儒学の流布は多分、古流柔術の現代版である合気道の流布に近い形式になるかと思う。
合気道家にも色々いて、本当に合気技の体得を志している人間もいれば、
お遊び程度でやっている人間もいる。全く営利目的抜きで運営している道場もあれば、
講習料を稼ぐためにそれなりの営業システムを整えている道場もある。
実際のところ、ぜんぜん技を体得できてもいないのに
合気道の看板だけ掲げてるようなエセ道場もあるが、合気道の神髄自体は本物なので、
その神髄をすら体得できたなら、少女が大男を張り飛ばすことだってできなくはない。
ただ、その神髄を会得するのが極めて困難なことなので、
実際の合気道家が本当に実力があるかどうかはまちまちとなり、
「合気道家なら絶対に技量を信用できる」というところまでは、さすがにいかない。
それでも、合気道人口が増えれば、総合的に見て合気技を体得できている可能性のある
人間の数も増えることになるわけで、そこら中に合気道の修練者がたむろしている状態
ともなれば、もはやならず者もヘタに暴力行為などに及ぶことは避けるようになる。
それと同じで、儒者であれば絶対に知見の信用が置けるなんてことはなくても、
そこら中に儒学の勉強者がたむろするようになれば、徒党を組んで権力犯罪をやらかそうにも、
告発や大勢の人間からの村八分扱いが怖くなって、おいそれと手出しができなくなる。
それこそは、儒学の流布によって実現しようとするところであり、儒者なら全てが全て
聖人君子であるなどというところまでは期待しない。全ての儒者を聖人君子にするぐらいなら、
神道家や仏僧を育成していくことのほうをまだ優先すべきだ。東洋学の登竜門であり、
はじめの第一歩でしかないからこそ、仮に靴泥棒だった孟子の弟子のような人間が
いたとしても、それを以て儒学の権威が全否定されたりするのではかなわない。
儒学の流布は、それ自体が一つの儒学の実用になるわけだから。
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