
仏教ってのは、元より「俗諦」としての道徳倫理の価値を認めている宗教であって、
正式な出家得度などを為さない世俗の人間が、道徳倫理をわきまえることは推奨している。
その仏教が、一見、子供だましにも思えるような地獄の描写を方便として用いていて、
その内実も卑猥だったり、猟奇やグロテスクの極みだったりする。このような扇情的な傾向は、
世俗道徳一辺倒の観点からすれば異常なものであり、鼻つまみものとすべきものですらある。
実際に宋代の儒者なども、仏者が絶望的な苦しみをあらわにする姿を「あたかも巨石を抱きながら
池に飛び込むかのごとき愚行(近思録)」だなどと批判している。しかし、仏者が地獄や
鬼畜のような下等な事物までをも、露骨な方便として標榜するのにはもちろん意味があるし、
ただ意味があるだけでなく、高度に道徳倫理的な意味までもが備わっている。
一つには、本当に子供だましとして、死後地獄に落ちたり浄土に往生したりするのだと
見せかけて、その程度のものとしての方便にすら釣られるような凡夫を、吉方へと導いてやるため。
これはもう、死後の世界の実在などを認めない大部分の現代人にとっても全く無効な方便。
しかし、仏の意図がそんなに低劣な領域に止まっているわけもなく、
さらにその内奥に、現代人ですら納得せざるを得ないような深い意味が備わっている。
地獄界への定住や、鬼畜界への定住に慣れてしまって、もはや自分たちが地獄の鬼畜であることを
自覚すらできなくしまっているような亡者に対して、あたかも自分の本当の姿だけが映る鏡を
見せるようにして、地獄の鬼畜としての己が正体を、「地獄」という方便で如実に見せ付けてやる。
それにより、安からざる処に安らぎ、楽しからざるものを楽しむ「狂生(荀子)」への惑溺に
冷や水をぶっかけてやって、本当は極重の苦しみに喘ぎ続けていることを自覚させる意図があるのだ。
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