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いま地球規模で巻き起ころうとしている甚大な災禍も、基本的には、その元凶となる
悪(ユダヤ)や偽善(キリスト)を、人間たち自身が進んで貪って来たことを原因としている。
「好き好んで」であれ、「分かっちゃいるけど辞められない」であれ、悪ユダヤや偽善キリストを
少しも忌避しようとすらせず、あるがままに取り入れていって、逆に善や不悪の堅持は疎かにして来た。
だから甚大な災禍に見舞われて、惨死や大きな辱めに甘んずることを、全くの自業自得で余儀なくされている。
そんな状態で、禍福があざなえる縄のように密接に結びついていることを嘆く権利すら、ちっともありゃしない。
密接に絡み合っている禍福の縄を丹念に解きほぐして、悪因苦果を避けて善因楽果を選取する努力もそれなりに
尽くした上で、それでもなお禍福の縄が解きほぐしきれなかったために、多少の災禍に見舞わてしまったり
するときにこそ、善悪禍福の選別のし難さからなる、不遇を嘆くことも許されるというもの。
不遇を嘆く権利もなく、またその余裕もないうちに、あっという間にその災禍はやってくる。
無痛症患者が「ちっとも痛くないよ〜だ」などと開き直っていられるのも、幸いではなく不幸の内だ。
「幸」という時は「手枷」の象形文字であり、手枷程度の刑罰で済むことが「さいわい」という意味だが、
無痛症の累犯障害カルト信者の行き着く先も決して、手枷のような軽度の制裁ばかりで済むものではないからな。
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