士農工商
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四民(原典では分類が定かでない)・・・「書経」偽古文尚書・周書・周官に初出。後付けの可能性もあり。
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商農工賈(サービス業と農業と工業と小売業)・・・「春秋左氏伝」宣公十二年に、随武子が民の生業を指す言葉として。四民の内実の初出。
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士産分離(士大夫と産業階級の分離)・・・「論語」子路第十三・四などにおいて、礼儀道徳に基づく士大夫階級と産業階級の分離が提唱される。
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士工農商(士大夫と工業と農業と商業)・・・「荀子」儒效篇第八・十二において、大公以下の支配階級も含めて「大夫士・工・農・商賈」とされる。
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末業断罪・・・「韓非子」五蠹第四十九において、農業などの本業と比べての、末業としての工業や商業の偏重が断罪される。
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士農工商(士大夫と農業と工業と商業)・・・「管子」乘馬などにおいて、支配階級を含めた明確な四民制が初出。農業と工業の地位が引っくり返る。
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四民制の定着・・・「六韜」などにおいて、絶対的正当性が確立された士農工商の保全のための権謀術数が「目的のために選ばない手段」として展開される。
「管子」の書名にもなっている管仲は、孔子の活動時期よりも昔の春秋時代中期の人物だが、
書物としての「管子」は漢代以降に編纂された仮託書で、諸子百家中最終の「韓非子」よりも新しい。
「六韜」も殷周革命の立役者である太公望呂尚が述べた兵法とされているが、その成立は遥かに遅れる。
非常に多くの紆余曲折を経て、最終的に確立された「士農工商」という四民制の格付け。
不当に貶められた商人の不満のガス抜きのために、部落階級が設置されたなどと勘違いされている場合が多いが、
部落差別は、早くから奴隷制を根絶させた日本社会に特有の問題で、中国原産の四民制とは直接関係がない。
日本でだけ「皇族華族士農工商穢多非人」という長大な階級差別が生じたことも踏まえた上で、議論されたい。
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商農工賈(サービス業と農業と工業と小売業)・・・「春秋左氏伝」宣公十二年に、随武子が民の生業を指す言葉として。四民の内実の初出。
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士産分離(士大夫と産業階級の分離)・・・「論語」子路第十三・四などにおいて、礼儀道徳に基づく士大夫階級と産業階級の分離が提唱される。
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士工農商(士大夫と工業と農業と商業)・・・「荀子」儒效篇第八・十二において、大公以下の支配階級も含めて「大夫士・工・農・商賈」とされる。
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末業断罪・・・「韓非子」五蠹第四十九において、農業などの本業と比べての、末業としての工業や商業の偏重が断罪される。
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士農工商(士大夫と農業と工業と商業)・・・「管子」乘馬などにおいて、支配階級を含めた明確な四民制が初出。農業と工業の地位が引っくり返る。
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四民制の定着・・・「六韜」などにおいて、絶対的正当性が確立された士農工商の保全のための権謀術数が「目的のために選ばない手段」として展開される。
「管子」の書名にもなっている管仲は、孔子の活動時期よりも昔の春秋時代中期の人物だが、
書物としての「管子」は漢代以降に編纂された仮託書で、諸子百家中最終の「韓非子」よりも新しい。
「六韜」も殷周革命の立役者である太公望呂尚が述べた兵法とされているが、その成立は遥かに遅れる。
非常に多くの紆余曲折を経て、最終的に確立された「士農工商」という四民制の格付け。
不当に貶められた商人の不満のガス抜きのために、部落階級が設置されたなどと勘違いされている場合が多いが、
部落差別は、早くから奴隷制を根絶させた日本社会に特有の問題で、中国原産の四民制とは直接関係がない。
日本でだけ「皇族華族士農工商穢多非人」という長大な階級差別が生じたことも踏まえた上で、議論されたい。
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フィクション混じりの幕末ものの小説やドラマなどで、
坂本龍馬や中岡慎太郎、武市瑞山といった「郷士」たちが
土佐藩で酷い冷遇を受けていたという風に描かれることがある。
特に近ごろの「龍馬伝」などでは、龍馬たちが自分たちを「下士」と呼び、
「上士」と比べて多くの差別を受け、上士に切り捨て御免にすらされることが
あることを受けて、「上士も下士もないぜよ」などと憤っている姿が描かれている。
しかし、まず土佐藩では「下士」と「郷士」とは全くの別物であり、
下士こそは本物の下級武士で、四石取り程度の足軽身分なども含まれていた。
一方で郷士のほうは、元々が全く士分格ではなかった庶民のうちで、
特に九石取り以上に相当するような富農や豪商などが、
検地不備のせいなどで常に財政危機に瀕していた土佐藩から
士分の株を買って一応武士の体裁を得た代物であり、
中には帰農していた元長宗我部家臣などもいたようだが、
いずれにしろ土佐山内にとっての「家臣」に値するような人種ではなかった。
足軽級を含む正規家臣の場合には、たとえ最底辺の下士であろうとも、
奉公に勤め励むことでその功績を認められ、加増を頂いて上士格になったり
することもあった。しかし郷士のほうはといえば、ただ士分の株を
金で買っただけの存在であり、別にお上に仕える仕事に励んでいた
わけでもないから、功績が認められて上士になるなんてこともなかった。
裏口入学みたいなことをして武士になった富裕な庶民が、
最底辺からのお勤めによって上士を目指していく本物の武士の世界に
馴染むことができなかったというのが、土佐藩での郷士の分断の真相。
忠孝に励むことを旨とする儒学的な素養だけは、金で買うことはできなかった。
坂本龍馬や中岡慎太郎、武市瑞山といった「郷士」たちが
土佐藩で酷い冷遇を受けていたという風に描かれることがある。
特に近ごろの「龍馬伝」などでは、龍馬たちが自分たちを「下士」と呼び、
「上士」と比べて多くの差別を受け、上士に切り捨て御免にすらされることが
あることを受けて、「上士も下士もないぜよ」などと憤っている姿が描かれている。
しかし、まず土佐藩では「下士」と「郷士」とは全くの別物であり、
下士こそは本物の下級武士で、四石取り程度の足軽身分なども含まれていた。
一方で郷士のほうは、元々が全く士分格ではなかった庶民のうちで、
特に九石取り以上に相当するような富農や豪商などが、
検地不備のせいなどで常に財政危機に瀕していた土佐藩から
士分の株を買って一応武士の体裁を得た代物であり、
中には帰農していた元長宗我部家臣などもいたようだが、
いずれにしろ土佐山内にとっての「家臣」に値するような人種ではなかった。
足軽級を含む正規家臣の場合には、たとえ最底辺の下士であろうとも、
奉公に勤め励むことでその功績を認められ、加増を頂いて上士格になったり
することもあった。しかし郷士のほうはといえば、ただ士分の株を
金で買っただけの存在であり、別にお上に仕える仕事に励んでいた
わけでもないから、功績が認められて上士になるなんてこともなかった。
裏口入学みたいなことをして武士になった富裕な庶民が、
最底辺からのお勤めによって上士を目指していく本物の武士の世界に
馴染むことができなかったというのが、土佐藩での郷士の分断の真相。
忠孝に励むことを旨とする儒学的な素養だけは、金で買うことはできなかった。
土佐藩は、実質五十万石相当の領地であったところ、四国山地の険しさなどから
太閤検地で大幅に誤って約十万石と見積もられ、徳川幕府も二十万石程度とした。
関ヶ原の後に土佐国を拝領した山内氏も、二十万石相当としての統治を試みたが、
如何せん士人に対する庶民の人数規模があまりにも大きくなりすぎたために、
城下町である今の高知市中心部を除いて、ほとんど区画整理すら行き届かなかった。
(前県知事の橋本大二郎が初めて全県規模での区画整理を実施した)
その、土佐藩こと現高知県においてこそ、部落差別もまた極めて厳しかった。
ほとんど武士による統治が行き届いていなかった現高知市郊外や高知市外では、
被差別部落がそれはそれは貧しい村落を形成し、娯楽一つない乞食同然の生活を
送っていた。部落だけでなく、小作農や小売商なども相当に貧しい生活を強いられて、
ほんの一部の豪農や豪商だけが儲けまくりという構図が典型化してしまっており、
そのような豪農や豪商の中から、金で士分の株を買う郷士なども生まれたのだった。
これがたとえば、実質三十万石相当でありながら、五十万石と見積もられていた
現鹿児島県である薩摩藩などであれば全くの逆で、部落差別などはほとんどないに等しく、
一般人とも普通に接し合い、また一部の豪農や豪商ばかりが突出するということもなかった。
正当な士分格の人間の割合が多いほど、庶民同士での差別は緩和されるようで、ほとんど
士人による制御が働かないような土地においてこそ、庶民同士が深刻な階層構造を作り出す。
庶民同士での共食い状態な差別構造を禁止するために、士人による抑え付けが必要とされる。
太閤検地で大幅に誤って約十万石と見積もられ、徳川幕府も二十万石程度とした。
関ヶ原の後に土佐国を拝領した山内氏も、二十万石相当としての統治を試みたが、
如何せん士人に対する庶民の人数規模があまりにも大きくなりすぎたために、
城下町である今の高知市中心部を除いて、ほとんど区画整理すら行き届かなかった。
(前県知事の橋本大二郎が初めて全県規模での区画整理を実施した)
その、土佐藩こと現高知県においてこそ、部落差別もまた極めて厳しかった。
ほとんど武士による統治が行き届いていなかった現高知市郊外や高知市外では、
被差別部落がそれはそれは貧しい村落を形成し、娯楽一つない乞食同然の生活を
送っていた。部落だけでなく、小作農や小売商なども相当に貧しい生活を強いられて、
ほんの一部の豪農や豪商だけが儲けまくりという構図が典型化してしまっており、
そのような豪農や豪商の中から、金で士分の株を買う郷士なども生まれたのだった。
これがたとえば、実質三十万石相当でありながら、五十万石と見積もられていた
現鹿児島県である薩摩藩などであれば全くの逆で、部落差別などはほとんどないに等しく、
一般人とも普通に接し合い、また一部の豪農や豪商ばかりが突出するということもなかった。
正当な士分格の人間の割合が多いほど、庶民同士での差別は緩和されるようで、ほとんど
士人による制御が働かないような土地においてこそ、庶民同士が深刻な階層構造を作り出す。
庶民同士での共食い状態な差別構造を禁止するために、士人による抑え付けが必要とされる。
五十万石規模の統治体制で、三十万石規模の土地を治めていた薩摩藩は、
ざっと二十万人ほどもの士分が有り余っていたわけで、
この二十万人が明治維新後に全国の武士にも成り代わって、
警察関係者や軍関係者の大部分を占めるに至った。
(薩摩以外の武士は教員などになる場合が多かった)
今でも警察職員の人数は三十万人弱で、上層部などはほとんど
鹿児島出身者で占められているわけだが、いくら士分が有り余っていたとはいえ、
日本全国を治めきるには、鹿児島出身者だけでは全く足りないから、案の定、
今の日本では重大権力犯罪の内憂外患が救いがたい規模にまで肥大化してしまっている。
別に、薩摩藩のように士人が有り余っていたりする必要はない。
かといって土佐藩のように、士人の数が全く足りなくて、民間の権力犯罪を
増長させてしまい、部落差別などを深刻化させてしまうのでもいけない。
三十万石の土地には三十万石相当、五十万石の土地には五十万石相当の
統治体制をあてがうことで、過不足なく治めることができればそれでよく、
適正な規模での四民制や封建制が敷かれたときに、部落差別も適度に緩和される。
ざっと二十万人ほどもの士分が有り余っていたわけで、
この二十万人が明治維新後に全国の武士にも成り代わって、
警察関係者や軍関係者の大部分を占めるに至った。
(薩摩以外の武士は教員などになる場合が多かった)
今でも警察職員の人数は三十万人弱で、上層部などはほとんど
鹿児島出身者で占められているわけだが、いくら士分が有り余っていたとはいえ、
日本全国を治めきるには、鹿児島出身者だけでは全く足りないから、案の定、
今の日本では重大権力犯罪の内憂外患が救いがたい規模にまで肥大化してしまっている。
別に、薩摩藩のように士人が有り余っていたりする必要はない。
かといって土佐藩のように、士人の数が全く足りなくて、民間の権力犯罪を
増長させてしまい、部落差別などを深刻化させてしまうのでもいけない。
三十万石の土地には三十万石相当、五十万石の土地には五十万石相当の
統治体制をあてがうことで、過不足なく治めることができればそれでよく、
適正な規模での四民制や封建制が敷かれたときに、部落差別も適度に緩和される。
坂本龍馬やら武市半平太やら、中岡慎太郎やら岩崎弥太郎やらの、
土佐の郷士出身の幕末志士が、人々の平等を願って維新を志しただなんて、とんでもない話。
奴らこそは、土佐藩での部落差別や、豪農や豪商と貧農などの経済格差を、極大化させていた張本人。
もちろん、連中自身、百姓や商人などの庶民の出であり(一部長宗我部元家臣などを除く)、
士人としての権力道徳に即して、庶民同士の大差別を是正していく素養などはなかったわけで、
地方に対する杜撰な検地で、庶民にまで士分の株を大量に売り渡しての統治政策を土佐藩に強いた
豊臣秀吉を始めとする中央政権のほうに、根本的な責任があったのだとはいえる。
金でものを売り買いした時点で、すでに士農工商の底辺に位置する「商」の領分であり、
商売のペースで士分の株を売り渡したところで、売り渡した相手に士人としての心得までもが
託されるわけがないのであって、案の定、金で士分の株を買った土佐の郷士たちは、
貧農や部落などを最底辺の極貧生活に追いやっても寸分も憚らず、自分たちはといえば、
せいぜい二百石取り程度が頭打ちとなっていた土佐藩重臣(山内家親類を除く)並みか
それ以上もの栄華を誇っていたわけで、その経済的な富裕を嵩にかかった、土佐郷士による
上士と郷士の格差是正の試みが、少しだって正当性を帯びていたわけではなかった。
土佐の郷士出身の幕末志士が、人々の平等を願って維新を志しただなんて、とんでもない話。
奴らこそは、土佐藩での部落差別や、豪農や豪商と貧農などの経済格差を、極大化させていた張本人。
もちろん、連中自身、百姓や商人などの庶民の出であり(一部長宗我部元家臣などを除く)、
士人としての権力道徳に即して、庶民同士の大差別を是正していく素養などはなかったわけで、
地方に対する杜撰な検地で、庶民にまで士分の株を大量に売り渡しての統治政策を土佐藩に強いた
豊臣秀吉を始めとする中央政権のほうに、根本的な責任があったのだとはいえる。
金でものを売り買いした時点で、すでに士農工商の底辺に位置する「商」の領分であり、
商売のペースで士分の株を売り渡したところで、売り渡した相手に士人としての心得までもが
託されるわけがないのであって、案の定、金で士分の株を買った土佐の郷士たちは、
貧農や部落などを最底辺の極貧生活に追いやっても寸分も憚らず、自分たちはといえば、
せいぜい二百石取り程度が頭打ちとなっていた土佐藩重臣(山内家親類を除く)並みか
それ以上もの栄華を誇っていたわけで、その経済的な富裕を嵩にかかった、土佐郷士による
上士と郷士の格差是正の試みが、少しだって正当性を帯びていたわけではなかった。
やっぱ、得た否認はみとめるもんじゃねえな
どの文章が自殺教唆なんだ?
意味もわかってない言葉つかわないようにな。失笑
意味もわかってない言葉つかわないようにな。失笑
▲ページ最上部
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