洗脳は、人間を使役対象として活性化する。
ある種の理念によって活動を煽り、一心不乱に事業に取り組ませる。
そこに文明構築の秘訣までもが存在するのであり、
何も洗脳を施さない人間ならば、大体が田舎の牧歌的な生活に終始する。
聖書信仰や洋学による民衆洗脳を通じて、爆発的に肥大化した今の文明インフラを、
完全に洗脳解除した人間に司らせるのも無理があることで、わざわざ莫大な
インフラを稼動維持させられ続けることに嫌気がさして、放り投げたりしてしまいかねない。
それがたとえば、巨大な高層ビルや橋などの管理維持の放棄にまで及んだとする。
構造物の鉄骨やコンクリートが腐食してボロボロになり、100年もすれば倒壊の危機に瀕し始める。
それが危険極まりないことなので、聖書信仰や洋学の有害洗脳に侵されてきた人々を、
もう少しある種の洗脳下に置き続けて、インフラの管理維持などにも務めさせる必要がある。
だから洗脳措置ではあるものの、聖書信仰や洋学ほどには劣悪な妄動を民衆にけしかけない、
儒学や他力仏教による民衆の王化を心がけたほうがよい。聖書信仰や洋学が有害洗脳によって
人々に多大なる妄動をけしかけて来たからこそ、その後始末としての無害洗脳までもが必要なのだ。
洋学で人々に劣悪な洗脳を施して来たうちの一人である苫米地などは、
その後始末をしてくださることを、儒者に感謝すらしなければならない。
返信する