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聖書 Part5
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「聖書」という言葉の原典となっている「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下の記述に基づけば、「聖書」とは
①聖人が書いた書物。
②叙勲などを司る記録官による、正式な記録作業によって編纂された書類。
③賢愚の分け隔てなく全ての評価対象者をおしなべて取り上げた書物。
④賢愚をおしなべて取り上げつつも、その格の上下に合わせた公正な評価が行き届いている書物。
⑤年功や等級の高低を重視し、分をわきまえない僭越などを十全に排している書物。
といった条件を満たしている書物のことであり、そのような書物の中でも、最も代表的かつ古典的であるのが四書五経。
①の条件は孔子の書いた「易経」繋辞伝や「春秋経」、曾子の書いた「大学」や子思子の書いた「中庸」などが満たしている。
②の条件は太古の正式な政治記録である「書経」が(ただしあまりにも太古過ぎるため、多少の修繕がなされている)、
③と④の条件は「詩経」の大雅小雅両篇や「春秋経」が、⑤の条件は身分秩序を重んじる「易経」「論語」「礼記」などが
満たしている。まさに四書五経こそは、「聖書」という言葉の厳密な条件を満たしきるために著されたような書物であり、
これほどにも聖書の名に値する書物は、他に存在しないと言えるほど。ここはその真正聖書たる四書五経などについて語るスレ。
(画像は「論語」の主人公孔子、「孟子」の主人公孟子、「大学」の著者曾子、「中庸」の著者子思子の四名。四書の各筆頭)

①聖人が書いた書物。
②叙勲などを司る記録官による、正式な記録作業によって編纂された書類。
③賢愚の分け隔てなく全ての評価対象者をおしなべて取り上げた書物。
④賢愚をおしなべて取り上げつつも、その格の上下に合わせた公正な評価が行き届いている書物。
⑤年功や等級の高低を重視し、分をわきまえない僭越などを十全に排している書物。
といった条件を満たしている書物のことであり、そのような書物の中でも、最も代表的かつ古典的であるのが四書五経。
①の条件は孔子の書いた「易経」繋辞伝や「春秋経」、曾子の書いた「大学」や子思子の書いた「中庸」などが満たしている。
②の条件は太古の正式な政治記録である「書経」が(ただしあまりにも太古過ぎるため、多少の修繕がなされている)、
③と④の条件は「詩経」の大雅小雅両篇や「春秋経」が、⑤の条件は身分秩序を重んじる「易経」「論語」「礼記」などが
満たしている。まさに四書五経こそは、「聖書」という言葉の厳密な条件を満たしきるために著されたような書物であり、
これほどにも聖書の名に値する書物は、他に存在しないと言えるほど。ここはその真正聖書たる四書五経などについて語るスレ。
(画像は「論語」の主人公孔子、「孟子」の主人公孟子、「大学」の著者曾子、「中庸」の著者子思子の四名。四書の各筆頭)

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諸行無常の絶対真理をわきまえて、なおその哀しみを乗り越えるのと、
そもそもわきまえられもせずに、死してなお生きているかのように本気で
思い込むのとでは、人の死に対する応対の仕方も、決定的に異なってくる。
たとえば、「礼記」曲礼上第一には「生には来日をかぞえ、死には往日をかぞえる」とあり、
生きている間はその誕生日を祝い、死んでからはその命日を悼むのが礼儀にかなうとされている。
今の日本でも、家の先祖を供養する祭は、一番最後に死んだ故人の命日付近に行うのが慣例となっている。
祝日に指定されていた昭和天皇の誕生日も、崩御後には「みどりの日」に改定されたし、
不体失往生を主張した親鸞聖人ですら、今度の七百五十回忌が悼まれるという。
人の死の荘重さを相応にわきまえた、正しい礼式を守っている人々が、もちろん故人についての
誕生日は祝わずに命日を悼む慣習を守っている一方で、死者の誕生日を祝い続けるバカな奴らもいて、
グーグルなども、孔子の誕生日まで祝おうとする始末。完全に孔子自身の意向に反しているというのに。
「孔子曰く、死に之きて之れを死せりと致すは、不仁にして為す可からざるなり。
死に之きて之れを生けりと致すは、不知にして為す可からざるなり」
「孔先生は言われた。『人が死んだときに、ことさらにその死を強調するのは、仁にもとるのですべきでない。
また、死んだにもかかわらず、存命者であるかのように扱うことも、無知蒙昧も甚だしいのですべきでない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
>>479の孔子の言のとおり、人の死を殊更に強調するのも、それはそれで無礼なことだから、
礼節豊かな東洋人の大部分は、自分たち自身が無礼者と化してしまうことを忌んで、
死者をあたかも生きているかのように扱う無礼を犯している西洋人などに対して、
「人は死んだ以上は生き返らない」というような、露骨な反駁をあまりしようともしない。
でも、西洋人のほうもバカだから、死者を生きているかのように扱う自分たちの姿勢が
殊更な批判を受けてもいないからといって、図に乗って余計にゾンビごっこを増長させる。
それをただ黙認するのも従犯となってしまうから、経書の記述に基づけば、自分までもが無礼と化して
しまう禁をあえて犯してでも、「人は死んだ以上は二度と生き返らない」という反駁を、強調している。
人は死んだ以上は二度と生き返らない、にもかかわらず口先の物言い(ロゴス)だけで
死者をも生き返らせた気になっていることなどが、甚だしい欺瞞であり、そのような欺瞞に
2000年近くものあいだ浴し続けてきた西洋人のあり方たるや、ことごとく全くの狂生>>439であり、
それにより数億人の人々を犠牲に追いやる重権力犯罪の主導者となりながら、未だ良心の呵責に苛まれる
こともなく呆けたままでいることが、完全禁治産級の、最重度の精神障害であると断定するにも相応しい。
「亡きなるに有りと為し、虚なるに盈てりと為し、約なるに泰と為す。難しいかな、恒有ること」
「死んでいながら生きているとしたり、虚構でありながら実質であるかのようにしたり、
貧困の元凶でありながら豊かだということにしたりするのでは、常あることも難しかろうな」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七より)
礼節豊かな東洋人の大部分は、自分たち自身が無礼者と化してしまうことを忌んで、
死者をあたかも生きているかのように扱う無礼を犯している西洋人などに対して、
「人は死んだ以上は生き返らない」というような、露骨な反駁をあまりしようともしない。
でも、西洋人のほうもバカだから、死者を生きているかのように扱う自分たちの姿勢が
殊更な批判を受けてもいないからといって、図に乗って余計にゾンビごっこを増長させる。
それをただ黙認するのも従犯となってしまうから、経書の記述に基づけば、自分までもが無礼と化して
しまう禁をあえて犯してでも、「人は死んだ以上は二度と生き返らない」という反駁を、強調している。
人は死んだ以上は二度と生き返らない、にもかかわらず口先の物言い(ロゴス)だけで
死者をも生き返らせた気になっていることなどが、甚だしい欺瞞であり、そのような欺瞞に
2000年近くものあいだ浴し続けてきた西洋人のあり方たるや、ことごとく全くの狂生>>439であり、
それにより数億人の人々を犠牲に追いやる重権力犯罪の主導者となりながら、未だ良心の呵責に苛まれる
こともなく呆けたままでいることが、完全禁治産級の、最重度の精神障害であると断定するにも相応しい。
「亡きなるに有りと為し、虚なるに盈てりと為し、約なるに泰と為す。難しいかな、恒有ること」
「死んでいながら生きているとしたり、虚構でありながら実質であるかのようにしたり、
貧困の元凶でありながら豊かだということにしたりするのでは、常あることも難しかろうな」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七より)
罪悪を望んでいないのでも欲していないのでもない。心の底から望み、欲している。
一方で、仁徳に根ざした本物の正義などは、本当に望んでも欲してもおらず、
そもそも仁徳とか正義とかいったものの本性を、未だかつて一度も察知したことすらない。
犯罪聖書もそれなりの分量があり、全文を読みこなすのも相当な勉強家でなければ覚束ない。
(特に、JBS版の版組などは、まともに読ませる気もないぐらいにギチギチ詰めになっている)
それが、丸ごと一冊権力犯罪正当化の教科書であり、人類にとっての最大級の「悪の教典」で
あることを察知したころには、もうすでに大部分の人間が、全人類にとっての「正義の教典」で
ある四書五経のほうを勉強し直すほどもの気概は萎えきってしまっている。犯罪聖書を
査読し尽くすのも一苦労だったというのに、その犯罪聖書よりもさらにその分量が多く、
ヘブライ語やラテン語なんぞよりも遥かに難解な漢語で書かれた四書五経を
また一から勉強し直すなんてのは、途方もない絶望感を誘う難儀に違いない。
だから、四書五経と犯罪聖書を共に勉強し尽くすほどもの、十分な気概の持ち主でもない限りは、
罪悪への欲求ばかりを助長する犯罪聖書の勉強や嗜好は完全に途絶して、仁徳や正義への
積極的な欲求こそを養う、四書五経のみの専修に努めたほうがいい。ヘタに犯罪聖書なんかを
勉強すれば、ちょうどブッシュジュニアのように、正義を欲しているつもりでいながら、
限りのない罪悪を欲し、実際に実行するようなことにすらなってしまいかねないから。
「士は窮しても義を失わず、達しても道を離れず。
窮しても義を失わざるが故に士己れを得、達しても道を離れざるが故に民も望みを失わず」
「士人は窮地に追い込まれても道義を失わず、栄達しても道義から離れはしない。
窮地に追い込まれても道義を失わないでいられるから、我れを見失うようなこともなく、
栄達しても道義から離れないでいられるから、被治者である民ですらもが望みを失うことがない。
(我れを見失わぬ士人が統治する世の中では、民ですらもが望みを取り違えたりはしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・九より)
一方で、仁徳に根ざした本物の正義などは、本当に望んでも欲してもおらず、
そもそも仁徳とか正義とかいったものの本性を、未だかつて一度も察知したことすらない。
犯罪聖書もそれなりの分量があり、全文を読みこなすのも相当な勉強家でなければ覚束ない。
(特に、JBS版の版組などは、まともに読ませる気もないぐらいにギチギチ詰めになっている)
それが、丸ごと一冊権力犯罪正当化の教科書であり、人類にとっての最大級の「悪の教典」で
あることを察知したころには、もうすでに大部分の人間が、全人類にとっての「正義の教典」で
ある四書五経のほうを勉強し直すほどもの気概は萎えきってしまっている。犯罪聖書を
査読し尽くすのも一苦労だったというのに、その犯罪聖書よりもさらにその分量が多く、
ヘブライ語やラテン語なんぞよりも遥かに難解な漢語で書かれた四書五経を
また一から勉強し直すなんてのは、途方もない絶望感を誘う難儀に違いない。
だから、四書五経と犯罪聖書を共に勉強し尽くすほどもの、十分な気概の持ち主でもない限りは、
罪悪への欲求ばかりを助長する犯罪聖書の勉強や嗜好は完全に途絶して、仁徳や正義への
積極的な欲求こそを養う、四書五経のみの専修に努めたほうがいい。ヘタに犯罪聖書なんかを
勉強すれば、ちょうどブッシュジュニアのように、正義を欲しているつもりでいながら、
限りのない罪悪を欲し、実際に実行するようなことにすらなってしまいかねないから。
「士は窮しても義を失わず、達しても道を離れず。
窮しても義を失わざるが故に士己れを得、達しても道を離れざるが故に民も望みを失わず」
「士人は窮地に追い込まれても道義を失わず、栄達しても道義から離れはしない。
窮地に追い込まれても道義を失わないでいられるから、我れを見失うようなこともなく、
栄達しても道義から離れないでいられるから、被治者である民ですらもが望みを失うことがない。
(我れを見失わぬ士人が統治する世の中では、民ですらもが望みを取り違えたりはしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・九より)
すべて言いがかり的な呟きですね
民衆はコレ-権力犯罪者はコレ-道徳権力者はコレ-などと大雑把に捉えているだけだね
それこそ四書五経などより遥かに膨大である現実社会を把握できていないと言える
権力犯罪者の中にも現体制に、、志した初心を打ち砕かれて従っている人物もいる
キリスト教に根差した考え方の人間にも素晴らしい人物はいる
物事の把握が大雑把過ぎるアナタのほうが異端だよ
民衆はコレ-権力犯罪者はコレ-道徳権力者はコレ-などと大雑把に捉えているだけだね
それこそ四書五経などより遥かに膨大である現実社会を把握できていないと言える
権力犯罪者の中にも現体制に、、志した初心を打ち砕かれて従っている人物もいる
キリスト教に根差した考え方の人間にも素晴らしい人物はいる
物事の把握が大雑把過ぎるアナタのほうが異端だよ

量子レベルの、ごく微視的な領域においては、いくらでも不確定性があり、
悪辣な四書五経研究者や、善良な聖書信仰者だって存在し得る。
しかし、全体レベルの巨視的な領域だけは、常に一定の法則に支配されており、
聖書信仰者たちの犯してきた罪悪の分量たるや、四書五経研究者の比ではない。
ただこのような、部分と全体の分別を付ける考え方も、元はといえば
易学あたりを原初とするものであり、西洋由来の現代科学などが原初ではない。
易学も迷信として退けられ、統計力学を含む現代科学も難解すぎて人口に膾炙しない。
そのせいで、部分と全体の区別もつかない蒙昧=弁士一曲が多数の支持をも得続ける。
これもまた、「易経」を含む四書五経のお株を強奪した、犯罪聖書の仕業でもある。
現代社会に溢れ返っている情報も、その全てが犯罪聖書によるカルト洗脳のたの
情報統制下にあり、そのモジュールとなっている構造量たるや、四書五経はおろか、
そのうちの一書である「易経」一冊の構造量にすら及んでいない。ある程度以上の
易学の修得者からすれば、今の世界も極めてのっぺりとした、味気ないものに見えるばかり。
「直は其れ正なり、方は其れ義なり。君子は敬を以て内を直くし、義を以て外を方にす」
「直であることが正しいということであり、方であるということが道義にかなうということである。
君子は畏敬の念によって内面を正直にし、道義にかなう振る舞いによって外面を方正となす。
(正義のあり方が感情的にではなく、ごく理論的に解説されている。それに基づくなら、
正義であるということは、しないことはあっても、できないようなことでは決してない。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・文言伝より)
「あなたは多くの人々の中から選ばれました」系の、懸賞詐欺タイプの邪義こそは作為の塊であり、
儒家の天命論に即しても、道家の天道論に即しても、無為自然こそが本質とされる天の行いには全く値しない。
無為自然の天道とて、やむを得ぬことを仕方なくする程度の消極的な作為はあり得ると、荘子などが
認めてもいるわけだが、わざわざ自分たちから愛でる民を選別するような、不自然かつ積極的な
作為が天道と共にあったりするわけがなく、それこそ、地獄道あたりと共にこそくすぶっているもの。
地獄餓鬼畜生の三悪趣しか未だ知らない痴人たちは、地獄の亡者のうめきを「天の声」だなどと
勘違いし、天上を目指すつもりで地獄の底へとまっ逆さま。あらやる転倒夢想の中でも
もっとも致命的な転倒夢想、それが、天と地の上下を取り違える転倒夢想だといえる。
「惟れ天の下民を監るに、厥の義を典とす。年を降すに、永き有り、永からざる有り。天、民を夭するに非ず。
民、命を中絶す。民、鄹にしたがわず、罪を聽かざる有れば、天、既に孚に命じて厥の鄹を正す。(中略)
嗚呼、王、司るに民を敬すれば、天の胤典に非ざる罔し。祀り、暱きに於けるを豐かにすること無かれ」
「天が下民を鑑みるときには、その道義の有無を基準とされます。個々の寿命を定めるにも、
長寿であることもあれば短命であることもありますが、それも道義の有無によって定められるのであり、
天が不自然な作為によって、民を不幸な夭折に追い込んだりするわけではないのです。民が道徳に従わず、
自らの罪状に耳をふさぐことがあったとしても、天はただ各々の真摯さに命じて、その徳を正すばかりです。
ああ、王様が敬意を以て民を司られますなら、それが天の定められた不変の法則に違うこともありますまい。
そのためにも、決して祭りごとなどを、近縁の限られた者ばかりのために偏って行ったりしてはなりません。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・高宗肜日より)
儒家の天命論に即しても、道家の天道論に即しても、無為自然こそが本質とされる天の行いには全く値しない。
無為自然の天道とて、やむを得ぬことを仕方なくする程度の消極的な作為はあり得ると、荘子などが
認めてもいるわけだが、わざわざ自分たちから愛でる民を選別するような、不自然かつ積極的な
作為が天道と共にあったりするわけがなく、それこそ、地獄道あたりと共にこそくすぶっているもの。
地獄餓鬼畜生の三悪趣しか未だ知らない痴人たちは、地獄の亡者のうめきを「天の声」だなどと
勘違いし、天上を目指すつもりで地獄の底へとまっ逆さま。あらやる転倒夢想の中でも
もっとも致命的な転倒夢想、それが、天と地の上下を取り違える転倒夢想だといえる。
「惟れ天の下民を監るに、厥の義を典とす。年を降すに、永き有り、永からざる有り。天、民を夭するに非ず。
民、命を中絶す。民、鄹にしたがわず、罪を聽かざる有れば、天、既に孚に命じて厥の鄹を正す。(中略)
嗚呼、王、司るに民を敬すれば、天の胤典に非ざる罔し。祀り、暱きに於けるを豐かにすること無かれ」
「天が下民を鑑みるときには、その道義の有無を基準とされます。個々の寿命を定めるにも、
長寿であることもあれば短命であることもありますが、それも道義の有無によって定められるのであり、
天が不自然な作為によって、民を不幸な夭折に追い込んだりするわけではないのです。民が道徳に従わず、
自らの罪状に耳をふさぐことがあったとしても、天はただ各々の真摯さに命じて、その徳を正すばかりです。
ああ、王様が敬意を以て民を司られますなら、それが天の定められた不変の法則に違うこともありますまい。
そのためにも、決して祭りごとなどを、近縁の限られた者ばかりのために偏って行ったりしてはなりません。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・高宗肜日より)
「イスラエルの王」呼ばわりのイエスが生け贄として殺されることで、
民が無限の恩恵を得るという犯罪聖書の理念が、最も実地的な形で権力支配に
適用されたのが、フランス革命などを通じての、近代民主制の勃興にあたる。
断頭台で処刑されたマリー・アントワネットのように、専制的な為政者が軒並み犠牲に追いやられ、
あとに残るは、民の欲望を無制限に叶え続けることばかりを任された、パシリ扱いの政治家のみ。
この、民主主義の権力支配構造がありのままに、新約犯罪聖書の実質支配への適用にもなっていて、
だからこそ民主主義社会における、資本主義者の放辟邪侈が人類社会に未曾有の被害をもたらしてもいる。
権力道徳聖書・四書五経の記述に基づくなら、為政者が民衆の上に立ち、行使する以上は絶対的な
権能を振るう、官民上下の位階が正された専制はやはり必要であるとされる。一方で、官が民を完全な
雁字搦めにして、共産主義のようにあらゆる産業までをも国有化してしまったりするのもいけないという。
民は所詮は自分たちだけでは烏合の衆なので、強制的にでも言うことを聞かせることがやはり必要にはなるが、
言うことを聞かせる内容はといえば、あたかも穴に落ちかけている赤ん坊を救うかのように、
民たちの福利厚生を親身になって慮った末のものでなければならない。
自分たちの所業で何億人もの人々を殺し、自分たち以外の天下全土を敵に回したせいで、
あたかもどこにも敵がいないかのようにすら思い込んでしまうような窮地に、民たちを追い込まないために。
民が無限の恩恵を得るという犯罪聖書の理念が、最も実地的な形で権力支配に
適用されたのが、フランス革命などを通じての、近代民主制の勃興にあたる。
断頭台で処刑されたマリー・アントワネットのように、専制的な為政者が軒並み犠牲に追いやられ、
あとに残るは、民の欲望を無制限に叶え続けることばかりを任された、パシリ扱いの政治家のみ。
この、民主主義の権力支配構造がありのままに、新約犯罪聖書の実質支配への適用にもなっていて、
だからこそ民主主義社会における、資本主義者の放辟邪侈が人類社会に未曾有の被害をもたらしてもいる。
権力道徳聖書・四書五経の記述に基づくなら、為政者が民衆の上に立ち、行使する以上は絶対的な
権能を振るう、官民上下の位階が正された専制はやはり必要であるとされる。一方で、官が民を完全な
雁字搦めにして、共産主義のようにあらゆる産業までをも国有化してしまったりするのもいけないという。
民は所詮は自分たちだけでは烏合の衆なので、強制的にでも言うことを聞かせることがやはり必要にはなるが、
言うことを聞かせる内容はといえば、あたかも穴に落ちかけている赤ん坊を救うかのように、
民たちの福利厚生を親身になって慮った末のものでなければならない。
自分たちの所業で何億人もの人々を殺し、自分たち以外の天下全土を敵に回したせいで、
あたかもどこにも敵がいないかのようにすら思い込んでしまうような窮地に、民たちを追い込まないために。
「賢を尊び能を使い、俊傑位に在れば、則ち天下の士皆な酇んで其の朝に立たんことを願わん。市は廛して征せずんば、
則ち天下の商皆な酇んで其の市に藏めんことを願わん。關は譏ぶれども征せずんば、則ち天下の旅皆な酇んで其の路に
出でんことを願わん。耕す者には助せしめて税せずんば、則ち天下の農皆な酇んで其の野に耕さんことを願わん。廛に夫、
里の布無ければ、則ち天下の民は皆な酇んで之の氓と為らんことを願わん。信に能く此の五者を行えば、則ち鄰國の民、
之れを仰ぐこと父母の若くならん。其の子弟を率いて、其の父母を攻むるは、生民より以來、未だ能く濟せる者有らざるなり。
此の如くんば、則ち天下に敵無し。天下に敵無きは天吏なり。然に而て王たらざる者は、未だ之れ有らざるなり」
「賢人を尊び真に能あるものを用いるようにし、それぞれにすぐれた人材が適切な職分に治まっていれば、天下の士人たちは
みな喜んでその国の朝廷に立つことをこいねがうになることだろう。市場では店舗税はとっても消費税は取らないようにすれば、
天下の商人たちはみなこぞってその市場に商品を納めて商いをしたがるようになるだろう。関所では厳重な取調べは行っても
関所税や通行税を取らなければ、天下の旅人は皆なその国の道を歩いてみたいと思うようになるだろう。農耕者には公田の
租税は徹底しても私田への租税をかけなければ、みな喜んでその国の田畑を耕すことを願うだろう。民の世帯に人頭税や
固定資産税を課さなければ、天下の民はみな喜んでその国の民になることを欲するだろう。この五つの政策を実行すれば、
隣国の民ですらもが、まるで父母のようにわが国を仰ぎ見るようになる。子弟によって父母を攻めることができた試しも
未だかつて無く、これらの政策を忠実に実行できたならば、もはや天下に敵対するものはいなくなるだろう。天下に敵対する
もののないものこそは、天命を受けた官吏であるといえ、このようにして天下に王者となれなかったものは、未だかつてない。
(孟子は官が民から取るべき税はちゃんと取る一方で、余計な税を課したりはしない公私の分別を天下無敵の要件であると説く。
ただし、実際の所これほどもの規制緩和は、国家総動員状態の有事や、官が民の生け贄と化している民主制下では不可能である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・五より)
則ち天下の商皆な酇んで其の市に藏めんことを願わん。關は譏ぶれども征せずんば、則ち天下の旅皆な酇んで其の路に
出でんことを願わん。耕す者には助せしめて税せずんば、則ち天下の農皆な酇んで其の野に耕さんことを願わん。廛に夫、
里の布無ければ、則ち天下の民は皆な酇んで之の氓と為らんことを願わん。信に能く此の五者を行えば、則ち鄰國の民、
之れを仰ぐこと父母の若くならん。其の子弟を率いて、其の父母を攻むるは、生民より以來、未だ能く濟せる者有らざるなり。
此の如くんば、則ち天下に敵無し。天下に敵無きは天吏なり。然に而て王たらざる者は、未だ之れ有らざるなり」
「賢人を尊び真に能あるものを用いるようにし、それぞれにすぐれた人材が適切な職分に治まっていれば、天下の士人たちは
みな喜んでその国の朝廷に立つことをこいねがうになることだろう。市場では店舗税はとっても消費税は取らないようにすれば、
天下の商人たちはみなこぞってその市場に商品を納めて商いをしたがるようになるだろう。関所では厳重な取調べは行っても
関所税や通行税を取らなければ、天下の旅人は皆なその国の道を歩いてみたいと思うようになるだろう。農耕者には公田の
租税は徹底しても私田への租税をかけなければ、みな喜んでその国の田畑を耕すことを願うだろう。民の世帯に人頭税や
固定資産税を課さなければ、天下の民はみな喜んでその国の民になることを欲するだろう。この五つの政策を実行すれば、
隣国の民ですらもが、まるで父母のようにわが国を仰ぎ見るようになる。子弟によって父母を攻めることができた試しも
未だかつて無く、これらの政策を忠実に実行できたならば、もはや天下に敵対するものはいなくなるだろう。天下に敵対する
もののないものこそは、天命を受けた官吏であるといえ、このようにして天下に王者となれなかったものは、未だかつてない。
(孟子は官が民から取るべき税はちゃんと取る一方で、余計な税を課したりはしない公私の分別を天下無敵の要件であると説く。
ただし、実際の所これほどもの規制緩和は、国家総動員状態の有事や、官が民の生け贄と化している民主制下では不可能である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・五より)
浄土教の信者が、行いによる成仏を捨てて信仰による成仏を選択するのは、
自分たちが自力作善も覚束ない、煩悩愚縛の凡夫であると認めているからであって、
自力作善による成仏が絶対に不可能だからなどと決め付けているからじゃない。
実際に、日本には法然や親鸞のような、他力本願にかけての著名な仏者もいる一方で、
空海や道元のような、自力作善による求道にかけてこそ著名な仏者も数多くいて、
公家や武家のような、自力での世俗統治を司ってきた階級の人々には、
仏道における自力修道にあたる、密教や禅などが大きな支持を受けてきている。
世俗の統治者が出家者を兼ねることは、武田信玄や上杉謙信などの例外を含めても
極めて少なく、たとえ密教に帰依したり参禅したりするにしたって、「南無〜」の
他力帰依の形を取る在家信者となる場合がほとんどなわけだが、それでもやはり、
出家者が自力修習を試みている点が、世俗の自力統治を任されている自分たちの
姿に投影しやすいから、為政者階級が自力仏教を支持したりすることが多かった。
徳川将軍家のように、最大級の権力者でありながら浄土門に帰依した例もあるが、
これは家康公が、天台宗の僧侶だった天海に、俗世の王者に徹することを
奨められたからなどの事情があるし、やはり徳川家は徳川家で、儒学を主体とした
自力での世俗統治に努めることで、260年もの泰平の世を築き上げてもいる。
やはり俗世の支配者までもが、他力本願の信仰第一ばかりに陥っていてはいけないのだ。
「子張行わるるを問う。子曰く、言忠信にして、行い篤敬なれば、
蠻貊の邦と雖も行われん。言忠信ならず、行い篤敬ならざれば、州里と雖も行われんや。」
「子張が孔先生に、天下に道が行われるあり方を問うた。先生は言われた。『誰しもの発言が
忠信であり、なおかつその行いが篤く敬いを帯びたものであれば、たとえ進んだ文化を持たない
野蛮の国であろうとも、道が行われるであろう。逆に発言に忠信がなく、行いに篤敬が帯びて
いなければ、州ごとに組織された秩序ある文明国であろうとも、道が行われることはない。』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・六より)
自分たちが自力作善も覚束ない、煩悩愚縛の凡夫であると認めているからであって、
自力作善による成仏が絶対に不可能だからなどと決め付けているからじゃない。
実際に、日本には法然や親鸞のような、他力本願にかけての著名な仏者もいる一方で、
空海や道元のような、自力作善による求道にかけてこそ著名な仏者も数多くいて、
公家や武家のような、自力での世俗統治を司ってきた階級の人々には、
仏道における自力修道にあたる、密教や禅などが大きな支持を受けてきている。
世俗の統治者が出家者を兼ねることは、武田信玄や上杉謙信などの例外を含めても
極めて少なく、たとえ密教に帰依したり参禅したりするにしたって、「南無〜」の
他力帰依の形を取る在家信者となる場合がほとんどなわけだが、それでもやはり、
出家者が自力修習を試みている点が、世俗の自力統治を任されている自分たちの
姿に投影しやすいから、為政者階級が自力仏教を支持したりすることが多かった。
徳川将軍家のように、最大級の権力者でありながら浄土門に帰依した例もあるが、
これは家康公が、天台宗の僧侶だった天海に、俗世の王者に徹することを
奨められたからなどの事情があるし、やはり徳川家は徳川家で、儒学を主体とした
自力での世俗統治に努めることで、260年もの泰平の世を築き上げてもいる。
やはり俗世の支配者までもが、他力本願の信仰第一ばかりに陥っていてはいけないのだ。
「子張行わるるを問う。子曰く、言忠信にして、行い篤敬なれば、
蠻貊の邦と雖も行われん。言忠信ならず、行い篤敬ならざれば、州里と雖も行われんや。」
「子張が孔先生に、天下に道が行われるあり方を問うた。先生は言われた。『誰しもの発言が
忠信であり、なおかつその行いが篤く敬いを帯びたものであれば、たとえ進んだ文化を持たない
野蛮の国であろうとも、道が行われるであろう。逆に発言に忠信がなく、行いに篤敬が帯びて
いなければ、州ごとに組織された秩序ある文明国であろうとも、道が行われることはない。』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・六より)
「易経」蒙卦にもあるとおり、童子であるということには、いい面と悪い面の両方がある。
童子のように貞節であることはいいことだが、童子のように蒙昧であることは悪いこと。
未熟な子供なりに成長を目指すことはいいことだが、未熟なせいで蒙昧なのは決していいことじゃない。
だから孔子も述而第七・二八で、風俗の陰湿な村落の児童が自らの元に尋ねてきたときに、
童子ながらに必死で学ぼうとするその心意気を買って、面会だけは許してやっている。
蒙昧なせいで善悪の分別も付かず、悪い仕事をいい仕事だと思い込んで、
悪業を働いたりもしかねないから、本物の子供には本格的な仕事に就く権利もない。
本当に子供のようになるってんなら、一人前の大人並みの行為能力からまず捨て去らなければな。
「昭公十九年なれども、猶ほ童心有り。君子是れを以て其の終わりを能くせざらんことを知れり」
「魯の昭公は、十九歳になってもまだ童子のような幼心が抜けきらないでいた。
これを以て世の為政者たちは、昭公がろくな死に方をできないだろうと察知した。
(乱世の権力者でありながら子供心を捨てきれないのは、致命的なことだから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公三十一年より)
童子のように貞節であることはいいことだが、童子のように蒙昧であることは悪いこと。
未熟な子供なりに成長を目指すことはいいことだが、未熟なせいで蒙昧なのは決していいことじゃない。
だから孔子も述而第七・二八で、風俗の陰湿な村落の児童が自らの元に尋ねてきたときに、
童子ながらに必死で学ぼうとするその心意気を買って、面会だけは許してやっている。
蒙昧なせいで善悪の分別も付かず、悪い仕事をいい仕事だと思い込んで、
悪業を働いたりもしかねないから、本物の子供には本格的な仕事に就く権利もない。
本当に子供のようになるってんなら、一人前の大人並みの行為能力からまず捨て去らなければな。
「昭公十九年なれども、猶ほ童心有り。君子是れを以て其の終わりを能くせざらんことを知れり」
「魯の昭公は、十九歳になってもまだ童子のような幼心が抜けきらないでいた。
これを以て世の為政者たちは、昭公がろくな死に方をできないだろうと察知した。
(乱世の権力者でありながら子供心を捨てきれないのは、致命的なことだから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公三十一年より)
限りなく欲望を肥大化させる小人の性向によって、
世界の大部分を破滅に陥れつつ自分たちだけが繁栄する、
「社会のガン細胞」としての有害無益さが増長されていく。
罪悪の積み重ねによる自業自得の辛苦から救われるために、あろうことか永遠の命すらをも欲するという。
苦しみの種を除くための方法を根本から取り違えている、その邪義こそはまさに苦しみの種でもある。
「人の之に悦するも、妃色も富貴も、以て憂いを解くに足る者になく、
惟だ父母に順ばれることあるのみ、以て憂いを解くべし」
「他人が自分に感服してくれることも、高貴な美女をめとることも、いかに多大なる富貴も、
人としての憂患を解くに足るものではない。ただ父母に喜ばれることによってのみ、憂患も解かれる。
(父母と富貴をみそくそに扱うことによる、自業自得の憂患まみれに、さらに永遠の命を付与する救いのなさ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・一より)
世界の大部分を破滅に陥れつつ自分たちだけが繁栄する、
「社会のガン細胞」としての有害無益さが増長されていく。
罪悪の積み重ねによる自業自得の辛苦から救われるために、あろうことか永遠の命すらをも欲するという。
苦しみの種を除くための方法を根本から取り違えている、その邪義こそはまさに苦しみの種でもある。
「人の之に悦するも、妃色も富貴も、以て憂いを解くに足る者になく、
惟だ父母に順ばれることあるのみ、以て憂いを解くべし」
「他人が自分に感服してくれることも、高貴な美女をめとることも、いかに多大なる富貴も、
人としての憂患を解くに足るものではない。ただ父母に喜ばれることによってのみ、憂患も解かれる。
(父母と富貴をみそくそに扱うことによる、自業自得の憂患まみれに、さらに永遠の命を付与する救いのなさ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・一より)
「苗にして秀でざる者あり。秀でて実らざる者あり」
「苗のままで穂を出さない者もいる。穂を出しても実らない者もいる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二二より)
孔子が子圉という人物のつてで宋の宰相と面会したときに、その姿や居住まいがあまりにも
立派だったことから、面会後、宰相は思わず子圉に「孔先生に会うた後でおまえを見ると、
まるでノミかシラミのようだ」ともらした。そのため子圉は「宋の大君が孔先生と会われた後に
貴殿と面会されましたら、貴殿もノミかシラミのように思われることでしょう」と答えた。
そこで宰相も孔子が重用されることで自らのお株が奪われることを恐れ、孔子を宋の
主君には面会させなかったという。(「韓非子」第七巻・説林上第二十二より)
人が実を結ばない理由も様々だが、誰も彼もがお互いを貶め合うことが当たり前な乱世において、
あまりにも立派な人間でありすぎるためにねたみを買い、社会的な成功に至らないということもある。
立派というよりは、あまりにも口が立ちすぎて有力者からの厚遇を得られなかったのが孟子だが、
やはり、奴隷の如く従順に言うことだけを聞く臣下ばかりが募られていた乱世に、
突出して活躍することにかけて有能であるような人物は煙たがられるだけだった。
そのような、乱世における「不遇の聖賢」としての孔孟の境遇を鑑みれば、上下の引用も
半ば怨み節に聞こえないこともないが、仏者でも神人でもない真人間の代表が儒者でもあるのだから、
好悪が全くないこともないが、好悪を超えた道理もわきまえている点をこそ察したもらいたいものだ。
人は好悪があるからといって、必ずしも道理を逸脱する生き物ではないのだということを。
「不祥の実は、賢を蔽う者、之れに当たる」
「不祥が実を結べば、聖賢をねたんでその真価を覆い隠し、世に知らせまいとするようになる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・一七より)
「苗のままで穂を出さない者もいる。穂を出しても実らない者もいる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二二より)
孔子が子圉という人物のつてで宋の宰相と面会したときに、その姿や居住まいがあまりにも
立派だったことから、面会後、宰相は思わず子圉に「孔先生に会うた後でおまえを見ると、
まるでノミかシラミのようだ」ともらした。そのため子圉は「宋の大君が孔先生と会われた後に
貴殿と面会されましたら、貴殿もノミかシラミのように思われることでしょう」と答えた。
そこで宰相も孔子が重用されることで自らのお株が奪われることを恐れ、孔子を宋の
主君には面会させなかったという。(「韓非子」第七巻・説林上第二十二より)
人が実を結ばない理由も様々だが、誰も彼もがお互いを貶め合うことが当たり前な乱世において、
あまりにも立派な人間でありすぎるためにねたみを買い、社会的な成功に至らないということもある。
立派というよりは、あまりにも口が立ちすぎて有力者からの厚遇を得られなかったのが孟子だが、
やはり、奴隷の如く従順に言うことだけを聞く臣下ばかりが募られていた乱世に、
突出して活躍することにかけて有能であるような人物は煙たがられるだけだった。
そのような、乱世における「不遇の聖賢」としての孔孟の境遇を鑑みれば、上下の引用も
半ば怨み節に聞こえないこともないが、仏者でも神人でもない真人間の代表が儒者でもあるのだから、
好悪が全くないこともないが、好悪を超えた道理もわきまえている点をこそ察したもらいたいものだ。
人は好悪があるからといって、必ずしも道理を逸脱する生き物ではないのだということを。
「不祥の実は、賢を蔽う者、之れに当たる」
「不祥が実を結べば、聖賢をねたんでその真価を覆い隠し、世に知らせまいとするようになる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・一七より)

世俗での名利に固執する儒者のあり方は、仏門や道家が大いに見下すところだし、
神異を敬遠して無宗教的な俗言に終始する姿も、神道などが程度の低いものと見なすところ。
弘法大師も、儒者を「愚童」も同然のものと見なして、儒家の司る人道を、
十住心のうちの下から二番目に当たる「愚童持斎心」に編入させている。
それほどにも程度の低いものであればこそ、最低最悪のどん底の、「異生羝羊心」
にあたる聖書信仰などと比較対照することで、その優劣までもが明瞭なものとなる。
儒家よりも遥かに程度の高い、道家や密教などの教理の中には、万物斉同を肯定する意図から、
異生羝羊心にも共通するような要素を「それもアリ」とするところなどがあるから、
聖書信仰と比較した場合に、みそくそな扱いになってしまいやすいところがあるが、
ことに止至善の勧善懲悪に固執する儒家と比較すれば、みそくそに扱う余地も全くない。

相反するうちの四書五経のほうが優位で、犯罪聖書のほうが劣位であるとする根拠は、
実物としての証明は、次スレのスレ画にもなっているこの画像で精密に提示しているし、
四書五経を正典とする儒家のさらに向こう側に、道家や仏教やヒンズー教や神道などの、
数多の高等教学が控えていることもまた、優劣の非可換性の根拠になっている。
仮に相反するもの同士としての、儒家と聖書信仰のうちで、聖書信仰のほうが優位で
儒家のほうが劣位であるとしたなら、儒家のさらに向こう側にある数多の教学も、
その全てがより劣等なものであるということになってしまうが、実際には決して
そんなことはなく、儒家のさらに向こう側に、さらに高等な教学が数多控えている
からこそ、儒家よりもさらに卑俗なものであるにすぎない聖書信仰などを、
儒家よりも優位なものとして扱ったりしてはならないということがいえる。
「子の湯たる、宛丘の上に。洵に情有れども、而うして望み無し」
「為政者たちが遊蕩にふけり、今日も宛丘(特権階級専用の遊び場)でたむろしている。
やたらとウレシそうに呆けているが、そんなのは民の希望するところでもない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・陳風・宛丘より)
道家の本義も「万物斉同」だし、ヒンズー教中最大派閥を擁するヴェーダーンタ学派も
「不二一元論」を唱える。拝火教や聖書信仰の影響で対戦的な要素を含んでいる
イスラムもまた、汎神主義的な「一化」の神であるアラーを信仰している。
これらの教学が、対立性を退ける一元論的な方向性に即しているのに対し、
儒家や聖書信仰や拝火教などは、もっぱら二元論的な方向性に根ざしている。
物事を善と悪の両極に振り分けて、善と見なしたものを推し進め、悪と見なしたものを懲らしめる。
アレを棄ててコレを採る、一概な選択に根ざした専らなあり方を、学習者や信仰者に対して強制する。
今となっては、儒学のほうが真の「勧善懲悪」であり、聖書信仰はその逆を行く「悪逆非道」であったことが明らかだが、
聖書信仰者だって、元はといえば、自分たちの選択が勧善懲悪であるのだと信じて、聖書信仰を選択したのだった。
ただ、残念ながらそれは本当には悪逆非道であり、人間の行いの中でも最も劣悪な行いの選択だったわけだが、
そもそも、二元論的な発想を大前提にして、アレを棄ててコレを採る一概な選択主義に没頭したことからして、
すでに程度の低いことだったのであり、たとえ真の勧善懲悪であったにしても、アレを棄ててコレを採る
一概さを選択したことにかけては、儒学もまた相当に程度の低い代物であったのだと認めざるを得ない。
「不二一元論」を唱える。拝火教や聖書信仰の影響で対戦的な要素を含んでいる
イスラムもまた、汎神主義的な「一化」の神であるアラーを信仰している。
これらの教学が、対立性を退ける一元論的な方向性に即しているのに対し、
儒家や聖書信仰や拝火教などは、もっぱら二元論的な方向性に根ざしている。
物事を善と悪の両極に振り分けて、善と見なしたものを推し進め、悪と見なしたものを懲らしめる。
アレを棄ててコレを採る、一概な選択に根ざした専らなあり方を、学習者や信仰者に対して強制する。
今となっては、儒学のほうが真の「勧善懲悪」であり、聖書信仰はその逆を行く「悪逆非道」であったことが明らかだが、
聖書信仰者だって、元はといえば、自分たちの選択が勧善懲悪であるのだと信じて、聖書信仰を選択したのだった。
ただ、残念ながらそれは本当には悪逆非道であり、人間の行いの中でも最も劣悪な行いの選択だったわけだが、
そもそも、二元論的な発想を大前提にして、アレを棄ててコレを採る一概な選択主義に没頭したことからして、
すでに程度の低いことだったのであり、たとえ真の勧善懲悪であったにしても、アレを棄ててコレを採る
一概さを選択したことにかけては、儒学もまた相当に程度の低い代物であったのだと認めざるを得ない。
儒学の実質的開祖である孔子と、聖書信仰の実質的開祖であるイエスと、いずれもが「妾腹の私生児(孽子)」という
極めて恵まれない境遇に生まれ育ち、孔子は不遇をバネにした学者として大成したが(ただし本当の希望は為政者としての成功だった)、
イエスは不遇の悲哀に耐え切れず自暴自棄と化し、妾腹の私生児としての境遇をそのまんま正当化するカルト教義を触れ回った。
孔子とイエス、いずれもが甚だしい不遇に置かれていたには違いなく、決してそれ自体はいいことではなかった。
ただ、その不遇さをバネにすることでそれなりに大成したのと、不遇に取り込まれて救いようのない狂人と化したことと、
本人たち自身の不遇への対峙の仕方が、決定的に異なっていたから、多少はマシなものと、最低最悪であるものとに分かたれた。
程度が低いどころか、最低最悪のどん尻の部分で、ブービー賞とビリッケツをそれぞれに配分されたのが孔子とイエスであり、
いずれも「高みに上る」どころの話ではないわけだが、程度が激烈に低い領域の存在同士であるなりに、それなりであろうとたものと、
それなりであることすらかなぐり捨ててグレきったものとになったことで、卑賤なもの同士なりの、決定的な相違が生じた。
不遇にも耐えてグレたりはしなかったほうである孔子は、相当に当時の諸侯からも冷遇を受けたものの、
王侯のような社会的上位者に対する畏敬の念も捨て去りはしなかったし、孽子の分際で
鬼神を語ることを畏れ遠ざけはしたものの、やはり鬼神への敬いも欠かさなかった。
孔子が鬼神への敬いを捨て去らず、王侯への忠節も守り通したから、神仏や聖王のあり方をより主体的に説く高等教学
との連携も行き届いて、>>492図のような厳密な位階に即しての、グレっきり志向に対する絶対的優位までもが確立された。
儒学が聖書信仰よりも優位となった所以も、所詮は他力本願によるが、他力本願が叶うだけの手続きを儒学も踏まえているのだ。
極めて恵まれない境遇に生まれ育ち、孔子は不遇をバネにした学者として大成したが(ただし本当の希望は為政者としての成功だった)、
イエスは不遇の悲哀に耐え切れず自暴自棄と化し、妾腹の私生児としての境遇をそのまんま正当化するカルト教義を触れ回った。
孔子とイエス、いずれもが甚だしい不遇に置かれていたには違いなく、決してそれ自体はいいことではなかった。
ただ、その不遇さをバネにすることでそれなりに大成したのと、不遇に取り込まれて救いようのない狂人と化したことと、
本人たち自身の不遇への対峙の仕方が、決定的に異なっていたから、多少はマシなものと、最低最悪であるものとに分かたれた。
程度が低いどころか、最低最悪のどん尻の部分で、ブービー賞とビリッケツをそれぞれに配分されたのが孔子とイエスであり、
いずれも「高みに上る」どころの話ではないわけだが、程度が激烈に低い領域の存在同士であるなりに、それなりであろうとたものと、
それなりであることすらかなぐり捨ててグレきったものとになったことで、卑賤なもの同士なりの、決定的な相違が生じた。
不遇にも耐えてグレたりはしなかったほうである孔子は、相当に当時の諸侯からも冷遇を受けたものの、
王侯のような社会的上位者に対する畏敬の念も捨て去りはしなかったし、孽子の分際で
鬼神を語ることを畏れ遠ざけはしたものの、やはり鬼神への敬いも欠かさなかった。
孔子が鬼神への敬いを捨て去らず、王侯への忠節も守り通したから、神仏や聖王のあり方をより主体的に説く高等教学
との連携も行き届いて、>>492図のような厳密な位階に即しての、グレっきり志向に対する絶対的優位までもが確立された。
儒学が聖書信仰よりも優位となった所以も、所詮は他力本願によるが、他力本願が叶うだけの手続きを儒学も踏まえているのだ。

「人事を尽くして天命を待つ」という名言も、宋代の大儒である胡寅が述べたもの。
これと同等の記述が「孟子」梁惠王章句下・一四>>136にあり、昔から儒家の天命論が、
人としての最善を尽くしたものに対しての、外部的な果報を表すものとして述べられてきたことが分かる。
自力によってはどうにもならないものの存在を儒者も認めているわけだが、
その天運もまた、自らができる限りの最善を尽くしておくことによって報いてくれるとする。
実際、鬼神を遠ざけながらも敬いを欠かさなかったり、不誠実な諸侯を在野から批判しつつも、
君臣の義はやはり重要であることを認めたりした孔子の姿勢は、妾腹の私生児という卑賤の出身なりに
最善の選択を尽くしたものであったために、鬼神(先祖の神)の価値を否定してローマ皇帝などの
権威も否定したイエスなどと比べてまだマシな存在でいることができ、本物の神仏の側からの視点に即しても、
地獄餓鬼畜生の三悪趣よりはまだマシな、三善趣のうちの「人道」の代表者ともなることができた。
儒学が聖書信仰よりも優位である根拠も、ことに儒学に限定しての範囲では希薄なところがあるが、
十住心論や六道十界論のようなより高等な外部教義によって、その優位性も確立される。
かといって完全なる他力本願一辺倒ではなく、卑賤なものなりの最善も儒家は尽くしている。
「労謙す、君子終わり有り、吉なり。(略)君子とは、万民服するなり」
「苦労しても謙譲でいて誇らないようにすれば、万人に心服される君子となって、終わりをまっとうすることができる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・謙・九三‐象伝より)
四書五経は、第一には学習の対象であり、信仰の対象ではない。
中には「儒教の聖書」として信仰の対象とし、「礼記」にある犬肉の供儀などを
杓子定規に実践し続ける韓国人のような連中もいるが、基本はあくまで「儒学の聖書」であり、
批判的な読み込みの対処などともしつつ、それでもやっぱり普遍的な道理であると認めざるを
得ない論及などをわきまえの材料とするのが、四書五経という聖書の正しい享受の仕方に当たる。
そしてそのような享受の仕方こそは、全地球人類にとっての第一の聖書である四書五経に限らず、
あらゆる聖書やあらゆる知識、好悪の対象ともなる卑俗な情報などに対しても、適用されるべきあり方。
信じたもの、好きなものはただただ無制限に諸手を挙げて受け入れるなどというのは、奴隷か、さもなくば
マゾヒスト止まりの愚行であり、そのような愚劣な人としてのあり方から、改めていかなければならない。
「衆之れを悪むも必ず察し、衆之れを好むも必ず察す」
「誰しもが憎み嫌っているものも、必ずそうなった事情を察するし、
誰しもが好き好んでいるものも、必ずその所以を察する。(無制限な妄信などはあらかじめ排する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・二八より)
中には「儒教の聖書」として信仰の対象とし、「礼記」にある犬肉の供儀などを
杓子定規に実践し続ける韓国人のような連中もいるが、基本はあくまで「儒学の聖書」であり、
批判的な読み込みの対処などともしつつ、それでもやっぱり普遍的な道理であると認めざるを
得ない論及などをわきまえの材料とするのが、四書五経という聖書の正しい享受の仕方に当たる。
そしてそのような享受の仕方こそは、全地球人類にとっての第一の聖書である四書五経に限らず、
あらゆる聖書やあらゆる知識、好悪の対象ともなる卑俗な情報などに対しても、適用されるべきあり方。
信じたもの、好きなものはただただ無制限に諸手を挙げて受け入れるなどというのは、奴隷か、さもなくば
マゾヒスト止まりの愚行であり、そのような愚劣な人としてのあり方から、改めていかなければならない。
「衆之れを悪むも必ず察し、衆之れを好むも必ず察す」
「誰しもが憎み嫌っているものも、必ずそうなった事情を察するし、
誰しもが好き好んでいるものも、必ずその所以を察する。(無制限な妄信などはあらかじめ排する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・二八より)
聖書信仰よりも一段階ほど程度の高いところに儒学があり、
儒学よりもさらに一段階ほど高いところにヒンズー教や道教、そして神道がある。
さらにそれ以上にも高いところに仏教があり、その仏教も宗派などが多岐に分かれ、
さらに個々の行者の練度に応じての、程度の高低が様々ある。
あらゆる品性の中でも最低の品性に陥る聖書信仰などに溺れているうちは、
そのような高等教学の修習に本格的に参画していくことなど到底不可能なわけで、
確かに聖書信仰に溺れることが、他の優等教学の兼学を不能と化す烙印ともなっている。
ただ、その烙印を拭い去る方法も一応あるにはあるわけで、
四書五経のような儒家教学によって聖書教義の劣悪さを徹底的にわきまえ抜き、
そんなものをしんじていてはいけないという、最低限の常人としての倫理観を
持ち直してカルト洗脳から脱却し、さらに儒学以上にも高等な教学を修習していく
資格を持った、まともな人間へと成長していくことができる。
カルト教学による洗脳から脱して、常人に立ち戻った上で、さらに高等教学を修習していく。
儒学は、そのための橋渡し的な存在になれればいいのであって、儒学によってカルト洗脳から
脱け出せたからといって、今度は儒学を金科玉条に掲げるようになったりする必要は全くない。
もちろん儒学にも専修するだけの価値はあるが、そんなに程度の高いものでないのも
確かだから、別に、誰しもに対して儒学に止まることを強要したりするつもりは全くない。
「孔子謂わく、芻靈を為るは善なり。謂く、俑者を為るは不仁なり。人を用いるに殆からずや」
「孔先生が言われた。『草を束ねて人型にした程度のものに霊魂を込めて、死者の副葬品にするのはかまわない。
しかし、人間にそっくりの像に霊を込めて副葬品とするのは不仁である。それではまるで、人を犠牲にするようではないか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
儒学よりもさらに一段階ほど高いところにヒンズー教や道教、そして神道がある。
さらにそれ以上にも高いところに仏教があり、その仏教も宗派などが多岐に分かれ、
さらに個々の行者の練度に応じての、程度の高低が様々ある。
あらゆる品性の中でも最低の品性に陥る聖書信仰などに溺れているうちは、
そのような高等教学の修習に本格的に参画していくことなど到底不可能なわけで、
確かに聖書信仰に溺れることが、他の優等教学の兼学を不能と化す烙印ともなっている。
ただ、その烙印を拭い去る方法も一応あるにはあるわけで、
四書五経のような儒家教学によって聖書教義の劣悪さを徹底的にわきまえ抜き、
そんなものをしんじていてはいけないという、最低限の常人としての倫理観を
持ち直してカルト洗脳から脱却し、さらに儒学以上にも高等な教学を修習していく
資格を持った、まともな人間へと成長していくことができる。
カルト教学による洗脳から脱して、常人に立ち戻った上で、さらに高等教学を修習していく。
儒学は、そのための橋渡し的な存在になれればいいのであって、儒学によってカルト洗脳から
脱け出せたからといって、今度は儒学を金科玉条に掲げるようになったりする必要は全くない。
もちろん儒学にも専修するだけの価値はあるが、そんなに程度の高いものでないのも
確かだから、別に、誰しもに対して儒学に止まることを強要したりするつもりは全くない。
「孔子謂わく、芻靈を為るは善なり。謂く、俑者を為るは不仁なり。人を用いるに殆からずや」
「孔先生が言われた。『草を束ねて人型にした程度のものに霊魂を込めて、死者の副葬品にするのはかまわない。
しかし、人間にそっくりの像に霊を込めて副葬品とするのは不仁である。それではまるで、人を犠牲にするようではないか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)

無病息災の祈願にするような祭りがいくらかある。
犠牲を捧げることで自他の安寧を願うという考え方自体は神道や儒学にもある一方で、
それはあくまで人間自身のために捧げられるものだから、人間自身を生け贄に捧げたり
してはならないという、最低限の正気を保ったわきまえがある。
しかるに、聖書信仰はイエスなる人間が生け贄に捧げられたことで人々が救われたとし、
信者に対しても、あたかも「依り代」となる人形に霊魂を込めるようにして、霊が与えられる。
孔子が人間そっくりの像を芻霊(霊を込めた死者の副葬品)にすることすら不仁だとみなして
いたにもかかわらず、あろうことか人間自身が、死者の副葬品も同然の扱いを受けている。
人間が、人間自身の福利厚生を願う目的で行われていた「供儀」という慣習が、
人間自身を犠牲にしようとする段になって一挙に、世界を破滅へと導く最悪の邪義と化した。
お供え物とか生け贄とかいった慣習が、先祖供養などにかけて自己修養の効能をも持つことが
確かである一方で、もはやモノを食べることもない故人の霊などに供物を捧げることが
迷信交じりであるということを、それこそ西洋人が「未開文明の象徴」として指摘したりも
していたもんだが、その供儀という慣習に、「人間自身の生け贄」というさらなる迷妄を
掛け合わせた邪義こそを西洋人は信じ込み続けてきたわけで、仮に、簡素な依り代や
食物などを用いてのお祭りが迷信であるというのなら、人間自身を生け贄に捧げることは
迷信の二乗であるといえ、確かに甚だしい迷信でしかなかったから、その甚だしさによって
西洋人という、人類の三分の一程度の人々がこれから破滅に向かうことともなってしまった。
そも、「人は万物の霊長(書経・泰誓上)」であるのであり、
わざわざ他者から霊魂などを込められずとも、あらゆる生物の中でも最も旺盛な霊魂を宿している。
にもかかわらず、人を土くれか何かと同然のものと見なし、誰かから霊魂を注入されることで
初めて生きた存在となるかのように思い込んでいるところからして、大間違いである。
「爾の靈龜を舎てて、我を觀て頤を朶る、凶なり。我れを觀て頤を朶るるは、亦た貴ぶに足らざるなり」
「自分自身の霊亀を捨てて、間抜けに口を開いておとがいを垂れ、こちらばかりを見ている、甚だ凶である。
こちらを見て、口を開いておとがいを垂れているようなままでは、貴ぶに足る存在ともなり得ない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・頤卦・初九−象伝)
「霊亀」とは、霊妙な明徳を宿した亀のことで、亀は何日も飲まず食わずでいられることから「自存」の
象徴ともされる。自分自身に始めから自存する霊魂を打ち捨てて、他者から何かをもらおう、もらおうと
ばかりして、思わずおとがいが垂れ下がるほどにも大間抜けに口を開けた状態でいる、それがもう凶である。
霊魂の在り処を自分以外の何ものかに期待しすぎることで、自然と自分自身の霊魂を喪失してしまっている。
そして自分自身に自明自存の霊魂こそは、真に徳性を宿してもいるのだから、自己の霊魂を打ち捨てることで、
自然と徳性をも打ち捨ててしまっている。思わずおとがいも垂れ下がるほどに、誰かに頼ろう、頼ろうとばかり
しようとする姿勢こそはありのままに、自らに既存の徳性をないがしろにする原因となってしまっている。
次スレ;
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/129871790...
わざわざ他者から霊魂などを込められずとも、あらゆる生物の中でも最も旺盛な霊魂を宿している。
にもかかわらず、人を土くれか何かと同然のものと見なし、誰かから霊魂を注入されることで
初めて生きた存在となるかのように思い込んでいるところからして、大間違いである。
「爾の靈龜を舎てて、我を觀て頤を朶る、凶なり。我れを觀て頤を朶るるは、亦た貴ぶに足らざるなり」
「自分自身の霊亀を捨てて、間抜けに口を開いておとがいを垂れ、こちらばかりを見ている、甚だ凶である。
こちらを見て、口を開いておとがいを垂れているようなままでは、貴ぶに足る存在ともなり得ない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・頤卦・初九−象伝)
「霊亀」とは、霊妙な明徳を宿した亀のことで、亀は何日も飲まず食わずでいられることから「自存」の
象徴ともされる。自分自身に始めから自存する霊魂を打ち捨てて、他者から何かをもらおう、もらおうと
ばかりして、思わずおとがいが垂れ下がるほどにも大間抜けに口を開けた状態でいる、それがもう凶である。
霊魂の在り処を自分以外の何ものかに期待しすぎることで、自然と自分自身の霊魂を喪失してしまっている。
そして自分自身に自明自存の霊魂こそは、真に徳性を宿してもいるのだから、自己の霊魂を打ち捨てることで、
自然と徳性をも打ち捨ててしまっている。思わずおとがいも垂れ下がるほどに、誰かに頼ろう、頼ろうとばかり
しようとする姿勢こそはありのままに、自らに既存の徳性をないがしろにする原因となってしまっている。
次スレ;
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あれ、500超えちゃったみたい…書き込めないや…
∧∧ ∧,,∧
(;゚Д゚) ミ゚Д゚,,彡 おkk
ノ つ▼〔| ̄ ̄] ▽⊂ ミ 新スレいこうぜ
〜(,,⊃〔 ̄||====]〜〜[]⊂,⊂,,,;;ミ@
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(;゚Д゚) ミ゚Д゚,,彡 おkk
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スレッドタイトル:聖書 Part5