SARO&Desperado隔離スレ


▼ページ最下部
001 2013/07/04(木) 19:27:31 ID:ZNlLYIE0Jk
宗教談義はこちらでどうぞ

返信する

※省略されてます すべて表示...
219 2014/03/08(土) 23:00:53 ID:maIlZ8.CvU
人は全て神の息子、娘なので、全人類はいわば「兄弟」なのだ。
少なくともキリスト教徒は「兄弟」だ。
聖パウロも聖書の中で度々「兄弟たちよ」と呼びかけている。

人類愛という言葉があるが、これはキリスト教由来の概念だろう。
キリスト教的には「兄弟愛」ということだ。

ここでちょっと情報を付け加えると、新約聖書の原典はギリシア語で書かれている。
聖パウロもギリシア語で手紙を書いた。聖書の作家はみんな(おそらく)ユダヤ人だが、
ヘブライ語では文書を書いていない。もっとも当時ヘブライ語なんぞは無かっただろう。
当時のイスラエルではアラム語というシリア系の言葉が話されていた。
イエス・キリストもアラム語を話したことだろう。

ところがキリスト教はイスラエルではなく、ギリシア語圏に暮らすユダヤ人、つまり祖国を
飛び出た「離散ユダヤ人」の間に広まった。だからそれらの人々が書いた聖書の中の全文書が
ギリシア語になったわけだ。

ここで前の「兄弟愛」に戻ると、これはギリシア語の聖書では「フィラデルフィア」という語で
表現されている。そう、アメリカのフィラデルフィアという都市は、まさに兄弟愛、人類愛を
街の名前に選んだわけだ。

キリスト教由来のアメリカの都市名はサン・フランシスコだけではない。

返信する

220 2014/04/04(金) 15:22:02 ID:81//xBwaUo
久しぶりにマイ・ブログを更新!!
今日は「初金」っていうめでたい日でミサに行く日なんだよ。
こんなことを言うとプロテに「だからカトリックはぁwww」って
笑われるんだけどね。

返信する

221 2014/04/05(土) 18:44:00 ID:gmElbxGaOs
引き続き、4月のカトリック暦一覧・・・

6日(日) 四旬節第5主日
11日(金) 十字架の道行き
13日(日) 受難の主日(枝の主日 聖週間) ・・・この日にイエスがエルサレムへ入城した。
17日(木) 聖木曜日(主の晩餐の夕べ)・・・この夜にイエスが最後の晩餐をした。
18日(金) 聖金曜日(主の受難)・・・この日の昼にイエスが十字架に付けられ死す。

カトリック教徒は聖金曜日は盛大に断食をしなければならない。

19日(土) 聖土曜日(復活の聖徹夜祭)・・・キリスト復活前夜祭。
20日(日) 復活の主日(復活祭・イースター)・・・イエス・キリスト死者から復活!!

復活祭はキリスト教にとってクリスマス以上に重要な日なのだが、日本の商業主義に乗らない
ためか、あまり日本では話題にならぬのが残念だ。有名なところはイースター卵くらいだから。
しかし多くの人は復活祭か聖土曜日に洗礼を受けるのが習わしになっている。
ただしクリスマスに洗礼を受ける人もいるにはいる。

返信する

222 2014/04/27(日) 16:45:35 ID:coV9SUAfSQ
わたしを知らないのは、本質的なことを知らないのである。
すべてはわたしのために創られ、わたしなしに創られたものは一つもない。
わたしは世の光であり、わたしに従う者は闇の中を歩まない。

あなたは魂の花びらを一枚一枚はぎとって、
ついには、あなたの手のひらには、
裸になった色も形も香りもない哀れな茎が残った。

わたしはあなたの存在のアルファでありオメガである。
あなたの存在の封印はわたしの手中にあり、
わたしなしには空(から)となり意味もなく陽の光に消える露となる。

あなたの孤独を満たすことができるのはわたしである。
あなたが逃げて行った時も、あなたを愛したのはわたしである。
そして、この世界の何よりもあなたを愛している。

なぜなら、友のために生命を捨てるわたし以上に、
あなたを愛する者は誰もいないからである。
わたしはこの世の終わりまでも、日々あなたと共にいる。

返信する

223 2014/04/27(日) 17:02:37 ID:Ugbv2OTVFs
『カトリックでの最後の晩餐』
 
主イエスは渡される夜、パンを取り、あなたに感謝をささげて祝福し、
割って弟子に与えて仰せになりました。
 
「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしの体である」
 
食事の終わりに、同じように杯を取り、あなたに感謝をささげて祝福し、
弟子に与えて仰せになりました。
 
「皆、これを受けて飲みなさい。これは血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、
罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血。これをわたしの記念として行いなさい」
 
信仰の神秘・・・。
主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで。

返信する

224 2014/04/27(日) 17:24:38 ID:coV9SUAfSQ
谷川の水を求めて、
あえぎさ迷う鹿のように、
神よわたしはあなたを慕う。

私の心はあなたを求め、神のいのちをあこがるれる。
わたしが行ってみ前に至り、み顔を仰げる日はいつか。
わたしは日夜、神を問われて、明け暮れ、涙を食物とする。

谷川の水を求めて、
あえぎさ迷う鹿のように、
神よわたしはあなたを慕う。

返信する

225 2014/04/27(日) 21:21:58 ID:coV9SUAfSQ
[YouTubeで再生]
聖歌657番 いつくしみ深き 森山良子版
(小学校で習ったきらめく銀河の元歌だからみんな知ってるよ)


いつくしみ深き友なるイエスは
罪、とが、うれいを取り去りたもう
心の嘆きを包まず述べて
などかは降ろさぬ、負える重荷を
アーメン

返信する

226 2014/04/28(月) 14:58:38 ID:/XXG1R3s36
[YouTubeで再生]
世界的ヒットになったカトリック聖歌・・・ペスカドール・デ・オンブレス
(Pescador de Hombres)。スペイン在住のカトリック司祭が作って、今や
スペインでは色んなCDが出て、ロック版まである。もちろん世界中の
カトリック教会に伝わって各国語になって教会で歌われている。

プロテスタントが勝手に翻訳して色んな日本語版があるらしいが、以下がカトリック「正式版」。

主は水辺に立ちて、わたしに声をかけた
ただついて来て欲しいと。
主よ!!、わたしを見つめ、微笑み、わが名を呼ぶ
水辺に小舟を捨てて、共に海に出よう。

主よ、わたしの舟に、剣も富も無く
ただ網と仕事だけ。
主よ!!、わたしを見つめ、微笑み、わが名を呼ぶ
水辺に小舟を捨てて、共に海に出よう。

主よ、わたしの心、この手と熱い力
ひとのためささげよう。
主よ!!、わたしを見つめ、微笑み、わが名を呼ぶ
水辺に小舟を捨てて、共に海に出よう。

主はほかの海にも、仲間を求められる
愛の神、とわの友、
主よ!!、わたしを見つめ、微笑み、わが名を呼ぶ
水辺に小舟を捨てて、共に海に出よう。

「主よ!!」 はスペイン語では「セニョール!!」なんだね。
英語では「ロード」なんだけどね。

以下は前半は英語版
http://www.youtube.com/watch?v=41rSYIhjGO...

返信する

227 2014/04/29(火) 00:54:28 ID:8sFRBI9ZNE
ペスカドール・デ・オンブレスは初代ローマ法王になったぺトロ目線の曲なんだ。
曲の中で「わたし」とはぺトロのこと。
ぺトロの元の職業は漁師。
主イエスはぺトロが漁をしていた湖の岸辺に立って、
ぺトロに「わたしについて来なさい。人を捕る漁師にしよう」と呼び掛けた場面が
聖書の中で印象的。その場面を歌にした。

ペスカドール・デ・オンブレスとは日本語に訳すと人を捕る漁師。

なんとなく昔の漁師というとなにか貧しい印象があるが、
実際は大金持ちとは言えないまでも、舟や漁の道具などを所有していたのだから、
当時としては資産家。

その時、一緒に弟子になった者の中には、舟を数隻持っていて、人も雇っていた
資産家もいた。そんな彼らがなにもかも捨ててイエスに従った。

キリスト教は人生のしがらみを、なんの躊躇も無く棄てることから始まる、という教えだ。

だからカトリックの神父が属す修道会は、どこも入る資格を、私有財産をまず棄てること
とする。
実生活でも神父や修道師は小遣いすらも持っていない。

なにしろキリスト教入門講座を開いている神父もいるわけだが、
そんな神父にも教会の施設を無料では貸さない。資料を作る費用も出さない。
修道院の人たちは本当にお金をもらえないのだ。

ちょっと考えると講座を開くのは、信者獲得に好都合なようだが、
カトリックは積極的に信者獲得はしないのだ。
だからそんな入門講座も信者のボランティアで運営される。
誰も信者になる時、つまり洗礼を受ける時、一円もお金を取られることはない。
信者をやって行くのだって、一円も教会に入れなくても、
督促状が届くことはない。
そこが事あるごとに金銭を要求されるプロテスタントとの違いだ。

返信する

228 2014/04/30(水) 13:48:20 ID:8kXFPZ96zs
聖書の中で一番古いマルコの福音書を書いたマルコも、金持ちのぼんぼんだったらしい。
(聖書の中で一番古い文書はパウロの書簡だ)。
彼はぺトロの弟子として(つまりイエスのまた弟子として)、おそらくずっとイエスの共を
した。最後の晩餐の後、イエスが逮捕された時、
彼も衣を掴まれたが、それを脱ぎ捨て裸で逃げた。

最後の晩餐が出たが、この最後の晩餐はマルコの家の二階で行われたという説が有力だ。
彼の家は母子家庭だったが、エルサレムの街中の大きな住宅に住んでいたのだ。
だからたぶん彼はぼんぼんだと思ったのだ。

マルコは初代教会が出来る際も活躍をした。
あの有名なパウロの宣教旅行の共もしている。
でも生来がわがままなぼんぼんだから、途中で帰ると言い出した。
それでやはりもう一人の同行者バルナバ(彼も初代教会の立役者だ)とパウロいての仲が
気まずくなったりした。

と、かなり面白そうな人物だが、やはり彼の功績は福音書というイエスの行動録を残した
ことだろう。マルコの福音書を元に、その後、マタイとルカの福音書が書かれた。
もっとも、マルコ福音書はマルコ自身が書いたものではないという説もある。
でもその場合でもストーリーを語ったのはマルコに間違いない。

返信する


▲ページ最上部

ログサイズ:356 KB 有効レス数:228 削除レス数:0





思想・哲学掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

スレッドタイトル:SARO&Desperado隔離スレ

レス投稿

未ログイン (ログイン

↑画像ファイル(jpg,gif,png)