会話なんか別に求めてもいない。自分自身のメモ帳代わりであるのが第一。
もしも有志がいたとすれば、それらと有益な議論を交わすのが第二。
ただの馴れ合いの仲良し会話なんかを少しも求めてはいないし、
仲良し会話にしか価値を見出せないお子ちゃまの、勘違い説教を聞くためでもない。
いじめたりいじめられたりが当たり前のことであるかのようにほざくのも幼稚なことだが、
かといって「侮蔑」という、人間である以上は抱きうる悪念を完全に捨て去った聖人に誰しもが
なるなんてのも無理な話で、成人のいじめすら横行している今にこそ期待できることじゃない。
だから、「侮蔑」という悪念を完全に捨て去れなどということはまだ言わず、
侮蔑をなんの根拠もない虐げあい=いじめにそのまま流用するのではなく、「君子から小人へ」という、
確かな倫理的方向性を保っている場合に限って認めることをまず第一に考える。「論語」などの基準に即して、
君子でいられている者が、小人でしかいられていない者を侮蔑するのなら、まだいいということにして、
根拠もなくただ他者を蔑む、いじめの論理から一段階だけ高尚な領域に世の中を持っていく。
「不義にして富みかつ貴きは、我において浮雲の如し(述而第七・一五)」
「己に如かざる者を友とすること無かれ(学而第一・八)」
「唯だ女子と小人とは養い難し(微子第十八・二五)」
商売企業が採用を断る、小男が友好を拒む、女子が嫌う、そんなのは君子にもとる原因であるどころか、
むしろ君子こそは賜る栄光でこそある。だからこそ、商売企業ウケや小男ウケや女ウケばかりが気になる
賤人に過ぎないおまえらを蔑む根拠にすらなる。いじめの場合などと同じでやはり蔑んではいるんだが、
倫理的方向性が定まった上での蔑みなので、いじめの場合の蔑み以上にも完全だ。俺のおまえらへの
蔑みこそは、おまえらの俺への蔑みよりも完全で、普遍的で、揺るがない。蔑みの度合いや安定度でこそ、
俺はおまえらに常勝無敗である。あくまで卑賤な領域の話ではあるが、それはそれとして常勝無敗だw
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