他力本願は、それ自体が陰陽でいう陰に当たる。陰であることを陽と倒錯して、
陰を陽以上にも優位に置こうとすれば、それが悪になる。だから拝火教であれアブラハム教であれ、
他力本願の信教が自力作善の教学よりも優位だなどと主張すれば、それは悪になる。
自分たちではとうてい自力作善も覚束ない凡夫が、「たとえ悪人であっても救われる」
という評判を聞いて、「こりゃしめた」とみてすがりつくのが他力信仰の基本。さらには、
「悪人こそは救われる」となって、自分が全くの悪人であることを開き直りつつ帰依すれば、なおのこと正しい。
他力信者だから自力作善者以上、自力作善以上にも善人であって、善思善言善行も思うがままに
為せるなどと思い込むほうが、かえって間違い。他力本願それ自体は自力作善よりも劣位であり、
悪思悪言悪行しか為せない悪人こそは帰依するものであると見なすほうが、かえって正しいのだ。
悪人こそが他力本願にすがれば、それが善になる。善人として善言善行を心がけるために他力本願に
すがったりするほうが、かえって悪が助長される。この当たりには陰陽に根ざした微妙な法則性であり、
占い否定主義の親鸞聖人も、一時は易学を研究した上で悪人正機を編み出したともいう。
拝火教が生まれたイラン以西の世界の人々には、根本的な陰陽法則への理解が欠けていた。
悪が他力本願によって善になったり、善が他力本願によって悪になったりする微妙な実相法則を
東洋人のほうは理解できていたが、確かにこんな法則までをも理解していた東洋人のほうが凄すぎるだけで、
他力本願によって善を為すことだってできると考えた西方人のほうが、それなりであるといえるかもしれない。
しかし、全世界としては陰陽法則の理解はあるわけだから、ある以上はそれを諾うほうが利口だといえる。
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