人間は自意識を超えたところで善と楽、悪と苦を同一視している。
超意識系での同一扱いに基づいて、善であるものを時に楽と見なしたり、
苦であるものを時に悪と見なしたりしている。
なので、全ての哲学的探求が結局はトートロジーに帰するとする
ウィトゲンシュタインの主張は、現実問題として正しくない。
超意識系における善と楽、悪と苦の異熟を命題とする唯識思想を
教理上の出発点としている大乗仏教哲学などは、まさにトートロジーの
現実的破綻があってこそのものである。
超意識系におけるトートロジーの「健全な破綻」を司る唯識思想を抜きにして、
一切皆空の中観思想ばかりを教理上の根幹に据えたりしたならば、
大乗仏教もそこらのニヒリズムと何ら変わりのないものとなってしまう。
ニヒリズムが時に人を発狂や自殺にすら追い込む一方で、
中観思想などの一部の教義がニヒリズム的な傾向を持ち合わせている大乗仏教が、
にもかかわらず帰依者に無上の精神的安楽をもたらすのも、唯識思想が司っている
善因楽果悪因苦果の罪福異熟というトートロジーの健全かつ現実的な破綻が、
ニヒリズムの嗜好者にとっての発狂や自殺の原因となる「トートロジーへの
病的終始」を退けてくれるからだ。
ニーチェが、真理という円環との結婚だの、永劫回帰の礼賛だのといった
珍妙な表現で示そうとしていたのも、要するに哲学的探求のトートロジーへの
病的終始なのであり、そこに陥ってしまえば人は精神を病んでしまいかねないが、
別にそれが哲学者の宿命なわけでもない。
超意識系におけるトートロジーの目出度い破綻すら悟ることができたなら、
唯一神への信仰など糞食らえな現代的価値観の持ち主が、
哲学的探求によって精神を病むようなこともなくて済むのである。
(それを悟ること自体が、現代からかけ離れているとも言えなくはないが)
返信する