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聖書 Part5


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001 2010/09/08(水) 19:16:04 ID:0or4dWP6Po
「聖書」という言葉の原典となっている「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下の記述に基づけば、「聖書」とは

①聖人が書いた書物。
②叙勲などを司る記録官による、正式な記録作業によって編纂された書類。
③賢愚の分け隔てなく全ての評価対象者をおしなべて取り上げた書物。
④賢愚をおしなべて取り上げつつも、その格の上下に合わせた公正な評価が行き届いている書物。
⑤年功や等級の高低を重視し、分をわきまえない僭越などを十全に排している書物。

といった条件を満たしている書物のことであり、そのような書物の中でも、最も代表的かつ古典的であるのが四書五経。
①の条件は孔子の書いた「易経」繋辞伝や「春秋経」、曾子の書いた「大学」や子思子の書いた「中庸」などが満たしている。
②の条件は太古の正式な政治記録である「書経」が(ただしあまりにも太古過ぎるため、多少の修繕がなされている)、
③と④の条件は「詩経」の大雅小雅両篇や「春秋経」が、⑤の条件は身分秩序を重んじる「易経」「論語」「礼記」などが
満たしている。まさに四書五経こそは、「聖書」という言葉の厳密な条件を満たしきるために著されたような書物であり、
これほどにも聖書の名に値する書物は、他に存在しないと言えるほど。ここはその真正聖書たる四書五経などについて語るスレ。
(画像は「論語」の主人公孔子、「孟子」の主人公孟子、「大学」の著者曾子、「中庸」の著者子思子の四名。四書の各筆頭)

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493 2011/03/05(土) 12:56:44 ID:rW6U7JJxn6
四書五経と犯罪聖書の記述がことごとく相反しており、決して相容れないというその上で、
相反するうちの四書五経のほうが優位で、犯罪聖書のほうが劣位であるとする根拠は、
実物としての証明は、次スレのスレ画にもなっているこの画像で精密に提示しているし、
四書五経を正典とする儒家のさらに向こう側に、道家や仏教やヒンズー教や神道などの、
数多の高等教学が控えていることもまた、優劣の非可換性の根拠になっている。

仮に相反するもの同士としての、儒家と聖書信仰のうちで、聖書信仰のほうが優位で
儒家のほうが劣位であるとしたなら、儒家のさらに向こう側にある数多の教学も、
その全てがより劣等なものであるということになってしまうが、実際には決して
そんなことはなく、儒家のさらに向こう側に、さらに高等な教学が数多控えている
からこそ、儒家よりもさらに卑俗なものであるにすぎない聖書信仰などを、
儒家よりも優位なものとして扱ったりしてはならないということがいえる。

「子の湯たる、宛丘の上に。洵に情有れども、而うして望み無し」
「為政者たちが遊蕩にふけり、今日も宛丘(特権階級専用の遊び場)でたむろしている。
やたらとウレシそうに呆けているが、そんなのは民の希望するところでもない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・陳風・宛丘より)

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494 2011/03/05(土) 20:57:39 ID:rW6U7JJxn6
道家の本義も「万物斉同」だし、ヒンズー教中最大派閥を擁するヴェーダーンタ学派も
「不二一元論」を唱える。拝火教や聖書信仰の影響で対戦的な要素を含んでいる
イスラムもまた、汎神主義的な「一化」の神であるアラーを信仰している。

これらの教学が、対立性を退ける一元論的な方向性に即しているのに対し、
儒家や聖書信仰や拝火教などは、もっぱら二元論的な方向性に根ざしている。

物事を善と悪の両極に振り分けて、善と見なしたものを推し進め、悪と見なしたものを懲らしめる。
アレを棄ててコレを採る、一概な選択に根ざした専らなあり方を、学習者や信仰者に対して強制する。

今となっては、儒学のほうが真の「勧善懲悪」であり、聖書信仰はその逆を行く「悪逆非道」であったことが明らかだが、
聖書信仰者だって、元はといえば、自分たちの選択が勧善懲悪であるのだと信じて、聖書信仰を選択したのだった。

ただ、残念ながらそれは本当には悪逆非道であり、人間の行いの中でも最も劣悪な行いの選択だったわけだが、
そもそも、二元論的な発想を大前提にして、アレを棄ててコレを採る一概な選択主義に没頭したことからして、
すでに程度の低いことだったのであり、たとえ真の勧善懲悪であったにしても、アレを棄ててコレを採る
一概さを選択したことにかけては、儒学もまた相当に程度の低い代物であったのだと認めざるを得ない。

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495 2011/03/05(土) 21:00:41 ID:rW6U7JJxn6
儒学の実質的開祖である孔子と、聖書信仰の実質的開祖であるイエスと、いずれもが「妾腹の私生児(孽子)」という
極めて恵まれない境遇に生まれ育ち、孔子は不遇をバネにした学者として大成したが(ただし本当の希望は為政者としての成功だった)、
イエスは不遇の悲哀に耐え切れず自暴自棄と化し、妾腹の私生児としての境遇をそのまんま正当化するカルト教義を触れ回った。

孔子とイエス、いずれもが甚だしい不遇に置かれていたには違いなく、決してそれ自体はいいことではなかった。
ただ、その不遇さをバネにすることでそれなりに大成したのと、不遇に取り込まれて救いようのない狂人と化したことと、
本人たち自身の不遇への対峙の仕方が、決定的に異なっていたから、多少はマシなものと、最低最悪であるものとに分かたれた。

程度が低いどころか、最低最悪のどん尻の部分で、ブービー賞とビリッケツをそれぞれに配分されたのが孔子とイエスであり、
いずれも「高みに上る」どころの話ではないわけだが、程度が激烈に低い領域の存在同士であるなりに、それなりであろうとたものと、
それなりであることすらかなぐり捨ててグレきったものとになったことで、卑賤なもの同士なりの、決定的な相違が生じた。

不遇にも耐えてグレたりはしなかったほうである孔子は、相当に当時の諸侯からも冷遇を受けたものの、
王侯のような社会的上位者に対する畏敬の念も捨て去りはしなかったし、孽子の分際で
鬼神を語ることを畏れ遠ざけはしたものの、やはり鬼神への敬いも欠かさなかった。

孔子が鬼神への敬いを捨て去らず、王侯への忠節も守り通したから、神仏や聖王のあり方をより主体的に説く高等教学
との連携も行き届いて、>>492図のような厳密な位階に即しての、グレっきり志向に対する絶対的優位までもが確立された。
儒学が聖書信仰よりも優位となった所以も、所詮は他力本願によるが、他力本願が叶うだけの手続きを儒学も踏まえているのだ。

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496 2011/03/06(日) 10:24:17 ID:qt.NpEkx4.
四書五経よりは遥かに後代の言葉だか、
「人事を尽くして天命を待つ」という名言も、宋代の大儒である胡寅が述べたもの。

これと同等の記述が「孟子」梁惠王章句下・一四>>136にあり、昔から儒家の天命論が、
人としての最善を尽くしたものに対しての、外部的な果報を表すものとして述べられてきたことが分かる。

自力によってはどうにもならないものの存在を儒者も認めているわけだが、
その天運もまた、自らができる限りの最善を尽くしておくことによって報いてくれるとする。

実際、鬼神を遠ざけながらも敬いを欠かさなかったり、不誠実な諸侯を在野から批判しつつも、
君臣の義はやはり重要であることを認めたりした孔子の姿勢は、妾腹の私生児という卑賤の出身なりに
最善の選択を尽くしたものであったために、鬼神(先祖の神)の価値を否定してローマ皇帝などの
権威も否定したイエスなどと比べてまだマシな存在でいることができ、本物の神仏の側からの視点に即しても、
地獄餓鬼畜生の三悪趣よりはまだマシな、三善趣のうちの「人道」の代表者ともなることができた。

儒学が聖書信仰よりも優位である根拠も、ことに儒学に限定しての範囲では希薄なところがあるが、
十住心論や六道十界論のようなより高等な外部教義によって、その優位性も確立される。
かといって完全なる他力本願一辺倒ではなく、卑賤なものなりの最善も儒家は尽くしている。

「労謙す、君子終わり有り、吉なり。(略)君子とは、万民服するなり」
「苦労しても謙譲でいて誇らないようにすれば、万人に心服される君子となって、終わりをまっとうすることができる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・謙・九三‐象伝より)

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497 2011/03/07(月) 11:56:47 ID:at.KxXDjYA
四書五経は、第一には学習の対象であり、信仰の対象ではない。
中には「儒教の聖書」として信仰の対象とし、「礼記」にある犬肉の供儀などを
杓子定規に実践し続ける韓国人のような連中もいるが、基本はあくまで「儒学の聖書」であり、
批判的な読み込みの対処などともしつつ、それでもやっぱり普遍的な道理であると認めざるを
得ない論及などをわきまえの材料とするのが、四書五経という聖書の正しい享受の仕方に当たる。

そしてそのような享受の仕方こそは、全地球人類にとっての第一の聖書である四書五経に限らず、
あらゆる聖書やあらゆる知識、好悪の対象ともなる卑俗な情報などに対しても、適用されるべきあり方。
信じたもの、好きなものはただただ無制限に諸手を挙げて受け入れるなどというのは、奴隷か、さもなくば
マゾヒスト止まりの愚行であり、そのような愚劣な人としてのあり方から、改めていかなければならない。

「衆之れを悪むも必ず察し、衆之れを好むも必ず察す」
「誰しもが憎み嫌っているものも、必ずそうなった事情を察するし、
誰しもが好き好んでいるものも、必ずその所以を察する。(無制限な妄信などはあらかじめ排する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・二八より)

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498 2011/03/08(火) 16:03:06 ID:vEQhUo/R9s:DoCoMo
聖書信仰よりも一段階ほど程度の高いところに儒学があり、
儒学よりもさらに一段階ほど高いところにヒンズー教や道教、そして神道がある。
さらにそれ以上にも高いところに仏教があり、その仏教も宗派などが多岐に分かれ、
さらに個々の行者の練度に応じての、程度の高低が様々ある。

あらゆる品性の中でも最低の品性に陥る聖書信仰などに溺れているうちは、
そのような高等教学の修習に本格的に参画していくことなど到底不可能なわけで、
確かに聖書信仰に溺れることが、他の優等教学の兼学を不能と化す烙印ともなっている。

ただ、その烙印を拭い去る方法も一応あるにはあるわけで、
四書五経のような儒家教学によって聖書教義の劣悪さを徹底的にわきまえ抜き、
そんなものをしんじていてはいけないという、最低限の常人としての倫理観を
持ち直してカルト洗脳から脱却し、さらに儒学以上にも高等な教学を修習していく
資格を持った、まともな人間へと成長していくことができる。

カルト教学による洗脳から脱して、常人に立ち戻った上で、さらに高等教学を修習していく。
儒学は、そのための橋渡し的な存在になれればいいのであって、儒学によってカルト洗脳から
脱け出せたからといって、今度は儒学を金科玉条に掲げるようになったりする必要は全くない。
もちろん儒学にも専修するだけの価値はあるが、そんなに程度の高いものでないのも
確かだから、別に、誰しもに対して儒学に止まることを強要したりするつもりは全くない。

「孔子謂わく、芻靈を為るは善なり。謂く、俑者を為るは不仁なり。人を用いるに殆からずや」
「孔先生が言われた。『草を束ねて人型にした程度のものに霊魂を込めて、死者の副葬品にするのはかまわない。
しかし、人間にそっくりの像に霊を込めて副葬品とするのは不仁である。それではまるで、人を犠牲にするようではないか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)

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499 2011/03/08(火) 16:53:07 ID:UARb/aBeIE
日本にも、人型に切り抜いた紙に霊を込めて焼くことで、
無病息災の祈願にするような祭りがいくらかある。

犠牲を捧げることで自他の安寧を願うという考え方自体は神道や儒学にもある一方で、
それはあくまで人間自身のために捧げられるものだから、人間自身を生け贄に捧げたり
してはならないという、最低限の正気を保ったわきまえがある。

しかるに、聖書信仰はイエスなる人間が生け贄に捧げられたことで人々が救われたとし、
信者に対しても、あたかも「依り代」となる人形に霊魂を込めるようにして、霊が与えられる。
孔子が人間そっくりの像を芻霊(霊を込めた死者の副葬品)にすることすら不仁だとみなして
いたにもかかわらず、あろうことか人間自身が、死者の副葬品も同然の扱いを受けている。

人間が、人間自身の福利厚生を願う目的で行われていた「供儀」という慣習が、
人間自身を犠牲にしようとする段になって一挙に、世界を破滅へと導く最悪の邪義と化した。

お供え物とか生け贄とかいった慣習が、先祖供養などにかけて自己修養の効能をも持つことが
確かである一方で、もはやモノを食べることもない故人の霊などに供物を捧げることが
迷信交じりであるということを、それこそ西洋人が「未開文明の象徴」として指摘したりも
していたもんだが、その供儀という慣習に、「人間自身の生け贄」というさらなる迷妄を
掛け合わせた邪義こそを西洋人は信じ込み続けてきたわけで、仮に、簡素な依り代や
食物などを用いてのお祭りが迷信であるというのなら、人間自身を生け贄に捧げることは
迷信の二乗であるといえ、確かに甚だしい迷信でしかなかったから、その甚だしさによって
西洋人という、人類の三分の一程度の人々がこれから破滅に向かうことともなってしまった。

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500 2011/03/08(火) 16:53:20 ID:UARb/aBeIE
そも、「人は万物の霊長(書経・泰誓上)」であるのであり、
わざわざ他者から霊魂などを込められずとも、あらゆる生物の中でも最も旺盛な霊魂を宿している。
にもかかわらず、人を土くれか何かと同然のものと見なし、誰かから霊魂を注入されることで
初めて生きた存在となるかのように思い込んでいるところからして、大間違いである。

「爾の靈龜を舎てて、我を觀て頤を朶る、凶なり。我れを觀て頤を朶るるは、亦た貴ぶに足らざるなり」
「自分自身の霊亀を捨てて、間抜けに口を開いておとがいを垂れ、こちらばかりを見ている、甚だ凶である。
こちらを見て、口を開いておとがいを垂れているようなままでは、貴ぶに足る存在ともなり得ない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・頤卦・初九−象伝)

「霊亀」とは、霊妙な明徳を宿した亀のことで、亀は何日も飲まず食わずでいられることから「自存」の
象徴ともされる。自分自身に始めから自存する霊魂を打ち捨てて、他者から何かをもらおう、もらおうと
ばかりして、思わずおとがいが垂れ下がるほどにも大間抜けに口を開けた状態でいる、それがもう凶である。

霊魂の在り処を自分以外の何ものかに期待しすぎることで、自然と自分自身の霊魂を喪失してしまっている。
そして自分自身に自明自存の霊魂こそは、真に徳性を宿してもいるのだから、自己の霊魂を打ち捨てることで、
自然と徳性をも打ち捨ててしまっている。思わずおとがいも垂れ下がるほどに、誰かに頼ろう、頼ろうとばかり
しようとする姿勢こそはありのままに、自らに既存の徳性をないがしろにする原因となってしまっている。

次スレ;
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/129871790...

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あれ、500超えちゃったみたい…書き込めないや…
    ∧∧            ∧,,∧
   (;゚Д゚)          ミ゚Д゚,,彡  おkk
   ノ つ▼〔| ̄ ̄]      ▽⊂ ミ    新スレいこうぜ
 〜(,,⊃〔 ̄||====]〜〜[]⊂,⊂,,,;;ミ@

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