世の中全体を統治する君子士人と、全産業中の「本業」に当たる農業を兼任することが、
旧土佐国の長宗我部氏(秦始皇帝の末裔ともされる)によって「一領具足」として推進されていた。
しかし、公儀と産業権力の癒着が、権力の一極集中化による制御不能状態を生み出すために、
両者を分断する兵農分離政策が、応仁以降初の天下統一者である豊臣秀吉によって敷かれた。
戦国期の過剰軍備の解体としての「刀狩り」も兼ねた政策で、秀吉の死後、豊臣家滅亡後にも
江戸幕府によって概ねの方向性は引き継がれた。特に、天下分け目の関ヶ原の戦いや大坂の役で
豊臣方に付いて敗れた長宗我部氏の代わり、土佐藩藩主となった山内氏は、一領具足が慣習付いていた
元長宗我部家臣を冷遇したため、山内家臣との軋轢が生じ、上士と下士との断絶をも生み出した。
土佐の郷士(下士)出身だった坂本龍馬の家も、武家でありながら商売で成功して富を築いていた。
「論語」子路第十三・四の記述などにも基づき、士人が産業に関わることを蔑視していた江戸社会に
おいて、武士でありつつ農業や商業にまで手を出していた土佐藩郷士の所業は明らかに不行跡であり、
差別や懲罰の対象となるのも仕方のないことだった。龍馬も暗殺されたのではなく処刑されただけ。
中国のほうだと、科挙試験などを通じて才能が認められた者は士大夫となり、認められなかった者は
農夫などへと身をやつすのが慣習だった(「近思録」などを参照)。士人大夫と産業従事者と、
どちらになっても構わないが、どちらかをやる以上はもう一方の選択は捨てなければならなかった。
士人をやるんなら士人、産業をやるんなら産業。欲張って両方やろうとすから
>>46みたいなことになる。
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