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聖書 Part7


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226 2012/03/01(木) 13:26:00 ID:PB9V9bGShw
「キリストは、刑死して蘇ることにより、全ての人々の罪を償った」という文章は、
「キリスト(神の子)」という名前の存在が、「刑死して蘇る」という手段によって、
「全ての人々の罪を償う」という目的を達成することの因果律が、全く満たされていない。

神の子だから、刑死しても蘇るというのが、すでに不当である。
死刑は受刑者を殺すために行う刑罰であり、相手が神の子だというのなら、
神の子が死んで二度と蘇らないような処刑方法によって殺さねばならない。
(死んで蘇るような死刑を行うということは、刑罰が当たらず濁っているということでもある)
しかし、仮に神の子が不死であり、どんな処刑方法によっても死なせることが
できないとする。それなら始めから神の子は処刑などによって死なないのであり、
わざわざ刑死してから蘇るなどという道理は通らない。神の子が死ねるという場合にも、
死なないという場合にも、「死んで蘇る」という手段が実現されることはない。

そして、「刑死して蘇る」という手段によって、「全ての人々の罪を償う」という
目的が達成されること、これこそが絶対にあり得ない。仮に自分が強盗被害に遭ったとして、
強盗犯が罪を償いもせずに自分の前にやって来て、「キリストが刑死して蘇ることで
俺の罪も償われたから、二度と俺の罪を問うたりするな」とほざき、強奪した物品も一切
返却しなかったとする。それで、強盗犯自身を許してやれたり、するわけがないのであり、
「罪は加害者自身が償わなければならない」という因果律の保存は、犯罪の加害者ではなく
被害者の立場から考えてみた場合に、あまりにも自明なものであることが判明するのである。

神の子が刑死して蘇るか、刑死して蘇ることで全ての人々の罪を償うかどうかということは、
因果関係に即して考えてみるなら、その論理構造からして、自明に破綻しているのであり、
諸法因果の仏教的観点に即するなら、強く否定することが心がけられなければならないものですらある。

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