
親鸞聖人が、弟子(門人)に「ちっとも極楽浄土なんか行きたくありません。ずっと現世に 
 止まっていたいです」と言われたとき、「親鸞も同感じゃよ」と答えたというエピソードや、   
 蓮如上人が、寺の本尊の阿弥陀如来像を枕に昼寝をしている一休和尚を見つけて、 
 「俺の商売道具に何をする!」と叱り付けて共に笑い飛ばしたというエピソードなど、   
 ちぃーっとも、完全誤謬信仰の場合に見られるような「信仰の強烈さ」が垣間見られない。   
 その「正信故の余裕」は、諸々の真宗信者にも落とし込まれて、真宗の坊主や信徒こそは、 
 信仰への敬虔さが寸分も垣間見られない、生臭仏教徒の代名詞ともなっている。   
 しかし、それも真宗の信仰が完全誤謬信仰などではないからこその、シラフさの現れである。 
 生臭なのは、真宗に戒律や修行事項がないからで、別に信仰が疎かだからではない。   
 生臭な上に敬虔さも見られないものだから、信仰すら疎かなものと勘違いされかねないが、真宗の 
 信仰もまた磐石なものであり、ただ完全誤謬信仰者に見られるようなわかりやすい敬虔さこそは 
 信仰の証であるなどと思い込んでいる人間からすれば、自業自得で捉え所がないだけのことである。   
 出家修行などの厳重な正法の実践に敬虔であるのは善いことだが、ただの信仰に敬虔であるという 
 のは考えものである。なぜならそれは、完全誤謬信仰を原因とした敬虔さの可能性があるからで、 
 完全誤謬信仰に基づいて信仰に敬虔であるぐらいなら、むしろ信仰などしないほうがマシなのである。
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