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聖書 Part6


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001 2011/03/10(木) 10:43:57 ID:3RmoF4GXTs
世に、「聖書」の名に値する書物は数多く、その分量もほぼ、無尽蔵にのぼる。

特に、仏教の聖書である「大蔵経」や、ヒンズー教の聖書である「ウパニシャッド」、
道教の聖書である「道蔵」などは、一人の人間が一生かけても研究しきれない
ほどもの分量にのぼっており、その内容も極めて優良なものとなっている。

一方で、「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下に書かれてあるような、厳密な「聖書」の定義には
基づかず、「その道の聖人が書いた書物」という、国語辞典にも載っている程度の一般的な意味に即して、
半ば、冗談交じりや比喩表現止まりの範囲で「聖書(バイブル)」と呼ばれている書物も数多くあり、
仮に著そうと思うのなら、鼻ほじりの聖人が書いた「鼻ほじり聖書」だって著せないことはない。

そこで、そのような適当な定義に即して勝手に名づけられた「聖書」は、すべて一旦排除して、
人類が著した聖書の中でも、最も聖書らしい聖書を挙げるとすれば、それは「四書五経」だといえる。

仏教などの本格的な聖道宗教が、書物ばかりに頼らない実践からの修養を重んじるのに対し、
四書五経などを聖書とする儒学の場合には、公務員などとして旺盛に働きながら勉強すること
をも念頭に置いているため、自然と教義的な実践以上にも、文献への依存性が高まっている。

人が聖道を目指す上で、聖書のような書物に依存することは、まったく程度の低いことであり、
程度の高い学問や宗教であればあるほど、聖書自体への依存も軽減されていくわけだが、ことに、
書物依存を脱け出せない範囲での、聖書に即した求道を目指す場合に、最大級の模範となるのが四書五経であり、
だからこそ四書五経こそは、より程度の高い教学の聖書以上にも、聖書らしい聖書であるのだともいえる。

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274 2011/09/29(木) 13:27:08 ID:Cc.mtTDLaA
キリストによってだけは絶対に救われない。他の八百万の神々のうちの誰に縋ったところで、
キリストに縋る場合以上の救いぐらいは期待できるが、ことにキリストやエホバに縋る以上は、
人間が想定しうる限りでも最悪級の破滅へと自分たちを陥らせることしか絶対に出来ない。

この事実を完全にひっくり返せば、「キリストによってでなければ救われない」となり、
「キリストによってだけは救われない」という命題が永久不変の真実だからこそ、その真逆である
「キリストによってでなければ救われない」という転倒夢想も、一種の不変性を帯びることとなる。

孔子が「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」といったとき、確かに普遍的な道徳律がそこに
定立された。しかしそれと同時に、それとは真逆となる「己の欲せざる所を人に施せ」という
犯罪律の定立までもが暗に示唆されることとなった。自分がされていやなことは人にもするな
などという当たり前な教訓をわざわざ言うまでもなく実践できればそれに越したことはないのに、
わざわざそんなことを強弁したもんだから、その反対としての非常識な犯罪律までもが示唆された。

孔子の生きた春秋時代や、現代のような、非常識な罪悪まみれの世の中に生を受けたからには、
「当たり前な道徳律の定立から始めていかなければ」という気になるのも人情というものだが、
もちろんその道徳律は本来、言うまでもなく当たり前なものばかりであり、あんまり学識として
ひけらかしてもしょうがないような自明さを多々帯びている。だから老荘などの道家の徒は、
わざわざ当たり前な道徳律の強弁などにすら及ぶべきでないとし、孔子もまたそのような
道術者の境地をより高度な達観であるとして、自分のほうがそこまではいかない未熟者である
ことを自覚した上での、当たり前な道徳律としての「儒学」の体系化やその流布に及んでいる。

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275 2011/09/29(木) 13:30:08 ID:Cc.mtTDLaA
「キリストによってでなければ救われない」などというような、絶対不能の転倒夢想を強弁して
いる側にとっては、その強弁ばかりが自らの拠り所となっている。しかし、「キリストなんかで
救われるわけがない」という当たり前な真実を定立している側にとっては、別にそんな物言い
自体が唯一絶対な自らの拠り所になっているわけでもない。犯罪聖書みたいな珍奇なカルト文書を
完全に眼中から離し去った上での四書五経の勉強、さらには四書五経みたいな当たり前な常識
ばかりを強弁している文書すらうっちゃっての無為自然などにこそ、自らの同一性を見出しており、
「キリストなんかでは絶対救われない」などという当たり前中の当たり前の事実を是とする
ことなんて、ついでのついでの暇つぶしぐらいにしかなっていないのだから、転倒夢想だけが
自分たちにとっての全てである累犯障害カルト信者などとは、余裕の度合いから桁外れであるといえる。

相手よりも必死だからといって、絶対不能の完全誤謬がひっくり返るわけでもなし。

「悪を長じて悛めずんば、従って自らに及ばん。之れを救わんと欲すと雖も、其れ将た能くせん」
「罪悪を積み重ねて改めもしないのなら、いつかはそれによる自業自得の禍いが自らに降りかかる。
そうなってから救ってやろうなどとしたところで、どうしてそんなことが可能だろうか(断じて不可能だ)。
(何度も何度も説き尽くしてきたことと全く同じ内容だが、罪悪の積み重ねを内心で悔いただけで改めた
気になりながら、さらなる罪悪を積み重ねるキリスト信仰が、絶対救済不可な代物であることを確証している。
過ちを行いから改めていく規範を喪失するキリ信仰を破棄しない限りは、絶対に救われることがないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隱公九年より)

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