全く認知されてもいなかったような
地域においてこそ、あえて自己卑下を奨励するような邪教までもが推進されたのだった。
自尊心は、上記のような意味での虚構物でしかあり得ないと思われていたからこそ、
偉ぶりを捨てるための自己卑下が道徳的なあり方だとすら思い込まれていたのである。
それは、自尊心が親先祖への孝養などを通じて真正なものたり得るということが認知
された後においては、もはやお払い箱となる考え方であり、免疫が付いた以上はもう
二度とかからない奇病のようなものである。真に正しい選択肢が認知されていない
限りにおいて、複数の間違った選択肢同士での対立が生ずるのは典型的なことであり、
いずれにも与することなく両成敗の中道に徹して行くのが進歩的な姿勢だといえる。
「賢を進むるにも已むを得ざるが如くすべし。
将に卑を使て尊きを踰え、疏きをして戚を踰えしむ、慎まざる可けんや」
「たとえ賢者を取り立てるのであっても、(尊くも親しくもないというのなら)あくまで
やむを得ずの場合に限るべきだ。卑しい者をあえて尊い者の上に置いたり、疎遠な者を
あえて親しい者の上に置いたりすることは、どこまでも慎んでいくに越したことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・七より)
なれば、これは虚構の自尊心を持つこと並みに百害あって一利もないものだといえる。
そのような信教によって本当に無駄な自己卑下が万人に植え付けられたとしたなら、
それが、心底の自己卑下をくすぶらせたままでの虚構の自尊心に基づく偉ぶりを
増産する元凶にすらなってしまいもするのだから、虚構の自尊心が有害無益なもので
あることにも連動して、それもまた有害無益なものであると結論付けられるのである。
「自尊心は真正なものたり得る」ということが全く認知されてもいなかったような
地域においてこそ、あえて自己卑下を奨励するような邪教までもが推進されたのだった。
自尊心は、上記のような意味での虚構物でしかあり得ないと思われていたからこそ、
偉ぶりを捨てるための自己卑下が道徳的なあり方だとすら思い込まれていたのである。
それは、自尊心が親先祖への孝養などを通じて真正なものたり得るということが認知
された後においては、もはやお払い箱となる考え方であり、免疫が付いた以上はもう
二度とかからない奇病のようなものである。真に正しい選択肢が認知されていない
限りにおいて、複数の間違った選択肢同士での対立が生ずるのは典型的なことであり、
いずれにも与することなく両成敗の中道に徹して行くのが進歩的な姿勢だといえる。
「賢を進むるにも已むを得ざるが如くすべし。
将に卑を使て尊きを踰え、疏きをして戚を踰えしむ、慎まざる可けんや」
「たとえ賢者を取り立てるのであっても、(尊くも親しくもないというのなら)あくまで
やむを得ずの場合に限るべきだ。卑しい者をあえて尊い者の上に置いたり、疎遠な者を
あえて親しい者の上に置いたりすることは、どこまでも慎んでいくに越したことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・七より)
そうですか。邪魔してしまいましたね。

急に本当の明るみに引き出されたりしたなら、目がくらんで
明るさを楽しむどころでもなくなる。だからこそ、性分陰湿な
自分たちにとっての適度な明るさの光のほうをより好むということがある。
そんな人間でも、ずっと本当の明るさの中にいれば、そこに慣れて
あえて低度の明るみを好んだりするようなこともなくなるわけだけれども、
たとえば白人のように、先祖代々北方や西方の暗がりばかりを追い求め続けて
来た結果、自分たちの肌の色素すら抜け落ちてしまったような人種が、今から
本当の明るみに慣れて行こうとしたりしたなら、他人種と比べても大きく
出遅れることとなるわけで、そこに一種の辟易が生じたりもするのである。
実際、「光を是とし、闇を非とする」などという考え方は、陰陽法則に即しても
不健全なものであるといえる。光と闇が織り交ざることでこそ万事万物も
成り立っているのであり、どちらが欠けても成し得るものなどありはしない。
ただ、「光を先とし、闇を後とする」という程度の優劣関係を光と闇の間に
講ずれば、万事万物がより健全に成し得る一方で、その優劣関係を欠いたり、
挙句には「闇を先とし、光を後とする」などという所にまで優劣関係を
追いやってしまったりしたなら、万物の化育もまた不健全なものとなり、
最悪の場合は種の滅亡級の破滅にすら至ることがあるのである。
故に「光は善であり、闇は悪である」という判別も幼稚に過ぎるものだといえる。
「光と闇を共に適切に扱うことが善であり、不適切に扱うことが悪である」
というのが、一瞥して分かりにくいにしろ、堅実な善悪の分別であるといえ、
そのような分別に即して構築されているのが儒学の仁義道徳だったりする一方、
光と闇を善悪と短絡して無理な分別をきかせたのが犯罪聖書の教義だったりする。
「無理な」というのは、結局、光を善とし闇を悪とするような幼稚な分別では
全く世の中の実相に即した分別たり得ないからで、そこでこじ付けとして、
実際には光の場とも呼べないような比較的な暗がりを光に見て取ったりの
錯誤を凝らすことで、多少世の中の実相に沿うような教義ともしているからだ。
するとそれが、光闇の扱いの適切さ如何を善悪の基準とする分別に即した場合の
「悪」となる。幼稚な分別を無理に実相に当てはめようとして、光闇の扱いを
ひどく不適切なものとしてしまったものだから、純悪の教義と化してしまっている。
必要なのは、幼稚な分別を脱却して、成熟した分別を会得することである。
光が善でも闇が悪でもその逆でもない、中正さを保った分別を旨とする。
そしたら結局、日照面において明るい地域も暗い地域もあるこの地球上において、
絶対に是とされたり非とされたりすべき人種民族などが存在するわけでもない
ことを知るのである。尊厳ある人種民族を騙るカルト集団などは別として。
「誠よりして明らかなるを之れ性と謂う。〜能く其の性を尽くせば、則ち能く人の
性を尽くす。能く人の性を尽くせば、則ち能く物の性を尽くす。能く物の性を尽くせば、
則ち以て天地の化育を賛ずべし。天地の化育を賛ず可くんば、則ち以て天地と与に参ず可し」
「己れの至誠によって光明豊かなることを天性という。よく己れの天性を尽くせたなら、
他人の天性をも尽くさせることができる。よく他人の天性をも尽くさせられたなら、諸々の
事物の天性すらをも尽くさせることができる。よく万物の天性をも尽くさせられたなら、
もはや天地の化育に協賛するにも等しい。天地の化育に協賛するからには、天地と
肩を並べる真人たり得る。(他力本願で光明に与るのではなく、至誠で光明を自得する。
その光明によって天地万物の化育にすら協賛し、天地人三才の一角ともなるという主意)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二一‐二二より)
全く世の中の実相に即した分別たり得ないからで、そこでこじ付けとして、
実際には光の場とも呼べないような比較的な暗がりを光に見て取ったりの
錯誤を凝らすことで、多少世の中の実相に沿うような教義ともしているからだ。
するとそれが、光闇の扱いの適切さ如何を善悪の基準とする分別に即した場合の
「悪」となる。幼稚な分別を無理に実相に当てはめようとして、光闇の扱いを
ひどく不適切なものとしてしまったものだから、純悪の教義と化してしまっている。
必要なのは、幼稚な分別を脱却して、成熟した分別を会得することである。
光が善でも闇が悪でもその逆でもない、中正さを保った分別を旨とする。
そしたら結局、日照面において明るい地域も暗い地域もあるこの地球上において、
絶対に是とされたり非とされたりすべき人種民族などが存在するわけでもない
ことを知るのである。尊厳ある人種民族を騙るカルト集団などは別として。
「誠よりして明らかなるを之れ性と謂う。〜能く其の性を尽くせば、則ち能く人の
性を尽くす。能く人の性を尽くせば、則ち能く物の性を尽くす。能く物の性を尽くせば、
則ち以て天地の化育を賛ずべし。天地の化育を賛ず可くんば、則ち以て天地と与に参ず可し」
「己れの至誠によって光明豊かなることを天性という。よく己れの天性を尽くせたなら、
他人の天性をも尽くさせることができる。よく他人の天性をも尽くさせられたなら、諸々の
事物の天性すらをも尽くさせることができる。よく万物の天性をも尽くさせられたなら、
もはや天地の化育に協賛するにも等しい。天地の化育に協賛するからには、天地と
肩を並べる真人たり得る。(他力本願で光明に与るのではなく、至誠で光明を自得する。
その光明によって天地万物の化育にすら協賛し、天地人三才の一角ともなるという主意)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二一‐二二より)
気持ちわりぃ。^^
削除(by投稿者)
「道徳統治を敷ける能力の持ち主などそうそうには現れないから、
法治主義によって世の中を治めて行くことこそは最善となる」というのが、
古代中国の法家や近代の法治主義者の言い分だったりする。そこには、
自分たち自身が徳治を実践して行く君子たり得ないことに対する負い目
への開き直りまでもがあるわけで、実際、法家の韓非なども、まるで
自分自身の君子としての素養の欠如を正当化するためか何かのように、自著
「韓非子」で当時の醜悪な政治ゴシップなどを延々と書き連ねてもいるのである。
治世を持続させて行くための君子たる人材の確保に困るなどということは、
国を挙げての本格的な徳治を実践して行く場合などには、決してありはしない。
漢や唐や宋のように厳格な官僚試験で君子階級を養成していく手もあるし、
(明などは科挙試験を簡素化し過ぎたために政治的腐敗を招いてしまっている)
江戸時代の日本のように、清廉さを旨とする目付身分の武士を多数おくことで
権力の致命的な腐敗を防いでいくようにすることもできる。これらは、
君子による統治というものを人工的に持続させて行くための制度だったといえ、
実定法などとはまた別にそのような施策を講ずることでこそ、
徳治というものを長期的に持続させて行くことが可能ともなるのである。
ただ、科挙試験にしろ目付制度にしろ、為政者たち自身がより厳格な職責を
持って役務に励んで行くことを義務付けたものである。韓非が持論の正当化のために
あげつらったような類いの権力腐敗などを事前に防止して行く制度だったからこそ、
為政者が負い目持ちのままであっても構わないとする法治主義者などにとっては、
それが実際的な効果を持つものであるにしたって、遠ざけて置きたいものとなるのである。
法治主義によって世の中を治めて行くことこそは最善となる」というのが、
古代中国の法家や近代の法治主義者の言い分だったりする。そこには、
自分たち自身が徳治を実践して行く君子たり得ないことに対する負い目
への開き直りまでもがあるわけで、実際、法家の韓非なども、まるで
自分自身の君子としての素養の欠如を正当化するためか何かのように、自著
「韓非子」で当時の醜悪な政治ゴシップなどを延々と書き連ねてもいるのである。
治世を持続させて行くための君子たる人材の確保に困るなどということは、
国を挙げての本格的な徳治を実践して行く場合などには、決してありはしない。
漢や唐や宋のように厳格な官僚試験で君子階級を養成していく手もあるし、
(明などは科挙試験を簡素化し過ぎたために政治的腐敗を招いてしまっている)
江戸時代の日本のように、清廉さを旨とする目付身分の武士を多数おくことで
権力の致命的な腐敗を防いでいくようにすることもできる。これらは、
君子による統治というものを人工的に持続させて行くための制度だったといえ、
実定法などとはまた別にそのような施策を講ずることでこそ、
徳治というものを長期的に持続させて行くことが可能ともなるのである。
ただ、科挙試験にしろ目付制度にしろ、為政者たち自身がより厳格な職責を
持って役務に励んで行くことを義務付けたものである。韓非が持論の正当化のために
あげつらったような類いの権力腐敗などを事前に防止して行く制度だったからこそ、
為政者が負い目持ちのままであっても構わないとする法治主義者などにとっては、
それが実際的な効果を持つものであるにしたって、遠ざけて置きたいものとなるのである。
負い目を開き直ると言うことが、自分たちの怠惰に即しているぐらいなら、
開き直った先に被差別対象としての処遇があったとしても拒否できるものではない。
法家支配の精神的怠惰に慣れきってしまった秦からの渡来人なども、日本で
被差別部落などに落ち延びる場合が多々あったわけだが、それも全く仕方のない
ことだといえる。その精神的怠惰こそは、秦帝国崩壊級の破滅すらをも招く
元凶にすらなってしまうものなのだから、最低限の公益保護のためにすら
一定以上の社会的制限の対象となることが免れられないものだと言える。
キリスト教の「七つの大罪」のうちにも「怠惰」が含まれているが、克服のしようもある
自らの負い目への開き直りを許可したりするようならば、かえって人々の怠惰も増長
されることとなるわけで、少しも戒めとしての意味などは持ち合わせないといえる。
実際、権力犯罪などの素行の悪さからなる負い目は、先天的な心身の障害などと
比べても遥かに克服がたやすいものなのだから、その負い目を許そうとする聖書の
神はさしずめ、被差別賤民を増産するために到来した神であるとすらいえる。
そんな経緯で被差別対象になってしまったりするのも哀れに過ぎるから、
むしろ聖書の神などは本物の神のうちにすら入らないとすらすべきなのである。
そのような神など始めからいなかったという程の戒めと共にこそ、被差別対象としての
処遇から早急に脱却して行ける可能性もまた、多少なりとも生じ得るのだから。
「負い且つ乗り、寇の至るを致す。貞なれども吝かなり。(ここまで既出)
負い且つ乗るとは、亦た醜ず可きなり。我より戎を致す、又た誰をか咎めんや」
「負い目のあるような卑しい立場にありながら、車に乗るような豪華な生活をし、
嫉みで強盗にすら遭わんかの如くである。貞節な態度でいた所で危ういことには変わりない。
負い目がありながら裕福でいたりするのは恥ずべきことであり、自分から兵事を
呼び込んでいるも同然であるのだから、自分以外の誰をとがめたりする権利もありはしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・解・六三‐象伝)
開き直った先に被差別対象としての処遇があったとしても拒否できるものではない。
法家支配の精神的怠惰に慣れきってしまった秦からの渡来人なども、日本で
被差別部落などに落ち延びる場合が多々あったわけだが、それも全く仕方のない
ことだといえる。その精神的怠惰こそは、秦帝国崩壊級の破滅すらをも招く
元凶にすらなってしまうものなのだから、最低限の公益保護のためにすら
一定以上の社会的制限の対象となることが免れられないものだと言える。
キリスト教の「七つの大罪」のうちにも「怠惰」が含まれているが、克服のしようもある
自らの負い目への開き直りを許可したりするようならば、かえって人々の怠惰も増長
されることとなるわけで、少しも戒めとしての意味などは持ち合わせないといえる。
実際、権力犯罪などの素行の悪さからなる負い目は、先天的な心身の障害などと
比べても遥かに克服がたやすいものなのだから、その負い目を許そうとする聖書の
神はさしずめ、被差別賤民を増産するために到来した神であるとすらいえる。
そんな経緯で被差別対象になってしまったりするのも哀れに過ぎるから、
むしろ聖書の神などは本物の神のうちにすら入らないとすらすべきなのである。
そのような神など始めからいなかったという程の戒めと共にこそ、被差別対象としての
処遇から早急に脱却して行ける可能性もまた、多少なりとも生じ得るのだから。
「負い且つ乗り、寇の至るを致す。貞なれども吝かなり。(ここまで既出)
負い且つ乗るとは、亦た醜ず可きなり。我より戎を致す、又た誰をか咎めんや」
「負い目のあるような卑しい立場にありながら、車に乗るような豪華な生活をし、
嫉みで強盗にすら遭わんかの如くである。貞節な態度でいた所で危ういことには変わりない。
負い目がありながら裕福でいたりするのは恥ずべきことであり、自分から兵事を
呼び込んでいるも同然であるのだから、自分以外の誰をとがめたりする権利もありはしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・解・六三‐象伝)

「自らが言責を放棄するため」「最初の発言者を尊重するため」
テッド・バンディのような快楽犯罪者が、自らの婦女暴行殺人の様相をあたかも
他人事か何かのような口調で供述したのも、自らが罪責を免れたいからであった。
神戸連続自動殺傷犯の通称少年Aが、自らの狂気を「バモイドオキ神」などという
架空の神に自らの罪責をを偽託していたことなども同様の理由に基づく。自らの発言や
思考に十分な責任を負わないでいようとする目的での他人事語りには以上のような例がある。
孔子や孟子が「詩(経)に曰く」「書(経)に曰く」などと、出典を明示してから金言を
述べたりしていたのは、元の発言者を尊重すると共に、自らの盗用的姿勢を控えるためである。
言責の放棄のために他人事のような物言いを企てる不埒さとは逆に、こちらは
引用者たち自身の誠実さが如実に発揮されている事例であるといえる。
自らの発言を架空神に偽託したりすることまでもが、時に「誠実さの表れ」として
感心されてしまったりもする。それこそ馬鹿げた話であり、バモイドオキ神に
自らの言行の責任を押し付けようとした少年Aを評価するも同然の暴挙だといえる。
そして逆に、ことあるごとに詩書などからの引用を、出典を明示した上で述べようとする
儒者のあり方を「依存的」などとして酷評するものもいる。こちらは逆に失礼である
といえ、むしろ最初の発言者を尊重しようとするその真摯さを買うべきだとすらいえる。
孔孟級の大儒であれば、経書などから金言を引用して、なおかつそれを参考にしながら
自分の言葉でさらなる金言を述べたりもする。それはもはや創作的な偉業であるとすら
いえるわけだが、そしたら今度は引用元の提示が創作としての偉業を半減させることとなる。
自分の言葉も借り物の言葉もみんな自分の言葉として述べようとする西洋の哲学者や
思想家などと比べて、儒者がその分野での評価を低くされているのも、引用元の執拗な
提示が原因だったりするわけだけれども「述べて作らず、信じて古えを好む(述而第七・一)」
というとおり、それもまた儒者の確信的な捨て身の真摯さに基づくものなのである。
イエスの如きが、「自分はただ神から授かった言葉を述べているだけだ」とうそぶきながら、
本人自身もまた神の如く扱われていたりするのは全く矛盾している。本来の発言者を尊重して
いるから偉いというのではなく、実際問題、本人自身の創作的な発言であって、なおかつ
精神薄弱者が精神的苦痛を紛らわすのに格好な言葉だったりもするものだから、そのような
発言の創作者としてのイエスが、重度精神障害者でもある信者たちに崇められているのである。
アラーから啓示された言葉を述べたとされるムハンマドへのムスリムたちの尊崇姿勢などは、
まだ正気を帯びている。それはそれで崇敬の対象ともされているわけだが、ただ神からの啓示
を授かっただけの人間であるから、本人自身が神も同然の存在としてまでは扱われていない。
その点、イエス本人を神の如く扱うキリシタンなどと比べてシラフな姿だといえ、いくら
ムハンマドを侮辱するものへの攻撃を企てたりするのであっても、まだマシであるといえる。
不埒な他人事語りは卑しみの対象とし、誠実な引用元の提示はむしろ評価の対象とすべきである。
この点、評価と卑しみの対象が転倒してしまっていたりすることも今は多いので、そのような
他人の狂態に惑わされることなく、一人々々からの正気に根ざした判断が志されて行くべきである。
「吾れ、猶お史の闕文に及べり。馬有る者は人に借して之れに乗らしむ。今は夫れ亡し」
「私は昔、歴史記録の欠文などをよく参照させてもらっていた。それはちょうど、馬を持っている
者が他人に馬を貸して乗せてくれるようなものだった。今はもうそういうことはなくなってしまった。
(孔子自身の知見が熟成されて、わざわざ重箱の隅をつつくような調査などをしなくとも歴史の概括を
把握できるようになったのだろう。十分に成長すれば人の言葉を借りる必要などもなくなるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・二六より)
本人自身もまた神の如く扱われていたりするのは全く矛盾している。本来の発言者を尊重して
いるから偉いというのではなく、実際問題、本人自身の創作的な発言であって、なおかつ
精神薄弱者が精神的苦痛を紛らわすのに格好な言葉だったりもするものだから、そのような
発言の創作者としてのイエスが、重度精神障害者でもある信者たちに崇められているのである。
アラーから啓示された言葉を述べたとされるムハンマドへのムスリムたちの尊崇姿勢などは、
まだ正気を帯びている。それはそれで崇敬の対象ともされているわけだが、ただ神からの啓示
を授かっただけの人間であるから、本人自身が神も同然の存在としてまでは扱われていない。
その点、イエス本人を神の如く扱うキリシタンなどと比べてシラフな姿だといえ、いくら
ムハンマドを侮辱するものへの攻撃を企てたりするのであっても、まだマシであるといえる。
不埒な他人事語りは卑しみの対象とし、誠実な引用元の提示はむしろ評価の対象とすべきである。
この点、評価と卑しみの対象が転倒してしまっていたりすることも今は多いので、そのような
他人の狂態に惑わされることなく、一人々々からの正気に根ざした判断が志されて行くべきである。
「吾れ、猶お史の闕文に及べり。馬有る者は人に借して之れに乗らしむ。今は夫れ亡し」
「私は昔、歴史記録の欠文などをよく参照させてもらっていた。それはちょうど、馬を持っている
者が他人に馬を貸して乗せてくれるようなものだった。今はもうそういうことはなくなってしまった。
(孔子自身の知見が熟成されて、わざわざ重箱の隅をつつくような調査などをしなくとも歴史の概括を
把握できるようになったのだろう。十分に成長すれば人の言葉を借りる必要などもなくなるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・二六より)
「人間が生涯のうちに踏みしめられる土地などはごくわずかに限られていて、
地上の大半の土地は永遠に未踏の地のままであり続ける。そしてそれほどにも
くまなく地上が広がっていればこそ、人は地を踏みしめていくことができる」
とは、荘子が「無用の用」を分かりやすく説明するために述べたことでもある。
その荘子を含む道家の論説を、儒家までもが伝統的な参考の対象として来ている。
道家の論弁は決して儒家を支持するようなものばかりではなく、中には「荘子」盜跖篇
のようにあからさまに儒家を糾弾するような説話までもが含まれているわけだけども、
それでも道家の論説というものを、儒家までもがそれなりの尊重の対象として来ている。
その理由を計り知ることができるのが、上記の荘子の無用の用地にまつわる論説でもある。
結局、無用の用地への尊重も欠くような人間こそは、際限なく外界への侵略を推し進めて行く
覇道をも好みとするのであり、それは王道を覇道の上に置く儒家にとっても忌むべき姿である。
覇権主義を抑制するために無用の用地への尊重が有効となるからには、そのような道家の教理が
王道志向の儒家にとっての「敵の敵は味方」となるわけで、故にこそ信奉の対象ともするのである。
道家の本義である隠遁主義も、それ自体は「過ぎたるはなお及ばざるが如し」でもあるにしろ、
「乱世には世を避ける」といった分別のうちにおける参考の対象ぐらいにはなる。不労を違法行為
にすら指定して人々の奴隷的使役を強いる法家の暴挙などとの均衡を取る極論ともなることから、
これまた「敵の敵は味方」の論理で以って、法家を仇敵とする儒家が道家を尊重しもするのである。
地上の大半の土地は永遠に未踏の地のままであり続ける。そしてそれほどにも
くまなく地上が広がっていればこそ、人は地を踏みしめていくことができる」
とは、荘子が「無用の用」を分かりやすく説明するために述べたことでもある。
その荘子を含む道家の論説を、儒家までもが伝統的な参考の対象として来ている。
道家の論弁は決して儒家を支持するようなものばかりではなく、中には「荘子」盜跖篇
のようにあからさまに儒家を糾弾するような説話までもが含まれているわけだけども、
それでも道家の論説というものを、儒家までもがそれなりの尊重の対象として来ている。
その理由を計り知ることができるのが、上記の荘子の無用の用地にまつわる論説でもある。
結局、無用の用地への尊重も欠くような人間こそは、際限なく外界への侵略を推し進めて行く
覇道をも好みとするのであり、それは王道を覇道の上に置く儒家にとっても忌むべき姿である。
覇権主義を抑制するために無用の用地への尊重が有効となるからには、そのような道家の教理が
王道志向の儒家にとっての「敵の敵は味方」となるわけで、故にこそ信奉の対象ともするのである。
道家の本義である隠遁主義も、それ自体は「過ぎたるはなお及ばざるが如し」でもあるにしろ、
「乱世には世を避ける」といった分別のうちにおける参考の対象ぐらいにはなる。不労を違法行為
にすら指定して人々の奴隷的使役を強いる法家の暴挙などとの均衡を取る極論ともなることから、
これまた「敵の敵は味方」の論理で以って、法家を仇敵とする儒家が道家を尊重しもするのである。
「荘子」では、なぜか美人よりも好かれる醜女だとか、五体満足な男子よりも支持される障害者
だとかの説話も引き合いにされている。(ただし荘子本人の著作ではないとされる外篇や雑篇にある)
これも一つの極論であり、儒家などの立場からしたって、五体満足な男前や美人であったほうが
いいには違いないのである。しかし、美しいものばかりをめでて醜い人間などを執拗に嫌っていた
エリザベス一世のような女こそは、人類史上最悪の世界侵略の旗頭ともなってしまったわけだから、
無用の用地への尊重の如き、醜人や障害者への存在性の尊重もそれなりにあるべきなのである。
実際孔子も、最初は外貌が醜悪だった澹台滅明という弟子を嫌っていたものの、その行いが貞節で道に
適っていたことから、外見ばかりで人を判断することを改めたともいう(「史記」仲尼弟子列伝参照)。
荘子のごとき醜女や障害者の礼賛にまでは及ばずとも、この孔子程度の配慮は誰しもが持つべきだといえる。
結局、無用の用地だとか隠退志向だとか醜女だとか障害者だとかいったものにまで配慮を利かせる
道家の教理を尊重することが、そうしていく本人たち自身にとっての心の余裕の確保ともなる。
そしてそれは、地球環境の保全などのためにもこれから必須とすらなって行くことである。
自分が踏みしめた場所や、自分が好き好むものばかりを執拗に偏愛するような狭量さを、
道家のおおらかな教理で中和して、分別ある大人になって行ければいいのである。
「周道は砥の如く、其の直なるや矢の如し。君子の履む所にして、小人り視る所なり」
「文王が敷かれた周の道は砥石のように平滑でいて、なおかつ矢のように真っ直ぐである。
これこそは君子の踏襲する道であると共に、小人の仰ぎ見る所でもある。(君子の踏み行くべき
正道はすでに先人が敷設済みのものでいて、なおかつ小人たち自身には踏めもしないものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・大東より)
だとかの説話も引き合いにされている。(ただし荘子本人の著作ではないとされる外篇や雑篇にある)
これも一つの極論であり、儒家などの立場からしたって、五体満足な男前や美人であったほうが
いいには違いないのである。しかし、美しいものばかりをめでて醜い人間などを執拗に嫌っていた
エリザベス一世のような女こそは、人類史上最悪の世界侵略の旗頭ともなってしまったわけだから、
無用の用地への尊重の如き、醜人や障害者への存在性の尊重もそれなりにあるべきなのである。
実際孔子も、最初は外貌が醜悪だった澹台滅明という弟子を嫌っていたものの、その行いが貞節で道に
適っていたことから、外見ばかりで人を判断することを改めたともいう(「史記」仲尼弟子列伝参照)。
荘子のごとき醜女や障害者の礼賛にまでは及ばずとも、この孔子程度の配慮は誰しもが持つべきだといえる。
結局、無用の用地だとか隠退志向だとか醜女だとか障害者だとかいったものにまで配慮を利かせる
道家の教理を尊重することが、そうしていく本人たち自身にとっての心の余裕の確保ともなる。
そしてそれは、地球環境の保全などのためにもこれから必須とすらなって行くことである。
自分が踏みしめた場所や、自分が好き好むものばかりを執拗に偏愛するような狭量さを、
道家のおおらかな教理で中和して、分別ある大人になって行ければいいのである。
「周道は砥の如く、其の直なるや矢の如し。君子の履む所にして、小人り視る所なり」
「文王が敷かれた周の道は砥石のように平滑でいて、なおかつ矢のように真っ直ぐである。
これこそは君子の踏襲する道であると共に、小人の仰ぎ見る所でもある。(君子の踏み行くべき
正道はすでに先人が敷設済みのものでいて、なおかつ小人たち自身には踏めもしないものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・大東より)
罪を隠す者も、罪を開き直る者も、罪の重さ自体はさして変わらない。
むしろ、罪の恥深さを知るが故に隠そうとしたりするような者のほうが、
恥知らずにも罪を開き直る者などよりも、まだ反省のしようがあるというもの。
人が罪を償って立ち直れるか否かの境界線もそこにあるといえるぐらいで、
もしも人が生きてるうちに償える程度の罪を犯した場合に、思わず罪を隠したく
なるような恥じらいを原動力として罪を償えば、精神的に立ち直れたりもする
一方、もはや罪を開き直って恥らうこともないというのなら、形式上の罰などを
受けた所で、もはや精神的に立ち直れる気概なども残ってはいないといえる。
自らの罪を開き直ることが、自らの品性を罪人としての堂に入らせる。もはや
二度と浩然の気などを味わうこともできない、致命的な精神障害者と化してしまう。
心理面からいえば、それは確かに可哀想なことでもあるが、哀れんでやったから
といって本人たちが健全な精神を取り戻せるわけでもない。その哀れみを、
できる限りそんな人間をこの世から撲滅して行く自らの気概に転ずるというのなら、
心の中で哀れんでやってもいいだろうが、本人たちに対してはむしろ鼻つまみ者
としての扱いを処してやるのが、本人たちのためにもなることである。
鼻つまみ者扱いか、もしくは全く特別扱いをしないことである。
罪を開き直って恥も知らぬような心持ちでいる者は、実際に罪があるのであれ
ないのであれ、この世にとって百害あって一利もない上に、本人たち自身も
浩然の気を伴う健全な精神を知らぬ、潜在的かつ自得の苦悩者でいるわけだから、
そこに特別な価値か何かがあるかのような捉え方だけはすべきでない。
むしろ、罪の恥深さを知るが故に隠そうとしたりするような者のほうが、
恥知らずにも罪を開き直る者などよりも、まだ反省のしようがあるというもの。
人が罪を償って立ち直れるか否かの境界線もそこにあるといえるぐらいで、
もしも人が生きてるうちに償える程度の罪を犯した場合に、思わず罪を隠したく
なるような恥じらいを原動力として罪を償えば、精神的に立ち直れたりもする
一方、もはや罪を開き直って恥らうこともないというのなら、形式上の罰などを
受けた所で、もはや精神的に立ち直れる気概なども残ってはいないといえる。
自らの罪を開き直ることが、自らの品性を罪人としての堂に入らせる。もはや
二度と浩然の気などを味わうこともできない、致命的な精神障害者と化してしまう。
心理面からいえば、それは確かに可哀想なことでもあるが、哀れんでやったから
といって本人たちが健全な精神を取り戻せるわけでもない。その哀れみを、
できる限りそんな人間をこの世から撲滅して行く自らの気概に転ずるというのなら、
心の中で哀れんでやってもいいだろうが、本人たちに対してはむしろ鼻つまみ者
としての扱いを処してやるのが、本人たちのためにもなることである。
鼻つまみ者扱いか、もしくは全く特別扱いをしないことである。
罪を開き直って恥も知らぬような心持ちでいる者は、実際に罪があるのであれ
ないのであれ、この世にとって百害あって一利もない上に、本人たち自身も
浩然の気を伴う健全な精神を知らぬ、潜在的かつ自得の苦悩者でいるわけだから、
そこに特別な価値か何かがあるかのような捉え方だけはすべきでない。
理想を言えば、そんな劣悪な心理状態に追い込まれた人間がこの世に生じないに
越したことはない。生じてしまったとしても実際に罪を犯させないのがその次で、
大量に発生してしまった挙句に大罪までもが犯し尽くされたりするのが最悪である。
そして今こそは、最悪の時である。罪に対する恥を寸分たりとも知らぬ者たちが、
確信的にも無自覚的にも罪という罪を犯し尽くしている時代。罪あるものには
当然罰を科すのが最優先だが、刑罰などは有害鳥獣に対する保健衛生措置も
同然のものであり、罰以上にも人としての立ち直りを促す民事的な
矯正措置のほうがより重要なものとなって行くのである。
すなわち、罪に対する恥を知る教育であり、大人の人間への教育でもあるからには、
実際に恥を知る者を社会的に優遇したり、恥を知らぬ者を冷遇したりもして行く。
それが参政権の剥奪や禁治産のような措置ともなって行くわけで、これも人々への
恥を知るための心の矯正としての効果が伴えばこそ、その意義を持つものだといえる。
「嗚呼、邦伯、師長、百執事の人、尚くば、
皆な隠さんかな。朕れ貨を好むに肩せず、敢えて生生なるを恭す」
「ああ、諸国の頭領や、地方官の長や、その他の公務を司る人々よ、できることなら、
みな(常日頃から些細な問題にも罪悪感を抱いて、その気持ちを)隠しているように
して欲しい。私は財貨による栄華を好むようなものを登用したくはない。あえて自ら
清々としたあり方に励むものにこそ恭敬の念を抱く。(殷王19代盤庚の言葉)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚下より)
越したことはない。生じてしまったとしても実際に罪を犯させないのがその次で、
大量に発生してしまった挙句に大罪までもが犯し尽くされたりするのが最悪である。
そして今こそは、最悪の時である。罪に対する恥を寸分たりとも知らぬ者たちが、
確信的にも無自覚的にも罪という罪を犯し尽くしている時代。罪あるものには
当然罰を科すのが最優先だが、刑罰などは有害鳥獣に対する保健衛生措置も
同然のものであり、罰以上にも人としての立ち直りを促す民事的な
矯正措置のほうがより重要なものとなって行くのである。
すなわち、罪に対する恥を知る教育であり、大人の人間への教育でもあるからには、
実際に恥を知る者を社会的に優遇したり、恥を知らぬ者を冷遇したりもして行く。
それが参政権の剥奪や禁治産のような措置ともなって行くわけで、これも人々への
恥を知るための心の矯正としての効果が伴えばこそ、その意義を持つものだといえる。
「嗚呼、邦伯、師長、百執事の人、尚くば、
皆な隠さんかな。朕れ貨を好むに肩せず、敢えて生生なるを恭す」
「ああ、諸国の頭領や、地方官の長や、その他の公務を司る人々よ、できることなら、
みな(常日頃から些細な問題にも罪悪感を抱いて、その気持ちを)隠しているように
して欲しい。私は財貨による栄華を好むようなものを登用したくはない。あえて自ら
清々としたあり方に励むものにこそ恭敬の念を抱く。(殷王19代盤庚の言葉)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚下より)
俺が謝罪しろというのは天皇スレではない。
責めたい気持ちも俺も無礼なことを言ってきたので心当たりがあるが
口座の残高を元に、「呪い」等の勘違いを重ねた上に
犬と罵倒したことだ。勘違いの上の発言だけに
改めて罵倒するのか、それとも謝罪するのかはっきりしてもらえないか。
責めたい気持ちも俺も無礼なことを言ってきたので心当たりがあるが
口座の残高を元に、「呪い」等の勘違いを重ねた上に
犬と罵倒したことだ。勘違いの上の発言だけに
改めて罵倒するのか、それとも謝罪するのかはっきりしてもらえないか。
親子や夫婦でもないような全くの他人同士の関係でいて、なおかつ人が人を
庇護下に置くということ——もっと言えば、人が人を牧するということは、
ごくごく限られた条件下においてのみ無害や有益たり得るものであり、
そうでもないような場合には、かえって害すらをももたらしかねないものである。
ごくごく大まかなところでは、公人が他人を庇護下に置くということが、
有益無害たり得る人間同士の依存関係である一方、私人が他人を庇護下に置く
というのは、かえって世の中に害をもたらす依存関係となりやすい。一定の
封土の統治責任を負う公人が領民を庇護下に置くことが益になるのは自明なこと
である一方、むしろその封土から私益を吸い上げているだけの存在である民間の
資本家などが他者を庇護対象としたりすることには、そのような自明さは伴わない。
むしろ、自分が気に入った相手ばかりを偏った庇護の対象とすることが、
我田引水の激化を招くことともなって、世の中への負担を増大せしめてしまう。
そのあたりの分別がよく利かされていたから、昔の日本などでは、私人からの
投げ銭のごとき支援によって生活をつなぐ一般的な芸能人などは被差別民として
の処遇を被った一方、公家や武家からの庇護や承認も得た能や歌舞伎や相撲などの
一部の芸能に限っては、被差別対象などになることもなく市民権を得たのだった。
形式や程度の違いこそあれ、私人がパトロンとなることを忌む認識というのが
東洋には遍在していた一方、西洋にはなかった。そもそも「劇場主義」で以って、
舞台裏での支援被支援の関係などから目を背ける悪習が完全に堂に入ってしまって
いるものだから、それが善いも悪いもない完全なタブー扱いのままでいるのである。
だからこそ、東洋では私的なパトロンによる振興などをそもそも是としないような
分野までもが西洋では資本家の支援などによって振興されて来てしまったのである。
その代表格が「洋学(西洋の学術)」であり、相当に理念化が凝らされていたりも
するものの、その内実は「いかにして大金を儲けてウハウハとなるか」
ばかりを目的としたものとなってしまっている。
庇護下に置くということ——もっと言えば、人が人を牧するということは、
ごくごく限られた条件下においてのみ無害や有益たり得るものであり、
そうでもないような場合には、かえって害すらをももたらしかねないものである。
ごくごく大まかなところでは、公人が他人を庇護下に置くということが、
有益無害たり得る人間同士の依存関係である一方、私人が他人を庇護下に置く
というのは、かえって世の中に害をもたらす依存関係となりやすい。一定の
封土の統治責任を負う公人が領民を庇護下に置くことが益になるのは自明なこと
である一方、むしろその封土から私益を吸い上げているだけの存在である民間の
資本家などが他者を庇護対象としたりすることには、そのような自明さは伴わない。
むしろ、自分が気に入った相手ばかりを偏った庇護の対象とすることが、
我田引水の激化を招くことともなって、世の中への負担を増大せしめてしまう。
そのあたりの分別がよく利かされていたから、昔の日本などでは、私人からの
投げ銭のごとき支援によって生活をつなぐ一般的な芸能人などは被差別民として
の処遇を被った一方、公家や武家からの庇護や承認も得た能や歌舞伎や相撲などの
一部の芸能に限っては、被差別対象などになることもなく市民権を得たのだった。
形式や程度の違いこそあれ、私人がパトロンとなることを忌む認識というのが
東洋には遍在していた一方、西洋にはなかった。そもそも「劇場主義」で以って、
舞台裏での支援被支援の関係などから目を背ける悪習が完全に堂に入ってしまって
いるものだから、それが善いも悪いもない完全なタブー扱いのままでいるのである。
だからこそ、東洋では私的なパトロンによる振興などをそもそも是としないような
分野までもが西洋では資本家の支援などによって振興されて来てしまったのである。
その代表格が「洋学(西洋の学術)」であり、相当に理念化が凝らされていたりも
するものの、その内実は「いかにして大金を儲けてウハウハとなるか」
ばかりを目的としたものとなってしまっている。
その点、理念化などは程ほどでいながらも、いかに天下の公益に
寄与せしめるかこそをピンポイントに追求しぬいている儒学などとは
対照的であり、実際、その成立過程からして、「君子の学と小人の学」
という決定的な相違を両者は持ち合わせてきているのである。
主に資本家をパトロンとして構築されて来たのが洋学であればこそ、
その振興が自明に世の中にとっての害ともなる。既得権益に与れたものの
栄華には寄与する一方で、そのための我田引水で世の中の大局からの窮乏を招く。
まさに「異端をおさめるは害あるのみ(為政第二・一六)」であり、逆に、
徳治者のための学問であることを徹底してきた儒学の正統さ故の
有益さをも比較対照的に計り知ることができるのである。
私的なパトロンによる文化振興などがろくな結果を招きもしないのは、
近現代の文明発達の末路としての人類滅亡の危機などからも知れることである。
芸能が私的支援の対象となるぐらいならともかく、学問までもがそんな扱いを受けて、
天下国家のための正学を退けるようなことにまでなったなら、もはや致命的だといえる。
特に、莫大な私益を稼ぎ挙げた素封家などにとって、「他人を飼う」ということは
えもいわれぬ甘美さを伴って誘惑してくる金の使い道のようであるけれども、
私人が他人を囲い込むなどということ自体、もはや究極悪への呼び水である、
素封家の分際などで人様を庇護の対象などにする資格などはないのだと知らねばならない。
世の一般的な人々もまた、金持ちだからといって私人に庇護されたりするようなことの、
世の中にとって有害無益極まりないが故の恥というものを知らねばならない。
「行い得ざる者有れば、皆な反りて諸れを己れに求めよ。其の身正しければ天下之れに帰す」
「自分が望まないような振る舞いをするような者がいるのであれば、誰でもまずは自分自身に
省みて間違いがないかを確かめよ。自分自身が正しいようであれば、天下すらもが自らに帰順
するであろう。(相手に帰服するかどうかを選ばせたりすること自体、仁者の姿勢ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・四より)
寄与せしめるかこそをピンポイントに追求しぬいている儒学などとは
対照的であり、実際、その成立過程からして、「君子の学と小人の学」
という決定的な相違を両者は持ち合わせてきているのである。
主に資本家をパトロンとして構築されて来たのが洋学であればこそ、
その振興が自明に世の中にとっての害ともなる。既得権益に与れたものの
栄華には寄与する一方で、そのための我田引水で世の中の大局からの窮乏を招く。
まさに「異端をおさめるは害あるのみ(為政第二・一六)」であり、逆に、
徳治者のための学問であることを徹底してきた儒学の正統さ故の
有益さをも比較対照的に計り知ることができるのである。
私的なパトロンによる文化振興などがろくな結果を招きもしないのは、
近現代の文明発達の末路としての人類滅亡の危機などからも知れることである。
芸能が私的支援の対象となるぐらいならともかく、学問までもがそんな扱いを受けて、
天下国家のための正学を退けるようなことにまでなったなら、もはや致命的だといえる。
特に、莫大な私益を稼ぎ挙げた素封家などにとって、「他人を飼う」ということは
えもいわれぬ甘美さを伴って誘惑してくる金の使い道のようであるけれども、
私人が他人を囲い込むなどということ自体、もはや究極悪への呼び水である、
素封家の分際などで人様を庇護の対象などにする資格などはないのだと知らねばならない。
世の一般的な人々もまた、金持ちだからといって私人に庇護されたりするようなことの、
世の中にとって有害無益極まりないが故の恥というものを知らねばならない。
「行い得ざる者有れば、皆な反りて諸れを己れに求めよ。其の身正しければ天下之れに帰す」
「自分が望まないような振る舞いをするような者がいるのであれば、誰でもまずは自分自身に
省みて間違いがないかを確かめよ。自分自身が正しいようであれば、天下すらもが自らに帰順
するであろう。(相手に帰服するかどうかを選ばせたりすること自体、仁者の姿勢ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・四より)
桃屋のごはんですよ

それも鬼畜道や地獄道のような「ある種の道」の比喩的表現なのであり、
仏門などではそのような非人道の如実な描写までもが試みられていたりもする。
それをたとえば、朱子が「巨石を抱いて川に身を投ずるような無駄手間」
と批判したように、そんなものをわざわざ描くべきですらないとする
純人道の立場から、専ら「非道」や「無道」として扱ったりもするのである。
人が生きる以上は、そこに道がある。ただ、それが「道」と標榜するに値する程にも
できた道であるか否かが異なるだけである。日本には神道や武道や書道や茶道など、
「〜道」と呼ぶ嗜みが多く、仏教すらもが「仏道」として日本化されていたりする。
中国や欧米のような大陸国とも違って、地理的にも実物の道からして固定化されやすい
条件を満たしているから、それに倣って理念としての〜道の保全にも余念がないのである。
永年にわたって道を保全する伝統があればこそ、悪道を排して善道のみを守る、
片刃の太刀の醸成のごとき道の良質化にも熱心でいる。中国こそが発祥地である
陰陽思想なども「陰陽道」としてより高尚な域へと昇華し、迷信的な要素を省きつつ
神道や仏道や武道や土建業などへの応用を利かせている。だからこそ、神道の祭祀長たる
天皇も、古代中国の周朝をも上回る人類史上最長の皇統を存続して来られたのでもあり、
(摂関家や将軍家が天皇の地位までは決して侵そうとしなかったのも陰陽道の弁えによる)
道統そのものの洗練こそは永続的な保全にも繋がる、紛れもない証拠となっているのである。
キリスト教やユダヤ教の如きも、「ある種の道の洗練」を念頭に置いてきたのには違いない。
その点、道自体の洗練は適当な範囲に止めて、物量ばかりを稼いで来た中国文化などとは、
日本文化と共に袂を分かつものである。ただ、日本文化のほうは「善道の洗練」に
執心して来た一方で、聖書信仰のほうは「悪道の洗練」にこそ執心して来た点が異なる。
なればこそ、日本と聖書圏こそは決定的に敵対するか、あるいはいずれかが
一方に服従する形で和睦するかのいずれかでしかあり得ないのでもある。
いま、服従的な姿勢での和睦に与っているのは日本のほうだが、むしろ、
聖書文化のほうが強制的な途絶を迫られる事態ともなっている。自分たちのほうが過ちを
認めて文化振興を中絶しないことには人類の滅亡すら免れ得ないから、自主的に途絶する。
それも「悪道の洗練」ばかりに終始して来たればこその自業自得の末路であるわけだが、
どんな道であれ、「道の洗練」に専らでい続けてきた手合いとして、そもそも道の洗練自体が
緩慢で疎かなままである中国文化などに鞍替えさせられるのは納得の行かない所があるかも
知れない。自分たちとは真逆の道を歩んできたとはいえ、道の洗練にも専らでい続けて来た
日本文化あたりのほうが、まだ志向性を似つかわすものとして負けも認めやすいかもしれない。
それが「悪道」ですらなかったならば、道の洗練への専念によって、自分たちこそが
恒久的な王道楽土を築き上げる主体とすらなり得たのである。残念ながら聖書文化はそうでは
なかったが、これからも、道の洗練を尊ぶ姿勢だけは大事にしてもらいたいものである。
「憤らずんば啓せず」
「憤っているぐらいでなければ、ものを教えてやるにも値しない。
(これはものが分からなくて憤っている場合の話だが、発憤という心持ち自体、
向学のためなどに有用となるものであり、決して全否定されるべきものでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・八より)
その点、道自体の洗練は適当な範囲に止めて、物量ばかりを稼いで来た中国文化などとは、
日本文化と共に袂を分かつものである。ただ、日本文化のほうは「善道の洗練」に
執心して来た一方で、聖書信仰のほうは「悪道の洗練」にこそ執心して来た点が異なる。
なればこそ、日本と聖書圏こそは決定的に敵対するか、あるいはいずれかが
一方に服従する形で和睦するかのいずれかでしかあり得ないのでもある。
いま、服従的な姿勢での和睦に与っているのは日本のほうだが、むしろ、
聖書文化のほうが強制的な途絶を迫られる事態ともなっている。自分たちのほうが過ちを
認めて文化振興を中絶しないことには人類の滅亡すら免れ得ないから、自主的に途絶する。
それも「悪道の洗練」ばかりに終始して来たればこその自業自得の末路であるわけだが、
どんな道であれ、「道の洗練」に専らでい続けてきた手合いとして、そもそも道の洗練自体が
緩慢で疎かなままである中国文化などに鞍替えさせられるのは納得の行かない所があるかも
知れない。自分たちとは真逆の道を歩んできたとはいえ、道の洗練にも専らでい続けて来た
日本文化あたりのほうが、まだ志向性を似つかわすものとして負けも認めやすいかもしれない。
それが「悪道」ですらなかったならば、道の洗練への専念によって、自分たちこそが
恒久的な王道楽土を築き上げる主体とすらなり得たのである。残念ながら聖書文化はそうでは
なかったが、これからも、道の洗練を尊ぶ姿勢だけは大事にしてもらいたいものである。
「憤らずんば啓せず」
「憤っているぐらいでなければ、ものを教えてやるにも値しない。
(これはものが分からなくて憤っている場合の話だが、発憤という心持ち自体、
向学のためなどに有用となるものであり、決して全否定されるべきものでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・八より)
明和から出ていくときは全部消していってね。^^
あとを濁さず。^^
あとを濁さず。^^
鼻つまみ者扱いをされたままですることは何もない。
人間にとって、先天的かつ最も近しい間柄であると共に、多大なる実益からの恩恵をも
被ってきた相手こそは親であるから、まずは親を孝養の対象とすることが真善となる一方、
親を蔑ろにしてまで近隣の他人などにまず尽くそうとすることが普遍的な偽善止まりとなる。
「遠くの親戚より近くの他人」ということわざにも、これはこれでそれなりの根拠がある。
兵法書「三略」にも「近きを捨てて遠きを謀れば労すれども功なし。遠きを捨てて近きを
謀ればた易く終わりあり」とあるとおり、戦闘状態での謀略を主とした姿勢としては、近隣
同士での協力こそを最優先にするのが有効だといえる。しかし、それは平時における恒常的な
人間のあり方としては相応しいものではなく、あくまで戦闘状態の如き非常時の緊急措置に
止め置くべきものである。でなければ、逆に平時にまで臨戦態勢を持ち込んでしまったこと
での無闇な戦乱の呼び込みにすら繋がってしまいかねないのである。(上記のことわざも、
ほとほと困り果てたような非常時にかけての感慨こそを具象化したものでこそある)
非常時の緊急措置としての釈遠謀近を認めたからといって、恒常的な徳目としての孝悌が
否定されたりすることはないが、釈遠謀近が「隣人愛」などとして堂に入った徳目とまで
定義されてしまったならば、そのせいで孝悌の重要さは疎かにされてしまうことになる。
あまつさえ、実物の親(義親含む)とはまた別に架空の父などを脳内の形而上に捏造して、
「隣人愛によってこそ天の父に近づける」などとしたならば、それこそ孝を無みするも
同然の暴挙となる。そしてそこにこそ、人類を滅亡に陥れる程もの邪念が生じてもいる。
君臣父子夫婦の三綱の序列を重んじ、それら全てを兄弟師弟や朋友といったより
広い人間関係の上に置く儒家の学理教義自体、ひどく人工的なものに思えなくもない。
特に、人間関係が極限まで希薄化してしまっている現代などにおいては、いびつな上に
堅苦しい教理だなどとも思われてしまいがちである。しかし、現状は現状で特殊な人間
関係の序列を来たしてしまっているだけだったりする。快楽に溢れた異性関係こそは至上
被ってきた相手こそは親であるから、まずは親を孝養の対象とすることが真善となる一方、
親を蔑ろにしてまで近隣の他人などにまず尽くそうとすることが普遍的な偽善止まりとなる。
「遠くの親戚より近くの他人」ということわざにも、これはこれでそれなりの根拠がある。
兵法書「三略」にも「近きを捨てて遠きを謀れば労すれども功なし。遠きを捨てて近きを
謀ればた易く終わりあり」とあるとおり、戦闘状態での謀略を主とした姿勢としては、近隣
同士での協力こそを最優先にするのが有効だといえる。しかし、それは平時における恒常的な
人間のあり方としては相応しいものではなく、あくまで戦闘状態の如き非常時の緊急措置に
止め置くべきものである。でなければ、逆に平時にまで臨戦態勢を持ち込んでしまったこと
での無闇な戦乱の呼び込みにすら繋がってしまいかねないのである。(上記のことわざも、
ほとほと困り果てたような非常時にかけての感慨こそを具象化したものでこそある)
非常時の緊急措置としての釈遠謀近を認めたからといって、恒常的な徳目としての孝悌が
否定されたりすることはないが、釈遠謀近が「隣人愛」などとして堂に入った徳目とまで
定義されてしまったならば、そのせいで孝悌の重要さは疎かにされてしまうことになる。
あまつさえ、実物の親(義親含む)とはまた別に架空の父などを脳内の形而上に捏造して、
「隣人愛によってこそ天の父に近づける」などとしたならば、それこそ孝を無みするも
同然の暴挙となる。そしてそこにこそ、人類を滅亡に陥れる程もの邪念が生じてもいる。
君臣父子夫婦の三綱の序列を重んじ、それら全てを兄弟師弟や朋友といったより
広い人間関係の上に置く儒家の学理教義自体、ひどく人工的なものに思えなくもない。
特に、人間関係が極限まで希薄化してしまっている現代などにおいては、いびつな上に
堅苦しい教理だなどとも思われてしまいがちである。しかし、現状は現状で特殊な人間
関係の序列を来たしてしまっているだけだったりする。快楽に溢れた異性関係こそは至上
のものとされ、その男女関係を成立させるための仕事関係がそれに次ぎ、仕事の息抜きや
コネになるような友人関係がさらにそれに次ぎ、肉親関係などは最低のものとされる。君臣>
父子>夫婦>朋友が男女>仕事>友人>家族に変わっただけのことで、要するに、君父の尊位
を重んじた人間関係が、それを蔑ろにした人間関係へと劣化してしまっただけのことである。
君父の尊位を尊ぶことが半ば義務的に必要となるのが公人の身分であり、公人すらもが
男女>仕事>友人>家族なんていう人間関係に慣れてしまったりしたなら、もはやその
ような国自体の破綻すらもが免れ得ない。(年間セックス回数世界一でいて、公務員の怠慢
でデフォルトを来たしたギリシャなどがその例である)だから公人ぐらいは君臣父子夫婦の
序列を重んじて行くようにしたとして、果たしてそれだけでいいかといえば、それだけでも
まだ不足な所がある。別に自分たちにとって必要不可欠なことでもないにしろ、民間人にすら、
君父の尊位を尊ばないよりは尊んでいたほうがよりよいぐらいの考え方は持たせるべきである。
ちょうど今はその逆で、民主主義や自由主義の名の下に、君父の尊位を喪失した人間関係
こそは至上のものとされているような時代であるが、ちょうどその逆を行くべきなのである。
まずは親や主君への忠孝を尽くすということが、民間人にとっての偽善の撃退手段にすらなる。
偽善を排する真善を尊ぶ立場から、多少作為的すぎるような序列関係をも奨励して行くのである。
「皇帝、〜乃ち重と黎に命じて、地天の通を絶ち、降格有る罔からしむ。
群后の下に逮在するも、明明もて常を棐け、鰥寡蓋うことも無からしむ」
「堯帝は、重や黎といった重臣に命じて、諸侯以下の人間の地上からの天への通行を絶ち、
『自分が天の神に通じている』などということを根拠にした天啓降臨的な言行を無からしめた。
それにより、諸侯たちもあたりまえな道徳的常識に即した自明な為政のみを執り行うようになり、
身寄りのない者を見捨てるようなこともなくなったのだった。(私的な天地の通行など害あるのみ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・呂刑より)
コネになるような友人関係がさらにそれに次ぎ、肉親関係などは最低のものとされる。君臣>
父子>夫婦>朋友が男女>仕事>友人>家族に変わっただけのことで、要するに、君父の尊位
を重んじた人間関係が、それを蔑ろにした人間関係へと劣化してしまっただけのことである。
君父の尊位を尊ぶことが半ば義務的に必要となるのが公人の身分であり、公人すらもが
男女>仕事>友人>家族なんていう人間関係に慣れてしまったりしたなら、もはやその
ような国自体の破綻すらもが免れ得ない。(年間セックス回数世界一でいて、公務員の怠慢
でデフォルトを来たしたギリシャなどがその例である)だから公人ぐらいは君臣父子夫婦の
序列を重んじて行くようにしたとして、果たしてそれだけでいいかといえば、それだけでも
まだ不足な所がある。別に自分たちにとって必要不可欠なことでもないにしろ、民間人にすら、
君父の尊位を尊ばないよりは尊んでいたほうがよりよいぐらいの考え方は持たせるべきである。
ちょうど今はその逆で、民主主義や自由主義の名の下に、君父の尊位を喪失した人間関係
こそは至上のものとされているような時代であるが、ちょうどその逆を行くべきなのである。
まずは親や主君への忠孝を尽くすということが、民間人にとっての偽善の撃退手段にすらなる。
偽善を排する真善を尊ぶ立場から、多少作為的すぎるような序列関係をも奨励して行くのである。
「皇帝、〜乃ち重と黎に命じて、地天の通を絶ち、降格有る罔からしむ。
群后の下に逮在するも、明明もて常を棐け、鰥寡蓋うことも無からしむ」
「堯帝は、重や黎といった重臣に命じて、諸侯以下の人間の地上からの天への通行を絶ち、
『自分が天の神に通じている』などということを根拠にした天啓降臨的な言行を無からしめた。
それにより、諸侯たちもあたりまえな道徳的常識に即した自明な為政のみを執り行うようになり、
身寄りのない者を見捨てるようなこともなくなったのだった。(私的な天地の通行など害あるのみ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・呂刑より)
>>193の「書経」からの引用は、最後の部分で多少の意訳を噛ましているけれども、
要は「『自分こそは天の神に通じている』などとうそぶくことで人気や権威を得ようなどと
する軽薄者は、救済すべき孤独者などを覆い隠して始めから存在しないことにしてしまう」
というのである。これはまさに、今のブラックアフリカのキリスト教圏で、死亡診断も得られる
ことなく餓死していっている何千万人もの児童たちへのキリスト教団の処遇そのものだといえる。
マザーテレサのごとく、それなりに救済活動を講じているキリシタンもいるけれども、そもそも
自分たちの救済活動が「焼け石に水」レベルの代物にしかなっていないことまでは問題視しない。
それは、何千万から何億という窮死者たちの実在を自分たちの脳内で覆い隠してしまっているから
に他ならない。本質的、総合的な問題から目を背けて、部分的な問題への対処ばかりに執心する
ことで気を紛らわすというのは偽善者の常套手段であって、致命的な道徳観の欠如と、ある程度
以上の注意力不足が本人に帯びている場合にこそ「それでよし」とされてしまうものである。
そして、そのような道徳観の欠如や注意力不足を引き起こす決定的な要因となるのが、
「自分こそは神と通じている」などとうそぶきたがるような脳内お花畑状態でこそある。
>193の引用部分の場合、庶民はおろか、中小国を統べる諸侯が天啓を根拠とした為政などを
企てたりする場合にすら諸々の隠蔽問題などを来たすことになってしまうという。これにも
確かに政治哲学や史実に根ざした根拠が存在している。戦国時代以前の中国の戦闘においては、
天性を司るものとしての陰陽五行思想を兵法にすら援用する場合が多かったが、激戦が極まれば、
もはや天性を無視しての陰湿な権謀術数すらもが動員されて行くことにもなるから、孫子や呉子
などが陰陽五行ばかりに囚われない自明な兵法を構築して行くようになり、それが戦国時代以降の
東洋社会における兵法の常道として扱われるようになった。これなど、諸侯レベルの大権力すらもが
必ずしも天に通ずるものたり得ない証拠になっていて、同時に、もしも諸侯が戦争ではなく仁政に
取り組むというのであれば、自明な仁義道徳によってこそ政治を為すべきである証拠ともなっている。
要は「『自分こそは天の神に通じている』などとうそぶくことで人気や権威を得ようなどと
する軽薄者は、救済すべき孤独者などを覆い隠して始めから存在しないことにしてしまう」
というのである。これはまさに、今のブラックアフリカのキリスト教圏で、死亡診断も得られる
ことなく餓死していっている何千万人もの児童たちへのキリスト教団の処遇そのものだといえる。
マザーテレサのごとく、それなりに救済活動を講じているキリシタンもいるけれども、そもそも
自分たちの救済活動が「焼け石に水」レベルの代物にしかなっていないことまでは問題視しない。
それは、何千万から何億という窮死者たちの実在を自分たちの脳内で覆い隠してしまっているから
に他ならない。本質的、総合的な問題から目を背けて、部分的な問題への対処ばかりに執心する
ことで気を紛らわすというのは偽善者の常套手段であって、致命的な道徳観の欠如と、ある程度
以上の注意力不足が本人に帯びている場合にこそ「それでよし」とされてしまうものである。
そして、そのような道徳観の欠如や注意力不足を引き起こす決定的な要因となるのが、
「自分こそは神と通じている」などとうそぶきたがるような脳内お花畑状態でこそある。
>193の引用部分の場合、庶民はおろか、中小国を統べる諸侯が天啓を根拠とした為政などを
企てたりする場合にすら諸々の隠蔽問題などを来たすことになってしまうという。これにも
確かに政治哲学や史実に根ざした根拠が存在している。戦国時代以前の中国の戦闘においては、
天性を司るものとしての陰陽五行思想を兵法にすら援用する場合が多かったが、激戦が極まれば、
もはや天性を無視しての陰湿な権謀術数すらもが動員されて行くことにもなるから、孫子や呉子
などが陰陽五行ばかりに囚われない自明な兵法を構築して行くようになり、それが戦国時代以降の
東洋社会における兵法の常道として扱われるようになった。これなど、諸侯レベルの大権力すらもが
必ずしも天に通ずるものたり得ない証拠になっていて、同時に、もしも諸侯が戦争ではなく仁政に
取り組むというのであれば、自明な仁義道徳によってこそ政治を為すべきである証拠ともなっている。
諸侯ですら、私的に天啓を掲げたりはすべきでないのだから、イスラエルで活動していた頃の
イエスを含むただの民間人などが、自らの活動を天の神などに仮託していいような正当性も
当然ない。今の日本などでも、街角で易者が一般人相手に占いをしたりしているけれども、
易者も大昔から賤しい職業とされて来たのであり、そのアドバイスなども大概なものとして
受け取るべきとされているのである。それでいて、易占の論拠ともなっている陰陽思想が
帝王や幕府将軍にすら尊ばれたりするのは、全国全土を治めるほどもの大局からの大事業に
おいては確かに、陰陽法則すらもが天下国家の栄枯盛衰すら左右するほどもの実体性を
帯びてくるからで、帝王級の大権力者が天啓を尊ぶのと、そんじょそこらの一般人が
天啓に頼るのとでは、まさに天と地ほどもの価値の開きが生ずるのだといえる。
全国全土を統べる帝王ともなれば天啓に与るのも可とする(「皇帝」という名称も本来そのような
意味がある)古代の中国や日本とも違って、インドなどではそもそも祭祀階級と権力者階級が
バラモンとクシャトリアとして厳密に分かたれてもいる。そのせいで、全国規模での権力者の
統制による国際関係での強大化のような選択肢が絶たれているのと引き換えに、自分たち同士では
和睦を徹底することでの万年平和状態をも実現している。もしも国際紛争などこの地球上から
絶やされるのであればインドのようなあり方が理想となるけれども、未だ世の中を乱す覇権主義
などが横行している場合には、ある程度は天啓を頂く帝王などによる統制も必要となる場合がある。
いずれにしろ、庶人が勝手に天啓をうそぶいていいような選択肢だけはないのである。
イエスを含むただの民間人などが、自らの活動を天の神などに仮託していいような正当性も
当然ない。今の日本などでも、街角で易者が一般人相手に占いをしたりしているけれども、
易者も大昔から賤しい職業とされて来たのであり、そのアドバイスなども大概なものとして
受け取るべきとされているのである。それでいて、易占の論拠ともなっている陰陽思想が
帝王や幕府将軍にすら尊ばれたりするのは、全国全土を治めるほどもの大局からの大事業に
おいては確かに、陰陽法則すらもが天下国家の栄枯盛衰すら左右するほどもの実体性を
帯びてくるからで、帝王級の大権力者が天啓を尊ぶのと、そんじょそこらの一般人が
天啓に頼るのとでは、まさに天と地ほどもの価値の開きが生ずるのだといえる。
全国全土を統べる帝王ともなれば天啓に与るのも可とする(「皇帝」という名称も本来そのような
意味がある)古代の中国や日本とも違って、インドなどではそもそも祭祀階級と権力者階級が
バラモンとクシャトリアとして厳密に分かたれてもいる。そのせいで、全国規模での権力者の
統制による国際関係での強大化のような選択肢が絶たれているのと引き換えに、自分たち同士では
和睦を徹底することでの万年平和状態をも実現している。もしも国際紛争などこの地球上から
絶やされるのであればインドのようなあり方が理想となるけれども、未だ世の中を乱す覇権主義
などが横行している場合には、ある程度は天啓を頂く帝王などによる統制も必要となる場合がある。
いずれにしろ、庶人が勝手に天啓をうそぶいていいような選択肢だけはないのである。
「孔子少くして孤なり、其の墓を知らず。五父の衢に殯す。人の之れを見る者、
皆な葬と為せり。其の慎めるや蓋し殯なり。郰曼父の母に問いて、然る後防に合葬するを得たり」
「孔先生は若いうちに父母を亡くして孤児となられた。(妾腹の私生児だったため)父の墓を
知らなかったので五父という所の路地で母のかりもがりを執り行った。これを見たものはみな
立派な葬儀だと認めた。(妾だった母だからあえて路地でかりもがりを行った)その慎み深さ
こそは認められた。その後、母の親類に問うて父の墓を探り当て、防という場所に合葬した。
(孤児でいながら、あえて妾の子である自分を遠ざけた父の意向をも孔子は汲んだのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
皆な葬と為せり。其の慎めるや蓋し殯なり。郰曼父の母に問いて、然る後防に合葬するを得たり」
「孔先生は若いうちに父母を亡くして孤児となられた。(妾腹の私生児だったため)父の墓を
知らなかったので五父という所の路地で母のかりもがりを執り行った。これを見たものはみな
立派な葬儀だと認めた。(妾だった母だからあえて路地でかりもがりを行った)その慎み深さ
こそは認められた。その後、母の親類に問うて父の墓を探り当て、防という場所に合葬した。
(孤児でいながら、あえて妾の子である自分を遠ざけた父の意向をも孔子は汲んだのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
ある程度、一世代上や二世代上といった領域を想定することでこそ
心からの安心を得られるのも、人間という生き物に与えられたサガである。
生物としての人間には親がいて、なおかつ低能な動物などと違って、
先祖代々の血脈というものまでをも認知することができる。なればこそ、
自分自身の父母のみならず、祖父母や曾祖父母やさらにその上といった
連綿たる我が家の歴史にも思いをはせることで、ただ安心を得るだけでなく、
自らが生きて活動していく上での指針や誇り高さをも会得して行けるのである。
むろん、動物でも自分の親を認知して慕うぐらいのことはあり得る。
クモの一種などのように、親の死骸を食い物として生まれ育って行く
動物などもいるけれども、特に哺乳類などの高等な動物であれば、自分の
母親への愛慕くらいは抱けるものである。それは、自分より一世代上の親
への愛情であり、それを抱けるのであれば、父親への親愛をも抱けなくはない。
そこを悪用しているのが、「父なる神」を信仰対象に見立てている部類の邪教であり、
一世代上である親への愛慕程度は畜生でも抱けるから、白痴化洗脳で知能を動物程度
にまで低下させたとしても、その信仰を保っていることができる。なおかつ、哺乳動物は
母親への愛慕を抱きやすい一方、父親への愛慕などは抱きにくいものだから、「母なる神」
ではなく「父なる神」への服従に屈することが、なにか得体の知れないようなものでいて、
なおかつ崇高なものへの帰依に繋がるかのような思い込みにもかられがちなのである。
むろん、そんなことは、実の父親への崇敬も欠かさないでいればあり得ないことである。
最大級に偉大であるといえども、便所にも行けば加齢臭もする、そして何よりも自分の
母親を手篭めにすることで自分を産ませた実の父親というものを、そうでいてなおかつ
崇敬の対象とするぐらいの心尽くしを利かせたならば、父なる神云々なんぞへの
帰依が不実きわまりない戯れ事でしかないことをも十分に計り知れるのである。
心からの安心を得られるのも、人間という生き物に与えられたサガである。
生物としての人間には親がいて、なおかつ低能な動物などと違って、
先祖代々の血脈というものまでをも認知することができる。なればこそ、
自分自身の父母のみならず、祖父母や曾祖父母やさらにその上といった
連綿たる我が家の歴史にも思いをはせることで、ただ安心を得るだけでなく、
自らが生きて活動していく上での指針や誇り高さをも会得して行けるのである。
むろん、動物でも自分の親を認知して慕うぐらいのことはあり得る。
クモの一種などのように、親の死骸を食い物として生まれ育って行く
動物などもいるけれども、特に哺乳類などの高等な動物であれば、自分の
母親への愛慕くらいは抱けるものである。それは、自分より一世代上の親
への愛情であり、それを抱けるのであれば、父親への親愛をも抱けなくはない。
そこを悪用しているのが、「父なる神」を信仰対象に見立てている部類の邪教であり、
一世代上である親への愛慕程度は畜生でも抱けるから、白痴化洗脳で知能を動物程度
にまで低下させたとしても、その信仰を保っていることができる。なおかつ、哺乳動物は
母親への愛慕を抱きやすい一方、父親への愛慕などは抱きにくいものだから、「母なる神」
ではなく「父なる神」への服従に屈することが、なにか得体の知れないようなものでいて、
なおかつ崇高なものへの帰依に繋がるかのような思い込みにもかられがちなのである。
むろん、そんなことは、実の父親への崇敬も欠かさないでいればあり得ないことである。
最大級に偉大であるといえども、便所にも行けば加齢臭もする、そして何よりも自分の
母親を手篭めにすることで自分を産ませた実の父親というものを、そうでいてなおかつ
崇敬の対象とするぐらいの心尽くしを利かせたならば、父なる神云々なんぞへの
帰依が不実きわまりない戯れ事でしかないことをも十分に計り知れるのである。
イエスのごときは、自分が妾腹の私生児でいて、娼婦だった母親と義父の下で生まれ
育ったものだから、脳内妄想中の父なる神などへの服従意識などを勝手に思い募らせて
行ったのだけれども、孔子も同じく妾腹の私生児でいて、なおかつ義父もいない母子家庭に
育ちながら、実の父親こそを最大級に尊重して、我が母を妾扱いとした父の意向をも汲んで
母を路地での葬儀に付してから父の墓に合葬するなどしたのだった。これなど、生まれ育った
環境が、父なる神への妄想などを正当化する理由には全くならない最たる根拠となってる。
商売人や被差別部落のような賤しい身分であれば、自らの先祖などへの尊崇意識なども
なかなか抱けないものだけれども、だからといって実の父親への敬いまでをも無みして、
父なる神への夢想などに耽っていていいはずもない。身分の如何に関わらず、一世代上の
父および母への崇敬ぐらいは誰しもが持つべきであり、それにより、私的な天との疎通などを
嘯いた邪教の触れ回りなどをも防ぐようにして行くべきである。そのためには、なかなか
親などを敬いの対象ともしにくいような身分の人間の手本とすらなるように、君子階級の
人間などが、先祖代々に至るまでの祖神の崇敬などにも専念して行かなければならない。
「命士由り以上は、父子皆な宮を異にする」
「士人以上の階級の人間は、父子同士は全員、家を別個にする。
(それぞれに責任ある君子たるものが父子の親を尊ぶのが儒家道徳である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・内則第二十より)
育ったものだから、脳内妄想中の父なる神などへの服従意識などを勝手に思い募らせて
行ったのだけれども、孔子も同じく妾腹の私生児でいて、なおかつ義父もいない母子家庭に
育ちながら、実の父親こそを最大級に尊重して、我が母を妾扱いとした父の意向をも汲んで
母を路地での葬儀に付してから父の墓に合葬するなどしたのだった。これなど、生まれ育った
環境が、父なる神への妄想などを正当化する理由には全くならない最たる根拠となってる。
商売人や被差別部落のような賤しい身分であれば、自らの先祖などへの尊崇意識なども
なかなか抱けないものだけれども、だからといって実の父親への敬いまでをも無みして、
父なる神への夢想などに耽っていていいはずもない。身分の如何に関わらず、一世代上の
父および母への崇敬ぐらいは誰しもが持つべきであり、それにより、私的な天との疎通などを
嘯いた邪教の触れ回りなどをも防ぐようにして行くべきである。そのためには、なかなか
親などを敬いの対象ともしにくいような身分の人間の手本とすらなるように、君子階級の
人間などが、先祖代々に至るまでの祖神の崇敬などにも専念して行かなければならない。
「命士由り以上は、父子皆な宮を異にする」
「士人以上の階級の人間は、父子同士は全員、家を別個にする。
(それぞれに責任ある君子たるものが父子の親を尊ぶのが儒家道徳である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・内則第二十より)
「礼は節を踰えず。侵して侮らず、好みて狎れず」
「礼儀をわきまえるものは決して節度を超えない。特定の対象を侵して侮り蔑む
ようなこともなければ、特定の相手のみを好き好んで馴れ親しんだりすることもない。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
「狎れ侮るものは死するまで畏れざるなり」
「馴れ合って人を侮るようなものは死ぬまで他者を畏れるようなことがない。
(上記の引用と合わせて。自明な礼節にも基づかずに架空の超越神などに慣れ親しもう
とするような姿勢自体、本当はむしろ万事万物への侮りや蔑みを深刻化させるものである。
超越神への畏怖などはただの演技止まりで、演技の畏怖に執心するのと引き換えに
生身の人間への侮蔑を募らせる。そのような心理状態に陥ってしまっている人間は、
死ぬまで他者を畏怖の対象とすることもできないままに終わるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——表記第三十二より)
「礼儀をわきまえるものは決して節度を超えない。特定の対象を侵して侮り蔑む
ようなこともなければ、特定の相手のみを好き好んで馴れ親しんだりすることもない。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
「狎れ侮るものは死するまで畏れざるなり」
「馴れ合って人を侮るようなものは死ぬまで他者を畏れるようなことがない。
(上記の引用と合わせて。自明な礼節にも基づかずに架空の超越神などに慣れ親しもう
とするような姿勢自体、本当はむしろ万事万物への侮りや蔑みを深刻化させるものである。
超越神への畏怖などはただの演技止まりで、演技の畏怖に執心するのと引き換えに
生身の人間への侮蔑を募らせる。そのような心理状態に陥ってしまっている人間は、
死ぬまで他者を畏怖の対象とすることもできないままに終わるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——表記第三十二より)

欧米主導の平等主義が日本を含む世界中へと蔓延し始めたからだった。
日本では主に部落差別が撤廃の対象とされ、近頃の中国などでは商工業への差別が
著しく緩和されたために工業超大国などへと発展している。しかし、差別されるには
差別されるなりの理由もそれなりにあったわけで、その差別が撤廃された結果、
日本では血肉の穢れで精神をやられた部落出身者が逆差別の我田引水を企てたり、
中国でも政財界の深刻な腐敗だとか、工業の過剰な推進による致命的な環境汚染だとか
いった問題を来たしている。同様な問題を欧米社会は克服しているように思えた所で、
やはりアフリカやインドや中東のような伝統的な搾取対象から膨大な富を巻き上げて、
その取り回しによって腐敗を腐敗でないかのように見せかけているだけなのだから、
この世から然るべき差別すらをも撤廃したことの埋め合わせまではできていないといえる。
差別を絶対的な悪と見なす他ないのは、そう見なす本人たちに中庸的なものの考え方が
全く欠けているからである。今でも糞尿を不浄なものとして卑しむぐらいのことは
認められているけれども、不浄でいながらも栄養素の塊でもあるものだから、昔は
肥溜めで人の糞尿を発酵させて天然の堆肥として用いるなどもしていたのである。
しかし、今はもうただただ不浄なだけのものとされて、下水道から浄化槽へと直行させたり
することが半ば義務付けられている。それを日本で推進したのも日本人ではなくGHQであり、
アメリカ人の差別対象に対する徹底的な否定意識こそが垣間見られる事例ともなっている。
被差別部落なぞも、元はといえば政争で敗れた権力者などの落ち延び先として
あてがわれたものだったわけで、まさに「社会の肥溜め」そのものであったわけだけれども、
肥溜めが禁止されたのと同じようにして、それが差別対象とされることも禁止された結果、
日本最大級の被差別部落であった旧長宗我部勢などが政財界のトップをも掌握するに至り、
権力者の腐敗などはあって当たり前なもの扱いにすらされ始めてしまったのだった。
糞尿にすら堆肥としての再利用先を与えるような中庸的な観点があればこそ、この世における
必要悪としての差別をも容認して行くことができる。むしろ、何物に対しても一定以上の存在意義
を認められるだけの寛容さがあればこそ、人の上に立つ人の存在をも素直に尊んで行けるのである。
旧部落出身者に限らず、商業権力全般が甚大な腐敗を来たしている昨今、必要悪の身分差別を
講ずるとしたところで、屠殺や製革などの特定の職種ばかりを差別対象とするのではなく、
私利私益第一な虚業への従事者全般を被差別対象に指定して行くことのほうが現実的となる。
となると、商業全般を伝統的な差別対象として来た中国のあり方に近似することとなるわけだ
けれども、未だ世界規模での商業権力の横暴冷めやらぬうちから、世界に先んじて商業全般
を抑圧の対象として来た中国という国の、近世以降における国家規模でのサンドバック状態な
体たらくなどを鑑みれば、商業全般を差別対象として行くことへの忌避感なども募らせかねない。
ただ、そこは中国のほうが「過ぎたるはなお及ばざるが如し」だった部分であるといえ、
世界全体が足並みを揃えて、過剰な商業権力の横暴を廃絶して行くようにしたならば、
清代末期の中国のような陰惨な事態に世界が陥るようなこともなくて済むのである。
あてがわれたものだったわけで、まさに「社会の肥溜め」そのものであったわけだけれども、
肥溜めが禁止されたのと同じようにして、それが差別対象とされることも禁止された結果、
日本最大級の被差別部落であった旧長宗我部勢などが政財界のトップをも掌握するに至り、
権力者の腐敗などはあって当たり前なもの扱いにすらされ始めてしまったのだった。
糞尿にすら堆肥としての再利用先を与えるような中庸的な観点があればこそ、この世における
必要悪としての差別をも容認して行くことができる。むしろ、何物に対しても一定以上の存在意義
を認められるだけの寛容さがあればこそ、人の上に立つ人の存在をも素直に尊んで行けるのである。
旧部落出身者に限らず、商業権力全般が甚大な腐敗を来たしている昨今、必要悪の身分差別を
講ずるとしたところで、屠殺や製革などの特定の職種ばかりを差別対象とするのではなく、
私利私益第一な虚業への従事者全般を被差別対象に指定して行くことのほうが現実的となる。
となると、商業全般を伝統的な差別対象として来た中国のあり方に近似することとなるわけだ
けれども、未だ世界規模での商業権力の横暴冷めやらぬうちから、世界に先んじて商業全般
を抑圧の対象として来た中国という国の、近世以降における国家規模でのサンドバック状態な
体たらくなどを鑑みれば、商業全般を差別対象として行くことへの忌避感なども募らせかねない。
ただ、そこは中国のほうが「過ぎたるはなお及ばざるが如し」だった部分であるといえ、
世界全体が足並みを揃えて、過剰な商業権力の横暴を廃絶して行くようにしたならば、
清代末期の中国のような陰惨な事態に世界が陥るようなこともなくて済むのである。
この世に正統なものとして認知されている思想教学のほとんどは、
個人的、社会的な破滅をわざわざ招いたりしないことを目的としたものである。
この世に破滅をもたらさないための教学。良妻賢母の神である天照大神を最高神として
祀る日本神道などがその典型例であり、人々がアマテラス的な神への尊崇を大きく
損ねてしまっている近代以降には、堅実な家族計画を反故にしてしまっているせいでの
人類滅亡級の危害を伴う世界規模の人口爆発といった問題を来たしてしまってもいる。
破滅をもたらすような邪教邪学を廃絶するための教学。他でもない儒学がその代表格であり、
わざわざ必要もなく破滅をもたらす邪神エホバを最高神として崇める新旧約聖書と
真逆の教理学説を儒学の正典四書五経が擁していることからも、それが明らかである。
仏教もまた、元はといえば六師外道のごとき異端派を相手取っていたものであり、
それらの外道のほうに洋学や聖書教にも通ずる邪見が多く具わっていたわけだけれども、
仏教自体は邪教邪学を敵に回して降伏するばかりのところにとどまらない、独立的な
荘厳を湛えた善教ともなっているため、儒学ほど勧善懲悪の傾向は色濃くない。
わざわざ破滅をもたらすような邪神を何らかの形で想定する教学。
破壊神シヴァを創造神ブラフマーや維持神ヴィシュヌと共に祀り上げるヒンズー教だとか、
最高神にして善神たるアフラ・マズダーの敵役としての邪神アンラ・マンユを規定する
拝火教だとかもそのうちに入るわけだが、これらの教学においては、破滅をもたらす神が
「主人公」としての役割までは果たしておらず、相応の扱いに止められている。そのため、
これらの教学だけで「マッチポンプ」という条件まで満たすことはなく、故にこの世に
わざわざあえて破滅をもたらすような所にまでは至らない点が特筆すべき点だといえる。
個人的、社会的な破滅をわざわざ招いたりしないことを目的としたものである。
この世に破滅をもたらさないための教学。良妻賢母の神である天照大神を最高神として
祀る日本神道などがその典型例であり、人々がアマテラス的な神への尊崇を大きく
損ねてしまっている近代以降には、堅実な家族計画を反故にしてしまっているせいでの
人類滅亡級の危害を伴う世界規模の人口爆発といった問題を来たしてしまってもいる。
破滅をもたらすような邪教邪学を廃絶するための教学。他でもない儒学がその代表格であり、
わざわざ必要もなく破滅をもたらす邪神エホバを最高神として崇める新旧約聖書と
真逆の教理学説を儒学の正典四書五経が擁していることからも、それが明らかである。
仏教もまた、元はといえば六師外道のごとき異端派を相手取っていたものであり、
それらの外道のほうに洋学や聖書教にも通ずる邪見が多く具わっていたわけだけれども、
仏教自体は邪教邪学を敵に回して降伏するばかりのところにとどまらない、独立的な
荘厳を湛えた善教ともなっているため、儒学ほど勧善懲悪の傾向は色濃くない。
わざわざ破滅をもたらすような邪神を何らかの形で想定する教学。
破壊神シヴァを創造神ブラフマーや維持神ヴィシュヌと共に祀り上げるヒンズー教だとか、
最高神にして善神たるアフラ・マズダーの敵役としての邪神アンラ・マンユを規定する
拝火教だとかもそのうちに入るわけだが、これらの教学においては、破滅をもたらす神が
「主人公」としての役割までは果たしておらず、相応の扱いに止められている。そのため、
これらの教学だけで「マッチポンプ」という条件まで満たすことはなく、故にこの世に
わざわざあえて破滅をもたらすような所にまでは至らない点が特筆すべき点だといえる。
破滅をもたらす邪神こそを唯一最高の神に祀り上げる教学。
アブラハム教がそれであり、唯一神エホバは自分こそがこの世に破滅をもたらす過程に
おいて、信者のみを救おうとする。そのエホバの邪まな傾向をありのままに称えている
のがユダヤ教とキリスト教=聖書信仰である一方、イスラム教だけは、エホバをアラー
に摩り替えて、根本聖典コーランの中で新旧約とは真逆の教説ばかりを語らせているため、
最高神が辛うじて自分から破滅を招くような真似にまでは及ばないようになっている。
以上の教学うちで、教学そのものがわざわざあえてこの世に破滅をもたらす傾向すらをも
持ち合わせているのは、ユダヤ教とキリスト教の両聖書信仰のみである。それ以外の
教学でも、「この世の破滅」的な事態に対する対処の仕方にはそれなりの段階の違いが
あるけだけれども、わざわざ自分たちから破滅をもたらすような傾向までをも備えている
ような教学ともなれば、聖書信仰以外には一つもないのである。聖書信仰すらこの世に存在
しなければ、特定の教学によってこの世が破滅に陥れられるようなことはあり得ないのだ。
人間自身の文化的な教学が破滅をもたらしたりせずとも、天災によって天下国家が傾国級の
危害に見舞われたり、秦帝国の悪宦官趙高のような重権力犯罪者が、特定の思想教学などに
よることもなく、腐れきった政治姿勢によって亡国を招いたりすることもあるわけである。
そのような事例は一旦取り置くとして、特定の堂に入った人造文化があえてこの世に破滅
をもたらすということは、今のところ社会的に十分に承認すらされていないことである。
聖書信仰といえども、多少は世の中を安寧に持って行こうとする傾向があるものと思われて
いる。この世にプラスマイナスゼロ以上の好影響をもたらすのが「文化」というものの役割
であると完全に決め込まれているものだから、未だ聖書信仰すらもがおおっぴらな振興の
対象とされて、人類を滅亡に陥れない程度の抑制の対象にされることすらないのである。
アブラハム教がそれであり、唯一神エホバは自分こそがこの世に破滅をもたらす過程に
おいて、信者のみを救おうとする。そのエホバの邪まな傾向をありのままに称えている
のがユダヤ教とキリスト教=聖書信仰である一方、イスラム教だけは、エホバをアラー
に摩り替えて、根本聖典コーランの中で新旧約とは真逆の教説ばかりを語らせているため、
最高神が辛うじて自分から破滅を招くような真似にまでは及ばないようになっている。
以上の教学うちで、教学そのものがわざわざあえてこの世に破滅をもたらす傾向すらをも
持ち合わせているのは、ユダヤ教とキリスト教の両聖書信仰のみである。それ以外の
教学でも、「この世の破滅」的な事態に対する対処の仕方にはそれなりの段階の違いが
あるけだけれども、わざわざ自分たちから破滅をもたらすような傾向までをも備えている
ような教学ともなれば、聖書信仰以外には一つもないのである。聖書信仰すらこの世に存在
しなければ、特定の教学によってこの世が破滅に陥れられるようなことはあり得ないのだ。
人間自身の文化的な教学が破滅をもたらしたりせずとも、天災によって天下国家が傾国級の
危害に見舞われたり、秦帝国の悪宦官趙高のような重権力犯罪者が、特定の思想教学などに
よることもなく、腐れきった政治姿勢によって亡国を招いたりすることもあるわけである。
そのような事例は一旦取り置くとして、特定の堂に入った人造文化があえてこの世に破滅
をもたらすということは、今のところ社会的に十分に承認すらされていないことである。
聖書信仰といえども、多少は世の中を安寧に持って行こうとする傾向があるものと思われて
いる。この世にプラスマイナスゼロ以上の好影響をもたらすのが「文化」というものの役割
であると完全に決め込まれているものだから、未だ聖書信仰すらもがおおっぴらな振興の
対象とされて、人類を滅亡に陥れない程度の抑制の対象にされることすらないのである。
削除(by投稿者)
そのような事態で、「エホバやキリストに帰依するものしか救われない」とする犯罪聖書
の教義がそれなりの実効性を持つこともまた確かなことである。有益無害な正教も有害無益
な邪教もみそくそに扱われて、無理に足並みを揃えさせられているような限りにおいては、
そもそも破滅をもたらしたりしないことを目的としている聖書信仰以外の教学ほぼ全てが、
その時点で完全にその存在意義を無効化させられてしまっているのである。破滅をこの世に
もたらさないことが目的であるからには、まずは聖書信仰のような邪教をこの世から根絶
することが最優先の課題となるのに、それすらもが実現されていないわけだから、後付けで
どんなに良質な教学を振興して行ったりしたところで、全くの「焼け石に水」となるわけだ。
目の前に立てた薄板が右に倒れるか左に倒れるかぐらいに、まず聖書信仰を是とするか
非とするかこそが問題である。是とするほうに倒れるのなら、もはや破滅もまた絶対に免れ
得ないものとなる一方、非とするほうに倒れるのなら、人間が自分たちの文化によって自滅
に見舞われるようなことまではなくなる。致死量の千倍の猛毒を飲むか飲まないかぐらいの
違いが両者にはあるのであり、それを良薬で癒せる癒せないどころの話ではないのである。
「悪を長じて悛めずんば、従いて自ら及ばん。之れを救わんと欲すと雖も、其れ将に能くせんや」
「害悪を増長させ続けて改めようともしないのならば、いずれはそのせいでの禍いが自らに
及んでくる。そうなってからでは、もはや救ってやろうとしたところで、救えるものではない。
(自分こそは多大なる害悪を増長させて来た元凶である犯罪聖書の邪神にこそ、救いはない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隠公六年より)
の教義がそれなりの実効性を持つこともまた確かなことである。有益無害な正教も有害無益
な邪教もみそくそに扱われて、無理に足並みを揃えさせられているような限りにおいては、
そもそも破滅をもたらしたりしないことを目的としている聖書信仰以外の教学ほぼ全てが、
その時点で完全にその存在意義を無効化させられてしまっているのである。破滅をこの世に
もたらさないことが目的であるからには、まずは聖書信仰のような邪教をこの世から根絶
することが最優先の課題となるのに、それすらもが実現されていないわけだから、後付けで
どんなに良質な教学を振興して行ったりしたところで、全くの「焼け石に水」となるわけだ。
目の前に立てた薄板が右に倒れるか左に倒れるかぐらいに、まず聖書信仰を是とするか
非とするかこそが問題である。是とするほうに倒れるのなら、もはや破滅もまた絶対に免れ
得ないものとなる一方、非とするほうに倒れるのなら、人間が自分たちの文化によって自滅
に見舞われるようなことまではなくなる。致死量の千倍の猛毒を飲むか飲まないかぐらいの
違いが両者にはあるのであり、それを良薬で癒せる癒せないどころの話ではないのである。
「悪を長じて悛めずんば、従いて自ら及ばん。之れを救わんと欲すと雖も、其れ将に能くせんや」
「害悪を増長させ続けて改めようともしないのならば、いずれはそのせいでの禍いが自らに
及んでくる。そうなってからでは、もはや救ってやろうとしたところで、救えるものではない。
(自分こそは多大なる害悪を増長させて来た元凶である犯罪聖書の邪神にこそ、救いはない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隠公六年より)
まだやってるんだ。^^
「君子は群して党せず(衛霊公第十五・二二)」の「党」とは、「組織」のことでもある。
テロ組織やねずみ講のための詐欺組織などを組まないのはもちろんのこと、
それなりに公益を目的とした組織すらなるべく組もうとはしないというのである。
とはいえ孔子自身、3000人を超える弟子が居たとされ、それがもはや一つの学問組織に
なってしまっていたわけである。それを源流とした儒学教団の興隆は孔子の死後にも続き、
秦始皇帝による焚書坑儒の弾圧なども被った後、前漢の代になってやっと「国学」として
のその地位が確立され、儒学が公的な振興対象とされて行くようになったのである。
未だ私的な学団に過ぎない派閥を形成してしまっていた孔子や孟子の態度姿勢たるや、
やはりそのようなあり方自体を変則的であるとする自覚があったようである。だからこそ、
「子、疾病す。子路、門人を使わして臣と為す。病、饟なりて曰く、久しいかな、
由の詐りを行うや、臣無くして臣有りと為す。吾れ誰をか欺むかんや、天を欺かんか」
「孔先生が重病になられた。もはや死にそうですらあったので、高弟の子路が門弟たちを
臣下に見立てて、先生を主君として崇める偽りの儀礼を執り行って慰めようとした。
病が少しよくなってから先生は言われた。『由(子路)の偽り好きも久しいものだ。
臣下もいないのに臣下があるように見せかけるなど、どうして私がそんなことをして
欺かねばならないのか。なにか、天をでも欺かねばならない理由があるのか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一二より)
という風に、公職者としての成功に
与れなかったことを門弟に無理に慰められるようなことすらもがあったのである。
テロ組織やねずみ講のための詐欺組織などを組まないのはもちろんのこと、
それなりに公益を目的とした組織すらなるべく組もうとはしないというのである。
とはいえ孔子自身、3000人を超える弟子が居たとされ、それがもはや一つの学問組織に
なってしまっていたわけである。それを源流とした儒学教団の興隆は孔子の死後にも続き、
秦始皇帝による焚書坑儒の弾圧なども被った後、前漢の代になってやっと「国学」として
のその地位が確立され、儒学が公的な振興対象とされて行くようになったのである。
未だ私的な学団に過ぎない派閥を形成してしまっていた孔子や孟子の態度姿勢たるや、
やはりそのようなあり方自体を変則的であるとする自覚があったようである。だからこそ、
「子、疾病す。子路、門人を使わして臣と為す。病、饟なりて曰く、久しいかな、
由の詐りを行うや、臣無くして臣有りと為す。吾れ誰をか欺むかんや、天を欺かんか」
「孔先生が重病になられた。もはや死にそうですらあったので、高弟の子路が門弟たちを
臣下に見立てて、先生を主君として崇める偽りの儀礼を執り行って慰めようとした。
病が少しよくなってから先生は言われた。『由(子路)の偽り好きも久しいものだ。
臣下もいないのに臣下があるように見せかけるなど、どうして私がそんなことをして
欺かねばならないのか。なにか、天をでも欺かねばならない理由があるのか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一二より)
という風に、公職者としての成功に
与れなかったことを門弟に無理に慰められるようなことすらもがあったのである。
上の引用では、まだ孔子も自分のことであるものだから、現状を嘆くようなことも
強がりによって避けているけれども、下の引用などではその本音までもが吐露されている。
「顔淵死す。門人厚く之れを葬らんことを欲す。子曰く、不可なり。
門人厚く之れを葬る。子曰く、回や、予れを視ること猶お父のごとし。
予れは視ること猶お子のごとくするを得ず。我れに非ざるなり、夫の二三子なり」
「高弟の顔淵が若くして死んだ。門人たちは手厚く葬ろうとした。先生は『だめだ』
と言われた。しかし門人たちはそれも聞かずに手厚く葬った。先生は言われた。
『回(顔淵)は私を実の父親のように慕ってくれたが、私は回をわが子のように
遇してやることができなかった。(だから葬儀ばかりを厚くするのも恥じていた)
私が手厚く葬ろうとしたのではない。何人かの弟子たちが勝手にやったのだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・一一)
自分が君子階級としての成功者でもなかったがために、最高弟だった顔淵すらをも
苦学状態ないち書生のままに死なせてしまったことを大いに恥じたのである。子貢
あたりが投機で大金を得てもいたものだから、単なる物質的な富裕に与れないなんて
こともなかったはずだが、清廉を旨とする顔淵はそのような私的な富裕などを由と
することもなかった。あくまで君子としての栄華にこそ与らせてやりたかったのに、
たかがいち学団の構成者止まりで居させてしまったことを孔子も酷く嘆いたのである。
「群して党せず」は理想論の極致として、実際問題、多少の組織を組んだりすることも
あるというのは孔子や孟子の事績からも知れることである。ただ、そんなものを誇りと
したりはせず、むしろ恥とする。組織の連帯意識を高める友愛の理念などもあって余計
であり、なくて別に困らないものとする、それぐらいの心がけは必要だといえる。
強がりによって避けているけれども、下の引用などではその本音までもが吐露されている。
「顔淵死す。門人厚く之れを葬らんことを欲す。子曰く、不可なり。
門人厚く之れを葬る。子曰く、回や、予れを視ること猶お父のごとし。
予れは視ること猶お子のごとくするを得ず。我れに非ざるなり、夫の二三子なり」
「高弟の顔淵が若くして死んだ。門人たちは手厚く葬ろうとした。先生は『だめだ』
と言われた。しかし門人たちはそれも聞かずに手厚く葬った。先生は言われた。
『回(顔淵)は私を実の父親のように慕ってくれたが、私は回をわが子のように
遇してやることができなかった。(だから葬儀ばかりを厚くするのも恥じていた)
私が手厚く葬ろうとしたのではない。何人かの弟子たちが勝手にやったのだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・一一)
自分が君子階級としての成功者でもなかったがために、最高弟だった顔淵すらをも
苦学状態ないち書生のままに死なせてしまったことを大いに恥じたのである。子貢
あたりが投機で大金を得てもいたものだから、単なる物質的な富裕に与れないなんて
こともなかったはずだが、清廉を旨とする顔淵はそのような私的な富裕などを由と
することもなかった。あくまで君子としての栄華にこそ与らせてやりたかったのに、
たかがいち学団の構成者止まりで居させてしまったことを孔子も酷く嘆いたのである。
「群して党せず」は理想論の極致として、実際問題、多少の組織を組んだりすることも
あるというのは孔子や孟子の事績からも知れることである。ただ、そんなものを誇りと
したりはせず、むしろ恥とする。組織の連帯意識を高める友愛の理念などもあって余計
であり、なくて別に困らないものとする、それぐらいの心がけは必要だといえる。
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作為は人事であり、天命は無為である。
儒家は人事としての自力作善を自分たちの本題とする一方、
そこに付随したりしなかったりする程度のものとしての天命をも尊ぶ。
ただ、天命を尊ぶからこそ無為自然を理想とする道家思想をも尊ぶのであり、
天命を尊ばんがために「作為的な神の業」などを是とすることもないのである。
人事にかけての最善を尽くせばこそ、
作為が神の業などではあり得ないことも知るのである。
犯罪聖書で絶対不可侵の超越神とされているエホバの業なんぞも、古代中国や
今の世界で横行している政商や食客や縦横家の如き権力犯罪者が巻き起こす
犯罪現象に過ぎないと完全に看破することができる。しかもそれは、人間が
為しうる作為のうちでも決して最善の部類に入るものなどではなく、商業権力への
過保護だとかの甚だしい怠慢と共にこそ成立しているだけのものに過ぎないわけだから、
それ以上にも為政や武事にかけて最善を尽くそうとする人間の立場からすれば、
ただただ見下げたものとして取り扱うほかはないものとなるわけである。
そんなものが、人事にかけて最善を尽くす人間が「神の業」などとして尊ぶに
値するものでないのは当然のこととして、やはりそのような人間にとっても、
もはや神の業と見なす他ない現象というものが、無為自然の中にこそ見出される。
「無為自然」というからには、何もしないことばかりを想定してしまいがちだけれども、
何もしないでいようとする中にも、どうしたって転変せざるを得ないようなことがある。
そのような消極性の限りを尽くした変転の中にこそ、超絶的な神の業とも見なし得る
現象というものが少なからず散見されるものであり、そのような現象こそは、全世界、
天下国家の命運を司るほどもの大局からの神威を発揮したりしてもいるのである。
儒家は人事としての自力作善を自分たちの本題とする一方、
そこに付随したりしなかったりする程度のものとしての天命をも尊ぶ。
ただ、天命を尊ぶからこそ無為自然を理想とする道家思想をも尊ぶのであり、
天命を尊ばんがために「作為的な神の業」などを是とすることもないのである。
人事にかけての最善を尽くせばこそ、
作為が神の業などではあり得ないことも知るのである。
犯罪聖書で絶対不可侵の超越神とされているエホバの業なんぞも、古代中国や
今の世界で横行している政商や食客や縦横家の如き権力犯罪者が巻き起こす
犯罪現象に過ぎないと完全に看破することができる。しかもそれは、人間が
為しうる作為のうちでも決して最善の部類に入るものなどではなく、商業権力への
過保護だとかの甚だしい怠慢と共にこそ成立しているだけのものに過ぎないわけだから、
それ以上にも為政や武事にかけて最善を尽くそうとする人間の立場からすれば、
ただただ見下げたものとして取り扱うほかはないものとなるわけである。
そんなものが、人事にかけて最善を尽くす人間が「神の業」などとして尊ぶに
値するものでないのは当然のこととして、やはりそのような人間にとっても、
もはや神の業と見なす他ない現象というものが、無為自然の中にこそ見出される。
「無為自然」というからには、何もしないことばかりを想定してしまいがちだけれども、
何もしないでいようとする中にも、どうしたって転変せざるを得ないようなことがある。
そのような消極性の限りを尽くした変転の中にこそ、超絶的な神の業とも見なし得る
現象というものが少なからず散見されるものであり、そのような現象こそは、全世界、
天下国家の命運を司るほどもの大局からの神威を発揮したりしてもいるのである。
そのような真の神の業の下で、人間もただただ立ちすくんでいるべきなのではなく、
人事にかけて最善を尽くすことでこそ天命に与れもする。ただただ怠慢なままで
いたりするのでは、天命に与れないのはもちろんのこと、無為自然の中にこそある
超絶的な神の業を計り知ることもできないままに終わる。鬼畜米英と反幕勢力の共倒れ
という幕府のはかりごとに一切気づくこともなく破滅が不可避な事態にまで陥ってしまった
今の日米英の資本主義者などもその例である。ただただ金を稼ぐことばかりに奔走すると
いうこと自体が、決して人としての最善を尽くしたあり方ではないものだから、自分たち
が神君家康公の手玉に取られていたことにも全く気づくことができなかったのだった。
人としての怠慢に溺れている所でこそ、政商の如き重権力犯罪者を超越神に
見立てるような虚構の神様ごっこすらもが催されたわけで、それによりさらなる
怠慢の助長すらをも図ってきたわけだから、虚構の超越神こそは、無為自然の
中にこそある真の神の業を見失わせる元凶ともなって来たのだといえる。
神様ごっこというのは、やはり罰当たりなことだったのである。
本物の神仏の霊威を人々に見失わせての破滅を招くが故にこそ、自明に罰当たりとなる。
人々に本物の神仏への崇敬を損なわせると共に、本物の神威を計り知れるだけの最善の人事
を尽くして行く道をも閉ざさせる。いかにも罰当たりそうでいて、実際そうだったのである。
「天は民を矜れみたまう。民の欲する所は、天も必ず之れに従う」
「上天は人々を憐れんでくれるもの。人々が心から願うことは、必ず聞き入れてくれる。
(性善説ならぬ天性善説。万人の願いこそは天に聞き入れられるのだから、
部分の願いばかりを聞き入れるような神は偽物なのである。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓上より)
人事にかけて最善を尽くすことでこそ天命に与れもする。ただただ怠慢なままで
いたりするのでは、天命に与れないのはもちろんのこと、無為自然の中にこそある
超絶的な神の業を計り知ることもできないままに終わる。鬼畜米英と反幕勢力の共倒れ
という幕府のはかりごとに一切気づくこともなく破滅が不可避な事態にまで陥ってしまった
今の日米英の資本主義者などもその例である。ただただ金を稼ぐことばかりに奔走すると
いうこと自体が、決して人としての最善を尽くしたあり方ではないものだから、自分たち
が神君家康公の手玉に取られていたことにも全く気づくことができなかったのだった。
人としての怠慢に溺れている所でこそ、政商の如き重権力犯罪者を超越神に
見立てるような虚構の神様ごっこすらもが催されたわけで、それによりさらなる
怠慢の助長すらをも図ってきたわけだから、虚構の超越神こそは、無為自然の
中にこそある真の神の業を見失わせる元凶ともなって来たのだといえる。
神様ごっこというのは、やはり罰当たりなことだったのである。
本物の神仏の霊威を人々に見失わせての破滅を招くが故にこそ、自明に罰当たりとなる。
人々に本物の神仏への崇敬を損なわせると共に、本物の神威を計り知れるだけの最善の人事
を尽くして行く道をも閉ざさせる。いかにも罰当たりそうでいて、実際そうだったのである。
「天は民を矜れみたまう。民の欲する所は、天も必ず之れに従う」
「上天は人々を憐れんでくれるもの。人々が心から願うことは、必ず聞き入れてくれる。
(性善説ならぬ天性善説。万人の願いこそは天に聞き入れられるのだから、
部分の願いばかりを聞き入れるような神は偽物なのである。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓上より)
結局居座りですか。みっともない。^^
結局、勧善懲悪に務める者にとっても、悪逆非道にひた走る者にとっても、
ただただ自分たちにとって都合のいい神などというものが絶対的な
ものとして君臨するなどということもあり得ないのである。
たとえば、勧善懲悪の仁政を心がける者などにとって、良妻賢母の貞節さを司る
天照大神ほど都合のいい神も他にいないわけだけれども、だからといって天照大神が
この世に絶対的なものとして君臨し続けてくれるのかといえば、そういうわけでもない。
世の中が一定以上の汚濁にまみれてしまったならば、容赦なくお隠れになる神でもあり、
それにより人口爆発のような人類滅亡級の災禍すらをももたらしてしまったりする。
人間の側が人事を尽くして清廉な為政に励むことでこそ、天照大神のごとき
善神もまた崇敬に値する神威を湛えてくれる一方で、権力犯罪やりたい放題の
濁世を推し進めていった先にこそ生ずる神威じみた現象というものもまたある。
それが犯罪聖書におけるエホバやキリストの所業のようであったりもするわけで、
善神にしろ邪神にしろ、人間たちの行いに呼応して生ずる神であるには違いないのである。
善神は人々の最善なる努力と共にこそその神威を発揮してくださる一方で、
邪神は人間どものやりたい放題に合わせてその神威を発揮する。善神のほうが
崇めにくいものの、崇められたならその効験も恒久的である一方、邪神はしごく
崇めやすい一方で、いつかは崇めることでの効験などが得られなくなってしまう。
今まで権力腐敗による経済破綻の埋め合わせを全て外界侵略による収奪によって
埋め合わせていた欧米聖書圏が、ついには収奪先がなくなって自滅寸前の様相を
来たしてしまっている現状などが、まさにその実例になっているといえる。
ただただ自分たちにとって都合のいい神などというものが絶対的な
ものとして君臨するなどということもあり得ないのである。
たとえば、勧善懲悪の仁政を心がける者などにとって、良妻賢母の貞節さを司る
天照大神ほど都合のいい神も他にいないわけだけれども、だからといって天照大神が
この世に絶対的なものとして君臨し続けてくれるのかといえば、そういうわけでもない。
世の中が一定以上の汚濁にまみれてしまったならば、容赦なくお隠れになる神でもあり、
それにより人口爆発のような人類滅亡級の災禍すらをももたらしてしまったりする。
人間の側が人事を尽くして清廉な為政に励むことでこそ、天照大神のごとき
善神もまた崇敬に値する神威を湛えてくれる一方で、権力犯罪やりたい放題の
濁世を推し進めていった先にこそ生ずる神威じみた現象というものもまたある。
それが犯罪聖書におけるエホバやキリストの所業のようであったりもするわけで、
善神にしろ邪神にしろ、人間たちの行いに呼応して生ずる神であるには違いないのである。
善神は人々の最善なる努力と共にこそその神威を発揮してくださる一方で、
邪神は人間どものやりたい放題に合わせてその神威を発揮する。善神のほうが
崇めにくいものの、崇められたならその効験も恒久的である一方、邪神はしごく
崇めやすい一方で、いつかは崇めることでの効験などが得られなくなってしまう。
今まで権力腐敗による経済破綻の埋め合わせを全て外界侵略による収奪によって
埋め合わせていた欧米聖書圏が、ついには収奪先がなくなって自滅寸前の様相を
来たしてしまっている現状などが、まさにその実例になっているといえる。
真理は、その語義からいって「永久普遍」でもなければならないものであるから、
人間の側が崇められさえすればその効験も永遠である善神こそは、真理を司る神でも
あるといえる一方で、崇めた所でもはや効験など得られなくなる邪神などは、真理を
騙る虚偽を司る神ないし妖怪であるに過ぎなかったといえる。犯罪聖書中では、比較的
人間たち自身のあるべき姿を具体的に述べているイエスの物言いなぞも、それを実践
していった先にどうしようもない破滅をもたらすものばかりであったわけで、最終的
に明かされたのも「そんなものは真理でもなんでもない」ということでこそあった。
人々の努力に呼応してその神威を発揮してくださるのが善神であるが故に、
怠惰まみれな愚人などは善神を真理の顕現などとして認めたがりもしない。
むしろ、自分たちの怠惰を許容してくれるような邪神こそを、真理をも司るもの
として崇めたくもなる。だからといって真理がねじまげられたりすることが
ないのも当然のことであり、善神こそは真理の顕現であり続ける一方で、
邪神は真理を騙る虚偽の象徴のままでしかいられないのである。
「惟れ助けて王と成し、徳を顕らかにし、人を尹すに越いて辟を祗む」
「主君を助けて真の王道の体現者と成し、それにより自明な徳を顕らかにし、
そこから導き出される純正な法度によって人々をも正して行くようにする。
(『神は神』『真理は真理』などという自己中毒的な証しなどを是とすることなく、
自明な徳によって王業を助け、純正な法度によって人々を正して行くのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・酒誥より)
人間の側が崇められさえすればその効験も永遠である善神こそは、真理を司る神でも
あるといえる一方で、崇めた所でもはや効験など得られなくなる邪神などは、真理を
騙る虚偽を司る神ないし妖怪であるに過ぎなかったといえる。犯罪聖書中では、比較的
人間たち自身のあるべき姿を具体的に述べているイエスの物言いなぞも、それを実践
していった先にどうしようもない破滅をもたらすものばかりであったわけで、最終的
に明かされたのも「そんなものは真理でもなんでもない」ということでこそあった。
人々の努力に呼応してその神威を発揮してくださるのが善神であるが故に、
怠惰まみれな愚人などは善神を真理の顕現などとして認めたがりもしない。
むしろ、自分たちの怠惰を許容してくれるような邪神こそを、真理をも司るもの
として崇めたくもなる。だからといって真理がねじまげられたりすることが
ないのも当然のことであり、善神こそは真理の顕現であり続ける一方で、
邪神は真理を騙る虚偽の象徴のままでしかいられないのである。
「惟れ助けて王と成し、徳を顕らかにし、人を尹すに越いて辟を祗む」
「主君を助けて真の王道の体現者と成し、それにより自明な徳を顕らかにし、
そこから導き出される純正な法度によって人々をも正して行くようにする。
(『神は神』『真理は真理』などという自己中毒的な証しなどを是とすることなく、
自明な徳によって王業を助け、純正な法度によって人々を正して行くのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・酒誥より)
真理にことごとく違うような邪義ばかりを好き好んで信奉して来たからには、
ほとんど全ての真理を敵に回して、真理に基づく救いを得られるようなこともない。
まず、「神」が司るような大まかな真理に即して救われるということは絶対にない。
マリア崇拝もアマテラス崇拝と決定的に相反するものなら、アダムの原罪としての
労働義務なども、道家の無為自然の真理と決定的に相反するものである。天道の
神が司っている真理というのは、大まかな概括のところの真理であるために、
それをよく尊ぶことが手っ取り早く天下の安寧を実現していく上では格好と
なるのだが、大まかなだけに、真理に違うような邪義こそを好き好んでいる
ような相手までをも救ってやるような汎用性は持ち合わせていないのである。
「仏」が司る微にわたり細にわたる絶対真理といえども、大半の真理が邪義の
信奉者にとっての救いになるようなことはない。実質的には道家思想に多少の
哲学的な要素を加えた程度のものとなっている小乗仏教の教理が、今まさに悪逆非道の
放辟邪侈に溺れている邪義の信奉者にとっての救いなどにならないのはもちろんのこと、
自分たち自身の菩薩業の助けにこそなる大乗仏教の唯識思想や中観思想、菩薩業の
先に拓かれた悟りこそを司る華厳思想や法華思想が救いになるようなこともやはりない。
これらは多少なりともの自力作善と共にこそ効験のある絶対真理の教理であるため、
自助努力がまったく不十分なままである邪信の徒の救いなどになることはないのである。
仏の中でも、西方浄土での他力本願の救済を司る阿弥陀如来のみが、"元"邪信者に
対する早急な救いの可能性を多少なりとも示している。当然、邪教を信仰している
最中から救済の対象としてやることはないにしろ(邪教の教理は誹謗正法の条件を
満たしてしまっているため、阿弥陀如来からの救いも受けられない)、邪教への狂信
に基づく悪業の程度が比較的軽度でいて、なおかつ完全なる邪教の棄教と共なる念仏
への帰依を徹底するというのであれば、救いがないとも限らないものとなっている。
ほとんど全ての真理を敵に回して、真理に基づく救いを得られるようなこともない。
まず、「神」が司るような大まかな真理に即して救われるということは絶対にない。
マリア崇拝もアマテラス崇拝と決定的に相反するものなら、アダムの原罪としての
労働義務なども、道家の無為自然の真理と決定的に相反するものである。天道の
神が司っている真理というのは、大まかな概括のところの真理であるために、
それをよく尊ぶことが手っ取り早く天下の安寧を実現していく上では格好と
なるのだが、大まかなだけに、真理に違うような邪義こそを好き好んでいる
ような相手までをも救ってやるような汎用性は持ち合わせていないのである。
「仏」が司る微にわたり細にわたる絶対真理といえども、大半の真理が邪義の
信奉者にとっての救いになるようなことはない。実質的には道家思想に多少の
哲学的な要素を加えた程度のものとなっている小乗仏教の教理が、今まさに悪逆非道の
放辟邪侈に溺れている邪義の信奉者にとっての救いなどにならないのはもちろんのこと、
自分たち自身の菩薩業の助けにこそなる大乗仏教の唯識思想や中観思想、菩薩業の
先に拓かれた悟りこそを司る華厳思想や法華思想が救いになるようなこともやはりない。
これらは多少なりともの自力作善と共にこそ効験のある絶対真理の教理であるため、
自助努力がまったく不十分なままである邪信の徒の救いなどになることはないのである。
仏の中でも、西方浄土での他力本願の救済を司る阿弥陀如来のみが、"元"邪信者に
対する早急な救いの可能性を多少なりとも示している。当然、邪教を信仰している
最中から救済の対象としてやることはないにしろ(邪教の教理は誹謗正法の条件を
満たしてしまっているため、阿弥陀如来からの救いも受けられない)、邪教への狂信
に基づく悪業の程度が比較的軽度でいて、なおかつ完全なる邪教の棄教と共なる念仏
への帰依を徹底するというのであれば、救いがないとも限らないものとなっている。
真理によって救われることがあるにしろないにしろ、真理に違う邪教への帰依などが、
真理に即した救いに与れる可能性を狭めていることには違いないのである。そんな過ち
すら犯していなければ、真理によって救われることはおろか、そもそも救われなければ
いられないような苦しみの中に陥れられるようなことすら始めからなくて済む選択肢
というものが無数にすら存在しているわけで、真理と共なる救済や破滅の防止を欲する
というのなら、邪教への帰依などが最悪級の遠回りとなることには違いないのである。
それでいて、邪教が提示する数々の誤謬もまた、真理に相反するものであればこそ、
真理じみていたのでもある。邪まな誤謬というもの自体、真理あってこそのもの
だったわけだから、所詮は真理にまつわる諸事のうちであったのだと言えなくもない。
真理が真理であり、誤謬が誤謬であることを確証するための背理であったのだという
運命を受け入れるのならば、それ相応の寛大な対処というものも期待できるのである。
「父なくんば何をか怙まん、母なくんば何をか恃まん。
(ここまで既出)出でては則ち恤いを銜み、入りては則ち至しき靡し」
「実の父母でなければ、いったい誰を拠り所にしていいものか。(当然他には誰もいない。
親を拠り所にするような正しい姿勢でいるのでなければ)外に出ても憂いに苛まれるばかり、
内に入っても親しむ相手もいない。(真理に導きいれられるかどうか以前の問題)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・蓼莪より)
真理に即した救いに与れる可能性を狭めていることには違いないのである。そんな過ち
すら犯していなければ、真理によって救われることはおろか、そもそも救われなければ
いられないような苦しみの中に陥れられるようなことすら始めからなくて済む選択肢
というものが無数にすら存在しているわけで、真理と共なる救済や破滅の防止を欲する
というのなら、邪教への帰依などが最悪級の遠回りとなることには違いないのである。
それでいて、邪教が提示する数々の誤謬もまた、真理に相反するものであればこそ、
真理じみていたのでもある。邪まな誤謬というもの自体、真理あってこそのもの
だったわけだから、所詮は真理にまつわる諸事のうちであったのだと言えなくもない。
真理が真理であり、誤謬が誤謬であることを確証するための背理であったのだという
運命を受け入れるのならば、それ相応の寛大な対処というものも期待できるのである。
「父なくんば何をか怙まん、母なくんば何をか恃まん。
(ここまで既出)出でては則ち恤いを銜み、入りては則ち至しき靡し」
「実の父母でなければ、いったい誰を拠り所にしていいものか。(当然他には誰もいない。
親を拠り所にするような正しい姿勢でいるのでなければ)外に出ても憂いに苛まれるばかり、
内に入っても親しむ相手もいない。(真理に導きいれられるかどうか以前の問題)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・蓼莪より)
人間は、自らの行いに相応の対価を得るか、回向を期待する対象への他力本願によって
利益に授かるかのいずれかの方法によってこそ、着実な収益を上げて行くことができる。
たとえば、天下万人を利する仁君がいたところで、自らがその為政に背いて帰服を拒否
したりしたなら、当然利益に与れるものではない。さらには、仁君による為政を封建制
ごと放逐し去ったりしたなら、自他共に徳治による恵みなどを受けられなくなってしまう。
だからといって、自分自身の我田引水ばかりを深刻化させて行ったり、仁政によるわけでも
ない不審な手法によって無制限の恵みを与えてくれる何者かなどに帰依することでの利益
などを企図したりしたなら、そのせいでのしっぺ返しが後々に跳ね飛んで来ることともなる。
自力によるのであれ他力によるのであれ、後々のしっぺ返しなどがなくて済むような
利益の追い求め方こそは、非常識に莫大な私益をもたらすようなこともない上に、
自力の場合には多大なる自助努力を、他力の場合には帰服対象への至心なる崇敬を
必要とするものである。天下万人の公益寄与を企図する仁政などがまさにそれであり、
それを志したからといって何らのしっぺ返しなどを恐れたりする必要もない一方で、
仁政の旗手となる君臣たちには挺身級の尽力が必要となるし、その帝業がもたらす利益に
与る民たちもまた、仁君たちへのお上としての崇敬を欠かしてはならないものとなる。
上記のような利殖上の障壁は、他者の利益を損なってでも自分たちの利益を貪り尽くす
我田引水すら可とするのであれば、全く以って立ちふさがりもしないのである。自分たちが
世の中において十分なほどの矮小集団でいて、自分たち以外の多数派から富を巻き上げるように
したなら、それを自力で企図する者にしろ、他力本願で与る者にしろ、大した努力も他者への
入念なる崇敬も必要としないままに、膨大な富を巻き上げての栄華に与れたりするのである。
利益に授かるかのいずれかの方法によってこそ、着実な収益を上げて行くことができる。
たとえば、天下万人を利する仁君がいたところで、自らがその為政に背いて帰服を拒否
したりしたなら、当然利益に与れるものではない。さらには、仁君による為政を封建制
ごと放逐し去ったりしたなら、自他共に徳治による恵みなどを受けられなくなってしまう。
だからといって、自分自身の我田引水ばかりを深刻化させて行ったり、仁政によるわけでも
ない不審な手法によって無制限の恵みを与えてくれる何者かなどに帰依することでの利益
などを企図したりしたなら、そのせいでのしっぺ返しが後々に跳ね飛んで来ることともなる。
自力によるのであれ他力によるのであれ、後々のしっぺ返しなどがなくて済むような
利益の追い求め方こそは、非常識に莫大な私益をもたらすようなこともない上に、
自力の場合には多大なる自助努力を、他力の場合には帰服対象への至心なる崇敬を
必要とするものである。天下万人の公益寄与を企図する仁政などがまさにそれであり、
それを志したからといって何らのしっぺ返しなどを恐れたりする必要もない一方で、
仁政の旗手となる君臣たちには挺身級の尽力が必要となるし、その帝業がもたらす利益に
与る民たちもまた、仁君たちへのお上としての崇敬を欠かしてはならないものとなる。
上記のような利殖上の障壁は、他者の利益を損なってでも自分たちの利益を貪り尽くす
我田引水すら可とするのであれば、全く以って立ちふさがりもしないのである。自分たちが
世の中において十分なほどの矮小集団でいて、自分たち以外の多数派から富を巻き上げるように
したなら、それを自力で企図する者にしろ、他力本願で与る者にしろ、大した努力も他者への
入念なる崇敬も必要としないままに、膨大な富を巻き上げての栄華に与れたりするのである。
とはいえ、そのような我田引水を可とする利殖には、因果応報のしっぺ返しが完全に
不可分なものとして伴って来る。この世に存在する悪因苦果の因果応報のうちでも、
最も完璧に因果律が保存された類いの因果応報としてのしっぺ返しが確実に伴って来る。
にもかかわらず、そればかりを追い求めて来たのが聖書信者であるものだから、
聖書圏では非聖書圏並みに国や家が長期の安寧を保てていた試しもない。ユダヤ教徒
なども聖書圏の中で生じては滅び、生じて亡びするあぶれ者集団としてのみ存在し続けて
来たわけだから、仮に今これから根絶されるとした所で、断然が惜しまれるべき伝統的系統
などが一つでも存在しているようなこともないのである。(最長かつ最大級のユダヤ財閥
であるロスチャイルド財閥ですら、日本の住友家などにその古さで及ばないでいる)
特定の家や国の安寧を約束するわけでもなく、聖書を信仰する人間を散発的に短期の
栄華に与らせては突き落とすということを繰り返して来たのが聖書信仰であるものだから、
聖書圏は聖書を拠り所とするところにしか自分たちの同一性を還元できない体たらくと化して
しまっている。だからこそ聖書信仰そのものまでをも廃絶してしまうことには極大級の抵抗感
を偉大してしまうのに違いないが、もはや聖書を信仰し続けること自体からして持たない程にも、
我田引水による利殖を可とし続けてきたことの悪因苦果が極まってしまっているのである。
聖書信仰がその根本から潰えることで、「諸法因果」の絶対真理が万人に向けて確証される
こととなる。我田引水が悪因苦果の因果応報に結び付くことは昔から仏門などによって固く
戒められて来てはいるが、所詮はいち信教の教義に過ぎないものとして未だ軽んじられたまま
でいるところがある。聖書圏である欧米はおろか、国を挙げての仏門への帰依も篤かった
この日本においてですら、儲けにしか目が行かないような承認根性の持ち主が一定数以上に
巣食ったままでいる。そのような洋の東西を問わぬ諸法因果のわきまえへの手落ちを是正して
行く機縁に聖書信仰の根絶がなったならば、聖書信仰もまた、>>216で書いたような
意味での絶対真理の探究への貢献者ともなることができるのである。
不可分なものとして伴って来る。この世に存在する悪因苦果の因果応報のうちでも、
最も完璧に因果律が保存された類いの因果応報としてのしっぺ返しが確実に伴って来る。
にもかかわらず、そればかりを追い求めて来たのが聖書信者であるものだから、
聖書圏では非聖書圏並みに国や家が長期の安寧を保てていた試しもない。ユダヤ教徒
なども聖書圏の中で生じては滅び、生じて亡びするあぶれ者集団としてのみ存在し続けて
来たわけだから、仮に今これから根絶されるとした所で、断然が惜しまれるべき伝統的系統
などが一つでも存在しているようなこともないのである。(最長かつ最大級のユダヤ財閥
であるロスチャイルド財閥ですら、日本の住友家などにその古さで及ばないでいる)
特定の家や国の安寧を約束するわけでもなく、聖書を信仰する人間を散発的に短期の
栄華に与らせては突き落とすということを繰り返して来たのが聖書信仰であるものだから、
聖書圏は聖書を拠り所とするところにしか自分たちの同一性を還元できない体たらくと化して
しまっている。だからこそ聖書信仰そのものまでをも廃絶してしまうことには極大級の抵抗感
を偉大してしまうのに違いないが、もはや聖書を信仰し続けること自体からして持たない程にも、
我田引水による利殖を可とし続けてきたことの悪因苦果が極まってしまっているのである。
聖書信仰がその根本から潰えることで、「諸法因果」の絶対真理が万人に向けて確証される
こととなる。我田引水が悪因苦果の因果応報に結び付くことは昔から仏門などによって固く
戒められて来てはいるが、所詮はいち信教の教義に過ぎないものとして未だ軽んじられたまま
でいるところがある。聖書圏である欧米はおろか、国を挙げての仏門への帰依も篤かった
この日本においてですら、儲けにしか目が行かないような承認根性の持ち主が一定数以上に
巣食ったままでいる。そのような洋の東西を問わぬ諸法因果のわきまえへの手落ちを是正して
行く機縁に聖書信仰の根絶がなったならば、聖書信仰もまた、>>216で書いたような
意味での絶対真理の探究への貢献者ともなることができるのである。
「克く邦のために勤め、克く家を倹し、自ら満仮せず、惟れ汝じの賢なり
(以下既出)満は損を招き、謙は益を受く。時れ乃ち天の道なり」
「よく国のための事業に励み、自らの家では倹約に努め、自分ばかりが虚仮に満たされよう
などともしない。これはおまえ(禹)の賢さに基づく立派な振る舞いだといえる。
満たされようとばかりすることはかえって損を招く一方で、謙りに勤めていたなら
(かえって長期的な)利益となる。これが天道であるのだから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・大禹謨より)
(以下既出)満は損を招き、謙は益を受く。時れ乃ち天の道なり」
「よく国のための事業に励み、自らの家では倹約に努め、自分ばかりが虚仮に満たされよう
などともしない。これはおまえ(禹)の賢さに基づく立派な振る舞いだといえる。
満たされようとばかりすることはかえって損を招く一方で、謙りに勤めていたなら
(かえって長期的な)利益となる。これが天道であるのだから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・大禹謨より)
妾腹の私生児のような恵まれない境遇に生まれたことに心を苛まれて不埒な
軽挙妄動に及んだりしたならば、そのような人間は世の中に負けたのだといえる。
立派な母親を持てなかったことや、親に認知もしてもらえなかったことなどは、
世の中の価値基準に即してこそ「恥」と見なされることであり、世の中と価値観を
共にすればこそ当事者も深く恥じ入るのである。実の父親が誰とも知れないことを
いいことに、実在もしない超越神を我が父に見立てての邪教を触れ回ったイエス
なんぞも、自らの境遇をひどく恥じ入る所があったからこそ、そのような妄動に
及んでしまったわけだから、これこそは世の中に負けた典型であるといえる。
同じような不遇の中に生まれ育ちながらも、学者や士大夫のごとき公正な身分に
即して名を成した孔子などは、世の中に勝ったとまでいかずとも負けなかったと
ぐらいは言える一方で、イエスこそは世の中に負け去った輩だったといえる。
故にこそ「恥の上塗り」であったともいえる。孔子は恥を漱いで偉人として尊ばれる
立場を手に入れたが、イエスはより恥ずべき醜態を晒したのである。その恥さらし
加減があまりにも見るに堪えなかったものだから、元から精神薄弱者の多かった極西
の地で、それこそを神の姿と崇めるような転倒夢想のブームをも巻き起こしたのである。
精神薄弱者でいて、なおかつ自分たちも世の中への引け目を感じていたものだから、
実際には恥の上塗りに過ぎないイエスの妄動などを絶対神に見立てたがったのである。
当時はインドや中国のような東洋社会こそが世界の三分の二以上のGDPを占める最隆盛
を誇っていた時代であり、西洋などは本当に世界の片隅の小部落社会でしかなかった
わけである。今でこそローマ帝国が隆盛を誇っていたようなプロパガンダ宣伝が
触れ回られているけれども、実際には極西の弱小国の緩やかな連合とでもいった
程度のものでしかなかったわけで、人々の劣等感も甚だしかったものだから、
イエスによる恥さらしの極みなどを崇めたがりもしたのである。 http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/thought/img2/13615953030221.jpg 152 114 www.nicovideo.jp 2272334
軽挙妄動に及んだりしたならば、そのような人間は世の中に負けたのだといえる。
立派な母親を持てなかったことや、親に認知もしてもらえなかったことなどは、
世の中の価値基準に即してこそ「恥」と見なされることであり、世の中と価値観を
共にすればこそ当事者も深く恥じ入るのである。実の父親が誰とも知れないことを
いいことに、実在もしない超越神を我が父に見立てての邪教を触れ回ったイエス
なんぞも、自らの境遇をひどく恥じ入る所があったからこそ、そのような妄動に
及んでしまったわけだから、これこそは世の中に負けた典型であるといえる。
同じような不遇の中に生まれ育ちながらも、学者や士大夫のごとき公正な身分に
即して名を成した孔子などは、世の中に勝ったとまでいかずとも負けなかったと
ぐらいは言える一方で、イエスこそは世の中に負け去った輩だったといえる。
故にこそ「恥の上塗り」であったともいえる。孔子は恥を漱いで偉人として尊ばれる
立場を手に入れたが、イエスはより恥ずべき醜態を晒したのである。その恥さらし
加減があまりにも見るに堪えなかったものだから、元から精神薄弱者の多かった極西
の地で、それこそを神の姿と崇めるような転倒夢想のブームをも巻き起こしたのである。
精神薄弱者でいて、なおかつ自分たちも世の中への引け目を感じていたものだから、
実際には恥の上塗りに過ぎないイエスの妄動などを絶対神に見立てたがったのである。
当時はインドや中国のような東洋社会こそが世界の三分の二以上のGDPを占める最隆盛
を誇っていた時代であり、西洋などは本当に世界の片隅の小部落社会でしかなかった
わけである。今でこそローマ帝国が隆盛を誇っていたようなプロパガンダ宣伝が
触れ回られているけれども、実際には極西の弱小国の緩やかな連合とでもいった
程度のものでしかなかったわけで、人々の劣等感も甚だしかったものだから、
イエスによる恥さらしの極みなどを崇めたがりもしたのである。 http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/thought/img2/13615953030221.jpg 152 114 www.nicovideo.jp 2272334
キリスト教などというものが西洋社会に蔓延し始めたきっかけからして、ろくな
ものではなかった。世の中への引け目ばかりを抱いているような陰湿な神経の持ち主
たちが、妾腹の私生児の恥の上塗りを神として崇めたがったりしたその最原初の
あり方からしてすでに、世界史上最悪級の人類にとっての失態だったのである。
そこですでに、西洋人の世界的敗北もまた確定してしまったのである。
孔子のような、着実に自らの身の上の恥を漱いで行った賢人こそを尊崇したの
ならともかく、恥の上塗りをやらかしたような愚人こそを絶対神にまで見立てて
崇め立てたりしたのだから、そんなことを至尊の伝統ともして来た時点ですでに、
西洋人が地球人類のうちでも最劣等の人種とされることもまた決していたのである。
ただ自らの身の上が恥ずべきものだったりするだけなら、まだその恥の漱ぎようが
あるが、先天的な恥を自らの妄動という後天的な恥によって上塗りしたりしたのなら、
もはや恥の漱ぎようもないというもの、そしてしそのようなあり方こそを西洋人は
是とした。それこそ、二度と世の中に勝てなくなる烙印というものだったわけで、
その烙印を捺されたままでの妄動をエスカレートさせて世界侵略にまで及んだものの、
その侵略や植民の仕方があまりにも無責任で身勝手なものであったために、自分たち
が世界に降伏するのでもなければ自分たちごとの人類の滅亡すら免れ得ない事態をも
招いてしまった。これも、始めから負けが確定していた者の案の定な末路だといえる。
世の中に勝つか負けるかでいうところの負けを喫した。そもそも世の中と戦ったり
しようとするような公共意識の欠如からしてあるべきことではなく、そのような
不埒な観念の持ち主である事からして、すでに敗北の呼び水であったともいえる。
人の身でいながら世の中を敵視するようなことからして、あるべきではないのである。
ものではなかった。世の中への引け目ばかりを抱いているような陰湿な神経の持ち主
たちが、妾腹の私生児の恥の上塗りを神として崇めたがったりしたその最原初の
あり方からしてすでに、世界史上最悪級の人類にとっての失態だったのである。
そこですでに、西洋人の世界的敗北もまた確定してしまったのである。
孔子のような、着実に自らの身の上の恥を漱いで行った賢人こそを尊崇したの
ならともかく、恥の上塗りをやらかしたような愚人こそを絶対神にまで見立てて
崇め立てたりしたのだから、そんなことを至尊の伝統ともして来た時点ですでに、
西洋人が地球人類のうちでも最劣等の人種とされることもまた決していたのである。
ただ自らの身の上が恥ずべきものだったりするだけなら、まだその恥の漱ぎようが
あるが、先天的な恥を自らの妄動という後天的な恥によって上塗りしたりしたのなら、
もはや恥の漱ぎようもないというもの、そしてしそのようなあり方こそを西洋人は
是とした。それこそ、二度と世の中に勝てなくなる烙印というものだったわけで、
その烙印を捺されたままでの妄動をエスカレートさせて世界侵略にまで及んだものの、
その侵略や植民の仕方があまりにも無責任で身勝手なものであったために、自分たち
が世界に降伏するのでもなければ自分たちごとの人類の滅亡すら免れ得ない事態をも
招いてしまった。これも、始めから負けが確定していた者の案の定な末路だといえる。
世の中に勝つか負けるかでいうところの負けを喫した。そもそも世の中と戦ったり
しようとするような公共意識の欠如からしてあるべきことではなく、そのような
不埒な観念の持ち主である事からして、すでに敗北の呼び水であったともいえる。
人の身でいながら世の中を敵視するようなことからして、あるべきではないのである。
「春秋に義戦無し。彼、此れより善きは則ち之れ有り。
征者は上として下を伐つなり。敵国相い征せざるなり」
「(春秋時代の諸侯の身勝手な抗争を記録した孔子編纂の歴史書である)『春秋経』には、
道義に根ざした戦いというものは一つも載っていない。あっちの国がこっちの国より
マシという程度のことはある(が、本当に道義に適った戦いでの勝者などはいない)。
勅命に則った上からの下への征伐であれば道義にも適うが、ほとんど同等な国同士が
敵同士としていがみ合って戦ったりするのはそのような征伐の条件を満たしていないから。
(庶人が勝手に世の中を敵視して戦ったりすることも、これと同等かそれ以上の不義
だといえる。戦いを本是とする修羅道もそれはそれで一つの道だが、決して理想とすべき
道などでもない。理想の所では、勅命に適った征伐のみを義戦とし、それ以外の私的な
戦いなどは道義に沿わぬものとしてできる限り避けるぐらいの心持ちでいるべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二より)
征者は上として下を伐つなり。敵国相い征せざるなり」
「(春秋時代の諸侯の身勝手な抗争を記録した孔子編纂の歴史書である)『春秋経』には、
道義に根ざした戦いというものは一つも載っていない。あっちの国がこっちの国より
マシという程度のことはある(が、本当に道義に適った戦いでの勝者などはいない)。
勅命に則った上からの下への征伐であれば道義にも適うが、ほとんど同等な国同士が
敵同士としていがみ合って戦ったりするのはそのような征伐の条件を満たしていないから。
(庶人が勝手に世の中を敵視して戦ったりすることも、これと同等かそれ以上の不義
だといえる。戦いを本是とする修羅道もそれはそれで一つの道だが、決して理想とすべき
道などでもない。理想の所では、勅命に適った征伐のみを義戦とし、それ以外の私的な
戦いなどは道義に沿わぬものとしてできる限り避けるぐらいの心持ちでいるべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二より)
結局、人が人を支配するということからして、ある程度以上に大規模な都市社会における必要悪であり、
最小限に止められるに越したこともないことである。だからこそ、自分たちでは礼楽による作為的な
統治を本務とする儒者もまた、無為自然の放任志向である道家思想をも副次的な尊重の対象とするのである。
ただ、支配をするからには最善も尽くすのである。
最も有効な支配を心がけるからこそ、最も純正な為政者としての君臣による礼楽統治を敷こうとする、
それが儒家思想における必然的な帰結でもあるわけだが、なぜか今では、君臣による封建統治などが
うまくいくわけがないかのような思い込みがまかり通ることともなってしまっている。それは、
純正な封建統治によっては特筆して冷遇の対象となる商人身分への過保護に連動して来たして
しまっている全くの事実誤認であり、むしろ君臣関係を徹底した封建統治によるのでもない限りは、
世の中の統治もまた持続的にうまくいくようなことがないというのが実際である。
封建統治そのものは堅苦しいものであるけれども、堅苦しければこそ世の中の乱脈を最小限に控えられもする。
そこで「人が人を支配する」ということの健全性が善くも悪しくも極まるのであり、悪しき側面としての
束縛志向を緩和するためには道家の無為自然志向などをも参考的な尊重の対象として行くべきなのである。
そのようなメリハリこそが世の中を最善の平穏に導くわけだけれども、自由主義者や民主主義者たるや、
封建統治の束縛志向という側面ばかりを捉えて「悪しき蛮習だ」などと決めつけたがる。
それで封建主義ほどの束縛性を伴わないものとしての民主主義や法治主義をよりよい統治理念として
推薦したがるわけだが、そこでこそ逆に労働義務だとか納税義務だとかの、道家思想にも
決定的に反する作為的支配による人々へのがんじがらめを講じてしまったりもするのである。
最小限に止められるに越したこともないことである。だからこそ、自分たちでは礼楽による作為的な
統治を本務とする儒者もまた、無為自然の放任志向である道家思想をも副次的な尊重の対象とするのである。
ただ、支配をするからには最善も尽くすのである。
最も有効な支配を心がけるからこそ、最も純正な為政者としての君臣による礼楽統治を敷こうとする、
それが儒家思想における必然的な帰結でもあるわけだが、なぜか今では、君臣による封建統治などが
うまくいくわけがないかのような思い込みがまかり通ることともなってしまっている。それは、
純正な封建統治によっては特筆して冷遇の対象となる商人身分への過保護に連動して来たして
しまっている全くの事実誤認であり、むしろ君臣関係を徹底した封建統治によるのでもない限りは、
世の中の統治もまた持続的にうまくいくようなことがないというのが実際である。
封建統治そのものは堅苦しいものであるけれども、堅苦しければこそ世の中の乱脈を最小限に控えられもする。
そこで「人が人を支配する」ということの健全性が善くも悪しくも極まるのであり、悪しき側面としての
束縛志向を緩和するためには道家の無為自然志向などをも参考的な尊重の対象として行くべきなのである。
そのようなメリハリこそが世の中を最善の平穏に導くわけだけれども、自由主義者や民主主義者たるや、
封建統治の束縛志向という側面ばかりを捉えて「悪しき蛮習だ」などと決めつけたがる。
それで封建主義ほどの束縛性を伴わないものとしての民主主義や法治主義をよりよい統治理念として
推薦したがるわけだが、そこでこそ逆に労働義務だとか納税義務だとかの、道家思想にも
決定的に反する作為的支配による人々へのがんじがらめを講じてしまったりもするのである。
今一度、「まだマシな部類のもの」としての、純正な封建統治の存在価値を見直すべき時が来ている。
封建統治とて、人が人を支配するという側面がある時点で、一定の辟易を抱かざるを得ないものでは
あるけれども、最低限の統制すら失っての人々の無制限な放辟邪侈を許容した挙げ句に、人類滅亡級の
破滅を招いたりする自由主義的民主主義的、カルト宗教的支配よりはよっぽどリスクも低くて、人々が嫌な
思いをしたりすることも少なくて済むのが封建統治であるという厳然たる現実に目を向けねばならない。
重ねて言うが、支配そのものはあくまで必要悪である。人が人を支配することなんてないに越したことは
ないのだけれども、全くないのでは破滅級の危害すら免れ得ない、だから仕方なく作為的支配を敷く、
敷くからには四民の序列も厳格に正すような純正な封建統治を敷いて行くべきであり、
ただその支配の強度に加減を利かせて行くようにもするのが肝要となるのである。
徳治が排されて法治支配が敷かれている現代においてですら、
警察官あたりの庶民に対する強権行使の加減などは目に余るものがある。それでいて、
目付のような自浄作用の要となる身分を設置することもなく、身内同士での腐敗は平気で
揉み消していたりするわけだから、それこそ封建時代の武家以上の嫌らしさというものである。
強権も行使できるような士分の人間は敬いの対象とされるのと引き換えに、
致命的な不手際を犯そうものなら本当に切腹やお家取り潰しも辞されないようにしたならば、
今と比べても、どれほど人々の溜め込む鬱屈が少なくて済むだろうか。
「朋は家に仇を作し、権を脅して相滅す。無辜天に籲び、穢徳彰聞す」
「友人程度の疎遠な関係の者同士で家に仇を成し、公正に取り扱われるべき権能を脅かして不正に濫用する
ことでお互いに滅ぼし合っている。罪なき人々は天に泣き叫び、その穢れた性分も明らかなものとなっている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓中より)
封建統治とて、人が人を支配するという側面がある時点で、一定の辟易を抱かざるを得ないものでは
あるけれども、最低限の統制すら失っての人々の無制限な放辟邪侈を許容した挙げ句に、人類滅亡級の
破滅を招いたりする自由主義的民主主義的、カルト宗教的支配よりはよっぽどリスクも低くて、人々が嫌な
思いをしたりすることも少なくて済むのが封建統治であるという厳然たる現実に目を向けねばならない。
重ねて言うが、支配そのものはあくまで必要悪である。人が人を支配することなんてないに越したことは
ないのだけれども、全くないのでは破滅級の危害すら免れ得ない、だから仕方なく作為的支配を敷く、
敷くからには四民の序列も厳格に正すような純正な封建統治を敷いて行くべきであり、
ただその支配の強度に加減を利かせて行くようにもするのが肝要となるのである。
徳治が排されて法治支配が敷かれている現代においてですら、
警察官あたりの庶民に対する強権行使の加減などは目に余るものがある。それでいて、
目付のような自浄作用の要となる身分を設置することもなく、身内同士での腐敗は平気で
揉み消していたりするわけだから、それこそ封建時代の武家以上の嫌らしさというものである。
強権も行使できるような士分の人間は敬いの対象とされるのと引き換えに、
致命的な不手際を犯そうものなら本当に切腹やお家取り潰しも辞されないようにしたならば、
今と比べても、どれほど人々の溜め込む鬱屈が少なくて済むだろうか。
「朋は家に仇を作し、権を脅して相滅す。無辜天に籲び、穢徳彰聞す」
「友人程度の疎遠な関係の者同士で家に仇を成し、公正に取り扱われるべき権能を脅かして不正に濫用する
ことでお互いに滅ぼし合っている。罪なき人々は天に泣き叫び、その穢れた性分も明らかなものとなっている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓中より)
たとえば、一度や二度ぐらいは人々に分別ある良心が育まれたことのある
日本や中国のような国家社会においても、世相の乱れや文化破壊などによって
容易にその良心の蓄えが損なわれる。人々から良心が失われたものだから
引っ切り無しの争いにも没頭するようになり、何が正しくて何が間違って
いるかなどよりも、ただ自分が争いに勝って生き延びることばかりが至上の
命題とされるようになる。相手の考えのほうが完璧に正しくて、自分の考えの
ほうが完全に間違っているとしたって、とにかく自分が勝って生き延びる
ために間違っている自己意見のほうを徹底的に押し通そうとしたりする。
そこで「鹿をも馬と言い張る」バカの心理状態が確立されるわけだが、
その馬鹿の状態こそは、俗に「お花畑」などとも言われる、
一種の恍惚状態を人々にもたらすものともなっている。
分別ある良心を堅く守り通している所でもまた、孟子が抱いていたとも
いう「浩然の気」と呼ばれる清清しい心持ちが得られもする。これこそは、
俗世で俗人が俗人であるままに得られる悟りとも言えるわけで、麻薬的陶酔
などとは無縁である代わりに、恒常的な清清しさと共にあることができる。
一方で、馬鹿の心理状態というのはまさに麻薬中毒にも近似するものであり、
鹿を馬だなどと頑なに決め付ける心持ちと共に多大なる陶酔が得られる一方で、
平静状態に返ってみれば多大なる虚無感に囚われるものである。それは、時に
自殺衝動にすら発展しかねないものなので、馬鹿の心理状態を好む人間という
のは、引っ切り無しの感情の焼け付きを欲するようになってしまうのである。
(そのために、際限のない富の貪りなどにすら及んでしまうようにもなる)
日本や中国のような国家社会においても、世相の乱れや文化破壊などによって
容易にその良心の蓄えが損なわれる。人々から良心が失われたものだから
引っ切り無しの争いにも没頭するようになり、何が正しくて何が間違って
いるかなどよりも、ただ自分が争いに勝って生き延びることばかりが至上の
命題とされるようになる。相手の考えのほうが完璧に正しくて、自分の考えの
ほうが完全に間違っているとしたって、とにかく自分が勝って生き延びる
ために間違っている自己意見のほうを徹底的に押し通そうとしたりする。
そこで「鹿をも馬と言い張る」バカの心理状態が確立されるわけだが、
その馬鹿の状態こそは、俗に「お花畑」などとも言われる、
一種の恍惚状態を人々にもたらすものともなっている。
分別ある良心を堅く守り通している所でもまた、孟子が抱いていたとも
いう「浩然の気」と呼ばれる清清しい心持ちが得られもする。これこそは、
俗世で俗人が俗人であるままに得られる悟りとも言えるわけで、麻薬的陶酔
などとは無縁である代わりに、恒常的な清清しさと共にあることができる。
一方で、馬鹿の心理状態というのはまさに麻薬中毒にも近似するものであり、
鹿を馬だなどと頑なに決め付ける心持ちと共に多大なる陶酔が得られる一方で、
平静状態に返ってみれば多大なる虚無感に囚われるものである。それは、時に
自殺衝動にすら発展しかねないものなので、馬鹿の心理状態を好む人間という
のは、引っ切り無しの感情の焼け付きを欲するようになってしまうのである。
(そのために、際限のない富の貪りなどにすら及んでしまうようにもなる)
浩然の気を伴う良心ある心理状態と、麻薬的陶酔を伴う馬鹿の心理状態とが、
「人間が自らの心持ちによって固定化する磐石な心理状態」の双璧となっている。
片や健全な心持ちである一方、片や不健全の極みという他ない心持ちである
わけだから、当然良心ある心理状態を推奨し、馬鹿の心理状態を戒めるように
して行くべきでもあるわけだが、極度の乱世などにおいては、むしろ馬鹿の
心理状態に陥ってしまっているような人間のほうが世の中の主導権すら握るように
なってしまっていたりする。もちろん馬鹿ばかりでは世の中もままならないから、
乱世といえども馬鹿とまではいかない平常心の持ち主がこの世の中の生命線を
司り続けて居てくれたりするわけだが、そのような人間とて、浩然の気を伴う
良心までをも抱けていたりすることはほとんどないわけだから、そうともいかず、
なおかつ完全なるバカにまではなれないでいる自分たちの有り様がバカどもから
「負け組」扱いされるようなことにすらなってしまい、逆に自分たちのほうもまた、
バカゆえのイケイケによってこそ暴利を巻き上げているような連中を「勝ち組」
などとして崇め立てるようなザマにすら陥ってしまったりするのである。
権力を握った馬鹿が世の中を破滅へと陥れている昨今、馬鹿は馬鹿で適切な
駆除の対象とするのみとして、それで、心持ちが堂に入った人間がこの世から
いなくなるのでは、馬鹿といえども羨望する対象があったればこそ、自分たちも
心の平安を得られていた大多数の庶民が多大なる不安にかられることともなる。
だからこそ、新たな心の拠り所であると共に、真に拠り所とすべき殿堂入りの
心持ちとしての、浩然の気を伴う良心というものを尊んでも行くべきなのである。
「否を傾く。先には否がり後には喜ぶ。否終わるに傾く、何ぞ長かる可けんや」
「(小人が権力を握って乱世をもたらしているような)否塞の時が傾きかけている。
傾きかけているからには終焉も間近なので、最初のうちはまだ塞がり気味でも、
最終的には喜ばしい結果となる。(否塞の時には喜んだりもしないのが吉である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・否・上九‐象伝より)
「人間が自らの心持ちによって固定化する磐石な心理状態」の双璧となっている。
片や健全な心持ちである一方、片や不健全の極みという他ない心持ちである
わけだから、当然良心ある心理状態を推奨し、馬鹿の心理状態を戒めるように
して行くべきでもあるわけだが、極度の乱世などにおいては、むしろ馬鹿の
心理状態に陥ってしまっているような人間のほうが世の中の主導権すら握るように
なってしまっていたりする。もちろん馬鹿ばかりでは世の中もままならないから、
乱世といえども馬鹿とまではいかない平常心の持ち主がこの世の中の生命線を
司り続けて居てくれたりするわけだが、そのような人間とて、浩然の気を伴う
良心までをも抱けていたりすることはほとんどないわけだから、そうともいかず、
なおかつ完全なるバカにまではなれないでいる自分たちの有り様がバカどもから
「負け組」扱いされるようなことにすらなってしまい、逆に自分たちのほうもまた、
バカゆえのイケイケによってこそ暴利を巻き上げているような連中を「勝ち組」
などとして崇め立てるようなザマにすら陥ってしまったりするのである。
権力を握った馬鹿が世の中を破滅へと陥れている昨今、馬鹿は馬鹿で適切な
駆除の対象とするのみとして、それで、心持ちが堂に入った人間がこの世から
いなくなるのでは、馬鹿といえども羨望する対象があったればこそ、自分たちも
心の平安を得られていた大多数の庶民が多大なる不安にかられることともなる。
だからこそ、新たな心の拠り所であると共に、真に拠り所とすべき殿堂入りの
心持ちとしての、浩然の気を伴う良心というものを尊んでも行くべきなのである。
「否を傾く。先には否がり後には喜ぶ。否終わるに傾く、何ぞ長かる可けんや」
「(小人が権力を握って乱世をもたらしているような)否塞の時が傾きかけている。
傾きかけているからには終焉も間近なので、最初のうちはまだ塞がり気味でも、
最終的には喜ばしい結果となる。(否塞の時には喜んだりもしないのが吉である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・否・上九‐象伝より)
世界を暗黒の破滅に陥れておきながら、限られた信者だけを救おうとする
邪神の姿は夜空の星屑に見立てられる一方(これも星にとって迷惑な話だが)、
天下全土万人への恵みを施そうとする仁君の姿は、それこそ天下全土を
あまねく照らし出す太陽のあり方に見立てることができるといえる。
恒常的に観測できる最も明るい星である金星(最大-4.7等級)といえども、
月の明るさ(-12.7等級)に遠く及ばない。そしてその月の明るさといえども、
太陽の明るさ(-26.7等級)に遥かに及ばない。たとえ天空を全て月の明るさで
満たしたとしても、一つの太陽が昇っている日中の空の明るさに及ぶこともない。
それほどにも、天をあまねく照らし出すことと、暗闇の中で部分的な輝きを放つ
こととには途方もない開きがあるのであり、暗闇の中での輝きを愛でるような志向を
いくら発展させてみた所で、日中の明るさを尊ぶことに近似するようなこともないのである。
以上の科学的な論議は実際、この世における仁君の振る舞いと、聖書の邪神に
見立てた権力犯罪者の振る舞いの対比などにも敷衍として適用できるものである。
天下に多大なる損害をもたらすことでこそ私益を稼ぎ上げ、一部の友愛相手だけに恵もうと
するような権力犯罪者の振る舞いをいくら発展させていった所で、天下万人が福利に与れる
ようなことは永遠にありはしない。むしろ天下全土が極度の貧窮に見舞われることこそが恒常化
してしまい、万人を富ませようとする仁君の尽力すらをも徒労に終わらせてしまうようになる。
邪神の姿は夜空の星屑に見立てられる一方(これも星にとって迷惑な話だが)、
天下全土万人への恵みを施そうとする仁君の姿は、それこそ天下全土を
あまねく照らし出す太陽のあり方に見立てることができるといえる。
恒常的に観測できる最も明るい星である金星(最大-4.7等級)といえども、
月の明るさ(-12.7等級)に遠く及ばない。そしてその月の明るさといえども、
太陽の明るさ(-26.7等級)に遥かに及ばない。たとえ天空を全て月の明るさで
満たしたとしても、一つの太陽が昇っている日中の空の明るさに及ぶこともない。
それほどにも、天をあまねく照らし出すことと、暗闇の中で部分的な輝きを放つ
こととには途方もない開きがあるのであり、暗闇の中での輝きを愛でるような志向を
いくら発展させてみた所で、日中の明るさを尊ぶことに近似するようなこともないのである。
以上の科学的な論議は実際、この世における仁君の振る舞いと、聖書の邪神に
見立てた権力犯罪者の振る舞いの対比などにも敷衍として適用できるものである。
天下に多大なる損害をもたらすことでこそ私益を稼ぎ上げ、一部の友愛相手だけに恵もうと
するような権力犯罪者の振る舞いをいくら発展させていった所で、天下万人が福利に与れる
ようなことは永遠にありはしない。むしろ天下全土が極度の貧窮に見舞われることこそが恒常化
してしまい、万人を富ませようとする仁君の尽力すらをも徒労に終わらせてしまうようになる。

そしてそれぞれの社会における権力者のあり方というものが、城郭や宗教施設などの
建築様式にまで反映されてきている。東洋の王宮や城郭や寺社などは、日中に見栄えがする
ような形式のものがそのほとんどを占めている。日本の伝統建築など、燃えやすいにも
関わらずあえて加工の容易な木材を多用している場合が多い。土蔵などの建築もあるとおり、
決して木造ばかりが日本建築の選択肢でもなかったわけだが、日中に見栄えがするような
精緻かつ大胆な造形を目指すために、あえて木造が優先されて来た。そのぶん夜中の
火の扱いなどにも厳重な注意が尽くされて、近頃電光でのライトアップが試みられるように
なり始める以前までは、夜中に建築物を大々的に照らし出すようなことも控えられていた。
近代建築や、西洋の教会建築は、それに真っ向から反するような様式こそを追求して来ている。
日中の見栄えはそこそことして、むしろ夜中にライトアップされた時の美しさなどを第一
としている。キャンドルなどで燃えたりすることがないように建材は主に石材などとし、
地震が多かったり地盤が軟弱だったりするような土地での建造を忌み嫌いもする。
そういった諸々の建築様式の建物の内側で執り行われる業務もまた、それなりのものとなる。
東洋的な建物での業務は日中が専らとなる一方、西洋的近代的な建物での業務は夜中が
主になるとまでは行かずとも、昼夜を問わなくなる。暗闇での謀議なども非常的なもので
すらない、恒常的なもの、しかも何か神秘性を帯びたようなものとしてすら扱われるように
なってしまう。東洋でも兵家が暗闇での謀をよくすることなどがありはするが、そこには理想も
神秘性もへったくれもないのであり、そのような分別の有無が分岐してしまうことになるのである。
夜中に東洋建築の内側で謀が行われたことがないわけでもなければ、日中に西洋建築や
近代建築の内側で業務が執り行われないわけでもない。ただ、尊重したりあえて卑しんだり
しているものの分別に違いがあるということであり、東洋的な分別は健全であった一方、
近代的、西洋的な分別は不健全であったと結論付けるほかない。夜分に持ち越すような謀など、
野外に布陣した幕営の内側あたりで済ませるがマシというもの。それでいてそのような
武家の慣習が「幕府」という権力機構の名称にも援用された。何気ない尊卑の分別が、
国や天下の命運をも決する大業の成功失敗如何にも直結する。ゆえに、ただ分別を
持つということではなく、分別を正すということこそは肝要となるのだといえる。
「日中に沫を見る、其の右肱を折る」
「真昼の日中にすら、わずかな光しか放たないような星屑を見ている。
まるで右ひじが折れたときのように、自分でできることは何もない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・豐・九三より)
近代建築の内側で業務が執り行われないわけでもない。ただ、尊重したりあえて卑しんだり
しているものの分別に違いがあるということであり、東洋的な分別は健全であった一方、
近代的、西洋的な分別は不健全であったと結論付けるほかない。夜分に持ち越すような謀など、
野外に布陣した幕営の内側あたりで済ませるがマシというもの。それでいてそのような
武家の慣習が「幕府」という権力機構の名称にも援用された。何気ない尊卑の分別が、
国や天下の命運をも決する大業の成功失敗如何にも直結する。ゆえに、ただ分別を
持つということではなく、分別を正すということこそは肝要となるのだといえる。
「日中に沫を見る、其の右肱を折る」
「真昼の日中にすら、わずかな光しか放たないような星屑を見ている。
まるで右ひじが折れたときのように、自分でできることは何もない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・豐・九三より)

人々に一定度以上の不健康をわずらう温床をもたらした。
たとえばインドではヨガ行、中国では太極拳、日本では合気道などに継承されている
古武術技法などといった風に、健康法を兼ねた体術というものが非聖書圏では
多数考案されて来ているものの、聖書圏では、形而上の架空神への狂信のせいで、
形而下の実体現象を軽視する悪癖が根付いたものだから、精密な人体にまつわる
健康法などを独自に体系化して行くことなどもできなかったのだった。
身体のラインをあえて出すためにきつめに作られている洋服なども、
関節の動きを限定させてしまうために諸々の骨格障害をもたらしてしまうし、
対症療法として極限まで発達している西洋医学なども、それが存在するに
ことかけての不養生を人々にけしかけるものともなってしまっている。
ただただ気に入った人間に対しては優しくあろうとする聖書信仰のあり方が、
かえって相手の心身両面における不健康を増長させてしまう。真向法などに代表される
身体の筋を伸ばす体操も、始めは痛い思いをするぐらいでないと、伸ばすべき筋が
伸びて行くこともない。行水にも熱中症を予防する効果などがあるが、始めは
活動が活発化し過ぎていた心臓が、水の冷たさに驚いてバクバクと過剰な鼓動を
起こすために怖い思いもする(実際、心臓が弱い人間などの場合は注意が必要でもある)。
しかし、それを通じてこそ熱中症予防の効果なども初めて発揮されていくわけで、そういった
一定以上の試練を乗り越えることでこそ克ち得る健康というものが多々あるわけだが、
聖書信仰のただただ優しくあろうとする志向性などでは、それも克ち得るものではない。
形而下の現実こそをしっかりと見据えること、ただただ人に優しくするばかりでも
済まさないこと、この二つを最も徹底して来ているのが他でもない、仏門である。
形而上的な概念論は無記に付し、諸法実相、諸行無常の真理こそをしかと見据える。
自力作善の聖道門における精進修行の厳しさも死ぬほどのものでいて、なおかつ
そこでただただわが身を痛め付けるのではなく、多大なる苦しみの先にこそ拓かれる
悟りの境地といったものを着実に追い求めて行く。そういった仏門のあり方が東洋に
おける養生志向の根本的な規範ともなっていて、人間たち自身の養生を軽視したりする
ことなく、真の健康のためにはそれなりの試練も乗り越えるといった指針ともなっている。
仏門それ自体はまさに究極といえる純粋な思想哲学の宝庫ともなっているわけで、
さらにそこに精密な実践法が付帯してもいるものである。いわゆる「文科系と体育会系」
みたいな両極化によってその真価が計り知れるようなこともない、文武両道の極致でもある。
ただ形而下の実体(人体を含む)を重んずべきだというばかりでなく、そこにこそ拓かれる
ガンジス河の砂の数ほどもの法門というものもまたあるわけで、高度な思想哲学の追求の
ためにこそ形而上への幻想を捨てて、形而下への精進に励むべきだともいえるのである。
「天行健なり、君子以て自強して息まず」
「天の運行は不断でいて、ありのままに健やかなものである。だからこそ、
君子もそれに倣って、常日頃からの自助努力に励んで怠けることがないのである。
(物言わぬ天行に倣って努力精進に励むことが、ありのままに健康なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾・象伝より)
済まさないこと、この二つを最も徹底して来ているのが他でもない、仏門である。
形而上的な概念論は無記に付し、諸法実相、諸行無常の真理こそをしかと見据える。
自力作善の聖道門における精進修行の厳しさも死ぬほどのものでいて、なおかつ
そこでただただわが身を痛め付けるのではなく、多大なる苦しみの先にこそ拓かれる
悟りの境地といったものを着実に追い求めて行く。そういった仏門のあり方が東洋に
おける養生志向の根本的な規範ともなっていて、人間たち自身の養生を軽視したりする
ことなく、真の健康のためにはそれなりの試練も乗り越えるといった指針ともなっている。
仏門それ自体はまさに究極といえる純粋な思想哲学の宝庫ともなっているわけで、
さらにそこに精密な実践法が付帯してもいるものである。いわゆる「文科系と体育会系」
みたいな両極化によってその真価が計り知れるようなこともない、文武両道の極致でもある。
ただ形而下の実体(人体を含む)を重んずべきだというばかりでなく、そこにこそ拓かれる
ガンジス河の砂の数ほどもの法門というものもまたあるわけで、高度な思想哲学の追求の
ためにこそ形而上への幻想を捨てて、形而下への精進に励むべきだともいえるのである。
「天行健なり、君子以て自強して息まず」
「天の運行は不断でいて、ありのままに健やかなものである。だからこそ、
君子もそれに倣って、常日頃からの自助努力に励んで怠けることがないのである。
(物言わぬ天行に倣って努力精進に励むことが、ありのままに健康なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾・象伝より)
「大用現前軌則を存ぜす」
「真に大いなる作用が生ずるとき、そこに決まりきった規則性などはない」
(「碧巌録」第三則より)
儒家でも「人事を尽くして天命を待つ」といい、いかにして人事を尽くすかを
細密な事務などにわたってまで取り決めていたりすることもない。儒家の本旨とする
徳治自体、法治などと違って成文での規定をできる限り排することでこそ臨機応変な
事務での最善を尽くすものであり、その結果としてどのように人事が尽くされるかも
成文でああだこうだと定めつくせるようなことはないのである。
行動で最善を尽くせるというのなら行動を尽くすべきだし、行動では無理なようなら
言葉ででも最善を尽くすべきである。それすら無理であるようなら黙るべきである。
秦始皇帝によって焚書坑儒が催された際、経書を壁の中に塗り込むなどして避難した
儒者なども「黙る」に相当する措置を講じたわけだし、あえて狂人のフリをすることで
自らの発言価値を引き下げた酈食其の姿などもそれに準ずるものであったといえる。
愚人こそが政権を牛耳っていた春秋戦国時代に、論説なども通じての伝統文化の保全を
心がける目的で派生したのが儒者であるわけだから、その儒者が弁舌での活動すらをも
禁じられた秦帝国時代はまさに暗黒の時代であったといえ、逆にただ弁舌での活動に
済まされるだけでなく、実際に儒学こそを国是とすらして行けた漢帝国の頃などは
春秋戦国時代以上にも儒者や儒学が恵まれた時代であったといえる。
実際、真に大いなる歴史の転換の際には、「事実は小説よりも奇なり」どころですらない、
小説を遥かに上回る衝撃の事態こそが現前すらするものである。楚漢戦争末期における
項羽の奮闘の姿など、ただのフィクション小説だとすればかえって激烈すぎて興醒めもの
となるわけだけれども、本物の史実だからこそ、「史記」におけるその描写などが迫真の
ものとして人々を大いなる感銘へと持ち込むのである。そういった、奇妙ではなくても、
現実であればこそ小説以上の衝撃をもたらす事態というものがあるものだから、机上の
空論中でああだこうだと予想することなどが大用の現前を捉えきれることもないのである。
「真に大いなる作用が生ずるとき、そこに決まりきった規則性などはない」
(「碧巌録」第三則より)
儒家でも「人事を尽くして天命を待つ」といい、いかにして人事を尽くすかを
細密な事務などにわたってまで取り決めていたりすることもない。儒家の本旨とする
徳治自体、法治などと違って成文での規定をできる限り排することでこそ臨機応変な
事務での最善を尽くすものであり、その結果としてどのように人事が尽くされるかも
成文でああだこうだと定めつくせるようなことはないのである。
行動で最善を尽くせるというのなら行動を尽くすべきだし、行動では無理なようなら
言葉ででも最善を尽くすべきである。それすら無理であるようなら黙るべきである。
秦始皇帝によって焚書坑儒が催された際、経書を壁の中に塗り込むなどして避難した
儒者なども「黙る」に相当する措置を講じたわけだし、あえて狂人のフリをすることで
自らの発言価値を引き下げた酈食其の姿などもそれに準ずるものであったといえる。
愚人こそが政権を牛耳っていた春秋戦国時代に、論説なども通じての伝統文化の保全を
心がける目的で派生したのが儒者であるわけだから、その儒者が弁舌での活動すらをも
禁じられた秦帝国時代はまさに暗黒の時代であったといえ、逆にただ弁舌での活動に
済まされるだけでなく、実際に儒学こそを国是とすらして行けた漢帝国の頃などは
春秋戦国時代以上にも儒者や儒学が恵まれた時代であったといえる。
実際、真に大いなる歴史の転換の際には、「事実は小説よりも奇なり」どころですらない、
小説を遥かに上回る衝撃の事態こそが現前すらするものである。楚漢戦争末期における
項羽の奮闘の姿など、ただのフィクション小説だとすればかえって激烈すぎて興醒めもの
となるわけだけれども、本物の史実だからこそ、「史記」におけるその描写などが迫真の
ものとして人々を大いなる感銘へと持ち込むのである。そういった、奇妙ではなくても、
現実であればこそ小説以上の衝撃をもたらす事態というものがあるものだから、机上の
空論中でああだこうだと予想することなどが大用の現前を捉えきれることもないのである。
大用の現前の際に黙るべきか黙るべきでないかでいうなら、「そんなことはどうでもいい」
というのが実際のところである。焚書坑儒のような黙らざるを得ない事態があるのなら
ともかく、黙ってても黙らなくてもどうでもいいというのなら、本当にどうでもいいのだ。
覇王項羽との奮闘の際にも、漢王劉邦は項羽を挑発するようなことを散々述べていた。
自分が石弓で軽傷を負わされた際にも、「小僧(項羽)め、わしの指に当ておった」などと
余裕の軽口をひけらかす始末で、それでかえって漢兵たちを安心すらさせていたのだった。
劉邦の場合、春秋戦国時代や秦代に散々辛酸を舐めさせられ続けていた百姓の代表といった
存在性も持ち合わせていたものだから、多少のやんちゃで自分の存在価値が傷つくような
こともなかった。口の悪さなども、百姓への教化を600年近くにもわたって怠り続けてきた
為政者たち自身の自業自得の産物であるとすらいえたわけだから、劉邦本人が帝王として
勉学の奨励を許容したことなどを通じて、本人の悪口の責任も十分に漱がれたのだった。
以上のような、軽口が許容された大用の現前の事例もあればこそ、黙るべきか黙るべきで
ないかなどは事態に応じてどうとでもあるべきことだといえる。予言書というもの事態、
将来を成文化するものであるわけだから、せせこましい予言が真の衝撃的事態を
捉え切れるなどということ自体、永遠にありはしないのだといえる。
「黙して之れを成し、言わずして信あるは、徳行に存す」
「黙したままに成り、言うことなくして信実であるということは、
専ら本人の徳行の如何による。(他力本願者のあるべき姿というわけでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
というのが実際のところである。焚書坑儒のような黙らざるを得ない事態があるのなら
ともかく、黙ってても黙らなくてもどうでもいいというのなら、本当にどうでもいいのだ。
覇王項羽との奮闘の際にも、漢王劉邦は項羽を挑発するようなことを散々述べていた。
自分が石弓で軽傷を負わされた際にも、「小僧(項羽)め、わしの指に当ておった」などと
余裕の軽口をひけらかす始末で、それでかえって漢兵たちを安心すらさせていたのだった。
劉邦の場合、春秋戦国時代や秦代に散々辛酸を舐めさせられ続けていた百姓の代表といった
存在性も持ち合わせていたものだから、多少のやんちゃで自分の存在価値が傷つくような
こともなかった。口の悪さなども、百姓への教化を600年近くにもわたって怠り続けてきた
為政者たち自身の自業自得の産物であるとすらいえたわけだから、劉邦本人が帝王として
勉学の奨励を許容したことなどを通じて、本人の悪口の責任も十分に漱がれたのだった。
以上のような、軽口が許容された大用の現前の事例もあればこそ、黙るべきか黙るべきで
ないかなどは事態に応じてどうとでもあるべきことだといえる。予言書というもの事態、
将来を成文化するものであるわけだから、せせこましい予言が真の衝撃的事態を
捉え切れるなどということ自体、永遠にありはしないのだといえる。
「黙して之れを成し、言わずして信あるは、徳行に存す」
「黙したままに成り、言うことなくして信実であるということは、
専ら本人の徳行の如何による。(他力本願者のあるべき姿というわけでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
真っ当な人道は、世俗での自助努力と、正統な神仏への崇敬に即する。
愚か者ではあるものの、辛うじて人道を歩んでいる者の道はといえば、
俗世での努力もあまり至らないでいて、なおかつ崇敬の対象も阿弥陀仏のような、
愚人こそを救済の対象としてくださるとする特殊な神仏であったりする。
(それなりにできた人間でも、謙譲の意を込めて阿弥陀仏にすがる場合などはある)
他者を貶めてでも自分ばかりが救われようとするような輩を救う邪神
なぞに帰依して、なおかつ自分もそれに即した悪逆非道をはたらいて行く
ともなれば、これはもはや人でなしの道、鬼畜道の地獄道であるといえる。
前者二つは人道としての条件を満たしているが、後一つはその条件を満たしていない。
それでいて、こうやって並べ立ててみれば、やはり人道の条件を満たしている道こそは
ごくごく当たり前な範囲の道である一方、条件を満たせていない人でなしの道は
といえば、これもまた見るからに許しがたい犯罪性を伴っていることが分かる。
だから、ちゃんと人としての正しいあり方というものを見据えられてすらいたなら、
好き好んで人でなしの道にはまるようなことも絶対にないのである。そもそも人としての
正しいあり方など見据えられてもいないような者こそは、人でなしの道にも陥るのである。
日本人も八割がた以上は、百姓や町人といった教養豊かとも行かない身分の出身であり、
決して高尚な精神文化などを自力で理解して実践することまではできないでいたわけだが、
それでも聖書信仰のような、人の道から決定的に外れた側面を持つ信教に対しては
本能的な忌避感を抱いて、99%以上の人間が本気の信仰対象などにはしないでいる。
愚か者ではあるものの、辛うじて人道を歩んでいる者の道はといえば、
俗世での努力もあまり至らないでいて、なおかつ崇敬の対象も阿弥陀仏のような、
愚人こそを救済の対象としてくださるとする特殊な神仏であったりする。
(それなりにできた人間でも、謙譲の意を込めて阿弥陀仏にすがる場合などはある)
他者を貶めてでも自分ばかりが救われようとするような輩を救う邪神
なぞに帰依して、なおかつ自分もそれに即した悪逆非道をはたらいて行く
ともなれば、これはもはや人でなしの道、鬼畜道の地獄道であるといえる。
前者二つは人道としての条件を満たしているが、後一つはその条件を満たしていない。
それでいて、こうやって並べ立ててみれば、やはり人道の条件を満たしている道こそは
ごくごく当たり前な範囲の道である一方、条件を満たせていない人でなしの道は
といえば、これもまた見るからに許しがたい犯罪性を伴っていることが分かる。
だから、ちゃんと人としての正しいあり方というものを見据えられてすらいたなら、
好き好んで人でなしの道にはまるようなことも絶対にないのである。そもそも人としての
正しいあり方など見据えられてもいないような者こそは、人でなしの道にも陥るのである。
日本人も八割がた以上は、百姓や町人といった教養豊かとも行かない身分の出身であり、
決して高尚な精神文化などを自力で理解して実践することまではできないでいたわけだが、
それでも聖書信仰のような、人の道から決定的に外れた側面を持つ信教に対しては
本能的な忌避感を抱いて、99%以上の人間が本気の信仰対象などにはしないでいる。
それも、浄土信仰のような、人としての最低限のあり方を示した信仰文化の享受
などを通じて、教養ではなく本能の部分から、人道と非人道とを判別する能力が
育まれて来ているからで、大半の日本人は、自分たちではよく自覚もしない内から、
最低限の人としての道ぐらいは踏み外さないでいられるようになっているのである。
日本の隣りの韓国などは、儒学を儒教化して仏教と対立化させてしまったのと、
阿弥陀信仰よりも程度が高すぎる弥勒信仰などばかりを好んで享受してしまったせいで、
「最低限の人道」というものを判別する能力が人々に育まれることがなかった。結果、
朝鮮戦争で伝統文化を破壊されて後にはキリスト教が広く信仰されるようになり、
国家ぐるみで人でなしだらけの様相を呈してしまうことともなったのだった。
人道も、ちゃんと歩もうとすればそれなりに大変なものである。乱世にすら頑なに
真っ当な人道ばかりに居座ろうとしたなら、孔子の高弟の顔淵のような非業の末路
(清貧の無理が祟っての夭折)を辿ることにすらなってしまいかねない。だから、
完全真人道でもなければ非人道でもない、最低限の人道というもので難を逃れるという
のも一つの手である。それこそ、今みたいな「行動即犯罪」となる極度の乱世ともなれば、
最低限の人道あたりでしか、人道に落ち着いていることもできないのが実際の所である。
最低限の人道の指針を方便として示している親鸞聖人の悪人正機説なども、見るからに
不可解なものである。その不可解さが、人道がほとんど通用しない乱世にこそ活きて
来たりもするわけで、乱世には人道こそが変則的な様相を呈するということもある。
人としての正しいあり方など始めから解してもいないような致命傷級の愚人が、人でなし
の道こそを堂に入らせようとするからそうなってしまうわけで、そこでもそれなりの
人道家でいるためには、美観を損ねるぐらいの覚悟は必要だといえる。見てくればかり
が美しい非人道の偽善に惑わされることなく、素朴な真善を守って行くのである。
などを通じて、教養ではなく本能の部分から、人道と非人道とを判別する能力が
育まれて来ているからで、大半の日本人は、自分たちではよく自覚もしない内から、
最低限の人としての道ぐらいは踏み外さないでいられるようになっているのである。
日本の隣りの韓国などは、儒学を儒教化して仏教と対立化させてしまったのと、
阿弥陀信仰よりも程度が高すぎる弥勒信仰などばかりを好んで享受してしまったせいで、
「最低限の人道」というものを判別する能力が人々に育まれることがなかった。結果、
朝鮮戦争で伝統文化を破壊されて後にはキリスト教が広く信仰されるようになり、
国家ぐるみで人でなしだらけの様相を呈してしまうことともなったのだった。
人道も、ちゃんと歩もうとすればそれなりに大変なものである。乱世にすら頑なに
真っ当な人道ばかりに居座ろうとしたなら、孔子の高弟の顔淵のような非業の末路
(清貧の無理が祟っての夭折)を辿ることにすらなってしまいかねない。だから、
完全真人道でもなければ非人道でもない、最低限の人道というもので難を逃れるという
のも一つの手である。それこそ、今みたいな「行動即犯罪」となる極度の乱世ともなれば、
最低限の人道あたりでしか、人道に落ち着いていることもできないのが実際の所である。
最低限の人道の指針を方便として示している親鸞聖人の悪人正機説なども、見るからに
不可解なものである。その不可解さが、人道がほとんど通用しない乱世にこそ活きて
来たりもするわけで、乱世には人道こそが変則的な様相を呈するということもある。
人としての正しいあり方など始めから解してもいないような致命傷級の愚人が、人でなし
の道こそを堂に入らせようとするからそうなってしまうわけで、そこでもそれなりの
人道家でいるためには、美観を損ねるぐらいの覚悟は必要だといえる。見てくればかり
が美しい非人道の偽善に惑わされることなく、素朴な真善を守って行くのである。
「孔子、哀公に侍座す。哀公曰く、敢えて問う、人道は誰をか大と為さん。孔子、愀然と色を作して
対えて曰く、君の此の言に及べるや、百姓の徳なり。固に臣敢えて辞すること無くして対えん。人道は、
政を大と為す。公曰く、敢えて問う、何をか為政と謂わん。孔子、対えて曰く、政は正なり。君正しきを
為さば、則ち百姓も政に従わん。君の為す所は、百姓の従う所なり。君の為さざる所は、百姓何をか従わん」
「孔先生が魯の哀公に侍従していたとき、哀公が孔子に問うた。『人道のうちでは、何が至大であるといえる
だろうか』 孔先生は、思わず色めきだちながら答えられた。『主君がそのような発言に及ばれましたことは、
ただそれだけでも民にとって幸いこの上ないことです。(まず、人道の中でも特に尊重すべきものを模索する
姿勢を孔子は評価した。エホバの監視している道などはそもそも人道ですらないということもいえるが、
ただただ道を当分に眺めているだけとするその姿勢もまた評価するに値しないものである)あえて辞退すること
もなくお答えさせていただきます。人道の中では、まつりごとこそを至大とするのです』 哀公はまた問うた。
『そこでいうまつりごととは、どういったものであろうか』 孔先生は答えられた。『まつりごと(政)とは、その
字義からいって正すことを意味します。主君がもし正しいことをなされましたならば、百姓もまたそのまつりごと
に従いましょう。君の為されることこそは百姓の従うところ。君の為されぬことには一体、どうして百姓が従う
ようなことがありましょうか』(至大なる人道は、為政者としての正しき行いでこそある。これもまた、自らの
行いが悪逆非道の限りである犯罪聖書の神のあり方などとはその様相を真逆にするものだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・哀公問第二十七より)
対えて曰く、君の此の言に及べるや、百姓の徳なり。固に臣敢えて辞すること無くして対えん。人道は、
政を大と為す。公曰く、敢えて問う、何をか為政と謂わん。孔子、対えて曰く、政は正なり。君正しきを
為さば、則ち百姓も政に従わん。君の為す所は、百姓の従う所なり。君の為さざる所は、百姓何をか従わん」
「孔先生が魯の哀公に侍従していたとき、哀公が孔子に問うた。『人道のうちでは、何が至大であるといえる
だろうか』 孔先生は、思わず色めきだちながら答えられた。『主君がそのような発言に及ばれましたことは、
ただそれだけでも民にとって幸いこの上ないことです。(まず、人道の中でも特に尊重すべきものを模索する
姿勢を孔子は評価した。エホバの監視している道などはそもそも人道ですらないということもいえるが、
ただただ道を当分に眺めているだけとするその姿勢もまた評価するに値しないものである)あえて辞退すること
もなくお答えさせていただきます。人道の中では、まつりごとこそを至大とするのです』 哀公はまた問うた。
『そこでいうまつりごととは、どういったものであろうか』 孔先生は答えられた。『まつりごと(政)とは、その
字義からいって正すことを意味します。主君がもし正しいことをなされましたならば、百姓もまたそのまつりごと
に従いましょう。君の為されることこそは百姓の従うところ。君の為されぬことには一体、どうして百姓が従う
ようなことがありましょうか』(至大なる人道は、為政者としての正しき行いでこそある。これもまた、自らの
行いが悪逆非道の限りである犯罪聖書の神のあり方などとはその様相を真逆にするものだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・哀公問第二十七より)
日本神話上では物言う神として活躍するアマテラスやオオクニヌシといった神々が、
伊勢神宮や出雲大社などでは物言わぬままに祀られている。それでいて「神」だから死ぬこともないため、
墓のような辛気臭さも徹底して排した清浄の場としての神社にこそ祀られている。
正統な神が語りもしないで鎮座して居られることは、むしろ人々にとっての安心材料にすらなっている。
「触らぬ神に祟りなし」もとい「語らぬ神に祟りなし」であり、神が激情を以て口を開くような
ことを畏れるのが、むしろ人としての適切な神への姿勢になるのだといえる。
仏ともなれば、もはやその語る言葉が常人の理解を超えてしまっていたりするために、
聞いて怖い、聞かなくて安心などという段階にすらない。ただ、そこには人々を安寧へと導く
有難い意味が込められているには違いないわけだから、それを聞く以上はよく尊んで、
意味不明だからといって軽んじたりすることがないようにするのが得策だといえる。
意味も明瞭でいて、なおかつ恐ろしげでもないような言葉の一つが、儒説に代表される人道一辺倒の言葉である。
それこそ、「論語」における孔子の弟子たちへの諭しの言葉などがその最好例であり、
(五経中の孔子の言葉などは、もう少し専門的で分かりにくいものが多い)
その内容は時に辛口だったりもする一方で、弟子たちの将来を本気で慮る優しさにも満ちている。
意味もそれなりに平易でいて、なおかつ聞くものに麻薬的な陶酔をももたらすのが犯罪聖書の言葉であり、
信者をただただ優遇するような詐欺師然とした言葉遣いでいて、別に孔子が弟子たちを慮る時のような
本質的な優しさを湛えているわけでもない。その上っ面だけの甘ったるさがかえって聞くものの不安を煽り、
その不安を紛らわすためにさらに犯罪聖書の言葉に依存するといった、中毒性をもたらすようにもなっている。
伊勢神宮や出雲大社などでは物言わぬままに祀られている。それでいて「神」だから死ぬこともないため、
墓のような辛気臭さも徹底して排した清浄の場としての神社にこそ祀られている。
正統な神が語りもしないで鎮座して居られることは、むしろ人々にとっての安心材料にすらなっている。
「触らぬ神に祟りなし」もとい「語らぬ神に祟りなし」であり、神が激情を以て口を開くような
ことを畏れるのが、むしろ人としての適切な神への姿勢になるのだといえる。
仏ともなれば、もはやその語る言葉が常人の理解を超えてしまっていたりするために、
聞いて怖い、聞かなくて安心などという段階にすらない。ただ、そこには人々を安寧へと導く
有難い意味が込められているには違いないわけだから、それを聞く以上はよく尊んで、
意味不明だからといって軽んじたりすることがないようにするのが得策だといえる。
意味も明瞭でいて、なおかつ恐ろしげでもないような言葉の一つが、儒説に代表される人道一辺倒の言葉である。
それこそ、「論語」における孔子の弟子たちへの諭しの言葉などがその最好例であり、
(五経中の孔子の言葉などは、もう少し専門的で分かりにくいものが多い)
その内容は時に辛口だったりもする一方で、弟子たちの将来を本気で慮る優しさにも満ちている。
意味もそれなりに平易でいて、なおかつ聞くものに麻薬的な陶酔をももたらすのが犯罪聖書の言葉であり、
信者をただただ優遇するような詐欺師然とした言葉遣いでいて、別に孔子が弟子たちを慮る時のような
本質的な優しさを湛えているわけでもない。その上っ面だけの甘ったるさがかえって聞くものの不安を煽り、
その不安を紛らわすためにさらに犯罪聖書の言葉に依存するといった、中毒性をもたらすようにもなっている。
犯罪聖書の神などは全くの架空神であり、実際には古代のユダヤ人を名乗る政商犯が
自分たちの不満の捌け口として捏造した超越神に過ぎないわけだが、そのような発祥の不純さもまた、
犯罪聖書の言葉が人々の不安を煽る主な原因となっている。政商のような非道な活動に及んでいたからには、
本人たちもまた精神を病んで極度の不安状態に陥っていたに違いない。そしてその不安感が、犯罪聖書の言葉
にもそのまま落とし込まれているものだから、それを読む者もまた耐え難い不安感に苛まれることとなるのである。
人々の不安感を極度に煽る不埒な言葉が書物として残されたままでいて、
その語り手もすでに死んでこの世にない。これもまたさらなる不安感を上塗りする要因となっている。
必要もなく人々の不安を煽っておいて、そのままほったらかしという、迷惑極まりないならず者の妄動で
あったわけだが、すでに起こってしまっている以上は、適切な対処を施して行くようにもするしかない。
犯罪聖書の神など始めからいなかったということ、犯罪聖書中の言葉などは全て重度累犯障害者の妄言であり、
だからこそ人々の不安を極度に煽った上での特別待遇みたいな内容でもある。それは精神衛生上も教育上も
決してよろしくない代物であるのだから、その嗜好的な享受を元から断って行くようにしなければならない。
受容しておいてから救いを求めるようなことから止めて行くようにしなければならぬと、固く戒めて行く必要がある。
罵詈雑言が有害性を伴うということは、すでに衆知なこととなっているけれども、
甘ったるい言葉の中にこそ不安感を煽るような有害性が秘められている場合があるということは
まだまだ認知が行き届いてはいない。人生、そうそうにうまく行くもんじゃないのに、
何もかもがうまく行くなどとほざくものがいる、そんな言葉には確かに裏があったりするわけで、
むしろ不安感を抱かされたりするほうが自然な反応であるのだと考えるべきである。
そのような言葉によって人々が不安を煽られたりすること自体、
公共性に即して有害であると断定していいのである。
自分たちの不満の捌け口として捏造した超越神に過ぎないわけだが、そのような発祥の不純さもまた、
犯罪聖書の言葉が人々の不安を煽る主な原因となっている。政商のような非道な活動に及んでいたからには、
本人たちもまた精神を病んで極度の不安状態に陥っていたに違いない。そしてその不安感が、犯罪聖書の言葉
にもそのまま落とし込まれているものだから、それを読む者もまた耐え難い不安感に苛まれることとなるのである。
人々の不安感を極度に煽る不埒な言葉が書物として残されたままでいて、
その語り手もすでに死んでこの世にない。これもまたさらなる不安感を上塗りする要因となっている。
必要もなく人々の不安を煽っておいて、そのままほったらかしという、迷惑極まりないならず者の妄動で
あったわけだが、すでに起こってしまっている以上は、適切な対処を施して行くようにもするしかない。
犯罪聖書の神など始めからいなかったということ、犯罪聖書中の言葉などは全て重度累犯障害者の妄言であり、
だからこそ人々の不安を極度に煽った上での特別待遇みたいな内容でもある。それは精神衛生上も教育上も
決してよろしくない代物であるのだから、その嗜好的な享受を元から断って行くようにしなければならない。
受容しておいてから救いを求めるようなことから止めて行くようにしなければならぬと、固く戒めて行く必要がある。
罵詈雑言が有害性を伴うということは、すでに衆知なこととなっているけれども、
甘ったるい言葉の中にこそ不安感を煽るような有害性が秘められている場合があるということは
まだまだ認知が行き届いてはいない。人生、そうそうにうまく行くもんじゃないのに、
何もかもがうまく行くなどとほざくものがいる、そんな言葉には確かに裏があったりするわけで、
むしろ不安感を抱かされたりするほうが自然な反応であるのだと考えるべきである。
そのような言葉によって人々が不安を煽られたりすること自体、
公共性に即して有害であると断定していいのである。
「仁言は、仁声の人に深く入るには如かざるなり。善政は、善教の民を得るに如かざるなり。
善政は民、之れを畏れ、善教は、民之れを愛す。善政は民の財を得、善教は民の心を得」
「為政者が仁なる言葉を触れ回る以上にも、人々が自然と善なる言葉を発するようになったほうが
なおのことよい。為政者が頭ごなしな善政を敷く以上にも、善い教えを自主的に学んだ民たちが
いてくれるほうがなおのことよい。善政は民に畏怖を抱かせる一方、善教の教化は民たちがこれを
愛慕するようになるものである。善政は民の税の滞納などを防ぐために財貨を徴収しやすいなどの
利点がありはするが、善教による教化はそれ以上にも民たちの心を得ることができる。(採算を
度外視してでも、民たちの自主的な徳育こそを直接的な声かけなどよりも尊べというのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・一六より)
善政は民、之れを畏れ、善教は、民之れを愛す。善政は民の財を得、善教は民の心を得」
「為政者が仁なる言葉を触れ回る以上にも、人々が自然と善なる言葉を発するようになったほうが
なおのことよい。為政者が頭ごなしな善政を敷く以上にも、善い教えを自主的に学んだ民たちが
いてくれるほうがなおのことよい。善政は民に畏怖を抱かせる一方、善教の教化は民たちがこれを
愛慕するようになるものである。善政は民の税の滞納などを防ぐために財貨を徴収しやすいなどの
利点がありはするが、善教による教化はそれ以上にも民たちの心を得ることができる。(採算を
度外視してでも、民たちの自主的な徳育こそを直接的な声かけなどよりも尊べというのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・一六より)
天下に無二なる一大事ほど、個人的な思い立ちで取り掛かられるようなことがあってはならぬ。
準備が万端に整った上で、誰しもが心待ちにしていながら、なおのこと、その実行の責任者は
仕方なく重い腰を上げるぐらいの姿勢でなければ、大事に取り掛かる状況として相応しくない。
そこまで厳重の限りを尽くさずとも、下準備がちゃんとできてすらいればそうそうに失敗などが
起こり得るものではない。それでも実行にかけて、後手後手となるほどの慎重の限りを尽くして行く、
そういった姿勢こそが、大事を為しているのだということを示し出す意味を持ち合わせることとなる。
ただただ前に走り出す脚力では、黒人が最高で、次に白人、黄色人種は総合的には最低とされる。
それでいて、平均的な知能指数はこの逆の順位であり、安定した文明社会を築き上げて行ける能力
でもこの逆の順位となる。ただ前に進み出す能力以上にも、立ち止まったり、進退を使い分けたり
といった能力のほうが、人間にこそ特有の能力であり、ただただ前進する能力で人間を上回る動物は
無数にいる一方で、立ち止まってよく物事に注意を働かせる能力では人間こそがずば抜けている。
ただ立ち止まるだけでなく、一定の場所での駆け引きを講ずる能力でも人間こそは突出して優れている。
クマのような人間より遥かに力の強大な動物といえども、敵となる相手を見るや襲いかかるか、もしくは
敵わないとみて一目散に逃げ去るかのいずれかばかりであろうとする。動物には、勇気を持って物事に
取り掛かるという能力が欠けているものだから、前身か後退かのいずれかでしかいられないわけである。
むろん、勇気ばかりではなく、相手との間合いをよく計り知って、一足一刀の間合い付近での
警戒をこなすような高度な注意力があればこそ、敵に対峙し続けたからといって即座に致命傷を
負ったりすることもないのである。なおかつ、衝突寸前の間合いから声をかけるなり、伝令を
発するなどして、言葉での交渉に取り組むことすらできなくはないから、言葉ばかりでも争い
ばかりでもない文武両道によってこそ対立を処理して行くこともまたできるわけである。
準備が万端に整った上で、誰しもが心待ちにしていながら、なおのこと、その実行の責任者は
仕方なく重い腰を上げるぐらいの姿勢でなければ、大事に取り掛かる状況として相応しくない。
そこまで厳重の限りを尽くさずとも、下準備がちゃんとできてすらいればそうそうに失敗などが
起こり得るものではない。それでも実行にかけて、後手後手となるほどの慎重の限りを尽くして行く、
そういった姿勢こそが、大事を為しているのだということを示し出す意味を持ち合わせることとなる。
ただただ前に走り出す脚力では、黒人が最高で、次に白人、黄色人種は総合的には最低とされる。
それでいて、平均的な知能指数はこの逆の順位であり、安定した文明社会を築き上げて行ける能力
でもこの逆の順位となる。ただ前に進み出す能力以上にも、立ち止まったり、進退を使い分けたり
といった能力のほうが、人間にこそ特有の能力であり、ただただ前進する能力で人間を上回る動物は
無数にいる一方で、立ち止まってよく物事に注意を働かせる能力では人間こそがずば抜けている。
ただ立ち止まるだけでなく、一定の場所での駆け引きを講ずる能力でも人間こそは突出して優れている。
クマのような人間より遥かに力の強大な動物といえども、敵となる相手を見るや襲いかかるか、もしくは
敵わないとみて一目散に逃げ去るかのいずれかばかりであろうとする。動物には、勇気を持って物事に
取り掛かるという能力が欠けているものだから、前身か後退かのいずれかでしかいられないわけである。
むろん、勇気ばかりではなく、相手との間合いをよく計り知って、一足一刀の間合い付近での
警戒をこなすような高度な注意力があればこそ、敵に対峙し続けたからといって即座に致命傷を
負ったりすることもないのである。なおかつ、衝突寸前の間合いから声をかけるなり、伝令を
発するなどして、言葉での交渉に取り組むことすらできなくはないから、言葉ばかりでも争い
ばかりでもない文武両道によってこそ対立を処理して行くこともまたできるわけである。
そこに、「人間」という生き物の本髄があるとすらいえる。
ただただ相手に対して前進するのでも、後退するのでもなく、一定の間合いでの時間をかけた交渉に臨む、
そういったあり方こそが人を人たらしめているのであり、気に入った相手とだけ密着し合い、そうでない
相手とは極端な疎外状態でばかりあろうとするのでは、畜生とも何ら変わるところがないといえる。
他人との間合いをよく注意して、慎重深く物事に臨もうとする心持ちこそは、真人間の心持ちである一方、
何事にかけてもはやる気持ちを募らせてばかりしかいられない心持ちこそは、畜生の心持ちだといえる。
別に、前者がよくて後者が悪いようにも思われない、特に、子供のような感情の焼け付きこそは持て
囃されている現代においては、むしろ後者のような心持ちのほうがよさげにすら思われたりする
わけだけれども、残念ながら、本質的にそれは畜生とも何ら変わるところがないものなのである。
天下国家を自らの権能によって動かすして行く責務を負う君子などは、それこそ逸る気持ちなどを
徹底して抑制することのできる能力の持ち主でもなければならぬ。個人的にも公的にも、がっつこうと
するような不埒な意欲は排し去ることができるぐらいでなければ、意義ある帝業に与することもままならぬ。
そのあたり、商売人としての成功条件などとは位相を真逆にすらするところであり、商売人などとしての
成功を徹底して拒み通すような人間こそは、君子として大成する素養があったりする所以なのである。
「亢龍悔い有り。〜亢の言たるや、進むを知って退くを知らず。(一部既出)」
「亢龍の如きあり方は悔いばかりを残す結果となる。『亢』とは、ただ
積極的に進もうとするばかりで、退くことを知らぬことを意味する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾・上九‐文言伝より)
以下も参考までに。
「聖人は躊躇して以て事を興し、以て毎ごとに成功す。奈何ぞや其れ載とせん。矜に終わらんのみ」
「聖人は何事もためらいがちなままに為し、それでいていつも必ず成功させる。にもかかわらず、
どうしておまえは逸り立ってばかりいるのか。ただ思い上がりを募らせてるばかりではないか」
(荘子・雑篇・外物第二十六)
ただただ相手に対して前進するのでも、後退するのでもなく、一定の間合いでの時間をかけた交渉に臨む、
そういったあり方こそが人を人たらしめているのであり、気に入った相手とだけ密着し合い、そうでない
相手とは極端な疎外状態でばかりあろうとするのでは、畜生とも何ら変わるところがないといえる。
他人との間合いをよく注意して、慎重深く物事に臨もうとする心持ちこそは、真人間の心持ちである一方、
何事にかけてもはやる気持ちを募らせてばかりしかいられない心持ちこそは、畜生の心持ちだといえる。
別に、前者がよくて後者が悪いようにも思われない、特に、子供のような感情の焼け付きこそは持て
囃されている現代においては、むしろ後者のような心持ちのほうがよさげにすら思われたりする
わけだけれども、残念ながら、本質的にそれは畜生とも何ら変わるところがないものなのである。
天下国家を自らの権能によって動かすして行く責務を負う君子などは、それこそ逸る気持ちなどを
徹底して抑制することのできる能力の持ち主でもなければならぬ。個人的にも公的にも、がっつこうと
するような不埒な意欲は排し去ることができるぐらいでなければ、意義ある帝業に与することもままならぬ。
そのあたり、商売人としての成功条件などとは位相を真逆にすらするところであり、商売人などとしての
成功を徹底して拒み通すような人間こそは、君子として大成する素養があったりする所以なのである。
「亢龍悔い有り。〜亢の言たるや、進むを知って退くを知らず。(一部既出)」
「亢龍の如きあり方は悔いばかりを残す結果となる。『亢』とは、ただ
積極的に進もうとするばかりで、退くことを知らぬことを意味する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾・上九‐文言伝より)
以下も参考までに。
「聖人は躊躇して以て事を興し、以て毎ごとに成功す。奈何ぞや其れ載とせん。矜に終わらんのみ」
「聖人は何事もためらいがちなままに為し、それでいていつも必ず成功させる。にもかかわらず、
どうしておまえは逸り立ってばかりいるのか。ただ思い上がりを募らせてるばかりではないか」
(荘子・雑篇・外物第二十六)
子路が衛国の大夫である孔悝の荘園の行政官になっていたころ、衛国に父子の王位争いが起こった。子路はこのお家騒動にまきこまれて、殺された。子路の屍は細かく切りきざまれ、無惨にも《醢》にされた。それは使者によって孔子の食卓にまで届けられてきた。
以来、孔子は大好物の《醢》を食べるのをやめた。
これは『礼記』、『東周列国志』、『荘子』にも記されている。
>稼がないで食う飯はうめえなあ。
恥知らずの笠地蔵に親の庇護から解脱する気概はあるまいてwww
以来、孔子は大好物の《醢》を食べるのをやめた。
これは『礼記』、『東周列国志』、『荘子』にも記されている。
>稼がないで食う飯はうめえなあ。
恥知らずの笠地蔵に親の庇護から解脱する気概はあるまいてwww
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾
荘子は孔子のこともコテンパンになじってんだからさ、
何とかの両成敗ということで、な。(^ ^)
何とかの両成敗ということで、な。(^ ^)
道理は、「論語」の孔子の物言いほどにも平易に示すことができる一方で、
真理は、大乗仏典ほどにも難解な記述によってすら示しきれているとは言えない。
(小乗仏典の記述は平易で道理にも適っているが、真理そのものを
指し示した記録としては粗雑に過ぎるところがある)
犯罪聖書(新旧約)の言葉なんぞは、真理に背を向ける言葉ですらない。
儒学で取り扱うようなごくごく平易な世俗の道理にこそ決定的に反する邪義の集成
であり、もしも真理の裁きにかけられるとすれば、そこで道理に敗れ去るものである。
そこで真理はただの裁判官役として立ち回るのみであり、犯罪聖書の邪教などは
それに味方することも敵対することもできない。真理の公正な裁きによって
敗れ去って後もその結果に抗い続けるのなら、真理と道理両方を敵に回すことに
なるにしろ、それはもはや、背理ですらない無理を通そうとする暴挙となってしまう。
真理は、言葉では表せないぐらいに考えるのが賢明であり、自らが世俗での
活動者となるぐらいなら、真理などは敬遠して、当たり前な道理に適った範囲の言行
に務めて行くようにすべきである。そうともせずに、無理に世俗での真理の触れ回りなど
に及ぼうとしたなら、それが全く本物の真理に適わないままに終わるのはもちろんのこと、
単なる道理にすら決定的に反する邪義の触れ回りに終始してしまうことにすらなる。
真理は真理で、実際にあるわけで、それはそれで十全な尊重の対象として行くべきものだ。
ただ、それはどうしたって難解なものである。最高級に頭のいい人間が命の保証もない
ような厳しい修行研鑽を積み重ねた先に、やっと会得できるかできないかといったほどの
代物であり、決しておいそれとそれを分かった気などになるべきものでもないのである。
真理は、大乗仏典ほどにも難解な記述によってすら示しきれているとは言えない。
(小乗仏典の記述は平易で道理にも適っているが、真理そのものを
指し示した記録としては粗雑に過ぎるところがある)
犯罪聖書(新旧約)の言葉なんぞは、真理に背を向ける言葉ですらない。
儒学で取り扱うようなごくごく平易な世俗の道理にこそ決定的に反する邪義の集成
であり、もしも真理の裁きにかけられるとすれば、そこで道理に敗れ去るものである。
そこで真理はただの裁判官役として立ち回るのみであり、犯罪聖書の邪教などは
それに味方することも敵対することもできない。真理の公正な裁きによって
敗れ去って後もその結果に抗い続けるのなら、真理と道理両方を敵に回すことに
なるにしろ、それはもはや、背理ですらない無理を通そうとする暴挙となってしまう。
真理は、言葉では表せないぐらいに考えるのが賢明であり、自らが世俗での
活動者となるぐらいなら、真理などは敬遠して、当たり前な道理に適った範囲の言行
に務めて行くようにすべきである。そうともせずに、無理に世俗での真理の触れ回りなど
に及ぼうとしたなら、それが全く本物の真理に適わないままに終わるのはもちろんのこと、
単なる道理にすら決定的に反する邪義の触れ回りに終始してしまうことにすらなる。
真理は真理で、実際にあるわけで、それはそれで十全な尊重の対象として行くべきものだ。
ただ、それはどうしたって難解なものである。最高級に頭のいい人間が命の保証もない
ような厳しい修行研鑽を積み重ねた先に、やっと会得できるかできないかといったほどの
代物であり、決しておいそれとそれを分かった気などになるべきものでもないのである。
それでいて、その難解至極な真理に即して是認できる平易な道理というものもまたあって、
それこそは儒家の提示する仁義道徳であったりもする。こちらは分かった気になるまで
もなく、実際、頭で理解するぐらいは容易い程度の教えばかりであり、ただ理解するだけ
でなく、誠実な実践に移して行くことのほうがより重要とされるものである。だからこそ、
道理のほうもまた衒学での思い上がりの材料などにしているわけにはいかない。真理に
しろ道理にしろ、純正なものほどそれを驕り高ぶりの道具にしていいような余地が
どこにもないのであり、犯罪聖書におけるイエキリの妄動のような、思い上がり
まみれの所業の正当化材料にしていいような余地も一切ありはしないのである。
とはいえ、イエキリのごとき思い上がりまみれの活動姿勢というものが、大学研究者の
論文発表姿勢から作家の文芸発表姿勢、芸能人の演芸姿勢にいたるまで、方々で持て
囃されてしまっているのが今という時代の現状でもある。自分が言わんとする所が何で
あるかなど以前に、それほどにも思い上がりまみれのがっついた態度姿勢であるので
なければ相手にもされないといった悪習すらもがまかり通ってしまっている。これは
むしろ逆であるべきなのであり、そのような態度姿勢での活動を試みる輩こそは軒並み、
真理にも道理にも適わない邪曲を触れ回ろうとする者と見なして忌むべきなのである。
歴史上に名高い東洋古典なども、大学で正式に発表されたものなどよりは、聖賢が私的に
編纂したものが徐々に評価を上げていったようなものがほとんどとなっている。司馬遷の
「史記」のように、あえて著者の死後まで発表を見送ることでその記述の公正さを期した
大古典もまたあるわけで、それぐらい発表姿勢が貞節である書物なり活動なりの価値こそ
を今一度見直して行くべきなのだといえる。
それこそは儒家の提示する仁義道徳であったりもする。こちらは分かった気になるまで
もなく、実際、頭で理解するぐらいは容易い程度の教えばかりであり、ただ理解するだけ
でなく、誠実な実践に移して行くことのほうがより重要とされるものである。だからこそ、
道理のほうもまた衒学での思い上がりの材料などにしているわけにはいかない。真理に
しろ道理にしろ、純正なものほどそれを驕り高ぶりの道具にしていいような余地が
どこにもないのであり、犯罪聖書におけるイエキリの妄動のような、思い上がり
まみれの所業の正当化材料にしていいような余地も一切ありはしないのである。
とはいえ、イエキリのごとき思い上がりまみれの活動姿勢というものが、大学研究者の
論文発表姿勢から作家の文芸発表姿勢、芸能人の演芸姿勢にいたるまで、方々で持て
囃されてしまっているのが今という時代の現状でもある。自分が言わんとする所が何で
あるかなど以前に、それほどにも思い上がりまみれのがっついた態度姿勢であるので
なければ相手にもされないといった悪習すらもがまかり通ってしまっている。これは
むしろ逆であるべきなのであり、そのような態度姿勢での活動を試みる輩こそは軒並み、
真理にも道理にも適わない邪曲を触れ回ろうとする者と見なして忌むべきなのである。
歴史上に名高い東洋古典なども、大学で正式に発表されたものなどよりは、聖賢が私的に
編纂したものが徐々に評価を上げていったようなものがほとんどとなっている。司馬遷の
「史記」のように、あえて著者の死後まで発表を見送ることでその記述の公正さを期した
大古典もまたあるわけで、それぐらい発表姿勢が貞節である書物なり活動なりの価値こそ
を今一度見直して行くべきなのだといえる。
「詩に曰く、予れ明徳を懐い、声と色とを大にせずと。子曰く、声色を之れ以って民を化するは末なりと。
詩に曰く、徳の輶きこと毛の如しと。毛猶お倫有り。上天の載は声も無く臭いも無し。至れるかな」
「詩経(大雅・皇矣)に『私はただひたすら明徳を思って、声や顔色を尊大にするようなことは控える』とある。
孔先生はこれを評して『声や顔色によって民を化育するのは、ごくごく瑣末なことに過ぎない』と言われた。
また詩経(大雅・烝民)に『徳は毛筋のように軽やか(で実践しようと思えばいつでも実践できるものである)』
ともある。毛筋ほどのところにすら実践すべき倫理というものがある(のだから、声を荒げて人々にそれを
説いたりするのは、辟易によって実践を滞らせる原因にすらなりかねない)。上天は声もなく臭いもないままで、
ありのままに真理でもある(大雅・文王)。そのようであることこそは至上といえるのではなかろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・三三より)
詩に曰く、徳の輶きこと毛の如しと。毛猶お倫有り。上天の載は声も無く臭いも無し。至れるかな」
「詩経(大雅・皇矣)に『私はただひたすら明徳を思って、声や顔色を尊大にするようなことは控える』とある。
孔先生はこれを評して『声や顔色によって民を化育するのは、ごくごく瑣末なことに過ぎない』と言われた。
また詩経(大雅・烝民)に『徳は毛筋のように軽やか(で実践しようと思えばいつでも実践できるものである)』
ともある。毛筋ほどのところにすら実践すべき倫理というものがある(のだから、声を荒げて人々にそれを
説いたりするのは、辟易によって実践を滞らせる原因にすらなりかねない)。上天は声もなく臭いもないままで、
ありのままに真理でもある(大雅・文王)。そのようであることこそは至上といえるのではなかろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・三三より)
人間社会ってのは、誰かが努力したぶんだけ成り立つもの。
飲む食う遊ぶ、それらの材料となる諸々の事物を汗水たらして
生産している人間がいればこそ、それを享受して行くこともできる。
だから、生産者の側の身になってものを考えることこそは道徳的ともなる一方、
消費者の側からしかものを考えないことは反道徳的なあり方ともなる。
士大夫や仏僧が直接生産活動に従事するわけでもないが、政治や布教活動を通じて
生産事業を教導する場合もあるし、実際に治水や灌漑のような、潤沢な生産の
ための下準備となる事業を推進したりもする。そして、そのようなあり方を心がけて
行くことこそは儒学や大乗仏教における本分ともされ、そのための心の持ちよう
こそが儒説や仏説として膨大な分量にわたって構築されてきているのでもある。
(大乗仏教ではそれこそを「悟りに到るための菩薩業の一環」ともしている)
かろうじて「礼記」の王制第五などに、「治世が大成功して飢え渇くような
民が一人もいなくなった時には、主君が日日の宴食に舞楽を呼んで祝えばよい」
といったような記述がある。それこそ、誰にも文句の付けようのない飲めや歌えやの
姿であるし、実際に平安時代の最隆盛期の日本の朝廷などは、このような記述にも
則った歌舞宴楽を楽しんでいたりしたわけだけれども。当然、ブラックアフリカの
キリスト教国などで膨大な数の餓死者が発生してしまっている今の世界において、
世界の支配者に相当するような権能の持ち主が、飲めや歌えやのお楽しみ状態でいても
構わないなどとする記述には全くなっていないのもまた、見るに明らかなことである。
飲む食う遊ぶ、それらの材料となる諸々の事物を汗水たらして
生産している人間がいればこそ、それを享受して行くこともできる。
だから、生産者の側の身になってものを考えることこそは道徳的ともなる一方、
消費者の側からしかものを考えないことは反道徳的なあり方ともなる。
士大夫や仏僧が直接生産活動に従事するわけでもないが、政治や布教活動を通じて
生産事業を教導する場合もあるし、実際に治水や灌漑のような、潤沢な生産の
ための下準備となる事業を推進したりもする。そして、そのようなあり方を心がけて
行くことこそは儒学や大乗仏教における本分ともされ、そのための心の持ちよう
こそが儒説や仏説として膨大な分量にわたって構築されてきているのでもある。
(大乗仏教ではそれこそを「悟りに到るための菩薩業の一環」ともしている)
かろうじて「礼記」の王制第五などに、「治世が大成功して飢え渇くような
民が一人もいなくなった時には、主君が日日の宴食に舞楽を呼んで祝えばよい」
といったような記述がある。それこそ、誰にも文句の付けようのない飲めや歌えやの
姿であるし、実際に平安時代の最隆盛期の日本の朝廷などは、このような記述にも
則った歌舞宴楽を楽しんでいたりしたわけだけれども。当然、ブラックアフリカの
キリスト教国などで膨大な数の餓死者が発生してしまっている今の世界において、
世界の支配者に相当するような権能の持ち主が、飲めや歌えやのお楽しみ状態でいても
構わないなどとする記述には全くなっていないのもまた、見るに明らかなことである。
ただひたすら世のため人のため自分のための菩薩業や仁政に邁進して行くことと、
それが十二分に成功している場合に限って自らもまた富貴を謳歌することまでが、
然るべき人のあり方を指し示した理念として是認するに足るものである一方、
ただひたすら自分が幸福でいられればそれでいいなどというのは、まったく理想
として扱うべき心持ちであるとはいえない。全くなってない人間の残念な性分として、
ただただ自分が幸福でいたいというような思いもまたあるにしたって、それが人間
社会において理想として扱っていいようなものではないこともまた確かなことである。
ただただ自分が幸福でいたいのが庶民の一般的な性分であるというのなら、
そもそも庶民の思いなどを尊重すべきでもないのである。>>240で孟子も示したような、
教化が行き届いて民までもが自主的に仁徳を重んじているような世の中ともなれば、
自利ばかりを専らにしなくなった民たちの思いすらをも尊重して行くようにすべきだが、
愚民化のせいで自利以外に何も考えられなくなってしまっていたりするようならば、
あえてそのような民たちの意向に反することもまた時に必要となるに違いない。
自利以上の利他を志して行くことを、愚民だらけの世の中にこそ押し広めるならば、
それこそ、まず民にそのような姿勢を強制したりするのでは、決してうまくいくこと
もあるまい。まずは為政者や指導者たるものこそが率先して仁者としてのあり方を
実践して、次いで民たちにもそのあり方を見習わせて行くようにする。なかなか志し
がたい善行を社会規模で広めて行くためにこそ、民主的ともいえないような手順を
踏んでいく必要があったりするわけだから、ただただ欲望芬芬たる愚民の要望ばかりを
聞き入れて行く民主制というものの問題性もまた考えて行くようにしなければならない。
それが十二分に成功している場合に限って自らもまた富貴を謳歌することまでが、
然るべき人のあり方を指し示した理念として是認するに足るものである一方、
ただひたすら自分が幸福でいられればそれでいいなどというのは、まったく理想
として扱うべき心持ちであるとはいえない。全くなってない人間の残念な性分として、
ただただ自分が幸福でいたいというような思いもまたあるにしたって、それが人間
社会において理想として扱っていいようなものではないこともまた確かなことである。
ただただ自分が幸福でいたいのが庶民の一般的な性分であるというのなら、
そもそも庶民の思いなどを尊重すべきでもないのである。>>240で孟子も示したような、
教化が行き届いて民までもが自主的に仁徳を重んじているような世の中ともなれば、
自利ばかりを専らにしなくなった民たちの思いすらをも尊重して行くようにすべきだが、
愚民化のせいで自利以外に何も考えられなくなってしまっていたりするようならば、
あえてそのような民たちの意向に反することもまた時に必要となるに違いない。
自利以上の利他を志して行くことを、愚民だらけの世の中にこそ押し広めるならば、
それこそ、まず民にそのような姿勢を強制したりするのでは、決してうまくいくこと
もあるまい。まずは為政者や指導者たるものこそが率先して仁者としてのあり方を
実践して、次いで民たちにもそのあり方を見習わせて行くようにする。なかなか志し
がたい善行を社会規模で広めて行くためにこそ、民主的ともいえないような手順を
踏んでいく必要があったりするわけだから、ただただ欲望芬芬たる愚民の要望ばかりを
聞き入れて行く民主制というものの問題性もまた考えて行くようにしなければならない。
「君子は遠慮有るも、小人は邇きに従う。飢寒も之れ恤えずして、誰をか其れ後に遑あらん」
「君子には遠い将来に到るまでの配慮があるが、小人は目先のことばかりに囚われたがる。
飢渇や凍えへの心配すら疎かにするようでいて、どうして後々のことを慮る余裕などがあろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十九年より)
上の引用とは志しを反しているような寓話ではあるが、
「死生存亡、窮達貧富、賢不肖、毀誉、飢渇、寒暑は、是れ事の変にして、命の行なり。
日夜前に相代わるも、知も其の始めを規うこと能わざる者なり。故に以て和を滑すに足らず、
霊府に入る可からず。之れをして和豫せしめ、通じて兌びを失わず、日夜をして郤無からしめ、
物と与に春を為す。是れ接ぎて時を心に生ずる者なり。是れを之れ才の全しと謂う」
「生死存亡、栄枯盛衰、貧富、賢不賢、毀誉褒貶、飢渇寒暑といったものは、すべて事の
移り変わりというものであり、天命の為す所である。日夜ことごとに変わり果てるもので、
誰もその発端を予測することもできやしない。故に姑息な猿知恵などによってその変化による
調和を乱すこともではしない。人間の分際でそのような問題を交渉に考え込むべきでもなく、
先天的な調和として許容し、一貫して喜びを失うことなく、日夜その境地にわが身を置いて、
万物と青春を共にして行く心持ちでいよ。これこそは心を時に一致させた境地で
あるといえ、人としての才分が全うされた姿であるともいえるのだ」
(「荘子」内篇・徳充符第五・四より)
将来の飢渇を憂う賢しらでいるか、もしくは飢渇自体を受け入れる大らかさでいよというのが
諸子百家の総論だ。飢渇を根絶して安心しきってしまおうなどという怠慢だけはダメだってんだ。
「君子には遠い将来に到るまでの配慮があるが、小人は目先のことばかりに囚われたがる。
飢渇や凍えへの心配すら疎かにするようでいて、どうして後々のことを慮る余裕などがあろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十九年より)
上の引用とは志しを反しているような寓話ではあるが、
「死生存亡、窮達貧富、賢不肖、毀誉、飢渇、寒暑は、是れ事の変にして、命の行なり。
日夜前に相代わるも、知も其の始めを規うこと能わざる者なり。故に以て和を滑すに足らず、
霊府に入る可からず。之れをして和豫せしめ、通じて兌びを失わず、日夜をして郤無からしめ、
物と与に春を為す。是れ接ぎて時を心に生ずる者なり。是れを之れ才の全しと謂う」
「生死存亡、栄枯盛衰、貧富、賢不賢、毀誉褒貶、飢渇寒暑といったものは、すべて事の
移り変わりというものであり、天命の為す所である。日夜ことごとに変わり果てるもので、
誰もその発端を予測することもできやしない。故に姑息な猿知恵などによってその変化による
調和を乱すこともではしない。人間の分際でそのような問題を交渉に考え込むべきでもなく、
先天的な調和として許容し、一貫して喜びを失うことなく、日夜その境地にわが身を置いて、
万物と青春を共にして行く心持ちでいよ。これこそは心を時に一致させた境地で
あるといえ、人としての才分が全うされた姿であるともいえるのだ」
(「荘子」内篇・徳充符第五・四より)
将来の飢渇を憂う賢しらでいるか、もしくは飢渇自体を受け入れる大らかさでいよというのが
諸子百家の総論だ。飢渇を根絶して安心しきってしまおうなどという怠慢だけはダメだってんだ。
「棖や慾なり。焉んぞ剛なることを得ん(既出)」
「申棖には欲がある。どうして頑強といえよう。(欲があることは軟弱なことである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一一より)
「願い欲しすら叶えられる」という発想が
卑しまれるべき悪徳の範疇であるとする根拠には、おおよそ三つある。
①.欲したがるような財富にも限りがあり、自分ばかりが独占すべきではないから。
②.やたらと欲したがるということ自体が自らの軟弱さの発露であるが故に恥となるから。
③.欲望にまみれている状態の劣情が自業自得で自らを苦悩に陥れるから。
儒家は①と②の理由で際限のない欲望を戒めるし、
仏門や道家は③の理由で欲望を戒める。
①は共産主義、③はさほど上等ともいえないような異端宗教などでも問題視されることであり、
そのような粗悪な思想信条に基づいて被支配者や信者が寡欲に務めた結果、寡欲によって
溜め込まれた財富の集約元としての支配者なり教祖なりを肥え太らせるようなことにも
なってしまいかねない。そしてそれが資本主義者のような、際限のない欲望を大いに
是とする人種にとっての、制欲を非とする根拠とされるようにもなってしまう。
本当は、①や③のような根拠に即して人々を扇動した結果、自分たち自身が暴利を
巻き上げようとするような異端の思想家なり宗教家なりがいなければそれに越したことが
ないわけだが、残念ながら存在する。そのため、制欲を推奨する根拠として決して
間違っているわけでもない①や③のような根拠までもが眉唾物と化してしまう。そのため、
ここは一つ②の根拠に即して、欲望を十分に抑制できている者こそを「剛者」として
尊び、欲望まみれの人間を「軟弱者」として卑しむことに務めて行くべきだといえる。
「申棖には欲がある。どうして頑強といえよう。(欲があることは軟弱なことである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一一より)
「願い欲しすら叶えられる」という発想が
卑しまれるべき悪徳の範疇であるとする根拠には、おおよそ三つある。
①.欲したがるような財富にも限りがあり、自分ばかりが独占すべきではないから。
②.やたらと欲したがるということ自体が自らの軟弱さの発露であるが故に恥となるから。
③.欲望にまみれている状態の劣情が自業自得で自らを苦悩に陥れるから。
儒家は①と②の理由で際限のない欲望を戒めるし、
仏門や道家は③の理由で欲望を戒める。
①は共産主義、③はさほど上等ともいえないような異端宗教などでも問題視されることであり、
そのような粗悪な思想信条に基づいて被支配者や信者が寡欲に務めた結果、寡欲によって
溜め込まれた財富の集約元としての支配者なり教祖なりを肥え太らせるようなことにも
なってしまいかねない。そしてそれが資本主義者のような、際限のない欲望を大いに
是とする人種にとっての、制欲を非とする根拠とされるようにもなってしまう。
本当は、①や③のような根拠に即して人々を扇動した結果、自分たち自身が暴利を
巻き上げようとするような異端の思想家なり宗教家なりがいなければそれに越したことが
ないわけだが、残念ながら存在する。そのため、制欲を推奨する根拠として決して
間違っているわけでもない①や③のような根拠までもが眉唾物と化してしまう。そのため、
ここは一つ②の根拠に即して、欲望を十分に抑制できている者こそを「剛者」として
尊び、欲望まみれの人間を「軟弱者」として卑しむことに務めて行くべきだといえる。
聖人や賢人だから尊ぶという以前に、男らしい剛者だからこそ尊ぶのである。
「剛毅木訥は仁に近し(子路第十三・二七)」とある通り、そのような意味で剛毅である
人間は確かに仁者たり得もするのであり、仁者たることは社会的強者たる上での確かな
糧ともなるのだから、そのような人間こそを大丈夫として尊ぶことは、見せ掛けばかりの
男らしさなどではない、真の男らしさの持ち主こそを尊ぶことにも繋がるのである。
男に随順するような貞節さもないところでは、どこまでも欲望を肥大化させるのが女であるし、
親などからの躾がなっていないほど、何でも買ってもらいたがるのが子供の性分でもある。
そして女子供は大人の男よりも弱い。女子供の軟弱さこそは確かに際限のない欲望とも親しい。
女子供とはまた別の、大人の男ならではの偉大なる性分としての剛毅なる制欲を尊ぶ、
宗教的な聖賢の領域にあるわけですらない、そういった志向性こそを大切にして行くべきである。
「君子は多くの人に上たることを欲せず」
「立派な人間は、多くの人間の上に立つことを欲したりはしない。
(封建制は当然序列志向だが、支配者である君子階級同士でも厳格な序列があり、
庶民の直接的な支配などは専ら下っ端の役人あたりが務める。中士上士から王侯に到るまで、
自分自身が直接上位に立つような相手は限られることとなり、あまりにも身分の違いすぎる
者同士などはお目通りから制限されるようになる。だから、犯罪聖書の神のような、誰も彼も
の上に立って直接その願いを叶えてやろうとするようなあり方からして是とすることがない。
犯罪聖書の神は、君子が願い欲さぬようなあり方を自分自身が帯びているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・桓公五年より)
「剛毅木訥は仁に近し(子路第十三・二七)」とある通り、そのような意味で剛毅である
人間は確かに仁者たり得もするのであり、仁者たることは社会的強者たる上での確かな
糧ともなるのだから、そのような人間こそを大丈夫として尊ぶことは、見せ掛けばかりの
男らしさなどではない、真の男らしさの持ち主こそを尊ぶことにも繋がるのである。
男に随順するような貞節さもないところでは、どこまでも欲望を肥大化させるのが女であるし、
親などからの躾がなっていないほど、何でも買ってもらいたがるのが子供の性分でもある。
そして女子供は大人の男よりも弱い。女子供の軟弱さこそは確かに際限のない欲望とも親しい。
女子供とはまた別の、大人の男ならではの偉大なる性分としての剛毅なる制欲を尊ぶ、
宗教的な聖賢の領域にあるわけですらない、そういった志向性こそを大切にして行くべきである。
「君子は多くの人に上たることを欲せず」
「立派な人間は、多くの人間の上に立つことを欲したりはしない。
(封建制は当然序列志向だが、支配者である君子階級同士でも厳格な序列があり、
庶民の直接的な支配などは専ら下っ端の役人あたりが務める。中士上士から王侯に到るまで、
自分自身が直接上位に立つような相手は限られることとなり、あまりにも身分の違いすぎる
者同士などはお目通りから制限されるようになる。だから、犯罪聖書の神のような、誰も彼も
の上に立って直接その願いを叶えてやろうとするようなあり方からして是とすることがない。
犯罪聖書の神は、君子が願い欲さぬようなあり方を自分自身が帯びているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・桓公五年より)
春秋戦国時代に、なんでもありな鶏鳴狗盗の働きによってスポンサーに奉仕する数多の食客が暗躍していたことは、
「史記」などの正確な歴史記録からも伺えることである。それは、孟嘗君や春申君や平原君や呂不韋といった、
乱世のどさくさに紛れて膨大な富を占有していた権力者らがパトロンとなればこそ可能とされていたことであり、
いわば、暴政によって深刻な疲弊に晒されていた民たちの犠牲の上にこそ成り立つものであった。
だからこそ、乱世の最たる被害者である百姓の出身だった劉邦も、なんでもありな食客を利用することは極力控えた。
漢王だった頃に、有能な人材を徴発するために拵えた面会所も「招賢館」と名付け、一芸に秀でてすらいれば
それでよしとするような食客制=一領具足的姿勢はあえて遠ざけた。その招賢館での募集を通じて漢軍方の説客となり、
楚軍との偽りの和睦の締結で功を成した候公という人物に対しても、「平国君」といういかにも善良じみた
号と共に万戸公としての身分を授け、「それなりの責任を持って為政に励め」ということを暗に喚起した。
(結局、候公はその重圧に耐えきれずに逐電した)
すでに歴史上に名高い名臣や名将としてその評価が定着している陳平や韓信のような人物も、最初劉邦は、
その素行に不審な点があることや、実際に一時期食客身分でもあったことなどを理由に登用を渋った。
その上で、張良や蕭可のような古馴染みの臣下からの説得を受けるなどして、やっと受け入れるに至った。
そして登用するや、最側近の寵臣や大将軍として、既存の部下たちが羨むほどの重用をも果たしたわけだが、
これもまた、「決して食客のごとき死兵要員として扱ったりするつもりはない」という意思表示になっていた。
「史記」などの正確な歴史記録からも伺えることである。それは、孟嘗君や春申君や平原君や呂不韋といった、
乱世のどさくさに紛れて膨大な富を占有していた権力者らがパトロンとなればこそ可能とされていたことであり、
いわば、暴政によって深刻な疲弊に晒されていた民たちの犠牲の上にこそ成り立つものであった。
だからこそ、乱世の最たる被害者である百姓の出身だった劉邦も、なんでもありな食客を利用することは極力控えた。
漢王だった頃に、有能な人材を徴発するために拵えた面会所も「招賢館」と名付け、一芸に秀でてすらいれば
それでよしとするような食客制=一領具足的姿勢はあえて遠ざけた。その招賢館での募集を通じて漢軍方の説客となり、
楚軍との偽りの和睦の締結で功を成した候公という人物に対しても、「平国君」といういかにも善良じみた
号と共に万戸公としての身分を授け、「それなりの責任を持って為政に励め」ということを暗に喚起した。
(結局、候公はその重圧に耐えきれずに逐電した)
すでに歴史上に名高い名臣や名将としてその評価が定着している陳平や韓信のような人物も、最初劉邦は、
その素行に不審な点があることや、実際に一時期食客身分でもあったことなどを理由に登用を渋った。
その上で、張良や蕭可のような古馴染みの臣下からの説得を受けるなどして、やっと受け入れるに至った。
そして登用するや、最側近の寵臣や大将軍として、既存の部下たちが羨むほどの重用をも果たしたわけだが、
これもまた、「決して食客のごとき死兵要員として扱ったりするつもりはない」という意思表示になっていた。
田畑の作物に付きっきりで居させられる百姓の仕事は、ただそれだけでも不自由の極みとなる。
いわば、「なんでもなし」でいてこそ百姓はその職分を全うするのであり、なんでもありのやりたい放題で
パトロンに奉仕する食客のあり方などとはその様相を真逆にする。無論、そのような鈍重なあり方に嫌悪感を示した
百姓のどら息子なぞが、反動で食客身分を目指したりすることもなくはなかっただろうにしろ(秀吉の出世姿勢などもそれに近い)、
少なくとも劉邦は、そのような気概によって百姓からの出世を志したのではなかった。むしろ、無責任な
遊興三昧の末子であった自分を見下していた親兄弟を正しく見返してやるためにこそ出世を志しもしたわけで、
その望みを叶えるためには当然、食客としての死兵ばたらきなどで我が身を軽んずるわけにもいかなかった。
むしろ、親兄弟を上皇や親王として厚遇できるぐらいの磐石な成功が必要だったわけで、その栄達も子々孫々の後世にまで
至らないよりは至るほうがよかったから、悪辣な食客の多用などで世を新たな乱脈に陥れるわけにもいかなかった。
そういった堅実な見通しと共に出世を志したからこそ、劉邦も自分が食客になったりしないのはもちろんのこと、
財ある権力者の側から食客を死兵として濫用するような真似にも及ばなかった(そのぶん正規の臣下に対する
羽振りはよかった)。要するに、百姓特有の「なんでもなし」でいようとする性向を持ち越したままでの出世を
志したからこそ、劉邦も食客の蠢動を排した長期の治世の礎となることができたのだった。
同じ百姓の出身であっても、豊臣秀吉なぞは、百姓本来の性分を完全に捨て去っての「なんでもあり」な
志向性での出世を志したものだから、自らの死後に至るまで(素行の不良な配下などの)乱世の火種を持ち越した。
だからこそ、徳川による妻子の放伐すらをも被らざるを得なかったわけで、そこには確かな秀吉自身の落ち度があったのである。
いわば、「なんでもなし」でいてこそ百姓はその職分を全うするのであり、なんでもありのやりたい放題で
パトロンに奉仕する食客のあり方などとはその様相を真逆にする。無論、そのような鈍重なあり方に嫌悪感を示した
百姓のどら息子なぞが、反動で食客身分を目指したりすることもなくはなかっただろうにしろ(秀吉の出世姿勢などもそれに近い)、
少なくとも劉邦は、そのような気概によって百姓からの出世を志したのではなかった。むしろ、無責任な
遊興三昧の末子であった自分を見下していた親兄弟を正しく見返してやるためにこそ出世を志しもしたわけで、
その望みを叶えるためには当然、食客としての死兵ばたらきなどで我が身を軽んずるわけにもいかなかった。
むしろ、親兄弟を上皇や親王として厚遇できるぐらいの磐石な成功が必要だったわけで、その栄達も子々孫々の後世にまで
至らないよりは至るほうがよかったから、悪辣な食客の多用などで世を新たな乱脈に陥れるわけにもいかなかった。
そういった堅実な見通しと共に出世を志したからこそ、劉邦も自分が食客になったりしないのはもちろんのこと、
財ある権力者の側から食客を死兵として濫用するような真似にも及ばなかった(そのぶん正規の臣下に対する
羽振りはよかった)。要するに、百姓特有の「なんでもなし」でいようとする性向を持ち越したままでの出世を
志したからこそ、劉邦も食客の蠢動を排した長期の治世の礎となることができたのだった。
同じ百姓の出身であっても、豊臣秀吉なぞは、百姓本来の性分を完全に捨て去っての「なんでもあり」な
志向性での出世を志したものだから、自らの死後に至るまで(素行の不良な配下などの)乱世の火種を持ち越した。
だからこそ、徳川による妻子の放伐すらをも被らざるを得なかったわけで、そこには確かな秀吉自身の落ち度があったのである。
食客の多用などに基づく「なんでもあり」の魔性などに囚われなかったか否かが、漢の劉家と豊臣家との命運を決定的に分かちもした。
方や中国史上最良の帝国の礎となり、方や日本近世史上最極端な栄枯盛衰の道化となった。
「なんでもあり」の魔性などに囚われないことが、天下を統べる帝王にとってこそ必須な要素である如実な証拠となっている。
「日びに其の亡き所を知り、月づきに其の能くする所を忘るる無し、学を好むと謂うべきのみ。
(ここまで既出)博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う、仁其の中に在り」
「常日ごろからまだ自分に足りてないものを知ろうとし、月ごとにできるようになったことをおさらいして忘れないようにする、
それでこそ学問を好む姿だといえる。多くのことを広く学んでなおのこと学問を篤く志し、込み入った所まで問いたずねて
身近な所にまで考察を働かせる、そういった所に仁徳もまたあるのである。(万能感は仁徳に反するのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・五‐六より)
方や中国史上最良の帝国の礎となり、方や日本近世史上最極端な栄枯盛衰の道化となった。
「なんでもあり」の魔性などに囚われないことが、天下を統べる帝王にとってこそ必須な要素である如実な証拠となっている。
「日びに其の亡き所を知り、月づきに其の能くする所を忘るる無し、学を好むと謂うべきのみ。
(ここまで既出)博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う、仁其の中に在り」
「常日ごろからまだ自分に足りてないものを知ろうとし、月ごとにできるようになったことをおさらいして忘れないようにする、
それでこそ学問を好む姿だといえる。多くのことを広く学んでなおのこと学問を篤く志し、込み入った所まで問いたずねて
身近な所にまで考察を働かせる、そういった所に仁徳もまたあるのである。(万能感は仁徳に反するのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・五‐六より)
念仏信仰で観想される金銀財宝だらけの極楽浄土だとか、
それ以上にも卑猥な描写のあるイスラムの天国描写だとかを、
聖書信者こそが「低俗なもの」として撥ね付けている。その聖書信者が
希求の対象としている天国はといえば、たとえばダンテの「神曲」天国篇などで
一応描写されてはいるものの、いたって抽象的で淡白な描写ばかりに限られていて、
聖書信者にこそ特有の天国観というものを如実化しているなどとはとうてい言いがたい。
実際の所、聖書信者には、自分たち特有の天国観というものはない。
せいぜい「飲み食いに困るようなこともない」という程度の想像があるだけで、
それは現実社会における仁政などによってもそれなりに実現が可能なものである。
「永遠の命を手に入れる」といったところで、永遠の命と共にどのような天国での
生活が待っているかなどを具体的に示しているわけでもない。永遠の命があった所で、
それで地獄の責め苦に苛まれ続けるのなら、かえって死んだほうがマシというものだろうに、
「永遠の命が手に入る」というだけの所で望みが天井打ちになってしまっているのである。
どのような天国を希求しているかの具体的な構想もないからこそ、聖書信者は
自分たちのほうが異教の昇天往生信者よりも高尚であるなどと思い込んでいたりする。
それはただ、望むべき世界の構想すらをも怠っているという究極級の精神的怠慢が
そうしているだけのことであるにもかかわらず、それをして、自分たちこそは
より高尚な昇天の希求者であるなどと転倒夢想しているのである。
そもそも、現世での最善の精進を怠って、来世での救済などを欲したりすること自体が
下劣なことだから、その欲求の充足先としての天国や浄土が下劣だったりしたとしてもむべ
なることである。浄土教やイスラム教の往生先の描写はそのあたりにかけても適当でいるから、
そのおかげで信者たちが自分たちの身の程をわきまえられていたりもするのである。
それ以上にも卑猥な描写のあるイスラムの天国描写だとかを、
聖書信者こそが「低俗なもの」として撥ね付けている。その聖書信者が
希求の対象としている天国はといえば、たとえばダンテの「神曲」天国篇などで
一応描写されてはいるものの、いたって抽象的で淡白な描写ばかりに限られていて、
聖書信者にこそ特有の天国観というものを如実化しているなどとはとうてい言いがたい。
実際の所、聖書信者には、自分たち特有の天国観というものはない。
せいぜい「飲み食いに困るようなこともない」という程度の想像があるだけで、
それは現実社会における仁政などによってもそれなりに実現が可能なものである。
「永遠の命を手に入れる」といったところで、永遠の命と共にどのような天国での
生活が待っているかなどを具体的に示しているわけでもない。永遠の命があった所で、
それで地獄の責め苦に苛まれ続けるのなら、かえって死んだほうがマシというものだろうに、
「永遠の命が手に入る」というだけの所で望みが天井打ちになってしまっているのである。
どのような天国を希求しているかの具体的な構想もないからこそ、聖書信者は
自分たちのほうが異教の昇天往生信者よりも高尚であるなどと思い込んでいたりする。
それはただ、望むべき世界の構想すらをも怠っているという究極級の精神的怠慢が
そうしているだけのことであるにもかかわらず、それをして、自分たちこそは
より高尚な昇天の希求者であるなどと転倒夢想しているのである。
そもそも、現世での最善の精進を怠って、来世での救済などを欲したりすること自体が
下劣なことだから、その欲求の充足先としての天国や浄土が下劣だったりしたとしてもむべ
なることである。浄土教やイスラム教の往生先の描写はそのあたりにかけても適当でいるから、
そのおかげで信者たちが自分たちの身の程をわきまえられていたりもするのである。

いるものだから、信者が自分たちの下劣な身の程をわきまえることもできない。
それでいて、身の程をわきまえることもない来世教信者としての活動を無制限に推進して
行ったものだから、現世としてのこの世界を自分たちで破滅に陥れることともなったのである。
抽象化にも、善い面と悪い面がある。善巧方便になる抽象化と悪巧方便になる抽象化との両方
があり、聖書信仰における天国や(自分たちでそうだと定義する)上知の抽象化は、明らかに
悪巧方便としての抽象化の部類に入る。単なる新たな金儲けの指南を○○経済学などとして
抽象化したりするのと同じで、本質的な下劣さから目を逸らすための気休めでしかない。
日本人は、自分たちが本音と建前を使い分けていることを自覚しているが、西洋の聖書信者は、
自分たちの本性の所の下劣さを本当に見失った上で、自らを高尚な人物ぶっていたりする。
だから、まずは、自分たちもまた二面性を使い分けて来た演技者であったに過ぎないという
ことを聖書信者に自覚させてから、問題である部分を直させて行くようにもせねばならない。
「(陽貨)曰く、其の宝を懐きて其の邦を迷わすは、仁と謂う可きか。(子)曰く、不可なり」
「陽貨『いったい、天下の至宝ともいうべき知恵を持ちながら、自らのいる国を混迷のままに
しておくのが仁であるなどと言えるでしょうか』 孔先生『いいえ』(陽貨が孔子に仕官を
囃し立てる問答。孔子は陽貨を嫌っていたが、財宝の如き知恵を国のために用いるべきだと
いう陽貨の意見自体には同意している。知恵を財宝以上のものとして象牙の塔に仕舞い
込んだりしてしまうのでは、陽貨ほどの堅実さすらをも損なうこととなってしまう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・一より)
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾

と共に、「我あり、故に神あり」というという論説を主張してもいる。結果的に言えば、
この両方ともの論説が、人々の心神喪失や精神分裂を促す妄説であったのであり、なおかつ
「我あり、故に神あり」という論説の典拠は、犯罪聖書におけるイエスの物言いにまで
その起源を遡ることができるわけだから、近代以降もずっと聖書信仰を基調として来た
西洋の歴史というのは、まさに精神障害を深刻化させ続ける歴史だったのだといえる。
「我思う、故に我あり」は、現象把握を構築する人間の思考を自我そのものであるとし、
「我あり、故に神あり」は、思考が自律的であることの根拠を神の実在に頼ろうとしている。
そこでは、現象操作を超越した所にある真我の実在性が完全に見落とされていて、そのような
意味での真我が不在であるにことかけての超越神の定立というすり替えが企てられているわけで、
人々の自律的な言行の自己責任性を喪失させようとする不埒さまでもが垣間見られるのである。
そういった誤りを一切排した心理哲学が、インドでは3000年以上前からウパニシャッド哲学や
仏教哲学として構築されて来ているわけだが、西洋哲学こそは哲学の本流みたいな扱われ方をされ
続けているものだから、未だに日本などではインド哲学が肩身の狭い思いをさせられ続けてもいる。
現象的な思考全般を否定しての真我や無我の把捉が、現象上の体系構築を好むヘーゲルなどの
西洋哲学者にも忌み嫌われて、なおかつショーペンハウアーのような亜流の西洋哲学者ばかりに
好まれたりもしたものだから、そのせいでインド哲学全般が亜流の哲学扱いをされるようにも
なってしまった。それこそ、本当は西洋哲学全般が異端の亜流哲学として扱われ、インド哲学や
中国思想こそは正統の思想哲学として扱われるべきなのであり、そのような習慣が定着することを
通じて初めて、人々もまた深く植え付けられた心の病から脱却して行けるようになるのである。
近世までは、聖書信者たちだけが邪教の狂信を通じて患っていた心の病が、近代以降は、
聖書信仰の毒性が西洋哲学の仮面を被って広められたことを通じて、非聖書圏を含む
世界中の人間が同様の病を患うようになってしまった。キリスト教などはほとんど信仰対象
として退けている日本人なども、西洋哲学への警戒までは十分に行き届いておらず、
「難解でとっつきがたいけれども、近代文明の精神的支柱となってきたありがたい教え」
程度のパブリックイメージは持ち越したままでいてしまっている。「近代文明が物質構築の面で
あまりにも盛大だったものだから、西洋哲学もまた高尚な精神性を帯びているに違いない」
などと、まともに哲学書を読むこともなく勝手に思い込んでいたりするわけだが、とんでもない、
西洋哲学こそは人々の精神薄弱を学術的に深刻化させる元凶でこそあったのであり、精神薄弱による
渇望を物質的構築によって紛らわせさせようとする原動力にこそなって来たに過ぎないのである。
西洋主導の近代文明の物質的構築の過剰さこそは、いま致命的な環境破壊を世界にもたらしていて、
これが人口爆発にも匹敵する世界の破滅の要因ともなっている。だからといって、ただ物質的
構築を取りやめにしたのでは、それによってこそ精神薄弱からなる渇望を紛らわしていた人々が
極度の鬱屈にかられてのゾンビ状態などとも化してしまいかねない。だから、物質的構築の
抑制と共なる、人々の精神薄弱の治療もまた必要となって行く。そのためには、あらゆる
哲学の中でも心身の壮健化に貢献するインド哲学のごとき哲学を尊び、精神の薄弱化を助長する
西洋哲学などの哲学の有害性をも認めて行くようにしなければならない。なんとなくでも、
権威があるかのようなつもりでいたりすることから是正して行くようにするのでなければ、
潜在意識からの洗脳を払拭して行く上でには不足であるのだと戒めて行くようにすべきだ。
聖書信仰の毒性が西洋哲学の仮面を被って広められたことを通じて、非聖書圏を含む
世界中の人間が同様の病を患うようになってしまった。キリスト教などはほとんど信仰対象
として退けている日本人なども、西洋哲学への警戒までは十分に行き届いておらず、
「難解でとっつきがたいけれども、近代文明の精神的支柱となってきたありがたい教え」
程度のパブリックイメージは持ち越したままでいてしまっている。「近代文明が物質構築の面で
あまりにも盛大だったものだから、西洋哲学もまた高尚な精神性を帯びているに違いない」
などと、まともに哲学書を読むこともなく勝手に思い込んでいたりするわけだが、とんでもない、
西洋哲学こそは人々の精神薄弱を学術的に深刻化させる元凶でこそあったのであり、精神薄弱による
渇望を物質的構築によって紛らわせさせようとする原動力にこそなって来たに過ぎないのである。
西洋主導の近代文明の物質的構築の過剰さこそは、いま致命的な環境破壊を世界にもたらしていて、
これが人口爆発にも匹敵する世界の破滅の要因ともなっている。だからといって、ただ物質的
構築を取りやめにしたのでは、それによってこそ精神薄弱からなる渇望を紛らわしていた人々が
極度の鬱屈にかられてのゾンビ状態などとも化してしまいかねない。だから、物質的構築の
抑制と共なる、人々の精神薄弱の治療もまた必要となって行く。そのためには、あらゆる
哲学の中でも心身の壮健化に貢献するインド哲学のごとき哲学を尊び、精神の薄弱化を助長する
西洋哲学などの哲学の有害性をも認めて行くようにしなければならない。なんとなくでも、
権威があるかのようなつもりでいたりすることから是正して行くようにするのでなければ、
潜在意識からの洗脳を払拭して行く上でには不足であるのだと戒めて行くようにすべきだ。
「子、子産を謂う。『君子の道四つ有り。其の己れを行うや恭、
其の上に事うるや敬、其の民を養うや恵、其の民を使うや義』(既出)」
「先生が鄭の名宰相の子産を評された。『彼は君子として四つの道を立てられた。己れの行いは常に恭しく、
目上の相手に仕える場合は敬意を尽くし、民を養うことにかけては恵み深く、民を使役することも必ず義に適わせた』
(自分でものを行うにしろ、主君からの命でことを為すにしろ、恭敬の限りを尽くすわけだから、
いずれにしろ道義に適うこととなるわけで、絶対にどちらでならないなどということはないのである。
自分自身もできた上で、さらに上に仕えもするのが、君子の道というものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一六)
「人の技有るは冒疾して之れを悪み、人の彦聖なるは、之れに違いて達せざらしむ。
是れ容るること能わず。以って我が子孫黎民を保つこと能わず、亦た殆ういと曰わんかな」
「他者に技能があるようなら嫉妬してこれを憎み、他者が賢聖であるようなら、自分とはまた
別のものとして捨て置く。そんな態度姿勢では自らの子孫や領民を保つこともできないほどに危い」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・秦誓より)
其の上に事うるや敬、其の民を養うや恵、其の民を使うや義』(既出)」
「先生が鄭の名宰相の子産を評された。『彼は君子として四つの道を立てられた。己れの行いは常に恭しく、
目上の相手に仕える場合は敬意を尽くし、民を養うことにかけては恵み深く、民を使役することも必ず義に適わせた』
(自分でものを行うにしろ、主君からの命でことを為すにしろ、恭敬の限りを尽くすわけだから、
いずれにしろ道義に適うこととなるわけで、絶対にどちらでならないなどということはないのである。
自分自身もできた上で、さらに上に仕えもするのが、君子の道というものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一六)
「人の技有るは冒疾して之れを悪み、人の彦聖なるは、之れに違いて達せざらしむ。
是れ容るること能わず。以って我が子孫黎民を保つこと能わず、亦た殆ういと曰わんかな」
「他者に技能があるようなら嫉妬してこれを憎み、他者が賢聖であるようなら、自分とはまた
別のものとして捨て置く。そんな態度姿勢では自らの子孫や領民を保つこともできないほどに危い」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・秦誓より)

自覚症状がある場合もない場合もあるにしろ、そこでこそ人は心を病んでいる。
「神を信じてすらいれば罪を犯しても許されるし、死んでも天国に逝ける」
などという思い込みは、全く事実に反しているものだから、人々の心を病ましめる
原因となってしまう一方、「自らが犯した罪は、自らが罰を受けねば償われない」
「人はみないつかは死に、二度と蘇ることもない」といった考えは実情に合致して
いるものだから、そのような考えを恒常化させていられるほど心が壮健ともなる。
しかし、未だ未熟な精神力しか持ち合わせていないような人間からすれば、
実情からかけ離れてまでの無制限な自由を欲するような心持ちこそは魅力的に
思える一方で、現実ありのままに過不足なく合致しようとするような心持ちは、
さして魅力的にも思えなかったりする。前者は限りなく天空を舞い上がるような
心持ちとでもいえる一方で、後者は地べたに張り付いたままでいさせられるような
心持ちであるものだから、十分に思い上がりを抑えられているわけでもない未熟な
精神構造の持ち主からすれば、後者よりも前者のほうが魅力的に思えるのである。
より高く、上空へと舞い上がろうとする心持ちばかりでいたものだから、
聖書圏の欧米人こそは飛行機を発明したし、食品に成長材を混ぜてまで
自分たちの身長を高くしようともした。しかし、そのような心持ちでばかりいた
結果として、自分たちの住まう世の中というものを蔑ろにし、誰しもが過剰な
富を貪ろうとし続けたせいでの経済破綻などを招くことともなってしまった。
日本の伝統的武道などは、腰をしっかりと落として剣技を繰り出したり柔術の技を
かけたりするものがほとんどであるし、石高制に基づく江戸時代の社会統治なども、
一人頭の食い扶持から厳しく管理して行くものだったから、日本人全体の体格を戦国
時代など以上にも矮小化させる原因となってしまった。しかし、それほどにも低い所、
低い所ばかりへとへばり付いていようとする心持ちこそは、日本人に世界でも最高級に磐石
な経済感覚を植え付けさせ、以って安定した世の中を築き上げられるようにもしたのだった。
ただ経済感覚がより磐石となるから、舞い上がるような心持ちよりも、しっかりと地に足を
付けた心持ちでいるべきだというのなら、永年聖書信仰を通じて舞い上がるような心持ち
ばかりに慣れ続けて来た欧米人などは、禁治産者となって世の中を放り出してでも、今の
ような心持ちのままでいたいとすら思うかもしれない。ただそれだけの理由ではなく、
しっかりと地に足を付けた堅実な心持ちでいればこそ、より心神が壮健で快い
心持ちでもいられるという理由があればこそ、旧聖書圏の人間にすら、
地に足を付けた心持ちへの成長を促していけるものだといえる。
そのあたりの心理法則を主導的に考え抜いて来たのは、主にインド人であり、
ドイツ人やイギリス人とも同じアーリア系のコーカソイド(ただし有色)である。
実際にヨガなどの体術でも、しっかりと腰を落とす動きなどが重んじられているし、
元はいえば、日本でもそのようなヨガの行法が密教などを通じてもたらされたものだから、
それらをヒントにして武術が発達して来たのでもあ。故に、しっかりと地に足を付ける
考え方というものを尊んだからといって、それが極東のモンゴロイドばかりを至上化すること
にはならないと考えていいのであり、日本人ばかりに引け目を抱く必要もないのだといえる。
日本や中国と違って、ろくに国家規模での近代経済への参入にも取り組まなかったものだから、
経済状態もブラックアフリカ並みのままでいるインドこそは、これからの世界における
人間のあり方の指針というものを、膨大な分量にわたって用意して来てくれてもいる。
だからこそ、これからはインドのような国こそを尊んでいくようにもしなければ
ならない。そのあたり、世界というものもまたよくできているものだといえる。
付けた心持ちでいるべきだというのなら、永年聖書信仰を通じて舞い上がるような心持ち
ばかりに慣れ続けて来た欧米人などは、禁治産者となって世の中を放り出してでも、今の
ような心持ちのままでいたいとすら思うかもしれない。ただそれだけの理由ではなく、
しっかりと地に足を付けた堅実な心持ちでいればこそ、より心神が壮健で快い
心持ちでもいられるという理由があればこそ、旧聖書圏の人間にすら、
地に足を付けた心持ちへの成長を促していけるものだといえる。
そのあたりの心理法則を主導的に考え抜いて来たのは、主にインド人であり、
ドイツ人やイギリス人とも同じアーリア系のコーカソイド(ただし有色)である。
実際にヨガなどの体術でも、しっかりと腰を落とす動きなどが重んじられているし、
元はいえば、日本でもそのようなヨガの行法が密教などを通じてもたらされたものだから、
それらをヒントにして武術が発達して来たのでもあ。故に、しっかりと地に足を付ける
考え方というものを尊んだからといって、それが極東のモンゴロイドばかりを至上化すること
にはならないと考えていいのであり、日本人ばかりに引け目を抱く必要もないのだといえる。
日本や中国と違って、ろくに国家規模での近代経済への参入にも取り組まなかったものだから、
経済状態もブラックアフリカ並みのままでいるインドこそは、これからの世界における
人間のあり方の指針というものを、膨大な分量にわたって用意して来てくれてもいる。
だからこそ、これからはインドのような国こそを尊んでいくようにもしなければ
ならない。そのあたり、世界というものもまたよくできているものだといえる。
「聖人は百世の師なり。伯夷・柳下恵是れなり。故に伯夷の風を聞く者は、頑夫は廉に、
懦夫も志しを立つる有り。柳下恵の風を聞く者は、薄夫は敦に、鄙夫は寛たる。百世の上に
奮いて、百世の下に聞く者も興起せざる莫きなり。聖人に非ずして能く是くの若くならんか」
「聖人は百世の後にいたるまで人々の師であり続ける。伯夷や柳下恵こそはその代表例である。
伯夷の伝説を聞かされた者は、貪欲なら清廉に、臆病者も志しを立てるようになる。柳下恵の
伝説を聞いた者は、薄情であるなら敦厚に、狭量であっても寛容となる。百世の太古に活躍
しながら、百世の後に到るまで、その伝説を聞く者の身に起こることの模範とならぬことがない。
どうして聖人でなければそのようであり得ようか。(キリストの業など誰の身にも起こらぬ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・一五より)
懦夫も志しを立つる有り。柳下恵の風を聞く者は、薄夫は敦に、鄙夫は寛たる。百世の上に
奮いて、百世の下に聞く者も興起せざる莫きなり。聖人に非ずして能く是くの若くならんか」
「聖人は百世の後にいたるまで人々の師であり続ける。伯夷や柳下恵こそはその代表例である。
伯夷の伝説を聞かされた者は、貪欲なら清廉に、臆病者も志しを立てるようになる。柳下恵の
伝説を聞いた者は、薄情であるなら敦厚に、狭量であっても寛容となる。百世の太古に活躍
しながら、百世の後に到るまで、その伝説を聞く者の身に起こることの模範とならぬことがない。
どうして聖人でなければそのようであり得ようか。(キリストの業など誰の身にも起こらぬ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・一五より)
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
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働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
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働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
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働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
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働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
骨も傷んだり折れたりした後の治癒の過程で骨密度をより高めるし、
筋肉も激しい運動による筋繊維の断裂を通じてこそ強靭化されて行く。
人の心や、人としての器もまた、過剰に傷めつけられるほどもの
試練を通じてこそより一層の成長を果たすことができるものであり、
それは時に、致命的な程もの試練に基づく場合すらもがある。
密教や禅の修行なども、昔は命の保障すらないようなものが実際に多かった。
今は欧米発の人権主義によってそのような修行も自粛されてしまっているけれども、
それ程もの荒行によってこそ得られる功徳というものもまたあるのであり、しかも
それこそは他の何物にも変えがたいような自在性を帯びていたりもするのである。
もちろん、全ての荒行が必ず着実な成果に結び付くなどということもなく、
ただ被験者の心身を害して損なわせるだけでしかないようなものも多々ある。
昔、聖道門の仏門などで致死級の荒行を多々こなしていた経歴を持つ日本人が、その
志向性だけは持ち越したままで、近代的な手法に即した荒行を行ったりすることがある。
一部のスポーツだとか、スポーツ化してしまった武道だとか、ブラック企業での従業員の
酷使だとかにそのような傾向が顕著であり、結局、耐え難い労苦の割りに大した成果も
挙げられていないようなものがほとんどである。(そのせいで日本人の精神論的傾向が
非難されたりもするが、それは精神論に対する冤罪のふっかけだといえる)
何らの成果にも繋がらない、単なる荒行の強制は、それこそ「いじめ」に極まる。
いじめっ子もいじめられっ子に対して、試練を課すような体裁で諸々の苦行を強いる
ような場合が多いが、それでいてあえて何の成果にも繋がらないような範囲での
苦しみの強要ばかりにも終始する。相手に苦しみを味わわせることで、しょうもない
存在としての自らの相対的な充足を味わうことばかりが目的であるのだから、苦行の
せいでいじめられっ子が成長してしまうようなことも逆にあってはならないわけである。
筋肉も激しい運動による筋繊維の断裂を通じてこそ強靭化されて行く。
人の心や、人としての器もまた、過剰に傷めつけられるほどもの
試練を通じてこそより一層の成長を果たすことができるものであり、
それは時に、致命的な程もの試練に基づく場合すらもがある。
密教や禅の修行なども、昔は命の保障すらないようなものが実際に多かった。
今は欧米発の人権主義によってそのような修行も自粛されてしまっているけれども、
それ程もの荒行によってこそ得られる功徳というものもまたあるのであり、しかも
それこそは他の何物にも変えがたいような自在性を帯びていたりもするのである。
もちろん、全ての荒行が必ず着実な成果に結び付くなどということもなく、
ただ被験者の心身を害して損なわせるだけでしかないようなものも多々ある。
昔、聖道門の仏門などで致死級の荒行を多々こなしていた経歴を持つ日本人が、その
志向性だけは持ち越したままで、近代的な手法に即した荒行を行ったりすることがある。
一部のスポーツだとか、スポーツ化してしまった武道だとか、ブラック企業での従業員の
酷使だとかにそのような傾向が顕著であり、結局、耐え難い労苦の割りに大した成果も
挙げられていないようなものがほとんどである。(そのせいで日本人の精神論的傾向が
非難されたりもするが、それは精神論に対する冤罪のふっかけだといえる)
何らの成果にも繋がらない、単なる荒行の強制は、それこそ「いじめ」に極まる。
いじめっ子もいじめられっ子に対して、試練を課すような体裁で諸々の苦行を強いる
ような場合が多いが、それでいてあえて何の成果にも繋がらないような範囲での
苦しみの強要ばかりにも終始する。相手に苦しみを味わわせることで、しょうもない
存在としての自らの相対的な充足を味わうことばかりが目的であるのだから、苦行の
せいでいじめられっ子が成長してしまうようなことも逆にあってはならないわけである。
自他に対して致死級の試練すらをも課すことでの着実な成長を企図していた本来の
日本人のあり方は、決して否定されるべきようなものではなかった。試練を課される側も
納得ずくの上での荒行であったわけだから、人権主義によって非難されるような余地もない。
しかし、致死級の荒行などをあえて廃絶して行くことを目的として来た西洋文明が
国内に流入して後にまで、似たような性向を持ち越してしまった日本人は、それこそ
時代を経るに連れて腐敗して行き、最終的にはいじめ問題などにまで帰着してしまった。
日本人は別に、陰湿だから自他への致死級の荒行などを求めるようになったのではない。
本来は、密教的な体系などに基づく着実な成果を挙げられたからこそ、そのような試みにも
及んでいたのであり、それは、密教を積極的な規制対象とした中国人など以上にも向上心が
旺盛だったからでこそある。ただ、その傾向を西洋文化文明の実践にまで適用しようと
してしまったものだから、その場違いさが祟って陰湿なものとも化してしまったのだ。
西洋文化文明は、それこそ一定以上の試練などを徹底して排することを前提としたものである。
東洋文化文明はそうではなく、一人一人の人間の限界すら超えた所にあるような境地こそを
伝統的に希求して来たものである。その手順も入念に造りこまれているものだから、
ニーチェのような生兵法に頼って発狂してしまうようなこともなくて済んだりする。
もちろん100%確実に成道できるという保証もないが、少なくとも、多少以上は甚大な
成果を期待できるものなのだから、それはそれで全くの別物として取り扱うべきなのである。
近代文明に適用された稚拙な荒行志向などと混同することなく、致死級の荒行を通じて
着実に得られるものの価値というものを、改めて捉えなおして行くべきだといえる。
日本人のあり方は、決して否定されるべきようなものではなかった。試練を課される側も
納得ずくの上での荒行であったわけだから、人権主義によって非難されるような余地もない。
しかし、致死級の荒行などをあえて廃絶して行くことを目的として来た西洋文明が
国内に流入して後にまで、似たような性向を持ち越してしまった日本人は、それこそ
時代を経るに連れて腐敗して行き、最終的にはいじめ問題などにまで帰着してしまった。
日本人は別に、陰湿だから自他への致死級の荒行などを求めるようになったのではない。
本来は、密教的な体系などに基づく着実な成果を挙げられたからこそ、そのような試みにも
及んでいたのであり、それは、密教を積極的な規制対象とした中国人など以上にも向上心が
旺盛だったからでこそある。ただ、その傾向を西洋文化文明の実践にまで適用しようと
してしまったものだから、その場違いさが祟って陰湿なものとも化してしまったのだ。
西洋文化文明は、それこそ一定以上の試練などを徹底して排することを前提としたものである。
東洋文化文明はそうではなく、一人一人の人間の限界すら超えた所にあるような境地こそを
伝統的に希求して来たものである。その手順も入念に造りこまれているものだから、
ニーチェのような生兵法に頼って発狂してしまうようなこともなくて済んだりする。
もちろん100%確実に成道できるという保証もないが、少なくとも、多少以上は甚大な
成果を期待できるものなのだから、それはそれで全くの別物として取り扱うべきなのである。
近代文明に適用された稚拙な荒行志向などと混同することなく、致死級の荒行を通じて
着実に得られるものの価値というものを、改めて捉えなおして行くべきだといえる。
「若し子の群吏、処りては汚を辟けず、出でては難を逃れずんば、其れ何の患いか之れ
有らん。患いの生ずる所は、汚に而て治めず、難に而て守らず、由って来たる所なり」
「もしもあなたの部下が、内にいては労苦を避けず、外に出でては難を逃れないという姿勢で
いたならば、どうして憂いとすべきような問題が巻き起こったりするだろうか。問題の生ずる
所には必ず、苦難があるからといって逃れてろくに守り治めようともしない者がいるものだ。
(合理的な社会性に即して、自分一身の限界を超えた苦難にも対峙して行くことの価値を説く)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公元年より)
有らん。患いの生ずる所は、汚に而て治めず、難に而て守らず、由って来たる所なり」
「もしもあなたの部下が、内にいては労苦を避けず、外に出でては難を逃れないという姿勢で
いたならば、どうして憂いとすべきような問題が巻き起こったりするだろうか。問題の生ずる
所には必ず、苦難があるからといって逃れてろくに守り治めようともしない者がいるものだ。
(合理的な社会性に即して、自分一身の限界を超えた苦難にも対峙して行くことの価値を説く)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公元年より)
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
075 bluesky (2013/05/21(火) 22:29:48 :8q2Hem6KJ2)
言葉たっ言葉達が踊る俺の議論を、みんなに見せたいね。
076 名無しさん (2013/05/21(火) 22:32:54 :5nBx8S/NEs)
>>75って躁状態だねwww
077 MHOR (2013/05/21(火) 22:43:56 :mNQAGhK5xY)
>>76
いい観察力だね ( ^-^)_旦
075 bluesky (2013/05/21(火) 22:29:48 :8q2Hem6KJ2)
言葉たっ言葉達が踊る俺の議論を、みんなに見せたいね。
076 名無しさん (2013/05/21(火) 22:32:54 :5nBx8S/NEs)
>>75って躁状態だねwww
077 MHOR (2013/05/21(火) 22:43:56 :mNQAGhK5xY)
>>76
いい観察力だね ( ^-^)_旦
075 bluesky (2013/05/21(火) 22:29:48 :8q2Hem6KJ2)
言葉たっ言葉達が踊る俺の議論を、みんなに見せたいね。
076 名無しさん (2013/05/21(火) 22:32:54 :5nBx8S/NEs)
>>75って躁状態だねwww
077 MHOR (2013/05/21(火) 22:43:56 :mNQAGhK5xY)
>>76
いい観察力だね ( ^-^)_旦
言葉たっ言葉達が踊る俺の議論を、みんなに見せたいね。
076 名無しさん (2013/05/21(火) 22:32:54 :5nBx8S/NEs)
>>75って躁状態だねwww
077 MHOR (2013/05/21(火) 22:43:56 :mNQAGhK5xY)
>>76
いい観察力だね ( ^-^)_旦
075 bluesky (2013/05/21(火) 22:29:48 :8q2Hem6KJ2)
言葉たっ言葉達が踊る俺の議論を、みんなに見せたいね。
076 名無しさん (2013/05/21(火) 22:32:54 :5nBx8S/NEs)
>>75って躁状態だねwww
077 MHOR (2013/05/21(火) 22:43:56 :mNQAGhK5xY)
>>76
いい観察力だね ( ^-^)_旦
075 bluesky (2013/05/21(火) 22:29:48 :8q2Hem6KJ2)
言葉たっ言葉達が踊る俺の議論を、みんなに見せたいね。
076 名無しさん (2013/05/21(火) 22:32:54 :5nBx8S/NEs)
>>75って躁状態だねwww
077 MHOR (2013/05/21(火) 22:43:56 :mNQAGhK5xY)
>>76
いい観察力だね ( ^-^)_旦

吐くことによって身体内部の邪気を吐き出すものとされている。
だから、神道における形代の慣習などにおいても、形代となる紙で
身体の悪い部分をさすって、さらに形代に息を吐きかけることで
自らの邪気を全て形代に託して自らを祓い清めるようにしているのである。
呼吸は吸うよりも吐くことのほうが大事ともされる。それは、
「息を吐ききりすらすれば自然と吸うこともできるから」とかいった風に理由を
説明されることが多いが、「しっかりと身中の邪気を吐き出してからでなければ
清浄な生気を取り込むことができないから」といったほうがより厳密な説明に
なるといえる。吸う以上にもしっかりと吐くことを大事にした深呼吸でこそ、
人は清浄な生気と共にあることができるとされ、もしもその道を究めたならば、
合気道開祖の植芝盛平氏のように、大気の遍在するこの世界と一体化して、
人間が発砲する殺気すらをも感知して銃弾をかわせるようにすらなるのだという。
(ただし、全く殺気を発さない銃の名手が相手だったりするとこの限りでもない)
人間の吐く息には邪気がこもっているから、正式の場でろうそくの火を
息で吹き消したりすることも法度とされる。神道なら手で煽って火を消すし、
仏門でも専用の火消しを用いる。要するに、人間が吐く息を実用したり
するのは、そこに邪気がこもっているからこそ概ね失礼とされるのであり、
呼吸は深いほうがいいにしたって、人前では息をする姿などをあまり
あからさまにしたりしないほうが礼に適うこととなるのである。
「斉を摂して堂に升るに、鞠躬如たり、気を屏めて息せざる者に似たり」
「(孔先生は)着物のすそをあげて堂上に昇られる時には、非常に
畏れ慎んで、気を控え、まるで息をしていないかのような姿で居られた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・四より)
元より、浅い呼吸こそはハアハアと犬のようにあからさまなものとなる一方、
深い呼吸は物静かになされるものであるわけだから、人前で息をする姿をあまり
あからさまにしたりしないためにこそ、深い呼吸が推奨されもするのである。
呼吸法の鍛錬こそは、自らが天地に遍満する生気と一体と化すことでの
仁徳の素養の手っ取り早い会得にも繋がる。一方で、浅い呼吸は自らがこの世界
からの孤立感を募らせる原因ともなってしまうわけで、それが引いては、世の中を
害してまでの我田引水の貪りの原動力とすら化してしまったりもするわけである。
呼吸の巧拙如何は、儒家よりもむしろ道家や武道に属する問題であり、
別に道家が儒家の味方となるような論陣ばかりを敷いているわけでもないけれども、
結局の所、道術の基本中の基本とされる呼吸法の鍛錬もまた、仁徳の修養と
狭隘な邪心の抑制に一役買うものとなるには違いないのである。
深い呼吸を、なるべく鼻でする。口は声を発するための気道に限る。口で息を
吸うことは、口中の乾燥や、喉の気道が塞がるせいで呼吸が浅くなるなどの
自分にとって害となる問題を来たすし、口で息を吐くことも、近くにいる相手に
自分の息を吹きかけて失礼になるなどの、他者にとって害となる問題となる。
自他にとっての害となることを避けるために、息を吸うことも吐くことも
なるべく鼻で行うようにするのが適切であるといえる。
今回はあまり儒家らしい社会的な話にはならなかったけれども、社会で立ち回る
人間としていかにあるべきかという意味でも、呼吸の問題は本質的な重要さを
帯びているものであり、決して内的な問題だからといって侮るべきでもない。今の
世の中で、深い呼吸と共に仕事を為せている人間など皆無であるからこそ、世の中も
ろくでもない状態と化してしまっていたりするのだから、推して計るべきだといえる。
深い呼吸は物静かになされるものであるわけだから、人前で息をする姿をあまり
あからさまにしたりしないためにこそ、深い呼吸が推奨されもするのである。
呼吸法の鍛錬こそは、自らが天地に遍満する生気と一体と化すことでの
仁徳の素養の手っ取り早い会得にも繋がる。一方で、浅い呼吸は自らがこの世界
からの孤立感を募らせる原因ともなってしまうわけで、それが引いては、世の中を
害してまでの我田引水の貪りの原動力とすら化してしまったりもするわけである。
呼吸の巧拙如何は、儒家よりもむしろ道家や武道に属する問題であり、
別に道家が儒家の味方となるような論陣ばかりを敷いているわけでもないけれども、
結局の所、道術の基本中の基本とされる呼吸法の鍛錬もまた、仁徳の修養と
狭隘な邪心の抑制に一役買うものとなるには違いないのである。
深い呼吸を、なるべく鼻でする。口は声を発するための気道に限る。口で息を
吸うことは、口中の乾燥や、喉の気道が塞がるせいで呼吸が浅くなるなどの
自分にとって害となる問題を来たすし、口で息を吐くことも、近くにいる相手に
自分の息を吹きかけて失礼になるなどの、他者にとって害となる問題となる。
自他にとっての害となることを避けるために、息を吸うことも吐くことも
なるべく鼻で行うようにするのが適切であるといえる。
今回はあまり儒家らしい社会的な話にはならなかったけれども、社会で立ち回る
人間としていかにあるべきかという意味でも、呼吸の問題は本質的な重要さを
帯びているものであり、決して内的な問題だからといって侮るべきでもない。今の
世の中で、深い呼吸と共に仕事を為せている人間など皆無であるからこそ、世の中も
ろくでもない状態と化してしまっていたりするのだから、推して計るべきだといえる。
他者の利益を巻き上げることによってこそ自分が豊かになる、
韓非のいう「利害反する有り」という法則にも即した我田引水稼業で
自らが生き延びる状態を正当化するためにこそ、絶対的な超越神
というものへの信仰が権威化されたりもしたのだった。
それは、ただ我田引水を推進して行くだけなら良心の呵責を抱いてしまうからこその、
紛らわしの手段であったわけだが、架空の超越神への狂信が盤石化してからは、
むしろ我田引水こそを「善行」などと思い込むようにすらなり始めた。そこにこそ、
善因楽果のよきカルマがあるなどとすら考えるようになってしまったわけで、
超越神は、癌細胞のごとき悪性人種の量産の元凶にこそなってしまったのだった。
超越神を想定するような形而上の問題というのは、孔子は遠ざけて、釈迦も無記答とした。
そこに益がないと認めたからこそそうしたわけだが、当然、自分たちで超越神を
我田引水を正当化する権威に仕立てるような実験にまでは及ばなかったわけだから、
そこにこそ大害があるということの指摘にまでは及ばなかったわけである。
結局、今までのところ、形而上的な概念志向、特にそこに絶対的な超越神を規定したり
することの致命的な有害さを指摘した権威ある教学というのは存在しないわけである。
儒学や仏教が不埒な形而上論を排する最たる教学であるわけだけれども、自分たちで
形而上論を決定的な悪玉に指定するような所にまでは及んでいないわけで、
人類滅亡級の害悪をもたらす存在としての形而上的超越神の認知などは、
まさに今これからにこそ最重要となって行く課題であるのだといえる。
韓非のいう「利害反する有り」という法則にも即した我田引水稼業で
自らが生き延びる状態を正当化するためにこそ、絶対的な超越神
というものへの信仰が権威化されたりもしたのだった。
それは、ただ我田引水を推進して行くだけなら良心の呵責を抱いてしまうからこその、
紛らわしの手段であったわけだが、架空の超越神への狂信が盤石化してからは、
むしろ我田引水こそを「善行」などと思い込むようにすらなり始めた。そこにこそ、
善因楽果のよきカルマがあるなどとすら考えるようになってしまったわけで、
超越神は、癌細胞のごとき悪性人種の量産の元凶にこそなってしまったのだった。
超越神を想定するような形而上の問題というのは、孔子は遠ざけて、釈迦も無記答とした。
そこに益がないと認めたからこそそうしたわけだが、当然、自分たちで超越神を
我田引水を正当化する権威に仕立てるような実験にまでは及ばなかったわけだから、
そこにこそ大害があるということの指摘にまでは及ばなかったわけである。
結局、今までのところ、形而上的な概念志向、特にそこに絶対的な超越神を規定したり
することの致命的な有害さを指摘した権威ある教学というのは存在しないわけである。
儒学や仏教が不埒な形而上論を排する最たる教学であるわけだけれども、自分たちで
形而上論を決定的な悪玉に指定するような所にまでは及んでいないわけで、
人類滅亡級の害悪をもたらす存在としての形而上的超越神の認知などは、
まさに今これからにこそ最重要となって行く課題であるのだといえる。
形而上的な概念論での超越神志向が大害無益な代物であるということは、
まずは聖書信者こそが固く認知していかねばならないことでもあるに違いない。
儒学や仏教の信奉者は、始めからそんなものを寄せ付けないし、神道やヒンズー教や
イスラム教もまた、この世界この宇宙に合致する汎神こそを尊んでいるわけだから、
形而上的超越神を信じ込んだりしたせいでの害悪に見舞われる主体たり得ないわけだ。
そのような立場から形而上論を糾弾したりするよりは、自分たちこそが形而上論ばかりに
耽溺したせいで自業自得の自滅に見舞われるような人間こそが「二度と同じ過ちを犯したり
はしません」という思いを込めての糾弾に務めて行くほうが切実なこととなるわけである。
形而上論に消極的な部類の教学の信奉者といえども、自分たちから超越神の狂信者を
糾弾したりするよりは、狂信者たち自身が自主的に形而上的超越神の有害無益さに懲りる
ことを尊重するようにすべきだといえる。それこそ、仮想敵への罪責の押し付けによって、
なんとか自分たち自身の過ちから目を逸らし続けていようとしているのが聖書信者で
あったりもするわけだから、好敵手として立ち回るようなことから自粛すべきである。
もはや、害悪の元凶は自分たちの内にしかないのだということを思い知らせてやるためにも、
少なくとも聖書信者たちの自滅の瞬間までは、糾弾主体となったりすることを避けるべきである。
イスラム武装勢力なども、かえって聖書信仰の存続に一役買ってしまっているものと知るべきだ。
「天は烝民を生めるも、其の命に韑匪ずんば、初め有らざる靡くも、克く終わり有る鮮なし」
「たとえ天に生み落とされた民といえども、その命が誠と共にあるのでなければ、
初めのうちはうまくいったとしても、最終的にはろくでもない結果を招くことだろう。
(重要なのはただ命を得ることではなく、そこに誠実さが伴っていることである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・蕩より)
まずは聖書信者こそが固く認知していかねばならないことでもあるに違いない。
儒学や仏教の信奉者は、始めからそんなものを寄せ付けないし、神道やヒンズー教や
イスラム教もまた、この世界この宇宙に合致する汎神こそを尊んでいるわけだから、
形而上的超越神を信じ込んだりしたせいでの害悪に見舞われる主体たり得ないわけだ。
そのような立場から形而上論を糾弾したりするよりは、自分たちこそが形而上論ばかりに
耽溺したせいで自業自得の自滅に見舞われるような人間こそが「二度と同じ過ちを犯したり
はしません」という思いを込めての糾弾に務めて行くほうが切実なこととなるわけである。
形而上論に消極的な部類の教学の信奉者といえども、自分たちから超越神の狂信者を
糾弾したりするよりは、狂信者たち自身が自主的に形而上的超越神の有害無益さに懲りる
ことを尊重するようにすべきだといえる。それこそ、仮想敵への罪責の押し付けによって、
なんとか自分たち自身の過ちから目を逸らし続けていようとしているのが聖書信者で
あったりもするわけだから、好敵手として立ち回るようなことから自粛すべきである。
もはや、害悪の元凶は自分たちの内にしかないのだということを思い知らせてやるためにも、
少なくとも聖書信者たちの自滅の瞬間までは、糾弾主体となったりすることを避けるべきである。
イスラム武装勢力なども、かえって聖書信仰の存続に一役買ってしまっているものと知るべきだ。
「天は烝民を生めるも、其の命に韑匪ずんば、初め有らざる靡くも、克く終わり有る鮮なし」
「たとえ天に生み落とされた民といえども、その命が誠と共にあるのでなければ、
初めのうちはうまくいったとしても、最終的にはろくでもない結果を招くことだろう。
(重要なのはただ命を得ることではなく、そこに誠実さが伴っていることである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・蕩より)
あくまで儒学の勉強や仏教の尊重が第一、
聖書信仰の糾弾は第二第三のものとしている。
自分の言行によって聖書信仰を潰えさせることなどを企図しているわけでもない。
だからあえて場末の過疎状態な匿名掲示板での意見発表に止めているのでもある。
聖書信仰の糾弾は第二第三のものとしている。
自分の言行によって聖書信仰を潰えさせることなどを企図しているわけでもない。
だからあえて場末の過疎状態な匿名掲示板での意見発表に止めているのでもある。
実際のところ、キリストへの信仰などによって罪が償われたりすることは一切ない。
償われたなどと思い込んで平気で拡大して来た罪過は少しも目減りすることなく蓄積
して行っている。それでいて、仏法の諸法因果などの教理が完璧な真実だから、聖書信者
たちの甚大な罪障が「人類滅亡の危機」という極大級の悪因苦果となっていま眼前に迫り
来たってもいる。故に、聖書信仰ぐらいは速やかにこの地球上から根絶して、因果応報を
重んずる仏教的な考え方に即した堅実な立ち回りへと全人類が転換して行く必要がある。
これら全て、単なる事実である。
少しも批判的な私見などを差し挟んでいるわけではない、単なる事実関係の提示。ムスリム
のように自分たちの言行の正当性を絶対神への帰依に集約させているわけでもない、少し
調べれば誰でも「そうでしかない」と察せられる程度の、ありのままの現実の提示に過ぎぬ。
単なる事実関係をありのままに提示すれば、それが聖書信者への糾弾であるかのように
見受けられてしまうのは、それ程にも、事実としての聖書信者の振る舞いが、どうしようも
ないほどに残酷な悪逆非道ばかりで塗り固められて来ているからに他ならないだろうが。
ただ、そのような事実関係から目を背けている限りにおいて、聖書信者が未だにこの世
での市民権を得られたままでいるというだけのこと。現状、聖書信仰を外的な糾弾の対象と
することは早急に過ぎるにしたって、単なる事実関係を堅実にわきまえて行くぐらいのことは
今すぐにでも始めて行かねばならないこと。それは結局、聖書信者たちにとっての地獄そのもの
な現実との対峙ともなって行くわけで、誰に糾弾されるでもなく、自然とそうなって行くのである。
だからこそ、誰かが感情的、恣意的に聖書信者を糾弾して行く必要などは少しもないのである。
ただ厳格な現実と対峙して行くだけでも、聖書信者たちはそこに確かな地獄を見るのだから、
せいぜい、人類が滅亡に陥らない程度に現実を直視させる程度のことだけで十分なのだ。
償われたなどと思い込んで平気で拡大して来た罪過は少しも目減りすることなく蓄積
して行っている。それでいて、仏法の諸法因果などの教理が完璧な真実だから、聖書信者
たちの甚大な罪障が「人類滅亡の危機」という極大級の悪因苦果となっていま眼前に迫り
来たってもいる。故に、聖書信仰ぐらいは速やかにこの地球上から根絶して、因果応報を
重んずる仏教的な考え方に即した堅実な立ち回りへと全人類が転換して行く必要がある。
これら全て、単なる事実である。
少しも批判的な私見などを差し挟んでいるわけではない、単なる事実関係の提示。ムスリム
のように自分たちの言行の正当性を絶対神への帰依に集約させているわけでもない、少し
調べれば誰でも「そうでしかない」と察せられる程度の、ありのままの現実の提示に過ぎぬ。
単なる事実関係をありのままに提示すれば、それが聖書信者への糾弾であるかのように
見受けられてしまうのは、それ程にも、事実としての聖書信者の振る舞いが、どうしようも
ないほどに残酷な悪逆非道ばかりで塗り固められて来ているからに他ならないだろうが。
ただ、そのような事実関係から目を背けている限りにおいて、聖書信者が未だにこの世
での市民権を得られたままでいるというだけのこと。現状、聖書信仰を外的な糾弾の対象と
することは早急に過ぎるにしたって、単なる事実関係を堅実にわきまえて行くぐらいのことは
今すぐにでも始めて行かねばならないこと。それは結局、聖書信者たちにとっての地獄そのもの
な現実との対峙ともなって行くわけで、誰に糾弾されるでもなく、自然とそうなって行くのである。
だからこそ、誰かが感情的、恣意的に聖書信者を糾弾して行く必要などは少しもないのである。
ただ厳格な現実と対峙して行くだけでも、聖書信者たちはそこに確かな地獄を見るのだから、
せいぜい、人類が滅亡に陥らない程度に現実を直視させる程度のことだけで十分なのだ。
聖書信者のような、度し難い悪逆非道を現実に積み重ねて来た連中にとっては、現実を直視
させられることすなわち自分たちへの糾弾などとすら思い込まれかねないわけだが、両者は本来
全くの別物なのであり、現実との厳重な対峙と共にこそ悦びを得ることもまたあり得るのである。
現実を敵に回してしまっているが故に、現実の直視こそは地獄であるなどということからして
極々特殊な事象であるのだから、それをして自分たちへの糾弾だなどと思い違うべきでもない。
もちろん、聖書信者ばかりが現実を直視しろというのでもない。この地球上に住まうあらゆる
人々が、いま目前に迫っている本物の危機と真摯に向き合って、どのような対策を講じて行く
べきであるのかを本気で考えて行かなければならない。それは結局、俺が今ここで論じている
ような内容に集約されることともなるわけだけれども、ただ「現実を直視する」という点に
ついては、本当はもっと多くの人間が総出を挙げて取り組んで行かねばならないのである。
それができないのは、未だに聖書信者たちが、人々の現実への直視から阻む工作を続けている
からで、公けの場でここに書いているようなことをこれ以上に標榜したりしたなら、最悪、
謀殺の憂き目にすら遭いかねない。だからやっぱり、現実との対峙が最悪の地獄となる
聖書信者たち自身がまずは、その地獄の門が開かれることを受け入れて行くしかないのである。
「随いて獲る有るは、其の義や凶なり」
「他力本願の随順者でいて多くを得ようとするようでは、義があるとした所で凶である。
(たとえば、大夫家老が諸侯大名を上回るような富貴さでいるようなことがあってもならない。
他力本願の人間に無制限な自由を与えようなどとすることこそは、邪義の典型である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・随・九四象伝より)
させられることすなわち自分たちへの糾弾などとすら思い込まれかねないわけだが、両者は本来
全くの別物なのであり、現実との厳重な対峙と共にこそ悦びを得ることもまたあり得るのである。
現実を敵に回してしまっているが故に、現実の直視こそは地獄であるなどということからして
極々特殊な事象であるのだから、それをして自分たちへの糾弾だなどと思い違うべきでもない。
もちろん、聖書信者ばかりが現実を直視しろというのでもない。この地球上に住まうあらゆる
人々が、いま目前に迫っている本物の危機と真摯に向き合って、どのような対策を講じて行く
べきであるのかを本気で考えて行かなければならない。それは結局、俺が今ここで論じている
ような内容に集約されることともなるわけだけれども、ただ「現実を直視する」という点に
ついては、本当はもっと多くの人間が総出を挙げて取り組んで行かねばならないのである。
それができないのは、未だに聖書信者たちが、人々の現実への直視から阻む工作を続けている
からで、公けの場でここに書いているようなことをこれ以上に標榜したりしたなら、最悪、
謀殺の憂き目にすら遭いかねない。だからやっぱり、現実との対峙が最悪の地獄となる
聖書信者たち自身がまずは、その地獄の門が開かれることを受け入れて行くしかないのである。
「随いて獲る有るは、其の義や凶なり」
「他力本願の随順者でいて多くを得ようとするようでは、義があるとした所で凶である。
(たとえば、大夫家老が諸侯大名を上回るような富貴さでいるようなことがあってもならない。
他力本願の人間に無制限な自由を与えようなどとすることこそは、邪義の典型である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・随・九四象伝より)
「義を以て事を制す。(既出)」
「義によって物事を制して行く。(これが『義』という言葉の最初期の出典。
初めから義は自力作善を推進して行く理念として提示されている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)
他力本願の無戒律信仰が「だからといって正義だ」なんてことは、
浄土門ですら是とすることではない。ただ、ろくに厳格な実践など
覚束ない愚昧の徒であるから他力本願の念仏にすがるまでであり、それが
正義であることを根拠にした自分たちの優遇などを追い求めたりするわけでもない。
イスラム教や拝火教も信仰主義ではあるが、同時に善思善言善行や勧善懲悪と
いった厳格な実践も伴う。本来、それが神格信仰の基本的なあり方だったのであり、
無戒律の信仰一辺倒こそを正義とするなんてのは、変則にも程があることなのである。
無戒律の信仰を正義にすらしてしまうなんてことこそは、信仰の悪用の最たるものでもある。
それこそ、正義に適わない活動を自由に正当化する根拠ともされてしまうわけで、
何も信仰しないでいる場合以上もの妄動を人々にけしかける元凶となってしまうのである。
もちろん、戒律主義の信仰が、あまりにも粗悪な実践に即するために、無信仰以下の
結果を招くということもある。ユダヤ信仰などがそれであり、その反動として無戒律の
信仰主義を正義とするキリスト信仰が生じてしまいもしたのだから、最悪であるのはその
キリスト信仰であるにしたって、それを生み出してしまった責任は戒律主義のユダヤ信仰にあるといえる。
「義によって物事を制して行く。(これが『義』という言葉の最初期の出典。
初めから義は自力作善を推進して行く理念として提示されている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)
他力本願の無戒律信仰が「だからといって正義だ」なんてことは、
浄土門ですら是とすることではない。ただ、ろくに厳格な実践など
覚束ない愚昧の徒であるから他力本願の念仏にすがるまでであり、それが
正義であることを根拠にした自分たちの優遇などを追い求めたりするわけでもない。
イスラム教や拝火教も信仰主義ではあるが、同時に善思善言善行や勧善懲悪と
いった厳格な実践も伴う。本来、それが神格信仰の基本的なあり方だったのであり、
無戒律の信仰一辺倒こそを正義とするなんてのは、変則にも程があることなのである。
無戒律の信仰を正義にすらしてしまうなんてことこそは、信仰の悪用の最たるものでもある。
それこそ、正義に適わない活動を自由に正当化する根拠ともされてしまうわけで、
何も信仰しないでいる場合以上もの妄動を人々にけしかける元凶となってしまうのである。
もちろん、戒律主義の信仰が、あまりにも粗悪な実践に即するために、無信仰以下の
結果を招くということもある。ユダヤ信仰などがそれであり、その反動として無戒律の
信仰主義を正義とするキリスト信仰が生じてしまいもしたのだから、最悪であるのはその
キリスト信仰であるにしたって、それを生み出してしまった責任は戒律主義のユダヤ信仰にあるといえる。
無戒律の信仰というのは、あらゆる思想信条の中でも最低のものであり、少しでも
上を目指すのならそんな所にばかり止まっているべきではない。ただ、どうしてもそこに
しか止まっていられないような事情があるというのなら、その身の程も知るべきである。
信仰にしかすがることができないような己が卑しさを認めつつ、神仏にもすがるのである。
そしたら、信仰によって思い上がりを募らせての妄動なんかに走らずに済むぶんだけ、
信仰義認によって暴れ回るような連中よりはマシな存在でいられる。恭敬によって篤実さを
養えたぶんだけ、完全無信仰のニヒリストなどよりも安静で無難な存在でいられたりもする。
そういうわけだから、無戒律の信仰が絶対にダメだなんてこともない。それすら人を律する
規範として善用することもできなくはないわけで、一概に根絶すべきだという所まではいかない。
ただ、それこそを正義だなどと思い込んで、人類を滅亡に陥れる程もの暴挙に及んだりする
ような連中が居たとするなら、そんな連中を増産してしまうような信仰義認に限って
規制の対象としていかねばならないという特殊事情中の特殊事情があるのみである。
「其の徳を恆にして貞し。婦人は吉、夫子は凶なり。
婦人は貞しければ吉とは、一に従いて終わればなり。夫子は義を制す。婦に従えば凶なり」
「貞順の徳を恒なるものとするのは、婦人ならば吉だが、一人前の男子にとっては凶である。
婦人が貞順でいてこそ吉となるのは、ただ一途に従い続けるままに終わるからである。
一人前の男ならばそれに止まらず、自らの行いを義によって制して行くべきであるから、
ただただ従順でいるだけの婦道などに従ったりすれば、かえって凶となる。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・恆・六五‐象伝より)
上を目指すのならそんな所にばかり止まっているべきではない。ただ、どうしてもそこに
しか止まっていられないような事情があるというのなら、その身の程も知るべきである。
信仰にしかすがることができないような己が卑しさを認めつつ、神仏にもすがるのである。
そしたら、信仰によって思い上がりを募らせての妄動なんかに走らずに済むぶんだけ、
信仰義認によって暴れ回るような連中よりはマシな存在でいられる。恭敬によって篤実さを
養えたぶんだけ、完全無信仰のニヒリストなどよりも安静で無難な存在でいられたりもする。
そういうわけだから、無戒律の信仰が絶対にダメだなんてこともない。それすら人を律する
規範として善用することもできなくはないわけで、一概に根絶すべきだという所まではいかない。
ただ、それこそを正義だなどと思い込んで、人類を滅亡に陥れる程もの暴挙に及んだりする
ような連中が居たとするなら、そんな連中を増産してしまうような信仰義認に限って
規制の対象としていかねばならないという特殊事情中の特殊事情があるのみである。
「其の徳を恆にして貞し。婦人は吉、夫子は凶なり。
婦人は貞しければ吉とは、一に従いて終わればなり。夫子は義を制す。婦に従えば凶なり」
「貞順の徳を恒なるものとするのは、婦人ならば吉だが、一人前の男子にとっては凶である。
婦人が貞順でいてこそ吉となるのは、ただ一途に従い続けるままに終わるからである。
一人前の男ならばそれに止まらず、自らの行いを義によって制して行くべきであるから、
ただただ従順でいるだけの婦道などに従ったりすれば、かえって凶となる。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・恆・六五‐象伝より)
人が罪を犯した上で、相応の償いもせずに免れられるようなことがその人間にとって
幸せであるなどということは、「罪」という言葉の定義からいってあり得ないことである。
「罪」とは、自他を破滅へと追い込むような粗悪な所業のことであると共に、
罪を犯したもの自身が多大なる良心の呵責を抱かされるような所業のことであるわけ
だから(本質的に両者は同等なのでもある)、外的な側面においても内的な側面においても、
罪を不当に免れることが本人にとっての幸せとなるようなことは原理的にないのである。
にもかかわらず、罪を不当に免れられて幸いとするような人間が少なからず現れるのは、内外
両面における罪悪の苦果を一時的に紛らわせられるような余地もまた、それなりにあるからである。
逃亡中の刑事犯などはまだ序の口で、法治主義社会における徒法の濫用で、本質的に罪(実罪)
であると認められるような悪行への糾弾をうやむやにしてしまったりする所でこそ、人はただ
罪を免れられるだけでなく、心の底から罪を帳消しにされたなような気分にすらなるのである。
そうなるともう、罪なんてのは免れられるように犯してなんぼといった事態となり、罪を犯すこと
が寸分たりともよりよい結果に繋がったりしないことなども完全に忘れ去られてしまうのである。
故に、個人犯罪や民間犯罪ではなく、集団規模の権力犯罪こそは、罪の何たるかすらも人々に
忘れ去らせてしまうほどもの致命的な毒性を帯びたものとなるのである。徒法を濫用しての
普遍的な善悪の分別の撹乱などは、一人や二人でできることではなく、公権力を乗っ取る程もの
集団規模の共謀があって初めて実現されることであり、それによる責任のたらい回しによってこそ、
個人で罪を犯す場合のような切迫さをも免れて行くわけである。個人の刑事犯が逃亡を続けて
行く場合などには、多大なるストレスが本人に課せられるのとは打って変わって、権力犯罪で罪を
うやむやにしているような人間は、もはや罪を犯し続けていなければ、逆に心の平穏を得られない
ような状態となってしまう。良心の呵責を抱ける程度の犯罪に及ぶのと、もはやそれすら不可能と
なるような大罪を犯すのとでは、かくなる程もの様相の相違が生じるわけだから、前者ばかりを
幸せであるなどということは、「罪」という言葉の定義からいってあり得ないことである。
「罪」とは、自他を破滅へと追い込むような粗悪な所業のことであると共に、
罪を犯したもの自身が多大なる良心の呵責を抱かされるような所業のことであるわけ
だから(本質的に両者は同等なのでもある)、外的な側面においても内的な側面においても、
罪を不当に免れることが本人にとっての幸せとなるようなことは原理的にないのである。
にもかかわらず、罪を不当に免れられて幸いとするような人間が少なからず現れるのは、内外
両面における罪悪の苦果を一時的に紛らわせられるような余地もまた、それなりにあるからである。
逃亡中の刑事犯などはまだ序の口で、法治主義社会における徒法の濫用で、本質的に罪(実罪)
であると認められるような悪行への糾弾をうやむやにしてしまったりする所でこそ、人はただ
罪を免れられるだけでなく、心の底から罪を帳消しにされたなような気分にすらなるのである。
そうなるともう、罪なんてのは免れられるように犯してなんぼといった事態となり、罪を犯すこと
が寸分たりともよりよい結果に繋がったりしないことなども完全に忘れ去られてしまうのである。
故に、個人犯罪や民間犯罪ではなく、集団規模の権力犯罪こそは、罪の何たるかすらも人々に
忘れ去らせてしまうほどもの致命的な毒性を帯びたものとなるのである。徒法を濫用しての
普遍的な善悪の分別の撹乱などは、一人や二人でできることではなく、公権力を乗っ取る程もの
集団規模の共謀があって初めて実現されることであり、それによる責任のたらい回しによってこそ、
個人で罪を犯す場合のような切迫さをも免れて行くわけである。個人の刑事犯が逃亡を続けて
行く場合などには、多大なるストレスが本人に課せられるのとは打って変わって、権力犯罪で罪を
うやむやにしているような人間は、もはや罪を犯し続けていなければ、逆に心の平穏を得られない
ような状態となってしまう。良心の呵責を抱ける程度の犯罪に及ぶのと、もはやそれすら不可能と
なるような大罪を犯すのとでは、かくなる程もの様相の相違が生じるわけだから、前者ばかりを
罪であるなどと思い込まされている人間は、たとえ自分自身が権力犯罪の共犯でなくたって、
権力犯罪が罪であることすらをも完全に認識できなくなってしまうのである。
権力犯罪と個人犯罪の序列分けは、それこそ、「史記」における膨大な分量の権力犯罪の描写と、
游侠列傳などにおける限られた民間犯罪の描写などが比較的、適切なものである。時の為政者や
その取り巻きが犯していたような重大権力犯罪こそを、民間人の犯罪などよりも大きく
詳細に書き立てた司馬遷の姿勢などが、罪悪一般に対する適切な扱いともなっている。
そのような姿勢は今の学者やメディアなどには全く見られることではなく、学者やメディア自体が
権力犯罪の一翼を担っているものだから、権力者の悪行を一定以上に問題視したりすることはない。
世界史や国内史を扱う限りにおいても「勝てば官軍、負ければ賊軍」などという粗悪な歴史観を
大前提に諸々の事件を取り扱い、権力犯罪によって政権を簒奪したような人間を問題視したりする
こともなく、むしろ自分たちの模範とすべき英雄扱いに遇したりすらする始末である。(そういう
人間は、結局のところ非業の最期を遂げていたりするので、本当に倣おうする気には普通ならない)
まず、権力犯罪もまた立派な罪悪であり、それこそ民間犯罪など以上にも凶悪なものであると
いうことを再認識する、その上で、権力犯罪こそを民間犯罪以上にも問題視して行くようにもする、
万人がそのような姿勢でいられたなら、権力犯罪が影を潜めることを通じて、世相の荒廃によって
巻き起こっていた民間犯罪までもが連動して消え去るようにもなる。権力犯罪という大火の火元
から目を逸らして、末節の民間犯罪ばかりを問題視するような転等から卒業して行くべきである。
「災いを幸いとするは不仁なり」
「(罪過のような)災いを(どのような理由であれ)幸いとするのは、不仁に他ならない。
(不仁を我が幸いとしてしまうような神経もまた、残念ながら人間にはある。
ただ、不仁であるからには自業自得の破滅から免れることもできないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公十四年より)
権力犯罪が罪であることすらをも完全に認識できなくなってしまうのである。
権力犯罪と個人犯罪の序列分けは、それこそ、「史記」における膨大な分量の権力犯罪の描写と、
游侠列傳などにおける限られた民間犯罪の描写などが比較的、適切なものである。時の為政者や
その取り巻きが犯していたような重大権力犯罪こそを、民間人の犯罪などよりも大きく
詳細に書き立てた司馬遷の姿勢などが、罪悪一般に対する適切な扱いともなっている。
そのような姿勢は今の学者やメディアなどには全く見られることではなく、学者やメディア自体が
権力犯罪の一翼を担っているものだから、権力者の悪行を一定以上に問題視したりすることはない。
世界史や国内史を扱う限りにおいても「勝てば官軍、負ければ賊軍」などという粗悪な歴史観を
大前提に諸々の事件を取り扱い、権力犯罪によって政権を簒奪したような人間を問題視したりする
こともなく、むしろ自分たちの模範とすべき英雄扱いに遇したりすらする始末である。(そういう
人間は、結局のところ非業の最期を遂げていたりするので、本当に倣おうする気には普通ならない)
まず、権力犯罪もまた立派な罪悪であり、それこそ民間犯罪など以上にも凶悪なものであると
いうことを再認識する、その上で、権力犯罪こそを民間犯罪以上にも問題視して行くようにもする、
万人がそのような姿勢でいられたなら、権力犯罪が影を潜めることを通じて、世相の荒廃によって
巻き起こっていた民間犯罪までもが連動して消え去るようにもなる。権力犯罪という大火の火元
から目を逸らして、末節の民間犯罪ばかりを問題視するような転等から卒業して行くべきである。
「災いを幸いとするは不仁なり」
「(罪過のような)災いを(どのような理由であれ)幸いとするのは、不仁に他ならない。
(不仁を我が幸いとしてしまうような神経もまた、残念ながら人間にはある。
ただ、不仁であるからには自業自得の破滅から免れることもできないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公十四年より)
五穀豊穣だとか、国家の安泰だとかいったまともな目的のために生け贄を捧げるということは、
別におかしなことでもない。封建時代の中国では、牛豚羊などの畜獣が上のような目的で用いられていたし、
今の日本でも、大きな真鯛などが同様な祭礼における極上の供物として用いられている。
それはそれで、人々の意識を正統な祭儀に集中させるための役割などを果たしてくれるわけだから、
全否定したりする必要もないわけだが、自分たちの罪業から目を背けるためなどの
不正な目的の供儀だったりするのであれば、決してこの限りでもない。
そして、それぞれの祭礼に適した相応な供物を用いるのも然るべきことである。
大きな祭には大きな真鯛、小さな祭には小さな連子鯛とかいった風な使い分けに務める。
肉食の禁忌のない地域であれば、牛あたりが最高の供物に用いられるが、それも駄目だなんてことはない。
どうにもよくないのは、人間自身を生け贄に用いることで、これは「春秋左氏伝」僖公十九年にすらすでに
その問題性が提示されていることである。人間のために行われる祭儀で、人間自身を生け贄に用いたり
するのは本末転倒であると。そのため、処刑された人間の肉を塩漬けにして食う習慣すらあった
当時の中国においてですら、儒者が人身御供の悪習の根絶などに務めていたのである。
罪業の隠蔽のためのような不正な目的のために供儀を催し、なおかつ人間でもあるとされる生き物を
生け贄に用いる、キリスト教は、この二つの過ちを同時に犯している邪教であるものだから、
たった一つの過ちを犯しているだけの部類の邪教などと比べて、より邪教として透徹してしまい、
以て、2000年にも渡る信仰が貫かれるほどもの堂に入ってしまったのである。
たとえば、同じ邪教である真言立川流などは、性奥義も一応は存在する正統な真言密教を
「一重」に曲解して、性奥義ばかりに専らでいたものだから、そのあからさまな邪教加減が
鼻つまみもの扱いされて、人々からの支持を得ることもできなかったのである。
キリスト教の場合はそうではなく、上記のような「二重」の過ちを犯しているものだから、
邪教と断定することが追い付かなくなり、以て膨大な信者を囲い込むことともなってしまったのである。
別におかしなことでもない。封建時代の中国では、牛豚羊などの畜獣が上のような目的で用いられていたし、
今の日本でも、大きな真鯛などが同様な祭礼における極上の供物として用いられている。
それはそれで、人々の意識を正統な祭儀に集中させるための役割などを果たしてくれるわけだから、
全否定したりする必要もないわけだが、自分たちの罪業から目を背けるためなどの
不正な目的の供儀だったりするのであれば、決してこの限りでもない。
そして、それぞれの祭礼に適した相応な供物を用いるのも然るべきことである。
大きな祭には大きな真鯛、小さな祭には小さな連子鯛とかいった風な使い分けに務める。
肉食の禁忌のない地域であれば、牛あたりが最高の供物に用いられるが、それも駄目だなんてことはない。
どうにもよくないのは、人間自身を生け贄に用いることで、これは「春秋左氏伝」僖公十九年にすらすでに
その問題性が提示されていることである。人間のために行われる祭儀で、人間自身を生け贄に用いたり
するのは本末転倒であると。そのため、処刑された人間の肉を塩漬けにして食う習慣すらあった
当時の中国においてですら、儒者が人身御供の悪習の根絶などに務めていたのである。
罪業の隠蔽のためのような不正な目的のために供儀を催し、なおかつ人間でもあるとされる生き物を
生け贄に用いる、キリスト教は、この二つの過ちを同時に犯している邪教であるものだから、
たった一つの過ちを犯しているだけの部類の邪教などと比べて、より邪教として透徹してしまい、
以て、2000年にも渡る信仰が貫かれるほどもの堂に入ってしまったのである。
たとえば、同じ邪教である真言立川流などは、性奥義も一応は存在する正統な真言密教を
「一重」に曲解して、性奥義ばかりに専らでいたものだから、そのあからさまな邪教加減が
鼻つまみもの扱いされて、人々からの支持を得ることもできなかったのである。
キリスト教の場合はそうではなく、上記のような「二重」の過ちを犯しているものだから、
邪教と断定することが追い付かなくなり、以て膨大な信者を囲い込むことともなってしまったのである。
ただ毒を食らうのではなく、毒食わば皿までですらある過ちだったからこそ、人々からも支持された、
それは、そんな暴挙によってでも気晴らしをしたいと願うほど、人々が多大なる鬱屈に駆られていたからでもある。
日没する西方に好んで居住してきた西洋人にこそその傾向が顕著だったし、中華帝国や大日本帝国の
属国として多大なるコンプレックスを抱かされ続けて来た韓国人などもまたそのような傾向が顕著だった。
だからこそ、そのような人々が特に鬱屈を晴らす目的でキリスト信仰に邁進し、誤った方法で鬱屈を
晴らそうとした結果、致命的な精神障害すら患うことともなってしまったのである。
これ以上邪教信仰などで鬱屈を晴らしている猶予などもない今、
一度は現キリスト教徒たちも、自分たちに内在する過度の鬱屈と向き合って行かねばならない。
その上で、不正な手段に依ることなく、着実に鬱屈を克服して行くようにしなければならない。
その方法の一つには、FEMAのような強制措置に甘んじて行くこともまたあるが、
そんなのは、邪教信仰に駆られての妄動を強制的に押さえ付けるだけのことでしかない。
邪教信仰に即した自分たちのあり方が強制終了させられた上で、その先いかにあるべきか、
それを自分から選び取って行ける者こそは、内在する鬱屈を克服して行ける者でもある。
端的には、仏法上の悟りを得たりすることで、その鬱屈を本当に克服して行くことができる。
別に、刑死して蘇るような無理があるわけでもない、この世で実際に実現が可能な範囲の
手段であり、精神障害や害為を帯びてしまうような副作用が伴ったりすることもない。
ただ、その悟りを得るためにこそ、一度は自分たちが鬱屈とも対峙して行く必要があるのであり、
故に、不正に鬱屈を晴らす手段であるキリスト信仰などと共に相容れることもないのである。
まだ般若心経の真言「羯帝羯帝波羅羯帝波羅僧羯帝(往け、往け、往きて彼岸に到達せよ)」
のように、悟りへの邁進を促せる段階にあるわけでもないが、決してその先に真っ暗闇
などがあるわけではないということぐらいは、今ここでも確約できるものだ。
それは、そんな暴挙によってでも気晴らしをしたいと願うほど、人々が多大なる鬱屈に駆られていたからでもある。
日没する西方に好んで居住してきた西洋人にこそその傾向が顕著だったし、中華帝国や大日本帝国の
属国として多大なるコンプレックスを抱かされ続けて来た韓国人などもまたそのような傾向が顕著だった。
だからこそ、そのような人々が特に鬱屈を晴らす目的でキリスト信仰に邁進し、誤った方法で鬱屈を
晴らそうとした結果、致命的な精神障害すら患うことともなってしまったのである。
これ以上邪教信仰などで鬱屈を晴らしている猶予などもない今、
一度は現キリスト教徒たちも、自分たちに内在する過度の鬱屈と向き合って行かねばならない。
その上で、不正な手段に依ることなく、着実に鬱屈を克服して行くようにしなければならない。
その方法の一つには、FEMAのような強制措置に甘んじて行くこともまたあるが、
そんなのは、邪教信仰に駆られての妄動を強制的に押さえ付けるだけのことでしかない。
邪教信仰に即した自分たちのあり方が強制終了させられた上で、その先いかにあるべきか、
それを自分から選び取って行ける者こそは、内在する鬱屈を克服して行ける者でもある。
端的には、仏法上の悟りを得たりすることで、その鬱屈を本当に克服して行くことができる。
別に、刑死して蘇るような無理があるわけでもない、この世で実際に実現が可能な範囲の
手段であり、精神障害や害為を帯びてしまうような副作用が伴ったりすることもない。
ただ、その悟りを得るためにこそ、一度は自分たちが鬱屈とも対峙して行く必要があるのであり、
故に、不正に鬱屈を晴らす手段であるキリスト信仰などと共に相容れることもないのである。
まだ般若心経の真言「羯帝羯帝波羅羯帝波羅僧羯帝(往け、往け、往きて彼岸に到達せよ)」
のように、悟りへの邁進を促せる段階にあるわけでもないが、決してその先に真っ暗闇
などがあるわけではないということぐらいは、今ここでも確約できるものだ。
「頻りに復る、﨤うけれども咎无し。頻りに復りて之れ﨤うきは、義として咎无きなり」
「過ちを犯しては改めて元に返る。危ういことは危ういけれども、咎があるほどではない。
過ちを犯しては改めて元に戻ることを繰り返す危うさは、道義に即して咎ありとすべきではない。
(過ちを犯して改めもしないような所にこそ、真義に即した決定的な咎があるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・復・六三‐象伝より)
「過ちを犯しては改めて元に返る。危ういことは危ういけれども、咎があるほどではない。
過ちを犯しては改めて元に戻ることを繰り返す危うさは、道義に即して咎ありとすべきではない。
(過ちを犯して改めもしないような所にこそ、真義に即した決定的な咎があるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・復・六三‐象伝より)
そもそも、本物の善は愚人が容易に欲せられる様な所にすらない。
善であるとされている上で、愚人にも容易に欲することができるようなものが
あるとしたなら、それは偽善の皮を被った悪であるのが常であるという法則がある。
天下万人を利して我が利ともする、本物の善徳に則った徳行は、夏の禹王が
足萎えになるほどにも尽力した治水事業ほどもの労苦が付きまとう一方で、
だからといって我が手元に莫大な財産が転がり込んで来るようなこともない、
要するに「割に合わない」と思われるような要素が多く付きまとうものであり、
故に、目先の私益ばかりを欲したがる愚人が容易に欲せるようなこともないのである。
一方で、金融犯罪で100億ドルを巻き上げておきながら、100万ドルだけは
恵まれない人々に寄付するような偽善込みの悪行は、実際のところ有害無益な
罪業であることを本質としているわけだけれども、そうであっても自分が莫大な
財産を手に入れることができて、なおかつ小額の寄付という偽善によって気を
紛らわせられもするわけだから、愚人にとっては、それを善行であるなどと
思い込みつつ追い求めていきたがる対象にもなりやすいのである。
本物の善行は、最高でも行いに相応の成果を得られるのみであり、やもすれば、
相応の成果すら得られなかったりもするものである。一方で、悪行や偽善の行いは
相応の成果どころですらない、濡れ手に泡のごときあぶく銭をトントン拍子で
得られたりもするものであるから、私益の膨れ上がりが全てな愚人のみならず、
行いに相応の成果ぐらいは必ず要求するような四角四面とした人間ですら、
善行を志すことなく、偽善や悪行を志して行くということがあるのである。
資本主義社会における法官だとか警官だとかに、特にそのような人種は多い。
別に自分たちが商売人ほどにも利益ばかりにがっついているようなことはないの
だけれども、さりとて自分たちが積極的な善行に務めているわけでもない、ただ
報酬に見合った仕事だけをしていようとする。末端の警察官あたりはそれでもかなり
の仕事量になったりするわけだが、さりとて、自分たちから世の中をよりよくして
行こうとする程もの向上心が寸分たりともありはしないことには変わりないわけである。
善であるとされている上で、愚人にも容易に欲することができるようなものが
あるとしたなら、それは偽善の皮を被った悪であるのが常であるという法則がある。
天下万人を利して我が利ともする、本物の善徳に則った徳行は、夏の禹王が
足萎えになるほどにも尽力した治水事業ほどもの労苦が付きまとう一方で、
だからといって我が手元に莫大な財産が転がり込んで来るようなこともない、
要するに「割に合わない」と思われるような要素が多く付きまとうものであり、
故に、目先の私益ばかりを欲したがる愚人が容易に欲せるようなこともないのである。
一方で、金融犯罪で100億ドルを巻き上げておきながら、100万ドルだけは
恵まれない人々に寄付するような偽善込みの悪行は、実際のところ有害無益な
罪業であることを本質としているわけだけれども、そうであっても自分が莫大な
財産を手に入れることができて、なおかつ小額の寄付という偽善によって気を
紛らわせられもするわけだから、愚人にとっては、それを善行であるなどと
思い込みつつ追い求めていきたがる対象にもなりやすいのである。
本物の善行は、最高でも行いに相応の成果を得られるのみであり、やもすれば、
相応の成果すら得られなかったりもするものである。一方で、悪行や偽善の行いは
相応の成果どころですらない、濡れ手に泡のごときあぶく銭をトントン拍子で
得られたりもするものであるから、私益の膨れ上がりが全てな愚人のみならず、
行いに相応の成果ぐらいは必ず要求するような四角四面とした人間ですら、
善行を志すことなく、偽善や悪行を志して行くということがあるのである。
資本主義社会における法官だとか警官だとかに、特にそのような人種は多い。
別に自分たちが商売人ほどにも利益ばかりにがっついているようなことはないの
だけれども、さりとて自分たちが積極的な善行に務めているわけでもない、ただ
報酬に見合った仕事だけをしていようとする。末端の警察官あたりはそれでもかなり
の仕事量になったりするわけだが、さりとて、自分たちから世の中をよりよくして
行こうとする程もの向上心が寸分たりともありはしないことには変わりないわけである。
法務関係者が冷酷(酷吏)であるのというのは、徳治社会にしろ法治社会にしろ
多少なりともあり得ることである。報酬に見合った仕事しかしないでいようと
するほどもの打算加減こそが、実定法を切実に取り扱って行く姿勢にも繋がる
わけだから、法治社会ではむしろ法務官はそうであるほうが好ましいのである。
しかし、そうである時点で、本人たちが善を志すことももはやなくなるのであり、
悪逆非道まみれでいる商売人の女房役程度の役割しか果たせなくもなるのである。
目先の私益が全てな愚人はもちろんのこと、報酬に相応の行いしか果たそうと
しない酷吏止まりであっも、本物の善というものを欲することすらできはしない。
行いに相応の成果すら必ずしも期待することなく、積極的な善行に邁進して行ける
程もの仁徳や菩提心の持ち主だけが、本物の善を欲することができるのである。
ただ欲するためだけでも、それだけの心意気が必要であり、さらに善行を果たして
行くとなれば、そこには相応の権能が必要ともなって行くわけだから、本物の善行が
実現されて、なおかつ相応の成果が得られるなどということがいかに稀有なことで
あるのかまでもが容易に察せられるわけである。仁徳や菩提心によって旺盛に善行
を志して行く人間ぐらいは溢れ返るぐらいに居た上で、さらにその中から実際に
善行を実現して行くものが散発的に輩出されて行くぐらいのことがやっと期待できる
ことなわけだから、儒学や仏教の教育によって、仁徳や菩提心の持ち主を多く育んで
行くぐらいのことは予め成されていなければ、そうも行きはしないのである。仁徳も
菩提心も、目前のパン一切れほどの価値もないと思い込まれているのが常である時代に、
善因善果が少しでもあり得るなどと思うことがあるとすれば、それは夢想だといえる。
「耕穫せず、菑畭せずんば、則ち往く攸有るに利ろし。 耕穫せずとは、未だ富まんとせざるなり」
「耕したに相応の収穫すら期待せず、三年後にやっと収穫が期待できそうな新田での一年目
からの収穫を期待するようなこともない、そのような心がけでいれば、ことを為すに値する。
耕したに相応の収穫すら期待しないのは、自分に未だ富もうとする野望がないからである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・無妄・六二‐象伝より)
多少なりともあり得ることである。報酬に見合った仕事しかしないでいようと
するほどもの打算加減こそが、実定法を切実に取り扱って行く姿勢にも繋がる
わけだから、法治社会ではむしろ法務官はそうであるほうが好ましいのである。
しかし、そうである時点で、本人たちが善を志すことももはやなくなるのであり、
悪逆非道まみれでいる商売人の女房役程度の役割しか果たせなくもなるのである。
目先の私益が全てな愚人はもちろんのこと、報酬に相応の行いしか果たそうと
しない酷吏止まりであっも、本物の善というものを欲することすらできはしない。
行いに相応の成果すら必ずしも期待することなく、積極的な善行に邁進して行ける
程もの仁徳や菩提心の持ち主だけが、本物の善を欲することができるのである。
ただ欲するためだけでも、それだけの心意気が必要であり、さらに善行を果たして
行くとなれば、そこには相応の権能が必要ともなって行くわけだから、本物の善行が
実現されて、なおかつ相応の成果が得られるなどということがいかに稀有なことで
あるのかまでもが容易に察せられるわけである。仁徳や菩提心によって旺盛に善行
を志して行く人間ぐらいは溢れ返るぐらいに居た上で、さらにその中から実際に
善行を実現して行くものが散発的に輩出されて行くぐらいのことがやっと期待できる
ことなわけだから、儒学や仏教の教育によって、仁徳や菩提心の持ち主を多く育んで
行くぐらいのことは予め成されていなければ、そうも行きはしないのである。仁徳も
菩提心も、目前のパン一切れほどの価値もないと思い込まれているのが常である時代に、
善因善果が少しでもあり得るなどと思うことがあるとすれば、それは夢想だといえる。
「耕穫せず、菑畭せずんば、則ち往く攸有るに利ろし。 耕穫せずとは、未だ富まんとせざるなり」
「耕したに相応の収穫すら期待せず、三年後にやっと収穫が期待できそうな新田での一年目
からの収穫を期待するようなこともない、そのような心がけでいれば、ことを為すに値する。
耕したに相応の収穫すら期待しないのは、自分に未だ富もうとする野望がないからである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・無妄・六二‐象伝より)
できる限り無法状態でいようとする者と、徒法を頑なに守ろうとする者の両極に
世の中が分断されてしまうのが乱世というものであり、資本主義や法治主義、そして
「現象的な自由主義」が是とされてしまっているような世の中においてこそ、その傾向も顕著となる。
禅僧が正法の護持や厳しい修行と引き換えに手に入れるような精神的な自由とは真逆の、
とにかく行為能力面でのなんでもありなやりたい放題でいる現象的な自由、その自由の象徴が
磔刑で死んでも生き返って天に召されるとする架空の現人神であるとされるのも、むべなる
ことと言えなくもない。そんな生き物は実在しないにしたって、仮にあるとしたなら、
現象的自由の象徴と見なす上でこれほど相応しい代物も他にないといえる。
それでまあ、そのような邪神を信じるにしろ信じないにしろ、よくいえば現象的自由、
悪くいえば「放辟邪侈」という傾向を是とするような事態において、最低限の治安維持目的での
法治主義もまたその重要性を帯びて来る。放辟邪侈など始めからあるべきでないとするのが
仁義道徳であるわけだから、放辟邪侈の是認と同時に徳治主義はその立場を追われてしまう。
その後に、放辟邪侈を許容する範囲での治安維持システムとしての法治社会が敷かれるわけである。
始皇帝が儒者を穴埋めにして経書を焼き捨て、韓非らの学説を参考にした法治主義社会を
秦帝国全土で実現しようとしたのも、自らの放辟邪侈が際限なく実現された上で、なおのこと
最低限には世の中を保っていけるようにしようとしたからだった。漢や唐の諸帝などは、そもそも
自分たちばかりが虚栄を謳歌したりする気もなかったから、儒学を主体とした統治をも実現して
行けたわけで、どこかで誰かが際限のない栄華の貪りを続けて行きたがっているのでもなければ、
法治主義などという最低レベルの統治理念を絶対化したりする必要もどこにもありはしないのである。
世の中が分断されてしまうのが乱世というものであり、資本主義や法治主義、そして
「現象的な自由主義」が是とされてしまっているような世の中においてこそ、その傾向も顕著となる。
禅僧が正法の護持や厳しい修行と引き換えに手に入れるような精神的な自由とは真逆の、
とにかく行為能力面でのなんでもありなやりたい放題でいる現象的な自由、その自由の象徴が
磔刑で死んでも生き返って天に召されるとする架空の現人神であるとされるのも、むべなる
ことと言えなくもない。そんな生き物は実在しないにしたって、仮にあるとしたなら、
現象的自由の象徴と見なす上でこれほど相応しい代物も他にないといえる。
それでまあ、そのような邪神を信じるにしろ信じないにしろ、よくいえば現象的自由、
悪くいえば「放辟邪侈」という傾向を是とするような事態において、最低限の治安維持目的での
法治主義もまたその重要性を帯びて来る。放辟邪侈など始めからあるべきでないとするのが
仁義道徳であるわけだから、放辟邪侈の是認と同時に徳治主義はその立場を追われてしまう。
その後に、放辟邪侈を許容する範囲での治安維持システムとしての法治社会が敷かれるわけである。
始皇帝が儒者を穴埋めにして経書を焼き捨て、韓非らの学説を参考にした法治主義社会を
秦帝国全土で実現しようとしたのも、自らの放辟邪侈が際限なく実現された上で、なおのこと
最低限には世の中を保っていけるようにしようとしたからだった。漢や唐の諸帝などは、そもそも
自分たちばかりが虚栄を謳歌したりする気もなかったから、儒学を主体とした統治をも実現して
行けたわけで、どこかで誰かが際限のない栄華の貪りを続けて行きたがっているのでもなければ、
法治主義などという最低レベルの統治理念を絶対化したりする必要もどこにもありはしないのである。
(現象的な)自由の名の下での放辟邪侈の貪りと、実定法での最低限の締め付けという乱世の両輪を、
放辟邪侈の戒めと、精神的な自由の追求という両輪に取り替えていった時にこそ、治世もまた実現される。
ただ放辟邪侈を戒めるだけでは堅苦しく、徳治を心から楽しめるような君子もその数は限られている。
だからそこにすら止まることなく、正法を守っての精進に励む中でこそ手に入れられる心の底
からの自由というものを、国や世界を挙げて賛美して行けるようにもなればいいのである。
歴史を遡ってみるなら、江戸時代までの日本の歴史はまさにそのような、善良な両輪統治の牙城であった。
平安時代までは、徳治以上にも人々の精進による治世の実現が顕著であったし、鎌倉時代以降も、
武力の嵩にかかっての徳治への依存度が高まりはしたものの、それでもなお禅寺などでの精進修行が
活発であった。中には剣禅一如の高尚な理念を湛えた武術などまでもが考案されることもあったわけで、
徹底して、放辟邪侈と法治主義の両輪で治世が踏み潰されるようなことだけは避けられ続けていたのだった。
キリスト教も「韓非子」も、中世には日本に流入していたが、いずれも日本人の意志によってその
受容が拒まれた。幕末以降に外圧によって強制的にそれらに相当するものを取り入れられさせられたが、
そのせいで日本は、純粋な日本文化を発展させて行くことを完全に途絶させられることとなってしまった。
日本文化といえばすなわち伝統文化であり、今に生きるものとして扱われることはほとんどなくなった。
それはそれで潔いことであり、徳治と精進の両輪による統治が取り戻されるのでもない限りはもう、
日本文化が現代的なものとし取り戻されることもないのだということを、誰しもが思い直すべきだといえる。
旧態依然としているからではなく、法治や放辟邪侈なんざと日本文化が相容れるようなことがあり得ない
からこそ日本文化も停滞したままでいることしかできないだけなのだと考えるべきであり、今よりよりよい
世の中でこそ日本文化もまたその息を吹き返して行くのだと、誰しもがわきまえておくべきなのである。
放辟邪侈の戒めと、精神的な自由の追求という両輪に取り替えていった時にこそ、治世もまた実現される。
ただ放辟邪侈を戒めるだけでは堅苦しく、徳治を心から楽しめるような君子もその数は限られている。
だからそこにすら止まることなく、正法を守っての精進に励む中でこそ手に入れられる心の底
からの自由というものを、国や世界を挙げて賛美して行けるようにもなればいいのである。
歴史を遡ってみるなら、江戸時代までの日本の歴史はまさにそのような、善良な両輪統治の牙城であった。
平安時代までは、徳治以上にも人々の精進による治世の実現が顕著であったし、鎌倉時代以降も、
武力の嵩にかかっての徳治への依存度が高まりはしたものの、それでもなお禅寺などでの精進修行が
活発であった。中には剣禅一如の高尚な理念を湛えた武術などまでもが考案されることもあったわけで、
徹底して、放辟邪侈と法治主義の両輪で治世が踏み潰されるようなことだけは避けられ続けていたのだった。
キリスト教も「韓非子」も、中世には日本に流入していたが、いずれも日本人の意志によってその
受容が拒まれた。幕末以降に外圧によって強制的にそれらに相当するものを取り入れられさせられたが、
そのせいで日本は、純粋な日本文化を発展させて行くことを完全に途絶させられることとなってしまった。
日本文化といえばすなわち伝統文化であり、今に生きるものとして扱われることはほとんどなくなった。
それはそれで潔いことであり、徳治と精進の両輪による統治が取り戻されるのでもない限りはもう、
日本文化が現代的なものとし取り戻されることもないのだということを、誰しもが思い直すべきだといえる。
旧態依然としているからではなく、法治や放辟邪侈なんざと日本文化が相容れるようなことがあり得ない
からこそ日本文化も停滞したままでいることしかできないだけなのだと考えるべきであり、今よりよりよい
世の中でこそ日本文化もまたその息を吹き返して行くのだと、誰しもがわきまえておくべきなのである。
「鳥其の巣を焚かる。旅人先に笑いて後に號き咷ぶ。牛を易に喪う、凶なり。
旅を以って上に在り、其の義や焚かるるなり。牛を易に喪うは、終に之れを聞くこと莫きなり」
「渡り鳥がその巣を焼かれるようにして、よそ者風情で目上ぶっていた遠征者もまた、始めのうちは
せせら笑っていた所で、道義に即して、最終的には泣き叫ぶような事態に陥る。国境付近で牛のような
大切な財産を失うが、そのことに気づきもしないままに終わる。凶である。(旧約の律法からして西洋
に遠征して金科玉条化されたものだし、そのような遠征先で偉ぶる姿勢にあやかって、キリスト教徒
もまた植民地などでの偉ぶり放題でいたのである。その末路は以上の如くであると易は予言しているが、
いま日本株の暴騰で儲けていてる西洋の投資家が、タックスヘイブン地域への不正送金を摘発されて
通帳課税を被ったりしていることが、『国境付近で牛を失う』という予言とも一致しているといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・旅・上九-象伝より)
旅を以って上に在り、其の義や焚かるるなり。牛を易に喪うは、終に之れを聞くこと莫きなり」
「渡り鳥がその巣を焼かれるようにして、よそ者風情で目上ぶっていた遠征者もまた、始めのうちは
せせら笑っていた所で、道義に即して、最終的には泣き叫ぶような事態に陥る。国境付近で牛のような
大切な財産を失うが、そのことに気づきもしないままに終わる。凶である。(旧約の律法からして西洋
に遠征して金科玉条化されたものだし、そのような遠征先で偉ぶる姿勢にあやかって、キリスト教徒
もまた植民地などでの偉ぶり放題でいたのである。その末路は以上の如くであると易は予言しているが、
いま日本株の暴騰で儲けていてる西洋の投資家が、タックスヘイブン地域への不正送金を摘発されて
通帳課税を被ったりしていることが、『国境付近で牛を失う』という予言とも一致しているといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・旅・上九-象伝より)
「寵を啓きて侮りを納るること無かれ、過ちを恥じて非を作す無かれ」
「ろくでもないような人間にまで博愛を及ぼしておごり高ぶらせた挙げ句に
侮られるような辱めを受けてはならぬ。そのような過ちこそを恥じて予防
するように。(侮りや辱めの寛容など、それ自体が過ちでしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説命中より)
本物の人類史上最古の古典(聖典)である「易経」もまた、
天地否や火水未済のような粗悪な事態というものをあえて提示している。
5000年前の伏羲氏や神農氏による六十四卦の発見によって、
この世界この宇宙において発生し得る全ての現象の概括的な把捉は
完遂された。その内には残念ながら、小人が力を付けて君子を圧倒する
ような事態も含まれている。それはそれであり得ざるを得ないものだから、
一応は提示した上で、そこでの善処法もまた併記されることとなったのだ。
しかるに、生粋の小人は、易によってこの世界この宇宙の全ての現象法則が
把捉されているということを肯うこともなく、自分たちにとっては都合が
いいような粗悪な状況というものの呼び込みに執心し続ける。それは、
易が提示されたからといって企てられていることなどではない。生々流転の
易の法則を認めもしないでいるからこその愚行であるわけだから、万事万物を
把捉する中で粗悪な事態も併記するということが、愚人の妄動の深刻化に
与するなどということは決してないということまでもがいえるのである。
小人の妄動を深刻化させることに、合法的な立場から与している最大級の
存在は、それこそ「犯罪マニュアル」も同然な実定法あたりでこそある。
人々に罪を犯すヒントを与えるのみならず、絶対化された成文法によって、
この世界この宇宙に遍在する普遍法則を人々に見失わせることにすら
一役も二役も買っているのだから。(ここまでは既出の書き込み)
「ろくでもないような人間にまで博愛を及ぼしておごり高ぶらせた挙げ句に
侮られるような辱めを受けてはならぬ。そのような過ちこそを恥じて予防
するように。(侮りや辱めの寛容など、それ自体が過ちでしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説命中より)
本物の人類史上最古の古典(聖典)である「易経」もまた、
天地否や火水未済のような粗悪な事態というものをあえて提示している。
5000年前の伏羲氏や神農氏による六十四卦の発見によって、
この世界この宇宙において発生し得る全ての現象の概括的な把捉は
完遂された。その内には残念ながら、小人が力を付けて君子を圧倒する
ような事態も含まれている。それはそれであり得ざるを得ないものだから、
一応は提示した上で、そこでの善処法もまた併記されることとなったのだ。
しかるに、生粋の小人は、易によってこの世界この宇宙の全ての現象法則が
把捉されているということを肯うこともなく、自分たちにとっては都合が
いいような粗悪な状況というものの呼び込みに執心し続ける。それは、
易が提示されたからといって企てられていることなどではない。生々流転の
易の法則を認めもしないでいるからこその愚行であるわけだから、万事万物を
把捉する中で粗悪な事態も併記するということが、愚人の妄動の深刻化に
与するなどということは決してないということまでもがいえるのである。
小人の妄動を深刻化させることに、合法的な立場から与している最大級の
存在は、それこそ「犯罪マニュアル」も同然な実定法あたりでこそある。
人々に罪を犯すヒントを与えるのみならず、絶対化された成文法によって、
この世界この宇宙に遍在する普遍法則を人々に見失わせることにすら
一役も二役も買っているのだから。(ここまでは既出の書き込み)
易学は、より積極的な善行の指針となる一方、実定法は、悪逆非道の放辟邪侈
に対する最低限(とされる)の歯止めとなる。故にこそ、法治主義者などは、
実定法のほうがより切実な存在意義を帯びているなどと思い込むわけだが、
そもそも実定法の存在自体が人々の悪行の推進にまで与していることからは
一向に目を背けたままでいる。積極的な善行を為す主体とも悪行を為す主体とも
ならないのが法律であるが故に、法律家こそは中立的存在であるとするわけ
だけれども、実際のところ、絶対化された法律はただそれだけでも悪に味方する
ものであり、易経における「君子」ほどにも積極的に善を為して行くのでも
ない限りは、悪との結託を払拭できるようなことも決してありはしないのである。
積極的に君子たらんとするための活動が、時に言論活動であることもある。
春秋時代の乱世に、学論活動で名を成した孔子もまた、そのうちに当たる。
「君子は放逐され、小人は権力を得る」という天地否の卦辞にまさに的中する
乱世において、君子であるが故に権力者としての大成も覚束なかったものだから、
仕方なく学問によって身を興した(多少は権力者としての活動も行ったが)。
だからといって非難されるべき理由などはどこにもない。孟子のように、
完全な隠遁を決め込んだ伯夷以上にも孔子のあり方(学説ではなく)を
評価するものもいて、しかもその根拠も相応な理に適ったものとなっている。
悪逆非道が繰り返されている中での沈黙なぞは、それこそ従犯にすらなりかねない。
自らが従犯としての嫌疑を免れられるための正言ぐらいはむしろあるべきですらある。
その姿が無力であるが故に哀れであるなどと思われた所で、そこでこそ自らの
最善が尽くされているわけだから、上から目線の沈黙者など以上にも、
マシな将来というものが期待されることもあるのである。
に対する最低限(とされる)の歯止めとなる。故にこそ、法治主義者などは、
実定法のほうがより切実な存在意義を帯びているなどと思い込むわけだが、
そもそも実定法の存在自体が人々の悪行の推進にまで与していることからは
一向に目を背けたままでいる。積極的な善行を為す主体とも悪行を為す主体とも
ならないのが法律であるが故に、法律家こそは中立的存在であるとするわけ
だけれども、実際のところ、絶対化された法律はただそれだけでも悪に味方する
ものであり、易経における「君子」ほどにも積極的に善を為して行くのでも
ない限りは、悪との結託を払拭できるようなことも決してありはしないのである。
積極的に君子たらんとするための活動が、時に言論活動であることもある。
春秋時代の乱世に、学論活動で名を成した孔子もまた、そのうちに当たる。
「君子は放逐され、小人は権力を得る」という天地否の卦辞にまさに的中する
乱世において、君子であるが故に権力者としての大成も覚束なかったものだから、
仕方なく学問によって身を興した(多少は権力者としての活動も行ったが)。
だからといって非難されるべき理由などはどこにもない。孟子のように、
完全な隠遁を決め込んだ伯夷以上にも孔子のあり方(学説ではなく)を
評価するものもいて、しかもその根拠も相応な理に適ったものとなっている。
悪逆非道が繰り返されている中での沈黙なぞは、それこそ従犯にすらなりかねない。
自らが従犯としての嫌疑を免れられるための正言ぐらいはむしろあるべきですらある。
その姿が無力であるが故に哀れであるなどと思われた所で、そこでこそ自らの
最善が尽くされているわけだから、上から目線の沈黙者など以上にも、
マシな将来というものが期待されることもあるのである。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
それでまあ、今までの発言の通り、俺は皇族じゃない。
029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
それでまあ、今までの発言の通り、俺は皇族じゃない。
029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
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029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
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029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
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029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
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029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
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029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
それでまあ、今までの発言の通り、俺は皇族じゃない。
029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
それでまあ、今までの発言の通り、俺は皇族じゃない。
029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
それでまあ、今までの発言の通り、俺は皇族じゃない。
029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
それでまあ、今までの発言の通り、俺は皇族じゃない。
029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
それでまあ、今までの発言の通り、俺は皇族じゃない。
029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
それでまあ、今までの発言の通り、俺は皇族じゃない。
029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
それでまあ、今までの発言の通り、俺は皇族じゃない。
029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
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029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
それでまあ、今までの発言の通り、俺は皇族じゃない。
029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
それでまあ、今までの発言の通り、俺は皇族じゃない。

続けて来たものだから、洋学者も自らの知識をなるべく象牙の塔にしまい込んでいようとする。
数理科学上の計算式なども、本当はもっと分かりやすく表現できるようなものまで
わざと難しく表現することで、それを理解するもの同士での閉鎖的な派閥を形成したりする。
(全く同じ分野を取り扱っている数学の教科書が、高偏差値の大学向けと低偏差値の
大学向けで極端に記述方式の相違があり、そのせいで難易度にも大差が開けていたりする)
別に難解な記述を理解できる秀才同士でなくたって、本当は分かりやすく理解できるような
知識であったりするものだから、頭は良くなくても金持ちであるような相手に対してだけは
学識を分かりやすく説明して、研究費の支援を受けたりすることもある。そのような
談合のための集会が毎週水曜日にイギリスで開かれているとは清朝末帝自伝「わが半生」の
第三章・五でも記録されていて、そこでこそ、世界を自分たちの都合で身勝手にかき回し、
人類を滅亡の危機に陥れるほどもの破滅を招く我田引水の密談が行われているのでもある。
東洋でも、「秘すれば花」とされる類いの知識というものは存在する。密教や神道に
おける密儀だとか、武道や兵法における秘伝だとかがそれであり、これらは六道十界で
いう所の天道や修羅道に相当するものである。一方で、公けに啓発すればするほど好ましい
知識というものもまたあって、それこそはここで引用を続けてもいる、儒学上の学説
だったりする。これは完璧に人道を司っている知識であり、天下の泰平を表向きから画策
して行くためのものであるから、学者や有力者ばかりで寡占していればそれでいいなどと
いうこともない。寺子屋で坊主が百姓や町人の子供に到るまでの教化に務めてやるぐらい
であってこそ、その効能を如実かつ健全に発揮して行くものとなっているのである。
儒学は人道に相当する一方で、洋学は餓鬼道に相当する。知識の質の良悪とも関係なく、
ただただ節操もなく知識を貪って飢えを紛らわそうとすることを本旨とする。知識の良質化
を全く疎かにしているものだから、粗悪さをひた隠すために、誰にでも知識を分かりやすく
教えてやるようなこともしないし、また粗悪な知識でもあるからこそ、いくらそのような
知識を貪っても精神が充足して飢えが満たされるようなことがないままでいてしまうのである。
六道の三善道(天道、人道、修羅道)と三悪道(畜生道、餓鬼道、地獄道)を対照すれば、
天道は畜生道に、人道は餓鬼道に、修羅道は地獄道に相当する。天道が道を踏み外せば
畜生道に、人道が道を踏み外せば餓鬼道に、修羅道が道を踏み外せば地獄道に劣化するのであり、
人道の場合、知識のくそみそ化や寡占を通じることで餓鬼道へと劣化する。天道は、万物斉同
のコトワリを見失っての一方的な私利私益の貪りに及んでしまったら畜生道に劣化するし、
修羅道は、暴力行使者としての最低限の道義すら見失ってしまった時に地獄道へと劣化する。
人道はもっぱら公けにすべき知識の研鑽に終始するし、天道や修羅道も公開すべき知識と
秘密にしておくべき知識の折衷となっている。一方で、餓鬼道、畜生道、修羅道の三つは、
いずれも知識の寡占や秘匿ばかりを本旨としていて、万人に広く理解されるべき知識と
いうものを持たない。犯罪聖書の記述も「ただ信じろ」というばかりのものであり、
その意味を知って深く理解すべき知識扱いされているわけでもない。(そんな扱いを
受ければ、あまりにも粗悪な邪教であることが一瞬でばれてしまうことにもなる)
全ての知識を完全に公けに晒け出すべきだという所までは決して行かないが、
最低限これぐらいは天下万人に広く知らしめておくべきだという知識も少なからずある。
四書五経に代表される「人道の書」、儒書の知識などはまさにそれであり、知識の流布すなわち
愚行であるなどという物言いを失礼極まりないものと断定するに値する証拠となっている。
ただただ節操もなく知識を貪って飢えを紛らわそうとすることを本旨とする。知識の良質化
を全く疎かにしているものだから、粗悪さをひた隠すために、誰にでも知識を分かりやすく
教えてやるようなこともしないし、また粗悪な知識でもあるからこそ、いくらそのような
知識を貪っても精神が充足して飢えが満たされるようなことがないままでいてしまうのである。
六道の三善道(天道、人道、修羅道)と三悪道(畜生道、餓鬼道、地獄道)を対照すれば、
天道は畜生道に、人道は餓鬼道に、修羅道は地獄道に相当する。天道が道を踏み外せば
畜生道に、人道が道を踏み外せば餓鬼道に、修羅道が道を踏み外せば地獄道に劣化するのであり、
人道の場合、知識のくそみそ化や寡占を通じることで餓鬼道へと劣化する。天道は、万物斉同
のコトワリを見失っての一方的な私利私益の貪りに及んでしまったら畜生道に劣化するし、
修羅道は、暴力行使者としての最低限の道義すら見失ってしまった時に地獄道へと劣化する。
人道はもっぱら公けにすべき知識の研鑽に終始するし、天道や修羅道も公開すべき知識と
秘密にしておくべき知識の折衷となっている。一方で、餓鬼道、畜生道、修羅道の三つは、
いずれも知識の寡占や秘匿ばかりを本旨としていて、万人に広く理解されるべき知識と
いうものを持たない。犯罪聖書の記述も「ただ信じろ」というばかりのものであり、
その意味を知って深く理解すべき知識扱いされているわけでもない。(そんな扱いを
受ければ、あまりにも粗悪な邪教であることが一瞬でばれてしまうことにもなる)
全ての知識を完全に公けに晒け出すべきだという所までは決して行かないが、
最低限これぐらいは天下万人に広く知らしめておくべきだという知識も少なからずある。
四書五経に代表される「人道の書」、儒書の知識などはまさにそれであり、知識の流布すなわち
愚行であるなどという物言いを失礼極まりないものと断定するに値する証拠となっている。
儒学の知識以外でも、護身術的技法に特化している合気道の技術なども、
武術を取り扱っている割りには、万人への流布が推奨できるものとなっている。
本来の伝統武術はもっと殺人術としての秘伝的技法を多数持ち合わせているものであり、
それを抜きにしているのが合気道であるものだから、合気道だけを習ったからといって
常人が最強の武術家になれるようなこともまずあり得ないわけだけれども、それでも
護身術や健康法、そして身心の壮快な扱いを体得できる程度の価値は持ち合わせて
いるわけだから、万人にすら広めて行くことが奨められもするのである。
神道だって、神話上の難解な秘儀まで理解できなくとも、祖先への崇拝なども
兼ねつつ神社への参詣などを欠かさないでいれば、それだけでも好ましいことである。
人道の知識を公けにすべきなのはもちろんのこと、天道や修羅道にすら、万人へと
広く教え広めて行くに値するような要素が、少なからずあるのである。
「天地閉じれば、賢人隠る」
「天地が閉塞して万物の化育も滞っているようであれば、賢人も(その言葉どころか)
その身から隠してしまう。(賢人が隠し隠れるような事態からして劣悪なものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・文言伝より)
武術を取り扱っている割りには、万人への流布が推奨できるものとなっている。
本来の伝統武術はもっと殺人術としての秘伝的技法を多数持ち合わせているものであり、
それを抜きにしているのが合気道であるものだから、合気道だけを習ったからといって
常人が最強の武術家になれるようなこともまずあり得ないわけだけれども、それでも
護身術や健康法、そして身心の壮快な扱いを体得できる程度の価値は持ち合わせて
いるわけだから、万人にすら広めて行くことが奨められもするのである。
神道だって、神話上の難解な秘儀まで理解できなくとも、祖先への崇拝なども
兼ねつつ神社への参詣などを欠かさないでいれば、それだけでも好ましいことである。
人道の知識を公けにすべきなのはもちろんのこと、天道や修羅道にすら、万人へと
広く教え広めて行くに値するような要素が、少なからずあるのである。
「天地閉じれば、賢人隠る」
「天地が閉塞して万物の化育も滞っているようであれば、賢人も(その言葉どころか)
その身から隠してしまう。(賢人が隠し隠れるような事態からして劣悪なものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・文言伝より)
焚書の歴史からして、残ってるのが必ずしもありがたいわけではないと思う。
始皇帝に焼き捨てられた経書の内に、
よりよい内容のものがあったりしたかも知れないわな。
日本の神道文化も、春秋戦国時代に廃絶を免れるために中国から避難して来た
礼楽文化がその多くを占めていて、そこでこそ、夫婦別姓や夫婦別室を原則とする
今の儒家教学に基づく場合以上にも磐石な夫唱婦随を実現できる秘訣が承け伝えられてもいるのだから。
ただ、それこそ乱世での保全なども覚束ない繊細極まる秘儀だったわけでな。
なかなか大っぴらに触れ回れもしないような文化から、
古代の中国でも廃れて行ったはずで、そういう経緯もある以上は、
四書五経あたりが究極の顕教的儒家教学でもあったのだろうと推察できるわけだ。
よりよい内容のものがあったりしたかも知れないわな。
日本の神道文化も、春秋戦国時代に廃絶を免れるために中国から避難して来た
礼楽文化がその多くを占めていて、そこでこそ、夫婦別姓や夫婦別室を原則とする
今の儒家教学に基づく場合以上にも磐石な夫唱婦随を実現できる秘訣が承け伝えられてもいるのだから。
ただ、それこそ乱世での保全なども覚束ない繊細極まる秘儀だったわけでな。
なかなか大っぴらに触れ回れもしないような文化から、
古代の中国でも廃れて行ったはずで、そういう経緯もある以上は、
四書五経あたりが究極の顕教的儒家教学でもあったのだろうと推察できるわけだ。
先祖の神に代表される、真っ当な神仏への帰依を拠り所として励んで行く
ことのできる仕事などというのも、限られている。働き手の夫が一度給料を
神棚や仏壇に捧げてから、それを家計係の妻が頂くようにすることのできるような
仕事というのも限られているから、そのような仕事が激減してしまった今、
人びとの正統な神仏への帰依も軒並み興ざめとなってしまっているのである。
邪悪な神が邪神たる所以は、何といっても、まともな神仏には到底顔向けできなく
なるような邪まな行いの正当化の拠り所にすらなる点にこそある。それこそ、
何らの拠り所も持つことなく悪行を為して行く場合以上もの悪行の推進を可能と
するのであり、それほどもの悪逆非道に邁進している中で、急激に邪信だけを失ったり
したなら、極度の虚無感にかられて自殺衝動を引き起こしたりもしてしまうのである。
そのため、邪神を拠り所としての行業を為すことに慣れてしまっているような
人間こそは、特定して禁治産の対象としなければならないような事態が生じてしまいもする。
当然、邪神への帰依を捨て去るに越したことはないわけだけれども、車が急には止まれない
ようにして、邪信もまた急には棄てきれなかったりする、すると邪信を拠り所としての
社会的な悪行を十分に食い止められるとも知れなくなるから、そのような人間に対して、
行いの面からの制限が必要となるような事態が生じてしまいもするのである。
邪信に即して仕事をしたりするよりは、まだ何も信じることなく働くことのほうが
マシであったりするわけだけれども、それはそれで心もとないものであったりもする。
自力作善の聖道門の仏教などは、信仰依存的な心象を脱却することを本旨としている
わけだけれども、それは、在家の立場からすらなかなか帰依しがたいものであるから、
仏教が興隆していた江戸時代までの日本においてですら、武家や公家などの限られた
身分の人間が禅や密教などの本格の聖道門に帰依し、大半の人間は浄土信仰や
弘法大師信仰や日蓮信仰などの信仰主義的な仏門に帰依するに止まっていたのである。
ことのできる仕事などというのも、限られている。働き手の夫が一度給料を
神棚や仏壇に捧げてから、それを家計係の妻が頂くようにすることのできるような
仕事というのも限られているから、そのような仕事が激減してしまった今、
人びとの正統な神仏への帰依も軒並み興ざめとなってしまっているのである。
邪悪な神が邪神たる所以は、何といっても、まともな神仏には到底顔向けできなく
なるような邪まな行いの正当化の拠り所にすらなる点にこそある。それこそ、
何らの拠り所も持つことなく悪行を為して行く場合以上もの悪行の推進を可能と
するのであり、それほどもの悪逆非道に邁進している中で、急激に邪信だけを失ったり
したなら、極度の虚無感にかられて自殺衝動を引き起こしたりもしてしまうのである。
そのため、邪神を拠り所としての行業を為すことに慣れてしまっているような
人間こそは、特定して禁治産の対象としなければならないような事態が生じてしまいもする。
当然、邪神への帰依を捨て去るに越したことはないわけだけれども、車が急には止まれない
ようにして、邪信もまた急には棄てきれなかったりする、すると邪信を拠り所としての
社会的な悪行を十分に食い止められるとも知れなくなるから、そのような人間に対して、
行いの面からの制限が必要となるような事態が生じてしまいもするのである。
邪信に即して仕事をしたりするよりは、まだ何も信じることなく働くことのほうが
マシであったりするわけだけれども、それはそれで心もとないものであったりもする。
自力作善の聖道門の仏教などは、信仰依存的な心象を脱却することを本旨としている
わけだけれども、それは、在家の立場からすらなかなか帰依しがたいものであるから、
仏教が興隆していた江戸時代までの日本においてですら、武家や公家などの限られた
身分の人間が禅や密教などの本格の聖道門に帰依し、大半の人間は浄土信仰や
弘法大師信仰や日蓮信仰などの信仰主義的な仏門に帰依するに止まっていたのである。
近代以降の資本主義なども、実際にはキリスト信仰やユダヤ信仰のごとき邪神信仰が
主導的な立場にありつつ推進されて来たものだから、そのような信仰を禁止するなり、
邪信依存を棄てきれない人間を禁治産にするなりの措置を講じたとしすれば、そこには
ポッカリと空隙が生まれてしまうこととなる。それを聖道門帰依を含む無信仰ばかり
によって埋め合わせるのも無理があるから、結局は、旧態依然としているようにすら
思われかねないような祖神信仰などを復興して行くようにもしなければならないのである。
「神仏への帰依だの祖先の崇拝だのは、時代遅れもいいとこだ」などと考えている
ような人間こそは現代文明におんぶにだっこでもいて、じつはその現代文明こそは
ろくでもない邪神信仰こそを拠り所として発展して来てもいる。しかればこそ、その
邪教が潰えて後にはそのような人間こそが、特に正統な神仏への帰依を必須とする
ようになるにも違いない。そのような人間こそは、何物かに依存しないことには
やっていられないような本性を潜在面から持ち越したままでもいるのだから。
「布縷の征、粟米の征、力役の征有り。君子は其の一を用い、
其の二を緩くす。其の二を用いれば民に殍有り、其の三を用いれば父子も離る」
「およそ民に義務付ける必要のある労働には、織物の生産と糧食の生産、それに
本人たち自身の軍役がある。君子は必ずこのうちの一つの労働だけを民に課し、その間は
他二つの労働を免除する。二つを同時にやらせようとすると餓死するものが現れるし、
三つを同時に課すと一家が離散するようにすらなってしまうからだ。(君子はただ
労働をさせっぱなしにするのではなく、適切な労働のみを調整して民に斡旋するのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二七より)
主導的な立場にありつつ推進されて来たものだから、そのような信仰を禁止するなり、
邪信依存を棄てきれない人間を禁治産にするなりの措置を講じたとしすれば、そこには
ポッカリと空隙が生まれてしまうこととなる。それを聖道門帰依を含む無信仰ばかり
によって埋め合わせるのも無理があるから、結局は、旧態依然としているようにすら
思われかねないような祖神信仰などを復興して行くようにもしなければならないのである。
「神仏への帰依だの祖先の崇拝だのは、時代遅れもいいとこだ」などと考えている
ような人間こそは現代文明におんぶにだっこでもいて、じつはその現代文明こそは
ろくでもない邪神信仰こそを拠り所として発展して来てもいる。しかればこそ、その
邪教が潰えて後にはそのような人間こそが、特に正統な神仏への帰依を必須とする
ようになるにも違いない。そのような人間こそは、何物かに依存しないことには
やっていられないような本性を潜在面から持ち越したままでもいるのだから。
「布縷の征、粟米の征、力役の征有り。君子は其の一を用い、
其の二を緩くす。其の二を用いれば民に殍有り、其の三を用いれば父子も離る」
「およそ民に義務付ける必要のある労働には、織物の生産と糧食の生産、それに
本人たち自身の軍役がある。君子は必ずこのうちの一つの労働だけを民に課し、その間は
他二つの労働を免除する。二つを同時にやらせようとすると餓死するものが現れるし、
三つを同時に課すと一家が離散するようにすらなってしまうからだ。(君子はただ
労働をさせっぱなしにするのではなく、適切な労働のみを調整して民に斡旋するのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二七より)
真正聖書四書五経の記述と、犯罪聖書新旧約聖書の記述は、
明らかに相反しているものと、多少似ているように思われるものの両方がある。
たとえば、
「天地閉じれば、賢人隠る」
「天地が閉塞して万物の化育も滞っているようであれば、賢人もその身から隠してしまう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・文言伝より)
「利口な者は知識を隠し、愚かな者は自分の愚かさを言いふらす」
(権力犯罪聖書——通称聖書——失言・12:23)
上の二つの引用などはかなり似ているけれども、片やその身から隠して誰への協力も
拒むのに対し、片や知識だけを象牙の塔に隠し込んで我田引水のために悪用する
ような含みを残しているといった違いがある。これは、真善に務めるものと、
見てくれだけはよさげな偽善を働こうとするものとの違いだといえる。一方、
「傲りは長ずべからず。欲はほしいままにすべからず」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上一より)
「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます」
(権力犯罪聖書——通称聖書——マタイ禍音書・21:22)
この二つの記述などは明らかに相反している。これは、やはり一貫して真善を追い求めて
いるものと、もはや偽善すら取り払っての悪逆に及ぼうとしているものとの違いだといえる。
明らかに相反しているものと、多少似ているように思われるものの両方がある。
たとえば、
「天地閉じれば、賢人隠る」
「天地が閉塞して万物の化育も滞っているようであれば、賢人もその身から隠してしまう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・文言伝より)
「利口な者は知識を隠し、愚かな者は自分の愚かさを言いふらす」
(権力犯罪聖書——通称聖書——失言・12:23)
上の二つの引用などはかなり似ているけれども、片やその身から隠して誰への協力も
拒むのに対し、片や知識だけを象牙の塔に隠し込んで我田引水のために悪用する
ような含みを残しているといった違いがある。これは、真善に務めるものと、
見てくれだけはよさげな偽善を働こうとするものとの違いだといえる。一方、
「傲りは長ずべからず。欲はほしいままにすべからず」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上一より)
「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます」
(権力犯罪聖書——通称聖書——マタイ禍音書・21:22)
この二つの記述などは明らかに相反している。これは、やはり一貫して真善を追い求めて
いるものと、もはや偽善すら取り払っての悪逆に及ぼうとしているものとの違いだといえる。
多少聞こえのいい偽善を駆使して道義を騙るのと、完全に悪逆非道でいながら人びとの
欲望を触発するようなけしかけに興じるのとの二枚舌が、新旧約の作風だといえる。
あえてそうしたというよりは、自分自身がそのような劣悪な言動規範に染まりきって
しまっている作者が、ただ自論を記録した結果、自然とそうなったのだろうと推測される。
だから、その含意まで深く理解せずとも、新旧約をただ好き好んで読み込むことでその
発言姿勢にあやかるだけでも、邪悪な思考規範や言動規範が身に付いてしまうのである。
偽善を駆使した言行にしろ、悪逆非道のほしいままでいる言行にしろ、首尾一貫して本物の
善徳と共にあろうとする言行とは食い違うことには変わりない。だからこそ、悪と偽善が
本質的には五十歩百歩な代物でしかないことまでもが分かるわけだが、本物の善徳など
露ほどにも知らない人間からすれば、両者には大きな開きがあるようにも思われる。
偽善でもそれなりの価値があるなどと思い込み、偽善の言葉もそれなりに書き連ね
られている犯罪聖書などにもそれなりの道義的価値があるかのように思われたりする。
そのような過ちをも犯しかねないから、本物の善徳というものをよく学んでおく必要がある。
それだけを見ればあまりにも当たり前な教条ばかりであるものだから、大して勉強意欲も
わかなかったりするような四書五経の記述などを、偽善の有害無益さを見破るための
道具とするためにこそ、よく学びその理解を深めておくべきなのである。
一貫して真善を堅持する四書五経の記述と、偽善含みであるような犯罪聖書の記述との
微妙かつ決定的な違いまでをも納得ずくで判別できるようになったならば、本物の善徳に
対する理解も相当なものとなっているに違いない。それぐらいであれば、もはや善徳を
平易すぎるものとしておざなりにしようなどという気持ちも起こらないであろう。
それを蔑ろにしてまでの偽善や悪逆に走ることが、いかに浅ましく愚かしいことで
あるのかをも、すでに実感を持って計り知れるようになっているに違いないから。
欲望を触発するようなけしかけに興じるのとの二枚舌が、新旧約の作風だといえる。
あえてそうしたというよりは、自分自身がそのような劣悪な言動規範に染まりきって
しまっている作者が、ただ自論を記録した結果、自然とそうなったのだろうと推測される。
だから、その含意まで深く理解せずとも、新旧約をただ好き好んで読み込むことでその
発言姿勢にあやかるだけでも、邪悪な思考規範や言動規範が身に付いてしまうのである。
偽善を駆使した言行にしろ、悪逆非道のほしいままでいる言行にしろ、首尾一貫して本物の
善徳と共にあろうとする言行とは食い違うことには変わりない。だからこそ、悪と偽善が
本質的には五十歩百歩な代物でしかないことまでもが分かるわけだが、本物の善徳など
露ほどにも知らない人間からすれば、両者には大きな開きがあるようにも思われる。
偽善でもそれなりの価値があるなどと思い込み、偽善の言葉もそれなりに書き連ね
られている犯罪聖書などにもそれなりの道義的価値があるかのように思われたりする。
そのような過ちをも犯しかねないから、本物の善徳というものをよく学んでおく必要がある。
それだけを見ればあまりにも当たり前な教条ばかりであるものだから、大して勉強意欲も
わかなかったりするような四書五経の記述などを、偽善の有害無益さを見破るための
道具とするためにこそ、よく学びその理解を深めておくべきなのである。
一貫して真善を堅持する四書五経の記述と、偽善含みであるような犯罪聖書の記述との
微妙かつ決定的な違いまでをも納得ずくで判別できるようになったならば、本物の善徳に
対する理解も相当なものとなっているに違いない。それぐらいであれば、もはや善徳を
平易すぎるものとしておざなりにしようなどという気持ちも起こらないであろう。
それを蔑ろにしてまでの偽善や悪逆に走ることが、いかに浅ましく愚かしいことで
あるのかをも、すでに実感を持って計り知れるようになっているに違いないから。
「民其の欲する所を求めずして之れを得、之れを信と謂う」
「(徳治者のはからいによって)民がわざわざ願い欲するまでもなく
必要とするものを得られている、そこにこそ本物の信というものがある。
(願い欲するものに対してのみ与えたりすることからしていやらしい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・経解第二十六より)
これもドンピシャリだな。
悪も偽善も撃退する真善の記述として。
「(徳治者のはからいによって)民がわざわざ願い欲するまでもなく
必要とするものを得られている、そこにこそ本物の信というものがある。
(願い欲するものに対してのみ与えたりすることからしていやらしい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・経解第二十六より)
これもドンピシャリだな。
悪も偽善も撃退する真善の記述として。
わざわざ説教がましくもしない、潜在的な側面から自らを守り養って来てくれたもの、
人の子たる人間にとって、その第一に当たるのは当然親である。中には説教好きな
親もいたりするが、だから感謝せねばならないというよりは、自分が物心も付かないような
頃から養って来てくれた相手であればこそ尊ばねばならないという面のほうが大きい。
儒家も父母への尊重や孝養を奨励しておきながら、同時に親が子を無闇に偏愛したり、
直接的な教育を心がけたりすることを忌んでもいる(「論語」や「孟子」を参照)。
それは結局、>>315の「礼記」の記述のような、自らの自意識を超えた所から施される恩恵をより
偉大なものとする哲理にこそ根差した志向性であるのであり、直接的かつ自覚的な言葉や施し
ばかりで全てが賄われているわけではない物事の本質を捉えていればこその処断なのである。
親の子に対する養いに代表される、半ば無自覚的な領域からの施しこそが、仁政の基本的なあり方ともなる。
広報の限りを尽くしながら金をばらまいたりするような、いかにも恩着せがましい政策などが
仁政たり得るわけがない一方で、民たちがほとんど気づきもしないような内から実施されているような
政策による恩恵こそは、実は天下万人のより一層の磐石な繁栄を企図したものだったりする。
頑是ない幼児などと同じように、日々の仕事に追われて息つく暇もないような小人もまた、
全ての施しを察せるほどの理解力や視野の広さを持ち合わせているものではない。だからこそ、
施しに相応の感謝すら期待できないような陰徳の積み重ねこそは、真の仁政ともなるのである。
仁政を志すものたるや、巧言令色をついで程にたしなむことすら法度となる理由も、ここにこそある。
そもそもが、自分たちのより磐石な養われ方も知れないような小人に対して、人気取りを兼ねつつの
為政を試みたからといって、それで本人たちが充足するわけもない、のみならず、本当に民たちを
充足させるに値するだけの仁政のほうがそのせいで疎かになって、人気取りなんか全く兼ねて
いないような為政にすら及ばないような成果しか挙げられなくなってしまうのである。
人の子たる人間にとって、その第一に当たるのは当然親である。中には説教好きな
親もいたりするが、だから感謝せねばならないというよりは、自分が物心も付かないような
頃から養って来てくれた相手であればこそ尊ばねばならないという面のほうが大きい。
儒家も父母への尊重や孝養を奨励しておきながら、同時に親が子を無闇に偏愛したり、
直接的な教育を心がけたりすることを忌んでもいる(「論語」や「孟子」を参照)。
それは結局、>>315の「礼記」の記述のような、自らの自意識を超えた所から施される恩恵をより
偉大なものとする哲理にこそ根差した志向性であるのであり、直接的かつ自覚的な言葉や施し
ばかりで全てが賄われているわけではない物事の本質を捉えていればこその処断なのである。
親の子に対する養いに代表される、半ば無自覚的な領域からの施しこそが、仁政の基本的なあり方ともなる。
広報の限りを尽くしながら金をばらまいたりするような、いかにも恩着せがましい政策などが
仁政たり得るわけがない一方で、民たちがほとんど気づきもしないような内から実施されているような
政策による恩恵こそは、実は天下万人のより一層の磐石な繁栄を企図したものだったりする。
頑是ない幼児などと同じように、日々の仕事に追われて息つく暇もないような小人もまた、
全ての施しを察せるほどの理解力や視野の広さを持ち合わせているものではない。だからこそ、
施しに相応の感謝すら期待できないような陰徳の積み重ねこそは、真の仁政ともなるのである。
仁政を志すものたるや、巧言令色をついで程にたしなむことすら法度となる理由も、ここにこそある。
そもそもが、自分たちのより磐石な養われ方も知れないような小人に対して、人気取りを兼ねつつの
為政を試みたからといって、それで本人たちが充足するわけもない、のみならず、本当に民たちを
充足させるに値するだけの仁政のほうがそのせいで疎かになって、人気取りなんか全く兼ねて
いないような為政にすら及ばないような成果しか挙げられなくなってしまうのである。
民主主義社会も、結局は為政者が民たちの顔色をうかがうことばかりに終始してしまうものだから、
むしろ民のほうが為政者の顔色をうかがわねばならなかった武家社会ほどの安定が期待できることもない。
親が子にへりくだる家庭がうまくいかないのと同じようにして、為政者が民にへつらうような
世の中もうまくいかない。より大きなものが小さなものに妥協するよりは、小さなもののほうが
大きなものに付いて行こうとすることのほうが摂理にかなっているわけだから、そこで小さなほうが
大きなほうに妬みを抱いたりすることこそは「不良」と見なされて然るべきでもある。
民たちのやりたい放題を為政者が追従するような世の中なんてのは、学級崩壊を来したクラスもいいとこで、
対話によってそのような事態を収拾することにも限界がある。だから武士のような暴力による威圧によって
事態を収拾して行くのもまた一つの手だが、理想としては、民たちが気づきもしないでいるような所から乱れ
が収められて充足していることこそが最善である。それをわざわざ不能と化してしまっているのが民主制で
あるからこそ、最終的には無意識からの治世の実現を志す封建制以上にもいただけない所があるのである。
「静言なれども、庸いれば違う」
「言うことはよさげでも、実際には全く実現できない。
(救う救う言いながら、かえって人びとを破滅に追い込んでいるかの邪神のような)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・堯典より)
むしろ民のほうが為政者の顔色をうかがわねばならなかった武家社会ほどの安定が期待できることもない。
親が子にへりくだる家庭がうまくいかないのと同じようにして、為政者が民にへつらうような
世の中もうまくいかない。より大きなものが小さなものに妥協するよりは、小さなもののほうが
大きなものに付いて行こうとすることのほうが摂理にかなっているわけだから、そこで小さなほうが
大きなほうに妬みを抱いたりすることこそは「不良」と見なされて然るべきでもある。
民たちのやりたい放題を為政者が追従するような世の中なんてのは、学級崩壊を来したクラスもいいとこで、
対話によってそのような事態を収拾することにも限界がある。だから武士のような暴力による威圧によって
事態を収拾して行くのもまた一つの手だが、理想としては、民たちが気づきもしないでいるような所から乱れ
が収められて充足していることこそが最善である。それをわざわざ不能と化してしまっているのが民主制で
あるからこそ、最終的には無意識からの治世の実現を志す封建制以上にもいただけない所があるのである。
「静言なれども、庸いれば違う」
「言うことはよさげでも、実際には全く実現できない。
(救う救う言いながら、かえって人びとを破滅に追い込んでいるかの邪神のような)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・堯典より)
妾腹の私生児としての自暴自棄に駆られての邪言邪行を働いたものを信奉して
それに倣おうとするのなら、それはそのような「趣き」に導かれているのだといえる。
同様に妾腹の私生児でありながらも、着実な修身斉家によって不遇を克服して行った
偉人を尊んでそれに倣おうとするのなら、そこでもある種の「趣き」に導かれて行く
こととなるわけで、両者は180度逆方向へと導かれ行く、相反的な関係にあるといえる。
ただ、これらはある種の情念に駆られての一概な趣きであるという点では共通している。
不遇に苛まれての自暴自棄が深刻な情念に駆られているのはもちろんのこと、同様の
不遇を克服して自身と家の名誉を回復して行こうとする志しもまた、健全といえる
範囲の情念が伴っているといえる。それこそ「人情」というものであって、江戸時代の
日本などで、人びとが孝行を重んずることで育んでいた人情などとも共通するものである。
片や、忠孝の心意気にも根ざした健全な人情である一方、片や、畜生でも抱けるような
無軌道で粗悪な劣情であるという相違がありつつ、いずれも旺盛な情念の発露であるが
故に、片や善徳の気概、片や罪悪の気概として機能してしまうことともなるのである。
こういうことは、情念一般からの解脱を促す類いの思想信条にはないものである。
仏教にしろ道家にしろ、人情か劣情かに関わらず、情念一般を濁悪なものとして
忌み避けるものであるから、情念を気概としての一概な善悪への振り切れなどにも
与しないでいるものである。(純粋な智慧に根ざしての断悪修善などはあり得る)
だから、人情を重んずる儒学と、劣情への惑溺を促す聖書信仰のような決定的な相反に
直接関与したりすることもない。どのような形であれ、情念を活用しようとする類いの
教学こそは善や悪への振り切れを来たすものなのであり、そのような傾向を擁している
からこそ、儒学やイスラム教と聖書信仰が敵対することもまた避けることができない。
それに倣おうとするのなら、それはそのような「趣き」に導かれているのだといえる。
同様に妾腹の私生児でありながらも、着実な修身斉家によって不遇を克服して行った
偉人を尊んでそれに倣おうとするのなら、そこでもある種の「趣き」に導かれて行く
こととなるわけで、両者は180度逆方向へと導かれ行く、相反的な関係にあるといえる。
ただ、これらはある種の情念に駆られての一概な趣きであるという点では共通している。
不遇に苛まれての自暴自棄が深刻な情念に駆られているのはもちろんのこと、同様の
不遇を克服して自身と家の名誉を回復して行こうとする志しもまた、健全といえる
範囲の情念が伴っているといえる。それこそ「人情」というものであって、江戸時代の
日本などで、人びとが孝行を重んずることで育んでいた人情などとも共通するものである。
片や、忠孝の心意気にも根ざした健全な人情である一方、片や、畜生でも抱けるような
無軌道で粗悪な劣情であるという相違がありつつ、いずれも旺盛な情念の発露であるが
故に、片や善徳の気概、片や罪悪の気概として機能してしまうことともなるのである。
こういうことは、情念一般からの解脱を促す類いの思想信条にはないものである。
仏教にしろ道家にしろ、人情か劣情かに関わらず、情念一般を濁悪なものとして
忌み避けるものであるから、情念を気概としての一概な善悪への振り切れなどにも
与しないでいるものである。(純粋な智慧に根ざしての断悪修善などはあり得る)
だから、人情を重んずる儒学と、劣情への惑溺を促す聖書信仰のような決定的な相反に
直接関与したりすることもない。どのような形であれ、情念を活用しようとする類いの
教学こそは善や悪への振り切れを来たすものなのであり、そのような傾向を擁している
からこそ、儒学やイスラム教と聖書信仰が敵対することもまた避けることができない。
その点、アブラハム教は、同じ宗教だからといって、仏教や道教などを決して
味方に付けられるものでもない。聖書信者などの中に、宗教多元論などの名目で、
来るべき将来における最勝の教学となることが内定している仏教に対して、聖書信仰を
持ち越したままで擦り寄ろうとする者などがいるが、それは仏教にとっても迷惑な話で、
仏教の側に情念志向で儒学にも聖書信仰にも味方したり敵対したりする意向は全くない。
宗教という枠組みの絶対化によって、聖書信仰が特定して悪に与していた責任をも他の
宗教にまで連帯して負わせようなどとも企てられているようだが、イスラム教はともかく、
非アブラハム教にまでそのような連帯責任を負わせるのも全くの冤罪であるといえる。
情念の発露を金科玉条に掲げている宗教などはアブラハム教ばかりで、他の宗教は
むしろ、宗教という枠組みの元で情念を安んじることこそを主旨としている場合が
ほとんどなわけだから、ある種の情念を貪った挙げ句に悪逆非道をひた走ってしまった
責任を宗教一般に求めたりするのもまた、お門違いにも程があることになるわけである。
現状の信者人口は膨大な数に上るのであっても、そもそもが情念の発露などを教義に
掲げている宗教なんてもの自体が約三つのアブラハム教ばかりに限られているわけだから、
そのような宗教をあくまで異端の部類として取り扱うようにして、宗教を情念の発露
などではなく、「鎮魂」のための道具とすることを優先して行くのなら、宗教一般が
アブラハム教の不行跡のせいで存亡の危機に駆られたりすることもないのである。
むしろ、アブラハム教(主に聖書教)のせいで無益に肥大化させられてしまっている
現代人類の劣情が、仏教を始めとする、情念を鎮める類いの宗教によって鎮静化されて
いくべきですらあるのであり、それによってこそ、アブラハム教がこの世に甚大なる
災禍をもたらしてしまっているせいで評判をがた落ちさせている宗教一般の
汚名もまた、返上されて行くこととなるのである。
味方に付けられるものでもない。聖書信者などの中に、宗教多元論などの名目で、
来るべき将来における最勝の教学となることが内定している仏教に対して、聖書信仰を
持ち越したままで擦り寄ろうとする者などがいるが、それは仏教にとっても迷惑な話で、
仏教の側に情念志向で儒学にも聖書信仰にも味方したり敵対したりする意向は全くない。
宗教という枠組みの絶対化によって、聖書信仰が特定して悪に与していた責任をも他の
宗教にまで連帯して負わせようなどとも企てられているようだが、イスラム教はともかく、
非アブラハム教にまでそのような連帯責任を負わせるのも全くの冤罪であるといえる。
情念の発露を金科玉条に掲げている宗教などはアブラハム教ばかりで、他の宗教は
むしろ、宗教という枠組みの元で情念を安んじることこそを主旨としている場合が
ほとんどなわけだから、ある種の情念を貪った挙げ句に悪逆非道をひた走ってしまった
責任を宗教一般に求めたりするのもまた、お門違いにも程があることになるわけである。
現状の信者人口は膨大な数に上るのであっても、そもそもが情念の発露などを教義に
掲げている宗教なんてもの自体が約三つのアブラハム教ばかりに限られているわけだから、
そのような宗教をあくまで異端の部類として取り扱うようにして、宗教を情念の発露
などではなく、「鎮魂」のための道具とすることを優先して行くのなら、宗教一般が
アブラハム教の不行跡のせいで存亡の危機に駆られたりすることもないのである。
むしろ、アブラハム教(主に聖書教)のせいで無益に肥大化させられてしまっている
現代人類の劣情が、仏教を始めとする、情念を鎮める類いの宗教によって鎮静化されて
いくべきですらあるのであり、それによってこそ、アブラハム教がこの世に甚大なる
災禍をもたらしてしまっているせいで評判をがた落ちさせている宗教一般の
汚名もまた、返上されて行くこととなるのである。
「君子の君に事うるや、務めて其の君を引きて、以て道に当い、仁に志しむるのみ」
「君子が主君に仕える場合には、ただひたすらその主君を教え導いて、道に叶うにし、
仁を志させるようにするのみである。(むしろ下位者が上位者を導いて行ける
ぐらいでなければならない。総員自力作善である徳治主義の志しだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・八より)
「君子が主君に仕える場合には、ただひたすらその主君を教え導いて、道に叶うにし、
仁を志させるようにするのみである。(むしろ下位者が上位者を導いて行ける
ぐらいでなければならない。総員自力作善である徳治主義の志しだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・八より)
自覚的な思考を超越した無意識からの脳神経系の駆使などが、
ただ頭だけで考えることを上回る可能性を秘めているというのは、事実である。
合気柔術の手法に即して、意識的に攻撃を仕掛けて来る相手の機先を
制することなども、自分自身が超意識系に到るまでの注意を働かせていられたなら、
実際に可能となることである。禅問答なども、個体の生死に関わらず
遍在し続ける超意識系の実在を悟るためにこそ行われるものであり、
それが未だ不可能である限りにおいては意味不明な問答までもが、
悟りが拓かれた途端に意味が丸分かりとなったりもするのである。
そういったことも実際あるわけだが、もしも手法を「頭で考える」ということに
限るのなら、徹底的に心を労して悩み考え抜くことこそは最善の結果に繋がる。
自分が不快になるような事象とも面と向き合って、いかにしてそれに打ち克って
行くべきかを真摯に考え抜いて行くことこそが、着実な成果へと結実する。そういった
ことを怠って、ただただ自分が気分がいいまま、都合のいいままでいようとするような
考えばかりに終始しているようなら、破滅的な将来すらもがやってくることとなる。
儒家はそのような意味での、心を労する考え抜きとしての学問こそを司っているから、
超意識系の神秘すらをも扱う高尚な教学の立場から見下されたりもする一方で、
別に自分たちがそんなに楽しそうでもない、学祖の孔子からして、論敵に陰口を
叩かれるようなことばかりがあるせいで始終不機嫌だったと「孟子」にもあるとおり、
それを享受していることが本人たちの分かりやすい楽しみにも与していないと来ている
ものだから、なかなかその真価を計り知られることもないままでいてしまっているのである。
ただ頭だけで考えることを上回る可能性を秘めているというのは、事実である。
合気柔術の手法に即して、意識的に攻撃を仕掛けて来る相手の機先を
制することなども、自分自身が超意識系に到るまでの注意を働かせていられたなら、
実際に可能となることである。禅問答なども、個体の生死に関わらず
遍在し続ける超意識系の実在を悟るためにこそ行われるものであり、
それが未だ不可能である限りにおいては意味不明な問答までもが、
悟りが拓かれた途端に意味が丸分かりとなったりもするのである。
そういったことも実際あるわけだが、もしも手法を「頭で考える」ということに
限るのなら、徹底的に心を労して悩み考え抜くことこそは最善の結果に繋がる。
自分が不快になるような事象とも面と向き合って、いかにしてそれに打ち克って
行くべきかを真摯に考え抜いて行くことこそが、着実な成果へと結実する。そういった
ことを怠って、ただただ自分が気分がいいまま、都合のいいままでいようとするような
考えばかりに終始しているようなら、破滅的な将来すらもがやってくることとなる。
儒家はそのような意味での、心を労する考え抜きとしての学問こそを司っているから、
超意識系の神秘すらをも扱う高尚な教学の立場から見下されたりもする一方で、
別に自分たちがそんなに楽しそうでもない、学祖の孔子からして、論敵に陰口を
叩かれるようなことばかりがあるせいで始終不機嫌だったと「孟子」にもあるとおり、
それを享受していることが本人たちの分かりやすい楽しみにも与していないと来ている
ものだから、なかなかその真価を計り知られることもないままでいてしまっているのである。
儒学が決定的に貶められることとなった近代以前から、日本でも儒学は本質的に
仏教などにその程度で及ばないとされていたから、仏僧が仏門帰依のついでに儒学を
学び教えるようなことがほとんどでいた。そのせいで林羅山のような大儒までもが、
儒家の礼法には反する剃髪でいさせられたりもしたわけだが、これはまあ、超意識系からの
悟りを把捉する仏教の偉大さもまた真なるものなわけだから、多少は仕方ないことだったといえる。
問題は近代以降、儒学が受容者の限りない心労を促す類いの教学であるからといって、
(君子は心を労す。左伝襄公九年)人びとの思考からの限りない享楽を促す洋学や聖書信仰の
下に置かれるようになってしまったことのほうである。洋学もまた勉強の過程でそれなりの
苦労を学徒に要求したりするものではあるが、結局、それを修得した先に「大金稼いでウハウハ」
みたいな俗悪な欲望の実現を約束するものでしかないわけだから、生きている限りにおける
恒久的な心労と共なる努力精進を促す儒学などと比べれば、快楽のための学問であることこそが
確かである。ましてや、聖書信仰などは始めから人びとの淫考をけしかけるばかりの代物であり、
だからこそ、人びとの際限なき放辟邪侈を促す近代以降の世界的風潮の根幹にすらなって
しまっている。そのような風潮からなる圧力によって、心労こそを本是とする儒学のほうの価値が
なきものともされてしまっていることこそは、特筆して問題扱いされねばならないことだといえる。
心労こそが実際、着実な成果にも結び付く、のみならず、それこそは世のため人のため
ともなる善良な成果であったりもする。一方で、いくら力や無機質な知能だけを働かせた所で、
当の本人自身の心が少しも労されていないようなら、結局本人の我田引水ぐらいは実現する
ことがあった所で、全く世のため人のためにはなっていなかったりする。力や技能を駆使する
こと以上のものとしての心労の大切さを、儒学の見直しなどと共に試みて行くべきだといえる。
仏教などにその程度で及ばないとされていたから、仏僧が仏門帰依のついでに儒学を
学び教えるようなことがほとんどでいた。そのせいで林羅山のような大儒までもが、
儒家の礼法には反する剃髪でいさせられたりもしたわけだが、これはまあ、超意識系からの
悟りを把捉する仏教の偉大さもまた真なるものなわけだから、多少は仕方ないことだったといえる。
問題は近代以降、儒学が受容者の限りない心労を促す類いの教学であるからといって、
(君子は心を労す。左伝襄公九年)人びとの思考からの限りない享楽を促す洋学や聖書信仰の
下に置かれるようになってしまったことのほうである。洋学もまた勉強の過程でそれなりの
苦労を学徒に要求したりするものではあるが、結局、それを修得した先に「大金稼いでウハウハ」
みたいな俗悪な欲望の実現を約束するものでしかないわけだから、生きている限りにおける
恒久的な心労と共なる努力精進を促す儒学などと比べれば、快楽のための学問であることこそが
確かである。ましてや、聖書信仰などは始めから人びとの淫考をけしかけるばかりの代物であり、
だからこそ、人びとの際限なき放辟邪侈を促す近代以降の世界的風潮の根幹にすらなって
しまっている。そのような風潮からなる圧力によって、心労こそを本是とする儒学のほうの価値が
なきものともされてしまっていることこそは、特筆して問題扱いされねばならないことだといえる。
心労こそが実際、着実な成果にも結び付く、のみならず、それこそは世のため人のため
ともなる善良な成果であったりもする。一方で、いくら力や無機質な知能だけを働かせた所で、
当の本人自身の心が少しも労されていないようなら、結局本人の我田引水ぐらいは実現する
ことがあった所で、全く世のため人のためにはなっていなかったりする。力や技能を駆使する
こと以上のものとしての心労の大切さを、儒学の見直しなどと共に試みて行くべきだといえる。
「節に若わずんば、嗟に若わん」
「自ら節制するところがないのなら、その分だけ嘆くことになるのみである。
(多少の心労があり続ける程度が、人間が生きる上での適切な負荷なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・節・六三より)
「自ら節制するところがないのなら、その分だけ嘆くことになるのみである。
(多少の心労があり続ける程度が、人間が生きる上での適切な負荷なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・節・六三より)
儒学の教条の多くは、わざわざ教条化するまでもないほどに当たり前な
人間道徳の平易な把捉であり、西方の部落社会で儒学など知らぬままに歴史を
歩んで来た聖書信者などにとっても、聞いて全く分からないものなどでまではない。
ただ、人びとの精神力のヘタリが著しい西方社会などにおいては、わざわざ
そのような当たり前な徳目ばかりを重んじていようとする慣習までもが根付きは
しなかっただけのことで、代わりに儒学にとっての背理に相当するような
邪義を集成した聖書信仰が奇を衒うものとして持て囃されることとなったのである。
一方で、そうとばかりも言えない要素もまた儒学には介在している。それが
「仁義」という理念であり、これは聖書信仰が金科玉条に仕立て上げられた西方社会
などでは、ほぼ全くと言っていいほど察知すらされることがなかったものである。
ほんのこの頃になって、マルクスやレーニンに代表される共産主義者が
聖書圏の人間としては初めて世の中の大局問題を体系的に取り扱って行こうと
し始めた。これが、聖書信者が仁義に近似する理念を初めて体系化しようとした
事例ともなったが、その手法たるやあまりにも稚拙で非現実的なものであったために、
世の中の大局の問題など一貫して軽視し続けて来た多くの西洋人からも反発を受け、
「全体主義」という名の下で卑しめられることともなった。仁義道徳もまた、
世の中の大局を取り扱っていこうとする点では共産主義などの全体主義とも近似
するから、全体主義が忌み嫌われることを通じてくそみそに忌み嫌われること
ともなり、仁義などはヤクザかゴロツキあたりが自己正当化に用いるための
夢想的な概念か何かのようにすら色眼鏡で決め付けられるようになったのである。
(仁義道徳は世の中の大局からの安寧や繁栄のために、君臣父子夫婦の三綱を
特定して重んじて行くことを奨励しているわけだから、決して全体主義ではない)
人間道徳の平易な把捉であり、西方の部落社会で儒学など知らぬままに歴史を
歩んで来た聖書信者などにとっても、聞いて全く分からないものなどでまではない。
ただ、人びとの精神力のヘタリが著しい西方社会などにおいては、わざわざ
そのような当たり前な徳目ばかりを重んじていようとする慣習までもが根付きは
しなかっただけのことで、代わりに儒学にとっての背理に相当するような
邪義を集成した聖書信仰が奇を衒うものとして持て囃されることとなったのである。
一方で、そうとばかりも言えない要素もまた儒学には介在している。それが
「仁義」という理念であり、これは聖書信仰が金科玉条に仕立て上げられた西方社会
などでは、ほぼ全くと言っていいほど察知すらされることがなかったものである。
ほんのこの頃になって、マルクスやレーニンに代表される共産主義者が
聖書圏の人間としては初めて世の中の大局問題を体系的に取り扱って行こうと
し始めた。これが、聖書信者が仁義に近似する理念を初めて体系化しようとした
事例ともなったが、その手法たるやあまりにも稚拙で非現実的なものであったために、
世の中の大局の問題など一貫して軽視し続けて来た多くの西洋人からも反発を受け、
「全体主義」という名の下で卑しめられることともなった。仁義道徳もまた、
世の中の大局を取り扱っていこうとする点では共産主義などの全体主義とも近似
するから、全体主義が忌み嫌われることを通じてくそみそに忌み嫌われること
ともなり、仁義などはヤクザかゴロツキあたりが自己正当化に用いるための
夢想的な概念か何かのようにすら色眼鏡で決め付けられるようになったのである。
(仁義道徳は世の中の大局からの安寧や繁栄のために、君臣父子夫婦の三綱を
特定して重んじて行くことを奨励しているわけだから、決して全体主義ではない)
そもそもが、仁義道徳すら少しでも察知することができていたなら、西洋人と
いえども、聖書信仰を許容するようなことからしてなかったはずなのである。
儒学と聖書信仰の思想面における決定的な相違点も、それこそ仁義という理念の
把捉の有無なのであり、もしも犯罪聖書の著者が少しでも仁義道徳を察していたなら、
あんな不埒な文集の編纂を企てるようなことからしてあり得なかったのである。
儒学的人情にも聖書信仰的劣情にも与しない絶対真理の教学である仏教までもが、
純粋な真理の把捉を通じて儒学の善性を是とし、聖書信仰の悪性を非とするのも、
結局、儒学には仁義がある一方で、聖書信仰には仁義がないからである。仁義が
あるから儒学は本当に世界を安寧へと導けるし、なおかつ自他を心底から安楽にも
させる。聖書信仰には仁義がないから世界を破滅に陥れてしまうし、それと共に
自他を心中から最悪の苦痛に陥らせもする。社会性にまつわる観点から言った場合
の仁義があったりなかったりしたことが、絶対真理に基づく両者の雌雄すらをも
決定的に分かったのであり、そこは、儒学の多くの教条の分かりやすさなどとも
打って変わって、極めて微妙不可思議な領域においてこそ下された審判だったといえる。
儒学の教条なんて当たり前なことばかり、だから背理法として聖書信仰みたいな
邪教もぶち上げてやった、というような言い訳もされかねないが、儒学もただただ
分かりやすいばかりでなく、真理にも通ずる道理に根ざした含蓄を兼ね備えている。
そこを全く察知すらすることなく邪教の受容に邁進して来たのが聖書信者だったり
するわけだから、儒学的なものを全くの既知であるなどと決め付けて、舐め腐った
ままで居ていいようなこともないのである。分かりやすい中にも実は潜在していた
深遠さを察することも出来なかった、己れの至らなさこそを反省すべきなのである。
「常の職無くして上より賜わる者は、以て不恭と為すなり」
「自らが相応の務めを果たしているわけでもないのに上から賜りものを受けたりする
のは、恭しさに欠けている。(自らの行いに相応以上の恵みを賜ろうとする不埒さ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・六より)
いえども、聖書信仰を許容するようなことからしてなかったはずなのである。
儒学と聖書信仰の思想面における決定的な相違点も、それこそ仁義という理念の
把捉の有無なのであり、もしも犯罪聖書の著者が少しでも仁義道徳を察していたなら、
あんな不埒な文集の編纂を企てるようなことからしてあり得なかったのである。
儒学的人情にも聖書信仰的劣情にも与しない絶対真理の教学である仏教までもが、
純粋な真理の把捉を通じて儒学の善性を是とし、聖書信仰の悪性を非とするのも、
結局、儒学には仁義がある一方で、聖書信仰には仁義がないからである。仁義が
あるから儒学は本当に世界を安寧へと導けるし、なおかつ自他を心底から安楽にも
させる。聖書信仰には仁義がないから世界を破滅に陥れてしまうし、それと共に
自他を心中から最悪の苦痛に陥らせもする。社会性にまつわる観点から言った場合
の仁義があったりなかったりしたことが、絶対真理に基づく両者の雌雄すらをも
決定的に分かったのであり、そこは、儒学の多くの教条の分かりやすさなどとも
打って変わって、極めて微妙不可思議な領域においてこそ下された審判だったといえる。
儒学の教条なんて当たり前なことばかり、だから背理法として聖書信仰みたいな
邪教もぶち上げてやった、というような言い訳もされかねないが、儒学もただただ
分かりやすいばかりでなく、真理にも通ずる道理に根ざした含蓄を兼ね備えている。
そこを全く察知すらすることなく邪教の受容に邁進して来たのが聖書信者だったり
するわけだから、儒学的なものを全くの既知であるなどと決め付けて、舐め腐った
ままで居ていいようなこともないのである。分かりやすい中にも実は潜在していた
深遠さを察することも出来なかった、己れの至らなさこそを反省すべきなのである。
「常の職無くして上より賜わる者は、以て不恭と為すなり」
「自らが相応の務めを果たしているわけでもないのに上から賜りものを受けたりする
のは、恭しさに欠けている。(自らの行いに相応以上の恵みを賜ろうとする不埒さ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・六より)
虚構の基準での虚構の勝利に浸っているような人間が、虚構であると
気づかぬままにこの世を去ったとすれば、それで勝利だといえるだろうか。
勝利だと思いたいという人間もいるだろうが、当然普遍的な基準に即しては
勝利ではない。もしもそのような人間が歴史に記録されるとしたなら、
おかしな思い込みに誑かされたままでこの世を去ったかわいそうな道化
として記されることとなるように、そこで勝利などを認めることはできない。
ただ、それは虚構に浸っていたい人間にとっての重要な事柄ではあるまい。
問題は、虚構だろうが何だろうが、勝利の愉悦が上等なもんだったかどうか
であるに違いない。勝利の愉悦すら本物の勝利並みやそれ以上ですらあったなら、
虚構の勝利でも構わないぐらいのものだろう。しかし残念ながら、虚構の勝利
は虚構であるだけに、本物の勝利並みの愉悦を本人にもたらすこともない。
どんなに勝者をうそぶいた所で、虚構は虚構だから、身勝手な根拠で自分たち
こそは世界最強だなどと自負しているアメリカ人なども、苦悩にかられての
麻薬中毒などに陥ってしまっている場合が多い。そりゃあ、世界最強の勝者と
しての愉悦までもが虚構に過ぎないからで、決して勝者としての責任を果たそう
としているが故の副作用だったりするわけでもない。むしろ、本物の勝利は
勝者としての責任を果たして行く所にこそ愉悦をももたらすものなのだから。
勝利の愉悦というのは、別に俗悪な領域においてばかり問題とされることでもない。
仏門における大悟の先に、絶対真理に即した最勝者としての愉悦があったりも
するという。その真の勝者としての愉悦を俗世での勝利にも期待するとすれば、
仁者としての勝利などはそれに近似するだろうが、不仁者としての勝利などは
それに近似すらすることがないであろう。真理に根ざした勝利にも近似するが故に、
仁者としての勝利こそは本物の愉悦を勝者にもたらす一方で、その条件を満たさない
不仁者としての勝利は、じゃんけんで勝った時ほどの愉悦すら抱けなかったりする。
気づかぬままにこの世を去ったとすれば、それで勝利だといえるだろうか。
勝利だと思いたいという人間もいるだろうが、当然普遍的な基準に即しては
勝利ではない。もしもそのような人間が歴史に記録されるとしたなら、
おかしな思い込みに誑かされたままでこの世を去ったかわいそうな道化
として記されることとなるように、そこで勝利などを認めることはできない。
ただ、それは虚構に浸っていたい人間にとっての重要な事柄ではあるまい。
問題は、虚構だろうが何だろうが、勝利の愉悦が上等なもんだったかどうか
であるに違いない。勝利の愉悦すら本物の勝利並みやそれ以上ですらあったなら、
虚構の勝利でも構わないぐらいのものだろう。しかし残念ながら、虚構の勝利
は虚構であるだけに、本物の勝利並みの愉悦を本人にもたらすこともない。
どんなに勝者をうそぶいた所で、虚構は虚構だから、身勝手な根拠で自分たち
こそは世界最強だなどと自負しているアメリカ人なども、苦悩にかられての
麻薬中毒などに陥ってしまっている場合が多い。そりゃあ、世界最強の勝者と
しての愉悦までもが虚構に過ぎないからで、決して勝者としての責任を果たそう
としているが故の副作用だったりするわけでもない。むしろ、本物の勝利は
勝者としての責任を果たして行く所にこそ愉悦をももたらすものなのだから。
勝利の愉悦というのは、別に俗悪な領域においてばかり問題とされることでもない。
仏門における大悟の先に、絶対真理に即した最勝者としての愉悦があったりも
するという。その真の勝者としての愉悦を俗世での勝利にも期待するとすれば、
仁者としての勝利などはそれに近似するだろうが、不仁者としての勝利などは
それに近似すらすることがないであろう。真理に根ざした勝利にも近似するが故に、
仁者としての勝利こそは本物の愉悦を勝者にもたらす一方で、その条件を満たさない
不仁者としての勝利は、じゃんけんで勝った時ほどの愉悦すら抱けなかったりする。

虚実に即して勝利が健全な愉悦と共にあったり、不健全な愉悦によってかえって
副作用としての苦悩を呼び込んだりする。ろくな心地よさも呼び込めることのない
虚構の勝利によってでも、勝者としての名声を一度ぐらいは得てみたいとした所で、
そのような勝利は1400年前の蹴鞠での勝利ほどにも、普遍的な意味を持つことがない。
蹴鞠で脱げた靴を後の重臣が拾ってくれたことのように伝説化されることもない。
正史がよく整理されている東洋と、ろくに歴史が整理されることもなければ
その評価基準も定まっていない西洋とでは、そのあたりまだ温度差もあるだろう。
ただ西アジア諸国に乱暴をけしかけていたばかりの存在だったアレクサンドロスが、
戦いで勝ったという部分だけをして最勝者か何かのように扱われていたりもするが、
封土を自らの責任によって十全に治めることができてこそ、勝者としての資格
までもが備わり得るとする東洋の感覚からすれば、アレクサンドロスの所業などは、
中原北方で強奪の限りを尽くしていた蛮族匈奴ほどのものとしてしか扱いようがない。
東征に際してほとんどの自国軍の兵士を犠牲にしてしまい、後には結局エジプト人
主体のエジプトやペルシャ人主体のペルシャが元通りに残っていたりしただけ
なのだから、あまりにも瑣末な虚構の勝利ばかりを貪っていたのだと言える。
そういう所までちゃんと精査して行けば、虚構の勝利をさも歴史的勝利か何かの
ように取り扱い続けて来たことまでもが、道化の扱いとなって行くのである。
「仁者は射るが如し。射者は己れを正して後に発つ。
発ちて中らずとも、己れに勝てる者を怨みず。諸れを己れに反り求めるのみ」
「仁者はまるで弓を射るようなもの。弓を射る者はただ己れの姿勢を正して
矢を放つばかり。放った矢が当たらなかったとしても、射的競争で自分に勝った
者を怨んだりすることもない。ただ自らの落ち度を省みて反省するのみである。
(ただただ勝とうとすることではなく、己れを正すことこそはより重要なことである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・七より)
「子貢曰く、斯に美玉有り。匵に韞めて諸を蔵さんか。善賈を求めて
諸を沽らんか。子曰く、之を沽らん。之を沽らん。我は賈を待つ者なり」
「子貢が問うた。『ここに見事な珠玉があるとします。だとすれば、箱に納めて
隠し込んでしまうべきでしょうか。それともいい商人を見つけて売るべきでしょうか』
孔先生は答えられた。『売ろうよ、売ろうよ、私はその商人を待つものなのだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一二)
とはいえ孔子は、乱世にはあまりにも場違いなほどの聡明さと端麗さを具えた大人で
あったものだから、汚職で腐れ果てた権力者たちが「善賈」として「美玉」たる
孔子を買い求めて重宝することなどもろくにできないでいたのだった。
「悪貨は良貨を駆逐する」というが、金に限らず、物品や人材に到るまで、粗悪なものが
良質なものを駆逐して行くということがままある。最高品質の天然の食材などよりは、
低品質でも安価な養殖の食材が市場により多く出回ったりするのがその例である。
人間もその例に漏れず、愚人のくせして巧言令色を巧みに利用することで人びとの
人気を博そうとする者が、根っからの賢人だからこそ修辞での人気取りなどを
控えようとする者を押しのけて天下に蔓延ったりすることがある。
儒学が廃絶されて、聖書信仰や聖書信仰的なものの考え方が蔓延ってしまっている
現代の様相もまた、「悪貨は良貨を駆逐する」の典型例だといえる。世のため人のため
自分のためになりはするものの、決してその実践が楽なものばかりではない儒学が排されて、
世のためにも人のためにも自分のためにもならないが、ただひたすら安楽ばかりを貪ることを是
とする聖書信仰が、思想信条として格好のものとされている、それは決して、善賈が見事な珠玉を
見つけて、それを買うために他の玉を売り払うような事態にも当たらない。投機対象として格好な
安物の玉の大量購入のために、所有の珠玉すら売り払ってしまったようなザマでこそあるのだといえる。
諸を沽らんか。子曰く、之を沽らん。之を沽らん。我は賈を待つ者なり」
「子貢が問うた。『ここに見事な珠玉があるとします。だとすれば、箱に納めて
隠し込んでしまうべきでしょうか。それともいい商人を見つけて売るべきでしょうか』
孔先生は答えられた。『売ろうよ、売ろうよ、私はその商人を待つものなのだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一二)
とはいえ孔子は、乱世にはあまりにも場違いなほどの聡明さと端麗さを具えた大人で
あったものだから、汚職で腐れ果てた権力者たちが「善賈」として「美玉」たる
孔子を買い求めて重宝することなどもろくにできないでいたのだった。
「悪貨は良貨を駆逐する」というが、金に限らず、物品や人材に到るまで、粗悪なものが
良質なものを駆逐して行くということがままある。最高品質の天然の食材などよりは、
低品質でも安価な養殖の食材が市場により多く出回ったりするのがその例である。
人間もその例に漏れず、愚人のくせして巧言令色を巧みに利用することで人びとの
人気を博そうとする者が、根っからの賢人だからこそ修辞での人気取りなどを
控えようとする者を押しのけて天下に蔓延ったりすることがある。
儒学が廃絶されて、聖書信仰や聖書信仰的なものの考え方が蔓延ってしまっている
現代の様相もまた、「悪貨は良貨を駆逐する」の典型例だといえる。世のため人のため
自分のためになりはするものの、決してその実践が楽なものばかりではない儒学が排されて、
世のためにも人のためにも自分のためにもならないが、ただひたすら安楽ばかりを貪ることを是
とする聖書信仰が、思想信条として格好のものとされている、それは決して、善賈が見事な珠玉を
見つけて、それを買うために他の玉を売り払うような事態にも当たらない。投機対象として格好な
安物の玉の大量購入のために、所有の珠玉すら売り払ってしまったようなザマでこそあるのだといえる。
愚昧化してしまった民の欲するがままに任せたりすれば、悪貨が良貨を駆逐してしまうものである。
商人たちもまたそれに応じて、粗悪でも好みやすいような商品ばかりを市場に出回らせて、
本当に良質な商品などはほとんど出回らせないようなことにすらなってしまう。商人は
それで身銭を稼ぐことが第一の目的なのだから、ただ仕事としてそうするだけのこと。
カネやモノや人材の質の良さを確保することなどは、商人にとっての本分などではない。
そんな質の良悪は商人などにとっては相対的な問題に過ぎないのであり、質の悪い商品で
大金を稼げるのならそうするまでのことである。そうであってはならないのは、天下国家の
命運を司る君子階級の人間でこそあり、経済や政治に媒介するカネやモノやヒトの質の
向上に務めて行くことで、天下国家からの磐石な繁栄をも企図して行く必要があるのである。
君子によって人びとのモノの価値を計り知る能力が養われて、それにより良質な商品が市場でも
持て囃されるようになる。その結果として商人もより良質な商品を取り扱うようになるわけだから、
商人が自己の良識によって、珠玉の購入のために粗玉を売り払うよなことを期待しててもいけないのだ。
「市に命じて賈を納れしめ、以て民の好悪する所を観る。志し淫なれば好みも辟なり」
「市場の人間に命じて商品を納入させ、いま民たちが好き好んでいるものが何なのかを観察する。
志しが淫らであるようならその好みも邪まであるものだから。(市場での好悪を正させることから
天子の役割である。その結果として上記の『論語』で例えに上げられている『善賈』が生じたりもする。
まずそういった徳治による品性の向上が図られるのでなければ、商人が善賈たることもあり得ない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
商人たちもまたそれに応じて、粗悪でも好みやすいような商品ばかりを市場に出回らせて、
本当に良質な商品などはほとんど出回らせないようなことにすらなってしまう。商人は
それで身銭を稼ぐことが第一の目的なのだから、ただ仕事としてそうするだけのこと。
カネやモノや人材の質の良さを確保することなどは、商人にとっての本分などではない。
そんな質の良悪は商人などにとっては相対的な問題に過ぎないのであり、質の悪い商品で
大金を稼げるのならそうするまでのことである。そうであってはならないのは、天下国家の
命運を司る君子階級の人間でこそあり、経済や政治に媒介するカネやモノやヒトの質の
向上に務めて行くことで、天下国家からの磐石な繁栄をも企図して行く必要があるのである。
君子によって人びとのモノの価値を計り知る能力が養われて、それにより良質な商品が市場でも
持て囃されるようになる。その結果として商人もより良質な商品を取り扱うようになるわけだから、
商人が自己の良識によって、珠玉の購入のために粗玉を売り払うよなことを期待しててもいけないのだ。
「市に命じて賈を納れしめ、以て民の好悪する所を観る。志し淫なれば好みも辟なり」
「市場の人間に命じて商品を納入させ、いま民たちが好き好んでいるものが何なのかを観察する。
志しが淫らであるようならその好みも邪まであるものだから。(市場での好悪を正させることから
天子の役割である。その結果として上記の『論語』で例えに上げられている『善賈』が生じたりもする。
まずそういった徳治による品性の向上が図られるのでなければ、商人が善賈たることもあり得ない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
どんなに雄大な志しも、それを実現して行くに及んで、不正な手段や支援を
介するようでは、むしろ成さねばよかったほどのものとすら化してしまいかねない。
劉備玄徳による漢帝国再興の志しなども、最原初の頃から豪商の支援に頼りきりで、
それを資金源に勢力を拡大させていったものだから、政商を寄せ付けての専横三昧
でいた魏の曹家が、正統の漢室を乗っ取ることを防ぐこともできなかったのだった。
また、いくら自分が大志の持ち主であるといえども、わが子までもがその志しを
継いでくれるとも限らない。商人の多用もあって身内にはそれなりの奢侈を
許してしまってもいたものだから、御曹司の劉禅も全くの軟弱者に育ってしまい、
乱世の荒波の中で蜀漢を保ち続けさせることもできなかったのだった。
漢帝国の祖たる劉邦のほうはといえば、名士の娘を嫁に取るも、相変わらず
清貧の生活を続け、職務怠惰の逃亡犯となっていた頃の潜伏先で数多の配下
たちを得て、漢一国の王となってからも当時の盟友たちに親しんで、韓信や
陳平といった新手の能力者を近づけることはなるべく遠ざけようとし(ただし
旧友蕭何からの説得によって受け入れる)、漢帝国を樹立してからも、無難な役柄
でいながらも兵士たちの命を司っていた兵站の管理者であった旧友の蕭何を第一の
功労者とし、最大級の戦功を上げた韓信や張良の上にすら置いた。その、どこまでも
泥臭くあろうとする姿勢こそは、金や権力が目当てで寄り付いてくる人間を遠ざける
要因となり、以って400年に渡る漢室の安定の礎ともなることができたのである。
劉邦がそれなりの権勢を得てから寄り付いて来た人間、特に韓信あたりは、
劉邦に対するへつらいとも取れるような言葉すら多々残している。その態度が上っ面
ばかりの修辞じみているのは、食客時代に身に付いたサビであったのかも知れないが、
まだ下級役人や逃亡犯だった頃の劉邦こそを慕って配下となった人びととは一線を
画する性格の持ち主であったわけである。だからこそ、ウサギを採ったあとには、
自分までもが煮殺される走狗とも化してしまったわけで、ただただ有能な臣下で
あったから嫉まれて殺されたなどというのとはわけが違うのである。
介するようでは、むしろ成さねばよかったほどのものとすら化してしまいかねない。
劉備玄徳による漢帝国再興の志しなども、最原初の頃から豪商の支援に頼りきりで、
それを資金源に勢力を拡大させていったものだから、政商を寄せ付けての専横三昧
でいた魏の曹家が、正統の漢室を乗っ取ることを防ぐこともできなかったのだった。
また、いくら自分が大志の持ち主であるといえども、わが子までもがその志しを
継いでくれるとも限らない。商人の多用もあって身内にはそれなりの奢侈を
許してしまってもいたものだから、御曹司の劉禅も全くの軟弱者に育ってしまい、
乱世の荒波の中で蜀漢を保ち続けさせることもできなかったのだった。
漢帝国の祖たる劉邦のほうはといえば、名士の娘を嫁に取るも、相変わらず
清貧の生活を続け、職務怠惰の逃亡犯となっていた頃の潜伏先で数多の配下
たちを得て、漢一国の王となってからも当時の盟友たちに親しんで、韓信や
陳平といった新手の能力者を近づけることはなるべく遠ざけようとし(ただし
旧友蕭何からの説得によって受け入れる)、漢帝国を樹立してからも、無難な役柄
でいながらも兵士たちの命を司っていた兵站の管理者であった旧友の蕭何を第一の
功労者とし、最大級の戦功を上げた韓信や張良の上にすら置いた。その、どこまでも
泥臭くあろうとする姿勢こそは、金や権力が目当てで寄り付いてくる人間を遠ざける
要因となり、以って400年に渡る漢室の安定の礎ともなることができたのである。
劉邦がそれなりの権勢を得てから寄り付いて来た人間、特に韓信あたりは、
劉邦に対するへつらいとも取れるような言葉すら多々残している。その態度が上っ面
ばかりの修辞じみているのは、食客時代に身に付いたサビであったのかも知れないが、
まだ下級役人や逃亡犯だった頃の劉邦こそを慕って配下となった人びととは一線を
画する性格の持ち主であったわけである。だからこそ、ウサギを採ったあとには、
自分までもが煮殺される走狗とも化してしまったわけで、ただただ有能な臣下で
あったから嫉まれて殺されたなどというのとはわけが違うのである。
真っ当な手段や支援のみに頼ろうとする場合と、不正なそれらに頼ってでも望みだけは
叶えようとするのとでは、どうしたって大成後の盛衰に開きが生じてしまうものである。
臣下すら利権に目がくらんで寄り付いて来たような連中が多かった豊臣は滅ぼされた一方、
金は金で遠方の大名の篭絡などに多用した一方、自らの身辺は旧来からの重臣たちで
固め抜いた徳川は長期の治世を築き上げることができた。劉邦も一時は韓信などに頼り
もしていたが、やはり目的のために選ばなかった手段を潔く切り捨てたからこそ、目的
のための手段をあまりにも選ばなさ過ぎたような連中のような破滅は免れられたのである。
豊臣秀吉が徳川家康に「おまえが宝とするものは何だ」と問うた時、家康公は
「死をも恐れぬ五百機の三河武士である」と答えたと言う。天下人としての財宝獲得三昧
に及んでいた秀吉からすれば、鼻で笑いたくなるような返答であったかも知れないのだが、
自らが権勢を得て行く上での最初期からの助成者たちこそを大切にしようとしたその
心意気こそが、やはり幕府の磐石な礎を形成して行くこととなったに違いないのである。
特に、志しを果たして行く上での助成者を吟味することは重要なことだといえる。
身辺はできる限り信用の置ける旧来の仲間であるべきだし、どうしても疎遠な能力者を
用いる必要がある場合にも、その扱いをできる限り限定して行くようにすべきだといえる。
政商のように、絶対に頼りにすべきでないような相手も中にはいて、頼りきりでいれば
それだけで自分たちの自滅を招くことにすらなりかねないので、十分な警戒が必要である。
頼るべき相手、なるべく頼るべきでない相手、絶対に頼るべきでない相手の三者を分別
することすらできたなら、天下を我が物とする資格すらをも手に入れられたのだといえる。
叶えようとするのとでは、どうしたって大成後の盛衰に開きが生じてしまうものである。
臣下すら利権に目がくらんで寄り付いて来たような連中が多かった豊臣は滅ぼされた一方、
金は金で遠方の大名の篭絡などに多用した一方、自らの身辺は旧来からの重臣たちで
固め抜いた徳川は長期の治世を築き上げることができた。劉邦も一時は韓信などに頼り
もしていたが、やはり目的のために選ばなかった手段を潔く切り捨てたからこそ、目的
のための手段をあまりにも選ばなさ過ぎたような連中のような破滅は免れられたのである。
豊臣秀吉が徳川家康に「おまえが宝とするものは何だ」と問うた時、家康公は
「死をも恐れぬ五百機の三河武士である」と答えたと言う。天下人としての財宝獲得三昧
に及んでいた秀吉からすれば、鼻で笑いたくなるような返答であったかも知れないのだが、
自らが権勢を得て行く上での最初期からの助成者たちこそを大切にしようとしたその
心意気こそが、やはり幕府の磐石な礎を形成して行くこととなったに違いないのである。
特に、志しを果たして行く上での助成者を吟味することは重要なことだといえる。
身辺はできる限り信用の置ける旧来の仲間であるべきだし、どうしても疎遠な能力者を
用いる必要がある場合にも、その扱いをできる限り限定して行くようにすべきだといえる。
政商のように、絶対に頼りにすべきでないような相手も中にはいて、頼りきりでいれば
それだけで自分たちの自滅を招くことにすらなりかねないので、十分な警戒が必要である。
頼るべき相手、なるべく頼るべきでない相手、絶対に頼るべきでない相手の三者を分別
することすらできたなら、天下を我が物とする資格すらをも手に入れられたのだといえる。
「曾子曰く、吾れ日に三つを吾が身に省みる。
人の為めに謀して忠ならざるか、朋友に交わりて信ならざるか、習わざるを伝えざるか、と」
「曾先生『私は必ず毎日三つのことを反省するようにしている。他人のために計画を立てて、
それが忠義に欠けていたりしなかったか、友人と交流して信義に欠けるようなマネをしなか
ったか、自分がちゃんと習っているわけでもないようなことを人に伝えたりしなかったか、と』
(計画が達成された所で、それが忠義に欠けていたりするのでは元も子もない。だから結局、
信用のおける者たちを助成者とした、全くの他人頼みでもない計画の実行が重要となるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・四)
「道同じうせざれば、謀の為めに相さず」
「道を同じくするものとでなければ、計画を実行に移すこともない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三九より)
人の為めに謀して忠ならざるか、朋友に交わりて信ならざるか、習わざるを伝えざるか、と」
「曾先生『私は必ず毎日三つのことを反省するようにしている。他人のために計画を立てて、
それが忠義に欠けていたりしなかったか、友人と交流して信義に欠けるようなマネをしなか
ったか、自分がちゃんと習っているわけでもないようなことを人に伝えたりしなかったか、と』
(計画が達成された所で、それが忠義に欠けていたりするのでは元も子もない。だから結局、
信用のおける者たちを助成者とした、全くの他人頼みでもない計画の実行が重要となるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・四)
「道同じうせざれば、謀の為めに相さず」
「道を同じくするものとでなければ、計画を実行に移すこともない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三九より)
邪まな思想信条を排した平静な心と共に、常日頃からの注意を欠かさないでいることで、
人も危難を避ける上での最善を尽くせる一方で、現実から乖離した邪信や悪念で
現実から目を逸らし、紛れもない危機にすら気づきもしないままでいるような
ところでこそ、人は最大級の災禍を我が身に呼び込むことともなるのである。
一方、世の中の大多数の一般人は、上記のうちのいずれにも属することがない。
日々の仕事に追われて邪まな思想信条を排しきることも、自分からそのような
邪信の率先者となることもない、テレビ番組あたりにいくらでも自らの考え方を
変節させられる、「風になびく草」のような存在のままであり続けるのである。
そこで、そのような大多数の一般人を、平静な心と磐石な注意深さの持ち主が導いて行くか、
邪念で現実から目を背けようとするような人間が支配して行くかで、世の中の運命も分かれる。
片や長期の治世をも実現する一方で、片や早急なる破滅を呼び込むことともなる。
結局、一般人が両者のうちのいずれかを自由に選択できるなどということもなく、
権力機構が自浄作用を持つか否かだけで完全にその運命も分かれてしまうものである。
全く自浄作用を持たぬままに、盲目なままでのイケイケ状態でい続けたなら、そのせいでの
破滅が当然やって来る。その時に、政治史をよく学び抜いて撥乱反正をよくするものが
主導者に躍り出たりしたならば、そこから治世が実現されて行くこともありはするが、
所詮はクロムウェルやナポレオンの如き愚人が改革の主導者であり続けたなら、
そのせいでの同じ過ちが繰り返されて行くこととなるのである。
人も危難を避ける上での最善を尽くせる一方で、現実から乖離した邪信や悪念で
現実から目を逸らし、紛れもない危機にすら気づきもしないままでいるような
ところでこそ、人は最大級の災禍を我が身に呼び込むことともなるのである。
一方、世の中の大多数の一般人は、上記のうちのいずれにも属することがない。
日々の仕事に追われて邪まな思想信条を排しきることも、自分からそのような
邪信の率先者となることもない、テレビ番組あたりにいくらでも自らの考え方を
変節させられる、「風になびく草」のような存在のままであり続けるのである。
そこで、そのような大多数の一般人を、平静な心と磐石な注意深さの持ち主が導いて行くか、
邪念で現実から目を背けようとするような人間が支配して行くかで、世の中の運命も分かれる。
片や長期の治世をも実現する一方で、片や早急なる破滅を呼び込むことともなる。
結局、一般人が両者のうちのいずれかを自由に選択できるなどということもなく、
権力機構が自浄作用を持つか否かだけで完全にその運命も分かれてしまうものである。
全く自浄作用を持たぬままに、盲目なままでのイケイケ状態でい続けたなら、そのせいでの
破滅が当然やって来る。その時に、政治史をよく学び抜いて撥乱反正をよくするものが
主導者に躍り出たりしたならば、そこから治世が実現されて行くこともありはするが、
所詮はクロムウェルやナポレオンの如き愚人が改革の主導者であり続けたなら、
そのせいでの同じ過ちが繰り返されて行くこととなるのである。
東洋史上には、腐敗した政権が一掃されて清廉な権力機構が建て直されることで
数百年規模の治世が実現されるということがままあるが、西洋史にはそういった事例は
まったくない。権力の腐敗が極まれば、亡国級の大破綻を来たして、それからまた同じような
過ちを繰り返し始めるといったことの繰り返しで、それが一般人にとってもたまったもんじゃ
ないから、欧州から脱出してアメリカなどへと逃亡する者が多数にも上ってしまったのだった。
しかし、もはやこの地球上に逃亡先などはなく、地球外に脱出する選択肢も億人単位などでは
閉ざされている。それでいてアメリカの経済なども、盲目なままでの放辟邪侈がたたって
破綻寸前と来ている。これ以上の暴落などは世界大戦にも直結するからアメリカ株の大変動は
強制的に控えられ、変わりに日本株の乱暴な売り買いなどで気を紛らわそうとしているのが
現状だが、盲目なイケイケこそは2000年来の性分であり続けてきた欧米人のこと、全面的な
やりたい放題を控える節制状態も、いったいいつまで持つのか知れたもんではない。
日本や東洋に限らず、いま世界規模で、盲目な愚人から冷静な注意者への大権の譲渡が
必要とされている。世界人口が70億人にも上る現状において、大容量情報を機械的に処理
するためのコンピュータへの依存なども避けられないことではあるが、要となるのはやはり、
世界の命運を司る人間たち自身が、模範とするに値する主導者を頂くことだといえる。それが
叶わぬようなら、割れ瓶に水を汲むような徒労の対応しかできないままに終わるのである。
「礼は往来を尚ぶ。往きて来たらざるは非礼なり、来たりて往かざるも亦た非礼なり。
人に礼有れば則ち安し、礼無ければ則ち危し。故に曰く、礼は学ばざる可からざるなりと」
「礼儀は双方向性を尊ぶ。あちらからこちらへと一方的でばかりあるのも非礼だし、
こちらからあちらへと一方的ばかりであるのも非礼である。人に礼儀があれば安全だが、
礼儀がなければ危うい。故に、礼儀のためには絶え間ない勉学精進が必要ともされる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
数百年規模の治世が実現されるということがままあるが、西洋史にはそういった事例は
まったくない。権力の腐敗が極まれば、亡国級の大破綻を来たして、それからまた同じような
過ちを繰り返し始めるといったことの繰り返しで、それが一般人にとってもたまったもんじゃ
ないから、欧州から脱出してアメリカなどへと逃亡する者が多数にも上ってしまったのだった。
しかし、もはやこの地球上に逃亡先などはなく、地球外に脱出する選択肢も億人単位などでは
閉ざされている。それでいてアメリカの経済なども、盲目なままでの放辟邪侈がたたって
破綻寸前と来ている。これ以上の暴落などは世界大戦にも直結するからアメリカ株の大変動は
強制的に控えられ、変わりに日本株の乱暴な売り買いなどで気を紛らわそうとしているのが
現状だが、盲目なイケイケこそは2000年来の性分であり続けてきた欧米人のこと、全面的な
やりたい放題を控える節制状態も、いったいいつまで持つのか知れたもんではない。
日本や東洋に限らず、いま世界規模で、盲目な愚人から冷静な注意者への大権の譲渡が
必要とされている。世界人口が70億人にも上る現状において、大容量情報を機械的に処理
するためのコンピュータへの依存なども避けられないことではあるが、要となるのはやはり、
世界の命運を司る人間たち自身が、模範とするに値する主導者を頂くことだといえる。それが
叶わぬようなら、割れ瓶に水を汲むような徒労の対応しかできないままに終わるのである。
「礼は往来を尚ぶ。往きて来たらざるは非礼なり、来たりて往かざるも亦た非礼なり。
人に礼有れば則ち安し、礼無ければ則ち危し。故に曰く、礼は学ばざる可からざるなりと」
「礼儀は双方向性を尊ぶ。あちらからこちらへと一方的でばかりあるのも非礼だし、
こちらからあちらへと一方的ばかりであるのも非礼である。人に礼儀があれば安全だが、
礼儀がなければ危うい。故に、礼儀のためには絶え間ない勉学精進が必要ともされる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
人間社会が一定以上の規模で存在している以上は、そこに必要悪としての法規もまた生ずるものである。
ただ、それを善用するか悪用するか、正法に合致させるか徒法だらけと化すかといった違いがあるのみで、
全く何らの法規にも患わせられなくて済むなどということはない。あるとすればそれは、正しい法規で
取り決められることなどは全て自然と守り通せる、「心の欲する所に従ってその矩をこえず(論語)」
という境地にある聖賢であるからといった場合に限るといえる。
実際のところ、善法は守ったほうが快いものであり、だからこそわざわざ意識的に守ろうとせずとも、
善徳に従って快いものを追い求めた結果として、好きなようにやっても善法の範疇にいられたり
するのである。舜帝や孔子などは実際にそのようでいたらしく、実定法を故意に守ったりするよりも、
そういった聖賢のひそみに倣うようにしたほうが、健全で快活な法遵守者となれたりもするのである。
一切の社会法規を無視する無秩序主義者などは、善法の遵守すら損なってしまうわけだから、
その分だけ人並み以上の苦悩にすら囚われることとなる。狂言的な冤罪刑死劇に際して、イエスが
十字架上で苦悶のままに死滅したのもそのような理由があったからであり、その苦悩は犯罪者が
良心の呵責に苛まれる場合の苦悩とも基本的に変わりはしなかったのである。別にイエスが
当時のローマ帝国の法規に反していたわけでなくとも、一切の法律を無みしようとした
イエス本人の罪深い心持ち自体が、多大なる苦悩を本人に植え付けたにも違いないのである。
無法を志す心持ちと、徒法に煩わされる心持ちと、罪を犯して良心の呵責に苛まれる心持ちとが、
善法を遵守しないが故の苦悩に苛まれる点で全く共通している。キリスト教国や法治主義国でも
明確な断罪の対象とされるのは実定法違反の罪を犯した場合のみであり、これは上三つの
原因に基づく苦難や災禍を防止することを少しも保証してくれたりするものではない。
ただ、それを善用するか悪用するか、正法に合致させるか徒法だらけと化すかといった違いがあるのみで、
全く何らの法規にも患わせられなくて済むなどということはない。あるとすればそれは、正しい法規で
取り決められることなどは全て自然と守り通せる、「心の欲する所に従ってその矩をこえず(論語)」
という境地にある聖賢であるからといった場合に限るといえる。
実際のところ、善法は守ったほうが快いものであり、だからこそわざわざ意識的に守ろうとせずとも、
善徳に従って快いものを追い求めた結果として、好きなようにやっても善法の範疇にいられたり
するのである。舜帝や孔子などは実際にそのようでいたらしく、実定法を故意に守ったりするよりも、
そういった聖賢のひそみに倣うようにしたほうが、健全で快活な法遵守者となれたりもするのである。
一切の社会法規を無視する無秩序主義者などは、善法の遵守すら損なってしまうわけだから、
その分だけ人並み以上の苦悩にすら囚われることとなる。狂言的な冤罪刑死劇に際して、イエスが
十字架上で苦悶のままに死滅したのもそのような理由があったからであり、その苦悩は犯罪者が
良心の呵責に苛まれる場合の苦悩とも基本的に変わりはしなかったのである。別にイエスが
当時のローマ帝国の法規に反していたわけでなくとも、一切の法律を無みしようとした
イエス本人の罪深い心持ち自体が、多大なる苦悩を本人に植え付けたにも違いないのである。
無法を志す心持ちと、徒法に煩わされる心持ちと、罪を犯して良心の呵責に苛まれる心持ちとが、
善法を遵守しないが故の苦悩に苛まれる点で全く共通している。キリスト教国や法治主義国でも
明確な断罪の対象とされるのは実定法違反の罪を犯した場合のみであり、これは上三つの
原因に基づく苦難や災禍を防止することを少しも保証してくれたりするものではない。
上の三つの選択肢しか人間には与えられていないという思い込みから、自由主義という
ものもまた生じた。しかし、あらゆる法規を否定しつくしての自由状態などというのは、
かえって苦悩を伴うものでもあるから、ニーチェのような発狂か、多くのアメリカ人が
患っているような麻薬中毒や摂食障害などにも陥ってしまいがちなのである。
禅仏教で提唱された本来の「自由」は、そういう意味ではなかった。孔子のいう「心の欲する所に従って
矩を超えず」が盤石化された結果として、最大級の自由をも手に入れるというものであった。だからこそ、
禅で尊ばれる自由を追い求めたからといって、単なる無法主義の自由を追い求めた場合のような苦悩の
副作用などは伴わない。自由がそのまま善法の遵守にも合致して、無上の快さをも伴わせることとなる。
目的達成のための尽力の過程で苦労があったりするのはともかく、目指している目的が苦悩であったり
するのでは、完全にマゾヒズムという変態志向である。イギリス人のように飯のうまさも分からない
無感覚者となってまでそれを追い求めたとしても、やはりマゾヒズムはマゾヒズムである。
そのような変態志向と、過渡的な苦労とを混同するようなことが決してあってもならないのである。
「盤庚、民に教え、乃じの在位を由い、常旧の服を以って
法度を正さしむ。曰く、敢えて小人の箴むる処を伏すること或る無かれ」
「商王の盤庚は民を教化するために、自分たちの管轄の有司に頼ることと、古来からの旧法によく則ること
とを民たちに促した。そしてこう言った。『身分の低いような人間からの注意すら無視してはならない』と。
(一定の権威の下で古法すら蔑ろにしようとすること自体、度し難い不義に当たるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・大禹謨より)
ものもまた生じた。しかし、あらゆる法規を否定しつくしての自由状態などというのは、
かえって苦悩を伴うものでもあるから、ニーチェのような発狂か、多くのアメリカ人が
患っているような麻薬中毒や摂食障害などにも陥ってしまいがちなのである。
禅仏教で提唱された本来の「自由」は、そういう意味ではなかった。孔子のいう「心の欲する所に従って
矩を超えず」が盤石化された結果として、最大級の自由をも手に入れるというものであった。だからこそ、
禅で尊ばれる自由を追い求めたからといって、単なる無法主義の自由を追い求めた場合のような苦悩の
副作用などは伴わない。自由がそのまま善法の遵守にも合致して、無上の快さをも伴わせることとなる。
目的達成のための尽力の過程で苦労があったりするのはともかく、目指している目的が苦悩であったり
するのでは、完全にマゾヒズムという変態志向である。イギリス人のように飯のうまさも分からない
無感覚者となってまでそれを追い求めたとしても、やはりマゾヒズムはマゾヒズムである。
そのような変態志向と、過渡的な苦労とを混同するようなことが決してあってもならないのである。
「盤庚、民に教え、乃じの在位を由い、常旧の服を以って
法度を正さしむ。曰く、敢えて小人の箴むる処を伏すること或る無かれ」
「商王の盤庚は民を教化するために、自分たちの管轄の有司に頼ることと、古来からの旧法によく則ること
とを民たちに促した。そしてこう言った。『身分の低いような人間からの注意すら無視してはならない』と。
(一定の権威の下で古法すら蔑ろにしようとすること自体、度し難い不義に当たるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・大禹謨より)
「朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり(既出)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——里仁第四・八より)
これもやはり、言葉で道を聞くことができるなどということからして稀有なことで
あればこそ提言されたことでもある。言葉だけで道が看破される、そんなことは
基本あり得ないから、そんなことがあれば直後に死んでも構わないとしたのである。
当然、言葉ばかりに頼らない、実地からの努力精進が道に到る最善の手段であり、
それに際しての補助的な手段として聖賢の古言などを頼りにすることがある。
「己れの欲せざる所を人に施すことなかれ」というごく当たり前な徳目が、
ただ当たり前な物言い止まりにしか聞こえないこともあれば、本当に道に
到る際の決定的な金言として聞こえる場合もあるのであり、それは当人
たち自身の自前の練達度の如何によってこそ決まることなのである。
道を目指して努力精進を続けていれば自然と、言葉で道を聞けただけでも、
その直後に死んだって構わないぐらいの気前よさでいられるようになるのである。
常日頃から健全な苦労を重ねてきているが故に、それが報われすらしたなら、
もう死んだって構わないぐらいの大きな期待を込められるわけである。
そういう、道の完成の手段としての「言葉を聞く」というのはアリであり、
実際それこそは、筆者の死後まで半永久的にその意味内容を保存し続ける
言葉という媒体の健全な活用法にも当たるのである。始めから言葉ばかりに
頼りっぱなし、行いも全て言葉に頼りきりでいたりするのでは、大した成果も
見込めない上に、言葉という道具の不健全な活用の仕方ともなってしまうのである。
(権力道徳聖書——通称四書五経——里仁第四・八より)
これもやはり、言葉で道を聞くことができるなどということからして稀有なことで
あればこそ提言されたことでもある。言葉だけで道が看破される、そんなことは
基本あり得ないから、そんなことがあれば直後に死んでも構わないとしたのである。
当然、言葉ばかりに頼らない、実地からの努力精進が道に到る最善の手段であり、
それに際しての補助的な手段として聖賢の古言などを頼りにすることがある。
「己れの欲せざる所を人に施すことなかれ」というごく当たり前な徳目が、
ただ当たり前な物言い止まりにしか聞こえないこともあれば、本当に道に
到る際の決定的な金言として聞こえる場合もあるのであり、それは当人
たち自身の自前の練達度の如何によってこそ決まることなのである。
道を目指して努力精進を続けていれば自然と、言葉で道を聞けただけでも、
その直後に死んだって構わないぐらいの気前よさでいられるようになるのである。
常日頃から健全な苦労を重ねてきているが故に、それが報われすらしたなら、
もう死んだって構わないぐらいの大きな期待を込められるわけである。
そういう、道の完成の手段としての「言葉を聞く」というのはアリであり、
実際それこそは、筆者の死後まで半永久的にその意味内容を保存し続ける
言葉という媒体の健全な活用法にも当たるのである。始めから言葉ばかりに
頼りっぱなし、行いも全て言葉に頼りきりでいたりするのでは、大した成果も
見込めない上に、言葉という道具の不健全な活用の仕方ともなってしまうのである。

ための一番の道具となるわけでもない。念仏行における極楽浄土の観想なども、
言葉で表しきれないほどの荘厳であればこそなおのことよいのである。
「南無阿弥陀仏」という言葉もそれ自体が真言や呪文だったりするわけではなく、
ただその言葉通りに阿弥陀様に帰依する心持ちでいることこそが重要なのである。
その領分をよく計り知った上で用いられる「言葉」という道具の有用さは、
それこそ計り知れないほどのものであるわけだけれども、そうでない、扱い方を
間違えた言葉のほうには、確かに限界というものがある。それこそ、適切に
使用される言葉のそれよりも遥かに早くのうちから来たしてしまう限界であり、
その信頼性の脆弱さの故にこそ「扱い方を間違っている」ともいえるわけである。
厳しい精進修行の果てに、悟りに到る真言に与る、その有難さを知っている者が
どうして、始めから言葉ばかりに頼りきりでいようなどとすることがあるだろうか。
それこそ、本人自身の精進と信心の、両方が足りていない証拠といえるのではないか。
「之の子于に征く、聞くこと有るも声無し。允なるかな君子、展に大いに成せり」
「主君が狩りに行かれれば、聞きたいことはあるけれども、もはや声もない。
偉大なるかなかの君子は、そこでこそ真に大成を果たされているのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・彤弓之什・車攻より)
いま、欧米聖書圏の横暴によって人類が滅亡の危機に晒されていることも、
聖書信仰が未だに市民権を得たままでいてしまっているからこそ、
ろくに人びとから直視されることもない。聖書の神もまた畏怖して
崇敬するに値する存在であると認められてしまっているものだから、
そうだと思い込んでいる対象が自分たちを致命的な破滅に追い込んで
いることを直視したりするのは、自分たちの過ちを直視することにすら
なってしまう、だからこそ、あえて直視する者すら皆無なままなのである。
聖書信仰と反目し合っているイスラムなども、同じアブラハム教の範疇で、
教義の相違を理由にいがみ合っているだけであるわけだから、聖書の神の
多少なりともの権威の容認にも与してしまっているといえるわけで、
聖書の神こそが人類を滅亡の危機に陥れていることを人びとに
直視させることを助けているとまではいえないわけである。
畏怖したり権威を認めたりすべきでない対象を相応に扱うべきなのは
もちろんだが、だからといって感情的に敵視したりするのでもいけない。
もはやそんなものを有難がっていていい状況ではないということを、
どこまでも冷静に肯んじて行くことこそは本当に必要なことである。
してみれぱ、世界を滅亡の危機から救うためには、聖書信者も信仰を
鞍替えするのではなく、邪信ペースの信仰を一度は捨て去ることこそが
肝要となるのである。邪神を畏怖するような心持ちから改めていかなければ
ならないわけだから、正信に鞍替えすらすればそれでいいというわけでもない。
聖書信仰が未だに市民権を得たままでいてしまっているからこそ、
ろくに人びとから直視されることもない。聖書の神もまた畏怖して
崇敬するに値する存在であると認められてしまっているものだから、
そうだと思い込んでいる対象が自分たちを致命的な破滅に追い込んで
いることを直視したりするのは、自分たちの過ちを直視することにすら
なってしまう、だからこそ、あえて直視する者すら皆無なままなのである。
聖書信仰と反目し合っているイスラムなども、同じアブラハム教の範疇で、
教義の相違を理由にいがみ合っているだけであるわけだから、聖書の神の
多少なりともの権威の容認にも与してしまっているといえるわけで、
聖書の神こそが人類を滅亡の危機に陥れていることを人びとに
直視させることを助けているとまではいえないわけである。
畏怖したり権威を認めたりすべきでない対象を相応に扱うべきなのは
もちろんだが、だからといって感情的に敵視したりするのでもいけない。
もはやそんなものを有難がっていていい状況ではないということを、
どこまでも冷静に肯んじて行くことこそは本当に必要なことである。
してみれぱ、世界を滅亡の危機から救うためには、聖書信者も信仰を
鞍替えするのではなく、邪信ペースの信仰を一度は捨て去ることこそが
肝要となるのである。邪神を畏怖するような心持ちから改めていかなければ
ならないわけだから、正信に鞍替えすらすればそれでいいというわけでもない。
正信のほうを見てみれば、別に念仏者が阿弥陀仏を酷く畏怖している
などということもない。ただ自分を極楽浄土へと導いてくれる都合のいい
仏として崇めているだけで、そこに敬虔な畏怖なども見られないものだから、
聖書信者などからあまり好ましいものとして扱われなかったりもするのである。
しかし、他力本願の愚夫としては、それも身の程にかなったものである。
むしろ自力作善をよくする者こそは、神仏への敬虔な畏敬や、主君や親への
崇敬をも重んじられるものなのであり、それでこそ独力での向上すらもが
見込めるわけである。そうでもなく、別に自助努力での向上を志している
わけでもない人間が、神への畏怖だけは作りこんだりするのは「ごっこ遊び」
もいいとこなわけで、着実な精進が伴っているわけでもないが故に、その
畏怖が悪行の美化のために悪用されることにすらなりかねないわけである。
親や国君への十分な畏敬も抱けないような人間が、架空の神に対してだけは
畏敬を抱いたりすることからして、すでに思い上がりの正当化であることが
紛れもない。そんな偽善者よりはまだ、自らの思い上がりと真摯に向き合って
生きている人間のほうがマシというもの。見た目にはより卑しいにしたって、
心のうちにまだ、本気で自らを反省する余地があるに違いないのだから。
「天を楽しむ者は天下を保んじ、天を畏るる者は其の国を保んず。
(詩に)云く、天の威を畏れて時に之れを保んずると」
「天を楽しむものは天下を平定し、天を畏怖するものは国を平定する。
詩経(我将)にも『天の威を畏れつつ、ここにわが国を安んずる』とある。
(自力作善の権力道徳者が、君父の尊位にも則りつつ、天威をも畏れて
国を平定する。それはそれでありだが、天を楽しめたならなおのことよい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・三より)
などということもない。ただ自分を極楽浄土へと導いてくれる都合のいい
仏として崇めているだけで、そこに敬虔な畏怖なども見られないものだから、
聖書信者などからあまり好ましいものとして扱われなかったりもするのである。
しかし、他力本願の愚夫としては、それも身の程にかなったものである。
むしろ自力作善をよくする者こそは、神仏への敬虔な畏敬や、主君や親への
崇敬をも重んじられるものなのであり、それでこそ独力での向上すらもが
見込めるわけである。そうでもなく、別に自助努力での向上を志している
わけでもない人間が、神への畏怖だけは作りこんだりするのは「ごっこ遊び」
もいいとこなわけで、着実な精進が伴っているわけでもないが故に、その
畏怖が悪行の美化のために悪用されることにすらなりかねないわけである。
親や国君への十分な畏敬も抱けないような人間が、架空の神に対してだけは
畏敬を抱いたりすることからして、すでに思い上がりの正当化であることが
紛れもない。そんな偽善者よりはまだ、自らの思い上がりと真摯に向き合って
生きている人間のほうがマシというもの。見た目にはより卑しいにしたって、
心のうちにまだ、本気で自らを反省する余地があるに違いないのだから。
「天を楽しむ者は天下を保んじ、天を畏るる者は其の国を保んず。
(詩に)云く、天の威を畏れて時に之れを保んずると」
「天を楽しむものは天下を平定し、天を畏怖するものは国を平定する。
詩経(我将)にも『天の威を畏れつつ、ここにわが国を安んずる』とある。
(自力作善の権力道徳者が、君父の尊位にも則りつつ、天威をも畏れて
国を平定する。それはそれでありだが、天を楽しめたならなおのことよい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・三より)
この人頭おかしいのかな。^^
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