愛とか勇気とかいった感情は、人間にとって最も原始的な感情のうちであり、
ある程度社会性が発達してから備わった、道徳意識や罪悪意識などよりも遥かにその歴史も古い。
だから金科玉条にも掲げやすいが、現代社会のような文明的に発達した世の中は、
愛や勇気ばかりによって成り立っているわけでもなく、規矩準縄の多用による構造的な開物成務が行き届いている。
その全てを今さら愛や勇気ばかりが司れるわけもなく、文明は文明で相応の技術的な理念に即す必要がある。
それは、たとえば礼節に世の中を正していく仁徳統治であったり、どこまでも争乱を増幅させる劣悪支配であったりする。
その根幹となる道徳性や犯罪性は根本的には愛や勇気とはまた別個のものであり、「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」のような
成長した大人にのみ備わる、善悪のわきまえやその不全などによってもたらされる。愛や勇気にも善悪が備わらないことはないが、
善悪以前のものであるが故に必ずしも善悪と関係はない。ただ、善悪と関係がある場合には、愛は仁愛となったり偏愛となったりし、
勇気は大勇となったり蛮勇となったりする。善用も悪用も自由自在な諸刃の剣、それが愛や勇気であるために、世の中を善くしたり
悪くしたりする上での根本理念になったりするわけではなく、ただ善用されたり悪用されたりする「都合のいい道具」となるのみ。
愛こそは世の中を繁栄に導くわけでも破滅に導くわけでもないし、勇気こそは人を善行に導くわけでも悪行に導くわけでもない。
善悪に対しての個々人の前もっての選択があった上で、その後に愛や勇気が注入されて善や悪が推進されていくだけのこと。
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