荀子のほうが上だな。
「孔子の弟子の子貢が、あるとき孔子に言った。
『私はもう学問に倦み疲れました。できればもうどこかの主君にでも仕えて、安らぎたいのですが』
孔子は言った。
『詩経(頌・商頌・那)には〔朝から晩まで、温厚かつ謹んで国事を執る〕とある。
主君に仕えるのも難儀なことなのに、どうして安らぐことなどができようか』
『それでは親族にでも仕えて安らごうと思います』
『詩経(大雅・生民之什・既酔)には〔孝子の徳の豊かさは周囲にまで善徳を及ぼす〕とある。
どうして親族に仕えることで安らぐことなどができようか』
『それでは妻子と憩うことで安らごうと思います』
『詩経(大雅・文王之什・思斉)には〔妻に模範となる夫となり、子供たちにもそれを及ぼして家邦を治む〕とある。
どうして妻子のそばで安らぐことなどができようか』
『それでは友人と共に安らごうと思います』
『詩経(大雅・生民之什・既酔)には〔朋友は助け合うときにお互いの威儀を正し合うもの〕とある。
どうして友人のそばで安らぐことなどができようか』
『それでは農耕生活にでも安んじようと思います』
『詩経(国風・豳風・七月)には〔昼には茅を取り、夜には縄をない、屋根を葺いたら、今度は種まきだ〕とある。
どうして農耕生活と共に安らぐことなどができようか』
たまりかねて子貢は言った。
『それでは私には安らぐところなど、どこにもないのでしょうか』
孔子は言った。
『あそこにある、高々としてこんもりとした、釜を伏せたような墓の土盛りを見るがいい。
あそこで初めて、自分の休息すべきところが分かるだろう』
師の答えに感嘆しつつ、子貢は言った。
『ああ、偉大なる死よ。立派な君子も愚かな小人も、初めてそこで真の休息に与れるのだ』」
(「荀子」大略篇第二十七・五九)
死生観について、儒者は現代人の一枚も二枚も上手をいっている。
仏門や武門などと比べて、伝統的にも格下扱いされてきたせいで、
今でも地味な扱いを受けている儒者にすら、現代人は全く及んでいない。
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