「始め吾れの人に於けるや、其の言を聴きて其の行を信ず。
今吾れの人に於けるや、其の言を聴きて其の行を観る」
「昔、わたしは人の言葉を聞けば即座にその行いまでをも信じた。今は改めて、
仮に人の言葉を聞いたとしても、必ずその行いにまで注意を向けるようにしている。
(言葉はよさげでも行いは非道だったり、口汚くても行いは正しかったりするから)」
(真正福音書——論語——公冶長第五・一〇より)
権力犯罪聖書——通称聖書の逆を実践するために、何も仏典の実践にまで務める必要はない。
ごく当たり前な道理を無宗教的に取り揃えた、四書五経の記述を実践するだけでも十分である。
それだけで、儒学の実践に特に忠実だった前漢の頃の中国や、江戸時代の日本程度の繁栄は達成できる。
確かに当時の中国や日本にも、謀反の多発や匈奴との小競り合い、火付盗賊の一時的な横行などの
問題は来たしていたが、それとて、世の中の破滅を決定付けるほどのものではなかった。しかも、
漢帝国や江戸幕府の崩壊を決定付けたのは、黄巾党のようなカルト集団の跳梁や、米英を始めとする
侵略勢力による外圧であり、それにより儒学の実践が妨げられたからこそ、崩壊をも来たしたのだった。
四書五経だけでなく、仏典の実践にまで及んだときに、世界最高の文化大国となった大唐帝国や、
死刑一つ行う必要もないほどに罪業が絶やされた平安朝ほどもの未曾有の治世が達成される。
それもまた選択肢としてあることはあるが、それはもはや「聖書の記述の逆の実践」なんていう
低レベルな領域に止まらない、より積極的な断悪修善の先にこそある代物なので、今はまだ措く。
まるで、ザラスシュトラがアンラマンユを罵倒するようにして、俺もイエスやエホバに対して、
「ほざく」とか「戯れ言」とかの侮辱的な言葉を用いている。これも、漢代の中国や江戸時代
の日本であれば、まだある程度は容認されていた程度のたわ言だから用いているのであって、
侮蔑一つ許されることがないような時代が到来するのは、まだ先のことだと踏んでいるからだ。
言葉の良し悪しなど以上にも、行いの良し悪しのほうを重視する、四書五経の実践にもなっている。
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