義だ仁だ忠だ天だと、名称だけは広く知れ渡っているのに、その内実はといえば、
ほとんどの人間が全くといっていいほど理解できないままでいる類いの理念という
ものがある。そのため、名称と不可分な関係にある自明な本意のほうは蔑ろにされた
上で、本意を解さない無知者が適当な別の意味を後付けしてしまっていたりもする。
①
「義」には、とりあえず何かをしておくことの正当化全般という意味が込められるし、
「仁」には、見栄っ張りな大盤振る舞い全般を指し示す意味が込められるし、
「忠」には、奴隷か家畜の如く主人の言いなりになること全般があてはめられるし、
「天」には、常人とは次元の違うもの全般を指し示す意味が込められるのが常である。
これら全て、義や仁や忠や天といった言葉に本来付与されている意味とは別物だったり、
あまりにも範囲が広すぎたりする意味となっている。これらの言葉の本来の意味は、
②
「義」とは、仁への志しを実践に移して行く場合に迷うことのない所であり、
「仁」とは、天下万人と我れとを公平かつ盛大に利する志しのことであり、
「忠」とは、仁義の実践のために主君に尽くす賢臣としての心がけであり、
「天」とは、そのような人間たち自身の実践をさらに超えた所にある縁起のことである。
仁義も忠孝も天命もほぼ見失った状態にある現代人が用いている語法は概ね①の
ほうであり、②はもはや完全に忘れ去られているか、もしくは旧態化して取るに
足らない意味合いとされてしまっているのが常である。実際、②のような語法は、
天下国家のための仁政を心がける職業上からの君子でもない限りは、そのような
言葉遣いであることを不可避に強要までされるものではない。①のような歪んだ
意味や、漠然とした意味に基づく語法のほうが、大した職業に就いているわけ
でもない小人などにとっては、より有用な言葉遣いともなり得るものである。
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