サイズが 480KB を超えています。500KB を超えると書きこめなくなるよ。

聖書 Part12


▼ページ最下部
001 2013/08/19(月) 13:19:08 ID:TB4y1qACAM
この地球人類社会において、自明なまでに「第一の聖書」としての
地位を確立しているのが、他でもない儒家の聖書、四書五経である。

「自明」というのは、たとえ本人が四書五経などを読みもしないでいたところで、
この世界において標準的な生活や仕事を営もうとすれば自然と、四書五経の教条に則って
しまうこととなるからだ。為政者が夏の禹帝のような治水や灌漑に励んだり、孔子や孟子が
訴えるような農繁期を尊重しつつの民の使役を心がけたりすれば、それにより当該国の底力
が蓄えられる。そのおかげで人々もまたそれなりの文明的な生活を営んで行けるように
なるわけだから、あえて経書を読んでそれに則っているかどうかすら関係ないのである。

ローマ帝国などは、「いい土地に蒔かれた種は三十倍、六十倍もの実を付ける(マルコ4:20)」
などというイエスの浮ついた教義を約2000年前に受け入れたりしていたこともあって、そんなことがある
わけもない実際の農産を疎かにして、作物を外地に発注するような真似に及んでいた。結果、ローマ帝国
の衰退と共に、イタリアという地域の国勢からして衰退していった。同じく王朝自体は何度も滅んでいる
中国のほうは、それでも歴代の徳治者たちによる国内での農産の振興という遺産が伴い続けているものだから、
すでに王政すら廃されている今に至ってもやはり、十億を超える人口を養えるような国力を保ち続けている。

四書五経に記録されているような堅実な政治規範や生活規範に則れば、そのぶんだけ人々も繁栄に与れる
一方で、それに反するような真似をやらかしていれば、短期的にも長期的にも衰亡が免れ得ないものとなる。
あえて経書を読んでから則ろうが則るまいが、そのようである限りにおいて人類もまた存続し、そうで
いられないようなら人類も全体規模で衰亡して行くことが免れ得ないのだから、四書五経こそは人類に
とって自明なほどにも「第一の聖書」として取り扱うことが避けられないものとなっているのである。

返信する

※省略されてます すべて表示...
143 2013/10/04(金) 14:26:55 ID:ZsAL3Ote..
人間の性格は20〜25歳ごろまでに確立し、40歳ごろに不惑なものとなるものだから、学生期間に相当する
20代前半の頃までにまともな浄心を確立する教育を受けさせるようにすべきであるし、壮年期たる40代頃までにも、
清浄な性格の持ち主の働きこそが報われるような社会情勢であるべきである。今はといえば、中高ごろまでは学生の
人格形成を尊ぶような規律の徹底が多少は見受けられるが、大学に入った途端に何らの規律も持たない自由人状態へと
持って行かれる。社会人になればもはや貪欲さばかりが求められて、汚濁を忌むがための消極さなども非とされるように
なってしまうのが常と化してしまって居り、全く以って人間という生き物の品性が本格的に尊ばれない情勢となっている。

それでも日本人などはまだ、成人後にもそれなりに人としての品性を重んじようとする傾向があるわけだが、これは
江戸時代までの徹底的な人格尊重や、明治以降にも多少は存続した徳育などを源流とする「昔取った杵柄」に他ならない。
今みたいな、人格尊重などついでのついでぐらいにしか嗜まれていない社会情勢がいつまでも続いたならば、じきに
そのような風潮も立ち消えとなって、諸外国並みの禽獣同然な衆生の集まりへと日本社会が変貌してしまうに違いない。

仮に、世の中が完全に罪穢れの汚濁を好き好むような状態と化してしまった場合に、そこから立ち直るために必要と
なる最短期間がおよそ20年。濁世を司っている40〜60代の人間が完全に世の一線を立ち去り、急激な矯正
措置を被った20〜40代の人間が、社会のトップとなるために必要となる20年という期間。この期間中はもう、
楚漢戦争や関ヶ原・大坂の陣級の大波乱すらもが避けて通れないことになる。もはや矯正が不可能な精神荒廃状態
であるにも関わらず、世の中のトップを司ってしまっている初老以上の権力者を強制的な排除の対象としていく訳
だから、長幼の序すらもが必ずしも守られるとは限らない。その波乱の中で、矯正措置を講ずる側から調子に
乗った人間が項羽のような乱世最大級の寵児と化してしまかねないようなこともあるから、20年後の治世の
確立を見越した着実な事務を果たせる人間こそが、世相の大転換の舵を切っていくようにしなければならない。

返信する

144 2013/10/04(金) 15:06:52 ID:KtA06ZYnYA:au
「原隰は既に平らぎ、泉流も既に清し。召伯の成す有りて、王心則ち寧し」
「高原から低湿地に到るまですでに治水によって平定され、泉や川の流れも清らかに澄んでいる。
召伯のかような功績によって、周王の心もまた安んぜられた。(責任ある王侯は、国土が平定されて
清められることでこそ、わが心までもが安んぜられる。無責任な小人などとは全く違う所だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・都人士之什・黍苗より)

返信する

145 2013/10/05(土) 00:50:11 ID:EbZuT9Pfyc
40歳過ぎると矯正不可能な感じはする。省みるエネルギー・・・というより心の働きが
無くなる気がするネエ。

返信する

146 2013/10/05(土) 13:15:15 ID:RT3KaB084o
蒙古襲来に際して、幕府執権の北条時宗が禅僧の無学祖元に助言を請うた所、
「ただ驀直前進あるのみ」という答えが返って来た。それに習って、沿岸に停泊
している蒙古船団への夜襲すらをも決行した結果、幕府は蒙古軍の撃退に成功した。

一方で、その鎌倉幕府のあり方を真似て、東アジア中へと戦線を拡大して行った
旧日本軍たるや、兵站の不足で疲弊した結果、無様な敗北を喫することとなった。

片や日本国内での防衛戦であった一方、片や外地へと躍り出ての覇権争いであった。
本質的に前進的であるのはむしろ後者の旧日本軍のほうであり、その前進絶対主義
こそが決定的な敗因ともなった。鎌倉幕府の場合は、むしろ消極的な本土防衛に徹
する中で、その防衛戦こそを「驀直前進」の心持ちでやりこなすということだった
からこそ、戦い方に中正さが備わった結果、蒙古を撃退することができたのである。

全体的な姿勢が後退状態であるようなら、驀直前進の心持ちであるべきである一方、
全体姿勢すらもが前進状態であるようなら、兵站を重んずるような保守的な心持ち
であるべきである。それが戦術的にも有効である上、中庸の徳にも適った策となる。

本土防衛という蒙古襲来時の幕府の職務と、「驀直前進」という理念の両方とを
考慮することで初めて、当時の幕府軍のあり方が中庸に適ったものであったこと
までもが分かる。それが分かる人間もまた、物事を多面的に考慮する中庸の徳を
備えていると言える。戦前の大日本帝国などにはそれが欠けていたものだから、
当時の幕府の「驀直前進」という理念の部分だけを借りとって、覇権主義の
拡大などのために猿真似することとなった。そのような結果的な選択のみならず、
物事を多面的に見据えられる中正さの欠如という根本的な問題があったわけだから、
大日本帝国が悲劇的な末路を辿ったことも、教育上の理に適ったことだったと言える。

返信する

147 2013/10/05(土) 13:17:35 ID:RT3KaB084o
もちろん、戦前の日本に勝利したアメリカやイギリスもまた、ただ覇権主義争い
に辛勝したというだけのことで、のべつまくなしに外界を侵略して行く性向を
持ち越していることには変わりないわけだから、大日本帝国とも同様な末路を辿る
ことでこそ道義に適うといえる。連中の場合は、過ちを積み重ねて来たキャリア
が日本の比ではなく、外地を酷烈な侵略下に置いた挙げ句に、そこで保守的な
国家社会を形成する程もの堂に入りようであったものだから、その壊滅の仕方
たるや、日本のそれ以上にすらなることが見込まれる。実際に、壮絶な崩壊を
来たすのでなければ、アメリカやイギリス連合ありきのパワーバランスのせいで
経済的環境的破綻に見舞われている今の地球社会を建て直して行く目処も立たない。

中庸の徳を欠いているものだから、戦えば負けて、勝ったとしても自滅に見舞われる。
世界史上でも最大級の軍事力や経済力が国家間で拮抗し合っている近現代の世界
においてこそ、そうであることの普遍性が如実なものと化し始めてもいる。

「中庸」というものを全く知らない文明社会などもありはしない。西洋において
ですら、古代のギリシャでアリストテレスが中庸の徳をそれなりに論じていた。
ただ、他の雑多な理念と比べて、中庸という理念こそが特筆して重んじられる
ということがなかなか無かったわけで、そうでもしないことには国家規模での
安寧や繁栄も保証されないということが、全世界規模で認知されたことなどは
未だかつて無く、もしも今からそれがわきまえられるというのなら、それこそ
は人類にとって未曾有の、歓迎すべき奇蹟となるに違いないのである。

「孔子は進むにも礼を以ってし退くにも義を以ってし、得るも得ざるも命有りと曰えり」
「孔先生は進むことにも退くことにも礼義を第一とし、それによって得られるものが
あろうともなかろうとも『天命によるものだ』として一切文句を言われなかった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・八より)

返信する

148 2013/10/06(日) 13:05:04 ID:vZJ3JNQSSc
自分自身の身勝手な希望が、事実関係を大いに逸脱してまで増長して行った時に、人は精神薄弱となる。
そこに希望の実現のための着実な見通しや努力が伴っていれば、かえって精神力を高める機縁にすらなるが、
希望自体が全く以て実現不能なものだったり、実現可能であってもそのための手管を全く尽くそうとすら
しないでいるのならば、人はそのせいでかえって精神を薄弱化させてしまうこととなるのである。

ただそれだけで、サイコパスのような人畜有害な性向すらをも共に帯びるとは限らないが、人並み以上
の精神薄弱のせいで、廃人や半廃人然とした度しがたい性格を帯びてしまうことになるのは違いない。
ただ、真性の知能障害でもない限りは、自分がそのような性格であることが社会的に問題視されかねない
のをも察するから、体面だけでもそれなりの人格形成度であるかのように装う修辞を凝らそうとする。

その手の修辞を長年に渡って研鑽して来ているものだから、非現実信仰のせいで万年精神薄弱状態で
いる欧米のキリスト教徒の修辞こそは、異教徒のそれと比べても突出して美々しいものとなっている。

そのような、内面の精神薄弱を外面の修辞で取り繕おうとする過程において、精神薄弱者もまた
サイコパスのような人畜有害型の人格障害を併発する場合がある。君子が自己修養によって構築する内面からの
雄大さなどは、外面だけの巧言令色で人を欺いたりすることを自明に退けるものであるけれども、精神薄弱者の
修辞などはまさに、他者を欺くための巧言令色そのものであるわけだから、そこに悪質な詭弁などを凝らして
他者に嫌な思いをさせたり、実際的な詐欺行為で不当利得をせしめたりすることをも試みかねないのである。

精神薄弱を取り繕うための外面の修辞に、他者を不快にさせるようなアイロニーを加味することにかけては
フランス人などが長じているし、利権面で他者に実害を加えるような詭弁にかけてはイギリス人などが
長じている。いずれにしろ、自分たちを美々しく見せるための「正統な修辞」といのも共に身に付けて
いるものだから、修辞を悪用すること自体が「紳士淑女の嗜み」程度のものとされてしまっていたりする。

返信する

149 2013/10/06(日) 13:08:38 ID:vZJ3JNQSSc
実際、全てのイギリス人やフランス人が修辞を悪用目的ばかりに用いているわけではなく、それで
利益を得ているのも悪徳金融業者や各種評論家ぐらいに止まっていたりするわけだから、精神薄弱な中に
真性のサイコパスを併発させるような人間も、あくまで一部の人間に止まっていることが知れるのである。

そこで問題となるのが、精神薄弱やサイコパスを発症する人間の分量である。精神薄弱者が
誰も彼もサイコパスを併発するわけでもないが、世の中に蔓延る精神薄弱者の数があまりにも増え
すぎれば、そこでサイコパスを併発する人間が生ずる確率も高まることとなる。キリスト教圏のように、
国家や社会が総出を挙げて非現実信仰に邁進した場合には、そこでサイコパスを併発する人間までもが
ユダヤ教団や悪魔崇拝教団のような一定派閥を形成するまでに至ってしまう。そうなればもう、そのような
派閥が金融利権やメディア利権、諜報利権などを牛耳っての大権力犯罪にすら及び始めるようになる。

それこそは、非現実信仰のカルト宗教がこの世に及ぼす現実的な大災厄ともなる。死後の復活だの信者の
昇天だのといった表向きの希望は何も叶えられないままに、非現実信仰によって精神薄弱やサイコパスと
化した人間が国家社会規模の大権力犯罪を巻き起こし始めるという現実的な効果のみが伴っている。未だ
非現実信仰のさ中にある人間には、現実がどうであるかなどということは至極どうでもいいことであるに
違いないが、非現実信仰が現実に及ぼす確かな効能というのもまたあって、それこそは世界の破滅級の
大権力犯罪という未曾有の大災厄であるわけだから、それはそれで興味を持つべきことだといえる。

諸法実相の現実こそを尊ぶ見地からすれば、非現実信仰のカルト宗教が現実的にもたらすのは権力犯罪
という災禍であることのほうをより重視して、その権力犯罪志向を糾弾材料として、カルトの駆逐にも
務めて行くべきであるといえる。そのような信仰のさ中にある人間は、自分たちの信仰が権力犯罪志向である
などとは思いもよらないままでいるに違いないわけだが、そこは、心神喪失状態のカルト被害者ならではの
察すべき様態とし、現実主義者である自分たちのほうが独自に、穏便な現実処理を施してやるべきだといえる。

返信する

150 2013/10/06(日) 13:29:59 ID:Wm43QpGTn2:au
「文王は民を視ること傷めるが如くし、道を望んで未だ之れを見ざるが而くす」
「文王は(殷紂のせいで疲弊させられた)民たちを見るに際しては、まるで重病人を見るかのように
慈しみの面持ちで見、道を嘱望するにしても、未だそれを見通すことすらできないような心持ちでいた。
(天下万人に真の安寧をもたらすことは、少しも保証されていることではない。そのような危機意識と共にこそ、
文王やその後継者たちも自力での徳治に取り組んだ結果、三百年に渡る治世を築き上げることができたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・二一より)

返信する

151 2013/10/07(月) 12:39:26 ID:7snAtFHHow
人間を善人と悪人に分かつのは、本人自身の真心の堅持の有無である。
善人はよく真心を保っているから、心の本性の部分にある善性に即して善良となるが、
悪人は自らの心を失ってしまっているものだから、善性をも見失って悪辣となる。

だからこそ、善人は自らの真心から派生する諸々の行為が、より心と近しい順序、
つまり思考>発言>行動の順序で重んじられて行くに値する。心を養生することで
善思が派生し、善思から善言が派生し、善言から善行が派生する、それは確かに、
善人についてはそうであることだから、善人の思考や発言こそは、行動並みかそれ
以上にも注目の対象とされるに値するものだといえるのである。(政治家としての
活動では成功しなかった孔子や孟子の発言にそれなりの価値があるのもそのためである)

一方で、「悪人をその根本の部分から正してやることなどは不可能である」ということも、
上の法則から自明に導ける結論である。悪人は自らの心を失ってしまっているからこそ
悪人でいるわけだから、心を失ったところで派生している思考や発言もまた、自らの心
などではなく、ただカネや権力を手に入れようとするような無軌道な欲望に即する場合が
ほとんどとなっているわけである。じゃあ、心を失った人間がなぜ、カネや権力への欲望
に取り込まれるかといえば、カネや権力を手に入れた結果としての行動の自由を欲する
からである。つまり心無い悪人は、行動の自由のためにこそあらゆる思考や発言をも
講じようとするわけだから、むしろ行動から思考や発言が派生しているのだといえる。
だからこそ、悪人は思考や発言ではなく、その行動の罪こそを優先的に罰するように
して行かねばならず、行動に対する抑制が十分に利かされた結果として、自らの心を
捉えなおす機会にもまた与れることこそを企図してやらなければならないのだといえる。

カルト信仰に取れ込まれているほどの人間であれば、真心を失ってしまっているぐらいの
ことは概ねデフォルトとなっている。一方で、カルト信仰ながらに信者の思考や発言を
重視するということも当然あるわけで、そこで問題扱いされるのは、いかに心を失った
所から派生している思考や発言が、それなりの修辞で整えられているかということである。

返信する

152 2013/10/07(月) 12:42:11 ID:7snAtFHHow
所詮はカネや権力への渇望によって派生しているだけのものに過ぎない、
心無き思考や発言を、どれだけ罪が軽そうに見せかけるかというだけのものでしか
ないわけで、そんなことで本人たちの善心が取り戻されたりするわけがないのは
もちろんのこと、むしろ外物に翻弄された結果として派生する粗悪な目的と共なる
思考や言行を堂に入らせて、深刻化させるような結果にしか結び付かないのである。

悪人が矯正されるために、その思考や発言から正されたりするのは、まず不可能である。
そのような幻想を振りまくようなカルト教義もまた有害無益なものでしかないと知る
べきであり、悪人はその悪行を是正されることを通じて、自らの真心を見詰めなおす
機会を得る所からしかやり直していけないものだとわきまえるべきである。行動が
是正されて、自らの真心を捉え直した結果として、ついに善思や善言までもが講じ
られるようになるということだけが、悪人にもまた期待できることなのだから。

世相の荒廃などによって、誰も彼もが心を失ってしまっているような中で、悪念や
雑言を垂れ流しているような人間と、そこに修辞による整形を加えているような
人間とでどれほどの罪の差があるかといって、五十歩と五十一歩ほどの差もあるまい。
問題は、自分たちが犯している悪行のほうの軽重であり、悪行が重大であるようなら、
表向きの発言などが綺麗ごとじみていても厳重に罰し、悪行が軽いようならば、発言
の罪まではさして罰したりする必要もない。悪行は犯していないのに悪口だけは吐いて
いるような人間なんてのは、世相の荒廃に釣られたノリで悪口を吐いていたりする
場合がほとんどなのだから、悪行者が討伐されて世相も清浄に立ち返ったならば、
そういう人間は、口の悪い江戸っ子ていどの存在ともなるに違いない。

「君子は〜口を人に失わず」
「君子は言うべきことを人に言う口を失ったりすることがない。(言葉は意思伝達の
ための道具であることが本分なのだから、それを口舌で用いることも疎かにはしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)

返信する

153 2013/10/08(火) 12:37:59 ID:/uxhWVw/P.:au
近ごろでは、ネットに疎い高齢男性すらもが、地上波のテレビ番組のつまらなさに嫌気が
差してテレビを見なくなることがあるという。その理由が「つまらない芸人番組の台頭」。
真面目な報道やドキュメンタリーはおろか、落語や昔の漫才のような、それなりに趣向を
凝らしたお笑い芸ですらない、人前で醜態を晒して笑われることを一発芸とするような
最低品質の若手芸人ばかりが民法はおろか、有料放送であるNHKにまで張り出して来て
いるものだから、もはや雰囲気作りに付け流しておくことすらもが目ざわり耳ざわり
となって、テレビの電源から消してしまうようなことが増えてしまったのだという。

ネットやゲームの台頭でテレビメディアの肩身が狭くなり、予算を削られたせいで
ろくにお笑い番組すら作り込めなくなったせいで質の悪い芸人が増え始め、なおかつ
そのような芸人を低賃金でこき使うようなことが増えたというのがその内情なわけだが、
芸能コンテンツの内でも最も卑俗な部類に入るお笑い芸すらもがそのように、育成環境の
悪化のせいで低品質化して支持を減らすということがある。アイドルや音楽や演劇などでも
同様な事態が生じ得るし、さらには芸能以外の各種文化についても同様なことが起こり得る。

神話や伝説についてですら、同様のことが言える。それなりの道徳的、求道的な意味合いを
凝らした高尚な伝説神話が、文化的に恵まれている地域で育まれたりもする一方で、悪環境
での精神的な飢渇が原因で、醜態を晒しての一発芸みたいな最低品質の小話が伝説や神話に
されてしまう場合もある。そもそも神話や伝説を迷信的なものとして排し、人間道徳や虚空の
真理そのものを堅実に尊んでいったりすることもあるわけだが、伝説や神話を醸成して尊重
する範囲においても、高品質なものを尊ぶ場合もあれば、低品質なものを嬉しがる場合もある。

質の高いお笑いと低いお笑いが共存し辛いようにして、高品質な伝説や神話と低品質な
伝説や神話もまた排他し合う。まず、両者が作成される環境からして全く異なり、片や
極めて恵まれている一方で、片やひどく恵まれていないわけだから、受容者の側の文化的
環境がいずれであるかで、あえて好き好む神話伝説の種類もまた決まってしまうのである。

返信する

154 2013/10/08(火) 12:45:11 ID:LVEQw2HD.6
さらに、受容する人間の人種というものもまた大幅に変わってくる。お笑いにしろ伝説や
神話にしろ、そこに高品質さを要求するのは概ね大人の男性であり、低品質でもよしと
するのが女や子供である。大人の男の要求を満たす程もの高品質なコンテンツに対しては、
大人の男が主な消費者となる形での需給関係が成立する一方、そのような要求を満たさない
低品質なコンテンツに対しては、女子供が主な消費者となる形での需給関係が成立する。大人
の男も女子供も共に享受するとしたところで、結局、どちらのニーズをより満たすかで品質の
高低も分岐するものだから、高品質なコンテンツと低品質なコンテンツが共存することもない。

大人の男も女子供も共に楽しめるのは、むしろ高品質なコンテンツのほうである。
確かに、それは女子供にとってはオーバースペックなものとなるわけだが、だからといって
生来嬉しがりな存在である女子供がそれを楽しめないなんてこともない。箸が転がるだけでも
嬉しがれる女子供でもなければ楽しめないような低品質なコンテンツこそは、どうしたって
大人の男までもが共に楽しんだりすることができない。自分たちまでもがとっちゃん坊やと化す
ことで無理に楽しむか、もしくは文化享受など見限って生業にでも専念しているしかなくなる。
男が誰も彼もチャランポランなとっちゃん坊やと化してしまったんじゃ世の中も立ち行かなく
なるから、結局、男がほとんど文化などに見向きもしなくなり、男が受容するに値しない低劣な
文化コンテンツだけが、女子供からの支持で辛うじて命を繋ぐような事態に陥ってしまうのである。

キリスト教圏たるや、自分たちを司る最高理念からしてそのような低劣文化であり続けて来た。
女子供が主要な享受者であることが完全に開き直られているのがキリスト教文化であればこそ、
大人の男が自分たちの嗜好によって楽しめるような高尚な文化と決して相容れることがない。

返信する

155 2013/10/08(火) 12:47:34 ID:LVEQw2HD.6
だからこそ、大人の男を主人公にするような学問宗教を廃絶させながら、自分たちの勢力を
拡大させて行きもした。キリスト教文化こそはあらゆる文化の中で最高の文化であるからではなく、
他の高尚な文化を廃絶させた所で、女子供の嬉しがりによる支持で自分たちだけが生き残るのが
キリスト教文化の本旨であるからこそ、キリストが至上のものもともされて来ているのである。

よく言われる、

男が男だけで楽しむ場所を作る

面白いので人も増えてくる

女、子どもが寄ってくる

女子供が自分たちの住みやすいように主張し始める

マスコミや女目的の男が嗅ぎつける

男が去っていく

その分野が完全に腐る

というようなコンテンツ腐敗の宗教文化版の極北がキリスト教文化であるものだから、
東洋などに豊富な、男を主人公とする数多の教学文化とも決して相容れることがない。
その、「相容れない」という点を根拠として、キリスト教徒はキリストこそを文化の
覇者のように嘯いているだけなのだから、何らその主張を是認してやるに足るものではない。

アブラハム教の範疇で、上記のようなキリスト文化の腐敗性に対抗しようとしたものだから、
イスラム教も女子供を徹底的な差別下に置くこととなったわけだが、そもそも、女子供を
主要な享受者とするような低劣な文化をメインカルチャーに据えたりしなければ、そこまで
徹底的な女性差別を講じたりせずとも、腐敗を予防して行くことができるのである。

キリスト教文化など、全く以ってつまらない。いくらキリスト教圏が軍事的経済的に最強の
文化圏だろうとも、最高理念となっている主要文化が女子供でもなければ楽しめないような
低劣文化である以上は、全く以って大人の男が魅力を感じさせられるに値しない。そのような、
大人の男ならではの感覚が尊ばれるようになれば、女子供のほうを徹底的な差別下に置くような
渋い仕打ちによらずとも、文化腐敗からなる破滅の危機を避けて行くことができるのである。

返信する

156 2013/10/08(火) 13:15:06 ID:/uxhWVw/P.:au
今日言いたかったことは、要するに、
「キリスト教による文化破壊は、昨今の質の低いお笑い芸人の台頭も同然の代物だ」
ということだ。自分たちが女子供からの嬉しがりによって支持を保ちつつ、
大人の男でも楽しめるような高尚な文化コンテンツを徹底的に破壊して行く。
結果、男は女子供のために働いてカネを貢ぐだけの、奴隷も同然の存在とも化してしまうのだ。

「武王曰く、予れに乱臣十人有りと。孔子曰く、才難しと、
其れ然らざるや。唐虞の際、斯こに於いて盛んと為す。婦人有り、九人のみ」
「武王は『私には十人の名臣がいる』と言ったという。孔先生はこれを評して言われた。
『才能ある者を得ることは難しいというが、まさにその通りだ。太古の唐虞の時代から今に至るまで、
武王の時代の周ほど人材に恵まれた時代はない。とはいえ、武王が称えた十人の名臣の内の
一人は婦人(文王の后、武王の母に当たる太姒)だから、名臣の数も正確には九人だ』
(文王の后にして武王の母たる婦人といえども、女である以上は権力道徳者としての才能を認めない。
わが子が刑死して気が狂った娼婦の母の多重人格状態な証言なども、当然尊重するには値しない。
逆に、マリアの女としての言行の信用のなさが、孔子のこの発言の至当さを追認しているともいえる。
女の独立的な言行は徹頭徹尾、世の中を司る程もの指針として扱うには値しないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・二〇より)

返信する

157 2013/10/09(水) 23:09:59 ID:.isv130udI
宗教にだって、大人の男が嗜好するに値するだけの
品質を備えたものがいくらでもあるわけだが。

「宗教といえばキリスト教」だなんていう風潮が
まかり通ったりするようなら、大人の男である以上は、
宗教なんてものを好き好んだりしているわけにはいかない。

非常にもったいないことだが、宗教などというものへの
信奉を一旦は完全に控えた上で、高品質な宗教と低品質な邪教を
シラフでより分けて行く所から取り掛からねばならない。

返信する

158 2013/10/10(木) 12:47:59 ID:ramDvucd.c
聖書信者が神仏を選り好みすること、あたかも女が男を選り好みするかの如くである。

女として男を選り好みするからには、守られたい本能が働いて、威勢の強大さこそをまず期待する。
財力でも政治力でも暴力でも何でもいいから、この世に幅を利かせられるような絶大な威力の持ち主で
あることを期待する。そしてそのような期待を満たしてくれる体裁を万全に整えているのが聖書の神で
あるからこそ、聖書信者もまた、他のどんな神仏にも増して聖書の神こそを信仰しようとする。

一方で、男が女を選り好みする場合に、相手に威勢の強大さを期待したりすることは基本ない。
男でありながら強い女を欲するような男は「ヒモ」性分の持ち主として、大いに反面教師として蔑み、
むしろ、自分が守ってやらなければ自存もままならないような柔弱な女こそを大丈夫として好むのである。

男気溢れる東洋社会で主に信仰されて来たのも、そのような「男が守ってやるべき女」のような神仏が
ほとんどとなっている。頼りない神道の神々などもそうであるし、乞食行者を模した仏像として具象化される
仏や菩薩なども大半がそうである。そのような神仏が司っているものこそは真理である一方で、真理もまた
汚濁にまみれやすい俗世では甚だ見失われやすいものであるのも確かなことだから、頼りない神仏を自分たち
人間のほうから守ってやろうとするような心持ちによって、真理や道理の把捉の堅持にも努めて行くわけである。

それにより、女性的な神仏を尊ぶ信仰者こそは、男性的な神に精神依存する信仰者以上にも、無信仰的な自力
の養生に努めるのである。その具体的な有り様は、数千年にわたる中国や日本の政治史を見ても明らかな通り。
数多の権力道徳者たちが自力での国力の増強に努めて来てくれたからこそ、万人が絶対神への精神依存状態で
居続けてきた聖書圏などをも、人口や経済力で圧倒することができている。聖書圏では「ニヒリズム」などと
呼ばれて忌み避けられているような、独立独行の精神状態での精進を数多の人々が積み重ねて来たからこその

返信する

159 2013/10/10(木) 12:54:14 ID:ramDvucd.c
成果であるわけだが、別にニヒリズムだからといってニーチェのような狂乱状態に陥ったりして来ている
わけでもない。西洋では劣等な尊格として卑しまれるような女性的な神仏を、女を守ってやる男のような
慈みと共に尊んで来たからこそ、独立独行の自力精進に気を狂わせるようなこともなかったのである。

女性的な神仏を尊ぶ人間こそは最大級に男らしい存在たり、男性的な神に依存する人間はかえって
女々しい性格と化してしまうという相反法則がある。男と女で、より威力が強大たり得るのは当然男の
ほうだから、女性的な神仏を尊ぶことで最大級の男らしさを身に付けた男こそは、天下全土でも最大級の
威勢を湛えた存在たり得もする。そしてそのような男の辣腕に頼るのでもない限りは、世の中のほうが
保全もままならないような事態に陥ることがあるわけだから、男性的な神ではなく女性的な神仏こそは、
この世界を救い、守り治めて行く上での肝心要の存在となることがあるともいえるわけである。

自分が信じている神の(規定上の)強大さを偉ぶるような人間は、
夫の高収入を近所で自慢する主婦も同然の存在だといえる。自らが自慢の材料としている
神の雄々しさとは裏腹に、自分自身の女々しさはかえって深刻化し、箸にも棒にもかからない
社会のお荷物然とした駄人へと自らが凋落してしまいつつあることを自覚すべきだといえる。

「禄を利するに、死者を先にして生者を後にすれば、則ち民背かず。
亡者を先にして存者を後にすれば、則ち民以て托す可し」
「俸禄に際しては、(国のために殉ずるなどした)死者を優先して生存者を劣後するようにすれば、
民たちも反意を抱いたりすることがない。遠征に赴いている者を優先して在邦の者を
劣後するようにすれば、民たちも大事を託しても心配の必要がないほど仁に厚くなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・坊記第三十より)

返信する

160 2013/10/11(金) 11:25:42 ID:YkaM9SBOwI
世界の終わりありきの超越神信仰などに没頭している人間にとって、この世界が
ありのままに人力で救われることなどは、全く自分たちの望む所ではないに違いない。
それは、世界が破滅に陥る中で、自分たちだけが神からの執り成しによって救われる
という、自分たちの思い描いて来たシナリオとは全くかけ離れた事態であるわけだから、
そんなことになるよりはまず、世界が破滅に陥ることのほうを欲するに違いない。

いま、信者数が世界人口の約半数を占めているアブラハム教(ユダヤ教、キリスト教、
イスラム教)こそは、まさにそのような信仰を信者にけしかけるものとなっている。
信仰のためには親族すらをも殺すつもりでいたアブラハムを始祖とし、ノアの洪水の如き
世界の破滅の中で、自分たちだけがノアの箱舟の如き信仰の大船に乗って救われようとする。

イスラム教などはまだ、超越神以上に汎神であるアラーを絶対神に見立てたことを通じて、
形而下の万物への尊重も持ちえた結果、完全な自給自足の社会を運営していけるだけの
素養を信者に付与したりもしたわけだが、やはり新旧約聖書の教義をも参考としている
ことには違いないわけで、少なくとも、異教徒を含む万人と共にこの全世界を救って
もらおうなどという所まで仁徳を働かせられない点では共通しているのである。

まず、世界の半数にあたるアブラハム教徒が、信仰を通じてこの世界の終わりを欲している。
また、その他の宗教文化圏においても、今の世界など一旦は終了して一からやり直してくれた
ほうがいいぐらいに思っている人間がそれなりにいるだろうことが予想される。中国13億の
人口の内の約3分の1に当たる4億人超の貧困層の人間なども、政府からの弾圧でなかなか
表向きには悲鳴を上げられないにしたって、「今の世界の支配者が死んでくれるのなら、
自分たちも一緒に死んだって構わない(書経・泰誓)」ぐらいの心持ちでいたりするに
違いないわけだから、実に、世界の過半数に達する人間が、今の世界の人力による
救済などを欲しているわけでもないだろうことが察せられるのである。

返信する

161 2013/10/11(金) 11:29:13 ID:YkaM9SBOwI
だから、仮に破滅寸前のこの世界を救い取れる人間がいたとした所で、本当に救い
の手を差し伸べたりすることは、お節介になるだろうとも考えられるわけである。

世界の過半数の人間が今の世界の終わりを欲し、さらに半数の人間が、
人力ではなく神の力による救いを欲しているわけだから、人力による
現世界の救済などは、二重のお節介にすらなりかねないといえるのである。

実際問題、「神の救い」などありはしない。権力犯罪による自業自得の破滅に陥った信者
を救う神などは実在せず、ただ破滅を助長する悪巧方便上の架空神であったのみである。

だから、自分たちが救われるためにはまず、神からの救いなどを期待することから
取り止めなければならない。全くの架空だからこそあらゆる理想をも込められる神からの
救いへの期待などは一切捨て去って、濁念もあれば姦淫も糞尿もするし、自分自身にも寿命が
あるような、生身の人間の努力精進による救いこそを期待して行くようにしなければならない。

その上で、来世での昇天などではなく、この世界での着実な救済をも期待せねばならない。
今の世界を一旦終わらせたりするんなら、それこそ核戦争での人類滅亡すらもが免れ得なく
なるわけだから、人口爆発に環境破壊に極度の世相の荒廃といった、数多の問題が
鬱積しているこの世界での着実な救済こそを企図して行くのでなければならない。

超越神による自分たちだけの救いなどを欲したりすることも排した上で、なおかつ、
汚濁まみれなこの世界での着実な救いこそを志していかねばならないわけだから、それが
未だ出来ていない側の人間にとっての、二重の障壁でこそあるのだといえる。その障壁を
乗り越えないことには、多少なりとも救いの手が差し伸べられる機縁すら得られないのだから。

返信する

162 2013/10/11(金) 12:46:39 ID:dAMOOX1wek:au
「君子の屢ばしば盟うや、乱も是の用えに長きに。(既出)
〜其れ共なるに止むるに匪ず、惟れぞ王の邛いなる」
「支配者たるものがやたらと口先だけの誓いを発するものだから、乱世も長きにわたって深刻化して行く。
それは『ただ共にある』などという事態にすらとどまってはいない、王たる者にとっての病巣とすらなっている。
(口先だけでの『共にいる』などという誓いこそが、乱世を招いて世界を破滅に陥れる元凶となるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)

返信する

163 2013/10/11(金) 14:40:10 ID:dAMOOX1wek:au
要は、

「アブラハム教徒が人口の半数を占めているような世界を、
あえて人力で救ってやったりする義理がない」

ということだ。

返信する

164 2013/10/11(金) 22:18:02 ID:YkaM9SBOwI
人間の力を侮り、
人間の権威を蔑み、
人間の尊厳を踏みにじるような連中を、
あえて人力で救ってやるような義理はない。

返信する

165 2013/10/11(金) 23:07:52 ID:dAMOOX1wek:au
救ってやる義理がないとも言えるし、
こちらに救ってやる資格がないとも言える。

迷惑になるだけだろう?
神からの救いこそを期待しているような連中に、
人間ごときが救いの手を差し伸べたりするのは。

返信する

166 2013/10/12(土) 03:25:56 ID:WNu06rJB2s
うんこ。

返信する

167 2013/10/12(土) 08:59:32 ID:U/W26vDTn2
こいつ, ひでぇな. 滓地蔵だなw

返信する

168 2013/10/12(土) 13:09:26 ID:TkZVt0MqKs:au
神への信仰に邁進する求道者たちを、
人間ごときが救ってやるほうが「失礼」ってもんだろう?

逆に言えば、人間の尊厳を侮るようなこと自体が、
人間に対する「失礼」でもあるわけじゃないか。

どうしてそんな無礼者を、人間様が救ってやる必要がある?

返信する

169 2013/10/12(土) 15:20:48 ID:oqUyLwxf5I
神仏を「自分たちを守ってくれる存在」と捉えるならば、信者も子供や若年者然とした人間であるほうが
好ましいということになる。結果、長幼の序も転倒して若者は老人を見下し、老人も若者を羨むようなザマに陥る。

神仏を「自分たちが守ってやるべき存在」であると捉えるならば、むしろ妻子を養うに値するような立派な
大人の男こそは信者としても相応しいということになり、以て父子夫婦長幼の序の尊重に与することともなる。

人々が「守ってくれる神」を信じているか、「守ってやるべき神」を信じているかで、世相までもが
上記のような開きを生ずることとなる。今はといえば、神仏への信敬も疎かと化してしまっている時代では
あるけれども、神仏といえば「自分たちを守ってくれる存在」という既成概念が定着してしまってもいるものだから、
神仏信仰もありとする以上は、そのせいでかえって長幼の序が乱されてしまう時代ともなっている。

日本で神仏信仰が依存主義的なものと化してしまったのは、聖書信仰が輸入されたりするさらに以前、
鎌倉後期に念仏信仰が大規模な教団派閥を形成し始めた頃にまで遡る。それ以前にも念仏信仰というものが
ありはしたが、あくまで数多の仏教教義の一つとしての扱いに止められて、そればかりが帰依の対象と
されることがなかった。それが、武家政権の台頭によって世相が荒廃し始めた鎌倉以降に特筆して
進取される対象となり、今に至るまで大規模な教団を形成するようになったのだった。

依存主義的な自分たちの信仰が、長幼の序の毀損に繋がったりしないようにするための措置として、
浄土教団は「念仏信仰はあくまで煩悩愚縛の凡夫にこそ相応しいもの」というスタンスを取り続けた。
「親や年長者への崇敬も疎かにしがちな愚か者こそは念仏にすがるしかない」という、謙虚な姿勢を保ち
続けたものだから、社会規模での父子長幼の序の毀損を助長するような真似にまでは至らなかった。

依存主義的な信仰こそは尊いものとし、それを嗜む者こそは貴人であるとすらする聖書信仰が戦国期に輸入されたり、
江戸時代中の禁教の後にまた解禁されたりするに至って、日本における父子夫婦長幼の序の損壊が積極的に
推進されるようなザマにまで陥った。解禁された所で、実際に信者となる人間はごく少数に止まり、

返信する

170 2013/10/12(土) 15:23:00 ID:oqUyLwxf5I
その少数の内ですら、在日外国人が多くを占めているような状態でいるわけだが、その程度の受容度であっても、
「神仏は信者の側が依存すべき対象であり、依存できた者こそは偉い」などという観念が、聖書信仰の
是認を通じて広く定着してしまったものだから、神仏信仰やその容認全般が、君臣父子夫婦長幼といった
天下に尊ばれるべき序列を乱すことに与する悪材料と化してしまう結果と相成ったのである。

そのような現状から、神仏信仰こそが君臣父子夫婦長幼の序を助成するような世相にまで立ち戻るためには、
あまりにも多くの障壁を乗り越えて行く必要がある。聖書信仰を再度禁教下に置く必要があるのはもちろんのこと、
さらにそこから、「神仏すなわち依存対象」などという既成概念の傷痕を治療して行く必要がある。
神仏は第一にはこちらから守ってやるべき存在であり、守ってやることでこちらのほうが真理や道理の
把捉を堅固なものとするための存在であるとする。仮に神仏にすがらざるを得ないとしても、それは
自分たちの側が至らぬ人間であるからなのだから、そうであることを恥じるようにしなければならない。
そのような考え方を万人が諾えるようになり、実際に守ってやるための神仏こそを進んで信仰して行く
ようになったならば、そこで初めて、神仏信仰が君臣父子夫婦長幼の序を助成するような効果をも持ち始めるようになる。

そのような風潮が定着し始めた後にも、愚か者として依存主義的な信仰に燻っているしかないような人間もまた
残存しないとは言いきれない。ただ、そのような人間は生粋の小人とされて、
君子階級になれないなどの社会的制約を被ることともなる。

徳川家のように、浄土門の檀家でいながら征夷大将軍を務めていた家もあるが、
自分たちは自分たちで朱子学を主体とした仁義道徳の実践にじりきで務めてもいた。
家流の元祖たる家康公も神として東照宮に祀られるなど、到底念仏信者ばかりには止まらない
自力作善ぷりであると言えるわけで、そうでありながら浄土門にも帰依したのは、一種の謙遜であったと言える。
同様の謙遜は、平安時代の藤原氏などにも見られわけで、そのような念仏信仰と、ただの凡夫の念仏信仰とを
同列に扱ったりすべきでもないといえる。(だからこそ、浄土宗と浄土真宗の使い分けなどが有効ともなる)

返信する

171 2013/10/12(土) 15:49:17 ID:TkZVt0MqKs:au
「原壤夷して俟つ。子曰く、幼くして孫弟ならず、長じて述ぶる無く、
老いて死せざる、是れを賊と為す。杖を以って其の脛を叩く」
「(孔子の幼馴染の)原壤が、立てひざを突く無礼な姿勢で待機していた。先生は言われた。
『若い頃にも親や年長者への孝悌に励まず、年を取ってからもろくな業績を挙げず、
老いさらばえてもなかなか死にもしない。これこそは賊害とでもいえるものだろう』
そう言ってから、杖で原壤の脛を叩いた。(若いうちにろくに精進も積まないものだから、
年取ってから賊害にも等しい存在と化してしまう。孔子も杖を突くほどの老齢となっていた
ようだが、数千人の弟子を抱える大師匠として人々から親しまれていた頃のことである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・四五)

返信する

172 2013/10/13(日) 16:37:40 ID:/59vf27wcI
俗世で天道に適うものといえば、第一には先祖代々の家門の継承であるといえる。
自分個人の命は限られていても、家を代々保って行くことは半永久的たり得ることだから、
確かにそこに、天道にも合致する程もの普遍性が伴っていることが分かるのである。

代々の家門の継承こそが、天道に適う最たる事象であるからには、それに反するものや、
それを阻むものが天道に適わないものだといえる。嫡子でありながら遊び呆けてろくに
家を継ごうともしなかったり、家門の尊重を損なわしめるような邪教に溺れたりするのが、
悪い意味で天道に適わないあり方だといえる。「悪い意味で」というのは、そうでない
場合もあるからである。嫡子よりは家を継ぐ順位の低い生まれであって、分家を
立ち上げたりするよりも口減らしに専念したほうが経済的に都合がいい場合などに、
戒律厳守の仏門で出家するなどして子孫を絶つようにすれば、それがかえって
嫡子による家の興隆を助成することにすらなるような場合もあるからである。
(これはもちろん、天道ではなく仏道に適ったあり方だといえる)

単なる産めや殖やせやが天道に適うかといえば、決してそんなこともない。
苗字も持たないような百姓が、一定の集落で農産のためだけに集団規模を保ち続けたり
するところでも、遺伝子の保存ぐらいは続いているが、そこに日月星辰の運行のような
規則性はない。それはまさに、地球上の大自然の混沌とした化育にありのままに合致する
姿であるわけだから、天道に適わない代わりに、地道に適ったあり方でこそあるといえる。

天道との合致を本当に守り通しているような人間や国というのは、意外と多くない。
世界でも最も皇帝らしい皇帝の系譜を2000年以上に渡って継承して来た経歴のある
中国といえども、その最原初にあたる秦始皇帝や漢の高祖の頃から、すでに地道や非道
を基幹としたものとなっている。高祖劉邦も無名の百姓の出身なら、始皇帝の嬴政も
政商呂不韋の隠し子であり、いずれも天道から来たった皇統であるなどとは言いがたい。

返信する

173 2013/10/13(日) 16:39:50 ID:/59vf27wcI
欧英の王統や皇統なども、ろくに厳格な血脈を重んじられることもない代物であり、
全く以って皇帝や王侯自身が天道に適うことを企図してはいないことが確かとなっている。
インドでも祭祀階級と王族階級が分断されて、天道の追及は祭祀階級に委託されたりと、
人間が俗世の最高権力者たることと、天道の追及者たることが両立するということは
世界的にも稀有な事例となっており、辛うじて日本の天皇などが断続的に
その条件を満たしたり満たさなかったりする程度に止まっている。

その天皇も、極めて窮屈な生活を強いられるものだし、その他の日本やインドの神職なども、
浮世からは隔絶させられたような生活を(少なくとも本来は)要求されるものである。
人の身でありながら天道を志すことは尊いことであるし、世のため人のためになることでも
あるわけだが、今の汚濁にまみれた俗世の人間などが、あえて天道を好き好むことなども
ついぞない。むしろ、家も親も見失っての、個人主義の乱交状態に埋没することのほうを
良しとしている。それは天道はおろか、地道ですらない、一概に粗悪な方向を志す
餓鬼畜生の性分であるわけで、人間もまたその、普遍性からかけ離れた破綻状態
にこそ快楽を見出して堕落してしまいがちな生き物であるには違いないのである。

普遍的なものは普遍的なものであるが、それを志す者すら、実際の所は稀有なものである。
規則的な普遍性を帯びた天道を志さないのはもちろんのこと、混沌な中に百姓同士の村社会
を保って行く地道に適うことすら受け入れるとも限らない。限りある命しか持たない自分
個人の瑣末な栄華ばかりを追い求めて、子供一人残すことなく遊び散らかしの人生を終える
ようなこともあるわけだから、かえってそのような楽しみを好き好んでしまいやすい性向と
いうものもまた人間に備わっていることをわきまえた上で、さらにそれを上回る普遍性への
合致の楽しみに与ろうとする者こそが、天道を志し、地道に親しむ適格者ともなるであろう。

返信する

174 2013/10/13(日) 19:54:34 ID:/hkJ/ULMVs:au
「景公、晏子の宅を更るを欲す。曰く、子の宅や市に近く、湫隘囂塵なり。以て居る可からず。諸れを
爽塏なる者に更むるを請わん。辞して曰く、君の先臣も容れり、臣以て之れを嗣ぐに足らずとするは、
臣に於いて侈れるなり。且つ小人の市に近く、朝夕の求むる所を得るは、小人の利なり。敢えて里旅を
煩わさんや。公笑いて曰く、子、市に近くして、貴賤を識れり。対えて曰く、既に之れを利とせり、
敢えて識らざらんや。公曰く、何を貴しとし何を賤しとするか。是こに於いて景公、刑を繁くして、
踊を鬻ぐ者有り、故に対えて曰く、踊は貴く屨は賤しと。既已に君に告げりて、故に叔向と与に語りて
之れを称せり。景公是の為めに刑を省く。君子曰く、仁人の言は、其の利博き哉。晏子は一言に而て
斉侯の刑を省く。詩に曰く、君子如し祉いせば、乱庶やかに已れ遄まんとは、其れ是れの謂いか」

返信する

175 2013/10/13(日) 19:56:48 ID:/hkJ/ULMVs:au
「斉の景公が、重臣である晏嬰の自宅を新造することを案じた。『おまえの家は卑俗な市場に近い上に、
低地で狭く、喧騒としていていつも塵が舞い上がっているような状態ではないか。決して済むべきような
場所ではない。もっと爽やかな高地にでも移住してみてはどうかね』 晏嬰はその勧めを丁重に辞退
して言った。『今の私の居住地は先君とも縁の深い場所、臣下の身でこれを不足であるなどとするなら、
それはもはや驕りにも等しいことだと言えましょう。また、小人(晏嬰は短躯であったため自らをこう
謙称していたらしい)が市場に近い場所に住んで、朝晩に要り様なものを得るのは、小人としての利益に
適っているというものです。どうしてあえて大勢の人夫を動員する工事を行うような必要がありましょうか』
景公はこれを聞いて笑い、また言った。『おまえは市場の近くに住んでいるものだから、何が売れ筋で
何が売れ筋でないのかにも詳しかろう。』 晏嬰『市場のおかげで便利でいられているのですから、
どうして知らずにいるようなことがありましょうか』 景公『では、ぜひ売れ筋とそうでないものを
教えてくれ』 この頃、景公は人々への刑罰を厳酷化して、足切りの刑を頻繁に執り行っていたため、
義足を売る者が市場に多く群がっていた。そのため晏嬰は『義足が売れ筋で、靴が死に筋な模様です』
と答えた。景公に対してこう答えた後、晏嬰は晋の重臣叔向との会話でも同様なことを述べたりしたため、
景公もついには刑罰を行う回数を減らさざるを得なくなった。これについて君子(孔子)はこう評する。
『仁者の発言は、実に広くにわたって大利を及ぼすものだ。晏先生はたった一言で斉候の刑罰濫用を
中止させる功績を挙げた。詩経(小雅・巧言)に〈君子がもし善いことに熱心ならば、世相の乱れも
速やかに収まるだろう〉とあるのは、まさにこのことを言うのではなかろうか』(臣下として、あえて
喧騒で塵の舞うような劣悪環境に暮らし、小人の集う市場にも目を見張ることが礼に適うこととなる
と共に、実際に仁政を実現するような好材料ともなっている。『礼記』曲礼上第一にも『長者の前で
掃除をする時は塵が長者に被らないように注意し、塵取りも自分のほうに向けるようにする』とある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公三年より)

返信する

176 2013/10/14(月) 15:14:58 ID:g0Vyu1qB3Q
侮ることが破滅に繋がる神仏というのも実際にあるが、だからといって神仏が脅しをかけてくるような
こともない。侮っても侮ってもろくに罰を加えてくる気配も見せないようなままで、気づいた頃には
すでに逃れようのない破滅に見舞われていたりするのが、本物の天罰や仏罰というものである。

それは、人間が攻撃的な姿勢によって模倣できるようなものでも決してない、せいぜいできる限り消極的
な姿勢を貫く中に多少漸近できるような所があるぐらいのものである。それはちょうど、合気道家が
自らは全く攻撃を仕掛けない姿勢でいながら、相手が攻撃を仕掛けてくるや否や、その攻撃力を利用して
相手を自滅状態に追い込むようなもので、そのような修練を積んでいる合気道家が柔和な態度でいる
ようにして、天罰や仏罰を加えて来る神仏もまた、しごく柔和な態度姿勢のままでいるものである。

本当に罰を加えて来るような神仏こそは、普段は柔和なお姿のままで居られるという普遍法則があるから、
そのような「畏るべき神仏」を畏怖することもまた、そこまで怯えきったような態度と共にであるような
必要もない。地蔵菩薩こそは閻魔大王に化身して地獄の亡者を容赦ない裁きにかけるものとされているが、
だからといって道端のお地蔵さんを冷や汗をかくような恐怖感と共に拝んでいるような人間も居はしない。
一方で、地蔵の石仏を損壊したり窃盗したりする程にも心が荒んでいるような人間は確かに、地獄に落ちる
程にも精神面と現実面の両面において追い詰められていることが間違いない。普段は何気なく親しんで
いるような神仏こそは、免れようのない自業自得の破滅をもたらすこと、斯くの如くであるといえる。

返信する

177 2013/10/14(月) 15:20:03 ID:g0Vyu1qB3Q
そのような、本物の神仏による罰こそは決して免れられない一方で、神罰に見立てた人為の破壊行為などは、
免れようと思えば結構、免れられるものである。先のイラクやアフガニスタンにおけるアメリカによる
侵略戦争などは、かつての十字軍遠征にも見立てた「聖戦」の体裁をも帯びていたわけだが、だから
といってイラクやアフガンの武装勢力を根絶やしにできたわけでもない。僻地や地下に逃げ込んでの
余力の温存を続けるような余地をも現地人に与えてしまったわけだから、人間が神罰に見立てて行う
ような破壊行為たるや、目の粗いざるで砂を掬うにも等しい疎かさであることが明らかだといえる。

罰を下すはずの相手をざる状態で見逃してしまう上に、ろくな恐怖心を相手に抱かせることもない。
無差別核攻撃でアメリカが日本を降伏させた際にも、日本はただこれ以上の闘争が人類の滅亡にすら直結
しかねないからこそ降伏を決意したまでで、決してアメリカを畏怖したから降伏したのでもない。だから
こそ占領軍の総司令官だったマッカーサーも、吉田茂や白洲次郎に大上段の態度で応対されたり、ザリガニ
の異名に自らの名前を勝手に使われたりするなどの舐めた処遇に見舞われた。結局、人為の破壊行為を象徴
するような神を畏怖するのは信者たちばかりである上に、その神による罰であるとする破壊行為がろくに
その目的を達成することもできないという、無様極まりない事態ばかりを招くこととなるのである。

絶対に不可避なる自業自得の破滅を招きかねないような神仏こそは、さほど恐怖感を抱いたりすることも
なく信敬していられる一方で、脆弱な人為の破壊行為を象徴するような架空神こそは、信者たちばかりが
旺盛な恐怖感と共に信じ込んでいるという法則がある。その恐怖感を以て、神の実在を強弁する気概ともして
いたりするわけだが、もちろんそれも自己満足の域を出るものではない。さして恐怖するような必要もない
柔和な神仏こそが、絶対に免れようのない大罰を下し得るということは、一種の陰陽法則でもあるわけなので、
真に尊ぶべき神仏を尊ぶためにこそ、陰陽法則への普遍真理としてのわきまえが必要になるのだとも言える。

返信する

178 2013/10/14(月) 15:24:11 ID:yDBjTeWdOs:au
「恐懼する所有れば、則ち其の正しきを得ず」
「心が恐怖に囚われているようでは、正しいものは見えない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——大学・七より)

返信する

179 2013/10/15(火) 17:30:52 ID:QodIxLKM0c
真正聖書——四書五経中のどの言葉一つ取っても、何時如何なる場合においても絶対に通用すると
いえるほどもの完璧な普遍性を持った言葉というのは存在しない。それは、四書五経の中でも最原初の
叩き台的な役割を帯びている「易経」からして、千変万化な真理を曖昧な言葉で漠然と把握した代物と
なっていることからも、避けられなかったことだと言える。

ただ、その曖昧さこそが、有機的な真理を「当たらずとも遠からず」な範囲で捉えた道理としての意味合い
をも帯びているわけで、四書五経以上にも厳密な言葉で真理を捉えようとすれば、仏典や物理学書ほどにも
難解至極な表現と化してしまうといった弊害をも生じさせてしまうわけだから、曖昧な言葉で表現する
ことを通じて、真理に漸近する道理を誰にでも理解できる程度の平易な形式で把捉している所こそは、
四書五経が万人に尊ばれて然るべき聖書としての資格を備えている最たる根拠でもあるといえる。

四書五経並みかそれ以上に平易な言葉で真理を断定しようとしたりすれば、確実に誤謬と化してしまう。
それは、真理がそのような安易な手法によって捉えきれるほど生易しい代物ではないからであり、
そこに全てを還元してしまおうとするような人間自身の怠慢を決して許さないものだからだと言える。

真理もそれなりに理解することはできるし、厳しい精進修行の末に悟ることだってできなくはないが、
それは誰にでも容易く可能となるようなことでもないこともまた確かなことである。だから、真理そのもの
を把捉しているとまでは言えないような四書五経の平易な言葉を通じて、漠然と真理を察し、真理に近からず
とも遠からぬ道理を守って行くぐらいまでが、生業もある大半の俗人にとっての最善策になると言える。

そのような「分のわきまえ」を逸してしまっている所でこそ、真理や道理への無理解と、完全誤謬
への邁進が深刻化して行くこととなる。ろくな理解力の養生もないままに、しごく平易な言葉だけで
真理すらをも理解してやろうとするような怠慢こそは、真理も道理も理解できないと自らを恥じること
以上にも、鹿を馬と呼ばわるが如き完全誤謬を掘り下げて行く要因とも化してしまうのである。

返信する

180 2013/10/15(火) 17:33:22 ID:QodIxLKM0c
誰にでも理解できるような平易さと、真理そのものの把捉すらをも両立させてしまおうとするような
怠慢に人々が陥ってしまった結果、本当に真理を把捉したり、道理を守ったりして行くことが蔑ろに
されて行くこととなる。それらはいずれも、平易な口先だけで真理すらをも理解してしまおうと
するような志向性と位相から相容れない姿勢であるわけだから、相容れないものが人気を
得た結果、自分たちの側が支持を失うということに当然のこととしてなる。

真理なんてなかなか理解できないのは、誰しもが真理を理解するための着実な努力を積んで
いるような時代においても変わりないことであるわけだから、そこはまだ義務性までをも
帯びることではないといえる。問題は、平易な言葉で真理すらをも分かった気になる怠慢が、
平易な言葉で道理ぐらいは守っておこうとする最低限の誠実さをも損なわしめてしまう所にこそある。

四書五経に書かれてある程度の当たり前な道理すらをも疎かにすれば、確実に世の中も破滅に向かう。
それは決して真理そのもの程にも普遍的なものではないわけだが、概ねの所ぐらいはその記述に従うので
なければ、国や国際社会が崩壊するほどもの危険性を秘めた「統計的な正しさ」ぐらいは帯びているもので
あるわけだから、真理を騙る平易な戯言で四書五経の教えすらをも全くの蔑ろにしてしまうような
所にこそ、人類にとっての致命傷とすらなりかねない程の落とし穴があるのだといえる。

四書五経は「学ぶもの」とされている一方、犯罪聖書なぞは「信じるもの」とされているものだから、
両者の受容を並列に捉えて考察する人間もあまり居はしないが、ところがどっこい、四書五経を学ぶ
以上は犯罪聖書を信じることなどはできないし、犯罪聖書を信じている以上は四書五経から何かを
学ぶことなど決してできないという相反法則が厳然としてある。犯罪聖書を総出で信じた結果として
四書五経から何も学ぶことができなくなり、以て破滅へと向かわざるを得なくなった今の世界を
建て直すためにも当然、犯罪聖書が信じられなくなるのを引き換えにした四書五経の受容が必要となる。

返信する

181 2013/10/15(火) 17:37:03 ID:p9p7ngflQY:au
犯罪聖書の人類による受容もすでに2000年の長きに渡っているが、
四書五経の受容の歴史はそれを遥かに上回ってもいる。歴史意識の高さによって、
四書五経以上にも犯罪聖書のほうを優先したりする道理もまた、ありはしないのである。

「永遠に天威を念い、我が民に越いて尤違罔からしめざらんや」
「永遠に天の威光を思いつつ、わが民たちが過ちを犯さぬように取り計らおうではないか。
(これが『永遠』という言葉の原典。永遠の命を欲するような思い上がりではなく、
永遠の勧善懲悪を志す高潔さを示すためにこそ、『永遠』という言葉も作られたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君奭より)

返信する

182 2013/10/16(水) 13:32:01 ID:lXGGdQUBcw
人間にとって最良の国や世界は、あくまで人間たち
自身の自助努力があってこそ実現されて行くものである。

誰も彼もが他力本願の依存状態ばかりでいるのならば、
万年戦乱状態でいるアブラハム教圏か、浄土教が流行した
鎌倉期の日本ほどにも、荒廃した世相ばかりが招かれることとなる。

自力本位も他力本位もあるとした所で、自力本位の志しが他力本位への逃げ込みを
上回る度合いで世の中に受け入れられているぐらいであって初めて、世の中も並み以上
に良くなることがある。他力本位の浄土信仰もあるとした所で、自力本位の密教や禅や
法華信仰(法華経信仰とは異なる)のほうがより修習対象としての主体を占めていた
平安時代頃の日本こそは、死刑一つないほどにも治世の確立された時代となっていた。

晦渋で茫漠としている聖道門の仏教思想などは、それを信じるだけで信者を極楽浄土へと
導いてくれるようなものではない。精神的な部分では深くそれらの思想へと帰依する所が
あった上でなおのこと、行基や空海が行っていた土木事業のような、現実的な善行にも
精進することでこそ、自他を吉方へと導いてくれるものである。実際に善行を為すに
際しても、治水に取り組んでもなかなか洪水を堰きとめ切れないなどといったような、
多大なる困難が付きまとうものだから、並みの精神力や技量ではなかなか実績を挙げられ
もしないといったことがある。そのような場合に、挑戦者たちの着実な心の支えになって
くれるのが聖道門の仏教教義であったりするわけで、そのような目的での帰依によって
自力作善に取り組むことで勝ち得られた治世こそは「清浄な仏国土」ともなるわけである。

返信する

183 2013/10/16(水) 13:34:36 ID:lXGGdQUBcw
自力作善によって勝ち得られたよりよい世の中において、自分たちが心の拠り所として
来た神仏を崇め祭ることで、泰平の世の長久を願うということもある。たとえば、家康公
のような並外れた偉人の自助努力によって実現された泰平の江戸社会が、本人の死後にも
同様な力量の持ち主によって全くの自力で保たれ続けて行くとも限らなかった。だから
東照宮や浄土宗への帰依を通じて、徳川幕府の後継者たちにも、自力他力の両面で最善を
尽くさせることを企図したわけである。結果、あまり冴えないような将軍や幕閣によって
世の中が若干傾けられたりもした一方で、徳川吉宗や松平定信のような名為政者によって
それが立て直されたりもするといった一進一退のうねりを伴いながら、結局自壊までは
来たすことなく、250年の長きにわたる治世を維持し続けて行くことができたのである。

どうしても自力作善が覚束ない場合に、仕方なく他力本願の信教に帰依するとして、その
帰依対象が、信者に消極性を尊ばせるものであるのなら無害である一方、依存状態での
積極性などを喚起するものであったりするのなら有害となる。無能だったり馬鹿だったり
するような人間がやたらと行動的である所でこそ、人と世とを損なう害悪もまた積み重ね
られてしまうものであるわけだから、そのような人間こそは消極的な性向の持ち主である
べきだと言え、他力本願の信教がその上で役立つというのであれば、それも用いればよい。

そのような形で他力信仰が世の中のために役立つこともあるが、残念ながら現状においては、
信者が無能や馬鹿である中に行動を積極化させて行くための道具として他力信仰が利用されて
しまっている頻度のほうが高い。ユダヤ=キリスト両聖書信仰こそはまさにその代表格で
あるし、イスラム教や浄土教もまた、戒律主義や悪人正機のような消極化を促す教義材料を
持ちながらも、原理主義的な勢力によって蛮行を正当化するために悪用されてしまっている
場合がある。(浄土教が原理主義化したのは戦国時代のことで、今はすでに沈静化しているが)

返信する

184 2013/10/16(水) 13:37:46 ID:GCySbEPqJY:au
自力本位は積極的たり、他力本位は消極的たることで、我と人と世との三方が確実に益を得る。
結局それは、「男は積極的、女は消極的であれ」という陰陽法則にも根ざした夫唱婦随の
教理などにも合致することとなるわけで、ここでもまた、陰陽思想の真理法則としての
無謬性が頭角を現していることが分かる。現状の世界で、信教全般に対してまで夫唱婦随的
発想の適用が試みられた試しもないが、それすらもが試みられることでこそ、他力本願の
積極志向が信教によってまで正当化された結果、大災厄を招いてしまっている今の世界の
主要な問題が解消されて行くことともなるのが間違いないといえる。

「能く礼譲を以て国を為めれば、何をか有らん。能く礼譲を以て国を為めずんば、礼を如何せん」
「よく礼儀と辞譲の心を持って国を治めれば、何の問題が起ころうか。礼儀と辞譲によって国を
治められなければ、(暴君や邪神に対するような真心を欠いた)拝礼だけがあっても、どうしよう
もあるまい。(所詮、国は人間が治めて行くものなのだから、人間同士での譲り合いの心を
尊んでいくようにするのでなければ、うまく行くものも立ち行かなくなるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・一三より

返信する

185 2013/10/17(木) 15:06:10 ID:yyCgomBWsc
自力作善の聖道門思想の王道である華厳思想においてこそ(法華思想は華厳
思想の簡約版だし、密教は実践主義なので、純粋な思想という点では華厳に譲る)、
尽十方が光に照らされるほどもの功徳の回向が期待されるとする。一方で、
他力本願の浄土思想は「西方浄土」の光明ばかりが尊ばれて、その西方の果ての
浄土と自分たちとの間にも、著しい水火の苦難が待ち受けているものとする。

実際、他力本願であろうとする心の怠惰が、尽十方中九方の暗闇と、
唯一の光明が差す西方における水火の苦難をも自業自得でもたらしてしまう。

日没する西方へ逃げ込みたがる陰鬱な性分と、聖書信仰による徹底的な他力本願志向
を持ち越してきている西洋人こそは、西方以外へ赴けば多大なる害悪を自他にもたらし、
西方の際であるアメリカにおいても、財政破綻やその他の危難に苛まれている。

心からの自力精進と引き換えに境遇から最善のものとして行くか、心理的な怠惰に
よって境遇の悪化を招いてしまうかが、自力作善と他力本願の内外における相反点で
あるといえ、けっきょく労苦を費やす度合いでは、他力本願のほうが自力作善を
上回ってしまうようなことにすらなる。だからこそ、他力本願のせいで多大なる
苦難に見舞われている者が、自力本位のおかげで始めからさしたる苦労をしなくて
済んでいるような相手を「大した苦労も知らない世間知らず」として蔑んだり
することすらもがあるわけだが、それこそ全くの言いがかりであり、自分自身の
精神的な怠惰による自業自得で招いてしまっている労苦などを鼻にかけたりする
ことこそは、身の程知らずの思い上がりの発露にも程がある所業であると言える。

しかも、他力本願志向故の心の怠惰のせいでの自業自得の苦難をどうにか
乗り越えて行くことを以ってして「健全な労働者の姿」であるとすらし、
そのような者こそは天国に召されるものとしたりする。当然これも怠慢まみれの
思い込みであるわけで、むしろそのような自業自得の苦難に心から喘いでいる
ことでこそ、他力本願者としての志しも貫徹されるものであるといえる。

返信する

186 2013/10/17(木) 15:08:17 ID:yyCgomBWsc
むしろ、苦しみたければ他力本願でいればよく、苦しみたくなければ自力本位で
あればよい。苦しむからといって他力本願のほうが偉いなどということもなく、
むしろマゾヒストとして卑しまれ通す。それでもいいというものだけが他力本願で
あるようにするなら、他力本願でいるものなどは世界の十分の一以下の人数に
止まるようになるに違いない。しかし、実際にはそのような取り決めが通ることもなく、
むしろ楽したいからこそ他力本願に走るようなものばかりが多発し、その結果として
害悪を撒き散らすような他力の徒が膨大な数に上ることともなってしまっている。

苦しみたくて他力本願でいようが、苦しみたくないから他力本願でいようが、
結局のところ、他力本願の徒こそが最大級に苦しむことには変わりない。そこは
金剛不壊の真理法則であるわけだから、まずそれをわきまえられる程度の知識力が
あるに越したことはない。そしてそのような知力が妄信をも十分に抑制できるように
なればよく、それだけで、苦しみたくないがゆえに他力本願に走った結果、
より苦しみながら自他に害悪を撒き散らしてしまうようなこともなくなる。

ただでさえ、人間はその半数以上が、大人の男に頼らないではやって行くことも
できない女子供であるわけだから、大人の男までもが他力本願に陥ったりしてしまう
のはなるべく避けるべきことだといえる。国を挙げて他力本願の信仰を全国民に
あてがっているような国が数十億人規模で存在している今という時代こそは、
人類史上でも最大級に不健全な時代であるに違いなく、人類が揃いも揃って精神的に
メス化してしまった異常事態であるといえる。他力本願も他力本願なりに無害なぐらい
ではいられるとしたって、決して大益をもたらしたりまでするような代物ではない
ことを誰しもがわきまえて、他力本願の信教の取り扱いをも正して行くべきだといえる。

返信する

187 2013/10/17(木) 18:58:21 ID:yyCgomBWsc
「人は其れ、天地の徳、陰陽の交わり、鬼神の会、
五行の秀気なり。〜人は天地の心なり。〜故に聖人も則を作すに必ず
天地を以って本と為し、陰陽を以って端と為し、四時を以って柄と為す」
「人間と言う生き物は、自分たち自身が天地の徳たり、陰陽の交わりたり、鬼神の和合たり、
五行の秀気たるものである。人はまさに天地の心そのものたるわけだから、聖人もまたその
人間を司る規則を定むる上では天地を根本とし、陰陽を両端とし、四季の移り変わりを指針と
して行くようにするのである。(天や陽だけでなく、地や陰や天地陰陽の移り変わりの映し鏡
でこそある人間という生き物の性分に合わせてその言動規範をも正してやって行くのでなければ、
人間社会も乱れるばかりとなる。当然、そうなることをあえて目指したりすべきでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)

返信する

188 2013/10/18(金) 14:39:13 ID:ERfPjdc2q.
何も、そればかりが健常者と異常者の境界線となるわけではないが、キリスト信仰を心情的に受け入れ
られるかどうかもまた、本人の精神状態の可否を分かつ決定的な境界線の最たるものとなっている。

バラバによって悲惨な目に遭わされた強盗殺人被害者の心情を察したならば、誰しもがバラバこそは
死刑に処されて然るべきだと考えるものなのに、イエスたるや、そのバラバの代わりに進んで死刑となり、
しかも三日後に蘇って天国に召されたというのだから、バラバの被害者からすればたまったもんではない。

ただでさえ憎き加害者が無罪放免となったことが許せないというのに、さらには、代わりに死刑になった
どこぞやの馬の骨までもが生き返って昇天したというのだから、これはもう怒りの極みという他ない。

当然、バラバこそは処刑されるべきであるし、バラバの代わりに死刑になったとされるイエスなぞも、
そのおかげで天に召されたりするよりは、むしろそのせいで地獄に堕ちるべきだといえる。バラバの被害者
の立場に立って考えてみれば、それぐらいのことはすぐ想像が付くものなのに、キリスト信者たるや、
その程度の想像も付かない。物事を多少多面的に見ることも、他人の立場に立って物事を考えてみることも
全くできない、あまりにも未熟な思考能力の持ち主であることが明らかであり、なおかつ、信仰によって
上記のようなイエスの所業を是とする所に精神状態が凝り固まってしまってもいるわけだから、
これはもう完全に精神異常者であることまでもが間違いないといえる。

他人の気持ちを推し量れなかったり、物事を多少多面的に見ることもできなかったりという、精神異常
の中でもとびきり有害な部類の精神異常こそを、キリスト信仰が信者に植え付ける。同様な精神状態を、
頑是ない子供が帯びていたりすることがあるものだから、「子供のような心の持ち主こそは我が信者と
なるにも相応しい」と、イエス本人までもが犯罪聖書中で述べているが、それにしたって、それは子供の
悪い側面であって、純真だったり無邪気だったりする子供の良い側面とはまた別のものである。物事を多面

返信する

189 2013/10/18(金) 14:43:12 ID:ERfPjdc2q.
的に見ることもできなかったり、他人の気持ちを慮れなかったりする児童特有の悪い性格を脱却することで、
人もまた立派な大人へと成長して行くことができるというのに、そのような子供の悪い部分を持ち越した
ままで大人になったりすれば、ただのダメな大人になるだけである。完全にそのような大人のままでしか
居られないというのなら、それはもう悪性の精神障害者とすら見なされても仕方のないものですらある。

純真さや無邪気さといった、子供にも特有の良い性格は、キリスト信仰によって思慮の浅さや見識の狭さ
が植え付けられることを通じて、かえって損なわれることとなる。儒学や仏教のような、正義や浄心を尊ぶ
教学の体得に務めたならば、大人になってからも子供並みやそれ以上の純真無垢さを保てたりすることがあるが、
キリスト信仰によってそのような素養を大人が育んだりすることは決してできない。むしろ、世間の汚濁に
取り込まれ尽くして、それでもなおのこと偽善を嗜んでいられるような厚顔無恥さばかりが身に付くことと
なる。キリスト信者特有の思慮の浅さや見識の狭さこそは、罪悪の卑劣さへの理解を損なわしめるものだから、
罪を罪とも思わぬままに積み重ねてそれでよしとする腐った大人ばかりへと成り下がってしまうのである。

子供ならではの純真無垢さを大人になっても保っていられる人間こそは、聖賢とも呼ばれるべき立派な
大人である一方、子供が陥りやすい思慮の浅さや見識の狭さを大人になってまで持ち越しているような
人間こそは、最も卑しまれて然るべきろくでなしであるという法則がある。子供ならではの特性を完全に
捨て去るのでも全て持ち越すのでもなく、良い特性を保ちつつ悪い特性から脱却して行くことでこそ、
人間もまた立派に成長して行けるのだといえる。教学でいえば、その助け船となってくれるのはむしろ
儒学や仏教であり、キリスト信仰はこの内に含まれない。キリスト信仰はむしろ、子供の悪い特性を
持ち越したままで、良い特性を捨て去ることを信者にけしかける類いの邪教であり、そのような
邪信に溺れた結果として、人はむしろ腐った大人へと堕してしまうのだと知らねばならない。

返信する

190 2013/10/18(金) 15:16:50 ID:AgM/waJZso:au
「子曰く、回や、我れを助くる者には非ざるなり。吾が言に於いて説ばざる所無し」
「先生は言われた。『顔回は、私の助役となってくれるものではないようだ。私の
言葉をただ喜んで聞いているばかり(で、ろくに助言してくれることもないの)だから。
(この後、孔子は顔回が自分といない時に自主的でいるのを見て、顔回を見直したが、
ただただ喜んで自分に聞き従ってばかりいるよりは、むしろ率先して言い返したりする
ことで自分のほうを助けてくれるような弟子を孔子は欲していたのである。これこそは、
真に健全な主従関係であるといえ、ただ一方がもう一方の言うことを喜んで聞いている
ばかりで、それを専らな自らの救いにしてたりするのは、不健全な主従関係だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・四)

返信する

191 2013/10/19(土) 16:17:35 ID:isHX2KJZms
朋友の関係はおろか、長幼の序すらもが、君臣父子夫婦の序列を重んずる三綱に尊さでは及ばない。

三綱の尊重こそは、「国家による家族単位での人口管理」という、現実的な社会秩序の維持手段
のための決定打ともなる。誰かれ構わず付き合って適当に子供を作ったりするような横並び状態は
もちろんのこと、学校や職場での年齢の長幼などに基づく上下関係ぐらいは重んじる場合にすら、
君臣父子夫婦全ての序列を重んじる場合ほどもの社会秩序の安定が期待できるものではない。

三綱の尊重こそは、世の中の安寧を長期的に保つ上での十分な根幹となると共に、そんな尊重意識など
持たないままでいる人間がこぞって羨むほどもの、人々の「睦み」を実現しもする。幕末から明治初期に
かけての日本人などは、石高制に基づく食い扶持の厳重な管理のせいもあって、総じて栄養不足気味で、
苛烈な植民地経営による富の収奪のおかげで体格までもが筋骨隆々となっていた欧米人などからすれば、
それはそれは貧弱な、子供のような体格の持ち主たちの群れに見えたに違いないわけだが、そうであっても、
人々がみな朱子学による教化を通じて三綱五常への尊重を嗜み、そのおかげでがさつな剣呑さを排した
優美な人間関係を築き上げていたことにも驚嘆させられざるを得なかったのである。故に、その頃に
日本国内の風俗を視察した欧米人なども、「我々にできることといえば、この清浄なる島社会に
救いがたい俗悪さを持ち込むことぐらいのものだ」と慨嘆を述べもしたのである。

その、「救いがたい俗悪さ」のために、人口爆発などのせいで世の中も破滅に向かう上に、人間社会が
実現し得る最大級の人々の睦みまでもが損なわれる。言い争いだの訴訟だので、常日頃から人々が気の
休まりようもないような殺伐とした人間関係に追われ、しかもそのストレスを解消するための横並びな
乱交によって家族関係をも蔑ろにし始める、結果、無計画な社会活動全般が原因となっての、人口爆発
などの破滅の危機を招いてしまうという、良い所などどこにもない悪循環に見舞われることとなるのである。

返信する

192 2013/10/19(土) 16:21:06 ID:isHX2KJZms
親族夫婦の関係を大事にすべきだなどということは、誰でも多少はわきまえていることである。ただ、
そのわきまえが何物にも増して優先されるなどということもなかなかないことだし、大事にすべきだから
といって具体的にどうすればいいのかもよく分からないままでいたりするのが常である。家族も大事だけど、
仕事や友人関係のほうがより大事となったり、家族を大事にするからといって、ただバンバンと金を
つぎ込みすらすればそれでよしとしてしまったりする。そんなことでは到底、三綱を最優先の尊重対象と
して行く場合のような社会秩序の獲得も、優美な人々の睦み合いも期待できはしないわけで、三綱を何物にも
増して尊んで行くということも、なかなか個人レベルなどでは達成しきれないことであるのが確かとなっている。

結局、三綱の重んじが仕事の上での主要命題ともなる君子階級が、率先して君臣父子夫婦の序を重んじて
行くのでなければ、人々による三綱の尊重が十分となって、世の中が安寧へと導かれたりすることも
なかなか覚束ないものである。ただの百姓の倅だった頃の舜帝が、いくら親兄弟への孝養や親睦に励んだ
ところで、自分一人が生真面目でいることを邪険に扱われて、挙げ句には殺されそうにすらなった一方、
いざ舜が堯帝からの禅譲によって帝王となってみれば、さしたる政務も執り行わない内から世が治まったと
言われているように、やはり君子階級の人間こそが孝悌の手練れであることこそは、三綱の尊重が
世の中全体の安寧にすら寄与し始める上での「位相上の決定打」となることが間違いないのである。

当然、君子階級であるということは「人爵」の持ち主であるということであり、それは「天爵」の持ち主
であることなどと比べれば取るに足らないことだと孟子も述べている通りである。それは確かにその通り
なわけだが、三綱を尊重する素養の持ち主であるが故に天爵の持ち主でもあるといえるような人間が、
いざその天爵を世の中で有効化して行く場合に必要となるのが、適切な人爵の獲得となるわけである。
当然、天爵の廃棄と引き換えに押し付けられるような人爵であってはならず、そこは人爵を贈呈する
側のほうが細心の注意を払わねばならないところでもある。

返信する

193 2013/10/19(土) 17:04:39 ID:r0HowCSSGg:au
「孰れをか微生高を直と謂わん。或るひと醯を乞う、諸れを其の鄰りに乞いて之れを與う(既出)」
「誰が微生高のことを正直だなどと言ったのか。あやつの所に酢をもらいに行ったら、自分も
隣人から酢をもらって来てそれを与え、うわべだけを取り繕ったという。どこが正直なものか。
(隣人ばかりを愛していたら、こんなろくでなしをまでも利することになってしまうわ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・二四より)

「夷子曰く、儒者の道うに、古の人は赤子を保んずるが如しと、此の言は何の謂いぞや。
之れ則ち愛に差等無しを以って親より始む可しと為すか。徐子以て孟子に告ぐ。孟子曰く、
夫れ夷子は、人の其の兄の子を親しむことを以って、其の鄰りの赤子を親しむが如く為せと
信ずるか。彼は取ること有りて爾かるなり。赤子の匍匐して将に井に入らんこと、赤子の罪に
非ざるなり。且つ天の物を生ずるや、之れをして本を一に使む。而るに夷子は本を二とする故なり」
「『(墨家の)夷先生はこう言われていました。儒者の言葉に〈君子の天下を保つこと、赤子を
保護するが如し〉とある。これはどういう意味であろうか。そもそもが愛すべき対象に差別は
ないが、便宜として親から愛すべきであると儒者もまた考えているのではないか、と』
孟先生の弟子の徐辟が先生にそう述べた。孟先生は言われた。『夷之は、自分の兄の子に
親しむのと、隣りの他人の子に親しむのも平等にすべきだとでも考えているのだろうか?
夷之が揚げ足取りのために引き合いに出した儒者の言葉は、ただの喩えとしてそう述べたまで
のこと(で、現実上の実践行為である親への親愛とはまた別のもの)だ。赤子がハイハイ歩きで
井戸に落ちたとしても、それは赤子の罪ではな(く、保護を怠った親の罪である。君子が天下を
司る上でも、それほどもの責任意識を持って為政に取り組むべきだとしたまでのことである)。
天が万物を生じさせるに際して、その根本の部分は一としているのに、夷之は(親戚の子も
他人の隣人の子も平等に愛するなどという、)根本を二つ以上に分かつ愚行を企てている』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・五より)

返信する

194 2013/10/20(日) 12:47:29 ID:icxuorMdzM
浄土信仰なぞは、自分たちが善行一つ覚束ない凡夫でいて、なおかつそうであるままに極楽浄土
への往生を欣求するものであるわけだから、信者の積極的な行動などを促すものでもありはしない。
戦国時代の一向一揆なども、乱世故の経済的疲弊に苛まれた百姓たちが、止むに止まれず念仏信仰を
旗印とした反乱を企てたというばかりのものであるわけだから、決して地球の裏側くんだりにまで
侵略の魔の手を拡げて来たキリシタンのような積極性までもが伴っていたものではないといえる。

百姓身分から足軽に転向して、己れの能力一つで天下取りにまで上り詰めた豊臣秀吉といえども、
天下統一後には巨万の富をはたいての遊興三昧、千利休も眉をひそめる総金張りの茶室に、聚楽第
での乱交三昧と、能力だけが取り柄である成り上がり者ならではの徳のなさを大いに披露してしまった。
それは、成金風情の元卑人などには往々にしてありがちな末路であり、漢の劉邦のように成り上がりの
立場でありながら旺盛な仁徳をも湛えていたりすることのほうが極めて稀なこととなっている。

百姓身分が能力もないままに救済だけを求めていれば一向一揆のようになるし、能力があってのし上がった
としても秀吉のような末路を辿ることになりかねない。被支配層として乱世の荒廃に苛まれ続けていた
悲哀たるや察するに余りあるものであるが、だからといって上二つのようなあり方で救いや成功をかち取る
ようなことは、大手を振って奨励されるべきようなことにまでなるものでもない。人間社会の上下関係も
完全にまでは払拭できないものである上に、真っ当な序列であればむしろ尊重されて然るべきものであり、
百姓が天下取り級の成り上がりを実現してそれでよしとされるのも、権力機構や世の中が完全に腐敗
しきっていて、なおかつ天下取りとなる匹夫が舜帝や高祖劉邦ばりの威徳を湛えている場合に限るといえる。

身分上から他力本願であらざるを得ないような小人が、成り上がったり救済されたりするための行動を
起こしてもよしとされる条件たるや、これ程にも狭く限られた範囲となっている。狂人の積極的な盲動を促す
キリシタンはおろか、秀吉や一向一揆のような形での匹夫からの栄達すらもが、奨励されるに値するものでまではない。

返信する

195 2013/10/20(日) 12:50:16 ID:icxuorMdzM
「百姓小人である以上は絶対に大人しくしてろ」とまでは行かないが、少なくとも大人しくしてたほうが
まだマシである場合のほうが大半なのも事実である。それは別に、自らに能力がないからとも限らない、
能力以上にも大切な徳分や天運が欠けている可能性が高いからである。それは、百姓や小人といった低い
立場である以上は避けられないことであり、そうであってなお、舜や劉邦のごとき天爵を戴くような
ことなどは、数千年に一度ぐらいしか期待できないことでもあるからである。

実際に、百姓や町人の身分でありながら、君子階級のように厳格な血筋の継承を保って来ているなどと
言うこともありはしない。そのような下層身分の内では最富裕にあたる庄屋や豪商すらもが、自分たちの
都合で全く適当に家督を他人へと譲り渡したりして来ているものなのだから、そこは君子階級と比べて
小人の至らなかった部分であるといえる。他にも、君子ならではの威厳などが決して備わり得ないような
生活を送って来ていたりするわけだから、下手に君子を志したりすることも愈々憚られることとなるわけである。

そんな中で、百姓だてらに天爵を受けて天下取りになる正当な資格までをも得た者がいたとしたところで、
そうである本人もまた、決して積極的にのし上がろうとまですべきではない。そのような機縁に与れるような
人間からして甚だ稀有だというのに、誰も彼もがそのような人間の猿真似をして成り上がりを企てようなどと
したなら、芥川の「蜘蛛の糸」の如く、みんなで地獄へとまっ逆さまということにすらなりかねないものだから、
どこにも他に成り手がいないような中で、止むに止まれず仕方なく天下取りとなるというぐらいの体裁を取る
のでなければならぬ。それは、偽善混じりの修辞などでも何でもない、天下取りの資格を持つ匹夫にとっての、
絶対不可避の責務であるとすら言えるわけだから、ただ上辺だけで辞退を心がけたりするのではなく、周りが
万全の準備を整えるのでもなければ、死をも覚悟の上で全力で断り通すぐらいのものでなければならない。
そのあたりが格式ばり過ぎて上辺だけと化してしまっていたものだから、幾多の放伐革命をも繰り返す
こととなってしまった、中国の王朝史なども反面教師として捉えるようにして。

返信する

196 2013/10/20(日) 13:25:40 ID:viJ2OUXJb2:au
「堯舜は性なる者なり。湯武は之れに反るものなり。動容周旋礼に中るは、盛徳の至りなり」
「堯帝や舜帝は、心の赴くままでいても行いが礼に外れることがなかった。湯王や武王は、
自分たちから意識的に礼節に復ることでそれを維持した。行動や容貌や立ち居振る舞いが
礼節に適っていることこそは、盛徳の至りであるといえる。(湯王や武王すらもが意識的に
礼節を守ることで初めてそれを維持できたというのだから、我ら匹夫風情が礼節への
意識もないままに、思うが侭に妄動を来たしていたりしていいはずもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三三より)

返信する

197 2013/10/21(月) 13:12:31 ID:IeKQCj5hqs
「西洋人には、人文思想にゼロやマイナスの理念を導入する発想が全く欠けている」
とは、以前にも述べたことである。近代以降には高等数学の主導者とすらなって来た
(近世にはまだ、和算などの東洋算術が西洋数学を品質面で上回っている面があった)
西洋人こそは未だに、東洋人が2500年以上昔の太古から育んできている、ゼロやマイナス
に相当する理念の思想哲学への応用というものを、全く理解することができないままでいる。

プラスとマイナスに相当する理念を人文に応用することにかけては易学が、
ゼロに相当する理念を人文に応用することにかけては仏教や道家が主な主導者となって来た。
易学の陰陽思想などは、算術が最原初の古代文明を構築し始めるのとほぼ同時に提唱された
ぐらいに年季の古いもので、しかもそこで線形代数や複素指数関数によってでもなければ
説明しきれないほどの高等な直観的数理哲学構造が把捉されて来てもいる。それは確かに、
伏羲や神農の如き伝説上の超人によってでもなければ成し得なかったことであったかも知れない
わけだが、それにしたって、その哲学的成果を演繹してみれば、しごく簡単なものである。

「何もしないでいるよりは善いことをしたほうがいいが、
悪いことをするぐらいなら何もしないでいたほうがいい」

この程度の簡素な倫理判断にすら、プラスマイナスやゼロに相当する理念を込める事ができて、
数理的に考えれば、そこから普遍的な善悪の分別を利かせて行けるようにもなる。ただ理数的
にものを考えるだけで善悪の分別なんか誰にでも付けられるものなのに、西洋人などはそれを
完全に怠って来ているものだから、自分たちでろくに自主的な分別を付けることもできない。
善悪といえば形而上の神様の采配によるものでいて、それに沿った行動を自分たちも心がけ続け
ていかなければならないなどという、奴隷同然の思考回路を全員が持ち越したままと来ている。

返信する

198 2013/10/21(月) 13:18:07 ID:IeKQCj5hqs
プラスマイナスやゼロといった理念を導入する算術の起源も、それなりに古い。
数理的に厳密な定義を与えたのは約1600前のインド人だが、それ以前から零に相当
するような概念を、算術の道具として人々が多様して来ていることにも違いがない。

金勘定一つとっても、足し算引き算その他があって初めてそれが可能となるわけだから、
商人によって構築される都市文明の発展と、プラスマイナスを取り扱う算術の発展も完全に
不可分なものであることが間違いない。ただ、そのような算術の導入と、思想哲学の発展とを
厳密に連携させて来たのが東洋文化であるというまでのことで、だからこそ、東洋文化は
間違いのない勘定のように、人間社会を経済的な安定へと導いて行くことができる。一方で、
足し算引き算のような最原初の算術の導入の頃から、理数系と人文系を大きく乖離させつつ
独自の文化を発展させて来たのが西洋であるわけだから、いざ自分たちの文化を社会運営に
適用してみれば、イカサマまみれの詐欺商法で世の中を引っ掻き回すようにして、世の中のほう
もまた経済破綻やそれが原因での戦争などの破滅に見舞われることとなってしまうのである。

人文的発想は、婦女子を喜ばせて誑かすような不純な目的のためばかりに構築され、
理数的発想もまた、ユダヤ商人の如き詐欺商法による富の収奪のためばかりに構築されて来た。
結果、初等的な算数を人文的発想に導入するだけでも分かるような、最低限の善悪の分別や、
それに基づく着実な善行や、悪行の戒めも全く覚束なくなってしまった。三千年にわたって
構築して来た膨大な分量の人文的理数的産物が、ただ文理の統合を欠いていたというだけの
理由で一切合財、世のため人のためには全くの無用の長物のままとなってしまったこともまた、
「始めに毛筋程もの過ちを犯していれば、後々に千里の過ちとなる」という易を解説する言葉
の法則に完全に合致したものとなっている。近代以降に爆発的な勢いで発展して来た西洋文化
といえども、結局はその全てが、文理一致の東洋文化の掌中で弄ばれる範囲のものでしか
あり得なかったわけだからこそ、両者の雌雄も決したものだといえる。

返信する

199 2013/10/21(月) 13:23:26 ID:FYJQapGpvM:au
「神の弔れる、爾じに多福を詒らんと。
民も之れ質らぎ、日に用て飲食す。群黍百姓、徧く爾じの徳を為す」
「神も来たれるや、君子たる汝に多福を賜ろうとしている。民たちもそれによって、日日の飲食から
安らげるようになる。百姓やその他の群衆たちも、みな漏れなく汝の徳に従って物事を執り行うから。
(真の天命を下す天神は、当人自身の威徳の如何によって相手を選ぶ。その相手の威徳を通じて、人々も
また善行を為せるようになるのだから、まず第一に万人の多動をけしかけたりするのは健全でないといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・鹿鳴之什・天保より)

返信する

200 2013/10/22(火) 12:56:06 ID:biL2lcyVmE
正しい人間には正しい人間なりの進むべき道があり、罪人や病人にもまた導かれるべき道がある。とはいえ、
それが決して思慮の浅さや見識の狭さを助長させる道などであっていいはずがなく、そのような道を逆走
させて健全な精神を取り戻させてやることこそは、罪人や病人にもあてがわれて然るべき道であるに違いない。

犯罪被害者の気持ちも慮れないような思慮の浅さや見識の狭さが一定以上に深刻化してしまえば、
そこで人間は心理的にハイになってしまいがちなものである。正しい道を踏み外して獣道を邁進し
始めていることを、本性こそが善である人間である以上は本能的に察せざるを得ない。だから、
無理にでも開き直ってハイとなることで、自らの良心の呵責を紛らわそうとしてしまうのである。

その空元気だけを懲罰などによって無理に取っ払ったならば、人並み以上の鬱状態に見舞われて
しまうに違いない。それこそは、罪悪の増長に相応な負の感傷が結実する、正順な因果応報が確立
された状態だと言えるわけで、まずそこに本人の精神状態を落ち着けるのでなければ、罪人や悪性の
精神障害者が獣道から正道へと立ち戻ることもまた、決して進捗することがないのである。

道を踏み外した悪人ならではのハイ状態とはまた別のものとして、天下を統べる君子としての醅悌だとか、
悟りを拓いた修行者故の愉楽だとかもまたある。これらこそは、着実に正道を歩んで来た人々ならではの
善因楽果の楽しみであり、悪人の苦し紛れのハイ状態などと違って、これこそは万人が追い求めて行くべき
楽しみでもあると言える。ただ、そのような楽しみこそは、始めは暗中模索の努力を積み重ねて行くので
なければ克ち得られるものではないし、特に道を踏み外してしまっているような愚人からすれば、
そんな楽しみなど本当に実在するのかどうかすらもが甚だ疑問に思われかねない程のものである。

返信する

201 2013/10/22(火) 12:58:41 ID:biL2lcyVmE
それで結局、悪人や愚人は、自分たちが正道に引き戻されることを「陰鬱な暗闇への埋没」か何かのように
しか考えられないままに終わる。常人が君子や大悟者としての健全な楽しみを志す場合にすら、始めは暗闘
状態の努力を続けさせられるというのに、ただの真人間に立ち戻るための道程すらもが真っ暗闇の長い旅路
である自分たちなどが、なぜ真っ当な善因楽果の楽しみなどを期待していられるものか、となるわけである。

それで結局、善人以上にも悪人の救いにこそ重点を置く類いの正当な信教が、社会的な有用性をも帯びて来る。
悪人を導いてやるとしたって、連中に特有の思慮の浅さや見識の狭さを助長してやったりするのではなく、
あくまで正道に立ち返って真心を育んで行くことを助けてやる仏神のことである。そのような仏神が、
自分たちでも君子や仏者としての愉楽を志せるだけの品性の持ち主などではなく、正道への立ち返り一つ
自力では覚束ないような愚悪人のために光臨して下さるというのであれば、それが実際にそのレベルの
愚悪人が頻出してしまっているような世の中における、万人救済の要ともなることが間違いない。

悪人とすら断定する他ないような生粋の愚夫の、思慮の浅さや見識の狭さを正して人並みへと立ち直らせて
下さる神仏があるというのならば、それはそれで世の中にとっても有用であるに違いない。ただ、愚人や
悪人やサイコパス患者を主な信者とする上に、そのような信者たちの思慮の浅さや見識の狭さをさらに助長
するような邪神だけは、人と世と誰しもにとっての有害無益な無用物であることが間違いないだけである。

どうしてそのような、どこから見ても全くの無用であることが紛れもないような邪神への信仰が
禁じられたからといって、神仏への信仰全般が廃絶されねばならないなどということがあろうか?

神仏信仰が旧態依然と化しているからではなく、ある種の神への邪信だけが特定して限界を
来してしまっているからこそ、それだけはどうしても排さざるを得ないという現状への認識を
正確なものとするのでなければ、共産化に伴う宗教文化の廃絶によって、全人民の民度が禽獣も同然の
状態と化してしまった、中共の二の舞三の舞を来してしまったとしても全く仕方のないこととなるだろう。

返信する

202 2013/10/22(火) 13:36:28 ID:ueAtmr8OW.:au
「孟子将に王に朝せんとす。王、人を使いして来たらしめて曰く、寡人就きて見んが
如くする者なるも、寒の疾有り。以て風にあたる可からず。将に朝に視えて朝すれば、
寡人をして見るを得ること識らざらんか。対えて曰く、不幸に而て疾有り。朝に造ること能わず。」」
「孟先生が斉の宣王に朝しようとした時、王のほうから先生に使いを寄越して言伝をした。
『私のほうから先生の所に赴いてお会いしたいのだが、あいにく私は風邪を引いてしまっていて、
外の風に当たることが許されていない。先生のほうから宮内に朝してくだされば、私も先生に
見えられるものとお考えいただきたい』 先生は答えて言われた。『私もあいにく病気ですので、
朝廷に上ることができません』(病気にかこつけて朝廷に呼び込もうとすることと、病人である
ことにかこつけて人の話を真面目に聞かないつもりでいることと、両方への制裁的な対応。
病人はそもそも、言葉によって人に教導されることすら覚束ないから病人なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・二より)

返信する

203 2013/10/23(水) 14:37:44 ID:GVTDfIwDdY
「これだけは許されぬ」という厳格さが保たれている所で初めて、偽善的でない真の平和が実現されもする。
何もかもを許容していれば、殺傷や強盗や詐欺の如き迷惑行為までもがまかり通ることになってしまうわけで、
それを万巻の法律で後付けで取り締まったりした所で、もはや人々が心の底から気の休まることも
ありはしない。自主的な善悪の分別を見失った人々は、ことあるごとに脱法行為での放逸を企て、
法律による締め付けが限界を来した結果としての社会破綻を招いてしまうことにすらなる。

よっぽど狂気に酔い痴れている人間でもない限りは、自分の身の回りを始めとした世の中が平和である
ことをまず第一に望むものではあるけれども。平和を維持するための義務すらをも共に果たして行こうとする
人間ともなれば、これは意外な程に少ない。現代においては、そのような人間が過半数に達しているか
どうかすらもが怪しい。無難を好む年寄りですらもが、世の中の富や社会的地位を自分たちばかりが独占
することで若者の疲弊を招き、このままでは社会保障制度の破綻を来してでも世の中を刷新するので
なければ済まなくなるような事態を招いている。そのあたり、年取ればさっさと隠居して慎ましやかな
生活を送っていた昔の年寄りなどにはなかった落ち度であるわけで、「最近の若いもんは」ならぬ
「最近の年寄りは」という不満が囁かれざるを得ない体たらくと化してしまっているのである。

最大級の自由や寛容と、平和維持との両立が可能であるなどという考えからして、幻想でしかない。
自由の中には「強盗殺人犯でも許される自由」すらもが含まれているわけだから、これは自明なことである。
仮にそのような迷惑行為だけは法律などで取り締まった所で、無制限の自由を希求する理念が是とされた
ままである以上は、強盗殺人すら許されるものなら冒してやろうとする連中が方々に居かねないわけだから、

返信する

204 2013/10/23(水) 14:51:04 ID:GVTDfIwDdY
上にも書いたように、人々が心の底からの安寧に与れたりすることもありはしない。然れば、本当に平和を
実現しようと思うのであれば、無制限の自由を追い求めるような心持ちから捨てねばならない。強盗殺人の
ようなあからさまな迷惑行為は、たとえそれが法的に許されるものであるとした所で、決してそのような
真似を冒したりはすまいという堅い決意が、自分たちの心中に育まれて行くのでなければならない。

そのような決意を内に宿すことは、優しいか厳しいかでいえば紛れもなく厳しいことなわけで、もっと言えば
堅苦しいことである。未だ無制限の自由を追い求めているような人間からすれば、全身を雁字絡めにされる
程もの窮屈さすらをも想起しかねないわけだが、いざ自分自身がそのような不犯の決意を抱いてみたならば、
そこまで窮屈に感じたりはしないものである。むしろ、孟子が「浩然の気」と呼んだような清々しさを抱けたりも
するわけで、人間心理というものが構造上そういう風にできているということは与り知っておくべきことだといえる。

全体的にゆったりとした作りとなっている和服が、帯だけはしっかりと締める作りになっている一方、
スーツにしろカジュアルにしろ和服よりは身体の線に合わせた作りとなっている洋服のほうは、そこまで
しっかりと締め付けることを徹底している部位があるわけでもない。近ごろはゴム素材の多様で、スラックス
の腹回りすらもが自由に伸び縮みするようになっていたりもする。そのような何もかもにかけての緩慢さと、
締める所は締めて、ゆったりさせる所はゆったりさせる和服のような緩急のメリハリと、いずれのほうが
平和な世の中に比肩するものかといえば、後者のほうである。実際に日本の武士も、有事になれば袴の裾を
絞めたり、袴そのものを取っ払ったりしてことに臨んで来ている。それはそれで「剛克」という、洪範九疇
の理念にも沿ったあり方であるわけだが、平時ともなれば長袴に裃の如き、使い勝手が悪いほどにも
身体の線を逸脱した服装で、平和な世の中だからこそ克ち得た自由を表現しもしたのである。もちろん
そこでも、締め付けるべき所はしっかりと締め付ける嗜みも欠かさなかったわけで、無制限の自由ばかりを
追い求めるような人間には決して味わえないような、緩急の愉しみというものがそこにあったのだといえる。

返信する

205 2013/10/23(水) 14:59:15 ID:sJAJGxQUZg:au
「子、温にして勵し、威ありて猛からず、恭しくして安し」
「孔先生は、温和でいながら厳しい所は厳しく、威厳がありながらも野蛮ではなく、
恭しくしながらいつも安らいでおられた。(まさに、厳しさに安んずるあり方だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・三七)

最大級の自由と平和を共に追い求めたりするのは、まるで
鉢の底を割りながらそこに水を貯めようとするようなものか。

鉢を割ろうとする不埒さを許さぬ厳しさぐらいは、当然なければならぬ。

返信する

206 2013/10/24(木) 14:19:39 ID:Mf.Ef9aKdk
何が正しいのか、何が間違っているのかも分からないような愚夫が、他力本願の下で為す行いすら、
正しいか間違いか知れたもんじゃない。自分が依存している相手が正しいから、自分の行いもまた
正しいなどという保証はどこにもなく、逆に依存相手の正しさにかまけて、自分のほうはより
堕落してしまっている可能性すらもが否めたものではない。

阿弥陀信仰あたりは、そうであることを大前提としているから、入信したものの信仰に基づく自己正当化
などを認めたりはしない。生きている限りにおいて愚鈍なままでしかいられない凡夫が、阿弥陀如来の
計らいによって極楽浄土へと往生するというまでのことで、しかもその極楽浄土すらもが、金銀財宝を
散りばめた俗物趣味の代物と来ている。そんな信仰が格好いいはずもないが、格好よくない所も含めて、
それこそが他力依存者にとっての純正な信仰形態となっていることもまた間違いない。信仰によって、
己れのあり方を正当化するようなことすらなく、ただ卑俗なままでの極楽往生をこいねがう程もの姿勢の
低さを貫いていればこそ、自力作善によって自他を正して行こうとする者の領分を侵したりすることもない。

他力依存の下での自分なりの自力作善というものだってあり得なくはないが、他力依存がそのまま
自らの善行に直結するなどということだけはあり得ない。そんなことがあり得るなどと考えること自体が、
怠慢に溺れた卑人の苦し紛れの発想でしかなく、倫理的にもそのようなことがあるべきだとすら言えない。
誰かに依存するような状態は、精神的にも安易に楽な状態であり、そのような状態ばかりでいれば精神も
へたってより怠慢を深刻化させてしまうようなことになる。にもかかわらず、それでこそ正しい行いが
できるようになるなどとしたならば、誰しもの怠慢が助長されてしまうばかりの事態となってしまう。
心中の怠慢を助長させながら、行いだけは正されるなど、上流で汚水を垂れ流し状態の川で、下流だけでの
浄化措置を試みるにも等しい所業であるわけだから、そんな不合理なあり方が是とされていいはずもない。

返信する

207 2013/10/24(木) 14:25:07 ID:Mf.Ef9aKdk
「他力依存によってこそ善行が為せる」などという発想は、自力他力両面にかけての言行規範が豊富である
東洋社会においては決して認められることがなかった。東洋では最大級の他力信仰となった阿弥陀信仰もまた、
「善行なんか到底為せないけれど、それでも他力によって救われたい」という領分に止まった。一方、
西アジアのペルシャで提唱された拝火教において、「他力信仰に即して善行を為していく」という指針が
示され、さらに西方の精神文化不毛の地であるイスラエルやローマで、聖書信仰が提唱されたことでついに、
「他力信仰によってこそ善行が為せる」という所にまで発想が転倒してしまうこととなったのである。

「他力信仰に即して善行を為していく」という拝火教の指針は、イスラム教にも受け継がれ、信者たちに
厳格な戒律主義があてがわれることとなった。イスラム教の発祥は聖書信仰よりも数百年以上新しいが、
そのようなイスラム教のあり方こそは、聖書信仰のネタ元となった拝火教の信仰姿勢にも合致している。
それが奇異に思えたり、前近代的で受け入れ難く思えたりした所で、それこそが聖書信仰の先輩格の
他力信仰のあり方でもあるのに違いないわけだから、それを問題視するというのなら、聖書信仰を含む
他力信仰全般の存在性を問題視すべきだと言える。しかも、「他力信仰の下で善行を為していく」という
イスラム教や拝火教の姿勢は、「他力信仰によってこそ善行が為せる」という聖書信仰の主張などよりも
まだ常識的に考えて筋が通っているわけだから、イスラム教や拝火教が問題的であるというのなら、
それに輪をかけて問題的であるのが他でもない、聖書信仰であることをも自覚せねばならない。

「他力信仰によってこそ善行が為せる」などという転倒夢想が取り払われることで初めて、
善行にかけての「味噌糞の呪縛」をかけられていた諸々の自力本位の教学もまた息を吹き替えし、その
善根を世の中へと回向して行くことが可能ともなる。その内でも急先鋒となるのが他でもない儒学であり、
儒学の復興すら覚束ないままであれば、人類の滅亡すらもが免れられなくなるのが普遍法則ともなっている。

返信する

208 2013/10/24(木) 15:23:48 ID:lCTxBx5QjE:au
「君子は徳性を尊んで学問に務め、広大な視野を得て精緻の限りを尽くし、高明を極めて中庸を保つ。
古き教えを尊ぶことで新しい教えを発見し、尊ぶべきものを篤く尊んで礼儀を崇高なものとする。
そのため高い身分にあっても驕らず、低い身分にあっても背かず、よく治まった国であれば発言一つで
興隆させるほどもの威徳を発揮し、治まっていない国でも沈黙だけでことを鎮めるだけの威厳を発揮する。
(真っ当な自己研鑽に務めていれば、人の上に立つ身分となっても誇り高ぶったりしないでいられるし、
発言一つや無為の沈黙だけでも世を治めるに足るだけの威徳を放つ。誰かへの服従によって誇り高ぶりを
抑えるのも、ただただ多動を心がけるのも、これと比べれば低劣極まりないことだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二七より)

返信する

209 2013/10/25(金) 11:31:42 ID:XHbFyPy9zY
人事を尽くして天命を待つ者の望みこそは、倫理的にも叶えられて然るべきものであるといえる一方、
別に自分自身が最善を尽くしているのでもなかったり、逆に好き好んで過ちを犯していたりするような
者の望みなどは、全く叶えられて然るべきものであるとは言えない。それは、上にも述べた通り、
そのような連中の望みを叶えてやったりすることが、本人たち自身の怠慢を助長するようなことに
すらなりかねないからであり、人々が度しがたい怠慢を心中に抱いているような状態では、たとえ
平和であるとした所で、もはや平和を謳歌するに足るほどもの和気が損なわれたままであり続ける
ことには変わりないわけだから、まずそのような事態を回避するためにも、人々の怠慢すらをも
助長するような甘やかしい処遇などが控えられて然るべきだということが言えるのである。

強盗殺人や金融詐欺すらもが容認されているような世の中が、未だ経済破綻や戦争状態にまで陥らず
には済んでいるとした所で、もはやそこに人間同士が屈託なく睦み合えるような和気も存在し得ない。
強盗殺人犯や金融詐欺師すらもが何の咎めもなくシャバの空気を吸っているような状態で、人々が
そのような清浄な人間関係を構築して行くことができなくなるのはごく当たり前のことであり、
そんな状態で未だに人を信頼しきったような態度のままで居続けたりするほうが危ういこととなる。

それはそれで、人が命を繋いで行く程度のことはそれなりに許容される状態ともなるわけだが、
決してそれが、実現し得る限りの人間社会の内でも最善のものであったりするはずがない。比喩表現を
あてがってみるとした所で、天国か地獄かでいえば、そのような世の中はむしろ地獄の部類であると言え、
仮にそのような世の中を到来させる神が居たとしても、地獄をこの世にもたらす邪神であることが間違いない。

だから結局、人間社会をまず第一に司って行くべきなのも、上記のようなシラフの判断を下せる一人前の
倫理観でこそあると言える。宗教や概念夢想の範疇であれば、怠惰や罪過に明け暮れる者の救いまでもが
想定され得るが、それは上にも書いたように、人間たち自身が最善の人間社会を構築して行く上では

返信する

210 2013/10/25(金) 11:36:13 ID:XHbFyPy9zY
害にすらなりかねない代物でもあるわけだから、人間社会を司る理念としては、無宗教的で非夢想的な
道徳倫理に一歩も二歩も譲らねばならない所があるといえる。

それは別に、むしろ禁教下に置いてしまったほうがいいレベルの邪教などに限ったことではない。
華厳宗や天台宗のような、最高級の教義を擁する自力作善の仏門すらもが、世俗の公権力にまで幅を
利かせるようになるや否や、目の上のタンコブならぬ「山の上のタンコブ」状態のお荷物と化してしまった
前列がある。「華厳経」にも、菩薩が罪人の代わりに磔刑になる下りなどがあるが(十回向品第二十五の四)、
かえってそれが世の中により大きな問題をもたらすとも示唆していて、その問題の責任すらをも
全て菩薩が引き受けて行くとすらしているのだから、到底、並みの人間に務まる話ではない。
それすらをも可能とする人間がいるとした所で、そんな人間が世の多数派などになり得るはずもないから、
結局はやはり、そんな高遠に過ぎる教義などに世の中の統治責任すらをも負わせたりするわけには
いかないということになるのである。(元より、自力作善の仏門は出家第一主義でもある)

神仏への信敬もそれはそれでありとした所で、まずは人間たち自身が自明な倫理観によって、
率先して世の中を司って行くことでこそ、最善なる人間社会が克ち得られることには違いない。
まず神仏への服従ありきとなって、人間たち自身が自力での社会統治を疎かにしたりしたならば、
たとえ神仏による救いがあるとした所で、自分たちの怠慢のせいで荒廃に陥った世の中を後付けで
救っていただくマッチポンプの様相を呈することには違いないわけだから、そんな状態が決して
最善であったりするはずもない。まずは人間たち自身が自力での道徳統治を心がけて、それにより
それなりの治世が確立された後の世の中でなおのこと、泰平や繁栄の長久を神仏に祈願したりする
ところでこそ、何もかもにかけての最善が尽くされたことになるに違いないわけだから、ただ人間
たち自身が自力での徳治を心がけるだけですら、まだ不足でありかねないものである。どうして
それぐらいのことは、当たり前のこととして済ませておかずにいたりすることが許されようか?

返信する

211 2013/10/25(金) 13:58:26 ID:ymKfhvB8ok:au
「倬たる彼の甫田、歳に十千を取る。我れ、其の陳きを取りて、我が農人に食ましむ。
古え自り有年、今南畝に適きて、或いは耘り或いは耔り、黍稷も薿薿たる。
攸こに介い攸こに止る、烝もろの我が髦士。我が斉を以って明く、我が犧羊を与して、
以て社し以て方す。我が田の既に臧しく、農夫も之れ慶ぶ。琴瑟撃鼓し、
以て田祖を御し。以て甘雨を祈り、以て我が稷黍を介り、以て我が士女を介う」
「広大な我が田地は、年々に膨大な収穫を上げる。そのため去年までに獲れた古米を
農夫たちにやって食わせてやることすらできる。もう相当な昔の頃から、田畑の畝に
赴いては雑草取りや土かけを心がけてきているため、穀物も毎年わんさと生い茂る。
数多の農夫たちもここに挙りて、憩い止まる。うちの田の質の良さが評されて、
生贄となる羊すらもが献上され、社稷が四方に作られ、土地の神が祭り立てられる。
すでに相当に上質となっている我が田地のために、農夫たちも喜ぶ。琴瑟を奏で
太鼓を打ち、田畑の神を祀り、恵みの雨が降ることを祈り、これからも末永い五穀の
豊穣を祈り我らが子女の保護すらをも希う。(良農はただ恵みの雨を待ったりする
だけでなく、常日頃から雑草取りや土かけのような自助努力をも欠かさないでいる。
恵みの雨を待つに際しても、田畑の神を祭り上げて祈る程もの積極さでいる。
自然を神として祭り上げることを禁ずる聖書信仰の下では、それも不可能となる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・北山之什・甫田より)

返信する

212 2013/10/26(土) 14:27:57 ID:CuSzU4Gb.k
キリスト教徒と全人類の関係は、自然界の捕食者と被捕食者の関係に相当するものでもなければ、
狩猟者と獲物の関係に相当するものでもない。直接的に言えば、強盗殺人犯と被害者の関係であり、
多少比喩を踏まえてみるなら、悪性のガン細胞や寄生虫と宿主の関係であるといえる。

自然界の生態系を破壊しない程度に捕食活動を行う鳥獣などとも違い、自他を同時に破滅に追いやる
ほどもの破壊活動にすら及ぶものであるわけだから、その被害者となるような相手にとっても、到底
共存を許容できるような代物ではないことが明らかだといえる。ただ今までは、地球社会がキリスト
教徒の残存を許容するほどにも十分に広かったから、キリスト教の存続も可能だっただけのことであり、
人類社会の基盤がこれ以上拡大のしようもない程に地球全体を覆い尽くしてしまった今となっては、
自他への致死級の害悪を「開発目的」として何とか正当化して来たキリスト教もまた、
当然のこととしてこの世から絶やされねばならない時節と相成っている。

地球社会を傾けさせる程もの過剰な我田引水によって、自分たちの財産だけは膨大な分量に上っている手前、
キリスト教の断絶は免れられないにしたって、それによる財産の散逸までは避けたいというのが、
資本主義国のキリスト教徒の偽らざる本音であるに違いない。しかし、その極度の富の寡占こそが、
貧窮が原因での人口爆発を招いてしまう程もの世界の経済的荒廃の原因となってしまっている
わけだから、富の再分配のための一定度以上の散財はやはり避けられたものではない。

ただ、その結果として自分たちが、今の資本主義後進国並みの経済的疲弊に置かれたりすることを
危惧するのは馬鹿げている。そのレベルの疲弊をこの世から無くしていくための散財であるのに、
散財の結果として自分たちまでもが乞食同然の生活水準と化してしまうなどと考えるのは、それこそ
極端から極端への振り切れというやつで、そのような極論によってでしかものを考えられない
のであれば、節度を保った富の分配のための政治的な主導者になる資格もないといえる。

返信する

213 2013/10/26(土) 14:30:57 ID:CuSzU4Gb.k
富の再分配=共産主義と短絡して、人々が旧共産圏の人間のような極度の怠惰状態に陥ってしまうことを
危惧するような人間もまた、富の再分配後の世の中の堅実なビジョンを思い描けないレベルの人間であるため、
これまた主導者となるに相応しくないといえる。「働く以上はガッポリ稼ぎたい。稼げもしないのなら
働きたくもない」などというような、着実な勤労意欲を欠いた商人気質が世の中に蔓延してしまっていたり
するものだから、世の中が社会主義的な情勢となるや、一挙に労働意欲を低下させてしまうことともなる。
そのような問題に対する解決策を、共産主義もついぞ用意することがなかったわけだから、理想上の理念
としてそれを掲げたりするようなことからあってはならないといえる。至上のものとして尊ぶべきなのは
むしろ、対価に相応以上の働きすらをも常に心がけようとする良農や名工の誠実さのほうであり、
それを共産主義的な労働者保護の観点から殺ぎ落としてしまうようなことがあってもならない。

完全な自給自足状態で、数千万人に相当する人口を狭い島国で着実に養っていた江戸時代の頃の日本の
あり方などが、経済的な自己完結状態が確立されてしまったこれからの地球社会の模範とする上で格好のもの
となっているが、だからといって、誰でも江戸時代の治世を模倣できるのかといえば、決してそんなこともない。

資本主義や共産主義みたいな、極端から極端への振り切ればかりを持て囃すイデオロギーばかりを
信奉して来たような人間ほど、何かにかけて中庸を主としている江戸の治世を見倣うこともより困難となる。
稼ぎすぎに対する戒めをそれなりに布令しながら、人々の勤労意欲も旺盛なままにあらしめたその絶妙さは、
初代江戸幕府将軍徳川家康公の、苦労続きや質素倹約を基調とした生涯を多くの人々が模範とすることで
成り立っていたものでもあるわけだから、自分個人がスターリンや毛沢東の如き享楽三昧の生活を
送りながら政治主導者になろうとするだけでも、決してうまくいかないことが間違いない。

返信する

214 2013/10/26(土) 15:13:54 ID:0D0RtvU6mo:au
「権力者こそは最大級の経済的繁栄と共に」という考えは、西洋はおろか、中国などですら、何の疑問も
抱かれることなく是とされて来たことである。最古級の夏の禹帝などの頃には、自らの衣食住を悪しくしながら
祭祀だけは豪華に執り行ったなどの伝説があるというのに、およそ春秋時代ごろあたりから、権力者こそは
経済的な成功者ともなることが常識と化してしまった。そのため、贅沢を嫌った漢の高祖劉邦すらもが、
皇帝としての威厳を示すための豪華な宮殿を臣下が勝手に造営することをも許容せざるを得なかったのだった。

そのような、洋の東西を問わぬ、公権力者と贅沢の癒着の是認という風潮から、もう卒業して行かねばならない。
日本の武家や公家のように、「お上」でありながらさしたる私財も持たないでいるような廉潔さこそが、
これからの地球社会の統治者たちにも要求されている。日本では伝統的なあり方だが、世界的には非常に
珍しい権力者の姿なので、やはり日本人こそが率先してその模範を示して行くことが必要となるのだろう。

返信する

215 2013/10/26(土) 15:16:56 ID:0D0RtvU6mo:au
「孟子致為臣而帰。王就見孟子、曰。前日願見而不可得、得侍、同朝甚喜。今又棄寡人而帰、
不識可以継此而得見乎。対曰、不敢請耳、固所願也。他日、王謂時子曰、我欲中国而授孟子室、養弟子以万鍾、
使諸大夫国人皆有所矜式。子盍為我言之。時子因陳子而以告孟子、陳子以時子之言告孟子。孟子曰、然。
夫時子悪知其不可也。如使予欲富、辞十万而受万、是為欲富乎。季孫曰、異哉子叔疑。使己為政、不用、
則亦已矣、又使其子弟為卿。人亦孰不欲富貴。而独於富貴之中、有私龍断焉。古之為市也、以其所有易其所無者、
有司者治之耳。有賤丈夫焉、必求龍断而登之、以左右望而罔市利。人皆以為賤、故従而征之。征商、自此賤丈夫始矣」
「(長文なので略称取意)孟先生は斉で政治顧問をしていたが、意見が聞き入れられないので立ち去ることにした。
斉王の引き止めにも軽く愛想しつつ応じない。後に斉王は『孟先生の学団をを一万鐘(約五千七百石)で養いたい』
とも言った。それを人づてに聞いた孟先生は言われた。『十万鐘(約五万七千石)で養われることすら断ったことが
あるというのに、どうして一万石程度に誘惑されようか。昔、丘の上から市場を鳥瞰してあぶく銭を掠め取る者が
あった。その賤しい男のせいで商人にも税金がかけられるようになったというのに、どうして私がそれと似たような
真似をすることが許されようか』(人間が鳥瞰によってまで利益を追うことの浅ましさを身を呈して主張している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・一〇)

返信する

216 2013/10/27(日) 13:50:35 ID:gA1MvsCVHo
人間が重宝しようがするまいが、塩は数億年の長きに渡って安定した組成を保ち続けるものだし、
地においても殺菌作用や氷結防止作用を発揮し、海に至っては、海洋の生態系の腐敗化を予防する
極めて重大な役割をも帯びている。しかも、その海において我らが人類を含む、あらゆる地球生物の先祖
となる原生生物が生じもしたのだから、まさに塩こそは、あらゆる命の母であるとすら言うことができる。

それ程もの塩という成分の偉大さを買って塩を尊ぶというのであれば、それはそれで結構なことだと
言えるが、ただ「調味料として有用だから」とかの些末な理由だけで塩を重宝がるのでは、まだ塩の価値
など全く分からないままでいたほうがマシな程もの見識の狭さに陥ってしまっているものだといえる。
それはちょうど、自らの親の真の偉大さを察せないままでいながら、ただ「子供の頃に養ってくれたから」
とかいった理由だけで形式的に親に感謝したりするのとも同じ「親の心子知らず」状態となるのだといえる。
それだけでも、すでに年老いて精力も弱っている親などからすれば嬉しいことともなったりするわけだが、
無限の愛情を注がれつつ生み育てられた子の側としては、決してその程度の心がけだけでいていいはずはない。

何億年もの間、安定した組成を保ち続ける塩すらをも「有用だから価値がある」「無用なら価値がない」など
という安易な判定下に置いてしまったりする所にこそ、本人自身の救い難い自意識過剰がくすぶってもいる。
塩という物質の安定性と、自らの命の儚さとを冷静に比較してみることもできないほどもの客観的視点の
欠如がそこにはあるわけで、それはちょうど、強盗殺人犯が無罪放免となった場合の被害者の気持ちも
察することができないような思いやりのなさにすら直結しかねない問題点でもあるのだといえる。

科学や博物学の問題を考察する場合に限らずとも、人間にはあらゆる問題を実地に即して考えられるだけの
能力が備わっている。その手の能力の低い婦女子ですらもが、仕事上の金勘定などは間違いのないように
心がけたりするし、キリスト教徒級の概念夢想没入者もまた、脳器質からの精神障害でもない限りは、
実地に根差してものを考えるということを心がけようと思えば心がけられるようになっている。

返信する

217 2013/10/27(日) 14:23:44 ID:gA1MvsCVHo
しかし、同時にそれを「億劫なこと」として忌み避けたがる人間が多いのも事実である。
できることなら、1+1は3や4でもあって欲しい、塩が普遍的観点に即して偉大な物質であることなど
よりも、自分にとって塩が有用かどうかのほうを問題にしたいと考える。そしてそれが許されることこそは
「精神の自由」であるとし、時にはある種の宗教教義によってそれを金科玉条化してしまったりすらする。

それこそは、人間を真に普遍的なものから遠ざける罠であるに違いなく、そのような意味での
「精神の自由」に溺れた結果として、人は価値なきものを価値ありと見なして、好き好んでゴミを
喰らうような状態へとすら陥ってしまうのである。本人はそれでも満足面でいたりするわけだが、
傍目に見れば明らかに愚かしいし、普遍的な価値に欠けるものばかりを好き好んだ結果として、
本人たち自身が気づきもしない内からの潜在的な不満を抱え続けることともなる。国宝級や重文級の
名刀を所有するのと、二束三文のなまくら刀を所有するのとでは、やはり本人たち自身の満足の
度合いに大きな差が出てくるわけで、いくらそれを「俺にとってはこれが価値のある刀なんだ」
などというような自己満足によって埋め合わせてみようとしたところで、そのような自己満足を奮起
させておくこと自体がこれまた、本人にとっての不健全な心労となり続けて行くことが間違いない。

人として手に入れられる内でも、最大級の満足を手に入れるためにこそ、普遍性や実地に即して物事を
見計らうことを常日頃から心がけておく必要がある。それを逸脱するのもまた自由であるとした所で、
そこにはより大きな不満が待っているだけである。多量の塩分を含む海水こそはあらゆる命の源であるからと
いって、海水を飲んでみた所で美味くも何ともないし、それで渇きが癒されるようなことも決してないのだから。

返信する

218 2013/10/27(日) 14:26:46 ID:KKyRuBRgyM:au
「天を祭るに、地を掃いて祭るは、其の質に於いてするのみ。醯醢の美、煎鹽之の尚びあるは、天産を貴べばなり」
「天を祭るために、地を祓い清めるのは、その素地から清めるためである。塩漬けの供物による荘厳や、
精製された塩そのものを貴ぶ儀礼があるのも、天からの恵みを貴ぶからである。(天日塩は日光によって
精製されるため。人間が踏みつける地から尊ぶ心がけがあってこそ、真に天を尊ぶことができる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)

返信する

219 2013/10/29(火) 14:14:48 ID:KCTvPjw6Uc
まったく頑是無い小児などでもない限りは、罪というものが全くの自明なものであることを
多少なりとも察知する。まともに成長して大人になれば、自明なものとしての罪や徳への理解が、
世の中の一員としてまともにやっていける程度のものにまで洗練されるし、さらにその上の
賢人や聖人とまでなれば、自明なものとしての罪徳の把握が完璧なものとなるために、まるで
本人自身の倫理的判断が神通自在のものであるかのようにすら見受けられるようになる。

そのような倫理判断の洗練を、実地に即して最も洗練させるのが仏教であり、善悪などは
人間たち自身が俗世で自明に取り決めているものでしかないからこそ、「虚空」であるともする。
その、本質が虚空である所の善悪罪徳をシラフで適切に扱うことで、世の中をも吉法へと赴かせる
ために、仏僧たちは善悪をも諦観するための出家修行に励むわけである。それは確かに、朱子や
ヒンズー教徒などがいう通り、ストイックすぎて忌避されかねないような姿勢でもあるわけで、
そのせいで大陸国である中国やインドなどでは仏教が十分に根付かなかったりもしたわけだが、
ことに、倫理判断の「質」の洗練という点では、一切の虚飾を排した仏教的な姿勢こそが最上で
あるのも確かなものだから、子供への教育すら仏僧が主体となって行うほどにも仏教帰依が篤く
嗜まれて来たこの日本こそが、清濁併せ呑むための西洋文明の取り入れと、それに相反するが
如き邪教信仰の拒絶とを両立することすらもができたのである。(世界的には、中国のように
邪教の侵入を徹底的に防ごうとしたせいで文明発展が立ち遅れたり、韓国のように西洋文明
全体を大々的に取り入れようとしたせいで邪教信仰まで取り入れた結果、国民が禽獣同然の
倫理観の持ち主ばかりと化してしまったりするのが普通となっている)

親鸞聖人の「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」の一言が、念仏信仰と共に
人々に広く行き渡っただけで、二度と善悪の分別が完全に実質を逸脱したりすることがなくなる。

返信する

220 2013/10/29(火) 14:18:19 ID:KCTvPjw6Uc
悪行はありのままに苦しみだから、悪人こそは来世で往生させて頂けるとなれば、苦しむのが
イヤだからこそ億劫な善行を為したがらない悪人なぞも、自分がこれ以上苦しみたくないからこそ
悪行をも控えるようになったりする。それはもう、自分がそうであると気づきもしない内からの、
自明なる善悪の分別の体得であるわけで、本当の所をいえば、阿弥陀如来からの救いなどが
あったのではなく、自分自身が倫理的判断力を成長させた結果なのだといえる。

確かに、神仏からの救いの如き方便が、そのように自明な善悪の分別を助成することもあるわけ
だけれども、決して必ずしもそうであるわけではなく、むしろ人並みの分別すら損なわせてしまい
かねないような悪巧方便の象徴となるような神もまた、残念ながら「定義」されてしまっている。
善悪や罪徳はあくまで超越神の采配によるものであるとし、なおかつその超越神を形而上に
置いて、人間たち自身による自明な判断と、神の采配に基づく判断との妥当な整合性などを
あえて無きものとしてしまう。それでいて、まったく人間性を欠いた超越神がこうだと
定義する善悪の分別こそを、信者にまで強制しようとする類いの信教こそが、人々から
自明な善悪の分別を奪い去って、精神的な盲人と化さしめてしまう悪性を帯びている。

そのような神こそは、「存在しない」としたほうがマシな部類の神でもある。神も仏も一切
ナシとしてしまうニヒリズムにまで行き過ぎてしまったりする必要もさらさらないが、上記の
ような論理構造で以って、人々から自明な倫理判断の能力すら奪い去ってしまうような神こそは、
むしろ実在しない神、存在すべきでない神であるとしたほうが、誰しもにとって有益となる。

これだけ科学が発達した世界で、神仏信仰など流行らないほうが当たり前というものだが、
それでもなお信敬に値する神仏がいるとすれば、それは人間にとって有益な神、信ずることに
害のない神であるに違いない。信じた結果、人と世と我とをかえって精神的利益的に損ねてしまう
ような神こそは、人間自身が打ち克って、この世から絶やし尽くすべき神であるに違いない。
「神である以上は尊い」などという、信教絶対主義の破棄などと共に。

返信する

221 2013/10/29(火) 14:22:28 ID:7dSW7j8Qbc:au
「爾じ善有れば、朕れ敢えて蔽わず。
罪朕が躬に当れば、敢えて自ら赦さず、惟れ簡ぶこと上帝の心に在り」
「君らに善い所があるのであれば、敢えて私はそれを隠そうとせず、自分に罪があるのであれば、
あえて私はそれを赦そうとはしない。それこそは上帝の心にも適ったあり方であるのだから。
(上天に仮託している所はあるが、聞いただけでも誠実であることが分かる姿勢ともなっている。
このような神託の用い方こそは、これからも許されて然るべきものだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・湯誥より)

返信する

222 2013/10/30(水) 15:13:31 ID:K2a8neVM6E
テッド・バンディのような異常犯罪者が、自らの罪状をあたかも他人事のように自供することがある。
それは、苦し紛れの責任逃れから来る異常発言であるわけで、ある程度以上に責任意識を欠いた人間が、
自らの自主的な言行を他人に偽託しようとする場合があることを示す実証例ともなっている。

「陰徳を積む」といい、自分が為した善行をあえてひけらかさないということが徳となることもある。
それこそ、自らの悪行を他者に偽託しようとする企てなどとは真逆のあり方であるわけで、片や聖賢の
所業ですらあるといえる一方、片や道を踏み外した小人のそれであるといえる。どちらがより良くて
どちらがより悪いのかを改めて論ずるまでもないが、どうあっても孤独に耐えねばならないのが陰徳の
積み重ねである一方、宗教の神などに責任を仮託すれば群れることも可能となるのが、自らの悪行の
責任逃れでもある。そう聞いてみれば、仁徳の志しも皆無に等しい小人などからすれば、責任逃れを
うまいこと講じられていたほうが自分にとってマシであるかのようにすら思われかねないのでもある。
そこは、善行こそが自らの安楽ともなる一方、悪行こそは自らの辛苦ともなるという罪福異熟の法則を
計り知れる者だけが真に克服することのできる表向きの障壁であるわけで、その障壁を乗り越えられも
しない内から陰徳を積もうなどとしてみた所で、味気なさばかりが残ることとなるに違いないのである。

「陰徳」ではなく「陽徳」であれば、「徳は孤ならず、必ず隣り有り(里仁第四・二五)」ということでも
あり得る。それこそは、儒学に根ざした君子階級としての大成と共なる善行であったりするわけで、
これこそは、孤独にも耐えねばならない陰徳の積み重ねなどよりも、万人が目指しやすいものである。
しかし、陽徳だけではどうしたってそのための善行も皮相的なものと化してしまい、陰徳すらをも積む
場合ほどの成果を期待できるものでもない。それは、儒学ばかりを国是として来たここ2000年来の中国
以上にも、仏教帰依などを通じての陰徳の積み重ねに励んで来た日本のほうが、外界からの侵略にも
よく耐えて、自国内での権力腐敗などをもそれなりに防げて来ていることからも分かるとおりである。

返信する

223 2013/10/30(水) 15:16:57 ID:K2a8neVM6E
古代中国においてですら、列子が人気取りのための尽力ばかりに終始することを戒めるなどしている。
陽徳を積むためにこそ、陰徳の養いがそれなりに必要ともなることは、古代の頃から儒者もまた認めて
来ていることである。けれども、あくまでそれを「ついで」とするのが儒者の姿勢であるものだから、
儒学ばかりに専らであれば自然と、陰徳の積み重ねのほうが疎かになりかねないのである。そこが、
単一の教学としての儒学の欠点であるとは言えるわけだが、さりとて陽徳の積み重ねが、悪行を
邪神に偽託する信者同士で群れるほどもの害をもたらしたりするわけでもない。いずれも、協力者を
募って事業に励むような所があるのは共通しているわけなので、どうしても陰徳を積み重ねて行く孤独
に耐えられないとした所で、まだこの内では陽徳の積み重ねこそを志したほうがいいことには違いない。

仏教が、自分たちと同じコーカソイド圏であるインドで生まれた教学であることもあって、欧米人なども、
儒学よりはまだ仏教に傾倒していたがる所がある。実際、仏教のほうが儒学以上にも普遍的な優良さを
帯びている所があるわけだけれども、その理由となっているのが他でもない、儒学以上にも陰徳の積み
重ねを重んじている所でこそある。誰からの評価を期待するわけでもなく、完全なる孤独下での善行に
取り組んでいく所にこそ仏教の本懐があるわけだから、聖書信仰のせいで群れたがりの性向が深く
根付いてしまっている欧米人などにとっては、それなりに群れることを容認する儒学以上にも、
実践が困難であるという面で、よりとっつき辛いものとなっているのである。

責任逃れのための偽託対象としての邪神の配下を離れて、そこから急に出家者並みの孤独へと没入
させられたりするのならば、それこそ自殺級の鬱屈にすら駆られかねないだろう。そんな所ばかりを
目指す必要は全くない。独り立ちする所もあれば、未だに人と依存し合うところもある、節度ある
真人間のあり方にこそ立ち戻ることで、変節過剰による苦しみなどをも避けて行けばいいのである。

返信する

224 2013/10/30(水) 15:18:49 ID:moAYEQQJw.:au
「曾子曰く、身は父母の遺体なり。父母の遺体を行う、敢えて敬せざらんや」
「曾先生『わが身は父母の遺産であるのだから、父母の遺産を言行させる上で、どうして恭敬を
尽くさないことが許されようか』(父母への敬意を尽くす、その孝心によって自らの行いをも制する。
実の父母への敬意に基づくからこそ、自主的な心こそが自らの言行規範ともなるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)

返信する

225 2013/10/31(木) 13:24:41 ID:0zmxRlIEa.
土地の良し悪しによって作物が何十倍もの収穫率の差を広げたりすることはないが、
荒地に至るまでの灌漑や治水によって耕作可能地域を増やすことで、以前の何十倍
もの収穫を上げたりすることならできる。それは確かに、始めからいい土地だけを
選り好んでそこでの豊作を企図したりするよりも多大なる労苦がつきまとうもの
ではあるけれども、それでこそ何百年、何千年という長期にわたる倍々級の
豊作を着実に企図して行くことができるのでもある。

そうであることが太古の昔からわきまえられていたものだから、東洋では治水や
灌漑のための土木事業が重視され、それらを大工任せにしたりすることもなく、
君子階級が率先して推進して行くようなことすらもが頻繁にあったのである。

一方で、そのような着実な社会の繁栄のための土台作りなどを嫌がって、いい
土地を選り好みしての農産や商売などに終始する者もまた、地主や豪商などの
形であり続けたのである。戦国時代における敗北以降、庄屋身分まで身をやつして
土佐の山間に逃げ込んでいた旧長宗我部家臣らが、山内からの懐柔に徹底して
反抗し続けたのも、土佐藩家老の野中兼山が推進したがっていたような土佐での
土木事業に協力することを特に嫌がっていたからでこそあった。それでいながら
士分の株を金で買うというあこぎな手法で一応は武士に返り咲いた土佐藩郷士らが、
米英の暴力の嵩にかかっての倒幕の主導者となるや、東奔西走の商売働きで巨万の
富を稼ぎ上げ、今に至るまでの三菱財閥の源流を形作るに至った。その三菱もまた、
今でも東京の丸の内界隈に数多の自社ビルを構えて日本の商工業の根幹を牛耳って
いたりするように、東洋においてですら、自分たちだけでいい土地を独占して狭隘な
私益を貪りたがるような傾向が、肥大化しようなものなら肥大化しかねない体のまま
でいる。それは、いい土地を選り好んでそこに安住することを宗教教義に据えている
聖書信仰などばかりに特有の発想でもない、私益にしか目がないようなつまらない
小人にとってはみな共通する類いの、ありきたりな性向であるのだといえる。

返信する

226 2013/10/31(木) 13:30:13 ID:0zmxRlIEa.
一方で、もうこの世界にあえて進取するに値する程もの、好条件の空き地
などというものもほとんどなくなってしまった。莫大な富をもたらして
くれる程にも広大かつ好条件の土地などというものはもう、全て手垢が
付いてしまっているために、いい土地を選り好んだ結果としての一攫千金
を企てる余地などは、もはやこの地球上から絶えてしまったのである。

地主といい豪商といい、ただ土地を選り好みするような性向によってこれ以上の
経済的成功などを期待する余地はもう金輪際ありはしない。それでいてなおかつ、
一部の人間が世界中の好条件の土地を独占することでの私益の巻き上げに奔走した結果、
ほとんどの地球人類に十分な利益がまかなわれなくなって、困窮や餓死やその反動での
人口爆発などといった、致命的な問題を引き起こすことともなってしまっている。

まず第一に必要なのは、土地を選り好みすることでの私益の追求などという
発想を是とするような幼稚な性向から誰しもが卒業することである。その次に、
あまりにもその手の企てによって多大なる公益上の損害をもたらしてしまっている
ような地主だの豪商だのに対しては、その土地利権を剥奪や制限する措置を採る。
地権に拠りすがりたがるような人間は卑人として慣習的な差別の対象とすらし、
今以上にその手の人種が増大してしまうようなことが決してないようにする。

さらにその上で、かつての東洋の君子階級が推進していたような、公益寄与のための
土木事業によって農作物の収穫量を底上げするなどして、飢餓問題をも克服して行く。
未だに地主や豪商の横暴がまかり通っているような状態のままでそのような事業を
推進した所で、人工的に開発した好条件の土地をまた独占しようとするような輩が
現れかねないから、上に書いたような地主や豪商への抑圧措置が当然、先に必要となる。
「人も運に乗じては悪を為すといえども、その悪十成する時はこれを討つ
(兵法家伝書)」とは、まさにこのことを言うのではなかろうか。

返信する

227 2013/10/31(木) 14:11:35 ID:OGaKwDrp5g:au
「広土衆民は君子之れを欲するも、楽しむ所は焉こに存せず。天下の中に而て立ち、
四海の民を定むるは、君子之れを楽しむも、性とする所は焉に存せず。君子の性とする所は、
大いに行われると雖も加わらず、窮居すると雖も損われず、分定まるが故なり」
「広い土地や多くの民は君子の欲する所ではあるけれども、それだけで楽しんだりすることもない。
天下の中心に王君として立ち、四方の民たちを取りまとめるのは君子の楽しむ所であるけれども、
それだけでもまだ君子の性分とするに足るところでまではない。君子が性分とする所は、
外的な現象が盛大だったり貧相だったりすることで増減したりすることのない、分をわきまえた
所にこそある。(君子にとって、天下全土を治めることは、個人的に広い土地や多くの民を
得たりするよりも楽しむ所なのである。ただそれもまた、分をわきまえる本然からの性分から
すれば瑣末なことである。いわんや、一部の土地が特に好条件だったりすることをや、である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・七より)

返信する

228 2013/11/01(金) 13:42:03 ID:JT2mbYdp.w
あまりにも難解すぎるものだから、方便を用いてその教義が説かれる教学の第一
といえば、なんといっても仏教である。それは、本当に難解なことをできる限り
平易に説こうと努めているものであり、決して、真義そのものが本当は簡易なもの
であるのに、それを出し惜しみして方便での布教を行ったりしているのでもない。

逆に、あまりにも平易な道徳学上の説話をありのままに提示しているものだから、
知識の上では成長したつもりになっている精神的な未熟者などから侮られやすい
のが儒学である。そこで把捉されている道理もまた、頑なに守り通しすらすれば
数百年規模の泰平社会を実現して行くことができるほどにも上質なものなわけだが、
上記のような理由で儒説が侮られた結果として、道理を蔑ろにした小人どもが、
自分たちの妄動で世の中を傾けてしまったりもするのである。そのため、道理
以上に普遍的だが難解至極な絶対真理そのものを把捉している仏教の受容などをも
兼ねることで、人々の道理への侮りを防止するように努めたりもするのである。

真義そのものがあまりにも稚拙でろくでもないために、それ自体の公然への流布は
避けて、迂遠な比喩などによって頭の悪い信者を取り込んでいく類いの邪教という
ものもまたある。そのような邪教に溺れてしまっている人間こそは、平易な道理を
ありのままに把捉して提示している儒学の価値などが全く理解できない上に、儒学
こそが特筆して拒絶感を催させらる教学ともなる。儒学を理解するような学問姿勢
や信仰姿勢でいたならば、真義そのものがあまりにもろくでもない自分たちの信教
の真義すらをも直視しなければならなくなるから、儒学を少しでも理解しようなど
とする時点ですでに、本能的な拒絶意識を催させられることとなるのである。

返信する

229 2013/11/01(金) 13:46:12 ID:JT2mbYdp.w
そのような、真義そのものへの理解を避けて、比喩表権の嬉しがりに終始して
いたがろうとするような姿勢でいるものに対しては、仏教の方便すらもが必ずしも
良い影響をもたらすとは言えない。実際、新興宗教系の仏教団体などが、そのような
姿勢で以って仏教の方便を悪用して不当利得を得たりする場合もある。仏教の方便も
元より、真理そのものを理解するとまではいかないような凡夫を救いとるためにこそ
考案されたものであるわけだから、あえて真義から目を背けて方便や比喩ばかりを
嬉しがっていようとするような人間までをも吉方へと導けるとは限らないのである。

真義を理解しようにも理解できないものだから、仕方なく方便や比喩をあり難がる
ことに終始するというのは、仕方がないことである。しかし、あえて真義を理解
しようとはせず、真義の比喩表現のほうばかりを嬉しがっていようとするとなれば、
これはもう、真義が邪悪な邪教の活動を活発化させる以外の如何なる意義をも持ち
得ないわけだから、そのような姿勢だけは決して許されるべきでない。できること
なら真義を理解することに務めるが、それがどうしたってできない場合に限って
方便や比喩のほうを珍重するという姿勢で、誰しもがあらゆる教学を受容して行く
ようにするのでなければ、宗教などは一切信じないでいたほうがまだマシとなる。

如何なる教学であっても、まずはその真義をありのままに理解することを第一
として行くのであれば、当然、儒学ぐらいは親しみながら理解することができる
のでなければならない。儒学ほど、簡単かつ重大な道理をありのままに自家の
本義に据えている学説も他にないわけだから、それへの拒絶意識すらをも催すと
いうのであれば、もはや一切の学問や宗教を受容しないままに奴隷身分ででもいた
ほうがマシな人間であることが間違いない。そうであるにもかかわらず、真義を
ひた隠しにして比喩表現を嬉しがるような類いの邪教を受容したりするよりは
まだ、一切の教学への傾倒を禁止された無学無信の人畜ででもあったほうがよい。
(もちろん、そんな人間からしてこの世にいないほうがマシであるには違いない)

返信する

230 2013/11/01(金) 14:11:37 ID:YbxahmX9.Q:au
「子曰く、書は言を尽くさず、言は意を尽くさず。然れば則ち聖人の
意は其れ見る可からざるか。子曰く、聖人は象を立てて以て意を尽くし、
卦を設けて以て情偽を尽くし、繋辞を以て其の言を尽くし、変じて之れを
通じ以て利を尽くし、之れを鼓し之れを舞して以て神を尽くす。(一部既出)」
「孔先生は言われた。『どんな文書も言いたいことを完全には示しきれないし、
どんな発言もその本意を表現し尽くすことはできない』 それでは聖人の本意と
いうのは永遠に察することができないのだろうか。それについて孔先生はこう
答えられた。『易を把捉した聖人は象を立てることでその本意を尽くそうとし、
卦を設けて情偽の綾を尽くそうとし、繋辞によって言葉での説明を尽くそうとし、
卦の変化を通じて利害の法則を示し尽くそうとし、これを鼓舞することで神異の
法則すらをも示し尽くそうとしたのである』(要するに、聖賢は物事の説明を試みる
以上はその言意を尽くして、ひた隠しにしたりせずにいようとするというのである。
書や言自体が意を尽くし難いものなのだから、そう心がけることが位相的にも正しい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)

返信する

231 2013/11/02(土) 14:46:08 ID:HN/dOTtwEA
善は、本質的には楽しみである。実際に善行を為して、目的を実現するための努力を
為す過程で苦労させられることなどもあるとした所で、本質的には、善行も楽しみである。
万人を利するための公田での耕作にも多大なる労苦が伴うが、さりとて心中は清清しくいられる。

一方で、悪徳商人として面従腹背の偽善的なサービスで客から利益を貪り取ったりすることは、
たとえそれがへつらい笑いを浮かべる程度の軽作業であっところで、心中からの苦しみはより
甚だしいものとなる。そのような、自らの行いが善行でないが故の根本からの苦しみというのは、
いくら苦しんだからといって報われて然るべきような苦しみともならない。我田引水の如き
不仁の所業のために心中から苦しんだとして、それでも仮初めの私利私益を手に入れる程度の
報いは期待できるとした所で、総合的にはプラスマイナスゼロ以下の損失となり、最終的には
何もしないでいたほうがマシだったほどもの心身共なる破滅に見舞われることが避けられない。

善行の過渡的な苦しみと、悪行の本質からの苦しみとでは、どちらのほうがより多大なる苦しみ
であり得るかといって、それはむしろ、善行の過渡的な苦しみのほうである。なぜかといって、
善行は本質的には楽しみだから、より多大なる苦労すらをもその楽しみで中和しつつやり過ごし
て行くことができる一方、悪行の本質からの苦しみのほうには、そのような中和作用が一切期待
できないものだから、こじんまりとした苦しみまでしか許容できないという事情があるからだ。

罪悪の苦しみは敢えて避けて、善行の過渡的な労苦をやり過ごすための努力こそを心がけてきた
東洋人が、西洋人などから見ればストイック過ぎて取っ付きがたく思われるのもそのためである。
漢字や梵字一つとっても、簡素なアルファベットに慣れて来た人々たちからすれば、あまりにも
難解な意味を込めすぎているように思われるし、それを日常から多用していたりするのも常軌
を逸したあり方のようにすら見受けられるのである。しかし、それは東洋人にとってはごく
当たり前のことであり、その程度の言語使用のための努力すら怠るような不誠実さによって

返信する

232 2013/11/02(土) 14:50:47 ID:HN/dOTtwEA
人々が思い上がりを募らせたりすることをも未然に防いでいる。それは、難解な言語利用に
よってまで言葉を善用して行くことが一定以上に楽しいからこそそうしていられるのでもあり、
ただただマゾヒストの如く苦しんでいたりするのとは全くわけの違ったあり方なのでもある。

東洋人は主に、本質的には楽しみである真の善行の、過渡的な労苦こそを率先して負って行く
努力を積んで来ているし、中東人もまた、そこまで行かずとも、罪悪の苦しみこそを率先して
負っていくようなことまでは避けるようにして来ている。そして西洋人こそは、罪悪の苦しみを
善行の苦しみであるなどと転倒夢想して、そのような苦しみこそを積極に積み重ねて行く致命的
な過ちを犯し尽くして来た。当然、そのような苦しみを積み重ねて来たことの報いが希望に
満ちたものであったりしていいはずもなく、むしろそのせいで地獄に堕ちるぐらいが妥当な
こととなっている。罪悪こそを善行と勘違いしての過ちの積み重ねを喚起して来たかの邪教も、
信者の楽果を保証するものなどでは決してあり得ず、せいぜい信者たちの心神喪失状態を
原因とした、情状酌量の材料にしてやる程度の役割しか持ち得ないものである。

真の善行における過渡的な労苦こそを率先して積み重ねて行くことこそは、人間にとっての
活動規範としての正解であった一方、罪悪の苦しみなどを率先して積み重ねたりすることは、
人間にとっての紛れもない過ちであった。常識的に考えても容易くそうだと分かる上に、
真理の所まで入念に突き詰めてみても、やはりそうだったのである。随分と当たり前なことの
証明のために、人類も二千年以上に渡って無駄な時間を費やしてしまったものだと言えるが、
残念ながら、世の中にはその程度の常識的な判断も覚束ない不埒者が多数いるのも確かなこと
だから、そのような連中に二度とでかい顔をさせないための遠回りをあえて人類が試みたのだ
とすれば、多少は危うい道草を食ったことにも意味があったのだと考えられるのではなかろうか。

返信する

233 2013/11/02(土) 14:51:31 ID:.0WWlSBkT2:au
「徳を尊び義を楽しみ、則ち以て囂囂たる可し。
(以下既出)故に士は窮しても義を失わず、達しても道を離れず」
「仁徳を尊び道義を楽しんで、堂々としていればよい。それでこそ、君子士人たるもの、
貧窮した所で義を失わず、栄達した所で道を踏み外したりしなくても済むのだから。
(義を楽しんだりしていられる所があるからこそ、善道を踏み外すこともないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・九より)

返信する

234 2013/11/03(日) 13:19:30 ID:ZNUqQlag3.
信教が許容される世の中であろうがなかろうが、人間社会を司る倫理規範はどこまでも
自明なものでなければならない。そして、そのような自明な倫理法則こそを勉学精進に
よって体得している人間こそを賢聖として尊びつつ模範として行くのでなければならない。

真理を司るとされる神仏なども、そのような自明な倫理法則をより尊びやすいものとして
象徴化したものでこそあるべきであり、決してそこから完全に逸脱しきったものなどでは
あるべきでない。人間たち自身が自明に見極めることのできる倫理法則を非とする邪神
とまでなれば、これはもう積極的な排斥の対象とすらして行くべきであることが確かであり、
そのような邪神への狂信が蔓延してしまったりしないようにするためにも、世の中の側が
神仏並みかそれ以上にも自明な倫理規範こそを総出で尊んでいくようにしなければならない。

人間社会にとっては、自明な倫理規範に従うことが主であり、その助けとして神仏を
崇敬したりすることが副である。だからこそ、神仏を主に司ることを職業とする僧侶や
神官が特別に置かれもするのである。昔なら儒者などが同様なものとして存在すること
もあったが、儒学道徳の基本などは誰しもが主体的にわきまえていているのが当然で
あればこそ、僧侶や神官ほどにも堂に入った職業として広まることはなかった。儒者
といえば、為政者や教師なども兼任するのが主であり、むしろそれらのほうが本業で
あるのが常だった。ただ、一般人までは知る由もないような儒説の秘奥の部分に至る
まで精通する特別要員として、特に儒学が重宝された江戸時代などに多少派閥を形成
することがあるだけだった。(浪人の再就職先として斡旋されていたところもある)

尊重される場合においてですら、あまり権威化が堂に入らないのが、儒学が司るような
自明な倫理規範であり、そのため宗教教団のような分かりやすい個別主体を探そうとして
もあまりいい成果を得られるものではない。だからといって、そのような自明な倫理規範
よりも神仏信仰ほうを、世の中らすら支配する本義に据えてしまったりするのもおかしい。

返信する

235 2013/11/03(日) 13:32:07 ID:ZNUqQlag3.
寺だ神社だ教会だなどよりも、孔子廟のほうがマイナーで魅力的でもないとしたところで、
世人にとって最も身近な所にある事柄を最大級の含蓄と共に論じているのは、神仏ではなく
孔子や孟子のほうであるわけだから、孔孟の論説ぐらいは当たり前のこととして尊べる
だけの素養を身に付けてから、神仏を尊ぶようにもして行かなければならないといえる。

またそれでこそ、真に信敬するに値する真っ当な神仏と、そうでない邪神との見分けも
よく付くようになり、両者を味噌糞に取り扱っていたせいでの信教全体への不信感すらもが
払拭されて行くようになるに違いない。今の日本人の宗教不信などは、自分たちが自明な
倫理規範すらわきまえられなくなってしまっているがためにこそ来たしているところがある
わけだから、決して宗教というコンテンツの旧態化ばかりにその原因を求めるべきでもない。

人間にとっての自明な倫理規範を誰しもがわきまえることは、それすら疎かにしてしまって
いるせいで破滅状態に陥ってしまっている今の世界を反正する上で不可避に必要なことと
なっている。だからこそそれを実現したとして、そこから真っ当な神仏への崇敬を人々が
取り戻して行く選択肢までもが開かれて行く。それは別に必須事項でまであるわけではないが、
それが自明な倫理規範のより一層の堅持や、自明な倫理規範すら見失わせてしまうような
邪教の蔓延の予防にすら役立つようであるならば、奨励されるべきものであれど、決して
遠慮されるべきものとまでなることはない。かつての比叡山や本願寺のような教団腐敗すら
生じさせ始めたりするのならば、それへの牽制はまた別に必要となるに違いないが。

返信する

236 2013/11/03(日) 13:36:49 ID:5X4MEqYq3I:au
「子囊帯、野洩を従いて、之れを叱う。洩曰く、軍に私怒無し、
報いるは乃ち私なり。将に子を亢がん。又た之れを叱う。亦た之れに叱う」
「斉の大夫子囊帯が、戦場で魯の洩声子を追いかけて来て、これを罵った。洩は言った。
『軍務に私怨などありはしない。ただ私はおまえの攻撃を防御するだけだ』また罵ってきた時、
今度は洩も罵り返した。(罵られ通しでは自分自身や友軍の士気にも関わるから罵り返した。
この後には、矢傷を負って戦闘不能になったことに憤慨して敵を罵ったために、
敵からも『責任感の高い君子だ』と評された陳武子の逸話もある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十六年より)

返信する

237 2013/11/04(月) 13:35:53 ID:mV3vBg0TXg
いくら条件のいい土地でも、耕作や肥料散布を怠って、やたらめっらな連作を繰り返して
いたりすれば、土質も痩せて使い物にならないような状態と化してしまうし、そこまで
行かずとも、雑草取りや間引きを怠るだけでも相当量の収穫の目減りが生じてしまう。
農作もまた、人間の努力があって初めて相応の収穫を維持して行くことができるもの
なのだから、決して「棚から牡丹餅」の喩えなどに用いられるべきものではないといえる。

洋の東西を問わず、文明社会は農耕と共にこそ成り立ってきているわけだから、
多少なりとも農耕の内実を尊ぶ考えがあれば、その程度のことは何千年も前から察して
来られたことのはずである。しかし、それすらをも怠って、農業などは、商売などと
比べてさしたる儲けにもならない賤業程度にしか考えて来なかった連中も中にはいるわけで、
しかも、そのような農業への侮りからなる知識の浅薄さを元にして、「いい土地では大した
苦労もないままに収穫が得られる」などと豪語する輩までもが時には横行していたのである。

そのような拙い発想を金科玉条にすら掲げて来た西洋諸国たるや、国が二百年と経済的に
持ち応えた試しがない。誰も彼もがいい条件の土地を目指した所で、そんな土地は限られて
いるものだから、そのような土地の独占争いが繰り広げられた結果として貧富の格差が
極大級に拡大して行くばかりとなるし、それによって一部の人間が勝ち得られた好条件の
土地もまた、ただ既成の条件の良さばかりにかまけて整備を怠ったりしていれば結局は
地価を下げて、自分たち自身の自業自得での経済破綻を招くこととなってしまうのである。

返信する

238 2013/11/04(月) 13:39:04 ID:mV3vBg0TXg
そのような、農業の苦労への軽んじをも原因とした、目先の利益ばかりを追い求める性向
がついには、土地条件だけなら世界最良であるアメリカ大陸での西洋人たちの経済破綻
という、究極の事態にまで発展したのが今という時点に当たる。大規模な農産や工業生産
にも好適である上、東西を大西洋や太平洋といった絶海によって隔てられているために、
外界からの攻撃に対しても無敵状態の地勢を誇るアメリカ大陸という土地もまた、そこに
入植する人間たち自身がただただ恵まれた地勢にかまけて、金融詐欺にまで手を出しつつ
の大量消費などを続けて来たものだから、ついには破綻が免れられなくなったのだった。

逆に、地勢だけを見れば、土地も狭くて山地だらけである上に、地震や津波や台風や
火山噴火といった自然災害が目白押しである日本列島の住民こそは、地の利などに
かまけたりすることのない自助努力や質素倹約に務めて来たものだから、現状の
アメリカ政府の借金全額を肩代わりしてやれるほどもの貯蓄を保ててもいる。

「地の利は人の和に如かず」(孟子・公孫丑章句下・一)

現時点であれば、日本国民がアメリカの借金を肩代わりしてやることだってできなくはないが、
地の利にかまけてのやりたい放題を是としているような連中が、そんなものに頼ることなく
一致団結の自助努力で堅実な経済体制を保っている人々に対して、相も変わらず上から目線で
「おい、俺らの借金を肩代わりしろ」などと強要して来るようであれば、決していい気分で
いられたりするわけもない。それだけでなく、そのような自己を改めぬ姿勢でアメリカ人
たちが居たままでいたならば、現状の借金を肩代わりしてやった所で、また同じように
借金を積み重ねて行くだけのことになるに違いないわけだから、教育的な観点から見ても、
そんな連中に救済の手を差し伸べてやったりすべきではないことが確かだといえる。

返信する

239 2013/11/04(月) 13:39:09 ID:7fPLp3pQSk:au
地の利ばかりにかまけて、人の和など全くの蔑ろにしてきたアメリカ人が、その逆を行く
ことにかけて世界でも最高級の尽力を果たして来た日本人に倣うなどということは、中々
難しいことであるに違いない。それこそ、世界でも最難関ですらありかねないことだから、
そこまでは別に要求したりもしないが、上の「地の利は人の和に如かず」という教条をも
真摯に受け止めて、自分たちのあり方以上にも日本人のようなあり方こそをより尊んで
行くぐらいのことはできなければならない。それでこそ、借金地獄を再来させてしまい
かねない自分たちの思い上がりが、適度に抑制されて行くにも違いないのだから。

「社を国に於いて祀るは、地の利を列する所以なり。祖廟は仁を本とする所以なり」
「社稷を各国で祀ることで、その国の土地がもたらしてくれる利益を尊ぶ。また
宋廟を祀ることで、個々の地の利に囚われない仁徳を根本として尊ばせるようにする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)

返信する

240 2013/11/05(火) 14:21:26 ID:kcCUQG0KC6
「Es ist gut」だとか「Let it be」だとかの、絶望的な破滅に陥りつつある人間に
とってこそ気休めとなる部類の言葉がある。机上の空論止まりな概念哲学を
弄繰り回した挙句に死の床に付いたカントが「Es ist gut(これでいい)」などと
つぶやいて息を引き取ったのも、自らの哲学が死への絶望を克服させるに値する
ものなどでは全くなかったからでこそあるし、日米と中国の国交回復で、近い
将来に自分たちの拵えた金融システムの破綻が免れられなくなることを察した
イギリス人が、自国のミュージシャンに「Let it be」などという曲を歌わせて
世界規模で流行させたのも、その先どうすればいいのかなどを考えたくも
なくなる程もの自暴自棄に自分たちが駆られたからでこそあるのである。

それは、死への絶望を真に克服させるお経の言葉などとはまた別のものであり、末期
ガン患者に投与して苦痛を緩和させてやる麻薬などのほうに近いものである。死への
絶望自体は持ち越したままだから、本当にそれを克服している場合のような毅然とした
態度や振る舞いでいることもできず、廃人然とした状況へと自らを陥らせるのである。

実際問題、人間誰しもいつかは死ぬに違いないわけだが、それでも、死への絶望
を真に克服している人間と、死への絶望に取り込まれてしまっている人間とでは、
生きてる内からの言行に大きな差異が生ずるものである。死への絶望を克服できている
人間こそは、生きてる内からの最善をも尽くせる一方で、絶望に取り込まれてしまって
いるような人間は、自分自身の自助努力にかけての最善を尽くしたりすることができず、
自らの怠慢やその正当化が原因での、生きてる内からの自滅を招いてしまうのである。

してみれば、死への絶望を克服できないままでいるような人間が、気休めのために
怠慢を正当化するような言葉なども、むしろ人間にとって有害なものであるといえる。

返信する

241 2013/11/05(火) 14:23:57 ID:kcCUQG0KC6
すでに余命もわずかな末期ガン患者が麻薬を苦痛で和らげられたりするのは、まだ
許容のしようのあることだが、自分自身は健康上問題のない権力者などが、政治や
経済の先行き不安を「Let it be」みたいな言葉を拠り所に直視しないままでいたり
したならば、それは人と世にとっての多大なる害悪となることが間違いないわけだから、
特にそのような要職にある人間などが、怠慢を助長するような言葉に酔って職務を
蔑ろにしてしまうようなことだけは、徹底して避けられねばならないことだと言える。

権力者が、信仰の下で現実社会での善行を諦めるということは、聖書圏の人間などに
とっては常なることでもあり続けて来た。王侯が一度は戦地に赴いて敵兵を殺すとかの、
偽善止まりでしかないような慈善は嗜んだ所で、全身全霊を挙げての仁政によって万民
を安寧や繁栄へと導いたりするような、権力者としての最善の振る舞いを心がける
ことだけは、聖書信仰の下で徹底して破棄されたままであり続けて来ているのである。

もはや、そうであることが当たり前の常識と化してしまっているのが聖書圏である
わけだから、いざ聖書圏の人間が聖書信仰を捨て去って、怠慢に溺れたりする事も
なく為政などにかけての最善を尽くし始めたならどうなるのかは、未知数だといえる。
仁政級の善行など当たり前のこととして先祖代々積んで来なかったわけだから、ほんの
百数十年前までそのレベルの努力を積んでいる先祖がザラにいた東洋人などと比べて、
よりその手の能力が長けているようなことまでは決して期待できはしない。さりとて、
全くその手の能力が皆無であるかどうかも知れない。今までは、怠慢を助長する邪教
によってあえて自力作善を萎えさせられて来ているわけだから、そのような頚木を
解かれた場合に、相も変わらず善行不能者のままでいるかどうかは、未知のままである。

返信する

242 2013/11/05(火) 14:43:48 ID:PERWw9OO7E:au
いま権力者でいるような聖書圏の人間などは、もう立ち直りも不可能であるにしろ、
今はまだ権力者として振舞ったこともないような人間や、次世代以降の子孫であれば、
邪信災禍によって怠慢なままでしかいられなくなっている現状から脱却できるような
元聖書圏の人間もまた、生ずるかもしれない。もちろん、怠慢に溺れたがるような
性向や、それに呼応する言葉などから卒業できた場合に限ることなわけだけれども。

「讒を去り色を遠ざけ、貨を賤しみ徳を貴ぶは、賢を勧むる所以なり」
「人を貶めるような言葉や喜色を催させるような言葉を避けて、財貨を卑しみ
仁徳を尊ぶようにするのは、それによって賢明さを育んで行くためである。
(誰かは救っても誰かは救わないみたいな物言い自体、賢明なものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二〇より)

返信する


▲ページ最上部

ログサイズ:707 KB 有効レス数:328 削除レス数:0





思想・哲学掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

スレッドタイトル:聖書 Part12

レス投稿

未ログイン (ログイン

↑画像ファイル(jpg,gif,png)