この地図を見てください。カペナウムと表記されている村が
カファルナウムです。ガリラヤ湖のほとりにティベリアという
町がありますが、ここは時のイスラエルの王ヘロデが作った
ローマ風の町です。イスラエルは名目上ながらも自治が認め
られていましたから、名目上の王がいたのです。この町は彼が
別荘を構えるために作ったような町です。
イエスはマタイ・マルコ・ルカ福音書によるとガリラヤ地方の町しか伝道していないように書かれ
ていますが、ティベリアには寄った形跡がありません。
ヨハネの福音書だけが、この間、何かの祭りがある度、イエスが何度かガリラヤとイスラエルの間を
往復したことを語っています。
地図でガリラヤとユダヤと書かれている地方がユダヤ人の住む地区です。その間にあるサマリア
という地方は、なぜか聖書では悪人扱いされています。ユダヤ人から毛嫌いされています。もしか
してサマリア人とはユダヤ人と考え方も違う、イエスの死後にできるイスラム教徒になるべき人たち
だったのでしょうか。
ガリラヤ地方の人々というのは、ユダヤ地方より一段と民族意識が高い人たちなのです。イエスの
生前、および死後にローマ帝国に対する反乱が起きました。そういったことを念頭に置いていれば、
ローマに頭を下げている与党のファリサイ派やサドカイ派が、いかにガリラヤおよびイエスを警戒
していたかが理解できます。
また聖書というのも、イエス死後の反乱が鎮圧された直後に書かれています。特にマタイ・マルコ・
ルカ福音書は反乱鎮圧直後、西暦60〜70年代に、イエスの言行録やイエスを見たと言う人の証言、
ガリラヤ地方に残るイエス伝説を元に、イエスを直接見聞したことの無い作家が書きました。
ただしマルコの福音書の作者だけは、イエスに一緒に付き従った民衆の一人だろうという説も
あります。いずれにしろ、ガリラヤ反乱騒動の直後ですからローマ人への配慮があったことで
しょう。肝心な所がぼかされている形跡があります。
ヨハネ福音書はさらに後の西暦95〜100年に書かれましたから、ややユダヤ人の本音が語られている
部分もあります。それもオブラートで包んでありますが。
(つづく)
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