サイズが 480KB を超えています。500KB を超えると書きこめなくなるよ。
聖書 Part12
▼ページ最下部
この地球人類社会において、自明なまでに「第一の聖書」としての
地位を確立しているのが、他でもない儒家の聖書、四書五経である。
「自明」というのは、たとえ本人が四書五経などを読みもしないでいたところで、
この世界において標準的な生活や仕事を営もうとすれば自然と、四書五経の教条に則って
しまうこととなるからだ。為政者が夏の禹帝のような治水や灌漑に励んだり、孔子や孟子が
訴えるような農繁期を尊重しつつの民の使役を心がけたりすれば、それにより当該国の底力
が蓄えられる。そのおかげで人々もまたそれなりの文明的な生活を営んで行けるように
なるわけだから、あえて経書を読んでそれに則っているかどうかすら関係ないのである。
ローマ帝国などは、「いい土地に蒔かれた種は三十倍、六十倍もの実を付ける(マルコ4:20)」
などというイエスの浮ついた教義を約2000年前に受け入れたりしていたこともあって、そんなことがある
わけもない実際の農産を疎かにして、作物を外地に発注するような真似に及んでいた。結果、ローマ帝国
の衰退と共に、イタリアという地域の国勢からして衰退していった。同じく王朝自体は何度も滅んでいる
中国のほうは、それでも歴代の徳治者たちによる国内での農産の振興という遺産が伴い続けているものだから、
すでに王政すら廃されている今に至ってもやはり、十億を超える人口を養えるような国力を保ち続けている。
四書五経に記録されているような堅実な政治規範や生活規範に則れば、そのぶんだけ人々も繁栄に与れる
一方で、それに反するような真似をやらかしていれば、短期的にも長期的にも衰亡が免れ得ないものとなる。
あえて経書を読んでから則ろうが則るまいが、そのようである限りにおいて人類もまた存続し、そうで
いられないようなら人類も全体規模で衰亡して行くことが免れ得ないのだから、四書五経こそは人類に
とって自明なほどにも「第一の聖書」として取り扱うことが避けられないものとなっているのである。

地位を確立しているのが、他でもない儒家の聖書、四書五経である。
「自明」というのは、たとえ本人が四書五経などを読みもしないでいたところで、
この世界において標準的な生活や仕事を営もうとすれば自然と、四書五経の教条に則って
しまうこととなるからだ。為政者が夏の禹帝のような治水や灌漑に励んだり、孔子や孟子が
訴えるような農繁期を尊重しつつの民の使役を心がけたりすれば、それにより当該国の底力
が蓄えられる。そのおかげで人々もまたそれなりの文明的な生活を営んで行けるように
なるわけだから、あえて経書を読んでそれに則っているかどうかすら関係ないのである。
ローマ帝国などは、「いい土地に蒔かれた種は三十倍、六十倍もの実を付ける(マルコ4:20)」
などというイエスの浮ついた教義を約2000年前に受け入れたりしていたこともあって、そんなことがある
わけもない実際の農産を疎かにして、作物を外地に発注するような真似に及んでいた。結果、ローマ帝国
の衰退と共に、イタリアという地域の国勢からして衰退していった。同じく王朝自体は何度も滅んでいる
中国のほうは、それでも歴代の徳治者たちによる国内での農産の振興という遺産が伴い続けているものだから、
すでに王政すら廃されている今に至ってもやはり、十億を超える人口を養えるような国力を保ち続けている。
四書五経に記録されているような堅実な政治規範や生活規範に則れば、そのぶんだけ人々も繁栄に与れる
一方で、それに反するような真似をやらかしていれば、短期的にも長期的にも衰亡が免れ得ないものとなる。
あえて経書を読んでから則ろうが則るまいが、そのようである限りにおいて人類もまた存続し、そうで
いられないようなら人類も全体規模で衰亡して行くことが免れ得ないのだから、四書五経こそは人類に
とって自明なほどにも「第一の聖書」として取り扱うことが避けられないものとなっているのである。


儒法に司られて来た「中国4000年の農産奨励の歴史」に脆くも敗れ去る。
いくら王朝が断絶されているとはいえ、4000年の長きに渡って農を尊び商を戒めて来たこと
からなる国力の増強そのものは保たれ続けて、今に至ってのマンパワーでの圧倒ともなっている。
ただ中国も、何もかもをペテンで塗り固めて来た西洋ぐらいには勝てるというだけのことで、
自分たちは自分たちでこれまた深刻な問題を抱え続けている。それが、ここ2783年に渡る
「質よりも量の過度の優先」という問題である。周による治世が決定的に衰えた春秋時代以降、
中国は専ら物的な威力ばかりを蓄えて行くことに邁進し続けて、夏殷周三代の上質な為政を本格的
に復活させることまでは疎かにして来た。周代以降にそれなりに良質な治世を確立していた漢や唐や
南宋といった王朝といえども、すでに相当に低下させられてしまっている中国人民の民度に合わせて、
太古の時代の習俗を完全に復活させることは見送って、当世の習俗こそを興隆させていたのだった。
(「漢書」礼楽志や郊祀志などにも、周代以前の礼法や祭祀の復元を見送った記録がある)
そのようなままでは結局、力で力を圧倒する、聖書圏や蒙古帝国などとも五十歩百歩な存在のまま
でしかいられない。だからこそ、またしもの報復による倒壊すらもが避けられるものではない。
量だけでなく、質の面でも、人類史上最良質の部類にあたる文化文明に立ち戻ることで初めて、
総力戦が終了して後のこの世界が、千年を超えるような泰平や繁栄に与れることもまた見込まれる。
そのためには、殷代や周代の中国文明すらをも、中国本国以上に色濃く受け継いでいる日本の習俗
などをも参考にすべきである。殷の名臣箕子が「洪範九疇」のような為政の秘訣を元手に古代朝鮮で
育んでいた民度の高さなども、もはやこの日本ぐらいにしか保全されていないわけだから、そこは
中国人といえども「より長寿なものに謙る」姿勢で以って見習っていかねばならない部分となっている。
そしてそれはそれで、洪範九疇も収録されている四書五経の秘奥の部分に倣うことともなるのである。
「闕党の童子、命を将う。或るひと之を問うて曰く、益者かと。
子曰く、吾れ其の位に居るを見る。其の先生と並び行くを見る。益者に非ざるなり、速やかに成らんと欲する者なり(既出)」
「闕という村の少年が客の取次ぎをしていた。ある人がその姿を見て問うた。『あれは進歩を目指しているものでしょうか』
孔先生は答えた。『私はあれが大人同士の席で真ん中に座っているのを見ましたし、先生先輩と肩を並べて歩いているのも見ました。
着実な進歩を目指しているのではなく、ただ早く大人になりたいというだけの者です』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・四六より)
自分たちではろくに農産にも励まないくせに、人の先ばかりを行こうとして、
不相応にも他者に恵もうなどとしていた古代のイスラエル人やローマ人はさしずめ、
上の童子の如き存在であろう。ただでさえ未熟なくせに、今以上に成長する気もない。
「喪事は進むこと有りて退くこと無し」
「弔事は(冥土へと)進むことはあっても(この世へと)退くことはないのが主旨である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
白人と黒人は、ただただ先へ先へと進みたがる傾向がある一方で、
黄色人種やインド人などは、「進退」に節度を持たせることを重んじたがる。
どちらのほうがより生き急いでいるのかといえば、それは前者のほうなのだ。
実際に、白人と黒人が主体を占めた聖書圏こそは、文化圏として生き急ぐことともなった。
「立春の日、天子は親ら三公、九卿、諸侯、大夫を師いて、以って春を東郊に迎う。還反りて公卿、諸侯、大夫を朝に
於いて賞し、相に命じて徳を布き令を和らげ、慶を行い恵を施し、下は兆民に及ぶ。慶賜遂行して当たらざること毋からしむ」
「立春の日、天子は自ら公卿諸侯大夫を率いて、東郊で春を迎える。帰還すれば公卿諸侯大夫を朝廷で賞し、大尽に命じて
徳治を敷き法令を和らげ、慶事を行って恵みを施し、その功徳は下々の万民にまで及ぶ。慶賜が一人として外れないようにする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六)
君臣候公大夫が足並みを揃えての徳治によってこそ、万人にも恵みが施される。
自分ばかりがさっさと進みたがるような小僧然とした有り方では、到底不可能なことだ。
子曰く、吾れ其の位に居るを見る。其の先生と並び行くを見る。益者に非ざるなり、速やかに成らんと欲する者なり(既出)」
「闕という村の少年が客の取次ぎをしていた。ある人がその姿を見て問うた。『あれは進歩を目指しているものでしょうか』
孔先生は答えた。『私はあれが大人同士の席で真ん中に座っているのを見ましたし、先生先輩と肩を並べて歩いているのも見ました。
着実な進歩を目指しているのではなく、ただ早く大人になりたいというだけの者です』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・四六より)
自分たちではろくに農産にも励まないくせに、人の先ばかりを行こうとして、
不相応にも他者に恵もうなどとしていた古代のイスラエル人やローマ人はさしずめ、
上の童子の如き存在であろう。ただでさえ未熟なくせに、今以上に成長する気もない。
「喪事は進むこと有りて退くこと無し」
「弔事は(冥土へと)進むことはあっても(この世へと)退くことはないのが主旨である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
白人と黒人は、ただただ先へ先へと進みたがる傾向がある一方で、
黄色人種やインド人などは、「進退」に節度を持たせることを重んじたがる。
どちらのほうがより生き急いでいるのかといえば、それは前者のほうなのだ。
実際に、白人と黒人が主体を占めた聖書圏こそは、文化圏として生き急ぐことともなった。
「立春の日、天子は親ら三公、九卿、諸侯、大夫を師いて、以って春を東郊に迎う。還反りて公卿、諸侯、大夫を朝に
於いて賞し、相に命じて徳を布き令を和らげ、慶を行い恵を施し、下は兆民に及ぶ。慶賜遂行して当たらざること毋からしむ」
「立春の日、天子は自ら公卿諸侯大夫を率いて、東郊で春を迎える。帰還すれば公卿諸侯大夫を朝廷で賞し、大尽に命じて
徳治を敷き法令を和らげ、慶事を行って恵みを施し、その功徳は下々の万民にまで及ぶ。慶賜が一人として外れないようにする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六)
君臣候公大夫が足並みを揃えての徳治によってこそ、万人にも恵みが施される。
自分ばかりがさっさと進みたがるような小僧然とした有り方では、到底不可能なことだ。

「史記」が体系的な書物として纏め上げられて間もなかった
前漢宣帝の代のころの「世界に占める各国GDPの比率」だ。
(世界に占める人口比では、前漢は今の中国とほぼ同等)
漢代や唐代や宋代の中国は、実際とんでもなかった。
儒学がよく尊ばれていた頃の中国は絶大な栄華を誇った一方、
諸侯の権力争いや外国からの征服のために儒学も退けられて
いたような時代にこそ、中国も弱体化してしまっていた。
人口比率でまた世界を圧倒している今ですら、
中国はまだ、弱ったままの状態の部類に入るんだ。何しろ、
儒学教育が共産制によって退けられたままでいるのだから。
儒学を意図的に学ばなくたって、世の中や人々をよくして
行こうとすれば自然と、儒学の教条にも則ることとなるわけだが、
もしも確信的に儒学の教学こそを学び込んでそれに則ろうと
したなら、それこそ、未曾有の繁栄が約束もされるわけだ。
「菩薩は歓喜地に住すれば、多くの歓喜、多くの浄信、多くの愛楽、多くの適悦、
多くの欣慶、多くの踊躍、多くの勇猛、多くの無闘諍、多くの無悩害、多くの無瞋恨を成就す」
(「大方広仏華厳経」十地品第二十六の一より)
「諸の凡夫は心邪見に堕し、無明に覆翳せられ、驕慢の高幢を立て、渇愛の網中に入り、
謟誑の稠林を行じ、自ら出ずること能わず、心と慳嫉と相応して捨てず、恒に諸趣の受生の
因縁を造り、貪恚愚癡をもつて諸業を積集し、日夜に増長し、忿恨の風を以って心識の火を
吹きて熾然として息まず、凡そ作す所の業は皆顛倒と相応し、欲流、有流、無明流、見流相続
して心意識の種子を起こし、三界の田中に於いて復苦の芽を生ず、謂わゆる名色共生して離れず、
此の名色増長して六処の聚楽に生じ、中に於いて相対して觸を生ず、觸の故に受を生じ、受によりて
愛を生じ、愛増長するが故に取を生じ、取増長するが故に有を生じ、有生ずるが故に生老病死憂悲苦悩有り」
(「大方広仏華厳経」十地品第二十六の一より)
上二つの菩薩と凡夫にまつわる心理描写などは、非常に具体的かつ現実性に即したものとなっている。
これは、「華厳経」の著者にあたる人物が、本当に菩薩や仏の境地にある解脱者であったからこそ把捉できた
ものであり、菩薩こそは、自らの心象と愚夫の心象とのいずれをも客観視することができる証拠となっている。
煩悩愚縛の凡夫の側からは、そのようなことは不可能である。菩薩や仏の境地が理解できないのは
もちろんのこと、上にあるような、愚かしい自分たち自身の心象を自覚的に理解することもできない。
無知蒙昧の闇に暗まされて、汚濁を貪るといった状態を、多少想像する程度のことはできるが、それが
自分たち自身の有り様であるとまでは受け入れられず、まるで他人事のように語ってしまったりするのである。
多くの欣慶、多くの踊躍、多くの勇猛、多くの無闘諍、多くの無悩害、多くの無瞋恨を成就す」
(「大方広仏華厳経」十地品第二十六の一より)
「諸の凡夫は心邪見に堕し、無明に覆翳せられ、驕慢の高幢を立て、渇愛の網中に入り、
謟誑の稠林を行じ、自ら出ずること能わず、心と慳嫉と相応して捨てず、恒に諸趣の受生の
因縁を造り、貪恚愚癡をもつて諸業を積集し、日夜に増長し、忿恨の風を以って心識の火を
吹きて熾然として息まず、凡そ作す所の業は皆顛倒と相応し、欲流、有流、無明流、見流相続
して心意識の種子を起こし、三界の田中に於いて復苦の芽を生ず、謂わゆる名色共生して離れず、
此の名色増長して六処の聚楽に生じ、中に於いて相対して觸を生ず、觸の故に受を生じ、受によりて
愛を生じ、愛増長するが故に取を生じ、取増長するが故に有を生じ、有生ずるが故に生老病死憂悲苦悩有り」
(「大方広仏華厳経」十地品第二十六の一より)
上二つの菩薩と凡夫にまつわる心理描写などは、非常に具体的かつ現実性に即したものとなっている。
これは、「華厳経」の著者にあたる人物が、本当に菩薩や仏の境地にある解脱者であったからこそ把捉できた
ものであり、菩薩こそは、自らの心象と愚夫の心象とのいずれをも客観視することができる証拠となっている。
煩悩愚縛の凡夫の側からは、そのようなことは不可能である。菩薩や仏の境地が理解できないのは
もちろんのこと、上にあるような、愚かしい自分たち自身の心象を自覚的に理解することもできない。
無知蒙昧の闇に暗まされて、汚濁を貪るといった状態を、多少想像する程度のことはできるが、それが
自分たち自身の有り様であるとまでは受け入れられず、まるで他人事のように語ってしまったりするのである。
そういう人間は、自分たち自身の心象を具体的に描写することにかけては、非常に消極的である。
もちろん、上の菩薩の境地のような清浄さと共に居られているわけでもないから、そんなことを語れば
全くの偽証となってしまう。かといって、汚濁にまみれている自分たちの内心をありのままに説明させられ
たりするのも屈辱なので、「光に満ち溢れている」とか「神に大胆に近づいている」とかいった抽象的な
表現で済ませようとする。それこそ、汚濁にまみれた暗愚な心の正当化や美化そのものであるわけで、
そのような転倒夢想に陥って頑なとなり、濁念の織の中から出て来られなくなることまでもが、
上の「華厳経」における凡夫の心理描写などにおいては精細に説明されているわけである。
また、凡夫が凡夫なりに想像してみようとする聖人像なども稚拙なものであり、上の菩薩の心理描写のような
有機性を全く欠いていたりする。とにかく情念全般を完全に押し殺した機械のような心理状態こそは聖人の
それであるなどと決め付けて、少しでも情念を帯びているような人間はそれだけで「聖人ではない」などと
決め付けようとする。自分で捏造した身勝手な尺度で勝手に聖人に相当するような人間を皆無と決めつけ、
全く素性も知れないような何者かのみが聖賢の条件を満たしているかもしれないなどとする、そのような
手順で以って、現実上の人間を一切尊崇の対象としないでいようとするような思い上がりにまみれた凡夫が
帰依の対象とするものとしてこそ、本当は実在しない形而上の超越神なぞが打ってつけともなっている。
煩悩愚縛の凡夫に接せられるというのならば、聖賢といえどもむしろ激情を発するであろう。
いつでも無念無想の仏の境地に至れる上達者といえども、相手となる凡夫を済度するためにこそ、
菩薩程度の立場から激情を帯びたような叱咤を施すこともあるであろう。少なくともそれが、
大通知勝仏の如き大乗仏教の理念に適おうとする聖賢のあり方であるのには違いない。
もちろん、上の菩薩の境地のような清浄さと共に居られているわけでもないから、そんなことを語れば
全くの偽証となってしまう。かといって、汚濁にまみれている自分たちの内心をありのままに説明させられ
たりするのも屈辱なので、「光に満ち溢れている」とか「神に大胆に近づいている」とかいった抽象的な
表現で済ませようとする。それこそ、汚濁にまみれた暗愚な心の正当化や美化そのものであるわけで、
そのような転倒夢想に陥って頑なとなり、濁念の織の中から出て来られなくなることまでもが、
上の「華厳経」における凡夫の心理描写などにおいては精細に説明されているわけである。
また、凡夫が凡夫なりに想像してみようとする聖人像なども稚拙なものであり、上の菩薩の心理描写のような
有機性を全く欠いていたりする。とにかく情念全般を完全に押し殺した機械のような心理状態こそは聖人の
それであるなどと決め付けて、少しでも情念を帯びているような人間はそれだけで「聖人ではない」などと
決め付けようとする。自分で捏造した身勝手な尺度で勝手に聖人に相当するような人間を皆無と決めつけ、
全く素性も知れないような何者かのみが聖賢の条件を満たしているかもしれないなどとする、そのような
手順で以って、現実上の人間を一切尊崇の対象としないでいようとするような思い上がりにまみれた凡夫が
帰依の対象とするものとしてこそ、本当は実在しない形而上の超越神なぞが打ってつけともなっている。
煩悩愚縛の凡夫に接せられるというのならば、聖賢といえどもむしろ激情を発するであろう。
いつでも無念無想の仏の境地に至れる上達者といえども、相手となる凡夫を済度するためにこそ、
菩薩程度の立場から激情を帯びたような叱咤を施すこともあるであろう。少なくともそれが、
大通知勝仏の如き大乗仏教の理念に適おうとする聖賢のあり方であるのには違いない。
それは、仏門の聖賢ばかりに限ったことでもない。儒家の聖人である孔子もまた、宰我の如き孝心に欠ける
弟子への怒りを隠さなかった。無闇に腹を立てたりしないでいられるのは、半ば臆病者扱いされる程にも
貞節だった孔子自身の朝廷での振舞いなどからも知れたことであるけれども、弟子を教育することにかけて
の熱心さも半端なものではなかったから、その弟子に失望させられた時の落胆もまた、怒りを隠しきれない
ほどのものだったわけである。それは結局、菩薩の衆生に対する菩提心の発露などとも本質的には似通った
ものであったわけで、決して孔子の度量の小ささなどが露呈した場面だったわけではないのである。
「激情を発したりするような未熟な相手に教わりたくもないし、そうなりたくもない」というのが、
凡夫が向上を拒む上での常套句ともなっている。少しでも本物の向上を志すのであれば、そのような
言い訳による凝り固まりからは脱却して行かねばならない。聖賢は、未だ未熟なままであるおまえの
ためにこそ、わざわざあえて情的でいたりもしてくれるのだから、むしろそれに感謝すらすべきなのだ。
「爾、頑に忿疾すること無かれ、備わるを一夫に求むるひと無かれ。
必ず忍ぶこと有れば其れ乃ち済する有り、容るること有れば、徳乃ち大なり」
「頑なで暗愚な相手に対しても腹を立てたり憎んだりしてはならない。何もかもが一人に備わっていることなど
を期待してはならない。ぐっと耐え忍んでいればきっと済度されることもある。寛容であれば徳も広大となる。
(本物の聖賢には、暗愚頑迷の徒すらをも済度してやろうとする心意気が生ずる。大乗の理念にも通ずる所)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)
弟子への怒りを隠さなかった。無闇に腹を立てたりしないでいられるのは、半ば臆病者扱いされる程にも
貞節だった孔子自身の朝廷での振舞いなどからも知れたことであるけれども、弟子を教育することにかけて
の熱心さも半端なものではなかったから、その弟子に失望させられた時の落胆もまた、怒りを隠しきれない
ほどのものだったわけである。それは結局、菩薩の衆生に対する菩提心の発露などとも本質的には似通った
ものであったわけで、決して孔子の度量の小ささなどが露呈した場面だったわけではないのである。
「激情を発したりするような未熟な相手に教わりたくもないし、そうなりたくもない」というのが、
凡夫が向上を拒む上での常套句ともなっている。少しでも本物の向上を志すのであれば、そのような
言い訳による凝り固まりからは脱却して行かねばならない。聖賢は、未だ未熟なままであるおまえの
ためにこそ、わざわざあえて情的でいたりもしてくれるのだから、むしろそれに感謝すらすべきなのだ。
「爾、頑に忿疾すること無かれ、備わるを一夫に求むるひと無かれ。
必ず忍ぶこと有れば其れ乃ち済する有り、容るること有れば、徳乃ち大なり」
「頑なで暗愚な相手に対しても腹を立てたり憎んだりしてはならない。何もかもが一人に備わっていることなど
を期待してはならない。ぐっと耐え忍んでいればきっと済度されることもある。寛容であれば徳も広大となる。
(本物の聖賢には、暗愚頑迷の徒すらをも済度してやろうとする心意気が生ずる。大乗の理念にも通ずる所)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)

あまりにも大きすぎたために、徳川綱吉も自ら裁決を下すことをためらって、
皇室からの出家者である公弁法親王にその処断の如何を請うた。親王は
直接的には返答をしなかったが、「なにも赦すばかりが仏の慈悲ではない」
ということを暗に示唆して、綱吉に全員切腹の裁決を促したという。
果たして、その奨めがそのまま実行に移されて、江戸大目付、仙石伯耆守の
元に即日自首した赤穂浪士全員の切腹が執行された。当初は人々からの大きな
非難の声が上がり、日本橋付近に常設されていた忠孝を奨励する御布令に泥が
塗りつけられるなどの事件までもが発生したが、まんまと生き延びた場合の
赤穂浪士たちが不行跡を働いて名誉を傷つけるようなこともなくて済まされた
ものだから、浪士たちも永遠の英雄として扱われる資格を得られたのだった。
赤穂浪士たちの行いは、ただ法規に反しているのみならず、普遍的な道義にも
反している面があった。「徒党派閥の私的編制の禁」という当時の法度は、
「論語」衛霊公第十五・二二の「君子は群して党せず」という徳目などにも
反するものであるから、五十人にも迫るような戦闘集団を私的に編制して
私邸に討ち入った赤穂浪士の行いなども、決して道義的に赦されたものではない。
だから、その分だけでも切腹という措置によって罪責を償う必要があった。
それで実際に引責が実行されて、後には「亡き主君を追っての討ち死に」という
美談のみが残ったものだから、浪士たちも永遠の英雄となることができたのである。
罪である部分が赦されなかったからこそ、永遠の英雄ともなることができた。
これこそは、公弁法親王の言われた「赦すばかりではない仏の慈悲」による
計らいからなる果報であったといえる。あえて罪を赦さぬところにある優しさ
というものを知れる者こそは、仏の心を計り知れる者でもあるのだといえる。
赤穂浪士討ち入り事件に際しても、江戸大目付の仙石伯耆守のみならず、
多くの目付武士たちが陰に陽に赤穂浪士たちを監視して、厳正な処罰下に置いた。
そういう役職が整備されているのでなければ、そもそも士大夫の切腹などを
公正に執り行う目処も立たない。実際、今の警察などは目付に相当する役職を
廃して、名前だけ似せた「警視」などという役職を、単なる上位の警察官として
設置している。目付はそうではなく、低禄や身分の低さと引き換えに、切腹級
の公務者の引責をも事務的に司っていたわけで、その目付に相当する役職を
なくしてしまった今の警察などでは、実際に引責自殺すら辞すべきでないような
放火殺人級の罪を犯した警察官すらもが、無罪放免にされる事態となっている。
政治家や公務員などの重職に就く人間の罪をあえて赦さないために置かれる
目付の如き公正な監察官の役職が、実権を伴って設置されているときの権力機構
というのは、清廉さを保つことができる。江戸時代の日本の為政の参考とされた
漢代の中国などにおいても、「刺史」や「州牧」と呼ばれる監察官が実権を以って
行政腐敗の予防にも務めていたために、>>1画ほどにも全国規模での経済的繁栄が
実現されていながらも、傾国級の腐敗などを招かずに済ますことができたのだった。
罪をあえて赦さないために置かれる、実権を伴う公正な監察官が、中国で
廃されたのは北宋以降、日本で廃されたのは明治以降のことである。その後も
国家公安委員会や教育委員会の如き検証機関が一応設置されたりはしたが、
それらの機関自体が警察や教職の自浄作用ではなく、保身や身勝手な統制のため
に利用されてしまったものだから、目付のような役割を果たすこともできなかった。
多くの目付武士たちが陰に陽に赤穂浪士たちを監視して、厳正な処罰下に置いた。
そういう役職が整備されているのでなければ、そもそも士大夫の切腹などを
公正に執り行う目処も立たない。実際、今の警察などは目付に相当する役職を
廃して、名前だけ似せた「警視」などという役職を、単なる上位の警察官として
設置している。目付はそうではなく、低禄や身分の低さと引き換えに、切腹級
の公務者の引責をも事務的に司っていたわけで、その目付に相当する役職を
なくしてしまった今の警察などでは、実際に引責自殺すら辞すべきでないような
放火殺人級の罪を犯した警察官すらもが、無罪放免にされる事態となっている。
政治家や公務員などの重職に就く人間の罪をあえて赦さないために置かれる
目付の如き公正な監察官の役職が、実権を伴って設置されているときの権力機構
というのは、清廉さを保つことができる。江戸時代の日本の為政の参考とされた
漢代の中国などにおいても、「刺史」や「州牧」と呼ばれる監察官が実権を以って
行政腐敗の予防にも務めていたために、>>1画ほどにも全国規模での経済的繁栄が
実現されていながらも、傾国級の腐敗などを招かずに済ますことができたのだった。
罪をあえて赦さないために置かれる、実権を伴う公正な監察官が、中国で
廃されたのは北宋以降、日本で廃されたのは明治以降のことである。その後も
国家公安委員会や教育委員会の如き検証機関が一応設置されたりはしたが、
それらの機関自体が警察や教職の自浄作用ではなく、保身や身勝手な統制のため
に利用されてしまったものだから、目付のような役割を果たすこともできなかった。
それはむしろ、聖書信仰の「監視する神への崇拝」などにも感化されて、監察者
というものが神聖化されてしまったからこそ来たしてしまった不祥事でもある。
むしろ、監察者などは卑しい存在であり、卑しいながらに必要悪として介在する
ものと捉えられたほうが、目付の如き節度を保った公正な監視の指針ともなる。
残念ながら放任状態では腐敗を来たさざるを得ない世の中を、これまた「お目汚し」
というさして気品があるとも言えないような手段によって防腐して行く必要悪。
監視行為が聖域の行いなどとして扱われなくなればこそ、そうでいられるのである。
「大の小に適くに五美有り。其の罪戻を宥し、其の過失を赦し、
其の災患を救い、其の徳刑を賞し、其の及ばざるを教う」
「偉大な相手が卑小な相手に接する上で適した美徳というものがおよそ五つある。
その罪を許し、過ちを赦し、災難を救い、自分たちでの道義に適った刑罰を褒め、
至らない部分を教導してやる、この五つである。(卑小とされる信者たち同士での
赦し合いを促すエホバの態度は、偉大な者としての美徳に適ったものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十八年より)
というものが神聖化されてしまったからこそ来たしてしまった不祥事でもある。
むしろ、監察者などは卑しい存在であり、卑しいながらに必要悪として介在する
ものと捉えられたほうが、目付の如き節度を保った公正な監視の指針ともなる。
残念ながら放任状態では腐敗を来たさざるを得ない世の中を、これまた「お目汚し」
というさして気品があるとも言えないような手段によって防腐して行く必要悪。
監視行為が聖域の行いなどとして扱われなくなればこそ、そうでいられるのである。
「大の小に適くに五美有り。其の罪戻を宥し、其の過失を赦し、
其の災患を救い、其の徳刑を賞し、其の及ばざるを教う」
「偉大な相手が卑小な相手に接する上で適した美徳というものがおよそ五つある。
その罪を許し、過ちを赦し、災難を救い、自分たちでの道義に適った刑罰を褒め、
至らない部分を教導してやる、この五つである。(卑小とされる信者たち同士での
赦し合いを促すエホバの態度は、偉大な者としての美徳に適ったものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十八年より)
「白痴」とは、「明白な痴人」という意味であり、差別用語として言葉狩りに遭う以前は、真性の知的障害者を
指したり、頭のおかしげな人間を比喩的に形容したりするために用いられて来た言葉である。「明白な」という
語義を「真性の」という意味合いで用いることもできれば、「極端にひどい」という意味合いで用いる
こともできるから、上二つの語法が並立して用いられて来たのである。
信者の知的退行を悪用するようなカルト宗教は、その白痴という言葉の持つ「明白な」という意味合いを
「光に満ちた」などと倒錯させることで、信者の白痴常態を正当化する。それは、白痴をidiotなどと呼ぶ
西洋においても本質的には同じことである。知能が低いことや、頭がおかしいことといえども、それが
「明白」ですらあれば、光に満ちているようで素晴らしいとする。それは特に、世の中が「カラマーゾフの兄弟」
におけるイワンの世情描写のような陰惨さにまみれていればいるほど、そう思い込みやすいことでもある。
陰惨な現実にまつわる知識を取り入れれば取り入れるほど、自分自身の脳内までもが汚されたような気分になる、だから、
そのような知識を理解することもできないような「明白」な蒙昧状態こそは光に満ちているなどと思い込むのである。
一方で、カルト宗教が大っぴらに蔓延してしまっているような世の中こそは陰惨さにまみれることとも
なるわけだから、世の中を暗黒状態に陥れることと、その中での白痴状態を「光に満ちている」などと
思い込ませることが一切合切、カルト宗教によるマッチポンプの罪業であるといえる。
正統な宗教によるのであれ、堅実な徳治によるのであれ、現実こそが光輝なる泰平や繁栄に導かれたならば、
そのような世の中にまつわる知識を取り入れたりすることが「闇に呑み込まれる」ようなことになるわけもない。
むしろ、そのような世の中のことをよく学んでいくことのほうが、自らの脳内を光大なる知識によって満たす
こととなるわけだから、正統な宗教や仁徳を旨とする思想によっては、白痴状態で現実から逃避したりする
ことは決してよしとされず、それこそはかえって「暗愚」に苛まれた状態と見なされるのである。
指したり、頭のおかしげな人間を比喩的に形容したりするために用いられて来た言葉である。「明白な」という
語義を「真性の」という意味合いで用いることもできれば、「極端にひどい」という意味合いで用いる
こともできるから、上二つの語法が並立して用いられて来たのである。
信者の知的退行を悪用するようなカルト宗教は、その白痴という言葉の持つ「明白な」という意味合いを
「光に満ちた」などと倒錯させることで、信者の白痴常態を正当化する。それは、白痴をidiotなどと呼ぶ
西洋においても本質的には同じことである。知能が低いことや、頭がおかしいことといえども、それが
「明白」ですらあれば、光に満ちているようで素晴らしいとする。それは特に、世の中が「カラマーゾフの兄弟」
におけるイワンの世情描写のような陰惨さにまみれていればいるほど、そう思い込みやすいことでもある。
陰惨な現実にまつわる知識を取り入れれば取り入れるほど、自分自身の脳内までもが汚されたような気分になる、だから、
そのような知識を理解することもできないような「明白」な蒙昧状態こそは光に満ちているなどと思い込むのである。
一方で、カルト宗教が大っぴらに蔓延してしまっているような世の中こそは陰惨さにまみれることとも
なるわけだから、世の中を暗黒状態に陥れることと、その中での白痴状態を「光に満ちている」などと
思い込ませることが一切合切、カルト宗教によるマッチポンプの罪業であるといえる。
正統な宗教によるのであれ、堅実な徳治によるのであれ、現実こそが光輝なる泰平や繁栄に導かれたならば、
そのような世の中にまつわる知識を取り入れたりすることが「闇に呑み込まれる」ようなことになるわけもない。
むしろ、そのような世の中のことをよく学んでいくことのほうが、自らの脳内を光大なる知識によって満たす
こととなるわけだから、正統な宗教や仁徳を旨とする思想によっては、白痴状態で現実から逃避したりする
ことは決してよしとされず、それこそはかえって「暗愚」に苛まれた状態と見なされるのである。
徳治や正統な宗教は、世の中全体から光に満ちさせるものだから、白痴なども暗愚扱いに処することができる一方、
カルト宗教は世の中のほうを暗黒状態に陥れるものだから、白痴状態によって現実逃避する者を「光に満ちている」
などと言いくるめようともする。いずれも、人々の住まう世の中からどうにかしてしまう点が共通していて、
個々の信者や庶民に訴えかけることばかりが独立して存在しているわけではない。徳治が実現された漢代の中国の
繁栄っぷりと、キリスト教が提唱された頃のローマ帝国の窮乏ぶりの対比も>>1画の如くであり、そもそもが
カルトが受け入れられるような環境からしてすでに暗黒状態であることを指し示した好例ともなっている。
だからこそ、社会規模からの公共的な要求に即して、カルトを排して正学正教を重んじていかねばならない
ということがいえるわけだが、カルト教団たるや、自分たちこそが直視し難い暗黒の世の中を招いている
ことに対しては徹底的な否認を決め込み、その真っ暗闇な世の中における現実逃避の手段としての白痴化洗脳を
信者に施してやった結果、信者が光に満ちたような気分になったというその部分ばかりを囃し立てようとする。
そりゃあ、世の中を真っ暗闇に陥れることから自分たちのマッチポンプの一環であることなどを認めたならば、
カルト教団など一日たりとも存続の余地がなくなってしまうわけだから、そうであることを否認し続ける
ことこそは、カルト教団を存続して行く上での肝心要の取り決めでもあるのに違いない。
カルト教団の運営者たち自身からして、現実逃避のための自己洗脳に長けていたりもするものだから、
自分たちこそはマッチポンプ災禍の凶悪犯であるということを自覚させることすらなかなか難しいこととなっている。
せめてでも、カルトの摘発に臨む者たち自身は、カルトこそが暗黒の世をもたらす元凶となっていることを
しっかりとわきまえて、その世の中の内側での白痴化洗脳による信者たちへの救済ごっここそは自分たちの
本業だなどと決め込んでいるカルト教団の欺瞞にたぶらかされないようにすることである。
カルト宗教は世の中のほうを暗黒状態に陥れるものだから、白痴状態によって現実逃避する者を「光に満ちている」
などと言いくるめようともする。いずれも、人々の住まう世の中からどうにかしてしまう点が共通していて、
個々の信者や庶民に訴えかけることばかりが独立して存在しているわけではない。徳治が実現された漢代の中国の
繁栄っぷりと、キリスト教が提唱された頃のローマ帝国の窮乏ぶりの対比も>>1画の如くであり、そもそもが
カルトが受け入れられるような環境からしてすでに暗黒状態であることを指し示した好例ともなっている。
だからこそ、社会規模からの公共的な要求に即して、カルトを排して正学正教を重んじていかねばならない
ということがいえるわけだが、カルト教団たるや、自分たちこそが直視し難い暗黒の世の中を招いている
ことに対しては徹底的な否認を決め込み、その真っ暗闇な世の中における現実逃避の手段としての白痴化洗脳を
信者に施してやった結果、信者が光に満ちたような気分になったというその部分ばかりを囃し立てようとする。
そりゃあ、世の中を真っ暗闇に陥れることから自分たちのマッチポンプの一環であることなどを認めたならば、
カルト教団など一日たりとも存続の余地がなくなってしまうわけだから、そうであることを否認し続ける
ことこそは、カルト教団を存続して行く上での肝心要の取り決めでもあるのに違いない。
カルト教団の運営者たち自身からして、現実逃避のための自己洗脳に長けていたりもするものだから、
自分たちこそはマッチポンプ災禍の凶悪犯であるということを自覚させることすらなかなか難しいこととなっている。
せめてでも、カルトの摘発に臨む者たち自身は、カルトこそが暗黒の世をもたらす元凶となっていることを
しっかりとわきまえて、その世の中の内側での白痴化洗脳による信者たちへの救済ごっここそは自分たちの
本業だなどと決め込んでいるカルト教団の欺瞞にたぶらかされないようにすることである。
▲ページ最上部
ログサイズ:707 KB 有効レス数:328 削除レス数:0
不適切な書き込みやモラルに反する投稿を見つけた時は、書き込み右の マークをクリックしてサイト運営者までご連絡をお願いします。確認しだい削除いたします。
思想・哲学掲示板に戻る 全部 次100 最新50
スレッドタイトル:聖書 Part12