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神道や道教やヒンズー教などの祭司も、自分たちが六道十界論でいう
ところの「天道」を司っていることは認めているし、人道に該当する儒学も、
「高きに登らず、低きに臨まず(礼記)」のわきまえによって人道に甘んずる。
宮本武蔵のような兵法家も自らが「修羅」の徒であることを認めていたし、
拝火教の最高神であるアフラ・マズダーこそは「阿修羅」の起源でもある。
それぞれに思うところがあって、天道や人道や修羅道といった、
仏門からすれば程度の低いものとされる、六道輪廻の一部分を司っている。
誰も彼もが仏門ばかりに帰依するのでは、確かに「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」にもなりかねず、
声聞・縁覚・菩薩・仏の四乗に自力で入道するのなら、家業を捨てての出家が当然必要にもなる。
昔の一家の次男坊や三男坊が、口減らしのために、婿養子などと並んで処世の手段としていたのが
出家行でもあるから、高尚なものとして敬われつつも、世間一般からは一定以上遠ざけられていた。
少なくとも、インド以東の社会においては、仏門の教義的優越性を認めることにかけては一致していて、
六道十界論や十住心論などに対しても、「全く違う」というほどもの異論が唱えられることはほとんどない。
ただ、当該の仏教理論に基づいて高度な境地に登ることは、大変なリスクが伴うことでもあるから、
高きに登りすぎず低きに降りすぎぬ、社会的立場からの中庸の堅持のほうが多くの支持を受けてはいる。
それが、そんなに高尚な境地ではないこともわきまえられた上で、修羅・人・天の三善趣程度に多数が安んじている。
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