イスラーム哲学


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001 2010/05/26(水) 00:00:09 ID:fphHg2sIWo
模範的な商業哲学、金銭哲学であり、
金融財務に関する本格的な事業体系を備えながらも、
聖書圏がブラックアフリカを大量餓死に追い込んでいるアフリカ大陸の北部を平穏に保つなど、
貧富の格差を極端に広げすぎない仁政的側面も同時に併せ持つ、稀有な哲学。

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002 2010/05/26(水) 04:49:06 ID:pXFh/DwN96
商人が作った、世俗的な民衆の側に立ったユダヤ・キリスト教系の砂漠一神教の流派
ってのが本来で、一般の民の日常生活にきちんと適応した、変な選民主義とか過剰な苦行とか
歪な一神教構造を脱しようとしたもののはずなのだが
時を経て逆にイスラムが異常に民衆を縛るような構造になってしまったのは皮肉だな。イスラム原理主義のイスラム解釈は、実際のところ原理でもなんでもないと思うよ。

結局異教徒狩りを信条とした、キリスト教徒の十字軍による度重なる攻撃の結果、対抗としてそうなっていったのだろう
本来そういうキリスト教の歪さを廃した民衆の側の一神教だったはずが、十字軍と対決するうち
ミイラ取りがミイラになってしまった。

もっとゆるく楽しく神を奉じるイスラム教に戻るべきだよ。それが本当の原理主義だと思う。

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003 2010/05/26(水) 05:56:08 ID:1bfP/0myMM:DoCoMo
ゆるく楽しく神を奉じるなんて、今はまだ到底無理だな。

富の平等配分だけでも、十分にゆるく楽しいもの。
極端に苛烈な貧富の格差をもたらす、隣接の聖書信仰への牽制に
アラーへの絶対帰依のみがなっている。

イスラエルなどの度重なるテロ行為にも負けじと抵抗する気概も、
ひとえにアラーへの絶対帰依を拠り所としている。
人類社会にとっての、真の害悪の元凶である欧米聖書圏が崩壊しないことには、
「毒をもって毒を制す」状態と化している感のある今のイスラムもまた、
膠着したままでこれ以上変化のしようがない。

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004 2010/05/26(水) 10:51:26 ID:fphHg2sIWo
イスラーム自体の成立は、ムハンマドが活動した約1400年前と比較的新しいが、
シルクロード交易という、本当に必要な商業活動の本場である
中東の大多数に支持を受けたあたり、商業貿易を営む上でのより公正な宗教信仰として、
古来から待ち望まれていた特性を取り揃えていたのだといえる。

また、ペルシャを含む現中東社会には、唯一神信仰の源流中の源流である拝火教(ゾロアスター教)がある。
古代ユダヤ人がアヴェスターの内容を剽窃して自分たちに都合のいいように改竄しまくったために
アブラハム教との繋がりを見落とされがちだが、本当は①ユダヤ教→②キリスト教→③イスラム教ではなく
①拝火教→②ユダヤ教→③キリスト教→④イスラム教であり、唯一神信仰の系譜は中東に始まり中東に終わっている。

拝火教だけでは聖書信仰の毒性に対抗しきれなかったため、
より教義面での攻撃性が高いイスラムを新たに擁立したというのが、中東の側から見た事情。
「アブラハム教の異端派」という見方は、欧米やイスラエルの側から見た偏見にすぎない。

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005 2010/05/26(水) 13:19:31 ID:1bfP/0myMM:DoCoMo
ぶっちゃけ、中東人も本当はイスラムなんか擁立したくなかったと思うんだよ?

信者を唯一神信仰で統率して、一概な善思善言善行に導くだけなら拝火教でも十分だった。
しかし、その拝火教の唯一神信仰を悪用して、信者を脳内超越神への狂信によって悪逆非道へと導く
ユダヤ=キリスト両聖書教がイスラエルで捏造されたために、
中東のほうもそれに対する有効な手だてを考えざるを得なくなった。

イスラームの主要聖典クルアーンは、あくまで新旧約聖書の続きという体裁を取ってはいるものの、
新旧約聖書の主要教義をことごとく打ち消して、信者の悪逆非道への陥りを引き止めるあたり、
やはり古来からの拝火教信仰、さらにはインドの断悪修善宗教である仏教や、
はるか遠く中国の勧善懲悪教学である儒学にも相通じた方向性を備えている。

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006 2010/05/26(水) 13:48:46 ID:fphHg2sIWo
哲学としてはアリストテレスなどのギリシャ哲学、
アラベスク模様などもピタゴラス幾何学を参考にしているなどと指摘されるが、
そのギリシャのアリストテレスやピタゴラスの学からして、
インドのヴァーストゥ・シャーストラや手相学などを、
中東を介しての輸入によって参考としている。
旧約聖書のヨブ記などにも、インドからの手相学の剽窃痕などがあり、
インドからギリシャやイスラエルに流入した諸学問が、
東西間の交易に際して、中東でもイスラーム哲学やアラベスクなどとして
成立したと考えるのが正しい。別にギリシャやイスラエルが起源なわけじゃない。

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007 2010/05/26(水) 17:07:01 ID:adpRIwTp5Y
インド手相が入ってるからイスラムの起源はユダヤ、キリスト教ではないというのは無茶苦茶だろw
もちろん仏教思想のようなシルクロード文化も踏まえてるだろうが
それをいったらユダヤ教の悪弊を改善して理性的にしようとしたキリスト教も仏教の影響が見て取れる
>>4がおおまかな説明としてはやはり正しいだろう。

キリスト教もまた、歪な狂信であるユダヤ教を善道倫理へ回帰させようと、
選民主義から万人愛へと新解釈をしようとした宗教だが
その中に流れるユダヤの歪みは消し去れず、結局時を経てキリスト教もまた、歪な狂信を内包することとなった。
イスラムもまた、同じようなことに現代なっている部分があるが、これはでもユダヤ・キリスト教との対抗上ということもあるかもしれない。

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008 2010/05/27(木) 09:29:15 ID:rWwH5zSXio
インドの手相学なんて、旧約の剽窃元としては氷山の一角に過ぎない。

創世記冒頭の、神による七日間での世界創造も、古代バビロニア(現イラク)発祥の七曜制のパクリ。
詩篇などにおける、神との対話形式の記述も全て、拝火教聖典のアヴェスターからのパクリ。
信仰者の牧羊などへの喩えも、アラブの遊牧民ベドウィンのマネ(商業民族ユダヤ人は自分で牧畜なんかしない)。
ノアの方舟は、シリアなどの農産地が水害に喘いでいる時に自分たち商人だけが生き残ることの寓意。

多くの記述が、イスラエル以東の中東社会の文化の剽窃によってこそ成り立っていて、
挙句には東の果てのインドの手相学までをもパクっていたということ。旧約の成立の頃からすでに
東→西の文化流入が主であり、西→東の文化流入は遥か後代のことに過ぎない上、ごく部分的に過ぎない。
「シルクロード」が、中国産の絹を西方へと輸出するのが主な用途だったために名づけられたことからも分かる通り。

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009 2010/05/27(木) 10:08:58 ID:h.0JjDSB4.:DoCoMo
残念ながらか、わざとだか知らないが、
悪徳商業集団の自己正当化教・ユダヤ教という火種にイエスは油を注いだ。
世界中を重大権力犯罪の腐敗へと陥れる助長ばかりをしたが、
ムハンマドのほうはといえば、油の注がれた火と化した
権力犯罪推進教・ユダヤ=キリスト両聖書教に大量の水をぶっかけた。
新旧約聖書の主要教義をことごとく無効化するクルアーンのほうを
聖典に祭り上げさせる、反ユダヤや反キリストに止まらない、
有効な排ユダヤ・排キリスト措置の構築を成し遂げた。

イエスのほうは火に対する油と化し、ムハンマドのほうは火に対する水と化したのは、
イエスがベツレヘム出身のユダヤ人だったのに対し、ムハンマドはメッカ出身の
アラブ人だったことが大きい。所詮はイエスはユダヤの徒の一味に過ぎなかったが、
ムハンマドには部外者としてアブラハム教全体を他人行儀に扱える余裕があった。

今でもイスラム教徒は、ユダヤ教徒やキリスト教徒を「ズィンミー(庇護民)」として、
完全な支配保護下に置く体制を整えている。異教徒に的確に応対する素養が大多数の
イスラームにはある一方、大多数のユダヤやキリシタンにはない。信者たちが総出を挙げて
醜い選民主義を盲信し、十字軍遠征やイスラエル紛争などの問題をもけしかけて来る。
そのクセしてユダヤとキリシタンとは、悪徳金融業者とその利用者という妙な関係性で
もって結託し、アラブの石油やアフリカの希少資源なども強奪して私有財産と化す。
表向きはいがみ合ってるようなフリをしながら、「蛇の道は蛇」で、ヤクザ同士での
ツンデレ馴れ合い関係にある。そういう不健全な馴れ合いは、根っからの非ユダヤである
ムハンマドの興したイスラームこそが拒絶している。日本などでは、ユダヤとイスラームが
同一視されがちだが、ユダヤとキリシタンこそは同じ穴の狢で、イスラームこそは茅の外。
数珠(スブハ)や書道など、イスラエル以西にはない文化もイスラームは多数擁している。

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010 2010/05/28(金) 01:38:50 ID:B591EPsgmY
イスラム教徒はよくイエスは評価するがキリスト教徒や協会は評価しないというね
イスラム教においてはイエスも一聖人だからね
ただし神の化身などではない

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011 2010/05/28(金) 10:04:43 ID:9HHrPplowg
評価しようがするまいが、教義上イエスも神の化身ではなく、
刑死も復活もしてないことになっているからな。
罪を犯しても許される、都合のいい現実逃避の道具としての用いようなどはない。

イエスの刑死も復活もなかった代わりに、アダムとイブの楽園追放も許されている。
「犯罪でもいいから仕事しとけ」という、多動性障害の元凶となっている
労役義務化寓話からして無効化されているために、罪を犯しても許される象徴である
イエスの刑死や復活などに、わざわざ精神的に依存する必要もなくなっている。

アダムとイブの楽園追放を赦免し、イエスの刑死や復活の不実を断定したアラーこそを
絶対唯一神に祭り上げることで、新旧約聖書の主要教義を打ち消してあげたという
「ゆるさ」を相殺している。権力犯罪込みの労役の義務化や、それによって犯される
罪の浄化といった、新旧約聖書において最も酷烈なカルト教義を消し去ってくださった
慈悲あまねきアラーにこそ絶対帰依を誓うという、ゆるい楽しさの引き締めにこそ
イスラーム(神への絶対服従)がなっている。ゆるさの裏返しとしての、信仰の厳粛さ。

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012 2010/05/28(金) 10:48:25 ID:HSs0hH6tL.:DoCoMo
罪を犯しても許されることを嬉しがるキリスト教徒よりも、
そもそも罪悪の積重の元凶となっている、アダムとイヴの楽園追放から
許されていることをアラーに感謝するムスリムのほうが、確かに賢明だ。

災禍を本から絶っているイスラーム。末を処理しようとして、却って災禍の深刻化を煽ったキリシタン。
火種に水をぶっかけたか、さらに油を注いだかの違い。

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