
人はいつかは必ず死に、死んだ以上は二度と生き返らない。
諸行無常の絶対真理をわきまえて、なおその哀しみを乗り越えるのと、
そもそもわきまえられもせずに、死してなお生きているかのように本気で
思い込むのとでは、人の死に対する応対の仕方も、決定的に異なってくる。
たとえば、「礼記」曲礼上第一には「生には来日をかぞえ、死には往日をかぞえる」とあり、
生きている間はその誕生日を祝い、死んでからはその命日を悼むのが礼儀にかなうとされている。
今の日本でも、家の先祖を供養する祭は、一番最後に死んだ故人の命日付近に行うのが慣例となっている。
祝日に指定されていた昭和天皇の誕生日も、崩御後には「みどりの日」に改定されたし、
不体失往生を主張した親鸞聖人ですら、今度の七百五十回忌が悼まれるという。
人の死の荘重さを相応にわきまえた、正しい礼式を守っている人々が、もちろん故人についての
誕生日は祝わずに命日を悼む慣習を守っている一方で、死者の誕生日を祝い続けるバカな奴らもいて、
グーグルなども、孔子の誕生日まで祝おうとする始末。完全に孔子自身の意向に反しているというのに。
「孔子曰く、死に之きて之れを死せりと致すは、不仁にして為す可からざるなり。
死に之きて之れを生けりと致すは、不知にして為す可からざるなり」
「孔先生は言われた。『人が死んだときに、ことさらにその死を強調するのは、仁にもとるのですべきでない。
また、死んだにもかかわらず、存命者であるかのように扱うことも、無知蒙昧も甚だしいのですべきでない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
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