仏教を通して見えることは自由をどう扱うかという問題である
自由が妙な形で社会に活用されると弊害が生まれる
それがまさに近代であろうかと思う
近代文明もまた自由を使いこなしているようでいてしくじっているのだ
このことに気付くことはむずかしい
近代の自由とは何かを人々はかなり勘違いして捉えている
個人が選択できたり、権利を主張できることのように勘違いする
言論の自由、表現の自由、職業選択の自由、恋愛の自由、思想信条の自由
それは近代の自由の誤解である
この誤解で自らを苦しめている
近代の自由は一義的には支配の自由であり、取引の自由であり、収奪の自由である
社会が手に入れた自由なのであり、個人の自由ではない
社会の自由も弊害を生むが、勘違いされた個人の自由も弊害を生む
そこで、あわてて公共観念を個人にまで落とし込もうとする
間違った展開をさせてしまってから、無理くりな処方を強制するが、当然、定着はしない
公共観念で律せられるべきは個人ではなく、社会であり、社会の自由に対してセーブをかける根拠とすべきものだ
仏教は近代の自由のもたらす混乱に対し、さもありなんと慈愛に満ちた憐情を寄せるであろう
仏教の現代性がそこにある
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