
まだ仏教も律令制も伝来していなかった頃の日本では、
裁判沙汰が起きれば、被告人が熱湯や蛇の入った箱に手を入れて
抜き出した時に火傷や咬み傷がないかで、可否を決したりもしていたという。
呪術と国家統治が混然一体と化した、原始的な半土人社会、
その頃の文化的な流れを汲んでいるのが日本神道であるために、
仏教や儒学による思想哲学的な補強を排したりすれば、途端に
文明社会を司るにも値しない迷信と化してしまわざるを得ないのである
キリスト教は、赤の他人に自らの罪を擦り付けて開き直るという、
自明な意味合いを帯びた信教であるために、邪信ではあるけれども迷信ではない。
そのため、「他者や他国に多大なる迷惑や危害をまき散らしながら」という弊害を
認めるのであれば、文明社会をそれなりに営んで行く文化性をも持ち得るものである。
ただ、それは仁徳や菩提心によって有益無害な文明社会を営んで行く様態を
長年享受して来た日本人などにとっては、あまりにも劣悪すぎて受け入れがたい
ものであるために、本人たちが信仰するわけにはいかなくて、一応は神道への傾倒を
本分としながらも、韓国カルトのキリスト教などに他力本願的に服従するというのが、
差し当っての妥協案として採用され、戦後に猛威を奮って来たのである。
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