キリストによってだけは絶対に救われない。他の八百万の神々のうちの誰に縋ったところで、
キリストに縋る場合以上の救いぐらいは期待できるが、ことにキリストやエホバに縋る以上は、
人間が想定しうる限りでも最悪級の破滅へと自分たちを陥らせることしか絶対に出来ない。
この事実を完全にひっくり返せば、「キリストによってでなければ救われない」となり、
「キリストによってだけは救われない」という命題が永久不変の真実だからこそ、その真逆である
「キリストによってでなければ救われない」という転倒夢想も、一種の不変性を帯びることとなる。
孔子が「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」といったとき、確かに普遍的な道徳律がそこに
定立された。しかしそれと同時に、それとは真逆となる「己の欲せざる所を人に施せ」という
犯罪律の定立までもが暗に示唆されることとなった。自分がされていやなことは人にもするな
などという当たり前な教訓をわざわざ言うまでもなく実践できればそれに越したことはないのに、
わざわざそんなことを強弁したもんだから、その反対としての非常識な犯罪律までもが示唆された。
孔子の生きた春秋時代や、現代のような、非常識な罪悪まみれの世の中に生を受けたからには、
「当たり前な道徳律の定立から始めていかなければ」という気になるのも人情というものだが、
もちろんその道徳律は本来、言うまでもなく当たり前なものばかりであり、あんまり学識として
ひけらかしてもしょうがないような自明さを多々帯びている。だから老荘などの道家の徒は、
わざわざ当たり前な道徳律の強弁などにすら及ぶべきでないとし、孔子もまたそのような
道術者の境地をより高度な達観であるとして、自分のほうがそこまではいかない未熟者である
ことを自覚した上での、当たり前な道徳律としての「儒学」の体系化やその流布に及んでいる。
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