イエスの行い自体が、妾腹の私生児としても劣悪な部類であり、
何ら善行としては見るべきところもないものであるため、
その行いをカトリックのように忠実に実践しようとしたところで、
何ら救いに結びつく所がなく、せいぜい極度の蒙昧の実践によって来した不能状態が、
信仰義認のプロテスタントなどと比べた場合の、自分たちの悪行の矮小さに繋がるのみである。
では、信仰義認によって自分たちの悪逆非道を完全に開き直り、
悪行を信仰によって善行に反転させようとしたプロテスタントなどの場合はどうかといえば、
やはり、信仰対象のイエスからして「大いなる過ちの権化」であるため、
それを信仰しながら悪逆非道に走ることが救いある善行になるどころか、
さらなる破滅の深刻化を招く、害為の積み重ねになるだけだといえる。
信仰対象としても、実践対象としても、イエスやイエスの行いは「ハズレ」であり、
イエスと同じ妾腹の私生児(しかも母子家庭育ち)でありながら、
その不遇を自学自習によって着実に乗り越え、自暴自棄からなる蒙昧な言行などを
人並み以上にも自粛する能力を身に付けた、聖人孔子を崇敬の対象としたり、
その行いを実践の対象としたりすることのほうが「アタリ」であるといえる。
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