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聖書 Part5
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「聖書」という言葉の原典となっている「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下の記述に基づけば、「聖書」とは
①聖人が書いた書物。
②叙勲などを司る記録官による、正式な記録作業によって編纂された書類。
③賢愚の分け隔てなく全ての評価対象者をおしなべて取り上げた書物。
④賢愚をおしなべて取り上げつつも、その格の上下に合わせた公正な評価が行き届いている書物。
⑤年功や等級の高低を重視し、分をわきまえない僭越などを十全に排している書物。
といった条件を満たしている書物のことであり、そのような書物の中でも、最も代表的かつ古典的であるのが四書五経。
①の条件は孔子の書いた「易経」繋辞伝や「春秋経」、曾子の書いた「大学」や子思子の書いた「中庸」などが満たしている。
②の条件は太古の正式な政治記録である「書経」が(ただしあまりにも太古過ぎるため、多少の修繕がなされている)、
③と④の条件は「詩経」の大雅小雅両篇や「春秋経」が、⑤の条件は身分秩序を重んじる「易経」「論語」「礼記」などが
満たしている。まさに四書五経こそは、「聖書」という言葉の厳密な条件を満たしきるために著されたような書物であり、
これほどにも聖書の名に値する書物は、他に存在しないと言えるほど。ここはその真正聖書たる四書五経などについて語るスレ。
(画像は「論語」の主人公孔子、「孟子」の主人公孟子、「大学」の著者曾子、「中庸」の著者子思子の四名。四書の各筆頭)

①聖人が書いた書物。
②叙勲などを司る記録官による、正式な記録作業によって編纂された書類。
③賢愚の分け隔てなく全ての評価対象者をおしなべて取り上げた書物。
④賢愚をおしなべて取り上げつつも、その格の上下に合わせた公正な評価が行き届いている書物。
⑤年功や等級の高低を重視し、分をわきまえない僭越などを十全に排している書物。
といった条件を満たしている書物のことであり、そのような書物の中でも、最も代表的かつ古典的であるのが四書五経。
①の条件は孔子の書いた「易経」繋辞伝や「春秋経」、曾子の書いた「大学」や子思子の書いた「中庸」などが満たしている。
②の条件は太古の正式な政治記録である「書経」が(ただしあまりにも太古過ぎるため、多少の修繕がなされている)、
③と④の条件は「詩経」の大雅小雅両篇や「春秋経」が、⑤の条件は身分秩序を重んじる「易経」「論語」「礼記」などが
満たしている。まさに四書五経こそは、「聖書」という言葉の厳密な条件を満たしきるために著されたような書物であり、
これほどにも聖書の名に値する書物は、他に存在しないと言えるほど。ここはその真正聖書たる四書五経などについて語るスレ。
(画像は「論語」の主人公孔子、「孟子」の主人公孟子、「大学」の著者曾子、「中庸」の著者子思子の四名。四書の各筆頭)

道理が通れば、無理が引っ込む。

本物の聖書こそは四書五経であり、いま「聖書」などと呼ばれている新旧約聖書のほうが偽聖書だ。
それが、一つ一つの言葉の定義から厳格化する、名辞の尊重者としての儒者の方向性にも適ったこと。
他にも「義」とか「(拝)礼」とかいった、儒学から剽窃されたイスラエル聖書用語は数多い。
それらは全て 最 原 初 から儒学用語であり、儒学で重視される理念として長年用いられてきた
経緯もあり、別に手放した覚えもないもの。それを後々からカルト教団が剽窃して、全く違った意味で
「聖書」とか「義」とか「礼」とかいった言葉を悪用する。それが、儒家にとってはいい迷惑であり、
重要な儒学用語が悪用されることで儒学のほうの信用度までが落ちる一方、最劣悪のカルト教義を
内包しているカルト集団の側にとっては、語感から好ましさをも抱かれる儒学用語の剽窃によって
自分たちの本義の劣悪さを隠蔽して修飾する役割をも果たしてしまっている。儒学の側にとっては
百害あって一利なく、カルト集団の側にとってばかり不当利得となる儒学用語の剽窃。それを是正
させるところに個人的な感情など踏まえるまでもなく、道理に適っており、無理を引っ込ますに値する。
>>5
親に対してもあくまで、ムスリムあたりの監督下での禁治産に置かれることを奨めており、
その結果として連帯的に自分にまで咎が及ぶのは受け入れると言っている。
自主的な行為能力制限によって、地球社会に与える害悪の度合いを、資本主義先進国の人間としては
最低限に抑えている俺にだって、全く責任がないとは思わないが(あまりの物価の高さから、小銭を使うだけでも不当営利になる)、
それにしたって、今まさに大量リンチ殺人の直接実行犯のゴミクズであるおまえみたいな人間が、一抹の反省の色も見せずに、
擬似制限行為能力者状態である俺のような偉人にまで偉そうな口を聞いている中で、なぜ俺のほうから先に反省したり、
罪悪感を抱いたりしなければならないのか。それこそ各々の立場の等級を逸脱した僭越であり、聖書の本義である
>>1の⑤にも反することだ。反省をするのも、罪悪感を抱くのも、最劣等の重犯罪者であるおまえらこそが先でなければならない。
早くお前の憧れる乞食になれよ
なにを躊躇する
なにを躊躇する
無辜の市民ならともかく、重犯罪者風情に対して優越を利かすために
本職の乞食行者にまでなる必要がどうしてあろうか。別に、無職やニート止まりでも、
重犯罪者などよりはよっぽど人を殺す人数も少なくて済んでいる。
本人による人殺しの総数では乞食行者<無辜の労働者<無職の穀潰し≪重犯罪者であり、
乞食行者までもが実効的な価値を持つのは、大多数が無辜の市民となってからのこと。
総員犯罪者状態の世の中なら、無職の穀潰しとて十分に無害で有益なうちに入る。
そういう意味でも、ただの無職が社会の頂上とも化すような不健全さの是正のためには、
何よりも重犯罪者の処分が先決。何ものにも増して重犯罪者こそは、先に変わるべきもの。
「(孔子曰く、)天下に道あるときは、盗まず変ぜんか」
「天下に道が行なわれるときには、まず盗賊どもから変わるだろう」
(「荀子」正論篇第十八・七より)
本職の乞食行者にまでなる必要がどうしてあろうか。別に、無職やニート止まりでも、
重犯罪者などよりはよっぽど人を殺す人数も少なくて済んでいる。
本人による人殺しの総数では乞食行者<無辜の労働者<無職の穀潰し≪重犯罪者であり、
乞食行者までもが実効的な価値を持つのは、大多数が無辜の市民となってからのこと。
総員犯罪者状態の世の中なら、無職の穀潰しとて十分に無害で有益なうちに入る。
そういう意味でも、ただの無職が社会の頂上とも化すような不健全さの是正のためには、
何よりも重犯罪者の処分が先決。何ものにも増して重犯罪者こそは、先に変わるべきもの。
「(孔子曰く、)天下に道あるときは、盗まず変ぜんか」
「天下に道が行なわれるときには、まず盗賊どもから変わるだろう」
(「荀子」正論篇第十八・七より)
KNHS・KNRSスレでさんざん説明していることだが、俺にとっての理想中の理想は、
富貴と貧困の両極端の中道や中庸を行く「行為能力劣後主義」であり、これは世俗思想である儒家や、
大乗仏教でも理想とされるあり方。対して、インドの乞食行者などが没頭しているのは「行為能力否定主義」であり、
道家や小乗仏教などの完成された理念にも基づいているが、俺にとっては「理想中の理想」とまではいかず、
せいぜい「そこそこの理想」止まり。出家もせず、乞食ともならず、妻子すら養いながらも、
清貧や人間道徳や武術をも嗜んで俗世の総員犯罪者化を未然に食い止める、お侍さんのようなあり方こそは
俺自身がもっとも目指しているところでもあり、まさに理想中の理想でこそある。それと比べれば、
乞食や出家者ですら、俺にとっては敬いつつも遠ざける部類。こんな中正にかなった論及は、
極論しか理解できないバカには理解できないんだろうが、要は、俺自身が出家したり乞食になるより、
おまえらが逮捕されて入獄するほうが、俺自身にとっても理想中の理想の道が開けるということだ。
富貴と貧困の両極端の中道や中庸を行く「行為能力劣後主義」であり、これは世俗思想である儒家や、
大乗仏教でも理想とされるあり方。対して、インドの乞食行者などが没頭しているのは「行為能力否定主義」であり、
道家や小乗仏教などの完成された理念にも基づいているが、俺にとっては「理想中の理想」とまではいかず、
せいぜい「そこそこの理想」止まり。出家もせず、乞食ともならず、妻子すら養いながらも、
清貧や人間道徳や武術をも嗜んで俗世の総員犯罪者化を未然に食い止める、お侍さんのようなあり方こそは
俺自身がもっとも目指しているところでもあり、まさに理想中の理想でこそある。それと比べれば、
乞食や出家者ですら、俺にとっては敬いつつも遠ざける部類。こんな中正にかなった論及は、
極論しか理解できないバカには理解できないんだろうが、要は、俺自身が出家したり乞食になるより、
おまえらが逮捕されて入獄するほうが、俺自身にとっても理想中の理想の道が開けるということだ。
乞食は嫌なんだ
結局無い物ねだりの甘え
社会に出る努力がしたくないから
皆が君レベルに落ちて欲しいという願望だろ
一人だけ殺した人間も
百人殺した人間も
人殺しには間違いない
君は自分が人殺しと気付いていながらそれを続ける気なんだな
それこそ最低ではないか
結局無い物ねだりの甘え
社会に出る努力がしたくないから
皆が君レベルに落ちて欲しいという願望だろ
一人だけ殺した人間も
百人殺した人間も
人殺しには間違いない
君は自分が人殺しと気付いていながらそれを続ける気なんだな
それこそ最低ではないか
聖書は、聖なる書は、思想や知識や言葉ではない。
生きている。
つまり、たとえば、聖書は、イエスは生きているし、今でも、リアルタイムで、影響力を行使する。
その言葉を信じるものを、内面どころか、霊のレベルで変えてしまう、作り変えてしまう。
じゃあ、どうして信じることが出来るようになるかというと、いろいろ、微妙だ。
多分、基本は、熟れた果実が、自然に、落ちるように始まるのではないか。
誰かから、貰うこともあるだろう。
イエスは言った、私の肉を食べねば・・・。私の水を飲むものは乾くことがない・・・。
聖書の言葉は、生きているし、生きたイエスの体、御霊だ、と思う。
生きている。
つまり、たとえば、聖書は、イエスは生きているし、今でも、リアルタイムで、影響力を行使する。
その言葉を信じるものを、内面どころか、霊のレベルで変えてしまう、作り変えてしまう。
じゃあ、どうして信じることが出来るようになるかというと、いろいろ、微妙だ。
多分、基本は、熟れた果実が、自然に、落ちるように始まるのではないか。
誰かから、貰うこともあるだろう。
イエスは言った、私の肉を食べねば・・・。私の水を飲むものは乾くことがない・・・。
聖書の言葉は、生きているし、生きたイエスの体、御霊だ、と思う。
「一人殺そうが百人殺そうが同じ」
この時点でもうすでに、罪悪の辛苦に対する、自らの鈍感さを露呈している。
ある程度積極的な生き方をしていく人間として、人殺しも避けられない場合がある。
だからといってその罪を開き直り、どこまでもその罪を進行させていこうとする者と、
人殺しの罪すらも犯さざるを得ない中にも、その罪の軽減に努めていこうとする者と。
人殺し級の罪を犯すか犯さないかで、犯すほうに入るとする。
でも、罪を犯すことはつまらない。犯さないで済むならそれが何より。
これが、罪を犯す中にもマシでいようとする者の論理で、これが際限のない
連続殺人犯よりもマシであるのはもちろんのこと、罪滅ぼしに没頭するあまり、
自らを早死に級の苦行にまで追い込むよりもマシだと考えるのが中庸や中道。
今の世の中で労働者として働き抜く努力なんてのは、「いかに多くの人間を殺せるか」
という努力なわけだから、そんな努力はしたくもないし、まさにすべきでもない。
そんな有害無益な努力をしない中にも、そこそこに俗世での真っ当な生活を送れるのが、
大量強盗殺人犯として生きていくことよりも、早死に級の乞食として生きていくよりも、
この上なく最高最良のあり方。あらゆる選択肢の中で最善だから、それを求めているだけ。
この時点でもうすでに、罪悪の辛苦に対する、自らの鈍感さを露呈している。
ある程度積極的な生き方をしていく人間として、人殺しも避けられない場合がある。
だからといってその罪を開き直り、どこまでもその罪を進行させていこうとする者と、
人殺しの罪すらも犯さざるを得ない中にも、その罪の軽減に努めていこうとする者と。
人殺し級の罪を犯すか犯さないかで、犯すほうに入るとする。
でも、罪を犯すことはつまらない。犯さないで済むならそれが何より。
これが、罪を犯す中にもマシでいようとする者の論理で、これが際限のない
連続殺人犯よりもマシであるのはもちろんのこと、罪滅ぼしに没頭するあまり、
自らを早死に級の苦行にまで追い込むよりもマシだと考えるのが中庸や中道。
今の世の中で労働者として働き抜く努力なんてのは、「いかに多くの人間を殺せるか」
という努力なわけだから、そんな努力はしたくもないし、まさにすべきでもない。
そんな有害無益な努力をしない中にも、そこそこに俗世での真っ当な生活を送れるのが、
大量強盗殺人犯として生きていくことよりも、早死に級の乞食として生きていくよりも、
この上なく最高最良のあり方。あらゆる選択肢の中で最善だから、それを求めているだけ。
iPhone手に入れたからって色めき立って投稿しまくるのも、
低脳なサルらしくはあるが、清貧ではないな。
低脳なサルらしくはあるが、清貧ではないな。

用語(目)(me)
【目の中のちり】【目の中の梁】マタイ7章3節→【目のちりで悩む】→【偽善者たち】 · 【梁】は
「自負心」「自尊心」「自惚れ」などを言い、これのために「神を見る」ことの出来なければ、
「自分の実情」を見ることも出来ない。彼は自分の義を誇り、この ...セルフイメージは大丈夫??
自己受容__ あなたは、あなたの侭で十分 『愛されてる』のにね。_気が付くと良いのにね。
http://bbs68.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/news/1284019717... ペイオフ初…発令…
ここではスレ違い気味の話なのでsageで書くが、
新旧約聖書信仰こそは、あらゆる精神異常の起源でもあるし、その一種としてのサイコパスの起源でもある。
罪を犯しても神の愛で無条件に許され、刑死しても生き返るお伽噺でどんな重犯罪にも罪悪感を抱かない。
これほどにも精神異常を煽る宗教教義など他になく、イエスは刑死していないとするイスラムのほうがまだ健全ですらある。
信仰ですらあれば健全であり、病気扱いされるいわれもないというのも、
新旧約聖書信仰者にとってのみの逃げ口上であり、信仰が病気であることなんていくらでもある。
それどころか、現実に即さないカルト信仰こそは、精神病理の深刻化を助長する最たるものでもある。
ニーチェやヒトラーのようなニヒリストを信奉していた酒鬼薔薇も、バモイドオキ神という自ら捏造した神様を
信仰対象ともして、ニヒリズムの苦悩を緩和させてもいた。麻薬的な超越者信仰こそは、
自殺級のニヒリズムをも助長させながら生き延びさせるヤブ医者であり、狂信とニヒリズムへの両極化を排することこそは
まさに「分裂病」の真の治療方法ともなるのであり、狂信を煽れば煽るほど、自分のどこかでニヒリズムも深刻化していくものだ。
新旧約聖書信仰こそは、あらゆる精神異常の起源でもあるし、その一種としてのサイコパスの起源でもある。
罪を犯しても神の愛で無条件に許され、刑死しても生き返るお伽噺でどんな重犯罪にも罪悪感を抱かない。
これほどにも精神異常を煽る宗教教義など他になく、イエスは刑死していないとするイスラムのほうがまだ健全ですらある。
信仰ですらあれば健全であり、病気扱いされるいわれもないというのも、
新旧約聖書信仰者にとってのみの逃げ口上であり、信仰が病気であることなんていくらでもある。
それどころか、現実に即さないカルト信仰こそは、精神病理の深刻化を助長する最たるものでもある。
ニーチェやヒトラーのようなニヒリストを信奉していた酒鬼薔薇も、バモイドオキ神という自ら捏造した神様を
信仰対象ともして、ニヒリズムの苦悩を緩和させてもいた。麻薬的な超越者信仰こそは、
自殺級のニヒリズムをも助長させながら生き延びさせるヤブ医者であり、狂信とニヒリズムへの両極化を排することこそは
まさに「分裂病」の真の治療方法ともなるのであり、狂信を煽れば煽るほど、自分のどこかでニヒリズムも深刻化していくものだ。
またそういう根拠のない虚言を意味不明な言葉で並べて…
新旧約信仰は、第一義としては「精神薄弱」への没入を目的とする。
新旧約聖書を信仰することは、それすなわち精神の薄弱化を意味し、新旧約信仰者である以上は少なからず精神薄弱者でもある。
むしろ、堅固であってこそ安楽ともなる精神性の確立を、「心のトゲ」だの「目の中のチリ」だのといった
不当な比喩で貶め、どこまでも際限なく精神を薄弱化し、ヤク中のような心神喪失状態へと持っていく。
身体や知能は大人並みであるままに、精神だけが幼児退行化した信者たちの姿が、独特の魅力を放っているように
思われる場合があるのも確かだが、それは早い話が人工的な精神薄弱であり、それ以外のいかなる意味も持たない。
カトリックなどの、表向きに正統とされている新旧約信仰がもたらすのは、この精神薄弱化までで、それ以外であることは
名目上はない。しかし、精神薄弱は必然的なこととして、罪を罪とも思わない「サイコパス」をも派生するのであり、
新旧約信仰すべてがあからさまにサイコパスを標榜しているわけではなくとも、自明のこととしてサイコパス患者をも派生する。
その、サイコパス量産教義としての新旧約信仰を実用化したのがプロテスタントなどで、模範的なプロテスタント国家である
イギリスやアメリカが国家ぐるみで犯してきた人類史上未曾有の大罪などを見ても、新旧約信仰が救い難いほどものサイコパスを
量産してしまうことまでもが明らか。それは、カトリックのような新旧約信仰の正統を自認する側からすれば異端とされることだが、
ただの精神薄弱だけでなく、サイコパスをも量産してしまう素養が新旧約信仰全般に備わっていることは見るに明らかで、
場合によっては精神薄弱だけで済む場合もあるにしても、サイコパスの重犯罪者をも大量生産してしまう、新旧約信仰全体の廃絶に
努めなければ、新旧約信仰に基づく重権力犯罪の収拾も覚束ない。権力犯罪原理主義は、新旧約信仰にとって不可分なものだから。
新旧約聖書を信仰することは、それすなわち精神の薄弱化を意味し、新旧約信仰者である以上は少なからず精神薄弱者でもある。
むしろ、堅固であってこそ安楽ともなる精神性の確立を、「心のトゲ」だの「目の中のチリ」だのといった
不当な比喩で貶め、どこまでも際限なく精神を薄弱化し、ヤク中のような心神喪失状態へと持っていく。
身体や知能は大人並みであるままに、精神だけが幼児退行化した信者たちの姿が、独特の魅力を放っているように
思われる場合があるのも確かだが、それは早い話が人工的な精神薄弱であり、それ以外のいかなる意味も持たない。
カトリックなどの、表向きに正統とされている新旧約信仰がもたらすのは、この精神薄弱化までで、それ以外であることは
名目上はない。しかし、精神薄弱は必然的なこととして、罪を罪とも思わない「サイコパス」をも派生するのであり、
新旧約信仰すべてがあからさまにサイコパスを標榜しているわけではなくとも、自明のこととしてサイコパス患者をも派生する。
その、サイコパス量産教義としての新旧約信仰を実用化したのがプロテスタントなどで、模範的なプロテスタント国家である
イギリスやアメリカが国家ぐるみで犯してきた人類史上未曾有の大罪などを見ても、新旧約信仰が救い難いほどものサイコパスを
量産してしまうことまでもが明らか。それは、カトリックのような新旧約信仰の正統を自認する側からすれば異端とされることだが、
ただの精神薄弱だけでなく、サイコパスをも量産してしまう素養が新旧約信仰全般に備わっていることは見るに明らかで、
場合によっては精神薄弱だけで済む場合もあるにしても、サイコパスの重犯罪者をも大量生産してしまう、新旧約信仰全体の廃絶に
努めなければ、新旧約信仰に基づく重権力犯罪の収拾も覚束ない。権力犯罪原理主義は、新旧約信仰にとって不可分なものだから。
と意味不明な供述を繰り返し動機は今だ不明です。
削除(by投稿者)
ここでいう「精神薄弱」とは、精神医学用語上の「知的障害」の旧称としての精神薄弱ではなく、
心を「性」と「情」に分けて、性にのみ精神的な価値を付与し、情には単なる情報としての価値しか付与しない
朱子学的な心理解釈に基づいた場合での、精神たる「性」が薄弱化することを意味している。
重要ポイント:「性+情=心」⇔「純粋精神+純粋知能=心」
現代の精神医学では、朱子学上の性と情に値するような、精神と知能の区別はなく、
精神障害すなわち知的障害であるかのように思われている。しかし、正確には、
人間の知能は性か情かのうちの「情」にのみ当たるものであり、純粋な知能情報から隔絶したところに
純粋精神たる「性」が実在していることを朱子学は認める。この、朱子学で「性」と呼ばれる純粋精神のみが
新旧約信仰者は薄弱化し、「性即理」でもある性に従うことができなくなって、理にかなわない言行をも始める。
漢学レベルの高尚な学問が理解できないというのはあるが、新旧約信仰者とて、あからさまな知的障害を
伴っているとは限らないために、現代の精神医学ではそれが精神薄弱(今で言う知的障害)であるとはみなされない。
しかし、心を性と情に分別して、性にこそ道理的な意義をも見出す朱子学の観点からすれば、新旧約信仰者は
「純粋精神薄弱(性薄弱)」であるのであり、知的障害という意味での精神薄弱以上にも深刻な問題を帯びている。
絶対にサイコパスとまで化しているとも限らないが、新旧約信仰によって必ず被る純粋精神薄弱も、
それだけでも致命的に不健全なものであり、サイコパスとの連帯責任という以上にも、それ自体に問題がある。
心を「性」と「情」に分けて、性にのみ精神的な価値を付与し、情には単なる情報としての価値しか付与しない
朱子学的な心理解釈に基づいた場合での、精神たる「性」が薄弱化することを意味している。
重要ポイント:「性+情=心」⇔「純粋精神+純粋知能=心」
現代の精神医学では、朱子学上の性と情に値するような、精神と知能の区別はなく、
精神障害すなわち知的障害であるかのように思われている。しかし、正確には、
人間の知能は性か情かのうちの「情」にのみ当たるものであり、純粋な知能情報から隔絶したところに
純粋精神たる「性」が実在していることを朱子学は認める。この、朱子学で「性」と呼ばれる純粋精神のみが
新旧約信仰者は薄弱化し、「性即理」でもある性に従うことができなくなって、理にかなわない言行をも始める。
漢学レベルの高尚な学問が理解できないというのはあるが、新旧約信仰者とて、あからさまな知的障害を
伴っているとは限らないために、現代の精神医学ではそれが精神薄弱(今で言う知的障害)であるとはみなされない。
しかし、心を性と情に分別して、性にこそ道理的な意義をも見出す朱子学の観点からすれば、新旧約信仰者は
「純粋精神薄弱(性薄弱)」であるのであり、知的障害という意味での精神薄弱以上にも深刻な問題を帯びている。
絶対にサイコパスとまで化しているとも限らないが、新旧約信仰によって必ず被る純粋精神薄弱も、
それだけでも致命的に不健全なものであり、サイコパスとの連帯責任という以上にも、それ自体に問題がある。
SoftBank邪魔。
宗教は、存在論であり、絶対実在を論理や知覚(計測)ではなく、自らの存在における共振作用の如きもので知ることな
のではないかとおもう。
世界は、絶対存在が纏う物語、シナリオ、二次的以降の現象世界になる。
つまり、絶対存在ではない「現象世界」はシナリオとして、物語として、無限に展開して、変化する。
何故ならば、相対であり、物語は無限に書き加えることが可能だからだ。
その限界は存在の本質、神、意識の限界と等しいのだと思う。
その場合、サイコパスという「言葉」は現象世界に属する物語の一部になる。
一点だけ、サイコパスという姿だけを見れば、それは、正しいとも言える。
でも、現象世界に投影した神である意識の全体から見れば、無限分の一にしか過ぎない。
それは、顕微鏡で自分の体を眺めて、
「我は細胞なり」
「我は遺伝子なり」
「我は分子なり」
と見るのと同じなのだと思う。
瑣末の医学用語では、命の広大な世界を表すことはとても出来ない。
実は、命とは、人間とは、とてつもなく広大である可能性があるのだ。
何故ならば、人は、分子でもあるが、同時に、「愛」すら持っている。
それは、人間が神でもあることを意味する。
何故ならば、聖典は、神は愛なりと定義するからだ。
のではないかとおもう。
世界は、絶対存在が纏う物語、シナリオ、二次的以降の現象世界になる。
つまり、絶対存在ではない「現象世界」はシナリオとして、物語として、無限に展開して、変化する。
何故ならば、相対であり、物語は無限に書き加えることが可能だからだ。
その限界は存在の本質、神、意識の限界と等しいのだと思う。
その場合、サイコパスという「言葉」は現象世界に属する物語の一部になる。
一点だけ、サイコパスという姿だけを見れば、それは、正しいとも言える。
でも、現象世界に投影した神である意識の全体から見れば、無限分の一にしか過ぎない。
それは、顕微鏡で自分の体を眺めて、
「我は細胞なり」
「我は遺伝子なり」
「我は分子なり」
と見るのと同じなのだと思う。
瑣末の医学用語では、命の広大な世界を表すことはとても出来ない。
実は、命とは、人間とは、とてつもなく広大である可能性があるのだ。
何故ならば、人は、分子でもあるが、同時に、「愛」すら持っている。
それは、人間が神でもあることを意味する。
何故ならば、聖典は、神は愛なりと定義するからだ。
クスクス
>>27が広大で無限であることを殊更に標榜している「現象世界」なるものも、所詮は純粋精神の投影に過ぎず、
純粋精神による着実な制御が行き届いている限りにおいて正当となり、そうでなければ必ず不当となる。
現象世界の事物は、その何もかもが言葉による明確な説明が可能で、脳内に概念的な知識として納入することができる。
一方で純粋精神はといえば、それ自体を言葉によって説明するのは全く不可能で、概念的な知識と化すこともできない。
せいぜい純粋精神が現象世界に与えた影響の痕跡が、言葉や概念的な知識として散見される程度に止まる。
然るに、新旧約信仰はロゴス信仰であり、言葉はありのままに真理であるとする。
現象世界の事物をありのままに説明することは可能でも、純粋精神については直接表現の不可能な言葉を金科玉条に掲げ、
結果として言葉によって明瞭に説明される現象知識ばかりを偏重するようになり、あまり言葉として聞こえのよくない場合も
多い純粋精神への理解も尊重も全くの留守となる。そのため純粋精神による制御の利いた現象ではなく、ただそれだけで
一人歩きする現象世界ばかりに拘泥することとなり、精神制御が行き届いていないからして、何もかもの行いが不当となる。
現象世界それ自体を無闇に広大視して、その現象世界を超えたところにある純粋精神の把捉を疎かにする新旧約信仰者の
あり方は、ただ「純粋精神薄弱」の一言で説明しきれるものであり、純粋精神薄弱の一環としてサイコパスとも化している
場合がある。純粋精神による現象世界の制御が行き届いていればサイコパスなどには決してならないため、サイコパスという
部分的病理をも帯びてしまっているのは純粋精神薄弱に特有のことであるといえ、人類破滅級の災禍をも及ぼしつつある
英米人などのサイコパスの駆逐のためには、サイコパスの母体としての純粋精神薄弱を供する新旧約信仰からの根絶が必要だ。
純粋精神による着実な制御が行き届いている限りにおいて正当となり、そうでなければ必ず不当となる。
現象世界の事物は、その何もかもが言葉による明確な説明が可能で、脳内に概念的な知識として納入することができる。
一方で純粋精神はといえば、それ自体を言葉によって説明するのは全く不可能で、概念的な知識と化すこともできない。
せいぜい純粋精神が現象世界に与えた影響の痕跡が、言葉や概念的な知識として散見される程度に止まる。
然るに、新旧約信仰はロゴス信仰であり、言葉はありのままに真理であるとする。
現象世界の事物をありのままに説明することは可能でも、純粋精神については直接表現の不可能な言葉を金科玉条に掲げ、
結果として言葉によって明瞭に説明される現象知識ばかりを偏重するようになり、あまり言葉として聞こえのよくない場合も
多い純粋精神への理解も尊重も全くの留守となる。そのため純粋精神による制御の利いた現象ではなく、ただそれだけで
一人歩きする現象世界ばかりに拘泥することとなり、精神制御が行き届いていないからして、何もかもの行いが不当となる。
現象世界それ自体を無闇に広大視して、その現象世界を超えたところにある純粋精神の把捉を疎かにする新旧約信仰者の
あり方は、ただ「純粋精神薄弱」の一言で説明しきれるものであり、純粋精神薄弱の一環としてサイコパスとも化している
場合がある。純粋精神による現象世界の制御が行き届いていればサイコパスなどには決してならないため、サイコパスという
部分的病理をも帯びてしまっているのは純粋精神薄弱に特有のことであるといえ、人類破滅級の災禍をも及ぼしつつある
英米人などのサイコパスの駆逐のためには、サイコパスの母体としての純粋精神薄弱を供する新旧約信仰からの根絶が必要だ。
結局、世界がこのような方向に向かうのだとしたら、やはり、新約聖書は最も安全な道しるべの一つなのかもしれない。
四書五経だって、新旧約聖書よりはまだマシな結果が得られるうちの一つに過ぎませんからw
人類史上最悪最低の破滅へと人類社会を追い込んでいるのが新旧約聖書である一方、
それよりもマシとなるのはもちろんのこと、遥かに最良最高の境地へといざなってくださる教義が
無数にいらっしゃる中で、新旧約聖書よりも一段階か二段階程度マシな結果を提供しているだけな、
最悪ほどではない範囲内の泰平統治を実現してくれるのが、四書五経なだけだから。
あまりにも程度の低すぎる「最低競争」の中での、ビリッケツのどん尻が新旧約聖書である一方で、
下から二番目のブービー賞であるのが四書五経なだけで、それも別に普遍的には偉いことじゃない。
四書五経ぐらいは当然のこととして実践できた先に、どこまでも上り詰めていく限りない高峰がございます↑↑↑・・・
人類史上最悪最低の破滅へと人類社会を追い込んでいるのが新旧約聖書である一方、
それよりもマシとなるのはもちろんのこと、遥かに最良最高の境地へといざなってくださる教義が
無数にいらっしゃる中で、新旧約聖書よりも一段階か二段階程度マシな結果を提供しているだけな、
最悪ほどではない範囲内の泰平統治を実現してくれるのが、四書五経なだけだから。
あまりにも程度の低すぎる「最低競争」の中での、ビリッケツのどん尻が新旧約聖書である一方で、
下から二番目のブービー賞であるのが四書五経なだけで、それも別に普遍的には偉いことじゃない。
四書五経ぐらいは当然のこととして実践できた先に、どこまでも上り詰めていく限りない高峰がございます↑↑↑・・・
君みたいに他人を排除しようとする思想より
人類皆兄弟の方がいい
人類皆兄弟の方がいい
別に現新旧約信仰者を完全に排除しようってんじゃない。
ただ、自分たちの格下中の格下さ加減をわきまえて、賤人ならではの屈従した振舞いに
徹しさえすりゃそれでいいのであって、そのような身分の上下がわきまえられた中にも、
鬼平と彦十のような、序列を超えた友としての付き合いもあったりするのが相応しいということ。
今はそれすらあり得ない。賤人どもが身の程すらわきまえようともしないせいで、
お互いの徳を友とする、身分を超えた朋友としての関係すら、成立のしようがない。
ただ、自分たちの格下中の格下さ加減をわきまえて、賤人ならではの屈従した振舞いに
徹しさえすりゃそれでいいのであって、そのような身分の上下がわきまえられた中にも、
鬼平と彦十のような、序列を超えた友としての付き合いもあったりするのが相応しいということ。
今はそれすらあり得ない。賤人どもが身の程すらわきまえようともしないせいで、
お互いの徳を友とする、身分を超えた朋友としての関係すら、成立のしようがない。
わたしは下々であり、これから道を歩むものであり、道を探すものにすぎない。
これからも変わるし、変わる用意もある。
でも、あなた方は、道の人でもなく、修行者でもない。
既に十分な何かを得てしまい、変わる必要がない。
私にとって、益になる、学ぶべきものが見えてこない。
これからも変わるし、変わる用意もある。
でも、あなた方は、道の人でもなく、修行者でもない。
既に十分な何かを得てしまい、変わる必要がない。
私にとって、益になる、学ぶべきものが見えてこない。
その、探し出して歩もうとしている道も、所詮は形而下の現象世界における虚構でしかないし、
益を得よう、学ぼうと欲しているものも、姿形によって説明される現象の知識に過ぎない。
矮小で、それだけでは過ちの塊としかならない現象世界に幽閉されたままでいて、そうであることを開き直りもする。
そのような低劣な姿勢が自然と形而上の道理との連絡を妨げ、あまつさえ真の道理の把捉者を
「道を歩む人ではない」と決め付すらする。確かに道理の把捉者となることは全くの任意であり、
比較的人種的差異の少ない日本のような社会においてですら、道を守っていこうとする士人階級と、
現象世界での生活に終始する産業階級が血筋から断絶したりもしていたわけだが、
それはあくまで形而上に実在する真の道理の把捉の有無によってであり、現象界の些末な虚構を
道だと勘違いして、その拘泥に終始するか否かなどという粗末な違いによってではなかった。
虚構への拘泥者は、形而上の存在たる道にすら、人の形だの父だのの具体的な形を要求し、
姿形すら説明されない所には何らの価値も見出だそうとしない。
それでは姿形は把捉できなくとも、確かに実在する形而上の道理を察知することすらままならず、
その道理の把捉者が何を得ているのかを察することもできない。そして、自らの察知が及ばないことを
貶めの理由とし、矛盾の塊であっても姿形として察知可能な十字架あたりを至上視する。
そこまでしか至らないのが自分であるというのなら、それが賤しめられるべき烙印の根拠であることをも十分に自覚すべきだ。
卑賤であるのに卑賤故の恥じ入りがなく、かえって卑賤であることを開き直るところが、全く矛盾している。
益を得よう、学ぼうと欲しているものも、姿形によって説明される現象の知識に過ぎない。
矮小で、それだけでは過ちの塊としかならない現象世界に幽閉されたままでいて、そうであることを開き直りもする。
そのような低劣な姿勢が自然と形而上の道理との連絡を妨げ、あまつさえ真の道理の把捉者を
「道を歩む人ではない」と決め付すらする。確かに道理の把捉者となることは全くの任意であり、
比較的人種的差異の少ない日本のような社会においてですら、道を守っていこうとする士人階級と、
現象世界での生活に終始する産業階級が血筋から断絶したりもしていたわけだが、
それはあくまで形而上に実在する真の道理の把捉の有無によってであり、現象界の些末な虚構を
道だと勘違いして、その拘泥に終始するか否かなどという粗末な違いによってではなかった。
虚構への拘泥者は、形而上の存在たる道にすら、人の形だの父だのの具体的な形を要求し、
姿形すら説明されない所には何らの価値も見出だそうとしない。
それでは姿形は把捉できなくとも、確かに実在する形而上の道理を察知することすらままならず、
その道理の把捉者が何を得ているのかを察することもできない。そして、自らの察知が及ばないことを
貶めの理由とし、矛盾の塊であっても姿形として察知可能な十字架あたりを至上視する。
そこまでしか至らないのが自分であるというのなら、それが賤しめられるべき烙印の根拠であることをも十分に自覚すべきだ。
卑賤であるのに卑賤故の恥じ入りがなく、かえって卑賤であることを開き直るところが、全く矛盾している。
前スレ489の、「易経」繋辞伝の「形而上なるものを之れ道といい、形而下なるものを之れ器という」 という句を踏まえた上で、
「君子は器ならず」
「君子は働きの限定された器ものではない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・為政第二・一二より)
という論語の一説をも参照すれば、君子道徳たる儒学において、君子は形而下の現象的存在たる「器」の大小や巧拙によって
その価値が左右されるのではなく、形而上の純粋精神たる「道」の把捉度如何によってその価値が決まるのだということが分かる。
現象原理主義の新旧約信仰はもちろんのこと、中国の道家ですら「大器晩成(老子)」などと器の大小にこだわり、現象面において
愚人が山を動かす大偉業を成し遂げる「愚公移山(列子)」の比喩が、近代中国における毛沢東主義の推進理念ともされていた。
儒家とて現象面での大人となることを禁止するわけではなく、実際に歴史的にも多くの偉大な儒者が輩出されて来てもいる。
しかし、儒家において最重要であるのは、そのような現象面での偉業の有無ではなく、現象を超越したところにある純粋精神たる
「道」を把捉し、道理にかなった性分を養うことなのであり、そのために現象面で貧窮に追い込まれたとて、何も嘆くことはない。
「仁とは人なり。義とは宜なり。合せて之を言えば道なり」
「仁とは人間らしくあることであり、義とは是非善悪のけじめを付けることである。これらを合わせて道という
(人は人らしくあり、善悪の分別も付けてこそ、形而上なるものとしての道にも従えるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・一六より)
「君子は器ならず」
「君子は働きの限定された器ものではない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・為政第二・一二より)
という論語の一説をも参照すれば、君子道徳たる儒学において、君子は形而下の現象的存在たる「器」の大小や巧拙によって
その価値が左右されるのではなく、形而上の純粋精神たる「道」の把捉度如何によってその価値が決まるのだということが分かる。
現象原理主義の新旧約信仰はもちろんのこと、中国の道家ですら「大器晩成(老子)」などと器の大小にこだわり、現象面において
愚人が山を動かす大偉業を成し遂げる「愚公移山(列子)」の比喩が、近代中国における毛沢東主義の推進理念ともされていた。
儒家とて現象面での大人となることを禁止するわけではなく、実際に歴史的にも多くの偉大な儒者が輩出されて来てもいる。
しかし、儒家において最重要であるのは、そのような現象面での偉業の有無ではなく、現象を超越したところにある純粋精神たる
「道」を把捉し、道理にかなった性分を養うことなのであり、そのために現象面で貧窮に追い込まれたとて、何も嘆くことはない。
「仁とは人なり。義とは宜なり。合せて之を言えば道なり」
「仁とは人間らしくあることであり、義とは是非善悪のけじめを付けることである。これらを合わせて道という
(人は人らしくあり、善悪の分別も付けてこそ、形而上なるものとしての道にも従えるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・一六より)
イスラムも偶像崇拝を禁止するし、ヒンズー教でも宇宙の最高真理とされるブラフマンは、「ならずならず(ネーティネーティ)」
の重畳によってのみ捉えられる、真我たるアートマンと同等のものであるとされるし、儒家の「易経」においても、現象界を道理に
即して制御する場合の抽象理念が、八卦や六十四卦として構築されているだけで、現象界の構造を全く抜きにしたところにある
形而上の存在としての道理そのものを説明してはいない。これらはいずれも形而上の存在が、形而上の存在ゆえに、現象的な知識や
言葉として説明しようがないという背反性に即している例であり、このほうが全く理にかなった形而上理解への態度姿勢でもある。
現象的な説明が定義上から不可能である、形而上の事物をあえて現象的に捉えようとし、形而下における肉体という現象が
刑死によって滅ぼされることで、霊魂だけは形而上において現象的な姿形を持って生き続けているなどという迷妄を信じ込む。
そのようなカルト信仰は結局、万事万物を現象界の内側だけでの自家中毒に追いやり、形而上に実は存在している普遍道理なり
絶対真理なりとの連絡を断ち切らせて、現象世界の範囲内だけでの破滅的な迷妄を繰り返させるだけにとどまる。「現象として
破滅的であったりサイコパスであったりするのは部分的なこと」などといいながら、結局その全てが現象の内側に止まっている
には違いなく、形而上の道理や真理に則る場合以上にも、現象界を劣悪化させるばかりであり、それ以上でもそれ以外でもない。
「中人以上には、以て上を語るべきなり。中人以下には、以て上を語るべからざるなり」
「(形而上の精神性も理解できる)中ぐらい以上の人間には、上のことを語ってもいいが、
(形而下の現象しか理解できない)中ぐらい以下の人間には、上のことは語るべきですらない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・二一より)
の重畳によってのみ捉えられる、真我たるアートマンと同等のものであるとされるし、儒家の「易経」においても、現象界を道理に
即して制御する場合の抽象理念が、八卦や六十四卦として構築されているだけで、現象界の構造を全く抜きにしたところにある
形而上の存在としての道理そのものを説明してはいない。これらはいずれも形而上の存在が、形而上の存在ゆえに、現象的な知識や
言葉として説明しようがないという背反性に即している例であり、このほうが全く理にかなった形而上理解への態度姿勢でもある。
現象的な説明が定義上から不可能である、形而上の事物をあえて現象的に捉えようとし、形而下における肉体という現象が
刑死によって滅ぼされることで、霊魂だけは形而上において現象的な姿形を持って生き続けているなどという迷妄を信じ込む。
そのようなカルト信仰は結局、万事万物を現象界の内側だけでの自家中毒に追いやり、形而上に実は存在している普遍道理なり
絶対真理なりとの連絡を断ち切らせて、現象世界の範囲内だけでの破滅的な迷妄を繰り返させるだけにとどまる。「現象として
破滅的であったりサイコパスであったりするのは部分的なこと」などといいながら、結局その全てが現象の内側に止まっている
には違いなく、形而上の道理や真理に則る場合以上にも、現象界を劣悪化させるばかりであり、それ以上でもそれ以外でもない。
「中人以上には、以て上を語るべきなり。中人以下には、以て上を語るべからざるなり」
「(形而上の精神性も理解できる)中ぐらい以上の人間には、上のことを語ってもいいが、
(形而下の現象しか理解できない)中ぐらい以下の人間には、上のことは語るべきですらない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・二一より)
「聖賢は辛苦に耐えて偉業を成す」という意味のことが、「孟子」告子章句下・一五に書かれているが、
これはあくまで自力の聖人や賢人についてのことで、他力本願に終始し、現象世界の内側だけで蒙昧なままに
一生を終える大多数の下民などに対して推奨されていることではない。常時純粋精神から乖離したままの状態にある
愚人の分際でいて、苦痛にも耐えて努力などしたところには、金融詐欺や強盗殺人への努力までもが含まれて当然。
確かな純粋精神の制御の下で為政をも司る士人こそは最も努力すべきで、そこまでいかずとも、農業や必需工業のような
人々にとって真に必要な産業に従事している人々がその次に努力すべきで、商売人どもは「曽根崎心中」でも読みながら
適当に暮らし、犯罪者は檻の中でじっとしているべきだ。万事には努力すべきこととそうでないことがあり、あらゆる
仕事に従事する人間の中にも努力すべき人間とそうでない人間がいる。現象界に幽閉されたままでいる新旧約信仰者などは、
今すぐにでも苦痛に耐える努力をやめて、ムスリムたちの従順なズィンミー(庇護民)にでもなるのがふさわしい。
「我征きて徂に西し、艽野に至れる。二月の初吉に、載ち寒暑を離ぬ。心し憂いて、其の毒み大だ苦しき。
彼の共人を念いて、涕の零つること雨の如し。豈に帰るを懐わざらん、此の罪罟を畏るるなり」
「出征して遥か西方へと赴き、今は荒野にまで至った。(旧暦の)二月の上旬、夏も過ぎて冬となる。
心は憂いて、その苦痛も甚だしい。故国の家族のことを思うと、涙が雨のように流れ落ちる。
今にも逃げ帰りたい思いだが、逃亡の罪を問われるのを畏れてもいる。(賦役者が本音を吐露する詩)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・北山之什・小明より)
これはあくまで自力の聖人や賢人についてのことで、他力本願に終始し、現象世界の内側だけで蒙昧なままに
一生を終える大多数の下民などに対して推奨されていることではない。常時純粋精神から乖離したままの状態にある
愚人の分際でいて、苦痛にも耐えて努力などしたところには、金融詐欺や強盗殺人への努力までもが含まれて当然。
確かな純粋精神の制御の下で為政をも司る士人こそは最も努力すべきで、そこまでいかずとも、農業や必需工業のような
人々にとって真に必要な産業に従事している人々がその次に努力すべきで、商売人どもは「曽根崎心中」でも読みながら
適当に暮らし、犯罪者は檻の中でじっとしているべきだ。万事には努力すべきこととそうでないことがあり、あらゆる
仕事に従事する人間の中にも努力すべき人間とそうでない人間がいる。現象界に幽閉されたままでいる新旧約信仰者などは、
今すぐにでも苦痛に耐える努力をやめて、ムスリムたちの従順なズィンミー(庇護民)にでもなるのがふさわしい。
「我征きて徂に西し、艽野に至れる。二月の初吉に、載ち寒暑を離ぬ。心し憂いて、其の毒み大だ苦しき。
彼の共人を念いて、涕の零つること雨の如し。豈に帰るを懐わざらん、此の罪罟を畏るるなり」
「出征して遥か西方へと赴き、今は荒野にまで至った。(旧暦の)二月の上旬、夏も過ぎて冬となる。
心は憂いて、その苦痛も甚だしい。故国の家族のことを思うと、涙が雨のように流れ落ちる。
今にも逃げ帰りたい思いだが、逃亡の罪を問われるのを畏れてもいる。(賦役者が本音を吐露する詩)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・北山之什・小明より)
純粋精神たる「性」に根ざした士人こそは最も熱心に働くべきで、農業や工業などの必需産業従事者も義務的に働くべきで、
貨殖一辺倒の商売人は適当にやっているべきで、犯罪者は檻の中に入って何もすべきでない。これが真に正しい職業倫理。
今はその逆。重犯罪者ほど熱心に働き、貨殖一辺倒の商売人こそは、自分たちが世の中に必要不可欠な存在だと思い込んで
義務的に働き、農工業などの必需産業従事者は働いても働かなくてもいいような気分で働き、士人こそはほとんど働いてない。
職業倫理が完全に転倒してしまい、世界も破滅へとまっしぐらな劣悪化を突き進んでいる。今年は日本でも観測至上最高の
平均気温を記録したし、地球温暖化などの形でもその根拠が如実に現れはじめているが、それにしたって、職業倫理が完全に
転倒した今の世の中も、それはそれである程度は堂に入っているところがある。破綻へと突き進む劣悪極まりない社会においても、
イギリス紳士なりアメリカンウーマンなりが、それなりの意匠的完成度を以って世に君臨している。それもまた、清濁併せ呑む
過不足排除型現象論としての易学などによって看破されるものであり、一言でいえばそれは「火水未済」の卦象にあたる。
貨殖一辺倒の商売人は適当にやっているべきで、犯罪者は檻の中に入って何もすべきでない。これが真に正しい職業倫理。
今はその逆。重犯罪者ほど熱心に働き、貨殖一辺倒の商売人こそは、自分たちが世の中に必要不可欠な存在だと思い込んで
義務的に働き、農工業などの必需産業従事者は働いても働かなくてもいいような気分で働き、士人こそはほとんど働いてない。
職業倫理が完全に転倒してしまい、世界も破滅へとまっしぐらな劣悪化を突き進んでいる。今年は日本でも観測至上最高の
平均気温を記録したし、地球温暖化などの形でもその根拠が如実に現れはじめているが、それにしたって、職業倫理が完全に
転倒した今の世の中も、それはそれである程度は堂に入っているところがある。破綻へと突き進む劣悪極まりない社会においても、
イギリス紳士なりアメリカンウーマンなりが、それなりの意匠的完成度を以って世に君臨している。それもまた、清濁併せ呑む
過不足排除型現象論としての易学などによって看破されるものであり、一言でいえばそれは「火水未済」の卦象にあたる。
ここでは易学の内奥にまでのめりこむのはやり過ぎになるのではしょるが、米英人を始めとする資本主義者が、自分たちの劣悪
極まりない行業を正当化する常套句として、「自分たちが全面核戦争による破滅から人類を守っている」などとほざく場合がある。
いま現在、人類全体を完全な破滅に陥らせるほどもの核保有を続けているのは欧米社会のみであり、非欧米の核保有国である
中国やインドやパキスタンなどの全ての核備蓄を合せても、人類を完全な破滅へと陥れるには至らない。
欧米社会は、自分たち自身で人類破滅の危機をもたらしながら、破滅寸前の緊張状態をも自分たちで画策することによって、
「破滅よりは一応マシである世の中」の支配者であることを盾に、人類社会のイニシアティブをも掌握し続けている。
アフリカやアラブやインドなどで、何億人もの人々が虐殺され続けている現状も、欧米社会総出での全面核戦争によって
人類が滅亡するよりはマシだから仕方ない、ということになる。人類の滅亡を実現できるのも欧米だけならば、今のような、
滅亡よりはマシにしても、地獄の鬼畜にも等しい所業がまかり通る現今の社会もまた、欧米が支配征服しているものに過ぎない。
人類滅亡という最悪の大火よりは、多少の水分補給だけは許している、圧倒的な火勢の優位の中に、なけなしで劣位な水勢が
取り残されている今のような状態が「火水未済」にあたり、自分たちから「人類滅亡」という最悪のシナリオを呼び込んでおいて、
それよりも一段階だけマシなだけな、生かさず殺さずの地獄界をもたらしている、全ての責任が欧米人自身にあるのであり、
「人類を滅亡の危機から自分たちが守っている」という欧米人の自己正当化込みの言い訳は、事実無根であるが故に無効である。
極まりない行業を正当化する常套句として、「自分たちが全面核戦争による破滅から人類を守っている」などとほざく場合がある。
いま現在、人類全体を完全な破滅に陥らせるほどもの核保有を続けているのは欧米社会のみであり、非欧米の核保有国である
中国やインドやパキスタンなどの全ての核備蓄を合せても、人類を完全な破滅へと陥れるには至らない。
欧米社会は、自分たち自身で人類破滅の危機をもたらしながら、破滅寸前の緊張状態をも自分たちで画策することによって、
「破滅よりは一応マシである世の中」の支配者であることを盾に、人類社会のイニシアティブをも掌握し続けている。
アフリカやアラブやインドなどで、何億人もの人々が虐殺され続けている現状も、欧米社会総出での全面核戦争によって
人類が滅亡するよりはマシだから仕方ない、ということになる。人類の滅亡を実現できるのも欧米だけならば、今のような、
滅亡よりはマシにしても、地獄の鬼畜にも等しい所業がまかり通る現今の社会もまた、欧米が支配征服しているものに過ぎない。
人類滅亡という最悪の大火よりは、多少の水分補給だけは許している、圧倒的な火勢の優位の中に、なけなしで劣位な水勢が
取り残されている今のような状態が「火水未済」にあたり、自分たちから「人類滅亡」という最悪のシナリオを呼び込んでおいて、
それよりも一段階だけマシなだけな、生かさず殺さずの地獄界をもたらしている、全ての責任が欧米人自身にあるのであり、
「人類を滅亡の危機から自分たちが守っている」という欧米人の自己正当化込みの言い訳は、事実無根であるが故に無効である。
愛しのズィンミーちゃんw
頼んでもいないのにわざわざ勝手にスレを埋めといて謝礼を要求する。
自分たちこそは世界最悪の核備蓄者でいて、日本などに対して安全保障の
感謝と信頼を強要するアメリカにも等しい姿だ。本当は守る側ではなく
守られる側、庇護される側となるぐらいでちょうどいい存在なのに。
「民人苦病し、夫婦皆詛う。祝すること益あれば、詛うも亦た損あり。
(中略)其れ善く祝すると雖も、豈に能く億兆人の詛いに勝たんや」
「多くの人々が疫病や飢餓に苦しみ、老若男女誰しもが今の支配者を呪っている。
祝されることが支配者の益になる一方で、呪われることもまた為政者の損となる。
(一部の洗脳済みの人間などに)多少祝されたところで、何十億もの人々の呪いになぜ勝てようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十年より)
自分たちこそは世界最悪の核備蓄者でいて、日本などに対して安全保障の
感謝と信頼を強要するアメリカにも等しい姿だ。本当は守る側ではなく
守られる側、庇護される側となるぐらいでちょうどいい存在なのに。
「民人苦病し、夫婦皆詛う。祝すること益あれば、詛うも亦た損あり。
(中略)其れ善く祝すると雖も、豈に能く億兆人の詛いに勝たんや」
「多くの人々が疫病や飢餓に苦しみ、老若男女誰しもが今の支配者を呪っている。
祝されることが支配者の益になる一方で、呪われることもまた為政者の損となる。
(一部の洗脳済みの人間などに)多少祝されたところで、何十億もの人々の呪いになぜ勝てようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十年より)
削除(by投稿者)
一度ノッてきたくせに
愛しのズィンミー(庇護民)。
「書経」湯誓や泰誓においても、夏の桀王や殷の紂王が罪人も同然の悪逆非道な振る舞いを繰り返し、
実際に罪人を近づけて共に無辜の市民を虐げて金品を略奪するなどの、盗賊そのままな犯罪行為にも及んでいたことが指摘されている。
特に、殷の紂王の放辟邪侈は、「酒池肉林」などというおどろおどろしい故事成語によっても有名だが、
そのような、非道極まりない犯罪者や権力犯罪者をも多く生み出しておきながらも、その非道さが世の中に対して
どれほどもの悪影響を及ぼしていたのかということが、中国においては非常に具体的で如実な形で指摘されてもいる。
それは、夏桀殷紂のような暴君も多く生み出した一方で、その糾弾者としての湯王や武王なども中国においては多く輩出され、
彼らが暴君を放伐して善政を敷くなどの模範例をも身を以て実現したために、ダークサイドとしての非道な暴政などを
如実に著しても、それを「反面教師」として十分に遠ざけつつ教訓とすることができたから。
然るに、西洋においては、夏桀殷紂に相当するような暴君はいくらでもいた一方で、湯王や武王に該当するような聖王は
一人も輩出されず、支配者から平民にいたるまで総員犯罪者状態であり続けてきたために、その行状を中国の暴君の場合のように
反面教師として遠ざけつつの教訓にすることすらできない。どこもかしこも重犯罪だらけで、それを放伐できるだけの
善政も徳行もどこにも存在しないために、その如実な姿を説明したりすれば、「カラマーゾフの兄弟」における「大審問官」
みたいな全く救いようのない地獄絵図と化してしまう。だから、そのような罪悪まみれの現実から目を背けてお花畑に遊んでいるか、
重犯罪者としての現実を突き進むかの二つしかあり得ない。現実における罪悪まみれを払拭するという選択肢が皆無であるために、
罪悪まみれの現実から目を背けるための、空想上のお花畑を提供してくれるイエスあたりが持て囃されてもいたのだ。
「上天孚に下民を佑けて、罪人黜伏す」
「上天は常に正しい者を助けて、罪人を調伏するものである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・湯誥より)
実際に罪人を近づけて共に無辜の市民を虐げて金品を略奪するなどの、盗賊そのままな犯罪行為にも及んでいたことが指摘されている。
特に、殷の紂王の放辟邪侈は、「酒池肉林」などというおどろおどろしい故事成語によっても有名だが、
そのような、非道極まりない犯罪者や権力犯罪者をも多く生み出しておきながらも、その非道さが世の中に対して
どれほどもの悪影響を及ぼしていたのかということが、中国においては非常に具体的で如実な形で指摘されてもいる。
それは、夏桀殷紂のような暴君も多く生み出した一方で、その糾弾者としての湯王や武王なども中国においては多く輩出され、
彼らが暴君を放伐して善政を敷くなどの模範例をも身を以て実現したために、ダークサイドとしての非道な暴政などを
如実に著しても、それを「反面教師」として十分に遠ざけつつ教訓とすることができたから。
然るに、西洋においては、夏桀殷紂に相当するような暴君はいくらでもいた一方で、湯王や武王に該当するような聖王は
一人も輩出されず、支配者から平民にいたるまで総員犯罪者状態であり続けてきたために、その行状を中国の暴君の場合のように
反面教師として遠ざけつつの教訓にすることすらできない。どこもかしこも重犯罪だらけで、それを放伐できるだけの
善政も徳行もどこにも存在しないために、その如実な姿を説明したりすれば、「カラマーゾフの兄弟」における「大審問官」
みたいな全く救いようのない地獄絵図と化してしまう。だから、そのような罪悪まみれの現実から目を背けてお花畑に遊んでいるか、
重犯罪者としての現実を突き進むかの二つしかあり得ない。現実における罪悪まみれを払拭するという選択肢が皆無であるために、
罪悪まみれの現実から目を背けるための、空想上のお花畑を提供してくれるイエスあたりが持て囃されてもいたのだ。
「上天孚に下民を佑けて、罪人黜伏す」
「上天は常に正しい者を助けて、罪人を調伏するものである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・湯誥より)
削除(by投稿者)
年間数千万人もの人々を餓死や戦死に追いやる暴政と、もう少しは無駄死にを減らせる比較的な善政があったとする。
人っ子一人死んだだけでも「大罪だ」として、罪の軽重への慮りも停止してしまうピューリタンからすれば、
善政だろうが暴政だろうが人が死んでいるのには違いないから、どちらも大して変わらないということになる。
「罪の有無」という極論ではなく、「罪の軽重」という程度論において、できる限り罪を
減らしていこうとする着実な姿勢こそは、暴政を退けて善政を勧めていく原動力となる。
場合によっては夏殷革命や殷周革命のように、暴君とはいえ為政者であったものの血が流される放伐革命
すらをも通じて暴政から善政へと転換する場合もあり、それによって多くの人々が救われるのとは引き換えに、
一部の人間の「保たれていた命」が新たに奪われることにもなる。それによってより多くの命が救われた
のではあるにしろ、桀王や紂王の命も確かに奪われたのであり、そこには明らかに殺人の罪が介在している。
そうであるにもかかわらず、あえて放伐革命を決断した湯王や武王は、罪の有無ではなく軽重という点において、
なるべく罪を軽しめようとする中庸的・中道的な心意気にこそ長けていた。
罪があるかないかではなく、罪がある中にも軽しめようとする、人としての最善なあり方は、
開き直って罪を是とするニヒリズムによって実現され得ないのはもちろんのこと、
罪が非であることに一概にうちのめされたままでいるピューリタンによっても実現されない。
人っ子一人死んだだけでも「大罪だ」として、罪の軽重への慮りも停止してしまうピューリタンからすれば、
善政だろうが暴政だろうが人が死んでいるのには違いないから、どちらも大して変わらないということになる。
「罪の有無」という極論ではなく、「罪の軽重」という程度論において、できる限り罪を
減らしていこうとする着実な姿勢こそは、暴政を退けて善政を勧めていく原動力となる。
場合によっては夏殷革命や殷周革命のように、暴君とはいえ為政者であったものの血が流される放伐革命
すらをも通じて暴政から善政へと転換する場合もあり、それによって多くの人々が救われるのとは引き換えに、
一部の人間の「保たれていた命」が新たに奪われることにもなる。それによってより多くの命が救われた
のではあるにしろ、桀王や紂王の命も確かに奪われたのであり、そこには明らかに殺人の罪が介在している。
そうであるにもかかわらず、あえて放伐革命を決断した湯王や武王は、罪の有無ではなく軽重という点において、
なるべく罪を軽しめようとする中庸的・中道的な心意気にこそ長けていた。
罪があるかないかではなく、罪がある中にも軽しめようとする、人としての最善なあり方は、
開き直って罪を是とするニヒリズムによって実現され得ないのはもちろんのこと、
罪が非であることに一概にうちのめされたままでいるピューリタンによっても実現されない。
>>43-44でも指摘したとおり、全面核戦争によって人類が滅亡する最悪のシナリオと、その一歩手前の状態で、
数億人の権力犯罪犠牲者がはじき出されている現状とは、新旧約聖書主義による世界支配の“セット”であり、
最悪のシナリオと、その一歩手前で権力犯罪者どもが非常識な暴利を貪っている現状全体が、新旧約信仰の産物でこそある。
だから現状が、全面核戦争による破滅よりはまだマシであることが、新旧約信仰延命の口実にはならない。
新旧約信仰が根絶されれば同時に世界の破滅も回避されるので(世界最大級の格備蓄国であるアメリカもロシアも共に瓦解する)、
「破滅よりもマシだから」という欺瞞的な平和論による、新旧約信仰者の自己正当化は通らない。
「彼の有罪を舎して、既に其の辜あるを伏す。若此らの無罪のもの、淪胥して鋪める」
「罪あるものを許し捨て置き、ついにはその罪をもうやむやにしてしまう。あとには罪なき人々の、嘆き苦しみばかりを残し」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・雨無正より)
数億人の権力犯罪犠牲者がはじき出されている現状とは、新旧約聖書主義による世界支配の“セット”であり、
最悪のシナリオと、その一歩手前で権力犯罪者どもが非常識な暴利を貪っている現状全体が、新旧約信仰の産物でこそある。
だから現状が、全面核戦争による破滅よりはまだマシであることが、新旧約信仰延命の口実にはならない。
新旧約信仰が根絶されれば同時に世界の破滅も回避されるので(世界最大級の格備蓄国であるアメリカもロシアも共に瓦解する)、
「破滅よりもマシだから」という欺瞞的な平和論による、新旧約信仰者の自己正当化は通らない。
「彼の有罪を舎して、既に其の辜あるを伏す。若此らの無罪のもの、淪胥して鋪める」
「罪あるものを許し捨て置き、ついにはその罪をもうやむやにしてしまう。あとには罪なき人々の、嘆き苦しみばかりを残し」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・雨無正より)
世界の歴史上において、欧米史の権力犯罪による腐敗は突出したものであり、あまりにも残酷無残であり過ぎたために、
中国史やインド史やイスラム史などの、欧米以外の世界史とまともに比較対照されることすらない。そうであることをいいことに、
たとえば中国であれば夏桀殷紂なみに悪逆非道の暴君扱いされるレベルの暗君が、そこそこに偉大な王君扱いされていたりする。
未だ為政者の功罪貴賤の度量衡すら取り決められていない現今の世界史において、「どっちのほうが凄かった」云々の
比較歴史論を引き合いに出せば、大体は反論者が乱立して大論戦となることが予想されるわけだが、そんな徒労に耽る暇もなく、
今の地球人類社会は、罪悪まみれな欧米史に取り込まれた結果として、破滅の危機に陥れられたり、その一歩手前程度の
悲惨な殺し合い奪い合いが横行する乱脈に巻き込まれている。欧米史がそのまま拡大して世界史全体を取り込んだ結果として、
欧米以外の世界にとっては、未だかつてない汚辱の苦渋を嘗めさせられる状態が続いている。欧米よりも欧米以外の世界のほうが
圧倒的大多数な上、欧米が全世界支配者となった現今よりも、大多数の人々が昔はより豊かで安穏な生活を送れていたわけだから、
欧米史は総体的に全世界史のうちで劣悪な部類であり、西洋に全世界が支配された結果としての現状や、現状の一歩先にある
全世界の破滅は、全世界の中でも特に劣悪な欧米に覇権を握られたが故の特例であり、欧米が覇権を放棄して総体的な禁治産処分下に
置かれるなどすれば、「あと一歩で人類が破滅する」という可能性をも含めた現状全体が、確実に改善されることが期待できる。
中国史やインド史やイスラム史などの、欧米以外の世界史とまともに比較対照されることすらない。そうであることをいいことに、
たとえば中国であれば夏桀殷紂なみに悪逆非道の暴君扱いされるレベルの暗君が、そこそこに偉大な王君扱いされていたりする。
未だ為政者の功罪貴賤の度量衡すら取り決められていない現今の世界史において、「どっちのほうが凄かった」云々の
比較歴史論を引き合いに出せば、大体は反論者が乱立して大論戦となることが予想されるわけだが、そんな徒労に耽る暇もなく、
今の地球人類社会は、罪悪まみれな欧米史に取り込まれた結果として、破滅の危機に陥れられたり、その一歩手前程度の
悲惨な殺し合い奪い合いが横行する乱脈に巻き込まれている。欧米史がそのまま拡大して世界史全体を取り込んだ結果として、
欧米以外の世界にとっては、未だかつてない汚辱の苦渋を嘗めさせられる状態が続いている。欧米よりも欧米以外の世界のほうが
圧倒的大多数な上、欧米が全世界支配者となった現今よりも、大多数の人々が昔はより豊かで安穏な生活を送れていたわけだから、
欧米史は総体的に全世界史のうちで劣悪な部類であり、西洋に全世界が支配された結果としての現状や、現状の一歩先にある
全世界の破滅は、全世界の中でも特に劣悪な欧米に覇権を握られたが故の特例であり、欧米が覇権を放棄して総体的な禁治産処分下に
置かれるなどすれば、「あと一歩で人類が破滅する」という可能性をも含めた現状全体が、確実に改善されることが期待できる。
哲学には正解が複数あって、その中で最もマジョリティな意見が力を持つ
君の意見は誰も同意がない所をみると哲学的には無力という事だ
君の意見は誰も同意がない所をみると哲学的には無力という事だ
まさにこの論及こそは、民主主義の調伏のためにある。
多数派ですらあれば何をやったっていいという、権勢に乗ったやりたい放題の帰結としての
民主主義支配による人類史上最悪の大虐殺の収拾のためにこそ、この論及が行われている。
それなのになぜ、多くの支持が得られないことを恥じたり、支持を得ることを希求したり
する必然があろうか。それよりも必要なのは、権勢の図に乗って悪行を働く権力犯罪者への
あまねき真理や道理に基づく調伏や、その上での愚民への従順化を含めた矯正だろう。
民主化そのものを推進ではなく廃絶するところに、これからの人類の希望もあるのだから。
「容れられざるを何ぞ病えん。容れられずして然る後君子を見る。」
「乱世に受け入れられないことをなぜ憂えようか。受け入れられないでこそ君子ではないか」
(「史記」孔子世家より)
多数派ですらあれば何をやったっていいという、権勢に乗ったやりたい放題の帰結としての
民主主義支配による人類史上最悪の大虐殺の収拾のためにこそ、この論及が行われている。
それなのになぜ、多くの支持が得られないことを恥じたり、支持を得ることを希求したり
する必然があろうか。それよりも必要なのは、権勢の図に乗って悪行を働く権力犯罪者への
あまねき真理や道理に基づく調伏や、その上での愚民への従順化を含めた矯正だろう。
民主化そのものを推進ではなく廃絶するところに、これからの人類の希望もあるのだから。
「容れられざるを何ぞ病えん。容れられずして然る後君子を見る。」
「乱世に受け入れられないことをなぜ憂えようか。受け入れられないでこそ君子ではないか」
(「史記」孔子世家より)
また、自分からは何事をも述べる資格も持たない
迷妄のさ中の住人である、iPhone教信者がわき始めたな。
「宗教」を絶対的なエスケープゾーンにしようとする画策自体が、
間違った宗教を信じているおまえら自身の勝手な都合でしかないことに気づけ。
迷妄のさ中の住人である、iPhone教信者がわき始めたな。
「宗教」を絶対的なエスケープゾーンにしようとする画策自体が、
間違った宗教を信じているおまえら自身の勝手な都合でしかないことに気づけ。
何も楯突かずに、ただニャンニャンしてりゃ可愛いのに。
自分に都合の悪い人の意見は聞かず、自分に都合のいい自分の意見ばかりを述べる、
そんな「汚い大人」を絵に描いたような人間には決してなりたくないし、
そんな連中をわざわざ量産するカルト教義にも決して与したくないものだ。
「明神を敬い恭みて、宜しく悔怒する無かるべし」
「明らかなる神を敬い慎んで、ただその咎めを食らわぬように。
(神は愛し愛されるものではなく、敬って怒りを買わぬようにするものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・雲漢より)
そんな「汚い大人」を絵に描いたような人間には決してなりたくないし、
そんな連中をわざわざ量産するカルト教義にも決して与したくないものだ。
「明神を敬い恭みて、宜しく悔怒する無かるべし」
「明らかなる神を敬い慎んで、ただその咎めを食らわぬように。
(神は愛し愛されるものではなく、敬って怒りを買わぬようにするものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・雲漢より)
別に、宗教書として無条件な肯定対象とするばかりが新旧約の読み方でもあるまい。
宗教も扱うとはいえ、基本ここは思想哲学板なのだし、思想哲学を中心とするのは何もおかしくない。
そして宗教を絶対的な金科玉条と化したり、それを認めたりすることこそは、いま卒業すべきことでもある。
前にも言ったことだが、新旧約こそは「腐った大人」を大量生産する元凶にもなっている。
別にピーターパンとしてネバーランドにこもるのでもなく、就職して妻子を養っていく、大人としての成長を
伴いつつも、人間道徳を堅持する立派な大人となる道が四書五経などによっても開けている。それなのに、
大人になっても幼児退行状態の精神薄弱のままでいて、いっぱしの行為能力を得た以上は決して許されない
放辟邪侈や我田引水に没入する腐れきった大人が、新旧約信仰やその是認によってどこまでも量産されていく。
そのせいで人間道徳による抑え付けもままならず、年齢的な大人によって構成される社会全体が腐敗に陥っている。
人間道徳の正典たる四書五経によって、腐った大人の金科玉条たる新旧約を駆逐するというよりは、
新旧約信仰やその是認があらかじめ駆逐されてから、その後に、四書五経などによる人間道徳の頒布が
行われるほうが望む所。「儒者は進取をともにするは難く、守成をともにするは可なり(史記・叔孫通列伝)」とは、
前漢の礼楽統治勃興の祖となった叔孫通も言っていること。今はまだ、腐った大人どもに引導を渡す作業のために、
自分自身の儒学の実践もまたおろそかになっている所がある。楚漢戦争中には儒服を脱いで軽便な格好をし、戦闘に
向かない儒生の弟子を温存した叔孫通のように、「純粋に直なる故に曲がって見える(司馬遷曰)」状態と化している。
宗教も扱うとはいえ、基本ここは思想哲学板なのだし、思想哲学を中心とするのは何もおかしくない。
そして宗教を絶対的な金科玉条と化したり、それを認めたりすることこそは、いま卒業すべきことでもある。
前にも言ったことだが、新旧約こそは「腐った大人」を大量生産する元凶にもなっている。
別にピーターパンとしてネバーランドにこもるのでもなく、就職して妻子を養っていく、大人としての成長を
伴いつつも、人間道徳を堅持する立派な大人となる道が四書五経などによっても開けている。それなのに、
大人になっても幼児退行状態の精神薄弱のままでいて、いっぱしの行為能力を得た以上は決して許されない
放辟邪侈や我田引水に没入する腐れきった大人が、新旧約信仰やその是認によってどこまでも量産されていく。
そのせいで人間道徳による抑え付けもままならず、年齢的な大人によって構成される社会全体が腐敗に陥っている。
人間道徳の正典たる四書五経によって、腐った大人の金科玉条たる新旧約を駆逐するというよりは、
新旧約信仰やその是認があらかじめ駆逐されてから、その後に、四書五経などによる人間道徳の頒布が
行われるほうが望む所。「儒者は進取をともにするは難く、守成をともにするは可なり(史記・叔孫通列伝)」とは、
前漢の礼楽統治勃興の祖となった叔孫通も言っていること。今はまだ、腐った大人どもに引導を渡す作業のために、
自分自身の儒学の実践もまたおろそかになっている所がある。楚漢戦争中には儒服を脱いで軽便な格好をし、戦闘に
向かない儒生の弟子を温存した叔孫通のように、「純粋に直なる故に曲がって見える(司馬遷曰)」状態と化している。
ムスリム支配下のズィンミーには、一定の服装制限などがあった場合もあるようだが、
これから行為能力を精神年齢並みに制限されるニャンニャンズィンミーたちも、
服装を学生服や幼児服に制限するなどすればいいな。
むかし、アメリカの黒人ラッパーが日本の学生服を着てるのを見たことがある。
あと、イギリス紳士の嗜みの一つとして赤ちゃんプレイもあるそうだし、
もう一生、中坊や赤ん坊のままでいていいんだぞ? よかったなぁ。
これから行為能力を精神年齢並みに制限されるニャンニャンズィンミーたちも、
服装を学生服や幼児服に制限するなどすればいいな。
むかし、アメリカの黒人ラッパーが日本の学生服を着てるのを見たことがある。
あと、イギリス紳士の嗜みの一つとして赤ちゃんプレイもあるそうだし、
もう一生、中坊や赤ん坊のままでいていいんだぞ? よかったなぁ。
年齢を重ねて、社会的にも出世するに連れて、相応の責任を担う精神的成長を果たした大人こそは立派となる一方、
年齢や社会的身分は上がりつつも、精神だけは低劣なままでい続ける大人こそは腐れきった状態となる。
江戸時代の武士のように、年齢や身分に相応の精神力を持った大人からは、畏敬すべき威厳すら感じられる一方、
精神だけは幼児も同然でいる大人などは、キ○○イめいた気持ち悪さは感じられても、威厳などは感じられない。
結局人は、生き続ける以上はいつかは年を取っておっさんやじいさんになるのだから、おっさんやじいさんなりの
精神的成長に基づく威厳ある振る舞いでいるのが最善の選択となり、加齢という運命を受け入れられずに、
脳内だけはピーターパンも同然の状態でいて、肉体や身分だけは年相応に老化していくことが見苦しい腐敗となる。
そういう意味で、精神的にも年相応に成長した立派な大人を輩出するのが四書五経である一方、年齢に不相応な
幼稚な精神しか持てない腐った大人を無駄に量産するのが新旧約。誰しもがいつかは大人になり、大人こそは
主体的に社会を構成していくのが現実なのだから、精神だけは幼児のままでいさせてくれる新旧約などが、
現実における腐った大人の量産手段としかなり得ないのも必定。イエスが盛大な虚言で提供したネバーランドは、
信者たち自身の脳内にしか存在しないものなのだから。
年齢や社会的身分は上がりつつも、精神だけは低劣なままでい続ける大人こそは腐れきった状態となる。
江戸時代の武士のように、年齢や身分に相応の精神力を持った大人からは、畏敬すべき威厳すら感じられる一方、
精神だけは幼児も同然でいる大人などは、キ○○イめいた気持ち悪さは感じられても、威厳などは感じられない。
結局人は、生き続ける以上はいつかは年を取っておっさんやじいさんになるのだから、おっさんやじいさんなりの
精神的成長に基づく威厳ある振る舞いでいるのが最善の選択となり、加齢という運命を受け入れられずに、
脳内だけはピーターパンも同然の状態でいて、肉体や身分だけは年相応に老化していくことが見苦しい腐敗となる。
そういう意味で、精神的にも年相応に成長した立派な大人を輩出するのが四書五経である一方、年齢に不相応な
幼稚な精神しか持てない腐った大人を無駄に量産するのが新旧約。誰しもがいつかは大人になり、大人こそは
主体的に社会を構成していくのが現実なのだから、精神だけは幼児のままでいさせてくれる新旧約などが、
現実における腐った大人の量産手段としかなり得ないのも必定。イエスが盛大な虚言で提供したネバーランドは、
信者たち自身の脳内にしか存在しないものなのだから。
まぁ 君は社会的にも精神的にも腐ったガキだかな
上では説明の便宜を図るために、精神的な成長云々、精神年齢云々と述べたが、
正確には精神ってのは成長したりするものではなく、天地万物にあまねく付与された道理や真理を
堅固に把持できているか否かでその厚薄が左右されるもの。幼児には幼児なりの、児童には児童なりの、
若者には若者なりの、壮者には壮者なりの、老人には老人なりの精神の厚薄がある。
子供や若者の頃には、まだ行為能力も微弱であるために、精神を薄弱化させてしまいかねないような
人生の重大選択に差し迫られることが少なく、精神を温厚なままに保全していられる場合が多い。
しかし年を経るにつれて、人殺し級の罪を犯しかねないような責任を負わされるようになって、
誤った決断によって無辜の命を奪ってしまったりすることによって、連動して精神も薄弱化する。
重大な過ちを積み重ねれば積み重ねるほどに精神もより薄弱化し、結果、「腐った大人」になってしまう。
腐った大人になることなく、立派な大人となるためには、子供や若者のころ以上にも精神の自主的な
強靭化が必要となり、それを「精神的な成長」とかいった言葉で表現する場合があるが、それは畢竟、
子供や若者のころには保てていた精神の温厚さの保全ともなっていて、精神を年相応に強靭化することが
できた大人こそは、年齢的な子供や若者とも対等以上に渡り合える、真に立派な大人となる。
子供や若者並みの精神力でいるせいで、年寄りゆえの行為能力の甚大な左右に巻き込まれることで
精神が薄弱化し、腐った大人となるのに対し、そのような荒波にも耐えて強靭な精神を保ち続けられた
者こそは、未だ無垢なる子供や若者とも同等かそれ以上もの、温厚なる精神を持つ立派な大人となる。
正確には精神ってのは成長したりするものではなく、天地万物にあまねく付与された道理や真理を
堅固に把持できているか否かでその厚薄が左右されるもの。幼児には幼児なりの、児童には児童なりの、
若者には若者なりの、壮者には壮者なりの、老人には老人なりの精神の厚薄がある。
子供や若者の頃には、まだ行為能力も微弱であるために、精神を薄弱化させてしまいかねないような
人生の重大選択に差し迫られることが少なく、精神を温厚なままに保全していられる場合が多い。
しかし年を経るにつれて、人殺し級の罪を犯しかねないような責任を負わされるようになって、
誤った決断によって無辜の命を奪ってしまったりすることによって、連動して精神も薄弱化する。
重大な過ちを積み重ねれば積み重ねるほどに精神もより薄弱化し、結果、「腐った大人」になってしまう。
腐った大人になることなく、立派な大人となるためには、子供や若者のころ以上にも精神の自主的な
強靭化が必要となり、それを「精神的な成長」とかいった言葉で表現する場合があるが、それは畢竟、
子供や若者のころには保てていた精神の温厚さの保全ともなっていて、精神を年相応に強靭化することが
できた大人こそは、年齢的な子供や若者とも対等以上に渡り合える、真に立派な大人となる。
子供や若者並みの精神力でいるせいで、年寄りゆえの行為能力の甚大な左右に巻き込まれることで
精神が薄弱化し、腐った大人となるのに対し、そのような荒波にも耐えて強靭な精神を保ち続けられた
者こそは、未だ無垢なる子供や若者とも同等かそれ以上もの、温厚なる精神を持つ立派な大人となる。
結構 頻繁にスレチェックしてるんだなw
大きなお世話かも知れないが文章を短くまとめられないのは立派な馬鹿の証拠って知ってるか?
大きなお世話かも知れないが文章を短くまとめられないのは立派な馬鹿の証拠って知ってるか?
書くことが何もしないよりも心地良いことしか書いてない。
日本語おかしいぞ 大丈夫か??
精神の強靭さを育む中には、何もしないでいるよりも読み書きの楽しい金言が、いくらでもある。
まだおかしいぞ ホントに大丈夫か???
文章の構築の仕方が間違えてるって
文章の読み書きが酒よりもタバコよりも、クスリよりも女よりも楽しくてこそ、真の文聖だといえる。
句読点打つ所も間違えてるぞ しっかりしろ
世界の修理を始めよう。
頭おかしいぞ 大丈夫か???
言葉の扱いが正当なものと不当なものとでは、言葉の位相がことごとくひっくり返っている。
そのせいで「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」みたいなごく簡単な一言ですら理解できなかったりする。
一言すら理解できないのに、長文が理解できるはずもないが、長文は長文ですべての意味が通っている。
言葉の扱いが正当である中に、全ての長文が論理だてられて健全に構築されている。
それは経史子集や大蔵経などの形でも前例がわんさかとあることで、別段俺ばかりの独走でもない。
不当な言語使用者が一言すら理解できない構文で、膨大な文献がすでに編纂されてもいる。
それらに価値がないのではなく、価値がありすぎて、価値のない文章ばかり読み書きしている連中には
糞くらいに振舞われる満漢全席ほどにも、不相応すぎてその価値が見定められないだけのことである。
「終に兄弟に遠ざかり、他人を父と謂う。他人を父と謂うも、亦た我を顧る莫し」
「実の兄弟すらをも遠ざけて、よその他人を父と呼ぶ。他人を父などと呼んだ所で、なぜ私を顧みてくれようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・葛藟より)
そのせいで「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」みたいなごく簡単な一言ですら理解できなかったりする。
一言すら理解できないのに、長文が理解できるはずもないが、長文は長文ですべての意味が通っている。
言葉の扱いが正当である中に、全ての長文が論理だてられて健全に構築されている。
それは経史子集や大蔵経などの形でも前例がわんさかとあることで、別段俺ばかりの独走でもない。
不当な言語使用者が一言すら理解できない構文で、膨大な文献がすでに編纂されてもいる。
それらに価値がないのではなく、価値がありすぎて、価値のない文章ばかり読み書きしている連中には
糞くらいに振舞われる満漢全席ほどにも、不相応すぎてその価値が見定められないだけのことである。
「終に兄弟に遠ざかり、他人を父と謂う。他人を父と謂うも、亦た我を顧る莫し」
「実の兄弟すらをも遠ざけて、よその他人を父と呼ぶ。他人を父などと呼んだ所で、なぜ私を顧みてくれようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・葛藟より)
自分に都合の悪い人の意見は聞かず、自分に都合のいい自分の意見ばかりを述べる、
そんな「汚い大人」を絵に描いたような人間には決してなりたくないし、
そんな連中をわざわざ量産するカルト教義にも決して与したくないものだ。
そんな「汚い大人」を絵に描いたような人間には決してなりたくないし、
そんな連中をわざわざ量産するカルト教義にも決して与したくないものだ。
俺だって今は、自分に都合の悪い意見は聞かず、自分に都合の良い意見ばかり述べているが? おまえらを真似てな。
すでに完全に真性の腐った大人であるおまえらに、まるで鏡を直視させるようにして、その腐れ加減をお返ししている。
毒を以て毒を制する勧悪懲悪であり、ただそれだけなら単なる乱戦状態でしかない。
ただ、おまえらと俺とで明らかに違うのは、勧悪懲悪で俺がおまえらを調伏した結果として、
今は自分にも実践できていない儒学の頒布を行っていこうとしている点で、現時点における姿勢は腐った大人然としていても、
その目的は立派な大人を輩出する人間道徳の復興である点。今もまた腐った大人然としており、
その目的もまたいつまでも腐った大人のままでい続けることであるおまえらとは、最終的な目的が根本的に異なる。
目的が正当だから、手段が悪辣でもまだ許される俺。手段も悪辣で、目的も不当であるが故に許されないのがおまえら。
今は腐った大人であっても、これからは立派な大人になることの誓約の有無。その誓約ぐらいはあるのが俺で、それすらなく、
これからも腐った大人でい続けようとしているだけなのがおまえら。おまえらのほうがさっさと入獄すべき根拠もそこにある。
すでに完全に真性の腐った大人であるおまえらに、まるで鏡を直視させるようにして、その腐れ加減をお返ししている。
毒を以て毒を制する勧悪懲悪であり、ただそれだけなら単なる乱戦状態でしかない。
ただ、おまえらと俺とで明らかに違うのは、勧悪懲悪で俺がおまえらを調伏した結果として、
今は自分にも実践できていない儒学の頒布を行っていこうとしている点で、現時点における姿勢は腐った大人然としていても、
その目的は立派な大人を輩出する人間道徳の復興である点。今もまた腐った大人然としており、
その目的もまたいつまでも腐った大人のままでい続けることであるおまえらとは、最終的な目的が根本的に異なる。
目的が正当だから、手段が悪辣でもまだ許される俺。手段も悪辣で、目的も不当であるが故に許されないのがおまえら。
今は腐った大人であっても、これからは立派な大人になることの誓約の有無。その誓約ぐらいはあるのが俺で、それすらなく、
これからも腐った大人でい続けようとしているだけなのがおまえら。おまえらのほうがさっさと入獄すべき根拠もそこにある。
自分の精神状態は、自分が一番よく把握している。
劣悪な犯罪労働に全く手を出さないでいる清浄さと、
毎日の四書五経の勉強とで、ますます精神も壮健と化している。
自分ばかりがこれほどにも健康で、憂い少なき生活を送れている後ろめたさからも、
こんなところへの意見の発表を続けてもいるわけだが、ただ羨まれて嫉妬されるばかりで、
少しもこの壮健さを倣おうとする者が現れない。せっかく最高の人生を送る手段をも提示してやっているのに、
かえって自分たちの明日なき人生を自慢しようとすらする。上知と下愚ってのは、本当に移らないものだ。
「愛を立つるは惟れ親よりす」
「愛し合うことはまず親族身内の間柄から始めることが筋である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・伊訓より)
「如之何、如之何と曰わざる者は、吾れ如之何ともすること末きのみ」
「『どうしようか、どうしようか』と己れに責める恭しさも持たない者は、私にもどうしようもない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・一六より)
劣悪な犯罪労働に全く手を出さないでいる清浄さと、
毎日の四書五経の勉強とで、ますます精神も壮健と化している。
自分ばかりがこれほどにも健康で、憂い少なき生活を送れている後ろめたさからも、
こんなところへの意見の発表を続けてもいるわけだが、ただ羨まれて嫉妬されるばかりで、
少しもこの壮健さを倣おうとする者が現れない。せっかく最高の人生を送る手段をも提示してやっているのに、
かえって自分たちの明日なき人生を自慢しようとすらする。上知と下愚ってのは、本当に移らないものだ。
「愛を立つるは惟れ親よりす」
「愛し合うことはまず親族身内の間柄から始めることが筋である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・伊訓より)
「如之何、如之何と曰わざる者は、吾れ如之何ともすること末きのみ」
「『どうしようか、どうしようか』と己れに責める恭しさも持たない者は、私にもどうしようもない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・一六より)
だからそんな、自分の病状を相手にあてこすって悦に入る冤病志向はもう入らないから。
おまえのほうこそもう、医者でもカウンセラーでもない相手との通話などやめて、
剃刀も預かってくれる親切な病院にでも入るべきだ。むしろ刑務所のほうがいいか?
俺が相手にしようとしているのも、一応は健常者以上の学習者に限っている。
精神的な健常者ですらない人間には、俺の話を聞くよりも、
まずは入院や入獄のほうを切実に勧める。
おまえのほうこそもう、医者でもカウンセラーでもない相手との通話などやめて、
剃刀も預かってくれる親切な病院にでも入るべきだ。むしろ刑務所のほうがいいか?
俺が相手にしようとしているのも、一応は健常者以上の学習者に限っている。
精神的な健常者ですらない人間には、俺の話を聞くよりも、
まずは入院や入獄のほうを切実に勧める。
孔子にも宰我のような仁徳に欠ける弟子がいたし、孟子にも履物を盗むような姑息な弟子がいたとされる(Part3の411参照)。
「去る者は追わず、来たるものは拒まず」の学風でいる、学校というよりは塾よりの風紀であったのが儒家でもあるため、
必ずしも弟子の質が保証されていたとはいえない。ただ、本人が旺盛なる向学心の持ち主であるぐらいのことが儒生には要求され、
向学心すら抱けない精神薄弱者などには、わざわざ上知を教えたりするものではないとされる(>>41の「論語」の引用などを参照)。
このような、意欲の有無による選択制を儒家が講じていることが「荘子」などにおいてはこっぴどく批判され、孔子やその先輩格である
子産などが、身心ともに壮健であることばかりを貴んで、身体障害者や重病人などを蔑んでいたかのような寓話までもが載せられている。
別に儒家が身体的な不遇を貶めたりしていないことは、見てくれの醜悪な澹台滅明という弟子が、内面に豊かな徳性を宿していることを
孔子が知って見直したという、「史記」仲尼弟子列伝における史実などからもうかがえるわけだが、やはり儒者が、精神的な壮健さを
重んじていたのは確かであり、四書五経などの経書を読み解くことによって、その健全さをより養っていくことが目的の一つともされる。
いま俺がここに儒学に関する書き込みをしているのは、人に教えるためというよりは、自分が学ぶためであるところが大きく、
まだ自分が実践込みの儒者として大成できているとも思わない。もしも自分が、本当に儒学の教師となるのならば、そのときは
向学心の持ち主であるか否か程度の選択制にはするのであり、向学心すら抱けない精神薄弱者などは相手にしないようになる。
いまはむしろ、向学心の有無に関わらず万物斉同の真理に安んずる、道家の大成者として自由にものを言っており、善悪をも
超えた絶対性を居場所としている。そしてその実践が他でもない無為自然であり、何もしないことこそは何をするよりもえらい、
現代人とは180度転倒した、奇天烈ながらも真理に即した言行一致の偉業となっており、それはそれで相当な価値を持っている。
「去る者は追わず、来たるものは拒まず」の学風でいる、学校というよりは塾よりの風紀であったのが儒家でもあるため、
必ずしも弟子の質が保証されていたとはいえない。ただ、本人が旺盛なる向学心の持ち主であるぐらいのことが儒生には要求され、
向学心すら抱けない精神薄弱者などには、わざわざ上知を教えたりするものではないとされる(>>41の「論語」の引用などを参照)。
このような、意欲の有無による選択制を儒家が講じていることが「荘子」などにおいてはこっぴどく批判され、孔子やその先輩格である
子産などが、身心ともに壮健であることばかりを貴んで、身体障害者や重病人などを蔑んでいたかのような寓話までもが載せられている。
別に儒家が身体的な不遇を貶めたりしていないことは、見てくれの醜悪な澹台滅明という弟子が、内面に豊かな徳性を宿していることを
孔子が知って見直したという、「史記」仲尼弟子列伝における史実などからもうかがえるわけだが、やはり儒者が、精神的な壮健さを
重んじていたのは確かであり、四書五経などの経書を読み解くことによって、その健全さをより養っていくことが目的の一つともされる。
いま俺がここに儒学に関する書き込みをしているのは、人に教えるためというよりは、自分が学ぶためであるところが大きく、
まだ自分が実践込みの儒者として大成できているとも思わない。もしも自分が、本当に儒学の教師となるのならば、そのときは
向学心の持ち主であるか否か程度の選択制にはするのであり、向学心すら抱けない精神薄弱者などは相手にしないようになる。
いまはむしろ、向学心の有無に関わらず万物斉同の真理に安んずる、道家の大成者として自由にものを言っており、善悪をも
超えた絶対性を居場所としている。そしてその実践が他でもない無為自然であり、何もしないことこそは何をするよりもえらい、
現代人とは180度転倒した、奇天烈ながらも真理に即した言行一致の偉業となっており、それはそれで相当な価値を持っている。
俺に会話能力がないんじゃない。
おまえらに俺と会話させていただくだけの資格がまだないだけだ。
その資格はひとえに、「向学心の具備」に尽きるのであり、
いい学校を卒業したとか難しい国家資格を取ったとかである必要はない。
向学心すら備わっていたなら、別に顔回や楽正子とまではいかずとも、
有象無象の弟子程度にはなれるだろうから、それだけでも教えてやるには十分。
学生の側からの向学心すらあれば、師弟の節義もわきまえられて、
弟子の側からの未熟な自論のひけらかしによって教示が滞ったりすることもない。
そしたらどこまでも講義が行き届き、歯車のかみ合った対話がどこまでも展開されていく。
俺とおまえらとの立場は、もうすでにそういった師弟の関係であるぐらいで
適切なところにまで開ききっているのであり、今さら対等な会話を望んだりするほうが不相応。
不相応で不快な対話など、できない以前にしたくもなく、絶対にしないと自分から決断してもいる。
会話という選択肢もその技能もあるにしても、それはおまえらの今の目線よりも遥か上にある。
だからおまえらはその存在に気づかないだけで、会話のできる所には無限の会話が待っている。
おまえらに俺と会話させていただくだけの資格がまだないだけだ。
その資格はひとえに、「向学心の具備」に尽きるのであり、
いい学校を卒業したとか難しい国家資格を取ったとかである必要はない。
向学心すら備わっていたなら、別に顔回や楽正子とまではいかずとも、
有象無象の弟子程度にはなれるだろうから、それだけでも教えてやるには十分。
学生の側からの向学心すらあれば、師弟の節義もわきまえられて、
弟子の側からの未熟な自論のひけらかしによって教示が滞ったりすることもない。
そしたらどこまでも講義が行き届き、歯車のかみ合った対話がどこまでも展開されていく。
俺とおまえらとの立場は、もうすでにそういった師弟の関係であるぐらいで
適切なところにまで開ききっているのであり、今さら対等な会話を望んだりするほうが不相応。
不相応で不快な対話など、できない以前にしたくもなく、絶対にしないと自分から決断してもいる。
会話という選択肢もその技能もあるにしても、それはおまえらの今の目線よりも遥か上にある。
だからおまえらはその存在に気づかないだけで、会話のできる所には無限の会話が待っている。
違うな。お前に会話能力がないんだよ。社会性も人間的な魅力もないが。
皆がそれに賛同するのに対して、
お前に賛同する奴は誰ひとりいないだろ。
一人でいいから、お前の正気を保証してくれる人がいるのか?
親にすら見放されて、ネットしか社会との接点がないお前を。
皆がそれに賛同するのに対して、
お前に賛同する奴は誰ひとりいないだろ。
一人でいいから、お前の正気を保証してくれる人がいるのか?
親にすら見放されて、ネットしか社会との接点がないお前を。
むしろ、ネット上でのなけなしのコミュニケーションすら
アク禁などによって強制的に断絶されたほうがいいな。
それでおまえらの迷妄な書き込みをわざわざ看取してあげる手間も省かれる。
おまえら全員が、俺抜きでの限りない妄想に明け暮れているより、
俺一人が自分だけで黙想に明け暮れていることのほうが、よっぽど価値がある。
ウソだと思うなら、俺を完全にネット社会から追い出してみればいい。
おまえらばかりは不満をより溜め込む一方、俺のほうはより満足を高めていく。
俺自身としては、むしろそうなることを望んですらいる。ぜひそうすべきだ。さあ。
アク禁などによって強制的に断絶されたほうがいいな。
それでおまえらの迷妄な書き込みをわざわざ看取してあげる手間も省かれる。
おまえら全員が、俺抜きでの限りない妄想に明け暮れているより、
俺一人が自分だけで黙想に明け暮れていることのほうが、よっぽど価値がある。
ウソだと思うなら、俺を完全にネット社会から追い出してみればいい。
おまえらばかりは不満をより溜め込む一方、俺のほうはより満足を高めていく。
俺自身としては、むしろそうなることを望んですらいる。ぜひそうすべきだ。さあ。
あぁ、気持ちいい。
自分からネット辞められないだろ?
それも病気の特徴(偏執)だぞ。
違うというなら自らやめてみな。
他人から矯正されてやめたところで意味がないんだよ。
お前と違って、ここのみんなにはネットはおまけなんだよ。
現実で恋人やら家庭やら仕事やら趣味やらの方が大事で楽しいんだ。
この乖離に気づくのは自力では無理だろうけどな。
医者でも半年はかかる。
それも病気の特徴(偏執)だぞ。
違うというなら自らやめてみな。
他人から矯正されてやめたところで意味がないんだよ。
お前と違って、ここのみんなにはネットはおまけなんだよ。
現実で恋人やら家庭やら仕事やら趣味やらの方が大事で楽しいんだ。
この乖離に気づくのは自力では無理だろうけどな。
医者でも半年はかかる。
おまえみたいな身の程知らずに私見で揶揄されればされるほど、
自らの健全さや偉大さがより強化されて、よほど好ましいよ。
おまえ自身は自己崩壊寸前の苦悩に陥っているのかも知らんが。
語られれば語られるほど、気持ちよさこの上ない。
どうして自分からやめる気になどなれようか?
自らの健全さや偉大さがより強化されて、よほど好ましいよ。
おまえ自身は自己崩壊寸前の苦悩に陥っているのかも知らんが。
語られれば語られるほど、気持ちよさこの上ない。
どうして自分からやめる気になどなれようか?
「史記」外戚世家において太史公司馬遷も言っていることだが、親族への親愛を特に重んじて、そこから天下万民への
程度をわきまえた慈しみを嗜む仁徳志向は、ある程度以上に身分の高い為政者などに対してこそ徹底して要求されていたもの。
江戸時代のようなガチガチの封建社会においてですら、百姓や町人といった庶民たちは、世襲での家の存続にもこだわらず、
伊勢参りや各種のお祭りがてら、気の向いた者同士で同衾して夫婦にもなるなど、ごく自由な性愛生活を送っていた。
為政にも携わらず、儒学をも志さない単なる庶民なら、それでも別に構いやしないのであって、親にこそ親しみ、次に人を仁し、
最後に物を愛玩する「情愛の序列の嗜み」は、君子道徳の学究者やその実践者にのみ徹底して要求されること。だれ彼構わず
禽獣のように愛し合って交合し合う乱交パーティーも、庶民ですらあるなら封建社会においてですら許されること。
「詩は志を言い、歌は言を永くし、声は永きに依り、律は声を和す。八音克く諧い、倫を相奪うこと無ければ、神人、以て和す」
「詩には志しを込め、歌声はその言葉を伸ばして詠じ、楽器の旋律によってその声との調和を図る。
八つの楽器の音すらもがよく調和し、お互いの調和を破るようなことがなければ、神も人も和らげることができる。
(詩歌やそれを詠い奏でる音楽の調和を、士農工商といった封建社会の位階の調和にも暗に喩えている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)
程度をわきまえた慈しみを嗜む仁徳志向は、ある程度以上に身分の高い為政者などに対してこそ徹底して要求されていたもの。
江戸時代のようなガチガチの封建社会においてですら、百姓や町人といった庶民たちは、世襲での家の存続にもこだわらず、
伊勢参りや各種のお祭りがてら、気の向いた者同士で同衾して夫婦にもなるなど、ごく自由な性愛生活を送っていた。
為政にも携わらず、儒学をも志さない単なる庶民なら、それでも別に構いやしないのであって、親にこそ親しみ、次に人を仁し、
最後に物を愛玩する「情愛の序列の嗜み」は、君子道徳の学究者やその実践者にのみ徹底して要求されること。だれ彼構わず
禽獣のように愛し合って交合し合う乱交パーティーも、庶民ですらあるなら封建社会においてですら許されること。
「詩は志を言い、歌は言を永くし、声は永きに依り、律は声を和す。八音克く諧い、倫を相奪うこと無ければ、神人、以て和す」
「詩には志しを込め、歌声はその言葉を伸ばして詠じ、楽器の旋律によってその声との調和を図る。
八つの楽器の音すらもがよく調和し、お互いの調和を破るようなことがなければ、神も人も和らげることができる。
(詩歌やそれを詠い奏でる音楽の調和を、士農工商といった封建社会の位階の調和にも暗に喩えている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)
俺は自学自習の一環としてここに書いているし、新旧約信仰への懲罰という明確な目的も伴っている。
むしろ何の目的もなく、ただ無軌道なちょっかいを出して来ているだけのおまえらのほうが病んでいるのであり、
やめるというのならおまえらがやめればいいんだ。どうせネットへ参加などおまけでしかないんだろう?w
重犯罪者どもと面と向かい合う必要のないネットが、今の総員犯罪者社会での直接的な人間関係よりも健全であるのはもちろんだし、
もしネットすらうかがうことなく、完全に現代社会との関わりを絶つのならば、それ以上にも健全となれるだろう。
ただ、そこまでいけばもはや「行為能力否定主義」とまでなり、「行為能力劣後主義」を旨とする俺の信条にもそぐわなくなるので
一応ネットぐらいは続けている。それも四書五経の自学自習などと共になので、精神衛生も相当に確保された状態でいる。
むしろ何の目的もなく、ただ無軌道なちょっかいを出して来ているだけのおまえらのほうが病んでいるのであり、
やめるというのならおまえらがやめればいいんだ。どうせネットへ参加などおまけでしかないんだろう?w
重犯罪者どもと面と向かい合う必要のないネットが、今の総員犯罪者社会での直接的な人間関係よりも健全であるのはもちろんだし、
もしネットすらうかがうことなく、完全に現代社会との関わりを絶つのならば、それ以上にも健全となれるだろう。
ただ、そこまでいけばもはや「行為能力否定主義」とまでなり、「行為能力劣後主義」を旨とする俺の信条にもそぐわなくなるので
一応ネットぐらいは続けている。それも四書五経の自学自習などと共になので、精神衛生も相当に確保された状態でいる。
俺がこれほどにも満悦な人生を送れている、具体的な根拠を探ってみたんだが、特にないな。
できるかぎり何もしないでいる中にも、多少はやっていること、
ここなどでのネット上での読み書きも、不快な反応への不快を煽る言い返しなど、かえってつまらない部類。
道を歩いても、全くの他人とはいえ、そこら中が強盗リンチ殺人犯だらけ。自分自身では罪状に気づいていなくても、
重犯罪者に特有のえもいわれぬ凶相を帯びていて、顔つきや身のこなし、声色などに独特の気持ち悪さがにじみ出ていて、不快だ。
かといって自分自身がそんなに清浄な外見を帯びているともいえず、それなりに人ごみの中に溶け込むこともできる、それも不快な事実。
別段、一つ一つの事象の中に、自分が常日頃満悦であることの絶対的な根拠があるわけでもなく、かえって不快さの根拠であるものばかり。
つまり、俺が満悦であることは現象のせいではないし、現象的な知識でも、それにまつわる思考のせいでもない。あらゆる現象を超越した
所にある純粋精神、最高真理ブラフマンとも同等である、ならずならずのアートマンこそは、俺が満足に暮らせている唯一無二の根拠であり、
それは俺自身と完全に合致しているものであるため、それを俺が傍観することなどはできないし、誰にも具体的に察知されることもない。
己れを傍観する己れというような、分裂病的な精神異常が完全に排されることで、人間はこの上ない満足を得ることができる。
そのためには、現象的な側面におけるいかなる「是」をもさしはさむことなく、一切の現象を「非」としたところに真我たるアートマンが
実在することを自覚すること。現象的な知識を扱う思考などが、自我であったりすることはないのだという事実に気づくことだ。
「乃の有位を慎み、敬して其の願う可きを修めよ」
「汝の帝位をよく保ち慎んで、恭敬と共に願うべきところ(民の安寧など)を修めよ。
(舜帝の禹への禅譲の際の言葉。物事への願いにすら義務性を付与している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・大禹謨より)
できるかぎり何もしないでいる中にも、多少はやっていること、
ここなどでのネット上での読み書きも、不快な反応への不快を煽る言い返しなど、かえってつまらない部類。
道を歩いても、全くの他人とはいえ、そこら中が強盗リンチ殺人犯だらけ。自分自身では罪状に気づいていなくても、
重犯罪者に特有のえもいわれぬ凶相を帯びていて、顔つきや身のこなし、声色などに独特の気持ち悪さがにじみ出ていて、不快だ。
かといって自分自身がそんなに清浄な外見を帯びているともいえず、それなりに人ごみの中に溶け込むこともできる、それも不快な事実。
別段、一つ一つの事象の中に、自分が常日頃満悦であることの絶対的な根拠があるわけでもなく、かえって不快さの根拠であるものばかり。
つまり、俺が満悦であることは現象のせいではないし、現象的な知識でも、それにまつわる思考のせいでもない。あらゆる現象を超越した
所にある純粋精神、最高真理ブラフマンとも同等である、ならずならずのアートマンこそは、俺が満足に暮らせている唯一無二の根拠であり、
それは俺自身と完全に合致しているものであるため、それを俺が傍観することなどはできないし、誰にも具体的に察知されることもない。
己れを傍観する己れというような、分裂病的な精神異常が完全に排されることで、人間はこの上ない満足を得ることができる。
そのためには、現象的な側面におけるいかなる「是」をもさしはさむことなく、一切の現象を「非」としたところに真我たるアートマンが
実在することを自覚すること。現象的な知識を扱う思考などが、自我であったりすることはないのだという事実に気づくことだ。
「乃の有位を慎み、敬して其の願う可きを修めよ」
「汝の帝位をよく保ち慎んで、恭敬と共に願うべきところ(民の安寧など)を修めよ。
(舜帝の禹への禅譲の際の言葉。物事への願いにすら義務性を付与している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・大禹謨より)

目の前に不快なものが現れたり、不快な言葉や奇声を聞かされたりしたら、やっぱり不快になる。
それらを不快だとも思わないから満悦なのでもないし、不快を快楽だと倒錯しているから満悦なのでもない。
耳目の感官などによって被る、現象の知覚に基づく快や不快を超えたところにある、ならずならずの真我たる
アートマンと、宇宙の最高真理たるブラフマンの一致、すなわち「梵我一如」こそを楽しんでいる。
ヒンズー教の梵我一如は、密教や禅仏教を通じて中国にも輸入され、宋代の朱子学などにおいて
「物我一理」と解釈し直されてもいる。インドだろうが中国だろうが、最高真理は同じものであり、
それと自我との一致が現象を超えた浩然の気を養うのも同じであり、ただその捉え方が微妙に違っているだけ。
逆に自我が最高真理たる梵と乖離したり、乖離した状態で不当に肥大化したりした時に、人間は精神を病む。
その結果、現象界における耳目などの知覚に基づく快楽ばかりを渇望する小人とも化してしまう。
インドや中国だけに限らず、日本や中東や西洋などにおいても全く共通している普遍法則であり、
梵我一如が不能と化したままに自我が奇形的に肥大化していくことで、内面の渇望が際限のないものとなり、
現象界での欲求第一な悪行にひた走り続けてしまうという、ヒンズー教や朱子学の範囲内における説明で、
新旧約信者やニヒリストどものイかれた言行も完全に看破されきってしまう。それ以外の何らかの付加要素が
あるのならまだ神秘的だが、何らの未知もないのだから仕方ない。何らの神秘もない、単なる現実上の過ちの
範疇に収まりきっていて、全くそうでしかない所が、新旧約や洋学に幻滅させられる何よりの根拠でもある。
「内陽にして外陰なり、内健にして外順なり、内君子にして外小人なり、君子は道長じ、小人は道消ずるなり」
「天下を掌握する権力機構の、内部が陽剛にして外部が陰柔となり、内部が壮健で外部が従順となる。
内部が君子で構成されて、外部に小人が置かれることとなり、君子は道が長じて、小人はその道が消ずることとなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・泰卦より)
「内陰にして外陽なり、内柔にして外剛なり、内小人にして外君子なり、小人は道長じ、君子は道消ずるなり」
「天下を掌握する権力機構の、内部が陰柔にして外部が陽剛となり、内部に小人がたむろして、
外部に君子が打ち捨てられる。小人はその道が長じて、君子はその道が消ずることとなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・否卦より)
すでに部分的には引き合いに出したことのある「易経」原文の引用。
「内と外」という位相関係は、どちらが絶対によく、どちらが絶対にいけないというような優劣論ではない。
たとえば「家」においては、妻たる女が家の内にいて、夫たる男が家の外で働くのが適切であると「易経」家人卦にもある。
ただ、上の場合は文脈上「天下国家」についての内と外を述べていて、天下国家の内部が君子によって公正され、
外部に小人がたむろするのが吉祥である一方、内部に小人がたむろして、外部に君子が放擲されるのが不吉とする。
「天下を掌握する権力機構の、内部が陽剛にして外部が陰柔となり、内部が壮健で外部が従順となる。
内部が君子で構成されて、外部に小人が置かれることとなり、君子は道が長じて、小人はその道が消ずることとなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・泰卦より)
「内陰にして外陽なり、内柔にして外剛なり、内小人にして外君子なり、小人は道長じ、君子は道消ずるなり」
「天下を掌握する権力機構の、内部が陰柔にして外部が陽剛となり、内部に小人がたむろして、
外部に君子が打ち捨てられる。小人はその道が長じて、君子はその道が消ずることとなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・否卦より)
すでに部分的には引き合いに出したことのある「易経」原文の引用。
「内と外」という位相関係は、どちらが絶対によく、どちらが絶対にいけないというような優劣論ではない。
たとえば「家」においては、妻たる女が家の内にいて、夫たる男が家の外で働くのが適切であると「易経」家人卦にもある。
ただ、上の場合は文脈上「天下国家」についての内と外を述べていて、天下国家の内部が君子によって公正され、
外部に小人がたむろするのが吉祥である一方、内部に小人がたむろして、外部に君子が放擲されるのが不吉とする。
これは、「内と外」を論じている対象であるものが「個々の家」であるか「天下国家」であるかの違いがあることから
生じている相違で、「個々の家」というのは陰陽でいうところの「陰」であり、女性性を付帯しているので女が内にいるべき
となる一方、「天下国家」は陰陽でいうところの「陽」であり、男性性を付帯しているので男が内にいるべきとなる。
キリストは、見るからにひげ面のおっさんであり、どう見ても男なので(そういう記述が禍音書中にもある)、
個々の家か天下国家かでいえば、天下国家と同じ男性性を帯びていることになる。そのキリストのうちに他力本願の小人どもが
包含されることは、「内小人にして外君子なり」の否卦の卦象に合致し、「小人は道長じ、君子は道消ずるなり」という
不吉な結果につながるために相応しくない。それだったらむしろ、アマテラスのような女神のうちにあるほうが適切で、
それは実際のところ「個々の家」に女子小人が止まることとなるため、天下国家においては「内君子にして外小人なり」となり、
「君子は道長じ、小人は道消ずるなり」という吉祥な結果を得る。すでに罪を犯しまくっている小人の場合は、自宅ではなく
刑務所や閉鎖病棟の内に入る必要があるかもしれないが、それはそれで天下国家の外部に小人がいることとなって、好ましい。
生じている相違で、「個々の家」というのは陰陽でいうところの「陰」であり、女性性を付帯しているので女が内にいるべき
となる一方、「天下国家」は陰陽でいうところの「陽」であり、男性性を付帯しているので男が内にいるべきとなる。
キリストは、見るからにひげ面のおっさんであり、どう見ても男なので(そういう記述が禍音書中にもある)、
個々の家か天下国家かでいえば、天下国家と同じ男性性を帯びていることになる。そのキリストのうちに他力本願の小人どもが
包含されることは、「内小人にして外君子なり」の否卦の卦象に合致し、「小人は道長じ、君子は道消ずるなり」という
不吉な結果につながるために相応しくない。それだったらむしろ、アマテラスのような女神のうちにあるほうが適切で、
それは実際のところ「個々の家」に女子小人が止まることとなるため、天下国家においては「内君子にして外小人なり」となり、
「君子は道長じ、小人は道消ずるなり」という吉祥な結果を得る。すでに罪を犯しまくっている小人の場合は、自宅ではなく
刑務所や閉鎖病棟の内に入る必要があるかもしれないが、それはそれで天下国家の外部に小人がいることとなって、好ましい。

給料や年金のおこぼれに与りながらの生活すらできなくなったとする。
その頃にも相変わらず殺し合い奪い合いの乱世が続いていて、世の中での労働の一切が
有害無益な犯罪労働のままであったとする。もちろん俺は一貫して労役拒否を続ける。
自分で働かず、扶養者もいないのであれば当然食えなくなる。その時には、まずは県庁か市役所あたりに赴いて、
これらの図像の当時版(資本主義先進国による虐殺被害者数も大幅に増加しているだろうと思われる)を提示する。
「こんな、何をやったって強盗リンチ殺人にしかならない世の中で、一切働く気にはなれません」と言い、
「扶養者ももういませんので、このままいけばホームレスになるか、餓死するかでしょう」と言うだろう。
役所の人間はただ「そうですか、分かりました」というだけで放っておくかもしれないし、事態を慮ってか、
俺をキ○○イ扱いするかして、生活保護や措置入院の便宜を図ってくれるかもしれない。もちろん俺は自分では、
自分がキ○○イであることなどを認めておらず、むしろ役所の人間を含む今の世の労働者のほうがキ○○イであると
断定しているわけだが、そう断定していることも含めてキ○○イ扱いして、手厚い扶養の対象とするかもしれない。
もちろんそうなったりする前に、資本主義先進国が軒並み崩壊して仁政が敷かれ、そのような優良な世の中において
俺が仕事を始めるようになったほうがいいわけだが、最悪の場合としては上記のような場合も想定されうる。
それ以前に、人口爆発や環境破壊も行き過ぎて全面核戦争も勃発し、人類が滅亡する可能性のほうが高くもあるが。
≫104
親は何歳だ?
働く気がないといってしまうと、生活保護はもらえない。
病院いって精神疾患の診断書貰えば、
病気の程度に応じて貰えるが、食っていくだけ貰うのは重度のキチガイ故に働けないことをちゃんと証明しないとダメだぞ。
また、役所の人間が入院を斡旋することはない。
いずれにしろ、餓死リスクたかいわな
親は何歳だ?
働く気がないといってしまうと、生活保護はもらえない。
病院いって精神疾患の診断書貰えば、
病気の程度に応じて貰えるが、食っていくだけ貰うのは重度のキチガイ故に働けないことをちゃんと証明しないとダメだぞ。
また、役所の人間が入院を斡旋することはない。
いずれにしろ、餓死リスクたかいわな
「働こうと思えば働けるでしょうし、ある種の職務(仁徳統治など)については人並み以上の職能も持っていますが、
その職能を活用する場は今の社会にはこれっぽっちもありませんし、曲学阿世で自らの学識を悪用する気もありません。
誰にでもできる程度の単純労働もできるでしょうが、やればやるほど犯罪行為になるだけなので、自分からは決してやりません」
と、ちゃんと事情をありのままに全て説明する。
精密な精神鑑定もすでに受けたことがあるが、全くの異常なしで、むしろ人並み以上に
健常だとも言われたので、医師の診断による精神疾患を根拠に生活保護を受けたりすることもできない。
それでも決して働かない。「犯罪行為には手を染めない」という、
自ずからの道徳的な要求によって、現状での労役を拒否する。
もしかしたら役所などが、不審なホームレスの増加による公衆衛生の悪化を忌んで、最低限の生活ぐらいは保証してくれる
かもしれないが、してくれないかもしれない。してくれなかったホームレスになるまでで、ホームレスとしてですら
働く気はないので、コンビニなどの残飯をもらったりの乞食や、配給ぐらいでしか食いつながない。
そのせいで餓死するのなら、それでも結構。放伐革命を忌んで首陽山に引きこもり、ゼンマイだけを食って餓死した伯夷・叔斉、
仕官の高望みをし過ぎて野に打ち捨てられ、食うにも困った孔子、戦国時代の乱世に愛想を尽かして職を辞し、濁世の悲哀を詩として
「楚辞」に書き残した上で入水して死んだ屈原。乱世ゆえの不遇に置かれていたとはいえ、自ずからの威光を発する聖人君子も数多い。
その職能を活用する場は今の社会にはこれっぽっちもありませんし、曲学阿世で自らの学識を悪用する気もありません。
誰にでもできる程度の単純労働もできるでしょうが、やればやるほど犯罪行為になるだけなので、自分からは決してやりません」
と、ちゃんと事情をありのままに全て説明する。
精密な精神鑑定もすでに受けたことがあるが、全くの異常なしで、むしろ人並み以上に
健常だとも言われたので、医師の診断による精神疾患を根拠に生活保護を受けたりすることもできない。
それでも決して働かない。「犯罪行為には手を染めない」という、
自ずからの道徳的な要求によって、現状での労役を拒否する。
もしかしたら役所などが、不審なホームレスの増加による公衆衛生の悪化を忌んで、最低限の生活ぐらいは保証してくれる
かもしれないが、してくれないかもしれない。してくれなかったホームレスになるまでで、ホームレスとしてですら
働く気はないので、コンビニなどの残飯をもらったりの乞食や、配給ぐらいでしか食いつながない。
そのせいで餓死するのなら、それでも結構。放伐革命を忌んで首陽山に引きこもり、ゼンマイだけを食って餓死した伯夷・叔斉、
仕官の高望みをし過ぎて野に打ち捨てられ、食うにも困った孔子、戦国時代の乱世に愛想を尽かして職を辞し、濁世の悲哀を詩として
「楚辞」に書き残した上で入水して死んだ屈原。乱世ゆえの不遇に置かれていたとはいえ、自ずからの威光を発する聖人君子も数多い。
伯夷も叔斉も孔子も屈原も、決して完全な世捨て人(行為能力否定主義者)ではなかった。
ただ、禅譲革命や仁徳統治といった、理想的な社会統治を望むあまり、殺し合い奪い合いの横行する
乱世などでの実務に関わらされることに嫌気が差し、仕方なくなく、在野に放擲されることに甘んじていた。
まさに「内小人にして外君子なり、小人は道長じ、君子は道消ずるなり」の「易経」否卦に完全に合致した姿で、
真の聖人君子なればこそ、乱世には天下国家の内部で活躍することあたわず、外野で食うも困る苦境に置かれている。
「乱世に受け入れられないでこそ君子ではないか」という、「史記」孔子世家での顔回の発言にもちゃんと根拠がある。
ただ、禅譲革命や仁徳統治といった、理想的な社会統治を望むあまり、殺し合い奪い合いの横行する
乱世などでの実務に関わらされることに嫌気が差し、仕方なくなく、在野に放擲されることに甘んじていた。
まさに「内小人にして外君子なり、小人は道長じ、君子は道消ずるなり」の「易経」否卦に完全に合致した姿で、
真の聖人君子なればこそ、乱世には天下国家の内部で活躍することあたわず、外野で食うも困る苦境に置かれている。
「乱世に受け入れられないでこそ君子ではないか」という、「史記」孔子世家での顔回の発言にもちゃんと根拠がある。
>>「働こうと思えば働けるでしょうし、ある種の職務(仁徳統治など)については人並み以上の職能も持っていますが、
「自分は人徳ありますから働けます」なんて言ってどこの職員が納得するんだw
「はいはい。何もないんだね。まずは職能訓練受けてね〜」で終わり。
>>誰にでもできる程度の単純労働もできるでしょうが、やればやるほど犯罪行為になるだけなので、自分からは決してやりません」
アウト。この時点で生活保護も失業保険も貰えません。
これらは働こうとする意思がある人しか貰えない。
>>精密な精神鑑定もすでに受けたことがあるが、全くの異常なしで、むしろ人並み以上に
健常だとも言われたので、
はい嘘。「人並み以上に健常」なんてことを言う医者はいない。
学会がひっくりかえるわ。
自殺街道まっしぐらじゃねえかw
「自分は人徳ありますから働けます」なんて言ってどこの職員が納得するんだw
「はいはい。何もないんだね。まずは職能訓練受けてね〜」で終わり。
>>誰にでもできる程度の単純労働もできるでしょうが、やればやるほど犯罪行為になるだけなので、自分からは決してやりません」
アウト。この時点で生活保護も失業保険も貰えません。
これらは働こうとする意思がある人しか貰えない。
>>精密な精神鑑定もすでに受けたことがあるが、全くの異常なしで、むしろ人並み以上に
健常だとも言われたので、
はい嘘。「人並み以上に健常」なんてことを言う医者はいない。
学会がひっくりかえるわ。
自殺街道まっしぐらじゃねえかw
自殺する度胸はないでしょ。
ホームレスとして残飯あさって、40くらいで衰弱死に百円。
ホームレスとして残飯あさって、40くらいで衰弱死に百円。
要は、おまえらが社会的に死ぬか、俺がのたれ死ぬかの二つに一つだから。
他者の屍の上に己れの活路を切り開くぐらいのつもりなら、当然
己れの屍の上に他者の活路が開かれることも覚悟しなければならない。
たとえ自分の目的が勧善懲悪で、相手の目的が悪逆非道だろうとも。
「己れの欲せざるところを人に施すことなかれ」だから。
他者の屍の上に己れの活路を切り開くぐらいのつもりなら、当然
己れの屍の上に他者の活路が開かれることも覚悟しなければならない。
たとえ自分の目的が勧善懲悪で、相手の目的が悪逆非道だろうとも。
「己れの欲せざるところを人に施すことなかれ」だから。
いやいや、金がなくなって確実な死がくるのは俺らじゃなくて、お前だぞ(笑)
お前の親、あと何年生きるんだ?何年稼げるんだ?
お前の親、あと何年生きるんだ?何年稼げるんだ?
今どき自殺なんて中高生でもやっているから。
ただ、その理由は「いじめを苦にして」とかの私的なものばかりで、
天下国家を慮る公共性に即したりはしていない。
屈原の詩歌もいくつかは読んでみたが、あれは精神病患者の書けるような詩じゃない。
心から人を慕い、世を利せんとする中にも、自らの思いが果たされない苦悩が
制動と抑揚の均衡を取りつつの、荘厳なる文体によって表現されている。
きっと、入水の瞬間にすら完全な正気を保ち、
まるで家に帰るかのようにして溺れ死んでいったに違いない。
ただ、その理由は「いじめを苦にして」とかの私的なものばかりで、
天下国家を慮る公共性に即したりはしていない。
屈原の詩歌もいくつかは読んでみたが、あれは精神病患者の書けるような詩じゃない。
心から人を慕い、世を利せんとする中にも、自らの思いが果たされない苦悩が
制動と抑揚の均衡を取りつつの、荘厳なる文体によって表現されている。
きっと、入水の瞬間にすら完全な正気を保ち、
まるで家に帰るかのようにして溺れ死んでいったに違いない。
>>113
おまえら資本主義先進国の犯罪労働者全員が、ムスリムあたりに自首して入獄や強制入院などの処置を被る。
俺のほうは、後進国などへの強盗リンチ殺人加害者でなかったことを根拠に罪を免れ、
二度とこのような惨劇を起こさないための、仁徳統治の確立業務に携わっていく。
選択肢として、一応それはある。あるにはあるが、もちろんおまえらは自首を拒絶するだろう。
拒絶した結果として俺は職にありつけず、生活保護なり措置入院なり浮浪なり自殺なりの不遇な人生を送る。
俺の要求によって、おまえらが自首するなどとは、俺自身ですら思っていない。
ただ、人口爆発や環境破壊などの、人類破滅の危機を免れるためにおまえらが自首するか、
もしくはおまえらの無価値な自尊心を保つために、全面核戦争なども通じて人類が強制的に滅ぼされるか
というところが、実際に世界の大局を左右する根本要因となるだろう。その結果として、おまえらが社会的に
死んで、俺が社会的に活躍するようなこともある。このままいけば数十年以内に人類の破滅は免れ得ないので、
おまえらがまともな生活を送りつつ、俺がのたれ死ぬという選択肢のほうが、ほぼあり得ないことが分かる。
おまえら資本主義先進国の犯罪労働者全員が、ムスリムあたりに自首して入獄や強制入院などの処置を被る。
俺のほうは、後進国などへの強盗リンチ殺人加害者でなかったことを根拠に罪を免れ、
二度とこのような惨劇を起こさないための、仁徳統治の確立業務に携わっていく。
選択肢として、一応それはある。あるにはあるが、もちろんおまえらは自首を拒絶するだろう。
拒絶した結果として俺は職にありつけず、生活保護なり措置入院なり浮浪なり自殺なりの不遇な人生を送る。
俺の要求によって、おまえらが自首するなどとは、俺自身ですら思っていない。
ただ、人口爆発や環境破壊などの、人類破滅の危機を免れるためにおまえらが自首するか、
もしくはおまえらの無価値な自尊心を保つために、全面核戦争なども通じて人類が強制的に滅ぼされるか
というところが、実際に世界の大局を左右する根本要因となるだろう。その結果として、おまえらが社会的に
死んで、俺が社会的に活躍するようなこともある。このままいけば数十年以内に人類の破滅は免れ得ないので、
おまえらがまともな生活を送りつつ、俺がのたれ死ぬという選択肢のほうが、ほぼあり得ないことが分かる。
「そんな世の中」の中には、おまえらが相も変わらず強盗殺人込みの放辟邪侈の生活を続け、
そんなおまえらとの友愛を拒絶する俺が、挙句にのたれ死ぬという場合も含まれているわけだが。
それが、よくよく考えた上での立派な結論。
もちろんそれが最善ではなく、おまえらが自首して俺が仁徳統治を始めるほうが
俺の望みだが、そんな世の中は来ないらしいな。俺の帰宅も決まったも同然だ。
そんなおまえらとの友愛を拒絶する俺が、挙句にのたれ死ぬという場合も含まれているわけだが。
それが、よくよく考えた上での立派な結論。
もちろんそれが最善ではなく、おまえらが自首して俺が仁徳統治を始めるほうが
俺の望みだが、そんな世の中は来ないらしいな。俺の帰宅も決まったも同然だ。
「明夷は艱貞に利なり。(中略)内難にして能くその志しを正しくす。(中略)君子以て衆に蒞み、晦を用いてしかも明なり」
「光明が地の底に閉ざされた暗黒の時代には、あえて艱難を耐えしのぎ、正しさを貫くことが利口である。
天下国家の内部中枢などが多難な時代に、あえてその志しの正しさを貫く。正しさを貫かんとするあまり、
君子はかえって(是非善悪が転倒した世の中において)無知蒙昧であるような姿を衆目に晒すが、それでも聡明である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・明夷より)
「光明が地の底に閉ざされた暗黒の時代には、あえて艱難を耐えしのぎ、正しさを貫くことが利口である。
天下国家の内部中枢などが多難な時代に、あえてその志しの正しさを貫く。正しさを貫かんとするあまり、
君子はかえって(是非善悪が転倒した世の中において)無知蒙昧であるような姿を衆目に晒すが、それでも聡明である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・明夷より)
「明夷は艱貞に利あり」
「光明の閉ざされた暗黒無道の時代には、艱難に耐えて正しくあることが有利に働く」
果たしてこれは、信ずべき言葉なのだろうか?
信じるにしては、あまりにもその表現がそっけなく、「俺の言うことを信じろ!」的な情熱が微塵も見られない。
もちろん易者がこの「易経」の文言に即して、占いで明夷の卦が出た場合などに「艱難に耐えて正しくありなさい」と
依頼者に伝え、依頼者の側がその教えを信じるということはあるだろう。しかし「占いなどあてにはならない」とは
古くは殷代のころから言われていることで(「書経」などを参照)、易者の発言の信憑性などは古来から疑われ通しであり、
信じるか信じないかは本人の意向次第という程度の信頼度止まりで、やはり熱心に信じるにあたるものではない。
しかし、「易経」六十四卦の卦辞は、周の武王の父親である文王がこしらえたともされており、特にこの明夷の卦辞は
文王の解釈であることが明記されてもいる。中国史上屈指の暴君である殷の紂王に、七年間もの幽閉生活を送らされ、その獄中において、
文王に好意を抱く獄吏の計らいで得た占い道具で易占を試みた結果、この卦が出たという。すなわち、「明夷は艱貞に利あり」と。
紂王の暴虐の非道さは今さら言うまでもなく、実際に諫言を試みた臣下の比干を殺害するなどの、正しさが報われない虐殺も行っている。
艱難に耐えられるかどうかということは、本人自身の自力の及ばない運命に左右されることもあるが、その運命の加護も受けて、
艱難に耐え続けることが果たせた上で、しかも正しさも貫けたなら、明夷における艱貞はかえって有利に働くということだろう。
「正しさを貫く」という人事を尽くした上で、「艱難に耐える」ことにかけては人事を尽くして、しかも天命を待つ。
それが、「明夷は艱貞に利あり」という明夷の卦辞の、実際に言わんとするところであるのだろう。
「光明の閉ざされた暗黒無道の時代には、艱難に耐えて正しくあることが有利に働く」
果たしてこれは、信ずべき言葉なのだろうか?
信じるにしては、あまりにもその表現がそっけなく、「俺の言うことを信じろ!」的な情熱が微塵も見られない。
もちろん易者がこの「易経」の文言に即して、占いで明夷の卦が出た場合などに「艱難に耐えて正しくありなさい」と
依頼者に伝え、依頼者の側がその教えを信じるということはあるだろう。しかし「占いなどあてにはならない」とは
古くは殷代のころから言われていることで(「書経」などを参照)、易者の発言の信憑性などは古来から疑われ通しであり、
信じるか信じないかは本人の意向次第という程度の信頼度止まりで、やはり熱心に信じるにあたるものではない。
しかし、「易経」六十四卦の卦辞は、周の武王の父親である文王がこしらえたともされており、特にこの明夷の卦辞は
文王の解釈であることが明記されてもいる。中国史上屈指の暴君である殷の紂王に、七年間もの幽閉生活を送らされ、その獄中において、
文王に好意を抱く獄吏の計らいで得た占い道具で易占を試みた結果、この卦が出たという。すなわち、「明夷は艱貞に利あり」と。
紂王の暴虐の非道さは今さら言うまでもなく、実際に諫言を試みた臣下の比干を殺害するなどの、正しさが報われない虐殺も行っている。
艱難に耐えられるかどうかということは、本人自身の自力の及ばない運命に左右されることもあるが、その運命の加護も受けて、
艱難に耐え続けることが果たせた上で、しかも正しさも貫けたなら、明夷における艱貞はかえって有利に働くということだろう。
「正しさを貫く」という人事を尽くした上で、「艱難に耐える」ことにかけては人事を尽くして、しかも天命を待つ。
それが、「明夷は艱貞に利あり」という明夷の卦辞の、実際に言わんとするところであるのだろう。
しかし、「艱貞に利あり(艱難に耐えて正しくあることが有利となる)」ということは、
正しさが報われるような状況がまたやって来るということでもあるはずだから、「易経」は事態の好転をも明確に予言している。
今のような暗黒無道の世の中が清算されて、光明の世の中に戻るのならば、当然暗黒時代においてこそ道長じていた小人たちが
破綻して衰亡していくことにもなる。殷紂のように放伐革命で打ち滅ぼされることもあれば、始皇帝のように自らの死後、
後裔が絶やされることもある。いずれにしろ暴虐の限りを尽くして来た小人たちが、いつかは自他の業によるわざわいによって
破綻を来たして衰亡するのであると、易は別段、信仰対象とするまでもない明らかな事実として、予言をゴロリと投げ出している。
実際に、資本主義先進国の数億人規模の大虐殺をも含めた暴虐によって、人口爆発や環境破壊などの致命的な大問題が巻き起こり、
このままいけば数十年後には必ず人類の破滅が免れ得ない状況になっている。しかしそれは易の法則に基づけば杞憂であり、
重犯罪者であったものこそは特定して自滅・衰亡し、道徳者が評価される光明の時代へと移行するのが普遍法則であるとする。
それは、易が「信じるまでもない大前提」として定めていることで、信じる信じないは個々人の勝手という以上にも、信不信
云々以前の絶対法則だとする。ただ、易がそうであると断定しているのみで、易を信じるか信じないかは確かに個々の自由だ。
どこぞやの馬の骨とも知れない匿名者の暴言などよりは、よっぽど信じられるが、別にこれも無闇に信じられるということではない。
易の法則が自分にとって都合が良いことも悪いこともあるわけで、都合が良ければ信じたく、都合が悪ければ信じたくないという
こともあるわけで、結局は信じる信じない、信じたい信じたくないなどという恣意で左右される範疇と、易の法則に連動性はない。
正しさが報われるような状況がまたやって来るということでもあるはずだから、「易経」は事態の好転をも明確に予言している。
今のような暗黒無道の世の中が清算されて、光明の世の中に戻るのならば、当然暗黒時代においてこそ道長じていた小人たちが
破綻して衰亡していくことにもなる。殷紂のように放伐革命で打ち滅ぼされることもあれば、始皇帝のように自らの死後、
後裔が絶やされることもある。いずれにしろ暴虐の限りを尽くして来た小人たちが、いつかは自他の業によるわざわいによって
破綻を来たして衰亡するのであると、易は別段、信仰対象とするまでもない明らかな事実として、予言をゴロリと投げ出している。
実際に、資本主義先進国の数億人規模の大虐殺をも含めた暴虐によって、人口爆発や環境破壊などの致命的な大問題が巻き起こり、
このままいけば数十年後には必ず人類の破滅が免れ得ない状況になっている。しかしそれは易の法則に基づけば杞憂であり、
重犯罪者であったものこそは特定して自滅・衰亡し、道徳者が評価される光明の時代へと移行するのが普遍法則であるとする。
それは、易が「信じるまでもない大前提」として定めていることで、信じる信じないは個々人の勝手という以上にも、信不信
云々以前の絶対法則だとする。ただ、易がそうであると断定しているのみで、易を信じるか信じないかは確かに個々の自由だ。
どこぞやの馬の骨とも知れない匿名者の暴言などよりは、よっぽど信じられるが、別にこれも無闇に信じられるということではない。
易の法則が自分にとって都合が良いことも悪いこともあるわけで、都合が良ければ信じたく、都合が悪ければ信じたくないという
こともあるわけで、結局は信じる信じない、信じたい信じたくないなどという恣意で左右される範疇と、易の法則に連動性はない。
キリストのいう「愛」は、愛ではない。単なる娼婦の私生児ゆえの自暴自棄に過ぎない。
誰が自分の父親であるかも分からず、息子として認知してくれる程度の愛情すらも
父親に注がれることのなかった恨みを、悪意を込めた寓喩によってほのめかし、触れ回った。
それはむしろ、愛情の欠如こそを原動力としているもので、父子の親という最も重大な
愛の起点となる部分を、根本的に欠いていたことからもたらされてしまったもの。
キリストの愛こそは、キリストが捏造した虚構の中でも最たるものであり、
それが真実の愛でないのはもちろんのこと、根本的に相反しているものですらある。
性愛のような下賤な部分を愛の本質とし、親愛のような高貴な部分を愛の本質ではないとする。
愛が真実さや健全さの条件を満たすことを反故にするためにこそ捏造されたキリストの愛。
そこにこそ、悪霊としての供養の必要性があるのであり、聖性を見出すことなどもってのほか。
「土に安んじ仁に敦くす、故に能く愛す」
「父祖も住まえる土地に安んずることで、天下万民を慮る仁を厚くする。故にこそよく愛せるのでもある。
(自身も父母の野合によって産まれた私生児である孔子の直筆。自身は与れなかった道理をも冷静にわきまえている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
誰が自分の父親であるかも分からず、息子として認知してくれる程度の愛情すらも
父親に注がれることのなかった恨みを、悪意を込めた寓喩によってほのめかし、触れ回った。
それはむしろ、愛情の欠如こそを原動力としているもので、父子の親という最も重大な
愛の起点となる部分を、根本的に欠いていたことからもたらされてしまったもの。
キリストの愛こそは、キリストが捏造した虚構の中でも最たるものであり、
それが真実の愛でないのはもちろんのこと、根本的に相反しているものですらある。
性愛のような下賤な部分を愛の本質とし、親愛のような高貴な部分を愛の本質ではないとする。
愛が真実さや健全さの条件を満たすことを反故にするためにこそ捏造されたキリストの愛。
そこにこそ、悪霊としての供養の必要性があるのであり、聖性を見出すことなどもってのほか。
「土に安んじ仁に敦くす、故に能く愛す」
「父祖も住まえる土地に安んずることで、天下万民を慮る仁を厚くする。故にこそよく愛せるのでもある。
(自身も父母の野合によって産まれた私生児である孔子の直筆。自身は与れなかった道理をも冷静にわきまえている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
誰からも愛された事のない奴が愛を語るとは
滑稽
滑稽
単純な男女間での異性愛でもなく、キリスト教徒が「神の愛の下での平等」の中に、
横の繋がりとしてウレシがる隣人愛や友愛ともまた別個のものである、キリストのいう「神の愛」、
これこそは、父子の親愛に与れなかった、娼婦の私生児の自暴自棄に過ぎず、
それは愛であるどころかむしろ、「(親)愛の欠如」こそをその正体とするものだ。
儒家の三綱「君臣父子夫婦」の序においては、夫婦の序列よりも重要である一方、君臣の序列ほどにも
絶対的でない父子の序列が、時に乱れやすい夫婦関係を規律すると共に、それだけでは堅苦しくなり過ぎる
君臣関係をも温厚化させる働きを持つ。父子の序列を守る中に育まれる父子の親愛が、これまた夫婦の情愛よりは
清廉なものとなる一方、君臣の節義よりは融通の利くものとして、社会秩序を保つ上での重要な役割を果たす。
「過ぎたるはなお及ばざるが如し」の中庸を重んずる儒家においては、夫婦の家庭愛よりはもちろんのこと、
君臣の節義以上にも父子の親愛が重視されることもあり、実際、孟子は三綱を「父子君臣夫婦」の順に述べたり、
父子の親を世間一般への仁愛以上にも重んずるようなことをも述べている。父子の親愛こそは、世の中の序列が
何もかも平行化されて無秩序化するのを防ぐ一方で、軍隊形式の薄情な序列によって世の中が殺伐化することをも防ぐ、
封建社会成功のための最重要理念となっており、その最重要理念たる父子の親愛を、娼婦の私生児であるがゆえの
自暴自棄によって破壊せんと試み、親愛の欠如ゆえの怨恨を逆に「神の愛」と呼び変えて、親愛が蔑ろにされて
父子兄弟での殺し合いすら横行し始めるような状態を「神の愛」の達成であるかのように思い込ませたのがキリスト。
横の繋がりとしてウレシがる隣人愛や友愛ともまた別個のものである、キリストのいう「神の愛」、
これこそは、父子の親愛に与れなかった、娼婦の私生児の自暴自棄に過ぎず、
それは愛であるどころかむしろ、「(親)愛の欠如」こそをその正体とするものだ。
儒家の三綱「君臣父子夫婦」の序においては、夫婦の序列よりも重要である一方、君臣の序列ほどにも
絶対的でない父子の序列が、時に乱れやすい夫婦関係を規律すると共に、それだけでは堅苦しくなり過ぎる
君臣関係をも温厚化させる働きを持つ。父子の序列を守る中に育まれる父子の親愛が、これまた夫婦の情愛よりは
清廉なものとなる一方、君臣の節義よりは融通の利くものとして、社会秩序を保つ上での重要な役割を果たす。
「過ぎたるはなお及ばざるが如し」の中庸を重んずる儒家においては、夫婦の家庭愛よりはもちろんのこと、
君臣の節義以上にも父子の親愛が重視されることもあり、実際、孟子は三綱を「父子君臣夫婦」の順に述べたり、
父子の親を世間一般への仁愛以上にも重んずるようなことをも述べている。父子の親愛こそは、世の中の序列が
何もかも平行化されて無秩序化するのを防ぐ一方で、軍隊形式の薄情な序列によって世の中が殺伐化することをも防ぐ、
封建社会成功のための最重要理念となっており、その最重要理念たる父子の親愛を、娼婦の私生児であるがゆえの
自暴自棄によって破壊せんと試み、親愛の欠如ゆえの怨恨を逆に「神の愛」と呼び変えて、親愛が蔑ろにされて
父子兄弟での殺し合いすら横行し始めるような状態を「神の愛」の達成であるかのように思い込ませたのがキリスト。
孔子もまた父母の野合によって生まれ、母方の家で育てられている。母親は孔子が野合によって産まれた子供で
あることを恥じて父親の居場所を告げず、葬儀の時にすら孔子を参列させなかった。自学自習によって仁義道徳を
学んでいた孔子は、父子の親愛の重要さを自力でわきまえて、親戚に何とか父親の墓の場所を聞き出して墓参りをした。
自らの不徳を恥じていた母親もまた、亡くなったときには手厚く葬って三年の喪に服した(「史記」孔子世家参照)。
娼婦の私生児だったから、非嫡出の非認知だったから絶対に父子の親をわきまえられないわけでもなく、かえって
自分のほうから親愛や序列の盛り立てに努めることすら可能であることが、孔子の行ないからも明らかであるのに、
あまつさえ、父親からの愛情が欠如していたことを怨みに、かえって父子の親愛や序列を破壊するような暴挙におよび、
逆にそれを「神の愛」の達成などに言い換えた悪質極まりない姿。これこそは、キリストが悪霊そのものである論拠だ。
「帝初め歴山に於いて、田に往き、日に旻天に於いて號泣す。父母に於いて、
罪を負い慝きを引き、祗しみ載えて、瞽叟に見え、夔夔として齋栗すれば、瞽も亦た允とし若えり」
「むかし舜帝は、歴山のふもとに田を耕しに赴いては、毎日憐れみ深い上天に向かって、父母のことを号泣されていました。
息子である自分を殺そうとするほどにも、子愛に欠けていた自らの父母の罪までをも背負って、悪を自らに引き受け、ひたすら悪父である
瞽叟に慎み仕えるように努めました。いつもそのようにされたために、瞽叟もついに舜帝の言うことを聞き入れるようになりました。
(古の聖王舜帝も、父母の子愛の欠如の下で育ったが、それに対してかえって孝養で応答し、父子の親愛を自力で築き上げている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・大禹謨より)
あることを恥じて父親の居場所を告げず、葬儀の時にすら孔子を参列させなかった。自学自習によって仁義道徳を
学んでいた孔子は、父子の親愛の重要さを自力でわきまえて、親戚に何とか父親の墓の場所を聞き出して墓参りをした。
自らの不徳を恥じていた母親もまた、亡くなったときには手厚く葬って三年の喪に服した(「史記」孔子世家参照)。
娼婦の私生児だったから、非嫡出の非認知だったから絶対に父子の親をわきまえられないわけでもなく、かえって
自分のほうから親愛や序列の盛り立てに努めることすら可能であることが、孔子の行ないからも明らかであるのに、
あまつさえ、父親からの愛情が欠如していたことを怨みに、かえって父子の親愛や序列を破壊するような暴挙におよび、
逆にそれを「神の愛」の達成などに言い換えた悪質極まりない姿。これこそは、キリストが悪霊そのものである論拠だ。
「帝初め歴山に於いて、田に往き、日に旻天に於いて號泣す。父母に於いて、
罪を負い慝きを引き、祗しみ載えて、瞽叟に見え、夔夔として齋栗すれば、瞽も亦た允とし若えり」
「むかし舜帝は、歴山のふもとに田を耕しに赴いては、毎日憐れみ深い上天に向かって、父母のことを号泣されていました。
息子である自分を殺そうとするほどにも、子愛に欠けていた自らの父母の罪までをも背負って、悪を自らに引き受け、ひたすら悪父である
瞽叟に慎み仕えるように努めました。いつもそのようにされたために、瞽叟もついに舜帝の言うことを聞き入れるようになりました。
(古の聖王舜帝も、父母の子愛の欠如の下で育ったが、それに対してかえって孝養で応答し、父子の親愛を自力で築き上げている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・大禹謨より)
君は最近の中国の動向についてどう思う?
今の中国は、暗黒時代(明夷)の真っ只中だが?
最隆盛を誇った漢代や唐代からはかなりの年月が過ぎ、
金や元や清といった異民族支配が相次ぎ、明代にも官僚腐敗が横行していた。
清朝後期には英仏や日本などからの侵略も相次ぎ、大戦後にやっとサンドバック状態から
抜け出したかと思いきや、今度は「共産主義」という異文化による支配を被ることとなった。
異民族に支配を受けた元代や清代においても、漢民族特有の文化を中国人が重んじていたのは同じで、
逆に異民族の側を自国の文化に順応させてしまう「漢化」と共にすらその歴史が紡がれていた。
それが、マルクスやらモンテスキューやらを耽読して、独特の共産主義を立ち上げた毛沢東率いる
中国共産党によって征服され、文化面での完全なる伝統破壊=文化大革命の憂き目に遭った。
自国民同士ですら相当な殺し合いを続けてきた経歴からも、民族の統治権が奪われることなどは
まだ耐えられたかもしれないが、自国が紡ぎ上げてきた悠久の文化こそが破壊されて、
より劣悪な蛮族文化による支配を被っている、これこそは中華民族にとっての未曾有の恥辱。
共産主義も「毛沢東主義」として大幅に改変したり、新旧約信仰だけは徹底的に禁止したりと、
それなりに自尊心を保とうともしているようだが、共産主義も所詮は新旧約信仰の一種でしかなく、
君臣父子の尊位を貴ぶ古来の漢文化を壊滅状態に追いやっていることには変わりない。
もしかしたらそんな中にも、伝統文化を守ろうとする聖賢がどこかにいるのかもしれないが、
それこそ日本のニート並みにも、卑賤な境遇に貶められているに違いない。たとえいたとしても。
最隆盛を誇った漢代や唐代からはかなりの年月が過ぎ、
金や元や清といった異民族支配が相次ぎ、明代にも官僚腐敗が横行していた。
清朝後期には英仏や日本などからの侵略も相次ぎ、大戦後にやっとサンドバック状態から
抜け出したかと思いきや、今度は「共産主義」という異文化による支配を被ることとなった。
異民族に支配を受けた元代や清代においても、漢民族特有の文化を中国人が重んじていたのは同じで、
逆に異民族の側を自国の文化に順応させてしまう「漢化」と共にすらその歴史が紡がれていた。
それが、マルクスやらモンテスキューやらを耽読して、独特の共産主義を立ち上げた毛沢東率いる
中国共産党によって征服され、文化面での完全なる伝統破壊=文化大革命の憂き目に遭った。
自国民同士ですら相当な殺し合いを続けてきた経歴からも、民族の統治権が奪われることなどは
まだ耐えられたかもしれないが、自国が紡ぎ上げてきた悠久の文化こそが破壊されて、
より劣悪な蛮族文化による支配を被っている、これこそは中華民族にとっての未曾有の恥辱。
共産主義も「毛沢東主義」として大幅に改変したり、新旧約信仰だけは徹底的に禁止したりと、
それなりに自尊心を保とうともしているようだが、共産主義も所詮は新旧約信仰の一種でしかなく、
君臣父子の尊位を貴ぶ古来の漢文化を壊滅状態に追いやっていることには変わりない。
もしかしたらそんな中にも、伝統文化を守ろうとする聖賢がどこかにいるのかもしれないが、
それこそ日本のニート並みにも、卑賤な境遇に貶められているに違いない。たとえいたとしても。
獄中で「明夷は艱貞に利あり」との易占結果を得るなどした文王は、息子たちによる
自主的な紂王への賄賂などにもよって、七年間の幽閉の後にやっと開放された。
殷の紂王が、自らの放辟邪侈と引き換えに人民たちを極度に貧窮させていた中で、
文王は諸国王なりの仁政に尽力したために、多くの士人や民が文王の下に集まって来、
最終的には中国全土の3分の2の人々の支持を得るまでになった。
しかし、それはあくまで非武装民たちによる支持であって、
軍事的な優勢ではなく、軍事的には未だ殷のほうが遥かに強大な武力を誇っていた。
だからということもあったかも知れないが、文王は決して紂王の帝位を簒奪しようなどとはせず、
あくまで殷王朝に臣従する格下の態度をとり続けていた。その恭しさを慕って、
小国の王子だった伯夷や叔斉も周への帰属を試みたが、その頃にはすでに文王はなく、
息子の武王が王位を継承し、文王が釣り場の邂逅で臣従させた太公望呂尚などと共に、
今まさに殷の紂王を討ち、新たな統一中華王朝の創立を試みんとしていた。
天下全土の3分の2もの支持を受けながらも、殷への臣従を守った文王こそを
慕って周に赴いた伯夷や叔斉は、車上にいる武王に対し、何とか放伐革命を避けるように
説得したが、近衛兵に遠ざけられて殺されそうになった。太公望呂尚はそれを見取って
「仁士であるので解放するように」と命じた。失望感にかられた伯夷と叔斉は周を捨てて
首陽山にこもり、山菜だけを食べて一時の命をつないだ挙句に餓死した。
自主的な紂王への賄賂などにもよって、七年間の幽閉の後にやっと開放された。
殷の紂王が、自らの放辟邪侈と引き換えに人民たちを極度に貧窮させていた中で、
文王は諸国王なりの仁政に尽力したために、多くの士人や民が文王の下に集まって来、
最終的には中国全土の3分の2の人々の支持を得るまでになった。
しかし、それはあくまで非武装民たちによる支持であって、
軍事的な優勢ではなく、軍事的には未だ殷のほうが遥かに強大な武力を誇っていた。
だからということもあったかも知れないが、文王は決して紂王の帝位を簒奪しようなどとはせず、
あくまで殷王朝に臣従する格下の態度をとり続けていた。その恭しさを慕って、
小国の王子だった伯夷や叔斉も周への帰属を試みたが、その頃にはすでに文王はなく、
息子の武王が王位を継承し、文王が釣り場の邂逅で臣従させた太公望呂尚などと共に、
今まさに殷の紂王を討ち、新たな統一中華王朝の創立を試みんとしていた。
天下全土の3分の2もの支持を受けながらも、殷への臣従を守った文王こそを
慕って周に赴いた伯夷や叔斉は、車上にいる武王に対し、何とか放伐革命を避けるように
説得したが、近衛兵に遠ざけられて殺されそうになった。太公望呂尚はそれを見取って
「仁士であるので解放するように」と命じた。失望感にかられた伯夷と叔斉は周を捨てて
首陽山にこもり、山菜だけを食べて一時の命をつないだ挙句に餓死した。
文王が獄中で得た「明夷は艱貞に利あり」という易占の結果は、あくまで文王自身の
艱貞(艱難の中にも正しさを貫く)によって、天下全土の3分の2もの支持を得る点までを
予言していたのであって、文王の息子である武王が、禅譲に劣る放伐によって殷紂の
王位を簒奪した点を予言していたのではない。大多数の人民からの支持までが、
文王にとっての「利」であったし、結局はその父親への支持を嵩にかかって、
武王も紂王を放伐できたのだから、殷周革命その瞬間は、すでに文王が自得した有利さの
消費の段階に入っていた。文王が大多数の万民の支持を受けた時点が最隆盛であり、
放伐革命によって武王が紂王を討ち滅ぼした時には、すでに下り坂に入っていた。
だから伯夷や叔斉も周を捨てて山篭りした。もしも文王の存命中に伯夷や叔斉が臣従して、
ある程度の俸禄を得たりしていたなら、おそらく伯夷や叔斉とて周への帰属を続けただろう。
そして、武王に放伐革命を思いとどまるよう正式な臣下として諌め通し、殷紂が完全な
自業自得によって自滅する所まで臣従を通させただろう。孟子も「殷周革命の実態は
禅譲も同然だった」と推定しているが、形式上はやはり放伐革命になってしまったため、
それが確かに運命の分かれ道となり、周朝は殷代まで存続していた帝号を排して王号止まりとした。
「明夷は艱貞に利あり」とは、あくまで正しさが貫かれる限りにおいてもたらされる利の予言であり、
放伐革命のような惨事を予言しているわけではない。孟子が推定したような極めて禅譲寄りの放伐となったり、
本当に禅譲になったりということもあり、そこは上記の予言によって左右されるところではない。
艱貞(艱難の中にも正しさを貫く)によって、天下全土の3分の2もの支持を得る点までを
予言していたのであって、文王の息子である武王が、禅譲に劣る放伐によって殷紂の
王位を簒奪した点を予言していたのではない。大多数の人民からの支持までが、
文王にとっての「利」であったし、結局はその父親への支持を嵩にかかって、
武王も紂王を放伐できたのだから、殷周革命その瞬間は、すでに文王が自得した有利さの
消費の段階に入っていた。文王が大多数の万民の支持を受けた時点が最隆盛であり、
放伐革命によって武王が紂王を討ち滅ぼした時には、すでに下り坂に入っていた。
だから伯夷や叔斉も周を捨てて山篭りした。もしも文王の存命中に伯夷や叔斉が臣従して、
ある程度の俸禄を得たりしていたなら、おそらく伯夷や叔斉とて周への帰属を続けただろう。
そして、武王に放伐革命を思いとどまるよう正式な臣下として諌め通し、殷紂が完全な
自業自得によって自滅する所まで臣従を通させただろう。孟子も「殷周革命の実態は
禅譲も同然だった」と推定しているが、形式上はやはり放伐革命になってしまったため、
それが確かに運命の分かれ道となり、周朝は殷代まで存続していた帝号を排して王号止まりとした。
「明夷は艱貞に利あり」とは、あくまで正しさが貫かれる限りにおいてもたらされる利の予言であり、
放伐革命のような惨事を予言しているわけではない。孟子が推定したような極めて禅譲寄りの放伐となったり、
本当に禅譲になったりということもあり、そこは上記の予言によって左右されるところではない。
「君子に三楽あり。而して天下に王たるは与り存せず」
「君子にも色々と楽しみはある。しかし天下全土に冠たる帝王となることなどは、そのうちに入っていない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・二〇より)
殷の紂王が中国史上にも稀に見る暴虐を行っていた頃に、幽閉から解かれてからの周文王は、自国を中心とした
仁政を施し、次第に諸国民の支持を得るまでとなり、存命中に天下全土の大多数の人民の支持を得るまでになった。
そこまでが「明夷は艱貞に利あり」という予言の果報であり、「利」とは天下を統一することでもなければ、
自らの勢力が軍事経済的な優位に立つことでもなかった。実際、後に殷周革命の雌雄を決した牧野の戦いにおいても、
殷軍が数十万の軍勢を擁していたのに対し、周の武王軍はせいぜい数万程度の規模だったと言われる(正確な数は諸説あり)。
しかし、大多数の民衆の支持を、自分たち殷ではなく周のほうが獲得していることに失望感を抱いて、殷軍はほとんど
なすすべも無く無勢の周軍に破れ、ほとんど戦うことすらなく首都朝歌を明け渡し、紂王やその愛妾たちは自決して果てた。
その頃の殷は、ただ軍事的に膨張していただけでなく、経済的にも相当な隆盛を誇っていたため、殷の旧称である
「商」が今でも「商業」や「商売」といった言葉に痕跡をとどめている。しかし、周の武王はその殷朝単独での
経済面や軍事面における膨張が、かえって天下万民を苦しめる元凶となっていたことに配慮して、軍事や経済ではなく
文徳による統治支配を天下全土に敷いた。そのため周代には数多くの詩歌や歴史書などが編纂され、特に武王の弟の
周公旦が直接統治した魯において文化保存も行き届いていたために、後に孔子がこれらを「詩経」や「書経」として編纂した。
文王が卦辞を作り、周公が爻辞を作ったとされる易も、孔子が整形して繋辞伝を付録するなどしたことによって、
今の「易経」とほぼ同等の体裁を完成させるにいたった。
「君子にも色々と楽しみはある。しかし天下全土に冠たる帝王となることなどは、そのうちに入っていない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・二〇より)
殷の紂王が中国史上にも稀に見る暴虐を行っていた頃に、幽閉から解かれてからの周文王は、自国を中心とした
仁政を施し、次第に諸国民の支持を得るまでとなり、存命中に天下全土の大多数の人民の支持を得るまでになった。
そこまでが「明夷は艱貞に利あり」という予言の果報であり、「利」とは天下を統一することでもなければ、
自らの勢力が軍事経済的な優位に立つことでもなかった。実際、後に殷周革命の雌雄を決した牧野の戦いにおいても、
殷軍が数十万の軍勢を擁していたのに対し、周の武王軍はせいぜい数万程度の規模だったと言われる(正確な数は諸説あり)。
しかし、大多数の民衆の支持を、自分たち殷ではなく周のほうが獲得していることに失望感を抱いて、殷軍はほとんど
なすすべも無く無勢の周軍に破れ、ほとんど戦うことすらなく首都朝歌を明け渡し、紂王やその愛妾たちは自決して果てた。
その頃の殷は、ただ軍事的に膨張していただけでなく、経済的にも相当な隆盛を誇っていたため、殷の旧称である
「商」が今でも「商業」や「商売」といった言葉に痕跡をとどめている。しかし、周の武王はその殷朝単独での
経済面や軍事面における膨張が、かえって天下万民を苦しめる元凶となっていたことに配慮して、軍事や経済ではなく
文徳による統治支配を天下全土に敷いた。そのため周代には数多くの詩歌や歴史書などが編纂され、特に武王の弟の
周公旦が直接統治した魯において文化保存も行き届いていたために、後に孔子がこれらを「詩経」や「書経」として編纂した。
文王が卦辞を作り、周公が爻辞を作ったとされる易も、孔子が整形して繋辞伝を付録するなどしたことによって、
今の「易経」とほぼ同等の体裁を完成させるにいたった。
文王が天下全土の大多数の支持を得る仁政を施したことによって、その息子である武王や周公が天下を統一して文徳統治を敷く
偉業をもなし得たわけで、周の威徳は文王の代においてこそ極まり、武王や周公はその父親の威徳を継承して消費したのみ。
しかし、文王がそこまでの万民の支持を得たのも、元はといえば殷の紂王という大反面教師が、見本中の見本のような暴政を
敷くことで万民を苦しめ、水であれば泥水でも飛びつくような渇望者へと民を追い込んでいたからで、良くも悪しくもそのお陰で
文王の仁政が際立ち、誰しもが周への帰属を欲するまでとなった。これが「明夷は艱貞に利あり」の法則性の論証ともなっている。
今の世の中だって、欧米とブラックアフリカを合わせたキリスト教圏が、自分たちの中だけで1兆倍以上もの所得格差を広げ、
毎年何千万人もの餓死者をはじき出しているから、非キリスト教圏の比較的なマシさ加減が際立っているまでで、中国や
アラブやインドとて、決してそれほど優良な仁政を敷けているともいえない。文王や武王もそれなりに賢人だったとはされるが、
禅譲によって政権も交代させていた唐虞の堯舜には及ばないということを孔子も言っている(「論語」里仁第四・二五参照)。
聖賢にも色々と段階があり、聖性の重畳とでもいえるほどに良い所尽くめな場合もあれば、反面教師がいることによって、比較的
なマシさから聖性が際立つ場合もある。極大級の反面教師がいたから比較的偉大なもの扱いされたりするのは、普遍的な聖賢の
度合いとしては低劣な部類であり、反面教師すらいない中に聖性を高められるかどうかでこそ、聖賢としての真価をも問われるだろう。
「文王を待ちて後に興る者は、凡民なり。夫の豪傑の士の若きは、文王なしと雖も猶お興る」
「文王は偉大でも、文王のような聖人の登場を待ってからはじめて立ち上がる者などは、凡民である。
すぐれた豪傑の士であるならば、たとえ文王のような聖人の教化を待たずとも、自ら立ち上がるものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・一〇より)
偉業をもなし得たわけで、周の威徳は文王の代においてこそ極まり、武王や周公はその父親の威徳を継承して消費したのみ。
しかし、文王がそこまでの万民の支持を得たのも、元はといえば殷の紂王という大反面教師が、見本中の見本のような暴政を
敷くことで万民を苦しめ、水であれば泥水でも飛びつくような渇望者へと民を追い込んでいたからで、良くも悪しくもそのお陰で
文王の仁政が際立ち、誰しもが周への帰属を欲するまでとなった。これが「明夷は艱貞に利あり」の法則性の論証ともなっている。
今の世の中だって、欧米とブラックアフリカを合わせたキリスト教圏が、自分たちの中だけで1兆倍以上もの所得格差を広げ、
毎年何千万人もの餓死者をはじき出しているから、非キリスト教圏の比較的なマシさ加減が際立っているまでで、中国や
アラブやインドとて、決してそれほど優良な仁政を敷けているともいえない。文王や武王もそれなりに賢人だったとはされるが、
禅譲によって政権も交代させていた唐虞の堯舜には及ばないということを孔子も言っている(「論語」里仁第四・二五参照)。
聖賢にも色々と段階があり、聖性の重畳とでもいえるほどに良い所尽くめな場合もあれば、反面教師がいることによって、比較的
なマシさから聖性が際立つ場合もある。極大級の反面教師がいたから比較的偉大なもの扱いされたりするのは、普遍的な聖賢の
度合いとしては低劣な部類であり、反面教師すらいない中に聖性を高められるかどうかでこそ、聖賢としての真価をも問われるだろう。
「文王を待ちて後に興る者は、凡民なり。夫の豪傑の士の若きは、文王なしと雖も猶お興る」
「文王は偉大でも、文王のような聖人の登場を待ってからはじめて立ち上がる者などは、凡民である。
すぐれた豪傑の士であるならば、たとえ文王のような聖人の教化を待たずとも、自ら立ち上がるものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・一〇より)
オマエに聞いたのが間違いだったな スマン
俺だって、今の中国の支配層である共産党員などを支持しないし、
石油利権のおこぼれで甘い汁を吸っているアラブの富豪なども支持しない。
もちろん日本の政治家だって支持していないから、選挙にも行っていない。
その俺と同じように、(欧米への屈従も強いられる)今の暗黒社会への直接参加を
完全拒絶して、黙々と艱貞を貫いている隠者が、どこかにはいるかもしれない。
中国もアラブも13億人以上の大所帯なのだから、一人もいないほうがかえっておかしい。
もちろん日本ほどにも物質的に裕福でないので、完全に働かないのではなく、
山奥で完全な自給自足の生活を送るなどしているかもしれない。税金も払わず、住民登録などもせず。
日本では全く不可能でも、中国の奥地あたりならまだそれぐらいの融通が利くかもしれないから。
石油利権のおこぼれで甘い汁を吸っているアラブの富豪なども支持しない。
もちろん日本の政治家だって支持していないから、選挙にも行っていない。
その俺と同じように、(欧米への屈従も強いられる)今の暗黒社会への直接参加を
完全拒絶して、黙々と艱貞を貫いている隠者が、どこかにはいるかもしれない。
中国もアラブも13億人以上の大所帯なのだから、一人もいないほうがかえっておかしい。
もちろん日本ほどにも物質的に裕福でないので、完全に働かないのではなく、
山奥で完全な自給自足の生活を送るなどしているかもしれない。税金も払わず、住民登録などもせず。
日本では全く不可能でも、中国の奥地あたりならまだそれぐらいの融通が利くかもしれないから。
2000年もの間悪人を大量生産し、浄土信者のように被治者に甘んじさせるでもなく、政治の座にも上り詰めさせて来た、
その結果として絶え間ない殺戮の西洋史があり、現代における人類史上未曾有の西洋における数億人規模の大虐殺がある。
自分たちからはほとんど全く殺戮を行ってこなかったインドはもちろんのこと、戦乱も多少は来たしつつ、
最低限の善人統治によって数百年単位の泰平を連発してきた中国や日本にすらその安寧度で及ばない。
そのような連中が元々勝ってはいけないのであり、勝負以前の徳性の有無から見直さなければならない。
「善人、邦を為むること百年、亦た以て残に勝ちて殺を去るべしと。誠なるかな、是の言や」
「聖人や賢人と言わず、善人か悪人かのうちの善人程度であっても、政治を任せて国を治めさせる
ことが百年も続けば、暴れ者に打ち勝って殺戮をなくさせるという。この言葉は確かに本当だ。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・九より)
その結果として絶え間ない殺戮の西洋史があり、現代における人類史上未曾有の西洋における数億人規模の大虐殺がある。
自分たちからはほとんど全く殺戮を行ってこなかったインドはもちろんのこと、戦乱も多少は来たしつつ、
最低限の善人統治によって数百年単位の泰平を連発してきた中国や日本にすらその安寧度で及ばない。
そのような連中が元々勝ってはいけないのであり、勝負以前の徳性の有無から見直さなければならない。
「善人、邦を為むること百年、亦た以て残に勝ちて殺を去るべしと。誠なるかな、是の言や」
「聖人や賢人と言わず、善人か悪人かのうちの善人程度であっても、政治を任せて国を治めさせる
ことが百年も続けば、暴れ者に打ち勝って殺戮をなくさせるという。この言葉は確かに本当だ。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・九より)
「滕文公問うて曰く、齊人將に薛を築かんとす。吾甚だ恐る。之を如何せば則ち可ならん。孟子對えて曰く、
昔、大王邠に居りしとき、狄人之れを侵す。去りて岐山の下に之きて居れり。擇びて之れを取れるに非ず。
已むを得ざりてなり。苟くも善を為さば、後世子孫必ず王者有らん。君子は業を創め統を垂れ、
繼ぐ可きことを為さんのみ。夫の成功の若きは、則ち天なり。君彼を如何にせんや。彊めて善を為さんのみ」
「滕の文公が孟子に問うた。『斉が隣国の薛を滅ぼしてそこに城塁を築こうとしている。私はそれを甚だ恐れているのだが、
これをいかにすればよかろうか』孟子は答えて言った。『昔、周の文王の祖父である古公亶父も、夷狄に国を侵されて
逃げ去り、岐山の麓で夫人と共に隠れ住んでいることがありました。決してそれを欲していたわけではなく、
あくまでやむを得なかったのです。しかしその古公亶父のように善を積んでいれば、後世には文王や武王のような
偉大な王者が現れることもきっとあります。君子はそのための事業を創始して系統を樹立し、後代にそれらを
受け継がせる布石となるように努めるのみです。もちろんそれによって実際に成功するかどうかは、結局は天命を待つ
所もあるわけですが、そんな自分たちではどうにもならない所にこだわる以上にも、君子はただ最善を尽くすのみです』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁惠王章句下・一四)
昔、大王邠に居りしとき、狄人之れを侵す。去りて岐山の下に之きて居れり。擇びて之れを取れるに非ず。
已むを得ざりてなり。苟くも善を為さば、後世子孫必ず王者有らん。君子は業を創め統を垂れ、
繼ぐ可きことを為さんのみ。夫の成功の若きは、則ち天なり。君彼を如何にせんや。彊めて善を為さんのみ」
「滕の文公が孟子に問うた。『斉が隣国の薛を滅ぼしてそこに城塁を築こうとしている。私はそれを甚だ恐れているのだが、
これをいかにすればよかろうか』孟子は答えて言った。『昔、周の文王の祖父である古公亶父も、夷狄に国を侵されて
逃げ去り、岐山の麓で夫人と共に隠れ住んでいることがありました。決してそれを欲していたわけではなく、
あくまでやむを得なかったのです。しかしその古公亶父のように善を積んでいれば、後世には文王や武王のような
偉大な王者が現れることもきっとあります。君子はそのための事業を創始して系統を樹立し、後代にそれらを
受け継がせる布石となるように努めるのみです。もちろんそれによって実際に成功するかどうかは、結局は天命を待つ
所もあるわけですが、そんな自分たちではどうにもならない所にこだわる以上にも、君子はただ最善を尽くすのみです』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁惠王章句下・一四)
「ああ、皇いなるかな武王は、無競なる維の烈。允文なる文王の、克く厥の後を開きたまいし。
あとを嗣ぎて之れを受け、殷に勝ちて劉を遏め、爾の功を耆定したまう」
「ああ、なんと武王は偉大なことだろう、限りなきその武勲は。文徳によって治世を始めた文王の、後にも続いてよく世を開き、
文王の位を継いでこれを受け、殷の紂王に勝ってからは矛を収め(武備を縮小し)、その功績を悠久のものとされた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・武より)
「若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが強く、
神の言葉があなたがたの内にいつもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである」
(権力犯罪聖書——通称聖書——ヨハネの第一の脅迫文2:14)
ただでさえロゴス信仰に侵されたおかしな構文となっている犯罪聖書の勝利宣言を、道徳聖書の勝利宣言と比較してみると、
さらにそのおかしさが際立ってくる。「詩経」武は武王でもその父親の文王でもない第三者の視点となっており(一説には周公の作とされる)、
文王の威徳を継承して王業を打ち立てた武王の勲功が叙事的に述べられている。これが第三者からの武王への賛美としては適切なものとなっており、
実の父親でもない第三者が、信者の勝利を叙情的に述べているヨハネの脅迫文の僭越さとは対照的なものとなっている。
あとを嗣ぎて之れを受け、殷に勝ちて劉を遏め、爾の功を耆定したまう」
「ああ、なんと武王は偉大なことだろう、限りなきその武勲は。文徳によって治世を始めた文王の、後にも続いてよく世を開き、
文王の位を継いでこれを受け、殷の紂王に勝ってからは矛を収め(武備を縮小し)、その功績を悠久のものとされた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・武より)
「若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが強く、
神の言葉があなたがたの内にいつもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである」
(権力犯罪聖書——通称聖書——ヨハネの第一の脅迫文2:14)
ただでさえロゴス信仰に侵されたおかしな構文となっている犯罪聖書の勝利宣言を、道徳聖書の勝利宣言と比較してみると、
さらにそのおかしさが際立ってくる。「詩経」武は武王でもその父親の文王でもない第三者の視点となっており(一説には周公の作とされる)、
文王の威徳を継承して王業を打ち立てた武王の勲功が叙事的に述べられている。これが第三者からの武王への賛美としては適切なものとなっており、
実の父親でもない第三者が、信者の勝利を叙情的に述べているヨハネの脅迫文の僭越さとは対照的なものとなっている。
父子の関係の睦まじさをよく踏まえつつ、第三者なりの抑制された感慨と共に殷紂への勝利なども挙げ連ねる。
ただそれだけの叙事的な描写でありながら感動的となるのも、暴君を放伐する正当な勝利でもあったからで、
脳内超越神に基づく自意識過剰が、父子の親すらも放伐する不当な勝利などではなかったから。
試しに「詩経」武の体裁を借りて、ヨハネの脅迫文を書き直してみよう。
「ああ、なんとあなたがた若者は偉大なことだろう、限りなきその武勲は。
あなた方の脳内に捏造された超越神の、後にも続いてよく世を侵略し、
脳内神の位を継いでこれを受け、実の親族関係に勝ってからも狂信を続け、その狂乱を悠久のものとされた」
意味は通るが、そのおそまつさがあらわになって熱が冷めてしまう。だから道徳聖書のような叙事的な表現は用いず、
実際上の物事をできる限り省略した、曖昧な表現ばかりで犯罪聖書の内容は埋め尽くされている。
ただそれだけの叙事的な描写でありながら感動的となるのも、暴君を放伐する正当な勝利でもあったからで、
脳内超越神に基づく自意識過剰が、父子の親すらも放伐する不当な勝利などではなかったから。
試しに「詩経」武の体裁を借りて、ヨハネの脅迫文を書き直してみよう。
「ああ、なんとあなたがた若者は偉大なことだろう、限りなきその武勲は。
あなた方の脳内に捏造された超越神の、後にも続いてよく世を侵略し、
脳内神の位を継いでこれを受け、実の親族関係に勝ってからも狂信を続け、その狂乱を悠久のものとされた」
意味は通るが、そのおそまつさがあらわになって熱が冷めてしまう。だから道徳聖書のような叙事的な表現は用いず、
実際上の物事をできる限り省略した、曖昧な表現ばかりで犯罪聖書の内容は埋め尽くされている。
権力道徳聖書こと四書五経の表現形式は、犯罪聖書と比べて文学的に素っ気ない場合も多いが、
事実を丹念に描写することで、事実におけるありのままの偉大さを忠実に記録しようとする姿勢に長けている。
事実をありのままに記録しようとするが故の堅苦しさを乗り越えて、記録の先に実在しているものの偉大さを慮れたなら、
それが他の何物にも変えがたい含蓄の宝庫であり、俗世に直接適用する限りでは、仏典や道蔵以上もの有用性を
発揮することが分かる。その有用性の度合いは、一般的に言えば権力犯罪聖書並みかそれ以上だが、
権力道徳を重んじる限りにおいては、四書五経が無限大であり犯罪聖書が零である一方、
権力犯罪をやらかす限りにおいては、犯罪聖書が無限大であり四書五経が零である。
扱い方が全く異なるだけで、権力道徳という一方面においては無限大に有用なのが四書五経である一方、
権力犯罪という一方面においてのみ無限大に有用なのが犯罪聖書こと新旧約聖書。
それが無限大に有用であればとて、人類の側はどこまでも無限大なわけではなく、
現時点の人口増大率でもすでに、地球上のキャパシティを遥かに上回っている。
有用性が無限大だったり零だったりすること以前に、自分たちにとって有用なものを見直す冷静さを。
事実を丹念に描写することで、事実におけるありのままの偉大さを忠実に記録しようとする姿勢に長けている。
事実をありのままに記録しようとするが故の堅苦しさを乗り越えて、記録の先に実在しているものの偉大さを慮れたなら、
それが他の何物にも変えがたい含蓄の宝庫であり、俗世に直接適用する限りでは、仏典や道蔵以上もの有用性を
発揮することが分かる。その有用性の度合いは、一般的に言えば権力犯罪聖書並みかそれ以上だが、
権力道徳を重んじる限りにおいては、四書五経が無限大であり犯罪聖書が零である一方、
権力犯罪をやらかす限りにおいては、犯罪聖書が無限大であり四書五経が零である。
扱い方が全く異なるだけで、権力道徳という一方面においては無限大に有用なのが四書五経である一方、
権力犯罪という一方面においてのみ無限大に有用なのが犯罪聖書こと新旧約聖書。
それが無限大に有用であればとて、人類の側はどこまでも無限大なわけではなく、
現時点の人口増大率でもすでに、地球上のキャパシティを遥かに上回っている。
有用性が無限大だったり零だったりすること以前に、自分たちにとって有用なものを見直す冷静さを。
四書五経を始めとする、漢籍全般に一貫して共通しているのが、事実関係の徹底的な把握やその細密な描写に努めていること。
たとえば「史記」では、兄の家に居候して自堕落な生活を送っていたために、兄嫁に「こんな義弟ならいなければいいのに」
とまで侮辱された陳平が、楚漢戦争では漢軍のスパイ工作者として大活躍し、天下平定後にも高祖劉邦に称えられ、宰相も歴任し、
高祖の死後にも呂氏の専横を陸賈などと共に征討して孝文帝を擁立するなどの、大活躍を果たしたことがありのままに描かれている。
これだけだと「最初は自堕落だったのが、一念発起して大活躍した」というものぐさ太郎的な美談としても取り扱えるわけだが、
一方で、陳平と同じように若い頃には食客として自堕落な生活を送り、脅しかけてきた若者の股をくぐって居候先からすらも
追い出されていた韓信が、楚漢戦争では漢軍方として最大級の武功を挙げ、斉王や楚王にすらなる大成功を一旦は遂げたが、
韓信個人の武備が膨張し過ぎたことから高祖の警戒を被り、挙句には自分から謀反を起こして九族皆殺しの刑に処せられたことも
「史記」ではありのままに述べられている。獄中に七年間も幽閉されながらも、殷紂への臣従を続けた文王のように、人事を
尽くして天命を待ったわけでもなく、時宜を見計らいもせずに謀反を企てて誅殺された間抜けさまでもがありのままに記されており、
「自堕落者が一念発起したからといって必ずしも成功するわけではなく、間抜けさを持ち越せば自業自得で失敗する場合もある」
という見本にもなっている。こんな入り組んだ教訓は、創作寓話などで思いつける代物ではなく、小説より奇なる事実をありのままに
記録することによってのみ述べ伝えられるもの。自堕落者が成功したり、大成功してまた大失敗したりの極例も挙げた上で、「史記」
貨殖列伝においては、「自堕落者は一生そのままでいる限りにおいては、そこそこの庶民からすら蔑まれる」という世間一般的な
事実も冷酷に述べており、とにかく事実をありのままに記録した結果、場合によっては相反するような記述すらもが併載されている。
たとえば「史記」では、兄の家に居候して自堕落な生活を送っていたために、兄嫁に「こんな義弟ならいなければいいのに」
とまで侮辱された陳平が、楚漢戦争では漢軍のスパイ工作者として大活躍し、天下平定後にも高祖劉邦に称えられ、宰相も歴任し、
高祖の死後にも呂氏の専横を陸賈などと共に征討して孝文帝を擁立するなどの、大活躍を果たしたことがありのままに描かれている。
これだけだと「最初は自堕落だったのが、一念発起して大活躍した」というものぐさ太郎的な美談としても取り扱えるわけだが、
一方で、陳平と同じように若い頃には食客として自堕落な生活を送り、脅しかけてきた若者の股をくぐって居候先からすらも
追い出されていた韓信が、楚漢戦争では漢軍方として最大級の武功を挙げ、斉王や楚王にすらなる大成功を一旦は遂げたが、
韓信個人の武備が膨張し過ぎたことから高祖の警戒を被り、挙句には自分から謀反を起こして九族皆殺しの刑に処せられたことも
「史記」ではありのままに述べられている。獄中に七年間も幽閉されながらも、殷紂への臣従を続けた文王のように、人事を
尽くして天命を待ったわけでもなく、時宜を見計らいもせずに謀反を企てて誅殺された間抜けさまでもがありのままに記されており、
「自堕落者が一念発起したからといって必ずしも成功するわけではなく、間抜けさを持ち越せば自業自得で失敗する場合もある」
という見本にもなっている。こんな入り組んだ教訓は、創作寓話などで思いつける代物ではなく、小説より奇なる事実をありのままに
記録することによってのみ述べ伝えられるもの。自堕落者が成功したり、大成功してまた大失敗したりの極例も挙げた上で、「史記」
貨殖列伝においては、「自堕落者は一生そのままでいる限りにおいては、そこそこの庶民からすら蔑まれる」という世間一般的な
事実も冷酷に述べており、とにかく事実をありのままに記録した結果、場合によっては相反するような記述すらもが併載されている。
確かに「史記」は、漢籍の中でも特にその描写が冷徹なことで知られており、孔子が勧善懲悪の意図も込めて編纂した「春秋」や、
「史記」以上にも儒学的な影響の色濃い「漢書」などでは、もう少し編纂者の恣意が介在していたりもするわけだが、とはいえ漢籍は、
全体的に事実関係の忠実な描写に長けており、不埒な文飾などは「経史子集」の最下位に当たる「集(文芸集)」だけに丸投げしている。
創作的な文芸もないことはないが、単なる文芸とそれ以上であるものの区別が厳重になされており、あらゆる西洋文献中でも最高位と
される新旧約聖書からして創作文芸の塊であることにより、「全文創作文芸」状態と化している西洋典籍の場合のような無秩序さはない。
「経(経書)」や「史(史書)」や「子(諸子百家)」ならば、単なる創作文芸以上の重みが必ず伴っており、中でも最高位である
「経」の代表たる四書五経は、創作文芸以上の正確さと、史書以上の誠実さとを併せ持った、書き物としての聖性の究極点にある。
言語で表しきれない絶対真理を便宜的に記録しただけである仏典など以上にも、四書五経こそは「文書記録」としての模範になっている。
「沔と彼の流るる水は、海に朝宗するに。鳥穴と彼の飛ぶ隼は、また飛びてまた止まるに。
嗟我、兄弟よ、邦人、諸友よ、肯えて亂を念うるもの莫き、誰かは父母無からんや」
「川の水は浪々と流れ行きて海に注ぎ込み、隼も颯爽と飛び上がってはまたどこかに止まる。
ああ、兄弟よ、邦人にわが友よ、なぜ乱世を憂うことすらないのか。あなた方にも実の父母があるではないか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・彤弓之什・沔水より)
「史記」以上にも儒学的な影響の色濃い「漢書」などでは、もう少し編纂者の恣意が介在していたりもするわけだが、とはいえ漢籍は、
全体的に事実関係の忠実な描写に長けており、不埒な文飾などは「経史子集」の最下位に当たる「集(文芸集)」だけに丸投げしている。
創作的な文芸もないことはないが、単なる文芸とそれ以上であるものの区別が厳重になされており、あらゆる西洋文献中でも最高位と
される新旧約聖書からして創作文芸の塊であることにより、「全文創作文芸」状態と化している西洋典籍の場合のような無秩序さはない。
「経(経書)」や「史(史書)」や「子(諸子百家)」ならば、単なる創作文芸以上の重みが必ず伴っており、中でも最高位である
「経」の代表たる四書五経は、創作文芸以上の正確さと、史書以上の誠実さとを併せ持った、書き物としての聖性の究極点にある。
言語で表しきれない絶対真理を便宜的に記録しただけである仏典など以上にも、四書五経こそは「文書記録」としての模範になっている。
「沔と彼の流るる水は、海に朝宗するに。鳥穴と彼の飛ぶ隼は、また飛びてまた止まるに。
嗟我、兄弟よ、邦人、諸友よ、肯えて亂を念うるもの莫き、誰かは父母無からんや」
「川の水は浪々と流れ行きて海に注ぎ込み、隼も颯爽と飛び上がってはまたどこかに止まる。
ああ、兄弟よ、邦人にわが友よ、なぜ乱世を憂うことすらないのか。あなた方にも実の父母があるではないか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・彤弓之什・沔水より)
自分自身、政治顧問などと共に儒学の教師も務めていた孟子からして、
「人の患いは、好んで人の師と為りたがるに在り(離婁章句上・二三)」と言っている。
さしたる知見もなくただ教えようとばかりすることが、相手にとってためにならないだけでなく、
自分自身の成長すらをも妨げる愚行となることを見抜いての言。とはいえ実際、孟子も教師であったわけだし、
人に教えてもらって学ぶということも当然ある。それは、教える側が真に優秀な知見の持ち主であることが大前提となっている。
自らの知識を人に教えることで、教えられた側もためになり、教える側も自らの知識を整理する一石二鳥となる。
そうなるためには、教えられる側だけでなく、教える側にも絶え間ない向学心が必要であり、自らも学んでいく過程において
相手にも教えるという向上心がなくてはならない。自分はもう試験にも受かって学校も卒業したから、これ以上勉強はしなくていい、
あくまで君たちには仕事として教えるだけなどというような態度や姿勢では、自他にとってためにならない。
これから勉学の重荷を背負っていく学生たちと共に、自分もまたどこまでも重荷を背負っていく覚悟で。
「人の一生は重き荷を背負うて遠き道を行くが如し」という、家康公の言葉にも倣う勢いで、教える側もいなければならない。
「其の父薪を析くに、其の子負荷すること克わず」
「父親が材木を砕いて焚き木を作ったのに、その子は荷として背負うこともできない。
(父祖が労苦して家を興したのに、息子がその家を背負えもしない、世襲断絶の嘆き)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公七年より)
「人の患いは、好んで人の師と為りたがるに在り(離婁章句上・二三)」と言っている。
さしたる知見もなくただ教えようとばかりすることが、相手にとってためにならないだけでなく、
自分自身の成長すらをも妨げる愚行となることを見抜いての言。とはいえ実際、孟子も教師であったわけだし、
人に教えてもらって学ぶということも当然ある。それは、教える側が真に優秀な知見の持ち主であることが大前提となっている。
自らの知識を人に教えることで、教えられた側もためになり、教える側も自らの知識を整理する一石二鳥となる。
そうなるためには、教えられる側だけでなく、教える側にも絶え間ない向学心が必要であり、自らも学んでいく過程において
相手にも教えるという向上心がなくてはならない。自分はもう試験にも受かって学校も卒業したから、これ以上勉強はしなくていい、
あくまで君たちには仕事として教えるだけなどというような態度や姿勢では、自他にとってためにならない。
これから勉学の重荷を背負っていく学生たちと共に、自分もまたどこまでも重荷を背負っていく覚悟で。
「人の一生は重き荷を背負うて遠き道を行くが如し」という、家康公の言葉にも倣う勢いで、教える側もいなければならない。
「其の父薪を析くに、其の子負荷すること克わず」
「父親が材木を砕いて焚き木を作ったのに、その子は荷として背負うこともできない。
(父祖が労苦して家を興したのに、息子がその家を背負えもしない、世襲断絶の嘆き)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公七年より)
教える側も、自分が試験合格者や学校卒業者であれば完全に仕事然となるし、
教えられる側も、試験に通って入学卒業するためというような動機がないことには勉強しない。
学問が何らかの利益に結びつかないことには一切顧みられない、不純な勉学だけが通用している学問不遇の時代。
それは、目先の利益に結びつくことだけを勉強の対象とする洋学からの悪影響にもよっているし、
誰しもが利得のために動くことしか奨励されない、資本主義社会に特有の悪癖でもある。
むしろ、働いて金を得たりするのを辞めてでも勉強すべきなのであり、
勉学それ自体に利殖以上もの価値があることに気づくべきだ。それでこそ、
行為能力を全否定まではせずとも劣後する、立派な士人としての素養も身に付くのだから。
そのような士人を養成するために、第一の勉学対象として挙げられるのが、何といっても儒学。
場合によっては仏教や道家なども認められるが、古来から日常的に学ばれてきたのはむしろ儒学のほう。
利欲に結びつきがちな人間の欲求を、むしろ向学心へと振り向けて、権力犯罪込みの我田引水活動などよりは
よっぽど世の中にとって無害で有益な人間で居させる。儒学などの行為能力劣後主義的な学問を勉強させることは、
それだけでも世の乱脈を招くことを抑制する上での大きな効果があるのであり、学んだ結果何かが得られるなどという
打算にすらわざわざこだわる必要はない。学べば禄はその内にあり。学ぶことすなわち社会貢献ともなっているから。
教えられる側も、試験に通って入学卒業するためというような動機がないことには勉強しない。
学問が何らかの利益に結びつかないことには一切顧みられない、不純な勉学だけが通用している学問不遇の時代。
それは、目先の利益に結びつくことだけを勉強の対象とする洋学からの悪影響にもよっているし、
誰しもが利得のために動くことしか奨励されない、資本主義社会に特有の悪癖でもある。
むしろ、働いて金を得たりするのを辞めてでも勉強すべきなのであり、
勉学それ自体に利殖以上もの価値があることに気づくべきだ。それでこそ、
行為能力を全否定まではせずとも劣後する、立派な士人としての素養も身に付くのだから。
そのような士人を養成するために、第一の勉学対象として挙げられるのが、何といっても儒学。
場合によっては仏教や道家なども認められるが、古来から日常的に学ばれてきたのはむしろ儒学のほう。
利欲に結びつきがちな人間の欲求を、むしろ向学心へと振り向けて、権力犯罪込みの我田引水活動などよりは
よっぽど世の中にとって無害で有益な人間で居させる。儒学などの行為能力劣後主義的な学問を勉強させることは、
それだけでも世の乱脈を招くことを抑制する上での大きな効果があるのであり、学んだ結果何かが得られるなどという
打算にすらわざわざこだわる必要はない。学べば禄はその内にあり。学ぶことすなわち社会貢献ともなっているから。
儒家が形式主義的であることは、古来から批判の的となっているところだが、それは確信犯でもある。
聖人でも賢人でもない、「育ちの悪い草木」としての凡人たちにも、正学の初歩中の初歩としての儒学を教えるために、
身のこなしの礼節などの、本末の末に過ぎないような部分を優先して教えることもある。それでこそ、大部分は
見込みのない凡人に過ぎない一般大衆への教化の量も稼げるから。一部の有志だけが募りあって高みを目指す、
自力の仏道や芸道などと比べれば、明らかに程度は低いが、それはそれで一つの領分をわきまえた姿勢でもある。
「子游曰く、子夏の門人小子、洒掃應對進退当たりては、則ち可なり。抑そも末なり。之れを本とすれば則ち無し。
之れ如何。子夏之れを聞きて曰く、噫、言游過てり。君子の道は孰れをか先に傳え、孰れをか後に倦まん。
譬えば諸もろの草木は、以て區別す。君子の道は焉んぞ誣う可けんや。始め有り卒り有る者は、其れ惟だ聖人か」
「孔子の弟子の子游が言った。『(同じく孔子の弟子の)子夏の門下の若者たちは、酒宴の用意や掃除や、客の受け答えや
起居動作などの礼節は行き届いている。しかし、そういったことは末節であり、根本扱いするとよくないのではないか』
子夏はそれに答えた。『ああ、游は間違っている。君子の道はどれを優先して教え、どれを後に教えるとかいったものではない。
諸々の草木だって、その育ち具合によって育て方まで区別する。(あまり素養のないものにまで、形式以上にも高尚な精神面などの)
君子の道を強いて教えたところで、なぜ体得できようか。始めから終わりまで、全てを体得できるのは、聖人ぐらいのものだろう』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・一二)
聖人でも賢人でもない、「育ちの悪い草木」としての凡人たちにも、正学の初歩中の初歩としての儒学を教えるために、
身のこなしの礼節などの、本末の末に過ぎないような部分を優先して教えることもある。それでこそ、大部分は
見込みのない凡人に過ぎない一般大衆への教化の量も稼げるから。一部の有志だけが募りあって高みを目指す、
自力の仏道や芸道などと比べれば、明らかに程度は低いが、それはそれで一つの領分をわきまえた姿勢でもある。
「子游曰く、子夏の門人小子、洒掃應對進退当たりては、則ち可なり。抑そも末なり。之れを本とすれば則ち無し。
之れ如何。子夏之れを聞きて曰く、噫、言游過てり。君子の道は孰れをか先に傳え、孰れをか後に倦まん。
譬えば諸もろの草木は、以て區別す。君子の道は焉んぞ誣う可けんや。始め有り卒り有る者は、其れ惟だ聖人か」
「孔子の弟子の子游が言った。『(同じく孔子の弟子の)子夏の門下の若者たちは、酒宴の用意や掃除や、客の受け答えや
起居動作などの礼節は行き届いている。しかし、そういったことは末節であり、根本扱いするとよくないのではないか』
子夏はそれに答えた。『ああ、游は間違っている。君子の道はどれを優先して教え、どれを後に教えるとかいったものではない。
諸々の草木だって、その育ち具合によって育て方まで区別する。(あまり素養のないものにまで、形式以上にも高尚な精神面などの)
君子の道を強いて教えたところで、なぜ体得できようか。始めから終わりまで、全てを体得できるのは、聖人ぐらいのものだろう』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・一二)
その医者を閉鎖病棟に入れてやった時のことも考えといてやらないとな。
おまえらを刑務所に入れてやった後のことまで考慮するのと一緒に。
「民の仁に於けるや、水火よりも甚だし。水火は吾れ蹈みて死する者を見る。未だ仁を蹈みて死する者を見ざるなり」
「民にとって仁徳が必要とされていることは、それこそ水火を必要とする以上にも甚だしい。大水や大火に踏み入って
死んだ者は私も見たことがあるが、未だ仁徳に踏み入って死んだ者を見たことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三五より)
この引用の中で引き合いに出されている「水火」は、物質的現象の代表格であり、大水や大火こそは確かに莫大な
物質エネルギーの表出となっている。そのような物質性よりも、人としての精神性である仁徳のほうが重要であるのは
もちろんだし、言語やそれによって概念化される知識などよりも重要である。そして知識とか言語とかいった概念的な
現象を物質的な現象へと転化するための社会的手段——カネよりももちろん重要なもの。水火も言語も知識もカネも、
実際問題として俗世には介在するが、それらよりも仁徳のほうがさらに重要。一方を排してもう一方を採るのではなく、
劣悪なほうの上にさらに優良なものが重畳されるのみ。貶め合いではなく、偉大さの重畳の先にこそ仁がある。
おまえらを刑務所に入れてやった後のことまで考慮するのと一緒に。
「民の仁に於けるや、水火よりも甚だし。水火は吾れ蹈みて死する者を見る。未だ仁を蹈みて死する者を見ざるなり」
「民にとって仁徳が必要とされていることは、それこそ水火を必要とする以上にも甚だしい。大水や大火に踏み入って
死んだ者は私も見たことがあるが、未だ仁徳に踏み入って死んだ者を見たことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三五より)
この引用の中で引き合いに出されている「水火」は、物質的現象の代表格であり、大水や大火こそは確かに莫大な
物質エネルギーの表出となっている。そのような物質性よりも、人としての精神性である仁徳のほうが重要であるのは
もちろんだし、言語やそれによって概念化される知識などよりも重要である。そして知識とか言語とかいった概念的な
現象を物質的な現象へと転化するための社会的手段——カネよりももちろん重要なもの。水火も言語も知識もカネも、
実際問題として俗世には介在するが、それらよりも仁徳のほうがさらに重要。一方を排してもう一方を採るのではなく、
劣悪なほうの上にさらに優良なものが重畳されるのみ。貶め合いではなく、偉大さの重畳の先にこそ仁がある。
「仏陀は歴史上の人物であり、したがって人間にとって理解しやすい。
キリストは歴史上の人間であるとともに神であり、そのために遥かに捉え難い」
(みすず書房「ユング自伝」より)
ユングが全ての洋学者の代表でもなければ、唯一の近代精神医学の祖であるわけでもないが、
(精神科医は今でもフロイト派とユング派に分かれているらしい)
一応はそこそこの洋学的権威であると認められているユングからして、キリストの奇跡を信じ込み続けていた
プロテスタントのスイス人だった。精神病の元凶である新旧約信仰を、精神科医からして持ち越してるんだから、
それこそ、精神科医が精神病を治すなんてのは、伝染病患者に病人の看病をさせようってなもんだ。
まだそんな看病を受けないほうが健康でいられるのであり、全世界に蔓延している病の解消のためにも、
病の元凶となっているプロテスタント洋学の駆逐が急務だ。
「身を修むれば則ち道立ち、賢を尊べば則ち惑わず、親に親しめば則ち諸父昆弟怨みず、
大臣を敬すれば則ち眩せず、群臣を體すれば則ち士の報禮重く、庶民を子とすれば則ち百姓勸み、
百工來せば則ち財用足り、遠人を柔らげれば則ち四方に歸し、諸侯を懷くれば則ち天下之を畏る」
「君主が己の一身を修めれば天下国家をも治める道が開け、賢人を尊べば惑うことがなく、親族に親しめば父兄も怨むことがなく、
大臣を敬えば体制の転覆が起こらず、群臣を我が股肱耳目とも見なせば恩に報いようとする道義心が生まれ、
庶民を我が子とも見なせば百姓たちはみな勤しみ、工業技術者を厚遇すれば財物の器用も十分となり、
遠方の人間も和らげれば四方がわが国に帰し、各国群の諸侯をも懐ければ天下全土がこれを畏れる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二〇より)
キリストは歴史上の人間であるとともに神であり、そのために遥かに捉え難い」
(みすず書房「ユング自伝」より)
ユングが全ての洋学者の代表でもなければ、唯一の近代精神医学の祖であるわけでもないが、
(精神科医は今でもフロイト派とユング派に分かれているらしい)
一応はそこそこの洋学的権威であると認められているユングからして、キリストの奇跡を信じ込み続けていた
プロテスタントのスイス人だった。精神病の元凶である新旧約信仰を、精神科医からして持ち越してるんだから、
それこそ、精神科医が精神病を治すなんてのは、伝染病患者に病人の看病をさせようってなもんだ。
まだそんな看病を受けないほうが健康でいられるのであり、全世界に蔓延している病の解消のためにも、
病の元凶となっているプロテスタント洋学の駆逐が急務だ。
「身を修むれば則ち道立ち、賢を尊べば則ち惑わず、親に親しめば則ち諸父昆弟怨みず、
大臣を敬すれば則ち眩せず、群臣を體すれば則ち士の報禮重く、庶民を子とすれば則ち百姓勸み、
百工來せば則ち財用足り、遠人を柔らげれば則ち四方に歸し、諸侯を懷くれば則ち天下之を畏る」
「君主が己の一身を修めれば天下国家をも治める道が開け、賢人を尊べば惑うことがなく、親族に親しめば父兄も怨むことがなく、
大臣を敬えば体制の転覆が起こらず、群臣を我が股肱耳目とも見なせば恩に報いようとする道義心が生まれ、
庶民を我が子とも見なせば百姓たちはみな勤しみ、工業技術者を厚遇すれば財物の器用も十分となり、
遠方の人間も和らげれば四方がわが国に帰し、各国群の諸侯をも懐ければ天下全土がこれを畏れる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二〇より)
誰でも聞いたことぐらいはあるだろう「放辟邪侈」という言葉。
ここでもすでに引用済みの「孟子」梁惠王章句上・七が出典の言葉で、意味は「放りっぱなしでへんぱで邪までほしいまま」。
乱世を放りっぱなしに打ち棄てておいて、一部の神だけに帰依したり、一部の人間とだけ睦み合ったりの偏頗でいて、欲しい
まま好き勝手に振る舞うことこそは「邪ま」であり、邪悪な世の中から救われるどころか、邪悪な世の中の元凶になっている。
邪悪さから逃れようとして、かえって自分自身こそは邪悪さの元凶となる本末転倒。あるいは「毒喰わば皿まで」。
そういうおかしな悪癖を持つカルトが事実として存在しているのも確かだが、そんなものが人類文化の正統であるはずもなく、
異端中の異端中の異端程度に扱ってやっとちょうどいいぐらいのもの。すでに文化として実在してしまっている以上は、
完全なる根絶もなかなか難しいにしても、異端中の異端中の異端という、正式な扱いの下に置くぐらいのことはできる。
当面見込まれるのはその程度の措置の徹底であり、新旧約なんぞが人類文化の正統だなどと思い込んできた多くの人間に対して、
本物の正統文化である漢学などの啓蒙に努めていく。本当に正統であるのにかえって異端扱いされている漢学のほうを、
正統中の正統中の正統という正式な扱いに戻していく。何事にかけても、扱いを正していくのみであり、他意はない。
ここでもすでに引用済みの「孟子」梁惠王章句上・七が出典の言葉で、意味は「放りっぱなしでへんぱで邪までほしいまま」。
乱世を放りっぱなしに打ち棄てておいて、一部の神だけに帰依したり、一部の人間とだけ睦み合ったりの偏頗でいて、欲しい
まま好き勝手に振る舞うことこそは「邪ま」であり、邪悪な世の中から救われるどころか、邪悪な世の中の元凶になっている。
邪悪さから逃れようとして、かえって自分自身こそは邪悪さの元凶となる本末転倒。あるいは「毒喰わば皿まで」。
そういうおかしな悪癖を持つカルトが事実として存在しているのも確かだが、そんなものが人類文化の正統であるはずもなく、
異端中の異端中の異端程度に扱ってやっとちょうどいいぐらいのもの。すでに文化として実在してしまっている以上は、
完全なる根絶もなかなか難しいにしても、異端中の異端中の異端という、正式な扱いの下に置くぐらいのことはできる。
当面見込まれるのはその程度の措置の徹底であり、新旧約なんぞが人類文化の正統だなどと思い込んできた多くの人間に対して、
本物の正統文化である漢学などの啓蒙に努めていく。本当に正統であるのにかえって異端扱いされている漢学のほうを、
正統中の正統中の正統という正式な扱いに戻していく。何事にかけても、扱いを正していくのみであり、他意はない。
「(桀溺)曰く、滔滔たる者、天下皆な是れなり。而して誰をか以て之を易えん。且つ而其の人を辟くるのに士に
從わんよりは、豈に世を辟くるの士に若かんや。耰して輟まず。子路以て告ぐ。夫子憮然として曰く、鳥獸は與に群れを
同じくすべからず。吾れ斯の人の徒と與にするに非ずして誰と與にかせん。天下道あらば、丘は與に易えざるなり」
「隠者の桀溺が孔子の弟子の子路に言った。『河の流れのように滔滔と流れてせわしないのが天下の常、誰がこの乱世を
変えることなどができようか。理想の統治を欲して次々と諸侯に接触しては去っていく孔子などに従うよりは、わしらのように
乱世から根こそぎ隠遁した人間と共にいないかね』子路はこのことをありのままに孔子に伝えた。孔子は憮然としながら言った。
『世を避けたからといって鳥獣と共に群れをなして生きていくわけにもいくまい。人間同士の関係すら捨て去って、
一体誰との関係を重んじるというのか。天下に道が行われているのならば、私とてそれを改めようとはするまいに』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八・六より)
從わんよりは、豈に世を辟くるの士に若かんや。耰して輟まず。子路以て告ぐ。夫子憮然として曰く、鳥獸は與に群れを
同じくすべからず。吾れ斯の人の徒と與にするに非ずして誰と與にかせん。天下道あらば、丘は與に易えざるなり」
「隠者の桀溺が孔子の弟子の子路に言った。『河の流れのように滔滔と流れてせわしないのが天下の常、誰がこの乱世を
変えることなどができようか。理想の統治を欲して次々と諸侯に接触しては去っていく孔子などに従うよりは、わしらのように
乱世から根こそぎ隠遁した人間と共にいないかね』子路はこのことをありのままに孔子に伝えた。孔子は憮然としながら言った。
『世を避けたからといって鳥獣と共に群れをなして生きていくわけにもいくまい。人間同士の関係すら捨て去って、
一体誰との関係を重んじるというのか。天下に道が行われているのならば、私とてそれを改めようとはするまいに』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八・六より)
スレ違い気味になるが、虫除けのためにあえて書いとけば、
①「他者に危害を加えてでも自分が利益を得よう」とする劣悪な犯罪意志がある。
②犯罪意志を己れの思考に帯びてしまった人間が「精神異常者」となる。
③自らの精神異常によるストレスを、犯罪行為の実行によって解消した人間が「犯罪者」となる。
④精神以上によるストレスを解消できないままに溜め込んだ人間が「精神病者」となる。
⑤上記のような意味の「精神異常」や「犯罪」や「精神病」といった言葉の定義に基づくほうが、人間社会の利益にもかなっている。
犯罪者や権力犯罪者こそは最大級の精神異常者であり、実際の犯罪行為によって精神異常のストレスを
解消してもいないぶんだけ、精神病者のほうがまだマシな存在ですらある。精神的に苦痛であるか否かでは、
確かに精神病患者のほうが苦痛であり、犯罪者のほうが苦痛すらも忘れ去っているわけだが、いずれも精神異常で
あるには変わりなく、図に乗ってどこまでも異常さを増大させ続けている点からして、犯罪者のほうがより劣悪。
カルト信者でもある今の精神科医の診断などに拠るよりも、上記のような定義に即したほうが、人間社会にとっての要求にもかなう。
「仁を為すこと己れに由る。而して人に由らんや」
「仁を為すことはどこまでも己れの分別研鑽による。どうして人に拠り頼むことができようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・一より)
①「他者に危害を加えてでも自分が利益を得よう」とする劣悪な犯罪意志がある。
②犯罪意志を己れの思考に帯びてしまった人間が「精神異常者」となる。
③自らの精神異常によるストレスを、犯罪行為の実行によって解消した人間が「犯罪者」となる。
④精神以上によるストレスを解消できないままに溜め込んだ人間が「精神病者」となる。
⑤上記のような意味の「精神異常」や「犯罪」や「精神病」といった言葉の定義に基づくほうが、人間社会の利益にもかなっている。
犯罪者や権力犯罪者こそは最大級の精神異常者であり、実際の犯罪行為によって精神異常のストレスを
解消してもいないぶんだけ、精神病者のほうがまだマシな存在ですらある。精神的に苦痛であるか否かでは、
確かに精神病患者のほうが苦痛であり、犯罪者のほうが苦痛すらも忘れ去っているわけだが、いずれも精神異常で
あるには変わりなく、図に乗ってどこまでも異常さを増大させ続けている点からして、犯罪者のほうがより劣悪。
カルト信者でもある今の精神科医の診断などに拠るよりも、上記のような定義に即したほうが、人間社会にとっての要求にもかなう。
「仁を為すこと己れに由る。而して人に由らんや」
「仁を為すことはどこまでも己れの分別研鑽による。どうして人に拠り頼むことができようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・一より)
なんかお前イジるの飽きてきたなぁ
>>152の①〜⑤で最も注目すべきなのは、⑤だ。
①人間が「他者を侵害してでも利益を得よう」とする共食いの意志=犯罪意志を抱き、
②思考が犯罪意志を帯びることで、精神を蝕まれて精神異常となり、
③実際の犯罪行為に及んだ場合には、思考と行動の統合失調が避けられて苦痛が緩和されるが、
④実際の犯罪に及べない場合には、思考と行動の統合失調を来たして苦痛を溜め込み、精神病となる。
⑤というような場合に限っての「精神異常」や「犯罪行為」や「精神病」こそは、
世の中にとって真に有害無益であり、世の中全体が総力を挙げて排除に努めるべきものであるからして、
人間社会が切実に「精神異常」や「犯罪行為」や「精神病」といった言葉の意味を定義するのであれば、
上記のような意味にのみ基づくべきであり、他の意味に基づく必要はなく、また基づいてはいけないのだ。
ちょっと言行が奇異だとか、自分とって相手の意見が気に入らないだとかいっただけの理由で
「精神異常」だとか「精神病」だとかいった言葉を下手に使い回すことは、それだけでも真の精神異常や
精神病を撹乱隠蔽して、その矯正や根絶を滞らせるものであるために、禁止すべきものですらある。
未だ精神科医ですらその全貌が把握できていない精神病や精神異常、その定義を一旦、全くの白紙状態に
戻した上で、最も切実な要求に基づいて定義し直すならば、上記のような定義に基づくのが最も適切であり、
上記以外の定義に基づいて、身勝手に「精神病」などといった言葉を用いるのは、もうやめさせるべきなのだ。
①人間が「他者を侵害してでも利益を得よう」とする共食いの意志=犯罪意志を抱き、
②思考が犯罪意志を帯びることで、精神を蝕まれて精神異常となり、
③実際の犯罪行為に及んだ場合には、思考と行動の統合失調が避けられて苦痛が緩和されるが、
④実際の犯罪に及べない場合には、思考と行動の統合失調を来たして苦痛を溜め込み、精神病となる。
⑤というような場合に限っての「精神異常」や「犯罪行為」や「精神病」こそは、
世の中にとって真に有害無益であり、世の中全体が総力を挙げて排除に努めるべきものであるからして、
人間社会が切実に「精神異常」や「犯罪行為」や「精神病」といった言葉の意味を定義するのであれば、
上記のような意味にのみ基づくべきであり、他の意味に基づく必要はなく、また基づいてはいけないのだ。
ちょっと言行が奇異だとか、自分とって相手の意見が気に入らないだとかいっただけの理由で
「精神異常」だとか「精神病」だとかいった言葉を下手に使い回すことは、それだけでも真の精神異常や
精神病を撹乱隠蔽して、その矯正や根絶を滞らせるものであるために、禁止すべきものですらある。
未だ精神科医ですらその全貌が把握できていない精神病や精神異常、その定義を一旦、全くの白紙状態に
戻した上で、最も切実な要求に基づいて定義し直すならば、上記のような定義に基づくのが最も適切であり、
上記以外の定義に基づいて、身勝手に「精神病」などといった言葉を用いるのは、もうやめさせるべきなのだ。
>>152や>>154で述べた意味での、精神病や犯罪行為の原因となる精神異常、その精神異常をもたらす犯罪意志を
抑制根絶することこそは人間社会にとっての大命題であり、すでに引き起こされてしまった精神病を治療したり、
犯罪行為を処理したりすることが一番の問題であるわけではない。
そして、人間社会にとっての害悪の元凶である犯罪意志を、信者や読者や察知者に対して植え付けるのが新旧約聖書。
「他民族にホロコースト級の危害を加えようとも、自分たちユダヤ人すら利益を得られればいい」という、民族レベルでの
犯罪意志を植えつける旧約聖書、「他人に強盗殺人級の危害を加えようとも、自分やその隣人すら利益を得られればいい」
という、個人レベルでの犯罪意志を植え付ける新約聖書。必ずしもこれらの書物だけによって犯罪意志が植え付けられる
わけではないが、今の人間社会における大部分の犯罪意志の源泉に両聖書がなっており、たとえ意図的に新旧約聖書を信じたり、
読み込もうとしたりはしなくても、聖書圏である西洋に由来する劣悪文化からの間接的な影響も受けて、個人レベルや
団体レベルでの犯罪意志を、現代人の誰しもが少なからず植え付けられており、俺のように、その侵蝕を意図的に
跳ね返すぐらいでないと、ただのん気にしているだけは、犯罪意志による精神の異常化を避けることはできない。
「丹朱が傲なるは、惟れ慢游を是れ好み、傲虐是れを作し、晝夜と罔く額額として、
水罔きに舟を行り、家に朋淫して、用て厥の世を殄ちしが若きこと無かれ」
「堯帝の息子の丹朱のように、倣岸で漫遊好きで、昼夜の区別も無く悪事に勤しみ、水無きに舟をやり、
家に大勢の無頼者を招いて淫侈に耽り、自らが継ぐべき帝位も失って世を絶やすようなことがないように」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・益稷より)
抑制根絶することこそは人間社会にとっての大命題であり、すでに引き起こされてしまった精神病を治療したり、
犯罪行為を処理したりすることが一番の問題であるわけではない。
そして、人間社会にとっての害悪の元凶である犯罪意志を、信者や読者や察知者に対して植え付けるのが新旧約聖書。
「他民族にホロコースト級の危害を加えようとも、自分たちユダヤ人すら利益を得られればいい」という、民族レベルでの
犯罪意志を植えつける旧約聖書、「他人に強盗殺人級の危害を加えようとも、自分やその隣人すら利益を得られればいい」
という、個人レベルでの犯罪意志を植え付ける新約聖書。必ずしもこれらの書物だけによって犯罪意志が植え付けられる
わけではないが、今の人間社会における大部分の犯罪意志の源泉に両聖書がなっており、たとえ意図的に新旧約聖書を信じたり、
読み込もうとしたりはしなくても、聖書圏である西洋に由来する劣悪文化からの間接的な影響も受けて、個人レベルや
団体レベルでの犯罪意志を、現代人の誰しもが少なからず植え付けられており、俺のように、その侵蝕を意図的に
跳ね返すぐらいでないと、ただのん気にしているだけは、犯罪意志による精神の異常化を避けることはできない。
「丹朱が傲なるは、惟れ慢游を是れ好み、傲虐是れを作し、晝夜と罔く額額として、
水罔きに舟を行り、家に朋淫して、用て厥の世を殄ちしが若きこと無かれ」
「堯帝の息子の丹朱のように、倣岸で漫遊好きで、昼夜の区別も無く悪事に勤しみ、水無きに舟をやり、
家に大勢の無頼者を招いて淫侈に耽り、自らが継ぐべき帝位も失って世を絶やすようなことがないように」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・益稷より)
「擬似制限行為能力者状態」ってカッコいいフレーズだなw 気に入った。
統合失調症患者はこういうこといいたがるんだよ。
医学知識もないのに病気かどうかの判断を
「俺基準」で語りだす。
芦原将軍とかも同じだったらしい。
教科書に載るレベルのわかりやすい病人。
だから社会でもやっていけてないわけだ。
医学知識もないのに病気かどうかの判断を
「俺基準」で語りだす。
芦原将軍とかも同じだったらしい。
教科書に載るレベルのわかりやすい病人。
だから社会でもやっていけてないわけだ。
実際、ニートの何割かは統合失調症の可能性が高くて
ただ自覚がない病気のために、自分で折り合いをつけて仕事を見つけるとか
あるいは通院する、ないし社会復帰するまでに保護を受けるといった
現実的な対応ができないでいる。
そういう人らを助けようとする団体もあるけど、
当人はもちろん、家族も病気に対する理解がないから
あまり協力的でなくて苦労するそうだ。
ただ自覚がない病気のために、自分で折り合いをつけて仕事を見つけるとか
あるいは通院する、ないし社会復帰するまでに保護を受けるといった
現実的な対応ができないでいる。
そういう人らを助けようとする団体もあるけど、
当人はもちろん、家族も病気に対する理解がないから
あまり協力的でなくて苦労するそうだ。
定義:
・犯罪意志に即した精神異常≡A
・世間一般的に言われる精神異常≡B
・警戒や矯正や排除を必要とする精神異常≡C
上記の定義に即した場合、以下の法則が成り立つ。
法則:
・A⊂B (AはBの一部である)
・A⇔C (AとCは等しい)
・[B∩A´]¬C (BかつAでないものはCではない)
結局、犯罪意志に即した精神異常のみが、警戒や矯正や排除をも必要としているのであり、
ちょっと言行がおかしいだの、世捨て人らしいだのの理由だけで精神異常扱いしたりする必要はなく、
仮りにしたとしても、それが警戒や矯正や排除をも必要とするほどの精神異常なわけではない。
社会適合力がないことよりも、他者に危害を加えてでも自分が利益を得ようとすることのほうが
世の中に対する害悪度も遥かに高いのだから、社会適合云々に基づく以上にも、
犯罪意志の有無に基づく精神異常こそを警戒や矯正や排除の対象とすべきでもある。
・犯罪意志に即した精神異常≡A
・世間一般的に言われる精神異常≡B
・警戒や矯正や排除を必要とする精神異常≡C
上記の定義に即した場合、以下の法則が成り立つ。
法則:
・A⊂B (AはBの一部である)
・A⇔C (AとCは等しい)
・[B∩A´]¬C (BかつAでないものはCではない)
結局、犯罪意志に即した精神異常のみが、警戒や矯正や排除をも必要としているのであり、
ちょっと言行がおかしいだの、世捨て人らしいだのの理由だけで精神異常扱いしたりする必要はなく、
仮りにしたとしても、それが警戒や矯正や排除をも必要とするほどの精神異常なわけではない。
社会適合力がないことよりも、他者に危害を加えてでも自分が利益を得ようとすることのほうが
世の中に対する害悪度も遥かに高いのだから、社会適合云々に基づく以上にも、
犯罪意志の有無に基づく精神異常こそを警戒や矯正や排除の対象とすべきでもある。
バビロンでイラク人に拘留された怨みにかられて、古代ユダヤ人も犯罪意志まみれの旧約聖書を編纂したのだろうし、
娼婦の私生児として生まれてしまった怨みを糧に、イエスも世界を破滅に陥れるような犯罪意志の寓意を触れ回ったのだろう。
だからといって、「他者に幽閉された」だとか「娼婦の私生児として産まれた」とかいった境遇が
必ずしも犯罪意志に結びつくのではなく、殷紂に不当な幽閉措置を強制されつつも、文王は冷静に「易経」の卦辞を書いたし、
妾腹の子として父親の居場所も知らないままに母方の家で生まれ育った孔子もまた、大道徳者として大成している。
犯罪意志を抱く側の人間が、どのような境遇に置かれていたかということは、正直他人にとってはどうでもいい話であり、
ただ犯罪意志に即して精神異常となって、犯罪をやらかしたり精神病を振りまいたりすることが迷惑であるだけのこと。
社会的成功者であるとか、社会的不適合者であるとかいった境遇とは無関係に、犯罪意志を抱いてそこから犯罪行為や
精神病を派生することだけが突出して問題なのであり、それ以外の部分を問題扱いするのは、全くの大きなお世話でしかない。
「葛藟は緜緜と、河の涘なる。
終に兄弟に遠ざかり、他人を母と謂う。
他人を母と謂えども、亦た我を有しむ莫し」
「葛のつるが綿々と生い茂る河のほとりで、兄弟姉妹からも遠ざかり、他人を母と呼ぶ。
他人を母などと呼んだところで、誰も親しくなどはしてくれないのに」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・葛藟より)
娼婦の私生児として生まれてしまった怨みを糧に、イエスも世界を破滅に陥れるような犯罪意志の寓意を触れ回ったのだろう。
だからといって、「他者に幽閉された」だとか「娼婦の私生児として産まれた」とかいった境遇が
必ずしも犯罪意志に結びつくのではなく、殷紂に不当な幽閉措置を強制されつつも、文王は冷静に「易経」の卦辞を書いたし、
妾腹の子として父親の居場所も知らないままに母方の家で生まれ育った孔子もまた、大道徳者として大成している。
犯罪意志を抱く側の人間が、どのような境遇に置かれていたかということは、正直他人にとってはどうでもいい話であり、
ただ犯罪意志に即して精神異常となって、犯罪をやらかしたり精神病を振りまいたりすることが迷惑であるだけのこと。
社会的成功者であるとか、社会的不適合者であるとかいった境遇とは無関係に、犯罪意志を抱いてそこから犯罪行為や
精神病を派生することだけが突出して問題なのであり、それ以外の部分を問題扱いするのは、全くの大きなお世話でしかない。
「葛藟は緜緜と、河の涘なる。
終に兄弟に遠ざかり、他人を母と謂う。
他人を母と謂えども、亦た我を有しむ莫し」
「葛のつるが綿々と生い茂る河のほとりで、兄弟姉妹からも遠ざかり、他人を母と呼ぶ。
他人を母などと呼んだところで、誰も親しくなどはしてくれないのに」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・葛藟より)
バビロン捕囚中にユダヤ人が旧約を作文したように、文王も幽閉中に「易経」の卦辞を書いているし、
娼婦の私生児として産まれた鬱憤をイエスが奇行のバネにしたように、孔子も妾腹の子である不遇をバネに勉学に励んだ。
武帝に宮刑に処された司馬遷も、「文学的業績は本人の社会的不遇から生まれる」と「史記」太史公自序で述べているが、
確かに孤臣孽子であるような不遇の鬱憤が、文学的な創作活動に振り向けられることは確かなようだ。
しかし、不遇者である鬱憤をバネに善言善行に励む場合もあれば、かえって悪言悪行を推し進める場合もある。
文王や孔子の業績は前者である一方、古代ユダヤ人やイエスの業績は後者に当たる。
鬱憤の中にも精神性を健全に保ち、善徳の修習という方向性を崩さなかったか、鬱憤のせいで精神をも歪めてしまい、
「毒食わば皿まで」の罪悪の積重に及んでしまったかが、両者の業績の優劣良悪を分かつ結果となった。
「天に自り命有りて、此の文王に命じたまう。周における京において、纘き女は維れ莘より。
長子に維れ行きて、篤に武王を生みたまう。保右し命じて、大商を燮伐す」
「天がかの文王に命じたまいて、周の宮廷において、莘より嫁いだ婦女とまぐわいて、
ここに武王が生まれた。天が文王を保護佑助したことにより、かの大殷までをも放伐するに至った」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・大明より)
娼婦の私生児として産まれた鬱憤をイエスが奇行のバネにしたように、孔子も妾腹の子である不遇をバネに勉学に励んだ。
武帝に宮刑に処された司馬遷も、「文学的業績は本人の社会的不遇から生まれる」と「史記」太史公自序で述べているが、
確かに孤臣孽子であるような不遇の鬱憤が、文学的な創作活動に振り向けられることは確かなようだ。
しかし、不遇者である鬱憤をバネに善言善行に励む場合もあれば、かえって悪言悪行を推し進める場合もある。
文王や孔子の業績は前者である一方、古代ユダヤ人やイエスの業績は後者に当たる。
鬱憤の中にも精神性を健全に保ち、善徳の修習という方向性を崩さなかったか、鬱憤のせいで精神をも歪めてしまい、
「毒食わば皿まで」の罪悪の積重に及んでしまったかが、両者の業績の優劣良悪を分かつ結果となった。
「天に自り命有りて、此の文王に命じたまう。周における京において、纘き女は維れ莘より。
長子に維れ行きて、篤に武王を生みたまう。保右し命じて、大商を燮伐す」
「天がかの文王に命じたまいて、周の宮廷において、莘より嫁いだ婦女とまぐわいて、
ここに武王が生まれた。天が文王を保護佑助したことにより、かの大殷までをも放伐するに至った」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・大明より)
上記の引用では「天が文王に命じて」と言っているが、文王もまた、古公亶父のような
偉大な祖父(もしくは曽祖父とされる)を持っていたからこそ、聖王になることができた。
その文王の息子である武王や周公が偉業を成せたのも、もちろん父祖の功績に根ざしている。
そして武王もまた、自らが殷紂の放伐に取り掛かることを天命に付託して革命に及んだ。
実に、天命とは、父祖からの代々の業績の受け継ぎや積み重ねによってこそ賜るものであり、
自分だけでなく、ご先祖さまからの命運の継承によってこそ生じるものである。
父親が本当は誰であるかも分からず、母親もいち娼婦の身分に過ぎなかったイエスなどが、
天主の命を受けたなどというのは、詭弁にもほどがある偽証であり、完全なイエス自身の
身勝手な物言いだったことが明らか。だからといってイエスに一切の天命が任され得なかった
のかといえばそうでもなく、イエスと同じように父系からの非認知児として産まれた孔子が、
学問所の設置や、経書の研究やその整理といった学問事業に励んだように、血統を誇れない者
なりの隙間事業に参画することもできたわけで、父も知れず、母も娼婦だった、恵まれない
境遇こそを天命の根拠などにした妄言妄動、悪言悪行に走ることだけは許されなかった。
偉大な祖父(もしくは曽祖父とされる)を持っていたからこそ、聖王になることができた。
その文王の息子である武王や周公が偉業を成せたのも、もちろん父祖の功績に根ざしている。
そして武王もまた、自らが殷紂の放伐に取り掛かることを天命に付託して革命に及んだ。
実に、天命とは、父祖からの代々の業績の受け継ぎや積み重ねによってこそ賜るものであり、
自分だけでなく、ご先祖さまからの命運の継承によってこそ生じるものである。
父親が本当は誰であるかも分からず、母親もいち娼婦の身分に過ぎなかったイエスなどが、
天主の命を受けたなどというのは、詭弁にもほどがある偽証であり、完全なイエス自身の
身勝手な物言いだったことが明らか。だからといってイエスに一切の天命が任され得なかった
のかといえばそうでもなく、イエスと同じように父系からの非認知児として産まれた孔子が、
学問所の設置や、経書の研究やその整理といった学問事業に励んだように、血統を誇れない者
なりの隙間事業に参画することもできたわけで、父も知れず、母も娼婦だった、恵まれない
境遇こそを天命の根拠などにした妄言妄動、悪言悪行に走ることだけは許されなかった。
他者を侮ることは、もちろん道徳的には全くよろしくないこととされており、
四書五経中にも「恭者は人を侮らず(孟子・離婁章句上・一六)」などの、侮蔑を否定する言葉が数多くある。
しかし、武経七書中の「尉繚子」攻權第五には「侮らるる者は敗れ、威を立つる者は勝つ」などともあり、
善悪とは間をおいた勝負の場においては、侮られることなく侮り、威を畏れることなく畏れせしめることが鍵になるとする。
侮ったり侮られたりの貶め合いからして、ないのが一番だが、勝ち負けを競う中には侮り尽くすことが重要となる。
そしてすでに侮られていることは敗北の呼び水であり、侮られ通しであるからには十中九十完敗となるが必定である。
相手が自分の根本を侮っていて、自分は相手の表層しか侮れていなかったりするのなら、すでに負けたも同然である。
「格れ、汝ら衆よ、予れ汝に告げ、汝に猷を訓えん。乃らの心を黜け、傲りて康きに從う無かれ。
(中略)今汝ら聒聒として、信を険膚に興す、予れ乃らの訟える所を知らず」
「来たれ、汝ら衆人どもよ、今から私がおまえらに告げて、正しい道を教えよう。
おまえら自身の支配者に対抗しようとする思い上がった心を退け、傲慢に思いのままに振る舞ったりするな。
今おまえらはヘラヘラとして、不用意に険を冒すことや、薄っぺらい皮相上の物事ばかりを信じ込んでいる。
私はそのような衆愚然とした、おまえらの訴えることなどに耳を貸す気はない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚上より)
四書五経中にも「恭者は人を侮らず(孟子・離婁章句上・一六)」などの、侮蔑を否定する言葉が数多くある。
しかし、武経七書中の「尉繚子」攻權第五には「侮らるる者は敗れ、威を立つる者は勝つ」などともあり、
善悪とは間をおいた勝負の場においては、侮られることなく侮り、威を畏れることなく畏れせしめることが鍵になるとする。
侮ったり侮られたりの貶め合いからして、ないのが一番だが、勝ち負けを競う中には侮り尽くすことが重要となる。
そしてすでに侮られていることは敗北の呼び水であり、侮られ通しであるからには十中九十完敗となるが必定である。
相手が自分の根本を侮っていて、自分は相手の表層しか侮れていなかったりするのなら、すでに負けたも同然である。
「格れ、汝ら衆よ、予れ汝に告げ、汝に猷を訓えん。乃らの心を黜け、傲りて康きに從う無かれ。
(中略)今汝ら聒聒として、信を険膚に興す、予れ乃らの訟える所を知らず」
「来たれ、汝ら衆人どもよ、今から私がおまえらに告げて、正しい道を教えよう。
おまえら自身の支配者に対抗しようとする思い上がった心を退け、傲慢に思いのままに振る舞ったりするな。
今おまえらはヘラヘラとして、不用意に険を冒すことや、薄っぺらい皮相上の物事ばかりを信じ込んでいる。
私はそのような衆愚然とした、おまえらの訴えることなどに耳を貸す気はない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚上より)
経書ではないが、諸子百家中の「荀子」や「列子」に、珍しく孔子が死を語るエピソードが出てくる。
子貢が学問に倦み疲れて休暇を欲する。「これこれこのような生活を送りながら休息したいのですが」という風に、
勉学以外の色々な生活手段を挙げて孔子に問うのだが、どの生活にも少なからず労苦が伴うということを
実例を挙げつつ孔子が論駁する。ほとほと困り果てた子貢が、「では、人に休息の場はないのでしょうか」
と問えば、孔子は高々と盛り立てられた墓土を指して、「あそこでその答えが分かるだろう」と言った。
子貢は「ああ、偉大なる死よ。君子も小人も、誰もがあそこで休息に至るのだ」と嘆息した。
人として生きていく以上は、何らかの労苦が伴う。心の労苦もあれば、肉体の労苦もある。
生きている間中ずっとその労苦は続き、死に至ることで初めて、完全で永久な休息にあずかる。
だからこそ、生きている間に精一杯労苦に励んで、死に至るに及んでの悔いを残さないようにするというのが
儒家の勤労志向の根拠である一方で、どんな生き方をすれども結局は死によって休息できることを諦観するのが道家。
「生は労苦である一方で、死こそは休息の場」であるという見解だけは一致しており、誰しもの死を悪行の正当化材料に
用いるどころか、善行や無為自然に努める上での相応の褒美ですらあると受け止めている。善人こそは存命中に精一杯の
労苦をこなすことで安らかな死に与る一方で、悪人こそは放辟邪侈を強制終了させられる死を自業自得で苦しむのだから。
「齊の景公、馬千駟有り。死するの日、民鄹を稱すること無し。伯夷叔齊首陽の下に餓う。民今に到るまで之れを稱す」
「斉の景公は四頭だての馬車千台を持つほどもの栄華を誇ったが、死んでからその徳を称える者は一人もいなかった。
(放伐革命を忌んで周を捨てた)伯夷と叔斉は首陽山で貧窮の中に餓死したが、民は今でもその徳を称えている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・一二より)
子貢が学問に倦み疲れて休暇を欲する。「これこれこのような生活を送りながら休息したいのですが」という風に、
勉学以外の色々な生活手段を挙げて孔子に問うのだが、どの生活にも少なからず労苦が伴うということを
実例を挙げつつ孔子が論駁する。ほとほと困り果てた子貢が、「では、人に休息の場はないのでしょうか」
と問えば、孔子は高々と盛り立てられた墓土を指して、「あそこでその答えが分かるだろう」と言った。
子貢は「ああ、偉大なる死よ。君子も小人も、誰もがあそこで休息に至るのだ」と嘆息した。
人として生きていく以上は、何らかの労苦が伴う。心の労苦もあれば、肉体の労苦もある。
生きている間中ずっとその労苦は続き、死に至ることで初めて、完全で永久な休息にあずかる。
だからこそ、生きている間に精一杯労苦に励んで、死に至るに及んでの悔いを残さないようにするというのが
儒家の勤労志向の根拠である一方で、どんな生き方をすれども結局は死によって休息できることを諦観するのが道家。
「生は労苦である一方で、死こそは休息の場」であるという見解だけは一致しており、誰しもの死を悪行の正当化材料に
用いるどころか、善行や無為自然に努める上での相応の褒美ですらあると受け止めている。善人こそは存命中に精一杯の
労苦をこなすことで安らかな死に与る一方で、悪人こそは放辟邪侈を強制終了させられる死を自業自得で苦しむのだから。
「齊の景公、馬千駟有り。死するの日、民鄹を稱すること無し。伯夷叔齊首陽の下に餓う。民今に到るまで之れを稱す」
「斉の景公は四頭だての馬車千台を持つほどもの栄華を誇ったが、死んでからその徳を称える者は一人もいなかった。
(放伐革命を忌んで周を捨てた)伯夷と叔斉は首陽山で貧窮の中に餓死したが、民は今でもその徳を称えている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・一二より)
「詩経」七月でも「昼は茅を採り、夜は縄をなえ。屋根の茅葺きも急がないと、もうすぐ種まきも始まるぞ」という風に、
産業階級の庶民が、自分たちの領分をわきまえた仕事に専念することを奨励しているし、支配階級も支配階級で、民の教化などの
自分たちの仕事に励まなければならないことが以下の「孟子」の言葉などとしても提示されている。にもかかわらず、
五穀を実らせることに対しても傍観的であり、民を生育することにかけても他力本願であるもの、産業階級としても支配階級としても
己れの領分をわきまえることなく、心身ともなる怠惰に終始しようとするもの、檻の中で飼育すべき禽獣にも等しいものだ。
「后稷は民に稼穡を教え、五穀を樹藝う。五穀熟して民人育す。人の道有るや、飽食煖衣、逸居して
教うることなければ、則ち禽獸に近し。聖人之れを憂えて、契を使いして司徒たらしめ、教うるに人倫を以てし、
父子親有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼序有り、朋友信有らしむ。放勳日ごとに之を勞い之を來し、之を匡し之を直くし、
之を輔け之を翼けて、自得せしめ、又從いて之を振い鄹む。聖人の民を憂うること此くの如し。而に耕すに暇あらんや」
「舜の時代、農務官の后稷が民に農業の仕方を教えて、五穀を植え付けさせた。五穀はよく実って、人民もよく生育するようになった。
しかし、人の世の常として、衣食が足りて安逸でいられるようになっても十分な教育を受けないでいれば、禽獣も同然のままでいる。
そのため舜帝は契という者を教育官にして、民に人としてのあり方を教育させた。父子に親があり、君臣に義があり、夫婦に別があり、
長幼に序があり、朋友に信がある天下の達道に基づいて民を感化した。すでに舜帝に位を譲っていた堯も日ごとに民をねぎらい励まし、
時に正して真っ直ぐにさせ、補助翼賛もして、民が自ずから徳性を育むように仕向ける一方で、自らの恵みによっても救いとって
やっていた。聖人はこのように、自分たちの工夫で民を具体的に救い上げていくことに余念がないので、自らが耕す暇もないほどだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・四より)
産業階級の庶民が、自分たちの領分をわきまえた仕事に専念することを奨励しているし、支配階級も支配階級で、民の教化などの
自分たちの仕事に励まなければならないことが以下の「孟子」の言葉などとしても提示されている。にもかかわらず、
五穀を実らせることに対しても傍観的であり、民を生育することにかけても他力本願であるもの、産業階級としても支配階級としても
己れの領分をわきまえることなく、心身ともなる怠惰に終始しようとするもの、檻の中で飼育すべき禽獣にも等しいものだ。
「后稷は民に稼穡を教え、五穀を樹藝う。五穀熟して民人育す。人の道有るや、飽食煖衣、逸居して
教うることなければ、則ち禽獸に近し。聖人之れを憂えて、契を使いして司徒たらしめ、教うるに人倫を以てし、
父子親有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼序有り、朋友信有らしむ。放勳日ごとに之を勞い之を來し、之を匡し之を直くし、
之を輔け之を翼けて、自得せしめ、又從いて之を振い鄹む。聖人の民を憂うること此くの如し。而に耕すに暇あらんや」
「舜の時代、農務官の后稷が民に農業の仕方を教えて、五穀を植え付けさせた。五穀はよく実って、人民もよく生育するようになった。
しかし、人の世の常として、衣食が足りて安逸でいられるようになっても十分な教育を受けないでいれば、禽獣も同然のままでいる。
そのため舜帝は契という者を教育官にして、民に人としてのあり方を教育させた。父子に親があり、君臣に義があり、夫婦に別があり、
長幼に序があり、朋友に信がある天下の達道に基づいて民を感化した。すでに舜帝に位を譲っていた堯も日ごとに民をねぎらい励まし、
時に正して真っ直ぐにさせ、補助翼賛もして、民が自ずから徳性を育むように仕向ける一方で、自らの恵みによっても救いとって
やっていた。聖人はこのように、自分たちの工夫で民を具体的に救い上げていくことに余念がないので、自らが耕す暇もないほどだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・四より)
ことに、資本主義先進国の人間のうちでは、まだ偉大なほうのうちに入る我が親だ。
何をやったって外国人への強盗リンチ殺人行為にしかならないほどにも、物価も所得水準も桁外れな世の中で、
我が子がなるべく行為能力を行使せずに済ませようとしていることを支援してくれているのだから、
たとえ自分たち自身は強盗殺人級の犯罪行為に手を染め続けているのであっても、そこそこの罪滅ぼしにはなっている。
その功徳は、資本主義国の放辟邪侈がいよいよ行き詰って、ムスリムや中国に対して破産申請を申し立てようという時に、
中国人などによる本土占領込みの日本に対する実効支配という事態を回避できるなどといった形で現れることだろう。
わざわざ中国人やムスリムの手を直接に借りるまでもなく、自分たち日本人だけで国内の権力犯罪処分を行き届かせる。
行為能力の自主制限によって権力犯罪の自己責任を最低限に控えて来た俺などが、まさにその処分の執行人ともなるから、
日本本土の直接占領なども回避できる可能性が高い。なんと偉大な、我が両親の功徳であることか。
何をやったって外国人への強盗リンチ殺人行為にしかならないほどにも、物価も所得水準も桁外れな世の中で、
我が子がなるべく行為能力を行使せずに済ませようとしていることを支援してくれているのだから、
たとえ自分たち自身は強盗殺人級の犯罪行為に手を染め続けているのであっても、そこそこの罪滅ぼしにはなっている。
その功徳は、資本主義国の放辟邪侈がいよいよ行き詰って、ムスリムや中国に対して破産申請を申し立てようという時に、
中国人などによる本土占領込みの日本に対する実効支配という事態を回避できるなどといった形で現れることだろう。
わざわざ中国人やムスリムの手を直接に借りるまでもなく、自分たち日本人だけで国内の権力犯罪処分を行き届かせる。
行為能力の自主制限によって権力犯罪の自己責任を最低限に控えて来た俺などが、まさにその処分の執行人ともなるから、
日本本土の直接占領なども回避できる可能性が高い。なんと偉大な、我が両親の功徳であることか。
昔、法然の門下で親鸞(当時の名は善信)を含む弟子たちがある問答を行った。
阿弥陀様への信仰と、信仰のための行ないのうちのいずれかを捨てなければならないとすれば、どちらを捨てるかと。
信仰を捨てる「行不退」の側にほぼ全ての弟子が付いた一方で、親鸞こと善信だけが行を捨てる「信不退」の側に付いた。
「私の行ないは法然さまに到底及ばないが、私の信仰だけは法然さまとも同じものだから、信は捨てられない」と。
法然もこの親鸞の言葉に納得し、信不退の側に賛同する立場を取った。
行いをも超えた信仰というものが本当に通せるんなら、それはそれで一つの「聖」ともなるのかも知れないが、
その場合には、あらゆる行いを超えなければならないから、善行も悪行も超えなければならない。
仁義や礼智の下に信を置く、自力の善行志向である儒家の行いも超えなければならない一方で、
行いが悪行に結びつくことを信で正当化したりしてもいけない。そんな不純な動機で嗜まれた信などは、
いざあらゆる悪行が禁止されて、我田引水が厳重に取り締まられるようになれば、あっという間に捨て去られる。
悪行を正当化するための信などは、悪行による利得に依存した信でしかないから、行を捨ててでも信不退で
あろうとした親鸞聖人のような純粋さには決して即していない。あくまでそれは、不純な信仰でしかない。
「昔者子貢、孔子に問うて曰く、夫子は聖なるか。孔子曰く、聖は則ち吾れ能わず、我れ學びて
厭わず、教えて倦まざるのみ。子貢曰く、學びて厭わざるは、智なり。教えて倦まざるは、仁なり。
仁にして且つ智ならば、夫子は既に聖なり。夫れ聖は、孔子も居たまわざるに、是れ何の言ぞや」
「昔子貢が孔子に問うた。『先生は聖人でありましょうか』 孔子は答えた。『なぜ聖人などであろうか。
私はただ学ぶことを厭わず、教えることを倦まないでいるのみだ』 子貢は言った。『学ぶことを厭わないのは
智者だからであり、教えて倦まないのは仁者だからです。智者にして仁者である先生はすでに聖人であります』
自分が聖人であるなどということは、孔子ですら自認しなかったのに、自らを聖なる者扱いするとは、何の言ぞや」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・二より)
阿弥陀様への信仰と、信仰のための行ないのうちのいずれかを捨てなければならないとすれば、どちらを捨てるかと。
信仰を捨てる「行不退」の側にほぼ全ての弟子が付いた一方で、親鸞こと善信だけが行を捨てる「信不退」の側に付いた。
「私の行ないは法然さまに到底及ばないが、私の信仰だけは法然さまとも同じものだから、信は捨てられない」と。
法然もこの親鸞の言葉に納得し、信不退の側に賛同する立場を取った。
行いをも超えた信仰というものが本当に通せるんなら、それはそれで一つの「聖」ともなるのかも知れないが、
その場合には、あらゆる行いを超えなければならないから、善行も悪行も超えなければならない。
仁義や礼智の下に信を置く、自力の善行志向である儒家の行いも超えなければならない一方で、
行いが悪行に結びつくことを信で正当化したりしてもいけない。そんな不純な動機で嗜まれた信などは、
いざあらゆる悪行が禁止されて、我田引水が厳重に取り締まられるようになれば、あっという間に捨て去られる。
悪行を正当化するための信などは、悪行による利得に依存した信でしかないから、行を捨ててでも信不退で
あろうとした親鸞聖人のような純粋さには決して即していない。あくまでそれは、不純な信仰でしかない。
「昔者子貢、孔子に問うて曰く、夫子は聖なるか。孔子曰く、聖は則ち吾れ能わず、我れ學びて
厭わず、教えて倦まざるのみ。子貢曰く、學びて厭わざるは、智なり。教えて倦まざるは、仁なり。
仁にして且つ智ならば、夫子は既に聖なり。夫れ聖は、孔子も居たまわざるに、是れ何の言ぞや」
「昔子貢が孔子に問うた。『先生は聖人でありましょうか』 孔子は答えた。『なぜ聖人などであろうか。
私はただ学ぶことを厭わず、教えることを倦まないでいるのみだ』 子貢は言った。『学ぶことを厭わないのは
智者だからであり、教えて倦まないのは仁者だからです。智者にして仁者である先生はすでに聖人であります』
自分が聖人であるなどということは、孔子ですら自認しなかったのに、自らを聖なる者扱いするとは、何の言ぞや」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・二より)
本人の主張とは相反して、孔子こそは聖人の第一として扱われている。
一方で、孔子と並ぶ儒家の雄である孟子は「亜聖」とされる。孔子がもはや聖人であるのに対し、
孔子よりも一歩引いた所にいるという意味での亜聖。ちょうど仏教の開祖である釈迦が仏として扱われるのに対し、
大乗仏教興隆の祖である龍樹が菩薩として扱われるのと同じ。菩薩もまた、仏に次ぐものとされているから。
しかし菩薩乗の聖典である般若経が、一仏乗の聖典である華厳経や法華経よりも莫大な分量に上るように、
孟子もまたその文言については、儒家の開祖である孔子自身以上にもより多くの発言や創作文を遺しており、
その弁証力も天下随一のものとなっている。にもかかわらず孟子は聖人孔子に次ぐ亜聖扱い。これはなぜかといえば、
一つには孔子のほうが儒家の開祖であり、孟子は二番煎じだったからというのがある。そしてもう一つは、
「若い頃から卑賤な境遇や苦境に置かれていたものこそは、文芸などで多大な功績を残す」という法則に孟子もまた即しているから。
「論語」子罕第九・六でも、孔子が多芸であることを指摘されて恥じ入り、「君子多ならんや、多ならざるなり」と自嘲気味に
述べる場面がある。その多芸さのおかげで、今にも孔子が編纂した五経などが遺されているわけだから、一概にその多芸さを否定する
わけにもいかない。ただ、孔子は多芸が卑賤の証拠であることを恥じて、五経の自作部分を「易経」繋辞伝などのごく一部に
止めたのに対し、孟子は相当に創作的な自己主張の発言などを多々残しており、孔子以上にも多芸さを披露し尽くしたきらいがある。
そこは確かに孟子が孔子よりも劣る部分であり、その文言が秀逸であればこそ、現実上の苦境もまた相当なものであっただろう
ことがうかがえる。孔子が生きた春秋時代後期よりもさらに世相が荒廃した戦国時代中期に、権力道徳学者たる儒者の雄であったこと、
その徒労さ加減たるや想像を絶するものだったに違いないが、孟子もまた天を怨まず、人を咎めぬ心境でいたのだろうか。
一方で、孔子と並ぶ儒家の雄である孟子は「亜聖」とされる。孔子がもはや聖人であるのに対し、
孔子よりも一歩引いた所にいるという意味での亜聖。ちょうど仏教の開祖である釈迦が仏として扱われるのに対し、
大乗仏教興隆の祖である龍樹が菩薩として扱われるのと同じ。菩薩もまた、仏に次ぐものとされているから。
しかし菩薩乗の聖典である般若経が、一仏乗の聖典である華厳経や法華経よりも莫大な分量に上るように、
孟子もまたその文言については、儒家の開祖である孔子自身以上にもより多くの発言や創作文を遺しており、
その弁証力も天下随一のものとなっている。にもかかわらず孟子は聖人孔子に次ぐ亜聖扱い。これはなぜかといえば、
一つには孔子のほうが儒家の開祖であり、孟子は二番煎じだったからというのがある。そしてもう一つは、
「若い頃から卑賤な境遇や苦境に置かれていたものこそは、文芸などで多大な功績を残す」という法則に孟子もまた即しているから。
「論語」子罕第九・六でも、孔子が多芸であることを指摘されて恥じ入り、「君子多ならんや、多ならざるなり」と自嘲気味に
述べる場面がある。その多芸さのおかげで、今にも孔子が編纂した五経などが遺されているわけだから、一概にその多芸さを否定する
わけにもいかない。ただ、孔子は多芸が卑賤の証拠であることを恥じて、五経の自作部分を「易経」繋辞伝などのごく一部に
止めたのに対し、孟子は相当に創作的な自己主張の発言などを多々残しており、孔子以上にも多芸さを披露し尽くしたきらいがある。
そこは確かに孟子が孔子よりも劣る部分であり、その文言が秀逸であればこそ、現実上の苦境もまた相当なものであっただろう
ことがうかがえる。孔子が生きた春秋時代後期よりもさらに世相が荒廃した戦国時代中期に、権力道徳学者たる儒者の雄であったこと、
その徒労さ加減たるや想像を絶するものだったに違いないが、孟子もまた天を怨まず、人を咎めぬ心境でいたのだろうか。
「匡章曰く、陳仲子は豈に誠の廉士ならずや。於陵に居り、三日食らわず、耳に聞こえる無く、目に見える無し。
井上に李有り、螬實を食らうこと半ばに過ぎたり、匍匐して往きて之を食らい、三くち咽みて、然る後に耳聞こえる有り、目見える有り。
孟子曰く、齊國の士に於いては、吾れ必ず仲子を以て巨擘と為さん。然れども、仲子惡んぞ能く廉ならん。仲子の操を充たさんとせば、
則ち蚓にして後可なる者なり。夫れ蚓は、上槁壤を食らい、下黄泉を飲む。仲子居る所の室は、伯夷の築ける所か、抑いは亦た
盜跖の築ける所か、食う所の粟は、伯夷の樹えたる所か、抑いは亦た盜跖の樹えたる所か、是れ未だ知るべからざるなり」
「斉国の匡章という者がいった。『まったく、陳仲子こそは真の清廉の士といえるものです。彼は名家に生まれながら、
実家の世話になることを嫌って家を飛び出し、於陵に至った頃には、三日食うものに与れず、もはや耳も聞こえず、目も見えなく
なっていたそうです。道端に半分ほども虫食いで欠けた李の実があったために、匍匐してその近くに寄り、その実にかぶりついて
三口味わった後にやっと耳も聞こえ、目も見えるようになったそうです』 これを聞いて孟子は言った。『確かに(戦乱状態の当時の)
斉国のうちで、陳仲子が清廉の部類に入ることは私も認めよう。しかし、その程度で真に清廉潔白の士であるなどとはまだ言えない。
仲子が本当に清廉を貫くのであれば、それこそミミズにでもなるべきだった。ミミズは土を食らい、泥水を飲んで生き延びる。
仲子が李を食べた場所は、伯夷のような聖人の開いた所だったか、それとも盗跖のような悪人の開いた所だったか。食べていた
ものは伯夷のような聖人の作物だったか、盗跖のような悪人の作物だったか、それもまだ分からないではないか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・一〇より)
井上に李有り、螬實を食らうこと半ばに過ぎたり、匍匐して往きて之を食らい、三くち咽みて、然る後に耳聞こえる有り、目見える有り。
孟子曰く、齊國の士に於いては、吾れ必ず仲子を以て巨擘と為さん。然れども、仲子惡んぞ能く廉ならん。仲子の操を充たさんとせば、
則ち蚓にして後可なる者なり。夫れ蚓は、上槁壤を食らい、下黄泉を飲む。仲子居る所の室は、伯夷の築ける所か、抑いは亦た
盜跖の築ける所か、食う所の粟は、伯夷の樹えたる所か、抑いは亦た盜跖の樹えたる所か、是れ未だ知るべからざるなり」
「斉国の匡章という者がいった。『まったく、陳仲子こそは真の清廉の士といえるものです。彼は名家に生まれながら、
実家の世話になることを嫌って家を飛び出し、於陵に至った頃には、三日食うものに与れず、もはや耳も聞こえず、目も見えなく
なっていたそうです。道端に半分ほども虫食いで欠けた李の実があったために、匍匐してその近くに寄り、その実にかぶりついて
三口味わった後にやっと耳も聞こえ、目も見えるようになったそうです』 これを聞いて孟子は言った。『確かに(戦乱状態の当時の)
斉国のうちで、陳仲子が清廉の部類に入ることは私も認めよう。しかし、その程度で真に清廉潔白の士であるなどとはまだ言えない。
仲子が本当に清廉を貫くのであれば、それこそミミズにでもなるべきだった。ミミズは土を食らい、泥水を飲んで生き延びる。
仲子が李を食べた場所は、伯夷のような聖人の開いた所だったか、それとも盗跖のような悪人の開いた所だったか。食べていた
ものは伯夷のような聖人の作物だったか、盗跖のような悪人の作物だったか、それもまだ分からないではないか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・一〇より)
キリシタンは表向きは他力本願なようでいて、その実全く他力本願ではなく、
自力の悪行によって莫大な富を収奪し、自分たちこそは世界を滅亡に追いやる規模の
過剰軍備を敷いて、全世界を恫喝によって脅かすテロリスト集団とも化している。
だからこそ今の所、裕福ともなっている。自力の悪行によって、多大なる人々を貧窮や餓死や
戦乱や戦死に追いやりつつ、自分たちだけで地球上の八割以上の資源を独占し続けているから。
それは全くキリシタンどもの自己責任であり、自業自得によって懲罰を被るべきものでもある。
ただ、その懲罰を科す側がキリシタンの自己流ペースに取り込まれて、感情にかられた刑罰などに
及んではならない。書経に「慎みて天の罰を行なう(甘誓)」ともある通り、あくまで天罰を代行する
心持ちで、謹んで権力犯罪カルトへの懲罰を執行する。ほんの少しでも自己流の裁決や懲罰を行なったなら、
罪も病も自己判断であったことやなかったことにしてしまうカルト信者の側の、思う壺となる。
「戎いなる毒を遠邇に畏れず。惰農自から安んじ、作勞を昏めず、田畝に服せざれば、越に其れ黍稷有ること罔けん」
「後々大きな災いに遭うことも恐れぬ。ちょうど怠惰な農夫が安楽ばかりを貪って農作に労苦せず、田畑にも出よう
とすらしないでいれば、何らの穀物も収穫できないように。(農作にも根ざした大社会の自業自得性のわきまえ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚上より)
自力の悪行によって莫大な富を収奪し、自分たちこそは世界を滅亡に追いやる規模の
過剰軍備を敷いて、全世界を恫喝によって脅かすテロリスト集団とも化している。
だからこそ今の所、裕福ともなっている。自力の悪行によって、多大なる人々を貧窮や餓死や
戦乱や戦死に追いやりつつ、自分たちだけで地球上の八割以上の資源を独占し続けているから。
それは全くキリシタンどもの自己責任であり、自業自得によって懲罰を被るべきものでもある。
ただ、その懲罰を科す側がキリシタンの自己流ペースに取り込まれて、感情にかられた刑罰などに
及んではならない。書経に「慎みて天の罰を行なう(甘誓)」ともある通り、あくまで天罰を代行する
心持ちで、謹んで権力犯罪カルトへの懲罰を執行する。ほんの少しでも自己流の裁決や懲罰を行なったなら、
罪も病も自己判断であったことやなかったことにしてしまうカルト信者の側の、思う壺となる。
「戎いなる毒を遠邇に畏れず。惰農自から安んじ、作勞を昏めず、田畝に服せざれば、越に其れ黍稷有ること罔けん」
「後々大きな災いに遭うことも恐れぬ。ちょうど怠惰な農夫が安楽ばかりを貪って農作に労苦せず、田畑にも出よう
とすらしないでいれば、何らの穀物も収穫できないように。(農作にも根ざした大社会の自業自得性のわきまえ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚上より)
罪の軽重ではなく、絶対的な罪の有無を尺度にするのなら、誰しもを裁きにかけるか、誰も裁かないかの二つに一つにしかなり得ない。
どんな人間でも多少の罪は犯しているが、特にその程度がひどい者を裁くという、罪の軽重を尺度とした裁決が現実的なものとなり、
性懲りもなく絶対的な罪の有無ばかりを尺度として押し通そうとするようなピューリタンは、全員閉鎖病棟に入ってもらおう。
「誰しもに少なからず罪はあるのだから、誰にも他者を裁く権利はない」の論理を押し通すことによって、かえって世の中を無秩序化して、
それぞれの罪に相応の罰を科す場合以上にも、戦乱や飢餓にまみれた地獄をもたらしている奴ら。潔癖症と不潔症とは紙一重であり、
両極に振れきって中正を欠くことこそは世の中を荒廃に導くのだから、不潔症と共に潔癖症もまた両成敗されなければならない。
「天子將に出征せんとすれば、上帝に類し、社に宜し、禰に造し、征する所の地に禡す。
命を祖に受け、成を學に受く。出征して有罪を執え反るときは、學に釋奠して、訊馘を以て告ぐ」
「天子が出征せんとする時には、必ず上帝の意向に沿い、社稷霊廟を設置して神祇を整え、出征地において軍法の神を祭る。
天命を父祖に受け、謀計は学知に受ける。出征後に罪ある者どもを捕らえ返ったならば、天命や学知を
与えてくださった先聖先師に崇敬の意を表し、討ち取った敵から切り取った耳の数を報告する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
どんな人間でも多少の罪は犯しているが、特にその程度がひどい者を裁くという、罪の軽重を尺度とした裁決が現実的なものとなり、
性懲りもなく絶対的な罪の有無ばかりを尺度として押し通そうとするようなピューリタンは、全員閉鎖病棟に入ってもらおう。
「誰しもに少なからず罪はあるのだから、誰にも他者を裁く権利はない」の論理を押し通すことによって、かえって世の中を無秩序化して、
それぞれの罪に相応の罰を科す場合以上にも、戦乱や飢餓にまみれた地獄をもたらしている奴ら。潔癖症と不潔症とは紙一重であり、
両極に振れきって中正を欠くことこそは世の中を荒廃に導くのだから、不潔症と共に潔癖症もまた両成敗されなければならない。
「天子將に出征せんとすれば、上帝に類し、社に宜し、禰に造し、征する所の地に禡す。
命を祖に受け、成を學に受く。出征して有罪を執え反るときは、學に釋奠して、訊馘を以て告ぐ」
「天子が出征せんとする時には、必ず上帝の意向に沿い、社稷霊廟を設置して神祇を整え、出征地において軍法の神を祭る。
天命を父祖に受け、謀計は学知に受ける。出征後に罪ある者どもを捕らえ返ったならば、天命や学知を
与えてくださった先聖先師に崇敬の意を表し、討ち取った敵から切り取った耳の数を報告する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
今だと中学一年の数学で最初に習う負数(マイナス符号の付いた数。-3とか-5とか)の扱い、
これを初めて考案したのが中国人らしいが、確かに中国人は、陰陽五行などにも即した
物事の正負を抽象的に捉える思考に長けている。たとえば
善いことをする>0
悪いことをする<0
何もしない=0
偉大である∝数が大きくなる
卑小である∝数が小さくなる
(∝は「比例する」の意)
とした場合、善いことはすればするほど大きな数となるから偉大となる一方で、悪いことはすればするほど
「大きな負数」、つまりより小さな数となるから卑小となる。何もしないことすら0であり、負数よりは
大きいから、一概に悪いことをして大きな負数=より小さな数を溜め込む場合よりは比較的、偉大となる。
こういった、中学数学程度の数理理解が普遍的に備わっているから、中国人なら、乱世には妄動を避ける
ことが賢明であることが十分にわきまえられる。一方で、西洋人や今の日本人などは、この程度の簡単な
数理理解すらも実践性に落とし込んで考えることができないために、善いことでも悪いことでもとにかく
何か大きなことすらやっていれば偉大になれるだなどという、数理に反した思い込みに陥っている。
とんでもなく高度な抽象数学などを構築してきている割には、実践面では中学数学程度の把握すら
伴っていない。実践性を完全に排除した洋学の弊害が、こんなところにも現れている。
「齊める大任、文王の母なる、周姜を媚みて、京室の婦なる。大姒徽音を嗣ぎ、斯に百の男をうむ。
宗公に恵いて、神も怨むところ罔く、神も恫むところ罔き。寡妻を刑して、兄弟に至り、以って家邦を御む」
「慎み深い任氏は、文王の母なる。姑の周姜をも慈しみ、宮廷の主婦となる。文王の后の大姒もその美音を継いで、
百をも数えるほど多くの男子を産んだ。宗廟の先公の意向にも従ったことであったために、神もこれを怨んだり、
咎めたりすることなかった。文王の法度はまず妻子に及び、兄弟に至って、ついには天下国家へと広がっていった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・思齊より)
これを初めて考案したのが中国人らしいが、確かに中国人は、陰陽五行などにも即した
物事の正負を抽象的に捉える思考に長けている。たとえば
善いことをする>0
悪いことをする<0
何もしない=0
偉大である∝数が大きくなる
卑小である∝数が小さくなる
(∝は「比例する」の意)
とした場合、善いことはすればするほど大きな数となるから偉大となる一方で、悪いことはすればするほど
「大きな負数」、つまりより小さな数となるから卑小となる。何もしないことすら0であり、負数よりは
大きいから、一概に悪いことをして大きな負数=より小さな数を溜め込む場合よりは比較的、偉大となる。
こういった、中学数学程度の数理理解が普遍的に備わっているから、中国人なら、乱世には妄動を避ける
ことが賢明であることが十分にわきまえられる。一方で、西洋人や今の日本人などは、この程度の簡単な
数理理解すらも実践性に落とし込んで考えることができないために、善いことでも悪いことでもとにかく
何か大きなことすらやっていれば偉大になれるだなどという、数理に反した思い込みに陥っている。
とんでもなく高度な抽象数学などを構築してきている割には、実践面では中学数学程度の把握すら
伴っていない。実践性を完全に排除した洋学の弊害が、こんなところにも現れている。
「齊める大任、文王の母なる、周姜を媚みて、京室の婦なる。大姒徽音を嗣ぎ、斯に百の男をうむ。
宗公に恵いて、神も怨むところ罔く、神も恫むところ罔き。寡妻を刑して、兄弟に至り、以って家邦を御む」
「慎み深い任氏は、文王の母なる。姑の周姜をも慈しみ、宮廷の主婦となる。文王の后の大姒もその美音を継いで、
百をも数えるほど多くの男子を産んだ。宗廟の先公の意向にも従ったことであったために、神もこれを怨んだり、
咎めたりすることなかった。文王の法度はまず妻子に及び、兄弟に至って、ついには天下国家へと広がっていった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・思齊より)
向こうは引用の重複が3巡目に入りつつあるな。
そろそろ連続コピペ荒らし認定も妥当なところだ。
こちらも既出の短文の引用を、長文の引用の一部分として再利用することなどはある。
単なる格言集からの引用に過ぎなかったようなものを、全文に渡って学び直している成長の現れなので、
それはまあ、よしとしてくれ。切れ切れの格言にも、全文の流れにも味わいがあるのが四書五経だから。
「文王曰く、ああ女(なんじ)殷商よ。而(なんじ)義類を秉い、彊禦して懟み多し。
流言には以て對え、寇攘は式て内る。侯れ作(詛)い侯れ祝(呪)い、屆み靡く究まり靡し」
「文王は言った。『ああ、殷の紂王よ。あなたは邪義を以て勝ち誇り、多くの怨みを買っている。
流言飛語にすら耳を貸し、火付盗賊すら仲間に入れる。呪詛されることどこまでも極まりない。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・蕩より)
そろそろ連続コピペ荒らし認定も妥当なところだ。
こちらも既出の短文の引用を、長文の引用の一部分として再利用することなどはある。
単なる格言集からの引用に過ぎなかったようなものを、全文に渡って学び直している成長の現れなので、
それはまあ、よしとしてくれ。切れ切れの格言にも、全文の流れにも味わいがあるのが四書五経だから。
「文王曰く、ああ女(なんじ)殷商よ。而(なんじ)義類を秉い、彊禦して懟み多し。
流言には以て對え、寇攘は式て内る。侯れ作(詛)い侯れ祝(呪)い、屆み靡く究まり靡し」
「文王は言った。『ああ、殷の紂王よ。あなたは邪義を以て勝ち誇り、多くの怨みを買っている。
流言飛語にすら耳を貸し、火付盗賊すら仲間に入れる。呪詛されることどこまでも極まりない。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・蕩より)
まあ、俺にもまだ出来ていないことだが、悪を誇るよりは善を誇り、
最終的には誇張全般を差し控える恭しさにまで達することを目的としている。
実質に反した賛美よりは即した賛美のほうが適当だが、賛美全般を控える所に真の恭しさがある。
「庸言之れ信にし、庸行之れ謹しみ、邪を閑ぎて其の誠を存し、世に善くして伐らず、鄹博くして化す」
「常日ごろの言葉から信実であり、常日ごろの行いから謹んで、邪義を防いで誠心を保ち続け、
世に善行を行ないながら誇ることがなく、その徳は天下万人を教化して余りある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾卦より)
最終的には誇張全般を差し控える恭しさにまで達することを目的としている。
実質に反した賛美よりは即した賛美のほうが適当だが、賛美全般を控える所に真の恭しさがある。
「庸言之れ信にし、庸行之れ謹しみ、邪を閑ぎて其の誠を存し、世に善くして伐らず、鄹博くして化す」
「常日ごろの言葉から信実であり、常日ごろの行いから謹んで、邪義を防いで誠心を保ち続け、
世に善行を行ないながら誇ることがなく、その徳は天下万人を教化して余りある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾卦より)
また三巡目の引用
「もうあんな連続コピペ荒らしのキ○ガイなんか相手にするな」という声も聞こえてきそうだが、
こっちもこっちで四書五経という、そんなに程度の高すぎない「ブービー賞の聖書」を
扱っているだけなので、目くそ鼻くその争いとして冷ややかに見守ってくれればいい。
ことに「やめてくれ」というのであれば、あっちがやめればこっちもやめるので、あっちに言うように。
ブービー賞ですらないビリッケツの聖書、犯罪聖書からの洗脳文章を撒き散らしてるほうに。
「其の君に禮ある者を見ては、之れに事うること、孝子の父母を養うが如くし、
其の君に禮無き者を見ては、之れを誅すること、如鷹鸇の鳥雀を逐が如くせよ」
「主君に対しても礼節ある者を見れば、孝行な子が実の父母を養うが如く敬い、
無礼者を見たときには、鷹や隼が小鳥や雀を追うように仮借なく罰を加えよ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・文公十八年より)
「もうあんな連続コピペ荒らしのキ○ガイなんか相手にするな」という声も聞こえてきそうだが、
こっちもこっちで四書五経という、そんなに程度の高すぎない「ブービー賞の聖書」を
扱っているだけなので、目くそ鼻くその争いとして冷ややかに見守ってくれればいい。
ことに「やめてくれ」というのであれば、あっちがやめればこっちもやめるので、あっちに言うように。
ブービー賞ですらないビリッケツの聖書、犯罪聖書からの洗脳文章を撒き散らしてるほうに。
「其の君に禮ある者を見ては、之れに事うること、孝子の父母を養うが如くし、
其の君に禮無き者を見ては、之れを誅すること、如鷹鸇の鳥雀を逐が如くせよ」
「主君に対しても礼節ある者を見れば、孝行な子が実の父母を養うが如く敬い、
無礼者を見たときには、鷹や隼が小鳥や雀を追うように仮借なく罰を加えよ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・文公十八年より)
キリストやゼウス(エホバ)が全知全能でもなんでもないことは、
東洋学の初歩中の初歩である四書五経の内容すらわきまえられていないことからも明らかだが。
別に、個人個人が全知全能である必要などもないわけだが。
必要もないものを、その能力も満たせていないくせにうそぶいた。
下の発言を遺している周公のほうが、まだ全知全能でありそうなものだが、
至らないものこそは、必要もないものを欲した挙句に、そうであることまでをも豪語するのか。
「備わるを一人に求むること無かれ」
「何もかもが一人の人間に備わっているようなことを要求も期待もしてはいけない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八より)
東洋学の初歩中の初歩である四書五経の内容すらわきまえられていないことからも明らかだが。
別に、個人個人が全知全能である必要などもないわけだが。
必要もないものを、その能力も満たせていないくせにうそぶいた。
下の発言を遺している周公のほうが、まだ全知全能でありそうなものだが、
至らないものこそは、必要もないものを欲した挙句に、そうであることまでをも豪語するのか。
「備わるを一人に求むること無かれ」
「何もかもが一人の人間に備わっているようなことを要求も期待もしてはいけない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八より)
すでに部分は引用している孟子の四端説。仁義礼智信の五常のうちの始め四つ、仁義礼智の典拠であり、
この四つに儒家ではあまり重要視されていなかった信を、「春秋経」の研究者であり、司馬遷の師でも
あったとされる董仲舒が、荀子の意見などを借り受けつつ付け足したことで五常となった。
頭・胴・手・足を合わせて「四体」ということもあれば、胴体と両手両足を合わせて「五体」ともいうが、
要は人間の全身のことであり、身体が備わっているようにして仁義や礼智もまた人間に備わっていることが提されている。
耳目の欲求ばかりに囚われることを孟子もまた否定してはいるが(離婁章句下・三一参照)、人体が仁義礼智を育む上でも
重要な器官であることを肯んじ、曾子などとも同じように、わが身を大切にするようにして、義をも育んでいかなければ
ならないことを全世界に先んじて宣言している(「孟子」の成立も偽りの義を説く新約聖書などよりは早い)。
五体の感官全般が幻影であることを説く道家や仏教などの説も数多いが、そのような超俗的な主張の持ち主は
孟子が説くような切実な意味での「義」を問題にもしていないので、「義」を論ずる上での引き合いには出すべきでない。
俗世でいかにあるべきかにおいてこそ問題となる「義」が、四体の養生に基づくか、かえって十字架に張り付けられる
ような四体の毀損に基づくか、その答えは、わが身が大切な人間に対しては今さら問い詰めるまでもない。
「惻隱の心は、仁の端なり。羞惡の心は、義の端なり。辭讓の心は、禮の端なり。是非の心、智の端めなり。
人の是の四端有るは、猶お其の四體有るがごときなり。是の四端有りて自ら能わずと謂う者は、自ら賊う者なり」
「他者をいつくしむ心は仁の端緒であり、悪を恥じ憎む心は義の端緒であり、譲り合いの心は礼の端緒であり、
是非善悪を分別する心は智の端緒である。人にこの四つの端緒が備わっていることは、ちょうど人間に両手両脚の四体が備わって
いるようなもので、これらが備わっていながら『自分にはその実践は不可能だ』などというのは、自らを見くびっている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・六より)
この四つに儒家ではあまり重要視されていなかった信を、「春秋経」の研究者であり、司馬遷の師でも
あったとされる董仲舒が、荀子の意見などを借り受けつつ付け足したことで五常となった。
頭・胴・手・足を合わせて「四体」ということもあれば、胴体と両手両足を合わせて「五体」ともいうが、
要は人間の全身のことであり、身体が備わっているようにして仁義や礼智もまた人間に備わっていることが提されている。
耳目の欲求ばかりに囚われることを孟子もまた否定してはいるが(離婁章句下・三一参照)、人体が仁義礼智を育む上でも
重要な器官であることを肯んじ、曾子などとも同じように、わが身を大切にするようにして、義をも育んでいかなければ
ならないことを全世界に先んじて宣言している(「孟子」の成立も偽りの義を説く新約聖書などよりは早い)。
五体の感官全般が幻影であることを説く道家や仏教などの説も数多いが、そのような超俗的な主張の持ち主は
孟子が説くような切実な意味での「義」を問題にもしていないので、「義」を論ずる上での引き合いには出すべきでない。
俗世でいかにあるべきかにおいてこそ問題となる「義」が、四体の養生に基づくか、かえって十字架に張り付けられる
ような四体の毀損に基づくか、その答えは、わが身が大切な人間に対しては今さら問い詰めるまでもない。
「惻隱の心は、仁の端なり。羞惡の心は、義の端なり。辭讓の心は、禮の端なり。是非の心、智の端めなり。
人の是の四端有るは、猶お其の四體有るがごときなり。是の四端有りて自ら能わずと謂う者は、自ら賊う者なり」
「他者をいつくしむ心は仁の端緒であり、悪を恥じ憎む心は義の端緒であり、譲り合いの心は礼の端緒であり、
是非善悪を分別する心は智の端緒である。人にこの四つの端緒が備わっていることは、ちょうど人間に両手両脚の四体が備わって
いるようなもので、これらが備わっていながら『自分にはその実践は不可能だ』などというのは、自らを見くびっている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・六より)
良くても悪くても奴隷止まりという、人類総奴隷化の元凶が新旧約聖書であることが文中で明示されてもいる。
封建社会にだって奴隷同然の下層階級(奴僕、奴婢など)がいないわけではなく、項羽の配下であり、楚漢戦争での
敗走後には奴僕に身をやつしてまで生き延び、劉邦の計らいもあって見事復帰を果たした季布のような著名人もいた。
ただ、誰しもが奴隷止まりの卑屈さに陥っていたのではなく、為政者や英雄的武将などとして、天下に冠たる
名士となった人々が山ほどにもいたわけで、彼らとて神仏への畏敬を完全に捨て去っていたわけではないが、
宗教信仰全般を敬遠して自力の徳行に専念し、実際に世の中を泰平へと導く偉業をも実現して来ている。
非宗教・無信仰の儒学において、まず五常のうちの始め四つ「仁義礼智」が孟子によって提唱され、最後の
「信」が荀子による覇道政治正当化の論弁に基づいて一応付け足された。諸侯が勢力を競い合う戦国時代において、
合従連衡などの契約面で信用が重要となることが多かったために、信が一応は意味を持つものとして認められていた。
しかし、自力の徳行者にとって信を金科玉条に掲げることは禁物であり、蒙昧な相手との破約が「礼記」や「左伝」
などでも好意的に載せられ、家康公もそのような儒学の信義論に即して、老耄状態の秀吉との約束を破ってもいる。
封建社会にだって奴隷同然の下層階級(奴僕、奴婢など)がいないわけではなく、項羽の配下であり、楚漢戦争での
敗走後には奴僕に身をやつしてまで生き延び、劉邦の計らいもあって見事復帰を果たした季布のような著名人もいた。
ただ、誰しもが奴隷止まりの卑屈さに陥っていたのではなく、為政者や英雄的武将などとして、天下に冠たる
名士となった人々が山ほどにもいたわけで、彼らとて神仏への畏敬を完全に捨て去っていたわけではないが、
宗教信仰全般を敬遠して自力の徳行に専念し、実際に世の中を泰平へと導く偉業をも実現して来ている。
非宗教・無信仰の儒学において、まず五常のうちの始め四つ「仁義礼智」が孟子によって提唱され、最後の
「信」が荀子による覇道政治正当化の論弁に基づいて一応付け足された。諸侯が勢力を競い合う戦国時代において、
合従連衡などの契約面で信用が重要となることが多かったために、信が一応は意味を持つものとして認められていた。
しかし、自力の徳行者にとって信を金科玉条に掲げることは禁物であり、蒙昧な相手との破約が「礼記」や「左伝」
などでも好意的に載せられ、家康公もそのような儒学の信義論に即して、老耄状態の秀吉との約束を破ってもいる。
信は豚魚のように下賤で蒙昧な相手とでも交わせるものであることから、汎用性が高いのは確かだが、自力の
善行に臨む上では、仁義や礼智などと比べて優先度が低く、そればかりを絶対化すると多くの不都合を招く。
それこそ奴隷化した民衆が主権を握る、民主主義社会の社会契約説なども、信の行き過ぎに基づいた愚行の一つ。
奴隷が主権者である世の中で、かつての封建社会におけるような徳治者が生まれえるはずもなく、案の定、
何億人もの人々を餓死や戦死に追いやる最悪の乱世をもたらしてもいる。豚魚にも及ぶ信ばかりが絶対化されて、
仁義や礼智の存在意義が貶められた当然の結果。そろそろ人類史上未曾有の、壮大な破約劇が期待されるところ。
「民、后にあらざれば、克く胥い匡して以て生くること罔し」
「民衆は、帰服する君主を頂かないことには、互いの欠点を正しながら生きていくこともできない。
(人類総奴隷化という劣悪な状況が、自浄作用を持たない乱世を自明に呼び込んでいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・太甲中より)
善行に臨む上では、仁義や礼智などと比べて優先度が低く、そればかりを絶対化すると多くの不都合を招く。
それこそ奴隷化した民衆が主権を握る、民主主義社会の社会契約説なども、信の行き過ぎに基づいた愚行の一つ。
奴隷が主権者である世の中で、かつての封建社会におけるような徳治者が生まれえるはずもなく、案の定、
何億人もの人々を餓死や戦死に追いやる最悪の乱世をもたらしてもいる。豚魚にも及ぶ信ばかりが絶対化されて、
仁義や礼智の存在意義が貶められた当然の結果。そろそろ人類史上未曾有の、壮大な破約劇が期待されるところ。
「民、后にあらざれば、克く胥い匡して以て生くること罔し」
「民衆は、帰服する君主を頂かないことには、互いの欠点を正しながら生きていくこともできない。
(人類総奴隷化という劣悪な状況が、自浄作用を持たない乱世を自明に呼び込んでいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・太甲中より)
イスラエル聖書のほうは、四書五経の内容ぐらいはわきまえていれば絶対に犯さないような、盲目蒙昧で
恥ずかしい勘違い発言だらけだが、四書五経のほうはといえば、イスラエル聖書において繰り返されているような
過ちも十分な看取や分析の対象とした上で、その過ちを乗り越えるだけの適切な最善策をも導き出している。
イスラエル聖書のほうが先に書かれて、四書五経が後に書かれたのならば、イスラエル聖書のほうが勘違い発言を繰り返して
いることにもまだ弁解の余地はあるが、実際には四書五経のほうが、イスラエル聖書よりもその成立が500年程度早い。
いずれも数百年以上の時間をかけてゆっくりと成立して来たものであり、編纂時期が多少はかぶってもいるが、
四書五経の編纂時期が、「易経」の編纂が始まった約3100年前から「孟子」の成立した約2300年前までであるのに対し、
イスラエル聖書の編纂は、「創世記」編纂の約2600年前から「ヨハネ黙示録」成立の約1900年前までであり、
全体的な成立の流れが、イスラエル聖書よりも四書五経のほうが4、500年程度も先行している。
現存最古の四書五経の遺文である郭店第一号楚墓の「礼記」や「論語」の断片も、約2300年前のものであることが判明しており、
現存最古のイスラエル聖書である死海文書よりも200年以上昔のものとなっている。知らぬ存ぜぬでは済まされぬ、
正しさの後にやって来た過ちであることが、文献内容の精査でも、考古学的な研究でも完全に証明されつつある。
「蒙を撃つ。寇をなすに利ろしからず。寇を禦ぐに利ろし」
「盲目蒙昧で、頑迷でありながら思い上がった輩を折檻する。盲目にも関わらず従順でもないので、
こちらの態度も強硬なものにならざるを得ないが、強硬のあまりこちらが相手を侵害するほどの事態に陥ってはならない。
むしろ相手の盲目さが他の誰かに侵されて、落とし穴へと誘い入れられるような事態を防いでやるようにすることが好ましい」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・蒙卦・上九より)
恥ずかしい勘違い発言だらけだが、四書五経のほうはといえば、イスラエル聖書において繰り返されているような
過ちも十分な看取や分析の対象とした上で、その過ちを乗り越えるだけの適切な最善策をも導き出している。
イスラエル聖書のほうが先に書かれて、四書五経が後に書かれたのならば、イスラエル聖書のほうが勘違い発言を繰り返して
いることにもまだ弁解の余地はあるが、実際には四書五経のほうが、イスラエル聖書よりもその成立が500年程度早い。
いずれも数百年以上の時間をかけてゆっくりと成立して来たものであり、編纂時期が多少はかぶってもいるが、
四書五経の編纂時期が、「易経」の編纂が始まった約3100年前から「孟子」の成立した約2300年前までであるのに対し、
イスラエル聖書の編纂は、「創世記」編纂の約2600年前から「ヨハネ黙示録」成立の約1900年前までであり、
全体的な成立の流れが、イスラエル聖書よりも四書五経のほうが4、500年程度も先行している。
現存最古の四書五経の遺文である郭店第一号楚墓の「礼記」や「論語」の断片も、約2300年前のものであることが判明しており、
現存最古のイスラエル聖書である死海文書よりも200年以上昔のものとなっている。知らぬ存ぜぬでは済まされぬ、
正しさの後にやって来た過ちであることが、文献内容の精査でも、考古学的な研究でも完全に証明されつつある。
「蒙を撃つ。寇をなすに利ろしからず。寇を禦ぐに利ろし」
「盲目蒙昧で、頑迷でありながら思い上がった輩を折檻する。盲目にも関わらず従順でもないので、
こちらの態度も強硬なものにならざるを得ないが、強硬のあまりこちらが相手を侵害するほどの事態に陥ってはならない。
むしろ相手の盲目さが他の誰かに侵されて、落とし穴へと誘い入れられるような事態を防いでやるようにすることが好ましい」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・蒙卦・上九より)
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」
(権力犯罪聖書——通称聖書——マタイ禍音書6:1)
なぜ「人目を憚らず善を行なえ」ではいけないのかと、わざわざ四書五経を引き合いに出すまでもなく思う。
このほうが言葉の位相からして正しい物言いのはずで、わざわざ「善行しないように注意しろ」で
言葉を区切るような所に、娼婦の私生児に特有のいじけすらもが垣間見られる。
ただ、実際問題、俺も現代の人間であり、カルト教祖とはいえイエスよりも遥か後代の人間であるし、
カルト信仰に基づいてであるとはいえ、イエスが多くの人間に支持されて、俺が全く誰にも支持されていないのも確か。
だからやはり、イエスなんぞよりも遥かに先輩であり、歴史的に支持されて来た度合いも親旧約聖書を遥かに上回る
四書五経中の聖賢の言葉を借りて反駁し直す。それは全く俺自身も納得させられる言葉ばかりで、俺の常識が古来の
聖賢の常識とも共通していて、しかも新旧約信仰などよりも遥か昔から実在していたものであることが特筆に価する。
ニーチェやマルクスみたいに自己流でイエスに楯突いた所で、質・量・古さの全てにおいて新旧約を上回ることは
不可能だが、四書五経という先人の遺産に基づくならば、あらゆる面において新旧約信仰を超克できる。
確かに他力本願ではあるが、善良な他力なればこそ、悪質な他力を降伏できるのでもある。
「惟れ上帝は常ならず。善を作せば之れに百祥を降し、不善を作せば之れに百殃を降す。
爾じ惟れ鄹を小とすること罔く、萬邦惟れ慶せん。爾じ惟れ不鄹を大とすること罔きも、厥の宗を墜さん」
「上帝は誰かに常にえこひいきしたりはせず。善を行なうものには百の幸いをもたらし、悪を行なうものには百の禍いをもたらす。
あなたの善徳にかなった行いがたとえ小さなものであっても、万邦はこれを喜ぶだろうし、
不徳の悪行がどんなに小さくとも、宗廟を絶やすほどの不幸を招くことだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・伊訓より)
(権力犯罪聖書——通称聖書——マタイ禍音書6:1)
なぜ「人目を憚らず善を行なえ」ではいけないのかと、わざわざ四書五経を引き合いに出すまでもなく思う。
このほうが言葉の位相からして正しい物言いのはずで、わざわざ「善行しないように注意しろ」で
言葉を区切るような所に、娼婦の私生児に特有のいじけすらもが垣間見られる。
ただ、実際問題、俺も現代の人間であり、カルト教祖とはいえイエスよりも遥か後代の人間であるし、
カルト信仰に基づいてであるとはいえ、イエスが多くの人間に支持されて、俺が全く誰にも支持されていないのも確か。
だからやはり、イエスなんぞよりも遥かに先輩であり、歴史的に支持されて来た度合いも親旧約聖書を遥かに上回る
四書五経中の聖賢の言葉を借りて反駁し直す。それは全く俺自身も納得させられる言葉ばかりで、俺の常識が古来の
聖賢の常識とも共通していて、しかも新旧約信仰などよりも遥か昔から実在していたものであることが特筆に価する。
ニーチェやマルクスみたいに自己流でイエスに楯突いた所で、質・量・古さの全てにおいて新旧約を上回ることは
不可能だが、四書五経という先人の遺産に基づくならば、あらゆる面において新旧約信仰を超克できる。
確かに他力本願ではあるが、善良な他力なればこそ、悪質な他力を降伏できるのでもある。
「惟れ上帝は常ならず。善を作せば之れに百祥を降し、不善を作せば之れに百殃を降す。
爾じ惟れ鄹を小とすること罔く、萬邦惟れ慶せん。爾じ惟れ不鄹を大とすること罔きも、厥の宗を墜さん」
「上帝は誰かに常にえこひいきしたりはせず。善を行なうものには百の幸いをもたらし、悪を行なうものには百の禍いをもたらす。
あなたの善徳にかなった行いがたとえ小さなものであっても、万邦はこれを喜ぶだろうし、
不徳の悪行がどんなに小さくとも、宗廟を絶やすほどの不幸を招くことだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・伊訓より)
「鬼神の鄹たるや、其れ盛んなるかな。之れを視れども見えず、之れを聽けども聞こえず、物を體して遺すべからず。
天下の人をして齊明盛服せしめ、以て祭祀を承け、洋洋乎として其の上に在すが如く、其の左右に在すが如し。
詩に曰く、神の格るは度るべからず、矧んや射うべけんやと。夫れ微の顯なる、誠の掩うべからざるは、此くの如し」
「心霊の徳は盛んなればこそ、これを直視しようとしても見えず、これを拝聴しようとしても聞こえない。にもかかわらず
万物の根本的な本体として働き余す所がない。なればこそ、天下の人々に潔斎させて身を清めさせ、立派な礼服を着せて
祭祀に赴かせ、祭りの場一面に神気を満ち溢れさせ、上下左右どこもかしこもに鬼神が存在するかのような状態となる。
詩経に『神の降臨は予測できない。ましてやなおざりにできようか』とあるが、微妙にして顕かであり、
誠であるが故に隠れていることがないというのは、かくの如き状態をいうのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一三より)
見えるものばかりに拘泥するわけでもなく、見えないものばかりに期待を募らせるわけでもない、
見えるものと見えざるもの、聞こえるものと聞こえざるものとの総合的な把握にまで四書五経は及んでいる。
形而上と形而下、アプリオリとアポステリオリの断絶を排した斉同的な把握姿勢は、経書中最古の「易経」における
視覚性を超えた空間把握などによって理論的にも裏付けられてもおり、プラトン哲学やユークリッド幾何学が視覚的な
空間把握ばかりにこだわっていた西洋流の学究姿勢とも根本的に異なっている。目に見えるものへの偏重と、目に見えない
ものへの偏重の両極端への分裂が、西洋における学問と宗教の断絶をも生じており、視覚系と超視覚系の統合を5000年
以上もの太古から研鑽し続けて来た、漢学の学問と宗教両面における安定度の高さとはかけ離れたものとなっている。
天下の人をして齊明盛服せしめ、以て祭祀を承け、洋洋乎として其の上に在すが如く、其の左右に在すが如し。
詩に曰く、神の格るは度るべからず、矧んや射うべけんやと。夫れ微の顯なる、誠の掩うべからざるは、此くの如し」
「心霊の徳は盛んなればこそ、これを直視しようとしても見えず、これを拝聴しようとしても聞こえない。にもかかわらず
万物の根本的な本体として働き余す所がない。なればこそ、天下の人々に潔斎させて身を清めさせ、立派な礼服を着せて
祭祀に赴かせ、祭りの場一面に神気を満ち溢れさせ、上下左右どこもかしこもに鬼神が存在するかのような状態となる。
詩経に『神の降臨は予測できない。ましてやなおざりにできようか』とあるが、微妙にして顕かであり、
誠であるが故に隠れていることがないというのは、かくの如き状態をいうのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一三より)
見えるものばかりに拘泥するわけでもなく、見えないものばかりに期待を募らせるわけでもない、
見えるものと見えざるもの、聞こえるものと聞こえざるものとの総合的な把握にまで四書五経は及んでいる。
形而上と形而下、アプリオリとアポステリオリの断絶を排した斉同的な把握姿勢は、経書中最古の「易経」における
視覚性を超えた空間把握などによって理論的にも裏付けられてもおり、プラトン哲学やユークリッド幾何学が視覚的な
空間把握ばかりにこだわっていた西洋流の学究姿勢とも根本的に異なっている。目に見えるものへの偏重と、目に見えない
ものへの偏重の両極端への分裂が、西洋における学問と宗教の断絶をも生じており、視覚系と超視覚系の統合を5000年
以上もの太古から研鑽し続けて来た、漢学の学問と宗教両面における安定度の高さとはかけ離れたものとなっている。
「書経」周書・洪範における「武王殷に勝つ」などの用法からも、勝利というのは「他者の放伐」が元来の意味になっている。
何度でも再起復活が可能なゲーム上やスポーツ上の勝敗などと違い、真剣勝負には決して次がなく、
勝ったものは生き延びて負けたものは死に絶える。それが元来の意味に即した勝敗というもの。
一応、俺がまだ生き延びているという事実だけでも、まだ勝負の決着が付いていない証拠にはなっている。
イエスのほうが多くの人間に支持されて、俺のほうが全く支持されていないのでもあるにしろ、まだ決着は付いていない。
真の勝敗はどちらかが絶滅した時に決まる。勝ってもいない内から勝利宣言する増上慢は、自分は抱かないように気をつけよう。
「彼の中林を瞻るに、薪侯り蒸侯るのみ。民の今方に殆うきに、天を視げば夢夢たる。
既に克く定まること有らば、人として勝たざること靡けん。有皇なる上帝よ、伊あ誰を憎める」
「林の中を見ても薪草ばかりしかないように、政界にもつまらない小人ばかりがはびこっている。
民が危険に晒されているのに、天を仰いでも茫々と不明なまま。世の中がよく安定していたなら、
小人にも勝てないことすらないだろうに。大いなる上帝よ、いったい何が気に障るというのか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・正月より)
何度でも再起復活が可能なゲーム上やスポーツ上の勝敗などと違い、真剣勝負には決して次がなく、
勝ったものは生き延びて負けたものは死に絶える。それが元来の意味に即した勝敗というもの。
一応、俺がまだ生き延びているという事実だけでも、まだ勝負の決着が付いていない証拠にはなっている。
イエスのほうが多くの人間に支持されて、俺のほうが全く支持されていないのでもあるにしろ、まだ決着は付いていない。
真の勝敗はどちらかが絶滅した時に決まる。勝ってもいない内から勝利宣言する増上慢は、自分は抱かないように気をつけよう。
「彼の中林を瞻るに、薪侯り蒸侯るのみ。民の今方に殆うきに、天を視げば夢夢たる。
既に克く定まること有らば、人として勝たざること靡けん。有皇なる上帝よ、伊あ誰を憎める」
「林の中を見ても薪草ばかりしかないように、政界にもつまらない小人ばかりがはびこっている。
民が危険に晒されているのに、天を仰いでも茫々と不明なまま。世の中がよく安定していたなら、
小人にも勝てないことすらないだろうに。大いなる上帝よ、いったい何が気に障るというのか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・正月より)
新儒学においても、主知主義的な朱子学と、知行合一を唱える陽明学との意見の対立などが起こったが、
朱子が孔子に次ぐ亜聖として標榜した孟子の学はといえば、やはり行いよりは知見の醸成を第一に掲げている。
聖人の知見は雄大であり、なかなかその全てを実現するには至らないものであるから、機が熟すまでは学知の研鑽に励めと。
勇猛果敢で、「君子は戦わざる有るも、戦わば必ず勝つ(公孫丑章句下・一)」などという言すら残してはいるが、
戦ったときに勝つまでの深遠な思慮も欠かしはしない。為さざることあり、然る後に以て為すことあるべしと。
「海を観る者は水と為し難く、聖人の門に遊ぶ者は言と為し難し。水を観るに術有り、必ず其の瀾を観よ。
日月明有り、容光をも必ず照らす。流水の物たるや、科に盈たざれば行かず。君子の道に於けるや、章を成さざれば達せず」
「海を知るものは川や水溜りの水を見てもどうとも思わないように、聖人の門に学ぶものは多少聞こえのいい言葉などを
聞いてもどうとも思わない。水の大小にも一定の法則があり、その波の有り様を見れば分かるであろう。日光や月光が
小さな隙間からも差し込んで暗闇を照らすように、大水の波は全てのくぼ地を満たしつつ進んでいく。(逆に小さな水の波は
全てのくぼ地を満たすまでもなく止まる)そのようにして、聖人の道もまた、一つ一つ区切りを付けて行かなければ達成できない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・二四より)
朱子が孔子に次ぐ亜聖として標榜した孟子の学はといえば、やはり行いよりは知見の醸成を第一に掲げている。
聖人の知見は雄大であり、なかなかその全てを実現するには至らないものであるから、機が熟すまでは学知の研鑽に励めと。
勇猛果敢で、「君子は戦わざる有るも、戦わば必ず勝つ(公孫丑章句下・一)」などという言すら残してはいるが、
戦ったときに勝つまでの深遠な思慮も欠かしはしない。為さざることあり、然る後に以て為すことあるべしと。
「海を観る者は水と為し難く、聖人の門に遊ぶ者は言と為し難し。水を観るに術有り、必ず其の瀾を観よ。
日月明有り、容光をも必ず照らす。流水の物たるや、科に盈たざれば行かず。君子の道に於けるや、章を成さざれば達せず」
「海を知るものは川や水溜りの水を見てもどうとも思わないように、聖人の門に学ぶものは多少聞こえのいい言葉などを
聞いてもどうとも思わない。水の大小にも一定の法則があり、その波の有り様を見れば分かるであろう。日光や月光が
小さな隙間からも差し込んで暗闇を照らすように、大水の波は全てのくぼ地を満たしつつ進んでいく。(逆に小さな水の波は
全てのくぼ地を満たすまでもなく止まる)そのようにして、聖人の道もまた、一つ一つ区切りを付けて行かなければ達成できない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・二四より)
「論語」季氏第十六・一〇にも「聴くには聡を思う」とあるが、これは別に都合の良いことだけを聴いて
都合の悪いことは聴かないなんて意味じゃない。都合の良いことも悪いことも、聴く以上ははっきりとよく聴くという意味。
信仰対象はよく聴き、信仰対象でなければ耳も貸さない閉鎖性の劣等さが、
信教外の聖書である四書五経に基づいてこそ明らか。
「大風の有れ隧しき、貪人の類き人を敗うは。
聽言には則ち對え、誦言には醉えるが如くす。
其の良きひとを用いず、覆りて我れを悖らしむ」
「つまらぬ人間が善人を退けるは、まるで大風が吹き荒れるように甚だしい。
都合のい良い言葉には耳を貸して答え、都合の悪い言葉には耳を貸そうともしない。
そうしてつまらぬ者同士が群がり、善人は退けられ、私を含む多くの人々が苦しむ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・桑柔より)
都合の悪いことは聴かないなんて意味じゃない。都合の良いことも悪いことも、聴く以上ははっきりとよく聴くという意味。
信仰対象はよく聴き、信仰対象でなければ耳も貸さない閉鎖性の劣等さが、
信教外の聖書である四書五経に基づいてこそ明らか。
「大風の有れ隧しき、貪人の類き人を敗うは。
聽言には則ち對え、誦言には醉えるが如くす。
其の良きひとを用いず、覆りて我れを悖らしむ」
「つまらぬ人間が善人を退けるは、まるで大風が吹き荒れるように甚だしい。
都合のい良い言葉には耳を貸して答え、都合の悪い言葉には耳を貸そうともしない。
そうしてつまらぬ者同士が群がり、善人は退けられ、私を含む多くの人々が苦しむ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・桑柔より)
>>165の引用のとおり、「衣食が足りたからといって人々が礼節をわきまえるとは限らない」と孟子は言っており、
衣食すら足りれば礼節もわきまえられるかのような管仲の言い分とは多少異なる。ただ、聖人君子でもない一般庶民は、
やはり衣食が足りてからでないと礼節にまで頭が回らないことも認めている。人々が貧困や飢餓に喘いでいることが
そのまま神への礼拝になるなどということも決して認めるわけがなく、それこそは権力道徳聖書の認めない権力犯罪、
劣悪な支配者の暴政を正当化して美化するカルト教義でしかないことのあからさまな証拠になっている。
「今や民の産を制するや、仰いでは以て父母に事うるに足らず、俯しては以て妻子を畜うに足らず、樂歳には身を
終えるまで飽きたり、凶年にも死亡を免れず。此くては死を救いて贍らざらんことを恐る。奚ぞ禮義を治むるに暇あらんや」
「今の為政者が産業階級の庶民を取り計らう姿といえば、上は子が父母につかえさせることも満足にできず、
下は夫が妻子を養うことも満足にできない有様で、幸いに豊作であっても重税に苦しみ、凶作ならば餓死も免れ得ないという始末。
こんなことでは死を免れるだけでも精一杯といったところで、なぜ礼儀礼節を修める余裕などがあろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁惠王章句上・七より)
衣食すら足りれば礼節もわきまえられるかのような管仲の言い分とは多少異なる。ただ、聖人君子でもない一般庶民は、
やはり衣食が足りてからでないと礼節にまで頭が回らないことも認めている。人々が貧困や飢餓に喘いでいることが
そのまま神への礼拝になるなどということも決して認めるわけがなく、それこそは権力道徳聖書の認めない権力犯罪、
劣悪な支配者の暴政を正当化して美化するカルト教義でしかないことのあからさまな証拠になっている。
「今や民の産を制するや、仰いでは以て父母に事うるに足らず、俯しては以て妻子を畜うに足らず、樂歳には身を
終えるまで飽きたり、凶年にも死亡を免れず。此くては死を救いて贍らざらんことを恐る。奚ぞ禮義を治むるに暇あらんや」
「今の為政者が産業階級の庶民を取り計らう姿といえば、上は子が父母につかえさせることも満足にできず、
下は夫が妻子を養うことも満足にできない有様で、幸いに豊作であっても重税に苦しみ、凶作ならば餓死も免れ得ないという始末。
こんなことでは死を免れるだけでも精一杯といったところで、なぜ礼儀礼節を修める余裕などがあろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁惠王章句上・七より)
「欲するところ生よりも甚だしきものあり。悪むところ死よりも甚だしきものあり」云々ということを
孟子も告子章句上・一〇で言っているが、このようなことは孔子の先輩格である子産も言っていて、
「左伝」昭公四年では「国家社稷の利益になることは個人の生死をも超える」云々と述べている。
他にも昭公二十五年にも、子大叔が子産に聞いた言葉として「禍福・賞罰を以て人々に生死の節度を保たせる」
といった話を挙げている。竹法(竹簡に記述した成文法)を制定して非難を被るなどの落ち度もあるが、
孔子に先んずる徳治の実践者としてそこそこの評価を受けている鄭の政治家子産。愚民の生の貪りや
死への嫌悪が、君子にとっては劣後すべき代物であることを孟子にも先んじて提唱はしたものの、
愚民の生死への情念に節度を保たせるために提示した手段が、法治主義に基づく禍福賞罰の徹底止まりで
あったことが片手落ちな部分であり、法政ではなく礼楽によってこそ人々が生死の節度をわきまえることを
提唱した孔子と比べれば(為政第二・三参照)、どうしてもプロトタイプ止まりであったと言わざるを得ない。
ローマ法にも先んじて本格的な法治主義社会を画策した、管仲や子産などの中国法家も、世界的にみれば
政治史上の雄であったといえるが、尭舜禹や湯文武、周公に孔子や孟子といった徳治主義の歴史のほうが
中国では一貫して盛大であったために、法家の扱いはあまり大きくない。実際に春秋戦国時代以降にも
秦始皇帝による法治社会が失敗して、漢や唐における儒家主導の徳治社会が成功を収めているために、
罪を犯させて罰を科す、マッチポンプ法治主義の出る幕などはほとんどなかったのだった。
孟子も告子章句上・一〇で言っているが、このようなことは孔子の先輩格である子産も言っていて、
「左伝」昭公四年では「国家社稷の利益になることは個人の生死をも超える」云々と述べている。
他にも昭公二十五年にも、子大叔が子産に聞いた言葉として「禍福・賞罰を以て人々に生死の節度を保たせる」
といった話を挙げている。竹法(竹簡に記述した成文法)を制定して非難を被るなどの落ち度もあるが、
孔子に先んずる徳治の実践者としてそこそこの評価を受けている鄭の政治家子産。愚民の生の貪りや
死への嫌悪が、君子にとっては劣後すべき代物であることを孟子にも先んじて提唱はしたものの、
愚民の生死への情念に節度を保たせるために提示した手段が、法治主義に基づく禍福賞罰の徹底止まりで
あったことが片手落ちな部分であり、法政ではなく礼楽によってこそ人々が生死の節度をわきまえることを
提唱した孔子と比べれば(為政第二・三参照)、どうしてもプロトタイプ止まりであったと言わざるを得ない。
ローマ法にも先んじて本格的な法治主義社会を画策した、管仲や子産などの中国法家も、世界的にみれば
政治史上の雄であったといえるが、尭舜禹や湯文武、周公に孔子や孟子といった徳治主義の歴史のほうが
中国では一貫して盛大であったために、法家の扱いはあまり大きくない。実際に春秋戦国時代以降にも
秦始皇帝による法治社会が失敗して、漢や唐における儒家主導の徳治社会が成功を収めているために、
罪を犯させて罰を科す、マッチポンプ法治主義の出る幕などはほとんどなかったのだった。
「十五年春、邾の隱公來朝す。子貢これを觀る。邾子は玉を執ること高く、其の容仰げり。
公は玉を受けること卑く、其の容俯せり。子貢曰く、禮を以て之れを觀れば、二君は皆な死亡するあらん。
夫れ禮は、死生存亡の體なり。將に左右周旋、進退俯仰、是に於いてか之れを取り、朝祀喪戎、是に於いてか
之れを觀んとす。今正月相朝して、皆な度あらず。心巳に亡はれ、嘉事體あらず。何を以てか能く久からん。
高仰は驕なり、卑俯は替なり。驕は亂に近く、替は疾に近し。君は主たり。其れ先ず亡びんか」
「定公十五年の春、邾の隠公が魯に来朝した。孔子の弟子の子貢がこれを拝見したが、来客の隠公が
宝玉を扱う姿勢は高すぎてふんぞり返っており、定公が宝玉を扱う姿勢は低すぎて伏せっていた。
子貢は言った。『礼節を鑑みて申しますと、両君ともじきに死ぬだろうと言わざるを得ません。
いったい礼儀こそは、生死存亡を司る本体であります。日常の一挙一動にも本人の安否がかかっており、
来朝して諸々の祭祀儀礼を執り行う時にもその安否が現れるもの。いま正月に両君が会合したにも関わらず、
そのどちらともが礼法にかなっていないとは、どうして長生きを期待できましょうか。宝玉を扱う姿勢が高すぎて
ふんぞり返っているのは心が高ぶっている証拠ですし、低すぎて伏せっているのは堕している証拠です。高ぶって
いると乱を招きやすく、堕していると病にかかりやすい。わが君(定公)が主なので、先に亡くなるでしょう』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・定公十五年より)
公は玉を受けること卑く、其の容俯せり。子貢曰く、禮を以て之れを觀れば、二君は皆な死亡するあらん。
夫れ禮は、死生存亡の體なり。將に左右周旋、進退俯仰、是に於いてか之れを取り、朝祀喪戎、是に於いてか
之れを觀んとす。今正月相朝して、皆な度あらず。心巳に亡はれ、嘉事體あらず。何を以てか能く久からん。
高仰は驕なり、卑俯は替なり。驕は亂に近く、替は疾に近し。君は主たり。其れ先ず亡びんか」
「定公十五年の春、邾の隠公が魯に来朝した。孔子の弟子の子貢がこれを拝見したが、来客の隠公が
宝玉を扱う姿勢は高すぎてふんぞり返っており、定公が宝玉を扱う姿勢は低すぎて伏せっていた。
子貢は言った。『礼節を鑑みて申しますと、両君ともじきに死ぬだろうと言わざるを得ません。
いったい礼儀こそは、生死存亡を司る本体であります。日常の一挙一動にも本人の安否がかかっており、
来朝して諸々の祭祀儀礼を執り行う時にもその安否が現れるもの。いま正月に両君が会合したにも関わらず、
そのどちらともが礼法にかなっていないとは、どうして長生きを期待できましょうか。宝玉を扱う姿勢が高すぎて
ふんぞり返っているのは心が高ぶっている証拠ですし、低すぎて伏せっているのは堕している証拠です。高ぶって
いると乱を招きやすく、堕していると病にかかりやすい。わが君(定公)が主なので、先に亡くなるでしょう』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・定公十五年より)
山にもいろいろあって、アリ塚程度から泰山のような名峰まであるわけだ。
チベット・ネパール国境付近には世界最大の山系、ヒマラヤ山脈があり、
この日本にも、単体の山としては世界最大級の富士山がある。
山の雄大さを実物から実感する機会が、モンスーン気候でもある東洋にはあったわけだが、
大きめの砂丘も風で吹き飛んでしまう砂漠社会では、そんな機会はなかったわけだな。
「麒麟の走獸に於けるも、鳳凰の飛鳥に於けるも、太山の丘垤に於けるも、河海の行潦に於けるも、みな類なり。
聖人の民に於けるも、亦た類なり。其の類より出て、其の萃より抜きん出たること、生民より以來,未だ孔子より盛なるは有らざるなり」
「麒麟が走る獣の一種であり、鳳凰が飛鳥の一種であり、太山が小高い山の一種であり、黄河や大海が水溜りの一種であるように、
聖人もまた生民の一種ではある。同類にもかかわらず他から抜きん出ていることは、生民の中で孔子が抜きん出たほどのことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・二より)
チベット・ネパール国境付近には世界最大の山系、ヒマラヤ山脈があり、
この日本にも、単体の山としては世界最大級の富士山がある。
山の雄大さを実物から実感する機会が、モンスーン気候でもある東洋にはあったわけだが、
大きめの砂丘も風で吹き飛んでしまう砂漠社会では、そんな機会はなかったわけだな。
「麒麟の走獸に於けるも、鳳凰の飛鳥に於けるも、太山の丘垤に於けるも、河海の行潦に於けるも、みな類なり。
聖人の民に於けるも、亦た類なり。其の類より出て、其の萃より抜きん出たること、生民より以來,未だ孔子より盛なるは有らざるなり」
「麒麟が走る獣の一種であり、鳳凰が飛鳥の一種であり、太山が小高い山の一種であり、黄河や大海が水溜りの一種であるように、
聖人もまた生民の一種ではある。同類にもかかわらず他から抜きん出ていることは、生民の中で孔子が抜きん出たほどのことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・二より)

人道の王道中の王道である儒家、その儒家の正典である四書五経にことごとく反した劣悪な教義を
新旧約聖書が挙げ連ねていることからも、人道に反しているのは明らかだし、アダムとイブの楽園追放寓話で
すべての信者に多動性障害を植え付ける旧約の教義も、悪いことをするぐらいなら何もしないでいたほうがいい、
無為自然の徳を謳う道家の天道にも反している。天道は何も道家だけではなく、インドのヒンズー教や
日本の神道も含むが、やはりその教義の仔細を鑑みれば、新旧約信仰こそはこれらの天道の教義に違反している。
修羅道にあたるイスラムや拝火教を擁する中東と、新旧約信仰下の西洋がいがみ合い続けているのは周知のことだし、
模範的な武家社会となった江戸時代の日本も、キリシタン信仰を廃絶することによってこそ成功を果たしている。
奪い合い殺し合いを貪り続けて止まない新旧約信仰は、人道でも天道でもなく、修羅道ですらない、
地獄餓鬼畜生の三悪道に該当することが明白。それはそれで構造的な存在性を持つことが、仏教の六道十界論に
基づけば認められているのであり、劣悪ではあるが存在してしまう三悪道をいかに排し、修羅人天の三善道を
推進していくかという「断悪修善」が、仏教の一大教義となっている。六道の内の人道に即して勧善懲悪をもくろむ
儒家と比べれば、六道全体を俯瞰する声聞縁覚菩薩仏の四乗から断悪修善を講じる仏教の姿勢は、より徹底的で
あるといえる一方で、自力での修習のためには出家や受戒も要するなど、大きなリスクも伴っている。
俺としては、断悪修善をも本義とする仏教を尊びはする一方で、自分自身は儒家に基づく所存。
新旧約信仰のような人道のフリをした鬼畜道ではない、純度100%の真っ当な人道である儒家を本拠地とする。
仏教ほどもの質は期待できないが、代わりに量を稼ぐことが可能な儒家。幼稚園児にすら教えられる平易さが売り。
「易の書たるや、廣大悉く備わる。天道あり、人道あり、地道あり。三材を兼ねて之れを両つにす。故に六なり」
「易という書物には、天地万物のあらゆる道理がことごとく備わっている。天道もあれば、人道もあり、
地道もある。この三つが八卦のそれぞれの爻となり、上下に重なり合って六つの爻を持つ六十四卦となる。
(天道・人道・修羅道の三善道と、畜生道・餓鬼道・地獄道の三悪道が折り重なって六道と
なることが、まだ仏教も存在していなかった頃の中国人、孔子によっても予言されている。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
新旧約信仰のような人道のフリをした鬼畜道ではない、純度100%の真っ当な人道である儒家を本拠地とする。
仏教ほどもの質は期待できないが、代わりに量を稼ぐことが可能な儒家。幼稚園児にすら教えられる平易さが売り。
「易の書たるや、廣大悉く備わる。天道あり、人道あり、地道あり。三材を兼ねて之れを両つにす。故に六なり」
「易という書物には、天地万物のあらゆる道理がことごとく備わっている。天道もあれば、人道もあり、
地道もある。この三つが八卦のそれぞれの爻となり、上下に重なり合って六つの爻を持つ六十四卦となる。
(天道・人道・修羅道の三善道と、畜生道・餓鬼道・地獄道の三悪道が折り重なって六道と
なることが、まだ仏教も存在していなかった頃の中国人、孔子によっても予言されている。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
「わたしは智恵ある者の智恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」
(権力犯罪聖書——通称聖書——コリント人への第一の脅迫文1:19)
まあ、キリスト教系の大学が「上智大学」を名乗ることのおかしさが明らかな部分でもあるな。
もともと「上智」という言葉の起源も、「上知と下愚は移らず」という「論語」陽貨第十七・三の記述だし、
「義」とか「信」とか「聖書」とかいった言葉だけでなく、こんな所にも儒家用語の剽窃が見られる。
堅実な道徳主義の学問を捨てて、不埒な犯罪主義のカルト信教を世の中が選択した弊害は、
「そんな世の中は完全に捨て去るぐらいでちょうどいい」という結論になって現れた。
「仁の父子に於ける、義の君臣に於ける、礼の賓主に於ける、
知の賢者に於ける、聖の天道に於けるは、命なり。性あり、君子は命とは謂わざるなり」
「父子の仁、君臣の義、賓主の礼、賢者の智、天道の聖などは、天命に即して叶ったり叶わなかったり
することがある。しかし、君子の側は自身の本性からそれを欲するので、天命だからといって諦めたりはしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二四より)
(権力犯罪聖書——通称聖書——コリント人への第一の脅迫文1:19)
まあ、キリスト教系の大学が「上智大学」を名乗ることのおかしさが明らかな部分でもあるな。
もともと「上智」という言葉の起源も、「上知と下愚は移らず」という「論語」陽貨第十七・三の記述だし、
「義」とか「信」とか「聖書」とかいった言葉だけでなく、こんな所にも儒家用語の剽窃が見られる。
堅実な道徳主義の学問を捨てて、不埒な犯罪主義のカルト信教を世の中が選択した弊害は、
「そんな世の中は完全に捨て去るぐらいでちょうどいい」という結論になって現れた。
「仁の父子に於ける、義の君臣に於ける、礼の賓主に於ける、
知の賢者に於ける、聖の天道に於けるは、命なり。性あり、君子は命とは謂わざるなり」
「父子の仁、君臣の義、賓主の礼、賢者の智、天道の聖などは、天命に即して叶ったり叶わなかったり
することがある。しかし、君子の側は自身の本性からそれを欲するので、天命だからといって諦めたりはしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二四より)
儒学における童僕(子供、小童)の存在性の解釈は、「易経」蒙卦と旅卦に詳しい。
蒙卦・初六においては「蒙をひらく。もって人を刑するに利ろし。もって桎梏をとき、もって往けば吝かなり」などと、
童僕の蒙昧さがあくまで啓蒙修正の対象とすべきものであることを強調し、そのためには刑罰すら厭わず、
手かせ足かせを解くような甘やかしもしてはならないとしている。一方で蒙卦・六五象伝には
「童蒙の吉なるは、順にしてもって巽なればなり」と、童蒙ゆえに従順で謙遜であることは吉であるともしている。
旅卦・六二象伝にも「童僕の貞を得たりとは、終にとがなきなり」などと、童僕故の貞節さを吉とする記述があり、
「蒙昧であるのは童僕の欠点だが、貞節であろうとすることは童僕の長所である」という、分別の行き届いた童僕解釈が
儒家では伝統的にわきまえられているために、勉学と忠孝を共に奨励することが矛盾を来たさずにも済んでいる。
ただ「子供のようになれ」では、上記のような童僕の長短理解に即した人間の矯正には寄与できない。
それどころか、貞節さは省いて蒙昧さばかりを助長させる結果にもなり兼ねず、
ちゃんと長所と短所を分別する場合とは逆に、より劣悪な結果すらをも招いてしまう。
「闕黨の童子、命を將う。或るひと之を問うて曰く、益者かと。
子曰く、吾れ其の位に居るを見る。其の先生と並び行くを見る。益者に非ざるなり、速やかに成らんと欲する者なりと」
「闕という村の少年が客の取次ぎをしていた。ある人がその姿を見て問うた。『あれは進歩を目指しているものでしょうか』
孔先生は答えた。『私はあれが大人同士の席で真ん中に座っているのを見ましたし、先生先輩と肩を並べて歩いているのも見ました。
着実な進歩を目指しているのではなく、ただ早く大人になりたいというだけの者です』(貞節ではないが蒙昧なままな童僕の一例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・四六より)
蒙卦・初六においては「蒙をひらく。もって人を刑するに利ろし。もって桎梏をとき、もって往けば吝かなり」などと、
童僕の蒙昧さがあくまで啓蒙修正の対象とすべきものであることを強調し、そのためには刑罰すら厭わず、
手かせ足かせを解くような甘やかしもしてはならないとしている。一方で蒙卦・六五象伝には
「童蒙の吉なるは、順にしてもって巽なればなり」と、童蒙ゆえに従順で謙遜であることは吉であるともしている。
旅卦・六二象伝にも「童僕の貞を得たりとは、終にとがなきなり」などと、童僕故の貞節さを吉とする記述があり、
「蒙昧であるのは童僕の欠点だが、貞節であろうとすることは童僕の長所である」という、分別の行き届いた童僕解釈が
儒家では伝統的にわきまえられているために、勉学と忠孝を共に奨励することが矛盾を来たさずにも済んでいる。
ただ「子供のようになれ」では、上記のような童僕の長短理解に即した人間の矯正には寄与できない。
それどころか、貞節さは省いて蒙昧さばかりを助長させる結果にもなり兼ねず、
ちゃんと長所と短所を分別する場合とは逆に、より劣悪な結果すらをも招いてしまう。
「闕黨の童子、命を將う。或るひと之を問うて曰く、益者かと。
子曰く、吾れ其の位に居るを見る。其の先生と並び行くを見る。益者に非ざるなり、速やかに成らんと欲する者なりと」
「闕という村の少年が客の取次ぎをしていた。ある人がその姿を見て問うた。『あれは進歩を目指しているものでしょうか』
孔先生は答えた。『私はあれが大人同士の席で真ん中に座っているのを見ましたし、先生先輩と肩を並べて歩いているのも見ました。
着実な進歩を目指しているのではなく、ただ早く大人になりたいというだけの者です』(貞節ではないが蒙昧なままな童僕の一例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・四六より)
カルト信教とはいえ、聖書信仰も一種の文化ではある。一方で、儒学もまた一種の文化。
己の欲せざるところを人に施して憚らぬ犯罪推進文化と、己の欲せざるところを人に施さぬよう努める道徳堅持文化。
どちらか一方を立てる以上は、もう一方が決して立たなくなる相反性が両者の文化には備わっているため、
儒学を立てる以上は聖書信仰を貶めざるを得ないし、聖書信仰を立てる以上は儒学を貶めざるを得ない。
儒学に基づく封建統治の確立によって、江戸時代には禁教扱いとなったキリシタン。
江戸幕府の大政奉還と廃仏毀釈によって、禁教を解かれたキリスト教信仰。
歴史的にも、両者が決して相容れないことは証明されているし、儒学を専攻としている俺にできる仕事が
今の世にないことも、聖書信仰のまかり通っている世の中で儒学が仕事にもならない何よりの証拠になっている。
低劣だどうだという以前に、儒学の側の死活問題故にこそ、聖書信仰を廃絶せざるを得なくなっている。
「回や、其の心三月仁に違わず。其の餘りは則ち日月に至るのみ」
「(孔子の最高の弟子とされる)顔淵はもう三月ものあいだ仁から心を離さないでいる。
他のものなら一日か、せいぜい一月も離さないでいられるかどうかというところなのに。
(万人を利して我が利ともする仁も、庸徳として恒常的に嗜むことはなかなか難しい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・七より)
己の欲せざるところを人に施して憚らぬ犯罪推進文化と、己の欲せざるところを人に施さぬよう努める道徳堅持文化。
どちらか一方を立てる以上は、もう一方が決して立たなくなる相反性が両者の文化には備わっているため、
儒学を立てる以上は聖書信仰を貶めざるを得ないし、聖書信仰を立てる以上は儒学を貶めざるを得ない。
儒学に基づく封建統治の確立によって、江戸時代には禁教扱いとなったキリシタン。
江戸幕府の大政奉還と廃仏毀釈によって、禁教を解かれたキリスト教信仰。
歴史的にも、両者が決して相容れないことは証明されているし、儒学を専攻としている俺にできる仕事が
今の世にないことも、聖書信仰のまかり通っている世の中で儒学が仕事にもならない何よりの証拠になっている。
低劣だどうだという以前に、儒学の側の死活問題故にこそ、聖書信仰を廃絶せざるを得なくなっている。
「回や、其の心三月仁に違わず。其の餘りは則ち日月に至るのみ」
「(孔子の最高の弟子とされる)顔淵はもう三月ものあいだ仁から心を離さないでいる。
他のものなら一日か、せいぜい一月も離さないでいられるかどうかというところなのに。
(万人を利して我が利ともする仁も、庸徳として恒常的に嗜むことはなかなか難しい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・七より)
実際、今の世界がユダヤ=キリスト両聖書信仰に征服されているのは確かだ。
カルト信仰に基づく欺瞞に根ざしながらであるとはいえ、重権力犯罪によって法外な利権を左右する乱脈の
ペースが新旧約聖書信仰によってこそ握られ、ほとんどそれだけによって世界の存亡が左右されてもいる。
そこに権力道徳を貴ぶ儒家の影響力もなければ、仏教や道教や神道の影響力も皆無といってほどにない。
聖書信仰を傍観的にでも容認しないことには、俺のように仕事一つあり付けないザマにもなっている。
だからこそ、今の世の中は「ウ●コの塊」とでも言っていいほどに有害無益な代物と化している。
何をするよりも何もしないでいたほうが偉い、行動即犯罪の総員テロリスト社会と化していて、
これ以上下といえば、もはや全面核戦争による人類の滅亡ぐらいしかありえない。
そしてその、全面核戦争の危機をもたらしているのも、聖書信仰者である欧米人。
想定しうる限りで最悪の状態の世の中ばかりを全面征服している聖書信仰。
善良な世の中を占有している王君などが羨ましいことはあっても、最悪の乱世を支配している
邪神信仰などが羨ましいわけもなく、さっさとトイレに流されて堆肥にでもなれとしか思わない。
「惟れ受、心を悛むること有る罔く、乃ち夷居、上帝神祇に事えず、厥の先の宗廟を遺てて祀らず。
犧牲粢盛、凶盜に既く。乃ち曰う、吾れ民有るは命有ればなり、と。其の侮りを懲らす罔し」
「殷の紂王は未だ改悛の色を見せることもなく、平素から上帝神祇に仕えようともせず、
先祖代々の宋廟をも打ち棄てて祀ろうともせぬ。生贄の動物やお供えの穀物もごっそり盗人に掠め取られ、
それでもなお『俺が民を保有しているのは天命なのだ』などという。その侮りきった態度を懲らしめようとする者もいない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓上より)
カルト信仰に基づく欺瞞に根ざしながらであるとはいえ、重権力犯罪によって法外な利権を左右する乱脈の
ペースが新旧約聖書信仰によってこそ握られ、ほとんどそれだけによって世界の存亡が左右されてもいる。
そこに権力道徳を貴ぶ儒家の影響力もなければ、仏教や道教や神道の影響力も皆無といってほどにない。
聖書信仰を傍観的にでも容認しないことには、俺のように仕事一つあり付けないザマにもなっている。
だからこそ、今の世の中は「ウ●コの塊」とでも言っていいほどに有害無益な代物と化している。
何をするよりも何もしないでいたほうが偉い、行動即犯罪の総員テロリスト社会と化していて、
これ以上下といえば、もはや全面核戦争による人類の滅亡ぐらいしかありえない。
そしてその、全面核戦争の危機をもたらしているのも、聖書信仰者である欧米人。
想定しうる限りで最悪の状態の世の中ばかりを全面征服している聖書信仰。
善良な世の中を占有している王君などが羨ましいことはあっても、最悪の乱世を支配している
邪神信仰などが羨ましいわけもなく、さっさとトイレに流されて堆肥にでもなれとしか思わない。
「惟れ受、心を悛むること有る罔く、乃ち夷居、上帝神祇に事えず、厥の先の宗廟を遺てて祀らず。
犧牲粢盛、凶盜に既く。乃ち曰う、吾れ民有るは命有ればなり、と。其の侮りを懲らす罔し」
「殷の紂王は未だ改悛の色を見せることもなく、平素から上帝神祇に仕えようともせず、
先祖代々の宋廟をも打ち棄てて祀ろうともせぬ。生贄の動物やお供えの穀物もごっそり盗人に掠め取られ、
それでもなお『俺が民を保有しているのは天命なのだ』などという。その侮りきった態度を懲らしめようとする者もいない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓上より)
乱世の特徴として、朝廷や幕府、政府などの権力機構が小人に乗っ取られるというのがある(「易経」否卦参照)。
しかし、小人だからといって無力であるとは限らず、むしろ己れの卑小さを取り繕うための、
莫大な暴力や利権の溜め込みによってこそ権力に取り入る。君子が莫大な暴力利権と共にあることよりも、
小人が莫大な暴力利権と共にあることのほうが遥かに多く、君子が権力の座に就いた時には、
むしろ世の中総出を挙げての軍備解除や、贋金作りの厳禁などの金融制限策が執り行われる。
小人による私利私欲のむさぼりこそは、世の中全体を貧窮や戦乱に追いやる元凶ともなっているのだから、
実権が小人から君子に明け渡されたとしても、君子は小人の溜め込んだ莫大な暴力利権を私物化したりはせず、
無駄な利権の溜め込みも排して、世の中全体に富を分散させるように務める。
だからたとえば、今の権力者よりはまだ君子な部類に入る俺が、今の権力者に実権を明け渡されたとしても、
俺が第二第三の重権力犯罪者になるまいと務めた結果、今の権力者ほどにも際立った存在ではなくなるだろう。
一般庶民は王侯なんているともいないとも知れない、作為をできる限り排した無為自然の統治によって、
誰しもが権力による締め付けから解放される一方で、俺のことを殊更に意識するようなこともない。
意識しなければならないほどに俺自身は利権を溜め込まず、むしろ利権を分散させるための権力者にこそなるから、
見るからに「偉大なる世界の帝王」的なものが誕生することなどを期待すべきではない。絶対者の下に誰しもが
ひれ伏させられるような、カルト信仰に根ざした期待などは棄てて、恐れられつつも人々に親しまれる、
鬼平さん程度の堅実な壮士が生まれることを期待するぐらいでちょうど。殊更に絶対性を誰かばかりに
集約しようなどとはしない、多神教信仰程度の平穏さに基づいて、時代が進んでいくのがよりよい。
しかし、小人だからといって無力であるとは限らず、むしろ己れの卑小さを取り繕うための、
莫大な暴力や利権の溜め込みによってこそ権力に取り入る。君子が莫大な暴力利権と共にあることよりも、
小人が莫大な暴力利権と共にあることのほうが遥かに多く、君子が権力の座に就いた時には、
むしろ世の中総出を挙げての軍備解除や、贋金作りの厳禁などの金融制限策が執り行われる。
小人による私利私欲のむさぼりこそは、世の中全体を貧窮や戦乱に追いやる元凶ともなっているのだから、
実権が小人から君子に明け渡されたとしても、君子は小人の溜め込んだ莫大な暴力利権を私物化したりはせず、
無駄な利権の溜め込みも排して、世の中全体に富を分散させるように務める。
だからたとえば、今の権力者よりはまだ君子な部類に入る俺が、今の権力者に実権を明け渡されたとしても、
俺が第二第三の重権力犯罪者になるまいと務めた結果、今の権力者ほどにも際立った存在ではなくなるだろう。
一般庶民は王侯なんているともいないとも知れない、作為をできる限り排した無為自然の統治によって、
誰しもが権力による締め付けから解放される一方で、俺のことを殊更に意識するようなこともない。
意識しなければならないほどに俺自身は利権を溜め込まず、むしろ利権を分散させるための権力者にこそなるから、
見るからに「偉大なる世界の帝王」的なものが誕生することなどを期待すべきではない。絶対者の下に誰しもが
ひれ伏させられるような、カルト信仰に根ざした期待などは棄てて、恐れられつつも人々に親しまれる、
鬼平さん程度の堅実な壮士が生まれることを期待するぐらいでちょうど。殊更に絶対性を誰かばかりに
集約しようなどとはしない、多神教信仰程度の平穏さに基づいて、時代が進んでいくのがよりよい。
多神教的な調和性を重んずる以上は、どうしても廃絶しなければならないレベルの致命的なドグマがある。
神道は先祖供養の宗教。それぞれのご先祖様を敬うことから、多神教というものの形態が根本的に成り立っていて、
これは家の神以外を祭ることを「へつらいだ」とする儒学の教えにも即しているし、仏教でも在家信者に対して促すところ。
そして祖神信仰を完全否定するのがキリスト教。神の下では誰しもが平等だなどという美辞麗句の下に、親族兄弟での
殺し合いすら画策させる始末。祖神信仰こそは根本である神道などの多神教信仰とキリスト教が相容れることは決してない。
人はいつかは必ず老いて死に、二度と生き返ることがないというのが仏教の「四諦」などに基づく教え。
一方で、キリストは刑死して3日後に生き返ったとし、最後の審判では誰しもが生き返るというのがキリスト教教義。
仏教が四諦を「真理」としている一方で、キリスト教もまた自分たちの上記のような教義を真理の教えとしている。
真理が二つも三つも乱立し、互いに相反する真理を唱える宗教の並存が容認されていることが、宗教全般の信用性を
失わせる結果を招いており、揚げ足取りの汚濁こそを本領とするキリスト教などのほうが活性化している一方で、
「誹謗正法」を根本から厳禁している正統仏教のほうは衰退している。本池垂迹説などによって神格信仰に当てはめられる
こともあるものの、神や悪魔を超えたとする仏や菩薩の境地を貴ぶ仏教もまた、キリスト教と相容れることはない。
神道は先祖供養の宗教。それぞれのご先祖様を敬うことから、多神教というものの形態が根本的に成り立っていて、
これは家の神以外を祭ることを「へつらいだ」とする儒学の教えにも即しているし、仏教でも在家信者に対して促すところ。
そして祖神信仰を完全否定するのがキリスト教。神の下では誰しもが平等だなどという美辞麗句の下に、親族兄弟での
殺し合いすら画策させる始末。祖神信仰こそは根本である神道などの多神教信仰とキリスト教が相容れることは決してない。
人はいつかは必ず老いて死に、二度と生き返ることがないというのが仏教の「四諦」などに基づく教え。
一方で、キリストは刑死して3日後に生き返ったとし、最後の審判では誰しもが生き返るというのがキリスト教教義。
仏教が四諦を「真理」としている一方で、キリスト教もまた自分たちの上記のような教義を真理の教えとしている。
真理が二つも三つも乱立し、互いに相反する真理を唱える宗教の並存が容認されていることが、宗教全般の信用性を
失わせる結果を招いており、揚げ足取りの汚濁こそを本領とするキリスト教などのほうが活性化している一方で、
「誹謗正法」を根本から厳禁している正統仏教のほうは衰退している。本池垂迹説などによって神格信仰に当てはめられる
こともあるものの、神や悪魔を超えたとする仏や菩薩の境地を貴ぶ仏教もまた、キリスト教と相容れることはない。
互いに相容れない教義同士を並存させた挙句として、神道や仏教のような優良な宗教のほうがその価値を無効化され、
キリスト教やユダヤ教のような劣悪な邪教のほうばかりがその暴力を発揮している。みそくそはくそばかりに有利でみそ
ばかりに不利になる証拠が、今という時代における宗教全般の不遇であり、儒学を復興させる以上は聖書信仰を廃絶せざるを
得ないだけでなく、神道や仏教のような優良な宗教を復興させる上でも、聖書教のような劣悪な邪教の廃絶が必要となる。
どちらかを立てる以上はもう一方は決して立たぬ。みそくそに容認しまくってもくそばかりが立ってみそは立たない。
本気で宗教とか学問とかいったものを考えるのなら、みそくそ処理が通用しない相反性の実在を認めねばならない。
「君子の道は、費にして陰なり。夫婦の愚も以て与り知るべきも、その至れるに及んでは、聖人と雖も亦た能くせざる所あり」
「君子の道は分かりやすい所から分かりにくい所まで多々ある。分かりやすい表向きの所は、愚かな匹夫匹婦にすら
理解できるが、その深奥の分かりにくい所に及んでは、聖人といえども必ずしも理解しきれない所がある。
(愚者だからといってカルト信仰に走らずとも、分かる範囲での君子の道を歩むようにすればいい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一二より)
キリスト教やユダヤ教のような劣悪な邪教のほうばかりがその暴力を発揮している。みそくそはくそばかりに有利でみそ
ばかりに不利になる証拠が、今という時代における宗教全般の不遇であり、儒学を復興させる以上は聖書信仰を廃絶せざるを
得ないだけでなく、神道や仏教のような優良な宗教を復興させる上でも、聖書教のような劣悪な邪教の廃絶が必要となる。
どちらかを立てる以上はもう一方は決して立たぬ。みそくそに容認しまくってもくそばかりが立ってみそは立たない。
本気で宗教とか学問とかいったものを考えるのなら、みそくそ処理が通用しない相反性の実在を認めねばならない。
「君子の道は、費にして陰なり。夫婦の愚も以て与り知るべきも、その至れるに及んでは、聖人と雖も亦た能くせざる所あり」
「君子の道は分かりやすい所から分かりにくい所まで多々ある。分かりやすい表向きの所は、愚かな匹夫匹婦にすら
理解できるが、その深奥の分かりにくい所に及んでは、聖人といえども必ずしも理解しきれない所がある。
(愚者だからといってカルト信仰に走らずとも、分かる範囲での君子の道を歩むようにすればいい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一二より)
人知を超えた神秘性を宿した宗教もまた確かにある。
神道や仏教、道教やヒンズー教こそはそれにあたり、人間の常識を遥かに超えた神仏の世界が、
上記のような“正統宗教”においてこそ展開されている。
しかるに、ユダヤ=キリスト両聖書教はまったくその条件を満たさず、その教義の全てが
人知の範囲内で説明しきれ、しかも人道の最たるものである儒学などと比べて
さらなる人間の劣悪化を助長する“カルト宗教”でこそある。
・人間以上の品性>人間道徳>人間以下の品性
・正統宗教>純粋道徳学(儒学)>カルト宗教
人間以上の存在であるのが正統宗教であるのに対し、人間以下の存在であるのがカルト宗教。
信仰者を人知を超えた神仏の領域へといざなう能力を正統宗教は備えているが、
カルト宗教はかえって信仰者を禽獣同然の下劣な領域へと導く機能しか備えていない。
だから、正統宗教においては程度の低いうちにすら入れられる人間道徳の条件すらも
満たせておらず、道徳性に反する俗世での悪業、重犯罪や重権力犯罪へと信仰者を導いてしまう。
それほどにも劣悪な人間以下のカルト宗教と、人間以上でこそある正統宗教が
くそみそに扱われることで、本当に優良な正統宗教の価値までもが毀損されて、
宗教全般への不信のレッテルが貼られ、宗教嫌いのニヒリズムばかりが横行してしまっている。
ニヒリズムすら、本当は禅仏教などを通じて宗教的に包含しきれるものなのに、
宗教全般を否定しようとする盲目なニヒリズムが、カルト信仰への狂信が横行することと
共に助長されてしまっている。カルト信仰と反宗教主義がコインの裏表であり、
そのような人類劣悪化の元凶としかならないコインが根こそぎ破棄されて然るべきだ。
神道や仏教、道教やヒンズー教こそはそれにあたり、人間の常識を遥かに超えた神仏の世界が、
上記のような“正統宗教”においてこそ展開されている。
しかるに、ユダヤ=キリスト両聖書教はまったくその条件を満たさず、その教義の全てが
人知の範囲内で説明しきれ、しかも人道の最たるものである儒学などと比べて
さらなる人間の劣悪化を助長する“カルト宗教”でこそある。
・人間以上の品性>人間道徳>人間以下の品性
・正統宗教>純粋道徳学(儒学)>カルト宗教
人間以上の存在であるのが正統宗教であるのに対し、人間以下の存在であるのがカルト宗教。
信仰者を人知を超えた神仏の領域へといざなう能力を正統宗教は備えているが、
カルト宗教はかえって信仰者を禽獣同然の下劣な領域へと導く機能しか備えていない。
だから、正統宗教においては程度の低いうちにすら入れられる人間道徳の条件すらも
満たせておらず、道徳性に反する俗世での悪業、重犯罪や重権力犯罪へと信仰者を導いてしまう。
それほどにも劣悪な人間以下のカルト宗教と、人間以上でこそある正統宗教が
くそみそに扱われることで、本当に優良な正統宗教の価値までもが毀損されて、
宗教全般への不信のレッテルが貼られ、宗教嫌いのニヒリズムばかりが横行してしまっている。
ニヒリズムすら、本当は禅仏教などを通じて宗教的に包含しきれるものなのに、
宗教全般を否定しようとする盲目なニヒリズムが、カルト信仰への狂信が横行することと
共に助長されてしまっている。カルト信仰と反宗教主義がコインの裏表であり、
そのような人類劣悪化の元凶としかならないコインが根こそぎ破棄されて然るべきだ。
「真理は人を自由にする」というのも大間違いであり、真理把捉の総本山であるヒンズー教こそは
バラモンからクシャトリヤ、ヴァイシャからシュードラに至る、絶対差別のカースト制を擁してもいる。
中国版の真理把捉教学である道家においても「何もしないことこそは真理に合致する」とし、
「真理は人間の行動などとは関係ない」という、ヒンズー教の主流教義とも一致している。
真理が行動批判によって人々を不自由にするという実情があればこそ、真理と自由の高度な両立を
目論む仏教のような正統宗教までもが派生したのだから、「真理こそは人を自由にする」などという
180度転倒夢想のカルト教義が、共に認められる余地もなく、もしもそんなものが容認されるのなら、
本物の真理を捉えている正統宗教の一切がふいになり、なんらの価値も持たなくなる。
「貉稽曰く、稽大いに口に理あらず。孟子曰く、傷むことなかれ。士は茲の多口に憎まるる。
詩に憂心悄悄として群小に慍まるうと云えるは、孔子なり。肆に厥の慍みを殄たざるも、亦た厥の問を隕さずとは、文王なり」
「貉稽が孟子に問うた。『私は理に適わない悪口ばかりを言われています』 孟子は答えた。
『心配するには及びません。詩経に〔いつも多くの小人に怨まれてちっとも楽しくない(柏舟)〕とは孔子を言ったもの、
〔怨みを絶やすことはできなかったが、さりとて評判を落とすこともなかった〕とは文王を言ったものなのですから』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・一九)
バラモンからクシャトリヤ、ヴァイシャからシュードラに至る、絶対差別のカースト制を擁してもいる。
中国版の真理把捉教学である道家においても「何もしないことこそは真理に合致する」とし、
「真理は人間の行動などとは関係ない」という、ヒンズー教の主流教義とも一致している。
真理が行動批判によって人々を不自由にするという実情があればこそ、真理と自由の高度な両立を
目論む仏教のような正統宗教までもが派生したのだから、「真理こそは人を自由にする」などという
180度転倒夢想のカルト教義が、共に認められる余地もなく、もしもそんなものが容認されるのなら、
本物の真理を捉えている正統宗教の一切がふいになり、なんらの価値も持たなくなる。
「貉稽曰く、稽大いに口に理あらず。孟子曰く、傷むことなかれ。士は茲の多口に憎まるる。
詩に憂心悄悄として群小に慍まるうと云えるは、孔子なり。肆に厥の慍みを殄たざるも、亦た厥の問を隕さずとは、文王なり」
「貉稽が孟子に問うた。『私は理に適わない悪口ばかりを言われています』 孟子は答えた。
『心配するには及びません。詩経に〔いつも多くの小人に怨まれてちっとも楽しくない(柏舟)〕とは孔子を言ったもの、
〔怨みを絶やすことはできなかったが、さりとて評判を落とすこともなかった〕とは文王を言ったものなのですから』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・一九)
「おそれる(恐れる、畏れる)」ということは、人間にとっての健全な防御機能の一つであり、
痛覚によって身体損傷の危険を察知するように、おそれによって破滅などの危険も察知する。
無痛症の患者がいい気になって、屋根の上から飛び降りて大怪我を負ったりするように、
人としての健全なおそれを欠いたところで、人は致命的な破滅へとも知らずに突き進む。
だから周の成王も「畏れざれば畏れに入る(書経・周書・周官)」と言ったのであり、
おそれや痛みを無みする麻薬的な邪義に耽った借りは、後々になって全て返ってくる。
恐るべき悪に耽った以上は禍が免れない、それは道理にかなった法則である上に、
諸法因果の真理を提示する仏教教義にも即していること。四書五経一つにも及ばない
劣悪なカルト教義一つを通すために、あらゆる優等教学が無効化されるわけにもいかず、
実際、完全な無効化などはできない。優等教学の有効性を抑え付けつつ、カルト教義
ばかりをまかり通らせ続けたならば、当然のこととして人類全体が破滅に陥る。
そこに救いを見出そうなどとするほうが間違いであり、全く理に適っていない。
権力犯罪者が全員檻の中に入って、連中の鎮痛剤となってきたカルト教義が根絶
させられることの無謬さと比べて、誤謬の塊であり過ぎるが故に、痛すぎもする。
「賢者位に在り、能者職に在り、國家饟暇あり、是の時に及んで其の政刑を明らかにせば、大國と雖も、必ず之れを畏れん」
「賢人が重要な地位に就き、有能者が相応の職に就いて、国家が平穏でゆとりのあるものとなる。
この時におよんで政治や裁判をも公明正大にすれば、大国であろうともこれを畏れぬことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・四より)
痛覚によって身体損傷の危険を察知するように、おそれによって破滅などの危険も察知する。
無痛症の患者がいい気になって、屋根の上から飛び降りて大怪我を負ったりするように、
人としての健全なおそれを欠いたところで、人は致命的な破滅へとも知らずに突き進む。
だから周の成王も「畏れざれば畏れに入る(書経・周書・周官)」と言ったのであり、
おそれや痛みを無みする麻薬的な邪義に耽った借りは、後々になって全て返ってくる。
恐るべき悪に耽った以上は禍が免れない、それは道理にかなった法則である上に、
諸法因果の真理を提示する仏教教義にも即していること。四書五経一つにも及ばない
劣悪なカルト教義一つを通すために、あらゆる優等教学が無効化されるわけにもいかず、
実際、完全な無効化などはできない。優等教学の有効性を抑え付けつつ、カルト教義
ばかりをまかり通らせ続けたならば、当然のこととして人類全体が破滅に陥る。
そこに救いを見出そうなどとするほうが間違いであり、全く理に適っていない。
権力犯罪者が全員檻の中に入って、連中の鎮痛剤となってきたカルト教義が根絶
させられることの無謬さと比べて、誤謬の塊であり過ぎるが故に、痛すぎもする。
「賢者位に在り、能者職に在り、國家饟暇あり、是の時に及んで其の政刑を明らかにせば、大國と雖も、必ず之れを畏れん」
「賢人が重要な地位に就き、有能者が相応の職に就いて、国家が平穏でゆとりのあるものとなる。
この時におよんで政治や裁判をも公明正大にすれば、大国であろうともこれを畏れぬことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・四より)
怒りとか愛とかいった情念全般の諦観を促す仏教などと比べれば、儒学はずっと情的であり、
孔子も宰我のような不肖の弟子への怒りを隠さなかったし、逆に顔回のような優れた弟子への子愛をも隠さなかった。
しかし、その孔子が顔回を寵愛していたのは、「怒りを遷さず(怒りにかられて八つ当たりをしない。雍也第六・三)」
というような長所をも備えていたからであり、逆に怒りにかられて果断に振る舞い過ぎる
ような蛮勇を宿した、子路のような弟子をしょっちゅう非難してもいた。
孔子もまた、喜怒哀楽によどみのない人間臭さを備えてはいたものの、
喜怒哀楽が行き過ぎるようなことも「過ぎたるはなお及ばざるが如し」としていたのであり、
怒りや愛のような情念にかられて、善悪を見失うことの拙劣さなどへの警戒も欠かしていなかった。
仏教や道教ほどの達観もない、非宗教・無信仰の真人間教学においてですら、情念の放蕩を卑しむ
ぐらいの分別は備わっているというのに、どこぞやのカルト教学ときたら、その情念の放蕩によって
民を選り好む邪神などを祭り上げているのだから、まさに人間以下の卑小さであるといえる。
「仁人の弟に於けるや、怒りを蔵さず、怨みを宿めず、之を親愛するのみ。
之を親しみてはその貴からんことを欲し、之を愛してはその富まんことを欲す」
「仁者が弟などに対するときは、怒りを隠しもせず、さりとて怨みを留めようともせず、ただこれを親愛する。
親しみによってより貴い存在となってくれることを欲し、愛することによってより富裕になってくれることを欲する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・三より)
孔子も宰我のような不肖の弟子への怒りを隠さなかったし、逆に顔回のような優れた弟子への子愛をも隠さなかった。
しかし、その孔子が顔回を寵愛していたのは、「怒りを遷さず(怒りにかられて八つ当たりをしない。雍也第六・三)」
というような長所をも備えていたからであり、逆に怒りにかられて果断に振る舞い過ぎる
ような蛮勇を宿した、子路のような弟子をしょっちゅう非難してもいた。
孔子もまた、喜怒哀楽によどみのない人間臭さを備えてはいたものの、
喜怒哀楽が行き過ぎるようなことも「過ぎたるはなお及ばざるが如し」としていたのであり、
怒りや愛のような情念にかられて、善悪を見失うことの拙劣さなどへの警戒も欠かしていなかった。
仏教や道教ほどの達観もない、非宗教・無信仰の真人間教学においてですら、情念の放蕩を卑しむ
ぐらいの分別は備わっているというのに、どこぞやのカルト教学ときたら、その情念の放蕩によって
民を選り好む邪神などを祭り上げているのだから、まさに人間以下の卑小さであるといえる。
「仁人の弟に於けるや、怒りを蔵さず、怨みを宿めず、之を親愛するのみ。
之を親しみてはその貴からんことを欲し、之を愛してはその富まんことを欲す」
「仁者が弟などに対するときは、怒りを隠しもせず、さりとて怨みを留めようともせず、ただこれを親愛する。
親しみによってより貴い存在となってくれることを欲し、愛することによってより富裕になってくれることを欲する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・三より)
他との共存や共栄が絶対にあり得ないほどにも、致命的なドグマを宿したカルト信教などのほうが、かえって少ない。
仏教や神道などにもある程度は排他的な指向があり、中には創価学会や平田学派のように、他信教への攻撃や廃絶を
目論む派閥も生じているわけだが、全体としては結局、他信教などとの共存や共栄を嗜んでおり、神仏習合や
修験道のような二人三脚的な協力関係すら築かれることもあった。道教やヒンズー教の神である七福神、
帝釈天や吉祥天なども日本で祭られ、神道の神などと共に、人々からの信敬の対象となって来た。
他との共存を徹底的に排除するのは、とにもかくにもアブラハム教であり、ユダヤ=キリスト両聖書教と共に、
イスラム教もその排他性の高さがよく知られている。しかし、イスラムの場合は、聖典コーランの教義によって
新旧約聖書の主要教義をことごとく無効化することで、他者への危害やそれによる自分たちの繁栄の正当化を
切り捨てているために、他信教を自分たちの間で廃絶することはあっても、外界に侵略の魔の手を伸ばしまでする
ことが抑制されているので、よそ様として静観しておく限りにおいては、そんなに迷惑をかけられることもない。
結局、世界の多様性を認める観点からしても、どうしたって他との共存や共栄が絶対に不可能なのは、外界を侵略し
危害を加えることで自分たちが繁栄することを根本教義としているユダヤ=キリスト両聖書教だけでしかない。
排他的であっても、イスラムのように自分たちからの他者への危害を未然に防いでいるのならまだ構わないが、
他者にホロコースト級の危害を加えることでの自分たちの繁栄を目論むことが根本中の根本教義で
あるのような邪教だけは、他信教との隔絶性を保った共存や共栄すらも期待することができない。
仏教や神道などにもある程度は排他的な指向があり、中には創価学会や平田学派のように、他信教への攻撃や廃絶を
目論む派閥も生じているわけだが、全体としては結局、他信教などとの共存や共栄を嗜んでおり、神仏習合や
修験道のような二人三脚的な協力関係すら築かれることもあった。道教やヒンズー教の神である七福神、
帝釈天や吉祥天なども日本で祭られ、神道の神などと共に、人々からの信敬の対象となって来た。
他との共存を徹底的に排除するのは、とにもかくにもアブラハム教であり、ユダヤ=キリスト両聖書教と共に、
イスラム教もその排他性の高さがよく知られている。しかし、イスラムの場合は、聖典コーランの教義によって
新旧約聖書の主要教義をことごとく無効化することで、他者への危害やそれによる自分たちの繁栄の正当化を
切り捨てているために、他信教を自分たちの間で廃絶することはあっても、外界に侵略の魔の手を伸ばしまでする
ことが抑制されているので、よそ様として静観しておく限りにおいては、そんなに迷惑をかけられることもない。
結局、世界の多様性を認める観点からしても、どうしたって他との共存や共栄が絶対に不可能なのは、外界を侵略し
危害を加えることで自分たちが繁栄することを根本教義としているユダヤ=キリスト両聖書教だけでしかない。
排他的であっても、イスラムのように自分たちからの他者への危害を未然に防いでいるのならまだ構わないが、
他者にホロコースト級の危害を加えることでの自分たちの繁栄を目論むことが根本中の根本教義で
あるのような邪教だけは、他信教との隔絶性を保った共存や共栄すらも期待することができない。
いま、俺が聖書教義の不当性を実証するために比較対象として挙げている四書五経、その四書五経を正典とする儒学は、
時には「儒教」として信教同然の扱いを受けることもあるが(主に韓国などで)、基本は純粋な思想哲学であり、
神道や仏教や道教などを他に信仰しながら、儒学をも純粋な学問として学ぶことが昔から伝統とされてきており、
他信教との共存が可能か以前に、多くの信教の調和的な共存を扶助する「縁の下の力持ち」でこそあった。
しかし、聖書信仰はその儒学すら認めず、儒学の人間道徳にも反する劣悪なカルト教義を触れ回って
人々を重権力犯罪にけしかけ、権力道徳の堅持こそを仕事とする儒学のお株すらをも奪ってしまう。
徹頭徹尾、他信教との共存が不可能なだけでなく、儒学のような正学との共存すら不可能な「カルト教学」、
それがユダヤ=キリスト両聖書教。浄土真宗の坊さんですら、四書五経の学術的価値ぐらいは認めているのに。
「我れ三人行えば必ず我が師を得。其の善き者を択びてこれに従い、其の善からざる者にしてこれを改む」
「私は三人で行動すれば必ずその中に師とすべき相手を見つける。善い模範を示す相手には倣い従うようにし、
悪い模範を示す相手はそれを反面教師として自重の材料にするから(儒家の多様性への寛容さを示した一例。
劣悪なカルト教義を擁する聖書信仰ですら、反面教師として自重材料にするぐらいのことはできる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・術而第七・二一より)
時には「儒教」として信教同然の扱いを受けることもあるが(主に韓国などで)、基本は純粋な思想哲学であり、
神道や仏教や道教などを他に信仰しながら、儒学をも純粋な学問として学ぶことが昔から伝統とされてきており、
他信教との共存が可能か以前に、多くの信教の調和的な共存を扶助する「縁の下の力持ち」でこそあった。
しかし、聖書信仰はその儒学すら認めず、儒学の人間道徳にも反する劣悪なカルト教義を触れ回って
人々を重権力犯罪にけしかけ、権力道徳の堅持こそを仕事とする儒学のお株すらをも奪ってしまう。
徹頭徹尾、他信教との共存が不可能なだけでなく、儒学のような正学との共存すら不可能な「カルト教学」、
それがユダヤ=キリスト両聖書教。浄土真宗の坊さんですら、四書五経の学術的価値ぐらいは認めているのに。
「我れ三人行えば必ず我が師を得。其の善き者を択びてこれに従い、其の善からざる者にしてこれを改む」
「私は三人で行動すれば必ずその中に師とすべき相手を見つける。善い模範を示す相手には倣い従うようにし、
悪い模範を示す相手はそれを反面教師として自重の材料にするから(儒家の多様性への寛容さを示した一例。
劣悪なカルト教義を擁する聖書信仰ですら、反面教師として自重材料にするぐらいのことはできる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・術而第七・二一より)
新旧約聖書こと権力犯罪聖書には、他民族や異教徒などへの一方的な迫害を正当化するサディズム的な記述と、
自分たちが信仰する神からの一方的な迫害などを嬉しがるマゾヒズム的な記述との両方が併記されている。
普通はその両者を区別したりはせず、神には迫害され、その鬱憤は他民族や異教徒に八つ当たりするという
ドミノ倒し的な負の連鎖が信者にあてがわれる。しかし、よりサディズム志向の強いものは、犯罪聖書中の
「他者への加害」を正当化したような記述を主に信仰の対象として、主人的な支配者になろうとし、逆に
よりマゾヒズム志向の強いものは、「他者からの被害」を美化したような記述を主に信仰の対象として、
奴隷的な被支配者になろうとする。結局は支配者から被支配者への一方的な迫害関係を正当化や美化した
「SMの書」であることが犯罪聖書の性向であり、君主から民までの調和こそを重んずる、
権力道徳聖書こと四書五経とは、性向の正常さ変態さ如何の部分で、特に際立った違いが見られる。
犯罪聖書中におけるサディズム的な記述は、「ヨシュア記」などにおけるホロコーストの正当化に極まる一方、
マゾヒズム的な記述は、それこそ「福音書(実際の内容は禍音書)」におけるイエスの受難に極まっている。
サディズム的な記述の極まる「ヨシュア記」などが旧約聖書に編入されている一方、禍音書は新約聖書の
筆頭とされているため、新旧約聖書両方を狂信するキリスト教徒のほうが、SMのドミノ倒しを自分たちで
肥大化させられた一方、旧約のみを狂信するユダヤ教徒のほうは、誰しもがSであろうとするために、
あまり自分たちの派閥規模を肥大化はさせられなかった。そもそもSMの変態志向がむやみに肥大化するほうが
卑しいことであり、信仰者がより多いからといってキリスト教のほうがユダヤ教よりもいいだなどとはいえず、
ユダヤがウ●コの塊である一方で、キリシタンのほうはウ●コにゲロがぶっかけられた程度の違いに過ぎない。
「爾、惟れ自ら鞠り自ら苦しむ」
「おまえたちは、自分たちで自分たちを窮地に追い込んで、自分たちで勝手に苦しんでいる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚中)
自分たちが信仰する神からの一方的な迫害などを嬉しがるマゾヒズム的な記述との両方が併記されている。
普通はその両者を区別したりはせず、神には迫害され、その鬱憤は他民族や異教徒に八つ当たりするという
ドミノ倒し的な負の連鎖が信者にあてがわれる。しかし、よりサディズム志向の強いものは、犯罪聖書中の
「他者への加害」を正当化したような記述を主に信仰の対象として、主人的な支配者になろうとし、逆に
よりマゾヒズム志向の強いものは、「他者からの被害」を美化したような記述を主に信仰の対象として、
奴隷的な被支配者になろうとする。結局は支配者から被支配者への一方的な迫害関係を正当化や美化した
「SMの書」であることが犯罪聖書の性向であり、君主から民までの調和こそを重んずる、
権力道徳聖書こと四書五経とは、性向の正常さ変態さ如何の部分で、特に際立った違いが見られる。
犯罪聖書中におけるサディズム的な記述は、「ヨシュア記」などにおけるホロコーストの正当化に極まる一方、
マゾヒズム的な記述は、それこそ「福音書(実際の内容は禍音書)」におけるイエスの受難に極まっている。
サディズム的な記述の極まる「ヨシュア記」などが旧約聖書に編入されている一方、禍音書は新約聖書の
筆頭とされているため、新旧約聖書両方を狂信するキリスト教徒のほうが、SMのドミノ倒しを自分たちで
肥大化させられた一方、旧約のみを狂信するユダヤ教徒のほうは、誰しもがSであろうとするために、
あまり自分たちの派閥規模を肥大化はさせられなかった。そもそもSMの変態志向がむやみに肥大化するほうが
卑しいことであり、信仰者がより多いからといってキリスト教のほうがユダヤ教よりもいいだなどとはいえず、
ユダヤがウ●コの塊である一方で、キリシタンのほうはウ●コにゲロがぶっかけられた程度の違いに過ぎない。
「爾、惟れ自ら鞠り自ら苦しむ」
「おまえたちは、自分たちで自分たちを窮地に追い込んで、自分たちで勝手に苦しんでいる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚中)
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「韓非子」第二巻・二柄第七では、韓の昭侯が、自分が居眠りしているときに着物をかけた役人を、
「職分を侵した越権行為である」として罰する話が出てくる。善いことであるにしろ悪いことであるにしろ、
命令を超えたことは絶対にしてはならないというのが法家の言い分であり、儒家はこの法家を自分たちよりも
程度の低いものとして劣後する一方で、完全に捨て去った「無法状態」になることもまた認めない。
今の刑法や民法に当たるような、事務的な法律を身勝手な理由で破ることは決して認めず、
その代わり、法律よりもさらに重大な理念である仁義や礼節に適った超法規的行為に限って認める。
法家と同じように、儒家もまた世俗の政治学である一方で、法律万能主義以上にも融通の利いた道徳統治によって
秦王朝のような短命には終わらない、恒久的な泰平社会の実現を画策していく。あくまで泰平のための貢献になる
道徳行為のみが超法規的行為であることも認めるのであり、ただの身勝手さが法規を破ることを認めるものではない。
「天子の地は方千里、千里ならざれば以て諸侯を待つに足らず。
諸侯の地は方百里、百里ならざれば以て宗廟の典籍を守るに足らず。
周公の魯に封ぜらるるや、方百里たり。地足らざるにはあらざるも、百里に倹せり。
太公の斉に封ぜらるるや、亦方百里たり。地足らざるにはあらざるも、百里に倹せり」
「昔、周の頃には天子の土地は千里四方と決められていた。千里四方はなければ諸侯を歓待することができなかったからだ。
そして諸侯の封土は百里四方と定められていた。百里四方はなければ宗廟の典籍に書いてある通りの儀式が執り行えなかったからだ。
(天子である武王の弟である)周公が魯に封ぜられた時も、その封土は百里四方だった。土地が足りなかったわけではないが、
天子への僭越を憚ってあえて百里四方に倹約した。(殷周革命における最大の功労者だった)太公望が斉に封ぜられた時も、
その封土はやはり百里四方だった。これまた土地が足りなかったわけではないが、天子に憚って百里四方に倹約した」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・八より)
「職分を侵した越権行為である」として罰する話が出てくる。善いことであるにしろ悪いことであるにしろ、
命令を超えたことは絶対にしてはならないというのが法家の言い分であり、儒家はこの法家を自分たちよりも
程度の低いものとして劣後する一方で、完全に捨て去った「無法状態」になることもまた認めない。
今の刑法や民法に当たるような、事務的な法律を身勝手な理由で破ることは決して認めず、
その代わり、法律よりもさらに重大な理念である仁義や礼節に適った超法規的行為に限って認める。
法家と同じように、儒家もまた世俗の政治学である一方で、法律万能主義以上にも融通の利いた道徳統治によって
秦王朝のような短命には終わらない、恒久的な泰平社会の実現を画策していく。あくまで泰平のための貢献になる
道徳行為のみが超法規的行為であることも認めるのであり、ただの身勝手さが法規を破ることを認めるものではない。
「天子の地は方千里、千里ならざれば以て諸侯を待つに足らず。
諸侯の地は方百里、百里ならざれば以て宗廟の典籍を守るに足らず。
周公の魯に封ぜらるるや、方百里たり。地足らざるにはあらざるも、百里に倹せり。
太公の斉に封ぜらるるや、亦方百里たり。地足らざるにはあらざるも、百里に倹せり」
「昔、周の頃には天子の土地は千里四方と決められていた。千里四方はなければ諸侯を歓待することができなかったからだ。
そして諸侯の封土は百里四方と定められていた。百里四方はなければ宗廟の典籍に書いてある通りの儀式が執り行えなかったからだ。
(天子である武王の弟である)周公が魯に封ぜられた時も、その封土は百里四方だった。土地が足りなかったわけではないが、
天子への僭越を憚ってあえて百里四方に倹約した。(殷周革命における最大の功労者だった)太公望が斉に封ぜられた時も、
その封土はやはり百里四方だった。これまた土地が足りなかったわけではないが、天子に憚って百里四方に倹約した」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・八より)
「虹」は陰陽の交接によって成り立つものとして、中国などでは「結婚」の象徴とされていた。
しかし、結婚だからといって一概にいいもの扱いもできず、男系社会では女子が男子の家に嫁ぐのが基本であり、
嫁いだ以上はその家の者となって、実家を離れることが親愛を損なうものともなることから、
女子があまり婚姻を積極的に欲することは無信無知の愚行とされ、結婚式でも「角隠し」などの、
女性性をあえて隠すような格好をすることが慣習とされていた。
キリスト教式の、花嫁がド派手なウェディングドレスを着ていかにも祝福され通しな結婚式などは、
自分を育ててくれた両親たちを棄てて、他の家に嫁ぐ女子の側の事情への配慮を全く欠いており、
到底男系社会の正統な風習には当たらない。神の愛の下での平等だの、個人主義だのの名目で父母親族
への恩愛を蔑ろにするその所業は無信無知の最たるものであり、それなりの儀式を執り行うにしても、
厳粛さを重んじてヘラヘラと祝福したりはしない東洋式の結婚式のほうが、本当は正しい。
「蝃蝀が東に在るを、之を敢えて指さす莫し。女子の行く有り、父母兄弟に遠ざかり。
朝隮の西に于れば、崇朝に其れ雨ふる。女子の行く有り、兄弟父母に遠ざかり。
乃れ之くの如き人、昏姻を懷えども、大しも信無く、命を知らざるなり」
「東の夕空に虹が昇れども、あえてこれを指さそうとはしない。女子が嫁ぎ行く時には、父母兄弟から遠ざかるもの。
西の朝空に虹が昇ったなら、日中は雨になることも見込まれる。女子が嫁ぎ行く時には、兄弟父母から遠ざかるもの。
欲情のあまり婚姻を急ぐような女子は、信用もならない上に、その命を知りも知らない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・鄘風・蝃蝀)
しかし、結婚だからといって一概にいいもの扱いもできず、男系社会では女子が男子の家に嫁ぐのが基本であり、
嫁いだ以上はその家の者となって、実家を離れることが親愛を損なうものともなることから、
女子があまり婚姻を積極的に欲することは無信無知の愚行とされ、結婚式でも「角隠し」などの、
女性性をあえて隠すような格好をすることが慣習とされていた。
キリスト教式の、花嫁がド派手なウェディングドレスを着ていかにも祝福され通しな結婚式などは、
自分を育ててくれた両親たちを棄てて、他の家に嫁ぐ女子の側の事情への配慮を全く欠いており、
到底男系社会の正統な風習には当たらない。神の愛の下での平等だの、個人主義だのの名目で父母親族
への恩愛を蔑ろにするその所業は無信無知の最たるものであり、それなりの儀式を執り行うにしても、
厳粛さを重んじてヘラヘラと祝福したりはしない東洋式の結婚式のほうが、本当は正しい。
「蝃蝀が東に在るを、之を敢えて指さす莫し。女子の行く有り、父母兄弟に遠ざかり。
朝隮の西に于れば、崇朝に其れ雨ふる。女子の行く有り、兄弟父母に遠ざかり。
乃れ之くの如き人、昏姻を懷えども、大しも信無く、命を知らざるなり」
「東の夕空に虹が昇れども、あえてこれを指さそうとはしない。女子が嫁ぎ行く時には、父母兄弟から遠ざかるもの。
西の朝空に虹が昇ったなら、日中は雨になることも見込まれる。女子が嫁ぎ行く時には、兄弟父母から遠ざかるもの。
欲情のあまり婚姻を急ぐような女子は、信用もならない上に、その命を知りも知らない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・鄘風・蝃蝀)
儒学は「儒教」として信仰対象となり、その正典である四書五経などが信仰の書とされることもある。
しかし基本は純粋な学問であり、その正典たる四書五経なども信仰されることを目的として書かれているのではない。
そのため「礼記」や「左伝」にも、親との遺言の約束を破って妾を殉死させなかった孝行息子の例などが挙げられているし、
「信を好みて学を好まざれば、その蔽や賊(陽貨第十七・八)」ともいう。強いて言うならば、契約を重んずる「信」というものを
仁義や礼といったより高尚な理念の下に置き、仁義や礼と選択肢が相反する場合には、仁義や礼を信よりも優先させることが
「五常(仁義礼智信)」の順列などの形で信仰対象とされる。しかし、この五常や、君臣父子夫婦の序列を貴ぶ「三綱」などとて、
殊更な狂信の対象とはせず、その学問的な価値を図り知ったうえで、シラフの実践対象とするほうがより善いに決まっている。
つまり、儒学はシラフの学問対象や実践対象となる「儒学」であるほうが、殊更な信仰対象にされる「儒教」であるよりも高尚なのであり、
韓国などに根付いた信仰対象としての儒教よりも、日本などに根付いた純粋な学問対象としての儒学のほうが高尚なのでもある。
朝鮮には神道に当たるような土着宗教が少ない一方で、キリスト教信仰は洗脳政策などを通じてまんまと受け入れたりと、
「信」に関して悪食に過ぎる所があり、それもまた、悪衣悪食を恥ずることを卑しむ論語の記述(里仁第四・九)などに
基づいて信仰対象とされているのかもしれない(実際にはこの記述は清貧を貴ぶ意味が込められているだけなのに)。
しかし基本は純粋な学問であり、その正典たる四書五経なども信仰されることを目的として書かれているのではない。
そのため「礼記」や「左伝」にも、親との遺言の約束を破って妾を殉死させなかった孝行息子の例などが挙げられているし、
「信を好みて学を好まざれば、その蔽や賊(陽貨第十七・八)」ともいう。強いて言うならば、契約を重んずる「信」というものを
仁義や礼といったより高尚な理念の下に置き、仁義や礼と選択肢が相反する場合には、仁義や礼を信よりも優先させることが
「五常(仁義礼智信)」の順列などの形で信仰対象とされる。しかし、この五常や、君臣父子夫婦の序列を貴ぶ「三綱」などとて、
殊更な狂信の対象とはせず、その学問的な価値を図り知ったうえで、シラフの実践対象とするほうがより善いに決まっている。
つまり、儒学はシラフの学問対象や実践対象となる「儒学」であるほうが、殊更な信仰対象にされる「儒教」であるよりも高尚なのであり、
韓国などに根付いた信仰対象としての儒教よりも、日本などに根付いた純粋な学問対象としての儒学のほうが高尚なのでもある。
朝鮮には神道に当たるような土着宗教が少ない一方で、キリスト教信仰は洗脳政策などを通じてまんまと受け入れたりと、
「信」に関して悪食に過ぎる所があり、それもまた、悪衣悪食を恥ずることを卑しむ論語の記述(里仁第四・九)などに
基づいて信仰対象とされているのかもしれない(実際にはこの記述は清貧を貴ぶ意味が込められているだけなのに)。
聖書信仰が信教として下劣な部類に入るのは誰しもが認めるところだが、儒学も儒教のような信仰対象にされるのでは、
あまりその教学の上等な享受であるとはいえない。信仰というものは神道や仏教、道教などのような、あまりにも高尚すぎて
常人には十分な実践も不可能な宗教などに対してこそ振り向けられるべきものであり、それが犯罪聖書でないのはもちろんのこと、
道徳聖書たる四書五経もまた、あまり適切な信仰対象には当たらない。信じるぐらいなら、シラフで実践してしまえ、四書五経。
「苓を采る苓を采る、首陽の嶺に。人の為言を、苟にも信ずる無かれ。
旃を舎てよ旃を舎てよ、苟にも然りとする無かれ。人の為言を、胡ぞ焉りとするを得ん」
「首陽山の頂きで、アマクサを摘み摘み想う。偽りだらけの人の言葉を、本当のことだなどと信じるな。アマクサは摘んでも、
人の言葉は捨て去り、仮にも『しかり』などとはするな。偽りだらけの人の言葉を、なぜ『しかり』などとできようか。
(人里はなれた山の頂きで山菜を積む詩。道家的な隠遁指向も垣間見られるが、
『首陽山』という辺り、伯夷・叔斉の気持ちを暗に代弁しているのだと思われる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・唐風・采苓より)
あまりその教学の上等な享受であるとはいえない。信仰というものは神道や仏教、道教などのような、あまりにも高尚すぎて
常人には十分な実践も不可能な宗教などに対してこそ振り向けられるべきものであり、それが犯罪聖書でないのはもちろんのこと、
道徳聖書たる四書五経もまた、あまり適切な信仰対象には当たらない。信じるぐらいなら、シラフで実践してしまえ、四書五経。
「苓を采る苓を采る、首陽の嶺に。人の為言を、苟にも信ずる無かれ。
旃を舎てよ旃を舎てよ、苟にも然りとする無かれ。人の為言を、胡ぞ焉りとするを得ん」
「首陽山の頂きで、アマクサを摘み摘み想う。偽りだらけの人の言葉を、本当のことだなどと信じるな。アマクサは摘んでも、
人の言葉は捨て去り、仮にも『しかり』などとはするな。偽りだらけの人の言葉を、なぜ『しかり』などとできようか。
(人里はなれた山の頂きで山菜を積む詩。道家的な隠遁指向も垣間見られるが、
『首陽山』という辺り、伯夷・叔斉の気持ちを暗に代弁しているのだと思われる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・唐風・采苓より)
「我聞くに曰く、至治の馨香、神明を感ぜしむ。黍稷馨わしきに非ず。明鄹惟れ馨わしきなり。
爾じ尚わくは時の周公の猷を式いて訓えよ。惟れ日に孜孜として、敢えて逸豫する無かれ」
「私の聞くことには、善政徳治を極めたことによる香気は、天地神明をも感動させるという。お供えの黍や粟が芳しいのではなく、
その明徳こそは芳しさとなるのだ。(臣下の君陳へ)おまえこそは願わくは、この周公の教えを用いて民を教導してほしい。
日々を孜孜として勤め励み、決して自らの逸楽ばかりに耽ったりすることがないようにせよ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)
「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。
滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者にとっては命から命に至らせる香りです」
(権力犯罪聖書——通称聖書——コリント人への第二の脅迫文2:15-16)
爾じ尚わくは時の周公の猷を式いて訓えよ。惟れ日に孜孜として、敢えて逸豫する無かれ」
「私の聞くことには、善政徳治を極めたことによる香気は、天地神明をも感動させるという。お供えの黍や粟が芳しいのではなく、
その明徳こそは芳しさとなるのだ。(臣下の君陳へ)おまえこそは願わくは、この周公の教えを用いて民を教導してほしい。
日々を孜孜として勤め励み、決して自らの逸楽ばかりに耽ったりすることがないようにせよ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)
「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。
滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者にとっては命から命に至らせる香りです」
(権力犯罪聖書——通称聖書——コリント人への第二の脅迫文2:15-16)
果たして、どちらの「香気」が真実の香気なのであるのかということは一旦置いておいて、
香気に対して賛辞を現そうとする周公の姿勢と、コリント脅迫文の作者の姿勢との相違に注目されたい。
後世にも、その善政を評価され続けている歴史的名臣であるにもかかわらず、周公はあくまで「自分はこのように聞く」という形で、
まるで他人事のように徳治が匂わせる香気を提示する。その香気は、天地神明をも感動させるものであり、天下万民を厚生へと
導くものであるから、むしろ為政者たる自分たちはその香気を独り占めにしようとしたりせず、逸楽に耽るようなことも
ないようにと念を押す。対してコリント脅迫文の作者のほうは、ハナっから香気を自分たちで独り占めにしようとする体でいて、
その香気が自分たちにばかり利益をもたらして、他者にはかえって危害を加えるものであることも明示している。
どちらが真の正義であり、もう一方が偽りの正義であるかということを、その契約を付託している神明の真偽を頼りに
するまでもなく、その正義を享受しようとしている者の側の姿勢の真摯さ如何の面で、明らかに道徳聖書たる四書五経のほうが
優良であり、犯罪聖書たる新旧約聖書のほうが劣悪。片や天下万民に利する仁義を旨とし、片や自分たちだけを利する我田引水に
終始しており、その享受者の行状の優劣良悪如何によって、すでにそれらの学知や教義を推進していった場合の結果は見えている。
香気に対して賛辞を現そうとする周公の姿勢と、コリント脅迫文の作者の姿勢との相違に注目されたい。
後世にも、その善政を評価され続けている歴史的名臣であるにもかかわらず、周公はあくまで「自分はこのように聞く」という形で、
まるで他人事のように徳治が匂わせる香気を提示する。その香気は、天地神明をも感動させるものであり、天下万民を厚生へと
導くものであるから、むしろ為政者たる自分たちはその香気を独り占めにしようとしたりせず、逸楽に耽るようなことも
ないようにと念を押す。対してコリント脅迫文の作者のほうは、ハナっから香気を自分たちで独り占めにしようとする体でいて、
その香気が自分たちにばかり利益をもたらして、他者にはかえって危害を加えるものであることも明示している。
どちらが真の正義であり、もう一方が偽りの正義であるかということを、その契約を付託している神明の真偽を頼りに
するまでもなく、その正義を享受しようとしている者の側の姿勢の真摯さ如何の面で、明らかに道徳聖書たる四書五経のほうが
優良であり、犯罪聖書たる新旧約聖書のほうが劣悪。片や天下万民に利する仁義を旨とし、片や自分たちだけを利する我田引水に
終始しており、その享受者の行状の優劣良悪如何によって、すでにそれらの学知や教義を推進していった場合の結果は見えている。
徳治社会では「礼楽刑政」として、政治や刑務の上にすら置かれる「礼楽」の基本原理を示した以下の記述。
楽しみは内にあってそれが徳性の輝きとなり、外面は礼節によって正されることで理性の極みと化す。
内も外も楽しむのでもなければ、内も外も理性によって雁字搦めになるのでもない、調和と従順の中庸を行く徳治。
東洋文化は、外貌的には楚々としてド派手さなどを控えたものが多いが、それは内面の楽との調和を図ってのことであり、
内外共に理性で雁字搦めにされるニヒリスムの表れなどではない。西洋文化などは、内外ともどもお花畑状態の宗教文化と、
内外ともどもニヒリズム状態な無宗教文化の両極端に振れきっているが、内は楽しみ、外は礼に律されという中庸を保った
文化のあり方は未だかつて無く、太古の昔から根本的な部分での中庸をわきまえている、東洋文化の手堅さには感服させられる。
「樂は内に動くものなり、禮は外に動くものなり。樂は和を極め、禮は順を極む。
内和らぎて外順なるときは、則ち民其の顏色を瞻て與に爭わざるなり。其の容貌を望みて、民易慢を生ぜず。
故に鄹輝内に動きて、民承け聽きかざると莫く、理外に發して、民承け順わざるとなし」
「礼楽の楽は内面を躍動させ、礼は外面を制動させる。楽は調和を極める作用を持ち、礼は従順を極める作用を持つ。
内面に調和があって外面が従順であるときには、民はその顔色を見るだけでも共に争わぬようになる。
その容貌を見るだけで軽率な侮りを抱かぬようになり、徳性の輝きが内にこそ躍動して、
民は何事も聞き入れぬことがなく、理性の働きは外に発して、民はどんな命令にも聞き従わぬことがない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・樂記第十九より)
楽しみは内にあってそれが徳性の輝きとなり、外面は礼節によって正されることで理性の極みと化す。
内も外も楽しむのでもなければ、内も外も理性によって雁字搦めになるのでもない、調和と従順の中庸を行く徳治。
東洋文化は、外貌的には楚々としてド派手さなどを控えたものが多いが、それは内面の楽との調和を図ってのことであり、
内外共に理性で雁字搦めにされるニヒリスムの表れなどではない。西洋文化などは、内外ともどもお花畑状態の宗教文化と、
内外ともどもニヒリズム状態な無宗教文化の両極端に振れきっているが、内は楽しみ、外は礼に律されという中庸を保った
文化のあり方は未だかつて無く、太古の昔から根本的な部分での中庸をわきまえている、東洋文化の手堅さには感服させられる。
「樂は内に動くものなり、禮は外に動くものなり。樂は和を極め、禮は順を極む。
内和らぎて外順なるときは、則ち民其の顏色を瞻て與に爭わざるなり。其の容貌を望みて、民易慢を生ぜず。
故に鄹輝内に動きて、民承け聽きかざると莫く、理外に發して、民承け順わざるとなし」
「礼楽の楽は内面を躍動させ、礼は外面を制動させる。楽は調和を極める作用を持ち、礼は従順を極める作用を持つ。
内面に調和があって外面が従順であるときには、民はその顔色を見るだけでも共に争わぬようになる。
その容貌を見るだけで軽率な侮りを抱かぬようになり、徳性の輝きが内にこそ躍動して、
民は何事も聞き入れぬことがなく、理性の働きは外に発して、民はどんな命令にも聞き従わぬことがない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・樂記第十九より)
四書五経に頻出する「君子」という言葉は、元来は「君主の子弟」という意味であり、
商業を含む産業に従事する「小人」よりは上に当たるものの、君主には臣従する中間管理職的な存在。
儒家の祖である孔子もまた、「君臣侯公大夫士農工商」のうちの、ちょうど真ん中付近に当たる士大夫の身分であり、
一時的には魯国の宰相に抜擢されるなどして、魯侯に仕える公子となったこともあった。
それもただ、そうだったというだけではなく、士大夫や公子として謹厳な振る舞いに徹することが、
ありのままに「君子」としての理想的なあり方を体現していたからで、上位の王侯に対する悌順な忠節と、
下位の小人(農工商民など)に対する慈しみ深き厳格さとの両方を備えていることから、親に対して孝行な子供、
子に対して厳しくも情深き親である人間の模範にすらなったから、今でもその道徳性の高さが向学対象とされている。
とはいえ今の世の中は、民主制か、さもなくば軍事独裁制かという、独裁者か下民かのいずれかに大権が牛耳られるしか
選択肢がない、全く中庸を欠いた政治状態にあるため、君主と民衆の架け橋となる、士大夫のような中間管理職的な
人間の権限が一切認められず、よって士大夫こそが模範となる君子のあり方も十分に体現されることすらない。
商工民が経書をかじって実践などをしようとした所で、所詮はごっこ遊びにしかならず、ちゃんと政治的な責任を背負い、
万人を利して我が利ともする仁義道徳に根ざしてこそ君子たり得るものなので、我田引水こそは根本目的である
商工民が君子になろうとしたところで、たいまつを掲げながら消火活動を試みるようなざまとなる。
「邦に道あれば則ち仕え、邦に道なければ則ち巻きてこれを懐にすべし」
「天下国家に仁義道徳が通用している時には人に仕え、通用していない時にはその志しをくるんで懐に隠しておく。
(とにかく人に服して諂っていればそれでいい小人とは違い、君子には仕えるべきものとそうでないものがある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——衛霊公第十五・七より)
商業を含む産業に従事する「小人」よりは上に当たるものの、君主には臣従する中間管理職的な存在。
儒家の祖である孔子もまた、「君臣侯公大夫士農工商」のうちの、ちょうど真ん中付近に当たる士大夫の身分であり、
一時的には魯国の宰相に抜擢されるなどして、魯侯に仕える公子となったこともあった。
それもただ、そうだったというだけではなく、士大夫や公子として謹厳な振る舞いに徹することが、
ありのままに「君子」としての理想的なあり方を体現していたからで、上位の王侯に対する悌順な忠節と、
下位の小人(農工商民など)に対する慈しみ深き厳格さとの両方を備えていることから、親に対して孝行な子供、
子に対して厳しくも情深き親である人間の模範にすらなったから、今でもその道徳性の高さが向学対象とされている。
とはいえ今の世の中は、民主制か、さもなくば軍事独裁制かという、独裁者か下民かのいずれかに大権が牛耳られるしか
選択肢がない、全く中庸を欠いた政治状態にあるため、君主と民衆の架け橋となる、士大夫のような中間管理職的な
人間の権限が一切認められず、よって士大夫こそが模範となる君子のあり方も十分に体現されることすらない。
商工民が経書をかじって実践などをしようとした所で、所詮はごっこ遊びにしかならず、ちゃんと政治的な責任を背負い、
万人を利して我が利ともする仁義道徳に根ざしてこそ君子たり得るものなので、我田引水こそは根本目的である
商工民が君子になろうとしたところで、たいまつを掲げながら消火活動を試みるようなざまとなる。
「邦に道あれば則ち仕え、邦に道なければ則ち巻きてこれを懐にすべし」
「天下国家に仁義道徳が通用している時には人に仕え、通用していない時にはその志しをくるんで懐に隠しておく。
(とにかく人に服して諂っていればそれでいい小人とは違い、君子には仕えるべきものとそうでないものがある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——衛霊公第十五・七より)
なんと、「平和」という言葉の出典も四書五経の「礼記」。
聖徳太子が十七条憲法で引用した「和を以て貴しと為す」という名言も「礼記」儒行第四十一にあり、
真摯なる礼節のわきまえと共にこそ、平らかなる人々の調和が叶えられるのであると分かる。
親族兄弟での殺し合いすら予言しているようなカルト教祖に付いていって、
平和の徳が衰滅させられることこそあれ、隆盛することなどあるはずもなく。
「土敝ゆるときは則と草木を長ぜず、水煩しきときは則ち魚鼈大ならず、氣衰ふるときは則ち生物遂げず、世亂るるときは則ち
禮慝にして樂淫す。是の故に其の聲哀しんで莊そかならず、樂しんで安からず、慢易して以て節を犯し、流湎して以て本を忘る。
廣きときは則ち奸を容れ、狹きときは則ち欲を思う。條暢の氣を感ぜしめて平和の鄹を滅す。是を以て君子は之を賤しむなり」
「土壌が痩せている時には草木も長大には育たず、漁期も決めずに乱獲していれば魚介類も獲れなくなり、そうでなくても、
冬のように気候が寒冷となる頃には生物の活動も衰える。それと同じように、世が乱れているときには礼節も隠されて、
人々も礼楽には当たらないような淫らな快楽に耽るようになる。そのため人々の声はいつも哀しみを帯びて荘重さを失い、
無理に楽しもうとしたところでどこまでも安らかならぬ渇望に苛まれる。驕慢安易にして節度を侵し、だらしなさに溺れて
物事の根本を見失う。寛容であろうとする時には奸邪を受け入れ、狭量であろうとする時には私利私欲ばかりを守ろうとする。
(仁者なら、寛容であろうとする時には天下万民の利益を受け入れ、狭量であろうとする時には奸邪を排しようとするだろう)
天地に満たされた伸びやかなる気に不埒な感傷を与えて平和の徳を衰滅させる。君子はこのようなことこそを賤しむ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
礼楽が覆い隠されて、奸邪を受け入れて仁義に狭量な、驕慢さ安易さばかりはびこる現代は、まさに「人類の冬」だといえる。
聖徳太子が十七条憲法で引用した「和を以て貴しと為す」という名言も「礼記」儒行第四十一にあり、
真摯なる礼節のわきまえと共にこそ、平らかなる人々の調和が叶えられるのであると分かる。
親族兄弟での殺し合いすら予言しているようなカルト教祖に付いていって、
平和の徳が衰滅させられることこそあれ、隆盛することなどあるはずもなく。
「土敝ゆるときは則と草木を長ぜず、水煩しきときは則ち魚鼈大ならず、氣衰ふるときは則ち生物遂げず、世亂るるときは則ち
禮慝にして樂淫す。是の故に其の聲哀しんで莊そかならず、樂しんで安からず、慢易して以て節を犯し、流湎して以て本を忘る。
廣きときは則ち奸を容れ、狹きときは則ち欲を思う。條暢の氣を感ぜしめて平和の鄹を滅す。是を以て君子は之を賤しむなり」
「土壌が痩せている時には草木も長大には育たず、漁期も決めずに乱獲していれば魚介類も獲れなくなり、そうでなくても、
冬のように気候が寒冷となる頃には生物の活動も衰える。それと同じように、世が乱れているときには礼節も隠されて、
人々も礼楽には当たらないような淫らな快楽に耽るようになる。そのため人々の声はいつも哀しみを帯びて荘重さを失い、
無理に楽しもうとしたところでどこまでも安らかならぬ渇望に苛まれる。驕慢安易にして節度を侵し、だらしなさに溺れて
物事の根本を見失う。寛容であろうとする時には奸邪を受け入れ、狭量であろうとする時には私利私欲ばかりを守ろうとする。
(仁者なら、寛容であろうとする時には天下万民の利益を受け入れ、狭量であろうとする時には奸邪を排しようとするだろう)
天地に満たされた伸びやかなる気に不埒な感傷を与えて平和の徳を衰滅させる。君子はこのようなことこそを賤しむ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
礼楽が覆い隠されて、奸邪を受け入れて仁義に狭量な、驕慢さ安易さばかりはびこる現代は、まさに「人類の冬」だといえる。
「封神演義」などの小説にも見られる、酒池肉林や炮烙の刑といった、殷の紂王の悪行の数々、
中には事実であるものもあれば、創作であるものもあり、中国史上にも稀に見る悪玉の暴君として、
半ば誇張気味にすらその悪行が後世に伝えられることとなった。
そのあまりの悪評高さに、孔子の弟子の子貢も「噂ほどにはひどくなかっただろう(子張第十九・二〇)」
と述べており、誇張気味の悪評がすでに、孔子の生きた春秋時代末期にも定着していたことが分かる。
しかし、紂王の悪行三昧も全くの創作というわけではなく、酒池肉林や炮烙の刑も実際にやったようだし、
何よりも「詩経」や「書経」などに、文王や武王が紂王の悪行三昧に苦言を呈したり、ついに放伐せんという
時の誓いの言葉などにおいて、本当に紂王がやっていた中でも致命的だった悪行が事細かに述べられている。
すでにここでも何度も引用しているところだが、簡単に言えば「奸邪を受け入れて小利を貪る」、
具体的には、賢臣や君子を退け佞臣や小人ばかりを近づけ、挙句には盗賊集団とまでも手を組み、
無辜の市民を襲っては利益を奪い去り、君主の身でありながら私利私欲ばかりを貪るといったもの。
(>>174の「詩経」大雅からの引用や、>>196の「書経」周書からの引用を参照)
これこそは、典型的な権力犯罪者の姿であり、酒池肉林のような私的な享楽以上にも致命的に許されない部分。
「史記」貨殖列伝冒頭で司馬遷も「最低の為政者は民と争う」と言っているが、自らが治めるべき民を敵に回し、
権力を順当な統治のためではなく、民の虐げのために乱用するようになる。小利を貪ることも純粋な商売人であれば
そんなに大きな問題とはならず、奸邪に走ることですら純粋な盗賊であるのみならば、十分な村八分を受けて
そんなに大きな被害をもたらすこともない。しかし、人の上に立つ権力者こそは奸邪や小利と結びつき、
子供のようなわがままを権力の嵩にかかって押し通すようになった時には、その危害たるや半端なものではなく、
天下全土が「人類の冬」とでも言えるほどの荒廃に陥ってしまう。
中には事実であるものもあれば、創作であるものもあり、中国史上にも稀に見る悪玉の暴君として、
半ば誇張気味にすらその悪行が後世に伝えられることとなった。
そのあまりの悪評高さに、孔子の弟子の子貢も「噂ほどにはひどくなかっただろう(子張第十九・二〇)」
と述べており、誇張気味の悪評がすでに、孔子の生きた春秋時代末期にも定着していたことが分かる。
しかし、紂王の悪行三昧も全くの創作というわけではなく、酒池肉林や炮烙の刑も実際にやったようだし、
何よりも「詩経」や「書経」などに、文王や武王が紂王の悪行三昧に苦言を呈したり、ついに放伐せんという
時の誓いの言葉などにおいて、本当に紂王がやっていた中でも致命的だった悪行が事細かに述べられている。
すでにここでも何度も引用しているところだが、簡単に言えば「奸邪を受け入れて小利を貪る」、
具体的には、賢臣や君子を退け佞臣や小人ばかりを近づけ、挙句には盗賊集団とまでも手を組み、
無辜の市民を襲っては利益を奪い去り、君主の身でありながら私利私欲ばかりを貪るといったもの。
(>>174の「詩経」大雅からの引用や、>>196の「書経」周書からの引用を参照)
これこそは、典型的な権力犯罪者の姿であり、酒池肉林のような私的な享楽以上にも致命的に許されない部分。
「史記」貨殖列伝冒頭で司馬遷も「最低の為政者は民と争う」と言っているが、自らが治めるべき民を敵に回し、
権力を順当な統治のためではなく、民の虐げのために乱用するようになる。小利を貪ることも純粋な商売人であれば
そんなに大きな問題とはならず、奸邪に走ることですら純粋な盗賊であるのみならば、十分な村八分を受けて
そんなに大きな被害をもたらすこともない。しかし、人の上に立つ権力者こそは奸邪や小利と結びつき、
子供のようなわがままを権力の嵩にかかって押し通すようになった時には、その危害たるや半端なものではなく、
天下全土が「人類の冬」とでも言えるほどの荒廃に陥ってしまう。
殷の紂王よりもさらに以前にいたとされる夏の桀王も、同様な悪行三昧に走ったせいで湯王の放伐を被ったというし、
秦の始皇帝なども、法律万能主義という武器を盾にしてはいたものの、その内実は上記のような暴君とも
代わる所がなかった。そして今の、法律万能主義にさらに「民主主義」という盾を二重に重ねた現代社会の政治体制も、
結局は内面に夏桀殷紂のごとき、権力犯罪による暴虐三昧の種を宿したままでいることには代わりなく、君主の徳性が
根本のところから正されていく権力道徳の条件を満たせていない点は同じ。奸邪の受け入れは民主主義によって
高度に正当化され、小利の貪りは資本主義によって高度に正当化された上で延命を続けており、さも悪性のガンが
強力な抗ガン剤によって何とか進行を防がれているものの、ガンそのものの治療はほったらかしにされているかの如く。
「王の所に在る者、長幼卑尊、皆な薛居州ならば、王誰と與にか不善を為さん。
王の所に在る者、長幼卑尊、皆な薛居州に非ざれば也、王誰と與にか善を為さん」
「王君に近侍するものが、年齢の長幼や身分の貴賤を問わず、皆な薛居州のような賢人ならば、王は誰と共に不善をなし得ようか。
また王君に近侍するものが、年齢の長幼や身分の貴賤を問わず、皆な薛居州のような賢人でないとすれば、王は誰と共に善をなし得ようか。
(問題は年齢の長幼や身分の貴賤以上にも、各人の徳性が正されていることである。そのためには当然、長幼貴賤の序も必要となるが)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・六より)
秦の始皇帝なども、法律万能主義という武器を盾にしてはいたものの、その内実は上記のような暴君とも
代わる所がなかった。そして今の、法律万能主義にさらに「民主主義」という盾を二重に重ねた現代社会の政治体制も、
結局は内面に夏桀殷紂のごとき、権力犯罪による暴虐三昧の種を宿したままでいることには代わりなく、君主の徳性が
根本のところから正されていく権力道徳の条件を満たせていない点は同じ。奸邪の受け入れは民主主義によって
高度に正当化され、小利の貪りは資本主義によって高度に正当化された上で延命を続けており、さも悪性のガンが
強力な抗ガン剤によって何とか進行を防がれているものの、ガンそのものの治療はほったらかしにされているかの如く。
「王の所に在る者、長幼卑尊、皆な薛居州ならば、王誰と與にか不善を為さん。
王の所に在る者、長幼卑尊、皆な薛居州に非ざれば也、王誰と與にか善を為さん」
「王君に近侍するものが、年齢の長幼や身分の貴賤を問わず、皆な薛居州のような賢人ならば、王は誰と共に不善をなし得ようか。
また王君に近侍するものが、年齢の長幼や身分の貴賤を問わず、皆な薛居州のような賢人でないとすれば、王は誰と共に善をなし得ようか。
(問題は年齢の長幼や身分の貴賤以上にも、各人の徳性が正されていることである。そのためには当然、長幼貴賤の序も必要となるが)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・六より)
しかし、本当に充実した毎日を遅らせてもらっている。
毎日四書五経から短文を引いて寸評を加える、ただそれだけで
どこまでも精神の健全さを保ち、心の修養にも努められる。
科挙のエリートだと、四十過ぎまで経書の勉強を続けてもまだ半人前扱い
される場合があったそうだが、それほどにも漢学の度量は深いということだ。
願わくば、おまえら全員が檻の中に入って道徳労働が可能となってから、
俺もそれなりの仕事をしながら経書の勉強も続けていきたいものだ。
毎日四書五経から短文を引いて寸評を加える、ただそれだけで
どこまでも精神の健全さを保ち、心の修養にも努められる。
科挙のエリートだと、四十過ぎまで経書の勉強を続けてもまだ半人前扱い
される場合があったそうだが、それほどにも漢学の度量は深いということだ。
願わくば、おまえら全員が檻の中に入って道徳労働が可能となってから、
俺もそれなりの仕事をしながら経書の勉強も続けていきたいものだ。
四書五経はあくまで、世に出てバリバリ働くことを奨励している書物であり、
「老子」「荘子」「列子」のような隠遁志向に根ざした書物ではない。
俗世の世知辛さをも最大級に受け止めて、それを乗り越えるだけの徳性を蓄えつつ
世に打って出るための精神的な武器として有効である書物。その徳性も、あくまで
自己修養を旨としており、脳内超越神への依存などによって陶酔状態に陥ることで、
俗世の世知辛さを苦痛として感じることもないマヒ状態に陥ったりするわけでもない。
ただ、経書の勉強とそれによる自己修養によって養われた徳性が
全く活かされもしないような賤業に携わらされることは、絶対に非とまではしないまでも、
是とまでもしない。四書五経はあくまで勤労を「奨励」する書物であって、「義務化」
する書物ではないから、どんな仕事でもいいから働いとけば是、働かなければ非なんていう
蒙昧な主張はどこを読んでも見当たらない。二宮金次郎の報徳思想なども、このような
経書の記述などを参考に勤労を奨励しており、隠遁志向の道家の学なども多少は学んだ上で、
勤労を義務化はせずとも奨励する儒家などの教えを追認する形で奨励してもいる。
近現代の日本人は、特に小中学校の校庭などに飾られている金次郎像などから、
さも二宮金次郎こそは、現憲法の27条にも記載されている勤労の義務化を提唱した人間だ
などと思い込んでいる場合があるが、二宮金次郎はあくまで勤労を「奨励」したのみであり、
その思想哲学的な根拠も、四書五経のような立派な正学によっている。勤労を奨励するのではなく
義務化して、どんな仕事でもいいからとにかく働いとけというエコノミックアニマル志向を
日本人に植え付けたのは、現憲法を創案したGHQであり、その論拠は旧約犯罪聖書における
アダムとイブの楽園追放寓話などでこそある。決して二宮金次郎の報徳思想や、その論拠でもある
四書五経によってではなく、カルト宗教の邪義によってこそ、日本人は牛馬のようにこき使われている
「老子」「荘子」「列子」のような隠遁志向に根ざした書物ではない。
俗世の世知辛さをも最大級に受け止めて、それを乗り越えるだけの徳性を蓄えつつ
世に打って出るための精神的な武器として有効である書物。その徳性も、あくまで
自己修養を旨としており、脳内超越神への依存などによって陶酔状態に陥ることで、
俗世の世知辛さを苦痛として感じることもないマヒ状態に陥ったりするわけでもない。
ただ、経書の勉強とそれによる自己修養によって養われた徳性が
全く活かされもしないような賤業に携わらされることは、絶対に非とまではしないまでも、
是とまでもしない。四書五経はあくまで勤労を「奨励」する書物であって、「義務化」
する書物ではないから、どんな仕事でもいいから働いとけば是、働かなければ非なんていう
蒙昧な主張はどこを読んでも見当たらない。二宮金次郎の報徳思想なども、このような
経書の記述などを参考に勤労を奨励しており、隠遁志向の道家の学なども多少は学んだ上で、
勤労を義務化はせずとも奨励する儒家などの教えを追認する形で奨励してもいる。
近現代の日本人は、特に小中学校の校庭などに飾られている金次郎像などから、
さも二宮金次郎こそは、現憲法の27条にも記載されている勤労の義務化を提唱した人間だ
などと思い込んでいる場合があるが、二宮金次郎はあくまで勤労を「奨励」したのみであり、
その思想哲学的な根拠も、四書五経のような立派な正学によっている。勤労を奨励するのではなく
義務化して、どんな仕事でもいいからとにかく働いとけというエコノミックアニマル志向を
日本人に植え付けたのは、現憲法を創案したGHQであり、その論拠は旧約犯罪聖書における
アダムとイブの楽園追放寓話などでこそある。決して二宮金次郎の報徳思想や、その論拠でもある
四書五経によってではなく、カルト宗教の邪義によってこそ、日本人は牛馬のようにこき使われている
「景春曰く、公孫衍・張儀は豈に誠に大丈夫ならざるや。一たび怒れば而ち諸侯懼れ、安居すれば而ち天下熄う。
孟子曰く、是れ焉んぞ大丈たるを得んや・子未だ禮を學ばざるか。丈夫の冠するや、父之れを命じ、女子の嫁ぐや、母之れを命ず。
往きて之を門に送り、之れを戒めて曰く、往きて女の家に之き、必ず敬みて必ず戒め、夫子に違うこと無かれと。(以下の引用は既出)
順うを以て正しと為すは、妾婦の道なり。天下の廣居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行く。志を得れば民と與に之れに由り、
志を得ざれば獨り其の道を行う。富貴も淫する能わず、貧賤も移うる能わず、威武も屈する能わず。此れを之れ大丈夫と謂えり」
「景春がいった。『(外交家として名を馳せた)公孫衍や張儀こそは大丈夫と言えるのではないでしょうか。なにしろ彼らが怒れば、
諸侯の離間工作によって戦争を巻き起こすために諸侯は恐懼し、逆に彼らが安息して居れば、天下はみな平穏でいるのですから』
孟子はいった。『そんなことで、なぜ大丈夫だなどと言えようか。男子が元服するときには、父がこれに大人としての心得を教え、
女子が嫁ぐときには母が婦女としての心得を教える。女子を実家の門まで送っては之を戒めて、これからあなたの家ともなる夫の家に
嫁いでは、必ず慎み戒めて夫に逆らうようなことが無いようにと教える。このように、従うを以て正しいと為すは婦女においてのみ正しい
とされることであり、諸侯に媚びへつらって外交を引き受けることが仕事である、公孫衍や張儀などが大丈夫であるなどとは到底いえない。
諸侯に諂ったりすることもなく、天下全土をわが家として広く居住まい、天下全土において正しき位に立ち、天下全土に通ずる大道を歩む。
志を叶えられる仕事に与れば、民と共にその仕事に励み、志を叶えられる仕事に与れなければ、たった独りであろうとも道に即している。
富貴の誘惑も乱すことはできず、貧賤の苦しみも変節させるには足らず、武力による威嚇も屈させるに値しない、これをこそ大丈夫という』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・二)
孟子曰く、是れ焉んぞ大丈たるを得んや・子未だ禮を學ばざるか。丈夫の冠するや、父之れを命じ、女子の嫁ぐや、母之れを命ず。
往きて之を門に送り、之れを戒めて曰く、往きて女の家に之き、必ず敬みて必ず戒め、夫子に違うこと無かれと。(以下の引用は既出)
順うを以て正しと為すは、妾婦の道なり。天下の廣居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行く。志を得れば民と與に之れに由り、
志を得ざれば獨り其の道を行う。富貴も淫する能わず、貧賤も移うる能わず、威武も屈する能わず。此れを之れ大丈夫と謂えり」
「景春がいった。『(外交家として名を馳せた)公孫衍や張儀こそは大丈夫と言えるのではないでしょうか。なにしろ彼らが怒れば、
諸侯の離間工作によって戦争を巻き起こすために諸侯は恐懼し、逆に彼らが安息して居れば、天下はみな平穏でいるのですから』
孟子はいった。『そんなことで、なぜ大丈夫だなどと言えようか。男子が元服するときには、父がこれに大人としての心得を教え、
女子が嫁ぐときには母が婦女としての心得を教える。女子を実家の門まで送っては之を戒めて、これからあなたの家ともなる夫の家に
嫁いでは、必ず慎み戒めて夫に逆らうようなことが無いようにと教える。このように、従うを以て正しいと為すは婦女においてのみ正しい
とされることであり、諸侯に媚びへつらって外交を引き受けることが仕事である、公孫衍や張儀などが大丈夫であるなどとは到底いえない。
諸侯に諂ったりすることもなく、天下全土をわが家として広く居住まい、天下全土において正しき位に立ち、天下全土に通ずる大道を歩む。
志を叶えられる仕事に与れば、民と共にその仕事に励み、志を叶えられる仕事に与れなければ、たった独りであろうとも道に即している。
富貴の誘惑も乱すことはできず、貧賤の苦しみも変節させるには足らず、武力による威嚇も屈させるに値しない、これをこそ大丈夫という』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・二)
1日ネット三昧か・・・
「戸を出でずして以て天下を知り、まどをうかがわずして以て天道を見る」とは老子の言であり、
同様の引きこもり業を実践して大悟した話が「列子」にも出てくる。
確かにそれは行き過ぎなことで、四書五経でそんなひきこもり志向が賞賛されているわけでもなく、
治水事業などのために、家に帰る間もなく方々を駆け回り、すね毛をすり減らして晩年には跛足と化した
夏王朝の創始者禹王などが、道家では批判の対象とされる一方で、儒家では評価の対象とされる。
しかし、実際問題として、乱世において儒家が通用する機会は極めて少なく、
楚漢戦争中に劉邦直属の説客として諸国を駆け回った老儒者の酈食其も、
味方であった将軍韓信の妬み込みな追い落としによって、説得先の斉で煮殺されることとなった。
「儒者は進取を共にするは難く、守成を共にするは可なり」と、自身も儒者だった叔孫通までもが
言っており、ある程度情勢の落ち着いた世の中であるならともかく、乱世における非常的な
処世法としては、儒学は到底有効であるとは言えず、目的のために選ばれない手段としての兵家や、
一切何もせずに引きこもることでストライキ状態に入る道家などのほうが有効ではある。
天下統一後も、諸侯の反乱や匈奴の侵略などでしばらくは情勢が落ち着ききらなかった前漢の初期にも、
呂后や文帝といった劉邦の後継者までもが、無為自然か、さもなくば規制緩和かといったような、
民衆の抑え付けを極力排した道家的統治を実践することで、事態の平穏化と民力の温存に努め、
武帝の代に至ることでついにその隆盛も極まり、蛮族匈奴も滅亡するなどして泰平が確立されたため、
董仲舒などを用いて儒学を官学化し、道家的統治によってこそ進取された泰平を、儒家によって守成する目処が立った。
同様の引きこもり業を実践して大悟した話が「列子」にも出てくる。
確かにそれは行き過ぎなことで、四書五経でそんなひきこもり志向が賞賛されているわけでもなく、
治水事業などのために、家に帰る間もなく方々を駆け回り、すね毛をすり減らして晩年には跛足と化した
夏王朝の創始者禹王などが、道家では批判の対象とされる一方で、儒家では評価の対象とされる。
しかし、実際問題として、乱世において儒家が通用する機会は極めて少なく、
楚漢戦争中に劉邦直属の説客として諸国を駆け回った老儒者の酈食其も、
味方であった将軍韓信の妬み込みな追い落としによって、説得先の斉で煮殺されることとなった。
「儒者は進取を共にするは難く、守成を共にするは可なり」と、自身も儒者だった叔孫通までもが
言っており、ある程度情勢の落ち着いた世の中であるならともかく、乱世における非常的な
処世法としては、儒学は到底有効であるとは言えず、目的のために選ばれない手段としての兵家や、
一切何もせずに引きこもることでストライキ状態に入る道家などのほうが有効ではある。
天下統一後も、諸侯の反乱や匈奴の侵略などでしばらくは情勢が落ち着ききらなかった前漢の初期にも、
呂后や文帝といった劉邦の後継者までもが、無為自然か、さもなくば規制緩和かといったような、
民衆の抑え付けを極力排した道家的統治を実践することで、事態の平穏化と民力の温存に努め、
武帝の代に至ることでついにその隆盛も極まり、蛮族匈奴も滅亡するなどして泰平が確立されたため、
董仲舒などを用いて儒学を官学化し、道家的統治によってこそ進取された泰平を、儒家によって守成する目処が立った。
引きこもりすらも全肯定する、道家はあくまで非常手段であり、総員テロリスト状態と化しているような
乱世に冷や水をぶっかける、消火栓的な役割のみを担う。総員テロリスト状態の乱世の中でも、
特にその主導者であるような連中が、軒並み自滅して死ぬなり投獄されるなりした上で、元凶根絶後の世の中の
ほうの泰平も確立されてから初めて、儒家による守成的な泰平統治も確立されていく。今はまだ、儒家までもが
絵に描いた餅状態であり、実際の餅を作って食べるようになるのは、その餅を食べるに値しない奴らがいなくなってから。
「富にして求むべくんば、執鞭の士と雖も、吾れ亦た之れを為さん。如し求むべからずんば、吾が好む所に從わん」
「(邦に道が行われて労働即道徳ともなり、)富すらも求めていいようならば、鞭をもつ市場の監督のような、しがない仕事すら
やっても構わない。しかし、(邦に道が行われず行動即犯罪となって未だ)求めてはいけないようならば、好きなようにやっていよう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・術而第七・一一より)
乱世に冷や水をぶっかける、消火栓的な役割のみを担う。総員テロリスト状態の乱世の中でも、
特にその主導者であるような連中が、軒並み自滅して死ぬなり投獄されるなりした上で、元凶根絶後の世の中の
ほうの泰平も確立されてから初めて、儒家による守成的な泰平統治も確立されていく。今はまだ、儒家までもが
絵に描いた餅状態であり、実際の餅を作って食べるようになるのは、その餅を食べるに値しない奴らがいなくなってから。
「富にして求むべくんば、執鞭の士と雖も、吾れ亦た之れを為さん。如し求むべからずんば、吾が好む所に從わん」
「(邦に道が行われて労働即道徳ともなり、)富すらも求めていいようならば、鞭をもつ市場の監督のような、しがない仕事すら
やっても構わない。しかし、(邦に道が行われず行動即犯罪となって未だ)求めてはいけないようならば、好きなようにやっていよう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・術而第七・一一より)

キリスト教徒の脳内にもその映像が備わる。それによって「我が心のうちにイエスがいらっしゃる」ということになって、
どんなに悪いことをしても、脳内の十字架に張り付けられたおっさんが、自分の代わりに罪を償ってくれた気になる。
キリスト教徒は、「鏡映認知障害者」だということだ。
キリストの偶像なんかではなく、鏡をのぞき見すらすれば、そこには紛う方なき自分自身の鏡像が映る。
その自分自身に関しての鏡映認知は疎かにして、自分自身とは全く別個の存在でしかない、十字架にかけられたおっさんを
自分自身と同等の姿だと思い込み、利権を貪る重権力犯罪者などでいながら、自らの罪が磔によって償われた気になっている。
稚拙なもんだ。少しも上等な宗教信仰でないのはもちろんのこと、そのカラクリからして子供だましであり、
子供だって多少賢けりゃ騙されるとも限らない。鏡映認知能力は、高等生物である人類の大部分はもちろんのこと、
人間の3歳児相当の知能を持つチンパンジーですら備えているというから、まさにキリスト教徒はチンパンジー以下。
異人種をサル扱いしていた白人のキリスト教徒たちこそは、
そのサル以下の知能の持ち主であることが、自分たちの宗教信仰のお粗末さによってこそ明らか。
「賢を見ては斉しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みる」
「すぐれた人を見れば自分もあやかろうと思い、低能な輩を見ればわが心の内に帰り、自らを反省する。
(相手が賢者であるにしろ低能であるにしろ、自他の別個性を踏まえた上で、
自らがどうあるべきかを別におもんばかる。健全な鏡映認知に即した戒め)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・一七より)

鏡映認知障害者なら、たとえばこの聖母子像を見ただけでも、まるで自分が聖母マリアに愛されているような気分になれる。
実際には、本人自身は画中のイエスのように赤ん坊であるわけでもなければ、自分がそのイエスのように、
聖母マリアに愛されているわけでもない。それでも、自分が目視したものが何でも自分自身に見えてしまう
鏡映認知障害者ならば、まるで自分自身が画中の赤ん坊になって、自分自身が美人の母親に愛されているような気になれる。
人間の3歳児と同等の知能を持つとされる、チンパンジーの成獣よりもさらに低い知能しか持ち合わせていないのが
鏡映認知障害者なわけだから、自分自身が3歳以下の赤ん坊であると思わせられることにも、確かに納得がいく。
そしてその、3歳以下の赤ん坊が愛されるようにして、自分もまた聖母に愛されていると思い込んで悦に入る。
これが、キリスト教で「神の愛」とか「キリストの愛」とか言われているものの正体。
鏡映認知の不全によって、十字架にかけられたイエスを見ただけで、さもそれが自分自身の姿であるかのように思い込んだり、
マリアに抱きかかえられている赤ん坊のイエスを見ただけで、まるで自分がそのイエスのように愛されている気になったりする。
気のせいだ。
全くの「気のせい」で、キリストを信仰するキリスト教徒たち自身が、イエスのように十字架にかけられて刑死したわけでもなければ、
赤ん坊であるイエスのようにマリアに抱きかかえられているわけでもない。刑死して罪が償われたのも気のせいなら、聖母に抱きかかえられて
寵愛されているのも気のせい。贖罪も偽物なら、愛も偽物。単なる気のせいに過ぎないを贖罪や愛を、ただ執拗に信じ込んでいるのみ。
「愛すらも気のせい」ってのが、本当にイタイところだ。ラブゲーをやって、登場人物に愛されたつもりになってるオタク並みか、
それ以上にもイタイ。ラブゲーはまだ、愛されムードをそれなりに演出してるから、多少バカなぐらいでも感情移入できるだろうが、
磔刑像や聖母子像はその演出すらなく、ただ十字架にかけられたおっさんを見ただけで自分自身の罪が償われた気になったり、
仲睦まじい母子像を見ただけで、自分が母親に愛されている赤ん坊になった気でいたりしてるんだから、ラブゲー以上にも真性だ。
偽物の虚構を本物だと信じ込む病理にかけてこそ、聖書信仰はラブゲー以上にも真性の深刻さを帯びているといえる。
それ以上にもイタイ。ラブゲーはまだ、愛されムードをそれなりに演出してるから、多少バカなぐらいでも感情移入できるだろうが、
磔刑像や聖母子像はその演出すらなく、ただ十字架にかけられたおっさんを見ただけで自分自身の罪が償われた気になったり、
仲睦まじい母子像を見ただけで、自分が母親に愛されている赤ん坊になった気でいたりしてるんだから、ラブゲー以上にも真性だ。
偽物の虚構を本物だと信じ込む病理にかけてこそ、聖書信仰はラブゲー以上にも真性の深刻さを帯びているといえる。
削除(by投稿者)
ここで主に引用してるのは仏典ではなく四書五経だが。
漢籍と仏典の区別も付かないのだろうか?
浄土三部経中の「観無量寿経」は、サンスクリット原典が遺失して漢訳版しか残っていない。
「十住心論」や「教行信証」は原漢文で、「論語」や「左伝」などの漢籍からの引用もある。
「正法眼蔵」や「歎異抄」に至っては原文から和文。インドの土着宗教であるバラモン・ヒンズー教ならともかく、
仏教は古来からインドという国を超えた全世界的な広がりを見せており、宗祖の達磨から
中国で布教を行い始めた禅仏教など、インドには元から存在しない仏教宗派もある。
始祖の釈迦から言語に囚われない布教を重んじて、サンスクリットよりも権威性の劣るマガダ語やパーリ語での
布教も行った。サンスクリット原典での精査が必要なのは、仏典よりもむしろヴェーダやウパニシャッドのほうだ。
漢籍も、今はこうやって原文読み下しと訳文で精査している。白文や訓点のみで読めればなおのこと善いだろうが、
古代の純漢文は現代中国語ともずいぶん読み方が異なっているようだし、日本語独特の読み回しにも味わいがある。
日本語による注釈がまだ未遂状態な、中国正史や全唐詩、朱子語類などの大部分は、嫌でもそのまま読まなけりゃならないが、
すでに注釈の行き届いている漢籍は、無理して原典にこだわるよりは、読み下しや訳文からでも、その内容の吟味に
努めたほうがいいと思う。金科玉条に掲げる以上にも、実用書として有用なことが漢籍には多く書かれているから。
「爾と偕に老いんとせしに、老ゆれば我れを怨ましむ。淇には則ち岸有り、隰には則ち泮有り。
總角の宴げ、言笑も晏晏と。信を誓うも旦旦たり、其の反らんことを思わざる。反らんこと是れ思わざれば、亦た已ぬるかな」
「あなたと共に老いることを誓ったというのに、老いてはもはやあなたを怨むばかり。川には岸があり、沢には水際があるように、
何事にも必ず限界がある。揚巻髪を結うほどにも幼い少女だった頃には、笑い話すも愉快で、信仰を誓うも深沈たるものだったのに、
もはやあの頃が返ってくるなどとは想像もつかない。あの頃が返ってくることなど諦めて、もうこれまでにしましょうね」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・衛風・氓より)
漢籍と仏典の区別も付かないのだろうか?
浄土三部経中の「観無量寿経」は、サンスクリット原典が遺失して漢訳版しか残っていない。
「十住心論」や「教行信証」は原漢文で、「論語」や「左伝」などの漢籍からの引用もある。
「正法眼蔵」や「歎異抄」に至っては原文から和文。インドの土着宗教であるバラモン・ヒンズー教ならともかく、
仏教は古来からインドという国を超えた全世界的な広がりを見せており、宗祖の達磨から
中国で布教を行い始めた禅仏教など、インドには元から存在しない仏教宗派もある。
始祖の釈迦から言語に囚われない布教を重んじて、サンスクリットよりも権威性の劣るマガダ語やパーリ語での
布教も行った。サンスクリット原典での精査が必要なのは、仏典よりもむしろヴェーダやウパニシャッドのほうだ。
漢籍も、今はこうやって原文読み下しと訳文で精査している。白文や訓点のみで読めればなおのこと善いだろうが、
古代の純漢文は現代中国語ともずいぶん読み方が異なっているようだし、日本語独特の読み回しにも味わいがある。
日本語による注釈がまだ未遂状態な、中国正史や全唐詩、朱子語類などの大部分は、嫌でもそのまま読まなけりゃならないが、
すでに注釈の行き届いている漢籍は、無理して原典にこだわるよりは、読み下しや訳文からでも、その内容の吟味に
努めたほうがいいと思う。金科玉条に掲げる以上にも、実用書として有用なことが漢籍には多く書かれているから。
「爾と偕に老いんとせしに、老ゆれば我れを怨ましむ。淇には則ち岸有り、隰には則ち泮有り。
總角の宴げ、言笑も晏晏と。信を誓うも旦旦たり、其の反らんことを思わざる。反らんこと是れ思わざれば、亦た已ぬるかな」
「あなたと共に老いることを誓ったというのに、老いてはもはやあなたを怨むばかり。川には岸があり、沢には水際があるように、
何事にも必ず限界がある。揚巻髪を結うほどにも幼い少女だった頃には、笑い話すも愉快で、信仰を誓うも深沈たるものだったのに、
もはやあの頃が返ってくるなどとは想像もつかない。あの頃が返ってくることなど諦めて、もうこれまでにしましょうね」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・衛風・氓より)
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キリスト教徒こそは渇望の塊であり、七つの海を駆け回ってまでの世界侵略に及んだこともその現れでこそある。
最終的な世界侵略の優位者となったのはイギリスなどのプロテスタント勢力だったが、日本の戦国時代あたりまでは
スペインやポルトガルなどのカトリック勢力の侵略行為も活発で、日本に初めてキリスト教を伝染させたザビエルも
ポルトガルの宣教屋だった。今ではオカルト扱いされている南アメリカのマヤ文明なども、早い話がカトリック勢力からの
ホロコースト被害に遭っただけで、イギリス人によるタスマニア原住民のホロコーストとも並んで、
人類が“完遂”させた民族浄化の数少ない実例となっている。
ここ2、30年におけるキリスト教勢力による地球規模での人類史上未曾有の大虐殺も、その温床はといえば
遥か以前にまで遡り、コロンブスがアメリカ大陸を発見した1492年あたりから、キリスト教勢力による外界侵略の
魔の手はすでに伸ばされ始めており、しかもホロコーストのような大権力犯罪をも古来からずっと伴いつつある。
>>104図中の資本主義先進国による虐殺被害も、あくまでここ2、30年の被害だけに限っており、100年前や200年前にも、
ここまで数的には多くないにしろ、同じような蛮行をキリスト教徒は繰り返してきており、七つの海すら飲み干さんとする、
重大犯罪行為への際限ない渇望を根絶させるためには、もはやキリスト教全体の破棄が免れ得ないことが明らかとなっている。
「衡門の下、以て棲遲す可し。泌の洋洋たる、以て飢えを樂す可し」
「かやぶきの粗末な家でも、のどかな暮らしはできる。したたる程の泉水だけでも、飢渇を癒すには十分だ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・陳風・衡門より)
最終的な世界侵略の優位者となったのはイギリスなどのプロテスタント勢力だったが、日本の戦国時代あたりまでは
スペインやポルトガルなどのカトリック勢力の侵略行為も活発で、日本に初めてキリスト教を伝染させたザビエルも
ポルトガルの宣教屋だった。今ではオカルト扱いされている南アメリカのマヤ文明なども、早い話がカトリック勢力からの
ホロコースト被害に遭っただけで、イギリス人によるタスマニア原住民のホロコーストとも並んで、
人類が“完遂”させた民族浄化の数少ない実例となっている。
ここ2、30年におけるキリスト教勢力による地球規模での人類史上未曾有の大虐殺も、その温床はといえば
遥か以前にまで遡り、コロンブスがアメリカ大陸を発見した1492年あたりから、キリスト教勢力による外界侵略の
魔の手はすでに伸ばされ始めており、しかもホロコーストのような大権力犯罪をも古来からずっと伴いつつある。
>>104図中の資本主義先進国による虐殺被害も、あくまでここ2、30年の被害だけに限っており、100年前や200年前にも、
ここまで数的には多くないにしろ、同じような蛮行をキリスト教徒は繰り返してきており、七つの海すら飲み干さんとする、
重大犯罪行為への際限ない渇望を根絶させるためには、もはやキリスト教全体の破棄が免れ得ないことが明らかとなっている。
「衡門の下、以て棲遲す可し。泌の洋洋たる、以て飢えを樂す可し」
「かやぶきの粗末な家でも、のどかな暮らしはできる。したたる程の泉水だけでも、飢渇を癒すには十分だ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・陳風・衡門より)
罪があったり無かったりする程度の世の中では、罪の有無が有罪と無罪を分け、
誰しもに罪がある乱世においては、罪の軽重が有罪と無罪を分ける。
誰しもが贋金作りに奔走していた武帝期の漢において、その首謀者や責任者にこそ重罰が科され、
大多数の従犯民は恩赦で赦免されたように(「史記」平準書参照)、どこもかしこもが
罪で溢れ返っている世の中における、相応の断罪方法もまたちゃんと用意されている。
今ならば、金融犯罪の主導者や、その重大共犯である各界の権力者などが、実際に断罪される人間となる。
一方で、罪で溢れ返る世の中を根本から画策していく、聖書信仰のようなカルト信教もまた、
人としてではなく文化として断罪され、18禁メディア並みに村八分を受けた扱いとなる。
中国や日本の大部分では今もそうだが、全世界地球人類誰しもが、カルト信仰依存から卒業する。
「悠悠たる昊天、曰く父母なり。罪無く辜無きに、亂此くの如く憮いなり。
昊天已なはだ威あり、予れ慎に罪無し。昊天泰だ憮いなり、予れ慎に辜無し」
「雄大にして見晴るかす上天よ、わが父母よ。我こそは無罪にして無辜なれるも、世の乱れはかくのごとく痛ましい。
さりとて上天の畏怖も甚だしく、かつ我に真に罪は無し。上天もまた世の乱れを悼むも、我に真に罪は無し」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
誰しもに罪がある乱世においては、罪の軽重が有罪と無罪を分ける。
誰しもが贋金作りに奔走していた武帝期の漢において、その首謀者や責任者にこそ重罰が科され、
大多数の従犯民は恩赦で赦免されたように(「史記」平準書参照)、どこもかしこもが
罪で溢れ返っている世の中における、相応の断罪方法もまたちゃんと用意されている。
今ならば、金融犯罪の主導者や、その重大共犯である各界の権力者などが、実際に断罪される人間となる。
一方で、罪で溢れ返る世の中を根本から画策していく、聖書信仰のようなカルト信教もまた、
人としてではなく文化として断罪され、18禁メディア並みに村八分を受けた扱いとなる。
中国や日本の大部分では今もそうだが、全世界地球人類誰しもが、カルト信仰依存から卒業する。
「悠悠たる昊天、曰く父母なり。罪無く辜無きに、亂此くの如く憮いなり。
昊天已なはだ威あり、予れ慎に罪無し。昊天泰だ憮いなり、予れ慎に辜無し」
「雄大にして見晴るかす上天よ、わが父母よ。我こそは無罪にして無辜なれるも、世の乱れはかくのごとく痛ましい。
さりとて上天の畏怖も甚だしく、かつ我に真に罪は無し。上天もまた世の乱れを悼むも、我に真に罪は無し」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
中国で管仲や子産などによって初めて体系化され、それより少し後に古代ローマなどでも提唱された法律万能主義、
法家それ自体は、すでに子産の代において批判の対象とされ、「左伝」昭公六年に、成文法を公布した子産を
書簡を通じて大批判する叔向の弁が載せられている。儒家の正典である「左伝」にあえてそのような
史実が記録されているあたり、儒家もまた反法家であるかのように思われかねないが、別に儒家は法家を
完全否定するのではなく、法律よりもより積極的な修善志向としての道徳を、法律にさらに上乗せしているのみ。
ちょうど、仏教よりも100年ほど早くザラスシュトラによって提唱された拝火教(ゾロアスター教)における、
最高神アフラ・マズダーに付託しながらの善徳信仰が、より積極的な善徳の自力修習に努める仏教よりも
程度の低いものとはされながらも、密教の一部や浄土教などにおいて参考にされているのと同じ。
法律で罪悪を禁止すること、善徳を他力信仰に付託することなどは、それらもまた修善であるには違いないが、
あくまで消極的な修善であるが故に、より積極的な修善に努める儒家や自力仏教と比べれば、程度が低い。
別に法律や他力信仰を敵に回すわけではないが、道徳や真理修得はさらにそれらの上にあるということ。
法律を敵に回して罪悪への他力信仰に没入するカルト教義などは、道義上の敵に回すことにもなるだろうが、
法律や善徳への他力信仰に対しては、あまり頼りにはならないが、道義上相反するという所まではいかない。
悪法によって善悪がみそくそにされるようなことに対しても、悪法を特定して非難するのみであり、
善法の遵守にかけては、儒家は単なる法家以上にも積極的ですらあるのだ。
「君子は法を行いて、以て命を俟つのみ」
「君子は人としての法度にかなった行いに努めた上で、後は天命を待つのみである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三三より)
法家それ自体は、すでに子産の代において批判の対象とされ、「左伝」昭公六年に、成文法を公布した子産を
書簡を通じて大批判する叔向の弁が載せられている。儒家の正典である「左伝」にあえてそのような
史実が記録されているあたり、儒家もまた反法家であるかのように思われかねないが、別に儒家は法家を
完全否定するのではなく、法律よりもより積極的な修善志向としての道徳を、法律にさらに上乗せしているのみ。
ちょうど、仏教よりも100年ほど早くザラスシュトラによって提唱された拝火教(ゾロアスター教)における、
最高神アフラ・マズダーに付託しながらの善徳信仰が、より積極的な善徳の自力修習に努める仏教よりも
程度の低いものとはされながらも、密教の一部や浄土教などにおいて参考にされているのと同じ。
法律で罪悪を禁止すること、善徳を他力信仰に付託することなどは、それらもまた修善であるには違いないが、
あくまで消極的な修善であるが故に、より積極的な修善に努める儒家や自力仏教と比べれば、程度が低い。
別に法律や他力信仰を敵に回すわけではないが、道徳や真理修得はさらにそれらの上にあるということ。
法律を敵に回して罪悪への他力信仰に没入するカルト教義などは、道義上の敵に回すことにもなるだろうが、
法律や善徳への他力信仰に対しては、あまり頼りにはならないが、道義上相反するという所まではいかない。
悪法によって善悪がみそくそにされるようなことに対しても、悪法を特定して非難するのみであり、
善法の遵守にかけては、儒家は単なる法家以上にも積極的ですらあるのだ。
「君子は法を行いて、以て命を俟つのみ」
「君子は人としての法度にかなった行いに努めた上で、後は天命を待つのみである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三三より)

知能指数も、全体平均の100前後もあれば十分に理解できるような、平易な表現が尽くされている。
しかし、常時IQ100前後はないと、さすがに分からない。
たとえ一時的にであろうとも、知能指数をチンパンジーよりも低い40以下、
20や30といった重度の知的障害者レベルにまで引き落とすカルト教義などに陥っていたのなら、
たとえIQ180や200の天才であろうとも、四書五経の内容を理解することはできない。
極端な低能にも高知能にもぶれない、人としてのまっとうな知能を堅持し続けられている「庸徳」の持ち主だけが、
四書五経の内容も理解することができ、まさに知能の高低からの中庸を儒学は守り通しているといえる。
IQ100程度のまともな知能を堅持した上で、さらに高い知能を目指すのは全く構わないことで、
大乗仏教の密教や禅などが特に、高い知能と徳性を共に要求される内容になっているので、それらに「進学」してもいい。
ただ、知的障害レベルの低能から、急に天才や秀才を目指すのは全くの手順の取り違えであり、
まずは凡人並みの品性を修得することが先決。常にIQ100程度ではい続けることだ。
「凡そ我れの造れる邦、彝ならざるに從うこと無かれ。慆淫に即す無かれ。各おの爾の典を守りて、以て天の休を承けよ」
「私の創造した国家においては、中庸を欠いた常ならぬことどもに従ってはならぬ。驕りに任せて極端なことをしてはならぬ。
各々がそれぞれの身分に即した法度を守ることで、天の定められた大いなる命を請け従うのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・湯誥)
キリスト教徒は、当然のこととして“常時”キリスト教徒でもある。
仮りに知能テストを受けて人並みのIQだと認定されたり、一流大学に合格したり一流企業に入社したりしたとしても、
やっぱり当人は常時キリスト教徒でいる。聖書から洗礼名をもらってたり、西洋人だと実名から聖書の引用だったりもし、
常日ごろいつでもキリスト者でいるように心がける。
それはつまり、いつでも必ず自らの知能指数を20〜30程度の重度知的障害レベルにまで引き落とす
用意ができているということで、チンパンジー級の鏡映認知能力すらも失った迷妄によって自らをキリストだなどと思い込み、
磔刑を受けて生き返った気になることで、どんなに重い罪を犯してもすでにその罪が償われたような気になる。
知的障害者が必ずしも犯罪者であるわけではないし、心神喪失をいいことに罪を犯して回る素養を蓄えているわけでもない。
しかし、キリスト教徒こそは、社会活動を行える程度の器質的な知能も備えながら、社会人にあるまじき犯罪行為などに
手を染めた時には、キリスト信仰によって知能を重度知的障害レベルにまで退行させて、自分自身が檻の中に入って
ちゃんと刑罰を受けたわけでもないのに、すでに自分自身の罪が償われたようなつもりになっている。
キリスト教徒こそは、人工的な知的障害の悪用者であり、IQ20〜30程度の重度知的障害レベルへの知能退行が、
罪を罪として認識し、罪悪感を抱くこともできなくなることを逆手にとって、その部分だけを宗教信仰として祭り上げることで、
どんな罪を犯しても罪悪感のかけらも抱かない精神薄弱者にすら社会的な延命の余地を与えたのがキリスト教でもある。
仮りに知能テストを受けて人並みのIQだと認定されたり、一流大学に合格したり一流企業に入社したりしたとしても、
やっぱり当人は常時キリスト教徒でいる。聖書から洗礼名をもらってたり、西洋人だと実名から聖書の引用だったりもし、
常日ごろいつでもキリスト者でいるように心がける。
それはつまり、いつでも必ず自らの知能指数を20〜30程度の重度知的障害レベルにまで引き落とす
用意ができているということで、チンパンジー級の鏡映認知能力すらも失った迷妄によって自らをキリストだなどと思い込み、
磔刑を受けて生き返った気になることで、どんなに重い罪を犯してもすでにその罪が償われたような気になる。
知的障害者が必ずしも犯罪者であるわけではないし、心神喪失をいいことに罪を犯して回る素養を蓄えているわけでもない。
しかし、キリスト教徒こそは、社会活動を行える程度の器質的な知能も備えながら、社会人にあるまじき犯罪行為などに
手を染めた時には、キリスト信仰によって知能を重度知的障害レベルにまで退行させて、自分自身が檻の中に入って
ちゃんと刑罰を受けたわけでもないのに、すでに自分自身の罪が償われたようなつもりになっている。
キリスト教徒こそは、人工的な知的障害の悪用者であり、IQ20〜30程度の重度知的障害レベルへの知能退行が、
罪を罪として認識し、罪悪感を抱くこともできなくなることを逆手にとって、その部分だけを宗教信仰として祭り上げることで、
どんな罪を犯しても罪悪感のかけらも抱かない精神薄弱者にすら社会的な延命の余地を与えたのがキリスト教でもある。
キリスト教徒すなわち器質からの知的障害者ではなく、IQ100を超えるような常人レベルの知能の持ち主でもあり得る。
しかし、連中がキリストを信仰している限りにおいては、少なからず重度知的障害レベルにまで知能退行している部分がある。
人としてそれなりの社会活動を行う知能と、重度知的障害級の低能とを同時に持ち合わせた精神分裂病患者でもあり、
重度知的障害であるのみならず、重度精神障害でもあるため、あらゆる行為能力を剥奪された禁治産者であることが適当。
IQ100程度の、人としての当たり前な品性を保ち続けることが「庸徳(中庸)」であり、これもまた君子の徳目であるから、
部分的にでも知能を重度知的障害レベルに引き落とすようなことすらあってはならず、もちろんそのような知能退行と、
人並みの知能や高知能の両刀使いである分裂病者であったりしてもいけない。別にIQが180や200でなくてもいいから、
常にIQ100程度ではあり続けること。IQ20〜30などにわざと知能を退行させるような薄徳には絶対に及ばぬこと。
「孰れか微生高を直と謂わん。或るひと醯を乞う、諸れを其の鄰りに乞いて之れを與う」
「誰が微生高のことを正直だなどと言ったのか。あやつの所に酢をもらいに行ったら、
自分も隣人から酢をもらって来てそれを与え、うわべだけを取り繕ったという。どこが正直なものか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・二四より)
しかし、連中がキリストを信仰している限りにおいては、少なからず重度知的障害レベルにまで知能退行している部分がある。
人としてそれなりの社会活動を行う知能と、重度知的障害級の低能とを同時に持ち合わせた精神分裂病患者でもあり、
重度知的障害であるのみならず、重度精神障害でもあるため、あらゆる行為能力を剥奪された禁治産者であることが適当。
IQ100程度の、人としての当たり前な品性を保ち続けることが「庸徳(中庸)」であり、これもまた君子の徳目であるから、
部分的にでも知能を重度知的障害レベルに引き落とすようなことすらあってはならず、もちろんそのような知能退行と、
人並みの知能や高知能の両刀使いである分裂病者であったりしてもいけない。別にIQが180や200でなくてもいいから、
常にIQ100程度ではあり続けること。IQ20〜30などにわざと知能を退行させるような薄徳には絶対に及ばぬこと。
「孰れか微生高を直と謂わん。或るひと醯を乞う、諸れを其の鄰りに乞いて之れを與う」
「誰が微生高のことを正直だなどと言ったのか。あやつの所に酢をもらいに行ったら、
自分も隣人から酢をもらって来てそれを与え、うわべだけを取り繕ったという。どこが正直なものか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・二四より)
中には器質からの知的障害であるキリスト教徒もいるだろうが、大部分のキリスト教徒は、
脳構造からの器質的な欠陥によって物理的に知能が低下している、完全な知的障害者(脳機能障害者)ではない。
ただ、劣悪なカルト信仰によって、人工的に自らの知能を重度知的障害レベルにまで低下させることで、
実害を伴う罪を犯した場合などにおける、罪悪感が全く抱けない状態に自分たちを追い込んでいる。
常時IQ20〜30程度である脳機能障害者であれば、全く法律行為などを行う能力も持たないため、
自力で金融詐欺のような知能犯罪に及ぶこともできない。しかし、キリスト教徒やユダヤ教徒の場合は
器質的な脳機能障害ではないので、法律行為や商業行為などを行う上での必要な能力を持てないこともない。
しかし、それらの行為能力の濫用によって他者に実害を加えた場合などに、IQ100程度の常識的な知能を
持つ人間であれば当然抱くような罪悪感を、IQ20〜30程度の低能状態に自らを追い込むカルト信仰によって
かなぐり捨てるために、聖書信者は、罪悪感を捨て去るための便宜的手段として知能退行を悪用しているといえる。
脳構造からの器質的な欠陥によって物理的に知能が低下している、完全な知的障害者(脳機能障害者)ではない。
ただ、劣悪なカルト信仰によって、人工的に自らの知能を重度知的障害レベルにまで低下させることで、
実害を伴う罪を犯した場合などにおける、罪悪感が全く抱けない状態に自分たちを追い込んでいる。
常時IQ20〜30程度である脳機能障害者であれば、全く法律行為などを行う能力も持たないため、
自力で金融詐欺のような知能犯罪に及ぶこともできない。しかし、キリスト教徒やユダヤ教徒の場合は
器質的な脳機能障害ではないので、法律行為や商業行為などを行う上での必要な能力を持てないこともない。
しかし、それらの行為能力の濫用によって他者に実害を加えた場合などに、IQ100程度の常識的な知能を
持つ人間であれば当然抱くような罪悪感を、IQ20〜30程度の低能状態に自らを追い込むカルト信仰によって
かなぐり捨てるために、聖書信者は、罪悪感を捨て去るための便宜的手段として知能退行を悪用しているといえる。
IQ100程度の知的健常者でい続けることもできなくはないため、聖書信者は完全な知的障害者としての
条件を満たしているとはいえない。しかし、犯罪行為に手を染めたりしても全く罪悪感を抱かないような
サイコパス状態に自らを追い込むために、重度知的障害レベルへの知能退行を実現するカルト信仰を
悪用していることは、「重度精神障害」の条件を満たしてはいるといえる。
それどころか、犯罪行為による罪悪感の払拭のために、重度知的障害レベルへの知能退行を悪用することは、
あらゆる精神障害の中でも最も深刻かつ重度な障害であるといえ、ただ自分自身が何もできない、
働くことも悪いこともできないというような症状を伴う精神障害以上にも、最も危険極まりない障害だといえる。
ただ何もできなくなるだけの精神障害ならば、別に人さまに迷惑をかけることもなく、最悪でも自分自身が
貧窮して餓死したりするだけでしかない。しかし、犯罪行為に伴う罪悪感を、人工的な知能退行によって払拭することで
際限のない犯罪行為に手を染めるような症状を伴う精神障害こそは、人さまに迷惑をかけて死傷にも追い込むものだから、
これこそは最も厳重な行為能力制限下に置かれる必要があるといえ、あらゆる法律行為の自力での行使を剥奪される
成年被後見人などの、最重度の禁治産者として扱われることが適切かつ急務であるといえる。
「君子野に在り、小人位に在り。民棄てて保んぜず。天之に咎を降す」
「賢明な君子は野に放擲され、低能な小人ばかりが位について栄華を誇る。そのために天も災いを下して咎めている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・大禹謨より)
条件を満たしているとはいえない。しかし、犯罪行為に手を染めたりしても全く罪悪感を抱かないような
サイコパス状態に自らを追い込むために、重度知的障害レベルへの知能退行を実現するカルト信仰を
悪用していることは、「重度精神障害」の条件を満たしてはいるといえる。
それどころか、犯罪行為による罪悪感の払拭のために、重度知的障害レベルへの知能退行を悪用することは、
あらゆる精神障害の中でも最も深刻かつ重度な障害であるといえ、ただ自分自身が何もできない、
働くことも悪いこともできないというような症状を伴う精神障害以上にも、最も危険極まりない障害だといえる。
ただ何もできなくなるだけの精神障害ならば、別に人さまに迷惑をかけることもなく、最悪でも自分自身が
貧窮して餓死したりするだけでしかない。しかし、犯罪行為に伴う罪悪感を、人工的な知能退行によって払拭することで
際限のない犯罪行為に手を染めるような症状を伴う精神障害こそは、人さまに迷惑をかけて死傷にも追い込むものだから、
これこそは最も厳重な行為能力制限下に置かれる必要があるといえ、あらゆる法律行為の自力での行使を剥奪される
成年被後見人などの、最重度の禁治産者として扱われることが適切かつ急務であるといえる。
「君子野に在り、小人位に在り。民棄てて保んぜず。天之に咎を降す」
「賢明な君子は野に放擲され、低能な小人ばかりが位について栄華を誇る。そのために天も災いを下して咎めている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・大禹謨より)
たまには外の空気吸えよ
孔子孟子老子荘氏荀子列子墨子韓非子鬼谷子恵子公孫龍子・・・
中国諸子百家にあてられている「子」という文字は、今の「師」という意味で、
「子曰く」とは「先生は仰った」という意味にあたる。
今の日本だと、女子の名に用いられる「〜子(こ)」とも混同されかねないため、
ここで「論語」などからの引用を行う時には、「子曰」をあえて省いたり、
文脈上省けない場合にも「孔先生は言った」などと置き換えたりしている。
ただ、論語の大部分の格言が「子曰」に始まっているのは周知のことで、
あらゆる師の中でも最高の師にあたる孔子の格言であることから、
固有名詞である「孔」も抜きにして、「子曰」とのみ冠した上で言葉が述べられている。
「墨子」だと「子墨子曰」になっているし、「孟子」でも「孟子曰」になっている。
固有名詞抜きの「子曰」といえば、なんといっても孔子の専売特許であり、
孔子こそは、全世界全人類にとっての代表中の代表たる師であるといえる。
ところで、孔子は何の「師」かといえば、教学の師だ。教師中の教師であり、学師中の学師。
別に、奇術師中の奇術師でもなければ、ペテン師中のペテン師でもないから、
奇術師やペテン師にこそ特有の奇を衒った言行などはどこにも見当たらない。
むしろ、模範的な教師たらんとするあまり、堅物すぎるような言行すら見られ、
有名進学塾の名物教師などのような、サービス精神にも乏しいところがある。
善くも悪しくも、それが模範的な教師としてのあり方であり、
生徒を善い方向に教導するためにこそ、己れの研鑽に対して真摯であろうとする。
それでこそ教師としては理想的なのであり、奇術師やペテン師や詐欺師などとは違う。
「堅物だから教師に相応しくなく、奇を衒うサービス精神が旺盛だから教師に相応しい」
などというのは、学問の本分を取り違えた根本からの過ちであり、奇術やサービスのほうが
大事だというのなら、それを学問への志しなどと混同するべきではない。奇術に関して、
サービスやペテンに関して興味があるというのなら、別に思想哲学板にいるべきでもない。
中国諸子百家にあてられている「子」という文字は、今の「師」という意味で、
「子曰く」とは「先生は仰った」という意味にあたる。
今の日本だと、女子の名に用いられる「〜子(こ)」とも混同されかねないため、
ここで「論語」などからの引用を行う時には、「子曰」をあえて省いたり、
文脈上省けない場合にも「孔先生は言った」などと置き換えたりしている。
ただ、論語の大部分の格言が「子曰」に始まっているのは周知のことで、
あらゆる師の中でも最高の師にあたる孔子の格言であることから、
固有名詞である「孔」も抜きにして、「子曰」とのみ冠した上で言葉が述べられている。
「墨子」だと「子墨子曰」になっているし、「孟子」でも「孟子曰」になっている。
固有名詞抜きの「子曰」といえば、なんといっても孔子の専売特許であり、
孔子こそは、全世界全人類にとっての代表中の代表たる師であるといえる。
ところで、孔子は何の「師」かといえば、教学の師だ。教師中の教師であり、学師中の学師。
別に、奇術師中の奇術師でもなければ、ペテン師中のペテン師でもないから、
奇術師やペテン師にこそ特有の奇を衒った言行などはどこにも見当たらない。
むしろ、模範的な教師たらんとするあまり、堅物すぎるような言行すら見られ、
有名進学塾の名物教師などのような、サービス精神にも乏しいところがある。
善くも悪しくも、それが模範的な教師としてのあり方であり、
生徒を善い方向に教導するためにこそ、己れの研鑽に対して真摯であろうとする。
それでこそ教師としては理想的なのであり、奇術師やペテン師や詐欺師などとは違う。
「堅物だから教師に相応しくなく、奇を衒うサービス精神が旺盛だから教師に相応しい」
などというのは、学問の本分を取り違えた根本からの過ちであり、奇術やサービスのほうが
大事だというのなら、それを学問への志しなどと混同するべきではない。奇術に関して、
サービスやペテンに関して興味があるというのなら、別に思想哲学板にいるべきでもない。
などということを説明したところで、今まさに重度知的障害レベルにまで知能が退行している
キリスト教徒たち自身からまず、自分たちの過ちに気づいて改悛反省するなどということはあるまい。
まずはキリスト教徒でもないような第三者が、キリスト教徒たちの真性の重度精神障害を切にわきまえて、
もう一人前の思想哲学宗教の享受者などではないことを正式に認めた上で、好悪や支持不支持などを排した
切実な事務処理としての、重度精神障害罹患型カルト宗教の廃絶に努めていかなければならない。
「子貢問うて曰く、孔文子は何を以てか之れを文と謂うや。
子曰く、敏にして學を好み、下問を恥じず、是れを以て文と謂うなり」
「子貢が問うた。『衛の大夫の孔文子は、なぜ文という贈り名(死後におくられる名)なのでしょうか』
先生(もちろん孔子)は答えた。『敏腕でありながら学問好きでもあり、目下の者にすら教えを乞うことを
恥じないほどにも向学心が豊かであったために、文聖としての偉大さを評価されて文と贈り名されたのだ』
(『史記』仲尼列伝にも、孔子が万人を師とするほどもの向学心の持ち主であったことが記録されている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一五)
キリスト教徒たち自身からまず、自分たちの過ちに気づいて改悛反省するなどということはあるまい。
まずはキリスト教徒でもないような第三者が、キリスト教徒たちの真性の重度精神障害を切にわきまえて、
もう一人前の思想哲学宗教の享受者などではないことを正式に認めた上で、好悪や支持不支持などを排した
切実な事務処理としての、重度精神障害罹患型カルト宗教の廃絶に努めていかなければならない。
「子貢問うて曰く、孔文子は何を以てか之れを文と謂うや。
子曰く、敏にして學を好み、下問を恥じず、是れを以て文と謂うなり」
「子貢が問うた。『衛の大夫の孔文子は、なぜ文という贈り名(死後におくられる名)なのでしょうか』
先生(もちろん孔子)は答えた。『敏腕でありながら学問好きでもあり、目下の者にすら教えを乞うことを
恥じないほどにも向学心が豊かであったために、文聖としての偉大さを評価されて文と贈り名されたのだ』
(『史記』仲尼列伝にも、孔子が万人を師とするほどもの向学心の持ち主であったことが記録されている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一五)
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母子家庭の末弟のノータリン息子が、
「お兄ちゃんたちには将来があるけど、あんたには将来がないから勉強しなくてもいいの」と言われ、
三人の兄たちが勉強している中で一人だけほっとかれる。つまんないから暇つぶしに色々といたずらをやってみて、
最後にはお兄ちゃんやお母さんまで巻き込んでのてんてこ舞い状態にしてしまう。
本当に勉強をしようとしている兄たちのように、ノータリンの末弟も遊ぶことが勉強だと
思っているのかもしれないが、あんまりことお遊びが行き過ぎたせいで、兄たちの勉強までをも阻害してしまう。
まさに、今の地球人類社会の縮図。誰が三人の兄で、誰がノータリンの末弟なのかは、もうあえて指摘もするまい。
「大夫強くして君之れを殺すは義なり」
「一部の派閥内の主であるような者が強くなりすぎた場合などに、天下全土を司る君主がこれを殺すのは義である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)

「お兄ちゃんたちには将来があるけど、あんたには将来がないから勉強しなくてもいいの」と言われ、
三人の兄たちが勉強している中で一人だけほっとかれる。つまんないから暇つぶしに色々といたずらをやってみて、
最後にはお兄ちゃんやお母さんまで巻き込んでのてんてこ舞い状態にしてしまう。
本当に勉強をしようとしている兄たちのように、ノータリンの末弟も遊ぶことが勉強だと
思っているのかもしれないが、あんまりことお遊びが行き過ぎたせいで、兄たちの勉強までをも阻害してしまう。
まさに、今の地球人類社会の縮図。誰が三人の兄で、誰がノータリンの末弟なのかは、もうあえて指摘もするまい。
「大夫強くして君之れを殺すは義なり」
「一部の派閥内の主であるような者が強くなりすぎた場合などに、天下全土を司る君主がこれを殺すのは義である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
削除(by投稿者)
「子貢、告朔の餼羊を去らんと欲す。子曰く、賜や、爾は其の羊を愛む、我は其の禮を愛む」
「子貢が、魯の国での告朔の礼が形骸化し、羊を生贄にする慣習ばかりしか残されていないのを見て、
その生贄もやめさせようとした。それを見て孔子は言われた。『賜(子貢)よ、おまえはその羊を惜しがって
いるようだが、私はその羊の生贄すらなくなることで、礼の風習が完全に途絶えてしまうことのほうが惜しい』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・一七より)
儀礼が形骸化して最後に羊の生贄だけが残ったのは、当然祭りの後に羊の肉を食うからだ。
その物質主義的な傾向を子貢は卑しんだが、孔子は「それでもまだないよりはマシだ」とした。
でも、子貢のほうが実は貨殖功利でいち財産を気づいていたり、孔子のほうが野に放擲されて貧窮したりしている。
高祖劉邦の重臣で陰険な戦略家だった張良も、穀物すら口にしない菜食主義者だったというが、かえって世知辛い
浮世に精通して嫌気がさしたような人間のほうが、その罪滅ぼしとでもいわんかのような極端な浄行に努めようとする。
梁の恵王にまみえた孟子も、祭りの生贄になる牛を見た恵王が、牛を不憫に思ってより小さな羊に替えさせたことを
惻隠の情の表れとして称えるなど、恵王本人ですら気づかなかったような仔細にまで配慮を行き届かせている。
こういう細かな部分の緩急を読み取れるのは、孟子が苦学者でもあった現れであるといえ、極端から極端に
走ったりしない中正も、やはり極端な乱行や浄行を避けるところで育まれるものであるのだろう。
「子貢が、魯の国での告朔の礼が形骸化し、羊を生贄にする慣習ばかりしか残されていないのを見て、
その生贄もやめさせようとした。それを見て孔子は言われた。『賜(子貢)よ、おまえはその羊を惜しがって
いるようだが、私はその羊の生贄すらなくなることで、礼の風習が完全に途絶えてしまうことのほうが惜しい』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・一七より)
儀礼が形骸化して最後に羊の生贄だけが残ったのは、当然祭りの後に羊の肉を食うからだ。
その物質主義的な傾向を子貢は卑しんだが、孔子は「それでもまだないよりはマシだ」とした。
でも、子貢のほうが実は貨殖功利でいち財産を気づいていたり、孔子のほうが野に放擲されて貧窮したりしている。
高祖劉邦の重臣で陰険な戦略家だった張良も、穀物すら口にしない菜食主義者だったというが、かえって世知辛い
浮世に精通して嫌気がさしたような人間のほうが、その罪滅ぼしとでもいわんかのような極端な浄行に努めようとする。
梁の恵王にまみえた孟子も、祭りの生贄になる牛を見た恵王が、牛を不憫に思ってより小さな羊に替えさせたことを
惻隠の情の表れとして称えるなど、恵王本人ですら気づかなかったような仔細にまで配慮を行き届かせている。
こういう細かな部分の緩急を読み取れるのは、孟子が苦学者でもあった現れであるといえ、極端から極端に
走ったりしない中正も、やはり極端な乱行や浄行を避けるところで育まれるものであるのだろう。
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状況が悪くなってるとしても、それは俺ではなくおまえらのせいだ。
俺は自分自身にできる限りにおいての、最もマシな選択の限りを尽くしている。
野放し状態の重権力犯罪者や重度精神障害者=現代人の大部分との付き合いも避けて、
今の世の中においては最もマシな部類の人間であることに勤めている。
その俺が今の状況をより悪くしている張本人などであるはずがなく、
事態をより悪くしていったり、少なくとも善くしたりマシにしようともしていない
おまえらのほうがよっぽど、今という劣悪な状況の責任者であるに違いない。
野放し状態の重権力犯罪者や重度精神障害者でもあるおまえらが、
性懲りもなく今の社会の最高責任者でもあり続けることで、世の中全体が破滅へと追い込まれ、
ちょうど今でも何千万人と餓死して行っているアフリカの飢餓民などのように、
俺もおまえらの重権力犯罪の犠牲になって、他業自得によって殺害されてしまう。
それは、決して俺の本望ではないが、少なくとも、おまえらとつるんで
今の世の中での重権力犯罪に加担したりするよりは、まだ望むところだ。
もちろんおまえらを檻の中や閉鎖病棟の中に閉じ込めて、俺のほうが世の中を
健全な状態へと持っていく道徳労働に励むほうがより善いに決まっているが、
それがかなわない限りにおいて、おまえらとの友愛を受け入れさせられて共犯と化せられるのと、
おまえらとの友愛を拒んだ挙句に野垂れ死にに追い込まれるのと、いずれかでしか
あり得ないというのなら、当然のこととして後者を選ぶ。別に武王や周公ほどの
徳性を備えているわけでもないおまえらへの協力など、伯夷や叔斉級の聖人でなくたって断る。
俺は自分自身にできる限りにおいての、最もマシな選択の限りを尽くしている。
野放し状態の重権力犯罪者や重度精神障害者=現代人の大部分との付き合いも避けて、
今の世の中においては最もマシな部類の人間であることに勤めている。
その俺が今の状況をより悪くしている張本人などであるはずがなく、
事態をより悪くしていったり、少なくとも善くしたりマシにしようともしていない
おまえらのほうがよっぽど、今という劣悪な状況の責任者であるに違いない。
野放し状態の重権力犯罪者や重度精神障害者でもあるおまえらが、
性懲りもなく今の社会の最高責任者でもあり続けることで、世の中全体が破滅へと追い込まれ、
ちょうど今でも何千万人と餓死して行っているアフリカの飢餓民などのように、
俺もおまえらの重権力犯罪の犠牲になって、他業自得によって殺害されてしまう。
それは、決して俺の本望ではないが、少なくとも、おまえらとつるんで
今の世の中での重権力犯罪に加担したりするよりは、まだ望むところだ。
もちろんおまえらを檻の中や閉鎖病棟の中に閉じ込めて、俺のほうが世の中を
健全な状態へと持っていく道徳労働に励むほうがより善いに決まっているが、
それがかなわない限りにおいて、おまえらとの友愛を受け入れさせられて共犯と化せられるのと、
おまえらとの友愛を拒んだ挙句に野垂れ死にに追い込まれるのと、いずれかでしか
あり得ないというのなら、当然のこととして後者を選ぶ。別に武王や周公ほどの
徳性を備えているわけでもないおまえらへの協力など、伯夷や叔斉級の聖人でなくたって断る。
富貴も得るに値するほどマシな世の中なら得たって構わないが、得るに値しないなら得ないまでのこと。
おまえらと共に得るに値する富貴など、この世界この宇宙どこを探したって一つも見当たらない。
「豐年黍多なり稌多なる。亦た高き廩有り、萬億に及ぶ秭。
酒を為り醴を為りて、祖妣に烝め畀え、以に百禮を洽せまつるに。降福は孔と皆たき」
今年は豊年で餅黍も餅稲もたくさん獲れた。米倉に蓄える稲束も高々と、万億の量に及ぶ。
酒を造り甘酒も造り、祖先の神様にお供えもして、百礼を尽くして祭ることの、なんとめでたさこの上ない。
(富貴豊作を素直に喜ぶ気持ちも、人としての精神の健全さの現れの一つだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・臣工之什・豐年より)
おまえらと共に得るに値する富貴など、この世界この宇宙どこを探したって一つも見当たらない。
「豐年黍多なり稌多なる。亦た高き廩有り、萬億に及ぶ秭。
酒を為り醴を為りて、祖妣に烝め畀え、以に百禮を洽せまつるに。降福は孔と皆たき」
今年は豊年で餅黍も餅稲もたくさん獲れた。米倉に蓄える稲束も高々と、万億の量に及ぶ。
酒を造り甘酒も造り、祖先の神様にお供えもして、百礼を尽くして祭ることの、なんとめでたさこの上ない。
(富貴豊作を素直に喜ぶ気持ちも、人としての精神の健全さの現れの一つだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・臣工之什・豐年より)
誰の責任かは問題じゃない、状況が悪くなっていくという事自体が一番問題だ。
世の中を責めてみても、その世の中に存在している以上は絶対そこから逃げられない。
いくら長大な論文という形で悲鳴をあげ続けても、誰もお前を助ける事はできない。
世の中を責めてみても、その世の中に存在している以上は絶対そこから逃げられない。
いくら長大な論文という形で悲鳴をあげ続けても、誰もお前を助ける事はできない。
いつ、誰が助けを頼んだよ?
ただ檻の中や閉鎖病棟の中でじっとしてろって言ってるだけじゃねえか?
ただ何もしないでいるだけで、世の中に与える害悪の度合いが遥かに引き下がるような、
有害かつ無益な行為能力濫用者どもの自業他得によって、やむを得ないわけでもないのに
受動的な破滅に追い込まれている人々が何万何億にも上っている。そこに対して俺なんかが
何らかの作為を加えて救ってあげたりするだなんてこともなければ、作為を加えることで
救ってもらうだなんてこともない。ただ何もしなくなればいいだけのこと。
世の中が積極的に善くなる以前に、まず殊更に悪くはならないこと。
そのために誰かが誰かに助けられる必要なんて少しもなく、ただ害悪の元凶にもなっている、
野放し状態の重権力犯罪者やサイコパス患者が積極的な活動をやめればいいだけのこと。
そしたらわざわざ助けられなくたって、俺だって俺なりの自力によって相応の生活も営んでいく。
否が応もなく、多くの人々が重権力犯罪によって、やむを得ないわけでもないのに命を落として
いっている今の世の中で、自分ばかりが助かりたいだなんて選民志向も、俺にはない。そんな
志向を宿していることはかえって卑しいことだとも思うから、進んでかなぐり捨てすらもする。
つまり、俺が権力犯罪被害によってのたれ死ぬことが、選別的に救われることは断じて拒む。
それだったらまだのたれ死んだほうがマシ。ただ、のたれ死ぬでもなく、のたれ死ぬところを
選別的に救われるでもなく、権力犯罪者どもが一網打尽となって誰しもが活路を開かれる中に、
自分もまた生き延びるをつてを模索していくというのなら、それが最高であるに違いない。
俺が個人的に救われる<俺が天下万民と共にのたれ死ぬ<天下万民と共に俺も生き延びる。
ただ檻の中や閉鎖病棟の中でじっとしてろって言ってるだけじゃねえか?
ただ何もしないでいるだけで、世の中に与える害悪の度合いが遥かに引き下がるような、
有害かつ無益な行為能力濫用者どもの自業他得によって、やむを得ないわけでもないのに
受動的な破滅に追い込まれている人々が何万何億にも上っている。そこに対して俺なんかが
何らかの作為を加えて救ってあげたりするだなんてこともなければ、作為を加えることで
救ってもらうだなんてこともない。ただ何もしなくなればいいだけのこと。
世の中が積極的に善くなる以前に、まず殊更に悪くはならないこと。
そのために誰かが誰かに助けられる必要なんて少しもなく、ただ害悪の元凶にもなっている、
野放し状態の重権力犯罪者やサイコパス患者が積極的な活動をやめればいいだけのこと。
そしたらわざわざ助けられなくたって、俺だって俺なりの自力によって相応の生活も営んでいく。
否が応もなく、多くの人々が重権力犯罪によって、やむを得ないわけでもないのに命を落として
いっている今の世の中で、自分ばかりが助かりたいだなんて選民志向も、俺にはない。そんな
志向を宿していることはかえって卑しいことだとも思うから、進んでかなぐり捨てすらもする。
つまり、俺が権力犯罪被害によってのたれ死ぬことが、選別的に救われることは断じて拒む。
それだったらまだのたれ死んだほうがマシ。ただ、のたれ死ぬでもなく、のたれ死ぬところを
選別的に救われるでもなく、権力犯罪者どもが一網打尽となって誰しもが活路を開かれる中に、
自分もまた生き延びるをつてを模索していくというのなら、それが最高であるに違いない。
俺が個人的に救われる<俺が天下万民と共にのたれ死ぬ<天下万民と共に俺も生き延びる。
元号事典をパラパラとめくっていて気づいたが、
明和水産の語源になっている「明和(1764-1772)」も、実は「書経」からの引用なんだな。
虞書・堯典の「百姓を昭明し、萬邦を協和せしむ」という部分。
これは「昭和」の引用元でもあり、「平成」の出典も「書経」の虞書・大禹謨。
禁中並公家諸法度で、幕府も「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」と取り決めるなどしていたが、
確かに朝廷は古来から学問を重んじていて、その最大の学問対象はなんといっても四書五経、
次いで史書、詩歌の順となっている。日本文化の通奏低音ともなっている儒学。
あまりにも常時響き渡り続けているために、誰もそれをそれと意識することすらない。
「子、磬を衛に撃つ。蕢を荷ないて孔氏の門を過ぐる者あり。曰く、心有るかな、磬を撃つこと。
既にして曰く、鄙しきかな。硜硜乎たり。己れを知ること莫くんば、斯れ己まんのみ。
深ければ則ち﨤し、淺ければ則ち掲す。子曰く、果なるかな。難きこと末きなり矣」
「先生が衛で磬という打楽器を演奏されていたとき、もっこを荷なって家の門を通り過ぎようとする者がいた。
一聴して『心ある音だな、この磬の音色は』と言った。しかししばらくしてまた言った。
『しかし卑俗なものだ。自分を分かってもらいたいあまりの緊張感をも帯びている。
誰も自分のことを分かってくれないのなら、ただ活動を控えていればいいだけのこと。
深い川では着物を脱ぎ、浅い川では裾を上げる(詩経・匏有苦葉からの引用)。
そのようにして、世の乱れに対しても適当に対応すればいいだけのことさ』
先生は言った。『思い切りのいい人だね。しかし、別に難しいことでもないさ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・四一)
明和水産の語源になっている「明和(1764-1772)」も、実は「書経」からの引用なんだな。
虞書・堯典の「百姓を昭明し、萬邦を協和せしむ」という部分。
これは「昭和」の引用元でもあり、「平成」の出典も「書経」の虞書・大禹謨。
禁中並公家諸法度で、幕府も「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」と取り決めるなどしていたが、
確かに朝廷は古来から学問を重んじていて、その最大の学問対象はなんといっても四書五経、
次いで史書、詩歌の順となっている。日本文化の通奏低音ともなっている儒学。
あまりにも常時響き渡り続けているために、誰もそれをそれと意識することすらない。
「子、磬を衛に撃つ。蕢を荷ないて孔氏の門を過ぐる者あり。曰く、心有るかな、磬を撃つこと。
既にして曰く、鄙しきかな。硜硜乎たり。己れを知ること莫くんば、斯れ己まんのみ。
深ければ則ち﨤し、淺ければ則ち掲す。子曰く、果なるかな。難きこと末きなり矣」
「先生が衛で磬という打楽器を演奏されていたとき、もっこを荷なって家の門を通り過ぎようとする者がいた。
一聴して『心ある音だな、この磬の音色は』と言った。しかししばらくしてまた言った。
『しかし卑俗なものだ。自分を分かってもらいたいあまりの緊張感をも帯びている。
誰も自分のことを分かってくれないのなら、ただ活動を控えていればいいだけのこと。
深い川では着物を脱ぎ、浅い川では裾を上げる(詩経・匏有苦葉からの引用)。
そのようにして、世の乱れに対しても適当に対応すればいいだけのことさ』
先生は言った。『思い切りのいい人だね。しかし、別に難しいことでもないさ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・四一)
論語に菜食をすすめる記述や
仏教も菜食を進めてるのに
(ただしブッダ自体は肉をたべていたと思われる)
菜食を実行しないだろうなこの人はww
たぶんよく味付けされたステーキなんかを舌鳴らしながら食べてるんだろうw。
別に俺も菜食してるわけじゃないけどな。
一度だけ一年ぐらい肉と魚をやめたことがあったが。
だが君は論語や仏典を読み込んでるなら菜食を実践するべきだw
孔子も実践を重んじるだろう?
子曰、君子欲訥於言、而敏於行、
仏教も菜食を進めてるのに
(ただしブッダ自体は肉をたべていたと思われる)
菜食を実行しないだろうなこの人はww
たぶんよく味付けされたステーキなんかを舌鳴らしながら食べてるんだろうw。
別に俺も菜食してるわけじゃないけどな。
一度だけ一年ぐらい肉と魚をやめたことがあったが。
だが君は論語や仏典を読み込んでるなら菜食を実践するべきだw
孔子も実践を重んじるだろう?
子曰、君子欲訥於言、而敏於行、
肉も食うさ。食うことは食うが、食い過ぎも禁物だ。
古来から、牛やら羊やらの家畜が神への生贄として捧げられた上で屠られていたのは、
人間自身が肉を食うために、自分たちと同じ高等動物を殺害する後ろめたさを払拭するためだった。
だからこそ、神に捧げるわけでもないのに、ただ肉を売りさばくためだけに家畜を殺す
屠殺業者などへの差別が生じたりもしていた。孟子も「君子は包厨を遠ざく」といい、
生贄の牛をより小さな羊に替えさせた恵王の情け深さを褒め称えたりするなど、
ただ欲望のままに肉食を欲したりすることが、確かに儒家でも控えるべきものとされている。
しかし、実際のところ儒家は牛羊豚鶏などを生贄にする儀式を礼節上、推奨してもいる。
生贄に捧げた畜獣を当然あとで食うわけで、「喪に服している間は中年までは肉を食わず、
高齢者だけは食べてもいい」などの記述が「礼記」にもあるなど、肉食に関しての取り決めも細密。
年寄りが死者の後追いなどをしないように、栄養ある肉食を絶やさぬようにとの配慮から、
服喪中の肉食すらも認めているように、肉食の効用も十分に推し量った上で、節度を保った上での肉食を認めている。
もちろん、人間までは食うべきでないとしている。生きとし生けるものは何でも食う中国では、
本当に人間を神の生贄に捧げて、その肉を食うところまでやっていたことがある。
もちろんその人間も重犯罪者であったりしたわけだけれども、人肉食も「礼記」や「左伝」では非難されている。
本当に生贄に捧げて、本当に食った上で、やっぱりいけないことだと再認しているわけだから、
御伽噺上の人間の生贄を称えているアレなどよりも、よく経験を積んだ上で正しい判断を下しているといえる。
古来から、牛やら羊やらの家畜が神への生贄として捧げられた上で屠られていたのは、
人間自身が肉を食うために、自分たちと同じ高等動物を殺害する後ろめたさを払拭するためだった。
だからこそ、神に捧げるわけでもないのに、ただ肉を売りさばくためだけに家畜を殺す
屠殺業者などへの差別が生じたりもしていた。孟子も「君子は包厨を遠ざく」といい、
生贄の牛をより小さな羊に替えさせた恵王の情け深さを褒め称えたりするなど、
ただ欲望のままに肉食を欲したりすることが、確かに儒家でも控えるべきものとされている。
しかし、実際のところ儒家は牛羊豚鶏などを生贄にする儀式を礼節上、推奨してもいる。
生贄に捧げた畜獣を当然あとで食うわけで、「喪に服している間は中年までは肉を食わず、
高齢者だけは食べてもいい」などの記述が「礼記」にもあるなど、肉食に関しての取り決めも細密。
年寄りが死者の後追いなどをしないように、栄養ある肉食を絶やさぬようにとの配慮から、
服喪中の肉食すらも認めているように、肉食の効用も十分に推し量った上で、節度を保った上での肉食を認めている。
もちろん、人間までは食うべきでないとしている。生きとし生けるものは何でも食う中国では、
本当に人間を神の生贄に捧げて、その肉を食うところまでやっていたことがある。
もちろんその人間も重犯罪者であったりしたわけだけれども、人肉食も「礼記」や「左伝」では非難されている。
本当に生贄に捧げて、本当に食った上で、やっぱりいけないことだと再認しているわけだから、
御伽噺上の人間の生贄を称えているアレなどよりも、よく経験を積んだ上で正しい判断を下しているといえる。
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礼儀は純粋道徳と現実活動の中庸だ。
正式な礼法に基づいて執り行われる儀式などが、道徳性に根ざしていなければ
ならないのはもちろんだが、逆に現実上の利害得失から極端にかけ離れたものとなってもいけない。
豪華なお供え物などを祖神にお供えしたとしても、ご先祖さまはとっくの昔に亡くなってるわけだから、
最後には自分たちでお供え物を食べることになる、そのような儀式外のことを考慮に入れないよりは、
考慮に入れた上で礼法を構築していったほうが、四六時中いつであっても通用する礼法ともなる。
悟りを得た坊さんでもないから、もちろん性欲はある。
性欲はあっても稼ぎはないから遊べもしない。これまた故出精戒まで守らされる
坊さんではないから自慰だってしないことはない。ただ、もちろんそれが本望ではなく、
一人前の稼ぎによって妻子も養っていく立場になることのほうが望みだ。
しかし、それは「重権力犯罪者や重度精神障害者として」ではないから、
そのような人間のクズに成り下がりながらでしか稼ぐことができないような状態である
今の世の中で稼いだりはできないので、やむやむなくなく自制状態を保っているわけだ。
欲望はあっても、それを自制することによって社会的な害悪を最小限に食い止めもする、
それは、礼儀の理念にも即していることなので、儒学を志すものとしては当然のたしなみであるといえる。
食欲にしろ性欲にしろ、欲はほしいままにするべからず(礼記・曲礼上第一)。
ほしいままにすらしなければ欲望すらも認められるのが礼儀なのだから、
仏教の戒律などよりもよっぽど融通が利いているといえる。
正式な礼法に基づいて執り行われる儀式などが、道徳性に根ざしていなければ
ならないのはもちろんだが、逆に現実上の利害得失から極端にかけ離れたものとなってもいけない。
豪華なお供え物などを祖神にお供えしたとしても、ご先祖さまはとっくの昔に亡くなってるわけだから、
最後には自分たちでお供え物を食べることになる、そのような儀式外のことを考慮に入れないよりは、
考慮に入れた上で礼法を構築していったほうが、四六時中いつであっても通用する礼法ともなる。
悟りを得た坊さんでもないから、もちろん性欲はある。
性欲はあっても稼ぎはないから遊べもしない。これまた故出精戒まで守らされる
坊さんではないから自慰だってしないことはない。ただ、もちろんそれが本望ではなく、
一人前の稼ぎによって妻子も養っていく立場になることのほうが望みだ。
しかし、それは「重権力犯罪者や重度精神障害者として」ではないから、
そのような人間のクズに成り下がりながらでしか稼ぐことができないような状態である
今の世の中で稼いだりはできないので、やむやむなくなく自制状態を保っているわけだ。
欲望はあっても、それを自制することによって社会的な害悪を最小限に食い止めもする、
それは、礼儀の理念にも即していることなので、儒学を志すものとしては当然のたしなみであるといえる。
食欲にしろ性欲にしろ、欲はほしいままにするべからず(礼記・曲礼上第一)。
ほしいままにすらしなければ欲望すらも認められるのが礼儀なのだから、
仏教の戒律などよりもよっぽど融通が利いているといえる。
まだやってたのか。早く病院に行ったほうが良いんだけど
周りの家族とかは諦めてるのかねえ・・・。可哀相に。
周りの家族とかは諦めてるのかねえ・・・。可哀相に。
四書は今でも人口に膾炙しているし、「詩経」や「書経」や「易経」も、元号への引用や占いなどを通じてそれなりに流布されている。
「春秋左氏伝」は純粋な歴史書であり、「史記」などでその記録が焼き直されているところもあるし、乱世の卑俗な為政者どもの
劣悪な行状に対する懲罰的な意図も込められているため、万人が模範とすべき名言や格言の引用先としての利用価値は低い。
四書五経中でも「礼記」こそは、模範とすべき名言や格言の宝庫であり、その具体的な実践手段を事細かに記録した実用書でもあるという、
極めて高い利用価値を備えながらも、未だ十全な活用の果たされてきたことのない不遇の書(「不具の書」ではない)となっている。
「古代中国の礼法を今の人間がそのまま用いる必要はない」ということは、佐藤一斎も「言志四録」で述べており、
実際、日本には日本特有の礼法を精選した「延喜式」などの格式集があるので、日本人がそっくりそのまま参考にする上で適切なのは
むしろ礼記よりも延喜式などのほうなわけだが、結局、礼法というものがどのような根拠に基づいて構築されているのかという
理論的な原典となっているのはやはり礼記のほうであり、単なる堅苦しい形式主義としてのみ礼儀作法を嗜むよりは、それぞれの礼法が
いかなる根拠に即してて成立して来たのかを、礼記などを参考にして理解しながら礼儀作法も嗜んでいくほうが、意味不明な礼式に
辟易を抱いたりすることもなく、よくよく納得しながらの充実した道徳活動が推進していけるようになるだろう。
「春秋左氏伝」は純粋な歴史書であり、「史記」などでその記録が焼き直されているところもあるし、乱世の卑俗な為政者どもの
劣悪な行状に対する懲罰的な意図も込められているため、万人が模範とすべき名言や格言の引用先としての利用価値は低い。
四書五経中でも「礼記」こそは、模範とすべき名言や格言の宝庫であり、その具体的な実践手段を事細かに記録した実用書でもあるという、
極めて高い利用価値を備えながらも、未だ十全な活用の果たされてきたことのない不遇の書(「不具の書」ではない)となっている。
「古代中国の礼法を今の人間がそのまま用いる必要はない」ということは、佐藤一斎も「言志四録」で述べており、
実際、日本には日本特有の礼法を精選した「延喜式」などの格式集があるので、日本人がそっくりそのまま参考にする上で適切なのは
むしろ礼記よりも延喜式などのほうなわけだが、結局、礼法というものがどのような根拠に基づいて構築されているのかという
理論的な原典となっているのはやはり礼記のほうであり、単なる堅苦しい形式主義としてのみ礼儀作法を嗜むよりは、それぞれの礼法が
いかなる根拠に即してて成立して来たのかを、礼記などを参考にして理解しながら礼儀作法も嗜んでいくほうが、意味不明な礼式に
辟易を抱いたりすることもなく、よくよく納得しながらの充実した道徳活動が推進していけるようになるだろう。
>>257の引用に関連しての話だが、何もしないでじっとしているのなんて、簡単なことだ。
今だとマッカーサー憲法の27条に違反する関係などで、働かないことが非人も同然の扱いを受けるが、
何のことはない、何もしないだけなのだから、害もなければ益もない、恬淡寂寞とした安穏たる存在であるのみ。
人間ってのは、そういう風にできている。別に牛馬のようにこき使われることで
精神の安定を得たりするのではなく、何もしないでじっとしている中にこそ、最高の安定を得ることができる。
その安定をあえて選択せずに、あたかも孔子や二宮尊徳のように、熱心な勤労に励むということは、これまた結構なことだ。
しかし、何もしないでいることが苦しみであり、何かをしていることが精神の安定に繋がるなどという間違った見識に即して、
多動性障害も同然の奴隷使役に没頭したりするのでは、無為自然の徳も計り知った上で、あえて積極的な労役に勤めようとする、
真っ当な勤労道徳にすら反することとなる。無為自然の徳を否定しているのみならず、健全な勤労道徳をも共に否定しており、
行動と不動のいずれにおいても、人として誤ったあり方ばかりを尽くすことになる。
何もしないところに最高の安定を保証するのは、何も俺に始まったことではなく、老荘列などの道家思想や、
仏教思想の一部などが、無為自然の手堅さを明確に是認してもいる。にもかかわらず「何もしないことが悪」だなどという
風説ばかりがまかり通っているのは、旧約犯罪聖書におけるアダムとイブの楽園追放寓話の流布のせいであったりする。
このようなカルト教義が正式なものとして触れ回られることで、何もしないでいることへの罪悪感が人工的に生み出されもし、
本当に何もしないでいることが苦しくもなる。そもそも、そのようなカルト教義の正当性を認めず、「何もしないことが悪」だ
などという観念を脳内から取っ払った上で何もしないでいれば、奴隷使役などに没頭するよりも遥かに安定した精神が得られる。
今だとマッカーサー憲法の27条に違反する関係などで、働かないことが非人も同然の扱いを受けるが、
何のことはない、何もしないだけなのだから、害もなければ益もない、恬淡寂寞とした安穏たる存在であるのみ。
人間ってのは、そういう風にできている。別に牛馬のようにこき使われることで
精神の安定を得たりするのではなく、何もしないでじっとしている中にこそ、最高の安定を得ることができる。
その安定をあえて選択せずに、あたかも孔子や二宮尊徳のように、熱心な勤労に励むということは、これまた結構なことだ。
しかし、何もしないでいることが苦しみであり、何かをしていることが精神の安定に繋がるなどという間違った見識に即して、
多動性障害も同然の奴隷使役に没頭したりするのでは、無為自然の徳も計り知った上で、あえて積極的な労役に勤めようとする、
真っ当な勤労道徳にすら反することとなる。無為自然の徳を否定しているのみならず、健全な勤労道徳をも共に否定しており、
行動と不動のいずれにおいても、人として誤ったあり方ばかりを尽くすことになる。
何もしないところに最高の安定を保証するのは、何も俺に始まったことではなく、老荘列などの道家思想や、
仏教思想の一部などが、無為自然の手堅さを明確に是認してもいる。にもかかわらず「何もしないことが悪」だなどという
風説ばかりがまかり通っているのは、旧約犯罪聖書におけるアダムとイブの楽園追放寓話の流布のせいであったりする。
このようなカルト教義が正式なものとして触れ回られることで、何もしないでいることへの罪悪感が人工的に生み出されもし、
本当に何もしないでいることが苦しくもなる。そもそも、そのようなカルト教義の正当性を認めず、「何もしないことが悪」だ
などという観念を脳内から取っ払った上で何もしないでいれば、奴隷使役などに没頭するよりも遥かに安定した精神が得られる。
おまえらはまだ、カルト教義に脳内を蝕まれているせいで、何もしないでいることを確かに苦しみだと感じてもいる。
しかし、俺はもうすでに脳内からカルト教義による洗脳を払拭して、無為自然の徳こそは真正であるとわきまえているから、
何もしないでいることに心からの安定を感じ取ってもいる。もちろん安穏としてばかりいたいというのではなく、
孔子や二宮尊徳のように、健全な勤労道徳に即して働きたいという気持ちもあるが、別にそれはおまえらのように、
カルト教義に蝕まれて、無為自然を苦であると感じているから働きたかったりするのではない。心から、世のため人のために
挺身していきたいという、仁徳ないし菩提心の発露によって働きたいと思っているのであり、別に働かなくたって、
何もしないでいたって、それが苦であるだなどということはなく、むしろ自分ばかりが安穏とし過ぎていることが後ろめたいほどだ。
「(憲問うて曰く)克、伐、怨、欲行われざるを以て仁と為すべし。子曰く、以て難しと為すべし。仁は則ち吾れ知らざるなり」
「孔子の弟子の原憲が問うた。『勝ち気と自慢げと怨恨と欲望が完全に捨て去れたなら仁と言えましょう』
先生は言った。『それらは確かに難しいことだ。しかし、それだけで仁と言っていいのかは分からない』
(無為の易行と戒律厳守の難行のどちらも仁には当たらず、克伐怨欲の自然な抑制が仁ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・二より)
しかし、俺はもうすでに脳内からカルト教義による洗脳を払拭して、無為自然の徳こそは真正であるとわきまえているから、
何もしないでいることに心からの安定を感じ取ってもいる。もちろん安穏としてばかりいたいというのではなく、
孔子や二宮尊徳のように、健全な勤労道徳に即して働きたいという気持ちもあるが、別にそれはおまえらのように、
カルト教義に蝕まれて、無為自然を苦であると感じているから働きたかったりするのではない。心から、世のため人のために
挺身していきたいという、仁徳ないし菩提心の発露によって働きたいと思っているのであり、別に働かなくたって、
何もしないでいたって、それが苦であるだなどということはなく、むしろ自分ばかりが安穏とし過ぎていることが後ろめたいほどだ。
「(憲問うて曰く)克、伐、怨、欲行われざるを以て仁と為すべし。子曰く、以て難しと為すべし。仁は則ち吾れ知らざるなり」
「孔子の弟子の原憲が問うた。『勝ち気と自慢げと怨恨と欲望が完全に捨て去れたなら仁と言えましょう』
先生は言った。『それらは確かに難しいことだ。しかし、それだけで仁と言っていいのかは分からない』
(無為の易行と戒律厳守の難行のどちらも仁には当たらず、克伐怨欲の自然な抑制が仁ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・二より)
削除(by投稿者)
食っていかない
削除(by投稿者)
貧窮してネット環境が維持できなくなれば個人的な手記に切り替え、
パソコンすら使えなくなればチラシの裏などへの手書きに切り替え、
食費が無くなるか、筆記具代が無くなるか辺りの所で自分も亡くなる。
それまでのことだ。
「克く俊徳を明らかにして、以て九族を親しませしむ。九族すでに睦まじみ、百姓を平章せしむ。
百姓昭明にして万邦を協和せしむ。黎民ここに変じ、これ雍らぐ。」
「徳性に優れた者をよく引き立てて、九世代以上にも渡って人々を親睦させる。
九世代以上にも親睦させた結果、家系をあまり重んじない百姓町人の間柄までもが和らげられる。
百姓町人すらもが昭明であることにより、天下全土の万国が仲良くなり、
民衆たちも十分に教化されて、誰しもが和らぐようになる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・堯典より)
パソコンすら使えなくなればチラシの裏などへの手書きに切り替え、
食費が無くなるか、筆記具代が無くなるか辺りの所で自分も亡くなる。
それまでのことだ。
「克く俊徳を明らかにして、以て九族を親しませしむ。九族すでに睦まじみ、百姓を平章せしむ。
百姓昭明にして万邦を協和せしむ。黎民ここに変じ、これ雍らぐ。」
「徳性に優れた者をよく引き立てて、九世代以上にも渡って人々を親睦させる。
九世代以上にも親睦させた結果、家系をあまり重んじない百姓町人の間柄までもが和らげられる。
百姓町人すらもが昭明であることにより、天下全土の万国が仲良くなり、
民衆たちも十分に教化されて、誰しもが和らぐようになる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・堯典より)
何のことはない。
資本主義先進国の重権力犯罪者や重度精神障害者が
世界中に撒き散らし続けている多大なる迷惑を、自分もまた被ることを避けないだけだ。
明治以降の日本は、欧米勢力による外界侵略の危害を自分たちだけでも避けるために、
帝国主義や資本主義といった、欧米流のイデオロギーに自分たちも与する「同じ穴の狢」となったわけだが、
案の定、それは重権力犯罪の被害者ではなく加害者になっただけのことであり、
罪も他愛もない平穏な存在であることを守り通したりしたのではなかった。
中国のように、国際権力犯罪の加害者側になることなく欧米に抵抗する国もあるが、
インドのように、抵抗も服従もすることなく乞食を量産している国もある。
俺が今ここで引用しているのは、中国原産である四書五経のほうだが、
実践面はむしろ、非抵抗・不服従というインドのやり方に近似している。
乞食と化してまで重権力犯罪者への協力を拒否する、中国人などからは清濁併せ呑む
度量にも欠けているように思われても仕方のないやり方に倣っているわけで、
清濁併せ呑み過ぎたせいで、時には欧米並みにも凶悪であることのある中国文化の内での、
日本人も取り入れるぐらいに優良さの保てている部類に入る儒学の実践こそが
可能となった時に初めて、行動面から中国文化にも倣うことがある。
さんざん漢学を引き合いに出しておきながら、肝心の俺自身は、
漢学を積極的に実践したことはまだない。ただひたすら行動の消極化を促す、
道家の無為自然の実践ぐらいはできているかもしれないにしろ。
「仁者は難を先にし獲るを後にす」
「仁者は苦難を先に受け止めた上で、その後に何らかの収穫を得ようとするものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・二二より)
資本主義先進国の重権力犯罪者や重度精神障害者が
世界中に撒き散らし続けている多大なる迷惑を、自分もまた被ることを避けないだけだ。
明治以降の日本は、欧米勢力による外界侵略の危害を自分たちだけでも避けるために、
帝国主義や資本主義といった、欧米流のイデオロギーに自分たちも与する「同じ穴の狢」となったわけだが、
案の定、それは重権力犯罪の被害者ではなく加害者になっただけのことであり、
罪も他愛もない平穏な存在であることを守り通したりしたのではなかった。
中国のように、国際権力犯罪の加害者側になることなく欧米に抵抗する国もあるが、
インドのように、抵抗も服従もすることなく乞食を量産している国もある。
俺が今ここで引用しているのは、中国原産である四書五経のほうだが、
実践面はむしろ、非抵抗・不服従というインドのやり方に近似している。
乞食と化してまで重権力犯罪者への協力を拒否する、中国人などからは清濁併せ呑む
度量にも欠けているように思われても仕方のないやり方に倣っているわけで、
清濁併せ呑み過ぎたせいで、時には欧米並みにも凶悪であることのある中国文化の内での、
日本人も取り入れるぐらいに優良さの保てている部類に入る儒学の実践こそが
可能となった時に初めて、行動面から中国文化にも倣うことがある。
さんざん漢学を引き合いに出しておきながら、肝心の俺自身は、
漢学を積極的に実践したことはまだない。ただひたすら行動の消極化を促す、
道家の無為自然の実践ぐらいはできているかもしれないにしろ。
「仁者は難を先にし獲るを後にす」
「仁者は苦難を先に受け止めた上で、その後に何らかの収穫を得ようとするものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・二二より)
なんで日に二回も引用するんだろうな。
そんなに焦り合う間柄でもなかろうに。
「哲夫は城を成し、哲婦は城を傾く」
「大夫にして透哲するものは持つべき城を成すが、
匹婦にして透哲するものはむしろ持つべき城すらも傾ける」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・讒仰より)
そんなに焦り合う間柄でもなかろうに。
「哲夫は城を成し、哲婦は城を傾く」
「大夫にして透哲するものは持つべき城を成すが、
匹婦にして透哲するものはむしろ持つべき城すらも傾ける」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・讒仰より)
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人口分布と昇給を考えたらそれくらい普通だろ
今の日本人の価値観からすれば、当然のことだろうな。
封建制や世襲制を取っ払って、士農工商の位階に基づく正しい職業倫理のわきまえも、
老耄の手前で未然に次世代へと家督を譲り、自らは悠々自適の隠居生活を送る無為自然のわきまえも
疎かになりながら、旧来の序列志向だけは完全に払拭しきれないままに、稼げば稼ぐほど偉いような、
商人階級の内側だけでの序列が横行しているような今の日本社会においては、
年功序列が所得格差に直結するのも当たり前のことのように思われるのだろう。
巨万の富を持つことがかえって賤しまれていた本物の封建主義社会とは、
もはや位階が転覆してしまっているにも関わらず。
封建制や世襲制を取っ払って、士農工商の位階に基づく正しい職業倫理のわきまえも、
老耄の手前で未然に次世代へと家督を譲り、自らは悠々自適の隠居生活を送る無為自然のわきまえも
疎かになりながら、旧来の序列志向だけは完全に払拭しきれないままに、稼げば稼ぐほど偉いような、
商人階級の内側だけでの序列が横行しているような今の日本社会においては、
年功序列が所得格差に直結するのも当たり前のことのように思われるのだろう。
巨万の富を持つことがかえって賤しまれていた本物の封建主義社会とは、
もはや位階が転覆してしまっているにも関わらず。
キリスト教徒が人類史上未曾有の重権力犯罪に手を染めながら、
心の平穏を保っていられることにも、ちゃんと人知の範囲内における種や仕掛けがある。
恒常的に知能指数が低数値であり続けるのが知的障害者であるのに対し、恒常的に知能指数が高数値であり続けるのが
知的健常者かつ精神健常者。このような健常者をここでは「常人」と呼ぶことにするが、常人であってなおかつ知能指数が
120〜130程度以上であり続けられる「常人かつ秀才」が賢人と呼ばれ、知能指数が恒常的に150を上回るような
「常人かつ天才」が聖人と呼ばれる。しかし、このようなな人間はそうそうにはいるものではなく、巷で「天才」とか「秀才」とか
呼ばれているような人間の大部分は「精神障害者かつ天才」や「精神障害者かつ秀才」であるのみで、これらは聖賢には当たらない。
アインシュタインとか夏目漱石とかは天才や秀才であっても少なからず精神障害者でもあったのであり、弘法大師や林羅山のような
天才や秀才であってなおかつ聖人や賢人でもあったような人間とは全く別個の存在となっている。
それでは、「精神障害者」とは何かと言えば、瞬間的には凡才や秀才、さらには天才並みの知能指数をもはじき出せるものの、
それとは逆に、恒常的には常人並みの知能指数(IQ100前後)すら保てず、知的障害に当たるIQ70以下の低能となる場合がままある、
知能指数が時系列の発展に即して極端に不安定である者が「精神障害者」であるのであり、キリスト教徒はこの中でも最も重度な、
IQが最低だと20〜30程度にまで低下することのある「重度精神障害者」であり、知能テストでIQ100以上をはじき出すような
凡才や秀才や天才並みの瞬間的知能の持ち主であっても、信仰によって人工的に知能を重度知的障害レベルにまで落ち込ませてもいる。
そのため罪の意識に苛まれるような状況になれば、罪の何たるかを理解できない精神障害者に陥れるようになる。
心の平穏を保っていられることにも、ちゃんと人知の範囲内における種や仕掛けがある。
恒常的に知能指数が低数値であり続けるのが知的障害者であるのに対し、恒常的に知能指数が高数値であり続けるのが
知的健常者かつ精神健常者。このような健常者をここでは「常人」と呼ぶことにするが、常人であってなおかつ知能指数が
120〜130程度以上であり続けられる「常人かつ秀才」が賢人と呼ばれ、知能指数が恒常的に150を上回るような
「常人かつ天才」が聖人と呼ばれる。しかし、このようなな人間はそうそうにはいるものではなく、巷で「天才」とか「秀才」とか
呼ばれているような人間の大部分は「精神障害者かつ天才」や「精神障害者かつ秀才」であるのみで、これらは聖賢には当たらない。
アインシュタインとか夏目漱石とかは天才や秀才であっても少なからず精神障害者でもあったのであり、弘法大師や林羅山のような
天才や秀才であってなおかつ聖人や賢人でもあったような人間とは全く別個の存在となっている。
それでは、「精神障害者」とは何かと言えば、瞬間的には凡才や秀才、さらには天才並みの知能指数をもはじき出せるものの、
それとは逆に、恒常的には常人並みの知能指数(IQ100前後)すら保てず、知的障害に当たるIQ70以下の低能となる場合がままある、
知能指数が時系列の発展に即して極端に不安定である者が「精神障害者」であるのであり、キリスト教徒はこの中でも最も重度な、
IQが最低だと20〜30程度にまで低下することのある「重度精神障害者」であり、知能テストでIQ100以上をはじき出すような
凡才や秀才や天才並みの瞬間的知能の持ち主であっても、信仰によって人工的に知能を重度知的障害レベルにまで落ち込ませてもいる。
そのため罪の意識に苛まれるような状況になれば、罪の何たるかを理解できない精神障害者に陥れるようになる。

こんな連中を、檻の中や閉鎖病棟の中で厳重に保護管理しているのならまだしも、市井に野放し状態にしている世の中は、
それこそトラやライオンやクマなどの危険動物を野放し状態にしているよりも危険なもの。せめてでも一定区域に隔離して
人間さまに深刻な迷惑をかけないような措置を講ずるようにするのが、人としての常識的な選択であるといえる。
「悪む所死よりも甚だしき者あり。故に患いも辟けざる所あり。(ここまで既出の引用)
人の惡む所をして死よりも甚だしきこと莫らしめば、則ち凡そ以て生を得べき者は、何をか為さざらんや。(中略)
是れに由よらば則ち以て患いを辟くべきも、為さざることあり。是の故に(中略)惡む所死よりも甚だしき者あり。
獨り賢者のみ是の心有るにあらざるなり。人皆な之れ有り。賢者は能く喪うこと勿きのみ」
「人には不義のように、死よりも憎み嫌うことの甚だしいものがあり、そのために思い煩いを避けぬこともある。
人が憎み嫌うもののうちで死よりも甚だしいものがないとすれば、自分が生きるためだけにどんな悪事でもやってのけるだろう。
(カルト信仰による自己洗脳などの)ある種の手段によって思い煩いを避けることができるということもある、しかし、
あえてそのような手段に手を出さないこともある。だからこそ死以上にも憎み嫌うものがあるのだといえる。
なにも賢人ばかりにこのような心が備わっているのではない。万人にこのような道義心が備わっているが、
賢人ばかりがこの道義心を恒常的に保つことができ、大部分の人間は恒常的に保つことができないだけだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・一〇より)
今だって、“ある種”の思想が活かされている時代であるには違いない。
時系列の発展に伴う知能の変動を極端に不安定化し、チンパン以下にまで人間の判断力を低下させる
カルト教義が実地面で活かされていることにより、罪を罪とも思わぬ卑劣な悪人が量産されている時代。
それにより、常日ごろから一定の徳性を保ち続ける「庸徳」や「普賢」を旨とする正統な思想宗教が
活かされることが無くなってしまっている。知能不安定症の精神障害を排することこそは正統な思想宗教の
本分であるのだから、知能の不安定化を画策するようなカルト教義が横行してしまっている以上は、
そのぶんだけ、正統な思想宗教が現実社会において活かされることが不可能となってしまう。
「キリスト教は廃絶されてしかるべきだ」という部分だけを聞けば、随分と後退的な物言いに聞こえるだろうが、
それによって儒学や正統仏教のような、正統な思想宗教の活用を復興させることのほうが主であり、
そのための末節における手段として、聖書信仰の廃絶もまたある。勧善という目的のための、懲悪という手段。
どうしても懲悪という手段を先走りさせがちになってしまうが、あくまで勧善のほうが目的であると知らねばならない。
「(湯王の賢臣伊尹曰く)天の此の民を生ずるや、先知をして後知を覺さしめ、先覺をして後覺を覺さしむるなり。
予れは天民の先覺者なり。予れ將に斯の道を以て斯の民を覺らしむるなり。予れ之れを覺さしむるに非ずんば、而ち誰ぞや」
「天は先に道理を知った者によって後から知る者を覚らしめ、先に覚った者をして後から覚る者を覚らしめる。
私も民の内では先覚者のうちに入るが、一つこの道理によって民たちをも覚醒させてみよう。私がやらなければ、誰がやるものか。
(『覚る』とは『ただ起きている』ということではなく、『道理なり真理なりをわきまえている』ということを意味する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
時系列の発展に伴う知能の変動を極端に不安定化し、チンパン以下にまで人間の判断力を低下させる
カルト教義が実地面で活かされていることにより、罪を罪とも思わぬ卑劣な悪人が量産されている時代。
それにより、常日ごろから一定の徳性を保ち続ける「庸徳」や「普賢」を旨とする正統な思想宗教が
活かされることが無くなってしまっている。知能不安定症の精神障害を排することこそは正統な思想宗教の
本分であるのだから、知能の不安定化を画策するようなカルト教義が横行してしまっている以上は、
そのぶんだけ、正統な思想宗教が現実社会において活かされることが不可能となってしまう。
「キリスト教は廃絶されてしかるべきだ」という部分だけを聞けば、随分と後退的な物言いに聞こえるだろうが、
それによって儒学や正統仏教のような、正統な思想宗教の活用を復興させることのほうが主であり、
そのための末節における手段として、聖書信仰の廃絶もまたある。勧善という目的のための、懲悪という手段。
どうしても懲悪という手段を先走りさせがちになってしまうが、あくまで勧善のほうが目的であると知らねばならない。
「(湯王の賢臣伊尹曰く)天の此の民を生ずるや、先知をして後知を覺さしめ、先覺をして後覺を覺さしむるなり。
予れは天民の先覺者なり。予れ將に斯の道を以て斯の民を覺らしむるなり。予れ之れを覺さしむるに非ずんば、而ち誰ぞや」
「天は先に道理を知った者によって後から知る者を覚らしめ、先に覚った者をして後から覚る者を覚らしめる。
私も民の内では先覚者のうちに入るが、一つこの道理によって民たちをも覚醒させてみよう。私がやらなければ、誰がやるものか。
(『覚る』とは『ただ起きている』ということではなく、『道理なり真理なりをわきまえている』ということを意味する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
>>277の図では、煩雑になり過ぎるのであえて示さなかったが、「重度精神障害かつ凡才や秀才や天才」である場合の他にも、
「中度精神障害かつ凡才や秀才や天才」である場合もあれば、「軽度精神障害かつ凡才や秀才や天才」である場合もある。
完全なキリスト教徒やユダヤ教徒でもない限りは、必ずしも「重度精神障害である」とまで断定することはできないが、
聖書信仰者であることを自認しない今の大部分の日本人の中にも、間接的に聖書信仰の毒気に当てられたことで
中度や軽度の精神障害に罹患している人間は数多い。ルネサンスや啓蒙主義以降に生み出された、
表向きは非宗教的であることを取り繕っている聖書圏の文化文明に毒されて、未だ聖書を読んだこともなく、
聖書信者を自認するまでもいかない限りにおいて、聖書信仰に特有の精神障害を少なからず帯びてしまっている。
それらはもちろん「聖書信仰そのもの」ではないから、チンパン以下の知能退行を伴う重度精神障害に本当に罹患してしまう、
聖書中毒そのものほどの精神障害を帯びることは確かに少ない。しかし、特にプロテスタントやユダヤの連中が創作したような、
表向きは無宗教を決め込んでいる西洋文化のいずれもが、結局のところは聖書信仰に全てを還元する犯罪寓意の塊となっており、
自分自身でも気づかないうちから、知らず知らずのままで精神障害の進行を招くようになっている。
所詮は聖書から姓名を引用している連中が作り上げてきている文化文明、どうあがいたって聖書信仰の悪影響を
払拭しきれるはずはないのであり、自分たちから意識的に聖書信仰を破棄して、姓名も改易して無害な名詞に入れ替える
「易姓革命(元来はこういう意味で用いられる言葉ではない)」を率先して行うところからでないと、始めに毛筋ほどの過ちでも犯していれば、
のちのちに千里の過ちともなってしまう(礼記)、エントロピー増大則にも即した過ちの積み重ねの根絶はおろか、軽減すらも覚束ない。
「中度精神障害かつ凡才や秀才や天才」である場合もあれば、「軽度精神障害かつ凡才や秀才や天才」である場合もある。
完全なキリスト教徒やユダヤ教徒でもない限りは、必ずしも「重度精神障害である」とまで断定することはできないが、
聖書信仰者であることを自認しない今の大部分の日本人の中にも、間接的に聖書信仰の毒気に当てられたことで
中度や軽度の精神障害に罹患している人間は数多い。ルネサンスや啓蒙主義以降に生み出された、
表向きは非宗教的であることを取り繕っている聖書圏の文化文明に毒されて、未だ聖書を読んだこともなく、
聖書信者を自認するまでもいかない限りにおいて、聖書信仰に特有の精神障害を少なからず帯びてしまっている。
それらはもちろん「聖書信仰そのもの」ではないから、チンパン以下の知能退行を伴う重度精神障害に本当に罹患してしまう、
聖書中毒そのものほどの精神障害を帯びることは確かに少ない。しかし、特にプロテスタントやユダヤの連中が創作したような、
表向きは無宗教を決め込んでいる西洋文化のいずれもが、結局のところは聖書信仰に全てを還元する犯罪寓意の塊となっており、
自分自身でも気づかないうちから、知らず知らずのままで精神障害の進行を招くようになっている。
所詮は聖書から姓名を引用している連中が作り上げてきている文化文明、どうあがいたって聖書信仰の悪影響を
払拭しきれるはずはないのであり、自分たちから意識的に聖書信仰を破棄して、姓名も改易して無害な名詞に入れ替える
「易姓革命(元来はこういう意味で用いられる言葉ではない)」を率先して行うところからでないと、始めに毛筋ほどの過ちでも犯していれば、
のちのちに千里の過ちともなってしまう(礼記)、エントロピー増大則にも即した過ちの積み重ねの根絶はおろか、軽減すらも覚束ない。
口で言えたからって、そうそうにできるもんじゃない。
のみならず、そうそうにはできないからこそ、口に出したりもするわけだ。
儒学のうちでも、異端の学を排し、孔孟のような正統の学のみを重んじている朱子学では
主知主義的な傾向が強く、思慮をよく尽くした上で堅実な行動に臨むことを推奨するが、
禅宗などの異教との親和性の高い陽明学などでは、極端な知行合一が謳われる。
このような、知行のあり方に対する意見分裂の傾向は中国だけでなくインドにもあり、
ヴェーダーンタ学派などの主知主義的な教派と、ヨーガ学派のような実践主義的な教派に分かれている。
ただ、中国にしろインドにしろ、主知主義的な朱子学派やヴェーダーンタ学派のほうが歴史的に主流となり、
実践主義的な陽明学派やヨーガ学派のほうが傍流の扱いを受けてきてもいる。
言に訥にして、行いに敏ならんことを欲する。そしてそれを本当に実践できればそれに越したことはない。
しかし、陽明学に心酔した大塩平八郎が無謀な反乱を企てて失敗するなど、知行合一の至らなさも
歴史的に証明されてきており、十分な思慮の次に行いが付いてくることが事実上、王道ともなっている。
知行合一のほうが確かに純粋であり、見た目にも敏捷で快いわけだが、結局それは「ウブ」の域を出ない。
浮世の清濁を併せ呑む中には、思慮の行動に対する優先、文の武に対する心なしかの先行もまたあるのであり、
よく考えもせずに行いばかりが先行する、多動性障害状態が最悪の所業であるのはもちろんのこと、
思い立ったらすぐに行う知行合一でもまだ不足。せめてでも二度ぐらいは思い返すのが適当で、
三度や四度ともなれば今度は考えすぎであると、孔子も公冶長第五・二〇で言っている通り。
のみならず、そうそうにはできないからこそ、口に出したりもするわけだ。
儒学のうちでも、異端の学を排し、孔孟のような正統の学のみを重んじている朱子学では
主知主義的な傾向が強く、思慮をよく尽くした上で堅実な行動に臨むことを推奨するが、
禅宗などの異教との親和性の高い陽明学などでは、極端な知行合一が謳われる。
このような、知行のあり方に対する意見分裂の傾向は中国だけでなくインドにもあり、
ヴェーダーンタ学派などの主知主義的な教派と、ヨーガ学派のような実践主義的な教派に分かれている。
ただ、中国にしろインドにしろ、主知主義的な朱子学派やヴェーダーンタ学派のほうが歴史的に主流となり、
実践主義的な陽明学派やヨーガ学派のほうが傍流の扱いを受けてきてもいる。
言に訥にして、行いに敏ならんことを欲する。そしてそれを本当に実践できればそれに越したことはない。
しかし、陽明学に心酔した大塩平八郎が無謀な反乱を企てて失敗するなど、知行合一の至らなさも
歴史的に証明されてきており、十分な思慮の次に行いが付いてくることが事実上、王道ともなっている。
知行合一のほうが確かに純粋であり、見た目にも敏捷で快いわけだが、結局それは「ウブ」の域を出ない。
浮世の清濁を併せ呑む中には、思慮の行動に対する優先、文の武に対する心なしかの先行もまたあるのであり、
よく考えもせずに行いばかりが先行する、多動性障害状態が最悪の所業であるのはもちろんのこと、
思い立ったらすぐに行う知行合一でもまだ不足。せめてでも二度ぐらいは思い返すのが適当で、
三度や四度ともなれば今度は考えすぎであると、孔子も公冶長第五・二〇で言っている通り。
今はもう、三度や四度どころか、百度も千度も考え抜いた所。明らかに考えすぎなのは確かで、
もはや行動に移されてもいい所だ。考えがないのでも、考えた直後なのでもなく、考え抜いた後だからこそ
もう行動してもいい。未だ考えもなければ考えた直後でもない奴らの多動性障害は、却って中止されるべきだが。
「言えば必ず信、行なえば必ず果、硜硜然たる小人かな」
「言ったことは必ず守ろうとし、行なう時には必ず目的を果たそうとする。小石のように凝り固まった小人だ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——子路第十三・二〇より)
もはや行動に移されてもいい所だ。考えがないのでも、考えた直後なのでもなく、考え抜いた後だからこそ
もう行動してもいい。未だ考えもなければ考えた直後でもない奴らの多動性障害は、却って中止されるべきだが。
「言えば必ず信、行なえば必ず果、硜硜然たる小人かな」
「言ったことは必ず守ろうとし、行なう時には必ず目的を果たそうとする。小石のように凝り固まった小人だ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——子路第十三・二〇より)
孟子の発言など、孟子自身が活動した戦国時代はもちろんのこと、朱子学勃興まで本気で受け止められることもなく、
朱子が四書(論語、大学、中庸、孟子)の一書としてその権威を押し立てて後も、未だ十分な実践が叶えられず、
四書を正式な科挙試験科目とした明代にも、全くその内容の実践が追いつかなくて官僚腐敗を招き、
江戸時代の日本において、やっとその精神主義的な部分が抽出して実践に努められるようになったのみ。
孔子やその弟子たちの簡単な発言の詰め合わせとなっている「論語」などと比べて、「孟子」の内容はかなり体系的である上、
「大学」や「中庸」などよりも遥かにその分量も多く、その内容を実践することは愚か、全文を把握しておくことすら難しい。
そのため読み覚えておくまでで精一杯という人間がほとんどとなり、体系的な実践にまで達した人間は皆無に等しい。
これからその、儒者四聖(孔子、孟子、曾子、子思子)のうちでも最も実践が困難な孟子の学の実践が試みられていくようになれば、
今までの儒学享受以上にも発展した儒学の実践が努められていくようになるだろう。ただ儒学を復興するだけでなく、
未だ十分な実践が追いたことのない孟子の学などの新規の興隆も念頭に置いていけば、ただの復古主義よりも面白みが増すだろう。
朱子が四書(論語、大学、中庸、孟子)の一書としてその権威を押し立てて後も、未だ十分な実践が叶えられず、
四書を正式な科挙試験科目とした明代にも、全くその内容の実践が追いつかなくて官僚腐敗を招き、
江戸時代の日本において、やっとその精神主義的な部分が抽出して実践に努められるようになったのみ。
孔子やその弟子たちの簡単な発言の詰め合わせとなっている「論語」などと比べて、「孟子」の内容はかなり体系的である上、
「大学」や「中庸」などよりも遥かにその分量も多く、その内容を実践することは愚か、全文を把握しておくことすら難しい。
そのため読み覚えておくまでで精一杯という人間がほとんどとなり、体系的な実践にまで達した人間は皆無に等しい。
これからその、儒者四聖(孔子、孟子、曾子、子思子)のうちでも最も実践が困難な孟子の学の実践が試みられていくようになれば、
今までの儒学享受以上にも発展した儒学の実践が努められていくようになるだろう。ただ儒学を復興するだけでなく、
未だ十分な実践が追いたことのない孟子の学などの新規の興隆も念頭に置いていけば、ただの復古主義よりも面白みが増すだろう。
「公行子、子の喪あり。右師往きて弔す。門に入るや、進みて右師と言る者有り、
右師の位に就きて右師と言る者有り。孟子右師と言らず。右師酇ばずして曰く、
諸君子皆な驩と言るに、孟子獨り驩と言らざるは、是れ驩をあなどるなり。
孟子之れを聞きて曰く、禮に、朝廷では位を歴て相與に言らず、階を踰えて相揖せず。
我れ禮を行なわんと欲せるに、子敖は我れを以てあなどると為す、亦た異ならずや」
「斉の大夫である公行子が息子を亡くした。そこで右師(官命の一。右大臣のように右の座に就くことから)である
王驩が弔問にやってきた。右師は重役であるために、これに媚びへつらおうとして、わざわざ駆け寄って話す者もいれば、
下位の座に就きながら上席に上って話そうとする者もいた。しかし、孟子はその時そこにいながらも、右師とは話そうとしなかった。
右師はこれを不快に思い、『諸君がみなわしに言い寄ってくるのに、孟先生独りだけはわしに言い寄って来ないのは、
わしを侮っているのではあるまいか』 孟子はこれを聞いて言った。『礼法では、朝廷では位階を越えてまで共に語り合っては
ならないとされる。今ここには朝廷に匹敵するほども多くの重臣が列席しておられるので、朝廷での礼にならって
上席である右師と語り合うことを避けたのに、私が子敖(王驩のあざな)を侮ったなどとは、随分とおかしな話ではないか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・二八)
右師の位に就きて右師と言る者有り。孟子右師と言らず。右師酇ばずして曰く、
諸君子皆な驩と言るに、孟子獨り驩と言らざるは、是れ驩をあなどるなり。
孟子之れを聞きて曰く、禮に、朝廷では位を歴て相與に言らず、階を踰えて相揖せず。
我れ禮を行なわんと欲せるに、子敖は我れを以てあなどると為す、亦た異ならずや」
「斉の大夫である公行子が息子を亡くした。そこで右師(官命の一。右大臣のように右の座に就くことから)である
王驩が弔問にやってきた。右師は重役であるために、これに媚びへつらおうとして、わざわざ駆け寄って話す者もいれば、
下位の座に就きながら上席に上って話そうとする者もいた。しかし、孟子はその時そこにいながらも、右師とは話そうとしなかった。
右師はこれを不快に思い、『諸君がみなわしに言い寄ってくるのに、孟先生独りだけはわしに言い寄って来ないのは、
わしを侮っているのではあるまいか』 孟子はこれを聞いて言った。『礼法では、朝廷では位階を越えてまで共に語り合っては
ならないとされる。今ここには朝廷に匹敵するほども多くの重臣が列席しておられるので、朝廷での礼にならって
上席である右師と語り合うことを避けたのに、私が子敖(王驩のあざな)を侮ったなどとは、随分とおかしな話ではないか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・二八)
愛憎を全否定する自力仏教とは違って、儒家は愛憎を否定はせず、
「君子道を学べば則ち人を愛す(陽貨第十七・三)」でもあるし、「君子もまたにくむことあり(陽貨第十七・二一)」でもある。
ただ、その上で「愛してしかもその悪を知り、憎んでしかもその善を知る(礼記・曲礼上第一)」でもあるために、
愛憎に全てを還元して、人間の言動の最高規範にしたりはしない。「仁は人を愛すること(顔淵第十二・二二)」でもあるわけだが、
「仁を好みて学を好まざれば、その弊や愚(陽貨第十七・七)」でもあるわけで、五常において最高の徳とされる
仁愛ですらもが、ただそればかりに専らであればいいものとはされない。愛を専らであることの言い訳にしてはならず、
分別を行き届かせるための原動力として善用するぐらいでなければならない。
「之れを愛して能く労ること勿らんや。忠にして能く誨うること勿らんや」
「ただ愛するばかりで労わりに欠けるのはいかがなものか。忠義があっても諌め諭すことがなくてよいものか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・七より)
「君子道を学べば則ち人を愛す(陽貨第十七・三)」でもあるし、「君子もまたにくむことあり(陽貨第十七・二一)」でもある。
ただ、その上で「愛してしかもその悪を知り、憎んでしかもその善を知る(礼記・曲礼上第一)」でもあるために、
愛憎に全てを還元して、人間の言動の最高規範にしたりはしない。「仁は人を愛すること(顔淵第十二・二二)」でもあるわけだが、
「仁を好みて学を好まざれば、その弊や愚(陽貨第十七・七)」でもあるわけで、五常において最高の徳とされる
仁愛ですらもが、ただそればかりに専らであればいいものとはされない。愛を専らであることの言い訳にしてはならず、
分別を行き届かせるための原動力として善用するぐらいでなければならない。
「之れを愛して能く労ること勿らんや。忠にして能く誨うること勿らんや」
「ただ愛するばかりで労わりに欠けるのはいかがなものか。忠義があっても諌め諭すことがなくてよいものか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・七より)
重度精神障害者たちに敵対するというのではないし、虐待を加えようというのでもない。
ただ、「易経」の蒙卦にあるように、蒙昧な輩にはある程度手厳しい教導が必要でもあるわけだから、
ここでの権力道徳聖書こと四書五経からの引用は続けていく。自分たちに未だ病識がないのであるにしても、
聖書信仰を服用し続ける以上は精神障害の深刻化も免れ得ないので、井戸穴に落ちそうになっている赤ん坊を
救おうとするような「惻隠の情」に基づいて、最低限聖書信仰をやめさせようという試みは続けておく。
あと、四書五経を自分自身が勉強することが、より多くの精神障害者を治療していく「修己治人」のための
研鑽にもなるので、やらないでいるよりはやっていたほうがいいこととして、四書五経の勉強も続けていく。
やるよりやらないでいたほうがいいことばかりで溢れ返っている今の世の中で、確実にやらないよりは
やっていたほうがいいと断定できる数少ない活動の一つなので、できる限りはやっておくように勤める。
「孟武伯孝を問う。子曰く、父母には唯だ其の疾を之れ憂えよ」
「孟武伯が孝行について問うた。先生は言われた。『ただただ父母の病を憂えることだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・為政第二・六より)
ただ、「易経」の蒙卦にあるように、蒙昧な輩にはある程度手厳しい教導が必要でもあるわけだから、
ここでの権力道徳聖書こと四書五経からの引用は続けていく。自分たちに未だ病識がないのであるにしても、
聖書信仰を服用し続ける以上は精神障害の深刻化も免れ得ないので、井戸穴に落ちそうになっている赤ん坊を
救おうとするような「惻隠の情」に基づいて、最低限聖書信仰をやめさせようという試みは続けておく。
あと、四書五経を自分自身が勉強することが、より多くの精神障害者を治療していく「修己治人」のための
研鑽にもなるので、やらないでいるよりはやっていたほうがいいこととして、四書五経の勉強も続けていく。
やるよりやらないでいたほうがいいことばかりで溢れ返っている今の世の中で、確実にやらないよりは
やっていたほうがいいと断定できる数少ない活動の一つなので、できる限りはやっておくように勤める。
「孟武伯孝を問う。子曰く、父母には唯だ其の疾を之れ憂えよ」
「孟武伯が孝行について問うた。先生は言われた。『ただただ父母の病を憂えることだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・為政第二・六より)
聖書信仰の正体、それは、「人工的な重度精神障害への罹患」だった。
邪教にも、程がある。
本当に重度精神障害者ともなってしまっている、聖書信者たち自身を目の敵にしてはいけないし、
聖書教を創作した連中ですら、やはり重度精神障害者でもあっただろうから、
創作者たちに全ての責任を還元して、怨恨の対象にしたりするのもおかしい。
聖書教の興隆や存続という、劣悪現象それ自体を許してはならず、
やはり抑制や根絶の対象ともしなければならないが、聖書信仰に陥ってしまっている
人間たち自身は本物の重度精神障害者ともなっているのだから、邪険に扱っていい存在でもない。
決して一人前の人間として扱ってはならないからこそ、
一人前の人間に対するような罪責の追求姿勢であってもならない。
狂犬や狂牛なら殺処分の対象にしてもいいが、狂人は狂人であったって一応は人だから、
ちゃんと発狂状態を治療してあげて、それから人としての責任を問うていくことが筋だ。
邪教にも、程がある。
本当に重度精神障害者ともなってしまっている、聖書信者たち自身を目の敵にしてはいけないし、
聖書教を創作した連中ですら、やはり重度精神障害者でもあっただろうから、
創作者たちに全ての責任を還元して、怨恨の対象にしたりするのもおかしい。
聖書教の興隆や存続という、劣悪現象それ自体を許してはならず、
やはり抑制や根絶の対象ともしなければならないが、聖書信仰に陥ってしまっている
人間たち自身は本物の重度精神障害者ともなっているのだから、邪険に扱っていい存在でもない。
決して一人前の人間として扱ってはならないからこそ、
一人前の人間に対するような罪責の追求姿勢であってもならない。
狂犬や狂牛なら殺処分の対象にしてもいいが、狂人は狂人であったって一応は人だから、
ちゃんと発狂状態を治療してあげて、それから人としての責任を問うていくことが筋だ。
近ごろ日曜日が忙しいのか。
キリスト教徒なのに、日曜日にも重度知能退行ができなくて残念だな。
働くと働かざるとに関わらず、常時常人並みの知能を保ち続けることが
人としての最低限の勤めであることからわきまえ直さなければな。
「父母の年は知らざる可からず。一には則ち以て喜び、一には則ち以て懼る」
「父母の年齢は必ず覚えておきなさい。時には長寿であることを喜べ、時には老い先短いことを恐れられるから。
(喜びも憂いも恐れも、全て具備していられてこその常人である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・二一より)
キリスト教徒なのに、日曜日にも重度知能退行ができなくて残念だな。
働くと働かざるとに関わらず、常時常人並みの知能を保ち続けることが
人としての最低限の勤めであることからわきまえ直さなければな。
「父母の年は知らざる可からず。一には則ち以て喜び、一には則ち以て懼る」
「父母の年齢は必ず覚えておきなさい。時には長寿であることを喜べ、時には老い先短いことを恐れられるから。
(喜びも憂いも恐れも、全て具備していられてこその常人である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・二一より)
「従うを以て正しとなすは妾婦の道なり(孟子・滕文公章句下・二)」というのはすでに既出の引用だが、まさにその通りだ。
君臣の義が重んじられる中国でも、太公望や張良や諸葛亮といった名臣が、武王や劉邦や劉備のような名君に幅を利かすこともあった。
主人と奴隷ほどにも主従関係が絶対化されることがすでに醜悪なことであり、見るかにカッコ悪い。
社会秩序の堅持のために主従関係を嗜むことがあても、それぞれの自主性が尊重されている姿のほうがやはりカッコいい。
上記の孟子の発言もカッコいい一方で、犯罪聖書の絶対服従ばかりを促す女々しい記述のほうはカッコ悪い。
カッコ悪いから、そんなものに従うことがすでに幸福ではない不幸であり、正義ではない悪だ。
物事の根本から正義であり、故に幸せともなる、格好の良さから四書五経は備えている一方で、
見るかに格好が悪いために、不幸な罪悪の塊ともなることが、犯罪聖書にとっての自明な存在性だ。
「夫れ人幼にして之れを學び、壯にして之れを行なわんと欲す。王曰く、姑く女の學べる所を舎てて我れに從へと曰わば、則ち何如。
今此こに璞玉有るに於いて、萬鎰と雖も、必ず玉人をして之を彫琢せしめん。國家を治めるに至るに於いては、則ち曰く、
姑く女の學べる所を舎てて我に從えと曰わば、則ち何を以てか玉人に玉を彫琢することを教うるに異ならんや」
「仮にここに幼少から道を学んできた者がいて、壮年になって学んできたことを実行しようという段でいるのに対し、
王様のほうが『まあおまえの学んできたことはしばらく捨て置いて、わしの言うことに従え』と言えば、どうだろう。
仮にここにまだ磨かれていない宝玉があったとする。値万金の名宝であるにしても、やはり専門の職人にこそこれを磨かせる。
それなのに、国家を治めたりすることにかけては、急に王様ばかりが、多くを学んできた君子などに対しても『学んできたことは
すべて捨て置いて俺の言うとおりにしろ』というのでは、素人が玉磨きの職人に玉磨きを教えるも同然ではないか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁惠王章句下・九より)
君臣の義が重んじられる中国でも、太公望や張良や諸葛亮といった名臣が、武王や劉邦や劉備のような名君に幅を利かすこともあった。
主人と奴隷ほどにも主従関係が絶対化されることがすでに醜悪なことであり、見るかにカッコ悪い。
社会秩序の堅持のために主従関係を嗜むことがあても、それぞれの自主性が尊重されている姿のほうがやはりカッコいい。
上記の孟子の発言もカッコいい一方で、犯罪聖書の絶対服従ばかりを促す女々しい記述のほうはカッコ悪い。
カッコ悪いから、そんなものに従うことがすでに幸福ではない不幸であり、正義ではない悪だ。
物事の根本から正義であり、故に幸せともなる、格好の良さから四書五経は備えている一方で、
見るかに格好が悪いために、不幸な罪悪の塊ともなることが、犯罪聖書にとっての自明な存在性だ。
「夫れ人幼にして之れを學び、壯にして之れを行なわんと欲す。王曰く、姑く女の學べる所を舎てて我れに從へと曰わば、則ち何如。
今此こに璞玉有るに於いて、萬鎰と雖も、必ず玉人をして之を彫琢せしめん。國家を治めるに至るに於いては、則ち曰く、
姑く女の學べる所を舎てて我に從えと曰わば、則ち何を以てか玉人に玉を彫琢することを教うるに異ならんや」
「仮にここに幼少から道を学んできた者がいて、壮年になって学んできたことを実行しようという段でいるのに対し、
王様のほうが『まあおまえの学んできたことはしばらく捨て置いて、わしの言うことに従え』と言えば、どうだろう。
仮にここにまだ磨かれていない宝玉があったとする。値万金の名宝であるにしても、やはり専門の職人にこそこれを磨かせる。
それなのに、国家を治めたりすることにかけては、急に王様ばかりが、多くを学んできた君子などに対しても『学んできたことは
すべて捨て置いて俺の言うとおりにしろ』というのでは、素人が玉磨きの職人に玉磨きを教えるも同然ではないか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁惠王章句下・九より)
孟子は、とにかくカッコいい。
大将の貫禄が漂う孔子とは違って、大聖としての貫禄には欠ける一方で、
先陣を切っての突撃に長けた、本田忠勝のような猛将の如き強烈さを帯びている。
ただ、「孟子」冒頭の梁恵王章句からして、孟子が恵王の補佐を望みつつも叶わなかった逸話で、
存命中についぞ王侯に重用されなかったことから、社会的失敗者としての扱いを受ける場合もままある。
しかし、>>289の引用のような、大上段に構えての、王侯に対する一歩も引かない物言いがすでに、
孟子がただ者ではないあるがままの証拠となっており、正論尽くめの論及の数々を一つも取り入れられなかった当時の
王侯のほうが自動的に敗北者ともなってしまっている。春秋戦国時代の王侯の名を覚えている人間など今はほとんどいないが、
孟子の名は今でも誰もが知っている。しかも、孔子に次ぐ儒聖としての美名であり、たとえあげつらわれるにしても、
乱世の魑魅魍魎としての汚名と共にしか語られることのない当時の王侯などよりも、よっぽど丁重な扱いとなっている。
下民を疲弊させて憚らぬ乱世に狭隘な利権を貪り、個人的には相当な栄華も誇ったであろう当時の王侯も死後には、
ニート並みにすら社会的な功績を挙げることのなかった孟子にすら及ばない扱いとなっている。それが現実であり、
「言葉よりも行動」でどうにか動き回り続けていようとするような傾向のほうが、本当の現実からの逃避ともなっている。
大将の貫禄が漂う孔子とは違って、大聖としての貫禄には欠ける一方で、
先陣を切っての突撃に長けた、本田忠勝のような猛将の如き強烈さを帯びている。
ただ、「孟子」冒頭の梁恵王章句からして、孟子が恵王の補佐を望みつつも叶わなかった逸話で、
存命中についぞ王侯に重用されなかったことから、社会的失敗者としての扱いを受ける場合もままある。
しかし、>>289の引用のような、大上段に構えての、王侯に対する一歩も引かない物言いがすでに、
孟子がただ者ではないあるがままの証拠となっており、正論尽くめの論及の数々を一つも取り入れられなかった当時の
王侯のほうが自動的に敗北者ともなってしまっている。春秋戦国時代の王侯の名を覚えている人間など今はほとんどいないが、
孟子の名は今でも誰もが知っている。しかも、孔子に次ぐ儒聖としての美名であり、たとえあげつらわれるにしても、
乱世の魑魅魍魎としての汚名と共にしか語られることのない当時の王侯などよりも、よっぽど丁重な扱いとなっている。
下民を疲弊させて憚らぬ乱世に狭隘な利権を貪り、個人的には相当な栄華も誇ったであろう当時の王侯も死後には、
ニート並みにすら社会的な功績を挙げることのなかった孟子にすら及ばない扱いとなっている。それが現実であり、
「言葉よりも行動」でどうにか動き回り続けていようとするような傾向のほうが、本当の現実からの逃避ともなっている。
「史記」などの歴史書を読んでいると、重役に就いていた政治家などが大失態をやらかした場合などに、
死刑を宣告されながら、罪を償って庶民になるということが散見される。死刑が在野への降下によって償われる、
それほどにも中国において為政が高尚なものとして扱われていたとも言えるし、庶民が卑賤なものとして扱われていたとも言える。
一応、「史記」にも貨殖列伝という、在野の庶民が貨殖功利によって一大財産を成した記録が載っているが、
その扱いも紀伝中の最後尾であり、占い師の記録を扱った日者列伝や亀策列伝よりも後に置かれている。
(ただし現行「史記」の日者列伝や亀策列伝は後代の挿入であり、司馬遷自身の真筆は遺失してしまっている)
道家思想の万物斉同志向に基づいて書かれた「史記」においてですら、貨殖功利に没頭する庶民などは最下等に置かれ、
より儒学的な見地に即して書かれた「漢書」などでは、その貨殖功利に関する記録すらもが完全に省かれてしまっている。
いてもいなくてもどうでもいいような存在であることにかけては、貨殖功利に惑溺する人間も、ニート並みであるということだ。
「罪人は其の罪を以て降す」
「重職に就いていたような罪人は、その罪の軽重によって位の降格を高下させる。
(子産の言葉。罪に対して実刑を下す以前に、まず社会的な失脚が適用される。多くの人々に迷惑をかけた以上は、
塀の中に突き落とされるまではいかなかったとしても、社会上での制裁を加えられるぐらいのことは当然である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公七年より)
死刑を宣告されながら、罪を償って庶民になるということが散見される。死刑が在野への降下によって償われる、
それほどにも中国において為政が高尚なものとして扱われていたとも言えるし、庶民が卑賤なものとして扱われていたとも言える。
一応、「史記」にも貨殖列伝という、在野の庶民が貨殖功利によって一大財産を成した記録が載っているが、
その扱いも紀伝中の最後尾であり、占い師の記録を扱った日者列伝や亀策列伝よりも後に置かれている。
(ただし現行「史記」の日者列伝や亀策列伝は後代の挿入であり、司馬遷自身の真筆は遺失してしまっている)
道家思想の万物斉同志向に基づいて書かれた「史記」においてですら、貨殖功利に没頭する庶民などは最下等に置かれ、
より儒学的な見地に即して書かれた「漢書」などでは、その貨殖功利に関する記録すらもが完全に省かれてしまっている。
いてもいなくてもどうでもいいような存在であることにかけては、貨殖功利に惑溺する人間も、ニート並みであるということだ。
「罪人は其の罪を以て降す」
「重職に就いていたような罪人は、その罪の軽重によって位の降格を高下させる。
(子産の言葉。罪に対して実刑を下す以前に、まず社会的な失脚が適用される。多くの人々に迷惑をかけた以上は、
塀の中に突き落とされるまではいかなかったとしても、社会上での制裁を加えられるぐらいのことは当然である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公七年より)
今の小沢の汚職騒動なども、塀の中に突き落とすかどうかだけで、話が一律してしまっている。
悪いことをしたというのなら、刑事的に断罪される以前に、職務の降格や辞任を先に問題とするべきなんだ。
小沢やその秘書自身は罪状すらも否認しているから、断罪も、降格や辞任も受け入れやしないだろう。
でも、周りで見ている第三者が、当人を塀の中に突き落とすかどうかを失脚の第一基準にはしているわけで、
刑事罰を受けることに全てを還元しようとしていることがすでに、政治家の扱いとして根本的に間違っている。
降格や辞任すらすれば、政治家は死刑すら免れても構わないぐらいの重責を負っている。
逆に言えば、政治家にとって政治生命を絶たれることこそは、死刑や宮刑並みかそれ以上もの重罰となるのであり、
たとえ投獄されたところで、数年の服役やスズメの涙程度の保釈金で出てこられるような刑事罰によって、
政治家をも完全に失脚させられるようなことを期待するほうが間違っている。
何万人、何億人という人々の運命を左右する大権を手にした政治家を、政治家個人への刑事罰などで
どうにかできるなどと考えていることが、すでに「政治に対する見くびり」であり、自分自身は大権を持たず、
政治権力の何たるかも知らない庶民が、お茶の間から政治家をどうこうしてやろうなどと試みた挙句に、
ちっともどうにもできなくなっている。政治家を失脚させることは、当人の行いが権力犯罪として深刻であり、
権力犯罪としてこそ深刻であるが故に、政治生命をも絶たねばならないか否かにこそかかっているのであり、
そのための措置が単なる失脚で済めばそれでもいいし、刑事罰も科しておいたほうがよさそうなら科しもする。
政治生命を絶つか否かが根本であり、刑事罰を科すか否かは末節。そのわきまえがない状態だから、
万億の民の命運を左右してきた政治家の処分までもが、些細な刑事に還元されたりもする。罪に対する刑事罰を
赦すか否かに全てが還元され、刑事罰とまではいかない権力行使の制限などにまで頭が回っていないせいで、
政治家も深刻な刑事罰を受けない限りはやりたい放題でいる。罪を犯してしまった以上は、刑事罰を科されるか否か
のみが問題である、庶民の盲目さにも適ったカルト信仰が横行しているせいで、汚職政治家もやりたい放題でいる。
悪いことをしたというのなら、刑事的に断罪される以前に、職務の降格や辞任を先に問題とするべきなんだ。
小沢やその秘書自身は罪状すらも否認しているから、断罪も、降格や辞任も受け入れやしないだろう。
でも、周りで見ている第三者が、当人を塀の中に突き落とすかどうかを失脚の第一基準にはしているわけで、
刑事罰を受けることに全てを還元しようとしていることがすでに、政治家の扱いとして根本的に間違っている。
降格や辞任すらすれば、政治家は死刑すら免れても構わないぐらいの重責を負っている。
逆に言えば、政治家にとって政治生命を絶たれることこそは、死刑や宮刑並みかそれ以上もの重罰となるのであり、
たとえ投獄されたところで、数年の服役やスズメの涙程度の保釈金で出てこられるような刑事罰によって、
政治家をも完全に失脚させられるようなことを期待するほうが間違っている。
何万人、何億人という人々の運命を左右する大権を手にした政治家を、政治家個人への刑事罰などで
どうにかできるなどと考えていることが、すでに「政治に対する見くびり」であり、自分自身は大権を持たず、
政治権力の何たるかも知らない庶民が、お茶の間から政治家をどうこうしてやろうなどと試みた挙句に、
ちっともどうにもできなくなっている。政治家を失脚させることは、当人の行いが権力犯罪として深刻であり、
権力犯罪としてこそ深刻であるが故に、政治生命をも絶たねばならないか否かにこそかかっているのであり、
そのための措置が単なる失脚で済めばそれでもいいし、刑事罰も科しておいたほうがよさそうなら科しもする。
政治生命を絶つか否かが根本であり、刑事罰を科すか否かは末節。そのわきまえがない状態だから、
万億の民の命運を左右してきた政治家の処分までもが、些細な刑事に還元されたりもする。罪に対する刑事罰を
赦すか否かに全てが還元され、刑事罰とまではいかない権力行使の制限などにまで頭が回っていないせいで、
政治家も深刻な刑事罰を受けない限りはやりたい放題でいる。罪を犯してしまった以上は、刑事罰を科されるか否か
のみが問題である、庶民の盲目さにも適ったカルト信仰が横行しているせいで、汚職政治家もやりたい放題でいる。
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権力道徳者が実現した、どこもかしこも平穏である泰平社会は、
殊更に技巧を凝らした淫らな音楽などによって美化せずとも、ただあるがままにその全てを謳歌できるもの。
救いようのない悲劇や、狂いきった破滅状態こそは、美術や芸術といったもので美化される必要も出てくる。
極東社会には、伝統的には、美術などというものは存在しない。
芸術センスに優れた仏像や器物、刀剣などもあるにはあるが、
あくまでそれ相応の用途を持った道具であり、ただ美しさを象徴化しただけの模型であったりはしない。
美術それ自体が独り歩きをして、肝心の現実の実物が破滅状態に陥るようなことは赦されなかったために、
孔子も魯の宰相を勤めていたときに、魯公と斉公の面会中に挑発目的で淫らな音楽を奏でた夷狄の莱夷を、
役人に命じて逮捕し、処刑している。「礼楽刑政」という言葉の通り、儒家は音楽にも造詣が深かった上で、その有害さ無害さ、
有益さ無益さについてもよく考え抜いており、ただ音楽が甘美ですらあればよいものではないこともわきまえている。
「子韶を謂わく、美を盡くせり、又た善を盡くせり。武を謂わく、美を盡くせり、未だ善を盡くさざるなり(下の句は既出)」
「先生が堯舜の禅譲を題材にした韶の音楽を聴いて言われた。『美を尽くしているし、善も尽くしている』
武王による紂王の放伐を題材にした武の音楽を聴いて言われた。『美を尽くしてはいるが、未だ善を尽くしているとは言えない』
(虚飾の甘美さに囚われるあまり、内実の劣悪さを善だなどと倒錯することも儒家では排される)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・二五より)
殊更に技巧を凝らした淫らな音楽などによって美化せずとも、ただあるがままにその全てを謳歌できるもの。
救いようのない悲劇や、狂いきった破滅状態こそは、美術や芸術といったもので美化される必要も出てくる。
極東社会には、伝統的には、美術などというものは存在しない。
芸術センスに優れた仏像や器物、刀剣などもあるにはあるが、
あくまでそれ相応の用途を持った道具であり、ただ美しさを象徴化しただけの模型であったりはしない。
美術それ自体が独り歩きをして、肝心の現実の実物が破滅状態に陥るようなことは赦されなかったために、
孔子も魯の宰相を勤めていたときに、魯公と斉公の面会中に挑発目的で淫らな音楽を奏でた夷狄の莱夷を、
役人に命じて逮捕し、処刑している。「礼楽刑政」という言葉の通り、儒家は音楽にも造詣が深かった上で、その有害さ無害さ、
有益さ無益さについてもよく考え抜いており、ただ音楽が甘美ですらあればよいものではないこともわきまえている。
「子韶を謂わく、美を盡くせり、又た善を盡くせり。武を謂わく、美を盡くせり、未だ善を盡くさざるなり(下の句は既出)」
「先生が堯舜の禅譲を題材にした韶の音楽を聴いて言われた。『美を尽くしているし、善も尽くしている』
武王による紂王の放伐を題材にした武の音楽を聴いて言われた。『美を尽くしてはいるが、未だ善を尽くしているとは言えない』
(虚飾の甘美さに囚われるあまり、内実の劣悪さを善だなどと倒錯することも儒家では排される)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・二五より)
「思慮」とは臆病さの善用のことだ。
恐れ慎んで物事をよく慮ることが、すなわち思慮深いということ。
物事をよく恐れ慎む臆病さが欠けていれば、そのぶんだけ思慮も浅くなる。
恐れは当然憂いともなるわけで、孝行の実践者にとっては、父母の健康への憂いなどが必須ともなる。
臆病さも捨て去って、憂いも全く捨て去るなら、親子兄弟での殺し合いだって免れ得ない。
そんなことがあってはならないから、やはり恐れや憂いも一定以上は必要なものだといえる。
もちろん臆病さばかりに囚われるのも行き過ぎで、恐れるべきものを恐れて恐れるべきでないものを恐れない
分別もまた必要であり、その方面に長けていることこそは、思慮分別の能力が高いことにもなるわけだ。
「愨善身を違らず、耳目心を違らず、思慮親を違らず。諸れを心に結び、諸れを色に形わし、之れを術省す、孝子の志しなり」
「恐れ慎んで善から身を離さず、耳目が心から離れ(て鏡映認知障害になり、善悪の分別が付かなくなっ)たりもせず、
思慮は親の健康から離れることもない。これをしっかと心に結び、顔色などにも現し、毎度よく反省もするのが、孝子の志しである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十五より)
恐れ慎んで物事をよく慮ることが、すなわち思慮深いということ。
物事をよく恐れ慎む臆病さが欠けていれば、そのぶんだけ思慮も浅くなる。
恐れは当然憂いともなるわけで、孝行の実践者にとっては、父母の健康への憂いなどが必須ともなる。
臆病さも捨て去って、憂いも全く捨て去るなら、親子兄弟での殺し合いだって免れ得ない。
そんなことがあってはならないから、やはり恐れや憂いも一定以上は必要なものだといえる。
もちろん臆病さばかりに囚われるのも行き過ぎで、恐れるべきものを恐れて恐れるべきでないものを恐れない
分別もまた必要であり、その方面に長けていることこそは、思慮分別の能力が高いことにもなるわけだ。
「愨善身を違らず、耳目心を違らず、思慮親を違らず。諸れを心に結び、諸れを色に形わし、之れを術省す、孝子の志しなり」
「恐れ慎んで善から身を離さず、耳目が心から離れ(て鏡映認知障害になり、善悪の分別が付かなくなっ)たりもせず、
思慮は親の健康から離れることもない。これをしっかと心に結び、顔色などにも現し、毎度よく反省もするのが、孝子の志しである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十五より)
現実上の君父でもないものが、「主」を名乗って絶対服従を要求してくる、
他力信仰のあり方全般が自主性を欠くものであり、己れこそを主として、
そこから自力の修習に努めるあり方よりも確実に低劣なものだ。
それは、仏教における他力信仰である浄土教ですら同じことで、他力信仰に帰依するものはあくまで、
自らが自力作善も覚束ない煩悩愚縛の凡夫であることを自認するわけだ。そして、自力作善を試みるものは
禅や密教などの本格的な宗派においての修行に努め、他力信仰に帰依するものは、そのような聖道門の求道者に
一目も二目も置く。「誰にも自力作善など不可能だ」などとの決め付けによって、誰しもに他力信仰を強要
するようなことは許されず、一向一揆による体制転覆を図った真宗の信者たちも、同じ浄土門(浄土宗)の
信者でありながら、儒学などに基づく自力修習にも努めていた家康公に鎮圧されている。
あまり敬虔でもない聖書信者などは、もうキリストやエホバなどが実在しないことも察してるだろうが、
他力信仰にすべてを還元して、現実の君父への忠信などを疎かにするのなら、もう偉そうな面をしてはいけない。
君臣の義を守り、父母への恩愛を絶やさないぐらいの自力修習が、実際に人間には可能なのだから、
たとえ自らが他力本願でい続けるのだとしても、そればかりが人間にとっての唯一の選択肢なのではなく、
儒学にも基づくような、最低限の自修に努めるものがいて、そのような人間のほうが自分たちよりも
ずっと高等な存在であるのだという、現実上の事実ぐらいは了解しておかなければならない。
「内には則ち父子、外には則ち君臣あるは、人の大倫なり。父子は恩を主とし、君臣は敬を主とす」
「内では父子の序をわきまえ、外では君臣の関係をわきまえるのが人の大倫である。
父子の関係では恩愛を主とし、君臣の関係では畏敬を主とする。(景子の言葉。この文面自体には孟子も
賛同するが、景子の「畏敬」に対する解釈が、自主性を欠いた絶対服従的なものであることに孟子は反論する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・二より)
他力信仰のあり方全般が自主性を欠くものであり、己れこそを主として、
そこから自力の修習に努めるあり方よりも確実に低劣なものだ。
それは、仏教における他力信仰である浄土教ですら同じことで、他力信仰に帰依するものはあくまで、
自らが自力作善も覚束ない煩悩愚縛の凡夫であることを自認するわけだ。そして、自力作善を試みるものは
禅や密教などの本格的な宗派においての修行に努め、他力信仰に帰依するものは、そのような聖道門の求道者に
一目も二目も置く。「誰にも自力作善など不可能だ」などとの決め付けによって、誰しもに他力信仰を強要
するようなことは許されず、一向一揆による体制転覆を図った真宗の信者たちも、同じ浄土門(浄土宗)の
信者でありながら、儒学などに基づく自力修習にも努めていた家康公に鎮圧されている。
あまり敬虔でもない聖書信者などは、もうキリストやエホバなどが実在しないことも察してるだろうが、
他力信仰にすべてを還元して、現実の君父への忠信などを疎かにするのなら、もう偉そうな面をしてはいけない。
君臣の義を守り、父母への恩愛を絶やさないぐらいの自力修習が、実際に人間には可能なのだから、
たとえ自らが他力本願でい続けるのだとしても、そればかりが人間にとっての唯一の選択肢なのではなく、
儒学にも基づくような、最低限の自修に努めるものがいて、そのような人間のほうが自分たちよりも
ずっと高等な存在であるのだという、現実上の事実ぐらいは了解しておかなければならない。
「内には則ち父子、外には則ち君臣あるは、人の大倫なり。父子は恩を主とし、君臣は敬を主とす」
「内では父子の序をわきまえ、外では君臣の関係をわきまえるのが人の大倫である。
父子の関係では恩愛を主とし、君臣の関係では畏敬を主とする。(景子の言葉。この文面自体には孟子も
賛同するが、景子の「畏敬」に対する解釈が、自主性を欠いた絶対服従的なものであることに孟子は反論する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・二より)
聖書信仰者の知識は、精神障害者同士で寄せ集めた致命的な勘違いだらけになっているし、
勘違いの知識ばかりを信じようとするあまり、その信仰姿勢も暴力的に狂信的なものとなっている。
知識や信仰とて全否定されるべきものではないが、それ以上にも重要な理念が仁義や礼儀として存在し、
仁義や礼儀による適切な矯正があって初めて、知識も勘違いなどの小知を排して大知を選別することができ、
信仰や信頼も暴力的な狂信を排して正信のみを抽出することができるようになる。
「信は豚魚に及ぶ(易経)」との言葉の通り、信だけは豚や魚、IQ20〜30程度の重度知的障害者
などにまでわきまえることのできる理念。ただし、それはえさを与えてくれる飼い主への信用も同然の
ものであり、到底高尚な精神性などを伴っているとは言えない。儒学であれば「仁義」などと呼ばれ、
仏教では「菩提」などと呼ばれるような、高尚な精神性を伴った理念は、豚や魚や知的障害者、そして
精神障害者などに到底わきまえられるものではなく、IQ100程度の人並みの知能を常時保ち続けて
いられる程度には、人としての品性を守っている人間のみが、仁義や菩提のような高尚な精神性を
わきまえるだけの最低限の条件を得る。さらにそこからより堅固なわきまえに臨んでいくこともできる一方で、
さすがにIQ100程度の恒常知能がないことには、信か、さもなくば知か程度の低劣なわきまえに終始する。
勘違いの知識ばかりを信じようとするあまり、その信仰姿勢も暴力的に狂信的なものとなっている。
知識や信仰とて全否定されるべきものではないが、それ以上にも重要な理念が仁義や礼儀として存在し、
仁義や礼儀による適切な矯正があって初めて、知識も勘違いなどの小知を排して大知を選別することができ、
信仰や信頼も暴力的な狂信を排して正信のみを抽出することができるようになる。
「信は豚魚に及ぶ(易経)」との言葉の通り、信だけは豚や魚、IQ20〜30程度の重度知的障害者
などにまでわきまえることのできる理念。ただし、それはえさを与えてくれる飼い主への信用も同然の
ものであり、到底高尚な精神性などを伴っているとは言えない。儒学であれば「仁義」などと呼ばれ、
仏教では「菩提」などと呼ばれるような、高尚な精神性を伴った理念は、豚や魚や知的障害者、そして
精神障害者などに到底わきまえられるものではなく、IQ100程度の人並みの知能を常時保ち続けて
いられる程度には、人としての品性を守っている人間のみが、仁義や菩提のような高尚な精神性を
わきまえるだけの最低限の条件を得る。さらにそこからより堅固なわきまえに臨んでいくこともできる一方で、
さすがにIQ100程度の恒常知能がないことには、信か、さもなくば知か程度の低劣なわきまえに終始する。
「樊遲仁を問う。子曰く、人を愛す。知を問う。子曰く、人を知る。樊遲未だ達せず。子曰く、直きを舉げて諸れを枉れるに錯けば、
能く枉れる者をして直からしむ。樊遲退く、子夏に見えて曰、さきに吾れ夫子に見えて知を問う、子曰く、直きを舉げて諸れを
枉れるに錯けば、能く枉れる者をして直からしむと、何の謂いぞや。子夏曰く、富める言かな。舜の天下に有るや、
衆より選びて、皋陶を舉げ、不仁者遠ざかる。湯の天下に有るや、衆より選びて伊尹を舉げ、不仁者遠ざかる」
「樊遲が仁についてお尋ねした。先生は言われた。『人を愛することだ』 次に知恵についてお尋ねした。先生は言われた。
『人を知ることだ』 樊遲は先生の言うことの意味がまだよく分からなかった。そこで先生は言われた。『正直なものを取り立てて
屈折したものの上に置くようにすれば、屈折したものまでをも正すことができる』 樊遲は先生の前を退いて、子夏に会って言った。
『さっき私は先生に知恵についてお尋ねしました。すると先生はかくかくしかじかと答えられました。どういう意味でしょうか』
子夏は言った。『それは素晴らしい言葉だ。舜帝が天下に君臨した時にも、大衆の中から皋陶のような賢人を取り立てて、
不仁者の専横を遠ざけた。湯王が天下に君臨した時にも、大衆の中から伊尹のような賢人を取り立てて、不仁者の専横を遠ざけた』
(人をよく知って、罪の救いばかりを欲するような小人の上に、仁義に長けた君子を置くことこそは大知にもあたる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二二)
能く枉れる者をして直からしむ。樊遲退く、子夏に見えて曰、さきに吾れ夫子に見えて知を問う、子曰く、直きを舉げて諸れを
枉れるに錯けば、能く枉れる者をして直からしむと、何の謂いぞや。子夏曰く、富める言かな。舜の天下に有るや、
衆より選びて、皋陶を舉げ、不仁者遠ざかる。湯の天下に有るや、衆より選びて伊尹を舉げ、不仁者遠ざかる」
「樊遲が仁についてお尋ねした。先生は言われた。『人を愛することだ』 次に知恵についてお尋ねした。先生は言われた。
『人を知ることだ』 樊遲は先生の言うことの意味がまだよく分からなかった。そこで先生は言われた。『正直なものを取り立てて
屈折したものの上に置くようにすれば、屈折したものまでをも正すことができる』 樊遲は先生の前を退いて、子夏に会って言った。
『さっき私は先生に知恵についてお尋ねしました。すると先生はかくかくしかじかと答えられました。どういう意味でしょうか』
子夏は言った。『それは素晴らしい言葉だ。舜帝が天下に君臨した時にも、大衆の中から皋陶のような賢人を取り立てて、
不仁者の専横を遠ざけた。湯王が天下に君臨した時にも、大衆の中から伊尹のような賢人を取り立てて、不仁者の専横を遠ざけた』
(人をよく知って、罪の救いばかりを欲するような小人の上に、仁義に長けた君子を置くことこそは大知にもあたる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二二)
梵我一如とか物我一理とかいった、天地万物に永劫普遍の道理なり真理なりと
自己の統合による、悟りなり浩然の気なりを得られるということが、
確かに東洋の哲学宗教などにおいても掲げられている。
しかし、それは知能が人並みかそれ以上の恒常的な健全さを保ち続けている中にこそ
得られるとされるものであり、飼い主からの餌を待つ豚や魚並みの低能に
陥ることによって得られるものなどとされてはいない。
俗世の濁悪さなどを理解できない重度精神障害に陥るのではなく、
濁悪さの苦しみも十分に受け止めて、その苦しみをも超える天理に与る。
麻薬による狂気への陥りによって痛みを和らげるのではなく、
痛みをも超えるほどもの涅槃静寂を正気のままに得る。
似ているようで、全く違う、痛み苦しみに対する処方の正誤。
「蓍の鄹は圓にして神なり。卦の鄹は方をて知なり。六爻の義は易を以て貢ぐ。
聖人此れを以て心を洗い、退きて密に藏れ、吉凶民と患いを同じくす」
「(易占の道具である)蓍の働きは円のように角がなくて神妙であり、三爻八卦の働きは方形のように
よく定まっていて明知であり、六爻六十四卦の道義は神明の変易を通じて吉凶を人に伝える。
聖人はこの易の徳義によって心の濁りを洗い清め、躍起であることから退いて冷静な神秘に同化し、
(下劣な選民志向なども洗い清めているために)吉凶への憂患を万民と同じくするように勤める」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
自己の統合による、悟りなり浩然の気なりを得られるということが、
確かに東洋の哲学宗教などにおいても掲げられている。
しかし、それは知能が人並みかそれ以上の恒常的な健全さを保ち続けている中にこそ
得られるとされるものであり、飼い主からの餌を待つ豚や魚並みの低能に
陥ることによって得られるものなどとされてはいない。
俗世の濁悪さなどを理解できない重度精神障害に陥るのではなく、
濁悪さの苦しみも十分に受け止めて、その苦しみをも超える天理に与る。
麻薬による狂気への陥りによって痛みを和らげるのではなく、
痛みをも超えるほどもの涅槃静寂を正気のままに得る。
似ているようで、全く違う、痛み苦しみに対する処方の正誤。
「蓍の鄹は圓にして神なり。卦の鄹は方をて知なり。六爻の義は易を以て貢ぐ。
聖人此れを以て心を洗い、退きて密に藏れ、吉凶民と患いを同じくす」
「(易占の道具である)蓍の働きは円のように角がなくて神妙であり、三爻八卦の働きは方形のように
よく定まっていて明知であり、六爻六十四卦の道義は神明の変易を通じて吉凶を人に伝える。
聖人はこの易の徳義によって心の濁りを洗い清め、躍起であることから退いて冷静な神秘に同化し、
(下劣な選民志向なども洗い清めているために)吉凶への憂患を万民と同じくするように勤める」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
まあ、子貢の場合は本人自身が以下のようにも謙っているので、まだマシなほうだといえる。
貨殖功利などに奔走して狭隘な利権を貪る賤人でいて、天下全土を我が物であるかのように
ほざくやからなどのほうが、君子に導かれることもかなわない、致命的な小人とも化すのだ。
「陳子禽子貢に謂いて曰く、子は恭を為すなり。仲尼、豈に賢らんや。子貢曰く、君子は一言を以て知と為し、
一言を以て不知と為す。言は慎まざるべからざるなり。夫子の及ぶべからざるや、猶を天の階して升るべからざるがごとし。
夫子の邦家を得る者は、所謂之れを立つれば斯に立ち、之れを道びけば斯に立ち、之れを綏んずれば斯に來たり、
之れを動かせば斯に和す。其の生くるや榮え、其の死するや哀しむ。之に如何ぞ其れ及ぶべけんや」
「(下級貴族に過ぎなかった孔子は、投機で金を得た弟子の子貢の支援にもよって王侯などと面会してもいたことから)
陳子禽が子貢に言った。『あなたは謙りすぎているのです。仲尼(孔子)ごときがあなたよりも優れているはずがありません』
(ただ子貢のほうが孔子よりも富裕だったことを根拠にこのような発言をしたあたり、陳子禽も大した人間ではなかっただろう)
子貢は言った。『君子はただの一言で相手の知力を見抜くものです。言葉は慎まなければなりません。孔先生にわれわれが
及ばないことは、さも天に向かって階段をかけて上ろうかというようなもの。孔先生がもし国家を治めることになれば、
誰しもが立たせれば立ち、導けば歩き、安んずればなつき、働かせれば和するようにもなる。
生きている限りにおいては誰しもが栄え、死すれば誰しもが悲しむ。どうして我々ごときが及べようか』
(私利私欲に走る小人は、誰しもを栄えさせることかなわず、かえって多くの人々を貧窮にも追い込む。
さすればこそ当人が死んだときに、誰しもが悲しむどころか、誰しもが喜ぶことにすらなりかねない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・二五)
貨殖功利などに奔走して狭隘な利権を貪る賤人でいて、天下全土を我が物であるかのように
ほざくやからなどのほうが、君子に導かれることもかなわない、致命的な小人とも化すのだ。
「陳子禽子貢に謂いて曰く、子は恭を為すなり。仲尼、豈に賢らんや。子貢曰く、君子は一言を以て知と為し、
一言を以て不知と為す。言は慎まざるべからざるなり。夫子の及ぶべからざるや、猶を天の階して升るべからざるがごとし。
夫子の邦家を得る者は、所謂之れを立つれば斯に立ち、之れを道びけば斯に立ち、之れを綏んずれば斯に來たり、
之れを動かせば斯に和す。其の生くるや榮え、其の死するや哀しむ。之に如何ぞ其れ及ぶべけんや」
「(下級貴族に過ぎなかった孔子は、投機で金を得た弟子の子貢の支援にもよって王侯などと面会してもいたことから)
陳子禽が子貢に言った。『あなたは謙りすぎているのです。仲尼(孔子)ごときがあなたよりも優れているはずがありません』
(ただ子貢のほうが孔子よりも富裕だったことを根拠にこのような発言をしたあたり、陳子禽も大した人間ではなかっただろう)
子貢は言った。『君子はただの一言で相手の知力を見抜くものです。言葉は慎まなければなりません。孔先生にわれわれが
及ばないことは、さも天に向かって階段をかけて上ろうかというようなもの。孔先生がもし国家を治めることになれば、
誰しもが立たせれば立ち、導けば歩き、安んずればなつき、働かせれば和するようにもなる。
生きている限りにおいては誰しもが栄え、死すれば誰しもが悲しむ。どうして我々ごときが及べようか』
(私利私欲に走る小人は、誰しもを栄えさせることかなわず、かえって多くの人々を貧窮にも追い込む。
さすればこそ当人が死んだときに、誰しもが悲しむどころか、誰しもが喜ぶことにすらなりかねない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・二五)
刃物は人類最古の文化であり、まだ人類が猿人や原人だった頃から、石斧などの形で用いられてきた。
つる草や木の枝などを道具として用いることは、鳥や猿などの動物にも見られ、
「道具を用いること」すなわち人類文化の始まりであるとはいえないが、
道具を加工して高度な仕事に用いることが、人類文化の始まりであるとはいえるため、
石を削って斧にするなどの、刃物加工が人類文化の始まりとしていいだろうと思われる。
その、刃物のもっとも高度な扱い方をわきまえてきたのも、やはり極東人であり、
刀剣や槍、薙刀、弓矢などの扱いを研鑽する日本の武術がその代表的なもの。
ただ、日本の武術は礼儀作法にも多大な影響を受けており、規矩準縄のごとく正確な礼法の動きが
一つ一つの身体の扱いの参考にもされているために、刀剣のような武器を扱う体術でありながら、
単なる暴力行為などでは決してない、洗練された身体の扱いともなっている。
そしてもちろん、礼儀作法の原典「礼記」にも、以下のような刃物の扱い方が目白押しとなっている。
ただ「刃物はうちが起源ニダ」などというような、専売特許ばかりを主張する下劣さも帯びることなく。
「刀は刃を卻けて穎を授く。削をば拊を授く。凡そ刺刃ある者は、以て人に授くるときは則ち刃を辟く。
兵車に乘りて出ずるときは刃を先にす。入るときは刃を後にす。軍には左を尚にす。卒には右を尚にす」
「刀剣は刃を退けて鍔のほうから人に授ける。曲刀の場合は柄のほうから授ける。おおよそ刃物を人に渡すときには、
刃が相手のほうに向かないようにしながら渡す。戦車に乗って出陣するときには刃を先にし、帰り着く時には刃を後にする。
上位の将軍の前では謙りを意味して左側に刃物を持ち、下位の兵卒の前では叱咤を意味して右側に刃物を持つ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・少儀第十七より)
つる草や木の枝などを道具として用いることは、鳥や猿などの動物にも見られ、
「道具を用いること」すなわち人類文化の始まりであるとはいえないが、
道具を加工して高度な仕事に用いることが、人類文化の始まりであるとはいえるため、
石を削って斧にするなどの、刃物加工が人類文化の始まりとしていいだろうと思われる。
その、刃物のもっとも高度な扱い方をわきまえてきたのも、やはり極東人であり、
刀剣や槍、薙刀、弓矢などの扱いを研鑽する日本の武術がその代表的なもの。
ただ、日本の武術は礼儀作法にも多大な影響を受けており、規矩準縄のごとく正確な礼法の動きが
一つ一つの身体の扱いの参考にもされているために、刀剣のような武器を扱う体術でありながら、
単なる暴力行為などでは決してない、洗練された身体の扱いともなっている。
そしてもちろん、礼儀作法の原典「礼記」にも、以下のような刃物の扱い方が目白押しとなっている。
ただ「刃物はうちが起源ニダ」などというような、専売特許ばかりを主張する下劣さも帯びることなく。
「刀は刃を卻けて穎を授く。削をば拊を授く。凡そ刺刃ある者は、以て人に授くるときは則ち刃を辟く。
兵車に乘りて出ずるときは刃を先にす。入るときは刃を後にす。軍には左を尚にす。卒には右を尚にす」
「刀剣は刃を退けて鍔のほうから人に授ける。曲刀の場合は柄のほうから授ける。おおよそ刃物を人に渡すときには、
刃が相手のほうに向かないようにしながら渡す。戦車に乗って出陣するときには刃を先にし、帰り着く時には刃を後にする。
上位の将軍の前では謙りを意味して左側に刃物を持ち、下位の兵卒の前では叱咤を意味して右側に刃物を持つ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・少儀第十七より)
短命でも悔いのない人生ならば本望だし、長命でも悔いだらけの人生ではしょうもない。
「たら」「れば」がタブー扱いされるほどにも後悔だらけの西洋史などではなく、
それら自体が徳治史として立派に成立しているほどにも完成度が高く、そのために
「史記」の編纂者である司馬遷などからして、注釈でも「たら」「れば」を連発している、
古代中国史や、江戸時代までの日本史のような立派な人生すら遅れたならば、
寿命の長短、存命中に限っての厚遇不遇などは、大して気にかけるまでもない。
「天は高く、星辰は遠く、苟くも其の故を求めば、千歳の日至も、坐ながらにして致るべきなり」
「天は高く、星々は遠い彼方にある、その所以ともなる理を究明したならば、千年後の冬至すら座して察することもできる。
(天地万物に永久不変の道理の前では、千年や二千年ごときの光陰は矢にも等しい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・二七より)
「たら」「れば」がタブー扱いされるほどにも後悔だらけの西洋史などではなく、
それら自体が徳治史として立派に成立しているほどにも完成度が高く、そのために
「史記」の編纂者である司馬遷などからして、注釈でも「たら」「れば」を連発している、
古代中国史や、江戸時代までの日本史のような立派な人生すら遅れたならば、
寿命の長短、存命中に限っての厚遇不遇などは、大して気にかけるまでもない。
「天は高く、星辰は遠く、苟くも其の故を求めば、千歳の日至も、坐ながらにして致るべきなり」
「天は高く、星々は遠い彼方にある、その所以ともなる理を究明したならば、千年後の冬至すら座して察することもできる。
(天地万物に永久不変の道理の前では、千年や二千年ごときの光陰は矢にも等しい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・二七より)
クリスマスには休んでも、正月には休まないのか。
一生休み続けていてもいいほどの病状なのにな。
「哀しきかな言るに能わず、匪れ舌より是れ出ずれば、維ち躬に是れ瘁しむ。
しかも能言のやからの、巧言の流るるが如きは、躬を俾て休きに處らしむ」
「虚しいものだ、語るに値しないことばかり、舌より出ずれば出ずるだけ、その身を苦しましむのみ。
うらやましいことよ(皮肉)、能弁に長けた佞人どもの巧言令色は、その身をさらに安からしめる。
(品性をさらに低俗ならしめることを、『やすからしめる』と皮肉ってもいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・雨無正より)
一生休み続けていてもいいほどの病状なのにな。
「哀しきかな言るに能わず、匪れ舌より是れ出ずれば、維ち躬に是れ瘁しむ。
しかも能言のやからの、巧言の流るるが如きは、躬を俾て休きに處らしむ」
「虚しいものだ、語るに値しないことばかり、舌より出ずれば出ずるだけ、その身を苦しましむのみ。
うらやましいことよ(皮肉)、能弁に長けた佞人どもの巧言令色は、その身をさらに安からしめる。
(品性をさらに低俗ならしめることを、『やすからしめる』と皮肉ってもいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・雨無正より)
奴隷としてつなぎ止められて自由を拘束されることこそは、何よりも望まないところ。
それが健全な精神を保った人間の当然の心持ち。
誰かの奴隷となることで望みが叶えられることを期待するのも、ひどい症状だ。
実際社会においても、仕事をする自由としない自由、仕官する自由と仕官しない自由とが
いずれも尊重されてきた伝統があるために、中国でも儒家と共に無為自然の道家が好まれていたし、
日本でも江戸時代などに浪人文化が花開きもした。誰かに仕えて仕事をするという、
拘束状態を個々人が選択したりしなかったりする自由がまずあって初めて、
悪い仕事をせずに良い仕事をしようと心がける余裕なども保たれ得る。
その程度の余裕すらないような状態こそは、まさにあるがままに精神的不衛生でもある。
「つなぐに徽纆を用い、叢棘に郈く、三歳まで得ず、凶なり」
「二筋三筋と頑丈により合わされた縄で縛り上げられてつながれ、
いばらで囲われた牢屋の中に押し込められ、三年以上も出てこられない、凶である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・習坎・上六)
それが健全な精神を保った人間の当然の心持ち。
誰かの奴隷となることで望みが叶えられることを期待するのも、ひどい症状だ。
実際社会においても、仕事をする自由としない自由、仕官する自由と仕官しない自由とが
いずれも尊重されてきた伝統があるために、中国でも儒家と共に無為自然の道家が好まれていたし、
日本でも江戸時代などに浪人文化が花開きもした。誰かに仕えて仕事をするという、
拘束状態を個々人が選択したりしなかったりする自由がまずあって初めて、
悪い仕事をせずに良い仕事をしようと心がける余裕なども保たれ得る。
その程度の余裕すらないような状態こそは、まさにあるがままに精神的不衛生でもある。
「つなぐに徽纆を用い、叢棘に郈く、三歳まで得ず、凶なり」
「二筋三筋と頑丈により合わされた縄で縛り上げられてつながれ、
いばらで囲われた牢屋の中に押し込められ、三年以上も出てこられない、凶である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・習坎・上六)
孔子の文章に独自のバカ解釈を加えた物を掲示板という出来るだけ人の目に触れづらく
バカが許され易い媒体を選んで投稿し続けて「何も出来ないのではなく、何もしないだけ」
を証明する挑戦をしていれば、怠惰な現状を維持する対価になると考えている。
アホの言い訳に利用されて孔子が草葉の陰で泣いてるぞ。
バカが許され易い媒体を選んで投稿し続けて「何も出来ないのではなく、何もしないだけ」
を証明する挑戦をしていれば、怠惰な現状を維持する対価になると考えている。
アホの言い訳に利用されて孔子が草葉の陰で泣いてるぞ。
何もしないだけじゃない。何もできないのでもある。
最低限の人としての道義を守ろうと勤めている挙句に、
社会的には何もできなくなっている。
それは、春秋戦国時代という乱世に生きた道徳者だった
孔子や孟子とて同じだった。諸侯への仕官を志しては失敗する、
青い鳥状態の就職活動の後に、文筆生活の中で人生を終えた。
でも、今では当時の諸侯などよりも、孔子や孟子の名のほうが
誰しもに知られている。千乗の馬車や大宮殿などを保有していた
当時の大諸侯などより、社会的には何もできなかった孔子や孟子のほうが、
歴史に名をとどめる大聖賢として、未だに畏敬の対象ともされている。
これこそは、決して目を逸らすべきでない、厳然たる現実だ。
最低限の人としての道義を守ろうと勤めている挙句に、
社会的には何もできなくなっている。
それは、春秋戦国時代という乱世に生きた道徳者だった
孔子や孟子とて同じだった。諸侯への仕官を志しては失敗する、
青い鳥状態の就職活動の後に、文筆生活の中で人生を終えた。
でも、今では当時の諸侯などよりも、孔子や孟子の名のほうが
誰しもに知られている。千乗の馬車や大宮殿などを保有していた
当時の大諸侯などより、社会的には何もできなかった孔子や孟子のほうが、
歴史に名をとどめる大聖賢として、未だに畏敬の対象ともされている。
これこそは、決して目を逸らすべきでない、厳然たる現実だ。
行動即犯罪の総員テロリスト化社会で、何をするよりも、
積極的に何もしないでいようとすることが偉大であるのはもちろんのこと、
何かをしようとしたところで、結局は何もできないでいることすらもが偉い。
それどころか、無為自然を積極的に実践しようとした道家の徒などよりも、
乱世には何もできないながらも、治世には存分にその能力を発揮する儒者のほうが、
さらに歴史的な評価が高かったりもする。道術者は世間への介入を完全に忌み、
儒者は乱世に限って半分ほど忌むのだから、当然社会的な活躍の余地は、
道術者よりも儒者のほうが多くなる。乱世には儒者も道術者と同じ
無為自然に甘んじてはいるものの、それに限らない点が儒者は違う。
治世ですらあれば身を挺して働く自己誓約が、儒者に不屈の信念を与えもする。
「其の君子は玄黄を匪に實たして以て其の君子を迎え、其の小人は箪食壺漿して
以て其の小人を迎えるは、民を水火の中から救いて其の残賊を討つのみなればなり」
「(周武王の軍が紂王を討つために殷の首都に入城したとき、)殷の役人たちは錦織を箱に
満たして周の役人たちを歓迎し、殷の庶民たちも飯を盛り酒を汲んで周の庶民たちを歓迎した。
武王が殷の民たちをマッチポンプの苦しみから救って残党を討ち滅ぼしてくれると察していたから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・五より)
積極的に何もしないでいようとすることが偉大であるのはもちろんのこと、
何かをしようとしたところで、結局は何もできないでいることすらもが偉い。
それどころか、無為自然を積極的に実践しようとした道家の徒などよりも、
乱世には何もできないながらも、治世には存分にその能力を発揮する儒者のほうが、
さらに歴史的な評価が高かったりもする。道術者は世間への介入を完全に忌み、
儒者は乱世に限って半分ほど忌むのだから、当然社会的な活躍の余地は、
道術者よりも儒者のほうが多くなる。乱世には儒者も道術者と同じ
無為自然に甘んじてはいるものの、それに限らない点が儒者は違う。
治世ですらあれば身を挺して働く自己誓約が、儒者に不屈の信念を与えもする。
「其の君子は玄黄を匪に實たして以て其の君子を迎え、其の小人は箪食壺漿して
以て其の小人を迎えるは、民を水火の中から救いて其の残賊を討つのみなればなり」
「(周武王の軍が紂王を討つために殷の首都に入城したとき、)殷の役人たちは錦織を箱に
満たして周の役人たちを歓迎し、殷の庶民たちも飯を盛り酒を汲んで周の庶民たちを歓迎した。
武王が殷の民たちをマッチポンプの苦しみから救って残党を討ち滅ぼしてくれると察していたから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・五より)
イスラエルやギリシャやローマにも先んずる優等文化としての、
中国文化やインド文化、オリエント文化などが実際に実在することがすでに、
聖書信仰や洋学が、人類文化のすべてを還元すべきような代物ではない何よりの証拠になっている。
超越神エホバが男の人間アダムを造った上で、そのあばらを取り出して女の人間イブを造った
などという創世神話からして、男も女もみな母親の胎内から産み出される先天的な法則に反している。
「男女ありて然る後に夫婦あり、夫婦ありて然る後に父子あり、父子ありて然る後に君臣あり、
君臣ありて然る後に上下あり、上下ありて然る後に礼儀の錯くところあり(易経・序卦伝)」という
上下関係の後天性すらをもわきまえた上で、人工的に男尊女卑を実施する正規の人間道徳からすれば、
先天的に女が男の後に造られたとすることが、いかに不健全な迷妄であるのかまでもが如実となる。
中国文化やインド文化、オリエント文化などが実際に実在することがすでに、
聖書信仰や洋学が、人類文化のすべてを還元すべきような代物ではない何よりの証拠になっている。
超越神エホバが男の人間アダムを造った上で、そのあばらを取り出して女の人間イブを造った
などという創世神話からして、男も女もみな母親の胎内から産み出される先天的な法則に反している。
「男女ありて然る後に夫婦あり、夫婦ありて然る後に父子あり、父子ありて然る後に君臣あり、
君臣ありて然る後に上下あり、上下ありて然る後に礼儀の錯くところあり(易経・序卦伝)」という
上下関係の後天性すらをもわきまえた上で、人工的に男尊女卑を実施する正規の人間道徳からすれば、
先天的に女が男の後に造られたとすることが、いかに不健全な迷妄であるのかまでもが如実となる。
「古え我が先后、既になんじの祖、なんじの父を勞り、汝共に我れと民を畜うことを作す。
汝戕うこと有るは、則ちなんじの心に在り。我が先后なんじの祖なんじの父を綏んじ、なんじの祖なんじの父、
乃ち汝を斷ち棄て、なんじの死を救わず。茲れ予れ亂政有りて位を同じうするも、なんじの貝玉を具う。なんじの祖
なんじの父も丕いに乃ち我が高后に次げて曰わん。丕いに刑を朕が孫に作せと。高后を迪きて、丕いに乃ち弗祥を崇め降さん」
「太古の昔、我が先君は汝らの父祖を労わったために、汝らも我れと共に民を養う仕事に携わっている。
しかし、汝らの心が邪悪であるために、汝らは民を損なう悪行ばかりに手を染める。我が先君は、汝らの父祖までをも
安んじてやったというのに、その恩に背いてばかりいるのだから、汝らの父祖もまた、汝らの系譜を断ち捨てて、
汝らの死滅を救うこともない。今はまだ乱世であるために、汝らも我れとくそみそに位を同じくするも、
汝らは汝ら自身の財物や財宝を集め守ることばかりに終始するのみ。汝らの父祖もまた、我が先君に告げて言うことだろう。
『我らの子孫に大いなる天罰を下してください』と。我が先君を導いて、大いなる禍を汝らに降す道を開かれるのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚中より)
汝戕うこと有るは、則ちなんじの心に在り。我が先后なんじの祖なんじの父を綏んじ、なんじの祖なんじの父、
乃ち汝を斷ち棄て、なんじの死を救わず。茲れ予れ亂政有りて位を同じうするも、なんじの貝玉を具う。なんじの祖
なんじの父も丕いに乃ち我が高后に次げて曰わん。丕いに刑を朕が孫に作せと。高后を迪きて、丕いに乃ち弗祥を崇め降さん」
「太古の昔、我が先君は汝らの父祖を労わったために、汝らも我れと共に民を養う仕事に携わっている。
しかし、汝らの心が邪悪であるために、汝らは民を損なう悪行ばかりに手を染める。我が先君は、汝らの父祖までをも
安んじてやったというのに、その恩に背いてばかりいるのだから、汝らの父祖もまた、汝らの系譜を断ち捨てて、
汝らの死滅を救うこともない。今はまだ乱世であるために、汝らも我れとくそみそに位を同じくするも、
汝らは汝ら自身の財物や財宝を集め守ることばかりに終始するのみ。汝らの父祖もまた、我が先君に告げて言うことだろう。
『我らの子孫に大いなる天罰を下してください』と。我が先君を導いて、大いなる禍を汝らに降す道を開かれるのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚中より)
ちょっと可哀想になるぐらいの、辛辣な破滅宣告。
古代中国と、イスラエル以西の古代社会に直接的な関係はないが、西方社会に多大なる文化文明的材料を
与えてやった古代オリエントや古代インドを「先君」として、古代イスラエルや古代ギリシャ・ローマなどを
「汝らの父祖」とすれば、極めてよく話が通る内容にもなっている。
半ばこじつけ気味な対照ではあるにしても、
(四書五経の勉強のほうが根本で、犯罪聖書の懲罰は末節なので、それでも別にかまわない)
犯罪聖書の記述にことごとく関連させられるような記事が、四書五経などに大量に載っていることも、
東洋文化が物量面で西洋文化を上回っていた証拠になっている。もちろん質も遥かによくて、
四書五経の編纂は犯罪聖書よりも500年以上先行しているから、古さでもさらなる先輩に当たる。
もしもアダムのあばら骨を用いてイブが造られたという寓話に当てはめるとしても、
四書五経のほうがアダムで犯罪聖書のほうがイブだったといえる。もちろんいずれも超越神エホバによる
被造物などではなく、男女夫婦父子君臣上下の関係が築かれて後における、人間自身の産物でしかない。
人間自身の産物としてまともだった四書五経、欺瞞の限りを尽くした犯罪聖書。それだけのこと。
古代中国と、イスラエル以西の古代社会に直接的な関係はないが、西方社会に多大なる文化文明的材料を
与えてやった古代オリエントや古代インドを「先君」として、古代イスラエルや古代ギリシャ・ローマなどを
「汝らの父祖」とすれば、極めてよく話が通る内容にもなっている。
半ばこじつけ気味な対照ではあるにしても、
(四書五経の勉強のほうが根本で、犯罪聖書の懲罰は末節なので、それでも別にかまわない)
犯罪聖書の記述にことごとく関連させられるような記事が、四書五経などに大量に載っていることも、
東洋文化が物量面で西洋文化を上回っていた証拠になっている。もちろん質も遥かによくて、
四書五経の編纂は犯罪聖書よりも500年以上先行しているから、古さでもさらなる先輩に当たる。
もしもアダムのあばら骨を用いてイブが造られたという寓話に当てはめるとしても、
四書五経のほうがアダムで犯罪聖書のほうがイブだったといえる。もちろんいずれも超越神エホバによる
被造物などではなく、男女夫婦父子君臣上下の関係が築かれて後における、人間自身の産物でしかない。
人間自身の産物としてまともだった四書五経、欺瞞の限りを尽くした犯罪聖書。それだけのこと。
1.徳を以て怨みに報う(老子)
2.直きを以て怨みに報う(論語)
3.目には目を、歯には歯を(ハムラビ法典)
4.右の頬を打たれれば左の頬を差し出せ(福音書)
人として正しいのは1か2であり、3と4はなるべくそうであってはいけないもの。
具体的には、犯罪者などに対して、1は不問の状態に置くことで自主的な贖罪を促し、
2は適正な懲罰も科した上で自らが犯罪の防止に努める積極的道徳者でもあろうとする。
3はただ罪人に杓子定規な罰を科すのみであり、4は罪人にやらせたい放題となる。
4のイエスの発言が無知者に美辞麗句として受け止められ、さも1と同等のものであるように
思い込まれている感があるが、全くそうではなく、最もそうであってはならないもの。
犯罪行為を支援しすらする、マゾヒズム的変態志向が、徳を以て怨みに報うことなどには決してならない。
「孟子鄒に居りしに、季任任の處守を為せり。幣を以て交わらんとせしも、之れを受けて報ぜず。平陸に處りしに、
儲子相を為せり、幣を以て交わらんとせしも、之れを受けて報ぜず。他日鄒より任に之きしとき、季子を見るも、
平陸より齊に之きしときは儲子を見ず。屋廬子喜びて曰く、連、 を得たりと。問うて曰く、夫子の任に之きて
季子を見るや、齊に之きて儲子を見ざるや、其の相を為せる為なるや。曰く、非なり。(書に)曰く、享は儀を多とす。
儀、物に及ばざるを不享と曰う。惟れ志しを享に役せざると曰う。其の享を成さざるが為なり。屋廬子 ぶ。
或ひと之れを問う。屋廬子曰く、季子は鄒に之くを得ざりしも、儲子は平陸に之くを得たればなり」
2.直きを以て怨みに報う(論語)
3.目には目を、歯には歯を(ハムラビ法典)
4.右の頬を打たれれば左の頬を差し出せ(福音書)
人として正しいのは1か2であり、3と4はなるべくそうであってはいけないもの。
具体的には、犯罪者などに対して、1は不問の状態に置くことで自主的な贖罪を促し、
2は適正な懲罰も科した上で自らが犯罪の防止に努める積極的道徳者でもあろうとする。
3はただ罪人に杓子定規な罰を科すのみであり、4は罪人にやらせたい放題となる。
4のイエスの発言が無知者に美辞麗句として受け止められ、さも1と同等のものであるように
思い込まれている感があるが、全くそうではなく、最もそうであってはならないもの。
犯罪行為を支援しすらする、マゾヒズム的変態志向が、徳を以て怨みに報うことなどには決してならない。
「孟子鄒に居りしに、季任任の處守を為せり。幣を以て交わらんとせしも、之れを受けて報ぜず。平陸に處りしに、
儲子相を為せり、幣を以て交わらんとせしも、之れを受けて報ぜず。他日鄒より任に之きしとき、季子を見るも、
平陸より齊に之きしときは儲子を見ず。屋廬子喜びて曰く、連、 を得たりと。問うて曰く、夫子の任に之きて
季子を見るや、齊に之きて儲子を見ざるや、其の相を為せる為なるや。曰く、非なり。(書に)曰く、享は儀を多とす。
儀、物に及ばざるを不享と曰う。惟れ志しを享に役せざると曰う。其の享を成さざるが為なり。屋廬子 ぶ。
或ひと之れを問う。屋廬子曰く、季子は鄒に之くを得ざりしも、儲子は平陸に之くを得たればなり」
「孟子が鄒にいたとき、西方の任という国の留守居役を務めていた季任という人物がいて、孟子に礼物を贈って
親交を試みたが、孟子は礼物を受け取りながらもこれに報いることがなかった。また、孟子が平陸にいたときに、
儲子という人物が斉国の宰相をしていて、これまた孟子に礼物を贈って親交を試みたが、これまた孟子は礼物を
受け取りながらも即座に報いることがなかった。後日鄒から任国に赴いたときに、初めて孟子は季任に答礼したが、
平陸から斉国に赴いた時に、儲子には答礼をしなかった。門弟の屋廬子はこれを見て『しめた、先生の落ち度を
見つけたぞ』と色めき立った。孟子に問うて言った。『先生は任国では季子に答礼されたのに、斉国では儲子に
答礼されませんでした。これは季子のほうが君主に準ずる重役であり、儲子のほうが宰相止まりだったからでしょうか』
孟子は答えた。『そんな理由ではない。書経にも〔贈答のためには礼儀を尽くす。礼儀が贈答に及ばなければ、
贈答しなかったも同然だ。贈答に全く気持ちが込められていないから(周書・洛誥)〕とある。儲子の場合は
贈答をしなかったも同然なほどにも礼儀が尽くされていなかったからだ』 これを聞いて屋廬子は『さすが先生だ』
とさらに喜んだ。後日某人がこのことを聞いた時に屋廬子は言った。『季子は任国の留守居役を勤めていたために
自ら鄒の先生の元に赴くことはできなかったが、儲子は宰相であったので自ら平陸の先生の元に赴くことができたのに、
贈答はしながらも赴くことを怠ったために、先生は季子には答礼をされても儲子には答礼されなかったのだ』
(直きを以て恩に報いた実例。儒者は徳を以て徳に報い、直きを以て恩や怨みに報う。報いにも色々とある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・五)
親交を試みたが、孟子は礼物を受け取りながらもこれに報いることがなかった。また、孟子が平陸にいたときに、
儲子という人物が斉国の宰相をしていて、これまた孟子に礼物を贈って親交を試みたが、これまた孟子は礼物を
受け取りながらも即座に報いることがなかった。後日鄒から任国に赴いたときに、初めて孟子は季任に答礼したが、
平陸から斉国に赴いた時に、儲子には答礼をしなかった。門弟の屋廬子はこれを見て『しめた、先生の落ち度を
見つけたぞ』と色めき立った。孟子に問うて言った。『先生は任国では季子に答礼されたのに、斉国では儲子に
答礼されませんでした。これは季子のほうが君主に準ずる重役であり、儲子のほうが宰相止まりだったからでしょうか』
孟子は答えた。『そんな理由ではない。書経にも〔贈答のためには礼儀を尽くす。礼儀が贈答に及ばなければ、
贈答しなかったも同然だ。贈答に全く気持ちが込められていないから(周書・洛誥)〕とある。儲子の場合は
贈答をしなかったも同然なほどにも礼儀が尽くされていなかったからだ』 これを聞いて屋廬子は『さすが先生だ』
とさらに喜んだ。後日某人がこのことを聞いた時に屋廬子は言った。『季子は任国の留守居役を勤めていたために
自ら鄒の先生の元に赴くことはできなかったが、儲子は宰相であったので自ら平陸の先生の元に赴くことができたのに、
贈答はしながらも赴くことを怠ったために、先生は季子には答礼をされても儲子には答礼されなかったのだ』
(直きを以て恩に報いた実例。儒者は徳を以て徳に報い、直きを以て恩や怨みに報う。報いにも色々とある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・五)
まだ前スレが埋まりきっていたわけでもないのに、なぜ削除したんだろうな。
スレ画を綺麗なお花に替えたところで、聖書信仰が重権力犯罪者たちも
ご用達の、重度精神障害カルトであることには変わりないのに。
「父の子を親しむや、賢を親しみて無能を下し、
母の子に親しむや、賢は則ち之れを親しみ、無能は則ち之れを憐む。
母は親しくして尊からず。父は尊くして親しからず」
「父親が子供に親しむときは、賢い子供に親しんで無能な子供を疎んじ、
母親が子に親しむときには、やはり賢い子供には親しむが、無能な子供をも憐れみの対象にする。
母親は親しめるが尊いとはいえず、父親は尊いが親しむのは難しい。
(ただただ無能を憐れむことなどが尊かったりはしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)
スレ画を綺麗なお花に替えたところで、聖書信仰が重権力犯罪者たちも
ご用達の、重度精神障害カルトであることには変わりないのに。
「父の子を親しむや、賢を親しみて無能を下し、
母の子に親しむや、賢は則ち之れを親しみ、無能は則ち之れを憐む。
母は親しくして尊からず。父は尊くして親しからず」
「父親が子供に親しむときは、賢い子供に親しんで無能な子供を疎んじ、
母親が子に親しむときには、やはり賢い子供には親しむが、無能な子供をも憐れみの対象にする。
母親は親しめるが尊いとはいえず、父親は尊いが親しむのは難しい。
(ただただ無能を憐れむことなどが尊かったりはしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)
「愛は自慢しない」といいながら、愛を自慢する自己矛盾。
犯罪聖書には奢り高ぶるような記述も多いし、非情な神からの仕打ちも多いし、
モーセも言うことを聞かない民にぶち切れて石板を叩き割っているし、
イエスの物言いもファリサイ派などへのねたみが丸出しだし。
忍耐強かったり、情け深かったり、人をねたまなかったり、
自慢しなかったり、高ぶらなかったりすることも、道理をわきまえた聖人君子には
可能だろうが、愛憎に溺れきった小人などが得意とするところではない。
気短さも薄情さも妬みも傲慢も高ぶりもたらたらなのが小人というものであり、
絶対にそうあるなとは言わないが、そうである以上は身の程を知れとは言える。
「君子尊讓すれば則ち爭わず、潔敬すれば則ち慢らず、慢らず爭わざれば、則ち闘辨に遠ざかる。
闘辨せざれば則ち暴亂の禍い無し。斯れ君子の人の禍いを免るる所以なり。故に聖人之れを制するに道を以てす」
「君子は尊び譲ることによって争いを防ぎ、潔く敬うことによって自慢による高ぶりを防ぐ。
自慢の高ぶりや争いが防止されれば、闘争的な弁舌から遠ざかり、闘弁がなくなることによって、
実行的な暴乱の禍いも遠ざけられるようになる。君子が人々を禍いから遠ざける所以は如何様であり、
聖人君子は道理に根ざした礼儀礼節によってこそ人間社会の乱脈をも抑制するのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郷飲酒義第四十五より)
犯罪聖書には奢り高ぶるような記述も多いし、非情な神からの仕打ちも多いし、
モーセも言うことを聞かない民にぶち切れて石板を叩き割っているし、
イエスの物言いもファリサイ派などへのねたみが丸出しだし。
忍耐強かったり、情け深かったり、人をねたまなかったり、
自慢しなかったり、高ぶらなかったりすることも、道理をわきまえた聖人君子には
可能だろうが、愛憎に溺れきった小人などが得意とするところではない。
気短さも薄情さも妬みも傲慢も高ぶりもたらたらなのが小人というものであり、
絶対にそうあるなとは言わないが、そうである以上は身の程を知れとは言える。
「君子尊讓すれば則ち爭わず、潔敬すれば則ち慢らず、慢らず爭わざれば、則ち闘辨に遠ざかる。
闘辨せざれば則ち暴亂の禍い無し。斯れ君子の人の禍いを免るる所以なり。故に聖人之れを制するに道を以てす」
「君子は尊び譲ることによって争いを防ぎ、潔く敬うことによって自慢による高ぶりを防ぐ。
自慢の高ぶりや争いが防止されれば、闘争的な弁舌から遠ざかり、闘弁がなくなることによって、
実行的な暴乱の禍いも遠ざけられるようになる。君子が人々を禍いから遠ざける所以は如何様であり、
聖人君子は道理に根ざした礼儀礼節によってこそ人間社会の乱脈をも抑制するのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郷飲酒義第四十五より)
「人の生くるは直ければなり、之れを罔いて生くるは、幸いにして免るるなり」
「人が生きていられるのは正直だからだ。それを歪めて生きているのは、まぐれで助かっているだけだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・十九より)
これはすでに既出の引用だが、「幸」であるってことは、「まぐれ当たり」であるってことだ。
万全を期しての安寧を企図する中には、まぐれ当たりを嬉しがって幸せぶるようなことすらない。
穴に落ちてそこから引き上げられる、マッチポンプからの救いこそは幸せと呼ばれたりするのであり、
そもそもいちいち幸せがらなくてもいいぐらいに常時幸せであることが、真の幸せでもあるのだ。
「上は道を揆ること無く、下は法を守ることなく、朝は道を信ぜず、
工は度を信ぜず、君子は義を犯し、小人は刑を犯し、國の存する所在る者は幸いなり」
「上に立つ人君は道に則って判断することがなく、下にある臣下も法を守ろうとはせず、朝廷の役人も
みな道を信じようとはせず、民間の職人も法度の価値を信じたりはせず、上位にある君子は道義を侵し、
下位にある民も罪を犯す。それでもなお国家が保たれているとすれば、それこそは幸せもんというものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一より)
「人が生きていられるのは正直だからだ。それを歪めて生きているのは、まぐれで助かっているだけだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・十九より)
これはすでに既出の引用だが、「幸」であるってことは、「まぐれ当たり」であるってことだ。
万全を期しての安寧を企図する中には、まぐれ当たりを嬉しがって幸せぶるようなことすらない。
穴に落ちてそこから引き上げられる、マッチポンプからの救いこそは幸せと呼ばれたりするのであり、
そもそもいちいち幸せがらなくてもいいぐらいに常時幸せであることが、真の幸せでもあるのだ。
「上は道を揆ること無く、下は法を守ることなく、朝は道を信ぜず、
工は度を信ぜず、君子は義を犯し、小人は刑を犯し、國の存する所在る者は幸いなり」
「上に立つ人君は道に則って判断することがなく、下にある臣下も法を守ろうとはせず、朝廷の役人も
みな道を信じようとはせず、民間の職人も法度の価値を信じたりはせず、上位にある君子は道義を侵し、
下位にある民も罪を犯す。それでもなお国家が保たれているとすれば、それこそは幸せもんというものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一より)
まるで自分こそは世界を司る唯一の存在であり、自分が死んだ途端に世も終わるような思い上がり。
世世代代へと堅実に世を継いで行く男系社会ではなく、どこの家も一代限りのお祭り騒ぎに終始する
女系社会においてこそふきだまる悪念。自分を措いて世が勝手に進んでいくことに対して極端な
心細さを抱くのも、自分が世に悪影響ばかりを及ぼしている犯罪集団の一味に過ぎないから。
真に世のため人のためとなる事業に専念していたのなら、死後にも決してただ打ち捨てられることもなく、
その業績に対する畏敬が、子々孫々代々まで受け継がれていく。
だからこそ「君父の尊位(史記)」などというものも貴ばれるようになるのであり、
君父の尊位が重んじられるのは、あくまで士人階級以上であり、産業に従事する小人などにまで
父祖への畏敬があてがわれていたわけではないことが、士人としての仕事こそは真に有益無害であり、
小人の仕事は有害無益だったり、害益くそみそだったりする経験論上の証拠ともなっている。
「子張問う、十世知るべきや。子曰く、殷は夏の禮に因る、損益の所知るべきなり。
周は殷の禮に因る、損益の所知るべきなり。其れ或いは周を繼ぐ者は、百世と雖も知るべきなり」
「子張が問うた。『十世代先の王朝のことが分かりましょうか』 先生は答えられた。
『殷王朝は夏王朝の礼式を参考とした上で、そこに換骨奪胎を加えたことが分かる。
周もまた殷の礼式を参考とした上でに、そこに換骨奪胎を加えている。周王朝の
後を継ぐものは、たとえ百世代の後までもその様相を察知ことができるする』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・為政第二・二三より)
世世代代へと堅実に世を継いで行く男系社会ではなく、どこの家も一代限りのお祭り騒ぎに終始する
女系社会においてこそふきだまる悪念。自分を措いて世が勝手に進んでいくことに対して極端な
心細さを抱くのも、自分が世に悪影響ばかりを及ぼしている犯罪集団の一味に過ぎないから。
真に世のため人のためとなる事業に専念していたのなら、死後にも決してただ打ち捨てられることもなく、
その業績に対する畏敬が、子々孫々代々まで受け継がれていく。
だからこそ「君父の尊位(史記)」などというものも貴ばれるようになるのであり、
君父の尊位が重んじられるのは、あくまで士人階級以上であり、産業に従事する小人などにまで
父祖への畏敬があてがわれていたわけではないことが、士人としての仕事こそは真に有益無害であり、
小人の仕事は有害無益だったり、害益くそみそだったりする経験論上の証拠ともなっている。
「子張問う、十世知るべきや。子曰く、殷は夏の禮に因る、損益の所知るべきなり。
周は殷の禮に因る、損益の所知るべきなり。其れ或いは周を繼ぐ者は、百世と雖も知るべきなり」
「子張が問うた。『十世代先の王朝のことが分かりましょうか』 先生は答えられた。
『殷王朝は夏王朝の礼式を参考とした上で、そこに換骨奪胎を加えたことが分かる。
周もまた殷の礼式を参考とした上でに、そこに換骨奪胎を加えている。周王朝の
後を継ぐものは、たとえ百世代の後までもその様相を察知ことができるする』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・為政第二・二三より)
「民を殃する者は、堯舜の世に於いては容れられず」
「民にわざわいをもたらすようなやからは、堯舜のような聖王が
治められる世においては、当人やその言葉が受け入れられることもない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・八より)
「民にわざわいをもたらすようなやからは、堯舜のような聖王が
治められる世においては、当人やその言葉が受け入れられることもない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・八より)
神的なもの、霊的なものに実用性を求めることからして、下衆だろう。
実務は人が為すものであり、神霊はただそれを見守るのみ。
日月星辰の運行のように恒久不変なるものとしての神霊への畏敬により、
われわれ人間自身が妄動を排した清廉な振る舞いを守るということはあっても。
「皇天上帝名山大川四方の神に共し、以って宋廟社稷の靈を祠り、以て民の為めに福を祈る」
「皇天の上帝や名山大川四方の神に供え物をすることで社稷宋廟の霊を祭り、天下万民に福徳を賜れるよう祈る。
(山水のような実物の世界と神霊を同等のものとして扱い、福徳を祈りはするものの努力は自分たちで行う)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
実務は人が為すものであり、神霊はただそれを見守るのみ。
日月星辰の運行のように恒久不変なるものとしての神霊への畏敬により、
われわれ人間自身が妄動を排した清廉な振る舞いを守るということはあっても。
「皇天上帝名山大川四方の神に共し、以って宋廟社稷の靈を祠り、以て民の為めに福を祈る」
「皇天の上帝や名山大川四方の神に供え物をすることで社稷宋廟の霊を祭り、天下万民に福徳を賜れるよう祈る。
(山水のような実物の世界と神霊を同等のものとして扱い、福徳を祈りはするものの努力は自分たちで行う)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
人間の欲望を全肯定して、その無制限な進行を鼓舞する聖書教からすれば、
欲望も愛も否定し尽くしての涅槃静寂を掲げる本格仏教などのほうが、精神面で対蹠関係にあるといえ、
愛や欲望を全否定はしないものの、よく矯正された仁義などとしてのみ認める儒学が、
精神面の方向性においてまで、聖書教との対蹠関係にあるとはいえない。
にもかかわらず、仏典ではなく儒学の正典である四書五経こそは、
聖書教のドグマである犯罪聖書と決定的に相反する記述の結集となっている。
それは、仏教が基本はあくまで出家主義の超俗志向であるのに対し、儒学は在家主義の世俗志向であり、
俗世において人々がどうあるべきかこそを主要に述べているからで、形而上の超越神などを
あげつらいながらも、あくまでその超越神が俗世を創世したという説を犯罪聖書も主題としているから。
俗世において人々がどうあるべきかという点において、犯罪聖書は「犯罪に手を染めてでもいいから
とにかく欲望のおもむくままでいろ」とするのに対し、四書五経は「犯罪ぐらいには手を染めない
最低限の品性を保った道徳的な人間でいなさい」とする。だから両者の記述はことごとく相反し、
どちらかを立てる以上はもう一方が必ず立たない。環境分けということが、これら同士にはあり得ないから。
「逸欲を教うること無きは、有邦なり」
「人々に放逸や貪欲をけしかけないのが、邦を保っていく上での肝要である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・皋陶謨より)
欲望も愛も否定し尽くしての涅槃静寂を掲げる本格仏教などのほうが、精神面で対蹠関係にあるといえ、
愛や欲望を全否定はしないものの、よく矯正された仁義などとしてのみ認める儒学が、
精神面の方向性においてまで、聖書教との対蹠関係にあるとはいえない。
にもかかわらず、仏典ではなく儒学の正典である四書五経こそは、
聖書教のドグマである犯罪聖書と決定的に相反する記述の結集となっている。
それは、仏教が基本はあくまで出家主義の超俗志向であるのに対し、儒学は在家主義の世俗志向であり、
俗世において人々がどうあるべきかこそを主要に述べているからで、形而上の超越神などを
あげつらいながらも、あくまでその超越神が俗世を創世したという説を犯罪聖書も主題としているから。
俗世において人々がどうあるべきかという点において、犯罪聖書は「犯罪に手を染めてでもいいから
とにかく欲望のおもむくままでいろ」とするのに対し、四書五経は「犯罪ぐらいには手を染めない
最低限の品性を保った道徳的な人間でいなさい」とする。だから両者の記述はことごとく相反し、
どちらかを立てる以上はもう一方が必ず立たない。環境分けということが、これら同士にはあり得ないから。
「逸欲を教うること無きは、有邦なり」
「人々に放逸や貪欲をけしかけないのが、邦を保っていく上での肝要である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・皋陶謨より)
農業に、豊作と凶作の違いがあることも聖書作者は知らなかったのか。
世間知らずとかいう以前に、根本的なところで無知な奴らだったんだ。
「富歳には子弟に韡多く、凶歳には子弟に暴多し。天の才を降すこと爾くのごとく殊なるに非ざるなり。
其の心を陷溺せしむる所以の者の然れるなり。今夫れ麰麥、種を播きて之れを耰わんに、
其の地同じく、之れを樹うるの時も同じなれば、浡然として生じ、日至の時に至りて皆な熟せん。
雖し同じからざる有れば、則ち地に肥磽有り、雨露の養い、人事の齊しからざればなり」
「作物が豊作の年には、若者にも善良で頼もしい者が多く、凶作の年には乱暴で悪事を働く者が多い。
しかしこれは、先天的な才覚に極端な差異があったりするからではなく、彼らの心を惑わせるような環境の違いがあるからだ。
たとえば、大麦の種を撒いてその上に土をかけたとする。撒いた土地も一緒で、その時期も同じであるなら、
しばらくすると芽を出し、夏至の頃にはみな熟するようになる。もし実の熟し方などに差異があるとすれば、
それは土地の肥え方や雨露による潤い方、農作者の労務などに均しからざる点があったからだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・七より)
世間知らずとかいう以前に、根本的なところで無知な奴らだったんだ。
「富歳には子弟に韡多く、凶歳には子弟に暴多し。天の才を降すこと爾くのごとく殊なるに非ざるなり。
其の心を陷溺せしむる所以の者の然れるなり。今夫れ麰麥、種を播きて之れを耰わんに、
其の地同じく、之れを樹うるの時も同じなれば、浡然として生じ、日至の時に至りて皆な熟せん。
雖し同じからざる有れば、則ち地に肥磽有り、雨露の養い、人事の齊しからざればなり」
「作物が豊作の年には、若者にも善良で頼もしい者が多く、凶作の年には乱暴で悪事を働く者が多い。
しかしこれは、先天的な才覚に極端な差異があったりするからではなく、彼らの心を惑わせるような環境の違いがあるからだ。
たとえば、大麦の種を撒いてその上に土をかけたとする。撒いた土地も一緒で、その時期も同じであるなら、
しばらくすると芽を出し、夏至の頃にはみな熟するようになる。もし実の熟し方などに差異があるとすれば、
それは土地の肥え方や雨露による潤い方、農作者の労務などに均しからざる点があったからだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・七より)
「種を撒く」という比喩が、大多数の民衆が従事する「産業」であることからも、
民衆のハートを鷲づかみにする魂胆までもが見え透いているわけだが、
政産一致を説く墨家の徒であったらしい許子の意見に対する孟子の反論として、
以下のようなものもある。(長いので原文は載せず、訳文を改行して二つに分ける)
「陳相が孟子に会い、許行の言葉を引き合いに出しつつ言った。
『滕の殿様はなかなかに賢いお方です。しかしながら、未だ真の道義を知っているとは言えません。
許氏の言うことには、賢者は民と共に並び耕して自ら育てた穀物を食し、朝晩の自炊も行いながら世を治めるものだといいます。
ところが、今の滕には米倉も金蔵もあり、これは要するに君主が民の労働に頼って自らを養ってもらっているということです。
どうしてこれが賢いなどと言えましょうか』
孟子は答えて言った。『許氏は必ず自ら穀物の種を撒いて育て、しかる後に自ら食するのか』
『そうです』
『許氏は必ず布を織ってからそれを着るのか』
『いえ、織って着るのではなく、毛皮の衣を着ています』
『許氏は(為政者の正装である)冠をかぶっているのか』
『はい』
『どんな冠をかぶっているのか』
『白絹の簡素なものをかぶっています』
『では、その白絹は自分で織っているのか』
『いえ、自分で織ってはいませんが、自ら耕し育てた穀物と白絹を物々交換しています』
『なぜ許氏は自分で白絹を織らないのか』
『農業の妨げになるからです』
『許氏は釜や甑で煮炊きし、鋤や鍬などの金物で耕しているのではないのか』
『そうです』
『ではそれらの道具を自分で作っているのだろうか』
『いえ、やはり自分で作ってはいませんが、自らの穀物と交換して得たものです』
民衆のハートを鷲づかみにする魂胆までもが見え透いているわけだが、
政産一致を説く墨家の徒であったらしい許子の意見に対する孟子の反論として、
以下のようなものもある。(長いので原文は載せず、訳文を改行して二つに分ける)
「陳相が孟子に会い、許行の言葉を引き合いに出しつつ言った。
『滕の殿様はなかなかに賢いお方です。しかしながら、未だ真の道義を知っているとは言えません。
許氏の言うことには、賢者は民と共に並び耕して自ら育てた穀物を食し、朝晩の自炊も行いながら世を治めるものだといいます。
ところが、今の滕には米倉も金蔵もあり、これは要するに君主が民の労働に頼って自らを養ってもらっているということです。
どうしてこれが賢いなどと言えましょうか』
孟子は答えて言った。『許氏は必ず自ら穀物の種を撒いて育て、しかる後に自ら食するのか』
『そうです』
『許氏は必ず布を織ってからそれを着るのか』
『いえ、織って着るのではなく、毛皮の衣を着ています』
『許氏は(為政者の正装である)冠をかぶっているのか』
『はい』
『どんな冠をかぶっているのか』
『白絹の簡素なものをかぶっています』
『では、その白絹は自分で織っているのか』
『いえ、自分で織ってはいませんが、自ら耕し育てた穀物と白絹を物々交換しています』
『なぜ許氏は自分で白絹を織らないのか』
『農業の妨げになるからです』
『許氏は釜や甑で煮炊きし、鋤や鍬などの金物で耕しているのではないのか』
『そうです』
『ではそれらの道具を自分で作っているのだろうか』
『いえ、やはり自分で作ってはいませんが、自らの穀物と交換して得たものです』
『穀物を道具と取り替えることが、道具の作り手に頼ることにはならないというのなら、道具の作り手たちが穀物を
交換で得ることも穀物の作り手に頼ることにはならないだろうな。それで、どうして許氏は自分で道具を作らないのだろう。
何もかもを自分で作って家の中に蓄えておき、必要なときに自由に持ち出せるようにしたほうが便利なはずなのに、
なぜわざわざ工民と交易などをするのだろうか。よくもまあ、許氏はそんな面倒なことをするものだな(皮肉気味)』
『道具を作るような高度な仕事は、とてもとても田畑を耕しながらできるものではありませんから』
『では、なぜ全世界を治めることばかりが、田畑を耕すことの片手間でもきるのか。
この世には大人の為すべき仕事もある一方で、小人の為すべき仕事もある。それでいてしかも、
職人の仕事などのように、片手間ではできないような専門職もある。もし何もかもの仕事をすべての人間に
課したならば、ただいたずらに誰しもを疲れさせるだけになってしまう。だからある者は心を労するような仕事をし、
ある者は力を労するような仕事をするといった、分業を行うことが適切であるとされる(左伝・襄公九年など参照)。
心を労するものは人を治める立場となり、力を労する者は人に治められる立場となる一方で、人に治められる者こそは
人々を食わせ、人を治める者こそは人々に食わされるようになる。これこそは全世界に共通の道義というものだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・四より)
農工民の仕事などとも同じように、政治もまた片手間では覚束ない専門職だから、
為政者自身は政治業に専念するべきであって、そのために物をもらったり食わせてもらったりする立場ともなる。
商売人が本業である商売の片手間に、PHPの抄訳「論語」や抄訳「老子」なんか読みかじりながらできるほど、
政治も甘い仕事じゃないってことだ。(もちろん宗教家が片手間でできることでもない)
交換で得ることも穀物の作り手に頼ることにはならないだろうな。それで、どうして許氏は自分で道具を作らないのだろう。
何もかもを自分で作って家の中に蓄えておき、必要なときに自由に持ち出せるようにしたほうが便利なはずなのに、
なぜわざわざ工民と交易などをするのだろうか。よくもまあ、許氏はそんな面倒なことをするものだな(皮肉気味)』
『道具を作るような高度な仕事は、とてもとても田畑を耕しながらできるものではありませんから』
『では、なぜ全世界を治めることばかりが、田畑を耕すことの片手間でもきるのか。
この世には大人の為すべき仕事もある一方で、小人の為すべき仕事もある。それでいてしかも、
職人の仕事などのように、片手間ではできないような専門職もある。もし何もかもの仕事をすべての人間に
課したならば、ただいたずらに誰しもを疲れさせるだけになってしまう。だからある者は心を労するような仕事をし、
ある者は力を労するような仕事をするといった、分業を行うことが適切であるとされる(左伝・襄公九年など参照)。
心を労するものは人を治める立場となり、力を労する者は人に治められる立場となる一方で、人に治められる者こそは
人々を食わせ、人を治める者こそは人々に食わされるようになる。これこそは全世界に共通の道義というものだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・四より)
農工民の仕事などとも同じように、政治もまた片手間では覚束ない専門職だから、
為政者自身は政治業に専念するべきであって、そのために物をもらったり食わせてもらったりする立場ともなる。
商売人が本業である商売の片手間に、PHPの抄訳「論語」や抄訳「老子」なんか読みかじりながらできるほど、
政治も甘い仕事じゃないってことだ。(もちろん宗教家が片手間でできることでもない)
こっちが原文。
「陳相孟子を見、許行の言を道いて曰く、滕君は則ち誠に賢君なり。然りと雖も未だ道を聞かざるなり。
賢者は民と與に並び耕して食し、饔飧して治む。今滕には倉廩も府庫も有り、則ち是れ民に りて以て自ら養うなり。
惡にか賢なるを得ん。孟子曰く、許子は必ず粟を種えて而る後に食するか。曰く、然り。許子は必ず布を織りて而る後に衣るか。
曰く、否、許子は褐を衣る。許子は冠するか。曰く、冠する。曰く、奚を冠するか。曰く、素を冠する。曰く、自ら之れを織るか。
曰く、否、粟を以て之れに易う。曰く、許子は奚為れぞ自ら織らざる。曰く、耕すに害あり。曰く、許子は釜甑を以て爨ぎ、
鐵を以て耕すか。曰く、然り。自ら之れを為るか。曰く、否、粟を以て之れに易う。粟を以て械器に易うる者を、
陶冶に りると為さずんば、陶冶も亦た其の械器を以て粟に易うる者も、豈に農夫に ると為さざるや。
且つ許子は何すれぞ陶冶を為さざる。皆な諸れを其の宮中に取りて之れを用いずして、何すれぞ紛紛然として
百工と與に交易を為す。何すれぞ許子の煩を之れ憚らざるは。曰く、百工の事は、固より耕し且つ為すべからざればなり。
然れば則ち天下を治むることのみ、独り耕し且つ為すべけんや。大人の事ありて、小人の事あり。且つ一人の身にして
百工の為す所備わる。如し必ず自ら為して後之を用いしめんとすれば、是れ天下を率いて路しむるなり。
故に或るものは心を労し、或るものは力を労すと曰うなり。心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治めらる。
人に治めらるる者は人を食わせ、人を治むる者は人に食わさるるは、天下の通義なり」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・四より)
「陳相孟子を見、許行の言を道いて曰く、滕君は則ち誠に賢君なり。然りと雖も未だ道を聞かざるなり。
賢者は民と與に並び耕して食し、饔飧して治む。今滕には倉廩も府庫も有り、則ち是れ民に りて以て自ら養うなり。
惡にか賢なるを得ん。孟子曰く、許子は必ず粟を種えて而る後に食するか。曰く、然り。許子は必ず布を織りて而る後に衣るか。
曰く、否、許子は褐を衣る。許子は冠するか。曰く、冠する。曰く、奚を冠するか。曰く、素を冠する。曰く、自ら之れを織るか。
曰く、否、粟を以て之れに易う。曰く、許子は奚為れぞ自ら織らざる。曰く、耕すに害あり。曰く、許子は釜甑を以て爨ぎ、
鐵を以て耕すか。曰く、然り。自ら之れを為るか。曰く、否、粟を以て之れに易う。粟を以て械器に易うる者を、
陶冶に りると為さずんば、陶冶も亦た其の械器を以て粟に易うる者も、豈に農夫に ると為さざるや。
且つ許子は何すれぞ陶冶を為さざる。皆な諸れを其の宮中に取りて之れを用いずして、何すれぞ紛紛然として
百工と與に交易を為す。何すれぞ許子の煩を之れ憚らざるは。曰く、百工の事は、固より耕し且つ為すべからざればなり。
然れば則ち天下を治むることのみ、独り耕し且つ為すべけんや。大人の事ありて、小人の事あり。且つ一人の身にして
百工の為す所備わる。如し必ず自ら為して後之を用いしめんとすれば、是れ天下を率いて路しむるなり。
故に或るものは心を労し、或るものは力を労すと曰うなり。心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治めらる。
人に治めらるる者は人を食わせ、人を治むる者は人に食わさるるは、天下の通義なり」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・四より)
思わず舌を巻くほどにも見事な、孟子の弁論術。
そこが孟子の凄い所でもあるし、また巧言令色に巧みであればこそ
「亜聖」止まりとなってしまった所以でもある。
「論語」はもう大概を引用し尽くした感があるが、「孟子」のほうはまだまだ在庫が有り余っている。
聖書信者のほうの信仰生命が尽きる前に、どしどし引用しとかなくちゃな。
そこが孟子の凄い所でもあるし、また巧言令色に巧みであればこそ
「亜聖」止まりとなってしまった所以でもある。
「論語」はもう大概を引用し尽くした感があるが、「孟子」のほうはまだまだ在庫が有り余っている。
聖書信者のほうの信仰生命が尽きる前に、どしどし引用しとかなくちゃな。
王侯が、決して「生贄」などであってはならないんだ。
為政がちゃんと一つの専門職として認められて、職分を果たすに相応の待遇も受けてこそ、
政治家の側も立派な国家や社会の統治を実現することができる。
王侯の側が、自分たち自身から貪欲で、民からも無制限に財物を奪い取るのでは「暴君」もいいとこだが、
それとは逆に、庶民の側が、王侯や為政者をけなし倒して、利権を掠め取る相手とばかり見なし、
挙句には断頭や十字架への磔などに処してしまうのでは、それこそ民の側が「暴民」であるというもの。
世の中が暴君と暴民の両極に振れきるような惨状を避けるためには、為政者はもちろん清貧や謙譲を
旨とするべきだが、民のほうもまた、為政者を自分たちの生贄と見なすような不埒さを捨てて、
王侯でもあろうような人々には、自分たちから進んで、大喜びで美食や名品を供するぐらいでなければならない。
それでこそ、民だけでなく為政者の側も、自分たちの職分を全うできるわけだから。
為政がちゃんと一つの専門職として認められて、職分を果たすに相応の待遇も受けてこそ、
政治家の側も立派な国家や社会の統治を実現することができる。
王侯の側が、自分たち自身から貪欲で、民からも無制限に財物を奪い取るのでは「暴君」もいいとこだが、
それとは逆に、庶民の側が、王侯や為政者をけなし倒して、利権を掠め取る相手とばかり見なし、
挙句には断頭や十字架への磔などに処してしまうのでは、それこそ民の側が「暴民」であるというもの。
世の中が暴君と暴民の両極に振れきるような惨状を避けるためには、為政者はもちろん清貧や謙譲を
旨とするべきだが、民のほうもまた、為政者を自分たちの生贄と見なすような不埒さを捨てて、
王侯でもあろうような人々には、自分たちから進んで、大喜びで美食や名品を供するぐらいでなければならない。
それでこそ、民だけでなく為政者の側も、自分たちの職分を全うできるわけだから。
幸せは、良くも悪しくも草花のようなもの。
一時に生い茂り、咲き誇って、ついには枯れ萎む。
そうであることを受け入れてはかない福徳を楽しむもよし。
それとは別に、禍福全般を超越した真理世界に赴くもよし。
果てしない災禍を幸福だなどと思い込むことだけは、なし。
「習習たる谷風、維れ風に雨。
將に恐れ將に懼る、維れ予れと女じと。
將に安んじ將に樂しみ、女じ轉じて予を棄つ。
習習たる谷風、維れ風に頽。
將に恐れ將に懼る、予れを懷に郈けり。
將に安んじ將に樂しみ、予を棄てて遺れたるが如し。
習習たる谷風、維れ山に崔嵬。
草も死れざるは無く、木も萎まざるは無し。
我が大鄹を忘れて、我が小怨を思う」
「シュウシュウと谷間から冷風が吹きすさび、風雨も甚だし。
何もかもを恐れていた頃に、あなたは私といてくれた。
今はもはや安楽のとき、あなたは一転して私を捨て去る。
シュウシュウと谷間から冷風が吹きすさび、つむじ風も巻き起こる。
何もかもを懼れていた頃に、あなたは私を懐に抱いてくれた。
今はもはや安楽のとき、もはや私を捨てて忘れ去ったかのよう。
シュウシュウと谷間から冷風が吹きすさび、山には嵐も吹き荒れる。
草も枯れないでいることがなく、花木も萎まないものはない(そのようにして幸せも吹っ飛んだ)。
私が与えた情けは忘れて、私への小さな恨みばかりを募らせて。(夫に棄てられた妻の歌)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・谷風)
一時に生い茂り、咲き誇って、ついには枯れ萎む。
そうであることを受け入れてはかない福徳を楽しむもよし。
それとは別に、禍福全般を超越した真理世界に赴くもよし。
果てしない災禍を幸福だなどと思い込むことだけは、なし。
「習習たる谷風、維れ風に雨。
將に恐れ將に懼る、維れ予れと女じと。
將に安んじ將に樂しみ、女じ轉じて予を棄つ。
習習たる谷風、維れ風に頽。
將に恐れ將に懼る、予れを懷に郈けり。
將に安んじ將に樂しみ、予を棄てて遺れたるが如し。
習習たる谷風、維れ山に崔嵬。
草も死れざるは無く、木も萎まざるは無し。
我が大鄹を忘れて、我が小怨を思う」
「シュウシュウと谷間から冷風が吹きすさび、風雨も甚だし。
何もかもを恐れていた頃に、あなたは私といてくれた。
今はもはや安楽のとき、あなたは一転して私を捨て去る。
シュウシュウと谷間から冷風が吹きすさび、つむじ風も巻き起こる。
何もかもを懼れていた頃に、あなたは私を懐に抱いてくれた。
今はもはや安楽のとき、もはや私を捨てて忘れ去ったかのよう。
シュウシュウと谷間から冷風が吹きすさび、山には嵐も吹き荒れる。
草も枯れないでいることがなく、花木も萎まないものはない(そのようにして幸せも吹っ飛んだ)。
私が与えた情けは忘れて、私への小さな恨みばかりを募らせて。(夫に棄てられた妻の歌)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・谷風)
いつかは枯れ萎む草花のように儚い存在に過ぎない小人が、偉大なる何者かの感化を受けて
無限の喜びを手に入れるという意見構造自体は、下の記述と犯罪聖書などとであまり変わりはしない。
ただ、小人を感化する「偉大なる何者か」が、犯罪聖書のほうは形而上の虚構神であるのに対し、
四書五経の場合は、堅実な勉学研鑽をやり抜いた現実上の聖人君子である点が、決定的に異なる。
人は、無限の源泉ほどにも果てしない聡明さや叡知さを自力で会得することができる生き物であり、
「そんなことは無理だ」と始めから決め付けたりすることが、すでに精神の不具ともなる。
そりゃあ、君子の保護を受ける小人止まりとなっても、全く仕方のない自業自得だ。
「唯だ天下の至聖のみ、能く聰明睿知にして以て臨むこと有るに足り、
𨛗裕温柔にして以て容るること有るに足り、發強剛毅にして以て執る有るに足り、
齊莊中正にして以て敬する有るに足り、文理密察にして以て別つ有るに足ると為す。
溥博淵泉として、而うして時に之れを出だす。溥博は天の如く、淵泉は淵の如し。
見えて民に敬せざる莫く、言いて民に信ぜざる莫く、行いて民に説ばざる莫し」
「ただ天下に冠たる聖者のみが、よく聡明さと叡知とを以てことに臨むことができ、
寛大さや温柔さを以て物事を容認することができ、頑強さや剛毅さによって処断することができ、
慎み深い荘重さや中正さを以て他者を敬うことができ、文理への明察によって分別を利かせることができる。
その姿は遍く広遠にして、深い深い源泉のようであり、それでいて臨機応変な出処すらもが可能である。
遍く広遠であることはまるで天のようであり、深き源泉からは無限に水が噴き出るかのようであり、
その姿を見て民が敬せざることはなく、その言葉を聞いて民が聞かないことはなく、行って民が喜ばないことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・三一より)
無限の喜びを手に入れるという意見構造自体は、下の記述と犯罪聖書などとであまり変わりはしない。
ただ、小人を感化する「偉大なる何者か」が、犯罪聖書のほうは形而上の虚構神であるのに対し、
四書五経の場合は、堅実な勉学研鑽をやり抜いた現実上の聖人君子である点が、決定的に異なる。
人は、無限の源泉ほどにも果てしない聡明さや叡知さを自力で会得することができる生き物であり、
「そんなことは無理だ」と始めから決め付けたりすることが、すでに精神の不具ともなる。
そりゃあ、君子の保護を受ける小人止まりとなっても、全く仕方のない自業自得だ。
「唯だ天下の至聖のみ、能く聰明睿知にして以て臨むこと有るに足り、
𨛗裕温柔にして以て容るること有るに足り、發強剛毅にして以て執る有るに足り、
齊莊中正にして以て敬する有るに足り、文理密察にして以て別つ有るに足ると為す。
溥博淵泉として、而うして時に之れを出だす。溥博は天の如く、淵泉は淵の如し。
見えて民に敬せざる莫く、言いて民に信ぜざる莫く、行いて民に説ばざる莫し」
「ただ天下に冠たる聖者のみが、よく聡明さと叡知とを以てことに臨むことができ、
寛大さや温柔さを以て物事を容認することができ、頑強さや剛毅さによって処断することができ、
慎み深い荘重さや中正さを以て他者を敬うことができ、文理への明察によって分別を利かせることができる。
その姿は遍く広遠にして、深い深い源泉のようであり、それでいて臨機応変な出処すらもが可能である。
遍く広遠であることはまるで天のようであり、深き源泉からは無限に水が噴き出るかのようであり、
その姿を見て民が敬せざることはなく、その言葉を聞いて民が聞かないことはなく、行って民が喜ばないことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・三一より)
浄土教とキリスト教も、他力本願の信仰主義であるところなどが共通しているが、
もちろん阿弥陀仏を信仰することと、キリストを信仰することも全く違う。
「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、
乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」
(「浄土真宗聖典」仏説無量寿経より)
伝統的に、阿弥陀様の本願とされる「無量寿経」法蔵発願四十八願のうちの第十八願は上記の如くであり、
五逆とは「殺父」「殺母」「殺阿羅漢」「出仏身血」「破和合僧」の五つであり、誹謗正法はそのまま仏法への誹謗に当たる。
親族兄弟での殺し合いや、諸行無常の仏法にも反する死者の復活を予言する教典を信じ、自分たちの教義以外を認めようとはしない
キリスト教徒のあり方は、弥陀の本願である十八願にも悖るものであるため、念仏によってキリスト教徒が救われることもない。
四書五経だけでなく、比較的程度の低い世俗志向の仏教宗派に当たる浄土教の教義とも、聖書教義は相反している。
それに願いを託したならば、四書五経や念仏に基づいて喜びに満たされることも、決して無い。
「其れ雨ふれ其れ雨ふれ、杲杲として出ずるの日あり。
願いて言に伯を思うて、首の疾いに甘心す。
焉んぞ諼草を得て、言に之れ背を樹えん。
願いて言に伯を思いて、我が心をして痗ましむ」
「雨雨降れ降れと願い乞うても、かんかんと日照りばかりが続く。
常に夫が帰ってくることを願い想っているのに、頭痛にばかり飽き足りる。
どこかで憂いを忘れる薬草でも手に入れて、家の裏庭にでも植えておきたいもの。
常に夫が帰ってくることばかりを願い想っていて、私の心ばかりが病み患う。
(願いをやたらと募らせること自体が、心を病ましめるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・衛風・伯兮より)
もちろん阿弥陀仏を信仰することと、キリストを信仰することも全く違う。
「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、
乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」
(「浄土真宗聖典」仏説無量寿経より)
伝統的に、阿弥陀様の本願とされる「無量寿経」法蔵発願四十八願のうちの第十八願は上記の如くであり、
五逆とは「殺父」「殺母」「殺阿羅漢」「出仏身血」「破和合僧」の五つであり、誹謗正法はそのまま仏法への誹謗に当たる。
親族兄弟での殺し合いや、諸行無常の仏法にも反する死者の復活を予言する教典を信じ、自分たちの教義以外を認めようとはしない
キリスト教徒のあり方は、弥陀の本願である十八願にも悖るものであるため、念仏によってキリスト教徒が救われることもない。
四書五経だけでなく、比較的程度の低い世俗志向の仏教宗派に当たる浄土教の教義とも、聖書教義は相反している。
それに願いを託したならば、四書五経や念仏に基づいて喜びに満たされることも、決して無い。
「其れ雨ふれ其れ雨ふれ、杲杲として出ずるの日あり。
願いて言に伯を思うて、首の疾いに甘心す。
焉んぞ諼草を得て、言に之れ背を樹えん。
願いて言に伯を思いて、我が心をして痗ましむ」
「雨雨降れ降れと願い乞うても、かんかんと日照りばかりが続く。
常に夫が帰ってくることを願い想っているのに、頭痛にばかり飽き足りる。
どこかで憂いを忘れる薬草でも手に入れて、家の裏庭にでも植えておきたいもの。
常に夫が帰ってくることばかりを願い想っていて、私の心ばかりが病み患う。
(願いをやたらと募らせること自体が、心を病ましめるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・衛風・伯兮より)
天下万民を救おうとする心持ちと、自分の気に入った相手ばかりを救おうとする心持ちとでは
相当な格差があるもので、四書五経は確かに、天下万民を救う場合に限っての心がけを説いている。
一方、犯罪聖書のほうはといえば、片や万民を救うようなことを言ったり、片や気に入った
相手だけを救うようなことを言ったりの二枚舌を使い分けている。ただそれだけでも、
天下万民を救うことに専念する心がけまでは備えられていないことが明白となっている。
「思れ天下の民、匹夫匹婦も堯舜の澤を被らざる者有れば、己れを推して之れを
溝の中に内るるが如し。其の自ら任ずるに天下の重きを以てすること此くの如し」
「殷湯王の重臣伊尹は、天下の民のうちで、たとえそれが最も賤しい匹夫匹婦の類いであろうとも、
堯舜時代におけるような治世の恩沢に与ることのできない者が一人でもいたならば、まるで自分こそは
その者を側溝の中に落とし込んで苦しませている張本人であるかのような自責の念にかられていた。
それほどもの心がけを以てして初めて、天下を統治する重任を委ねられることをも受け入れたのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
相当な格差があるもので、四書五経は確かに、天下万民を救う場合に限っての心がけを説いている。
一方、犯罪聖書のほうはといえば、片や万民を救うようなことを言ったり、片や気に入った
相手だけを救うようなことを言ったりの二枚舌を使い分けている。ただそれだけでも、
天下万民を救うことに専念する心がけまでは備えられていないことが明白となっている。
「思れ天下の民、匹夫匹婦も堯舜の澤を被らざる者有れば、己れを推して之れを
溝の中に内るるが如し。其の自ら任ずるに天下の重きを以てすること此くの如し」
「殷湯王の重臣伊尹は、天下の民のうちで、たとえそれが最も賤しい匹夫匹婦の類いであろうとも、
堯舜時代におけるような治世の恩沢に与ることのできない者が一人でもいたならば、まるで自分こそは
その者を側溝の中に落とし込んで苦しませている張本人であるかのような自責の念にかられていた。
それほどもの心がけを以てして初めて、天下を統治する重任を委ねられることをも受け入れたのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
権力犯罪者の跳梁跋扈を許すことで、権力道徳者の活躍の余地を奪い去るか、
権力道徳者の活躍を認めることで、権力犯罪者を絶滅させるかのいずれかでしかあり得ない。
権力犯罪者の跳梁跋扈をも許す世の中は、体裁上の最平等が謳われる一方で、
重権力犯罪者たちの放辟邪侈によって多くの人々が破滅に陥れられるのに対し、
権力道徳者の活躍が認められる世の中は、社会的序列が重んじられるようになる一方で、
権力犯罪者の根絶によって、最下級の匹夫匹婦ですらもが生活を保障されるようになる。
どちらもあり得る一方で、どちらかでしかあり得ない。
権力道徳者の活躍を認めることで、権力犯罪者を絶滅させるかのいずれかでしかあり得ない。
権力犯罪者の跳梁跋扈をも許す世の中は、体裁上の最平等が謳われる一方で、
重権力犯罪者たちの放辟邪侈によって多くの人々が破滅に陥れられるのに対し、
権力道徳者の活躍が認められる世の中は、社会的序列が重んじられるようになる一方で、
権力犯罪者の根絶によって、最下級の匹夫匹婦ですらもが生活を保障されるようになる。
どちらもあり得る一方で、どちらかでしかあり得ない。
俺の家自体が元々武家の家系で、詳細な系図や年譜も残っているから分かるんだが、
武士こそは、主君の命などによって転々と居住地を替えたりすることが多かったようだ。
百姓とかのほうが、むしろ土に根ざして耕作を行ったりすることからも、
一定の土地に執着することが多かったようで、自分の土地にやたらと執着する
今の日本人の性向なども、封建社会における武家の封土に対するこだわりなどとは無縁だ。
徳川将軍家からして、移封時には荒野原も同然だった江戸を、自力で開墾整備することで
世界最大の都市へとものし上げたわけで、既成上の土地の良し悪しに執着するのも、
やはり他力本願ばかりにもっぱらな、小人にとってこその性向であるといえる。
「溥天の下に、王土に非ざるは莫く、
率土の濱に、王臣に非ざるは莫し。
大夫の均しからずして、我れのみ事に從いて獨り賢なり」
「あまねく天下に、王君の土地でないものはなく、土の果てのほとりにいようとも、王君の臣下でないものはない。
にもかかわらず、部分の利権を貪るものが均衡の平等を破ってばかり。ただ私ばかりが為すべき事に従って独り賢くある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・北山之什・北山より)
武士こそは、主君の命などによって転々と居住地を替えたりすることが多かったようだ。
百姓とかのほうが、むしろ土に根ざして耕作を行ったりすることからも、
一定の土地に執着することが多かったようで、自分の土地にやたらと執着する
今の日本人の性向なども、封建社会における武家の封土に対するこだわりなどとは無縁だ。
徳川将軍家からして、移封時には荒野原も同然だった江戸を、自力で開墾整備することで
世界最大の都市へとものし上げたわけで、既成上の土地の良し悪しに執着するのも、
やはり他力本願ばかりにもっぱらな、小人にとってこその性向であるといえる。
「溥天の下に、王土に非ざるは莫く、
率土の濱に、王臣に非ざるは莫し。
大夫の均しからずして、我れのみ事に從いて獨り賢なり」
「あまねく天下に、王君の土地でないものはなく、土の果てのほとりにいようとも、王君の臣下でないものはない。
にもかかわらず、部分の利権を貪るものが均衡の平等を破ってばかり。ただ私ばかりが為すべき事に従って独り賢くある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・北山之什・北山より)
病を治療するところではなく、病にかからせるところから、
罪を浄化するところではなく、罪を犯させるところから、犯罪聖書の領分でこそある。
そもそも始めから罪を犯させず、病にもかからせないように努める、
それでこそ人としての最善が尽くされる。当たり前っちゃあ当たり前だが、
マッチポンプの火事場泥棒のうまみを覚えたならず者どもにはそれも分からず、
最善を尽くすどころか、人としての最悪の選択肢を尽くすようにすらなる。
下敷きのような薄手の平板を机の上などに直角に立てれば、必ず表か裏かのどちらかに倒れる。
マッチポンプを未然に排した徳性の堅持に努めることと、マッチポンプの積み重ねに陥ることとは、
この下敷きの表と裏のようなもので、どちらか一方でしかあり得ない上に、どちらかにこそ振れきるもの。
「どちらもあり」というようなみそくそ状態を保とうとするのも、相当に危ういこととなる。
「子、疾病す。子路禱を請う。子曰く、諸れ有るや。子路對えて曰く、
之れ有り。誄に曰く、爾じを上下の神祇に禱る。子曰く、丘の禱るや久し」
「先生が重病にかかられた。弟子の子路が快癒のための祈祷を申し出た。先生は言われた。『何かいい方法があるのか』
子路は答えた。『ございます。〔汝の快癒を天地上下の神祇に奉る〕と唱えるのです』 先生。『それはもう前からやっている』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・三四)
罪を浄化するところではなく、罪を犯させるところから、犯罪聖書の領分でこそある。
そもそも始めから罪を犯させず、病にもかからせないように努める、
それでこそ人としての最善が尽くされる。当たり前っちゃあ当たり前だが、
マッチポンプの火事場泥棒のうまみを覚えたならず者どもにはそれも分からず、
最善を尽くすどころか、人としての最悪の選択肢を尽くすようにすらなる。
下敷きのような薄手の平板を机の上などに直角に立てれば、必ず表か裏かのどちらかに倒れる。
マッチポンプを未然に排した徳性の堅持に努めることと、マッチポンプの積み重ねに陥ることとは、
この下敷きの表と裏のようなもので、どちらか一方でしかあり得ない上に、どちらかにこそ振れきるもの。
「どちらもあり」というようなみそくそ状態を保とうとするのも、相当に危ういこととなる。
「子、疾病す。子路禱を請う。子曰く、諸れ有るや。子路對えて曰く、
之れ有り。誄に曰く、爾じを上下の神祇に禱る。子曰く、丘の禱るや久し」
「先生が重病にかかられた。弟子の子路が快癒のための祈祷を申し出た。先生は言われた。『何かいい方法があるのか』
子路は答えた。『ございます。〔汝の快癒を天地上下の神祇に奉る〕と唱えるのです』 先生。『それはもう前からやっている』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・三四)
劣悪な犯罪寓意を美辞麗句で無理に虚飾しているから、犯罪聖書の記述はどれも遠まわしで分かりにくい。
逆に、真意をありのままに提示しても何ら疚しいところのない、道理に適った意図ばかりを込めているから、
四書五経の記述はどれも分かりやすく、分かりやすすぎてかえって侮られるほど。
妾腹の私生児という恵まれない境遇に生まれつきながらも、自らの立場を十分にわきまえて
経書の勉強や整理といった下働きに努めた孔子と、自らの不遇を受け入れられずに
自暴自棄となって、自らを「神の子」だなどと誇称し、世を破滅へと導くカルト教義を
方々に触れ回ったイエスと。境遇ではなく、本人たち自身の心がけこそが両者の雌雄を分けた。
「樂しき君子は、邦家の光なり」
「安らぎ楽しむ君子こそは、邦家の光である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・白華之什・南山有臺より。この引用は既出)
「既に君子に見えて、龍れあり光あり」
「今ここに君子にお目にかかることができて、私たち小人としても誉れ高く、光に照らされた思いです。
(生贄に捧げられたカルト神などではなく、安らぎ楽しむ現実上の君子こそは、小人をも照らし出す光となる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・白華之什・蓼蕭より)
逆に、真意をありのままに提示しても何ら疚しいところのない、道理に適った意図ばかりを込めているから、
四書五経の記述はどれも分かりやすく、分かりやすすぎてかえって侮られるほど。
妾腹の私生児という恵まれない境遇に生まれつきながらも、自らの立場を十分にわきまえて
経書の勉強や整理といった下働きに努めた孔子と、自らの不遇を受け入れられずに
自暴自棄となって、自らを「神の子」だなどと誇称し、世を破滅へと導くカルト教義を
方々に触れ回ったイエスと。境遇ではなく、本人たち自身の心がけこそが両者の雌雄を分けた。
「樂しき君子は、邦家の光なり」
「安らぎ楽しむ君子こそは、邦家の光である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・白華之什・南山有臺より。この引用は既出)
「既に君子に見えて、龍れあり光あり」
「今ここに君子にお目にかかることができて、私たち小人としても誉れ高く、光に照らされた思いです。
(生贄に捧げられたカルト神などではなく、安らぎ楽しむ現実上の君子こそは、小人をも照らし出す光となる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・白華之什・蓼蕭より)
「罪を犯させない」とか言いながら、その直後に「罪を犯したら弁護する」などとほざく論理破綻。
論理破綻自体も不義ならば、結局は罪を犯す体制を整えてやるのも不義にあたる。
罪を犯させないためには、あえて罪を許さない姿勢を貫く必要だって当然あるに決まっている。罪を犯しても
弁護してやるなんて甘いことをほざいてりゃあ、あえて罪を犯そうとする奴も現れるに決まってるじゃねえか。
過失犯などを、結局は許してやったりすることもあるにしろ、悪意をもっての故意犯などを未然に食い止めるためにも、
世を司ったりする側のほうがあえて「罪は許さない」という体裁を保っておくのが、道義的な最善措置ってもんだ。
さも犯罪マニュアルムックなどが、表向きだけ「悪用禁止」なんて掲げているぐらいに、白々しい。
そもそも犯罪マニュアルや、罪を勝手に許すカルト教義なんぞを流布するところから禁止してこそ、正義ってもんだ。
「有司に命じて法制を修め、囹圄を繕め、桎梏を具え、奸を禁止し、邪を慎み罪し、搏執を務む。理に命じて傷を瞻、創を察し、
折を視、審らかに獄訟を斷決して、必ず端平にし、有罪を戮し、斷刑を嚴にす。天地始めて肅すも、以て贏す可からず」
「資格を有する司法官に命じて法制を修め、牢屋を修繕し、桎梏を用意し、奸悪を禁止し、邪まを慎んで必ず罪と見なし、
罪ある者は必ず捕らえる。獄吏に命じて、皮肉骨髄の傷害をそれぞれ丹念に取り調べるようにして、審らかに訴えごとを取り決め、
有罪を誅戮し、刑の執行をも厳格にする。そこまでして初めて天地も静粛の気に満たされるが、もちろんやり過ぎも禁物である。
(そもそも弁護士制度のような、罪人を弁護する体裁を整えてやる所から従犯の一種であり、刑事といえば、本来は罪人への
一方的な処罰を第一の体面とすべきなのだ。その上で刑事が優秀であり、罪状の把握や酌量にも秀でているということは宜しい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
論理破綻自体も不義ならば、結局は罪を犯す体制を整えてやるのも不義にあたる。
罪を犯させないためには、あえて罪を許さない姿勢を貫く必要だって当然あるに決まっている。罪を犯しても
弁護してやるなんて甘いことをほざいてりゃあ、あえて罪を犯そうとする奴も現れるに決まってるじゃねえか。
過失犯などを、結局は許してやったりすることもあるにしろ、悪意をもっての故意犯などを未然に食い止めるためにも、
世を司ったりする側のほうがあえて「罪は許さない」という体裁を保っておくのが、道義的な最善措置ってもんだ。
さも犯罪マニュアルムックなどが、表向きだけ「悪用禁止」なんて掲げているぐらいに、白々しい。
そもそも犯罪マニュアルや、罪を勝手に許すカルト教義なんぞを流布するところから禁止してこそ、正義ってもんだ。
「有司に命じて法制を修め、囹圄を繕め、桎梏を具え、奸を禁止し、邪を慎み罪し、搏執を務む。理に命じて傷を瞻、創を察し、
折を視、審らかに獄訟を斷決して、必ず端平にし、有罪を戮し、斷刑を嚴にす。天地始めて肅すも、以て贏す可からず」
「資格を有する司法官に命じて法制を修め、牢屋を修繕し、桎梏を用意し、奸悪を禁止し、邪まを慎んで必ず罪と見なし、
罪ある者は必ず捕らえる。獄吏に命じて、皮肉骨髄の傷害をそれぞれ丹念に取り調べるようにして、審らかに訴えごとを取り決め、
有罪を誅戮し、刑の執行をも厳格にする。そこまでして初めて天地も静粛の気に満たされるが、もちろんやり過ぎも禁物である。
(そもそも弁護士制度のような、罪人を弁護する体裁を整えてやる所から従犯の一種であり、刑事といえば、本来は罪人への
一方的な処罰を第一の体面とすべきなのだ。その上で刑事が優秀であり、罪状の把握や酌量にも秀でているということは宜しい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
権力者や資本家に与えられたわずかな資本 飴玉に等しいものを善が云々悪は云々と元気に営んでいる
それが社会の現実
弱い存在は、より強い存在に尊厳を差しだして飴玉を得る
そういう小さな関係の積み重ねで社会は成り立っている
階級や階層は神の如き振る舞いを許容される(善悪を超越している)が、それは同時に人間の本性の顕在化でもある
階級や階層の差は、階級下、階層下の人間の喜びも哀しみも一願だにしない冷酷な人間をつくる
その本性は猿だか神だか分からないが、少なくとも人間的ではない
じつのところ
秩序などなかったのではないか?権力や資本に振り回されていただけなのではないか?
それが社会の現実
弱い存在は、より強い存在に尊厳を差しだして飴玉を得る
そういう小さな関係の積み重ねで社会は成り立っている
階級や階層は神の如き振る舞いを許容される(善悪を超越している)が、それは同時に人間の本性の顕在化でもある
階級や階層の差は、階級下、階層下の人間の喜びも哀しみも一願だにしない冷酷な人間をつくる
その本性は猿だか神だか分からないが、少なくとも人間的ではない
じつのところ
秩序などなかったのではないか?権力や資本に振り回されていただけなのではないか?
だから、権力犯罪聖書に支配された、一切劣悪な世の中に限っての惨状を、
さも人類社会のデフォルトみたいな捉え方をしてんじゃねえよ。
人の上に立つ権力者となったからといって、善悪をも超越したような
気になるのが、すでに「権力の魔性」に囚われた小人ならではの迷妄であり、
権力者であるなりに責任ある振る舞いを勤めることが、優良な権力道徳となる一方で、
もはややりたい放題となって世を破滅へと導くのが、劣悪な権力犯罪となる。
自分自身を超越神エホバか、さもなくばギリシャ神話のオリュンポス山の神々あたりに見立てて、
自分自身の気ままな処断によって、下民を適当に生かしたり殺したりしたとする。
それでもそのような権能を持っている権力者たち自身も、所詮は一介の人間でしかなく、
人の身でありながらそのような身勝手な振る舞いに及んだことが、ありのままに重権力犯罪ともなる。
概念の虚構によって塗り固められていた、一部の権力者の身勝手極まりない振る舞いは、
諸法実相の真理にも即して、ありのままに「単なる権力犯罪」でしかないことが露呈された。
>>324-326の孟子の発言にもあるとおり、政治もまた一つの専門職であるために、自分自身は
何も産み出さないながらも、為政者である以上は、世の中を最善の形で治めていくことに専念する
必要があり、その努力を怠るということは、さも農夫が田畑を耕さなかったり、職人が粗雑な産品しか
製作しなかったりするようなもので、為政者にあるまじき怠慢に尽きているというだけのことだ。
さも人類社会のデフォルトみたいな捉え方をしてんじゃねえよ。
人の上に立つ権力者となったからといって、善悪をも超越したような
気になるのが、すでに「権力の魔性」に囚われた小人ならではの迷妄であり、
権力者であるなりに責任ある振る舞いを勤めることが、優良な権力道徳となる一方で、
もはややりたい放題となって世を破滅へと導くのが、劣悪な権力犯罪となる。
自分自身を超越神エホバか、さもなくばギリシャ神話のオリュンポス山の神々あたりに見立てて、
自分自身の気ままな処断によって、下民を適当に生かしたり殺したりしたとする。
それでもそのような権能を持っている権力者たち自身も、所詮は一介の人間でしかなく、
人の身でありながらそのような身勝手な振る舞いに及んだことが、ありのままに重権力犯罪ともなる。
概念の虚構によって塗り固められていた、一部の権力者の身勝手極まりない振る舞いは、
諸法実相の真理にも即して、ありのままに「単なる権力犯罪」でしかないことが露呈された。
>>324-326の孟子の発言にもあるとおり、政治もまた一つの専門職であるために、自分自身は
何も産み出さないながらも、為政者である以上は、世の中を最善の形で治めていくことに専念する
必要があり、その努力を怠るということは、さも農夫が田畑を耕さなかったり、職人が粗雑な産品しか
製作しなかったりするようなもので、為政者にあるまじき怠慢に尽きているというだけのことだ。
孔子と孟子の区別も付かないのか。さすがWGIP世代。
漢和辞典で調べれば分かるが、
「魔」という字は、「人を惑わすもの」という意味を持つ。
善にしろ悪にしろ、何者かに惑わされることこそは「魔がさす」ということでもある。
しかし、善が人を惑わすなんてことはないから、「善魔」なんてものは基本ないが、
悪は人を惑わすことでこそ増長していくから、特定して「悪魔」などとも呼ばれる。
惑わし惑わされる、それは全て「悪」にとってこその領分であり、
悪魔に惑わされるのはすなわち、当人が何者かに惑わされる程度の小人に過ぎないから。
「四十不惑(為政第二・四)」という孔子の名言のとおり、人間は四十にもなれば、
あらゆる惑いを抜け出した一定の達観者になれるようにできているのであり、
未熟な若者が悪魔や美女などに惑わされるのはまだ仕方がない所があるにしろ、
権力者としての上層部付近にも立つ、四十以上の中高年が相も変わらず魔性に惑わされて
いるようなら、どこに権力犯罪への没入の不可避さを弁解する余地などがあろうか?
四十にもなって未だ魔性のとりこになってる奴らなんて、実際に見る影も
ないことからも、別に孔子の発言までもが理想論だなんてことがないのも明らか。
孟子の発言は相当に理想論も入っている所があるが、孔子の発言は至極無上な現実論。
「それはもう前からやっている」
漢和辞典で調べれば分かるが、
「魔」という字は、「人を惑わすもの」という意味を持つ。
善にしろ悪にしろ、何者かに惑わされることこそは「魔がさす」ということでもある。
しかし、善が人を惑わすなんてことはないから、「善魔」なんてものは基本ないが、
悪は人を惑わすことでこそ増長していくから、特定して「悪魔」などとも呼ばれる。
惑わし惑わされる、それは全て「悪」にとってこその領分であり、
悪魔に惑わされるのはすなわち、当人が何者かに惑わされる程度の小人に過ぎないから。
「四十不惑(為政第二・四)」という孔子の名言のとおり、人間は四十にもなれば、
あらゆる惑いを抜け出した一定の達観者になれるようにできているのであり、
未熟な若者が悪魔や美女などに惑わされるのはまだ仕方がない所があるにしろ、
権力者としての上層部付近にも立つ、四十以上の中高年が相も変わらず魔性に惑わされて
いるようなら、どこに権力犯罪への没入の不可避さを弁解する余地などがあろうか?
四十にもなって未だ魔性のとりこになってる奴らなんて、実際に見る影も
ないことからも、別に孔子の発言までもが理想論だなんてことがないのも明らか。
孟子の発言は相当に理想論も入っている所があるが、孔子の発言は至極無上な現実論。
「それはもう前からやっている」
ちっとも君子の養成なんかやっちゃおらず、むしろ重権力犯罪要員にもなる、
四十五十でも惑いまくりの小人ばかりが、意図的に量産されてもいる。
権力犯罪聖書——通称聖書を根本理念とするカルト洗脳操作によって。
そのようなカルト教義のひっきりなしな横行と、権力道徳の入念な頒布による
君子の養成も相容れるものではなく、どちらかを立てる以上はもう一方が立たない。
劣悪なものを棄てて優良なものの専修に努めなければ、一切劣悪な総員テロリスト社会となるのみ。
少しも儒学や正統仏教の受容を、民衆の側から積極的に追い求めようともせず、
言葉ばかり着飾って、聞こえだけはいいカルト教義のほうに流れていってしまっているのに、
なぜ儒学や仏教が、ほんの微塵たりともその効能を発揮することができようか?
良薬を口にすら含まずして、ただ毒薬ばかりを貪りながら、なぜ良薬の効能が発揮されようか?
「仁遠からんや。我れ仁を欲すれば、斯に仁至る」
「仁は得がたいものだろうか。もし自分から仁を欲したなら、仁はすぐに得られるだろうさ。
(そもそも世の誰しもが仁を欲しすらせず、ただ醜悪な私利私欲を延々と貪ってばかりいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——述而第七・二九より)
四十五十でも惑いまくりの小人ばかりが、意図的に量産されてもいる。
権力犯罪聖書——通称聖書を根本理念とするカルト洗脳操作によって。
そのようなカルト教義のひっきりなしな横行と、権力道徳の入念な頒布による
君子の養成も相容れるものではなく、どちらかを立てる以上はもう一方が立たない。
劣悪なものを棄てて優良なものの専修に努めなければ、一切劣悪な総員テロリスト社会となるのみ。
少しも儒学や正統仏教の受容を、民衆の側から積極的に追い求めようともせず、
言葉ばかり着飾って、聞こえだけはいいカルト教義のほうに流れていってしまっているのに、
なぜ儒学や仏教が、ほんの微塵たりともその効能を発揮することができようか?
良薬を口にすら含まずして、ただ毒薬ばかりを貪りながら、なぜ良薬の効能が発揮されようか?
「仁遠からんや。我れ仁を欲すれば、斯に仁至る」
「仁は得がたいものだろうか。もし自分から仁を欲したなら、仁はすぐに得られるだろうさ。
(そもそも世の誰しもが仁を欲しすらせず、ただ醜悪な私利私欲を延々と貪ってばかりいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——述而第七・二九より)
現在では無宗教の人間も大勢居ると思います
聖書の世界観というよりは、それが人間の本性であると考えたほうが納得できるヒトが多いと思います
聖書など子供騙し
それは同感ですが、こと影響力という点に於いては疑問符がつきますね
人間は猿から進化しているために行動原理は猿に似ている
権力支配者の行動原理が猿なのだから世界観はケモノの論理を越えることはできない
そちらのほうがよっぽど理解できる
聖書の世界観というよりは、それが人間の本性であると考えたほうが納得できるヒトが多いと思います
聖書など子供騙し
それは同感ですが、こと影響力という点に於いては疑問符がつきますね
人間は猿から進化しているために行動原理は猿に似ている
権力支配者の行動原理が猿なのだから世界観はケモノの論理を越えることはできない
そちらのほうがよっぽど理解できる
犯罪聖書のような強度の人間性悪・性獣論が人間の本性であるかのように思われてしまうことも、
仏教の唯識思想や朱子学の性即理説などによって、とっくの昔に看破されている。
人間には理性を司る「性」ないし「阿頼耶識」と呼ばれるような本性が備わっている一方で、
情念を司る「情」ないし「末那識」と呼ばれるような要素も備わっており、
性こそは理であって善良であるものの、情はそれなりの矯正に努めなければ濁って劣悪化してしまう。
そのため、何らの道徳的矯正も行われない人間が自然と、四十五十でも惑いまくりの小人にすらなってしまうため、
「人間の本性は悪である」とすら考えがちになるが(儒者の荀子ですらもがそう考えた)、
1+1を3にでも4にでも改変するような濁った情念を矯正させたなら、そこにはちゃんと1+1=2とする
理性もまた備わっていて、その理性こそは人間の本質をも司るより普遍的な同一性でもある。
とはいえ、何らの矯正も科されない人間が、惑いまくりな小人と化すのも確かなわけで、
それを以て「人間の本性は悪であり、犯罪聖書の記述性向にも合致する」と結論付けることが間違っているのみ。
人間が犯罪聖書の記述内容のごときであること、そうであることを不可避なる普遍性で
あるなどと思い込むこと自体が、すでに理性から逸脱した濁情による迷妄でしかない。
「父子兄弟も禮に非ざれば定まらず。(中略)夫れ惟だ禽獣は禮なし、故に父子麀を聚にす」
「父子兄弟の間柄といえども、礼儀がなければ定まらない。禽獣には礼儀はないから、父子が同じ雌に交わりもする。
(禽獣には限りのない情愛の貪りはできても、理性に正された礼儀をわきまえることなどはできないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
仏教の唯識思想や朱子学の性即理説などによって、とっくの昔に看破されている。
人間には理性を司る「性」ないし「阿頼耶識」と呼ばれるような本性が備わっている一方で、
情念を司る「情」ないし「末那識」と呼ばれるような要素も備わっており、
性こそは理であって善良であるものの、情はそれなりの矯正に努めなければ濁って劣悪化してしまう。
そのため、何らの道徳的矯正も行われない人間が自然と、四十五十でも惑いまくりの小人にすらなってしまうため、
「人間の本性は悪である」とすら考えがちになるが(儒者の荀子ですらもがそう考えた)、
1+1を3にでも4にでも改変するような濁った情念を矯正させたなら、そこにはちゃんと1+1=2とする
理性もまた備わっていて、その理性こそは人間の本質をも司るより普遍的な同一性でもある。
とはいえ、何らの矯正も科されない人間が、惑いまくりな小人と化すのも確かなわけで、
それを以て「人間の本性は悪であり、犯罪聖書の記述性向にも合致する」と結論付けることが間違っているのみ。
人間が犯罪聖書の記述内容のごときであること、そうであることを不可避なる普遍性で
あるなどと思い込むこと自体が、すでに理性から逸脱した濁情による迷妄でしかない。
「父子兄弟も禮に非ざれば定まらず。(中略)夫れ惟だ禽獣は禮なし、故に父子麀を聚にす」
「父子兄弟の間柄といえども、礼儀がなければ定まらない。禽獣には礼儀はないから、父子が同じ雌に交わりもする。
(禽獣には限りのない情愛の貪りはできても、理性に正された礼儀をわきまえることなどはできないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
理性 情念 「阿頼耶識」 矯正に努めなければ濁って劣悪化してしまう。 理性こそは人間の本質をも司るより普遍的な同一性でもある
こういった認識は何によって得られたのだろう?
それはとうぜん社会が存在し そこで生活を営み それら情報を自己で内省し 書きかえられ 流転していること
それが理性や情念などが必要だと情報を内省して学んで というか感じたりしている
そう…
理性なんて心情の働きは世情に沿って流転する知恵に過ぎない
社会に沿っている
社会を前提としている
社会は人間により営まれるために それこそ流動 流転してゆく
それに沿っている理性や情念が普遍というのは悟りが足らないのではないか?
こういった認識は何によって得られたのだろう?
それはとうぜん社会が存在し そこで生活を営み それら情報を自己で内省し 書きかえられ 流転していること
それが理性や情念などが必要だと情報を内省して学んで というか感じたりしている
そう…
理性なんて心情の働きは世情に沿って流転する知恵に過ぎない
社会に沿っている
社会を前提としている
社会は人間により営まれるために それこそ流動 流転してゆく
それに沿っている理性や情念が普遍というのは悟りが足らないのではないか?
1+1=2とする理性があって、なおかつ「1億円+1億円=2億円」とか、
「1兆円+1兆円=2兆円」とかの正確な経理に努めている人々がいるから、世の中も成り立つ。
誰も彼もが「1億円+1億円=3億円」にしたり、「1兆円+1兆円=4兆円」にしたりしていたなら、
あっという間に世の中は立ち行かなくなって亡びる。実際、今はその手前ぐらいの状態にある。
1+1=2とする理性の持ち主が、十分に多人数であってから初めて、
1+1を3にも4にもするような迷妄にかられた、重度精神障害者が生き延びる余地も生まれる。
社会というものはその運営上、根本的に理性を必要とするものであり、情念はあってもなくてもいい存在。
もちろん、全く情念の介在しない世の中も無味乾燥とし過ぎるので、多少は情念にかられて金儲けに
走る商売人などがいたっていいわけだが、そいつらが世の中の末端としての身の程のわきまえを逸して、
自分たちこそは世の主上だなどと勘違いし始めたなら、世の中が立ち行かなくなるに決まってる。
「1兆円+1兆円=2兆円」とかの正確な経理に努めている人々がいるから、世の中も成り立つ。
誰も彼もが「1億円+1億円=3億円」にしたり、「1兆円+1兆円=4兆円」にしたりしていたなら、
あっという間に世の中は立ち行かなくなって亡びる。実際、今はその手前ぐらいの状態にある。
1+1=2とする理性の持ち主が、十分に多人数であってから初めて、
1+1を3にも4にもするような迷妄にかられた、重度精神障害者が生き延びる余地も生まれる。
社会というものはその運営上、根本的に理性を必要とするものであり、情念はあってもなくてもいい存在。
もちろん、全く情念の介在しない世の中も無味乾燥とし過ぎるので、多少は情念にかられて金儲けに
走る商売人などがいたっていいわけだが、そいつらが世の中の末端としての身の程のわきまえを逸して、
自分たちこそは世の主上だなどと勘違いし始めたなら、世の中が立ち行かなくなるに決まってる。
1+1=5それが支配層です
1+1=1それが一般層です
支配層には宗教も道具と化しているというのが実情です
何らかの体裁を用意できるという計算に使われているだけですよ
逆の意味でアナタの話を捉えれば、何らかの原因を見出だせないから聖書に敵意を向けているということ
1+1=1それが一般層です
支配層には宗教も道具と化しているというのが実情です
何らかの体裁を用意できるという計算に使われているだけですよ
逆の意味でアナタの話を捉えれば、何らかの原因を見出だせないから聖書に敵意を向けているということ
1+1を3や4や5にするのは、決して本物の社会の支配層ではなく、
1+1=2の真面目な金銭計算にもよって実物からの堅実な経済社会を運営している
大部分の人々から一方的に利益を吸い取っている「社会のがん細胞格」だ。
さも農民が田畑を耕したり、職人が立派な産品を拵えたりするようにして、
立派な為政を司る君子なら、自らもまた1+1=2のシラフの計算によって世を司る。
その結果、自分たち自身がそんなに経済的に裕福にもなれなかったりするが、
そも経済的に裕福だから社会の支配層であり、経済的に貧困だから社会の被支配層だ
などというのもとんでもない思い違いであり、世の中の根本的な仕組みを
わきまえられていない、小人ばかりに特有の狭隘な迷妄だ。
金持ちですらあれば責任ある世の中の支配者であるなどという迷妄を、
金持ちと貧乏人とに関わらずあてがう道具となっているのもやはり犯罪聖書であり、
何らの社会的責任も負わずに、ただ金満だけを謳歌している金持ちたち自身もまた、
犯罪聖書への信仰に基づく自己洗脳によって、自分たちを社会の支配者だなどと思い込んでいる。
ちっとも宗教を傍観的な道具になどはできておらず、自分たち自身が中毒状態に陥るための
依存対象ともしているのであり、だからこそあらゆる害悪の元凶が犯罪聖書であるともいえる。
「人を責むるは斯れ難き無く、惟れ責めを受けて流れの如くならしむるは、是れ惟れ艱きかな」
「他人を責めることは簡単なだが、己れこそは率先して責めを受けることで
水の流れのように滞りなく自己を改めていくことは、これほどにも難しいことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓より)
1+1=2の真面目な金銭計算にもよって実物からの堅実な経済社会を運営している
大部分の人々から一方的に利益を吸い取っている「社会のがん細胞格」だ。
さも農民が田畑を耕したり、職人が立派な産品を拵えたりするようにして、
立派な為政を司る君子なら、自らもまた1+1=2のシラフの計算によって世を司る。
その結果、自分たち自身がそんなに経済的に裕福にもなれなかったりするが、
そも経済的に裕福だから社会の支配層であり、経済的に貧困だから社会の被支配層だ
などというのもとんでもない思い違いであり、世の中の根本的な仕組みを
わきまえられていない、小人ばかりに特有の狭隘な迷妄だ。
金持ちですらあれば責任ある世の中の支配者であるなどという迷妄を、
金持ちと貧乏人とに関わらずあてがう道具となっているのもやはり犯罪聖書であり、
何らの社会的責任も負わずに、ただ金満だけを謳歌している金持ちたち自身もまた、
犯罪聖書への信仰に基づく自己洗脳によって、自分たちを社会の支配者だなどと思い込んでいる。
ちっとも宗教を傍観的な道具になどはできておらず、自分たち自身が中毒状態に陥るための
依存対象ともしているのであり、だからこそあらゆる害悪の元凶が犯罪聖書であるともいえる。
「人を責むるは斯れ難き無く、惟れ責めを受けて流れの如くならしむるは、是れ惟れ艱きかな」
「他人を責めることは簡単なだが、己れこそは率先して責めを受けることで
水の流れのように滞りなく自己を改めていくことは、これほどにも難しいことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓より)
訂正:
「人を責むるは斯れ難き無く、惟れ責めを受けて流れの如くならしむるは、是れ惟れ艱きかな」
「他人を責めることは簡単なことだが、己れこそは率先して責めを受けることで
水の流れのように滞りなく自己を改めていくことは、これほどにも難しいことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓より)
自分のほうにこそ非があるのなら、それこそ本当に自分こそが率先して責めを受けて、
水の流れのように滞りなく自己を改めていこうと思うわけだが、残念だからそうではなく、
どちらかといえば自分のほうが正しくて他のほうが間違っているから、我れと我が心とに
責めを受けることから逃げまくるカルト信者たちのほうが、己れに責めを受けることを
受け入れて、水の流れのように滞りなく自分たちを改めていくように促す以外にはない。
他者の過ちを自分自身がひっかぶってあげたところで、「冤罪」という
より大きな過ちの積み重ねになるだけでしかないのも、自他の区別も付かない
鏡映認知障害の重度精神障害者でもない限りは、認めざるを得ないことだから。
「人を責むるは斯れ難き無く、惟れ責めを受けて流れの如くならしむるは、是れ惟れ艱きかな」
「他人を責めることは簡単なことだが、己れこそは率先して責めを受けることで
水の流れのように滞りなく自己を改めていくことは、これほどにも難しいことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓より)
自分のほうにこそ非があるのなら、それこそ本当に自分こそが率先して責めを受けて、
水の流れのように滞りなく自己を改めていこうと思うわけだが、残念だからそうではなく、
どちらかといえば自分のほうが正しくて他のほうが間違っているから、我れと我が心とに
責めを受けることから逃げまくるカルト信者たちのほうが、己れに責めを受けることを
受け入れて、水の流れのように滞りなく自分たちを改めていくように促す以外にはない。
他者の過ちを自分自身がひっかぶってあげたところで、「冤罪」という
より大きな過ちの積み重ねになるだけでしかないのも、自他の区別も付かない
鏡映認知障害の重度精神障害者でもない限りは、認めざるを得ないことだから。
1+1=5にしたい
そちらのほうが人間的だ
1+1=2にしたい
それで満足できるなら
それこそ人間的じゃない
現代では欲は人並みにあるのに1+1=2に充たない一般層が大勢いる
欲望を単に邪悪だと切って捨てることのほうが視野が狭いと思う
欲望は幸福を求める衝動であり、理性なんて単純な発想で抑え込めるものではない
欲望は万人が持つ生きる衝動である
政治経済や様々な観点で客観視された公平さ公正さという環境を整えなければ、道徳も理性も機能しない
まず理性からというのは誤りだ
それは支配層に求められるべきもので、一般層には先ずそれを体現する環境こそが必要なのだ
そちらのほうが人間的だ
1+1=2にしたい
それで満足できるなら
それこそ人間的じゃない
現代では欲は人並みにあるのに1+1=2に充たない一般層が大勢いる
欲望を単に邪悪だと切って捨てることのほうが視野が狭いと思う
欲望は幸福を求める衝動であり、理性なんて単純な発想で抑え込めるものではない
欲望は万人が持つ生きる衝動である
政治経済や様々な観点で客観視された公平さ公正さという環境を整えなければ、道徳も理性も機能しない
まず理性からというのは誤りだ
それは支配層に求められるべきもので、一般層には先ずそれを体現する環境こそが必要なのだ
1+1の答えを2だと定義しているのは、神でも仏でもない、われわれ人間自身だ。
その人間が自分たち自身の取り決めを守ろうとすることが、最も人間的であるのは当然のことで、
それを後から1+1=3や4や5にしようってほうが、本当に禽獣並みに知能を低下させる精神障害ってもんだ。
その、重度精神障害のほうが世界標準であって、1+1=2を堅持するほうが異端であるとしたところで、
1億円+1億円を2億円と計算したり、1兆ドル+1兆ドルを2兆ドルと計算したりする理性のほうが
主体であり、1兆ドル+1兆ドルを5兆ドルや6兆ドルと計算する精神障害のほうが副体でないことには、
世の中のほうが立ち行かない。1+1を5にも6にもする精神障害の放蕩も、一定以上1+1=2を堅持する
理性があって初めて許されるのであり、精神障害が主体であって理性が副体だなんてほうがあり得ない。
「まず理性」が求められるべきなのは確かに支配層であって、しかも「まず支配層」であるべきでもある。
支配層が1+1=2の理性を堅持することが十分に尊重されて、「花は桜木、人は武士」というほどにも
理性に適った為政への優遇が行き届いたその上で、一般庶民の側がある程度の理性からの逸脱を認められたり
するというのが、本来の人間社会のあり方であり、それは今とて根本の部分から覆っているところではない。
1兆ドル+1兆ドルを5兆ドルにも6兆ドルにもしているような贋金作りどもが、どんなに虚栄を謳歌したところで、
そいつらのほうが世の中にとっての有害無益ながん細胞格であることには変わりなく、たとえどんなに貧乏であろうとも、
1+1=2のシラフの計算を尽くしている人間のほうが、有益無害な人類社会の模範的構成員であることが、一切劣悪の今
という世の中においてですら根本的に覆ったりはしておらず、ただ覆っているように見せかけられていることが虚妄なだけだ。
その人間が自分たち自身の取り決めを守ろうとすることが、最も人間的であるのは当然のことで、
それを後から1+1=3や4や5にしようってほうが、本当に禽獣並みに知能を低下させる精神障害ってもんだ。
その、重度精神障害のほうが世界標準であって、1+1=2を堅持するほうが異端であるとしたところで、
1億円+1億円を2億円と計算したり、1兆ドル+1兆ドルを2兆ドルと計算したりする理性のほうが
主体であり、1兆ドル+1兆ドルを5兆ドルや6兆ドルと計算する精神障害のほうが副体でないことには、
世の中のほうが立ち行かない。1+1を5にも6にもする精神障害の放蕩も、一定以上1+1=2を堅持する
理性があって初めて許されるのであり、精神障害が主体であって理性が副体だなんてほうがあり得ない。
「まず理性」が求められるべきなのは確かに支配層であって、しかも「まず支配層」であるべきでもある。
支配層が1+1=2の理性を堅持することが十分に尊重されて、「花は桜木、人は武士」というほどにも
理性に適った為政への優遇が行き届いたその上で、一般庶民の側がある程度の理性からの逸脱を認められたり
するというのが、本来の人間社会のあり方であり、それは今とて根本の部分から覆っているところではない。
1兆ドル+1兆ドルを5兆ドルにも6兆ドルにもしているような贋金作りどもが、どんなに虚栄を謳歌したところで、
そいつらのほうが世の中にとっての有害無益ながん細胞格であることには変わりなく、たとえどんなに貧乏であろうとも、
1+1=2のシラフの計算を尽くしている人間のほうが、有益無害な人類社会の模範的構成員であることが、一切劣悪の今
という世の中においてですら根本的に覆ったりはしておらず、ただ覆っているように見せかけられていることが虚妄なだけだ。
アナタの云われる精神障害や有害無益と思われる状態になることこそ人間の幸福です
悪いと理解していても求める
1+1=2以上を求めるのが人間本来の自然な在り方
社会に住むからこそ罪や罰という規範が生まれるが、それは本来的には不自然でしょう
暴力はさらに強大な暴力で治めているというのが現実
理性や道徳心くらいで諫めようというほうこそ愚かで単純です
先に環境を整備されなければ理性や道徳心を発揮する道理がない
悪いと理解していても求める
1+1=2以上を求めるのが人間本来の自然な在り方
社会に住むからこそ罪や罰という規範が生まれるが、それは本来的には不自然でしょう
暴力はさらに強大な暴力で治めているというのが現実
理性や道徳心くらいで諫めようというほうこそ愚かで単純です
先に環境を整備されなければ理性や道徳心を発揮する道理がない
「人類社会のがん細胞格」である連中はそう考えるだろうし、
そのような連中を無意識に羨望させられているカルト洗脳被害者たちも、そう考えるだろうな。
それが人間のダークサイドであって、それはそれで相当に大きな規模を擁しているのも知っている。
しかし、理性や道徳によって、人間社会を平穏無事に運営していこうとする派閥の規模のほうが、さらに大きい。
質でも量でも古さでも、有害無益な精神障害を上回る有益無害な精神健常が、実際に実在しており、
だからこそ人間社会もまだ存続を保ててもいる。信じるまいが支持するまいが、そうでしかない現実だ。
「私たちは有害無益ながん細胞格の精神障害に甘んじます」と宣言するのは別に結構だが、
そのようなゴミ同然の身分に甘んじることが、地球人類にとっての真の幸福であるなどということもないし、
そんな卑賤の身に満足する輩のほうが、人類という生物にとっての主体や根本であるなどということもない。
矮小でかりそめな、虚構の満足に浸り続けようとする人間などよりも、雄大かつ普遍的な、
実物の満足にこそ満悦な人々のほうが多数であることに、疑問を呈するほうがおかしい。
そのような連中を無意識に羨望させられているカルト洗脳被害者たちも、そう考えるだろうな。
それが人間のダークサイドであって、それはそれで相当に大きな規模を擁しているのも知っている。
しかし、理性や道徳によって、人間社会を平穏無事に運営していこうとする派閥の規模のほうが、さらに大きい。
質でも量でも古さでも、有害無益な精神障害を上回る有益無害な精神健常が、実際に実在しており、
だからこそ人間社会もまだ存続を保ててもいる。信じるまいが支持するまいが、そうでしかない現実だ。
「私たちは有害無益ながん細胞格の精神障害に甘んじます」と宣言するのは別に結構だが、
そのようなゴミ同然の身分に甘んじることが、地球人類にとっての真の幸福であるなどということもないし、
そんな卑賤の身に満足する輩のほうが、人類という生物にとっての主体や根本であるなどということもない。
矮小でかりそめな、虚構の満足に浸り続けようとする人間などよりも、雄大かつ普遍的な、
実物の満足にこそ満悦な人々のほうが多数であることに、疑問を呈するほうがおかしい。
大衆をトップダウンに扇情する気など、はじめからないからだ。
我こそは地の底から民を突き上げる、
人間社会のボトムアップこそは修己治人の本質でもある。
やり方のすり合わせからして、あり得ない。
我こそは地の底から民を突き上げる、
人間社会のボトムアップこそは修己治人の本質でもある。
やり方のすり合わせからして、あり得ない。
食わず嫌いもいいとこだな。
本物の道徳や理性なんて、その存在性すら未だ察知したこともないくせに。
「孝経」諫争篇における「父に不義があれば、子として諌め争わざるべからず」という孔子の言と、
「孟子」離婁章句下における「父子が善を責め合うは恩を損なうの大なるものだ」という孟子の言が
一見食い違っているように思われるのだが、これらの言葉の整合性をもう少し掘り下げてみるなら、
「親が致命的な過ちを犯しているときには、これ以上墓穴を掘り下げぬよう諫め争うのが孝となる一方で、
別段大きな過ちを犯しているわけでもない親に対して、さらなる積善を要求するのは不孝となる」
ということではないか。
立場上、子弟格にあたるものが、父兄格にあたる相手に対して、致命的な過ちの是正を諫言したりする
のまでは忠孝にもなるが、そこから先の積善までをも要求するのは、かえって恩を損なう不孝になるわけだから、
結局、今の自分よりはまだ先輩格に当たるだろう今の世の中心人物(仮)などに対して、過ちの責任をとっての
世の中からの退場を促すぐらいまでのことはするけれども、そこから先の積善は相手ではなく、こちら側こそが
自主的に試みていくべきことだから、別に相手との、今後からの二人三脚を前提としたような物言いもしない。
もう二度と社会のメインストリームを歩むこともないような人々に対して、下手に希望の光を当てたりする
ほうが絶望を助長させるのみだから、ただ「後は任せましょう」と言うのみが、忠孝という点でも最善なのだろう。
本物の道徳や理性なんて、その存在性すら未だ察知したこともないくせに。
「孝経」諫争篇における「父に不義があれば、子として諌め争わざるべからず」という孔子の言と、
「孟子」離婁章句下における「父子が善を責め合うは恩を損なうの大なるものだ」という孟子の言が
一見食い違っているように思われるのだが、これらの言葉の整合性をもう少し掘り下げてみるなら、
「親が致命的な過ちを犯しているときには、これ以上墓穴を掘り下げぬよう諫め争うのが孝となる一方で、
別段大きな過ちを犯しているわけでもない親に対して、さらなる積善を要求するのは不孝となる」
ということではないか。
立場上、子弟格にあたるものが、父兄格にあたる相手に対して、致命的な過ちの是正を諫言したりする
のまでは忠孝にもなるが、そこから先の積善までをも要求するのは、かえって恩を損なう不孝になるわけだから、
結局、今の自分よりはまだ先輩格に当たるだろう今の世の中心人物(仮)などに対して、過ちの責任をとっての
世の中からの退場を促すぐらいまでのことはするけれども、そこから先の積善は相手ではなく、こちら側こそが
自主的に試みていくべきことだから、別に相手との、今後からの二人三脚を前提としたような物言いもしない。
もう二度と社会のメインストリームを歩むこともないような人々に対して、下手に希望の光を当てたりする
ほうが絶望を助長させるのみだから、ただ「後は任せましょう」と言うのみが、忠孝という点でも最善なのだろう。
大罪を犯して退場を迫られている、重権力犯罪者などの眼鏡に適うような後継者であるほうが、
かえって世直しに努めていく上での不適合人物であるということにすらなるだろう。
世を破滅へと導く性向の持ち主に「こいつじゃいけない」と思われるぐらいで初めて、真の適合者であるともいえる。
「之れを愛して能く労すること勿らんや。忠にして能く誨うること勿らんや」
「愛しているからといって苦労させないのはいかがなものか。忠孝でありながら教誨に努めないのはいかがなものか」
(権力道徳聖書——通称史書五経——論語・憲問第十四・八より)
かえって世直しに努めていく上での不適合人物であるということにすらなるだろう。
世を破滅へと導く性向の持ち主に「こいつじゃいけない」と思われるぐらいで初めて、真の適合者であるともいえる。
「之れを愛して能く労すること勿らんや。忠にして能く誨うること勿らんや」
「愛しているからといって苦労させないのはいかがなものか。忠孝でありながら教誨に努めないのはいかがなものか」
(権力道徳聖書——通称史書五経——論語・憲問第十四・八より)
理性や道徳は社会性に対する知恵でなくては意味がない そういうことでしょう? それはずいぶんと前に書いてある
現代社会というのは
たとえば為政者一人を権力者とは言わない
現代特有の選挙形式から端を発し 献金や組織票を意識して関係性をつくらなければ為政者にはなれない
その関係性は、政治介入を余儀なくされるということ
すでに関係性ある企業の思惑や宗教団体の思惑 それらの都合を政治に反映しなくてはならない
そういった関係の積み重ねで社会規範もつくられている
庄屋とお代官くらいの単純な世界観じゃないのです
問題は孔子が考えていた以上に 相対的という以上…壮大に複雑化している
それが社会の都合
そこに理性や道徳心が入り込む余地がありますか?
社会の都合に沿った知恵こそが現代…現在求められる道徳なのですよ
それはやはり環境から カタチから入る以外には見出だせないでしょう
現代社会に根付いてしまった都合…これはもはや生活に則している
生活そのもの
過去の遺物のような道徳や理性では生活を…社会性を破綻させることになりませんか?
現代社会というのは
たとえば為政者一人を権力者とは言わない
現代特有の選挙形式から端を発し 献金や組織票を意識して関係性をつくらなければ為政者にはなれない
その関係性は、政治介入を余儀なくされるということ
すでに関係性ある企業の思惑や宗教団体の思惑 それらの都合を政治に反映しなくてはならない
そういった関係の積み重ねで社会規範もつくられている
庄屋とお代官くらいの単純な世界観じゃないのです
問題は孔子が考えていた以上に 相対的という以上…壮大に複雑化している
それが社会の都合
そこに理性や道徳心が入り込む余地がありますか?
社会の都合に沿った知恵こそが現代…現在求められる道徳なのですよ
それはやはり環境から カタチから入る以外には見出だせないでしょう
現代社会に根付いてしまった都合…これはもはや生活に則している
生活そのもの
過去の遺物のような道徳や理性では生活を…社会性を破綻させることになりませんか?
なにも複雑なことはない。
農夫や職人のような一人前の専門職としての、為政の価値が全面的に否定されて、
実際に権力道徳を実現する専門的な素養を蓄えた為政者までもが、
絶滅に追い込まれているというだけのこと。
たとえば、多くの人々を乗せた艦船があったとして、その艦船の乗客に過ぎない連中が、
船を操舵するための技能を持った船員を全て追い落として、操舵に関してはド素人に過ぎない
自分たちこそは「この船の船頭だ」などと宣言して、下手くそな操舵で山にすら乗り上げた、
その結果が>>355の惨状。ド素人の意見や私利私欲ばかりを国家運営に反映させた、当然の結末。
「無責任なド素人が国家を運営している」という実情を隠蔽するために、
事務手続きばかりは複雑化しているが、それが招いているものはただ一つ、
権力道徳に相反する権力犯罪の進行のみ。何も難しいところなどありゃしない。
農夫や職人のような一人前の専門職としての、為政の価値が全面的に否定されて、
実際に権力道徳を実現する専門的な素養を蓄えた為政者までもが、
絶滅に追い込まれているというだけのこと。
たとえば、多くの人々を乗せた艦船があったとして、その艦船の乗客に過ぎない連中が、
船を操舵するための技能を持った船員を全て追い落として、操舵に関してはド素人に過ぎない
自分たちこそは「この船の船頭だ」などと宣言して、下手くそな操舵で山にすら乗り上げた、
その結果が>>355の惨状。ド素人の意見や私利私欲ばかりを国家運営に反映させた、当然の結末。
「無責任なド素人が国家を運営している」という実情を隠蔽するために、
事務手続きばかりは複雑化しているが、それが招いているものはただ一つ、
権力道徳に相反する権力犯罪の進行のみ。何も難しいところなどありゃしない。
難しいのはね
それがすでに現代生活として機能してしまっているという現実ですよ
それを古くさい理性や道徳で扱うことは現代生活を破綻させることになる
文明や文化を失うことになるということ
文明文化こそ人間の関係性によって築き上げた粋であるということ
それに沿わない理性や道徳などより文明文化に則した在り方が本当の知恵 道徳になるべきなんだ
それがすでに現代生活として機能してしまっているという現実ですよ
それを古くさい理性や道徳で扱うことは現代生活を破綻させることになる
文明や文化を失うことになるということ
文明文化こそ人間の関係性によって築き上げた粋であるということ
それに沿わない理性や道徳などより文明文化に則した在り方が本当の知恵 道徳になるべきなんだ
道徳のために人間が在るわけじゃない
人間のために道徳が必要になるんだ
人間のために道徳が必要になるんだ
理性や道徳は文化文明じゃないってか?
重権力犯罪にまみれた総員禽獣化社会だけが、唯一の文化文明だってか?
ド素人の乗客が船頭と化した船が山に登ったことが、文化文明の唯一の成果だってか?
ただ、おまえの視野が極端に狭いせいで、ごくごく部分的な文化文明の片鱗に
過ぎないものを、唯一無二の文化文明だなどと思い込んでいるだけじゃないか。
金を操る商売人、物を作る職人、食い物を作る農夫や漁師、そして人間社会のあり方を総合的に切り盛りする士人、
これらの人種が全て合わせ集まることによってこそ、健全に機能するのが人間社会というものであり、
よく健全性が守られた社会においては、商売を含む産業への従事者以上にも為政者たる士人が尊重される一方で、
どこもかしこもが不健全と化した社会においては、士人や君子と呼べるほどにもまともな徳性を備えた
為政者が一人もいなくなって、ただ産業従事者の放辟邪侈がどこまでも放任されていくばかりとなる。
いずれにしろ、為政者と産業従事者とが並存する社会であることには代わりないが、
権力道徳の守られる社会においては君子士人が存在する一方で、権力犯罪にまみれた社会においては君子士人が存在しない。
君子士人の存在性が認められるか否かのみが両者の違う点であり、産業従事者たる庶民がいるかいないかなどということは論外。
庶民をいかに健全に統治支配するのかが為政者にとっての根本命題であり、その方向性がよく見据えられているのが
君子士人たる権力道徳者である一方で、全く見定められていないのが権力犯罪者であるのみ。
両者はコインの裏表のようなもので、権力犯罪者によって運営が保たれているような社会が、
権力道徳者によって運営されたなら、これ以上よくなることこそあれど、悪くなることなどは決してない。
重権力犯罪にまみれた総員禽獣化社会だけが、唯一の文化文明だってか?
ド素人の乗客が船頭と化した船が山に登ったことが、文化文明の唯一の成果だってか?
ただ、おまえの視野が極端に狭いせいで、ごくごく部分的な文化文明の片鱗に
過ぎないものを、唯一無二の文化文明だなどと思い込んでいるだけじゃないか。
金を操る商売人、物を作る職人、食い物を作る農夫や漁師、そして人間社会のあり方を総合的に切り盛りする士人、
これらの人種が全て合わせ集まることによってこそ、健全に機能するのが人間社会というものであり、
よく健全性が守られた社会においては、商売を含む産業への従事者以上にも為政者たる士人が尊重される一方で、
どこもかしこもが不健全と化した社会においては、士人や君子と呼べるほどにもまともな徳性を備えた
為政者が一人もいなくなって、ただ産業従事者の放辟邪侈がどこまでも放任されていくばかりとなる。
いずれにしろ、為政者と産業従事者とが並存する社会であることには代わりないが、
権力道徳の守られる社会においては君子士人が存在する一方で、権力犯罪にまみれた社会においては君子士人が存在しない。
君子士人の存在性が認められるか否かのみが両者の違う点であり、産業従事者たる庶民がいるかいないかなどということは論外。
庶民をいかに健全に統治支配するのかが為政者にとっての根本命題であり、その方向性がよく見据えられているのが
君子士人たる権力道徳者である一方で、全く見定められていないのが権力犯罪者であるのみ。
両者はコインの裏表のようなもので、権力犯罪者によって運営が保たれているような社会が、
権力道徳者によって運営されたなら、これ以上よくなることこそあれど、悪くなることなどは決してない。
なによりも恐ろしがられているのは、今すぐに、早急に世の中が変革されてしまうことで、そのせいで
無理をきたして破綻することであり、権力道徳によって世の中の平穏が保たれることへの普遍的な不信ではあるまい。
仮に、権力道徳が世の中を統治することなど絶対に不可能だなどと思い込んでいるのなら、
それこそは、歴史の勉強が足りなさ過ぎるだけの話でもあるしな。
「三年、父の道を改むること無きを、孝と謂うべし」
「父の死後、三年は父のやり方を改めないでおくことを、孝行と呼んでよかろう」
(権力道徳聖書——通称史書五経——論語・学而第一・一一より)
三年、最低でも三年は、降伏宣言の後にも、今の世の運営方法に大きな改変を加えるようなことは、決してするまい。
たとえ、それが明らかに改善になると認められる施策であっても、必ず三年間はその実施を保留する。
三年間のうちに、できる限り多くの人々とも打ち合わせを尽くして、人々の納得のいく政策がどれであり、
どうしたって支持を得られない政策はどれであるかなどを綿密に調査し抜いて、本当に大多数の人々による、
納得づくの支持や協力を得られる段になってから初めて、何らかの変革を実施するということもある。
あまりにも事務的な話であり、「全人類にとっての聖書」でもある四書五経を典拠にするのも卑俗に過ぎるかとも思うが、
「親の喪に最低でも三年は服すべきだ」とする孔子の意向にも、きっと何らかの具体的な意図が込められているのだろうから。
別に自分自身の親が死ぬなどという話でもないが、「前世代」という意味での、親の喪にも服すべきなのかもしれないな。
無理をきたして破綻することであり、権力道徳によって世の中の平穏が保たれることへの普遍的な不信ではあるまい。
仮に、権力道徳が世の中を統治することなど絶対に不可能だなどと思い込んでいるのなら、
それこそは、歴史の勉強が足りなさ過ぎるだけの話でもあるしな。
「三年、父の道を改むること無きを、孝と謂うべし」
「父の死後、三年は父のやり方を改めないでおくことを、孝行と呼んでよかろう」
(権力道徳聖書——通称史書五経——論語・学而第一・一一より)
三年、最低でも三年は、降伏宣言の後にも、今の世の運営方法に大きな改変を加えるようなことは、決してするまい。
たとえ、それが明らかに改善になると認められる施策であっても、必ず三年間はその実施を保留する。
三年間のうちに、できる限り多くの人々とも打ち合わせを尽くして、人々の納得のいく政策がどれであり、
どうしたって支持を得られない政策はどれであるかなどを綿密に調査し抜いて、本当に大多数の人々による、
納得づくの支持や協力を得られる段になってから初めて、何らかの変革を実施するということもある。
あまりにも事務的な話であり、「全人類にとっての聖書」でもある四書五経を典拠にするのも卑俗に過ぎるかとも思うが、
「親の喪に最低でも三年は服すべきだ」とする孔子の意向にも、きっと何らかの具体的な意図が込められているのだろうから。
別に自分自身の親が死ぬなどという話でもないが、「前世代」という意味での、親の喪にも服すべきなのかもしれないな。
人類の歴史は闘争のハズですよ?
道徳権力など一度も成し得なかったから現行の社会になったということですよ
一時の平和…だが次の局面では苦難に喘いでいる
そういった断続性が社会の移ろいの現実です
物語の歴史の中ならば恒久的な道徳への美意識があることでしょう
道徳権力など一度も成し得なかったから現行の社会になったということですよ
一時の平和…だが次の局面では苦難に喘いでいる
そういった断続性が社会の移ろいの現実です
物語の歴史の中ならば恒久的な道徳への美意識があることでしょう
だって2500年も経ってるうちに確実に大幅編集されてるよ?
分かりやすい言葉や矛盾っぽい言葉はすべて見直されて、孔子の言葉なんかもはや少ししか残ってないかもしれない
ありがたそうに読まれてはいるが現実なんかそんなもの
醜い部分は伏せられて編集につぐ編集を重ねられ もはや何の物語ですかね?
それに素直に心酔するなんて、道徳者ってのはまるで夢見る乙女のように無垢なものですね
分かりやすい言葉や矛盾っぽい言葉はすべて見直されて、孔子の言葉なんかもはや少ししか残ってないかもしれない
ありがたそうに読まれてはいるが現実なんかそんなもの
醜い部分は伏せられて編集につぐ編集を重ねられ もはや何の物語ですかね?
それに素直に心酔するなんて、道徳者ってのはまるで夢見る乙女のように無垢なものですね
>>371
まず、現人類のうちの12億人にあたるインドの歴史が、外界からの侵略を除けば
戦乱皆無の万年泰平の歴史だ。「インドには歴史がない」と言われるのもそのため。
そして、中国や日本などのの極東社会現15億人の歴史は、一時の戦乱と長期の泰平を繰り返す歴史。
戦国時代のような戦乱の時代もあれば、周代や漢代や唐代、平安時代や江戸時代のように
最悪の戦乱ぐらいは廃絶した泰平の時代もあり、概ね泰平3:戦乱1程度の配分を貫いている。
東南アジアやアフリカなどに住まう現14億人程度の人々も、それほど高度な文化文明を築き上げて
いたわけではないが、ことに西洋からの侵略被害に遭うまでは、きわめて平穏な歴史を保っていた。
万年戦乱の闘争状態に陥っているのは、全人類の半分以下に過ぎない西洋のみであり、
中でも自分たちからの侵略をも積極的に行っている、戦乱の元凶中の元凶とまでいえるのは、
アレクサンドロス東征や十字軍遠征によって中東社会をも侵略してきた現聖書圏のみ。
「人類の歴史は引っ切り無しの闘争の歴史」などというのが、西洋中心主義の偏見に
根ざした全くの思い違いであり、質でも量でも古さでも、戦乱以上にも泰平を重んじて、
実際に泰平優位戦乱劣位の歴史を積み重ねてきた派閥のほうが、遥かに優位であり続けている。
まず、現人類のうちの12億人にあたるインドの歴史が、外界からの侵略を除けば
戦乱皆無の万年泰平の歴史だ。「インドには歴史がない」と言われるのもそのため。
そして、中国や日本などのの極東社会現15億人の歴史は、一時の戦乱と長期の泰平を繰り返す歴史。
戦国時代のような戦乱の時代もあれば、周代や漢代や唐代、平安時代や江戸時代のように
最悪の戦乱ぐらいは廃絶した泰平の時代もあり、概ね泰平3:戦乱1程度の配分を貫いている。
東南アジアやアフリカなどに住まう現14億人程度の人々も、それほど高度な文化文明を築き上げて
いたわけではないが、ことに西洋からの侵略被害に遭うまでは、きわめて平穏な歴史を保っていた。
万年戦乱の闘争状態に陥っているのは、全人類の半分以下に過ぎない西洋のみであり、
中でも自分たちからの侵略をも積極的に行っている、戦乱の元凶中の元凶とまでいえるのは、
アレクサンドロス東征や十字軍遠征によって中東社会をも侵略してきた現聖書圏のみ。
「人類の歴史は引っ切り無しの闘争の歴史」などというのが、西洋中心主義の偏見に
根ざした全くの思い違いであり、質でも量でも古さでも、戦乱以上にも泰平を重んじて、
実際に泰平優位戦乱劣位の歴史を積み重ねてきた派閥のほうが、遥かに優位であり続けている。
そうやって一部地域に限定して視野狭く考えれば整合化も楽ですからね
人間の本性的に対抗心を抱く道徳者かな
道徳者が争いも辞さぬとたゆまぬ努力をすることは戦乱や 社会的混乱とどうちがうのか?
武力を持たなければいいのか?
それは小人とかいうヤツらとどれほどのちがいがあると言うんだ?
物語の中でしか達成できない道徳にすがって自分を慰めているのか?
人間の本性的に対抗心を抱く道徳者かな
道徳者が争いも辞さぬとたゆまぬ努力をすることは戦乱や 社会的混乱とどうちがうのか?
武力を持たなければいいのか?
それは小人とかいうヤツらとどれほどのちがいがあると言うんだ?
物語の中でしか達成できない道徳にすがって自分を慰めているのか?

中国湖北省荊門市の郭店第一号楚墓から発見された、今から約2300年前の竹簡には、
「老子」の原型にあたる文書と共に、「論語」や「書経」「詩経」に類似する文書が散見され、
しかも「礼記」の緇衣第三十三とほぼ同一の文書までもが確認されている。
他にも「詩・書・礼・楽・易・春秋」などの、今の経書分類に即する文字列も認められ、
四書五経にあたる文書文化が、犯罪聖書が成立したとされる今から約1900年前よりも
遥かに先んじていたことすらもが確認されている。
世界最古の犯罪聖書の原文である死海文書も、最古の部分ですら今から約2100年前のもので、
その内容も今の犯罪聖書とは随分な異同があり、犯罪聖書のほうもまた、今の形に
成型されたのは随分と後代であることが分かる。
五経が今の形に定型化されたのは、今から約2147年前の武帝による五経博士の設置時であると
「史記」の儒林列伝などからも確認でき、七十人訳によって旧約聖書が今の形に定型化された
とする紀元前一世紀代よりも先んじている。今の形に定型化されてからの古さでも、
四書五経は明らかに犯罪聖書よりも先んじている。
「震來虩虩たるに、恐れて福を致すなり。笑言唖唖たりて、後には則有るなり。(中略)君子もって恐懼修省す」
「激震のような衝撃が来るに及べば、素直に戒慎恐懼する。それは恐れ慎むことによってこそを福を招くためだ。そして
事後に秩序が保たれてから、初めて安らかに笑いつつ物も言う。そのために君子は恐れ慎みつつの修養や反省を欠かさない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・震・彖伝−象伝より)

一部地域に限定して、狭い視野だけに即してものを考える、
それも、どちらかといえば、四書五経よりも犯罪聖書のほうにこそ特定して深刻な凶状だ。
戦うということ、それだけなら六道輪廻のうちの三善趣にも「修羅道」として組み込まれている。
しかし、純粋な修羅道と、犯罪まみれの「地獄道」を混同して、戦いを泰平という目的のための手段で
あるとすらわきまえず、戦いのための戦い、引っ切り無しの戦乱状態を画策まではしない点が、
四書五経などに基づく純正道徳学が、犯罪聖書に基づく犯罪カルトなどとは違う点。
密教や禅などの高等仏教に即したなら、道徳学とて六道輪廻の範疇にとどまる卑俗学であるにも違いないが、
卑俗な中にも勧善懲悪ではあろうとする点において、卑俗であってしかも悪逆非道ですらあろうとする
犯罪カルトなどよりは、確実にマシなほうであるということがいえる。
十住心論のうちの最底辺である異生羝羊住心第一が犯罪カルトである一方で、下から二番目にあたる
愚童持斎住心第二が道徳者の境地。道徳者とてさして高尚な境地にあるわけではないが、最低最悪の限りを尽くす
犯罪カルトから上に登っていくためには、犯罪カルトよりも一段だけ上の存在であるに過ぎない道徳学あたりから
始めていくしかない。より高尚な境地に今すぐに至れるほど、自分たち自身が高い地位にいるわけでもないから。
犯罪聖書とかヨソの書を批判しても自分のところを正当化できないだろ
バカよりアホのがマシで嬉しいのか?
だいたい書き手自体が本人が死んでから弟子とか訪れた場所を巡って整理したということだぞ
小人の記憶力をどれだけ信じてるんだよ?小人を蚊帳の外扱いする書なのに
まったくメルヘンチックな物語だよ
現代道徳の動力源は欲望に則しているの!
己の欲望を満たさなければ他人には優しくなれないの!誰もが
支配層はともかく一般層はそれで変わる
世の中に道徳を体現したいなら金をバラまけ
満足感を動力に小人の道徳が少しは機能しはじめる
そうやって満ち足りた人間が増えることで支配層も何らかの転換をする可能性がある
財源がなければ日銀から盗ってこい
それが現代道徳だ
バカよりアホのがマシで嬉しいのか?
だいたい書き手自体が本人が死んでから弟子とか訪れた場所を巡って整理したということだぞ
小人の記憶力をどれだけ信じてるんだよ?小人を蚊帳の外扱いする書なのに
まったくメルヘンチックな物語だよ
現代道徳の動力源は欲望に則しているの!
己の欲望を満たさなければ他人には優しくなれないの!誰もが
支配層はともかく一般層はそれで変わる
世の中に道徳を体現したいなら金をバラまけ
満足感を動力に小人の道徳が少しは機能しはじめる
そうやって満ち足りた人間が増えることで支配層も何らかの転換をする可能性がある
財源がなければ日銀から盗ってこい
それが現代道徳だ
「現代道徳は犯罪主義である」
ただそれだけのことだな。
犯罪をしないことを道徳とし、道徳に反することを犯罪とするのが真の道徳。
一方で、犯罪こそは道徳であるとするのが偽の道徳。
真の道徳を諾うのが愚童持斎心以上、偽の道徳に溺れるのが異生羝羊心以下。
「犯罪は道徳である」という考えが確実に偽となるのは、
道徳もまた「犯罪の防止」を目的に定義された理念でしかないからだ。
犯罪すら懲罰し尽くして防止し尽くせたなら、それで道徳の役割は果たされるのであり、
重権力犯罪ぐらいは根絶された後における、四書五経以上の豊潤な精神文化文明の
繁栄のほうが、本当は真骨頂。権力道徳による権力犯罪の駆逐なんて、
真打ちの究極文化の興隆などと比べれば、前座の前座の前座でしかない。
ただそれだけのことだな。
犯罪をしないことを道徳とし、道徳に反することを犯罪とするのが真の道徳。
一方で、犯罪こそは道徳であるとするのが偽の道徳。
真の道徳を諾うのが愚童持斎心以上、偽の道徳に溺れるのが異生羝羊心以下。
「犯罪は道徳である」という考えが確実に偽となるのは、
道徳もまた「犯罪の防止」を目的に定義された理念でしかないからだ。
犯罪すら懲罰し尽くして防止し尽くせたなら、それで道徳の役割は果たされるのであり、
重権力犯罪ぐらいは根絶された後における、四書五経以上の豊潤な精神文化文明の
繁栄のほうが、本当は真骨頂。権力道徳による権力犯罪の駆逐なんて、
真打ちの究極文化の興隆などと比べれば、前座の前座の前座でしかない。
あと、儒家も欲望を否定はしない。否定はしないが
「君子は〜欲すれども貪らず」
「君子は人として生きる上での最低限の欲求ぐらいは持つが、それ以上の過大な貪欲は捨てる」
(権力道徳聖書——通称史書五経——論語・堯曰第二十・四より)
であり、他者を虐殺被害にまで陥れつつ、自らの生の虚栄を貪るような、
単なる生存欲の発露を逸脱した放辟邪侈の実現をこそのみ、認めないだけだ。
あまりにも程度が低すぎて、最低最悪の犯罪主義とすら未だ十分な区別が付けられずにいて、
そのせいでミッション系の大学が「論語」を典拠にした「上智大学」なんて大学名を名乗ってたりもするが、
欲すれども貪りはしない節度をわきまえた世俗志向と、欲する以上は必ずといっていいほど貪ろうとする
善悪みそくその犯罪主義込みな世俗志向との間には、相反性をも伴う断絶を来たした、厳然たる相違がある。
「君子は〜欲すれども貪らず」
「君子は人として生きる上での最低限の欲求ぐらいは持つが、それ以上の過大な貪欲は捨てる」
(権力道徳聖書——通称史書五経——論語・堯曰第二十・四より)
であり、他者を虐殺被害にまで陥れつつ、自らの生の虚栄を貪るような、
単なる生存欲の発露を逸脱した放辟邪侈の実現をこそのみ、認めないだけだ。
あまりにも程度が低すぎて、最低最悪の犯罪主義とすら未だ十分な区別が付けられずにいて、
そのせいでミッション系の大学が「論語」を典拠にした「上智大学」なんて大学名を名乗ってたりもするが、
欲すれども貪りはしない節度をわきまえた世俗志向と、欲する以上は必ずといっていいほど貪ろうとする
善悪みそくその犯罪主義込みな世俗志向との間には、相反性をも伴う断絶を来たした、厳然たる相違がある。
だいたい善悪自体が産まれた瞬間に判別できるわけじゃない
善悪は
人間の文明文化や生活に沿うことが営みの都合に善く 生活に沿わないことを悪いと経験から学ぶ後天的概念だ
だから互いに表裏的というか相対的な概念であり
ヒトの許容量によって認識はばらつきがある
そこに絶対性などはない
善悪は経験から学ぶ後天的概念という事実が、そのまま人間の獣性を証明しているんだ
精神性を重視するというのも道徳心も理性も後付けの社会性に対応する知恵に等しい
道徳者はちょっとだけ賢いというだけのこと
人間の本性を覆す道徳も思い付かない 他人任せのような理性に期待する メルヘンチックな愚か者
なまじ賢いだけに理想ばかり追い求め現実がみえない
精神性は現実の欲求を満たせば付いてくる これが現代の知恵 道徳になる
理想に期待するのではなく必然的にそれを達成しようという現実に沿った導きが必要なのだ
日銀から金を盗んでバラまけ
偽造してもいいぞ
平和になるなら少しぐらいの犯罪に目を向けるな
むしろ道徳者こそ時代の犠牲者となり、ねずみ小僧を演じるべきだ
善悪は
人間の文明文化や生活に沿うことが営みの都合に善く 生活に沿わないことを悪いと経験から学ぶ後天的概念だ
だから互いに表裏的というか相対的な概念であり
ヒトの許容量によって認識はばらつきがある
そこに絶対性などはない
善悪は経験から学ぶ後天的概念という事実が、そのまま人間の獣性を証明しているんだ
精神性を重視するというのも道徳心も理性も後付けの社会性に対応する知恵に等しい
道徳者はちょっとだけ賢いというだけのこと
人間の本性を覆す道徳も思い付かない 他人任せのような理性に期待する メルヘンチックな愚か者
なまじ賢いだけに理想ばかり追い求め現実がみえない
精神性は現実の欲求を満たせば付いてくる これが現代の知恵 道徳になる
理想に期待するのではなく必然的にそれを達成しようという現実に沿った導きが必要なのだ
日銀から金を盗んでバラまけ
偽造してもいいぞ
平和になるなら少しぐらいの犯罪に目を向けるな
むしろ道徳者こそ時代の犠牲者となり、ねずみ小僧を演じるべきだ
「1+1=5だ」と始めから決め付けてかかってくる相手に、1+1=2を大前提とした
シラフ文化の豊潤な体系構築の価値を知らせようってほうが、無理なものだよね。
だから1+1=2であることを堅持することに終始する、道徳学止まりの論及しか行っていない。
そうすることが最高に楽しい自分自身の姿を見せつけることで、
罪悪の辛苦に喘いでいる賤人としての惨めさを味わわせるまでしか。
この傾向は、まあ今後2、30年程度は変わるまい。たとえ今すぐに降伏宣言が発令されたとて。
シラフ文化の豊潤な体系構築の価値を知らせようってほうが、無理なものだよね。
だから1+1=2であることを堅持することに終始する、道徳学止まりの論及しか行っていない。
そうすることが最高に楽しい自分自身の姿を見せつけることで、
罪悪の辛苦に喘いでいる賤人としての惨めさを味わわせるまでしか。
この傾向は、まあ今後2、30年程度は変わるまい。たとえ今すぐに降伏宣言が発令されたとて。
ちゃんと犯罪聖書中で、自分たちが反社会勢力であることも豪語してるんだな。
やっぱり旧約冒頭の「創世記」からして、本当は「損世記」だったわけだ。
そりゃあ、世の中の多数派からの支持も得られなくて当然の話。
天下万民を安らかならしめる仁政の実現に協力することだって、当然できない。
「昔、周公大公、周室に股肱として、成王を夾輔せり。
成王之れを勞いて、之れに盟いを賜いて曰く、世世子孫、相害するこ無かれと」
「昔、魯の周公と斉の太公望とが、周王室の股肱耳目となって、成王を補佐しました。
成王はこれをねぎらって盟書を賜りました。そこにはこう書かれていました。
『世世代代の子子孫孫に至るまで、互いに害しあうことがないように』と」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十六年より)
やっぱり旧約冒頭の「創世記」からして、本当は「損世記」だったわけだ。
そりゃあ、世の中の多数派からの支持も得られなくて当然の話。
天下万民を安らかならしめる仁政の実現に協力することだって、当然できない。
「昔、周公大公、周室に股肱として、成王を夾輔せり。
成王之れを勞いて、之れに盟いを賜いて曰く、世世子孫、相害するこ無かれと」
「昔、魯の周公と斉の太公望とが、周王室の股肱耳目となって、成王を補佐しました。
成王はこれをねぎらって盟書を賜りました。そこにはこう書かれていました。
『世世代代の子子孫孫に至るまで、互いに害しあうことがないように』と」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十六年より)
世の中の多数派だから2000以上の言語に翻訳されて3000億冊以上が出版されてるのとちがうのか?
なんだそれ
次に書きたいことの煽りなのか?
少なくとも互いに理想を掲げているだけで、目くそ鼻くそを笑うというレベルじゃないか?
なんだそれ
次に書きたいことの煽りなのか?
少なくとも互いに理想を掲げているだけで、目くそ鼻くそを笑うというレベルじゃないか?
獣性を現代道徳という言い方も誤りだった
右の頬を打たれたら左の頬を出す 貧困層なら逃げ場がなければ、そういった無抵抗による抵抗しかできない
一般層なら袖の下 賄賂を渡して見逃してもらう
それらは方法的な差でしかない
一方
そういった欲求を満たしたい衝動のほうは
富裕層なら賄賂や袖の下と同じ手法で欲求を満たそうとする
貧困層なら強奪 せいぜい恵んでもらうといったところ
これも方向性は同じもので、真実は階層によって善悪は覆されてしまうということ
それは物事は必然的である 理想や奇蹟などないということを示している
まあ
実際、道徳心や理性は大切だろう
だが人間の本性を無視して理想に期待する そういう方法的失策が偉人数多の過ち 知恵のなさだっだのだ
右の頬を打たれたら左の頬を出す 貧困層なら逃げ場がなければ、そういった無抵抗による抵抗しかできない
一般層なら袖の下 賄賂を渡して見逃してもらう
それらは方法的な差でしかない
一方
そういった欲求を満たしたい衝動のほうは
富裕層なら賄賂や袖の下と同じ手法で欲求を満たそうとする
貧困層なら強奪 せいぜい恵んでもらうといったところ
これも方向性は同じもので、真実は階層によって善悪は覆されてしまうということ
それは物事は必然的である 理想や奇蹟などないということを示している
まあ
実際、道徳心や理性は大切だろう
だが人間の本性を無視して理想に期待する そういう方法的失策が偉人数多の過ち 知恵のなさだっだのだ
>>384
「3000億」というのは、全文を印刷した「聖書」という本の
発行部数ではなく、ほんの一部分の句だけでも引用されたことのある回数。
四書五経は犯罪聖書と違って、一冊の本として捉えられることは少ないが、
「論語」が「宇宙第一の書」として広く人口に膾炙しているのはもちろんのこと、
「書経」や「詩経」や「易経」などの文言が元号などとして数多く引用されており、
「昭和」や「平成」などの「書経」から引用された言葉が日本の新聞や雑誌などにも
ほぼ必ず日時表記などで引用されているため、その引用回数もン兆回を下らない。
「そんなのは発行部数じゃない」というのも確かだが、犯罪聖書の「3000億」という
数も発行部数ではなく引用回数だから。引用回数でも四書五経は犯罪聖書を桁外れに上回る。
まさにこれも、万人に広く文言の高邁さを触れ回るに値する上での、格の違いだといえる。
「不正な富で友達を作る23年」なんて、絶対に使えないからな。
>>385
うん、まったく本物の道徳や理性について語っているわけじゃない。
人間の本性にも根ざすことで、善因楽果悪因苦果の罪福にすら完全に一致するために、
その道徳に適うことが、すなわち人としての最大級の安楽をも呼び込み、その道徳に
反する犯罪を行うことが、すなわち人としての最大級の辛苦をも呼び込むことに直結する、
「性即理」というほどもの自明な完全性に即した道徳や理性といったものが実在する。
しかしそれは、儒学や朱子学、唯識思想やウパニシャッド哲学などが掲示する本物の道徳や
理性に限っての話であり、プラトンだのアリストテレスだのカントだのヘーゲルだのが
適当に概念をこねくり回して捏造しただけの道徳や理性とは全く異なるものだ。
未だかつて、西洋精神に根ざしての権力犯罪主義を進行させてきた連中が、本物の理性や
道徳を把握したことすらないのはもちろんのこと、その存在性を察知したことすら未だない。
明治以降には儒学も仏教も捨て去って、洋学教育に染まりきってしまった近現代の日本人も、
本物の道徳や理性を把握や察知できていることは極めてまれであり、近ごろ能弁豊かな
Jpfnq/KdHも、本物の道徳や理性の実在性を未だ察知すらできていない部類の人間に入る。
「3000億」というのは、全文を印刷した「聖書」という本の
発行部数ではなく、ほんの一部分の句だけでも引用されたことのある回数。
四書五経は犯罪聖書と違って、一冊の本として捉えられることは少ないが、
「論語」が「宇宙第一の書」として広く人口に膾炙しているのはもちろんのこと、
「書経」や「詩経」や「易経」などの文言が元号などとして数多く引用されており、
「昭和」や「平成」などの「書経」から引用された言葉が日本の新聞や雑誌などにも
ほぼ必ず日時表記などで引用されているため、その引用回数もン兆回を下らない。
「そんなのは発行部数じゃない」というのも確かだが、犯罪聖書の「3000億」という
数も発行部数ではなく引用回数だから。引用回数でも四書五経は犯罪聖書を桁外れに上回る。
まさにこれも、万人に広く文言の高邁さを触れ回るに値する上での、格の違いだといえる。
「不正な富で友達を作る23年」なんて、絶対に使えないからな。
>>385
うん、まったく本物の道徳や理性について語っているわけじゃない。
人間の本性にも根ざすことで、善因楽果悪因苦果の罪福にすら完全に一致するために、
その道徳に適うことが、すなわち人としての最大級の安楽をも呼び込み、その道徳に
反する犯罪を行うことが、すなわち人としての最大級の辛苦をも呼び込むことに直結する、
「性即理」というほどもの自明な完全性に即した道徳や理性といったものが実在する。
しかしそれは、儒学や朱子学、唯識思想やウパニシャッド哲学などが掲示する本物の道徳や
理性に限っての話であり、プラトンだのアリストテレスだのカントだのヘーゲルだのが
適当に概念をこねくり回して捏造しただけの道徳や理性とは全く異なるものだ。
未だかつて、西洋精神に根ざしての権力犯罪主義を進行させてきた連中が、本物の理性や
道徳を把握したことすらないのはもちろんのこと、その存在性を察知したことすら未だない。
明治以降には儒学も仏教も捨て去って、洋学教育に染まりきってしまった近現代の日本人も、
本物の道徳や理性を把握や察知できていることは極めてまれであり、近ごろ能弁豊かな
Jpfnq/KdHも、本物の道徳や理性の実在性を未だ察知すらできていない部類の人間に入る。
残念ながらそうではない、としか言えない。
こちらは、理性も獣性もどちらも、察知して把握して理解して味わっているが、
そちらは、理性を、察知したことも把握したことも理解したことも味わったこともない。
経験を尽くせているのはこちら。尽くせていないのがそちら。
食わず嫌いに幾千万遍の説明を重ねたところで、実際に味わわないことには分かるまい。
こちらは、理性も獣性もどちらも、察知して把握して理解して味わっているが、
そちらは、理性を、察知したことも把握したことも理解したことも味わったこともない。
経験を尽くせているのはこちら。尽くせていないのがそちら。
食わず嫌いに幾千万遍の説明を重ねたところで、実際に味わわないことには分かるまい。
ボクは、理性も道徳も知恵だということから本質を理解しているのは明らかだ
何度も言っただろう?
それは社会性 人間関係に対応するための一手だと
たとえそれが、まるで絶対に当たる宝くじのようなものだったとして
運営する人間や売る人間など様々な人間関係が社会を営んでいるのだ
人間がいるから 人間関係への対応術
そういった後付けである知恵 道徳 理性は、人間の本質や本性を発揮するのを防ぐというカタチで機能するのだ
創始者は、もしかすると人間の本質や本性を理解していたかもしれないが、アナタはそれを読み取れなかったのだよ
何度も言っただろう?
それは社会性 人間関係に対応するための一手だと
たとえそれが、まるで絶対に当たる宝くじのようなものだったとして
運営する人間や売る人間など様々な人間関係が社会を営んでいるのだ
人間がいるから 人間関係への対応術
そういった後付けである知恵 道徳 理性は、人間の本質や本性を発揮するのを防ぐというカタチで機能するのだ
創始者は、もしかすると人間の本質や本性を理解していたかもしれないが、アナタはそれを読み取れなかったのだよ
知恵こそは理性や道徳だなんて、とんでもない。
知識にだって誤謬もあれば、不正な富で友達を作るための悪知恵だってある。
総体的には、知識とは善悪みそくそなものであり、知識自体を勧善懲悪のふるいにかけた上で
仁義や礼儀によって統制していって初めて、本物の道徳や理性にもたどり着く。
だから儒家の五常では「仁義礼智信」という序列で、智を仁義や礼儀の下に置き、
「信仰は愛、愛は信仰」だなんてトートロジーに陥る信も最低位に置く。
知識や信仰ばかりに終始する、ものの考え方からして、極めてのっぺりとした一面的な
ものに過ぎず、単なる知識で割り切ることもできず、一概な狂信で逃げ切ることもできない、
諸法実相の実情ってもんが、ちゃんとあるもんだ。未熟なお子ちゃまにはまだ分かるまいが。
「凡そ五刑の聽を聴くには、必ず父子の親に原き、君臣の義を立て、以て之れを權り、
意いて輕重の序を論じ、慎みて淺深の量を測り、以之れを別ち、其の聰明を悉くし、其の忠愛を致して、以て之れを盡くす」
「五刑(いれずみ、はなそぎ、あしきり、去勢、死刑の五つ)を科すような重罪を裁く上では、
必ず父子の親に基づき、君臣の義を立てて、その罪状を量る。その上で罪の軽重の序列を論じ、
慎んでその深浅の度量を測り、それぞれの刑に罪人を割り当て、聡明さを尽くし、忠愛の至りでいて、これらの業務を尽くす。
(カルト信者の『信愛』にも近似する『忠愛』も致すわけだが、刑を科す側はただそれだけでは済まない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
知識にだって誤謬もあれば、不正な富で友達を作るための悪知恵だってある。
総体的には、知識とは善悪みそくそなものであり、知識自体を勧善懲悪のふるいにかけた上で
仁義や礼儀によって統制していって初めて、本物の道徳や理性にもたどり着く。
だから儒家の五常では「仁義礼智信」という序列で、智を仁義や礼儀の下に置き、
「信仰は愛、愛は信仰」だなんてトートロジーに陥る信も最低位に置く。
知識や信仰ばかりに終始する、ものの考え方からして、極めてのっぺりとした一面的な
ものに過ぎず、単なる知識で割り切ることもできず、一概な狂信で逃げ切ることもできない、
諸法実相の実情ってもんが、ちゃんとあるもんだ。未熟なお子ちゃまにはまだ分かるまいが。
「凡そ五刑の聽を聴くには、必ず父子の親に原き、君臣の義を立て、以て之れを權り、
意いて輕重の序を論じ、慎みて淺深の量を測り、以之れを別ち、其の聰明を悉くし、其の忠愛を致して、以て之れを盡くす」
「五刑(いれずみ、はなそぎ、あしきり、去勢、死刑の五つ)を科すような重罪を裁く上では、
必ず父子の親に基づき、君臣の義を立てて、その罪状を量る。その上で罪の軽重の序列を論じ、
慎んでその深浅の度量を測り、それぞれの刑に罪人を割り当て、聡明さを尽くし、忠愛の至りでいて、これらの業務を尽くす。
(カルト信者の『信愛』にも近似する『忠愛』も致すわけだが、刑を科す側はただそれだけでは済まない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
それは道徳を発揮するための手段 方法的解釈に過ぎないでしょう
社会がある 人間関係があるから必要とされる後天的に編み出された知恵に等しいんだよ 分類としてはね
考えることができる人間が居なければ成立しない平和への方法論の一説に過ぎない 道徳は
人間関係がある
それへの対処術に過ぎないの
言語教育されて、学問や教養をある程度理解した人間にしか通用しない
限定的な方法論なんだよ
つまり人間関係だ
教育されてない人間には通用しない
社会があることを前提にして考えているから、本性なんて考えに及ばないだけだ
社会がある 人間関係があるから必要とされる後天的に編み出された知恵に等しいんだよ 分類としてはね
考えることができる人間が居なければ成立しない平和への方法論の一説に過ぎない 道徳は
人間関係がある
それへの対処術に過ぎないの
言語教育されて、学問や教養をある程度理解した人間にしか通用しない
限定的な方法論なんだよ
つまり人間関係だ
教育されてない人間には通用しない
社会があることを前提にして考えているから、本性なんて考えに及ばないだけだ
カテゴリーわけが「知者か無知」かの両極端ばかりに止まっていて、それ以上に進むことがない。
無知でも賢者であるものは賢者だし、知者でも悪人であるものは悪人。
不正な富で友達を作る知識にかけては豊富であっても、道義に基づかなければ富を得ない
心構えにかけては脆弱な人間などは、知者であるにも関わらず悪人となり、なまじ不当利得の
具体的な得方などを知っているぶんだけ、全くの無知よりもさらに有害無益な存在となる。
上記の事例を参考にするなら、「不正な富で友達を作る」という知識はあっても、
そのような知識は絶対に実用しないという心構えがあって、実際に実用せず、かえって
不当利得を得る詐欺師どもを捕縛して懲罰する材料にすら転用できるようになれた場合に限って、
初めて「不正な富で友達を作る」という知識までもが善用されることになるのであり、
そこまでのことは、ただ「不正な富で友達を作る」という知識を得ただけでは、到底実現し得ない。
「富貴は道義に基づかなければ得ない」という知識もまた別に得て、不正な富で友達を作る
知識などよりも、道義に基づかない限りは富貴を得ない心構えのほうが重要であることを十分に
わきまえなければ、「不正な富で友達を作る」という知識が善用されることなど、絶対にない。
知識それ自体は、善用も悪用も可能な諸刃の剣であり、もしも悪用一辺倒に偏ってしまったりしたなら、
それこそ何も知らない人間以上にも有害無益で劣悪な非道徳者=犯罪者となることが必定。
知識を悪用せずに善用するという、知識全般の制御方法にかけて手堅い人間であることでのみ、
何も知らない人間以上にも有益無害で優良な非犯罪者=道徳者となることができるのだ。
無知でも賢者であるものは賢者だし、知者でも悪人であるものは悪人。
不正な富で友達を作る知識にかけては豊富であっても、道義に基づかなければ富を得ない
心構えにかけては脆弱な人間などは、知者であるにも関わらず悪人となり、なまじ不当利得の
具体的な得方などを知っているぶんだけ、全くの無知よりもさらに有害無益な存在となる。
上記の事例を参考にするなら、「不正な富で友達を作る」という知識はあっても、
そのような知識は絶対に実用しないという心構えがあって、実際に実用せず、かえって
不当利得を得る詐欺師どもを捕縛して懲罰する材料にすら転用できるようになれた場合に限って、
初めて「不正な富で友達を作る」という知識までもが善用されることになるのであり、
そこまでのことは、ただ「不正な富で友達を作る」という知識を得ただけでは、到底実現し得ない。
「富貴は道義に基づかなければ得ない」という知識もまた別に得て、不正な富で友達を作る
知識などよりも、道義に基づかない限りは富貴を得ない心構えのほうが重要であることを十分に
わきまえなければ、「不正な富で友達を作る」という知識が善用されることなど、絶対にない。
知識それ自体は、善用も悪用も可能な諸刃の剣であり、もしも悪用一辺倒に偏ってしまったりしたなら、
それこそ何も知らない人間以上にも有害無益で劣悪な非道徳者=犯罪者となることが必定。
知識を悪用せずに善用するという、知識全般の制御方法にかけて手堅い人間であることでのみ、
何も知らない人間以上にも有益無害で優良な非犯罪者=道徳者となることができるのだ。
知識を悪用と言うが、それが生きることそのものなのだ
道徳者が養ってくれる期待などないし、生活の糧を得るためなら何でもする
窃盗や売春などは犯罪とか言われているが、実際には生存戦略に過ぎないだろう
道徳で生きるのが物事は相互作用するために正解だとかは理想だが、現代社会はすでに生活自体が犯罪的なものだ
物事は必然的だ
貧しかろうが盗ってでも殺してでも生きる
それが生命の本質だ
また、権力者がさらなる支配欲を抱くことも必然だ
人間一人ひとりの言動が作用して世情はつくられる
理想など掲げて立ち止まっている道徳者に何ができるんだ?
欲望と道徳が並んで売られたら道徳は売れ残る
というか売れない
魅力がないからだ
無料で配っても受け取ってもらえない
邪魔にしかならないから
必然である現在に異を唱えても何も変化はしない
結果的な善で妥協できない 苦難も見えていないフリをしてきた
それが道徳者の歴史だ
犯罪であっても革命を遂げた結果的な善でいいのだ
自分のためではない崇高な目的意識が罪を贖うだろう
道徳者が養ってくれる期待などないし、生活の糧を得るためなら何でもする
窃盗や売春などは犯罪とか言われているが、実際には生存戦略に過ぎないだろう
道徳で生きるのが物事は相互作用するために正解だとかは理想だが、現代社会はすでに生活自体が犯罪的なものだ
物事は必然的だ
貧しかろうが盗ってでも殺してでも生きる
それが生命の本質だ
また、権力者がさらなる支配欲を抱くことも必然だ
人間一人ひとりの言動が作用して世情はつくられる
理想など掲げて立ち止まっている道徳者に何ができるんだ?
欲望と道徳が並んで売られたら道徳は売れ残る
というか売れない
魅力がないからだ
無料で配っても受け取ってもらえない
邪魔にしかならないから
必然である現在に異を唱えても何も変化はしない
結果的な善で妥協できない 苦難も見えていないフリをしてきた
それが道徳者の歴史だ
犯罪であっても革命を遂げた結果的な善でいいのだ
自分のためではない崇高な目的意識が罪を贖うだろう
知識 知能 知恵 そんなものは個性に過ぎないんだよ
道徳や理性も発想が社会性に対処する目的なのだから個性に等しいってものだ
そんなていどの個性差は決定的な個人差にはならないぞ 格 尽 自惚れるな
道徳や理性も発想が社会性に対処する目的なのだから個性に等しいってものだ
そんなていどの個性差は決定的な個人差にはならないぞ 格 尽 自惚れるな
私の趣味は道徳ですって言ってるだけだろ
他者を害して自分が栄える犯罪的知識が、一応は生存目的で存在するのと同じように、
万人を利して我が利ともする道徳的知識もまた、人が生きることを目的として存在する。
しかも、世を破滅に陥れて結局は己れの破滅をも導く犯罪的知識とは違って、
道徳的知識は誰しもの利益を守ることによって、結局は犯罪的知識以上もの
普遍的な繁栄を、自らを含む誰しもにもたらす。
万人を害して我をも害する犯罪的知識が、むしろ何も知らないでいるほうがマシなぐらいに劣悪なものであるのに対し、
万人を利して我が利ともする道徳的知識は、何も知らないでいる以上にも有益無害であるほどにも優良なものですらある。
犯罪的知識<全くの無知<道徳的知識
ですらあり、この優劣は確実に人類社会や自分自身の栄枯盛衰の如何にも直結している。
信じるまいが支持するまいが、ただ事実であるというだけの事実だ。
犯罪的知識を排して道徳的知識のみを賞揚すれば、無知無学以上もの人間や社会にすらなることができる。
それなのに「知識すなわち犯罪的知識」などというほどにも蒙昧な迷妄の内側に閉じこもって出てこない。
だったらもう、その狭隘な見識だけでなく、自分自身の全身から、閉鎖病棟にでも閉じこもらせておくべきだな。
万人を利して我が利ともする道徳的知識もまた、人が生きることを目的として存在する。
しかも、世を破滅に陥れて結局は己れの破滅をも導く犯罪的知識とは違って、
道徳的知識は誰しもの利益を守ることによって、結局は犯罪的知識以上もの
普遍的な繁栄を、自らを含む誰しもにもたらす。
万人を害して我をも害する犯罪的知識が、むしろ何も知らないでいるほうがマシなぐらいに劣悪なものであるのに対し、
万人を利して我が利ともする道徳的知識は、何も知らないでいる以上にも有益無害であるほどにも優良なものですらある。
犯罪的知識<全くの無知<道徳的知識
ですらあり、この優劣は確実に人類社会や自分自身の栄枯盛衰の如何にも直結している。
信じるまいが支持するまいが、ただ事実であるというだけの事実だ。
犯罪的知識を排して道徳的知識のみを賞揚すれば、無知無学以上もの人間や社会にすらなることができる。
それなのに「知識すなわち犯罪的知識」などというほどにも蒙昧な迷妄の内側に閉じこもって出てこない。
だったらもう、その狭隘な見識だけでなく、自分自身の全身から、閉鎖病棟にでも閉じこもらせておくべきだな。
諦めずにってのは守ってるようだけど、己が無能なのだと律する度量はないのね
無能の、何が悪いよ?
犯罪行為にかけてばかり有能であるために、世の中に破滅級の害悪を加えている連中などよりも、
何の能もないような凡人であるほうが、遥かにマシであるに決まってるじゃないか。
実践的な道徳行為にかけて有能であるのならなおのことよいが、
別にいかなる行為にかけても無能であるだけの凡人だって、
犯罪行為や権力犯罪行為にかけて有能である賤人などよりも、
有害無益でない無害無益であるぶん、限りなくマシであるに決まってるじゃないか。
それだけでも、十分じゃないか。
重権力犯罪下の総員テロリスト化社会において、
紛れもなく「天下に雄」たる存在である根拠として、十分過ぎるにも程がある。
犯罪行為にかけてばかり有能であるために、世の中に破滅級の害悪を加えている連中などよりも、
何の能もないような凡人であるほうが、遥かにマシであるに決まってるじゃないか。
実践的な道徳行為にかけて有能であるのならなおのことよいが、
別にいかなる行為にかけても無能であるだけの凡人だって、
犯罪行為や権力犯罪行為にかけて有能である賤人などよりも、
有害無益でない無害無益であるぶん、限りなくマシであるに決まってるじゃないか。
それだけでも、十分じゃないか。
重権力犯罪下の総員テロリスト化社会において、
紛れもなく「天下に雄」たる存在である根拠として、十分過ぎるにも程がある。
道徳者の問題点は、そんな理想では現代生活はできないということだよ
独り者ならいざ知らず、妻帯者なら家族の糧も社会の中で得なくてはならない
その社会性に道徳などで向かっても太刀打ちできない
権力者などや富裕層の構築した社会性だから、権力者や富裕層に楯突けば糧を失う
一方
権力者や富裕層は、元々困ってもいないのに自らを狭める道徳など持つ必要性がない
これは必然なのだ
道徳者の歴史も妥協を余儀なくされるか、孤高のたわけ者としてしか存在していない
せいぜい権力を確固たるものにするための悪徳者の論理的根拠に成り下がるくらいか
悪法の味方として 小判鮫のように生き残るくらいしかできない
そんなヤツらが道徳を機能できる道理がない
まあ、中には厳しい社会で変化を恐れてマヌケな信念を貫く 貫き続けた無能な道徳者も居るだろうが
ボクは道徳者に結果的な善を勧めたが
これでは結果的な無能だな
たしかに悪ではないよ
しかし結果的には賢くもないし その頑なさはバカ徳に執着する 浅ましいケダモノのようだぞ
独り者ならいざ知らず、妻帯者なら家族の糧も社会の中で得なくてはならない
その社会性に道徳などで向かっても太刀打ちできない
権力者などや富裕層の構築した社会性だから、権力者や富裕層に楯突けば糧を失う
一方
権力者や富裕層は、元々困ってもいないのに自らを狭める道徳など持つ必要性がない
これは必然なのだ
道徳者の歴史も妥協を余儀なくされるか、孤高のたわけ者としてしか存在していない
せいぜい権力を確固たるものにするための悪徳者の論理的根拠に成り下がるくらいか
悪法の味方として 小判鮫のように生き残るくらいしかできない
そんなヤツらが道徳を機能できる道理がない
まあ、中には厳しい社会で変化を恐れてマヌケな信念を貫く 貫き続けた無能な道徳者も居るだろうが
ボクは道徳者に結果的な善を勧めたが
これでは結果的な無能だな
たしかに悪ではないよ
しかし結果的には賢くもないし その頑なさはバカ徳に執着する 浅ましいケダモノのようだぞ
本物の道徳や道徳者の実在を、未だ察知もしてないうちから、俺への反論を試みるんじゃねえよ。
別に、俺はおまえが言っている「道徳」だの「道徳者」だのを擁護しているわけでもないからな。
誰しもがただただ生存や家族ぐるみの生活を欲するあまり、自分たち以上もの人数の人間を
破滅や犠牲に追いやるのなら、そもそもそんな社会不適合者たちが生存欲や人並みの生活
すらをも欲するところからして間違っている。そんな連中全員が檻の中や閉鎖病棟の中に入るか、
最低でも後見人が付けられての、全ての行為能力が管理下におかれた被後見人になるべきだ。
それでこそ、より多くの人間が生存し、家族も十分に養いつつの生活すらをも実現できる。
他者に致命的な危害を加えつつの生存や家庭生活を試みて、実際に達成までしてしまうような人種が
ありのままに「社会のガン細胞」であり、そんな連中の自由な社会介入を微塵も許してはならない。
そこから初めて、権力道徳の実現も適うのであり、他者に危害を加えてでも自分が活きようとするような
重度精神障害者への適切な処分も行われないうちから、権力道徳を実現していこうだなんて考えるほうが
全くの絵空事であり、俺はそんなことはちっとも期待していない。そんなものを期待しているなどと
思い込んでるのも、そちらの全くの勘違いであり、何かにかけて俺と話す上での準備が整っていない。
別に、俺はおまえが言っている「道徳」だの「道徳者」だのを擁護しているわけでもないからな。
誰しもがただただ生存や家族ぐるみの生活を欲するあまり、自分たち以上もの人数の人間を
破滅や犠牲に追いやるのなら、そもそもそんな社会不適合者たちが生存欲や人並みの生活
すらをも欲するところからして間違っている。そんな連中全員が檻の中や閉鎖病棟の中に入るか、
最低でも後見人が付けられての、全ての行為能力が管理下におかれた被後見人になるべきだ。
それでこそ、より多くの人間が生存し、家族も十分に養いつつの生活すらをも実現できる。
他者に致命的な危害を加えつつの生存や家庭生活を試みて、実際に達成までしてしまうような人種が
ありのままに「社会のガン細胞」であり、そんな連中の自由な社会介入を微塵も許してはならない。
そこから初めて、権力道徳の実現も適うのであり、他者に危害を加えてでも自分が活きようとするような
重度精神障害者への適切な処分も行われないうちから、権力道徳を実現していこうだなんて考えるほうが
全くの絵空事であり、俺はそんなことはちっとも期待していない。そんなものを期待しているなどと
思い込んでるのも、そちらの全くの勘違いであり、何かにかけて俺と話す上での準備が整っていない。
ちがうね
大切なのは方法であり
方法も確立しているにもかかわらず何も成せない事実
時も人間もどんどん孔子の時代を追いやって内容的に書きかえられていくのに、方法は未だに同じく壁に向かってお経を唱えるが如く理想しか発しない
方法が間違ってるんだよ
大切なのは方法であり
方法も確立しているにもかかわらず何も成せない事実
時も人間もどんどん孔子の時代を追いやって内容的に書きかえられていくのに、方法は未だに同じく壁に向かってお経を唱えるが如く理想しか発しない
方法が間違ってるんだよ
何も成し遂げられていないどころか、最大級の成果を挙げてすらいる。
道理をわきまえた上で果敢に振る舞おうとする人々のうちでは、
現人類社会において最大級の成果を挙げているとすらいえる。
それほどにも、道理をわきまえつつ果敢に振る舞える「大勇」の持ち主が、
今の世の中にまったく欠乏しているというだけのことでもあるが。
「果敢にして窒がれる者を悪む」
「甚大な結果を出そうとして、勇敢に事に臨もうとはするものの、
そもそも道理すらわきまえられていないものを君子は憎む」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・二四より)
道理をわきまえた上で果敢に振る舞おうとする人々のうちでは、
現人類社会において最大級の成果を挙げているとすらいえる。
それほどにも、道理をわきまえつつ果敢に振る舞える「大勇」の持ち主が、
今の世の中にまったく欠乏しているというだけのことでもあるが。
「果敢にして窒がれる者を悪む」
「甚大な結果を出そうとして、勇敢に事に臨もうとはするものの、
そもそも道理すらわきまえられていないものを君子は憎む」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・二四より)
欠乏じゃなく存在しない
それは前に書いたように社会生活に反していて糧にならないからだ
即成果がなければ実用的ではないと判断される
それも必然
頭の中では完成したつもりでも、それは他人が思い通りに動くハズがないという現実を無視してきたからだ
後から結果はジワジワとやってくる
そんな詐欺みたいな主張を信じる道理はない
時間的な損は経済的な損に直結するんだ
そういった早い展開で成し得ることが生活なのだ
のんびり待つ人間はおいてけぼりになる
ジワジワやってくるのは後悔だけになる
産業革命を知らない孔子がスピードを意識してないのは仕方ない
即効力がないことをいくら考えても過ぎ去ったことに言い訳をしているようなものだ
それは前に書いたように社会生活に反していて糧にならないからだ
即成果がなければ実用的ではないと判断される
それも必然
頭の中では完成したつもりでも、それは他人が思い通りに動くハズがないという現実を無視してきたからだ
後から結果はジワジワとやってくる
そんな詐欺みたいな主張を信じる道理はない
時間的な損は経済的な損に直結するんだ
そういった早い展開で成し得ることが生活なのだ
のんびり待つ人間はおいてけぼりになる
ジワジワやってくるのは後悔だけになる
産業革命を知らない孔子がスピードを意識してないのは仕方ない
即効力がないことをいくら考えても過ぎ去ったことに言い訳をしているようなものだ
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仁強なる壮士がこの世に存在しようがするまいが、
おまえらが他者に危害を加えることで自分たち自身の栄華を誇る、
社会の少数派のガン細胞格であることにも変わりはない。
そんな連中にとって得になるようなことほど、世の中にとって損になることは他にないのであり、
そもそもそんな連中が軒並みこの世から廃絶されて、後の世にもガンが再発することのないような
予防措置に努めるように画策していくのが、真に世のため人のためになるものの考え方ってものだ。
俺が要求しようがするまいが、世の中にとって有害無益なガン細胞格であるおまえらが
自分たちのみを増長させるペースを貫いて、世の中を破滅へと導き続けたなら、
もう数十年と世の中のほうがもたないから、イヤでもおまえら自身が自決するしかない。
そうでもなければ、おまえらごと世の中全体が滅亡するしかないのだから。
俺もまた、今がそういう時宜だから、都合よくその時宜に乗っかっているだけだ。
「五月斯螽股を動かし、六月莎鶏羽を振るう。七月野に在り、八月宇に在り、九月戸に在り。
十月蟋蟀、我が牀下に入る。穹窒して鼠を熏べ、向を塞ぎ戸を墐る」
「五月にはイナゴが股を動かして鳴き出し、六月にはクツワムシが羽を振って鳴き始める。
小虫たちが七月には野にあり、八月には家の軒下に近寄り、九月には戸口の前にやってくる。
外も寒気がさし始めた十月には、小虫たちはついには床の中にまで入ってこようとする。
そこで部屋のありとあらゆる穴を塞いで燻すことで元からいる鼠などを追い出し、
窓も塞いで戸口の隙間も塗り固めて、小虫たちが入ってこないようにする。
(キリストとは、大量発生したイナゴかクツワムシのようなものか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・豳風・七月より)
おまえらが他者に危害を加えることで自分たち自身の栄華を誇る、
社会の少数派のガン細胞格であることにも変わりはない。
そんな連中にとって得になるようなことほど、世の中にとって損になることは他にないのであり、
そもそもそんな連中が軒並みこの世から廃絶されて、後の世にもガンが再発することのないような
予防措置に努めるように画策していくのが、真に世のため人のためになるものの考え方ってものだ。
俺が要求しようがするまいが、世の中にとって有害無益なガン細胞格であるおまえらが
自分たちのみを増長させるペースを貫いて、世の中を破滅へと導き続けたなら、
もう数十年と世の中のほうがもたないから、イヤでもおまえら自身が自決するしかない。
そうでもなければ、おまえらごと世の中全体が滅亡するしかないのだから。
俺もまた、今がそういう時宜だから、都合よくその時宜に乗っかっているだけだ。
「五月斯螽股を動かし、六月莎鶏羽を振るう。七月野に在り、八月宇に在り、九月戸に在り。
十月蟋蟀、我が牀下に入る。穹窒して鼠を熏べ、向を塞ぎ戸を墐る」
「五月にはイナゴが股を動かして鳴き出し、六月にはクツワムシが羽を振って鳴き始める。
小虫たちが七月には野にあり、八月には家の軒下に近寄り、九月には戸口の前にやってくる。
外も寒気がさし始めた十月には、小虫たちはついには床の中にまで入ってこようとする。
そこで部屋のありとあらゆる穴を塞いで燻すことで元からいる鼠などを追い出し、
窓も塞いで戸口の隙間も塗り固めて、小虫たちが入ってこないようにする。
(キリストとは、大量発生したイナゴかクツワムシのようなものか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・豳風・七月より)
アナタの道徳心なんて実は郷土愛ていどのものなんじゃないのか?
愛国心を持つヤカラと同じく
自身に近しい土地柄や人物情景だけしか知らないのに、世の中を憂いでいる気になっただけじゃないのか?
同じく孔子のことも深く知る前に信じてしまって、周囲がみえなくなってしまった ちがうと言えるのか?
社会の物事は知識からなっている 人間の心と言い換えてもいいが
何がホンモノかなんてのは疑念(知恵)を以て注意深く捉えなければホンモノなんてみえないんだ
疑わなければホントウの真理には到達できないんだぞ
愛国心を持つヤカラと同じく
自身に近しい土地柄や人物情景だけしか知らないのに、世の中を憂いでいる気になっただけじゃないのか?
同じく孔子のことも深く知る前に信じてしまって、周囲がみえなくなってしまった ちがうと言えるのか?
社会の物事は知識からなっている 人間の心と言い換えてもいいが
何がホンモノかなんてのは疑念(知恵)を以て注意深く捉えなければホンモノなんてみえないんだ
疑わなければホントウの真理には到達できないんだぞ
ところでこの二つの引用を見てくれ。こいつをどう思う?
「見よ、わたし(イエス・キリスト)は戸口に立って、(自分の股を)たたいている。
だれかわたしの声(羽音)を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入って
その者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」
(権力犯罪聖書——通称聖書——ヨハネ譫妄録3:20)
「五月にはイナゴが股を動かして鳴き出し、六月にはクツワムシが羽を振って鳴き始める。
小虫たちが七月には野にあり、八月には家の軒下に近寄り、九月には戸口の前にやってくる。
外も寒気がさし始めた十月には、小虫たちはついには床の中にまで入ってこようとする。
そこで部屋のありとあらゆる穴を塞いで燻すことで元からいる鼠などを追い出し、
窓も塞いで戸口の隙間も塗り固めて、小虫たちが入ってこないようにする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・豳風・七月より)
他人の家にずうずうしくもあがり込んで、よそ様の飯を対等な立場で
食らおうとする、お下劣な強盗気質がよく表現されてんな。どちらも。
かたや作中の最重要人物でもあるメシア、かたやイナゴとクツワムシ、ではあるが。
「見よ、わたし(イエス・キリスト)は戸口に立って、(自分の股を)たたいている。
だれかわたしの声(羽音)を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入って
その者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」
(権力犯罪聖書——通称聖書——ヨハネ譫妄録3:20)
「五月にはイナゴが股を動かして鳴き出し、六月にはクツワムシが羽を振って鳴き始める。
小虫たちが七月には野にあり、八月には家の軒下に近寄り、九月には戸口の前にやってくる。
外も寒気がさし始めた十月には、小虫たちはついには床の中にまで入ってこようとする。
そこで部屋のありとあらゆる穴を塞いで燻すことで元からいる鼠などを追い出し、
窓も塞いで戸口の隙間も塗り固めて、小虫たちが入ってこないようにする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・豳風・七月より)
他人の家にずうずうしくもあがり込んで、よそ様の飯を対等な立場で
食らおうとする、お下劣な強盗気質がよく表現されてんな。どちらも。
かたや作中の最重要人物でもあるメシア、かたやイナゴとクツワムシ、ではあるが。
強盗も人間だ
行為は卑劣かもしれないが昨今の社会 とくに住む国や地域に照らして考えなければ真実とは言えない
日本だったとしたら最近になって餓死者が居ると
金もなく食料も尽きて電気ガス水道も止められ身内も居ない
そんな老人が餓死したとここ数年で聞くようになってきた
それに堪えることは美徳なのか?盗んででも食うのが己の本音のハズなのに
本音を隠して道徳的に振る舞うことで苦難に陥るくらいなら己の本音に従えばいい 自然の営みに身を任せてしまえば
それが窃盗や強盗だったとしたなら何が悪いんだ?
それは欲かも知れないが、自然の営みだ
原因が怠け者ということだとしても下品堕落もヒトのサガ
己の本音から目を背けて何を求めるというんだ?
幸せは本音の中にしかないんだ
しかし
己の欲ばかり満たしていたら社会性は成り立たない、が、必要以上に本音を抑制しても自分とはなんなんだろう?となる
そうやって知恵(疑念)で以て考えなければ真理には到達しない
餓死者が道徳的に他者を意識 配慮しての結果なら道徳なんか必要ないだろう
一人ひとりの本音に一人ひとりの幸福がある
その現実をシッカリと見据える 欲望を肯定する
その一方で
一人ひとりの幸福の根底である社会性にはみんなで配慮しなければならない
これは
ただの道徳者には荷が重いと思うね
行為は卑劣かもしれないが昨今の社会 とくに住む国や地域に照らして考えなければ真実とは言えない
日本だったとしたら最近になって餓死者が居ると
金もなく食料も尽きて電気ガス水道も止められ身内も居ない
そんな老人が餓死したとここ数年で聞くようになってきた
それに堪えることは美徳なのか?盗んででも食うのが己の本音のハズなのに
本音を隠して道徳的に振る舞うことで苦難に陥るくらいなら己の本音に従えばいい 自然の営みに身を任せてしまえば
それが窃盗や強盗だったとしたなら何が悪いんだ?
それは欲かも知れないが、自然の営みだ
原因が怠け者ということだとしても下品堕落もヒトのサガ
己の本音から目を背けて何を求めるというんだ?
幸せは本音の中にしかないんだ
しかし
己の欲ばかり満たしていたら社会性は成り立たない、が、必要以上に本音を抑制しても自分とはなんなんだろう?となる
そうやって知恵(疑念)で以て考えなければ真理には到達しない
餓死者が道徳的に他者を意識 配慮しての結果なら道徳なんか必要ないだろう
一人ひとりの本音に一人ひとりの幸福がある
その現実をシッカリと見据える 欲望を肯定する
その一方で
一人ひとりの幸福の根底である社会性にはみんなで配慮しなければならない
これは
ただの道徳者には荷が重いと思うね
人が最低限の生存を欲することと、
権力犯罪によって何億何兆ドルもの利権を貪ることとは、全く同一ではない。
むしろ、個人や少数派の分際で、ただ生きていく上では全く必要としないような
法外な暴利を貪る重権力犯罪者どもが跳梁跋扈しているからこそ、
最低限の生活すらも保証されない、件の老人のような犠牲者も生まれる。
(国外に目を向ければ、国全体がそんな状態のままの国すら多数ある)
少数の大悪人の限りない貪欲によって、多数の人々の最低限の生活すらもが蔑ろにされる、
そんな最悪の惨状だけは避けるために、最悪級の重権力犯罪者だけは檻の中や閉鎖病棟に完全に隔離し、
それによって、なるべく多くの人々に、最低限の生活ぐらいは保証してやるのが権力道徳というもの。
結局、世の中全体という大局に対して、最悪の権力犯罪ぐらいは駆逐する権力道徳を適用したほうが、
より多くの人々が福徳に与れる一方で、最悪の権力犯罪すら野放しにしたほうが、より多くの人々が
最低限の福徳にすら与れない、最悪の破滅にまで追い込まれるという法則が普遍性を帯びている。
最低限の生活すら保証されることなく、ひっそりと孤独死していった老人の場合などを鑑みて、
「人の本性は強盗だから最悪の権力犯罪すら認めるべきだ」などと主張するのも全くの欺瞞で、
むしろそのような荒廃社会の犠牲者を生まないためにこそ、最悪の権力犯罪ぐらいは完全に駆逐して、
「人の本性は強盗か大量発生したイナゴも同然である」というような、社会風紀をより
劣悪化させるような、積極的な暴言から未然に排していくようにしなければならない。
権力犯罪によって何億何兆ドルもの利権を貪ることとは、全く同一ではない。
むしろ、個人や少数派の分際で、ただ生きていく上では全く必要としないような
法外な暴利を貪る重権力犯罪者どもが跳梁跋扈しているからこそ、
最低限の生活すらも保証されない、件の老人のような犠牲者も生まれる。
(国外に目を向ければ、国全体がそんな状態のままの国すら多数ある)
少数の大悪人の限りない貪欲によって、多数の人々の最低限の生活すらもが蔑ろにされる、
そんな最悪の惨状だけは避けるために、最悪級の重権力犯罪者だけは檻の中や閉鎖病棟に完全に隔離し、
それによって、なるべく多くの人々に、最低限の生活ぐらいは保証してやるのが権力道徳というもの。
結局、世の中全体という大局に対して、最悪の権力犯罪ぐらいは駆逐する権力道徳を適用したほうが、
より多くの人々が福徳に与れる一方で、最悪の権力犯罪すら野放しにしたほうが、より多くの人々が
最低限の福徳にすら与れない、最悪の破滅にまで追い込まれるという法則が普遍性を帯びている。
最低限の生活すら保証されることなく、ひっそりと孤独死していった老人の場合などを鑑みて、
「人の本性は強盗だから最悪の権力犯罪すら認めるべきだ」などと主張するのも全くの欺瞞で、
むしろそのような荒廃社会の犠牲者を生まないためにこそ、最悪の権力犯罪ぐらいは完全に駆逐して、
「人の本性は強盗か大量発生したイナゴも同然である」というような、社会風紀をより
劣悪化させるような、積極的な暴言から未然に排していくようにしなければならない。
「屠られて」を「奢られて」と誤記しているようだが。
「屠殺」という、日本では最も下賤な部類とされてきた所業が、キリスト信仰の
本質であることを日本国内でひけらかすことには、さすがに躊躇を抱くのだろうか?
日本で屠殺業が特に賤しみの対象とされたのは、日本に魚食文化が豊富で、牛や豚などの肉から
タンパク源を摂取する必要があまりなかったからで、内陸国でもある中国などの場合には、
獣肉も重要なタンパク源だったから、屠殺業が「産業」だから差別されるということはあっても、
産業の中でも突出して差別の対象にされるということまではなかった。
ただ、産業階級はともかく、為政者たるものが血を見る仕事を好き好むようなことは
なるべく避けるべきであるため、孟子も斉の宣王に以下のような言葉を述べている。
「屠殺」という、日本では最も下賤な部類とされてきた所業が、キリスト信仰の
本質であることを日本国内でひけらかすことには、さすがに躊躇を抱くのだろうか?
日本で屠殺業が特に賤しみの対象とされたのは、日本に魚食文化が豊富で、牛や豚などの肉から
タンパク源を摂取する必要があまりなかったからで、内陸国でもある中国などの場合には、
獣肉も重要なタンパク源だったから、屠殺業が「産業」だから差別されるということはあっても、
産業の中でも突出して差別の対象にされるということまではなかった。
ただ、産業階級はともかく、為政者たるものが血を見る仕事を好き好むようなことは
なるべく避けるべきであるため、孟子も斉の宣王に以下のような言葉を述べている。

王之れを見て曰く、牛之れ何するぞ。對えて曰く、將に以て鐘に釁んとす。王曰く、之れを舍け。
吾れ其の觳觫の若く罪無くして死地に就くに忍びざるなり。對えて曰く、然れば則ち鐘に釁んことを廃めんか。
曰く、何ぞ廃む可けんや。羊を以て之れに易えよと。諸れ識らず有るや。曰く、之れ有り。曰く、是の心以て王たるに足れり」
「私(孟子)は家臣の胡齕氏からこのようなことを聞きました。王様が以前殿堂上に座して居られましたときに、
牛を牽きつつ堂下を通り過ぎる者があったそうです。王様はこれを見て言われました。『おい、その牛をどうするつもりだ』
すると牛を牽く者は『今度新しく作られました鐘に、この牛の血を塗ってお祈りをするのです』と正直に答えました。
すると王様は言われました。『やめるのだ。わしはその牛のようにおどおどしながら、罪もなく刑死に向かおうと
している者を見るのに忍びんのだ』 『それでは今回の血塗りの儀式は取り止めにいたしましょうか』と牽牛者が答えますと、
『なぜ大切な儀式を取り止めにできようか。羊に替えて行え』と言われたそうです。これはまことのことでしょうか。
(王は『本当のことだ』と答えた。それに対して孟子)これこそは、王たるに相応しい慈悲心の表れに他なりません」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・七より)
キリストがイナゴも同然の品性の持ち主であることは>>407の引用からも明らかだが、
本当に、イナゴぐらいぐらいにしとくべきなんだ。人々にとっての犠牲なんてのは。
聖書は都合よく書きかえらて、さらに都合よく読み間違えられているということだと思います
たとえば
キリストが救世主だろうと腹が減ったなら食料を分けてもらえばいいし
釈迦も孔子も同じく分けてもらえばいい
そんなことぐらいで己のスタンスが変わるハズがない
救世主だとか権力者だとか一般市民だとか
そんなものは役割に過ぎないものでミソもクソもない
エラくなんかない
救世主だろうと
欲求を抑制ばかりしていても、それは本音から目を背けているだけでしかない
クソミソの中にある真なる己の在り方を見いだすことが真理なんだ
なによりも本音を隠しているのが悪いんだ
救世主と逆の悪なる存在がいたとしても同じこと
悪いことをしているというのは理解しているのにやってしまう
本音を出せばいいんだ
ホントウは傷付けたくないのに他の手段を見いだすことができない
世の中の厳しさは正邪に関係なく誰もが知るところで、道徳律(やってはいけないこと)を理解してはいるんだ
権力者もホントウは色々と思いやっているハズなんだ
それらすべての人間の本性を 本音を発揮させてやる
たとえば
キリストが救世主だろうと腹が減ったなら食料を分けてもらえばいいし
釈迦も孔子も同じく分けてもらえばいい
そんなことぐらいで己のスタンスが変わるハズがない
救世主だとか権力者だとか一般市民だとか
そんなものは役割に過ぎないものでミソもクソもない
エラくなんかない
救世主だろうと
欲求を抑制ばかりしていても、それは本音から目を背けているだけでしかない
クソミソの中にある真なる己の在り方を見いだすことが真理なんだ
なによりも本音を隠しているのが悪いんだ
救世主と逆の悪なる存在がいたとしても同じこと
悪いことをしているというのは理解しているのにやってしまう
本音を出せばいいんだ
ホントウは傷付けたくないのに他の手段を見いだすことができない
世の中の厳しさは正邪に関係なく誰もが知るところで、道徳律(やってはいけないこと)を理解してはいるんだ
権力者もホントウは色々と思いやっているハズなんだ
それらすべての人間の本性を 本音を発揮させてやる
ねえ、ヨハネ譫妄録にもちゃんと予言されているねえ。
人間の獣性や悪性の増長ばかりに専らであったカルト狂信者たちが、
カルト教義の種も仕掛けもばれるに及んで、労苦からも解き放たれて
永遠の「大人の幼稚園児」としての人生に与れるって。
間違ってるのは、それが人間にとっての「幸せ」だなどと断じられていた点であり、
人の本性ないし本音こそは理であり、善だから、理という体にとっての用であるに過ぎない
情が濁されることによって悪性や獣性を増長させてきたことは、幸せや安らぎではなく、
最大級の不幸や禍いばかりにのみ見舞われるという事実が分かっていなかったところだ。
善も悪も、人も鬼畜も混在しているみそくそな世界において、
「諸悪莫作衆善奉行(法句経)」であり、「破邪顕正(三論玄義)」であり、
「厭離穢土欣求浄土(往生要集)」であることがとにもかくにも真理であり、真理でもあるから、
真理とまではいかない道理の範囲で務められる「勧善懲悪(左伝)」もまた、人々の心を打つ快挙ともなる。
どんな悲劇や喜劇や惨劇よりも、勧善懲悪こそは最高に面白い、痛快無比なる歴史上の伝説ともなる。
人間の獣性や悪性の増長ばかりに専らであったカルト狂信者たちが、
カルト教義の種も仕掛けもばれるに及んで、労苦からも解き放たれて
永遠の「大人の幼稚園児」としての人生に与れるって。
間違ってるのは、それが人間にとっての「幸せ」だなどと断じられていた点であり、
人の本性ないし本音こそは理であり、善だから、理という体にとっての用であるに過ぎない
情が濁されることによって悪性や獣性を増長させてきたことは、幸せや安らぎではなく、
最大級の不幸や禍いばかりにのみ見舞われるという事実が分かっていなかったところだ。
善も悪も、人も鬼畜も混在しているみそくそな世界において、
「諸悪莫作衆善奉行(法句経)」であり、「破邪顕正(三論玄義)」であり、
「厭離穢土欣求浄土(往生要集)」であることがとにもかくにも真理であり、真理でもあるから、
真理とまではいかない道理の範囲で務められる「勧善懲悪(左伝)」もまた、人々の心を打つ快挙ともなる。
どんな悲劇や喜劇や惨劇よりも、勧善懲悪こそは最高に面白い、痛快無比なる歴史上の伝説ともなる。
「春秋の稱は微にして顯われ、志にして晦く、婉にして章を成し、
盡にして汙ならず、懲惡にして勸善なる。聖人に非ずして誰か能く之れを脩めん」
「(五経の一書であり、孔子の真作である)『春秋経』の筆法は、字数は少ないがその意味は明らかであり、
明確に言うときにも露骨になることを避け、遠回しに言うときにも筋道を通し、実際のところを直言して事実を曲げず、
どこもかしこもが勧善懲悪で貫かれている。(孔子のような)聖人でなければ誰かこれを書けようか。
(春秋“経”本文ではなく、孔子の弟子だった左丘明の注釈である“伝”の文であるため、自画自賛ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公十四年より)
上記の「勧善懲悪」の本来の定義に基づくなら、「勧善懲悪にもとる筆法」とは、
・字数がやたら多いくせにその意味は不明である。
・明確にものを言うときにはやたらと露骨に言う。
・遠回しに言うときにはその意味が筋道立てられていない。
・実際のところを直言せずに真実を捻じ曲げる。
といったもの。まさに犯罪聖書の筆法そのものだといえる。
ちなみに俺の筆法は
・字数はやたらと多いが、その意味は明らかである。
・明確に言うときは露骨でも温厚でもなく、なるべく素っ気なく言う。
・遠回しに言うときには最低限の筋道を通す。
・実際のところはやはり直言して真実も捻じ曲げない。
前三つは、勧善懲悪である春秋の筆法と、悪逆非道な犯罪聖書の筆法の折衷になっていて、
最後の「直言して事実を捻じ曲げない」だけは完全に春秋の筆法に準拠している。
これは、孔子ではなく孟子や司馬遷の筆法により近似しているところであり、
最大級の勧善懲悪である孔子の筆法には、今一歩及んでいないところだといえる
盡にして汙ならず、懲惡にして勸善なる。聖人に非ずして誰か能く之れを脩めん」
「(五経の一書であり、孔子の真作である)『春秋経』の筆法は、字数は少ないがその意味は明らかであり、
明確に言うときにも露骨になることを避け、遠回しに言うときにも筋道を通し、実際のところを直言して事実を曲げず、
どこもかしこもが勧善懲悪で貫かれている。(孔子のような)聖人でなければ誰かこれを書けようか。
(春秋“経”本文ではなく、孔子の弟子だった左丘明の注釈である“伝”の文であるため、自画自賛ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公十四年より)
上記の「勧善懲悪」の本来の定義に基づくなら、「勧善懲悪にもとる筆法」とは、
・字数がやたら多いくせにその意味は不明である。
・明確にものを言うときにはやたらと露骨に言う。
・遠回しに言うときにはその意味が筋道立てられていない。
・実際のところを直言せずに真実を捻じ曲げる。
といったもの。まさに犯罪聖書の筆法そのものだといえる。
ちなみに俺の筆法は
・字数はやたらと多いが、その意味は明らかである。
・明確に言うときは露骨でも温厚でもなく、なるべく素っ気なく言う。
・遠回しに言うときには最低限の筋道を通す。
・実際のところはやはり直言して真実も捻じ曲げない。
前三つは、勧善懲悪である春秋の筆法と、悪逆非道な犯罪聖書の筆法の折衷になっていて、
最後の「直言して事実を捻じ曲げない」だけは完全に春秋の筆法に準拠している。
これは、孔子ではなく孟子や司馬遷の筆法により近似しているところであり、
最大級の勧善懲悪である孔子の筆法には、今一歩及んでいないところだといえる
ボクも他人のことは言えないが、アナタの言説は
字数がやたら多いくせにその意味は不明である。が当てはまると思います
引用が多すぎるためかも知れませんが
また
明確にものを言うときにはやたらと露骨に言う
にも当てはまってる
重度精神障害者 犯罪聖書 入獄しろ などいずれもストレートでとても分りやすく とても遠回しな表現とは思えませんよ
また
実際のところを直言せずに真実を捻じ曲げる。
にも過去の文献にしがみついているところに感じます
構造主義などの哲学のほうが必然的な善を成すのははやいと思います
人間の行動や思想は社会構造によって決まってくる
脱構築することで善悪感さえ変化する可能性がある
字数がやたら多いくせにその意味は不明である。が当てはまると思います
引用が多すぎるためかも知れませんが
また
明確にものを言うときにはやたらと露骨に言う
にも当てはまってる
重度精神障害者 犯罪聖書 入獄しろ などいずれもストレートでとても分りやすく とても遠回しな表現とは思えませんよ
また
実際のところを直言せずに真実を捻じ曲げる。
にも過去の文献にしがみついているところに感じます
構造主義などの哲学のほうが必然的な善を成すのははやいと思います
人間の行動や思想は社会構造によって決まってくる
脱構築することで善悪感さえ変化する可能性がある
「感じる」とか「思う」とか「思わない」とか、そんなことはどうでもいいんだ。
問題は事実としてそうか否かであり、事実であるが故に現実もその物言い通りになったり、
事実ではないが故に現実が物言い通りにはならなかったりすることのほうだ。
ただでさえ、聖人君子の言葉は厳しく、カルト教祖の物言いのような美辞麗句も排しての、
ことさらに実直な言行に努められているのだから、自分たち自身こそは不誠実さの極みにある
小人や精神病質者や犯罪者が、その言行を好ましく思えないのも当たり前のことだ。
だから孔子も「善人には好まれ、悪人には嫌われるのが最善だ(子路第十三・二四)」とも言っている。
あからさまに悪人そのものである君らに嫌われるのは、かえって名誉なことですらあり、
どちらかといえば自分の言行のほうが正しく、正しいが故に現実を見定められている証拠ともなる。
「君子に三變有り。之れを望めば儼然たり、之れに即けば温なり、其の言を聽けば﨤し」
「おおよそ君子に接しようとすると、接する側は君子の姿が三つに変転するのを体験する。
遠くからその姿をうかがっている間は厳然として近寄りがたく、にもかかわらず近づいて
接すれば極めて温厚であり、それでいてその言葉を聞けば、やはり厳しくて容赦がない。
(孔子に生涯付き添い続けた弟子の子夏の言葉。孔子などの君子の側には態度を変えようと
する気はないが、周りには自然と、接し方によってその姿が大きく変化するように見える。
巧言令色に巧みな佞者こそは、いつも変わらずヘラヘラしてるようにも見えるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・九より)
問題は事実としてそうか否かであり、事実であるが故に現実もその物言い通りになったり、
事実ではないが故に現実が物言い通りにはならなかったりすることのほうだ。
ただでさえ、聖人君子の言葉は厳しく、カルト教祖の物言いのような美辞麗句も排しての、
ことさらに実直な言行に努められているのだから、自分たち自身こそは不誠実さの極みにある
小人や精神病質者や犯罪者が、その言行を好ましく思えないのも当たり前のことだ。
だから孔子も「善人には好まれ、悪人には嫌われるのが最善だ(子路第十三・二四)」とも言っている。
あからさまに悪人そのものである君らに嫌われるのは、かえって名誉なことですらあり、
どちらかといえば自分の言行のほうが正しく、正しいが故に現実を見定められている証拠ともなる。
「君子に三變有り。之れを望めば儼然たり、之れに即けば温なり、其の言を聽けば﨤し」
「おおよそ君子に接しようとすると、接する側は君子の姿が三つに変転するのを体験する。
遠くからその姿をうかがっている間は厳然として近寄りがたく、にもかかわらず近づいて
接すれば極めて温厚であり、それでいてその言葉を聞けば、やはり厳しくて容赦がない。
(孔子に生涯付き添い続けた弟子の子夏の言葉。孔子などの君子の側には態度を変えようと
する気はないが、周りには自然と、接し方によってその姿が大きく変化するように見える。
巧言令色に巧みな佞者こそは、いつも変わらずヘラヘラしてるようにも見えるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・九より)
感じる 思う にしたのはせめてもの配慮ですよ
小人から聖人に道徳的な配慮をしただけのことです
つい、本音を隠してしまった
本音では、胡散臭え坊主がワケわからん文献を引用ばっかりしやがって解りづれエ
こんなの誰も読むわけねえだろう たわけ者が と、とてもハッキリしています
そしてホントウのところを、疑念によって暴いてやろうとしてます
現在の認識は、本人が死んだ後におバカ達の頼りない記憶を寄せ集めて、それを真に受けて信じた道楽者が壁に向かって嘆いている
小人から聖人に道徳的な配慮をしただけのことです
つい、本音を隠してしまった
本音では、胡散臭え坊主がワケわからん文献を引用ばっかりしやがって解りづれエ
こんなの誰も読むわけねえだろう たわけ者が と、とてもハッキリしています
そしてホントウのところを、疑念によって暴いてやろうとしてます
現在の認識は、本人が死んだ後におバカ達の頼りない記憶を寄せ集めて、それを真に受けて信じた道楽者が壁に向かって嘆いている
中国人は、為政を志す限りにおいては毅然とするのに、ことに産業に手を出した途端に腐敗する。
欧米人も、産業に従事している限りでは優秀なのに、政治に手を出せば途端に腐敗する。
男が女の領分に手を出したり、女が男の領分に手を出したりした結果、致命的な腐敗を招いている。
「左伝」荘公二十四年では、乱世に特有の症例として、礼節などの社会規範に、
男女の区別が付けられなくなることが挙げられ、「男女の別は國の大節なり」とも指摘されている。
男と女、君主と臣下、君子と小人など、それぞれがそれぞれの領分を守るように努めたならば、
上に立つものだけでなく、下に控えるものまでもが、相応に清廉な人生を送れるというのに。
「仲弓仁を問う。子曰く、門を出でては大賓に見えるが如くし、民を使うには大祭を承るが如くす。
己れの欲せざる所は、人に施すことなかれ。
邦に在りては怨み無く、家に在りては怨み無し。仲弓曰く、雍、不敏と雖も、請いし斯の語を事とせん」
「仲弓が仁についてお聞きした。先生は言われた。『家の門を出て仕事に従事する以上は、
常に大賓に応対するほどにも恭しい態度でいて、自分が人を使う場合にも、
大祭の催しを任されたほどにも厳かな態度でいるようにする。
そして、自分がされたくないと思うことは、人に対しても決してしない。
それでこそ仁の実践姿勢であるといえ、ちゃんと仁が実践できたならば、
国や社会においても怨みがなくなり、家の中にも怨みはなくなるであろう』
仲弓はそれを聞いて言った。『私もふつつかながらも、そのお言葉を忘れぬように致します』
(『己所不欲、勿施於人』は論語中にも重複して述べられており、こちらは既出の引用ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二)
欧米人も、産業に従事している限りでは優秀なのに、政治に手を出せば途端に腐敗する。
男が女の領分に手を出したり、女が男の領分に手を出したりした結果、致命的な腐敗を招いている。
「左伝」荘公二十四年では、乱世に特有の症例として、礼節などの社会規範に、
男女の区別が付けられなくなることが挙げられ、「男女の別は國の大節なり」とも指摘されている。
男と女、君主と臣下、君子と小人など、それぞれがそれぞれの領分を守るように努めたならば、
上に立つものだけでなく、下に控えるものまでもが、相応に清廉な人生を送れるというのに。
「仲弓仁を問う。子曰く、門を出でては大賓に見えるが如くし、民を使うには大祭を承るが如くす。
己れの欲せざる所は、人に施すことなかれ。
邦に在りては怨み無く、家に在りては怨み無し。仲弓曰く、雍、不敏と雖も、請いし斯の語を事とせん」
「仲弓が仁についてお聞きした。先生は言われた。『家の門を出て仕事に従事する以上は、
常に大賓に応対するほどにも恭しい態度でいて、自分が人を使う場合にも、
大祭の催しを任されたほどにも厳かな態度でいるようにする。
そして、自分がされたくないと思うことは、人に対しても決してしない。
それでこそ仁の実践姿勢であるといえ、ちゃんと仁が実践できたならば、
国や社会においても怨みがなくなり、家の中にも怨みはなくなるであろう』
仲弓はそれを聞いて言った。『私もふつつかながらも、そのお言葉を忘れぬように致します』
(『己所不欲、勿施於人』は論語中にも重複して述べられており、こちらは既出の引用ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二)
女や子供はバカだとかよく言われるが、実は心理的に単純な力関係を意識しているから慎重なだけだ
男女や年齢層で分けるのも把握できないものをカテゴリに押し込んでいるだけで、何ら解決にはならない
男女や年齢層に適材適所を当てはめるのは大雑把なお役所仕事だ
女にも子供にも有能な人物は居るし、男盛りだとしても無能な人物も居る
アンタたちの適材適所は、天下り先を探している老人の身の置き場を、正当化しようとすることじゃないか?
本人の気持ちを汲んでから、それが適材適所かを計るべきなんだ
男女に関係なく願望はあるし、それを認めることができるのは人間だけだ
人間であろうとすることが人間の美点なんだ
男女や年齢層で分けるのも把握できないものをカテゴリに押し込んでいるだけで、何ら解決にはならない
男女や年齢層に適材適所を当てはめるのは大雑把なお役所仕事だ
女にも子供にも有能な人物は居るし、男盛りだとしても無能な人物も居る
アンタたちの適材適所は、天下り先を探している老人の身の置き場を、正当化しようとすることじゃないか?
本人の気持ちを汲んでから、それが適材適所かを計るべきなんだ
男女に関係なく願望はあるし、それを認めることができるのは人間だけだ
人間であろうとすることが人間の美点なんだ
道徳は、あくまで社会性に対応するための知識の分類にあり、目的に応じた知識を、一般人の知り得ない仮定の情報Xとの組み合わせて知恵として応用される。
応用される知識は、一人ひとりの知恵が発展性という志向性もって命といっしょに循環しているので、知識を得ること自体でヒトを聖人たらしめることはない。仮定の情報Xも人間関係から必要性が生じるためです。
人間は人間である
孔子も釈迦もキリストも一般人も権力犯罪者も、知識や知恵に差があったとしても本質的には些かのちがいもない。
老若男女古今東西南北
みな平等
生きている人間+知識=道徳の必然という答え
どんな乱れた世も これが歴史を成り立たせてきた。
なぜなら、オマエは生きている 考えている
それが道徳律があることを証明している。
哲学のほうが、道徳を純化させた倫理を取り入れているぶん、世界の指導・誘導に適している。
聖人のみが知っている仮定の情報Xなど必要ない。
応用される知識は、一人ひとりの知恵が発展性という志向性もって命といっしょに循環しているので、知識を得ること自体でヒトを聖人たらしめることはない。仮定の情報Xも人間関係から必要性が生じるためです。
人間は人間である
孔子も釈迦もキリストも一般人も権力犯罪者も、知識や知恵に差があったとしても本質的には些かのちがいもない。
老若男女古今東西南北
みな平等
生きている人間+知識=道徳の必然という答え
どんな乱れた世も これが歴史を成り立たせてきた。
なぜなら、オマエは生きている 考えている
それが道徳律があることを証明している。
哲学のほうが、道徳を純化させた倫理を取り入れているぶん、世界の指導・誘導に適している。
聖人のみが知っている仮定の情報Xなど必要ない。
「知識に適正な取捨選択や、身を挺した実践が伴うことが道徳だ」と言っているのに、
そちらで勝手に「道徳は知識情報そのものだ」などと決め付けて、
「知識が人を聖人君子たらしめることはあり得ない」という論及を経由して、
「道徳によって人が聖人君子になれたりはしない」と結論付ける、典型的な三段論法の詭弁論。
そもそも、始めから「道徳」という言葉の定義が彼我において決定的に断裂しているのであり、
1+1=2を前提とした議論をしようとしているところに、1+1=3や4を前提とした自論をあてこすろうとするその
態度姿勢は、人と人との正常な話し合いを妨害して不全化させることを目的とした「言論テロ」にしかなっていない。
強大な軍事力や経済力だけでなく、詭弁を駆使した情報操作力までをも駆使しての強圧が横行するのが
乱世でもあるために、乱世である春秋後期に「政治を任せられれば何をまず行いますか」と弟子の子路に
問われた孔子も、「まずは一つ一つの言葉の定義(名辞)から正していこう」と答えた(子路第十三・三参照)。
武力や財力の乱用以上にも、言葉の定義から勝手に挿げ替えつつの不実な詭弁によって、
あらゆる有意義な論議をも不全化することで、ことの是非善悪までをも煙に巻いてしまうことこそは、
限りのない乱世をもたらす元凶中の元凶ともなるのであり、仮に、誰しもが言葉の定義ぐらいは一致させた中に、
最低限でもの正常で有意義な論議を心がけたなら、自然と是非善悪までもが誰しもに判然とするようになり、
それ故に自ずから、莫大な軍事力や経済力を振りかざしつつの、強権の乱用も立ち消えにならざるを得なくなる。
人間という生き物は、本来そのような用途のためにこそ、言葉という道具を開発して用いるように努めて来ているのだから。
「孝子は闇きに服せず、危うきに登らず。親を辱めんことを懼るればなり」
「孝子は闇の中でことを図ることはせず、そのような危うい派閥に取り入ることもしない。
それによって親をも辱しめるような恥を晒してしまうことを危惧するからだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
そちらで勝手に「道徳は知識情報そのものだ」などと決め付けて、
「知識が人を聖人君子たらしめることはあり得ない」という論及を経由して、
「道徳によって人が聖人君子になれたりはしない」と結論付ける、典型的な三段論法の詭弁論。
そもそも、始めから「道徳」という言葉の定義が彼我において決定的に断裂しているのであり、
1+1=2を前提とした議論をしようとしているところに、1+1=3や4を前提とした自論をあてこすろうとするその
態度姿勢は、人と人との正常な話し合いを妨害して不全化させることを目的とした「言論テロ」にしかなっていない。
強大な軍事力や経済力だけでなく、詭弁を駆使した情報操作力までをも駆使しての強圧が横行するのが
乱世でもあるために、乱世である春秋後期に「政治を任せられれば何をまず行いますか」と弟子の子路に
問われた孔子も、「まずは一つ一つの言葉の定義(名辞)から正していこう」と答えた(子路第十三・三参照)。
武力や財力の乱用以上にも、言葉の定義から勝手に挿げ替えつつの不実な詭弁によって、
あらゆる有意義な論議をも不全化することで、ことの是非善悪までをも煙に巻いてしまうことこそは、
限りのない乱世をもたらす元凶中の元凶ともなるのであり、仮に、誰しもが言葉の定義ぐらいは一致させた中に、
最低限でもの正常で有意義な論議を心がけたなら、自然と是非善悪までもが誰しもに判然とするようになり、
それ故に自ずから、莫大な軍事力や経済力を振りかざしつつの、強権の乱用も立ち消えにならざるを得なくなる。
人間という生き物は、本来そのような用途のためにこそ、言葉という道具を開発して用いるように努めて来ているのだから。
「孝子は闇きに服せず、危うきに登らず。親を辱めんことを懼るればなり」
「孝子は闇の中でことを図ることはせず、そのような危うい派閥に取り入ることもしない。
それによって親をも辱しめるような恥を晒してしまうことを危惧するからだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
女子供が、成人の男以上にも生存本能に長けているのも確かだが、
それも自分や我が子を守るための、独我的な本能止まりであり、
天下万人を生き残らしめる大局的な観点などには全く即していない。
天下万人を活かさしめる上で、当然より多くの女子供の生存や福徳をも企図し、
その中にはもちろん「あなた」という女、あなたという女の子供の生存や福徳までもが
含まれているというのに、「ただ私だけを見て」の論理で、天下の運命を担う士人にまで、
独善的な「婦人の仁」への迎合を要求するというのなら、それこそは国家転覆級の悪女というもの。
家康公の正室だった築山殿なども、そのような性向を宿した悪女だったから、
武田方に加担する謀反を画策したことにもことかけて、我が正妻であるにもかかわらず謀殺せざるを得なかった。
そりゃあ、天下人の妻としての貞順さにも欠けていた、築山殿の側の全くの自業自得であり、
家康公とて、匈奴王の冒頓単于のように好き好んで妻を殺したわけではなかった。
瑣末な産業や商売などに従事する平民階級の男ならともかく、天下の命運を左右する君子階級たる男の
妻子である以上は、下手に夫や父親をけしかけて、邪魔をかけることも徹底して避けねばならない。
でないと、妻子である自分たち自身こそは、国家転覆級の罪をも犯すことにすらなりかねないから。
それも自分や我が子を守るための、独我的な本能止まりであり、
天下万人を生き残らしめる大局的な観点などには全く即していない。
天下万人を活かさしめる上で、当然より多くの女子供の生存や福徳をも企図し、
その中にはもちろん「あなた」という女、あなたという女の子供の生存や福徳までもが
含まれているというのに、「ただ私だけを見て」の論理で、天下の運命を担う士人にまで、
独善的な「婦人の仁」への迎合を要求するというのなら、それこそは国家転覆級の悪女というもの。
家康公の正室だった築山殿なども、そのような性向を宿した悪女だったから、
武田方に加担する謀反を画策したことにもことかけて、我が正妻であるにもかかわらず謀殺せざるを得なかった。
そりゃあ、天下人の妻としての貞順さにも欠けていた、築山殿の側の全くの自業自得であり、
家康公とて、匈奴王の冒頓単于のように好き好んで妻を殺したわけではなかった。
瑣末な産業や商売などに従事する平民階級の男ならともかく、天下の命運を左右する君子階級たる男の
妻子である以上は、下手に夫や父親をけしかけて、邪魔をかけることも徹底して避けねばならない。
でないと、妻子である自分たち自身こそは、国家転覆級の罪をも犯すことにすらなりかねないから。
とりあえずデートいてくる
「知識に適正な取捨選択や、身を挺した実践が伴うことが道徳だ」という時点で歴史をみればすでに破綻している
実践をしたつもりかもしれないが、それは何一つ成し遂げることはできていない
それは深く考えるまでもなく、テレビや新聞程度を観ていれば理解できる
社会は犯罪で満ちている
実践の失敗
これが「知識が人を聖人君子たらしめることはあり得ない」という根拠でもあります
しょせんは知識の範囲に過ぎず何ら特別なことはない
他の宗教と同じく無能だ
実践を宣言して仮想の世界の空想をするばかり
実践をしたつもりかもしれないが、それは何一つ成し遂げることはできていない
それは深く考えるまでもなく、テレビや新聞程度を観ていれば理解できる
社会は犯罪で満ちている
実践の失敗
これが「知識が人を聖人君子たらしめることはあり得ない」という根拠でもあります
しょせんは知識の範囲に過ぎず何ら特別なことはない
他の宗教と同じく無能だ
実践を宣言して仮想の世界の空想をするばかり
相撲の八百長問題
なんか八百長が問題らしく膿を出しきるとか豪語しとる
しかし問題点の背景の大きな一つに給料格差があるらしい
それはそうだろう
ちゃんこ鍋を食って稽古するだけの毎日に堪えることを善人というのか?
めちゃくちゃ稼ぐ横綱が品行方正であることが善人というのか?
八百長という問題
単純に当事者だけを処罰すれば終わるわけがないのに、生け贄のように吊し上げられている、としか思えない
相撲協会をはじめ、当事者の気持ちをわかるハズの力士 マスコミ 世間
何が悪いのか なんにもわかってない
なんか八百長が問題らしく膿を出しきるとか豪語しとる
しかし問題点の背景の大きな一つに給料格差があるらしい
それはそうだろう
ちゃんこ鍋を食って稽古するだけの毎日に堪えることを善人というのか?
めちゃくちゃ稼ぐ横綱が品行方正であることが善人というのか?
八百長という問題
単純に当事者だけを処罰すれば終わるわけがないのに、生け贄のように吊し上げられている、としか思えない
相撲協会をはじめ、当事者の気持ちをわかるハズの力士 マスコミ 世間
何が悪いのか なんにもわかってない
破綻しているものかよ。
インドの万年泰平状態に、中国の周代や漢代や唐代、日本の平安時代や江戸時代における
数百年規模の泰平統治など、すべて、理性がみそくそな知識を適正に取捨選択して、
劣悪なワル知恵を排した、優良な叡知のみの専らな実践によって実現されたものだ。
知識を適正に取捨選択することも覚束ず、かえって劣悪なワル知恵の選別ばかりに努め、以て
引っ切り無しの戦乱状態を続けてきたのも、「欧米」という極めて矮小な部落社会のみであり、
その欧米が政治的主導権を握って、世界を破滅に陥れ始めたのも、ここ2、300年に限っての話。
人類は、引っ切り無しの戦乱などよりも、数百年規模から半永久的規模に渡る泰平のほうを
あえて選択してきた分量のほうが遥かに多く、その歴史も遥かに古く、現時点においてですら、
悪逆非道な戦乱状態よりも、勧善懲悪にも根ざした泰平状態を望んでいる人間のほうが、遥かに多い。
世界史を、「西洋主導」の色眼鏡を抜きにして勉強すれば、誰にでも分かることだが、今の国定の
世界史の教科書ですら、質でも量でも古さでも遥かに劣悪なギリシャ・ローマ文明の勃興のほうが、
質でも量でも古さでも遥かに優秀なインド文明や中国文明の勃興よりも先に記載されたりの、
明らかな「事実改ざん」が、公的規模においてですらまかり通っている昨今、たとえ学校で
学ぶとおりに世界史を勉強したところで、本当のところをわきまえることは難しかろうな。
インドの万年泰平状態に、中国の周代や漢代や唐代、日本の平安時代や江戸時代における
数百年規模の泰平統治など、すべて、理性がみそくそな知識を適正に取捨選択して、
劣悪なワル知恵を排した、優良な叡知のみの専らな実践によって実現されたものだ。
知識を適正に取捨選択することも覚束ず、かえって劣悪なワル知恵の選別ばかりに努め、以て
引っ切り無しの戦乱状態を続けてきたのも、「欧米」という極めて矮小な部落社会のみであり、
その欧米が政治的主導権を握って、世界を破滅に陥れ始めたのも、ここ2、300年に限っての話。
人類は、引っ切り無しの戦乱などよりも、数百年規模から半永久的規模に渡る泰平のほうを
あえて選択してきた分量のほうが遥かに多く、その歴史も遥かに古く、現時点においてですら、
悪逆非道な戦乱状態よりも、勧善懲悪にも根ざした泰平状態を望んでいる人間のほうが、遥かに多い。
世界史を、「西洋主導」の色眼鏡を抜きにして勉強すれば、誰にでも分かることだが、今の国定の
世界史の教科書ですら、質でも量でも古さでも遥かに劣悪なギリシャ・ローマ文明の勃興のほうが、
質でも量でも古さでも遥かに優秀なインド文明や中国文明の勃興よりも先に記載されたりの、
明らかな「事実改ざん」が、公的規模においてですらまかり通っている昨今、たとえ学校で
学ぶとおりに世界史を勉強したところで、本当のところをわきまえることは難しかろうな。
相撲も元来はお祭りの興行の一種であり、
江戸時代などには一種の芸能として楽しまれていたもの。
スポーツのように、勝ち負けや記録ばかりにこだわるものではなく、
プロレスのような劇場型の興行として楽しむのが本来のあり方。
世の中のほうが引っ切り無しの戦乱状態でもあるから、八百長交じりこそは本来の姿でも
あった大相撲に、今の規約に即しての不正があったことなどにいちいち目くじらを立てる。
戦いに勝つことこそは全てである自分たちの姿を投影できるものこそを求めているわけだが、
それを芸能的興行にすぎない相撲に求めるのは、本来の相撲のあり方に基づけば間違っている。
あるいは、あの「八百長」こそは、今の不正まみれな自分たちの実社会での
あり方に投影されて、そのせいで、いたたまれない気持ちにでもなっているのだろうか。
「季康子政を孔子に問う。孔子對えて曰く、政は正なり。子帥いるに正を以てすれば、孰か敢えて不正ならざらん」
「魯国の実力者である季康氏が、孔先生に『政治とは何か』と聞かれた。孔先生は答えられた。(目上なので敬語で)
『(中国語でも日本語でも、政と正の発音が同じであることにかけて)政とは“正”であります。貴公のような
上位に居ます方が、正しきを以て世の中を率いましたならば、いったい誰があえて不正などをおこないましょうや』
(万民の中に不正をなす者がいたり、その不正を放任したりするのは、紛れもなく権力者自身が不正だからだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・十七)
江戸時代などには一種の芸能として楽しまれていたもの。
スポーツのように、勝ち負けや記録ばかりにこだわるものではなく、
プロレスのような劇場型の興行として楽しむのが本来のあり方。
世の中のほうが引っ切り無しの戦乱状態でもあるから、八百長交じりこそは本来の姿でも
あった大相撲に、今の規約に即しての不正があったことなどにいちいち目くじらを立てる。
戦いに勝つことこそは全てである自分たちの姿を投影できるものこそを求めているわけだが、
それを芸能的興行にすぎない相撲に求めるのは、本来の相撲のあり方に基づけば間違っている。
あるいは、あの「八百長」こそは、今の不正まみれな自分たちの実社会での
あり方に投影されて、そのせいで、いたたまれない気持ちにでもなっているのだろうか。
「季康子政を孔子に問う。孔子對えて曰く、政は正なり。子帥いるに正を以てすれば、孰か敢えて不正ならざらん」
「魯国の実力者である季康氏が、孔先生に『政治とは何か』と聞かれた。孔先生は答えられた。(目上なので敬語で)
『(中国語でも日本語でも、政と正の発音が同じであることにかけて)政とは“正”であります。貴公のような
上位に居ます方が、正しきを以て世の中を率いましたならば、いったい誰があえて不正などをおこないましょうや』
(万民の中に不正をなす者がいたり、その不正を放任したりするのは、紛れもなく権力者自身が不正だからだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・十七)
やっぱり道徳者は冷たいな
今回吊し上げられた人間は、本来的な八百長問題とはまるでちがう
十両から幕下に落ちると給料が無しになる
だから八百長をしてでも生活を守りたいという普通の欲求なのてすよ
つまり必然的に道徳を破らなければならない という道徳者なら簡単に捨て置けない事例のハズなのですがね
横綱や大関が行うものとは別の視点にならなければ分からない
今回吊し上げられた人間は、本来的な八百長問題とはまるでちがう
十両から幕下に落ちると給料が無しになる
だから八百長をしてでも生活を守りたいという普通の欲求なのてすよ
つまり必然的に道徳を破らなければならない という道徳者なら簡単に捨て置けない事例のハズなのですがね
横綱や大関が行うものとは別の視点にならなければ分からない

尽力していた封建社会において、丸々と肥え太った力士たちは、それこそ
庶民の不満のガス抜きも兼ねた、あえての不道徳的な興行だったわけだが?
ただし、人に危害を加えることで自分が肥え太る、実罪(実質的な犯罪)
にまでは至らない範囲での、面白がれる範囲での不道徳として。
仁義道徳が国学も同然の扱いとなっている中国の人々には、
相撲は甚だしい嫌悪の対象とされてもいるようだが、清濁併せ呑んだ上で
ことをよきに計らう神道のワンクッションがあるから、日本では相撲のような、
ワクチン的な効能を持つ不道徳遊びが容認されているわけだ。
江戸時代における三井住友などの商業権力の肥大化も、その部類だ。
俺もまた、道徳と犯罪の取組を見守る行司の一人に過ぎない。
まあ、今のところ「道徳の山」四書五経と、「犯罪の海」イスラエル聖書との取組は、
四書五経こと道徳の山の側の常勝無敗で一貫し続けているわけだが。
別に俺が四書五経を贔屓しようとしなくたって、四書五経の本文がありのままに、
犯罪聖書の本文よりも質・量・古さの全てにおいて上回っているんだから仕方がない。
別に俺自身がことさらな“アンチキリスト”などにならずとも、“善悪の彼岸”という
公正な土俵上で、半ば自動的に、道徳の山が犯罪の海をすっ転ばし続けてくれているだけだから。
俺もまた、両力士を冷静に対照比較する、行司に徹しているだけでも十分に面白い。
「條理を始むるは智の事なり。條理を終うるは聖の事なり。
智は譬えば則ち巧みなり。聖は譬えば則ち力なり。由お百歩の外に射るなり。
其の至るは爾じの力なり。其の中れるは、爾じの力に非ざるなり」
「筋道が立って乱れがない状態は、智を始めとして聖を終わりとする。智は譬えるなら技巧のようなもので、
聖は譬えるなら力のようなもの。仮に最遠方の百歩離れたところから弓を射て、それが的に命中したとする。
的にまで矢が届いたのは弓を射る力が足りていたからだが、矢が的に命中したのは、力ではなく的に当てる技巧があったからだ。
(力ばかりがあって、めくらめっぽうに弓を射たりしたなら、その矢が『重権力犯罪実現の的』に命中してしまうことだってある。
『権力道徳実現』などの適切な的に命中させるためには、弓を射る力だけでなく、的を選別して命中させる技巧もまた必要なのだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・一より)
四書五経こと道徳の山の側の常勝無敗で一貫し続けているわけだが。
別に俺が四書五経を贔屓しようとしなくたって、四書五経の本文がありのままに、
犯罪聖書の本文よりも質・量・古さの全てにおいて上回っているんだから仕方がない。
別に俺自身がことさらな“アンチキリスト”などにならずとも、“善悪の彼岸”という
公正な土俵上で、半ば自動的に、道徳の山が犯罪の海をすっ転ばし続けてくれているだけだから。
俺もまた、両力士を冷静に対照比較する、行司に徹しているだけでも十分に面白い。
「條理を始むるは智の事なり。條理を終うるは聖の事なり。
智は譬えば則ち巧みなり。聖は譬えば則ち力なり。由お百歩の外に射るなり。
其の至るは爾じの力なり。其の中れるは、爾じの力に非ざるなり」
「筋道が立って乱れがない状態は、智を始めとして聖を終わりとする。智は譬えるなら技巧のようなもので、
聖は譬えるなら力のようなもの。仮に最遠方の百歩離れたところから弓を射て、それが的に命中したとする。
的にまで矢が届いたのは弓を射る力が足りていたからだが、矢が的に命中したのは、力ではなく的に当てる技巧があったからだ。
(力ばかりがあって、めくらめっぽうに弓を射たりしたなら、その矢が『重権力犯罪実現の的』に命中してしまうことだってある。
『権力道徳実現』などの適切な的に命中させるためには、弓を射る力だけでなく、的を選別して命中させる技巧もまた必要なのだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・一より)
道徳が犯罪に負けることは、原理的にできない。
犯罪よりも優良なのが道徳であり、道徳よりも劣悪なのが犯罪であるという風に、
われわれ人間自身が「道徳」とか「犯罪」とかいった言葉を定義しているために、
道徳とみなしたものが自然と犯罪よりも優良なものとなり、
犯罪とみなしたものも自然と道徳より劣悪ものとなってしまっている。
平たくいえば、道徳とは「善徳の実践」のことであり、犯罪とは「罪悪の実践」なわけだが、
理念上に定義されている善徳とか罪悪とかいった要素もやはり、善徳が罪悪よりも
自然と優良なものとなり、罪悪も自然と善徳よりも劣悪なものとなっている。
では、善徳とは具体的にどんなものかといえば、「富貴は道義に基づかなければ得ない(里仁第四・五)」
とかであり、逆に罪悪とは具体的になんなのかといえば、「不正な富で友達を作る(ルカ16:9)」とかだ。
ここにおよんで、善徳の具体例である「富貴は道義に基づかなければ得ない」を聞かされることで、
誰しもが「ああ、それは優良なことだなあ」と納得せざるを得ないし、逆に罪悪の具体例のほうの「不正な富で
友達を作る」と聞かされることで、これまた「ああ、それは劣悪なことだなあ」と納得せざるを得ない。ここにこそ、
善徳と罪悪、その実践である道徳と犯罪との、絶対的な優劣を誰しもが認めざるを得ない理由までもが集約されている。
犯罪よりも優良なのが道徳であり、道徳よりも劣悪なのが犯罪であるという風に、
われわれ人間自身が「道徳」とか「犯罪」とかいった言葉を定義しているために、
道徳とみなしたものが自然と犯罪よりも優良なものとなり、
犯罪とみなしたものも自然と道徳より劣悪ものとなってしまっている。
平たくいえば、道徳とは「善徳の実践」のことであり、犯罪とは「罪悪の実践」なわけだが、
理念上に定義されている善徳とか罪悪とかいった要素もやはり、善徳が罪悪よりも
自然と優良なものとなり、罪悪も自然と善徳よりも劣悪なものとなっている。
では、善徳とは具体的にどんなものかといえば、「富貴は道義に基づかなければ得ない(里仁第四・五)」
とかであり、逆に罪悪とは具体的になんなのかといえば、「不正な富で友達を作る(ルカ16:9)」とかだ。
ここにおよんで、善徳の具体例である「富貴は道義に基づかなければ得ない」を聞かされることで、
誰しもが「ああ、それは優良なことだなあ」と納得せざるを得ないし、逆に罪悪の具体例のほうの「不正な富で
友達を作る」と聞かされることで、これまた「ああ、それは劣悪なことだなあ」と納得せざるを得ない。ここにこそ、
善徳と罪悪、その実践である道徳と犯罪との、絶対的な優劣を誰しもが認めざるを得ない理由までもが集約されている。
では、なぜ人は「富貴は道義に基づかなければ得ない」と聞けば「優良なことだ」と納得せざるを得ず、
「不正な富で友達を作る」と聞けば「劣悪なことだ」と納得せざるを得ないのかといえば、
これまたちゃんと、切実で具体的な意味が必ず備わっている。
誰しもが富を得るときに道義性を念頭に置いたなら、限りのない貪りによって富を寡占するようなこともなくなり、
天下の万人が相応の富に与れるようになる一方で、逆に不正な富で友達を作ることばかりが横行したなら、
誰しもに満遍なく行き届かせたなら決して不足したりしないような分量の富までもが、不正な寡占によって誰しもには
行き渡らなくなり、最悪の場合には、地球人類の二割以下の人員で地球資源の八割以上を独占するような
ことにまでなって、天下の万人のうちの大部分が相応の富に与ることができなくなってしまったりするから。
「富貴は道義に基づかなければ得ない」のような善徳、その善徳の実践である道徳行為などは、
確かにそれが地球人類、天下万人の繁栄に直結しているから「優良だ」と見もなされる一方で、
「不正な富で友達を作る」のような罪悪、その罪悪の実践である犯罪行為などもまた同じく、
確かにそれが人類の破滅、地球人類の衰亡に直結しているから「劣悪だ」とも見なされるのだ。
ことの優劣ってのも、確かに人類の存亡にまで直結するところで判定されているのであり、
けっして個々人の無根拠な主観などに即してはいない。仮に無根拠な主観などに即しているとすれば、
そのよな優劣の判定がありのままに不当なものであり、正当な優劣判定の場合と比べて、劣悪なだけのこと。
不当で劣悪な優劣判定などとはまた別に、正当で優良な優劣判定もまたあるのであり、そのような判定のほうが
人間にとっての本性にも根ざした根本的なものである上に、人類の存亡にすら直結してもいるのだ。
人間もまた、根本のところでは、動物的な生存本能にも根ざした、堅実な文化構築に努めている。
「不正な富で友達を作る」と聞けば「劣悪なことだ」と納得せざるを得ないのかといえば、
これまたちゃんと、切実で具体的な意味が必ず備わっている。
誰しもが富を得るときに道義性を念頭に置いたなら、限りのない貪りによって富を寡占するようなこともなくなり、
天下の万人が相応の富に与れるようになる一方で、逆に不正な富で友達を作ることばかりが横行したなら、
誰しもに満遍なく行き届かせたなら決して不足したりしないような分量の富までもが、不正な寡占によって誰しもには
行き渡らなくなり、最悪の場合には、地球人類の二割以下の人員で地球資源の八割以上を独占するような
ことにまでなって、天下の万人のうちの大部分が相応の富に与ることができなくなってしまったりするから。
「富貴は道義に基づかなければ得ない」のような善徳、その善徳の実践である道徳行為などは、
確かにそれが地球人類、天下万人の繁栄に直結しているから「優良だ」と見もなされる一方で、
「不正な富で友達を作る」のような罪悪、その罪悪の実践である犯罪行為などもまた同じく、
確かにそれが人類の破滅、地球人類の衰亡に直結しているから「劣悪だ」とも見なされるのだ。
ことの優劣ってのも、確かに人類の存亡にまで直結するところで判定されているのであり、
けっして個々人の無根拠な主観などに即してはいない。仮に無根拠な主観などに即しているとすれば、
そのよな優劣の判定がありのままに不当なものであり、正当な優劣判定の場合と比べて、劣悪なだけのこと。
不当で劣悪な優劣判定などとはまた別に、正当で優良な優劣判定もまたあるのであり、そのような判定のほうが
人間にとっての本性にも根ざした根本的なものである上に、人類の存亡にすら直結してもいるのだ。
人間もまた、根本のところでは、動物的な生存本能にも根ざした、堅実な文化構築に努めている。
現在の民主党
理念は理想としては素晴らしいが、政権交代した後は公約を守らないで国民に総スカンを喰らいかけている
共産主義も資本主義も理念は理想として素晴らしくあるもので、結果からしか判断できない人間が理念そのものにもケチをつけている
これらと同じく、四書五経とやらも理想としては素晴らしいが、達せられていないのは早々に民衆に見限られているからであり、現実性に乏しく映るからだ
普通の人間は
理想と現実はべつものであるということが理解できないので、結果的な判断しかしないのですね
四書五経とやらよりも釈迦のほうが世の中に受け入れられているのも、現実性ゆえのことでしょう
信じることからはじめる道徳心に現実性はない
疑うことから信用は成り立つんだ
四書五経は疑われて現実性がないために排除されたという歴史に、未だにすがっているだけですね
理念は理想としては素晴らしいが、政権交代した後は公約を守らないで国民に総スカンを喰らいかけている
共産主義も資本主義も理念は理想として素晴らしくあるもので、結果からしか判断できない人間が理念そのものにもケチをつけている
これらと同じく、四書五経とやらも理想としては素晴らしいが、達せられていないのは早々に民衆に見限られているからであり、現実性に乏しく映るからだ
普通の人間は
理想と現実はべつものであるということが理解できないので、結果的な判断しかしないのですね
四書五経とやらよりも釈迦のほうが世の中に受け入れられているのも、現実性ゆえのことでしょう
信じることからはじめる道徳心に現実性はない
疑うことから信用は成り立つんだ
四書五経は疑われて現実性がないために排除されたという歴史に、未だにすがっているだけですね
四書五経を正典とする儒学が、実権統治の手段から廃絶されたのなんて、ここ百数十年だけの話。
そしてその百数十年の間にこそ、人類は致命的な過ちをも立て続けに犯し続け、
現代に至っては犠牲者数億人という、全人類史上にも未曾有の大虐殺にすら及んでいる。
中国や日本などにおいて、数百年規模の泰平社会を立て続けに成功させてきた儒家統治と比べて、
犯罪聖書を根本理念としたここ百数十年の人類社会の荒廃といったら、目も当てられないほど。
まさに、実権統治における業績の大小や巧拙の面においてこそ、儒学に基づく道徳的統治と、
聖書信仰に基づく権力犯罪支配とは、天と地ほどもの開きが生じているのであり、
あまりにも儒学統治のほうが優秀であり過ぎ、犯罪聖書による支配のほうが劣悪であり過ぎるために、
両者による統治支配がまともな比較対照をされたことすら、未だない。
まあ、比較対照してしまった時点で、二度と犯罪聖書などを嗜好の対象になんかできなくなるからでも
あるのだろうが。年寄りはどんなに優良な変革であろうとも、とにかく変革そのものを嫌がる生き物だからな。
「工師に命じ、百工に令して、五庫の量、金鐵、皮革筋、角齒、羽箭干、脂膠丹漆を審らかにし、良からざる或る
毋からしむ。百工咸な理むるや、監工日に號すらく、時に悖る毋く、淫巧を作為して以て上の心を蕩むる或る毋れと」
「工業を司る長官に命じて、工業従事者たちに、五庫に保管された貴金属や鉄鋼、皮革や筋、角や牙、羽毛や矢がら、
油脂や膠や赤漆などの量を調べてその管理を徹底させ、悪いことに用いたりすることがないようにさせる。
工業従事者を全員十分な管理下に置いた上で、工業監督官が以下のような号令を期日に必ず行う。
『割り当てられた労働時間に過不足なく働き、無駄な奇巧を作為してお上を誘惑したりするな』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
そしてその百数十年の間にこそ、人類は致命的な過ちをも立て続けに犯し続け、
現代に至っては犠牲者数億人という、全人類史上にも未曾有の大虐殺にすら及んでいる。
中国や日本などにおいて、数百年規模の泰平社会を立て続けに成功させてきた儒家統治と比べて、
犯罪聖書を根本理念としたここ百数十年の人類社会の荒廃といったら、目も当てられないほど。
まさに、実権統治における業績の大小や巧拙の面においてこそ、儒学に基づく道徳的統治と、
聖書信仰に基づく権力犯罪支配とは、天と地ほどもの開きが生じているのであり、
あまりにも儒学統治のほうが優秀であり過ぎ、犯罪聖書による支配のほうが劣悪であり過ぎるために、
両者による統治支配がまともな比較対照をされたことすら、未だない。
まあ、比較対照してしまった時点で、二度と犯罪聖書などを嗜好の対象になんかできなくなるからでも
あるのだろうが。年寄りはどんなに優良な変革であろうとも、とにかく変革そのものを嫌がる生き物だからな。
「工師に命じ、百工に令して、五庫の量、金鐵、皮革筋、角齒、羽箭干、脂膠丹漆を審らかにし、良からざる或る
毋からしむ。百工咸な理むるや、監工日に號すらく、時に悖る毋く、淫巧を作為して以て上の心を蕩むる或る毋れと」
「工業を司る長官に命じて、工業従事者たちに、五庫に保管された貴金属や鉄鋼、皮革や筋、角や牙、羽毛や矢がら、
油脂や膠や赤漆などの量を調べてその管理を徹底させ、悪いことに用いたりすることがないようにさせる。
工業従事者を全員十分な管理下に置いた上で、工業監督官が以下のような号令を期日に必ず行う。
『割り当てられた労働時間に過不足なく働き、無駄な奇巧を作為してお上を誘惑したりするな』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
仏教は、万年泰平状態のインドで生み出されたものであり、
インド本国で仏教が隆盛していたのも、今から約1500〜2000年前の、インド文化の
最盛期でもあったのだから、「儒学は仏教以上だ」などということは決して言えない。しかし、
◎万年泰平状態をも実現する仏教統治・・・とてつもなく素晴らしい。
○長期の泰平と一時の乱世との順繰りに持ち込む儒学・・・まだマシなほう。
×世の中を引っ切り無しの戦乱状態に陥れるカルト支配・・・目の当て所もない。
であり、犯罪聖書を根本理念とする権力犯罪支配と比べれは、
仏教統治とまでいかずとも、儒学統治ですらまだマシな部類に入る。
「統治」という言葉には、ある程度は「世の乱れを収拾する」という意味も込められているから、
ある程度は世の中を収拾できる、仏教や儒学による支配の場合は「統治」とも呼ぶことができるが、
犯罪聖書によるカルト支配の場合は、世の中を最悪の乱世に陥れているばかりなので、「統治」と
呼ぶことはできず、ただただ強権を濫用してでかい顔をするだけの「支配」どまりともなっている。
インド本国で仏教が隆盛していたのも、今から約1500〜2000年前の、インド文化の
最盛期でもあったのだから、「儒学は仏教以上だ」などということは決して言えない。しかし、
◎万年泰平状態をも実現する仏教統治・・・とてつもなく素晴らしい。
○長期の泰平と一時の乱世との順繰りに持ち込む儒学・・・まだマシなほう。
×世の中を引っ切り無しの戦乱状態に陥れるカルト支配・・・目の当て所もない。
であり、犯罪聖書を根本理念とする権力犯罪支配と比べれは、
仏教統治とまでいかずとも、儒学統治ですらまだマシな部類に入る。
「統治」という言葉には、ある程度は「世の乱れを収拾する」という意味も込められているから、
ある程度は世の中を収拾できる、仏教や儒学による支配の場合は「統治」とも呼ぶことができるが、
犯罪聖書によるカルト支配の場合は、世の中を最悪の乱世に陥れているばかりなので、「統治」と
呼ぶことはできず、ただただ強権を濫用してでかい顔をするだけの「支配」どまりともなっている。
なんで一部分しか顧みないんだ?記憶の改竄をしているのか?
過去においても決して平和ではなかったし、この数百年で社会は飛躍的に進歩を遂げている。
それによる印刷技術や現在の携帯やパソコンがなければ、アナタは一介のオッチャンでしょう。
何にしても他人の労働力を軽視しているとしか思えない。
現存在も知識を受け継いできたからこその知恵や思考であり、己そのものによって成り立つものなど一つとしてない。
そういった発展性の上にふんぞり返った考え方だ。物事には反動があり、一面だけを見ても真実とは言えない。道徳者はそんなことも知らないのか?
便利になっても尚欲望をもっている。カタチは少しちがっても、それと同じことだろう?アナタが指摘した積善や積徳の要求と同じものだよ。
己にとって都合よいことを節度とのたまう道徳者。
過去においても決して平和ではなかったし、この数百年で社会は飛躍的に進歩を遂げている。
それによる印刷技術や現在の携帯やパソコンがなければ、アナタは一介のオッチャンでしょう。
何にしても他人の労働力を軽視しているとしか思えない。
現存在も知識を受け継いできたからこその知恵や思考であり、己そのものによって成り立つものなど一つとしてない。
そういった発展性の上にふんぞり返った考え方だ。物事には反動があり、一面だけを見ても真実とは言えない。道徳者はそんなことも知らないのか?
便利になっても尚欲望をもっている。カタチは少しちがっても、それと同じことだろう?アナタが指摘した積善や積徳の要求と同じものだよ。
己にとって都合よいことを節度とのたまう道徳者。
こちとら、生活水準が江戸時代にまで戻るのも覚悟の上で書いてるんだもの。
パソコンも携帯も自動車も飛行機も使えなくなる一方で、
俺のほうとはといえば、定職に就いて妻子も養い、和本に原漢文だけの四書五経で勉強し、
うまくいきゃ二本差しの上級武士として、誰しもからの尊敬の的ともなっている。
完全に江戸時代に戻るってことも、実際のところまずないだろうが、
最悪の場合にはそうなることすら、覚悟の上で書いてもいる。
人として、最低限の品位ある生活を営む上で必要不可欠なものは、
江戸時代の時点ですべて用意されていたのであり、近現代文明の発展などは、
余計なものばかりの付け足しもいいとこ。確かにそれで楽しめることもあるが、
別にそれでなくたっていいものばかりで、しかも何億人もの人々の犠牲によってのみ
成り立っているものばかり。そんなものばかりの環境に安住しようってほうが、
安からざるところに安らぎ、楽しからざるところを楽しむ「狂生(荀子)」というものだ。
パソコンも携帯も自動車も飛行機も使えなくなる一方で、
俺のほうとはといえば、定職に就いて妻子も養い、和本に原漢文だけの四書五経で勉強し、
うまくいきゃ二本差しの上級武士として、誰しもからの尊敬の的ともなっている。
完全に江戸時代に戻るってことも、実際のところまずないだろうが、
最悪の場合にはそうなることすら、覚悟の上で書いてもいる。
人として、最低限の品位ある生活を営む上で必要不可欠なものは、
江戸時代の時点ですべて用意されていたのであり、近現代文明の発展などは、
余計なものばかりの付け足しもいいとこ。確かにそれで楽しめることもあるが、
別にそれでなくたっていいものばかりで、しかも何億人もの人々の犠牲によってのみ
成り立っているものばかり。そんなものばかりの環境に安住しようってほうが、
安からざるところに安らぎ、楽しからざるところを楽しむ「狂生(荀子)」というものだ。
近現代を支配する精神原理である犯罪聖書よりも、江戸時代までの日本などを統治する精神原理だった
四書五経のほうが一つ一つの文言からして優良であり、その実践によって最悪の戦乱状態ぐらいは確かに
免れられてもいたわけだから、どう考えたって江戸時代までの日本のほうが今よりもマシだったといえる。
どんなに膨大な金や技術や暴力などで取り繕ったところで、肝心の精神性の部分が
決定的に脆弱であり、常敗無勝の状態であるわけだから、どんなに文明構造は簡素であったところで、
その精神性については常に必ずそれ以上であるもののほうが、総合的にもより優良なものであり続ける。
物質や技術や力などは、所詮は精神という根本に対する末節でしかないのだから。
「君食を賜へば、必ず席を正して之れを先に嘗む。君腥を賜へば、必ず熟して之れを薦む。君生を賜へば、必ず之れを畜う」
「孔先生は、君公から賜物として料理を頂いたときには、必ず自ら味見をしてから一族のものに分け与えられた。
生肉を頂いたときには、よく煮て調理した上で先祖への供物とされた。家畜などの生き物を頂いたときには、
お祭りの際の生け贄にするまで責任をもって飼育された(賜物は決して私物にはしなかった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・一二より)
四書五経のほうが一つ一つの文言からして優良であり、その実践によって最悪の戦乱状態ぐらいは確かに
免れられてもいたわけだから、どう考えたって江戸時代までの日本のほうが今よりもマシだったといえる。
どんなに膨大な金や技術や暴力などで取り繕ったところで、肝心の精神性の部分が
決定的に脆弱であり、常敗無勝の状態であるわけだから、どんなに文明構造は簡素であったところで、
その精神性については常に必ずそれ以上であるもののほうが、総合的にもより優良なものであり続ける。
物質や技術や力などは、所詮は精神という根本に対する末節でしかないのだから。
「君食を賜へば、必ず席を正して之れを先に嘗む。君腥を賜へば、必ず熟して之れを薦む。君生を賜へば、必ず之れを畜う」
「孔先生は、君公から賜物として料理を頂いたときには、必ず自ら味見をしてから一族のものに分け与えられた。
生肉を頂いたときには、よく煮て調理した上で先祖への供物とされた。家畜などの生き物を頂いたときには、
お祭りの際の生け贄にするまで責任をもって飼育された(賜物は決して私物にはしなかった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・一二より)
アナタは欧米を毛嫌いしているが、実際に日本を潰そうとしているのは、在日を操ったり情報操作しようとする反日などの勢力のほうではないのか?
アナタの好きな某アジアの人間が日本に入り込み、欧米文化の都合よい部分だけを取り入れ、テレビなどをはじめとしてメディアで統制しようと利用しているのだろう?
その結果が現在ではないのか?
日本人には合わないであろう韓流などのTVドラマやKARAや少女時代などを放送して、徐々に浸透させているのではないのか?アナタも売国屋の一員なのか?
欧米と反日が反発してるのか組んでいるのかは知らないが
日本に対しては、どちらかと言えばアジアの人間のほうが直接的に関与しているよ
アナタの得た情報も改竄-編集-統制されてるよ
とうぜん手にすることができるものはすべてがそういったものだ
ネットワークは混濁しているようだが、唯一統制が行き届かない聖域だ
アナタの好きな某アジアの人間が日本に入り込み、欧米文化の都合よい部分だけを取り入れ、テレビなどをはじめとしてメディアで統制しようと利用しているのだろう?
その結果が現在ではないのか?
日本人には合わないであろう韓流などのTVドラマやKARAや少女時代などを放送して、徐々に浸透させているのではないのか?アナタも売国屋の一員なのか?
欧米と反日が反発してるのか組んでいるのかは知らないが
日本に対しては、どちらかと言えばアジアの人間のほうが直接的に関与しているよ
アナタの得た情報も改竄-編集-統制されてるよ
とうぜん手にすることができるものはすべてがそういったものだ
ネットワークは混濁しているようだが、唯一統制が行き届かない聖域だ
中朝の共産主義者と韓国のキリスト教徒が、日本の資本主義者に攻撃を仕掛ける。
どこにも正義のない、ゴミとゴミとゴミとゴミの争いだね。
そもそものゴミ争いの元凶であるゴミそのもの、欧米聖書圏が崩壊すれば一発解決。
どこにも正義のない、ゴミとゴミとゴミとゴミの争いだね。
そもそものゴミ争いの元凶であるゴミそのもの、欧米聖書圏が崩壊すれば一発解決。
好きだとか嫌いだとかの、女子供にとってばかり絶対的な
価値基準にすべてを還元してしまっていい話でもない。
ここ百数十年の、極東社会における諸々のいざこざですら、
帝国主義だの軍国主義だの資本主義だの共産主義だのキリスト教だのの
欧米原産のイデオロギーや宗教信仰によって引き起こされたものばかり。
戦前の日本の国家神道ですら、平田篤胤がキリスト教のドグマ志向を神道に取り入れた
代物で、儒学のような正統な東洋の学問はもちろんのこと、神社神道や沙門仏教などの
正統な東洋宗教が、近代以降の国際社会で活躍の場を得たような事実すらない。
今の、多くの中国人やインド人の、風体の薄汚さやみすぼらしさだって、
たった二割以下の地球資源で、十億人以上もの人々の生活を切り盛りする無理がたたって
いるからこそものであり、欧米人のように重権力犯罪によって八割以上の地球資源を独占する
ような罪業には及んでいないから、そうなってしまっているもの。逆に、欧米人のほうの
体格の良さや物質的繁栄などは、当該の重権力犯罪によってこそ獲得されたものなのだから、
たとえそれが魅力的に見えたとしても、魅力的だからといって決して善なのではなく、
最悪の罪業の実行者だからこそそうなっていることが明らか。
好きだから善だ、嫌いだから悪だ、そんな蒙昧が普遍的に通用するわけもなく、
悪だからこそ好きになれる、善だからこそ好きになれないなんてことはいくらでもある。
「巧言令色すくなきは仁なり」であり、巧言令色のやり手こそは人気をも得るのだから。
「今商王受、無道にして、天物を暴殄し、烝民を害虐す。天下に逋逃の主となり、萃淵藪となる」
「いま殷の紂王は、大逆無道にして、天地の万物を強奪によって損壊せしめ、無辜の市民たちに
危害を加える暴虐を働いている。それでいて天下に遍く指名手配された逃亡犯どもを囲い、
逃亡犯どもはまるで穴ぐらや淵や沼の茂みに逃げ込むように、紂王の傍を救いの場としている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・武成より)
価値基準にすべてを還元してしまっていい話でもない。
ここ百数十年の、極東社会における諸々のいざこざですら、
帝国主義だの軍国主義だの資本主義だの共産主義だのキリスト教だのの
欧米原産のイデオロギーや宗教信仰によって引き起こされたものばかり。
戦前の日本の国家神道ですら、平田篤胤がキリスト教のドグマ志向を神道に取り入れた
代物で、儒学のような正統な東洋の学問はもちろんのこと、神社神道や沙門仏教などの
正統な東洋宗教が、近代以降の国際社会で活躍の場を得たような事実すらない。
今の、多くの中国人やインド人の、風体の薄汚さやみすぼらしさだって、
たった二割以下の地球資源で、十億人以上もの人々の生活を切り盛りする無理がたたって
いるからこそものであり、欧米人のように重権力犯罪によって八割以上の地球資源を独占する
ような罪業には及んでいないから、そうなってしまっているもの。逆に、欧米人のほうの
体格の良さや物質的繁栄などは、当該の重権力犯罪によってこそ獲得されたものなのだから、
たとえそれが魅力的に見えたとしても、魅力的だからといって決して善なのではなく、
最悪の罪業の実行者だからこそそうなっていることが明らか。
好きだから善だ、嫌いだから悪だ、そんな蒙昧が普遍的に通用するわけもなく、
悪だからこそ好きになれる、善だからこそ好きになれないなんてことはいくらでもある。
「巧言令色すくなきは仁なり」であり、巧言令色のやり手こそは人気をも得るのだから。
「今商王受、無道にして、天物を暴殄し、烝民を害虐す。天下に逋逃の主となり、萃淵藪となる」
「いま殷の紂王は、大逆無道にして、天地の万物を強奪によって損壊せしめ、無辜の市民たちに
危害を加える暴虐を働いている。それでいて天下に遍く指名手配された逃亡犯どもを囲い、
逃亡犯どもはまるで穴ぐらや淵や沼の茂みに逃げ込むように、紂王の傍を救いの場としている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・武成より)
>>444の引用と直接関係があるわけではないが、逃亡犯でもあるような盗人どもの甘言に、
為政者たる君子(「道徳者」という意味での「君子」ではない)までもがたぶらかされて、
国家や社会ぐるみでの重権力犯罪が横行することが、戦乱状態の元凶中の元凶となると、
3000年以上前の中国でも明確に指摘されている。
犯罪聖書の全文が成立したのはたかだか1900年前やそこらだから、人類文明が発祥した
太古の昔から延々と、犯罪聖書が重権力犯罪の元凶中の元凶であり続けているわけでは決してないが、
犯罪聖書成立以降の約1900年、特にここ数百年当たりにおける地球規模での重権力犯罪は、
その全てがことごとく、犯罪聖書中の虚言甘言讒言放言巧言を、精神原理からの元凶としている。
巧言令色こそは確かに戦乱の元凶ともなるのであり、詐欺同然の虚言すらもが
言論の自由の名の下に容認されていることもまた、戦乱を助長する原因となっている。
「我々は限りのない戦乱を欲している」と明言するのならまだしも、戦乱を助長する過程で
「我々は平和を欲している」かのような虚言をも織り交ぜることで、社会的な反発をも避けている。
それが虚言家の常套手段であるのも確かだが、責任ある為政者の側までもがそのような虚言に
いつまでもたぶらかされているのであれば、ただただ自他共々の破滅が待っているのみだ。
為政者たる君子(「道徳者」という意味での「君子」ではない)までもがたぶらかされて、
国家や社会ぐるみでの重権力犯罪が横行することが、戦乱状態の元凶中の元凶となると、
3000年以上前の中国でも明確に指摘されている。
犯罪聖書の全文が成立したのはたかだか1900年前やそこらだから、人類文明が発祥した
太古の昔から延々と、犯罪聖書が重権力犯罪の元凶中の元凶であり続けているわけでは決してないが、
犯罪聖書成立以降の約1900年、特にここ数百年当たりにおける地球規模での重権力犯罪は、
その全てがことごとく、犯罪聖書中の虚言甘言讒言放言巧言を、精神原理からの元凶としている。
巧言令色こそは確かに戦乱の元凶ともなるのであり、詐欺同然の虚言すらもが
言論の自由の名の下に容認されていることもまた、戦乱を助長する原因となっている。
「我々は限りのない戦乱を欲している」と明言するのならまだしも、戦乱を助長する過程で
「我々は平和を欲している」かのような虚言をも織り交ぜることで、社会的な反発をも避けている。
それが虚言家の常套手段であるのも確かだが、責任ある為政者の側までもがそのような虚言に
いつまでもたぶらかされているのであれば、ただただ自他共々の破滅が待っているのみだ。
「亂の初め生ずるも、僭の始めに既に涵るればなり。
亂の又た生ずるも、君子の讒を信ずればなり。
君子如し怒れば、亂も庶わば遄かに沮みなん。
君子如し祉べば、亂も庶わば遄かに已みなん。
君子の屢ばしば盟うや、亂も是の用えに長きに。
君子の盜を信ずるや、亂も是の用えに暴しき。
盜言の孔だ甘し、亂も是の用えに餤む」
「戦乱もその発端はといえば、必ず僭越な虚言が横行し始めたことによる。
戦乱が絶え間なく繰り返されることもまた、君子から不埒な讒言を信じ込んでいることによる。
君子がもしこのような惨状を心から憤怒すれば、戦乱もその願いどおり速やかに止むであろう。
君子が惨劇の終焉を心から喜べば、戦乱も願いどおりに終息しつづけて止まない。
しかし実際はといえば、守れもしないような空手形の誓約ばかりが横行して、戦乱もこの故に収まることがない。
盗人の詐欺目的の虚言ばかりが信ぜられて、戦乱もこの上なくその激しさを増していく。
盗人どもの虚言の甘美さばかりに惑わされ、戦乱もどこまでも進行し続ける」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
亂の又た生ずるも、君子の讒を信ずればなり。
君子如し怒れば、亂も庶わば遄かに沮みなん。
君子如し祉べば、亂も庶わば遄かに已みなん。
君子の屢ばしば盟うや、亂も是の用えに長きに。
君子の盜を信ずるや、亂も是の用えに暴しき。
盜言の孔だ甘し、亂も是の用えに餤む」
「戦乱もその発端はといえば、必ず僭越な虚言が横行し始めたことによる。
戦乱が絶え間なく繰り返されることもまた、君子から不埒な讒言を信じ込んでいることによる。
君子がもしこのような惨状を心から憤怒すれば、戦乱もその願いどおり速やかに止むであろう。
君子が惨劇の終焉を心から喜べば、戦乱も願いどおりに終息しつづけて止まない。
しかし実際はといえば、守れもしないような空手形の誓約ばかりが横行して、戦乱もこの故に収まることがない。
盗人の詐欺目的の虚言ばかりが信ぜられて、戦乱もこの上なくその激しさを増していく。
盗人どもの虚言の甘美さばかりに惑わされ、戦乱もどこまでも進行し続ける」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
誰でも、現在の目的は遠い理想にはなく、目の前の現実にある。理想や建て前と比較して、その現実を受け入れられない人間が、たとえば天皇や相撲取りや政党などに、結果的な部分だけで理想ごと否定します。原因は、生来の人間性を無視して高尚さを掲げているからです。
できるわけがないのに宣言したりするのは何故か?それはチャンスを得るための建て前だからです。社会は、そういった理想や建て前を掲げて統率しようとしていますが、現実は武器を取り上げて戦場に放り込むが如くです。
前にも似たような内容のものは書きましたが、四書五経は建て前を語っているだけだよ。できもしない-己にしかできない素晴らしい生き方を説いてどうする?
自分さえよければ-というなら人里離れて山奥で暮らせばいいだけだろ
できるわけがないのに宣言したりするのは何故か?それはチャンスを得るための建て前だからです。社会は、そういった理想や建て前を掲げて統率しようとしていますが、現実は武器を取り上げて戦場に放り込むが如くです。
前にも似たような内容のものは書きましたが、四書五経は建て前を語っているだけだよ。できもしない-己にしかできない素晴らしい生き方を説いてどうする?
自分さえよければ-というなら人里離れて山奥で暮らせばいいだけだろ
四書五経の内容は「できないこと」じゃない。
頂点の君主から底辺の下民まで、誰にでもできる程度の
最低限の「庸徳」のみを列挙していっているものであり、
だからこそより高尚な仏門などの教義よりも程度の低いものともされている。
富貴も色情も戦意も憤怒も全否定はせず、ただそのようなあまり高尚とはされない理念が
最悪の重権力犯罪行為にだけは仕向けられないように、というのが儒家教学の要旨。
さらにここからもう一段下がれば、後はもう数億人規模の犠牲を伴う
最悪の重権力犯罪行為をも推進する、最劣等のカルト教学の実践があるのみ。
別にそこまでひどくなくたって、儒学程度の、最低限の分別をわきまえた生き方もまた、
全ての俗人が実践を試みて、実際に十分な実現が可能となるものであり、
むしろ最悪の重権力犯罪行為を誰しもに強要したりするほうが、かえって無理を来たすもの。
実際に致命的な無理を来たしてもいるから、このままでは人類もそう先は長くない。
「現実性に乏しい」という点でも、儒学以上にも聖書信仰のほうが適格な存在でもある。
頂点の君主から底辺の下民まで、誰にでもできる程度の
最低限の「庸徳」のみを列挙していっているものであり、
だからこそより高尚な仏門などの教義よりも程度の低いものともされている。
富貴も色情も戦意も憤怒も全否定はせず、ただそのようなあまり高尚とはされない理念が
最悪の重権力犯罪行為にだけは仕向けられないように、というのが儒家教学の要旨。
さらにここからもう一段下がれば、後はもう数億人規模の犠牲を伴う
最悪の重権力犯罪行為をも推進する、最劣等のカルト教学の実践があるのみ。
別にそこまでひどくなくたって、儒学程度の、最低限の分別をわきまえた生き方もまた、
全ての俗人が実践を試みて、実際に十分な実現が可能となるものであり、
むしろ最悪の重権力犯罪行為を誰しもに強要したりするほうが、かえって無理を来たすもの。
実際に致命的な無理を来たしてもいるから、このままでは人類もそう先は長くない。
「現実性に乏しい」という点でも、儒学以上にも聖書信仰のほうが適格な存在でもある。

グリームスヴォトン山などが立て続けに噴火して、全世界規模での冷害が発生した。
洋の東西を問わず歴史的な農作物の凶作に見舞われ、これが原因となって、
フランスでは王政を転覆させて共和政を敷くフランス革命が勃発したが、
日本のほうはといえば、これまた近世日本史上最悪の飢饉である天明の大飢饉に見舞われ、
90万人以上もの人々が餓死する大災害となっていた。そのためにやはり世相も乱れて
火付盗賊などが横行し、その火盗を取り締まる鬼平のような人物の活躍もあったわけだが、
それでもやはりフランスのように、天災被害の責任を体制に押し付けて、
王政を転覆させるような重権力犯罪にまでは至らなかった。それもやはり、
忠信を旨とする儒家教学の、民衆にまでもの教育が行き届いていたからで、
どんなに低劣な俗人だろうとも、社会ぐるみでの正学のわきまえによって、
体制崩壊級の権力犯罪ぐらいは思いとどまらせることが可能である証拠になっている。
この世で儒学ほど、「そうであるしか仕方がない」、
人としての不可避なるあり方を指し示したものも他にない。
結局は、自然災害の責任を体制に押し付ける暴挙にすぎなかったフランス革命も、
西洋社会を破滅級の狂乱へとけしかけるきっかけとなったばかりであり、「天災の恨みを
人に向けたりしてはいけない」という分別を保てていた日本以上にも、西洋社会を
最終的な衰亡へと追いやる原因になってしまったのみ。同時期に酷烈な飢餓にあえいでいた
日本の民衆なども、そんなにいい思いをしていたなどとは決していえないが、ただ、
天災の恨みを人に向けたりしたところでいいことは何もないというのも確かなことであったために、
最終的には西洋社会ほどもの恥辱を味わわされずに済むこととなった。いいこともあれば
悪いこともある世の中において、「そうであるしか仕方がない」という意味でも、
比較的マシな処世のあり方を天下万民に提供するのが、儒学であるのみだともいえる。
四書五経と犯罪聖書の記述はことごとく相反しているから、
もし四書五経などに基づいて儒学を実践するのであれば、犯罪聖書の記述の実践のほうを禁止しなければならない。
難しいのは、四書五経の実践以上にも、犯罪聖書の実践の禁止のほうであり、
犯罪聖書の実践すら禁止できたなら、四書五経のほうの実践のほうは、
それこそ幼稚園児にだってできるぐらいに簡単なもの。
あたかも麻薬中毒者が薬物中毒から脱け出すときのような禁断症状が、
聖書信仰から脱却する上での障壁ともなるわけだが、そこすら通り過ぎられたなら、
後は軽々と庸徳の実践もできるようになる。それこそ、犯罪聖書の実践などよりも遥かに簡単に。
○
「篤く信じて学を好み、死を守りて道を善くし、危邦には入らず、乱邦には居らず」
「心を尽くした信頼と共に、学問によって知識を得ることを好み、たとえ自らの命を犠牲にすることを認めながらでも、
知識を捨ててまでの絶対服従を強要するような劣悪な邪神に帰依したりはしない、人としての正しい道を守り抜き、
カルト犯罪者が支配しているような危険な国には入らず、体制転覆が横行するような乱れた国にも居つかない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・一三より)
×
「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」
(権力犯罪聖書——通称聖書——讒言3:5‐6)
もし四書五経などに基づいて儒学を実践するのであれば、犯罪聖書の記述の実践のほうを禁止しなければならない。
難しいのは、四書五経の実践以上にも、犯罪聖書の実践の禁止のほうであり、
犯罪聖書の実践すら禁止できたなら、四書五経のほうの実践のほうは、
それこそ幼稚園児にだってできるぐらいに簡単なもの。
あたかも麻薬中毒者が薬物中毒から脱け出すときのような禁断症状が、
聖書信仰から脱却する上での障壁ともなるわけだが、そこすら通り過ぎられたなら、
後は軽々と庸徳の実践もできるようになる。それこそ、犯罪聖書の実践などよりも遥かに簡単に。
○
「篤く信じて学を好み、死を守りて道を善くし、危邦には入らず、乱邦には居らず」
「心を尽くした信頼と共に、学問によって知識を得ることを好み、たとえ自らの命を犠牲にすることを認めながらでも、
知識を捨ててまでの絶対服従を強要するような劣悪な邪神に帰依したりはしない、人としての正しい道を守り抜き、
カルト犯罪者が支配しているような危険な国には入らず、体制転覆が横行するような乱れた国にも居つかない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・一三より)
×
「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」
(権力犯罪聖書——通称聖書——讒言3:5‐6)
噴火は革命の遠因に過ぎず階級社会への反発が発端だったはず
困窮に陥れば人間は本性をむき出しにする-それに情報(ルソー)を与えてやれば-現実的な行動を開始するというのが革命の真実
ほとんどの人間には主体性がない
日本の事例にしても強烈なリーダーなどが煽動すれば民衆はどうとでも動きます
民衆に教育が行き届いていたわけではなく-民衆にはどうすることもできなかった、が正しい
それに
諸説はあるが冷害は噴火より先にあったはず
モノは言い様というやつか…
打ちこわしにしろ革命にしろ四書五経はできないことだと現実で証明されている
困窮に陥れば人間は本性をむき出しにする-それに情報(ルソー)を与えてやれば-現実的な行動を開始するというのが革命の真実
ほとんどの人間には主体性がない
日本の事例にしても強烈なリーダーなどが煽動すれば民衆はどうとでも動きます
民衆に教育が行き届いていたわけではなく-民衆にはどうすることもできなかった、が正しい
それに
諸説はあるが冷害は噴火より先にあったはず
モノは言い様というやつか…
打ちこわしにしろ革命にしろ四書五経はできないことだと現実で証明されている
できないんじゃない、しないし、させないんだ。
天災による困窮の責任を、お上に全て押し付けようってほうが間違いであり、
実際そんな迷妄を礼賛して推進してきたから、昨今の地球社会における数億人規模もの餓死が発生してしまってもいる。
問題の解決法を根本的に取り違える過ちを、
230年前の日本人たちに犯させなかったことこそは四書五経の側の業績であり、
大天災があったからといって、フランス革命のような“人災”の惨事までをも
派生させたりはしなかったことこそは、評価されて然るべきところだ。
「体制への反発」なんてのも、所詮は蒙昧な大衆意志を美化するための言い訳に過ぎず、
忠信を貫く心意気にも長けていた、同時期の日本人などと比べれば劣位なものとして扱われるべきものだ。
天災による困窮の責任を、お上に全て押し付けようってほうが間違いであり、
実際そんな迷妄を礼賛して推進してきたから、昨今の地球社会における数億人規模もの餓死が発生してしまってもいる。
問題の解決法を根本的に取り違える過ちを、
230年前の日本人たちに犯させなかったことこそは四書五経の側の業績であり、
大天災があったからといって、フランス革命のような“人災”の惨事までをも
派生させたりはしなかったことこそは、評価されて然るべきところだ。
「体制への反発」なんてのも、所詮は蒙昧な大衆意志を美化するための言い訳に過ぎず、
忠信を貫く心意気にも長けていた、同時期の日本人などと比べれば劣位なものとして扱われるべきものだ。
単に民衆には何故困窮に陥っているのかを理解できず、問題点を自然の法則だと思うしかなかっただけだ。
その時代の民衆も情報統制されているため、ワケもわからずシッカリと取り立てられている。
一部分-聞こえのいい部分だけに業績だなどとこじつけもいいところだ。
しない-させない
これは現実的にできないということなんだよ
人間生来の本性は統制された安定を好む-これは生き物として当たり前の行動原理-知識で鑑みてもそれが有益であると分かる。
それは統制する側も同じで、より有益で安定を好むめに、どんどん搾取するための案をアメとムチのように使い分ける。
その中の気まぐれのような善意に『これこそは四書五経の業績』などと取り入ろうとする道徳者も、また、自然の営みであり欲の権化-一つの生き方であると言える。
そういった生活の術を、『四書五経こそは真の聖書』などと正当化するのも個人的な有益さであるから否定はしない。
ただ、己の獣性に気がついていないだけ-孔子も、また、小人なのだから仕方ない。
道徳者は様々な術を駆使して懸命に生き抜いてきたのだな…己の本性を素直に認めれば楽な生き方もあるというのに…
生きる術として-詐欺商法としての道徳者が在ったことは認めよう。現実性のない夢のように
これからも、矛盾ない詐欺を駆使して生きるのだぞ?ガンバレ!
その時代の民衆も情報統制されているため、ワケもわからずシッカリと取り立てられている。
一部分-聞こえのいい部分だけに業績だなどとこじつけもいいところだ。
しない-させない
これは現実的にできないということなんだよ
人間生来の本性は統制された安定を好む-これは生き物として当たり前の行動原理-知識で鑑みてもそれが有益であると分かる。
それは統制する側も同じで、より有益で安定を好むめに、どんどん搾取するための案をアメとムチのように使い分ける。
その中の気まぐれのような善意に『これこそは四書五経の業績』などと取り入ろうとする道徳者も、また、自然の営みであり欲の権化-一つの生き方であると言える。
そういった生活の術を、『四書五経こそは真の聖書』などと正当化するのも個人的な有益さであるから否定はしない。
ただ、己の獣性に気がついていないだけ-孔子も、また、小人なのだから仕方ない。
道徳者は様々な術を駆使して懸命に生き抜いてきたのだな…己の本性を素直に認めれば楽な生き方もあるというのに…
生きる術として-詐欺商法としての道徳者が在ったことは認めよう。現実性のない夢のように
これからも、矛盾ない詐欺を駆使して生きるのだぞ?ガンバレ!
カルト信仰に脳みそをやられてヘロヘロになっているところに、
さらに天災が襲ってきたもんだから、ついカッとなってやってしまったってのは、確かだろう。
でも、別にそれが「偉い」だなんてことはもちろんない。
むしろ民の側の道徳的研鑽によって、天災はともかく、人災のほうだけは、
最小限に控えられていたことのほうが、よっぽど偉かったというもの。
残念ながら起こってしまった凶事を、相応なものとして弔うのならともかく、
天災に不必要な人災が折り重なった「凶事の上塗り」を、
半ば吉事も同然のものとして取り扱ったりするのだから、目も当てられない。
天災に対して必死で耐えていた、道徳主義社会の人々が偉大だったという以上にも、
最悪の乱行を偉業だったなどと思い込んで悦に入る、犯罪主義社会の衆愚のほうが無様すぎただけのことだ。
劣悪で、しかも無様だった。
その、あまりにもの救いようのなさに我をも見失って、
まともな自己評価までもが追い付かなくなっているだけだ。
さらに天災が襲ってきたもんだから、ついカッとなってやってしまったってのは、確かだろう。
でも、別にそれが「偉い」だなんてことはもちろんない。
むしろ民の側の道徳的研鑽によって、天災はともかく、人災のほうだけは、
最小限に控えられていたことのほうが、よっぽど偉かったというもの。
残念ながら起こってしまった凶事を、相応なものとして弔うのならともかく、
天災に不必要な人災が折り重なった「凶事の上塗り」を、
半ば吉事も同然のものとして取り扱ったりするのだから、目も当てられない。
天災に対して必死で耐えていた、道徳主義社会の人々が偉大だったという以上にも、
最悪の乱行を偉業だったなどと思い込んで悦に入る、犯罪主義社会の衆愚のほうが無様すぎただけのことだ。
劣悪で、しかも無様だった。
その、あまりにもの救いようのなさに我をも見失って、
まともな自己評価までもが追い付かなくなっているだけだ。
IQ100程度の平均知能を持ち合わせている、人としての本性を最大限に引き伸ばしたなら、
それこそはまさに「道徳的研鑽」に至るのであり、むしろ人々のIQを20〜35の重度知的障害レベルにまで
落とし込んでの、チンパンジー以下の迷妄に陥れることのほうが、かえって無駄に作為的な試みというもの。
人間という生き物、人類社会や人類文明のあり方を、その根本的な存在性にかなう形で文言面から司ってきたのが、
全世界全地球人類にとっての聖書中の聖書であり、第一の聖書であり、第一に真正なる聖書でもある四書五経。
その成立も犯罪聖書などより遥かに古く、発行部数も桁外れに多く、その内容の上質さでも遥かに上回る。
「質で上回る」というのも、四書五経こそは人という生き物の素直な本性をありのままに、順当な形で捉えているからであり、
わざわざあえて必要もなく好き好んで、人間の本性を実際以上にも劣悪なものとして捉える、新旧約犯罪聖書のような余計
かつ有害無益な作為を排しているからこそのこと。人間という生き物の「本当の初期条件(デフォルト)」をありのままに
取り扱っているからこそ、犯罪聖書以上の内容の上質さをも恒常的に保てているのであり、その初期条件に対する扱いも、
書物として著す上では最低限の作為の介入と共にのみであるように努められている。その、楚々とした記述姿勢と比べれば、
むしろ犯罪聖書の記述姿勢のほうが全く不細工な作為の塊であるといえ、そのせいで極端に読みにくいものともなっている。
それこそはまさに「道徳的研鑽」に至るのであり、むしろ人々のIQを20〜35の重度知的障害レベルにまで
落とし込んでの、チンパンジー以下の迷妄に陥れることのほうが、かえって無駄に作為的な試みというもの。
人間という生き物、人類社会や人類文明のあり方を、その根本的な存在性にかなう形で文言面から司ってきたのが、
全世界全地球人類にとっての聖書中の聖書であり、第一の聖書であり、第一に真正なる聖書でもある四書五経。
その成立も犯罪聖書などより遥かに古く、発行部数も桁外れに多く、その内容の上質さでも遥かに上回る。
「質で上回る」というのも、四書五経こそは人という生き物の素直な本性をありのままに、順当な形で捉えているからであり、
わざわざあえて必要もなく好き好んで、人間の本性を実際以上にも劣悪なものとして捉える、新旧約犯罪聖書のような余計
かつ有害無益な作為を排しているからこそのこと。人間という生き物の「本当の初期条件(デフォルト)」をありのままに
取り扱っているからこそ、犯罪聖書以上の内容の上質さをも恒常的に保てているのであり、その初期条件に対する扱いも、
書物として著す上では最低限の作為の介入と共にのみであるように努められている。その、楚々とした記述姿勢と比べれば、
むしろ犯罪聖書の記述姿勢のほうが全く不細工な作為の塊であるといえ、そのせいで極端に読みにくいものともなっている。
ペテンであるということ、現実性に欠ける夢想に過ぎないということも、まさに犯罪聖書の側にとってこそのみ
当てはまる用件であり、一介の学者や下級役人としての自らの身の程をよくわきまえていた孔子が、イエスのような
悪意をもって、真正道徳学たる儒学を興したような事実もなければ、その正典である五経を編纂したような事実もない。
同じ妾腹の私生児という境遇に産まれながらも、片や一介の道徳学者としての事業に徹し、片や自暴自棄となって全人類の
三分の一を決定的な破滅へと導く邪教の教祖となった。230年前の日本人とフランス人が、同じ天災に見舞われながらも、
片や忠節を守り通し、片や自暴自棄の狂乱に走ったのと同じように、先天的な不遇などではなく、自分たち自身の心がけ
こそが、天下に美名を轟かす大道徳学者と、これから致命的な汚名を轟かすカルト教祖との、命運をも分かったのだ。
当てはまる用件であり、一介の学者や下級役人としての自らの身の程をよくわきまえていた孔子が、イエスのような
悪意をもって、真正道徳学たる儒学を興したような事実もなければ、その正典である五経を編纂したような事実もない。
同じ妾腹の私生児という境遇に産まれながらも、片や一介の道徳学者としての事業に徹し、片や自暴自棄となって全人類の
三分の一を決定的な破滅へと導く邪教の教祖となった。230年前の日本人とフランス人が、同じ天災に見舞われながらも、
片や忠節を守り通し、片や自暴自棄の狂乱に走ったのと同じように、先天的な不遇などではなく、自分たち自身の心がけ
こそが、天下に美名を轟かす大道徳学者と、これから致命的な汚名を轟かすカルト教祖との、命運をも分かったのだ。
最近のある事例を用いたほうが、わかりやすいだろう
警官が、飲酒運転をして他の車に衝突して、その車に乗っていた二人に軽傷を負わせて、そのまま車で逃走するという事件がありました
これは当たり前の対処じゃないの?飲酒運転-事故-自分の立場-家族の未来
そう一瞬で連想するのが普通の人間の反応でしょ?
ま、結果的に妻に運転していたのは自分だと言わせようとして、しかしアッサリ隠蔽工作はバレてしまったのだが、妻は機転が利かないとしか言い様がない
だって夫だぞ?どう考えたところで妻のひき逃げ事件にしたほうが丸くおさまるのに?この後どうするの?
言い逃れるのがたいへんでも、今まで通りを押し通すことのほうが大事だと思うが?もちろん被害者が軽傷であるという前提があるためだが
警官がいつでも真面目でいられるとか、理想から考えるのが誤りなんだ
建て前なんか今まで達せられたことがあるのか?
資本主義-共産主義-自民党-民主党-相撲取りなどと理想を掲げても達せらず、結果的なものだけで否定されてきた
そんな建て前は、チャンスをもらうための方便なのだから理想に囚われてはいけない
生来の醜い本性から目を背けることが問題なのだ
という事件への感想
これには正論はとっくに織り込み済みです
その正論こそが人間の生活を苦しめる元凶なのだと言っているのです
同じく道徳こそが人間を苦しめることにもなるのだ-ホントに現実をみているのか?理想は達せられずに非難されるだけだ
理想を信じて裏切られ反発する-その繰り返しが-人間の歴史なのだ
道徳者も同じ道しか見えていないだろう?理想は達成できないということが、未だに理解できないとは愚かしいことこの上ないぞ?
警官が、飲酒運転をして他の車に衝突して、その車に乗っていた二人に軽傷を負わせて、そのまま車で逃走するという事件がありました
これは当たり前の対処じゃないの?飲酒運転-事故-自分の立場-家族の未来
そう一瞬で連想するのが普通の人間の反応でしょ?
ま、結果的に妻に運転していたのは自分だと言わせようとして、しかしアッサリ隠蔽工作はバレてしまったのだが、妻は機転が利かないとしか言い様がない
だって夫だぞ?どう考えたところで妻のひき逃げ事件にしたほうが丸くおさまるのに?この後どうするの?
言い逃れるのがたいへんでも、今まで通りを押し通すことのほうが大事だと思うが?もちろん被害者が軽傷であるという前提があるためだが
警官がいつでも真面目でいられるとか、理想から考えるのが誤りなんだ
建て前なんか今まで達せられたことがあるのか?
資本主義-共産主義-自民党-民主党-相撲取りなどと理想を掲げても達せらず、結果的なものだけで否定されてきた
そんな建て前は、チャンスをもらうための方便なのだから理想に囚われてはいけない
生来の醜い本性から目を背けることが問題なのだ
という事件への感想
これには正論はとっくに織り込み済みです
その正論こそが人間の生活を苦しめる元凶なのだと言っているのです
同じく道徳こそが人間を苦しめることにもなるのだ-ホントに現実をみているのか?理想は達せられずに非難されるだけだ
理想を信じて裏切られ反発する-その繰り返しが-人間の歴史なのだ
道徳者も同じ道しか見えていないだろう?理想は達成できないということが、未だに理解できないとは愚かしいことこの上ないぞ?
>>457がほざいてる道徳などと違って、
俺が言ってる道徳は、「達成すべき理想」ですらない。
人間社会がことを進めていく上で、もっとも無難な選択肢であるのみ。
現時点ですでに何億人もの犠牲者をはじき出し、
確実に数十年後には滅亡が待っているカルト犯罪支配下の人類社会が、
一応、それ以上もの延命を保つための手段となるのが儒学道徳。
儒学道徳による統治が再開されたからといって、理想に満ち満ちた世の中に
なるなどとも保証できず、天命の大飢饉のような災難に遭遇する
可能性もあれば、それにより世相が悪化して、私的規模での
火付盗賊が横行するようになる可能性だってある。
ただ、時の権力者までもが致命的な重権力犯罪に手を染めることで
全人類が「人災」によって滅亡へと陥れられるようなことだけはなくなる。
大局的な側面において、犯罪聖書によるカルト洗脳支配よりも、
四書五経による道徳統治のほうが、最悪の戦乱や破滅ぐらいは免れる
程度にはマシになるというだけのことで、そこにいち老人の孤独死だの、
いち警官による飲酒運転事故だの、相撲取りの八百長だのの瑣末な
部分部分の問題を持ち込んできたところで、ただそれは、部分の問題
ばかりを見て全体の問題が見えなくなる「弁士一曲(荘子)」であるのみ。
そのような部分部分の問題もまた、カルト洗脳支配下の世の中よりは、
道徳統治下のほうが「減る」だろうということはいえるが、決して
「根絶される」とまでは保証できない。善もあれば悪もある、
清濁併せ呑んだ世の中を、最悪の破滅状態よりは多少マシにする
程度のことが、どうして、「理想の達成」などであるはずもない。
むしろ多少はマシであるぐらいのほうが、最悪の破滅状態にいつまでも
世の中を追い込み続けているより、よっぽど現実的というものだ。
俺が言ってる道徳は、「達成すべき理想」ですらない。
人間社会がことを進めていく上で、もっとも無難な選択肢であるのみ。
現時点ですでに何億人もの犠牲者をはじき出し、
確実に数十年後には滅亡が待っているカルト犯罪支配下の人類社会が、
一応、それ以上もの延命を保つための手段となるのが儒学道徳。
儒学道徳による統治が再開されたからといって、理想に満ち満ちた世の中に
なるなどとも保証できず、天命の大飢饉のような災難に遭遇する
可能性もあれば、それにより世相が悪化して、私的規模での
火付盗賊が横行するようになる可能性だってある。
ただ、時の権力者までもが致命的な重権力犯罪に手を染めることで
全人類が「人災」によって滅亡へと陥れられるようなことだけはなくなる。
大局的な側面において、犯罪聖書によるカルト洗脳支配よりも、
四書五経による道徳統治のほうが、最悪の戦乱や破滅ぐらいは免れる
程度にはマシになるというだけのことで、そこにいち老人の孤独死だの、
いち警官による飲酒運転事故だの、相撲取りの八百長だのの瑣末な
部分部分の問題を持ち込んできたところで、ただそれは、部分の問題
ばかりを見て全体の問題が見えなくなる「弁士一曲(荘子)」であるのみ。
そのような部分部分の問題もまた、カルト洗脳支配下の世の中よりは、
道徳統治下のほうが「減る」だろうということはいえるが、決して
「根絶される」とまでは保証できない。善もあれば悪もある、
清濁併せ呑んだ世の中を、最悪の破滅状態よりは多少マシにする
程度のことが、どうして、「理想の達成」などであるはずもない。
むしろ多少はマシであるぐらいのほうが、最悪の破滅状態にいつまでも
世の中を追い込み続けているより、よっぽど現実的というものだ。
削除(by投稿者)
道徳統治下の日本人とて、天明の大飢饉のような自然災害は避けられなかった。でも、
天災の苦しみに乗じて体制までをも転覆させるような、自業自得での二重の苦しみだけは避けられた。
孔子もまた妾腹の私生児として産まれ、母親に父の身元すら教えられずに育ったが、 だからといって
自暴自棄になってカルト教義を触れ回ったりせず、自力で父親の身元を探し出して 墓前での追善供養も果たし、
故国かつ周朝の重臣・周公旦の封土だった魯国の、豊富な文化資料を研究・編纂して五経をも大成させた。
天災や、先天性の不可避なる苦しみに、自業自得での苦しみを上乗せして二重の苦しみとすることで、
そのあられもなさを「福音」にすり替えるような、言い訳のしようもない無様さだけは自力で避けられていた点が、
道徳主義がカルト犯罪主義よりもマシである確かな証拠になっているし、逆にカルト犯罪主義のほうが、
避けられる苦しみすらわざわざ嗜好したことによる、不必要な辱めや危難の元凶である証拠ともなっている。
「困しむべき所に非ずして困しめば、名必ず辱めらる。據るべき所に非ずして據れば、
身必ず危うし。既に辱しめられ且つ危うければ、死期將に至らんとす。妻も其れ見ること得べけんや」
「苦しむべきでもない所に苦しんだりすれば、その愚かしさによって必ず名をも辱しめられる。
頼るべきでもないものに頼ったりすれば、必ずわが身までもが危うくなる。もはやすでに
名を辱しめられてわが身までもが危ういというのなら、死期ももうすぐだといえる。
その劣悪で無様な死を、わが妻ですらもが恥じ入って見取ることはあるまい」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
天災の苦しみに乗じて体制までをも転覆させるような、自業自得での二重の苦しみだけは避けられた。
孔子もまた妾腹の私生児として産まれ、母親に父の身元すら教えられずに育ったが、 だからといって
自暴自棄になってカルト教義を触れ回ったりせず、自力で父親の身元を探し出して 墓前での追善供養も果たし、
故国かつ周朝の重臣・周公旦の封土だった魯国の、豊富な文化資料を研究・編纂して五経をも大成させた。
天災や、先天性の不可避なる苦しみに、自業自得での苦しみを上乗せして二重の苦しみとすることで、
そのあられもなさを「福音」にすり替えるような、言い訳のしようもない無様さだけは自力で避けられていた点が、
道徳主義がカルト犯罪主義よりもマシである確かな証拠になっているし、逆にカルト犯罪主義のほうが、
避けられる苦しみすらわざわざ嗜好したことによる、不必要な辱めや危難の元凶である証拠ともなっている。
「困しむべき所に非ずして困しめば、名必ず辱めらる。據るべき所に非ずして據れば、
身必ず危うし。既に辱しめられ且つ危うければ、死期將に至らんとす。妻も其れ見ること得べけんや」
「苦しむべきでもない所に苦しんだりすれば、その愚かしさによって必ず名をも辱しめられる。
頼るべきでもないものに頼ったりすれば、必ずわが身までもが危うくなる。もはやすでに
名を辱しめられてわが身までもが危ういというのなら、死期ももうすぐだといえる。
その劣悪で無様な死を、わが妻ですらもが恥じ入って見取ることはあるまい」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
部分適用して己の正当化をしているのは自分だろう。
ボクのほうは
世の中は、政治、娯楽、生活というものが基本であって、それだけ考えているのなら一部ではない
民主党や自民党 相撲取り 職業と、それだけ挙げればなんとなく社会の全体像は理解できるものだ
あなた方の道徳は
結局のところボクの批判には正面から向き合う強度のない-適当で何ら根拠のないものではないか。
とうぜんだろうね
しょせん道徳者が生きるための技術なのだから…
無難な選択だって?そんなもの誰も望まないから現在の社会になったのではないか。それは結果的に人間の本性を知らないということだぞ?
それは四書五経は、今まで失敗し続けてきた人間の建て前の範囲にあるということだ。
ま、お前の思うものとは違うとかいう根拠のない主張も認めてやるよ。
しょせんは道徳などは己が生きるための知恵だ。全員ができるものではない。聖職者が金を得るための手段なのだ。
犯罪聖書という批判も、四書五経の虫けらが生き延びるためには必要な犠牲だ。己が生きるために他人を蹴落とす業の深い道徳者。
ボクのほうは
世の中は、政治、娯楽、生活というものが基本であって、それだけ考えているのなら一部ではない
民主党や自民党 相撲取り 職業と、それだけ挙げればなんとなく社会の全体像は理解できるものだ
あなた方の道徳は
結局のところボクの批判には正面から向き合う強度のない-適当で何ら根拠のないものではないか。
とうぜんだろうね
しょせん道徳者が生きるための技術なのだから…
無難な選択だって?そんなもの誰も望まないから現在の社会になったのではないか。それは結果的に人間の本性を知らないということだぞ?
それは四書五経は、今まで失敗し続けてきた人間の建て前の範囲にあるということだ。
ま、お前の思うものとは違うとかいう根拠のない主張も認めてやるよ。
しょせんは道徳などは己が生きるための知恵だ。全員ができるものではない。聖職者が金を得るための手段なのだ。
犯罪聖書という批判も、四書五経の虫けらが生き延びるためには必要な犠牲だ。己が生きるために他人を蹴落とす業の深い道徳者。
権力道徳者と権力犯罪者の生存は両立しない。
権力道徳者が生き残る以上は、権力犯罪者が死に絶え、
権力犯罪者が生き残る以上は、権力道徳者が死に絶える。
今の世の中は、権力犯罪者が執拗な生存に固執した結果、権力道徳者が死に絶えている社会。
俺もまた正式な為政者ではないから、正式な権力道徳者までをも自認することはできない。
権力道徳者が死に絶えている状態で、権力犯罪者が放辟邪侈をほしいままにしている、結果、
何億人もの人々がその命をドブに捨てさせられ、このままいけば全人類の滅亡までもが待っている。
それでいて、仮に権力犯罪者が死に絶えて、権力道徳者たちによる実質からの王政が復興したなら、
近い将来における人類の滅亡は免れて、しかも何億人もの人々を死に追いやる苛政までもが放逐される。
だから、権力道徳者が死に絶えて権力犯罪者が跋扈したりするよりは、権力犯罪者が死に絶えて
権力道徳者が息を吹き返すほうがマシだという点が、相対性の通用しない絶対的な法則。
儒学と聖書信仰、四書五経と犯罪聖書、善と悪、道徳と犯罪、権力道徳と権力犯罪の関係性を
いかに相対化しようとしたところで、どうしたって相対化しきれない絶対的な非可換性が介在している。
その、非可換性の部分を無視しての相対論をこころざすようなら、ただこちらは「四書五経だってそんなに
大したことはない」というのみ。全く大したことはない、目くそか鼻くそかのうちのどちらかであるのみ。
絶対的な非可換性が生じている以外の部分は、こっちだってどうでもいい。
権力道徳者が生き残る以上は、権力犯罪者が死に絶え、
権力犯罪者が生き残る以上は、権力道徳者が死に絶える。
今の世の中は、権力犯罪者が執拗な生存に固執した結果、権力道徳者が死に絶えている社会。
俺もまた正式な為政者ではないから、正式な権力道徳者までをも自認することはできない。
権力道徳者が死に絶えている状態で、権力犯罪者が放辟邪侈をほしいままにしている、結果、
何億人もの人々がその命をドブに捨てさせられ、このままいけば全人類の滅亡までもが待っている。
それでいて、仮に権力犯罪者が死に絶えて、権力道徳者たちによる実質からの王政が復興したなら、
近い将来における人類の滅亡は免れて、しかも何億人もの人々を死に追いやる苛政までもが放逐される。
だから、権力道徳者が死に絶えて権力犯罪者が跋扈したりするよりは、権力犯罪者が死に絶えて
権力道徳者が息を吹き返すほうがマシだという点が、相対性の通用しない絶対的な法則。
儒学と聖書信仰、四書五経と犯罪聖書、善と悪、道徳と犯罪、権力道徳と権力犯罪の関係性を
いかに相対化しようとしたところで、どうしたって相対化しきれない絶対的な非可換性が介在している。
その、非可換性の部分を無視しての相対論をこころざすようなら、ただこちらは「四書五経だってそんなに
大したことはない」というのみ。全く大したことはない、目くそか鼻くそかのうちのどちらかであるのみ。
絶対的な非可換性が生じている以外の部分は、こっちだってどうでもいい。
なんか…いろいろ追い詰めちまったみたいで…ゴヌン
とか思ってもいないことを言ってみたり?
いやあ
悪気はあったんだよ
とってもさ〜
ところで天皇はお好きかい?
奴らの存在意義ってのは何なんだろうな?奉っていいことあったの?
天皇外交にしても、他国からすれば宇宙人が何か要求してるようなものだ。公平を期すならば天皇だなどと名乗る必要はない。日本人として対応すればいいわけだ。でなければ強制じゃん
まったく行動原理が恐喝じみていて道徳者瓜二つだぜ
とか思ってもいないことを言ってみたり?
いやあ
悪気はあったんだよ
とってもさ〜
ところで天皇はお好きかい?
奴らの存在意義ってのは何なんだろうな?奉っていいことあったの?
天皇外交にしても、他国からすれば宇宙人が何か要求してるようなものだ。公平を期すならば天皇だなどと名乗る必要はない。日本人として対応すればいいわけだ。でなければ強制じゃん
まったく行動原理が恐喝じみていて道徳者瓜二つだぜ
追い詰めるもなにも、犯罪聖書に四書五経をぶつけて、四書五経のほうが全くの無傷のままに、
犯罪聖書を木っ端微塵に粉砕する原理も、結局はそこにしか存在していないもの。
中国原産の四書五経をここまで引用しまくって、その記述を持ち上げまくっても、それでも全く中国人
への畏怖などはわかず、一部の中国人の悪辣さなどに対しては、今でも「このチャンコロ風情が」
というような侮蔑意識すら抱く。実際、孔子や孟子が活躍していたころの中国なども、
総体的な政情に関しては全くひどいもので、一部の儒者が徳治の有用性を説く一方で、
権力犯罪者やそれにへつらうゴロツキの食客などが、いたる所に跋扈しまくっていた。
総体的にはめっぽう清濁併せ呑んでいて、始皇帝や毛沢東のような歴史的暴君すらをも生み出して
しまっている一方で、孔孟のような、比較的マシな道徳者をも輩出したのが中国という国であり、
何もかもを手放しに礼賛するには値しない汚れ役であればこそ、純度100%の汚れの塊である
完全権力犯罪社会・欧米にぶちつけて、くんずほぐれつの闘争に没入させるにも相応しい。
神さま仏さま、日本の天人や仏者などを、目くそと鼻くその
糞まみれな争いにお連れしたりするのでは、あまりにももったいない。
犯罪聖書を木っ端微塵に粉砕する原理も、結局はそこにしか存在していないもの。
中国原産の四書五経をここまで引用しまくって、その記述を持ち上げまくっても、それでも全く中国人
への畏怖などはわかず、一部の中国人の悪辣さなどに対しては、今でも「このチャンコロ風情が」
というような侮蔑意識すら抱く。実際、孔子や孟子が活躍していたころの中国なども、
総体的な政情に関しては全くひどいもので、一部の儒者が徳治の有用性を説く一方で、
権力犯罪者やそれにへつらうゴロツキの食客などが、いたる所に跋扈しまくっていた。
総体的にはめっぽう清濁併せ呑んでいて、始皇帝や毛沢東のような歴史的暴君すらをも生み出して
しまっている一方で、孔孟のような、比較的マシな道徳者をも輩出したのが中国という国であり、
何もかもを手放しに礼賛するには値しない汚れ役であればこそ、純度100%の汚れの塊である
完全権力犯罪社会・欧米にぶちつけて、くんずほぐれつの闘争に没入させるにも相応しい。
神さま仏さま、日本の天人や仏者などを、目くそと鼻くその
糞まみれな争いにお連れしたりするのでは、あまりにももったいない。
「葛藟に于臲兀危に困しむ。曰に動けば悔いあり。悔いる有りて征けば吉なり(代用文字あり)」
「小人でありながら君子の立場にいたり、犯罪者でありながらシャバにいたりなどの、身の程をわきまえぬ
僭越のために、あたかもつる草に巻き取られるようにして、動揺や不安にさいなまれて苦しみ続ける。
このような時に妄動をすればするほど余計に悔いを残す。むしろ自ら立ち止まって、自主的に辞職や
入獄もして、謹慎状態での猛省に努めて、その上で次の段階に進むほうが吉である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・困・上六)
「小人でありながら君子の立場にいたり、犯罪者でありながらシャバにいたりなどの、身の程をわきまえぬ
僭越のために、あたかもつる草に巻き取られるようにして、動揺や不安にさいなまれて苦しみ続ける。
このような時に妄動をすればするほど余計に悔いを残す。むしろ自ら立ち止まって、自主的に辞職や
入獄もして、謹慎状態での猛省に努めて、その上で次の段階に進むほうが吉である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・困・上六)
もっとも重要な人間関係としての「三綱(君臣の義、父子の親、夫婦の序)」、
その三綱を上三つとする「天下の達道(君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友)」などが、
王化の引き締められた世の中においては特筆してて重視されるが、諸国諸侯が
覇権を争う乱世においては、このような順当な人間関係への尊重は全く疎かになり、
「知人か、さもなくば他人か」というほどにも、希薄な人間関係しか成立しなくなる。
一旦、利害が相反することともなれば、殺し合う敵同士にすらなりかねない相手などと
そんなに緊密な人間関係を保つわけにもいかないからで、最悪、実の親子ですらもが
敵対関係におよぶほどもの事態になることすらある。かといって、人間関係に全くの
序列的体裁が存在しないのでは、世の中も立ち行かなくなるので、乱世だった中国の
春秋時代の「五覇」と呼ばれた大諸侯たちも、以下のような盟約を取り交わしていた。
「老を敬い幼を慈しみ、賓旅を忘るること無かれ」
「年上のものは敬い年下のものは慈しみ、遠方からの旅客でもいい加減には扱わない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・七より)
これはあくまで、人間関係が希薄化した乱世における最低限の取り決めなだけで、
そんなに上等なものでもないわけだが、だからこそ、今のような春秋時代並みの乱世に
おいてですら遵守を要求できるものであり、質・量・古さの全てにおいて四書五経を下回る
犯罪聖書やその信仰者が、四書五経やその研修者を、「年下の相手」として慈しんだり
してはならず、代わりに「年上の相手」として敬わなければならない根拠にもなっている。
あくまで、乱世における最低限の取り決めの範囲において、年下のものが年上のものを敬い、
年上のものが年下のものを慈しむという、あまり上等でもない法則が絶対性を帯びる。
その三綱を上三つとする「天下の達道(君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友)」などが、
王化の引き締められた世の中においては特筆してて重視されるが、諸国諸侯が
覇権を争う乱世においては、このような順当な人間関係への尊重は全く疎かになり、
「知人か、さもなくば他人か」というほどにも、希薄な人間関係しか成立しなくなる。
一旦、利害が相反することともなれば、殺し合う敵同士にすらなりかねない相手などと
そんなに緊密な人間関係を保つわけにもいかないからで、最悪、実の親子ですらもが
敵対関係におよぶほどもの事態になることすらある。かといって、人間関係に全くの
序列的体裁が存在しないのでは、世の中も立ち行かなくなるので、乱世だった中国の
春秋時代の「五覇」と呼ばれた大諸侯たちも、以下のような盟約を取り交わしていた。
「老を敬い幼を慈しみ、賓旅を忘るること無かれ」
「年上のものは敬い年下のものは慈しみ、遠方からの旅客でもいい加減には扱わない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・七より)
これはあくまで、人間関係が希薄化した乱世における最低限の取り決めなだけで、
そんなに上等なものでもないわけだが、だからこそ、今のような春秋時代並みの乱世に
おいてですら遵守を要求できるものであり、質・量・古さの全てにおいて四書五経を下回る
犯罪聖書やその信仰者が、四書五経やその研修者を、「年下の相手」として慈しんだり
してはならず、代わりに「年上の相手」として敬わなければならない根拠にもなっている。
あくまで、乱世における最低限の取り決めの範囲において、年下のものが年上のものを敬い、
年上のものが年下のものを慈しむという、あまり上等でもない法則が絶対性を帯びる。
>>466の「孟子」引用部分に書いてあることだが、
春秋時代よりもさらに世情が悪化していた戦国時代には、
春秋五覇が盟約した、乱世における最低限の取り決めすら守られなくなり、
子は親を殺し、臣下は主君を殺す僭越まみれの暴乱状態に陥っていた。
諸侯は勢力争いのために限りなく民から利益を強奪して民を疲弊させ、そのせいでの
総体的な国力の弱体化を原因とした、蛮族匈奴による中原北方の侵略も野放し状態となっていた。
それを始皇帝率いる秦が、諸国を旺盛な軍力によって屈伏させて統一征服を果たし、
乱世の原因となっていた諸侯による覇権主義駆逐のため、諸侯による封建統治も廃止し、
法律で全ての事務処理を済ませる法家支配を公布した。しかし、何といっても、
戦国時代最悪の権力犯罪集団だった秦帝国自体の存続は保たれたわけで、
乱世のノリでの放辟邪侈を、始皇帝やその息子胡亥などもやめなかったから、
「こんな支配者ならいるよりもいないほうがマシだ」と民に気づかせてしまい、
陳勝や呉広、項羽や劉邦といった、当時在野の民間人や下級役人に甘んじていた人々による
反乱を招き、秦王子嬰の劉邦による保護の甲斐もなく、秦帝国もまた亡ばざるを得なかった。
「目上の者は敬い、下位の者は慈しみ、最遠方の他人でも全くの蔑ろにはしない」という、
覇権主義社会における最低限の節度すらも失っての、阿鼻叫喚の戦乱状態に没入した
その見返りが、最終勝利者の秦帝国をも含む、全・国政担当者の滅亡。
漢代になってから一応、諸侯制は復旧されたものの、諸侯が力を付けすぎることへの警戒から、
諸侯の実権を相当に弱め、租税を取り立てる事務長程度の存在であるように強制している。
分裂状態の小粒の勢力が、お互いの我を張って利権を奪い合う覇権主義社会が、
春秋五覇が取り決めていたような最低限の節度すらも捨て去っての狂乱に突入したとき、
全ての覇権主義勢力が「いるよりもいないほうがマシな存在」と化し、滅亡の機縁を得る。
秦帝国のような最終勝利者ですら、その存命はかなわず、「完全なる全滅」の機会に差し掛かる。
もちろん「人類」の滅亡ではなく、今の世の中の「権力者」に限っての滅亡ではあるが。
春秋時代よりもさらに世情が悪化していた戦国時代には、
春秋五覇が盟約した、乱世における最低限の取り決めすら守られなくなり、
子は親を殺し、臣下は主君を殺す僭越まみれの暴乱状態に陥っていた。
諸侯は勢力争いのために限りなく民から利益を強奪して民を疲弊させ、そのせいでの
総体的な国力の弱体化を原因とした、蛮族匈奴による中原北方の侵略も野放し状態となっていた。
それを始皇帝率いる秦が、諸国を旺盛な軍力によって屈伏させて統一征服を果たし、
乱世の原因となっていた諸侯による覇権主義駆逐のため、諸侯による封建統治も廃止し、
法律で全ての事務処理を済ませる法家支配を公布した。しかし、何といっても、
戦国時代最悪の権力犯罪集団だった秦帝国自体の存続は保たれたわけで、
乱世のノリでの放辟邪侈を、始皇帝やその息子胡亥などもやめなかったから、
「こんな支配者ならいるよりもいないほうがマシだ」と民に気づかせてしまい、
陳勝や呉広、項羽や劉邦といった、当時在野の民間人や下級役人に甘んじていた人々による
反乱を招き、秦王子嬰の劉邦による保護の甲斐もなく、秦帝国もまた亡ばざるを得なかった。
「目上の者は敬い、下位の者は慈しみ、最遠方の他人でも全くの蔑ろにはしない」という、
覇権主義社会における最低限の節度すらも失っての、阿鼻叫喚の戦乱状態に没入した
その見返りが、最終勝利者の秦帝国をも含む、全・国政担当者の滅亡。
漢代になってから一応、諸侯制は復旧されたものの、諸侯が力を付けすぎることへの警戒から、
諸侯の実権を相当に弱め、租税を取り立てる事務長程度の存在であるように強制している。
分裂状態の小粒の勢力が、お互いの我を張って利権を奪い合う覇権主義社会が、
春秋五覇が取り決めていたような最低限の節度すらも捨て去っての狂乱に突入したとき、
全ての覇権主義勢力が「いるよりもいないほうがマシな存在」と化し、滅亡の機縁を得る。
秦帝国のような最終勝利者ですら、その存命はかなわず、「完全なる全滅」の機会に差し掛かる。
もちろん「人類」の滅亡ではなく、今の世の中の「権力者」に限っての滅亡ではあるが。
旧約犯罪聖書からして、政治行為への直接介入を禁止されていた古代ユダヤ人の創作物だし、
新約の主人公であるイエスも、民間人に対する代表的な処刑方法である磔刑で殺されている。
(為政者が政治的な失策の責任をとって死ぬ場合には、昔から自殺が慣例とされている)
所詮は、本格的な政治行為に参画したことのない民間人の創作物であるのが犯罪聖書であり、
その内容を参考に、城勤めの経験などもない民間人の拙劣な妄想を、そのまま政治行為にまで適用
させたりするから、地球社会全体を巻き込んでの、重権力犯罪を巻き起こす元凶にもなってしまった。
下級役人であり、一時は職務怠惰の罪で逃亡生活も送っていた、劉邦が興した漢帝国においては、
劉邦の旧友であり重臣であった蕭何が、崩壊焼失直前の秦帝国の政治資料を全て持ち出して、
後の統治体制の参考とし、権力道徳研究の専門家である、儒者の陸賈や叔孫通らの意見や助成も
取り入れつつの堅実な伝統的統治に即したために、400年を超える泰平をも実現した。
決して、民間人や下級役人の我流で王朝を立ち上げたりしたのではなく、ある意味、諸侯制を
廃止して法家支配を敷き、「皇帝」などという新号を創作もした、戦国時代の最終勝利者・秦帝国など
よりも遥かに堅実で、目上の者への恭しい敬いなども保たれた統治であったからこそ、成功した。
実際問題、下級役人や民間人などが、以前の国政担当者たちが完全に滅亡した後の世の中において
新たな体制を打ち立てたりすることもあるわけだが、だとしても、その手法は犯罪聖書のような、
民間人の我流の創作物などではなく、四書五経のような、古来からの道徳統治のあり方を
ありのままに研究対象とした、堅実で実地的な資料を参考とすべきなのだ。
「長者に從いて丘陵に上れば、則ち必ず長者の視る所に郷う。登城すれば指さず、城に上れば呼ばず」
「長者に従って丘陵に登った場合などには、必ず長者が見ているものの後を追うようにする。
城に登った場合には妄りに指差して人を惑わさないようにし、妄りに呼び叫んで人を驚かさないようにする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
新約の主人公であるイエスも、民間人に対する代表的な処刑方法である磔刑で殺されている。
(為政者が政治的な失策の責任をとって死ぬ場合には、昔から自殺が慣例とされている)
所詮は、本格的な政治行為に参画したことのない民間人の創作物であるのが犯罪聖書であり、
その内容を参考に、城勤めの経験などもない民間人の拙劣な妄想を、そのまま政治行為にまで適用
させたりするから、地球社会全体を巻き込んでの、重権力犯罪を巻き起こす元凶にもなってしまった。
下級役人であり、一時は職務怠惰の罪で逃亡生活も送っていた、劉邦が興した漢帝国においては、
劉邦の旧友であり重臣であった蕭何が、崩壊焼失直前の秦帝国の政治資料を全て持ち出して、
後の統治体制の参考とし、権力道徳研究の専門家である、儒者の陸賈や叔孫通らの意見や助成も
取り入れつつの堅実な伝統的統治に即したために、400年を超える泰平をも実現した。
決して、民間人や下級役人の我流で王朝を立ち上げたりしたのではなく、ある意味、諸侯制を
廃止して法家支配を敷き、「皇帝」などという新号を創作もした、戦国時代の最終勝利者・秦帝国など
よりも遥かに堅実で、目上の者への恭しい敬いなども保たれた統治であったからこそ、成功した。
実際問題、下級役人や民間人などが、以前の国政担当者たちが完全に滅亡した後の世の中において
新たな体制を打ち立てたりすることもあるわけだが、だとしても、その手法は犯罪聖書のような、
民間人の我流の創作物などではなく、四書五経のような、古来からの道徳統治のあり方を
ありのままに研究対象とした、堅実で実地的な資料を参考とすべきなのだ。
「長者に從いて丘陵に上れば、則ち必ず長者の視る所に郷う。登城すれば指さず、城に上れば呼ばず」
「長者に従って丘陵に登った場合などには、必ず長者が見ているものの後を追うようにする。
城に登った場合には妄りに指差して人を惑わさないようにし、妄りに呼び叫んで人を驚かさないようにする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
今日も重複引用か。
四書五経の分量も、犯罪聖書より少し多い程度だから、
重複引用にまで新規の引用で応対し続けてたら、当然ネタもなくなるだろう。
もっとも、それ以前に奴さんのほうが連続コピペ荒らし規制を受けるだろうが。
こちらはその濡れ衣を共に被らされないために、重複引用はやはりなるべく避ける。
「偏無く陂無く、王の義に遵え。好を作すること有る無く、王の道に遵え。
惡を作すること有る無く、王の路を尊べ。偏無く黨無ければ、王道蕩蕩たり。
黨無く偏無ければ、王道平平たり。反無く側無ければ、王道正直たり」
「偏りなく邪曲なく、先王の義に従え。好悪の情に囚われることなく、先王の道を尊び、それに則れ。
一部に偏って徒党を組んだりすることがなければ、王道もまた広々と広がっていく。
徒党を組んで偏った方向性を打ち出すようなことがなければ、王道もまたどこまでも平坦となる。
先王の義に背いて邪義に偏ったりすることがなければ、王道もまた真っ直ぐとなる。
(王道の実現のためには、私的に徒党を組むことを正当化する邪義などは退けられなければならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洪範)
四書五経の分量も、犯罪聖書より少し多い程度だから、
重複引用にまで新規の引用で応対し続けてたら、当然ネタもなくなるだろう。
もっとも、それ以前に奴さんのほうが連続コピペ荒らし規制を受けるだろうが。
こちらはその濡れ衣を共に被らされないために、重複引用はやはりなるべく避ける。
「偏無く陂無く、王の義に遵え。好を作すること有る無く、王の道に遵え。
惡を作すること有る無く、王の路を尊べ。偏無く黨無ければ、王道蕩蕩たり。
黨無く偏無ければ、王道平平たり。反無く側無ければ、王道正直たり」
「偏りなく邪曲なく、先王の義に従え。好悪の情に囚われることなく、先王の道を尊び、それに則れ。
一部に偏って徒党を組んだりすることがなければ、王道もまた広々と広がっていく。
徒党を組んで偏った方向性を打ち出すようなことがなければ、王道もまたどこまでも平坦となる。
先王の義に背いて邪義に偏ったりすることがなければ、王道もまた真っ直ぐとなる。
(王道の実現のためには、私的に徒党を組むことを正当化する邪義などは退けられなければならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洪範)
「供え物」は、神が人に対して行うものではなく、人が祖霊などの神に対してこそ行うものなのに、
神が自分たちのために用意してくれた供物などをありがたがったりする、全くの本末転倒。
神への供え物である穀類や肉類とて、結局は神を祀る側の人間が、後で頂くには違いないわけだが、それでも、
天地の恵みである産物を、公共意識を高めつつ頂く目的で、あえて神さまに供えるという体裁を保つ。
それなのに、始めから供え物が「神から人への贈り物」であるとし、私物化意識を強める目的で
祭りを行ったりするのなら、それこそ、そんな祭りなんてしないほうがまだマシというもの。
供儀を伴いつつの祭祀を催す意義を、根本のところから完全に取り違えているときた。
「湯亳に居て、葛と鄰りを為す。葛伯放にして祀らず。湯人を使いて之れを問うて曰く、何為れぞ祀らざる。
曰く、以て犧牲に供える無ければなり。湯使いをして之れに牛羊を遣わしむ。葛伯之れを食らい、又た以て祀らず。
湯又た人を使いて之れを問うて曰く、何為れぞ祀らざる。曰く、無以て粢盛に供える無ければなり。
湯亳の衆を使いて往かせ之の為に耕さしめ、老弱に食を饋らしむ。葛伯其の民を率いて、其の酒食黍稻有る者を要して之れを奪う。
授けぬ者は之れを殺す。童子黍肉を以て餉る、殺して之れを奪う。書に曰く、葛伯餉に仇すとは、此れ之の謂いなり。
其れ是の童子を殺さんが為めに之れを征すれば、四海の内の皆な曰く、天下を富とするに非ず、匹夫匹婦の為めに讎を服するなりと」
神が自分たちのために用意してくれた供物などをありがたがったりする、全くの本末転倒。
神への供え物である穀類や肉類とて、結局は神を祀る側の人間が、後で頂くには違いないわけだが、それでも、
天地の恵みである産物を、公共意識を高めつつ頂く目的で、あえて神さまに供えるという体裁を保つ。
それなのに、始めから供え物が「神から人への贈り物」であるとし、私物化意識を強める目的で
祭りを行ったりするのなら、それこそ、そんな祭りなんてしないほうがまだマシというもの。
供儀を伴いつつの祭祀を催す意義を、根本のところから完全に取り違えているときた。
「湯亳に居て、葛と鄰りを為す。葛伯放にして祀らず。湯人を使いて之れを問うて曰く、何為れぞ祀らざる。
曰く、以て犧牲に供える無ければなり。湯使いをして之れに牛羊を遣わしむ。葛伯之れを食らい、又た以て祀らず。
湯又た人を使いて之れを問うて曰く、何為れぞ祀らざる。曰く、無以て粢盛に供える無ければなり。
湯亳の衆を使いて往かせ之の為に耕さしめ、老弱に食を饋らしむ。葛伯其の民を率いて、其の酒食黍稻有る者を要して之れを奪う。
授けぬ者は之れを殺す。童子黍肉を以て餉る、殺して之れを奪う。書に曰く、葛伯餉に仇すとは、此れ之の謂いなり。
其れ是の童子を殺さんが為めに之れを征すれば、四海の内の皆な曰く、天下を富とするに非ず、匹夫匹婦の為めに讎を服するなりと」
「昔、殷の湯王がまだいち諸侯として亳にいたとき、隣国に葛という国があった。この葛の公伯の放辟邪侈は甚だしく、
祖霊を祀る祭りすら行ったことがない始末。そこで湯王は使いをやって、『なぜ祖霊を祀らないのか』と問いただした。
葛公は答えていった。『供え物にする生け贄がないからだ』 そこで湯王はまた使いをやり、供え物の生け贄になる
牛や羊を送り届けた。しかし葛公は、ただこの牛羊を私物化して食い散らかすだけで、祖霊を祀るための供え物にはしなかった。
そのため湯王はまた使いをやって『どうしてまだ祖霊を祀らないのか』と問うた。すると葛公は、『供え物にする穀物がないからだ』
と答えた。そこで湯王は亳の民衆を動員して、田畑を耕して供え物にするための穀物を育てさせ、老若男女を用いて出来上がった
穀物を贈呈しに行かせた。すると葛公は、自国の民を用いて穀物や酒色をごっそり奪い取り、抵抗するものはみな殺した。
中には贈り物の黍や肉を運んでいる頑是無い子供もいたが、この子供すら惨殺して贈り物を奪い取り、これを私物化した。
書経(商書・仲虺之誥)に『葛公は贈り物を奪い取った』とあるのは、このことを言ったのだ。未だ頑是無い子供までをも
私欲のために殺したことを以て、湯王も葛公を征伐することを決めたが、天下の人々みな湯王の決断を支持してこういった。
『湯王は決して天下を奪い取る財富として捉えているわけではない。ただ民衆の仇に報おうとしているのだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・五より)
祖霊を祀る祭りすら行ったことがない始末。そこで湯王は使いをやって、『なぜ祖霊を祀らないのか』と問いただした。
葛公は答えていった。『供え物にする生け贄がないからだ』 そこで湯王はまた使いをやり、供え物の生け贄になる
牛や羊を送り届けた。しかし葛公は、ただこの牛羊を私物化して食い散らかすだけで、祖霊を祀るための供え物にはしなかった。
そのため湯王はまた使いをやって『どうしてまだ祖霊を祀らないのか』と問うた。すると葛公は、『供え物にする穀物がないからだ』
と答えた。そこで湯王は亳の民衆を動員して、田畑を耕して供え物にするための穀物を育てさせ、老若男女を用いて出来上がった
穀物を贈呈しに行かせた。すると葛公は、自国の民を用いて穀物や酒色をごっそり奪い取り、抵抗するものはみな殺した。
中には贈り物の黍や肉を運んでいる頑是無い子供もいたが、この子供すら惨殺して贈り物を奪い取り、これを私物化した。
書経(商書・仲虺之誥)に『葛公は贈り物を奪い取った』とあるのは、このことを言ったのだ。未だ頑是無い子供までをも
私欲のために殺したことを以て、湯王も葛公を征伐することを決めたが、天下の人々みな湯王の決断を支持してこういった。
『湯王は決して天下を奪い取る財富として捉えているわけではない。ただ民衆の仇に報おうとしているのだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・五より)
幼弱なものを助けてやるために、どうして死んでなんかいられるかよ。
救世者の死をわざわざ欲したりするのも、恋敵の諸侯を食肉にした殷紂にも等しい有り様。
本当に、ことごとく正当な権力道徳とは相反する、不当なる権力犯罪志向の羅列。
宗教としてカルトであるのももちろんだが、それ以前に暴力団のような反社会勢力であることが明らか。
ヤクザは取り締まっても聖書信仰は取り締まらないことほど、片手落ちな失政も他にない。
「昔、殷紂天下を亂し、鬼候を脯にして以て諸侯を饗す。是れを以て周公、武王を相けて以て紂を伐つ。(ここまで再引用)
武王崩じ、成王幼弱なるとき、周公天子の位を踐みて以て天下を治む。六年、諸侯を明堂に朝せしめ、禮を制し樂を作り、
度量を頒かつ。而して天下大いに服す。七年、政を成王に致す。成王周公を以て天下に辴勞有りと為す」
「昔、殷の紂王が放辟邪侈によって天下を乱していたとき、鬼候を恋敵の私怨で殺し、その肉を乾し肉にして諸侯に振る舞った。
これを以て放伐の機会であると見なし、周公も兄の武王を補佐しつつ紂王を征伐し、新たに周王朝をうち立てた。
やがて武王が崩じ、跡取りの成王も幼弱であったとき、周公は成王の摂政となって天下を治めた。
成王即位六年には、諸侯を位階査定のために明堂に朝せしめ、それぞれの位階に即した礼楽を作製し、
貨幣などの度量衡をも適切に定めた。それによって天下は大いに服し、成王即位七年には、
周公も成長した成王に政務を返上した。成王は、周公を天下第一の功労者として褒め称えた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・明堂位第十四より)
救世者の死をわざわざ欲したりするのも、恋敵の諸侯を食肉にした殷紂にも等しい有り様。
本当に、ことごとく正当な権力道徳とは相反する、不当なる権力犯罪志向の羅列。
宗教としてカルトであるのももちろんだが、それ以前に暴力団のような反社会勢力であることが明らか。
ヤクザは取り締まっても聖書信仰は取り締まらないことほど、片手落ちな失政も他にない。
「昔、殷紂天下を亂し、鬼候を脯にして以て諸侯を饗す。是れを以て周公、武王を相けて以て紂を伐つ。(ここまで再引用)
武王崩じ、成王幼弱なるとき、周公天子の位を踐みて以て天下を治む。六年、諸侯を明堂に朝せしめ、禮を制し樂を作り、
度量を頒かつ。而して天下大いに服す。七年、政を成王に致す。成王周公を以て天下に辴勞有りと為す」
「昔、殷の紂王が放辟邪侈によって天下を乱していたとき、鬼候を恋敵の私怨で殺し、その肉を乾し肉にして諸侯に振る舞った。
これを以て放伐の機会であると見なし、周公も兄の武王を補佐しつつ紂王を征伐し、新たに周王朝をうち立てた。
やがて武王が崩じ、跡取りの成王も幼弱であったとき、周公は成王の摂政となって天下を治めた。
成王即位六年には、諸侯を位階査定のために明堂に朝せしめ、それぞれの位階に即した礼楽を作製し、
貨幣などの度量衡をも適切に定めた。それによって天下は大いに服し、成王即位七年には、
周公も成長した成王に政務を返上した。成王は、周公を天下第一の功労者として褒め称えた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・明堂位第十四より)
繰り返し述べるのもいい加減陳腐に過ぎるが、
人の命は誰しも一度きり、産まれた限りにおいて生き、死ねば二度と生き返らない、
そして全ての生きとし生けるものはいつか必ず死ぬ、これが「諸行無常」の真理でもあり、
「さてしもあるべきこと(蓮如)」でもあるのだ。
にもかかわらず、「人の命が永久のものとなる」などという180°転倒夢想に、
多くの人々を2000年近くものあいだ追いやってきたカルト信仰があるわけで、ということはつまり、
実際問題として、多くの命があの世へと旅立っていった、先祖代々2000年近くものあいだの、
先祖供養が全くの疎かにされてきた派閥があるということで、そのあまりもの非礼さを反省することの
恐ろしさにもよって、当該のカルト信者たちも、狂信への固執に躍起になってしまっているところがある。
生死という現象に対する態度が人それぞれ誠実であったり、不誠実であったりということがある中で、
「人はいつかはかならず死ぬ」という法則をわきまえることが、最低限必要な誠実さとなる一方で、
その法則すらわきまえられないことが、決定的に致命的な不誠実さともなってしまう。
死後の世界を極楽浄土という方便に載せる浄土教なども、かなり不誠実な部類ではあるが、
それでも悪人正機のような仏性にも根ざした方便で、信者たちに生死の法則のわきまえを
無意識にでも根付かせる、最低限の誠実さ保てているから、カルトというまでには当たらない。ただ、
絶対的な生死の法則へのわきまえを、完全に喪失させてしまうほどもの信教こそは、カルトともなる。
「生を養うは、以て大事と当すに足らず。惟だ死を送る、以て大事と当すべし」
「親族などに対して、命ある限りにおいての孝養を尽くすのは当然のことであり、大事とするには足りない。
しかし、いざ命が失われてあの世へと送り出す段になったときには、それこそいち大事とすべきだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・一三)
人の命は誰しも一度きり、産まれた限りにおいて生き、死ねば二度と生き返らない、
そして全ての生きとし生けるものはいつか必ず死ぬ、これが「諸行無常」の真理でもあり、
「さてしもあるべきこと(蓮如)」でもあるのだ。
にもかかわらず、「人の命が永久のものとなる」などという180°転倒夢想に、
多くの人々を2000年近くものあいだ追いやってきたカルト信仰があるわけで、ということはつまり、
実際問題として、多くの命があの世へと旅立っていった、先祖代々2000年近くものあいだの、
先祖供養が全くの疎かにされてきた派閥があるということで、そのあまりもの非礼さを反省することの
恐ろしさにもよって、当該のカルト信者たちも、狂信への固執に躍起になってしまっているところがある。
生死という現象に対する態度が人それぞれ誠実であったり、不誠実であったりということがある中で、
「人はいつかはかならず死ぬ」という法則をわきまえることが、最低限必要な誠実さとなる一方で、
その法則すらわきまえられないことが、決定的に致命的な不誠実さともなってしまう。
死後の世界を極楽浄土という方便に載せる浄土教なども、かなり不誠実な部類ではあるが、
それでも悪人正機のような仏性にも根ざした方便で、信者たちに生死の法則のわきまえを
無意識にでも根付かせる、最低限の誠実さ保てているから、カルトというまでには当たらない。ただ、
絶対的な生死の法則へのわきまえを、完全に喪失させてしまうほどもの信教こそは、カルトともなる。
「生を養うは、以て大事と当すに足らず。惟だ死を送る、以て大事と当すべし」
「親族などに対して、命ある限りにおいての孝養を尽くすのは当然のことであり、大事とするには足りない。
しかし、いざ命が失われてあの世へと送り出す段になったときには、それこそいち大事とすべきだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・一三)
まだやっていたのか?たまにはラーメンでも食って社会の利便性のよさを知れよ
味噌ネギチャーシュー麺1030円
味噌ネギチャーシュー麺1030円
率直に考えて、今の世の中に、
女子と小人がすべき以外の仕事が、一つでもあると思うかい?
女子と小人がすべき以外の仕事が、一つでもあると思うかい?
率直に考えて、お前はバカだと思う。
今の世の中、大の男(大丈夫)でもなければ務まらないような、
「大業」と呼ぶに値するほどもの仕事なんて、どこにもない。
どこもかしこも、小人の小細工や、女子の色仕掛けばかりがものをいう、賤業ばかり。
そんな世の中に、自らの力量に値する天職をまったく見出せないことが、
落胆の原因になる以上にも、愉悦の原因になってしまうことが、これまた問題だ。
自ら進んでなった真性の隠者ではなく、世情に因んで否応なくなってしまった仮性の隠者で
あることもまた、哀しみ以上もの、浩然の気の源泉となってしまうことが、これまた問題だ。
自分に問題がないのは確かであるにしても、
世の中のほうに問題があり過ぎるが故の特異現象であるのも、確かだから。
「大業」と呼ぶに値するほどもの仕事なんて、どこにもない。
どこもかしこも、小人の小細工や、女子の色仕掛けばかりがものをいう、賤業ばかり。
そんな世の中に、自らの力量に値する天職をまったく見出せないことが、
落胆の原因になる以上にも、愉悦の原因になってしまうことが、これまた問題だ。
自ら進んでなった真性の隠者ではなく、世情に因んで否応なくなってしまった仮性の隠者で
あることもまた、哀しみ以上もの、浩然の気の源泉となってしまうことが、これまた問題だ。
自分に問題がないのは確かであるにしても、
世の中のほうに問題があり過ぎるが故の特異現象であるのも、確かだから。

諸行無常の絶対真理をわきまえて、なおその哀しみを乗り越えるのと、
そもそもわきまえられもせずに、死してなお生きているかのように本気で
思い込むのとでは、人の死に対する応対の仕方も、決定的に異なってくる。
たとえば、「礼記」曲礼上第一には「生には来日をかぞえ、死には往日をかぞえる」とあり、
生きている間はその誕生日を祝い、死んでからはその命日を悼むのが礼儀にかなうとされている。
今の日本でも、家の先祖を供養する祭は、一番最後に死んだ故人の命日付近に行うのが慣例となっている。
祝日に指定されていた昭和天皇の誕生日も、崩御後には「みどりの日」に改定されたし、
不体失往生を主張した親鸞聖人ですら、今度の七百五十回忌が悼まれるという。
人の死の荘重さを相応にわきまえた、正しい礼式を守っている人々が、もちろん故人についての
誕生日は祝わずに命日を悼む慣習を守っている一方で、死者の誕生日を祝い続けるバカな奴らもいて、
グーグルなども、孔子の誕生日まで祝おうとする始末。完全に孔子自身の意向に反しているというのに。
「孔子曰く、死に之きて之れを死せりと致すは、不仁にして為す可からざるなり。
死に之きて之れを生けりと致すは、不知にして為す可からざるなり」
「孔先生は言われた。『人が死んだときに、ことさらにその死を強調するのは、仁にもとるのですべきでない。
また、死んだにもかかわらず、存命者であるかのように扱うことも、無知蒙昧も甚だしいのですべきでない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
>>479の孔子の言のとおり、人の死を殊更に強調するのも、それはそれで無礼なことだから、
礼節豊かな東洋人の大部分は、自分たち自身が無礼者と化してしまうことを忌んで、
死者をあたかも生きているかのように扱う無礼を犯している西洋人などに対して、
「人は死んだ以上は生き返らない」というような、露骨な反駁をあまりしようともしない。
でも、西洋人のほうもバカだから、死者を生きているかのように扱う自分たちの姿勢が
殊更な批判を受けてもいないからといって、図に乗って余計にゾンビごっこを増長させる。
それをただ黙認するのも従犯となってしまうから、経書の記述に基づけば、自分までもが無礼と化して
しまう禁をあえて犯してでも、「人は死んだ以上は二度と生き返らない」という反駁を、強調している。
人は死んだ以上は二度と生き返らない、にもかかわらず口先の物言い(ロゴス)だけで
死者をも生き返らせた気になっていることなどが、甚だしい欺瞞であり、そのような欺瞞に
2000年近くものあいだ浴し続けてきた西洋人のあり方たるや、ことごとく全くの狂生>>439であり、
それにより数億人の人々を犠牲に追いやる重権力犯罪の主導者となりながら、未だ良心の呵責に苛まれる
こともなく呆けたままでいることが、完全禁治産級の、最重度の精神障害であると断定するにも相応しい。
「亡きなるに有りと為し、虚なるに盈てりと為し、約なるに泰と為す。難しいかな、恒有ること」
「死んでいながら生きているとしたり、虚構でありながら実質であるかのようにしたり、
貧困の元凶でありながら豊かだということにしたりするのでは、常あることも難しかろうな」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七より)
礼節豊かな東洋人の大部分は、自分たち自身が無礼者と化してしまうことを忌んで、
死者をあたかも生きているかのように扱う無礼を犯している西洋人などに対して、
「人は死んだ以上は生き返らない」というような、露骨な反駁をあまりしようともしない。
でも、西洋人のほうもバカだから、死者を生きているかのように扱う自分たちの姿勢が
殊更な批判を受けてもいないからといって、図に乗って余計にゾンビごっこを増長させる。
それをただ黙認するのも従犯となってしまうから、経書の記述に基づけば、自分までもが無礼と化して
しまう禁をあえて犯してでも、「人は死んだ以上は二度と生き返らない」という反駁を、強調している。
人は死んだ以上は二度と生き返らない、にもかかわらず口先の物言い(ロゴス)だけで
死者をも生き返らせた気になっていることなどが、甚だしい欺瞞であり、そのような欺瞞に
2000年近くものあいだ浴し続けてきた西洋人のあり方たるや、ことごとく全くの狂生>>439であり、
それにより数億人の人々を犠牲に追いやる重権力犯罪の主導者となりながら、未だ良心の呵責に苛まれる
こともなく呆けたままでいることが、完全禁治産級の、最重度の精神障害であると断定するにも相応しい。
「亡きなるに有りと為し、虚なるに盈てりと為し、約なるに泰と為す。難しいかな、恒有ること」
「死んでいながら生きているとしたり、虚構でありながら実質であるかのようにしたり、
貧困の元凶でありながら豊かだということにしたりするのでは、常あることも難しかろうな」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七より)
罪悪を望んでいないのでも欲していないのでもない。心の底から望み、欲している。
一方で、仁徳に根ざした本物の正義などは、本当に望んでも欲してもおらず、
そもそも仁徳とか正義とかいったものの本性を、未だかつて一度も察知したことすらない。
犯罪聖書もそれなりの分量があり、全文を読みこなすのも相当な勉強家でなければ覚束ない。
(特に、JBS版の版組などは、まともに読ませる気もないぐらいにギチギチ詰めになっている)
それが、丸ごと一冊権力犯罪正当化の教科書であり、人類にとっての最大級の「悪の教典」で
あることを察知したころには、もうすでに大部分の人間が、全人類にとっての「正義の教典」で
ある四書五経のほうを勉強し直すほどもの気概は萎えきってしまっている。犯罪聖書を
査読し尽くすのも一苦労だったというのに、その犯罪聖書よりもさらにその分量が多く、
ヘブライ語やラテン語なんぞよりも遥かに難解な漢語で書かれた四書五経を
また一から勉強し直すなんてのは、途方もない絶望感を誘う難儀に違いない。
だから、四書五経と犯罪聖書を共に勉強し尽くすほどもの、十分な気概の持ち主でもない限りは、
罪悪への欲求ばかりを助長する犯罪聖書の勉強や嗜好は完全に途絶して、仁徳や正義への
積極的な欲求こそを養う、四書五経のみの専修に努めたほうがいい。ヘタに犯罪聖書なんかを
勉強すれば、ちょうどブッシュジュニアのように、正義を欲しているつもりでいながら、
限りのない罪悪を欲し、実際に実行するようなことにすらなってしまいかねないから。
「士は窮しても義を失わず、達しても道を離れず。
窮しても義を失わざるが故に士己れを得、達しても道を離れざるが故に民も望みを失わず」
「士人は窮地に追い込まれても道義を失わず、栄達しても道義から離れはしない。
窮地に追い込まれても道義を失わないでいられるから、我れを見失うようなこともなく、
栄達しても道義から離れないでいられるから、被治者である民ですらもが望みを失うことがない。
(我れを見失わぬ士人が統治する世の中では、民ですらもが望みを取り違えたりはしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・九より)
一方で、仁徳に根ざした本物の正義などは、本当に望んでも欲してもおらず、
そもそも仁徳とか正義とかいったものの本性を、未だかつて一度も察知したことすらない。
犯罪聖書もそれなりの分量があり、全文を読みこなすのも相当な勉強家でなければ覚束ない。
(特に、JBS版の版組などは、まともに読ませる気もないぐらいにギチギチ詰めになっている)
それが、丸ごと一冊権力犯罪正当化の教科書であり、人類にとっての最大級の「悪の教典」で
あることを察知したころには、もうすでに大部分の人間が、全人類にとっての「正義の教典」で
ある四書五経のほうを勉強し直すほどもの気概は萎えきってしまっている。犯罪聖書を
査読し尽くすのも一苦労だったというのに、その犯罪聖書よりもさらにその分量が多く、
ヘブライ語やラテン語なんぞよりも遥かに難解な漢語で書かれた四書五経を
また一から勉強し直すなんてのは、途方もない絶望感を誘う難儀に違いない。
だから、四書五経と犯罪聖書を共に勉強し尽くすほどもの、十分な気概の持ち主でもない限りは、
罪悪への欲求ばかりを助長する犯罪聖書の勉強や嗜好は完全に途絶して、仁徳や正義への
積極的な欲求こそを養う、四書五経のみの専修に努めたほうがいい。ヘタに犯罪聖書なんかを
勉強すれば、ちょうどブッシュジュニアのように、正義を欲しているつもりでいながら、
限りのない罪悪を欲し、実際に実行するようなことにすらなってしまいかねないから。
「士は窮しても義を失わず、達しても道を離れず。
窮しても義を失わざるが故に士己れを得、達しても道を離れざるが故に民も望みを失わず」
「士人は窮地に追い込まれても道義を失わず、栄達しても道義から離れはしない。
窮地に追い込まれても道義を失わないでいられるから、我れを見失うようなこともなく、
栄達しても道義から離れないでいられるから、被治者である民ですらもが望みを失うことがない。
(我れを見失わぬ士人が統治する世の中では、民ですらもが望みを取り違えたりはしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・九より)
すべて言いがかり的な呟きですね
民衆はコレ-権力犯罪者はコレ-道徳権力者はコレ-などと大雑把に捉えているだけだね
それこそ四書五経などより遥かに膨大である現実社会を把握できていないと言える
権力犯罪者の中にも現体制に、、志した初心を打ち砕かれて従っている人物もいる
キリスト教に根差した考え方の人間にも素晴らしい人物はいる
物事の把握が大雑把過ぎるアナタのほうが異端だよ
民衆はコレ-権力犯罪者はコレ-道徳権力者はコレ-などと大雑把に捉えているだけだね
それこそ四書五経などより遥かに膨大である現実社会を把握できていないと言える
権力犯罪者の中にも現体制に、、志した初心を打ち砕かれて従っている人物もいる
キリスト教に根差した考え方の人間にも素晴らしい人物はいる
物事の把握が大雑把過ぎるアナタのほうが異端だよ

量子レベルの、ごく微視的な領域においては、いくらでも不確定性があり、
悪辣な四書五経研究者や、善良な聖書信仰者だって存在し得る。
しかし、全体レベルの巨視的な領域だけは、常に一定の法則に支配されており、
聖書信仰者たちの犯してきた罪悪の分量たるや、四書五経研究者の比ではない。
ただこのような、部分と全体の分別を付ける考え方も、元はといえば
易学あたりを原初とするものであり、西洋由来の現代科学などが原初ではない。
易学も迷信として退けられ、統計力学を含む現代科学も難解すぎて人口に膾炙しない。
そのせいで、部分と全体の区別もつかない蒙昧=弁士一曲が多数の支持をも得続ける。
これもまた、「易経」を含む四書五経のお株を強奪した、犯罪聖書の仕業でもある。
現代社会に溢れ返っている情報も、その全てが犯罪聖書によるカルト洗脳のたの
情報統制下にあり、そのモジュールとなっている構造量たるや、四書五経はおろか、
そのうちの一書である「易経」一冊の構造量にすら及んでいない。ある程度以上の
易学の修得者からすれば、今の世界も極めてのっぺりとした、味気ないものに見えるばかり。
「直は其れ正なり、方は其れ義なり。君子は敬を以て内を直くし、義を以て外を方にす」
「直であることが正しいということであり、方であるということが道義にかなうということである。
君子は畏敬の念によって内面を正直にし、道義にかなう振る舞いによって外面を方正となす。
(正義のあり方が感情的にではなく、ごく理論的に解説されている。それに基づくなら、
正義であるということは、しないことはあっても、できないようなことでは決してない。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・文言伝より)
「あなたは多くの人々の中から選ばれました」系の、懸賞詐欺タイプの邪義こそは作為の塊であり、
儒家の天命論に即しても、道家の天道論に即しても、無為自然こそが本質とされる天の行いには全く値しない。
無為自然の天道とて、やむを得ぬことを仕方なくする程度の消極的な作為はあり得ると、荘子などが
認めてもいるわけだが、わざわざ自分たちから愛でる民を選別するような、不自然かつ積極的な
作為が天道と共にあったりするわけがなく、それこそ、地獄道あたりと共にこそくすぶっているもの。
地獄餓鬼畜生の三悪趣しか未だ知らない痴人たちは、地獄の亡者のうめきを「天の声」だなどと
勘違いし、天上を目指すつもりで地獄の底へとまっ逆さま。あらやる転倒夢想の中でも
もっとも致命的な転倒夢想、それが、天と地の上下を取り違える転倒夢想だといえる。
「惟れ天の下民を監るに、厥の義を典とす。年を降すに、永き有り、永からざる有り。天、民を夭するに非ず。
民、命を中絶す。民、鄹にしたがわず、罪を聽かざる有れば、天、既に孚に命じて厥の鄹を正す。(中略)
嗚呼、王、司るに民を敬すれば、天の胤典に非ざる罔し。祀り、暱きに於けるを豐かにすること無かれ」
「天が下民を鑑みるときには、その道義の有無を基準とされます。個々の寿命を定めるにも、
長寿であることもあれば短命であることもありますが、それも道義の有無によって定められるのであり、
天が不自然な作為によって、民を不幸な夭折に追い込んだりするわけではないのです。民が道徳に従わず、
自らの罪状に耳をふさぐことがあったとしても、天はただ各々の真摯さに命じて、その徳を正すばかりです。
ああ、王様が敬意を以て民を司られますなら、それが天の定められた不変の法則に違うこともありますまい。
そのためにも、決して祭りごとなどを、近縁の限られた者ばかりのために偏って行ったりしてはなりません。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・高宗肜日より)
儒家の天命論に即しても、道家の天道論に即しても、無為自然こそが本質とされる天の行いには全く値しない。
無為自然の天道とて、やむを得ぬことを仕方なくする程度の消極的な作為はあり得ると、荘子などが
認めてもいるわけだが、わざわざ自分たちから愛でる民を選別するような、不自然かつ積極的な
作為が天道と共にあったりするわけがなく、それこそ、地獄道あたりと共にこそくすぶっているもの。
地獄餓鬼畜生の三悪趣しか未だ知らない痴人たちは、地獄の亡者のうめきを「天の声」だなどと
勘違いし、天上を目指すつもりで地獄の底へとまっ逆さま。あらやる転倒夢想の中でも
もっとも致命的な転倒夢想、それが、天と地の上下を取り違える転倒夢想だといえる。
「惟れ天の下民を監るに、厥の義を典とす。年を降すに、永き有り、永からざる有り。天、民を夭するに非ず。
民、命を中絶す。民、鄹にしたがわず、罪を聽かざる有れば、天、既に孚に命じて厥の鄹を正す。(中略)
嗚呼、王、司るに民を敬すれば、天の胤典に非ざる罔し。祀り、暱きに於けるを豐かにすること無かれ」
「天が下民を鑑みるときには、その道義の有無を基準とされます。個々の寿命を定めるにも、
長寿であることもあれば短命であることもありますが、それも道義の有無によって定められるのであり、
天が不自然な作為によって、民を不幸な夭折に追い込んだりするわけではないのです。民が道徳に従わず、
自らの罪状に耳をふさぐことがあったとしても、天はただ各々の真摯さに命じて、その徳を正すばかりです。
ああ、王様が敬意を以て民を司られますなら、それが天の定められた不変の法則に違うこともありますまい。
そのためにも、決して祭りごとなどを、近縁の限られた者ばかりのために偏って行ったりしてはなりません。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・高宗肜日より)
「イスラエルの王」呼ばわりのイエスが生け贄として殺されることで、
民が無限の恩恵を得るという犯罪聖書の理念が、最も実地的な形で権力支配に
適用されたのが、フランス革命などを通じての、近代民主制の勃興にあたる。
断頭台で処刑されたマリー・アントワネットのように、専制的な為政者が軒並み犠牲に追いやられ、
あとに残るは、民の欲望を無制限に叶え続けることばかりを任された、パシリ扱いの政治家のみ。
この、民主主義の権力支配構造がありのままに、新約犯罪聖書の実質支配への適用にもなっていて、
だからこそ民主主義社会における、資本主義者の放辟邪侈が人類社会に未曾有の被害をもたらしてもいる。
権力道徳聖書・四書五経の記述に基づくなら、為政者が民衆の上に立ち、行使する以上は絶対的な
権能を振るう、官民上下の位階が正された専制はやはり必要であるとされる。一方で、官が民を完全な
雁字搦めにして、共産主義のようにあらゆる産業までをも国有化してしまったりするのもいけないという。
民は所詮は自分たちだけでは烏合の衆なので、強制的にでも言うことを聞かせることがやはり必要にはなるが、
言うことを聞かせる内容はといえば、あたかも穴に落ちかけている赤ん坊を救うかのように、
民たちの福利厚生を親身になって慮った末のものでなければならない。
自分たちの所業で何億人もの人々を殺し、自分たち以外の天下全土を敵に回したせいで、
あたかもどこにも敵がいないかのようにすら思い込んでしまうような窮地に、民たちを追い込まないために。
民が無限の恩恵を得るという犯罪聖書の理念が、最も実地的な形で権力支配に
適用されたのが、フランス革命などを通じての、近代民主制の勃興にあたる。
断頭台で処刑されたマリー・アントワネットのように、専制的な為政者が軒並み犠牲に追いやられ、
あとに残るは、民の欲望を無制限に叶え続けることばかりを任された、パシリ扱いの政治家のみ。
この、民主主義の権力支配構造がありのままに、新約犯罪聖書の実質支配への適用にもなっていて、
だからこそ民主主義社会における、資本主義者の放辟邪侈が人類社会に未曾有の被害をもたらしてもいる。
権力道徳聖書・四書五経の記述に基づくなら、為政者が民衆の上に立ち、行使する以上は絶対的な
権能を振るう、官民上下の位階が正された専制はやはり必要であるとされる。一方で、官が民を完全な
雁字搦めにして、共産主義のようにあらゆる産業までをも国有化してしまったりするのもいけないという。
民は所詮は自分たちだけでは烏合の衆なので、強制的にでも言うことを聞かせることがやはり必要にはなるが、
言うことを聞かせる内容はといえば、あたかも穴に落ちかけている赤ん坊を救うかのように、
民たちの福利厚生を親身になって慮った末のものでなければならない。
自分たちの所業で何億人もの人々を殺し、自分たち以外の天下全土を敵に回したせいで、
あたかもどこにも敵がいないかのようにすら思い込んでしまうような窮地に、民たちを追い込まないために。
「賢を尊び能を使い、俊傑位に在れば、則ち天下の士皆な酇んで其の朝に立たんことを願わん。市は廛して征せずんば、
則ち天下の商皆な酇んで其の市に藏めんことを願わん。關は譏ぶれども征せずんば、則ち天下の旅皆な酇んで其の路に
出でんことを願わん。耕す者には助せしめて税せずんば、則ち天下の農皆な酇んで其の野に耕さんことを願わん。廛に夫、
里の布無ければ、則ち天下の民は皆な酇んで之の氓と為らんことを願わん。信に能く此の五者を行えば、則ち鄰國の民、
之れを仰ぐこと父母の若くならん。其の子弟を率いて、其の父母を攻むるは、生民より以來、未だ能く濟せる者有らざるなり。
此の如くんば、則ち天下に敵無し。天下に敵無きは天吏なり。然に而て王たらざる者は、未だ之れ有らざるなり」
「賢人を尊び真に能あるものを用いるようにし、それぞれにすぐれた人材が適切な職分に治まっていれば、天下の士人たちは
みな喜んでその国の朝廷に立つことをこいねがうになることだろう。市場では店舗税はとっても消費税は取らないようにすれば、
天下の商人たちはみなこぞってその市場に商品を納めて商いをしたがるようになるだろう。関所では厳重な取調べは行っても
関所税や通行税を取らなければ、天下の旅人は皆なその国の道を歩いてみたいと思うようになるだろう。農耕者には公田の
租税は徹底しても私田への租税をかけなければ、みな喜んでその国の田畑を耕すことを願うだろう。民の世帯に人頭税や
固定資産税を課さなければ、天下の民はみな喜んでその国の民になることを欲するだろう。この五つの政策を実行すれば、
隣国の民ですらもが、まるで父母のようにわが国を仰ぎ見るようになる。子弟によって父母を攻めることができた試しも
未だかつて無く、これらの政策を忠実に実行できたならば、もはや天下に敵対するものはいなくなるだろう。天下に敵対する
もののないものこそは、天命を受けた官吏であるといえ、このようにして天下に王者となれなかったものは、未だかつてない。
(孟子は官が民から取るべき税はちゃんと取る一方で、余計な税を課したりはしない公私の分別を天下無敵の要件であると説く。
ただし、実際の所これほどもの規制緩和は、国家総動員状態の有事や、官が民の生け贄と化している民主制下では不可能である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・五より)
則ち天下の商皆な酇んで其の市に藏めんことを願わん。關は譏ぶれども征せずんば、則ち天下の旅皆な酇んで其の路に
出でんことを願わん。耕す者には助せしめて税せずんば、則ち天下の農皆な酇んで其の野に耕さんことを願わん。廛に夫、
里の布無ければ、則ち天下の民は皆な酇んで之の氓と為らんことを願わん。信に能く此の五者を行えば、則ち鄰國の民、
之れを仰ぐこと父母の若くならん。其の子弟を率いて、其の父母を攻むるは、生民より以來、未だ能く濟せる者有らざるなり。
此の如くんば、則ち天下に敵無し。天下に敵無きは天吏なり。然に而て王たらざる者は、未だ之れ有らざるなり」
「賢人を尊び真に能あるものを用いるようにし、それぞれにすぐれた人材が適切な職分に治まっていれば、天下の士人たちは
みな喜んでその国の朝廷に立つことをこいねがうになることだろう。市場では店舗税はとっても消費税は取らないようにすれば、
天下の商人たちはみなこぞってその市場に商品を納めて商いをしたがるようになるだろう。関所では厳重な取調べは行っても
関所税や通行税を取らなければ、天下の旅人は皆なその国の道を歩いてみたいと思うようになるだろう。農耕者には公田の
租税は徹底しても私田への租税をかけなければ、みな喜んでその国の田畑を耕すことを願うだろう。民の世帯に人頭税や
固定資産税を課さなければ、天下の民はみな喜んでその国の民になることを欲するだろう。この五つの政策を実行すれば、
隣国の民ですらもが、まるで父母のようにわが国を仰ぎ見るようになる。子弟によって父母を攻めることができた試しも
未だかつて無く、これらの政策を忠実に実行できたならば、もはや天下に敵対するものはいなくなるだろう。天下に敵対する
もののないものこそは、天命を受けた官吏であるといえ、このようにして天下に王者となれなかったものは、未だかつてない。
(孟子は官が民から取るべき税はちゃんと取る一方で、余計な税を課したりはしない公私の分別を天下無敵の要件であると説く。
ただし、実際の所これほどもの規制緩和は、国家総動員状態の有事や、官が民の生け贄と化している民主制下では不可能である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・五より)
浄土教の信者が、行いによる成仏を捨てて信仰による成仏を選択するのは、
自分たちが自力作善も覚束ない、煩悩愚縛の凡夫であると認めているからであって、
自力作善による成仏が絶対に不可能だからなどと決め付けているからじゃない。
実際に、日本には法然や親鸞のような、他力本願にかけての著名な仏者もいる一方で、
空海や道元のような、自力作善による求道にかけてこそ著名な仏者も数多くいて、
公家や武家のような、自力での世俗統治を司ってきた階級の人々には、
仏道における自力修道にあたる、密教や禅などが大きな支持を受けてきている。
世俗の統治者が出家者を兼ねることは、武田信玄や上杉謙信などの例外を含めても
極めて少なく、たとえ密教に帰依したり参禅したりするにしたって、「南無〜」の
他力帰依の形を取る在家信者となる場合がほとんどなわけだが、それでもやはり、
出家者が自力修習を試みている点が、世俗の自力統治を任されている自分たちの
姿に投影しやすいから、為政者階級が自力仏教を支持したりすることが多かった。
徳川将軍家のように、最大級の権力者でありながら浄土門に帰依した例もあるが、
これは家康公が、天台宗の僧侶だった天海に、俗世の王者に徹することを
奨められたからなどの事情があるし、やはり徳川家は徳川家で、儒学を主体とした
自力での世俗統治に努めることで、260年もの泰平の世を築き上げてもいる。
やはり俗世の支配者までもが、他力本願の信仰第一ばかりに陥っていてはいけないのだ。
「子張行わるるを問う。子曰く、言忠信にして、行い篤敬なれば、
蠻貊の邦と雖も行われん。言忠信ならず、行い篤敬ならざれば、州里と雖も行われんや。」
「子張が孔先生に、天下に道が行われるあり方を問うた。先生は言われた。『誰しもの発言が
忠信であり、なおかつその行いが篤く敬いを帯びたものであれば、たとえ進んだ文化を持たない
野蛮の国であろうとも、道が行われるであろう。逆に発言に忠信がなく、行いに篤敬が帯びて
いなければ、州ごとに組織された秩序ある文明国であろうとも、道が行われることはない。』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・六より)
自分たちが自力作善も覚束ない、煩悩愚縛の凡夫であると認めているからであって、
自力作善による成仏が絶対に不可能だからなどと決め付けているからじゃない。
実際に、日本には法然や親鸞のような、他力本願にかけての著名な仏者もいる一方で、
空海や道元のような、自力作善による求道にかけてこそ著名な仏者も数多くいて、
公家や武家のような、自力での世俗統治を司ってきた階級の人々には、
仏道における自力修道にあたる、密教や禅などが大きな支持を受けてきている。
世俗の統治者が出家者を兼ねることは、武田信玄や上杉謙信などの例外を含めても
極めて少なく、たとえ密教に帰依したり参禅したりするにしたって、「南無〜」の
他力帰依の形を取る在家信者となる場合がほとんどなわけだが、それでもやはり、
出家者が自力修習を試みている点が、世俗の自力統治を任されている自分たちの
姿に投影しやすいから、為政者階級が自力仏教を支持したりすることが多かった。
徳川将軍家のように、最大級の権力者でありながら浄土門に帰依した例もあるが、
これは家康公が、天台宗の僧侶だった天海に、俗世の王者に徹することを
奨められたからなどの事情があるし、やはり徳川家は徳川家で、儒学を主体とした
自力での世俗統治に努めることで、260年もの泰平の世を築き上げてもいる。
やはり俗世の支配者までもが、他力本願の信仰第一ばかりに陥っていてはいけないのだ。
「子張行わるるを問う。子曰く、言忠信にして、行い篤敬なれば、
蠻貊の邦と雖も行われん。言忠信ならず、行い篤敬ならざれば、州里と雖も行われんや。」
「子張が孔先生に、天下に道が行われるあり方を問うた。先生は言われた。『誰しもの発言が
忠信であり、なおかつその行いが篤く敬いを帯びたものであれば、たとえ進んだ文化を持たない
野蛮の国であろうとも、道が行われるであろう。逆に発言に忠信がなく、行いに篤敬が帯びて
いなければ、州ごとに組織された秩序ある文明国であろうとも、道が行われることはない。』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・六より)
「易経」蒙卦にもあるとおり、童子であるということには、いい面と悪い面の両方がある。
童子のように貞節であることはいいことだが、童子のように蒙昧であることは悪いこと。
未熟な子供なりに成長を目指すことはいいことだが、未熟なせいで蒙昧なのは決していいことじゃない。
だから孔子も述而第七・二八で、風俗の陰湿な村落の児童が自らの元に尋ねてきたときに、
童子ながらに必死で学ぼうとするその心意気を買って、面会だけは許してやっている。
蒙昧なせいで善悪の分別も付かず、悪い仕事をいい仕事だと思い込んで、
悪業を働いたりもしかねないから、本物の子供には本格的な仕事に就く権利もない。
本当に子供のようになるってんなら、一人前の大人並みの行為能力からまず捨て去らなければな。
「昭公十九年なれども、猶ほ童心有り。君子是れを以て其の終わりを能くせざらんことを知れり」
「魯の昭公は、十九歳になってもまだ童子のような幼心が抜けきらないでいた。
これを以て世の為政者たちは、昭公がろくな死に方をできないだろうと察知した。
(乱世の権力者でありながら子供心を捨てきれないのは、致命的なことだから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公三十一年より)
童子のように貞節であることはいいことだが、童子のように蒙昧であることは悪いこと。
未熟な子供なりに成長を目指すことはいいことだが、未熟なせいで蒙昧なのは決していいことじゃない。
だから孔子も述而第七・二八で、風俗の陰湿な村落の児童が自らの元に尋ねてきたときに、
童子ながらに必死で学ぼうとするその心意気を買って、面会だけは許してやっている。
蒙昧なせいで善悪の分別も付かず、悪い仕事をいい仕事だと思い込んで、
悪業を働いたりもしかねないから、本物の子供には本格的な仕事に就く権利もない。
本当に子供のようになるってんなら、一人前の大人並みの行為能力からまず捨て去らなければな。
「昭公十九年なれども、猶ほ童心有り。君子是れを以て其の終わりを能くせざらんことを知れり」
「魯の昭公は、十九歳になってもまだ童子のような幼心が抜けきらないでいた。
これを以て世の為政者たちは、昭公がろくな死に方をできないだろうと察知した。
(乱世の権力者でありながら子供心を捨てきれないのは、致命的なことだから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公三十一年より)
限りなく欲望を肥大化させる小人の性向によって、
世界の大部分を破滅に陥れつつ自分たちだけが繁栄する、
「社会のガン細胞」としての有害無益さが増長されていく。
罪悪の積み重ねによる自業自得の辛苦から救われるために、あろうことか永遠の命すらをも欲するという。
苦しみの種を除くための方法を根本から取り違えている、その邪義こそはまさに苦しみの種でもある。
「人の之に悦するも、妃色も富貴も、以て憂いを解くに足る者になく、
惟だ父母に順ばれることあるのみ、以て憂いを解くべし」
「他人が自分に感服してくれることも、高貴な美女をめとることも、いかに多大なる富貴も、
人としての憂患を解くに足るものではない。ただ父母に喜ばれることによってのみ、憂患も解かれる。
(父母と富貴をみそくそに扱うことによる、自業自得の憂患まみれに、さらに永遠の命を付与する救いのなさ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・一より)
世界の大部分を破滅に陥れつつ自分たちだけが繁栄する、
「社会のガン細胞」としての有害無益さが増長されていく。
罪悪の積み重ねによる自業自得の辛苦から救われるために、あろうことか永遠の命すらをも欲するという。
苦しみの種を除くための方法を根本から取り違えている、その邪義こそはまさに苦しみの種でもある。
「人の之に悦するも、妃色も富貴も、以て憂いを解くに足る者になく、
惟だ父母に順ばれることあるのみ、以て憂いを解くべし」
「他人が自分に感服してくれることも、高貴な美女をめとることも、いかに多大なる富貴も、
人としての憂患を解くに足るものではない。ただ父母に喜ばれることによってのみ、憂患も解かれる。
(父母と富貴をみそくそに扱うことによる、自業自得の憂患まみれに、さらに永遠の命を付与する救いのなさ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・一より)
「苗にして秀でざる者あり。秀でて実らざる者あり」
「苗のままで穂を出さない者もいる。穂を出しても実らない者もいる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二二より)
孔子が子圉という人物のつてで宋の宰相と面会したときに、その姿や居住まいがあまりにも
立派だったことから、面会後、宰相は思わず子圉に「孔先生に会うた後でおまえを見ると、
まるでノミかシラミのようだ」ともらした。そのため子圉は「宋の大君が孔先生と会われた後に
貴殿と面会されましたら、貴殿もノミかシラミのように思われることでしょう」と答えた。
そこで宰相も孔子が重用されることで自らのお株が奪われることを恐れ、孔子を宋の
主君には面会させなかったという。(「韓非子」第七巻・説林上第二十二より)
人が実を結ばない理由も様々だが、誰も彼もがお互いを貶め合うことが当たり前な乱世において、
あまりにも立派な人間でありすぎるためにねたみを買い、社会的な成功に至らないということもある。
立派というよりは、あまりにも口が立ちすぎて有力者からの厚遇を得られなかったのが孟子だが、
やはり、奴隷の如く従順に言うことだけを聞く臣下ばかりが募られていた乱世に、
突出して活躍することにかけて有能であるような人物は煙たがられるだけだった。
そのような、乱世における「不遇の聖賢」としての孔孟の境遇を鑑みれば、上下の引用も
半ば怨み節に聞こえないこともないが、仏者でも神人でもない真人間の代表が儒者でもあるのだから、
好悪が全くないこともないが、好悪を超えた道理もわきまえている点をこそ察したもらいたいものだ。
人は好悪があるからといって、必ずしも道理を逸脱する生き物ではないのだということを。
「不祥の実は、賢を蔽う者、之れに当たる」
「不祥が実を結べば、聖賢をねたんでその真価を覆い隠し、世に知らせまいとするようになる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・一七より)
「苗のままで穂を出さない者もいる。穂を出しても実らない者もいる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二二より)
孔子が子圉という人物のつてで宋の宰相と面会したときに、その姿や居住まいがあまりにも
立派だったことから、面会後、宰相は思わず子圉に「孔先生に会うた後でおまえを見ると、
まるでノミかシラミのようだ」ともらした。そのため子圉は「宋の大君が孔先生と会われた後に
貴殿と面会されましたら、貴殿もノミかシラミのように思われることでしょう」と答えた。
そこで宰相も孔子が重用されることで自らのお株が奪われることを恐れ、孔子を宋の
主君には面会させなかったという。(「韓非子」第七巻・説林上第二十二より)
人が実を結ばない理由も様々だが、誰も彼もがお互いを貶め合うことが当たり前な乱世において、
あまりにも立派な人間でありすぎるためにねたみを買い、社会的な成功に至らないということもある。
立派というよりは、あまりにも口が立ちすぎて有力者からの厚遇を得られなかったのが孟子だが、
やはり、奴隷の如く従順に言うことだけを聞く臣下ばかりが募られていた乱世に、
突出して活躍することにかけて有能であるような人物は煙たがられるだけだった。
そのような、乱世における「不遇の聖賢」としての孔孟の境遇を鑑みれば、上下の引用も
半ば怨み節に聞こえないこともないが、仏者でも神人でもない真人間の代表が儒者でもあるのだから、
好悪が全くないこともないが、好悪を超えた道理もわきまえている点をこそ察したもらいたいものだ。
人は好悪があるからといって、必ずしも道理を逸脱する生き物ではないのだということを。
「不祥の実は、賢を蔽う者、之れに当たる」
「不祥が実を結べば、聖賢をねたんでその真価を覆い隠し、世に知らせまいとするようになる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・一七より)

世俗での名利に固執する儒者のあり方は、仏門や道家が大いに見下すところだし、
神異を敬遠して無宗教的な俗言に終始する姿も、神道などが程度の低いものと見なすところ。
弘法大師も、儒者を「愚童」も同然のものと見なして、儒家の司る人道を、
十住心のうちの下から二番目に当たる「愚童持斎心」に編入させている。
それほどにも程度の低いものであればこそ、最低最悪のどん底の、「異生羝羊心」
にあたる聖書信仰などと比較対照することで、その優劣までもが明瞭なものとなる。
儒家よりも遥かに程度の高い、道家や密教などの教理の中には、万物斉同を肯定する意図から、
異生羝羊心にも共通するような要素を「それもアリ」とするところなどがあるから、
聖書信仰と比較した場合に、みそくそな扱いになってしまいやすいところがあるが、
ことに止至善の勧善懲悪に固執する儒家と比較すれば、みそくそに扱う余地も全くない。

相反するうちの四書五経のほうが優位で、犯罪聖書のほうが劣位であるとする根拠は、
実物としての証明は、次スレのスレ画にもなっているこの画像で精密に提示しているし、
四書五経を正典とする儒家のさらに向こう側に、道家や仏教やヒンズー教や神道などの、
数多の高等教学が控えていることもまた、優劣の非可換性の根拠になっている。
仮に相反するもの同士としての、儒家と聖書信仰のうちで、聖書信仰のほうが優位で
儒家のほうが劣位であるとしたなら、儒家のさらに向こう側にある数多の教学も、
その全てがより劣等なものであるということになってしまうが、実際には決して
そんなことはなく、儒家のさらに向こう側に、さらに高等な教学が数多控えている
からこそ、儒家よりもさらに卑俗なものであるにすぎない聖書信仰などを、
儒家よりも優位なものとして扱ったりしてはならないということがいえる。
「子の湯たる、宛丘の上に。洵に情有れども、而うして望み無し」
「為政者たちが遊蕩にふけり、今日も宛丘(特権階級専用の遊び場)でたむろしている。
やたらとウレシそうに呆けているが、そんなのは民の希望するところでもない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・陳風・宛丘より)
道家の本義も「万物斉同」だし、ヒンズー教中最大派閥を擁するヴェーダーンタ学派も
「不二一元論」を唱える。拝火教や聖書信仰の影響で対戦的な要素を含んでいる
イスラムもまた、汎神主義的な「一化」の神であるアラーを信仰している。
これらの教学が、対立性を退ける一元論的な方向性に即しているのに対し、
儒家や聖書信仰や拝火教などは、もっぱら二元論的な方向性に根ざしている。
物事を善と悪の両極に振り分けて、善と見なしたものを推し進め、悪と見なしたものを懲らしめる。
アレを棄ててコレを採る、一概な選択に根ざした専らなあり方を、学習者や信仰者に対して強制する。
今となっては、儒学のほうが真の「勧善懲悪」であり、聖書信仰はその逆を行く「悪逆非道」であったことが明らかだが、
聖書信仰者だって、元はといえば、自分たちの選択が勧善懲悪であるのだと信じて、聖書信仰を選択したのだった。
ただ、残念ながらそれは本当には悪逆非道であり、人間の行いの中でも最も劣悪な行いの選択だったわけだが、
そもそも、二元論的な発想を大前提にして、アレを棄ててコレを採る一概な選択主義に没頭したことからして、
すでに程度の低いことだったのであり、たとえ真の勧善懲悪であったにしても、アレを棄ててコレを採る
一概さを選択したことにかけては、儒学もまた相当に程度の低い代物であったのだと認めざるを得ない。
「不二一元論」を唱える。拝火教や聖書信仰の影響で対戦的な要素を含んでいる
イスラムもまた、汎神主義的な「一化」の神であるアラーを信仰している。
これらの教学が、対立性を退ける一元論的な方向性に即しているのに対し、
儒家や聖書信仰や拝火教などは、もっぱら二元論的な方向性に根ざしている。
物事を善と悪の両極に振り分けて、善と見なしたものを推し進め、悪と見なしたものを懲らしめる。
アレを棄ててコレを採る、一概な選択に根ざした専らなあり方を、学習者や信仰者に対して強制する。
今となっては、儒学のほうが真の「勧善懲悪」であり、聖書信仰はその逆を行く「悪逆非道」であったことが明らかだが、
聖書信仰者だって、元はといえば、自分たちの選択が勧善懲悪であるのだと信じて、聖書信仰を選択したのだった。
ただ、残念ながらそれは本当には悪逆非道であり、人間の行いの中でも最も劣悪な行いの選択だったわけだが、
そもそも、二元論的な発想を大前提にして、アレを棄ててコレを採る一概な選択主義に没頭したことからして、
すでに程度の低いことだったのであり、たとえ真の勧善懲悪であったにしても、アレを棄ててコレを採る
一概さを選択したことにかけては、儒学もまた相当に程度の低い代物であったのだと認めざるを得ない。
儒学の実質的開祖である孔子と、聖書信仰の実質的開祖であるイエスと、いずれもが「妾腹の私生児(孽子)」という
極めて恵まれない境遇に生まれ育ち、孔子は不遇をバネにした学者として大成したが(ただし本当の希望は為政者としての成功だった)、
イエスは不遇の悲哀に耐え切れず自暴自棄と化し、妾腹の私生児としての境遇をそのまんま正当化するカルト教義を触れ回った。
孔子とイエス、いずれもが甚だしい不遇に置かれていたには違いなく、決してそれ自体はいいことではなかった。
ただ、その不遇さをバネにすることでそれなりに大成したのと、不遇に取り込まれて救いようのない狂人と化したことと、
本人たち自身の不遇への対峙の仕方が、決定的に異なっていたから、多少はマシなものと、最低最悪であるものとに分かたれた。
程度が低いどころか、最低最悪のどん尻の部分で、ブービー賞とビリッケツをそれぞれに配分されたのが孔子とイエスであり、
いずれも「高みに上る」どころの話ではないわけだが、程度が激烈に低い領域の存在同士であるなりに、それなりであろうとたものと、
それなりであることすらかなぐり捨ててグレきったものとになったことで、卑賤なもの同士なりの、決定的な相違が生じた。
不遇にも耐えてグレたりはしなかったほうである孔子は、相当に当時の諸侯からも冷遇を受けたものの、
王侯のような社会的上位者に対する畏敬の念も捨て去りはしなかったし、孽子の分際で
鬼神を語ることを畏れ遠ざけはしたものの、やはり鬼神への敬いも欠かさなかった。
孔子が鬼神への敬いを捨て去らず、王侯への忠節も守り通したから、神仏や聖王のあり方をより主体的に説く高等教学
との連携も行き届いて、>>492図のような厳密な位階に即しての、グレっきり志向に対する絶対的優位までもが確立された。
儒学が聖書信仰よりも優位となった所以も、所詮は他力本願によるが、他力本願が叶うだけの手続きを儒学も踏まえているのだ。
極めて恵まれない境遇に生まれ育ち、孔子は不遇をバネにした学者として大成したが(ただし本当の希望は為政者としての成功だった)、
イエスは不遇の悲哀に耐え切れず自暴自棄と化し、妾腹の私生児としての境遇をそのまんま正当化するカルト教義を触れ回った。
孔子とイエス、いずれもが甚だしい不遇に置かれていたには違いなく、決してそれ自体はいいことではなかった。
ただ、その不遇さをバネにすることでそれなりに大成したのと、不遇に取り込まれて救いようのない狂人と化したことと、
本人たち自身の不遇への対峙の仕方が、決定的に異なっていたから、多少はマシなものと、最低最悪であるものとに分かたれた。
程度が低いどころか、最低最悪のどん尻の部分で、ブービー賞とビリッケツをそれぞれに配分されたのが孔子とイエスであり、
いずれも「高みに上る」どころの話ではないわけだが、程度が激烈に低い領域の存在同士であるなりに、それなりであろうとたものと、
それなりであることすらかなぐり捨ててグレきったものとになったことで、卑賤なもの同士なりの、決定的な相違が生じた。
不遇にも耐えてグレたりはしなかったほうである孔子は、相当に当時の諸侯からも冷遇を受けたものの、
王侯のような社会的上位者に対する畏敬の念も捨て去りはしなかったし、孽子の分際で
鬼神を語ることを畏れ遠ざけはしたものの、やはり鬼神への敬いも欠かさなかった。
孔子が鬼神への敬いを捨て去らず、王侯への忠節も守り通したから、神仏や聖王のあり方をより主体的に説く高等教学
との連携も行き届いて、>>492図のような厳密な位階に即しての、グレっきり志向に対する絶対的優位までもが確立された。
儒学が聖書信仰よりも優位となった所以も、所詮は他力本願によるが、他力本願が叶うだけの手続きを儒学も踏まえているのだ。

「人事を尽くして天命を待つ」という名言も、宋代の大儒である胡寅が述べたもの。
これと同等の記述が「孟子」梁惠王章句下・一四>>136にあり、昔から儒家の天命論が、
人としての最善を尽くしたものに対しての、外部的な果報を表すものとして述べられてきたことが分かる。
自力によってはどうにもならないものの存在を儒者も認めているわけだが、
その天運もまた、自らができる限りの最善を尽くしておくことによって報いてくれるとする。
実際、鬼神を遠ざけながらも敬いを欠かさなかったり、不誠実な諸侯を在野から批判しつつも、
君臣の義はやはり重要であることを認めたりした孔子の姿勢は、妾腹の私生児という卑賤の出身なりに
最善の選択を尽くしたものであったために、鬼神(先祖の神)の価値を否定してローマ皇帝などの
権威も否定したイエスなどと比べてまだマシな存在でいることができ、本物の神仏の側からの視点に即しても、
地獄餓鬼畜生の三悪趣よりはまだマシな、三善趣のうちの「人道」の代表者ともなることができた。
儒学が聖書信仰よりも優位である根拠も、ことに儒学に限定しての範囲では希薄なところがあるが、
十住心論や六道十界論のようなより高等な外部教義によって、その優位性も確立される。
かといって完全なる他力本願一辺倒ではなく、卑賤なものなりの最善も儒家は尽くしている。
「労謙す、君子終わり有り、吉なり。(略)君子とは、万民服するなり」
「苦労しても謙譲でいて誇らないようにすれば、万人に心服される君子となって、終わりをまっとうすることができる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・謙・九三‐象伝より)
四書五経は、第一には学習の対象であり、信仰の対象ではない。
中には「儒教の聖書」として信仰の対象とし、「礼記」にある犬肉の供儀などを
杓子定規に実践し続ける韓国人のような連中もいるが、基本はあくまで「儒学の聖書」であり、
批判的な読み込みの対処などともしつつ、それでもやっぱり普遍的な道理であると認めざるを
得ない論及などをわきまえの材料とするのが、四書五経という聖書の正しい享受の仕方に当たる。
そしてそのような享受の仕方こそは、全地球人類にとっての第一の聖書である四書五経に限らず、
あらゆる聖書やあらゆる知識、好悪の対象ともなる卑俗な情報などに対しても、適用されるべきあり方。
信じたもの、好きなものはただただ無制限に諸手を挙げて受け入れるなどというのは、奴隷か、さもなくば
マゾヒスト止まりの愚行であり、そのような愚劣な人としてのあり方から、改めていかなければならない。
「衆之れを悪むも必ず察し、衆之れを好むも必ず察す」
「誰しもが憎み嫌っているものも、必ずそうなった事情を察するし、
誰しもが好き好んでいるものも、必ずその所以を察する。(無制限な妄信などはあらかじめ排する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・二八より)
中には「儒教の聖書」として信仰の対象とし、「礼記」にある犬肉の供儀などを
杓子定規に実践し続ける韓国人のような連中もいるが、基本はあくまで「儒学の聖書」であり、
批判的な読み込みの対処などともしつつ、それでもやっぱり普遍的な道理であると認めざるを
得ない論及などをわきまえの材料とするのが、四書五経という聖書の正しい享受の仕方に当たる。
そしてそのような享受の仕方こそは、全地球人類にとっての第一の聖書である四書五経に限らず、
あらゆる聖書やあらゆる知識、好悪の対象ともなる卑俗な情報などに対しても、適用されるべきあり方。
信じたもの、好きなものはただただ無制限に諸手を挙げて受け入れるなどというのは、奴隷か、さもなくば
マゾヒスト止まりの愚行であり、そのような愚劣な人としてのあり方から、改めていかなければならない。
「衆之れを悪むも必ず察し、衆之れを好むも必ず察す」
「誰しもが憎み嫌っているものも、必ずそうなった事情を察するし、
誰しもが好き好んでいるものも、必ずその所以を察する。(無制限な妄信などはあらかじめ排する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・二八より)
聖書信仰よりも一段階ほど程度の高いところに儒学があり、
儒学よりもさらに一段階ほど高いところにヒンズー教や道教、そして神道がある。
さらにそれ以上にも高いところに仏教があり、その仏教も宗派などが多岐に分かれ、
さらに個々の行者の練度に応じての、程度の高低が様々ある。
あらゆる品性の中でも最低の品性に陥る聖書信仰などに溺れているうちは、
そのような高等教学の修習に本格的に参画していくことなど到底不可能なわけで、
確かに聖書信仰に溺れることが、他の優等教学の兼学を不能と化す烙印ともなっている。
ただ、その烙印を拭い去る方法も一応あるにはあるわけで、
四書五経のような儒家教学によって聖書教義の劣悪さを徹底的にわきまえ抜き、
そんなものをしんじていてはいけないという、最低限の常人としての倫理観を
持ち直してカルト洗脳から脱却し、さらに儒学以上にも高等な教学を修習していく
資格を持った、まともな人間へと成長していくことができる。
カルト教学による洗脳から脱して、常人に立ち戻った上で、さらに高等教学を修習していく。
儒学は、そのための橋渡し的な存在になれればいいのであって、儒学によってカルト洗脳から
脱け出せたからといって、今度は儒学を金科玉条に掲げるようになったりする必要は全くない。
もちろん儒学にも専修するだけの価値はあるが、そんなに程度の高いものでないのも
確かだから、別に、誰しもに対して儒学に止まることを強要したりするつもりは全くない。
「孔子謂わく、芻靈を為るは善なり。謂く、俑者を為るは不仁なり。人を用いるに殆からずや」
「孔先生が言われた。『草を束ねて人型にした程度のものに霊魂を込めて、死者の副葬品にするのはかまわない。
しかし、人間にそっくりの像に霊を込めて副葬品とするのは不仁である。それではまるで、人を犠牲にするようではないか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
儒学よりもさらに一段階ほど高いところにヒンズー教や道教、そして神道がある。
さらにそれ以上にも高いところに仏教があり、その仏教も宗派などが多岐に分かれ、
さらに個々の行者の練度に応じての、程度の高低が様々ある。
あらゆる品性の中でも最低の品性に陥る聖書信仰などに溺れているうちは、
そのような高等教学の修習に本格的に参画していくことなど到底不可能なわけで、
確かに聖書信仰に溺れることが、他の優等教学の兼学を不能と化す烙印ともなっている。
ただ、その烙印を拭い去る方法も一応あるにはあるわけで、
四書五経のような儒家教学によって聖書教義の劣悪さを徹底的にわきまえ抜き、
そんなものをしんじていてはいけないという、最低限の常人としての倫理観を
持ち直してカルト洗脳から脱却し、さらに儒学以上にも高等な教学を修習していく
資格を持った、まともな人間へと成長していくことができる。
カルト教学による洗脳から脱して、常人に立ち戻った上で、さらに高等教学を修習していく。
儒学は、そのための橋渡し的な存在になれればいいのであって、儒学によってカルト洗脳から
脱け出せたからといって、今度は儒学を金科玉条に掲げるようになったりする必要は全くない。
もちろん儒学にも専修するだけの価値はあるが、そんなに程度の高いものでないのも
確かだから、別に、誰しもに対して儒学に止まることを強要したりするつもりは全くない。
「孔子謂わく、芻靈を為るは善なり。謂く、俑者を為るは不仁なり。人を用いるに殆からずや」
「孔先生が言われた。『草を束ねて人型にした程度のものに霊魂を込めて、死者の副葬品にするのはかまわない。
しかし、人間にそっくりの像に霊を込めて副葬品とするのは不仁である。それではまるで、人を犠牲にするようではないか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)

無病息災の祈願にするような祭りがいくらかある。
犠牲を捧げることで自他の安寧を願うという考え方自体は神道や儒学にもある一方で、
それはあくまで人間自身のために捧げられるものだから、人間自身を生け贄に捧げたり
してはならないという、最低限の正気を保ったわきまえがある。
しかるに、聖書信仰はイエスなる人間が生け贄に捧げられたことで人々が救われたとし、
信者に対しても、あたかも「依り代」となる人形に霊魂を込めるようにして、霊が与えられる。
孔子が人間そっくりの像を芻霊(霊を込めた死者の副葬品)にすることすら不仁だとみなして
いたにもかかわらず、あろうことか人間自身が、死者の副葬品も同然の扱いを受けている。
人間が、人間自身の福利厚生を願う目的で行われていた「供儀」という慣習が、
人間自身を犠牲にしようとする段になって一挙に、世界を破滅へと導く最悪の邪義と化した。
お供え物とか生け贄とかいった慣習が、先祖供養などにかけて自己修養の効能をも持つことが
確かである一方で、もはやモノを食べることもない故人の霊などに供物を捧げることが
迷信交じりであるということを、それこそ西洋人が「未開文明の象徴」として指摘したりも
していたもんだが、その供儀という慣習に、「人間自身の生け贄」というさらなる迷妄を
掛け合わせた邪義こそを西洋人は信じ込み続けてきたわけで、仮に、簡素な依り代や
食物などを用いてのお祭りが迷信であるというのなら、人間自身を生け贄に捧げることは
迷信の二乗であるといえ、確かに甚だしい迷信でしかなかったから、その甚だしさによって
西洋人という、人類の三分の一程度の人々がこれから破滅に向かうことともなってしまった。
そも、「人は万物の霊長(書経・泰誓上)」であるのであり、
わざわざ他者から霊魂などを込められずとも、あらゆる生物の中でも最も旺盛な霊魂を宿している。
にもかかわらず、人を土くれか何かと同然のものと見なし、誰かから霊魂を注入されることで
初めて生きた存在となるかのように思い込んでいるところからして、大間違いである。
「爾の靈龜を舎てて、我を觀て頤を朶る、凶なり。我れを觀て頤を朶るるは、亦た貴ぶに足らざるなり」
「自分自身の霊亀を捨てて、間抜けに口を開いておとがいを垂れ、こちらばかりを見ている、甚だ凶である。
こちらを見て、口を開いておとがいを垂れているようなままでは、貴ぶに足る存在ともなり得ない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・頤卦・初九−象伝)
「霊亀」とは、霊妙な明徳を宿した亀のことで、亀は何日も飲まず食わずでいられることから「自存」の
象徴ともされる。自分自身に始めから自存する霊魂を打ち捨てて、他者から何かをもらおう、もらおうと
ばかりして、思わずおとがいが垂れ下がるほどにも大間抜けに口を開けた状態でいる、それがもう凶である。
霊魂の在り処を自分以外の何ものかに期待しすぎることで、自然と自分自身の霊魂を喪失してしまっている。
そして自分自身に自明自存の霊魂こそは、真に徳性を宿してもいるのだから、自己の霊魂を打ち捨てることで、
自然と徳性をも打ち捨ててしまっている。思わずおとがいも垂れ下がるほどに、誰かに頼ろう、頼ろうとばかり
しようとする姿勢こそはありのままに、自らに既存の徳性をないがしろにする原因となってしまっている。
次スレ;
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/129871790...
わざわざ他者から霊魂などを込められずとも、あらゆる生物の中でも最も旺盛な霊魂を宿している。
にもかかわらず、人を土くれか何かと同然のものと見なし、誰かから霊魂を注入されることで
初めて生きた存在となるかのように思い込んでいるところからして、大間違いである。
「爾の靈龜を舎てて、我を觀て頤を朶る、凶なり。我れを觀て頤を朶るるは、亦た貴ぶに足らざるなり」
「自分自身の霊亀を捨てて、間抜けに口を開いておとがいを垂れ、こちらばかりを見ている、甚だ凶である。
こちらを見て、口を開いておとがいを垂れているようなままでは、貴ぶに足る存在ともなり得ない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・頤卦・初九−象伝)
「霊亀」とは、霊妙な明徳を宿した亀のことで、亀は何日も飲まず食わずでいられることから「自存」の
象徴ともされる。自分自身に始めから自存する霊魂を打ち捨てて、他者から何かをもらおう、もらおうと
ばかりして、思わずおとがいが垂れ下がるほどにも大間抜けに口を開けた状態でいる、それがもう凶である。
霊魂の在り処を自分以外の何ものかに期待しすぎることで、自然と自分自身の霊魂を喪失してしまっている。
そして自分自身に自明自存の霊魂こそは、真に徳性を宿してもいるのだから、自己の霊魂を打ち捨てることで、
自然と徳性をも打ち捨ててしまっている。思わずおとがいも垂れ下がるほどに、誰かに頼ろう、頼ろうとばかり
しようとする姿勢こそはありのままに、自らに既存の徳性をないがしろにする原因となってしまっている。
次スレ;
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/129871790...
あれ、500超えちゃったみたい…書き込めないや…
∧∧ ∧,,∧
(;゚Д゚) ミ゚Д゚,,彡 おkk
ノ つ▼〔| ̄ ̄] ▽⊂ ミ 新スレいこうぜ
〜(,,⊃〔 ̄||====]〜〜[]⊂,⊂,,,;;ミ@
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