土佐藩は、実質五十万石相当の領地であったところ、四国山地の険しさなどから
太閤検地で大幅に誤って約十万石と見積もられ、徳川幕府も二十万石程度とした。
関ヶ原の後に土佐国を拝領した山内氏も、二十万石相当としての統治を試みたが、
如何せん士人に対する庶民の人数規模があまりにも大きくなりすぎたために、
城下町である今の高知市中心部を除いて、ほとんど区画整理すら行き届かなかった。
(前県知事の橋本大二郎が初めて全県規模での区画整理を実施した)
その、土佐藩こと現高知県においてこそ、部落差別もまた極めて厳しかった。
ほとんど武士による統治が行き届いていなかった現高知市郊外や高知市外では、
被差別部落がそれはそれは貧しい村落を形成し、娯楽一つない乞食同然の生活を
送っていた。部落だけでなく、小作農や小売商なども相当に貧しい生活を強いられて、
ほんの一部の豪農や豪商だけが儲けまくりという構図が典型化してしまっており、
そのような豪農や豪商の中から、金で士分の株を買う郷士なども生まれたのだった。
これがたとえば、実質三十万石相当でありながら、五十万石と見積もられていた
現鹿児島県である薩摩藩などであれば全くの逆で、部落差別などはほとんどないに等しく、
一般人とも普通に接し合い、また一部の豪農や豪商ばかりが突出するということもなかった。
正当な士分格の人間の割合が多いほど、庶民同士での差別は緩和されるようで、ほとんど
士人による制御が働かないような土地においてこそ、庶民同士が深刻な階層構造を作り出す。
庶民同士での共食い状態な差別構造を禁止するために、士人による抑え付けが必要とされる。
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