キリスト信仰に基づいて、神に近づくことは許されない。その信仰を捨て去った結果、
大胆に神に近づくことができなくなるというのなら、それでもいい。
昔の中国で、帝位に就くもののしきたりとして、まずは自分以外の誰かから即位の勧めを受け、
それをまずは断った上で、「どうしても」と嘆願される場合に限って引き受けるというのがある。
前漢の初代皇帝劉邦は、群臣に皇帝への即位を勧められたが三たび辞退し、
その上で「君らがそこまでいうのなら、そのほうが便利なのだろう」といって引き受けた。
前漢五代皇帝であり、高祖劉邦の庶子である文帝などは、群臣に即位を勧められても
西を向いて三回、南を向いて二回辞退し、劉邦の重臣でもあった陳平らの必死の説得を
受けることで、やっと即位を受け入れてもいる。(「史記」高祖本紀、孝文本紀を参照)
一方で、秦帝国への反旗を最初期に翻した陳勝などは、一度も人からの即位の勧めを
辞退せずに王に即位した結果、章邯などの有能な秦の将兵による返り討ちに遭い、
動揺した味方同士での内乱に巻き込まれて死んでいる。漢軍の大将軍として
天をも抜くような大活躍を果たした韓信も、自分から斉の仮王になりたいだなどと
劉邦に志願して不信を買い、漢帝国の創立後に九族皆殺しの刑に処されている。
帝位や王位などというものは、最高級の聖賢にとってすら即位することが畏れ多いものだから、
誰であれその勧めをおいそれと承諾してはならず、自分から望むことなどはもってのほかである。
この世には、積極的であったほうがいいことと消極的であったほうがいいことの両方があるが、
ことに、偉大さへの接近やその掌握などは、消極的でなければならないものの最たるものだといえる。
大胆に偉大さに近づこうとする、分不相応な厚かましさなども、むしろ捨て去ったほうがいいのだ。
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